2018.05.30 (Wed)
アメリカン・フットボールに関する話題
なんだかこのところ日本大学と関西学院大学とのアメリカン・フットボールの交流試合で、日大選手の悪質プレーがあり、連日、そのプレーについてテレビや新聞で報道されない日はない。小生は最近はほとんどスポーツに関心がないから、報道の文面しか読んでないから、どれほど悪質なプレーだったのどうかよくわからないので、録画された映像を2、3日前に何度か見た。
うん確かにあれは酷い。しかし問題は選手が自主的にやったというのではなく、監督、コーチが意図的にやらせたということで問題になっているようだ。だとするとこれは大変なことだなと感じた。いったいどうなってるんだろう。悪質プレーを行なった日大の選手が出てきてコーチの支持によるものだったというが、監督とコーチの会見によると選手との間に乖離があったというから話にならん。まあ往生際が悪いというか誰が考えてもやらせているとしか思えないのに記者会見と声明文では選手と言ってることが違う。結局、関東学生アメリカンフットボール連盟がこの監督とコーチを除名するという。当然と言えば当然だが未だに、こういった体質の大学の運動部があることに驚いた。まさに昭和の体育会系の悪い縦社会そのものだなと思った。これはプロでもなく飽くまでが学生の運動部での話である。どうも強ければ良いという大いなる勘違いがこういった監督やコーチを増長させるのかも。またよりによってこの監督は日大の常務理事でもある。どうも胡散臭い。大学の在り方をもっと考えるべきだな。
それはそうとアメフトというと40年以上昔、小生には関西学院大学のアメリカン・フットボール部でランニング・バックをやっている友人がいた。その彼が試合を観に来いと言ったから観に行ったことがある。そのとき相手はよりによって小生の大学だった。あーあ!と思ったが関学は強く小生の大学はボロ負け。50点以上の大差を付けられた。小生はどうせ関学には逆立ちしても歯が立たないので友人のプレーばかり観ていた。彼はポジション柄とにかく速く走る。確かタッチダウンも決めたと思う。そのときに感じたがラグビーと似ているようで全然、似てないなあと感じた。攻撃側と守備側で分れ、4回の攻撃で10ヤード進めないと攻撃権が変わる。そしてセットプレーの連続ですぐに試合が止まり、ラグビーのような流れではない。どちらかというと野球に似ていると感じた。1人1人のポジションの意味合いがあり、野球で言うピッチャーが所謂アメフトで言うとクォーターバックなのだろう。野球がピッチャーが良いとある程度、勝てる。それはアメフトで言うところのQBなのだろう。とにかく攻撃のときにQBがパスを出す。その確実性が高ければ高いほどパスが通る。だから日大の首脳陣がQBを倒せと言ったのだろう。QBというと49ersにジョー・モンタナというスーパースターがいた。彼のプレーはテレビでよく観たが、スーパーボウル4回制覇という見事さは語り尽くせないほどだ。つまりQBはアメフトの核心部に当たる選手なのである。11分の1ではなく、QBの出来によって11分の5にもなってしまう。それこそ野球で言うピッチャーと同じぐらい重要のポジションと言えそうだ。この選手を潰せというのは、こういった軍隊調の先祖返りした監督なら言いそうなことだが、それに反旗を翻せない運動部の体質も問題がある。これから色んな事実が解明されるだろうが、今の時代に相応しくない運動部が存在したもんだ。やれやれ。だから小生はスポーツ中継をだんだんと観なくなったのだが、日本にはまだこんな運動部が大学や高校では存在するみたいだ。困ったもんだ。
うん確かにあれは酷い。しかし問題は選手が自主的にやったというのではなく、監督、コーチが意図的にやらせたということで問題になっているようだ。だとするとこれは大変なことだなと感じた。いったいどうなってるんだろう。悪質プレーを行なった日大の選手が出てきてコーチの支持によるものだったというが、監督とコーチの会見によると選手との間に乖離があったというから話にならん。まあ往生際が悪いというか誰が考えてもやらせているとしか思えないのに記者会見と声明文では選手と言ってることが違う。結局、関東学生アメリカンフットボール連盟がこの監督とコーチを除名するという。当然と言えば当然だが未だに、こういった体質の大学の運動部があることに驚いた。まさに昭和の体育会系の悪い縦社会そのものだなと思った。これはプロでもなく飽くまでが学生の運動部での話である。どうも強ければ良いという大いなる勘違いがこういった監督やコーチを増長させるのかも。またよりによってこの監督は日大の常務理事でもある。どうも胡散臭い。大学の在り方をもっと考えるべきだな。
それはそうとアメフトというと40年以上昔、小生には関西学院大学のアメリカン・フットボール部でランニング・バックをやっている友人がいた。その彼が試合を観に来いと言ったから観に行ったことがある。そのとき相手はよりによって小生の大学だった。あーあ!と思ったが関学は強く小生の大学はボロ負け。50点以上の大差を付けられた。小生はどうせ関学には逆立ちしても歯が立たないので友人のプレーばかり観ていた。彼はポジション柄とにかく速く走る。確かタッチダウンも決めたと思う。そのときに感じたがラグビーと似ているようで全然、似てないなあと感じた。攻撃側と守備側で分れ、4回の攻撃で10ヤード進めないと攻撃権が変わる。そしてセットプレーの連続ですぐに試合が止まり、ラグビーのような流れではない。どちらかというと野球に似ていると感じた。1人1人のポジションの意味合いがあり、野球で言うピッチャーが所謂アメフトで言うとクォーターバックなのだろう。野球がピッチャーが良いとある程度、勝てる。それはアメフトで言うところのQBなのだろう。とにかく攻撃のときにQBがパスを出す。その確実性が高ければ高いほどパスが通る。だから日大の首脳陣がQBを倒せと言ったのだろう。QBというと49ersにジョー・モンタナというスーパースターがいた。彼のプレーはテレビでよく観たが、スーパーボウル4回制覇という見事さは語り尽くせないほどだ。つまりQBはアメフトの核心部に当たる選手なのである。11分の1ではなく、QBの出来によって11分の5にもなってしまう。それこそ野球で言うピッチャーと同じぐらい重要のポジションと言えそうだ。この選手を潰せというのは、こういった軍隊調の先祖返りした監督なら言いそうなことだが、それに反旗を翻せない運動部の体質も問題がある。これから色んな事実が解明されるだろうが、今の時代に相応しくない運動部が存在したもんだ。やれやれ。だから小生はスポーツ中継をだんだんと観なくなったのだが、日本にはまだこんな運動部が大学や高校では存在するみたいだ。困ったもんだ。
2018.03.16 (Fri)
