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2010.05.30 (Sun)

第77回日本ダービー

 今日、東京競馬場で競馬の祭典、第77回日本ダービー(東京優駿)が行なわれた。今年は皐月賞馬のヴィクトワールピサを始め、青葉賞で圧勝し4戦4勝のペルーサ、超良血ルーラーシップ、同じく良血トゥザグローリー、2歳王者ローズキングダム、皐月賞2着のヒムノダムール、そしてNHKマイルに勝ったダノンシャンティと例年になく強豪が揃ったといわれハイレベルの戦いが期待されるといった声が多く、期待を抱かせたのだが・・・・・・。まずダオンシャンティが戦わずして戦線を離脱してしまった。これでまず興味が半減。あとはヴィクトワールピサとペルーサの一騎打ちかとも言う人がいて、人気の面でも単勝支持率ヴィクトワールピサが2.1倍、ペルーサが2.6倍と拮抗。3番人気のヒルノダムールが8.8倍だから人気馬2頭のマッチレースかという思惑が働いたのではないかと思う。でも過去、なかなか思うようにいかなかったのがダービーというレースである。少なくとも最近のダービーの中では好メンバーが揃ったという感はある。でもヴィクトワールピサはジリ脚、ペルーサは強豪との対戦がなく経験不足ということで荒れる要素も含まれているレースではあった。そういった雰囲気の中で今年のダービーはスタートが切られた。

 ゲートが開くや何とペルーサが出遅れた。これは痛い。先行争いは激しくなくアリゼオが先頭に出る。1馬身あとにシャイン、3馬身差でコスモファントム、さらにトゥザグローリー、その直後のインコースにヴィクトワールピサがいて、その外側にゲシュタルト、そしてルーラーシップ、メイショウウズシオ、ローズキングダム、エイシンフラッシュと続き、ヒルノダムール、ペルーサ、サンディエゴシチー、リルダヴァル、レーヴドリアン、ハンソデバンド、トーセンアレスといった順で展開。スタートからのハロンタイムは12.6---11.3---12.2---12.7---12.8---13.5で、1000m通過は1分01秒6。これはスロ-ペースだ。テレビ馬のいない昨今のダービーの中でもスローぺースだ。早くも馬群は3コーナーから4コーナー、馬群は固まって固まって順位に変動がなく、いよいよ直線コースに入る。先頭はアリゼオ、2番手トゥザグローリー、あと400m、ヴィクトワールピサはインコースの5、6番手の位置。前に壁がある。ペルーサはまだ外の中団。ここでトゥザグローリー先頭に立った。ゲシュタルト2番手。その外からローズキングダム、ペルーサはそのうしろ。あと200m、先頭はローズキングダムか、その内にエイシンフラッシュ。ヴィクトワールピサは4番手から5番手、ペルーサはまだこない。ローズキングダムの内からエイシンフラッシュ。エイシンフラッシュ、エイシンフラッシュ先頭。ローズキングダムも頑張る。エイシンフラッシュ出た。2番手にローズキングダム、ヴィクトワールピサが内から3番手にあがる。エイシンフラッシュがリード、ローズキングダム2番手。エイシンフラッシュ1着でゴールイン。

 1着エイシンフラッシュ 2分26秒9、2着ローズキングダム クビ、3着ヴィクトワールピサ 1馬身3/4、4着ゲシュタルト クビ、5着ルーラーシップ アタマ。

 ため息の出るようなダービーだった。超スローペースで推移したからレースの上がり時計が3Fで33秒4。これだと後続馬は持ち味が出せない。エイシンフラッシュの上がり時計は32秒7。これはサラブレッドの極限に近いかもしれない。1ハロン(200m)11秒0で600m駆けても33秒0。まるでスプリントレースのようだ。それも1800mまではハロンタイムが12秒台。結局、最後の600mの競馬になってしまった。これといった逃げ馬がおらず、超スローペースが延々と続き、最後の直線だけのレースになってしまったから、これで勝負付けはすんだとは思えない。これからも3歳馬の戦いが続く。

最後にエイシンフラッシュの血統だが父キングスベスト、母ムーンレディ。キングズベストは父がキングマンボでミスタープロスペクター系。キングズベスト自身は2000年の英国2000ギニーに勝ったものの英国ダービーは11着に大敗。基本的にはマイラーだろう。母ムーンレディの父はジャパンCにも参戦したプラティニ。こちらはドイツの血脈が流れている。こういった血統背景から見てエイシンフラッシュもマイルから2000mがベストの距離だと思われる。でも今日のようなスタミナをロスする競馬にならず、上がりだけのスプリント勝負だから鋭い末脚を発揮して、見事ダービー馬の栄誉に輝いた。でも今後はどの路線に進むのだろうか。
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2010.05.29 (Sat)

当麻寺に行く

 大和盆地は当麻寺に行ってきた。当麻寺?・・・・といっても知名度がないから、印象が湧かないかもしれないなあ。当麻寺(たいまでら)は奈良県葛城市にある古寺である。といっても奈良県にある寺は、みな古寺ではあるけれど、あまり聞き慣れない寺ではあるが、知る人ぞ知る名刹である。知らない人はとうまでらと読んでしまうしだろうし、東大寺や法隆寺のように観光客がゾロゾロと訪れるお寺でもないから、当麻寺といっても関西在住の人でさえ知らない人が多い。しょうがないといえばしょうがないが・・・・・・。

 当麻寺というのは奈良県と大阪府に跨る死火山・二上山の東麓に位置するお寺である。以前は奈良県北葛城郡当麻町といっていたが、現在は周辺の町村と合併し葛城市に属する。二上山はラクダの瘤のように2つの山がくっついたような形をしていて、死火山と書いたが最後の噴火が約1400万年前とされ、今では火山としての扱いはない。だから関西に火山があったことも知らない人が大半である。高さは500m程度で金剛山地の北端にあたる。この二上山は奈良盆地東部の三輪山(神体山)と相対する位置にあり、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの頂上の間に沈むことから極楽浄土の入り口とされ、死者の魂が赴く先とされるなど古代の人には特別な山なのであった。また、二上山の南には竹内街道があって、河内と大和を貫く重要な交通路であり、大陸から渡来した人や物が難波の津に上陸し、都のあった大和盆地へ運ぶためのルートでもあったのだ。

 これだけ書けば当麻寺のある二上山付近は日本の歴史において、重要な拠点だったということがいえる。こうして当麻寺は建てられたのである。ただ残念ながら、当麻寺が何時、創建されたのか明確ではなく、地元の豪族・当麻氏の氏寺として7世紀後半に創建されたのではと言われるが推測の域を出ない。文献によると『建久御巡礼記』(鎌倉時代初期)、聖徳太子の異母弟の麻呂古王が弥勒仏を本尊とする禅林寺として建て、その孫の当麻真人国見が681年に現在地に移したものであるらしい。また、『上宮太子拾遺記』(1237年)によると、推古天皇の頃、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建したもので、692年に現在地に移築したともされる。まあ、それだけ古くて由緒ある寺であることを認識してもらいたいと思う。当麻寺は当初、当麻氏の氏寺として建てられたと書いたが、後の世になって中将姫伝説、当麻曼荼羅のお寺として知られるようになるが、詳しい話は省くとして、何かと興味深いお話が満載されている古寺である。

 ところで当麻寺は独自の伽藍配置であるが、今とは違っていて創建当初の伽藍配置は判りにくい。今は南に門がなく、東門である仁王門から入る。境内は南を正面とする金堂、講堂、東を正面とする本堂が接するように建っている。さらに、これらの南方には2つの三重塔が建ち、金堂と東塔、西塔との間には中之坊、護念院が後年に建てられたため、創建当初の伽藍配置が判りにくくなったといわれる。最も創建の頃の面影はあるのかといわれればよく判らないが、国宝である曼荼羅堂(本堂)、近世以前に建てられた東西両塔(共に国宝)が残る日本唯一のお寺といっていいだろう。


当麻寺の仁王門である。このもんは東側にあり、奈良盆地の古寺は南に門があるのが通例だから、後年に建てられたものとされる。
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 当麻寺の伽藍配置は正面の奥に本堂である曼荼羅堂があり、左に金堂、右に講堂がある。
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 国宝である曼荼羅堂(本堂)である。
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 こちらは東の三重塔。
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 こちらは西の三重塔。東西共に国宝で、様式は少し異なる。高さは約25m。
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 日本最古の梵鐘とされる。もちろん国宝。
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 当麻寺を離れた東の方角から拝むとこのように木々の合間から、東西の両塔が見極められる。
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 近鉄当麻寺駅から当麻寺まで行く道中に当麻蹴速(たいまのけはや)の塚がある。当麻蹴速とは、垂仁天皇の頃、この地である当麻に住む強力でならした男であるが、この当麻蹴速が強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたという。これに手を挙げたのが出雲の国の勇士・野見宿禰(のみのすくね)であった。こうして2人は穴師巫兵主神社(奈良県桜井市)で対戦した。ただしこの相撲は今の相撲とはルールがだいぶ違い角力というもので蹴ってもよかった。そして、いざ勝負は互いに蹴りあったあと、当麻蹴速は野見宿禰に蹴り倒され、腰を踏み折られて死んだという。こうして当麻蹴速の土地は没収、野見宿禰の土地になったと『日本書記』に記述されているのだが・・・・・。これが日本での相撲の始まりだとされている。
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2010.05.27 (Thu)

