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2018.01.07 (Sun)

もう1月7日

 もう気がついたら新年になって7日になるんだな。PCの調子が悪いからもうブログなんてどうでもいいかと考えると更新する気が失せてきた。でも一応は存在感をアピールするためだけに書いているような気もする。書くこともあまりなく写真も載せられなくなった。これではブログを書いていても面白くない。新しいPCは高いしな。まあ取り敢えず生きているということだけお知らせいたします。
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2017.12.24 (Sun)

巷のクリスマスの曲に・・・・

 今の季節スーパーでもショッピングセンターでも商店街でも嫌というほど聴かされるのがクリスマスの曲。もう耳にたこができるほど繰り返し聴かされるのでウンザリする。もっと他に流す曲がないのかと言うほどだ。特に『ジングルベル』『サンタが街にやってくる』『赤鼻のトナカイ』『ホワイト・クリスマス』『きよしこの夜』『ハピー・クリスマス』・・・此方あたりの曲はもう聴きたくない。ジョン・レノンの『ハピー・クリスマス』は出た当初は好きな曲だったが(オノ・ヨーコの声だけは聴きたくないが)、これだけ集中的に聴かされるとしばらくは聴きたくなくなってくる。つまりクリスマスの前はクリスマスの曲がそこら中溢れ仕方なく買い物に出かけると絶対にかかってる。おそらく有線放送を流しているのだろうけど、もっと他に流す曲がないのかと言いたくなる。同じクリスマスの曲でもナット・キング・コールの『ザ・クリスマス・ソング』なんて巷じゃほとんど聴いたことがないな。ようするに日本で人気のある外国のクリスマスの曲ってことだろ。これが最近はどんどん早くなって11月から流し出すからいい加減にしろと言いたくなる。また面白いことに25日が過ぎるとクリスマスの曲があっという間に消えるのだから面白い国である。日本のクリスマスって一体何なんだと突っ込みたくなる。そもそも佛教と神道の国でキリスト教徒のための祝い事であるクリスマスを国上げて行なうなんて変だと思うがキリスト教徒の多いアメリカやイギリスでもクリスマス・ソングが嫌いな人が多いと聞いてなるほどと思った。これだけ毎日、毎日、同じような曲ばかり聴かされると嫌になるだろうな。ましてや日本はキリスト教徒って1%いるかいないかぐらいだそうな。つまり先進国の多くがキリスト教を信仰しているからそうなったんだろうけど、よく考えてみたら笑えてくるな。ここで思うのだがイスラム教徒の国やユダヤ教を信仰する国ではクリスマス・ソングを聴いたり歌ったりするのだろうか。イスラム教信者の多いインドネシアでもクリスマスの行事はするらしい。またユダヤ教の国でも少なからず行なうところもあると聞いているが、本来はキリスト教なんてユダヤ教から派生した宗教だし、イスラム教も似たようなものだ。だからエルサレムがそれらの宗教の聖地となっているのだから。
 現在ではイスラエルがユダヤ人で、パレスチナがアラブ人だとも言われているが、そこへ白人のキリスト教が加わる。元は一つの神から出発したんだろうけど、例の預言者みたいなものが現れて宗教が分裂していく。その過程で揉めていくことになるのだが、あちらの宗教徒同士の対立は日本の比じゃない。パレスチナとユダヤなんてもう数千年揉めているとも言われる。なのでここでトランプが勝手にエルサレムをイスラエルの首都だと決めても意味がない。何も判ってないのかと思ったりする。
 まあそんなことはここでは問わないが、日本人の宗教に対する節操のなさ、無頓着。ある意味、何でもありで心が広いことに通じる。だからもう宗教のことはガタガタ言わないが、それにしても、この時期のクリスマスソングにはちょっとウンザリする。

EDIT  |  08:55  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2017.12.18 (Mon)