ちょっと話題としては古いが
今、カーリングの混合ダブルスの日本選手権が青森で行なわれていて既に開催日全てのチケットが完売しているという大人気。それというのも平昌オリンピックで日本カーリング女子が銅メダルを獲ったからの影響力が大きいと言うことになるだろう。そして既に彼女たちが試合中に言っていた「そだねー」が大流行。ちょっとこの現象に苦笑したが、「そだねー」を主に言っていたのは吉田知那美であって藤澤五月は言ってない。藤澤は北見でも常呂町出身ではなく北見市街の出身だから「そうだねー」と言ってるだろ。もっとも小生は北見へは一度しか行ったことがない。それは20歳の頃、北見のばんえい競馬を観に行ったときだったが、随分寂しい街だなあという印象しかなかった。そんなことはどうでもいいが、小生、初めてカーリングという競技があるのを知ったのは小学生の時に観たビートルズの映画『ヘルプ!4人はアイドル』(1965年)で、カーリングをやっているシーンを観てあれは何をやっているんだろと思ったのが最初である(後にスコットランドがカーリング発祥の地と知った)。次は高校生の頃、またまた映画でカーリングのシーンを観た。『女王陛下の007』である。その頃は日本でボーリングが大流行。中山律子の時代だったかな。だからカーリングのことなんて頭の中になかったしなんて言う競技なのかも知らなかった。ただタイル掃除のブラシのような物で氷の表面をこすっているところに興味が湧いたのを覚えている。
それが何時だったろうか。もうシーズンが過ぎていたからスケート場がすいていた頃だった。スケートの上手い女性と大阪は難波にあったスケート場に行ったときカーリングのストーンが置いてあった。ストーンの周りを数人がいて、これから練習するという。それでストーンをスケート靴を履いたまま持とうとしたが重くて上がらなく氷の上だったので転げてしまった。するとカーリングの人たちが「ストーンを持ち上げようとする人なんていませんよ」と笑われた。
そのときカーリングという競技が日本でも行なわれていると言うことを知った。何年頃だったのかな。小生がまだ20代だったから1980年代の前半だったと思う。面白いのでしばらくスケートをやめてカーリングの練習を観ていたのを思い出す。固定した蹴り台のハックから足を踏み出しストーンを滑らしていく。あいにくここにはハウスという円が描かれてなくストーン滑らしたりカーブをかけたり弾いたりスイープ(カーリングの氷と質は違うのでスイープの意味はあまりないが)する練習をしていた。まだ日本ではカーリング場もほとんどなかったのではないかな。
それがいつの間にか長野オリンピックから正式競技に加わり、このときBS放送で何試合か観た。そしてルールも用語も覚えたのである。でも盛んなのはヨーロッパと北米で日本は新参者。厚い壁が立ちはだかっていた。それに試合時間が長すぎてくたびれた。これが映画『ヘルプ!4人はアイドル』で観たカーリングという競技の初めての試合生観戦であった。
その後、カーリングはすっかり冬季オリンピックでお馴染みとなるが、長野の時は日本は選抜選手で出ていたんだな。でもこの競技はチームワークがいるので次のソルトレークシティ五輪からは予選を勝ち抜いたチームが代表としてオリンピックに出るようになったみたいだ。そして2002年の五輪には後に映画化されたシムソンズが代表になる。頭がカーリーヘアで爆発したような髪型をしたことのある加藤章子がスキップとしてで出ていたかな。それと林弓枝、小野寺歩なんてよく覚えている。みんな常呂町の常呂中学出身だと言うことに驚いたりもした。その4年後のトリノ・オリンピックはシムソンズのメンバーが大量移籍したチーム青森が代表になっている。このときスキップの小野寺歩、サードの林弓枝に加え19歳の愛らしい選手・本橋麻里が加わっていた。よく笑うしムードメーカーだったんだろなあ。どうも常呂中学の後輩だと言うことも知った。常呂町はにはカーリングのリンクがあって小学生からみんな練習をしていると聞いてびっくり。その頃であろうか、日本選手権でこのチーム青森を破った中学生チームがあった。それが常呂中学の2年生で組んだチームである。それが吉田知那美、鈴木夕湖、小野寺佳步だった。何れも後に日本を代表する選手になる。
2010年バンクーバー・オリンピックもチーム青森が代表だった。そして、その頃からカーリングの日本選手権はチーム青森ではなく長野の軽井沢に本拠地がある中部電力が突如強くなっていった。それは天才スキップとして高校卒業と同時に入った藤澤五月がいるからだった。とにかく司令塔として優れていて、ジュニアの時代から世界の大会に出ていて頭角を現していた。一度、BSでどんな選手か観てやろうと思いテレビで試合を観たことを思い出す。意外と小柄。でもあまり笑わない。真剣な眼差し。表情も厳しい。一度、タイムをかけたかと思ったら審判に抗議を申し出てた。そのときはきつい印象があった。20歳か21歳かそこらで、まだガキのような年齢なのにチームの大黒柱として背負っているから必死だったのかな。顔に余裕がなかった。それは5年か6年前だった。
それ以降カーリングも観ていないし事情も知らなかった。ただ2014年のソチ五輪には強い中部電力ではなく小野寺歩が結婚して改名・小笠原歩率いる北海道銀行が代表だった。あれ!と思った。そして先月のオリンピックである。もうあまりスポーツに関心がなくなっていて、カーリングも生で見ていない。でもニュースでよく採り上げられるから知っていた。何とLS北見という北見出身者ばかりのチームを本橋麻里が立ち上げてオリンピック代表になっていた。本橋麻里がコーチングボックスに座り、スキップが中部電力で天才と言われたあの藤澤五月。もう26歳になっていたんだ。そして吉田姉妹に鈴木夕湖らは12年前にチーム青森を破った常呂中学の選手達だった。吉田知那美は前回のソチ五輪で北海道銀行のサブとしてメンバー入りしていたが、主力の小野寺佳步がインフルエンザで急遽、吉田知那美が出て活躍していたから顔は覚えている。それが吉田姉も藤澤もLS北見にいてオリンピックに出ていた。この間、何があったのかなと思った。その辺の事情は最近知っただけだが色々あったのだろう。それになにより一番驚いたのが藤澤五月の変貌振りである。もっともこのメンバーで2年前に世界選手権銀メダルを獲得していると後で知るのだが・・・・・。藤澤五月は今回ではピンチになってもニコニコして笑顔を絶やさず厳しい表情はしていなかった。そしてこの人気沸騰。銅メダル獲得。4年の間に苦労し色々と成長したんだろうと思える。でも、この人気も一過性のものとならずに継続していくことこそ競技の発展とに繋がると言うことである。