レトルト『デミグラスチーズカレー』を食べる

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 今、北朝鮮と韓国との間がきな臭いことになっている。もし切羽詰った北朝鮮が血迷って核爆弾搭載のミサイルを乱発させたりしないだろうかと我が職場の中で不安な面持ちで言う者もいる。ウン、確かに北朝鮮のテポドンだと正確さに欠けるから、もしかして日本の何処かへ落ちてしまう可能性がある。これが1番怖ろしいのだが、日本からも兵隊が送られるのではと心配するのもいる。これに関してはない。日本は法治国家である。法令で定められてないのに、いきなりの徴兵は出来るはずがない。何処やらの独裁者が君臨する国と違い法律を変えない限りは徴兵もありえない。したがって戦争参加なんてこともありえない。

 しかし、北朝鮮のような悪の枢軸国家(誰かが言ったぞ)が近隣にある限り、日本は緊張感が今後も続くことは否めない。それで、こんな時期に食い物のネタというのは笑ってしまうが、またまたレトルトカレーの記事である。

 このレトルト・カレーを食べるシリーズも何回目かな。でもなかなか美味しいカレーに出会わない。まっ、価格が価格だけに無理かもしれないが、レトルト・カレーに500円以上も払う気はないが、かといってそれぐらい払わないと美味しいレトルト・カレーに出会わないかもしれないが、当分の間は安価なレトルト・カレーを食べ続けることにいたします。

 今回、食べたのはエスビー食品が出している『デミグラスチーズカレー』であるが、他のレトルトカレーとどう違うかというと大きくは違わない。つまりカレーの具材よりもソースが特徴ということになるのだろうが、食べた限りは何処かに特徴があったかなというほど判らない。パッケージーにはデミグラスソースベースの味わい深いカレーソースと、とろーりとろけたチーズがマーブル状にまざり合い、旨みとコクの奏でるハーモニーをお楽しみください。と書かれてあるものの他のレトルトカレーと比較してもデミグラスソースが際立っているというのでもない。

 原材料はというと牛肉、チーズ、プルーン、バナナ、リンゴ、ソテー・ド・オニオン、牛脂、豚脂、ビーフエキス、小麦粉、還元水飴、でん粉、ワイン、食塩、チャツネ、カレー粉、トマトペースト、砂糖、トマトケチャップ、ミルクポワペースト、生クリーム、きのこエキス、酵母エキス、香辛料、カラメル、カロチノイド、アミノ酸、乳化剤、酸味料、香料、卵、大豆、鶏肉由来原料・・・・・・入っているものは他のレトルトカレーと多少は違うが、カレーの主成分を作り上げる原材料は何処も似たり寄ったりである。それならデミグラスチーズカレーは何に特徴があったかというと、むしろソースよりも具材にあったような・・・・。肉がとろりとしたソースとまざりあって食べ易い。しかし、これといってインパクトがない。やはりレトルトカレーらしいカレーといえばいいだろうか。店舗で食べるカレーの域には達していない。

 もっともカレーのソースだけではなく、ライスの方が上手く炊けず、ベトベトのご飯にカレーをのせるといくら美味しいカレーソースでも味覚は半減する。やはり炊き方にもよるがカレーと合う米というのがあるはずである。こうなるとマニアックな域に達してしまいレトルトカレーを比較する上での問題外の話になってくる。でもいずれ米の選別から焚き方まで拘って、究極のレトルトカレーを食べてみたいものだ。
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2010.05.25 (Tue)

通り雨・・・

 今朝は雨が上がってからっとした涼しい朝だからと思い一枚上着を着て出て行ったが、昼頃は快晴で気温が上昇。だから建物内は冷房が入っていることに気がつかず随分と涼しいなあと思っていた。それが、一旦、外に出るとむっとするような暖かさを通り越して陽射しが強くて暑かった。でも快晴なので、雨が降るなんて頭の中にはこれっぽっちもなかったが、何と夕方には雨がジャンジャンと降っているではないか・・・・。

 唖然としてしばらく外を眺めていた。よりによって今日は常に鞄の中に入れて持ち歩いている折り畳み傘を持ってこなかった。まさか雨が降るとは思っていなかったのだ。やはり滋賀県である。ここは京阪神とは違う。天気の変わり易いところである。しまったと傘を持ってこなかったことを更改した。それでしばらく待っていたら、雨があがったので急いで帰ろうと急いだことは言うまでもない。空を見上げれば真っ黒な雲が部分的に覆っていて、それが流れているように動いていた。でも西の空は明るいから、京都方面は降ってないだろうと考え帰路を急いだのである。

 どうにか雨に濡れず最寄り駅まで到着。何時ものように混んでいる電車に乗る。すると我が家の近くの最寄り駅に着いて、降りようと電車の扉が開くや駅のホームに足を踏み込んで驚いた。何とこちらも雨が降っていた。でも一つ手前の駅付近は降ってなかったのだ。何てこった。最近の天気はさっぱり先が読めない。

 今年は雨が多く、天候もおかしいということは判っているが、雨の降り方まで予測できない。よく○心と秋の空というが、天気の移り変わりが激しい秋と違って、そろそろ初夏である。入梅はまだだし、それでいてゲリラ的な雨が降る。それも局地豪雨である。僅かな距離しか離れてなくても、かたや晴れていて、かたや豪雨といったおかしなことも起こり得る。それで慌てて、ホームの屋根のある所まで走って行き、改札口を出たまではいいのだが、こちらは今日に限って傘を持ってこなかった。何て運が悪いのだ。それとも小生が間抜けなだけか・・・・。

 仕方なく隣のコンビに飛び込んで、ビニール傘を買ってイザ帰宅と相成ったが、歩き出してものの1分ほどで雨が止んでしまった。いったい何のために傘を買ったのだ。本当におかしな雨の降り方で、こちらは振り回されてしまった。これからはどれだけ荷物が多くても、折り畳み傘は持っていくことにする。とにかくおかしな日でありました・・・・。
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2010.05.24 (Mon)

今日は蒸し暑い

 土曜日の昼間は湿気を含んだ蒸し暑さで気分が悪かったが、土曜日の晩から雨が降り出し、日曜日は1日中の雨。それもけっこう強い雨だった。だが、夜になると止む気配もなく雨がいっそう激しさを増していた。それが朝方まで降り続け、気温が下がっていった。

 今朝は雨が降り続いたせいで日曜日よりも気温がぐっと下がり、20℃を切ったから薄手の上着を羽織っていったが、電車の中は混んでいるのに冷房が切ってあった。だから車内は暑くてたまらない。バスは冷房が効いていたkらいいが、また雨が降り出した。結局、今日も激しい雨が降り続き、降雨量も大変な数字を叩き出している。今朝なんか京都地方は大雨警報が出ていたぐらいだから、これだけ降るのは予測できたが確かに降りすぎだ。

 今年は2月も3月も4月も雨が多く、全体的に気温が低いと感じるが、5月になると月初めから晴れた日が続き、一気に夏のような気温になったものの、一旦、雨が降ると2、3日続くから気温差が日によって違いすぎる。これですっかり体調を崩してしまったのだが、この寒暖の差がまだ続いているのかと思った。でも流石に5月の末になると雨が降っても寒くはならない。今日なんか気温こそ20℃そこそこだからちょうどいいかなという按配なのだが、湿度計は何と90%を超えていたから、ムシムシとして動くと汗が出てくる状況であった。まだ夏のように気温が高くないので不快な感じはなかったが、不快指数は如何程の数字が出ていたのやら。

 一般的に不快指数は次のような式で算出されるから計算できるのだが面倒くさいのでやらないとしても・・・・

  0.81Td+0.01H(0.99Td-14.3)+46.3

 今日の不快指数もかなりのものだろう。ところで明日は晴れるのだろうか、どちらにしても晴れると暑いし、雨が降っても蒸し暑い。嫌な季節にこれから向うのだなあと思うと、また憂鬱になってくる。毎年、6月頃になると北海道に行きたくなるから、小生、よほど夏が嫌いなのだなあ・・・・・・・・。
EDIT  |  21:10  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.05.23 (Sun)

第71回オークス

 今日はしっかりとした雨が延々と降り続いている。そのせいで京都競馬場は不良馬場。しかし、オークスの行なわれる東京競馬場はどうかなあと思い、テレビをつけたらやや重馬場だったので東京は雨の降りだしが遅かったのかなあと納得。この程度だと昨年のダービーの時のような白けたレースにはならないから安心したが、それでも馬場は渋っているようだ。

 さあ第71回オークス(G-Ⅰ・3歳牝馬、芝2400m、18頭)だが、桜花賞馬のアパパネがいて1番人気である。2番人気がショウリュウムーン、3番人気がオウケンサクラ、4番人気がアプリコットフィズ、5番人気がサンテミリオンという順であるが、混戦だといわれている。一応、アパパネは2歳王者でもあるし強いのだろうけど、他を圧倒する強さはなく対抗馬も拮抗しているようだが、実力伯仲といっても勝ちそうな馬は5、6頭に絞られそうで、こういった状況の中でオークスが行なわれた。

