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2013.01.31 (Thu)

レトルト『京野菜カレー』を食べる

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 先日、京都市内のスーパーで『京野菜カレー』というレトルト食品を見つけたので早速買ってみた。所謂、ご当地レトルト・カレーというものである。ところで京野菜とは何だということになるが、簡単に言うと京都府内で生産された野菜の総称をいうらしい。昔は京都の洛中周辺だけでとれた野菜を言ったのだろうが、京都の都市化が広がって周辺で野菜の栽培が出来なくなったから今は京都府全体で採れた物も入れるらしい。

 そもそも京都と言うところは海から離れている。1200年以上前から日本の都であり文化の中心であったにも関わらず地理的に海から遠い。したがって新鮮な魚介類が手に入りにくい。それで多くの寺や神社は精進料理を食べるようになったのだが、その食材として京野菜と言う物が生まれたのである。都が今の京都に移ってきた当初は京野菜と言うものはなかったが、次第に天皇、公家、僧侶が大勢いる関係から全国各地から野菜が集められるようになった。それが京都の土地に根をはやしたのが始まりでだんだんと京都の風土に適した野菜が産まれるようになったということか。つまり京野菜と言うのはこのように独自の物として発展してきたのである。

 その種類は多く聖護院大根、聖護院蕪、賀茂茄子、賀茂トマト、万願寺唐辛子、鷹峯唐辛子、伏見唐辛子、田中唐辛子、山科唐辛子、堀川牛蒡、鹿ヶ谷南瓜、九条葱、桂瓜、壬生菜、丹波栗、丹波黒大豆、松ヶ崎浮菜、柊野ささげ、海老芋、京茗荷、京芹、京独活・・・・・まだまだあったと思うけど、すぐには思いつかない。ところが栽培や収穫に手間がかかるところから農家が次第に栽培を敬遠するようになり一部の品種が絶滅してしまったのである。なにしろ京野菜と言うのは外見や広域流通を主眼としてなくて全国の市場向け商品ではないので外見も変わったものが多く、栄養面では一般的な野菜を上回る物が多いとされる。しかし需要が少なく儲からないので栽培する人も減り農地も京都市内から遠方へと広がっていき手に入れにくくなっている。そういったい意味では京野菜と言うのは京都以外は手に入れることが難しい代物で希少価値と言えるものかもしれない。

 さて、このレトルト『京野菜カレー』であるが、京野菜販売協同組合が販売していて、京野菜と言っても京人参、洛西の筍、聖護院大根の三種類しか入ってない。聖護院大根は大型の丸大根で肉質は細やかで甘く煮崩れ少なくどろけるような味わいがある。京人参は肉質が柔らかくて甘味があり中まで真っ赤なのが特徴である。洛西の筍であるが、乙訓の筍ともいう。柔らかでえぐみがなく全国的に知れた良質の筍である。こうして三種の京野菜であるがソテーオニオン(玉葱、食用油脂)、チキンエキス、チャツネ、トマトベース、ホワイトルー、リンゴベースト、カレールー、食用油脂、ビーフ風味調味料、砂糖、食塩、カレー粉、ジンジャーベースト、ガーリックベースト、増粘剤(加工澱粉)、着色料(カラメル)、調味料(アミノ酸)を加えて煮込んだレトルトカレーである。

 ところで食べた感想であるが、とにかく風味があってまろやかな味である。ピリッとくるものがなく肉好きの人は物足りなさを感じるかも知れずコクはあまりない。普段食べ慣れているカレーらしさはあまりなく、如何にも野菜カレーと言った風で薄味、上品な味わいがある。あまりお目にかかれない味覚のカレーで一度ご賞味くださいと言ってもいい。ただ価格はレトルトということを考えると高いかな・・・・・。
EDIT  |  20:39  |  食・飲  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.01.27 (Sun)

マリア・カラスを聴く

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 マリア・カラスと言うと小学生の頃から名前が面白いので、その名前は記憶していた。でも、あの頃、歌手は歌手でもどういった歌を歌っている人なのかは判らなかった。というのも声楽のオペラ歌手といっても小学生では知識もないし、実際にマリア・カラスが歌っている映像も見たことがなかったので、マリア・カラスが20世紀最高のソプラノ歌手だなんていうことを知るのは、それから何年も経過してからのことである。高校の頃だったか何気にNHKのテレビを放送を観ていて、そこでマリア・カラスが歌っているところを初めてお目にかかった。なんだかやけに濃い顔をしていて眼と眉に特徴のある細い女性だなというのが最初の印象だった(世間では美貌のプリマドンナと言われていた)。でも歌っている姿は堂々としたものでけして美声とはいえないものの人を引き付ける個性的な声をしていた。これがマリア・カラスかと思ったものだが、マリア・カラスの全盛期は長くなかったらしい。デビューからしてセンセーショナルだったものの、私がマリア・カラスの存在を知った頃は既に全盛期を過ぎていたという。戦前からオペラの舞台に上がったが全盛期は戦後のほぼ10年間と言われる。でも何故に全盛期がそれほど短かったのか・・・・・・。世紀のディーバと言われ空前にして絶後であろうとも評されたマリア・カラスなのに・・・・。