それが何時だったろうか。もうシーズンが過ぎていたからスケート場がすいていた頃だった。スケートの上手い女性と大阪は難波にあったスケート場に行ったときカーリングのストーンが置いてあった。ストーンの周りを数人がいて、これから練習するという。それでストーンをスケート靴を履いたまま持とうとしたが重くて上がらなく氷の上だったので転げてしまった。するとカーリングの人たちが「ストーンを持ち上げようとする人なんていませんよ」と笑われた。
そのときカーリングという競技が日本でも行なわれていると言うことを知った。何年頃だったのかな。小生がまだ20代だったから1980年代の前半だったと思う。面白いのでしばらくスケートをやめてカーリングの練習を観ていたのを思い出す。固定した蹴り台のハックから足を踏み出しストーンを滑らしていく。あいにくここにはハウスという円が描かれてなくストーン滑らしたりカーブをかけたり弾いたりスイープ(カーリングの氷と質は違うのでスイープの意味はあまりないが)する練習をしていた。まだ日本ではカーリング場もほとんどなかったのではないかな。
それがいつの間にか長野オリンピックから正式競技に加わり、このときBS放送で何試合か観た。そしてルールも用語も覚えたのである。でも盛んなのはヨーロッパと北米で日本は新参者。厚い壁が立ちはだかっていた。それに試合時間が長すぎてくたびれた。これが映画『ヘルプ!4人はアイドル』で観たカーリングという競技の初めての試合生観戦であった。
その後、カーリングはすっかり冬季オリンピックでお馴染みとなるが、長野の時は日本は選抜選手で出ていたんだな。でもこの競技はチームワークがいるので次のソルトレークシティ五輪からは予選を勝ち抜いたチームが代表としてオリンピックに出るようになったみたいだ。そして2002年の五輪には後に映画化されたシムソンズが代表になる。頭がカーリーヘアで爆発したような髪型をしたことのある加藤章子がスキップとしてで出ていたかな。それと林弓枝、小野寺歩なんてよく覚えている。みんな常呂町の常呂中学出身だと言うことに驚いたりもした。その4年後のトリノ・オリンピックはシムソンズのメンバーが大量移籍したチーム青森が代表になっている。このときスキップの小野寺歩、サードの林弓枝に加え19歳の愛らしい選手・本橋麻里が加わっていた。よく笑うしムードメーカーだったんだろなあ。どうも常呂中学の後輩だと言うことも知った。常呂町はにはカーリングのリンクがあって小学生からみんな練習をしていると聞いてびっくり。その頃であろうか、日本選手権でこのチーム青森を破った中学生チームがあった。それが常呂中学の2年生で組んだチームである。それが吉田知那美、鈴木夕湖、小野寺佳步だった。何れも後に日本を代表する選手になる。
2010年バンクーバー・オリンピックもチーム青森が代表だった。そして、その頃からカーリングの日本選手権はチーム青森ではなく長野の軽井沢に本拠地がある中部電力が突如強くなっていった。それは天才スキップとして高校卒業と同時に入った藤澤五月がいるからだった。とにかく司令塔として優れていて、ジュニアの時代から世界の大会に出ていて頭角を現していた。一度、BSでどんな選手か観てやろうと思いテレビで試合を観たことを思い出す。意外と小柄。でもあまり笑わない。真剣な眼差し。表情も厳しい。一度、タイムをかけたかと思ったら審判に抗議を申し出てた。そのときはきつい印象があった。20歳か21歳かそこらで、まだガキのような年齢なのにチームの大黒柱として背負っているから必死だったのかな。顔に余裕がなかった。それは5年か6年前だった。
それ以降カーリングも観ていないし事情も知らなかった。ただ2014年のソチ五輪には強い中部電力ではなく小野寺歩が結婚して改名・小笠原歩率いる北海道銀行が代表だった。あれ!と思った。そして先月のオリンピックである。もうあまりスポーツに関心がなくなっていて、カーリングも生で見ていない。でもニュースでよく採り上げられるから知っていた。何とLS北見という北見出身者ばかりのチームを本橋麻里が立ち上げてオリンピック代表になっていた。本橋麻里がコーチングボックスに座り、スキップが中部電力で天才と言われたあの藤澤五月。もう26歳になっていたんだ。そして吉田姉妹に鈴木夕湖らは12年前にチーム青森を破った常呂中学の選手達だった。吉田知那美は前回のソチ五輪で北海道銀行のサブとしてメンバー入りしていたが、主力の小野寺佳步がインフルエンザで急遽、吉田知那美が出て活躍していたから顔は覚えている。それが吉田姉も藤澤もLS北見にいてオリンピックに出ていた。この間、何があったのかなと思った。その辺の事情は最近知っただけだが色々あったのだろう。それになにより一番驚いたのが藤澤五月の変貌振りである。もっともこのメンバーで2年前に世界選手権銀メダルを獲得していると後で知るのだが・・・・・。藤澤五月は今回ではピンチになってもニコニコして笑顔を絶やさず厳しい表情はしていなかった。そしてこの人気沸騰。銅メダル獲得。4年の間に苦労し色々と成長したんだろうと思える。でも、この人気も一過性のものとならずに継続していくことこそ競技の発展とに繋がると言うことである。
2018.02.25 (Sun)
チームパシュート
平昌オリンピックなんてひとつも観てないけど、あのパシュートという競技だけは面白い。そもそも冬のオリンピックってスキーでもスケートでもタイムレースで一斉に滑るわけではなく全てが終らないと結果がわからない。つまり待ちくたびれる。ショートトラックという一斉に滑るスピードスケート競技があるけれど、あれは小学校の校庭ぐらいの狭いところでゴチャゴチャと一斉に滑るから、駆け引きが多すぎるし妨害もある。格闘技の要素も含まれるのかなと思ってしまう。これももう一つな競技だと思う。単にスピードだけ競うのであれば大きなリンクでタイムを競う普通のスピードスケートだけでいいのにと思ってしまう。でもスピードスケートは個人種目である。それがチーム三人で滑り半周側からスタートした相手チームと競うパシュートという競技は前から面白いと思っていた。もともと個人競技であったスピードスケートに団体戦を持ち込んだことで色々な要素が加わってより面白くなった。でも歴史は新しく2006年のトリノオリンピックからしかオリンピックの種目になってないようだ。
ところでパシュートという種目は昔から自転車にあった。おそらくここからヒントを得たのだろう。だがこれが意外とスケートでやると面白いので観てしまう。個々の能力が優れた3人を集めても必ずしも勝てるというものではないということを、今回のオリンピックで実証されただろう。圧倒的な個人の能力があるオランダに比べて、体格的にも体力的にも劣る日本がパシュートをオリンピックレコードで優勝したからだ。つまりチームワークの勝利と戦術の勝利。ただしここに至るまでは長かったということだろう。