ジョン・コルトレーンのこと

 ジョン・コルトレーンのこと知ったのは20歳になる前の高校生の頃だったと思う。当時、ジャズをそんなに知っていた訳でもないのに、ときどきジャズ喫茶に通っていた。暗い中で黙々と紫煙が漂っていて独特の雰囲気があってロック喫茶とは明らかに違っていた様な気がする。主に社会人や大学生が多かったが、小生も大人ぶって通っていたのかな。ロック喫茶と違いインストの曲が多い。ヴォーカルのパンチのあるロック好きの連中はジャズが嫌いと言っている者が多く誘っても誰も来なかったのだがただ1人N君がジャズ好きだと知って一緒に行ったことがある。その彼はジョン・コルトレーンが好きだったのだ。当時の高校生にしては珍しい。
 小生はどちらかというとマイルス・デイヴィスの方が好きだったが、彼はジョン・コルトレーンを中心に聴いていたのだ。そして彼の薫陶を受け小生もジョン・コルトレーンを次第に聴くようになっていた。彼によるともうコルトレーンはこの世の人ではないという。コルトレーンは1967年に亡くなっていたので小生がジャズ喫茶に通っていた頃は既に他界して3、4年は経ていたのだった。だから当時のラジオのジャズ番組(あまりなかったが)はコルトレーンをよく流していたように思う。またジャズ喫茶に行ってもコルトレーンの『至上の愛』をよく聴いたように感じる。また当時はジャズの王様ルイ・アームストロングが亡くなった時期であり自分の中でちょっとしたジャズブームがあったように記憶する。ちょうどビートルズが解散してビートルズ・ロスみたいなものがあったのだろう。ロックよりもジャズに一時期傾いていたのだ。
 でも小生はマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、ハービー・マン、セロニアス・モンクを頻繁に聴いていたので不思議とスウィング・ジャズを聴いていなかった。つまりビッグバンドを聴くようになったのは後のことである。時代考証から行くと先にモダンジャズ、コンボジャズよりもスウィング・ジャズの方が古いのだが、小生の中では反対なのであった。だから曲は知っていてもデューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラー、ベニー・グッドマン辺りのビッグバンドを聴くようになったのは20歳過ぎてからになった。つまり先にコンボからジャズに入ったのでジャズって多くて5人ぐらいで演奏するものだと思っていたから、デューク・エリントン楽団が17.、8人で演奏する『A列車で行こう』の映像を初めて観たとき違和感を覚えたのである。所謂、これがモダンジャズの前に人気のあったスウィング・ジャズでありビッグバンドというものであった。でも戦後の日本で流行ったアメリカから来たジャズというものはこちらの方が主体であり、ヴォーカル付きの商業音楽でありダンス音楽のバックバンドというものの基本はビッグバンドだったのだ。それが少人数でヴォーカルがなくなり聴かせる音楽として飛翔していったのがモダンジャズだと聞いた時の驚きは隠せない。当時はビッグバンドとコンボは全く別の音楽だと認識していたから、ビッグバンド=スウィング・ジャズよりも後から出て来たのがコンボ・ジャズでありモダン・ジャズだと知るのだった。当時はジャズと言ってもただ聴くだけでそのなれそめだとか歴史とかを知っていたのでもないから無理もないが、ただ小生の中ではコンボ=ナイス、ビッグバンド=オジン臭いというのも何処かにあったのだろう。スウィング・ジャズを何処か敬遠していたように思う。それが歳をとるとともに何の関係もなしにビッグバンドを受け入れるようになっていったと思う。それはクラシックでオペラだけは敬遠していたが、いつの間にかオペラも盛んに観るよう聴くようになっていたというのと似ているが。
 まあそういうことで若い頃はジョン・コルトレーンをよく聴いたもんだ。高校の頃コルトレーン・ファンのN君が言うのはコルトレーンが1966年の7月に来日してコンサートを何箇所かで行い行けなかったのは残念だと言った。其れを聞いて小生は驚いたのである。あんた幾つからコルトレーンのファンなんだと・・・・。小生もませている方だと思ったが彼はオレ以上だと。もっとも彼の父親がかなりのジャズ好きでよくジャズが家の中で流れていたという。なるほど。そういう家庭環境でないと小学生からジャズは聴かないでしょ。また彼は幼少の頃からピアノを習っていたがバイエルの練習とかに飽きてジャズの曲をよく弾いていたという。楽器が真面に弾けない小生とは音楽の素養が違うところだなあと思ったものだ。
 ところでこのコルトレーンの最初で最後の来日公演を彼に聞くまで小生は全く知らなかった。それというのもその一週間前に華々しくビートルズの来日公演をマスコミが採り上げたからである。つまり外タレの公演をビートルズだけは華々しく報道したがマニアックなコルトレーンの来日公演は全くといって報道がなかった。もっともその頃、小生はコルトレーンのコの字も知らなかったから無理もない。当時、ジャズ界で知っている人ってルイ・アームストロングとグレン・ミラーとベニー・グッドマン、それとヴォーカルのナット・キング・コールぐらいだった。高校になるとジャズに興味を持ち一気に知識が増えたものだが、1966年当時なんてその程度の知識しか持ち合わせてなかった。
 さてジョン・コルトレーンの話に戻ろうか。コルトレーンって第一線って言うか認められてジャズ界で活躍するのはほぼ10年ぐらいにしかならない。キャリアは長いのに・・・。つまりジャズメンの間でもなかなか頭角を現さなかった。最初はディジ・ガレスピーにつき、次はマイルス・デイヴィスと組むがクビ同然となる。そして拾ってくれた人がセロニアス・モンクと大物ばかり。そして再びマイルス・デイヴィスと一緒にバンドを組む。このときは前回と違いマイルスはコルトレーンの進歩に驚き押しも押されぬジャズ・サックス奏者と頭角をようやく現すのである。そして名盤『カインド・オブ・ブルー』の録音に参加。そして自らリーダーのバンドを結成。この頃はマッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・キャリソンといった面々と組み数々の収録をした。そしてコルトレーンはやげてフリージャズや無調音楽をやるようになりより難解になっていくが、小生はジャズって言語はコルトレーンの死後なくなったように思う。スタイルは継承されているが、実質にはジャズはより高度化しフュージョンやらなんやら説明がつかなくなっていった。そのジャズの最晩年期にジャズ界で一際、輝いたのがジョン・コルトレーンだと思う。結局、コルトレーンの命を縮めたとされる肝臓癌であるが、実際にはその前からヘロインを多用していてその副作用が一因にあると思える。でも僅か40歳で亡くなるとはもったいない。小生が盛んにコルトレーンを聴いていた頃、既にこの世の人ではなかったんだから。もうコルトレーンが死んでから50年、早いものだ。