 マリア・カラスは1923年12月2日にニューヨークで生まれたギリシャ系アメリカ人である。このあたりオペラの本場であるヨーロッパ生まれでないというのが面白いが・・・。マリア・カラスは父が薬局を経営している家庭で次女として生まれた。母は2人の娘に音楽教育を積ませようとする。姉はピアニストに、マリア・カラスは歌手に・・・。ところが母は歌手は脂肪をつけて肥らないと美声にならないと言った俗説を信じたのかマリア・カラスに栄養をつけさせようとケーキや砂糖菓子等の甘い物をどんどんと食べさせることとなる。したがってマリア・カラスはぶくぶくと肥ってしまうのである。やがて音楽の道に子供を進めることを気に入らなかった父と母は離婚することとなり、母親は2人の娘の才能を伸ばすために故郷のギリシャに帰ることとなった。マリア・カラス13歳の時である。

 ギリシャに渡ったマリア・カラスはアテネ音楽院に入りスペイン出身のコロラトゥーラ・ソプラノ歌手であるエルビラ・デ・イダルゴのもとでレッスンを受けることとなる。後年カラスはこのイダルゴこそ一生の師であると語っていることから相当な影響を受けたのだと想像できる。イダルゴのもとでベルカント唱法やオペラの基本を学び、二年後の1938年に早くもアテナイ王立歌劇場でマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥツァを歌ってデビューする。さらにカラスは恩師のイダルゴから世界に認められる歌手になるにはオペラ発祥の地イタリアに行かなけらばならないと言われ続けていた。

 こうして戦後の1947年、カラス23歳の時にヴェローナ歌劇場でポンキェルリの『ラ・ジョコンダ』の主役を務め人気を博すこととなる。さらには1950年ミラノ・スカラ座でヴェルディの『アイーダ』、1956年ニューヨークのメトリポリタン歌劇場でベリーニの『ノルマ』を歌い大成功。ちょうどこのあたりがマリア・カラスの絶頂期だったのだろうか。

 それと並行して私生活の方では1949年、カラスの倍の年齢の実業家メネギーニと結婚している。カラス26歳の時である。私生活が充実しカラスは華々しく活動する。しかし、カラスは舞台に全身全霊をあげて取り組むだけでなく演目もドラマティコ、ベルカントの難しい役を歌い続けて声を酷使したため急激に声が出にくくなっていった。1950年代の終り頃には声の衰えが始まっていて、1958年ローマ歌劇場でのお得意の『ノルマ』の公演が中止になってしまうのであった。この公演ではイタリア大統領や政治家、著名人が多数出席する華やな中で始まったのであるが、第一幕を歌うと声の具合が悪いからキャンセルしたいとカラスは申し出るものの、代役を用意していなかったので劇場側が説得。でもカラスは応じずこの夜の公演は中止となる。こうしてキャンセルをすることも増え、彼女はスキャンダルまみれとなる。それ以前のことであるが、当初、肥っていたマリア・カラスはサナダ虫ダイエットで大幅な減量に成功して美しくなるなど、美貌のディーバといわれ実力、美貌を兼ね備え人気絶頂となったことはいうまでもない。ところが声の衰えはどうしようもなくソプラノの聴かせどころである高音域が不安定となりオペラの舞台から徐々に消えつつあり、リサイタルで歌うことが中心となる。カラス最晩年の1973年、1974年には来日し札幌、東京、大阪、福岡等で公演を行っているが、このころは海運王オナシスと愛人関係にあったようだ。結局、マリア・カラスは1977年9月16日、パリの自宅において亡くなった。死因は心臓発作と言われているが確証はなく謎の部分も多いとされる。まだ53歳だった。一度、ペール・ラシューズ墓地に埋葬されたが、生前の希望によりギリシャ沖のエーゲ海に遺灰がまかれたのである。

 これが世紀のディーバ、プリマドンナといわれたマリア・カラスの生涯であるが、その私生活や生き様が舞台上でのカラスに乗り移ったのか、まさに魂の歌唱力と演技力で他を圧倒したのである。かつてスカラ座のプリマドンナとして脚光を浴び、トスカニーニに天使の声とまで絶賛されていたレナータ・テバルディの代役として登場して以来、世は完全にマリア・カラスの時代となったのに・・・・・。あまりにもその活躍期は短かった。私がマリア・カラスを知った頃はすでに伝説のディーバとして轟いていた。ただパゾリーニの映画『王女メディア』に主演していたマリア・カラスを観た時は、歌を歌うマリア・カラスではなく演技をするマリア・カラスで、その時は寂しいなあと感じつつも、これが伝説のマリア・カラスか・・・・と感動したものである。すでにマリア・カラスがこの世を去って35年以上になる。でも未だに世紀のディーバとして名前が轟いているのもマリア・カラスだけといっても過言ではないだろう。ただその全盛期の映像があまり残っていないというのは残念である。世はステレオ時代になってはいたものの、マリア・カラスの残っている録音の多くはモノラル録音でしか聴くことが出来ない。せめてマリア・カラスの全盛期があと10年以上続いていたらと言うのは叶わぬ願いにしかすぎないのだろうか。