考えてみれば8年前のバンクーバー五輪で日本はドイツと大接戦。0秒02の僅差で銀メダルに輝いている。このときのドイツのタイムは3分02秒82。日本は穂積雅子、田畑真紀、小平奈緒の3人で銀メダル。尚、補欠が中学生の高木美帆であった。でもこの頃の映像を観るとまだ歴史の浅い種目だと思う。今では一糸乱れぬ走法で滑る日本チームだが、この時はバラバラ。また短距離選手の小平がこのときメンバーに入っていた。
それが4年後のソチになるとオランダが力を入れ始め、準決勝で日本と対戦。日本は10秒以上の大差をつけられ大敗。このときのオランダは2分58秒43。オランダは決勝でも勝ち優勝。日本は田畑真紀、押切美沙紀、高木菜那で臨んだのだが勝負にもならなかった。
ここから日本のスケート連盟がソチの屈辱から学んで復活することになるのであった。コーチをオランダから呼び、科学的なデータとトレーニングの見直しと強化。さらに300日ほぼ合宿という毎日。これでチームパシュートがメキメキ頭角を現し、昨年の11月から12月にかけてのワールドカップで日本は3戦連続世界新記録。ソルトレークシティではなんと2分50秒87。いくら高地だとはいえ大変な記録だ。全て一周のラップが27秒台。そして今回のオリンピックで宿敵オランダと決勝で対決。高木姉妹に佐藤という世界記録保持者とメダリスト揃いのオランダが好レースを展開。一時、オランダがリードしたが持ちタイムのいい高木美帆が再び先頭に立ち滑り出すと日本が終盤でリード。2分53秒89のオリンピックレコードで金メダル。今回はオランダも必死だった。でも終盤でバテて、2分55秒47。それでもオランダ最高のタイムだった。個々の力を伸ばしてきたオランダに対し日本は空気抵抗をなくすことや追い抜きの時のスピードの劣化削減、体力の温存、スピードの維持、そして一糸乱れぬ3人の揃ったスケーティングと色々と対策がとられた結果での勝利であった。勝因は一言で言えないが、フィジカル面で遥に劣る日本がチーム戦では勝てるということを体現した今回のパシュート女子であった。
ところでパシュートという種目は昔から自転車にあった。おそらくここからヒントを得たのだろう。だがこれが意外とスケートでやると面白いので観てしまう。個々の能力が優れた3人を集めても必ずしも勝てるというものではないということを、今回のオリンピックで実証されただろう。圧倒的な個人の能力があるオランダに比べて、体格的にも体力的にも劣る日本がパシュートをオリンピックレコードで優勝したからだ。つまりチームワークの勝利と戦術の勝利。ただしここに至るまでは長かったということだろう。
考えてみれば8年前のバンクーバー五輪で日本はドイツと大接戦。0秒02の僅差で銀メダルに輝いている。このときのドイツのタイムは3分02秒82。日本は穂積雅子、田畑真紀、小平奈緒の3人で銀メダル。尚、補欠が中学生の高木美帆であった。でもこの頃の映像を観るとまだ歴史の浅い種目だと思う。今では一糸乱れぬ走法で滑る日本チームだが、この時はバラバラ。また短距離選手の小平がこのときメンバーに入っていた。
それが4年後のソチになるとオランダが力を入れ始め、準決勝で日本と対戦。日本は10秒以上の大差をつけられ大敗。このときのオランダは2分58秒43。オランダは決勝でも勝ち優勝。日本は田畑真紀、押切美沙紀、高木菜那で臨んだのだが勝負にもならなかった。
ここから日本のスケート連盟がソチの屈辱から学んで復活することになるのであった。コーチをオランダから呼び、科学的なデータとトレーニングの見直しと強化。さらに300日ほぼ合宿という毎日。これでチームパシュートがメキメキ頭角を現し、昨年の11月から12月にかけてのワールドカップで日本は3戦連続世界新記録。ソルトレークシティではなんと2分50秒87。いくら高地だとはいえ大変な記録だ。全て一周のラップが27秒台。そして今回のオリンピックで宿敵オランダと決勝で対決。高木姉妹に佐藤という世界記録保持者とメダリスト揃いのオランダが好レースを展開。一時、オランダがリードしたが持ちタイムのいい高木美帆が再び先頭に立ち滑り出すと日本が終盤でリード。2分53秒89のオリンピックレコードで金メダル。今回はオランダも必死だった。でも終盤でバテて、2分55秒47。それでもオランダ最高のタイムだった。個々の力を伸ばしてきたオランダに対し日本は空気抵抗をなくすことや追い抜きの時のスピードの劣化削減、体力の温存、スピードの維持、そして一糸乱れぬ3人の揃ったスケーティングと色々と対策がとられた結果での勝利であった。勝因は一言で言えないが、フィジカル面で遥に劣る日本がチーム戦では勝てるということを体現した今回のパシュート女子であった。
2017.03.31 (Fri)
高校野球についての独り言
小生、最近は野球に全く関心がない。サッカーにも関心がない。当然オリンピックにも関心がない。人間は齢を重ねると関心のあるものが削られていくのかどうか判らないが、スポーツ自体だんだんと関心がなくなっていった。ただスポーツが嫌いだとか興味がないだとかではなく昔からスポーツに詳しかったし興味があったが、もう人生の折り返しになって他人のやっているスポーツにいちいち一喜一憂してられないだろう。そんなことより自分の身の周辺のことの方が大切になってきているというのが正直なところである。どこが勝っただとか負けただとか、良い勝負をしただとか若いときは熱中したものだが、その熱もすっかり冷め、プロ野球なんてどうでもよくなったし、高校野球もテレビで放映していてもさっぱり見なくなってしまった。ただし予選だけは観に行くんだな。何故ならかつての高校野球の在り方が予選には残っているからだ。高校野球というのは本来、地元の中学生が地元の高校に行ってクラブ活動の一環として練習を積み、その結果、実力を試したいがため予選に参加し勝ち抜き結果として、最終的に甲子園があるというのがあるべき姿だったのだが、今の時代、そんな悠長なことは言ってられない。今や各県には必ずセミプロ化した強豪校が存在し、そのほとんどが有力選手を集め甲子園に出て学校の知名度を上げるというのが当たり前になっている。まあこういう学校は1960年代からあったが、最近は日本全国こういた学校だらけになり、こういった学校しか甲子園に出なくなったし勝てなくなった。それで甲子園大会も関心がどんどんと薄れていったのである。ただ今年の選抜でその究極の姿とも思える高校2校が決勝に残ったので記事にしてみようと考えたのである。
