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2014.06.29 (Sun)

第55回宝塚記念

 蒸し暑い今日、阪神競馬場で第55回宝塚記念(G-Ⅰ・3歳以上、芝2200m、12頭)が行われた。春競馬の総決算だが、3歳馬はほとんど出ないので春の天皇賞の再戦ぽいが、距離が1000m違うので最近はメンバーが多少違っている。今年は3月のドバイで結果を残したジェンティルドンナや牝馬のメイショウマンボ、デニムアンドルビー、ヴィルシーナが出走してきて面白くなった。人気はゴールドシップ、ウインバリアシオン、ジェンティルドンナ、メイショウマンボ、ホッコーブレーヴの順であった。1番人気に支持されたゴールドシップであるが、実力のほどは皆が認めるところであるが、この馬も走ってみないと判らない。前回の天皇賞で見事に出遅れてしまい良いところが出なかった。果たして今回は・・・・。
 スタートするやゴールドシップはあまりスタートは良くなかったが、そこから行き脚がついて好意位置についた。先頭はヴィルシーナ、2番手にフェイムゲーム、その後ろにカレンミロティック、デニムアンドルビーがつけて、その直後の5番手にゴールドシップである。さらにジェンティルドンナがそれをマークするように追走。2番人気のウインバリアシオンはシンガリから2番手の位置。ペースは1000mが1分02秒4というからスローペースだ。先頭から後方まであまり差はない。阪神の内回りコースなので直線は長くない。4コーナーを回ってゴールドシップが動く。馬場は幾分か渋くて上がりの競馬になってしまった。先頭に立ったカレンミロティックが粘り込もうとするが、ゴールドシップは直線半ばであっさりと抜け出した。今日は強い。ここから引き離して余裕でゴールイン。

 1着ゴールドシップ 2分13秒9、2着カレンミロティック 3馬身、3着ヴィルシーナ 1馬身1/4、4着ヒットザターゲット クビ、5着デニムアンドルビー ハナ。

 ゴールドシップのすぐ後ろについていたジェンティルドンナはどうしたのか。直線で全く伸びなかった。敗因が判らない。ウインバリアシオンは後ろについていたので届かなかったか。カレンミロティックにしろヴィルシーナにしろ前に行って残った馬なので、展開としては前につけた方が有利だったともいえるが、ゴールドシップだけは脚色が違っていた。なんという馬だ。動かないときは押しても押しても動かないし、前走は大きく出遅れるし、勝つときは本当に強いし、立派にオルフェーヴルの後を継いでいる。しかし問題はこれからだ。この先も安定した成績が残せるかどうか。こればかりは馬のやる気の問題だけかな・・・・。スタートしてみないと判らない。まるで昔のエリモジョージだ。
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2014.06.28 (Sat)

梅雨の筈だが雨が降らない

 毎日、毎日、蒸し暑くてまいる。近畿地方はだいぶ前に梅雨入りしたのだが、今年はさっぱり雨が降らない。例年の3割ぐらいしか今のところ雨が降ってないらしい。梅雨前線は消えてなく日本の南の海上で停滞していて沖縄は、この前まで梅雨だったらしいのだが、もう梅雨明けしたようなことを言っていた。すると梅雨前線が北上して日本列島が梅雨に入るのだが、小生の住んでいる地域は全く雨が降らないでいる。曇ってても降らない。従って暑いのなんのって、いったい何処で雨が降っているのかなと思ったら、関東や南九州では激しく雨が降ったようなことを言っていた。また雹が降ったり記録的な集中豪雨が関東であったらしい。ニュースを見てえっと思うほどで、こちらでさっぱり雨が降らない分まで纏めて降っているようだ。こういった降り方は災害を齎すので有難くない。昔はしとしとと長く雨が降ると言ったイメージが中にはあったが、最近の梅雨は男性的な降り方で、降る時間は短いが、降りだすと驚異的に降る。これも地球温暖化の産物か・・・・・。
 今年はエルニーニョ現象の影響があると言っていたが、まだエルニーニョ現象は起こってなくて、これから起こるだろうとされる。だから当初の気象予報とは変わってきているだろうが、いずれにしても我々のところはさっぱり雨が降らない空梅雨が続いている。でもこれからどうなるか判らないが、京都府南部に限ると、この何年間を考えてみても空梅雨ばかりのような気がする。今日も雨の予報だったのにさっぱり降ってない。もう何日も降ってない。というよりもパラパラの雨なら降ったが、これもお湿り程度で、雨らしい雨と言えば何時降ったかな・・・・。
 記録的豪雨もいらないが、これだけ降らないのも困る。ある程度、梅雨は梅雨らしくないと季節感も何もない。ただでさえ最近は春から梅雨を通り越して一気に夏になるのだから、身体がついていかない。なので今の時期、熱中症になる人が多い訳なのだが、子供の頃のように紫陽花にアマガエルが張り付いていたという光景も最近ではお目にかかれないし、田んぼで鳴く牛ガエルの声も聞こえない。田畑が我が家の周辺にないから当然としても、この10数年、梅雨らしさを感じたことはあまりない。おそらく我が家の周辺における6月の降雨量は30年、40年前と比べると明らかに減っているように思う。ただトータル的に言うと降るときは纏まって集中的に降っているからあまり変わらないのかもしれないが、昔のように分散的に降ってないだろう。ただし地域によっては毎年、日本の何処かで洪水の被害が出るほど降っている。それも降る所は九州だの北陸だの、今年は関東もよく降っているが、近畿地方の内陸部に関しては今年も今のところ空梅雨の模様である。梅雨はジトジトして湿度も高く鬱陶しいが、これだけ雨が降らないと気温がどんどんと上昇して夏がより長く感じるのだ。だから夏が苦手な小生としてはある程度、梅雨はあった方が有難いのだが・・・・。

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2014.06.25 (Wed)

