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2017.11.18 (Sat)

ハイドンの交響曲第45番『告別』を聴く

 クラシック音楽の記事なんて最近書いてない。というよりもこのPCがおかしくなって写真が載せられなくなったからアルバムを聴いたところで何のアルバムか判らないから、最近は音楽自体をあまり聴いていないと言うよりも記事を書いてない。もうこれからは写真なしで記事にする。今日はハイドンの告別である。
 みんな知っていると思うがハイドンは交響曲の父と言われる。それは現在の交響曲の形を最初に確立したと言われる作曲家で生涯に108もの交響曲を書いたからである。でも小生はその全てを聴いたわけではない。これはもちろんモーツァルトもそうであるが、現在のような交響曲がクラシックのメインで演奏され大曲化されたのはべートーヴェン以降だろう。したがってハイドンの交響曲って短い。長くて30分ぐらいじゃないかな。マーラーやブルックナーのように長くはない。時代が時代だからである。ハイドンはベートーヴェンの師匠格。1732年生まれで1809年没。つまり古典派に属する。彼の24年後にモーツァルトが生まれ38年後にベートーヴェンが生まれていると言えば音楽的に言ってどういった時代の人か判るであろう。さらに付け加えるならハイドンよりさかのぼること47年前にバッハとヘンデルが生まれている。つまりハイドンが生まれたときにはまだバッハ、へンデルは生きていたのである。いわばバロック音楽から古典派音楽へ移行する頃に現れた大作曲家と言えよう。もっともバロック音楽とか古典派音楽とかロマン派音楽とかは後世の人が言い出したことなので彼等には関係がない。ただこれだけ本格的に交響曲を書き出したのはハイドンが最初の人だろう。
 さてこの交響曲45番『告別』というのは1772年に書かれている。ハイドンが40歳の時である。ハイドンは当時エステルハージ公―に仕えていた。そしてノイジードラー湖畔のエステルハージー公の別荘に長いこと居座っていた。もちろん彼が率いる楽団員もである。ハイドンを始め楽団員は家族の元を離れこの別荘に長いこといたせいで何時しか帰郷したいと思うようになっていたが誰も言い出せない。そこでハイドンは『告別』を書いたという。そしてエステルハ-ジー公ニコラスの前でこの曲を披露したのである。するとニコラスはみんなか帰ってよろしいといったという逸話が残っている。
 嘘のような話だが、ニコラス公がハイドン始め団員の心境を察したのだろう。そういた仕組みがこの曲にあったのだ。まず調子がおかしい。この嬰ヘ長調というのは数多いハイドンの交響曲の中でこの曲だけである。そしてそして4楽章ある終楽章が笑わせてくれる。プレストで始まるのだがコーダに入り雰囲気が一気に変わる。同じ楽章かと思ってしまう。スコアを見るとまずオーボエの半分とホルンinEが消える。次にバスーンが消える。そして残りのオーボエも消える。ついにはホルンも全員消えて弦楽器だだけになる。
 弦楽器だけになるがまずコントラバスが消え、次にチョロが消える。残りは第一、第二、第三、第四のヴァイオリンとヴィオラだけ。すると第三、第四のヴァイオリンも消える。まもなくヴィオラも消え、最後の14小節は第一、第二ヴァイオリンだけが弾いている。という何とも奇妙な曲である。当時は電灯がなく団員の楽譜の上に蝋燭が灯っていたので役目の終った団員は蝋燭を消していくのである。すると舞台はだんだんと暗くなる。ニコラス公はそれを悟ったのだろう。何とも風変わりな曲である。もっともハイドンの遊び心がこのような曲を書かせたのだろう。だからハイドンの曲には標題が付いているのが多い。標題を付けやすい曲が多かったのだろう。朝、昼、夜、哲学者、悲しみ、受難、帝国、校長先生、マリアテレジア、驚愕、奇蹟、時計、太鼓連打、軍隊、ロンドン、冗談、鳥、夢、蛙、ひばり、騎士、皇帝、日の出・・・・もちろん標題の付いてない曲の方が遙かに多いが、これだけ標題が曲に付いているってハイドンぐらいである。つまり協奏曲第○○番イ短調作品○○番って言われるより標題で言われた方が曲は覚えやすいと言うことだ。これがクラシック音楽の欠点でもある。ただこれだけ標題音楽が多いのに、ハイドン作曲の楽曲が多すぎて小生はその半分も聴いたことがない。


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