今年の選抜大会の決勝はご存じの通り大阪の強豪2校が戦う大阪決戦となった。結果はともあれ何れこのようなことが近いうちに起こりうるだろうと小生は思っていた。それは大阪という野球盛んな地域の強豪校が2校出ていたことと、最近は強豪校の多い大阪の中でもこの2校が他を圧していた。つまり素質のある選手が集まりやすい環境にあるということ。そして今年の選抜のような決勝戦になってしまった。でも今まで大阪勢2校が決勝に残らなかった方が不思議なくらいだ。過去にはベスト4に大阪の学校が2校残った例は1979年(浪商、PL)、1981年(PL、上宮)、1990年(近大附属、北陽)、1998年(関大一、PL)と4度あったぐらいだ。だが何れかの学校が準決勝で敗れて大阪決戦にならなかっただけだ。だから別に驚かない。そして5回目にしてようやく大阪同士が決勝に残ったということだろう。ただ過去に選抜では愛知県同士(2回)、京都府同士、東京都同士の決勝戦があったのである。ただ最近は野球レベルの高い大阪で大阪勢(兵庫も含めて)の成績が振るわないと言われていた時期がある。1990年代後半から10年間は低迷していたのである。何故なら大阪の素質のある中学生が遠方の県へ数100人も野球留学するため大阪の学校が空洞化して弱くなってしまったと言われたのである。一因として大阪に野球強豪校が多かったがため、とてもじゃないが甲子園に出られないと思ったのか遠方の県へ野球留学する選手が大変な数になったと言われる。
ごく一部の例を出すとダルビッシュ(東北高校)、田中将大(駒大苫小牧)、坂本(光星学院)、内海(敦賀気比)、筒香(横浜高校)、北条(光星学院)等は当然、大阪か兵庫か京都辺りの強豪校に普通なら入学していただろう。それが地元の強豪を選ばず遠方の県へ行き実績を残した。結果として野球弱小県のレベルが上がったとも言える。それはそれでいいが、結局はそれがより野球留学を助長させ、地元の公立勢が皆目甲子園に出られなくなったとしたら、本来の高校野球の在り方が失われてきたと言うことになる。かつては地方の高校から都会の強豪校へ野球がしたいがため留学したというのがあったが、今はそれが全国へ広がってしまった。だから何処の代表かなんてほとんど意味がなくなってしまった。昨今、よく言われる熊本の秀岳館高校の監督が元・松下電器の監督で、その後、全国的な強豪で知られる枚方ボーイズで選手を育成していた。そして枚方ボーイズから選手を大勢連れて行き、秀岳館高校に入学させた。したがって突然、秀岳館が強くなったというのは偶然ではないのだ。こういった例が全国各地にはある現象だ。だから昔のような高校野球とは意見合いは違っている。
ところで野球の強い大阪であるが、けして昔から強かったという訳ではない。大阪が強くなったのは戦後のことであろう。それもボーイズリーグ(リトルリーグとは異なる)を始めてからのことである。戦前も浪華商業の優勝はあるが、近畿でも大阪より兵庫、京都、和歌山の方が圧倒的に野球は強かった。さらに突き詰めて言うならば大正から昭和の始めに強かった県は限られていた。春夏の当時の中等野球で強かったのは愛知、岐阜の東海勢。京都、兵庫、和歌山の近畿。香川、愛媛の北四国。そして広島。この辺りの学校ばかりが優勝していたというのが現実で、関東に至っては慶応普通部が優勝したのが一度あるだけであった。つまり静岡、長野から広島にかけての太平洋側及び瀬戸内海側の学校しか優勝しなかったのである。
それが戦後になり小倉高校が2連覇し九州に初めて優勝旗が渡った。さらに湘南高校が初めて昭和24年・神奈川に優勝をもたらし時代は変わっていった。でも当時は文武両道の学校が強く、飽くまでも教育の一環と言った印象はあったのだろう。それがだんだんとマスメディアが高校野球を採り上げるようになり、私学は生徒を集める手段として甲子園に出ることにより学校の知名度が上がることを必然とした。まあ進学実績を上げるかスポーツで有名にするかが手段として手っ取り早かったのだろう。こうして全国から有力な選手を集める私学が増えて行き、それが各地に広がっていったというのが今の有様である。
さて大阪決戦となった今回の選抜であるが、なんでこんなことになったかというと2強時代になってしまったからであろう。つまり大阪桐蔭か履正社に良い選手が集まりやすくなった。その結果、かつて私学7強(浪商、明星、PL、大鉄、北陽、興国、近大附属、上宮は時代が遅くて入らない)と言われた時代があった大阪であるが、この頃は何処が出て来るか判らなくて今ほど選手が集中せずそこそこ分散していたものだ。それが良い選手が2校に絞られるようになり、この2校に入れなくなった大阪の野球少年達は遠方の強豪校へ分散していったというのが、より大阪の2強化を進めてしまい、以前より2校が強くなってしまったのだが、ただ面白くなくなったとも思える。また大阪の2強化は東京化、神奈川化したともいえる。東京も神奈川も最近は2校以外あまり出なくなってしまった。かつて大阪の良さは強豪が多い群雄割拠だったのに2強に絞られてしまうと全くもってつまらない。今後、しばらくはこの状況続くのかもしれないが、こうなるとますます小生は高校野球から興味が薄れてしまう。それとこれからは何処の県でも選手を他県から集めた強豪私学しか甲子園に出てこれなくなるかも知れない。もう公立高校と私立高校は別で大会を開催しないといけないのではないかとさえ思ってしまう。
さて、最後になるが大阪勢の決勝戦が行われる一方で、かつて高校野球の代名詞的強さを誇ったPL学園の野球部廃部が決まったらしい。もうPLの復活はないかもしれない。選手を全国から集めて強豪にのし上がる先鞭をつけた学校がPLだが、今や全国の強豪が昔のPLよりも露骨な選手集めのようなことをやっている。もう部活の延長で野球をやり甲子園で勝ち抜くことは至難の業になってしまったようだ。仕方がないと言えばそれまでだが、なんだか寂しいね。
今年の選抜大会の決勝はご存じの通り大阪の強豪2校が戦う大阪決戦となった。結果はともあれ何れこのようなことが近いうちに起こりうるだろうと小生は思っていた。それは大阪という野球盛んな地域の強豪校が2校出ていたことと、最近は強豪校の多い大阪の中でもこの2校が他を圧していた。つまり素質のある選手が集まりやすい環境にあるということ。そして今年の選抜のような決勝戦になってしまった。でも今まで大阪勢2校が決勝に残らなかった方が不思議なくらいだ。過去にはベスト4に大阪の学校が2校残った例は1979年(浪商、PL)、1981年(PL、上宮)、1990年(近大附属、北陽)、1998年(関大一、PL)と4度あったぐらいだ。だが何れかの学校が準決勝で敗れて大阪決戦にならなかっただけだ。だから別に驚かない。そして5回目にしてようやく大阪同士が決勝に残ったということだろう。ただ過去に選抜では愛知県同士(2回)、京都府同士、東京都同士の決勝戦があったのである。ただ最近は野球レベルの高い大阪で大阪勢(兵庫も含めて)の成績が振るわないと言われていた時期がある。1990年代後半から10年間は低迷していたのである。何故なら大阪の素質のある中学生が遠方の県へ数100人も野球留学するため大阪の学校が空洞化して弱くなってしまったと言われたのである。一因として大阪に野球強豪校が多かったがため、とてもじゃないが甲子園に出られないと思ったのか遠方の県へ野球留学する選手が大変な数になったと言われる。