 ベリーニ『ノルマ』でのマリア・カラス コンサート形式で歌う



 プッチーニ『ジャンニ・スキッキ』~ 私のお父さんを歌う最晩年のマリア・カラス

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2013.01.25 (Fri)

あまり書くこともないのだが・・・・

 今週もどうにかこうにか終わりました。寒い毎日が続いているものの昨日、一昨日と暖かい日であったが、今日になって風が強く冷たい風が吹き荒れていた。それでまたまた寒波が襲来しそうである。今週の始めには朝から積雪があって近江の国の本領発揮である。京都では晴れていたというのにトンネルを二つ越えて近江の国に入るや雪は降っているは積雪はあるは・・・・・あーあーやはり滋賀県だなと思った。どうにかバスは順調に動いたので遅刻することなく職場に着いたが、まだ1月だし春が来るまでは先が長い。若いころは冬が嫌いではなかったが、加齢とともに好きだとは言えなくなってきた。だが夏よりはましかな・・・・・。とはいっても身体の方が冬の気候にだんだんと耐えられなくなってきた。足の踵は乾燥してひび割れが絶えないし、鼻水がよりいっそう出るし、喉は乾燥しているせいかいがらっぽいし、背中も乾燥肌で痒くてしょうがない。それに朝、起きるのが辛くなってきた。起床時間が毎日、5時過ぎとかだし外は真っ黒で強烈に寒い。家を出て行く時間でもまだ日の出前だから、なかなか明るくなってこない。よくぞこんなことを毎日、続けているなと思いながら電車に乗る。それで電車が早朝だから座れるかと思いきや座席はほぼ座れない。京都駅について降りる人が大勢いるので、その空いた席に座ることも多いが、それでも必ずしも座れるというものではない。みんな考えることは同じで早目の時間に家を出て数本前の電車で居眠りしながら出勤しようと試みている。なので日によってはまったく座れない時がある。こういう日はやはり疲れる。長い時間電車に揺られ立ちっぱなしで通勤はきつい。

 もっとも帰りは気分的に楽なので疲れていようが座らずに立ったままでいることが多い。しかしである。この近江の国の電車は、よく車内で物を食べたりする人が多く、今日なんかコップ酒をあおりながらスルメを齧ってるおっさんがいた。顔はすでに赤い。またこのおっさんが小生の横に立ったからいい迷惑だ。左手でコップ酒を持ち、右手でスルメを持っているので、吊革をつかめない。なのでそのおっさんがこっちへフラフラ、あっちへフラフラ。激しく揺れる車内でこぼれそうなコップ酒を飲みながら立っているから、こちらとしては服にこぼしてくれるなよといいたいが、本人はほろ酔い気分なのだろう。良い気持ちで鼻歌を歌い出す始末。全く困ったものだが、こういった輩が滋賀県では多い。仕事から解放されて酒の一杯でも飲みたくなるのも判らないではないが、場所をわきまえろといいたい。しかし、この滋賀県内を走るJRの車内は毎日、こんな奴が1人か2人必ずいる。流石に田舎の電車とは言わないが、公共の場と我が家と混同してほしくない。それも思慮分別をわきまえているはずの年齢のおっさんがこんなことを平気でやるからな。これだと若いものが真似をするのも当然か。

 せっかく1週間が終わり、やれやれと電車に乗ったのはいいが、このような連中が車内にいると本当に不愉快になる。もう慣れたといいたいが、この無神経ぶりにはあきれ果てる。このおっさんコップ酒を一杯飲み干し、いよいよ回ってきたと思ったら、もう一杯、コートのポケットに忍び込ませていて、また飲みだした。それでいつの間にかスルメを落としたのか、右手で吊革を持ち、ただ酒をあおる。逢坂山トンネルを越えたことにはすっかり出来あがっていて、吊革を持ちながらフラフラフラしていて、山科の駅で降りて行った。大丈夫なのか・・・・・。しかし困ったものだ。こんなんだから京都の人間から滋賀作呼ばわりされるんだ。
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2013.01.20 (Sun)

横綱大鵬死去

 昭和の大横綱大鵬幸喜が亡くなった。昨日の19日午後、心室頻拍のため亡くなった。72歳だった。そしてかつて大鵬が在籍していた二所ノ関部屋も消滅するというから誠に残念なことである。大鵬と言うと私が小学生になった頃に横綱になり、その後、中学へ私が入学しても横綱で在り続け大鵬が引退したとき私は高校生だった。その間、幕内優勝回数32回(史上1位)、通算872勝182敗、勝率827。横綱在位58場所と言った数々の記録を残し大相撲界に不滅の記録を残していったまさに大横綱であった。