 スタートからアグネスワルツが行こうとするが、強引にニーマルオトメがハナを奪う。3馬身リードして、2番手にアグネスワルツ。そのあとは4馬身、5馬身あいていて、その集団の先頭に何とショウリュウムーン。4番手がタカノエリザベート、その直後にコスモネモシン、ギンザボナンザが続き、エーシンリターンズ、アプリコットフィズ、モーニングフェイスがいて、ブルーミングアレー、サンテミリオン、オウケンサクラ、アパパネと人気馬が並んで行き、プリンセスメモリー、アニメイトバイオ、トレノエンジェル、ステラリードと固まって行き、シンガリからシンメイフジが追走する。スタートからのハロンタイムは12.2---10.9---12.3---12.4---12.8で800m通過が47秒8、1000m通過が1分00秒6と馬場は意外と渋っていないように思ったが、内と外で馬場の荒れ具合が違うのかもしれない。相変わらず雨が降り続く中レースが淡々と進む。先頭にニームルオトメで3馬身リード、2番手にアグネスワルツ、さらに4馬身あいてあとは一団。さあ、いよいよ直線に入る。先頭はここでアグネスワルツに替わる。2番手は横一線。アグネスワルツ先頭。アグネスワルツ先頭。外の方からサンテミリオン、アパパネの伸びがいい。インコースにはアプリコットフィズ。馬場の中央にオウケンサクラだが、サンテミリオンとアパパネが並ぶようにして伸びる。あと200m。ここでサンテミリオンとアパパネが先頭だが、アパパネが出た。アパパネが出た。サンテミリオンがまた差し返す。3番手はアグネスワルツ。先頭はサンテミリオンかアパパネか、サンテミリオンがアパパネか。並んだ並んだ。ほとんど同時、ほとんど同時にゴールイン。

 1着アパパネ 2分29秒9、同着サンテミリオン、3着アグネスワルツ 2馬身、4着アニメイトバイオ 1馬身1/4、5着オウケンサクラ クビ。

 何と1着が同着とは。それもJRA史上初のG-Ⅰレース1着同着とは。どっちも強いということだが、どっちも決め手に欠けるという言い方も出来ることになる。それも2頭とも桃色帽子の馬。やはり馬場のいい外を通っただけ伸びが良いのかということにもなるが、1着同着という珍しいオークスだったとこれからも記憶されるだろう。

 過去で言うと日本ダービーで2着同着というのがあった。昭和37年のダービーで、ヤマノオーとコレヒサが記録したもので、この時の勝ち馬はフェアーウインだった。もっとも歴史の古い英国で言うと、1884年のダービーが1着同着で、St.
GatienとHarvesterの2頭の名前が記録に残っている。またオークスの方も1876年に1着同着があって、CameliaとEnguerrandeの2頭がやはり勝ち馬として記載されている。もっともそれ以前には、ダービーで一度、オークスで一度1着同着があり、その頃のルールで再レースが行なわれ、再レースに勝った方が勝ち馬として記載されたのである。でも、19世紀初頭の頃だから写真判定なんて出来るわけがなく、人間が決勝点で目視して判定していたというから、不正確といえば不正確であっただろう。だから極僅かな差だと見極めが出来ず再レースを行なったものと思われる。でも現在のように機械化された中で同着なんて誠に珍しい。レースよりも何だかそちらの方に話題がいくのもおかしな話だが、今年の3歳牝馬はレベルが高いのか低いのか良く判らない。まあ、秋になれば判るでしょう。
 
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2010.05.22 (Sat)

住吉大社に行く

 暑くなったものだ。少し前までは雨が多く気温の低い日が多かったが晴れると暑い。無理もない。間もなく6月だから当然かもしれない。もうちょっとで梅雨に入るのだろうが、今日も湿気を含んだ蒸し暑い日で、晴れてはいるが雨が近いなあと感じる風の吹き方であった。そんな今日、住吉大社へ行ってきた。

 住吉大社・・・・? 住吉大社というのは大阪の住吉区にある神社である。昭和21年までは官幣大社であって、全国にある約2300社ある住吉神社の総本宮でもある。一般的には奈良や京都にある神社には総本宮というところが多いが、大阪も歴史の古いところ、この住吉大社も歴史は古い。そもそも日本書紀や古事記によると、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、火神の出産で亡くなった妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を追い求め、黄泉の国に行ったものの、妻を連れ戻すことが出来ず逆に汚れを受けてしまい、その汚れを清めるために海に入って禊払いしたのである。その時に住吉大神の底筒男命(そこつつのをみこと)、中筒男命(なかつつのをみこと)、表筒男命(うはつつのをみこと)が生れたとされる。

 さらに第14代仲衰天皇の妻である神功皇后が新羅に出兵する際、住吉大神の力をいただくことになり、新羅遠征により大いに国の安定が築かれたのである。その結果、住吉大神のお告げにより、この地に祭られることとなったと言い伝えられている。

 よくよく考えれば当時の都が置かれていた大和盆地や山城の国は内陸で、先進地域であった隋や唐、または朝鮮半島から文化を輸入するには、どうしても難波の津から渡航することになる。だから一時期には難波京として僅かな期間、都が置かれていたのでは? という学者も少なくない。それで万葉の多くの歌人が今の大阪。当時の難波の地を歌枕に入れていることでも、難波は古くから栄えていたのだと推測されるのだ。

住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ     藤原敏行吾朝臣

 住の江とは今も大阪に残る地名で、住吉大社付近の地名である。あの頃は、住吉大社から西は梅であった。

難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこのよを過ぐしてよとや     伊勢

 難波潟(なにわがた)とは難波の海の意味で、今でいう大阪の入り江ということになる。

わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ     元良親王

 澪標(みおつくし)とは船が往来するときの目印にする標。船が安全に行き来するため、大阪の海には澪標という杭が所々、打たれていたのである。それが現在の大阪の市章のデザインとなっているのだ。

難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき   皇嘉門院別当

音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ    祐子内親王家紀伊

 高師の浜とは現在の堺市浜寺から高石市にかけての浜で、昭和30年代までは浜寺海岸として海水浴場として栄えたが、その後にコンビナートが出来、海岸線は埋め立てられてしまった。

 とにかく小倉百人一首に選出された難波の歌が、上記のようなものである。でも面白いもので、今では難波(なにわ)と書くと難波(なんば)と読む人が大半だろう。今では浪速、浪花と書いてなにわと読むことが一般的になってしまった。


 南海電車住吉大社駅を降りて本通を渡ると住吉大社の鳥居が姿を現す。
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 住吉大社の名物・太鼓橋である。反橋とも言う。
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 住吉大社には本宮が四つあって、これは第一本宮。底筒男命を祀っている。
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 第二本宮と第三本宮が見える。それぞれ中筒男命、表筒男命を祀っていて、第四本宮は神功皇后を祀っている。
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 太鼓橋(反橋)を渡ろうか。とにかく男の足だと斜めでないと踏めない狭さの階段状の橋である。
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 川端康成の短編小説『反橋』の一文を思い出した。・・・・・反橋は上るよりもおりる方が怖いものです。私は母に抱かれておりました。反橋の頂上でそのような話をするのはあまりにも芝居がかっているように思われます。ほんとうにその時五つの私が反橋を渡ったのでありましょうか。それさえ疑い出すと記憶は怪しくなります。・・・・・
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 大社前の本通には大阪で唯一残る路面電車・阪堺電車がグオーングオーンと音をたてて通過して行った。何となく昭和30年代を思い出す光景だ。
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2010.05.20 (Thu)

プレスリーの初期の曲を聴く

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 最近は過去の色々なミュージシャンのコンプリート・アルバム輸入版が1000円以下の安価で売られていて思わ何枚か買ってしまった。その中にエルヴィス・プレスリーのCD3枚組みアルバムがあった。これも980円で購入した。収録曲は48曲。実質上のデビュー曲とも言える『That’s All Right』から『Love Me Tender』あたりの曲まで入っているから、1954年~1956年の間に出されたシングル盤が網羅されているということになるだろうか。
この中には最初の全米1位を記録した『Heartbreak Hotel』もあれば『I Want You, I Need You, I Kuve You』もあれば『Hound Dog』『Don’t Be Cruel(冷たくしないで)』『Blue Suede Shoes』も入っている。ただし『監獄ロック』は1957年のヒット曲なので入ってない。

 プレスリーの存在を私が知ったのは、小学生低学年の頃、無理やり連れて行かされて観た映画『ブルー・ハワイ』からであろうか。内容はほとんど覚えていないが、その後にも何度か観ているので、記憶を辿って書くと、確かハワイを舞台にした映画で、観光ガイドのプレスリーが、観光団体一行をガイドしている最中に大乱闘となり解雇され、ついでに恋人との結婚も御破算となる。が、やがて新しい仕事をみつけ、何時しか恋人と結ばれるというつまらない映画であったように思う。何だか加山雄三の『若大将』シリーズみたいな映画だが、この『ブル-・ハワイ』の中でプレスリーはハワイアンを含めかなりの曲を唄っていた。だから私はエルヴィス・プレスリーというと、当時はハワイアン歌手だとばかり思っていた。それが或る日、当時の芸能雑誌『明星』『平凡』のグラビアで、プレスリーは靴を100足以上持っていると、写真付きで紹介されていた。何と「ええかっこしー」(京都ではよく言った)な奴だと子供ながら思ったものだが、姉に聞いたらとんでもないロックンロール・シンガーであるという。でもあの頃、ロックンロールというものがどんな音楽なのかも私は知らなかった。