ごく一部の例を出すとダルビッシュ(東北高校)、田中将大(駒大苫小牧)、坂本(光星学院)、内海(敦賀気比)、筒香(横浜高校)、北条(光星学院)等は当然、大阪か兵庫か京都辺りの強豪校に普通なら入学していただろう。それが地元の強豪を選ばず遠方の県へ行き実績を残した。結果として野球弱小県のレベルが上がったとも言える。それはそれでいいが、結局はそれがより野球留学を助長させ、地元の公立勢が皆目甲子園に出られなくなったとしたら、本来の高校野球の在り方が失われてきたと言うことになる。かつては地方の高校から都会の強豪校へ野球がしたいがため留学したというのがあったが、今はそれが全国へ広がってしまった。だから何処の代表かなんてほとんど意味がなくなってしまった。昨今、よく言われる熊本の秀岳館高校の監督が元・松下電器の監督で、その後、全国的な強豪で知られる枚方ボーイズで選手を育成していた。そして枚方ボーイズから選手を大勢連れて行き、秀岳館高校に入学させた。したがって突然、秀岳館が強くなったというのは偶然ではないのだ。こういった例が全国各地にはある現象だ。だから昔のような高校野球とは意見合いは違っている。
ところで野球の強い大阪であるが、けして昔から強かったという訳ではない。大阪が強くなったのは戦後のことであろう。それもボーイズリーグ(リトルリーグとは異なる)を始めてからのことである。戦前も浪華商業の優勝はあるが、近畿でも大阪より兵庫、京都、和歌山の方が圧倒的に野球は強かった。さらに突き詰めて言うならば大正から昭和の始めに強かった県は限られていた。春夏の当時の中等野球で強かったのは愛知、岐阜の東海勢。京都、兵庫、和歌山の近畿。香川、愛媛の北四国。そして広島。この辺りの学校ばかりが優勝していたというのが現実で、関東に至っては慶応普通部が優勝したのが一度あるだけであった。つまり静岡、長野から広島にかけての太平洋側及び瀬戸内海側の学校しか優勝しなかったのである。
それが戦後になり小倉高校が2連覇し九州に初めて優勝旗が渡った。さらに湘南高校が初めて昭和24年・神奈川に優勝をもたらし時代は変わっていった。でも当時は文武両道の学校が強く、飽くまでも教育の一環と言った印象はあったのだろう。それがだんだんとマスメディアが高校野球を採り上げるようになり、私学は生徒を集める手段として甲子園に出ることにより学校の知名度が上がることを必然とした。まあ進学実績を上げるかスポーツで有名にするかが手段として手っ取り早かったのだろう。こうして全国から有力な選手を集める私学が増えて行き、それが各地に広がっていったというのが今の有様である。
さて大阪決戦となった今回の選抜であるが、なんでこんなことになったかというと2強時代になってしまったからであろう。つまり大阪桐蔭か履正社に良い選手が集まりやすくなった。その結果、かつて私学7強(浪商、明星、PL、大鉄、北陽、興国、近大附属、上宮は時代が遅くて入らない)と言われた時代があった大阪であるが、この頃は何処が出て来るか判らなくて今ほど選手が集中せずそこそこ分散していたものだ。それが良い選手が2校に絞られるようになり、この2校に入れなくなった大阪の野球少年達は遠方の強豪校へ分散していったというのが、より大阪の2強化を進めてしまい、以前より2校が強くなってしまったのだが、ただ面白くなくなったとも思える。また大阪の2強化は東京化、神奈川化したともいえる。東京も神奈川も最近は2校以外あまり出なくなってしまった。かつて大阪の良さは強豪が多い群雄割拠だったのに2強に絞られてしまうと全くもってつまらない。今後、しばらくはこの状況続くのかもしれないが、こうなるとますます小生は高校野球から興味が薄れてしまう。それとこれからは何処の県でも選手を他県から集めた強豪私学しか甲子園に出てこれなくなるかも知れない。もう公立高校と私立高校は別で大会を開催しないといけないのではないかとさえ思ってしまう。
さて、最後になるが大阪勢の決勝戦が行われる一方で、かつて高校野球の代名詞的強さを誇ったPL学園の野球部廃部が決まったらしい。もうPLの復活はないかもしれない。選手を全国から集めて強豪にのし上がる先鞭をつけた学校がPLだが、今や全国の強豪が昔のPLよりも露骨な選手集めのようなことをやっている。もう部活の延長で野球をやり甲子園で勝ち抜くことは至難の業になってしまったようだ。仕方がないと言えばそれまでだが、なんだか寂しいね。
2016.09.25 (Sun)
相撲の話題
最近は相撲なんてほとんど観ないし興味も無い。最もプロ野球もサッカーも同様に観なくなってしまったのだが、今回は少し相撲のことでも書いてみるとする。それというのも大関の豪栄道が秋場所で優勝したからである。そもそも最近の大相撲はモンゴル勢にすっかり席巻され日本勢が優勝することすら珍しい。横綱3人は全てモンゴル人だし日本人横綱は若乃花から出てない。この先、日本人横綱が出るのは何時のことやらとも囁かれる始末である。つまり日本人の意識が変わったのか、相撲界にそれだけ日本人の人材が集まらなくなったのか理由はよく判らないが、日本人力士が弱くなったのは確かだ。理由の一つは子供の少子化が上げられるだろうが、それ以前にあの相撲界独自のシステムに最近の子供はついて行けなくなったのかもしれない。その点、モンゴルを始め外国人は後がないという覚悟で相撲界に入ってきている。つまりハングリー精神が違うのだ。日本は豊かになった分、相撲に弱くなったといえるかもしれない。また運動神経のいい子は野球やサッカーに流れやすくなったというのもあるが、スポーツの多様化というのもあり、少子化の中で体格、体力に優れた人材を相撲界に集めるのも難しくなったというのはあるだろう。それで日本人力士・豪栄道が優勝した。
ただ豪栄道が優勝したから記事にしたというのでもなく、何故、今回記事にしたかというのは大阪出身力士の優勝が実に86年ぶりと言うから記事にしたのである。そもそも大阪人が相撲ってイメージが浮かばない。昔から商人が多い町でおしゃべりは得意だが、きつく辛くて忍耐のいる相撲に適応力が無いといったイメージが先行しているからだろう。でも野球界には多くの人材を輩出している大阪府。けして運動神経が鈍いというのでもない。ただ相撲というと少し違ってくる。それはけして大阪が相撲不毛の地というのでもないが、育つ過程で繋がっていかないのである。つまり現在、大阪で相撲部のある高校がほとんどないっていう現状。野球部やサッカー部、ラグビー部のある高校は大阪に数多い。でも相撲部のある高校がほとんどない(2、3校あったんだが)。今回、優勝した豪栄道は大阪の寝屋川出身だが、高校は埼玉の高校。相撲を求めて留学したのである。強豪校が多すぎて甲子園に出られないから甲子園に出やすい県へ野球留学する大阪の野球少年が多いのとは逆のパターンである。だから相撲が強くても高校で相撲部がないところが多く、中学で相撲をやめてしまう子が多い。従って大阪出身の相撲力士自体が少ないというのが今の姿だったようだ。