 そういえば私が小学生の頃の話であるが、親父に一度だけ大相撲に連れて行ってもらったことがある。昭和30年代の春場所だということは覚えているが、何年の春場所で何日目かということまでは覚えてない。千秋楽ではなかったことだけははっきりしている。何故なら千秋楽は決まって東西の横綱が対戦するからである。当時なら当然、大鵬と柏戸の対決つなるからである。その時は大鵬と佐田の山との対戦だっと記憶している。ところで当時、巨人、大鵬、玉子焼き何て言われたことがある。人気のあるものを並べたのであるが、それほど大鵬は強くて人気があった。毎場所優勝していたような気がする。もう一人の横綱である柏戸は剛の相撲で勝つときは強いが、取りこぼしも多く安定感に欠けていたので優勝回数から行くと大鵬の比ではなったように思う。でも柏鵬時代なんて言われていたが、明らかに大鵬時代と言ってもいいぐらいの強さだった。ただ大鵬の相撲は観ていても面白くなかった。身体が大きく柔らいので懐が深く、相手が立ち合いから突っ込んできても巧くいなす。また型がないともいわれ絶対的な技もなかった。でも負けない相撲で確実に勝っていく。とにかく安定感があった。

 樺太生まれの北海道育ちだが、父がロシア人でありホリの深い端正な顔をした2枚目であったことから子供以外にも女性に人気のあった相撲取りであった。それで堺屋太一が巨人、大鵬、玉子焼きなんていったのだろうけど、当の大鵬は「冗談じゃない。こっちは1人でやっているんだ。いい選手を大勢集めて強い巨人と一緒にされたくない」とテレビで語っているのをたまたま私は観て、子供心にも大鵬を好きになったことがある。それまでは正直、あまり好きな関取ではなかったが、その人間性に惚れたということだろうか。大鵬がアンチ巨人だと聞いてその時は共感したのかもしれない。本来、私は大鵬のような身体も才能も恵まれていて盤石な相撲を取る力士は好きではなった。どちらかというとその前に活躍した栃錦や若乃花のような小兵でありながら、豪快な技を駆使し大男をなぎ倒すタイプの力士が好きだったから大鵬は、それらの先輩横綱とは対極にあったといいえよう。しかし、稽古の鬼であり才能で相撲を取っていると言われると烈火のごとく反発していたように思う。まさに大鵬こそ努力の人だったのである。

 身体に恵まれた上で努力を怠らなかったのであれだけの実績を残せたのかもしれないが、とにかく強いというより負けないといった印象が強い。6場所連続優勝2回、45連勝等、その後、北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍、白鵬等が続いて彼らによって破られた記録もいくつかあるが、記録もさることながら私の中では永遠に記憶に残る不滅の大横綱であった。ご冥福をお祈りします。


EDIT  |  10:36  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.01.14 (Mon)

3日間閉じ籠り

 三連休もあっという間に終わって明日からまた仕事だ。あーあ。この3日間何をやっていたのだろう。家から一歩も出られず、踵のひび割れがなかなか塞がらないから足を温めていた。まったく潤いのない足だからすぐにガサガサになってひび割れを起こすのだろう。それにしても今日はずうっと雨だった。成人式の日に一日中しっかりした雨だと晴れ着姿の女の子はさぞや困っただろう。今年は寒い冬なのに雨も多いときているから天候に恵まれない年ではあるが、成人式の日にこれだけしっかりした雨が降るなんて珍しいことだ。よほど今年の新成人は雨男、雨女が多いのかな・・・・・・。小生が成人式の時はというと遥かウン10年前のことになるが、成人式にはいかなかったので何の思い出もない。アルバイトで夜勤をしていて成人式の日は朝帰り。帰宅して昼間は寝ていたかな。遥か大昔になってしまった。

 ところで一時、成人式で酒を飲んで暴れる者が横行した。これも10年ほど前になるかな。成人と言うのは責任を伴うから大人の行動をとってほしいと嘆いたものだが、この数年は新成人がおとなしくなったように思う。それは就職難になったからではないだろうか。20歳になった暁には真剣に大人にならなくてはならないと思う若者が増えたのかも知れない。これはこれで良いことであるが、羽目を外すのも若者の特権である。ただ酒を飲んで暴れるの
は困るが、もっと自己主張してもいいかなとは思う。まあ、もっとも小生が今の時代に20歳になったとしたらどのような考えを持っているかは判らない。これも時代背景の違いというものだろう。

 ところで関西では雨だったのに東京近辺では大雪だったらしい。本当に天気というもの判らないものだ。でも明日から、また雪のよく積もる湖国に毎日、出勤しなくてはならない。こちらの方は滅多に雪が積もらないというのとは違って毎日のように雪が降る。そして何時、積もってもおかしくない。いざ積もるとバスは動かない。歩くのも一苦労。なので出来る限り雪は降ってくれな事を祈る。東京の雪を見ていて思わず自分に降りかかってきそうな厄介事を想像してしまった次第である。
EDIT  |  21:35  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.01.14 (Mon)