You Tubeで1966年ワールド・カップ・イングランド大会の決勝を観る

 今日の早朝、ワールド・カップの日本VSコロンビア戦が行われ、結果はご存じのとおり1対4で敗れ日本は1勝もできずグループリーグで敗退が決定した。予想できたことだが、ここまで完膚なきまでにやられると口惜しいとかの言葉も出ない。全てはコートジボワール戦で逆転負けしたことが歯車を狂わしたような気がする。この試合でせめて引き分けに終わっていたら、その後の戦い方も変わっていただろう。この試合で敗れてから、得点を取らないとえけないという焦りから全てが空回りしてしまったようだ。パスの精度も欠き、スピードも不足しているし、劣勢に立った時は挽回できない。今日の試合なんかいらないPKを与えてしまいマイナスからのスタート。どうにか前半終了間際に同点に追いついたが、此処までだった。後半はとにかく点を入れないといけないと判っているので、攻撃的にいったが守備が疎かになり反対にカウンター攻撃を受け致命的な3失点。もうどうすることも出来ない。ズタズタのボロボロである。現在の日本のサッカーの限界を此処に見た気がする。昨年のコンフェデレーションズ・カップではイタリアと好勝負し、親善試合でオランダと引き分けたから今回もと言う期待はあっただろう。しかし、本番のワールド・カップとなるとちょっと違う。何処も本気だから簡単には勝たせてくれない。何時ものことだが相変わらずの決定力のなさ。ある程度ボールを支配しても、結局は得点が獲れない。これは今に始まったことではなく今後も続く永遠の課題となりそうだ。取り敢えず今回のワールド・カップでの日本の戦いは終わった。これからまた4年後に向けて厚い壁と戦ってもらうとするか。

 さて話は変わって1958年、1962年のワールド・カップ決勝の模様をYou Tubeで観てきたが、今回はイングランドVS西ドイツである。1966年ワールド・カップは近代サッカーの母国イングランドで行われた。かつてイングランドはワールド・カップに参加していなかった。それは母国の意地と言うものだろうか。なにしろワールド・カップを開催している協会FIFA(国際サッカー連盟)よりもイングランドのサッカー協会の方が設立が早いし、我こそが世界最強と自負していたのだろう。何しろ19世紀の1863年にFA(フットボール協会)が存在していたのである。そこで疑問が湧く。1966年のワールド・カップの記録映画を観た頃、小生は中学生だった。この時、イギリスではなくイングランドという名前でワールド・カップに出ていたから、いったいこれはどういうことなのかと思ったものだ。その後に、イギリスには既に4つのサッカー協会(イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド)が存在していたということで、それらの協会が別々のチームでワールド・カップに出ているという現実を知るのである。つまりFIFAが1904年に国際サッカー連盟を設立する以前に、すでに大英帝国の4団体(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド等)が設立していたので、FIFAが後に設立していても英国4団体は加盟しなかったのである。
 さらに言うならばこれ等の4団体はサッカーやラグビーに関しては、イギリスで出ることに抵抗があり、それぞれが一つの国家意識でワールドカップに出ているということを認識するのであるが、言い換えると我々こそが世界一であり、英国4団体以外のサッカー等を認めないというようなものだろう(オリンピックのサッカーには、イギリスはこういった理由で出場しないのだ)。ところが第二次世界大戦後に英国4協会はFIFAに加盟し、1950年のワールド・カップに参加した。でもイングランドは初参加したブラジル大会で、よりによってサッカー不毛の地といわれたアメリカに敗れてしまう。これは世紀の番狂わせと言われたが、世界のサッカーは何時の間にか進化しイングランドは置き去りにされていたという現実を知ることになる。こうしてイングランドは世界と歩調を合わせワールド・カップを目指し、国際大会へも参加するようになる。しかし結果がなかなか出ず、そんな中でも1966年の地元イングランド大会開催を迎えるに当たり、イングランドはいい成績を残さねばならなかった。それでイングランド代表監督に名将アルフ・ラムゼーが就任したのである。ラムゼーは1955年イングランド3部リーグのイプスウィッチ・タウンの監督になるや翌年には3部優勝。2部リーグ昇格してからも3年目には2部でも優勝。1部リーグ昇格の初年度にいきなり優勝するなど手腕が高く評価され、1962年のチリ・ワールド・カップ大会後に代表監督に就任したのである。
 ラムゼーはFWのウイングを外しHBの運動量を重視するために4―4―2の布陣をとった。実際にはFWが3人でHBも3人の4―3―3なのだが、試合の中ではハースト以外は中盤に下がることが多く、現在のサッカーに通じるところもあり、1962年当時よりもより近代的なサッカー・スタイルであった。
 さて、1966年のイングランド大会であるが、ブラジルは3連覇を目指してイングランドへ乗り込んできた。ただしメンバーは新旧交代期であり大幅に入れ替わっていた。大会2連覇時のババ、ジジ、ジト、ザガロ、ニウトン・サントス等はいなかった。結局、GKジウマールとDFジャウマ・サントス、そしてペレとガリンシャが残っていた。ただペレは25歳と最も脂の乗り切った頃で手がつけららないほどの選手になっていた。でもガリンシャは峠を過ぎていた。それでブラジルは緒戦のブルガリア戦、ペレとガリンシャのFKで勝った。しかし、勝つには勝ったがブルガリアの激しいタックルにペレが狙われ、ガリンシャも執拗にマークされ倒された。ブラジルの個人技を封じるには負傷させればいいという汚い考えが浸透していたのか、ペレは徹底的に狙われ脚を負傷した。まだこの当時はイエローカード、レッドカードと言うものがなく、選手交代も認められてなかったので、ペレは片脚を引きずりながらプレーした。それでもなんとか勝ったが、ブラジルはハンガリー相手に敗れ、ポルトガルにも敗れた。それもブルガリアと同じ手を使われペレやガリンシャはファウル攻めにあった。予選リーグで敗退してイングランドを去るペレは「2度とワールド・カップに出ない」と言った。ブラジルが去る中で番狂わせがあった。イタリアが北朝鮮に1対0で敗れ世紀の番狂わせと言われた。
 決勝は地元の声援を受けたイングランドと2度目の優勝を狙う西ドイツの対決となった。メンバーはイングランドがGKバンクス、FBコーエン、J・チャ-ルトン、ムーア、ウィルソン、HBスタイルズ、R・チャールトン、ピータース、FWボール、ハースト、ハント。西ドイツがGKチルコフスキー、FBヘッティゲス、シュルツ、ウェーバー、シュネリンガー、HBハーラー、ベッケンバウアー、オベラート、FWゼーラー、ヘルト、エメリッヒである。イングランドは中盤の要にボビー(ロバート)・チャールトンがいて、それを徹底的にマークしたのが若き日のベッケンバウアーである。
 1966年7月30日、ロンドンのウェンブリー・スタジアムに93000人の観衆を集めて試合が開始された。試合は観てもらえば分かるが、ブラジルとは違いどちらも組織サッカーである。ただイングランドはイングランド内のリーグ戦と違い、ロングパスがが少なく、比較的にグローバルなサッカーをしている。こうしないと勝てないとラムゼーは思っていたのかもしれない。とにかくこの当時のイングランド・リーグのサッカーと言うのは長い縦パスを入れ、そこからセンターリングかクロスを入れ、それをヘディングなり脚なりでシュートするというサッカーが主体だったのである。
 さて、試合は13分、西ドイツのハーラーがディフェンスのこぼれ球を決め先制。しかし、19分、イングランドはムーアのFKをハースト頭で合わせて同点。後半に入り78分、西ドイツのクリアミスのボールをピータースが蹴り込みイングランドがリード。時間も89分になりイングランド待望の初優勝が目の前に迫ったが、ここで西ドイツがFKを得る。FKから相手にあたり跳ね返ってきたボールを処理する両チームの選手たちが混乱する中でウェーバーが蹴り込み同点。とうとう延長戦に突入。
 延長に入ってからしばらくはイングランドがボールを支配する。そして問題のゴールが101分に起こる。右サイドを抜けたボールからペナルティエリア内にいるハーストにボールが出るとハーストはシュート。そのボールはクロスバーに当たり真下に落ちて跳ね上がる。所謂オンラインだ。ゴールかノーゴールか。判定はゴール。すぐさま西ドイツの選手が抗議するが覆るものではない。これが今でも伝説になっている疑惑のゴールである。これで3対2、勢いづいたイングランドは延長後半の120分。縦のロングパスを受けたハーストが持ちこんでゴール。これで決勝戦にジェフ・ハーストはハットトリックを記録する。しかし、この頃のイングランドは確かにいいチームだったことは確かである。マンチェスター・ユナイテッドに所属しているボビー・チャールトンは若い時、ミュンヘンで飛行機事故に遭い一命をとりとめたが、そのことが何時までも心の傷として残っていたが、この事故が人間的に成長させ、同時にクラブチームとしてもマンUは全盛期にあった。なお、この当時、ボビー・チャールトン以外にもジョージ・ベスト、デニス・ローが同クラブにいたが、ジョージ・ベストは同じイギリス人でも彼は北アイルランド代表、デニス・ローはスコットランド代表なので、当然のようにイングランド代表には加わらない。もしこの当時、このイングランドにジョージ・ベスト、デニス・ローが加わっていたら凄いチームだと想像するが、現実では有り得なくて本当にイギリスはサッカーに関しては何時までも保守的である。
 