さて話は戻るが、大阪出身力士の優勝が86年振り。では86年前は誰が優勝したかというと1930年の山錦であって、このときは平幕優勝だった。何とそれ以来のことで、如何に大阪と相撲が結びつかないかという一因になっていた。相撲はどうも北海道、東北、四国、九州が強いイメージがあるし、東京だって栃錦が出ているし、若貴兄弟もそうだ。最も東京は両国があるから相撲人気もある。でも大正時代までは大阪相撲(タニマチという語源は大阪相撲から来ている)という興業があって、実際に国技館が大阪にもあったから相撲人気があったのだが、昭和になり東京相撲に統一され大阪相撲という協会はなくなってしまい相撲と大阪の縁は段々と薄くなってしまったような気がする。それ以降、相撲取りになる人材も他のスポーツへと流れていくのかもしれない。
でも人口が多い大阪府だから豪栄道みたいな力士が出現したのかもしれない。豪栄道は大関だが、大阪出身の大関というと前の山以来である。大阪出身の横綱は大正時代の大錦がいる。本来、相撲の弱い土地柄ではないのだ。近年、相撲取りになる者がいないと言うだけの話である。それに比べると京都こそ相撲に似つかわしくない土地柄だ。幕内に上がってきた力士なんて大文字、大碇ぐらいしか小生は知らない。優勝力士となると大阪相撲時代の桂川が1921年に優勝してから途絶えている。京都府は京都市周辺以外はほとんど田舎といってもいいぐらいで、刺激的な娯楽もなく相撲を取る下地がぐらいありそうだが大阪と違って人口が少なく人材も少なく、土性骨がないというか、公家の伝統が未だに生き続けている。優雅な振る舞いは行っても、褌一丁で取り組む相撲こそ不釣り合いだと思っているのかもしれない。
ただ豪栄道が優勝したから記事にしたというのでもなく、何故、今回記事にしたかというのは大阪出身力士の優勝が実に86年ぶりと言うから記事にしたのである。そもそも大阪人が相撲ってイメージが浮かばない。昔から商人が多い町でおしゃべりは得意だが、きつく辛くて忍耐のいる相撲に適応力が無いといったイメージが先行しているからだろう。でも野球界には多くの人材を輩出している大阪府。けして運動神経が鈍いというのでもない。ただ相撲というと少し違ってくる。それはけして大阪が相撲不毛の地というのでもないが、育つ過程で繋がっていかないのである。つまり現在、大阪で相撲部のある高校がほとんどないっていう現状。野球部やサッカー部、ラグビー部のある高校は大阪に数多い。でも相撲部のある高校がほとんどない(2、3校あったんだが)。今回、優勝した豪栄道は大阪の寝屋川出身だが、高校は埼玉の高校。相撲を求めて留学したのである。強豪校が多すぎて甲子園に出られないから甲子園に出やすい県へ野球留学する大阪の野球少年が多いのとは逆のパターンである。だから相撲が強くても高校で相撲部がないところが多く、中学で相撲をやめてしまう子が多い。従って大阪出身の相撲力士自体が少ないというのが今の姿だったようだ。
さて話は戻るが、大阪出身力士の優勝が86年振り。では86年前は誰が優勝したかというと1930年の山錦であって、このときは平幕優勝だった。何とそれ以来のことで、如何に大阪と相撲が結びつかないかという一因になっていた。相撲はどうも北海道、東北、四国、九州が強いイメージがあるし、東京だって栃錦が出ているし、若貴兄弟もそうだ。最も東京は両国があるから相撲人気もある。でも大正時代までは大阪相撲(タニマチという語源は大阪相撲から来ている)という興業があって、実際に国技館が大阪にもあったから相撲人気があったのだが、昭和になり東京相撲に統一され大阪相撲という協会はなくなってしまい相撲と大阪の縁は段々と薄くなってしまったような気がする。それ以降、相撲取りになる人材も他のスポーツへと流れていくのかもしれない。
でも人口が多い大阪府だから豪栄道みたいな力士が出現したのかもしれない。豪栄道は大関だが、大阪出身の大関というと前の山以来である。大阪出身の横綱は大正時代の大錦がいる。本来、相撲の弱い土地柄ではないのだ。近年、相撲取りになる者がいないと言うだけの話である。それに比べると京都こそ相撲に似つかわしくない土地柄だ。幕内に上がってきた力士なんて大文字、大碇ぐらいしか小生は知らない。優勝力士となると大阪相撲時代の桂川が1921年に優勝してから途絶えている。京都府は京都市周辺以外はほとんど田舎といってもいいぐらいで、刺激的な娯楽もなく相撲を取る下地がぐらいありそうだが大阪と違って人口が少なく人材も少なく、土性骨がないというか、公家の伝統が未だに生き続けている。優雅な振る舞いは行っても、褌一丁で取り組む相撲こそ不釣り合いだと思っているのかもしれない。
2016.08.21 (Sun)
陸上男子400mリレー
オリンピック中継をほとんど観てないと言っているが陸上と水泳だけは観る。特に陸上は観る。小生は日本人が出てくるか出てこないか関係なく観ている。ほとんどの人は日本人が活躍できる種目を中心に観るだろうし、テレビもそのような中継をする。なので変わったオリンピックの観戦方法かもしれない。でも正直、オリンピックの中にはどうでもいい競技が増えすぎて、なんでこんなのがオリンピックの競技に入ったの(失礼)と言えるような競技もある。まあ事情は色々とあるが、オリンピックで最大のメイン競技と言えば誰がどう考えても陸上だろ。陸上競技というのは人間が生きていくのに必要な歩く、走る、跳ぶ、投げるという基本的な動作が競技になっている。つまり世界中の人間が行っている生活の延長線上にある中から生まれた競技と言えるだろう。だから競技人口は1番多く、身体能力が1番問われる競技と言えるだろう。あともう一つは水泳で、これは水の上の陸上競技みたいなもの。要するにオリンピックなんて陸上、水泳以外は人類の歴史上、発展する過程において生まれてきた競技といえるであろう。
つまり、ただ速く走る。遠くに跳ぶ。高く跳ぶ。遠くへ投げる。この単純な動作の中で極限に臨んでいる人類の姿を観るのが好きなのである。でも陸上だけは小手先の器用さはつうようしない。身体能力が最も必要な競技である。それだけに筋力、体格といったものがどうしても劣る日本人は活躍できないでいる。以前は持久力が必要なマラソンがある程度の成績が残せたのだが、これもアフリカの高地民族(エチオピア、ケニヤ)が本格的に競技に参加するようになり、もう日本人にはほど遠いレベルにまで達してしまった。するともう日本人が陸上でメダルを獲るなんて絶対に無理と思われていた。