EDIT  |  23:50  |  音楽(ジャズ)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2017.12.17 (Sun)

あーあ

 せっかく書いたのに長い記事が消えてしまった。最近PCの調子がおかしい。もうこのブログ辞めようかな。それとも放置するか模索中。
EDIT  |  11:38  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2017.12.08 (Fri)

やっと入れた

 全く更新できなかった。というのもPCが勝手に仕様変更の画面に変わってしまったから全てがやりにくくなったということ。最近のPCは迂闊に最新の更新は出来ないなあと思った。更新のお知らせが来ていたからクリックしたら2時間ほどPCの画面が青画面。そしてやっと終ったと思ったら前のやり方が通用しなくて、一からやり直し。知らぬ間にお気に入りが全て消えているではないか。これ焦った。パックアップしておくべきだった。それでようやく今、ブログの画面に入ったのだが、今度はブログもおかしくなっている。せっかく書いた記事も載らないときあるし、過去の記事もいつの間にかいくつか消えてしまった。そして、写真も載せられなくなった。そうにかすれば載せられるのだけど、PCを新バージョンに更新すると前のやり方では動かなることが多い。だkらしばらく放置しようかなとも考えた。まあ見に来る人もほとんどいないブログだが、それでも10年は続いたからな。でも世の中ブログの時代でもない気がする。世はインスタだとかフェースブックだとかツイッターだとかSNSがなければ生きていけないのかな。小生未だにガラケーの携帯を使ってる。電車の中で携帯を出すと古いなあというような顔をされる。まあしょうがない。スマートフォンが是非必要とは思わないし携帯なんてメールが送れて電話さえ出来れば良いと考えているから現状でも良いかな。あとは帰宅してPCを開けば良いことだし。でも最新バージョンに更新したのは失敗だった。
EDIT  |  13:52  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2017.11.18 (Sat)

