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2018.03.25 (Sun)

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を聴く

 正直言って世の中のヴァイオリン協奏曲で一番有名ではないかと思う。俗にベートーヴェン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を含めて3大ヴァイオリン協奏曲と言うそうだ。さらにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を入れると4大ヴァイオリン協奏曲になるそうだ。こんなこと誰が言い出したのかな。
 でも日本では最も演奏回数も多く最も人気があるバイオリン協奏曲ではないだろうか。これには異論もあるだろうが、小生はそのように思ってる。それは冒頭からいきなり例のメロディが出て来るからだ。この冒頭が一番有名なのである。しかしであるこの曲が始めって5分、6分すると聴くのをやめてしまう人が多い。つまり冒頭があまりにも有名なヴァイオリン協奏曲と言っていいだろう。考えてみれば姉が小学生の頃に何故かヴァイオリンを習いだしたことを思い出す。それというのもこのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いたからだ。この曲の冒頭を聴き感銘を受け弾いてみたいと思ったという。でも難しいらしい。当たり前だ。結局、姉は一年もしないでヴァイオリンを習うのを辞めてしまった。だから少しばかりドヴォルザークのユーモレスクなら弾けたのかな。でもノコギリのような音だった。ただしメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲といっても第1楽章しか姉は聴いたことがないのではないだろうか。この曲全部で3楽章、30分ぐらいある。まあおそらく冒頭は知っていてもこのヴァイオリン協奏曲を全て聴いた人の方が世の中、少ないだろうけど。クラシック音楽なんてみんなが聴かないのは長すぎるからで、サビの部分、有名な旋律なんて僅かしかない。だから3分芸術なんていう安直なポピュラー・ミュージックにみんな走ったのであるが・・・・。
 ところでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調と敢えて記したのはメンデルスゾーンにはもう一曲、ニ短調のヴァイオリン協奏曲があるからだ。こちらは若書きで曲のできもホ短調に比べると難がある。だからメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲というのはこの曲のことを一般的に指すのである。通称でメンコンと呼ばれることも多くそれだけ有名な曲と言うことである。最もメンデルスゾーンと言うのはモーツァルトと同じく早熟の天才と言われたが、34歳で書いた同曲の出来が傑出していて、メンデルスゾーンの他の曲でいいなあと思うのは小生が聴いてもあまりない。他には交響曲(以前、当ブログでスコットランドを紹介した)やピアノ協奏曲、そして有名なピアノ曲『春の歌』、管弦楽曲『フィンガルノ洞窟』とかあり、それに誰でも知っている『真夏の夜の夢』の中の結婚行進曲がある。この結婚行進曲はワーグナーの同曲と共に結婚式では有名だが、これさえもほとんどの人はメンデルスゾーンの作曲によるものだと言うことを知らないみたいである。だから早熟の天才と言われ38歳で早く亡くなったのはモーツァルト同様だが、現在でも愛され続けている曲の数となるとモーツァルトに比べるとメンデルスゾーンの曲は遥に少ないと言えよう。
 これは彼がユダヤ人であったこととも関係しているみたいでもあり、ドイツではヒトラーのユダヤ人迫害があり彼の音楽を高く評価しないという気風みたいなものもあったようだ。ただメンデルスゾーンは作曲以外でも功績を残していて、若くしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されバッハの復興にに勤め、30代になってからはライプツィヒ音楽院を開校し院長となり後進の指導に当たり1847年、38歳で亡くなった。

アンネ・ゾフィー=ムター(ヴァイオリン) クルト・マズア指揮

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2018.03.21 (Wed)