映画『セクレタリアト/奇跡のサラブレッド』を観る

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『セクレタリアト/奇跡のサラブレッド』2010年制作、アメリカ映画

監督 ランドール・ウォレス

出演 ダイアン・レイン
   ジョン・マルコヴィッチ
   ディラン・ウォルシュ
   ジェームズ・クロムウェル
   ケヴィン・コナリー
   スコット・グレン

【あらすじ】1969年、伝統あるサラブレッド生産牧場のメドウ・ステーブルのオーナーであるクリストファー・チェナリーは病に倒れ、また経営する牧場も赤字が続いていた。そういったことからクリスの息子も牧場の売却を模索する。だが、18年前に結婚し既に専業主婦となっていた娘ペニー・チェナリー・トゥイーディーは牧場売却に反対する。ペニーは経営権を父のクリスから譲り受けメドウ・ステーブルの経営に乗り出した。ただし牧場経営には全くの素人であるペニーは、牧場を安く売却しようとしていた調教師をクビにして新しい調教師ルシアン・ローランをパートナーに選んだ。一度、調教師を引退していたルシアンだったがペニーの熱意に応えることにした。翌年には牧場に残った老繁殖牝馬サムシングロイヤルに一頭の栗毛の牡馬が産まれた。ペニーはこの子馬をビッグレッドと呼んだ。それから2年後の夏にペニーは牧場の事務を引き受けていたエリザベス・ハムに感謝してこのビッグレッドにセクレタリアト(秘書官の意)と名付けいよいよデビューすることとなった。セクレタリアトは大型で見事な栗毛の牡馬に成長していた。だがデビュー戦で出遅れ前を塞がれたり他馬にひっかけられそうになったりして追い込んだが4着に敗退してしまう。これでペニーは騎手の交代を言い渡す。こうして選ばれた騎手が気の強いロン・ターコット。そして、ここから馬主ペニー・チェナリー・トゥイーディー、調教師ルシアン・ローラン、騎手ロン・ターコット、競走馬セクレタリアトによる伝説の物語が開始されるのである。

 まさかアメリカ史上最強馬の一頭と言われるセクレタリアトの伝記映画があるとは知らなかった。何故なら日本では劇場未公開だったからで、巷のショップで偶然見つけたDVDでこの映画を知ることとなった。でも配給がディズニーとは驚いた。そういえば私が10代の頃、海外の競馬を知り結構はまったものだが、その頃に轟いていた海外の競走馬ニジンスキー、ミルリーフ、ブリガディアジェラード、アレフランス等のヨーロッパ勢に対し、アメリカの競走馬では断然にセクレタリアトが輝いていた。それは1973年だった。アメリカにとんでもないサラブレッドがいるとは聞いていた。前年の1972年に2歳馬でありながら年度代表馬に選ばれ、その勝ち方が他を圧していたという。その頃、日本では怪物ハイセイコー騒ぎで誰もアメリカの競走馬のことまで知る由もないが、私はそのセクレタリアトのことが気になってしょうがなかった。でもケンタッキー・ダービーをレコード・タイムで圧勝、プリークネスSも圧勝。いよいよ25年振りにアメリカ三冠馬の栄誉を懸けてベルモントSに出走するという記事を新聞で読んだ覚えがある。ただし当時は今のように海外の競馬を生中継することなどありえず、動く映像を観ることも難しい時代だった。そして、日本では怪物ハイセイコーが日本ダービーで敗れた。それから1週間後のことである。セクレタリアトがベルモントSで三冠を目指すことが新聞記事に書いてあったように思う。スピードと最後の爆発力は他の馬を寄せ付けないが問題はスタミナだということ。過去にボールドルーラーの産駒は1マイル半の距離を勝ってないという現実があって、セクレタリアトはそれに打ち勝てるかと記事は綴られていた。

 そして翌日である。一般紙の朝刊のスポーツ欄で、私は1枚の写真に度肝を抜かれた。それはチェックのメンコをつけた馬が1頭で走っている姿。ただし遥か後方に数頭の馬が小さく写っていて記事は「超怪物セクレタリアート、25年振りの三冠馬」と記してあった。距離の壁をぶち破ってセクレタリアトはアメリカ三冠馬になったのだと思った。それも2着に31馬身もの着差をつけ、タイムもダートコースの1マイル半で2分24秒0という驚異的なものであった。まだ当時の日本レコードは2400mの芝で2分26秒6だったから如何にセクレタリアトの走破タイムが凄いものであるか文章だけでも伝わってきた。そして39年経つが未だにこのトラックレコードは破られるどころか1秒以内のタイムを叩き出す馬も皆目出現しないという。この実態から如何にセクレタリアトが驚異的なサラブレッドだったということが判明するだろう。