 それから間もなくラジオでプレスリーの『監獄ロック』が流れていて、これがロックンロールなのかと思ったが、随分と激しくて喧しい音楽なんだと認識した覚えがある。でも、その後のビートルズの出現で、ロックンロールが激しい音楽だ何て皆目、思わなくなったから不思議である。

 それにしてもエルヴィス・プレスリーは凄い歌手である。彼がデビューした頃にはロックンロール歌手が他にもいたが、何故に彼だけが突拍子もなく人気が出たかは、彼の歌を聴けば判ると思うが、とにかく光っているし惹き付けられる。やはり天性のスターなのだろう。彼はカール・パーキンスやチャック・ベリー等、同時代のロックンロール歌手の曲もカバーしているが彼が唄うと違う。そこがプレスリーなのである。どこかスマートで灰汁がなく、セクシーであり、それでいてパンチがある。ただ余りに凄い人気が出て、例の腰振りスタイルは物議を醸したという。彼に群がる少女も多かったことから顔をしかめた父兄を始め、ロックンロール自体が非行の原因であるかのように中傷されたという。当然、プレスリーはその渦中にあったから、槍玉にあがったのだが、彼がテレビに出て唄う時でもテレビの画面は上半身しか映さなかったといし今から考えれば隔世の感がある。まあ、何時の時代でも伝統的な慣習をぶち壊す者は叩かれていたから、彼は伝統的音楽の革命者の一人でもあった訳である。

 プレスリーはデビューから42歳で亡くなるまでの21年間で出した曲の中で、アメリカのヒットチャート100位以内が146曲もあり、ベスト10にも38曲が顔を出している。またビルボードのベスト・シングル獲得が18曲というから凄い。これは史上2位(1位はビートルズの曲)であり、1977年の真夏、突然、プレスリーがこの世を去ったことは残念でならない。まだ生きていて唄っていてもおかしくない年齢であったのに・・・・・。

『That's All Right』を唄うプレスリー(1968年のカムバック・コンサートで)。


 最初の大ヒット曲『Heartbreak Hotel』を唄うプレスリー。


 『Love Me Tender』を唄うプレスリー。

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2010.05.18 (Tue)

モーリス・ルブラン・・・・・『813、続813』を読む

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 題名を聞いているだけだとどんな小説なのか判らないだろう。実はモーリス・ルブランの書いた人気シリーズ『アルセーヌ・ルパン』の中の長編小説である。

 最近、日本では困ったことに、ルパンというとモンキー・パンチの漫画『ルパン三世』の方が有名になってしまった。それで若い人の中には本家のアルセーヌ・ルパンのことを何も存じない人が多くて、拙者としてはいささか呆れかえるしかないのだが・・・・。これも時代の流れとして受け止めるしかないか。でも本家を凌駕するというと語弊があるが、これほどまでに『ルパン三世』が流行ってしまうと本家のアルセーヌ・ルパンまでがルパンのお爺ちゃん扱いになってしまうから面白い。でも、モンキー・パンチのコミック『ルパン三世』が、モーリス・ルブランの生み出した怪盗アルセーヌ・ルパンに着想を得て描き出したコミックだということも、映画『カリオストロの城』も、モーリス・ルブランの『カリオストロ伯爵夫人』の名前を拝借していることも、今時の人は何も知らないだろうなあと思いながら、皮肉の一つでも言いたくなったので、一度、コミックの『ルパン三世』やアニメ『ルパン三世』しか知らない人は、是非、一度でもいいから本家モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパン・シリーズを読むことをお勧めする。

 簡単な筋書きをいうと、『奇岩城』の事件から4年が経ち、その間、音沙汰のなかったアルセーヌ・ルパンがダイヤモンド王ケッセルバックの前に突然出現した。ルパンはケッセルバックが知る秘密と、その秘密を解く鍵を盗みに現れたという訳だった。だが、ケッセルバックは暗殺され、現場には残されたレッテル813が・・・・・。やがて犯人としてアルセーヌ・ルパンの名前が急遽として浮上する。ルパンは正体不明の黒衣の男LMの策略でラ・サンテ刑務所の放り込まれてしまった。ルパンは既に重要な書類の隠し場所も突き止めていたもののなす術がない。そこでルパン沈着果敢に警察を翻弄して脱獄し、ベルデンンツの廃墟に向う。とはいうもののLMからの怖るべき刃は先回りしていた。LMとはいったい何者なのか、やがてルパンが追いつめると、その正体は・・・・・・・。

 ところでアルセーヌ・ルパン・シリーズを書いたモーリス・ルブランという人だが、日本では今日、ほとんど名前さえも知らない人が多い。ルパンの名前だけが一人歩きしているのは、名探偵シャーロック・ホームズを生み出したアーサー・コナン・ドイルと同様であるが、コナン・ドイルは『名探偵コナン』などに名前が使われていたりして知名度はある。でもモーリス・ルブランという人はアルセーヌ・ルパンの生みの親であることも知られていない。

 モーリス・ルブランは1864年、フランスのノルマンディーで生れた。彼は勤勉家だがロースクールを落第してから小説を書き出した。主に純文学である。フローベールやモーパッサンに影響を受けたとされるが、さっぱり小説は売れず困り果てていた頃に出版社で編集をやっている友人に頼まれて仕方なく書いた探偵小説『ルパン逮捕される』が大ヒットしたのである。こうして書き出したのが怪盗アルセーヌ・ルパン・シリーズである。

 要するにルブランもシャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルと同様、作者よりも登場人物の方が有名になってしまい困惑していたという。やはりコナン・ドイルがシャーロック・ホームズの存在に困惑したというが、モーリス・ルブランもアルセーヌ・ルパンの大成功を当初、あまり歓迎していなかった。そこで当作品『813』の中でルパンを自殺させている。ルブランは純文学や心理小説で成功を考えていたのに、現実的には目指していた文学と違う形で成功してしまった。この成功は本懐にあらずといったところであり、何れ純文学で成功したいという夢はあっただろう。でも、やはり純文学よりも大衆受けするのは、こういった推理ものであるという事実がある。当然、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズのシリーズに影響を受け、ルパン・シリーズを書くにいたったことはいうまでもないが、探偵に対抗すべき怪盗といった形をとったのが、お洒落で小粋な怪盗紳士ルパンだった。これがフランス人に案外、受けたようで、このシリーズは大好評となり、売り上げも驚異的であった。

 この大成功で、書き出した頃は苦々しく思っていたルパン・シリーズだが、ルブランは次第と情熱を注ぎ、このシリーズに本腰を入れることとなったのである。その結果、モーリス・ルブランはレジオンドヌール勲章を貰うこととなる。本当に仕方なく書いた小説が突如として人気シリーズとなり、それが幸いして彼は名声と地位を得た。しかし、亡くなる直前でもルパンを愛していなかったという逸話がある。つまりモーリス・ルブランはルパンよりも飽く迄フランス文学の王道を進みたかったのかもしれない。
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2010.05.17 (Mon)

第135回プリークネスS

 少々、旧聞に属するが、現地時間5月15日(日本時間5月16日早朝)に行なわれたアメリカ競馬の3歳3冠レースの第2弾、第135回プリークネスS(G-Ⅰ・3歳、ダート9.5F、12頭)の報告をする。

 アメリカはボルティモアにあるピムリコ競馬場に12頭が出走して今年のプリークネスSが行われた。1番人気は当然ケンタッキー・ダービーの覇者であるSuper Saverで、2番人気はケンタッキー・ダービーで1番人気ながら6着に沈んだLookin at Lucky、3番人気はPaddy O'Pradoだった。

 レースはFirst Dudeが逃げ、それを1番人気のSuper Saverが追う展開。それをLookin at Luckyは5番手の外側につけ虎視眈々と追撃の時期を待っている。3コーナーでLookin at Luckyが仕掛けに入り、4コーナーで先頭グループに加わった。直線に入り、Lookin at Luckyは脚色快調だが、Super Saverは完全に失速。Lookin at Luckyは逃げ粘るFirst Dudeを最後に突き放しケンタッキー・ダービーの雪辱をした。一方、Super Saverは8着と惨敗した。

 1着Lookin at Lucky 1分55秒47、2着First Dude 3/4、3着Jackson Bend アタマ、4着Yawana Twist 1馬身、5着Dublin 4馬身。

 勝ったLookin at Luckyはこれで10戦7勝2着1回3着1回の成績で、ただ1度の着外が前走のケンタッキー・ダービーの時の6着。この時はドロンコの馬場だったから不運ではあったが、それ以外だと実に堅実に駆ける馬である。血統は父がSmart Strik(父Mr. Prospector)、母Private Feeling(父Belong to Me-----Danzig系)。

 なお、ベルモントSにはLookin at LuckyもSuper Saverも残念ながら回避する模様。


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2010.05.16 (Sun)