ハイドンの交響曲第45番『告別』を聴く

 クラシック音楽の記事なんて最近書いてない。というよりもこのPCがおかしくなって写真が載せられなくなったからアルバムを聴いたところで何のアルバムか判らないから、最近は音楽自体をあまり聴いていないと言うよりも記事を書いてない。もうこれからは写真なしで記事にする。今日はハイドンの告別である。
 みんな知っていると思うがハイドンは交響曲の父と言われる。それは現在の交響曲の形を最初に確立したと言われる作曲家で生涯に108もの交響曲を書いたからである。でも小生はその全てを聴いたわけではない。これはもちろんモーツァルトもそうであるが、現在のような交響曲がクラシックのメインで演奏され大曲化されたのはべートーヴェン以降だろう。したがってハイドンの交響曲って短い。長くて30分ぐらいじゃないかな。マーラーやブルックナーのように長くはない。時代が時代だからである。ハイドンはベートーヴェンの師匠格。1732年生まれで1809年没。つまり古典派に属する。彼の24年後にモーツァルトが生まれ38年後にベートーヴェンが生まれていると言えば音楽的に言ってどういった時代の人か判るであろう。さらに付け加えるならハイドンよりさかのぼること47年前にバッハとヘンデルが生まれている。つまりハイドンが生まれたときにはまだバッハ、へンデルは生きていたのである。いわばバロック音楽から古典派音楽へ移行する頃に現れた大作曲家と言えよう。もっともバロック音楽とか古典派音楽とかロマン派音楽とかは後世の人が言い出したことなので彼等には関係がない。ただこれだけ本格的に交響曲を書き出したのはハイドンが最初の人だろう。
 さてこの交響曲45番『告別』というのは1772年に書かれている。ハイドンが40歳の時である。ハイドンは当時エステルハージ公―に仕えていた。そしてノイジードラー湖畔のエステルハージー公の別荘に長いこと居座っていた。もちろん彼が率いる楽団員もである。ハイドンを始め楽団員は家族の元を離れこの別荘に長いこといたせいで何時しか帰郷したいと思うようになっていたが誰も言い出せない。そこでハイドンは『告別』を書いたという。そしてエステルハ-ジー公ニコラスの前でこの曲を披露したのである。するとニコラスはみんなか帰ってよろしいといったという逸話が残っている。
 嘘のような話だが、ニコラス公がハイドン始め団員の心境を察したのだろう。そういた仕組みがこの曲にあったのだ。まず調子がおかしい。この嬰ヘ長調というのは数多いハイドンの交響曲の中でこの曲だけである。そしてそして4楽章ある終楽章が笑わせてくれる。プレストで始まるのだがコーダに入り雰囲気が一気に変わる。同じ楽章かと思ってしまう。スコアを見るとまずオーボエの半分とホルンinEが消える。次にバスーンが消える。そして残りのオーボエも消える。ついにはホルンも全員消えて弦楽器だだけになる。
 弦楽器だけになるがまずコントラバスが消え、次にチョロが消える。残りは第一、第二、第三、第四のヴァイオリンとヴィオラだけ。すると第三、第四のヴァイオリンも消える。まもなくヴィオラも消え、最後の14小節は第一、第二ヴァイオリンだけが弾いている。という何とも奇妙な曲である。当時は電灯がなく団員の楽譜の上に蝋燭が灯っていたので役目の終った団員は蝋燭を消していくのである。すると舞台はだんだんと暗くなる。ニコラス公はそれを悟ったのだろう。何とも風変わりな曲である。もっともハイドンの遊び心がこのような曲を書かせたのだろう。だからハイドンの曲には標題が付いているのが多い。標題を付けやすい曲が多かったのだろう。朝、昼、夜、哲学者、悲しみ、受難、帝国、校長先生、マリアテレジア、驚愕、奇蹟、時計、太鼓連打、軍隊、ロンドン、冗談、鳥、夢、蛙、ひばり、騎士、皇帝、日の出・・・・もちろん標題の付いてない曲の方が遙かに多いが、これだけ標題が曲に付いているってハイドンぐらいである。つまり協奏曲第○○番イ短調作品○○番って言われるより標題で言われた方が曲は覚えやすいと言うことだ。これがクラシック音楽の欠点でもある。ただこれだけ標題音楽が多いのに、ハイドン作曲の楽曲が多すぎて小生はその半分も聴いたことがない。


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