2009.04.29 (Wed)
豚インフルエンザ
豚というのは人や鳥のA型インフルエンザに感染しやすい動物といわれ、過去に豚インフルエンザが人に感染した例としては、1976年2月アメリカのニュージャージーの陸軍基地で約500人が感染し1人の死者を出した例が報告されていて、1988年にもアメリカで流行したことがある。豚インフルエンザが初めて見つかったのもアメリカで、1930年にアイオワ州で確認されたのが最初の報告例である。
ただ今回はメキシコでの感染被害が酷く、今のところ死者が出ているのもメキシコだけである。ただ今回の豚インフルエンザ騒動で思うのは、使者が多数出ているメキシコが発生源なのかというと、どうもそうではないというよりも真相がまだ掴めてないようだ。メキシコでは4月の2日より前に4歳の男児が豚インフルエンザに感染していたということが最近判明したばかりだし、その2週間後の13日になってオアハカ州で初の死者が出た。この間に猛烈なスピードで感染が拡大したものと思われる。このメキシコで最初に豚インフルエンザが発見されたところというのは、山間部の村で、周辺には大規模な養豚場があり、廃棄物によって周辺の水や空気が汚染されたとして住民達の抗議運動が続いていて、今年2月には既に体調不良を訴える住民が続出していたとされ、ここが豚インフルエンザの発生源ではないかという人もいるが真相は判らない。何故ならメキシコで豚インフルエンザと男児が確認される以前に、アメリカのカリフォルニア州では3月28日に9歳の少女が豚インフルエンザと思わしき症状をを発祥しているからだ。また同じカリフォルニア州で3月30日、10歳の少年が同様に発祥しているし、4月5日にはやはりカリフォルニア州で54歳の父と16歳の娘が発祥。10日にテキサス州で少年2人が発祥。12日にカリフォルニア州で41歳の女性が発祥。そして13日になってようやくメキシコで豚インフルエンザが発見されたと発表されているから、メキシコ当局の対応の遅さが今回の拡大に繋がったと思われるが、アメリカなのかメキシコなのか、現在のところ何処が発生源なのかさっぱり判らない。
その後、4月16日、メキシコ政府が警戒態勢に入ったが、その時点でメキシコ国内の感染は各地に広がっていたものとされ、26日で感染が疑われる死者が68人。24日にメキシコ市とメキシコ州で学校が休校となる。その翌日の25日、WHОが緊急事態宣言と発表と、この豚インフルエンザ拡大のニュースが世界に伝わったという経緯である。
ここにきて世界へ豚インフルエンザが急速に拡大しつつあり、WHОの対応がメキシコ政府同様遅かったことが、今回の騒動の要因の一つなのだが、日本政府も大丈夫かと問いただしたい。既に豚インフルエンザに感染している人が日本国内にいないとも限らない。今の世の中、毎日、飛行機でこれだけ多くの人が世界各地へ移動しているのだ。それらの人がウイルスの運び屋として介在し、即ち何時でも何処でも同様な症状を訴える人が出てきてもおかしくないからある意味で怖いのである。今、巷で使われだした世界的な感染症及び伝染病の流行をパンデミックというが、その逆に地域内の流行に留まったのをエピデミックという。だからまだパンデミックにまで到達していないものの、各国とも医療体制を強化せずに暢気に構えていると、瞬く間に感染者が増えてしまうことは目に見えている。今回、メキシコで急速に感染者が増大したのは政府の対応の甘さもあっただろうが、それよりも保健衛生上の問題だろう。医療設備も万全でないし、医療施設の貧弱な地域も多く、結局、そのことがメキシコであれだけの死者を出す原因となったのだろう。
かつてパンデミックとして有名なのは14世紀に起こったペストが知れ渡っている。これは鼠を通して広まるが、鼠の血を吸った蚤が人間から吸血すると伝染し、アッとい間に広がったという。この黒死病といわれるペストはヨーロッパを中心に大流行。世界で8000万人以上、ヨーロッパでは全人口の1/3の人が亡くなったというから怖ろしいパンデミックである。また今世紀だが、1919年にスペイン風邪といわれるインフルエンザが大流行。やはり全世界で数1000万人(明確な数字は不明)、説としては5000万人とも言われる人が亡くなっている。
所謂、過去のパンデミックを持ち出すでもなく、現在は昔と違って、諸外国への行き来が容易な時代である。だから簡単にパンデミックが起きやすい状況になっているだろう。今のところ余り貧しい国へ感染していないが、一度、極貧の国の無医村地帯に感染すると地域は全滅なんてことはあり得ることである。世界には豊な国よりも貧しい国の方が遥かに多いし、知らず知らずに感染が拡大するというのは、そのような国へ伝染した時である。だから感染症は怖いのである。ゴールデンウィークだからと外国へ出かけるのはいいが、何よりもご用心を・・・・。私は最近、外国へ行く気力も無くなったから余り関係のないことだが、日本にだけは持ち込まないで欲しいと思う・・・・・。