この試合は延長になったので部分的にカットされています。

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2014.06.22 (Sun)

You Tubeで1962年ワールド・カップ決勝を観る

 一昨日の朝7時からワールド・カップ日本VSギリシャ戦が行われた。ちょうど出勤時にあたるため、大部分の人は携帯電話で観戦していた模様で、電車の中でも情報が入る有様。でもなかなか点が入らず、それで前半の38分にギリシャのカツラニスが2度目のファウルにより退場。これでギリシャが10人で試合を戦わなくてはならなくなった。この時、若者2人組の中の1人が「よっしゃ! 後半3点ぐらい貰うか。これで勝てるぞ」と言っていたが、小生はこれで余計に点を取るのは難しくなったのではと思った。それは何故かというと、本来からギリシャは守備的なサッカー。以前ヨーロッパ選手権を制した時のサッカーが思い出される。ほとんどFW以外の選手はゴールの前で張り付いてヨーロッパの強豪たちがゴールを割ることが出来ず、ギリシャのカウンターにやられたのである。観ていても面白くないサッカーだが、点を与えなく僅かのチャンスで点を取り逃げ切るという安全運転サッカーでヨーロッパを制したのである。それをやられると日本の精度の欠いたサッカーでは、ボールを回すものの最終ラインを崩せず、点を取るのにも一苦労するのではと危惧したのである。それで後に結果を聞いたらスコアレス・ドローだという。またまた相手の術中に嵌ってしまったか。これでは予選リーグ突破がほぼ絶望となってしまった。勝ち点が並ぶと得失点差が問題になるので、最早コロンビアに3対0ぐらいで勝たなくては予選リーグ突破は不可能となった。たとえ勝ったとしてもギリシャがコートジボワールに勝てるかな・・・・・。ギリシャは点を取られなくても点を取れないサッカーだから、日本はコロンビアに圧勝しないと決勝トーナメント進出は難しい。いずれにしても自力では無理なのだ。それにしてもこの国内での盛り上げ方は凄いものがある。NHKまでが前日にニュース番組の中で特集するほどだから、如何にも日本が強くなったのだと錯覚を起こしてしまう。小生、今回のワールド・カップ、日本代表が予選リーグを突破するのはかなりの確率で難しいと思っていたので、悔しいだとかの気持ちも起らない。前回の南アフリカ大会の時は上手い具合にデンマーク戦でフリーキックが2本決まり予選リーグを突破した。相手のディフェンスを崩しての得点ではない。さらに、あれから4年、日本人の多くが海外のビッグクラブ入りする選手が増えたので強くなったと勘違いしているにすぎないと思った。しかし、よく考えたらマンUやACミランに移籍したからって彼等がレギュラーの位置を獲得しているかといえば、けしてそうではないだろう。それにザッキローニが日本らしいサッカーをすると言っていたが、この日本らしいサッカーと言うのが良く判らない。攻撃的にいくというが世界の壁は厚いのだ。確かにアジアの中では強豪国になった。しかし、アフリカ勢には身体能力で劣り、個人技では南米勢に勝てない。さらにフィジカル的にはヨーロッパ勢には歯が立たない。するとどうすればいいのだろうか。結局パスをつないだサッカーということなのか。しかし、今回パスの精度が悪過ぎてスピードもないからコートジボワール戦ではすぐに相手にボールを奪われるし、ギリシャ戦では中盤でボールを支配するも、そこからの突破力がなく、ゴールをこじ開けれない最悪の展開。日本にはメッシもいないしネイマールもいない。個人技で突破できる選手もいない。しかし、もう負けれないし首の皮1枚残っているというようなものではない。崖っぷちどころか、もう落下中だ。ただ相手のコロンビアがメンバーを落して、なめた試合をしてくれれば一抹の望みはあるかな・・・・。まあ期待はしていないが・・・。