さて、そんな中で昨日の午前、土曜日なので家にいて陸上を観ていた。すると日本の男子が陸上の400mリレーでなんと銀メダル。これには驚いた。一昨日、予選2位で決勝に進出していたのでそこそこいけるだろうとは思っていたが、ジャマイカはウサイン・ボルトが抜けていたし、アメリカも決勝では最強メンバーを揃えてくるだろうしと考えながら観ていた。するとバトンパスが見事で、第三走者・桐生からアンカー・ケンブリッジにバトンが渡ったときはトップだった。最後はジャマイカがウサイン・ボルトだったので引き離されたが、アメリカ、カナダの追撃を押さえて2位でゴールイン。これには観ていて驚愕、驚喜、もう形容のしようがない。日本の陸上史上画期的な出来事であるといってもいい。日本は同種目で北京オリンピックでも銅メダルを獲っているが、あのときはアメリカを始め数カ国が失格となり日本が繰り上がって銅メダルに輝いた。謂わば棚からぼた餅で貰ったものなので、今回のように堂々と2位でゴールインして銀に輝いたのとは価値が違う。それも37秒60と記録も立派。ケチの付けようがない。日本が陸上のトラック競技で銀メダルを獲ったのは、なんと1928年のアムステルダム・オリンピックの人見絹枝以来史上2回目で88年ぶりのことである。このことだけでいかに凄いことかと言うことが判明するが、当時とは短距離に向いている速筋に優れた黒人の参加が比べられないほど増えている中での銀メダル。だから賞賛されて良いのである。それも今回の日本チームは9秒台の選手がいない。100mのファイナリストもいないのに銀メダル。普通、10秒00×4で40秒。なのに日本チームは37秒60。いかにバトンパスの時に減速せずにバトンをミスなく渡せるか。これが全てだっただろう。アメリカなどは何時もバトンミスをして失格になったり、順位を落としたりしているが、チームプレーが悪く個々の能力に頼りすぎているのだろう。要するに陸上の短距離というのは黒人の壁が厚すぎて、日本人の持って生まれた身体能力ではとても及ばないが、そこをバトンパスという技術でカバーして見事に銀メダルを獲得した。小さくて筋力で劣っても工夫で克服したという典型な例であろう。久しぶりに陸上を観ていて良い気分になった。
この話とは関係ないけど近所にケンブリッジ飛鳥の中学の先輩だという人がいて(ケンブリッジ飛鳥は大阪の淀川中学で陸上を始めた)、自慢していたが、ただ先輩というだけだろ。いったい何10年先輩なのだ。
ところで陸上競技を観ながら記事を書いていたら、今、男子5000mでイギリスのファラーが2大会連続で5000,10000の長距離2冠を達成した。これはモントリオールの時のラッセ・ビレン(フィンランド)以来のことであるが、ラッセ・ビレンという懐かしい名前を久々に聞いたな。顎髭を生やしモントリオールの時は初めてのマラソンにも出て5位になった選手である。いやはや今大会は色々とエピソードが多い。
モントリオール・オリンピック5000m ラッセ・ビレン まだアフリカ勢が活躍する前だった
つまり、ただ速く走る。遠くに跳ぶ。高く跳ぶ。遠くへ投げる。この単純な動作の中で極限に臨んでいる人類の姿を観るのが好きなのである。でも陸上だけは小手先の器用さはつうようしない。身体能力が最も必要な競技である。それだけに筋力、体格といったものがどうしても劣る日本人は活躍できないでいる。以前は持久力が必要なマラソンがある程度の成績が残せたのだが、これもアフリカの高地民族(エチオピア、ケニヤ)が本格的に競技に参加するようになり、もう日本人にはほど遠いレベルにまで達してしまった。するともう日本人が陸上でメダルを獲るなんて絶対に無理と思われていた。
さて、そんな中で昨日の午前、土曜日なので家にいて陸上を観ていた。すると日本の男子が陸上の400mリレーでなんと銀メダル。これには驚いた。一昨日、予選2位で決勝に進出していたのでそこそこいけるだろうとは思っていたが、ジャマイカはウサイン・ボルトが抜けていたし、アメリカも決勝では最強メンバーを揃えてくるだろうしと考えながら観ていた。するとバトンパスが見事で、第三走者・桐生からアンカー・ケンブリッジにバトンが渡ったときはトップだった。最後はジャマイカがウサイン・ボルトだったので引き離されたが、アメリカ、カナダの追撃を押さえて2位でゴールイン。これには観ていて驚愕、驚喜、もう形容のしようがない。日本の陸上史上画期的な出来事であるといってもいい。日本は同種目で北京オリンピックでも銅メダルを獲っているが、あのときはアメリカを始め数カ国が失格となり日本が繰り上がって銅メダルに輝いた。謂わば棚からぼた餅で貰ったものなので、今回のように堂々と2位でゴールインして銀に輝いたのとは価値が違う。それも37秒60と記録も立派。ケチの付けようがない。日本が陸上のトラック競技で銀メダルを獲ったのは、なんと1928年のアムステルダム・オリンピックの人見絹枝以来史上2回目で88年ぶりのことである。このことだけでいかに凄いことかと言うことが判明するが、当時とは短距離に向いている速筋に優れた黒人の参加が比べられないほど増えている中での銀メダル。だから賞賛されて良いのである。それも今回の日本チームは9秒台の選手がいない。100mのファイナリストもいないのに銀メダル。普通、10秒00×4で40秒。なのに日本チームは37秒60。いかにバトンパスの時に減速せずにバトンをミスなく渡せるか。これが全てだっただろう。アメリカなどは何時もバトンミスをして失格になったり、順位を落としたりしているが、チームプレーが悪く個々の能力に頼りすぎているのだろう。要するに陸上の短距離というのは黒人の壁が厚すぎて、日本人の持って生まれた身体能力ではとても及ばないが、そこをバトンパスという技術でカバーして見事に銀メダルを獲得した。小さくて筋力で劣っても工夫で克服したという典型な例であろう。久しぶりに陸上を観ていて良い気分になった。
この話とは関係ないけど近所にケンブリッジ飛鳥の中学の先輩だという人がいて(ケンブリッジ飛鳥は大阪の淀川中学で陸上を始めた)、自慢していたが、ただ先輩というだけだろ。いったい何10年先輩なのだ。
ところで陸上競技を観ながら記事を書いていたら、今、男子5000mでイギリスのファラーが2大会連続で5000,10000の長距離2冠を達成した。これはモントリオールの時のラッセ・ビレン(フィンランド)以来のことであるが、ラッセ・ビレンという懐かしい名前を久々に聞いたな。顎髭を生やしモントリオールの時は初めてのマラソンにも出て5位になった選手である。いやはや今大会は色々とエピソードが多い。
モントリオール・オリンピック5000m ラッセ・ビレン まだアフリカ勢が活躍する前だった