 ところでこの映画が日本で未公開だったのは判るような気がする。それは日本での世間における競馬の捉え方が西洋とでは違うからであろう。昔よりは理解されるようになったとはいえ、まだまだ競馬への認識は所詮ギャンブルであり、1頭のサラブレッドに焦点を当ててみたところで映画がヒットするとは思えない。何年か前にやはり『シービスケット』というサラブレッドの伝記映画が公開されたが、作品自体はアカデミー作品賞にノミネートされるほどの秀作だったのに期待外れの入りだった。なので日本では公開されなかったのだろう。もっとも競馬を知っていても、今から40年ほど前に活躍して一世を風靡したアメリカの競走馬の話など興味を持つ人なんていない気もするが・・・・。


 映画紹介ビデオ


実際の映像 1973年ベルモントS 大喜びするペニー・チェナリーが大写しになる

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2013.01.13 (Sun)

踵が痛い

 せっかくの連休。それも三連休だというのに昨日も今日も自宅で燻っていた。何ともったいないといいたいが踵が痛くて出ていけないのだ。残念。

 実は毎日、早朝に起きて寒い中を出社すると踵がとうとうひび割れしてきた。毎年、冬になると踵がひび割れするのだが今年はちょっと酷い。両足の踵がひび割れするので痛くて踏ん張れない。例年なら右足の踵にひび割れが出来ることが多いので、クリームを塗って靴下を穿いて寝るとほぼ治っていることが多いのだが、今年はいくら足にケアをしても追いつかない。クリームを塗ったところで夕方には踵がガサガサ、そこで職場から最寄駅までテクテク歩くと踵がぱっくりと割れてくる。家に帰って~確認すると両足の踵がひび割れしているではないか。それも一ヶ所ではない。右足の踵が三ヶ所、左足の踵は四ヶ所がパックリとひび割れしていて歩く時踏み込むと痛いの何のって、それに踵だけではない。右足の踵寄りの裏までひび割れしているからまっとうに歩けない。しょうがないので足の裏から踵にひび割れ軟膏をたっぷり塗って上からガーゼを張ってさらに靴下を穿いて保温することにした。それでこの2日間、一歩も外出できなかった。しかしそれでも踵のひび割れが治らない。今になってもまだひび割れのヶ所が痛くてどうしようもない。おそらく明日も家にいることになるだろう。

 しかし、何故に今年はこれほどひび割れが酷いのだろうか。おそらく加齢のせいだろうとはいいたくはないが、確実に脂肪分が以前よりは減り、乾燥肌になってしまったからだろうが、すると今年よりも来年、来年よりも再来年と踵のひび割れが酷くなっていくのかな。これは大変だ。これからは保温の効く靴下を重ねて穿いて、踵にはクリームを塗ってガーゼで覆うしかないかな。困った困ったというよりも情けない。これだから歳はとりたくないのだ・・・・。


EDIT  |  20:13  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.01.11 (Fri)

仕事始めから一週間・・・

2013年度、仕事始めから最初の一週間がようやく終わった。昨年度末は忙しすぎてブログ更新どころではなかったが、今年度に入っても一向に仕事が減らない。あーあ、本当に疲れる。ただ毎日のような残業がないだけ救われるが、忙しいことには変化はない。それでやっとパソコンの前に座っている状況なのであるが、今からこれでは今年もブログ更新はあまり出来そうもないな。

 12月のように帰宅が遅くなるというのでもないが、仕事で疲れ電車に長い間揺られて疲れ、帰宅したころはもう体力に余力が残ってない状態かな。若かりし頃ならどうってことなかったが、還暦もだんだんと近づいてくると風前の灯火のような体力しか残ってない。知力も若干落ちて行ってるかな・・・。とはいうものの今は出来る範囲で慌てず急がず更新することにする。取り敢えず今からは疲れたので時間的には早すぎるが寝ようかな。眠たくてしょうがないから・・・・・・。連日、12時過ぎて寝るのはいいが午前4時半には起きているから週末になると眠くてしょうがないのである。
EDIT  |  20:42  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.01.06 (Sun)

WALKMAN

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 ウォークマンというものをこの歳になって初めて持った。ウォークマンとはWALKMANのことで、ソニーが世界で初めて開発して発売した携帯型ステレオカセットプレーヤーのことであり、ソニーのブランド名である。従って他社が同じような製品を出してもウォークマンと言う名は使えない。そもそも1979年7月1日に発売開始された携帯型のカセット・プレイヤーがウォークマンの第1号で、カセット・テープをプレイヤーに収めて音楽を聴くというもので、これが当時としては画期的であったので、世界的にヒットしWALKMANは長い間その代名詞的なものであった。

 あの頃、若者がすぐに飛びついて瞬く間に広がった印象がある。小生の周りにも持っている者がいた。それで電車の中で大きな音を出して聴くから、ヘッドフォンからよく音がシャカシャカと漏れていて煩かったので小生はあんなもの持たないぞと心に決めていた。特に本などを読んでいる隣で大きな音漏れが聞えてくると迷惑だった覚えがある。当時のウォークマンと言うのは今のようなインナー型のイヤーフォーンではなく、耳に当てるタイプのヘッドフォーンで聴くので音漏れがそれは激しかった。それあ徐々に改善され最近では音漏れがほとんどしなくなった。