 さて、日本の話題はこれぐらいにして、前回、You Tubeで1958年のワールド・カップの決勝、ブラジルVSスウェーデン戦をアップしたが、今回はその4年後に行われた1962年のワールド・カップ・チリ大会の決勝、ブラジルVSチェコスロバキア戦の時の映像をアップした。前回、初優勝したブラジルは、この大会も優勝候補で乗り込んできた。メンバーも前回優勝時のメンバーが大半残り大会当初から好調だった。だが、ブラジルは予選リーグ2戦目のチェコスロバキア戦でペレが太股を故障。以降の試合に出れなくなった。当時のルールでは試合途中にメンバー交代が出来ず、ペレは脚を痛めながらも最後まで出場したが、この試合0対0で終わってしまう。これは一大事だが、次の試合からはペレの代わりに23歳のアマリウドが入りその穴を埋めた。この辺り流石ブラジルだ。タレントが豊富と言うか、ペレを欠いても補欠のアマリウドがきっちり活躍する。しかし、この大会でもっとも光ったのは右のウイング、ガリンシャである。前回のスウェーデン大会の時から独自のドリブルで相手のディフェンス陣を嘲笑ったが、どちらかというとペレにスポットライトが浴びていた。だが、今度はペレがいなくなってしまった。するとガリンシャはクロスも出すが、自らもゴールを狙いだす。そして大会が終わった時、ガリンシャは同僚のババとともに得点王に輝いていた。
 それでは1962年のワールド・カップ決勝の話をしよう。メンバーはブラジルがGK
ジウマール、FBジャウマ・サントス、マウロ、ソジモ、ニウトン・サントス、HBジト、ジジ、FWザガロ、アマリウド、ババ、ガリンシャ。チェコスロバキアがGKスフロイフ、FBティヒィ、プレスカル、ポプルハール、ノバーク、HBクバシュニャーク、マソプスト、FWポスピハール、スヘレル、カドラバ、イェリーネク。共に布陣は4―2―4である。
 試合はまず15分にチェコスロバキアが先制した。ポスピハールのパスをマソプストが決める。だがブラジルはすぐに反撃。2分後の17分、左サイドを突破したアマリウドが狭い角度からゴールして同点。前半は1対1で終了。後半に入り73分アマリウドのセンターリングをジトが頭で落とし2点目を入れる。さらに88分、ゴールキーパーのキャッチミスをババが蹴り込むごっつあんゴール。こうして3対1でブラジルが勝ち、ワールド・カップ2連覇を果たす。ところでブラジルは前回のスウェーデン大会の時とメンバーは3人しか変わってないが、背番号が前回とかなり違っている。前回11番だったガリンシャは7番。21番だったザガロが7番。19番だったババが20番。4番だったジトが19番。8番だったジジが6番。2番だったジャウマ・サントスが4番。6番だったニウトンサントスが12番である。ただし決勝には負傷で出れなかったが、ペレは10番のままである。これでブラジルの10番はペレと言うイメージが定着してしまったのだろう。

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2014.06.16 (Mon)

You Tubeでワールド・カップ伝説の試合を観る

 昨日、ブラジルのワールド・カップで日本の緒戦である対コートジボワールが行われた。それで小生はちょっと出かける用事があったのだが前半だけは観た。それで本田がゴールを決めてリードした。それで前半は終了。ただ印象的には重苦しい試合で、ほぼボールは支配されていて日本の選手の動きが悪いところが目につき後半危ないかなと思いながら家を出たら、案の定、逆転されて負けていた。高温で多湿、雨が降っていたからと言いたいが、これは言い訳にはならない。相手も条件は一緒だから。ただコートジボワールの選手の方が暑さに強かったかもしれないかな。とにかく完敗だった。前半を観ただけだが日本が世界の舞台で強豪と渡り合うには、まだ時間を要するという感じがした。2戦目以降、非常に厳しい戦い方が要求されるようになったな。
 ところで最近はYou Tubeという便利なものがあって、色々な貴重な動画をいとも簡単に観ることが出来るので有難い。なにしろ世界中の誰かが色々な動画を投稿してくれるので、時々、あっと驚くような動画にお目にかかれる。それでワールド・カップで盛り上がっている最中と言う時期もあって、それとなく検索していたら1958年のワールド・カップ・スウェーデン大会の決勝がそのまま実況付きでアップされていて、初めて試合を最初から最後まで観た。おそらくスウェーデンの放送局がテレビで中継した時の映像が残っていて、それを投稿した人がいるのだろう。1958年と言うと昭和33年である。まだ日本ではテレビのある家庭も少なかった時代だから、この時代のテレビ中継の録画が残っていることにまず驚く。それと、この試合は伝説の試合として知られている。それはサッカー王国ブラジルが初優勝したこと。そしてサッカーの王様ペレが17歳で衝撃的なデビューをしたこと。これだけで伝説の試合と言われるのだ。小生は小学校の高学年のころに外国にペレと言うサッカーの天才プレーヤーがいるということを雑誌で読んで知ったが、何処の人かも知らないしどんなプレーをする人なのかも判らなかった。サッカーと言うと、ただボールを前に蹴ってゴールに蹴り込むものだと思っていた。それが中学に入り1966年のワールド・カップの記録映画を観て、それまでのサッカーの概念が180度変わってしまたのである。その当時、日本でも社会人による日本リーグと言うのが創設されたので試合中継もあった。ところがワールド・カップで行われている映像を観ると、日本リーグよりも遥か上の水準のプレーを外国人が繰り広げられていたのである。そんな中でブラジルの選手のプレーにより惹かれたことは言うまでもない。殊に右のサイドからドリブルで突破をするガリンシャ、そしてサッカーの申し子ペレ。残念んがらこの大会、ペレは徹底的にマークされ、脚を蹴られ負傷して、ブラジルは敗退した。その4年後、ブラジルはメンバーを一新してメキシコのワールド・カップで3度目の優勝をして、ペレはブラジルの代表から引退するのだが、そんな中で、ペレが世界的に有名になった1958年のワールド・カップのことが当時、雑誌とかでよく採り上げられていた。この大会、初優勝を目指していたブラジルだが大会の始めの頃は調子が上がらず、得点不足に悩んでいた。そして監督は、大会途中からビッコのガリンシャと17歳の新人ペレを苦し紛れに投入した。するとこの2人がチームに加わってからブラジルは快進撃。とうとう優勝してしまったのである。そして17歳のペレはここから伝説が始まるのであり、狂気のドリブラーと言われたガリンシャもこの大会から羽ばたいたのである。