寒の戻りか

 春分の日だってね。それにしては一日雨。気温も低い。ここに来て寒の戻りか。今日はこのような天候なので墓参りに行けなかった。仕方がない。昨日は大阪で桜の開花宣言があったらしい。えらい早いな。それでいて今日の気温は参ったな。でも関東は雪が降っているらしい。気温も真冬並みだって。いや驚いた。こちらはそこまで寒くない。小生が思うところ京阪神よりも関東の方が気候条件は厳しいな。北関東のカラッ風。それに雪もよく降るし雨も多い。あれだけ広大な土地があるのに古代の人は関東に都を築かなかったのかというのは答えが出ているように思う。つまり気候条件が厳しかったのだ。太平洋側に面して関東平野が開けているが、徳川家康まで日本の中心にならなかったのだから・・・。もっとも家康も秀吉に命じられたから江戸へ参じたわけであって、その後は静岡で隠居しているからな。つまり現在の複雑な機能を持つ大都市を造成するには関東平野は都合が良かったが、戦が絶えずあった大昔においては広い関東平野だと要塞の意味をなさなかったのかも知れない。だから周りが山で囲まれた奈良盆地や京都等に都が長い間置かれていたのかしれない。それにどちらかというと京阪神は南に紀伊半島の山岳があり。北側も丹波の山々がある。つまり雪や強風、雨はそれらの山岳が遮ってくれていたのだ。だから手狭の関西の平野や盆地に都がおかれていたことかもしれない。それに隋や唐に行くのには瀬戸内海が近く船で行きやすかったということだろう。それが家康の時代に平和が訪れ戦がなくなると要塞都市の意味がなくなり江戸が巨大化して行くには関東平野というのは都合が良かったと言うことだろう。ただ自然条件は変えられず、京阪神に比べると雪も多く雨も多いなあとつくずく感じる。ただこちらは暑いけど。
EDIT  |  16:15  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.03.16 (Fri)