第5回ヴィクトリアマイル

 5月らしい爽やかな日の今日、東京競馬場で古馬によるG-Ⅰのマイル戦、第5回ヴィクトリアマイル(G-Ⅰ・4歳以上、芝1600m、18頭)が行なわれた。人気はブエナビスタ、レッドディザイアの順だったが、共にドバイ遠征からの参戦。昨年の3歳牝馬路線で絶えず凌ぎを削った2頭が再び雌雄を決するということで注目されたが、はたしてどうか。

 ブラボーデイジーの落鉄により発走が遅れたが、大した影響を受けた馬もなく、無事ゲートイン。横一線のスタートからミクロコスモスが下がった。先行争いはインコースからベストロケーション、ブラボーデイジーが並んで行った。ブロヴィナージュが3番手。ヒカルアマランサス4番手、ワンカラット、ウェディングフジコ、ブロードストリートと行き、その外にアイアムカミノマゴ、そしてシセイカグヤ。その外に人気のレッドディザイア、さらにニシノブルームーンとコロンバスサークルで、そのあとにヤマニンエマイユと本命ブエナビスタ、さらにムードインディゴ、ラドラーダ、ミクロコスモス、アルコセニョーラの順で早くも3コーナーへかかるところ。ハロンラップは12.2---10.6---11.0---11.7と前半の800mが45秒5と速目。先週、日本レコードで決着したNHKマイルほどの驚異的ラップをではないが、それでも速目である。ただこのラップでも先行馬が残るというのが、このところの東京競馬場である。レッドディザイアもブエナビスタも幾分このことを意識しているのかも知れず、何時もよりも前につけてはいるが、前の2頭は快調である。4コーナーでは前の3頭が後続を4馬身離して逃げ、あとは一群である。この状況のまま、4コーナーを周る。先頭はベストロケーションとブラボーデイジー、レッドディザイアは外の中団。さらにその外にブエナビスタ。横に拡がって激しい追い比べだ。先頭は前の2頭。芦毛の2頭ベストロケーション、ブエナビスタが粘る。あと200m、ブラボーデイジーが先頭。ブエナビスタは大外から追い上げる。レッドディザイアも末脚を伸ばすがブエナビスタの方が伸びがいい。ここで横一線に拡がったが馬場の中央からヒカルアマランサスが先頭に立った。ヒカルアマランサスが先頭。ブエナビスタも伸びる。ブエナビスタも伸びる。ヒカルアマランサスが粘る。ブエナビスタが伸びる。ブエナビスタが伸びる。ヒカルアマランサスかブエナビスタか、ヒカルアマランサスかブエナビスタか、2頭並んでゴールイン。

 1着ブエナビスタ 1分32秒4、2着ヒカルアマランサス クビ、3着ニシノブルームーン 3/4、4着レッドディザイア ハナ、5着ブロードストリート アタマ。

 やはり2頭だけの競馬にならなかった。競馬というのは予想通りにはいかないもの。でもブエナビスタは強い。久々のマイル戦だったが、上がりの速い追い比べでも差し切った。今日のようにテンが速くても先行馬がインコースで粘れるというほど、今の東京の馬場は荒れてない。こうなると後方待機の馬は辛いが、それでも勝った。しかしブエナビスタは牡馬に伍しても、今の頼りない古馬陣では屈指の強豪だろう。一方、レッドディザイアには厳しいレースとなった。ブエナビスタほど末脚が切れるというのでもないだけに、今日はレースも馬場も展開も味方しなかった。ただ2頭とも中距離中心に使われていただけに、マイル戦ともなると、牝馬同士といっても2頭以外との力の差はなく、このような混戦になったのだろう。これからもブエナビスタ、レッドディザイアは良い意味でライバルとして戦い続けるだろう。ウオッカとダイワスカーレットの関係のように。
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2010.05.15 (Sat)

耳鼻咽喉科通院1年経過

 今朝も5月とは思えない冷え込みで参った。拙者、鼻の調子が悪く、この1年間、耳鼻咽喉科に通っているが(今の現状では完治する気がしない)、このところの気温の変化に身体が悲鳴をあげたのか、体調を崩してしまい喉も荒れてきたたし咳もとまらない。それに、鼻から息ができないから、さっぱり寝られなく睡眠不足で、フラフラである。今日の午前、医院に行ったが風邪をひいているといわれ、また風邪薬を出された。こんなの繰り返しで、鼻が良くなっていったかと思うと、風邪をひいてしまいまた元の木阿弥である(先日の発熱時に風邪と判っていたが)。

 おそらく風邪をひき易い体質から慢性副鼻腔炎になってしまったというのが実情だろう。それに日頃から健康に気を配る人は豆に医者に掛っている。でも多くの人は、なかなか治療といっても勤め人の性質で、日頃から忙しくて、よほど切羽詰らないと医者に掛ろうとしないから、ここまで治療が長引いているのだろうと思う。が、今更、どうしようもない。

 結局、今日は何時もと違って、風邪を治す薬を中心に出され、また一週間、飲み続けなくてはならない。はたして完治するのかどうなのか、とりあえず、騙されたと思って、処方された薬を飲み続けるのだが、薬も飲み続けると効果が薄くなっているのでは・・・・・と危惧するが、それでも頼れるものには頼りたいという疾患を持った人の考えと同じく、明日には良くなると思い続けているのではあるが・・・・・・。しかし、咳がとまらない。
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2010.05.13 (Thu)

4日ぶり

 日曜日以来の更新となる。だからといってこの間、サボっていたのではなく、すっかり体調を崩してしまい、4日ぶりの更新となったまでである。日曜日の日から身体の方が重く、気だるいし倦怠感があったが出かけていった。月曜日は出勤で、この日は雨が降り肌寒い。結局、これがいけなかった。帰宅時には発熱していたのだろう。とうとう月曜日の晩から寝込んでしまい、今、ようやくパソコンの前に座っている。

 今年は何かおかしな天候が続いているが(毎年のことだが)、天候不順な日が多く、晴れの日が続いたのはGWの期間だけという珍しさで、その後は雨が相変わらず多く、暑い日と寒い日が交互に来る。これが身体にはよくない。若い時は急激な気温の下降に対応でき、少々、薄着をしても大丈夫だったが、この年齢になってくると若い時のようにいかないらしい。それですっかりおかしくなってしまった。

 鼻の症状がおもわしくなく、それでいて気管が若い頃から弱いので風邪のひきやすい体質だったが、この頃、一旦、体調を崩すとなかなか回復までにいたらない。加齢と共に無理がきかないようになっているのだと、最近、切実に思う。なんとも情けない話だが、これが現実である。自分は何時までも若いと思っていても、知らぬ間に年齢を重ねているのである。この事実はどうしよもない。そういえば最近は人の名前をよく忘れる。顔は浮かんでいても名前が出てこない。健忘症なのかもしれないし失語症の気配もある。思うように語彙が出てこない。ボキャブラリーの豊富さにも自信があったが、これも30代をピークに下降の一途である。記憶力には人一倍自信を持っていたが、その記憶力も最近は色褪せてきた。もうソロソロ、資本主義の枠組みから外れて、仙人のような生活でもしようかな・・・とは考えないが、人と対峙していくのもだんだんとわずらわしくなってくる。上手く立ち回るのも鬱陶しくなる時がある。他人の趣味嗜好に会話を合わすのが苦手なのだが、合わさなくては丸く行かないし、私のような思想や趣味を持っている人の方が少数派なので、何時も孤立感を覚えているが無理もないだろう。・・・・・まあ、あまり深く考えてもしょうがない。気楽にこれからも生きようか・・・・・。
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2010.05.09 (Sun)

第15回NHKマイルC

 本日の競馬は東京でグレードⅠの第15回NHKマイルC(G-Ⅰ・3歳、芝1600m、18頭)が行なわれたが、あいにく小生は出かけていて、先ほど帰宅したばかりである。したがってNHKマイルCもテレビの録画で観ただけなので、記事は簡単に書くことにする。

 人気はダノンシャンティ、サンライズプリンスが拮抗し、3番人気がリルダヴァルであとは単勝が全て10倍以上というからダノンシャンティとサンライズプリンスの2頭に人気が集中したことになる。レースの方はエーシンダックマンがハイペースで逃げ、それをコスモセンサーと人気のサンライズプリンスが追いかける展開。ダノンシャンティは後方から3番手の位置。ハロンラップは12.1---10.4---10.9---11.4---11.5と800mが44秒8、1000mが56秒8と短距離戦のようなペースで飛ばす。4コーナーを周ってゴールまで400mを切った。エーシンダックマンの外から早くもサンライズプリンスが先頭に立つ。ダノンシャンティは大外の後方。サンライズプリンスが先頭にたち、ダイワバーバリアンが200のハロン棒を通過してから、サンライズプリンスをかわすして先頭に立とうというところだが、それらを纏めてダノンシャンティが一気に抜き去った。

 1着ダノンシャンテシ 1分31秒4、2着ダイワバーバリアン 1馬身1/2、3着リルダヴァル 1馬身、4着サンライズプリンス 1/2、5着キョウエイアシュラ 2馬身。