 さて前置きが長くなったので、1958年ワールド・カップ決勝。ブラジルVSスウェーデンの話をする。スウェーデンは地元。ブラジルは南米のサッカー大国だが不思議と、これまで優勝を逃してきた。1950年の地元ブラジルで行われたワールド・カップでウルグアイに敗れ自殺者まで出た。これをマラカナンの悲劇と言うが、その後に才能豊かなタレントが大勢出てきて、初優勝を狙っていたのである。
 メンバーはスウェーデンがGkスベンソン、FBベリマルク、グスタフソン、アックスボム、HBボルイェソン、バーリング、FWハムリン、グレン、シーモンソン、リードホルム、スコーグルンド。ブラジルはGKジウマール、FBオルランド、ベリーニ、ジャウマ・サントス、HBニウトン・サントス、ジト、FWジジ、ザガロ、ババ、ペレ、ガリンシャである。つまり両方とも5―2―3の布陣であり、現在のサッカーとは随分と違う感じがする。FBは今ではDFのことでありHBはMFのことである。今のようにMFが多い時代とは違い、当時はのんびりとした牧歌的サッカーをやっていたから、中盤の選手を多く入れることはなかった。プレスもあまりかけないしボールをとにかく持たしてくれる。だから接触プレーも少なく従ってファウルもあまりないから観ていても気持ちがいい。現在のようにコンパクトで流動的サッカーとは明らかに違っているし、悪く言えば古色蒼然としたサッカーともいえる。だが、そんな中でもきらりと光るプレーも多い。
 この動画を観て感じるところも多く、当時からブラジルの選手は個人技が素晴らしいということが判る。試合はベリーニ、リードホルムの両キャプテンの握手から始まって、開始4分でリードホルムが左隅に先制のゴール。地元の観衆を味方にしてスウェーデンがリードする。しかし、徐々にブラジルの個人技が勝りだす。9分には右サイドをドリブルで持ち込んだガリンシャが右へグランダーのクロスを出すとペレが左へ出す。それをババがゴールして同点。ブラジルの選手は喜ぶがババは「時間がない」といって先を急ぐ。32分にはまたガリンシャからクロスボールが出てババがシュート。ブラジルは2点目で逆転。ババとペレが抱き合う。後半に入り54分、伝説の3点目と言われるゴールが生まれる。ニウトン・サントスから前線にいるペレへセンターリングが上がるとそれをペレは胸でトラップし、膝で浮かし相手ディフェンスをかわしてボレーシュート。3点目が入る。このプレーが当時、あまりにも衝撃的だったので、たちまちペレの名は世界中のサッカーファンの中に轟いてしまったのである。さらに68分にブラジルはザガロ(後のブラジル代表監督)が決め4対1、80分にスウェ-デンが1点を返し4対2。ところが終了間際にセンターリングをペレがヘディングでゴールし5対2。そして終了。ブラジルが念願の初優勝。ところで今思うこと。この当時は、ほとんどロスタイムを取ってない。まあ、ファウルも少なかったので、ロスタイムも必要ないかもしれないし、オフサイドも非常に少ない。今のようにオフサイド・トラップを果敢にかけることもないし、FBの選手は前線に攻撃参加することも滅多にない。古き良き時代のサッカー・スタイルだったかもしれない。今のサッカーのスタイルは1974年のオランダ・チームが築きあげたとされ、ヨハン・クライフを中心とした激しいサッカーを試みるようになってからである。DFの攻撃参加、オフサイド・トラップ、リベロの存在。カウンター攻撃。今は色々ある。まあ、何だかんだというよりも動く映像を観る方が説得力があるので1時間半堪能してください。
 尚、モノクロの古い映像なので観にくいから主な選手の背番号を記しておく。ペレが10番、ガリンシャが11番、ババが20番、ジジが6番、ジトが19番、ザガロが7番、ニウトン・サントスが12番、オルランドが15番、ベリーニが2番、ジャウマ・サントスが4番。ジジはFWだが今でいうとMFの位置かな。ニウトン・サントスはボランチのようなもの。スウェーデンはハムリンが7番、グレンが8番、シーモンソンが9番、リードホルムが4番、もう残りはいいか。スウェーデンは大ベテランのグレンが精神的支柱であり、彼からボールが回される場合が多く、個人技はブラジルに劣っているので組織サッカーをしている。ところでブラジルもスウェーデンもユニフォームは黄色と青で全く同じ。だからこの時はブラジルが青と白のセカンド・ユニフォームを着用している。