 また、ウォークマンもどんどんと進化し最初のアナログのカセットテープからコンパクトディスクに代わりデジタル時代に入った。さらにMDへと・・・・その後の進化は日進月歩で今の物はとても小型化され音飛びもしない、選曲も簡単、それに曲を数1000曲以上入れられる。この30数年でこれだけ進歩したのである。でも小生は持ちたいとも思わず興味もなかった。おそらく多くの者は電車で移動する間に聴いているのだろうが、電車の中では小生は大方、本を読んでいた。だから音楽なんて聴く気がしなかった。音楽なんて家に帰って聴けばいいではないか。それに音楽を聴くと外部の音が聞こえず気分も閉じこもりがちになる。そりゃ外部の音を遮断して自分の世界に入りたいのかも知れないが、そこまでして音楽を聴きたいかな・・・・と言うのが小生の感想だった。

 そんな小生が何故にウォークマンを持ったかというと、それは湖国に通勤するようになってから道中が長く、そこへ電車が度々遅れるから暇つぶしにとうとうウォークマンを持ち歩くようになったということである。以前のように大阪市内への通勤だと1時間そこそこで済んだのだが、今はその倍はかかる。そこへJRお得意の電車の延着が加わるとさらに通勤時間が長くなり苦痛になる。これが一番の原因であるが、その次に電車の車内灯だと本が読みにくくなったということがある。最近は老眼がより進み眼鏡なしでは本は読めないし、また今の眼鏡ではさらに読みにくくなった。老眼がより進んでいるのであろう。新しい眼鏡が必要になったし、そこへ、その必需品の眼鏡を時々忘れたりするので帰りの電車の中で暇を持て余すことが多くなった。そういったことがきっかけで、小生もウォークマンを買って聴こうかということになったまでである。それなら長い帰りの電車の中だけでも音楽を聴いていると時間が早く感じるだろうと思ったのである。

 それで買ったのだがウォークマンといっても色々と種類があるものだ。早速、手ごろな物を買って、それでパソコンからウォークマンに曲を入れ続けて、今は数えてないが500曲以上は入っているだろう。それで家にあるCDから片っ端に入れていったのだが、入れるのも簡単だし選曲も実に簡単ときているから、これは使いやすい。ビートルズからチャック・ベリーからプレスリーからナット・キング・コールから、レイ・チャールズ、ダイアナ・ロス、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィスからペレス・プラードから、イヴ・モナタン、ジャンルを問わず入れまくったのだが、このウォークマンは16Gなので通常の取り込みだと3000曲以上入るらしい。だとするとまだまだ入るということになる。まだクラシックは入れてないが、こちらは1曲が矢鱈と長いから目下のところ思案中であるが、もっとジャズをいれなくてはならない。さあ、これで長くて退屈で苦痛の通勤が少しでも短く感じればいいのだが・・・・小生、そうしても周りに音漏れしていないか気になってしょうがない。これも世代が関係しているかもしれないが、若者のようにガシャガシャと音漏れしても平気で聴いていられるような無神経さは持ちあわせいないからなあ。なにしろ小心者なので・・・・・。
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2013.01.04 (Fri)

怠惰な生活から抜け出せず

 1月も4日になると重い腰をあげて動き出す人もおおいだろうが拙者は珍しく今週いっぱいは正月休みである。昨年はいっぱいまで残業を行っていたというのもあるが、今年の仕事始めは例年に比べると遅い。でもそろそろ規則正しい生活に戻さないといけないかななんて考えているのだが・・・。日頃は朝4時半には目が覚めているし、冬至のころには家を出て行ってもまだ外が暗かった。それがこの正月休みの間にすっかり怠惰な癖がついてしまい、就寝は夜中の3時。起床は朝の9時。・・・・・それでも早いというかもしれないが、小生にとっては朝の9時に起きるというのは明らかに寝坊である。もう外が白々しているではないか。この宵っ張りの朝寝坊の習慣を改めないといけないから辛いものがある。なにしろ正月の間、食っちゃ寝え、食っちゃ寝えの怠惰な生活の毎日で、すっかり動くのも嫌になったから元の生活に戻すのが大変なのである。