 ダノンシャンティは強かった。道中は後方に待機し直線で末脚を爆発させた。勝ち時計は何と1分31秒4。これは久しく破ることのできなかったゼンノエルシドが2001年9月9日に出した日本レコードを0.1秒だけ更新した。実際には馬場が良くて、仮柵が効果を発揮しているのかどうか判らないが、3歳馬が日本レコードを記録。いかに校則のコースであったということだが、今日のようなハイペースだとどうしても前つぶれになるのに、3番手追走から大崩せず4着に粘ったサンライズプリンスは地力があるということだ。ただダノンシャンティの鬼脚の前ではなす術がなかったとは思う。ところでダノンシャンティはダービーに向うかもしれない。
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2010.05.08 (Sat)

ハーマンズ・ハーミッツのデビュー・アルバムを聴く

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 とうとう筆者は狂ったのかと思われた向きもあるかもしれない。何でハーマンズ・ハーミッツなのだ? と問われるかも知れない。大物ではないし、過去の当音楽ブログに登場したミューシャンと比較しても実力があるというのでもなく、さほど知名度があるというのでもないのに何でハーマンズ・ハーミッツなんだということなのだが、まあいいではないか。たまには趣味でこういったミュージシャンも登場いたします。

 ところでハーマンズ・ハーミッツというと、やはり50歳以上の人にしか判らないグループであろう。彼らが最も活躍したのが1960年代中頃だから、今から40年以上前に人気のあったグループなのである。何故に人気があったかというと、それはヴォーカリストのピーター・ヌーン(1947年生れ)に頼るところが多く、彼がヴォーカルをしていた関係から人気があったように思う。

 そもそもは子役として地元イギリスのテレビに出演していたピーター・ヌーンが、俳優稼業に見切りをつけて5人組のビート・グループであるハートビーツを結成したことから始まる。やがてハーマンと呼ばれていたピーター・ヌーンのグループはハーヴェイ・リスバーグ、チャーリー・シルヴァーマンという2人のマネージャーと出会う。その時、マネージャーはハードビーツという平凡な名前よりも奇抜なグループ名を考えていた。その時、メンバーのカール・グリーンが、人気アニメ『ロッキー・アンド・ブルウィンクル・ショウ』に出てくるシャーマンがピーター・ヌーン(ハーマン)に似ているということで、シャーマン&ザ・ハーミッツはどうだろうかと提案したが、結局はハーマンズ・ハーミッツという名になったのである。つまりハーマン無くしては成り立たないグループだったのである。

 こうしてイギリスのマンチェスター(リヴァプールではないところが面白い)で結成されたハーマンズ・ハーミッツは1964年にデビューする。この頃のイギリスは、ちょうどビートルズ、ローリング・ストーンズが人気沸騰の最中である。2人のマネージャーは辣腕でピーター・ヌーンのルックスを前面にアピールするつもりであったらしい。アイドル的ルックスを持つピーター・ヌーンは美男子ではないものの、母性本能をくすぐる愛らしさを持っていて、10代の女の子及び両親にも認められるアイドルとしての人気が沸騰。デビューシングル『朝からゴキゲン』『ユア・ハンド・イン・マイン』がいきなりのヒット。第2弾シングル『ショウ・ミー・ガール』『アイ・ノウ・ホワイ』は最高21位どまりだったが、第3弾『シルエッツ』『ハートがドキドキ』が再び大ヒット。

 これでイギリスにハーマンズ・ハーミッツ旋風が吹き荒れることになったのである。この勢いはやがてアメリカへ飛び火し、1965年はハーマンズ・ハーミッツ大躍進の1年で、とうとう1965年にはアメリカでのレコード盤の売り上げがビートルズを追い抜いてしまったのである。こうしてハーマンズ・ハーミッツは約1ヶ月のアメリカ公演に出発。途中、サム・クックのカバー曲『ワンダフル・ワールド』(日本ではウルフルズで有名)が大ヒット。さらに『ミセス・ブラウンのお嬢さん』も大ヒット。『ヘンリー8世君』は全米第1位。コニー・フランシス主演の映画『青春のデイト』にも出演。エド・サリヴァン・ショウにも出演。アメリカでも自他共に認められるビート・グループとしてビートルズやローリング・ストーンズに追随するグループとなったのである。しかし、人気の衰退も早かった。

 1966年に来日し、翌1967年に『見つめ合う恋』が大ヒット。この曲は後年にカーペンターズがカバーするが、そもそもハーマンズ・ハーミッツ自身カバー曲が多く、彼らのオリジナル性が問われる。そしてデビューからあまり代わり映えしない音楽性に飽きられる羽目となる。こうして1970年以降はすっかり忘れられた存在になってしまい、1971年にはピーター・ヌーンが脱退したことにより事実上解散したも同然となった。

 その後、再び結成されたという話も聞くが、今更、聴く気も起こらないので、どうなっていることやら。でも一時期であるが確かに輝いていたのが何時もハッピー、ハーマンズ・ハーミッツである。ということで、こういったグループもあったということを小生はいいたかったのである。

 『ワンダフル・ワールド』を唄うハーマンズ・ハーミッツ。これはサム・クックのカバー曲である。日本ではウルフルズが唄った。


 『この世の果てまでも』を唄うハーマンズ・ハーミッツ。これもスキーター・デイヴィスのカバー曲である。


 『見つめ合う恋』音声のみ、動画はなし。この曲はカーペンターズがカバーした。

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2010.05.06 (Thu)

貴船神社に行く

 鞍馬寺の西門を出ると舗装した一般道路に出る。するとそこは料亭や料理旅館が多く並んでいる、いわば貴船神社の門前町(町というほどでもないが)・・・・・。

 貴船神社とは創建が何時か判らないほど古い神社であるが、水の神様として知られていて、古代の祈雨八十五座の一座とされ、昔から祈雨の神としての信仰されていた。また、水の神であるタカオカミの神を祀っていることから、料理人、調理人たち及び水を取り扱う商売人らが祈願に来るなど崇められている神社である。

 また絵馬発祥の地としても知られ、古くから晴れを願う時には白い馬、雨を願う時には黒い馬が奉納されたりしたが、実際の馬に替わって板に描いた馬が奉納されたことがあり、そこから絵馬が誕生したといわれている。

 一方では縁結びの神様でもあり、縁切りの神様でもあり、呪咀神としての信仰も厚く、丑の刻参りとしても知られている。最近では若い女性が訪れて水占おみくじをひきにきたり、近くの料亭で川床で涼を求めながら料理に舌鼓を味わいに来る人が増えたという。また貴船は京都のパワースポットとしてちょっとしたブームになっているという。なるほど鞍馬といい貴船といい、こんな京都の奥深くまで来る人が増えたというのも、何か訳があると思ったら・・・・・陰陽師という映画や漫画が流行ったのも関係しているのかもしれないなあ。


 鞍馬山を西に下りきると貴船川が流れている。鴨川の支流で見事な清流である。
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 夏になると料理屋が川床を開く。川の上に床を組み、その上で京料理に舌鼓を打つ。1番安いのは流し素麺であるが・・・・・鮎料理になると・・・・・・・。
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 貴船川沿いの道路を歩くと貴船神社の鳥居が姿を現し、二の鳥居を潜ると貴船神社への参道が見えてくる。そして、貴船神社というと雑誌やテレビで採り上げられる時、必ずこの南参道が映し出される。二の鳥居を潜って、この84段の石段を登りきると本宮に到達する。石段の両側には朱色の春日燈篭が彩を加える。
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 貴船神社の本宮である。建物自体は新しい。
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 貴船神社の水占おみくじ。この清水におみくじの紙を浮かべると文字が浮かび上がってくる。たいへんな人気である。
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 貴船神社を出て、叡山電車の貴船口の駅に向う途中、歩いていると北山杉が屹立しているところがあった。
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 鞍馬駅から鞍馬寺に入り、貴船神社側に出て、貴船口駅まで来るのにおよそ2時間半かかった。鼻が悪い小生には次第と息苦しくなるが、まだまだ自分自身では健脚は衰えてないと安堵した。でも疲れたなあ・・・・。
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2010.05.05 (Wed)

鞍馬寺に行く

 先週のことになるが京都の北側に構える信仰の山、鞍馬山へ行ってきた。鞍馬山は今から2億6000万年前、海底火山の隆起によって生れたとされ、太古の昔から尊天の霊気が満ち溢れていて、その山中に鞍馬寺がある。鞍馬寺は宝亀元年(7770年)、鑑真和上の高弟・鑑禎上人によって毘沙門天が祀られたのが歴史上に現れる最初とされ、平安京の歴史よりも古いことになる。

 ところで尊天とは・・・・・宇宙の大霊であり大光明、大活動体・・・・・我々、人間を始めとした万物を生かしてくれる宇宙生命、宇宙エネルギーとされる。その働きは愛と光となって現れ、愛を月輪の精霊(千手観音菩薩)、光を太陽の精霊(毘沙門天王)、力を大地の霊王(護法魔王尊)の姿で表現し、この三身を一体として尊天と称する。鞍馬山の信仰は尊天を信じ、一人々々が尊天の世界に近付き、ついには尊天と合一するために自分の霊性に目覚め、自分に与えられた生命を輝かせながら、明るく正しく力強く生きていくことにある。