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2014.06.15 (Sun)

シベリウス 交響詩『フィンランディア』を聴く



 第2世界大戦後、連合国側は戦争責任者の摘発を始め、やがて勝者側が敗者を捌く極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれた。小生は当然、この時代を知る筈もないが当時の映像がニュース映画として残っていて、その映像が映し出されると同時にナレーションとともにある音楽が流されていて、やけにその音楽の印象が強かったのを覚えている。そして、その曲こそがシベリウスの『フィンランディア』であった。
 何故、この歴史的事件の映像にフィンランディアが流されたかというのには訳があるだろう。この『フィンランディア』はタイトルから察しされると思うが、シベリウスが祖国フィンランドの大自然や住民の心を歌い上げた勇壮な交響詩である。そもそもフィンランドという国は長い間スウェーデンに、ついでロシアに征服され支配下に置かれていたのである。殊に19世紀末には帝政ロシアの圧政下で喘いでいて1899年ロシア皇帝ニコライ二世の公布した二月宣言によって立法権を奪われたのである。フィンランドの民は、この暴政に対する抗議のしるしとして1899年11月ヘルシンキにおいて一連の愛国劇を上演する。その時、ヤン・シベリウスは『フィンランドは目醒める』というタイトルの管弦楽組曲を提供。その組曲のフィナーレが10分に満たない交響詩『フィンランディアである』。そして、4曲の組曲の最後の『フィンランディア』が現在は独立して頻繁に演奏されるようになったということである。
 この曲が誕生した頃、フィンランドは国そのものが存亡の危機にあったのである。当時34歳だったシベリウスは、ロシアの支配下にあったフィンランド国民に愛国心を蘇らせ、独立への希望をかき立てようと意図してこの曲を作ったことは疑う余地もないだろう。事実として1900年7月のパリ万国博覧会で初演されて以来、フィンランド国民から熱狂的に支持されたのである。ところが、あまりにもこの影響が大きいことを心配した時の政府は、ロシア治下ということもあり、この曲の演奏を喜ばず一時は『フィンランディア』というタイトルを変えなければならなかった。さらには演奏禁止の処分を受けてしまうほどだった。少なくとも一つの音楽、特定な理由に基づいて権力機構から政治的干渉を受けた例は、当時としては非常に珍しかったのである。
 1917年、ロシアには革命が起こりレーニン一派によりソヴィエト連邦が形成される。そして皮肉にもフィンランドは念願の独立を獲得、1919年共和国宣言が行われ、独立式典の開幕には『フィンランディア』が演奏され、以来、この曲はフィンランド内の式典開幕の象徴として毎度、演奏されるのである。
 この曲の中間部に出てくる民謡風の旋律は、よくフィンランド民謡と解説されるが、シベリウス自身のオリジナルであると本人が述べているので、おそらくそうだろう。管楽器が自由と独立を求めて祈願する讃美歌を歌い、弦楽は希望への祈りを歌う。管と弦が交錯し民族の勝利を高らかに誇らしげに絶叫するかのようだ。
 ところでシベリウスは1929年、60歳を過ぎたところで作曲活動を止めて、91歳で亡くなる1957年までの一生の3分の1を、別荘にアンテナを立て、世界中の短波による自作品の演奏を聴いて過ごしたという。これを人呼んで謎の空白と言う


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2014.06.13 (Fri)

ワールド・カップが始まった・・・・・

 ブラジルでサッカーのワールド・カップが始まった。そして今朝、開幕試合のブラジルVSクロアチア戦がテレビで放映されていた。朝は忙しいので観るつもりはなかったが何気に観てしまった。それでブラジルが自殺点のあと逆転で勝ったが、主審と副審3人が全員日本人と言うではないか。時代も変わったものである。小生、今でこそサッカーにさほど関心がなくなったが、昔は熱中したものだ。ただ小生がワールド・カップに関心があった頃と言うのはサッカーそのものに関心がある人が少なくて、ペレと言ってもサッカーマニアぐらいしか名前を知っている者はいなかった。1970年にメキシコでワールド・カップが行われたが、テレビ放送などある筈もなく、新聞の記事でも隅の方に小さく書いてあるだけで、月遅れのサッカー雑誌で詳細を知るという有様だった。結局、決勝戦のブラジルVSイタリアの試合は数週間後にテレビの録画放送で観たという覚えがある。今の若者は信じられないだろうが、1970年当時でもサッカーっていうのはその程度の人気だったのだ。当時、小生の周辺で探してもワールド・カップに関心がある者など皆無だった。あの当時、スポーツというと野球だったのである。それだけに当時からサッカーに関心があった小生にとっては今の日本国内におけるワールド・カップへの関心度の高さには驚くしかない。
 何時の頃からだろうか。1974年の頃は決勝戦だけが生中継されたのかな。そして1978年からほとんどの試合がテレビで中継されるようになった。でも一般的にいってサッカーへの関心が高いかと言うとそうでもなかった。所謂、サッカーファンの間だけで関心が持たれていて、ワールド・カップの存在もごく一部の人間にしか浸透していなかった。1978年でもまだこの程度だったのだ。それが1993年に日本国内でJリーグと言うプロサッカーリーグが誕生してから一般的にサッカーへの関心度が高まり、1998年に日本が始めてワールド・カップに出場し、そこから一気にワールド・カップ熱と言うのが高まったように思う。そして2002年、日韓共催という形であったが、日本国内でワールド・カップが開催され、これで子供から大人まで、日本各地にワールド・カップが浸透したということかもしれない。
 それが今やワールド・カップと言うだけでテレビの視聴率も跳ね上がり日本戦ともなると、たとえ夜中でも日本人のかなりの人が観戦する国民的イベントとなってしまった。本当に時代の変遷に小生はただ驚いているのだが・・・・・・。だが、小生は昔からへそ曲がりの性格で、皆が注目するともうどうでもよくなるというか興味が薄れてくる。まだ誰も注目しなかったワールド・カップの時の方が自分の中では関心度が高かった。つまりベールに包まれていたというか、ペレやガリンシャの動く映像を観たくてどうしようもなかった少年時代。大学生の頃に西ドイツで行われたワールド・カップではヨハン・クライフの華麗なプレーに触れたかったものだが、当時は中継すらなかったものである。つまり観れないと思うと観たくなる。要するに観たいという欲求があっても簡単に観れない時代だったから余計に熱中したのかもしれない。それが今のように何時でも映像が手に入る時代だとおそらく当時のように熱中はしなかったかもしれない。今だと何処の国の選手のプレーでもDVDやyou tubeとかで観ることが出来るようになった。それだけ今の選手はどれだけ凄いプレーをしてもすぐに映像で世界中に伝わるからベールに包まれるということはない。だからどれだけ凄い技術を披露しても驚嘆することもなくなった。それよりも映像がなかなか観ることが出来なかったペレやガリンシャ、ヤシン、エウゼビオ、ボビー・チャールトン、ベッケンバウアーがいたワールド・カップ時代の方が小生は熱中したものなのだ。ただ、今の選手はあの当時よりも数段上のプレーをしているのだが、世界中で絶えず映像に晒され続けているので格別に驚くこともない。それだけサッカー全体の質が上がっているのだろう。おそらく今の子供が昔のペレの妙技を観ても何にも驚かないだろう。今はそれだけサッカーの技術が上がっているのだから。ただ当時のサッカーのレベルからして、ペレのようなテクニックを見せる選手は少なかった。つまり東洋の島国のサッカー後進国だった日本で、ワールド・カップの映像が観られることもない時代では、それほど彼らのプレーが華麗であり新鮮であったということである。