 焼酎は飲むしウイスキーも飲むし、日本酒も飲むし、ブランデーも飲むし、当然ビールも飲んだ。久しぶりにこれだけのアルコールを飲んだからなかなか身体からアルコールが抜けなくて参った。そこへ塩干物を口にするので余計に飲む。滅多にやらないことだからと思いながらついつい飲みすぎたし食べ過ぎたようだ。それで今日は奮起して外出したのだが、どうも早く歩けない。膝が痛いのである。踵も痛いし、これは困ったと思ったが、暫く歩いていると慣れてきて素早く歩けるようになってきた。そういえばこの数実間というものはほとんど寝転がっていたから、久しぶりに歩くとすんなりいかない。脚の筋肉が衰えているのかな。病人の気持ちがよくわかる。やはり脚は毎日使わないといけないのだと痛感する。それにしても寒いな。日頃から薄着をしているのであるが、今年は1枚余分に羽織らないといけないようだ。それで先ほど帰宅したのだが疲れた。大して歩いてないのだが、久しぶりに歩き続けると足が痛いしふくらはぎまでが筋肉痛である。困ったものだ。もう老化か・・・・。毎日、職場からの帰り道の3キロを歩いているのでこれぐらいでは疲れる筈がないのだが、怠惰な生活を続けるとこのようになってしまうということである。この調子だと元の体調に戻るのに1ヶ月ぐらいかかりそうだ。それと今日、1日出歩いていただけで踵がガサガサになってしまった。すっかり潤いのない踵でひび割れが何ヶ所も出来てしまい痛いこと痛いこと。もう若いころと違って脂分が抜けてしまい、乾燥肌で困ったものであるが、加齢ばかりはどうしようもない。もう今更、若返りは出来ないが出来る限り老いの進行を妨げる努力をしないと、70歳になると大半なことになるなと気を引き締めることにしたのだが、その前に頭の中も鍛えるべきだな。よし来週からは気合いを入れてといいたが、実は仕事が最も鬱陶しいんだな。
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2013.01.01 (Tue)

ウィンナー・ワルツを聴きながら

 元日も瞬く間に夜になってしまった。今、恒例のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートを観ながら書いている。ウィンナー・ワルツってあんまり好きじゃないのだが、何故かウィーンからの生中継を観るのが自分の中で恒例になってしまっている。このコンサートが日本でも生中継されるようになったのは1980年頃だったと思う。その7、8年前から録画が遅れて放映されていたが、当コンサート自体は歴史が古く第1回は1939年だという。ということは昭和14年・・・・戦前である。ウィーン出身の著名な指揮者クレメンス・クラウスが始めたという。演奏するのはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、会場は伝統のウィーン楽友協会大ホール(黄金のホール)。私は個人的にムジークフェラインザールという方がピンとくるが、とにかく音響が世界屈指で過去のレコード録音にも度々使用されたホールである。そして演奏される曲がウィーン出身のシュトラウス親子というからまさにウィーンナー・ワルツ尽くしである。シュトラウス親子と言ったが、勿論、中心になるのはヨハン・シュトラウス二世、つまり息子の方であり、その弟ヨゼーフ・シュトラウスの曲も演奏はするし、父のヨハン・シュトラウスは何時もコンサートの最後を飾る『ラデツキー行進曲』が演奏されるのである。

 ところでこのコンサートをテレビで観るようになった頃は指揮者が何時も同じで面白くなかった。第1回の1939年から亡くなる1954年までをクレメンス・クラウスが指揮を担当していた(終戦直後の2回だけはヨーゼフ・クリップス)。それでクレメンス・クラウスが亡くなったので、1955年からは急遽ウィーン・フィルのコンサート・マスターだったウィリー・ボスコフスキーがタクトを握ることとなった。それ以来実に1979年までニューイヤー・コンサートの指揮を振り続けた。私がテレビで観た頃はまだ録画の時代だったがやはりボスコフスキーだった。それが生中継されるようになり指揮者がロリン・マゼールに代わったのである。でも個人的にはあまり好きではないマゼールだったので真剣に観ていなかったと思う。それが1987年から毎年入れ替わりで指揮者がタクトを振るようになり、このウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートがより注目されるようになったのである。その最初の年が帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンだった。そして翌年がクラウディオ・アバードで、さらにその翌年がカルロス・クライバーと話題の指揮者が続々登場するようになり、このコンサートから目が離せなくなったのである。それで今から10年前には日本人の小澤征爾が指揮台に登場したことは記憶に新しい。しかし最近はフランツ・ヴェルザー=メストのように私よりも若い指揮者が登場するようになり時代も変わったことを痛感する。

 演奏する曲も最近は必ずしもシュトラウス親子に限らず色々な作曲者の曲が加わるようになっているが、今年は何とイタリアのジュゼッペ・ヴェルディの歌劇『ドン・カルロ』~第三幕のバレエとリヒャルト・ワーグナーの歌劇『ローエングリン』~第三幕の前奏曲を演奏するという。あの保守的なウィーンの伝統行事も変わりつつあるのだな。オーストリアを挟んで北のドイツと南のイタリアのそれぞれのオペラの巨匠の曲を一つずつ入れたではないか。もっともこのワーグナーとヴェルディは同じ年に生まれていて、今年2013年が2人の生誕200年というのもある。毎年、ワルツやポルカばかり聴いている耳には、ヴェルディはともかく勇壮なワーグナーはちょと異色に感じるだろうなあ。

 さて、まだこれからこのコンサートが佳境に入るところである。それではこれからゆっくりと演奏を聴くことにするのでいざ、さらば。
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