ちょっと話題としては古いが

 今、カーリングの混合ダブルスの日本選手権が青森で行なわれていて既に開催日全てのチケットが完売しているという大人気。それというのも平昌オリンピックで日本カーリング女子が銅メダルを獲ったからの影響力が大きいと言うことになるだろう。そして既に彼女たちが試合中に言っていた「そだねー」が大流行。ちょっとこの現象に苦笑したが、「そだねー」を主に言っていたのは吉田知那美であって藤澤五月は言ってない。藤澤は北見でも常呂町出身ではなく北見市街の出身だから「そうだねー」と言ってるだろ。もっとも小生は北見へは一度しか行ったことがない。それは20歳の頃、北見のばんえい競馬を観に行ったときだったが、随分寂しい街だなあという印象しかなかった。そんなことはどうでもいいが、小生、初めてカーリングという競技があるのを知ったのは小学生の時に観たビートルズの映画『ヘルプ!4人はアイドル』(1965年)で、カーリングをやっているシーンを観てあれは何をやっているんだろと思ったのが最初である(後にスコットランドがカーリング発祥の地と知った)。次は高校生の頃、またまた映画でカーリングのシーンを観た。『女王陛下の007』である。その頃は日本でボーリングが大流行。中山律子の時代だったかな。だからカーリングのことなんて頭の中になかったしなんて言う競技なのかも知らなかった。ただタイル掃除のブラシのような物で氷の表面をこすっているところに興味が湧いたのを覚えている。
 それが何時だったろうか。もうシーズンが過ぎていたからスケート場がすいていた頃だった。スケートの上手い女性と大阪は難波にあったスケート場に行ったときカーリングのストーンが置いてあった。ストーンの周りを数人がいて、これから練習するという。それでストーンをスケート靴を履いたまま持とうとしたが重くて上がらなく氷の上だったので転げてしまった。するとカーリングの人たちが「ストーンを持ち上げようとする人なんていませんよ」と笑われた。
 そのときカーリングという競技が日本でも行なわれていると言うことを知った。何年頃だったのかな。小生がまだ20代だったから1980年代の前半だったと思う。面白いのでしばらくスケートをやめてカーリングの練習を観ていたのを思い出す。固定した蹴り台のハックから足を踏み出しストーンを滑らしていく。あいにくここにはハウスという円が描かれてなくストーン滑らしたりカーブをかけたり弾いたりスイープ(カーリングの氷と質は違うのでスイープの意味はあまりないが)する練習をしていた。まだ日本ではカーリング場もほとんどなかったのではないかな。
 それがいつの間にか長野オリンピックから正式競技に加わり、このときBS放送で何試合か観た。そしてルールも用語も覚えたのである。でも盛んなのはヨーロッパと北米で日本は新参者。厚い壁が立ちはだかっていた。それに試合時間が長すぎてくたびれた。これが映画『ヘルプ!4人はアイドル』で観たカーリングという競技の初めての試合生観戦であった。
 その後、カーリングはすっかり冬季オリンピックでお馴染みとなるが、長野の時は日本は選抜選手で出ていたんだな。でもこの競技はチームワークがいるので次のソルトレークシティ五輪からは予選を勝ち抜いたチームが代表としてオリンピックに出るようになったみたいだ。そして2002年の五輪には後に映画化されたシムソンズが代表になる。頭がカーリーヘアで爆発したような髪型をしたことのある加藤章子がスキップとしてで出ていたかな。それと林弓枝、小野寺歩なんてよく覚えている。みんな常呂町の常呂中学出身だと言うことに驚いたりもした。その4年後のトリノ・オリンピックはシムソンズのメンバーが大量移籍したチーム青森が代表になっている。このときスキップの小野寺歩、サードの林弓枝に加え19歳の愛らしい選手・本橋麻里が加わっていた。よく笑うしムードメーカーだったんだろなあ。どうも常呂中学の後輩だと言うことも知った。常呂町はにはカーリングのリンクがあって小学生からみんな練習をしていると聞いてびっくり。その頃であろうか、日本選手権でこのチーム青森を破った中学生チームがあった。それが常呂中学の2年生で組んだチームである。それが吉田知那美、鈴木夕湖、小野寺佳步だった。何れも後に日本を代表する選手になる。
 2010年バンクーバー・オリンピックもチーム青森が代表だった。そして、その頃からカーリングの日本選手権はチーム青森ではなく長野の軽井沢に本拠地がある中部電力が突如強くなっていった。それは天才スキップとして高校卒業と同時に入った藤澤五月がいるからだった。とにかく司令塔として優れていて、ジュニアの時代から世界の大会に出ていて頭角を現していた。一度、BSでどんな選手か観てやろうと思いテレビで試合を観たことを思い出す。意外と小柄。でもあまり笑わない。真剣な眼差し。表情も厳しい。一度、タイムをかけたかと思ったら審判に抗議を申し出てた。そのときはきつい印象があった。20歳か21歳かそこらで、まだガキのような年齢なのにチームの大黒柱として背負っているから必死だったのかな。顔に余裕がなかった。それは5年か6年前だった。
それ以降カーリングも観ていないし事情も知らなかった。ただ2014年のソチ五輪には強い中部電力ではなく小野寺歩が結婚して改名・小笠原歩率いる北海道銀行が代表だった。あれ!と思った。そして先月のオリンピックである。もうあまりスポーツに関心がなくなっていて、カーリングも生で見ていない。でもニュースでよく採り上げられるから知っていた。何とLS北見という北見出身者ばかりのチームを本橋麻里が立ち上げてオリンピック代表になっていた。本橋麻里がコーチングボックスに座り、スキップが中部電力で天才と言われたあの藤澤五月。もう26歳になっていたんだ。そして吉田姉妹に鈴木夕湖らは12年前にチーム青森を破った常呂中学の選手達だった。吉田知那美は前回のソチ五輪で北海道銀行のサブとしてメンバー入りしていたが、主力の小野寺佳步がインフルエンザで急遽、吉田知那美が出て活躍していたから顔は覚えている。それが吉田姉も藤澤もLS北見にいてオリンピックに出ていた。この間、何があったのかなと思った。その辺の事情は最近知っただけだが色々あったのだろう。それになにより一番驚いたのが藤澤五月の変貌振りである。もっともこのメンバーで2年前に世界選手権銀メダルを獲得していると後で知るのだが・・・・・。藤澤五月は今回ではピンチになってもニコニコして笑顔を絶やさず厳しい表情はしていなかった。そしてこの人気沸騰。銅メダル獲得。4年の間に苦労し色々と成長したんだろうと思える。でも、この人気も一過性のものとならずに継続していくことこそ競技の発展とに繋がると言うことである。
EDIT  |  17:15  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2018.03.11 (Sun)

べつに書くことでもないが

 もう3月11日か。東日本大震災から7年になるらしい。と書いたところでどうしようもないが、パソコンの調子が悪いので更新もままならない。取り敢えず生息していますとだけ報告しておきます。
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