懐かしのガリンシャ

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2014.06.09 (Mon)

第235回英国ダービー

 一昨日のことになるが現地時間6月7日ロンドン郊外エプソムダウンズ競馬場で伝統の第235回ダービーS(G-Ⅰ・3歳、12f10yd、16頭)が行われた。今年は16頭が出走し1番人気の2000ギニー3着馬Australiaヶ中団から直線で伸びてきて見事に1人気に応えた。結果は次の通りである。

1着Australia 2分33秒63、2着Kingston Hill 1馬身1/4、3着Romsdal 3馬身1/4、4着Arod 3馬身3/4、5着Red Galileo 1馬身1/2。

 Australiaはこれで5戦3勝2着1回3着1回。血統は父がGalileo、母は日本でもディープインパクトやハーツクライとジャパンCで一緒に走ったことのあるOuija Boardである。

 なお同じく6月7日アメリカ3歳三冠レースのベルモントSも行われ、3冠を狙って出走してきたCalifornia Chromeは4着に敗れ、またも3冠馬は出なかったということを記しておくとする。

※残念ながら英国ダービーの動画はアップできません。もし観たければyou tubeで検索して観てください。

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2014.06.08 (Sun)

雨か暑いか・・・・

 もう梅雨入りしたみたいだが雨の降り方がよくわからない。局地的に大雨が降る所があるかと思えば、小生のところは本当に降らない。降ってもサーと降るだけで、そのときは涼しいが、一旦、雨がやんで晴れ間がのぞくと途端に気温が上昇。そこへ湿気が加わり蒸し暑くなる。モワーとした生温かい空気が漂い汗が滴り落ちる。いよいよ嫌な季節になってきた。今年はエルニーニョ現象が起こるとか言って北日本、東日本では冷夏になりそうだという今のところの予報が出されているが、これは日本全土がそうなるというのでもなく、偏西風や気圧配置の関係で西日本は必ずしもそうではないようだ。むしろ逆に酷暑になるかもしれない。酷暑と言っても毎年のことだから、また暑い夏が来るといった心持でしかないが、もしかして昨年の夏よりも暑くなるというのではという不安もある。例年通りというのならまだ耐えられるかもしれないが、最近の夏は毎年のように、記録づくめときているから今年も今頃になると憂鬱になってくる。これから少なくとも9月までは嫌な季節である。でも1年で夏が1番好きだと言う人もいるが、小生には考えられない。もっとも住んでいる地域によるものであるが、京都周辺なんてところは、夏に限っては地獄のようなところだ。せめて湿度でも低ければまだ耐えられるが湿度も高いし気温も高い。こんなのが6月から始まり9月下旬まで続くから鬱陶しいことこの上ない。去年は今頃から入院し7月下旬に退院したので梅雨から夏に移り変わる様を体験していない。この間、ずっと冷房の効きすぎる病院内にいて苦痛と退屈な日々を送っていたから完全に一夏を過ごしたというのでもない。だから今年の夏は要注意であり、これからが本格的に体力を奪われる季節になる。本当に嫌だ。今日も朝から晴れてムッとした感じである。6月も初旬だが、これから先が思いやられる。なので小生は毎年、秋が来るとホッとするのだが・・・・・。
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2014.06.01 (Sun)

第81回東京優駿(日本ダービー)

 今年もやってきた競馬の祭典、日本ダービー。それにしても暑い。真夏のような中でのダービーである。それでも東京競馬場には13万人以上の入場人員があったらしい。やっぱりダービーとなると違うのかな。それで今年は皐月賞馬のイスラボニータが1番人気、2番人気がトゥザワールド、3番人気がワンアンドオンリー、4番人気がレッドリヴェール、5番人気がトーセンスターダムの順だったが、皐月賞3着のウインフルブルームが出走を取り消してしまった。
 さて第81回東京優駿(日本ダービー、G-Ⅰ・3歳、芝2400m、17頭)が行われた。カンカン照りだが馬場は前残りがあり、パンパン馬場とは言えないらしい。それでスタートからエキマエが逃げた。そして2番手にトーセンスターダム。何時もは後ろから行くのにどうしたのかな。武豊の作戦か。またワンアンドオンリーも前に行った。この馬も差してくるというのに・・・・。イスラボニータは3番手。トゥザワールドは中団。レッドリヴェールは後方から追走。エキマエが7、8馬身離して逃げる。1000mを59秒6で通過。エキマエは平均ペースだが、後方は遅めということになる。ところが3コーナーでエキマエが故障して失速。ここでトーセンスターダムが押し出されるように先頭に立つ。4コーナーでソーセンスターダムが先頭。それに並ぶようにイスラビニータが2番手。直線に入ってもトーセンスターダムが先頭で、イスラボニーータが追う。その外からワンアンドオンリーも迫る。ところがあと300mで何とトーセンスターダムが内ラチにぶつかり失速。何ていうことだ。ここでイスラボニータ先頭に出る。あと200m。イスラボニータとワンアンドオンリーとの一騎打ちとなった。びっしり競ったが最後にワンアンドオンリーが競り落として勝った。