 まあ哲学的なことをウダウダ述べてもしょうがない。つまり鞍馬山とはこのような山であるということを理解していただきたい。それで昔から修行の山でもあり、牛若丸がここに隠れて精進したが、牛若丸に剣術を教えたのが大天狗だといわれる。これは、そもそも鞍馬に住む山の精霊のことをいうが、時代が経過し色々と歪曲して伝わったのではないかとは思うが、鞍馬山の奥の僧正を指す場合もある。また近年では大佛次郎が書いた小説『鞍馬天狗』の映画化、テレビドラマ化により、鞍馬天狗というと頭巾をして馬に跨って現れるといった場面を想像されるところであろう。まあ、何かと不思議で興味深い話の多い山である。


 さて、私は叡山電車・出町柳駅からパノラミック電車『きらら』に乗って30分、終点・鞍馬駅に到着。
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 鞍馬駅から歩いてすぐのところに鞍馬寺の仁王門がある。鞍馬寺に来るのは中学校の遠足以来、何と40数年ぶりである。
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 仁王門を潜って奥へ向う。
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 由岐神社に到着。鞍馬寺が御所から鎮守社として勧請した神社である。
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 由岐神社を抜けると山道に入る。結構厳しい坂が続く。
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 やっと鞍馬寺本殿金堂に到着。八重桜が咲いていて気温が平地より低い。
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 本殿金堂から奥の院へ向う。ここからは険しい山道が続く。途中に木の根道がある。これは岩盤が固く地下に根を張れない杉の木が、こういった形で地表にアラベスク模様を描いているのだそうな。
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 やっと奥の院魔王殿に到着。ここまで既に1時間以上、山の中を上って下って来ている。息も荒いし汗もそうとうかいている。ここは護法魔王尊が安置されている。
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 あとは下り道ばかりだが、これもきつい。
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 2時間かけて、ようやく鞍馬寺西門へ出たが、そこは貴船神社のすぐ側だった。
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2010.05.03 (Mon)

高槻ジャズストリート2010

 イベントのパンフレット
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 このところすっかり定着した高槻ジャズストリート。今年も今日の5月3日と明日の4日の2日間行なわれる。高槻市内の43会場に分散して、プロ、アマ含めて571ものバンド、ソロが演奏を繰り広げる。この催しもとうとう12回目を数えるというが、興行イベントではないので資金繰りには苦労しているようだ。

 そもそも高槻の街を活気付けようと始まったものらしいが、市民による市民のための手作りの祭りを謳っていて、観客、ミュージシャン、そしてボランティア、みんなが一体となって初めてこのイベントが成立するという。それで、このイベントに参加して、楽しいジャズストリートを作ろうと実行委員会の人がそのようなことを言っていた。また当日のボランティアに飛び入りで参加してもOKだという。何と殊勝なイベントなんだ。それでいて今年も熱帯JAZZ楽団やハリー・アレン・クァルテット、エド・ジョーンズ、中本マリ、セシル・モンロー・・・・・等の著名なアーティストが名を連ねている。おそらくイベント運営者の熱意に打たれて手弁当で参加しているのだろう。・・・・・今年はゆっくり聴こうかなあと思ったが、やはり雑用が多く2、3時間ほど聴いただけで立ち去った。それに暑すぎた。広いグラウンドや公園でビッグバンドの演奏をするのもいいけど、先週までとうって変わって今日のように気温が高いとちょっと参る。3月の中頃の気温から、一気に初夏のような気温まで上がってしまい、陽射しも強い炎天下では長い時間、聴いていられない。

 それでも演奏する側の皆さんは一生懸命である。小学生もいるし中学生も高校生も大学生も社会人もセミプロもプロも、上手いも下手も同じイベントで演奏するのである。あとは聴き手の問題だが、今日、市民グランドでパンフレットを見ながら訳知り顔で失礼なことを言っている初老のオッサンがいた。
「どこもあんまり知らん学校ばっかりやな。淀○工○が出てたら見るのに・・・・」だとさ。

 オッサン、それは参加している学校のバンドに失礼ではないか。暑い中を彼らは一生懸命演奏しているのだ。それに何ヶ月も前からこの日のために練習を繰り返ししているのだ。このイベントに出るからには、毎日、毎日、練習の積み上げをしているのだ。それをバカにしたような言い方で、演奏中もつまらなさそうにして、とうとう居眠りしだしたではないか。それなら最初から聴きに来るな。

 それに淀○工○なら聴くだと。判った様なことをいうな。あの高校は吹奏楽では全国トップクラスである。でもジャズとなると少し違ってくる。ジャズは40人も50人もの数で合奏する音楽ではない。ジャズのビッグバンドといっても人数は20人以内で演奏し途中にソロ演奏が入る。ソロ演奏はアドリブである。楽譜なしで、奏者の好きなようにコード進行を守った上で、自由なスタイルで演奏をするのだ。こういったスタイルの演奏は吹奏楽やマーチングバンドにはない。だから淀○工○が上手い云々の問題ではないのだ。吹奏楽とジャズはジャンルの違う音楽であって、比較することも間違っている。また淀○工○もジャズを演奏するときがあって、小生も昔、聴いたことがある。確かにいい音を出すし合奏は見事である。でもリズム感がジャズとはやや異なり、それにアドリブが上手くない。やはり吹奏楽のバンドの演奏するジャズだなあと感じた。

 このオッサンはそもそもジャズと吹奏楽の違いも判ってないのかもしれない。もっとも観に来ている人のレベルはほとんどこのオッサン程度ではあるから仕方が無いか。日頃、ジャズなど聴くこともない人ばかりが聴きにきているのだから、こんなトンチンカンなことも言うだろう。でもテレビで採り上げられたことがあるから有名だといって淀○工○のことを言っていたが、その時、演奏していた高校も関西では有数の高校生ビッグバンドなんだけどなあ。ジャズバンドは知名度が低いからしょうがないが、オッサンは淀○工○以外の高校は知らないのかもしれない。もしかすると淀○工○は吹奏楽なのに、ジャズを演奏しても上手いと思っているのかもしれない。まあ、たまにジャズも演奏するから上手いだろうけれども・・・・。でもジャズを専門に演奏している学校には及ばない。そこは餅は餅屋である。それにこの高校、難曲をそつなくこなしていて、レベルの高い演奏を見せていたが、オッサンは曲自体を知らないから欠伸をしていた。それともこのオッサン吹奏楽なら有名な曲が多いから、それらの知っている曲の演奏を聴きたかったのかな。

 まあ残念ながらジャズというのは通以外は日頃から聴かない音楽であるから皆、馴染みがないのである。当然のようにイベント化して多くの人を集めても、聴く側がこの手の音楽を判ってないから演奏が終わっても拍手はまばら。アドリブをやっていても意味が判ってないから、ただ楽器を吹いているなあと感じている程度かも・・・・。まあ、こういったズブの素人が何気なく言った言葉に腹を立ててもしょうがないが、高槻の人にジャズが浸透するのは、この先、何10年かかることやら、いや100年経っても無理だろう。だってこのイベント以外ではジャズとは無縁の街になってしまうのだから。・・・・失礼・・・・・。


 とある高校の吹奏楽部がジャズを演奏する。『A列車で行こう』『マイ・フェイヴァリット・シングス』というベタな曲を大勢の50人ほどで演奏していた。やはり指揮者付きでゆっくりした吹奏楽のような演奏になってしまう。リズムがどうしてもジャズでないのだ。
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 和太鼓が舞う。必ずしもジャズだけでも洋楽ばっかりでもないのだ・・・・・。
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2010.05.02 (Sun)

第141回天皇賞

 絶好の好天の中、第141回天皇賞が京都競馬場で行われた。今年は小粒なメンバーでというよりも、昨今の春の天皇賞は3200mという距離が敬遠されているのかどうか判らないがメンバーが揃わない。だからというのでもないが、かつては本命馬が堂々と勝レースとして知れ渡っていたのに、このところは荒れるレースとしてレースの性格が変化してきたのである。

 それで今年はというと、昨年、一昨年のクラシックホースが1頭も出走せず、G-Ⅰホースも昨年の春の天皇賞を勝ったマイネルキッツ1頭のみという寂しさ。またマイネルキッツにしても昨年は無印ノーマークの中での勝利で、フロック視されてしまった。実際にマイネルキッツのその後の成績が冴えずに惨敗続きで、史上最低の天皇賞馬という人まで出てきてしまっては話にならない。前走の日経賞で11ヶ月ぶりの勝利をあげたが今回も1番人気に支持されないのも、この間の成績が芳しくないからである。そもそも春の天皇賞と関連の深い菊花賞でさえ、この数年はダービー馬が出走しなくなり質の低下が問題になっていた。さらにクラシックホースが1頭も出ない天皇賞だからG-Ⅰの価値がないと問われてもしょうがないほど今回のレースは小粒である。口の悪い人は天皇賞ではなく天皇特別だとも言う。