 1着ワンアンドオンリー 2分24秒6、2着イスラボニータ 3/4馬身、3着マイネルフロスト 1馬身1/2、4着タガノグランパ クビ、5着トゥザワールド クビ。

 追い込みが効かない馬場と言うこともありトーセンスターダムもイスラボニータもワンアンドオンリーも前に行ったが、肝心なところでトーセンスターダムがラチとぶつかるアクシデント。先頭に立ったイスラボニータをワンアンドオンリーガ外から接近して競り合いの末勝ったというレース。しかし後味の悪いレースだった。それにしても橋口弘次郎調教師は定年を前にしてようやくダービー・トレーナーに輝いた。これまでダンスインザダーク、ハーツクライ、リーチザクラウン、ローズキングダムとダービー2着が4回もあり、ダービーに対する執念は他の調教師以上にあったようだ。今回、ハーツクライの産駒でやっとダービー馬の調教師になった。まさに引退前の花道と言うところか。
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2014.06.01 (Sun)

高校野球春季近畿大会に行く

 5月だというのに真夏のような昨日、高校野球の春季近畿大会行って来た。このところ連日の真夏日で早くもバテきみなのだがわかさスタジアム京都で高校野球の近畿大会が行われているので観戦に行って来た。遠いと行かないのだが、わかさスタジアムだと近いので観に行ったということだ。
 阪急の西京極駅で降りるとすぐ前にある。昔は西京極球場という名称だったが、何時の間にかわかさスタジアム京都という名称に変わっていて、最初は日本海側に最近造られた球場だと思っていた。それが2009年から『わかさスタジアム京都』と名称が変更されていた。古い球場で昭和7年開場、収容人員は20000人。もっともその後、全国各地には立派な球場が出来、それらと比較すると古くから大都市だった京都にあるにしてはちっぽけな球場ではある。まあ、京都にはプロ野球の球団がないから立派な球場はいらないが、戦後直後には松竹ロビンスというプロ野球球団があって、この西京極球場を準フランチャイズとしていたのだ。その後、松竹ロビンスが大洋ホエールズとなり京都を去ってからは本格的な球場を敢えて造る必要もなく現在に至っている。そして、今では交通の便が良くて社会人野球、大学野球、高校野球、女子プロ野球に使用される頻度も多く、京都では必要不可欠な運動施設となっているのだ。
 さて、わかさスタジアム京都にくるのも久しぶりだ。高校の頃はよく野球部の応援に来たものだが、当時はラッキーゾーンがあったものだが今はないのだな。昨日は高校野球春季近畿大会の準決勝である。第一試合が京都の鳥羽高校VS大阪桐蔭、第二試合が兵庫の報徳学園VS京都の龍谷大学平安高校。三校は甲子園の常連で強豪校だが、鳥羽高校はあまり馴染みがないと思われる。でも、この高校は旧制の京都第二中学校を引き継ぐ高校なのである。京都二中と言うと高校野球ファンならすぐに判ると思うが、第1回の夏の中等野球(現高校野球)で優勝した名門校だった。それが戦後の学制改革で京都第二中学校の名前は消滅。その後に他校へ学籍簿は転々とし、京都二中の場所は市立洛南中となった。そして洛南中が移転した後、1984年、京都二中のあった場所に府立鳥羽高校が開校したのである。どうりで小生は知らない筈だ。小生が高校の頃には鳥羽高校ってなかったからなあ。

 第一試合が始まったが、いきなり1回の表にピッチャーの立ち上がりをついて鳥羽が1点を先取。おお、やるなと思ったら大阪桐蔭が地力を発揮。7回裏のホームランで終了。8対1のコールド勝ち。昨秋、履正社に1対13で大敗した同じチームとは思えない。短期間でチームを鍛えなおしてきたようだ。大阪の春季大会でもPLを8対3で倒し、昨秋に大敗を喫した履正社にも8対5で打ち勝って近畿大会へ駒を進めてきた。これで一躍、夏の甲子園大会の大阪代表の有力候補にのし上がったようだ。とにかく打撃がいい。ただ投手力が打撃ほどではないかなという印象だ。
 第二試合は報徳VS平安という名門同士。これは好カードである。しかも平安は選抜で優勝したチーム。しかし、2点を先取したものの投手が大乱調。コントロールが定まらず、置きに行った球を痛打され、おまけに三本間の挟殺プレーで悪送球して点を与え、そのあとは二死三塁でピッチャーゴロでチェンジかと思ったら、何とピッチャーが一塁へ大暴投でまた加点。もう滅茶苦茶。これで平安は負けたようなものだ。まあ、シード権もとったし近畿大会は調整のようなものかもしrないが、今日の試合はいただけない。監督も二番手、三番手投手を育てる意味もあったのかもしれないが、平安も投手力に不安がある。しかし、暑くて暑くてどうしようもない。まるで夏の地方予選を観ている感じだった。

鳥羽VS大阪桐蔭


この球場は昔から一つも変わってないな


第一試合終了。これから整列して校歌斉唱


左翼への場外ホームランで7回コールド


第二試合は名門同士


第二試合も終了
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6対3で報徳学園の勝利。3回表の4点は平安のミスによる得点。これがなければ良い試合だったのに。


隣の西京極陸上競技場では高校総体(インターハイ)の京都府予選が行われていたので、ついでに観戦して帰った。


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