 そういった中で第141回天皇賞(G-Ⅰ・4歳以上、芝3200m、18頭)が行なわれた。人気はフォゲッタブル、ジャガーメイル、ジャミール、マイネルキッツという順だが・・・・・・。とりあえずスタートが切られた。ややフォゲッタブルがあおって出た。ミッキーペトラがハナにたち、2連覇を狙うマイネルキッツが3馬身差で2番手、フィールドベアーとゴールデンメインが3番手。5番手テイエムアンコール、5馬身あいてエアジパング、メイショウドンタクが並んで行き、3馬身あいてナムラクレセント、そのあとにジャガーメイル、カネトシソレイユ、その2馬身あとにフォゲッタブル、トーセンクラウン、メイショウベルーガ、トウカイトリック、さらにメインストリームがいてメルウッドローツェ、エアシェイディと並び、1番後ろにジャミールで正面スタンド前を通過。スタートから13.3---11.9---12.0---11.5---12.0と最初の1000mを1分00秒7とやや速いペースで推移したが、そこから11.6---12.2---13.8---13.5---12.8とペースがガクンとおちた。これで先頭と後続馬との間に差がなくなり馬群が固まってきた。3コーナーの手前、坂の上りだんだんと後続馬が追い上げにかかりだす。ここでジャガーメイルが外を通っていい手ごたえで上がって行く。それをマークするようにフォゲッタブルも上がって行くが、やや行きっぷりが悪い。4コーナー、いよいよ直線に入ろうかというところ、ここでマイネルキッツが先頭に立った。ジャガーメイルが5番手まで接近。直線に入る。マイネルキッツがスパート。マイネルキッツがリード。ジャガーメイルが3番手から、2番手に、フォゲッタブルは大外だが伸びが悪い。あと200m、マイネルキッツ先頭で3馬身リード2連覇なるか。ジャガーメイル追う。ジャガーメイル追う。3番手以降は離れた離れた。完全にこの2頭だ。マイネルキッツ先頭だがジャガーメイルが急追。ジャガーメイル伸びる。並んだ並んだ。かわしたかわしたゴールイン。

 1着ジャガーメイル 3分15秒7、2着マイネルキッツ 3/4、3着メイショウドンタク 5馬身、4着ナムラクレセント 1馬身1/2、5着エアジパング 2馬身1/2。

 やはり結果を見ると天皇特別と言われても仕方がない。1年間、共に未勝利の馬同士(マイネルキッツは前走でようやく勝った)でマッチレースだから、他のメンバーがよほど弱いのか、それとも長距離の適性がないのかしらないが、ジャガーメイルもマイネルキッツも格別強く見えてしまった。とはいえ、この2頭は6歳と7歳。このようなとっくの昔にとうが立った2頭が抜きん出た結果が出てしまい、ますます嘆きたくなってしまった。とうとう春の天皇賞もセントレジャーのように2流の長距離馬だけのためのレースに成り下がってしまうのか・・・・・・。何だか予想されていたこととはいえ、予想以上に寂しい結果となってしまった。やはり4歳馬が勝たないといけないレースである。もっとも最近はダービー馬が出てこなくなったというのにも問題はあるが・・・・・。菊花賞も含めて春の天皇賞は年々つまらないレースになっていくような気がするが、侘しいなあ・・・・・。せめてジャガーメイルとマイネルキッツが、これから以降も活躍してくれると納得するが、現実はきびしいだろう。
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2010.05.02 (Sun)

第136回ケンタッキー・ダービー

 アメリカ3冠レース第一弾、第136回ケンタッキー・ダービー(GⅠ・3歳、ダート10F、20頭)が現地時間5月1日(日本時間今朝)、ケンタッキー州ルイビル郊外のチャーチルダウンズ競馬場で行なわれた。

今年はEskendereyaという確たる本命馬がいたが、左前脚に腫れが見つかったので出走を回避したため、9戦6勝2着2回という成績のLookin at Luckyが1番人気に支持され、5戦2勝2着2回のSuper Saverが2番人気に支持された。レースは水が浮くような悪い馬場だったが、Conveyanceが逃げて、それを3番人気のSidney's Candyが追い、3番手をNoble's Promiseが進み、そのあとからSuper Saverが続く展開だった。4コーナーからSuper Saverがインコースをついて進出。直線に入るやスルスルと先頭にたち、そのままゴールイン。2着には外から追い込んだIce Boxが入った。

 1着 Super Saver 2分04秒45、2着 Ice Box 2馬身1/2、3着 Paddy O'Prado クビ、4着 Make Music for Me 2馬身、5着 Noble's Promise 1馬身1/4。

 1番人気のLookin at Luckyは6着に終わった。

 Super Saverは父Maia's Mon(父Wavering Monarch-----Raise a Native系)、母Supercharger(父A.P.Indy-----Seattle Slew系)といった血統である。

 Super Ssaverは白っぽい服色でインコースをついて抜け出してくる。最後はどの馬もドロドロである。

EDIT  |  10:29  |  競馬(海外レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.05.02 (Sun)

第202回2000ギニーS

 英国競馬伝統のクラシックレース第202回2000ギニーS(GⅠ・3歳、8F、19頭)がニューマーケット競馬場の直線コースで行なわれた(英国時間5月1日)。今年は3戦全勝のSt Nicholas Abbeyが1番人気で、2番人気が4戦3勝、唯一の敗戦がSt Nicholas Abbeyに敗れただけのElusive Pimpernelが2番人気だったが、レースはスローペースで馬群が固まりDick Turpinが抜け出したところを最後に単勝倍率34倍という人気薄のフランス馬Makfiがかわし去り優勝した。

 1着 Makfi 1分36秒35、2着 Dick Turpin 1馬身1/4、3着 Canford Cliffs 1/2、4着 Xtension 1馬身、5着 Elusive Pimpernel 1/2。

 なお1番人気のSt Nicholas Abbeyは6着だった。勝ったMakfiはこれで3戦全勝。ダービーは回避する模様である。父はDubawi(父Dubai Millennium------Mr.Prospector系)、母Dhelaai(父Green Desert-----Northern Dancer系)という血統である。今後はマイル路線に向うらしい。


 馬場の中央の好位置から白いシャドーロール、オレンジ色の帽子、薄紫の騎手服のMakfiが抜け出してくる。

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2010.05.01 (Sat)

唐招提寺に行く

 薬師寺に行ったからには当たり前のように唐招提寺にも寄り道した。唐招提寺は薬師寺のすぐ北側にある日本律宗の総本山の寺院である。創建は759年で建立した人は鑑真である。鑑真とは中国・唐時代の高僧で聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として日本へ来ることになったが、鑑真が奈良の東大寺に到着するまでの12年間、5回に及び渡航に失敗している。だが、それにも拘らず初志貫徹で、とうとう6回目の渡航にして成功。この時、鑑真は失明していたという。・・・・この話は井上靖が『天平の甍』という題で小説にしているから知っている方もいるだろう。こうして鑑真は日本の地に降り立ったが、まず手始めに東大寺大仏殿の近くに戒壇院を設け大勢の僧に授戒した。こうして日本は仏教国家として実態を伴うようになり、鑑真和上からは多くの僧侶が巣立っていったのである。その後、東大寺戒壇院を離れて建立した寺院がこの唐招提寺であった。

 さて蘊蓄はこの程度にして、唐招提寺は10年間も長々と金堂の大修理を行なっていた。それで昨年の秋、ようやく終了し落慶法要が行なわれ、今は南大門を入ると我が国現存最大の天平建築である金堂が姿を現す。見事な形式美であるが、唐招提寺は廃仏毀釈の影響をモロに受け、創建当初の大伽藍は見られるべくもないが、国宝17件、重要文化財200余件を擁する名刹である。


 南大門から入ると大修理を終えた金堂が目に入る。
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 天平時代の金堂では唯一の遺構として君臨する。風雪1200年以上になる大棟の両側に鴟尾(しび)が誇らしげに見える。
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 これは校倉造りの宝蔵である。正倉院と並ぶ天平時代の代表的建築物である。
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 ところで唐招提寺は境内は広いが、整備された観光寺院ではない。したがって講堂が金堂の北側にあるが、その他の建築物は分散していて、多くの文化財を収蔵している新宝蔵や、鑑真和上像を安置する御影堂、東山魁夷の障壁画がある宸殿も常時公開されているのでもない。でも時代の重さを体現できる渋い寺院である。

 唐招提寺をあとにして近鉄電車に乗ると、たったの4駅で奈良駅に着く。駅前は平城遷都1300年祭の垂れ幕や飾り付けがしてあり、流石に奈良の表玄関だと認識させられる。商店街を抜けて猿沢の池まで来て興福寺の五重の塔をバックに入れて写真を撮る。これは定番の撮影ポイントである。
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 法相宗大本山興福寺の見事な五重の塔である。高さから言うと京都の東寺の五重の塔に次ぐ高さである。
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 興福寺に来た目的は、久々に帰って来た阿修羅像を拝見するためである。東京、福岡と展示の為、興福寺を暫く離れていた。ようやく戻ってきて、国宝館に安置された。ここは国宝の像が多く、阿修羅といってもさほど目立つというのでもないが、とにかく顔が三つ、腕が六本の阿修羅像は人気がある。僅か1.5mほどの像であるが、ここは人盛りが出来ている。阿修羅像の正面には5mもある千手観音像が構えていて、小さな阿修羅像と向かい合っていて面白い。以前はガラスで覆われていて見辛かったが、今回の国宝館のリニューアルでガラスが取り除かれ見やすくなっていた。それにしても西ノ京と違って奈良の中心街にある興福寺は人が多くて参った。
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