2009.04.28 (Tue)
チェーホフ 『桜の園』を読む

昔、物の本に、その国のことを知りたければ、その国の二流文学を読むとお国事情が良く判る。ロシアを知れたければ、ドストエフスキーやトルストイではなく、チェーホフのような文学を読むと良いなんてことが書いてあった。私はチェーホフを二流の人と見てないので、この意見には抵抗があるが的外れなことは言ってないなあとは思った。つまりチェーホフという人の書いた物語というのは、そういった感想を抱かせる文学なのである。
チェーホフという人は医者の資格を持ちながら、医者としての収入はほとんどなく、大半は戯曲や短編小説と書いて収入を得ていたという。つまり医者らしく一人、一人、患者を診るように人物を描いた人で、これといってドラマチックな物語もなく、大局的な世の中の動きを書いたのでもなく、淡々としたストーリーであるにも係わらず人物が巧に物語の中で生かされているのである。
この『桜の園』は、チェーホフ最後の戯曲で4大戯曲の一つとされるが、この作品のテーマも当時、大変革期にあったロシアという国の政治の動きなどがテーマにあるようなものではなく、落ちぶれていく貴族階級の人それぞれを描いているだけである。だが、一見、軽いタッチで書かれているようで、各自の人物像が見事に描出されていることに目を奪われてしまうのだ。
ラネーフスカヤ夫人という女地主がいる。夫人は夫と息子を失った後は外国へ逃れて、相変わらず贅沢三昧な生活に明け暮れていた。そんなラネーフスカヤ夫人がパリから桜の園へ5年ぶりに帰ってきた。それは桜の園の今後について話し合うためである。この桜の園という土地は、先祖代々から守ってきた土地であったが、その土地が競売にかけられようとしていた。夫人を久々迎えた兄ガーエフと養女ワーリャ達だったが、一家は昔の裕福な暮らしは望むべくもなく、桜の園が借金返済のため売りに出されたというのだ。そこへかつて桜の園で働いていた農奴の息子ロパーヒンが、別荘を人に貸したらどうかという提案を出す。別荘を貸し指せば、その賃料で借金は返済できるし生活費も捻出できるというものである。でも経済観念に疎いロパーヒンは言ってることの意味さえ理解できない。おまけに生活が逼迫しているにも関わらず、贅沢な暮らしをやめようとしない。結局、競売の日を迎え、桜の園を落札したのがロパーヒンだということを知るとラネーフスカヤ夫人は泣き崩れる・・・・・・・。
19世紀末のロシアでは、旧来の秩序が崩壊しつつあったのだ。様々な政治制度は現実の発展と調和しなくなり、大土地所有者の貴族社会はしだいに都市中産階級(ブルジョアジー)と新興資本家階級の支配下に入りつつあった。作家たち、とりわけツルゲーネフ、トルストイは、1860年代から70年代にかけての弱体化した社会構造を描き、ドストエフスキーは、その時代の知的葛藤を表現した。しかしチェーホフは、そんな作家達と違い、日常におけるごく普通に起こりうる事象を折込つつ、滅び行く貴族社会の哀愁を表現したのが『桜の園』なのである。従って演劇を志す若者は少なからず『桜の園』という戯曲に取り組んだことがあるのではないだろうか。チェーホフとはそうのような大衆性のある戯曲作家なのである。
2009.04.26 (Sun)
フローラS、アンタレスS
今日は天皇賞かなあと思いスケジュールを紐解くと来週が天皇賞だという。昭和の時代には決まって4月29日が天皇賞だったから、何だか5月の天皇賞はピンとこない。それで今日は何のレースが行われたかというと、フローラSとアンタレスS。個人的にはあまり力が入らないレースで、何か拍子抜けして記事などどうでもよくなった。ということで今日は結果だけにしておきます。
フローラS(Jpn-Ⅱ・3歳牝馬、芝2000m、18頭)
1着ディアジーナ 2分02秒2、2着ワイドサファイア 2馬身、3着ハシッテホシーノ ハナ、4着アイアムネオ 1馬身1/4、5着エオリアンハープ クビ。
ディアジーナはクイーンCに続いての重賞勝ちとなった。桜花賞を回避してオークス一本を目標にしたことが、ここにきて生きてきたようだ。本番はブエナビスタと戦わなければならないが、充分、ライバルとして成長してきたようである。
アンタレスS(GⅢ・4歳以上、ダート1800m、16頭)
1着ウォータクティクス 1分47秒8、2着ワンダースピード 2馬身、3着ボランタス ハナ、4着マコトスパルビエロ クビ、5着ダイショウジェット 1/2。
ウォータクティクスは見事にレコードタイムで逃げ切った。ダートコースが渋って高速馬場に変わっていたので、速いタイムの勝利となったが、この4歳馬はこれで7戦6勝、デビュー戦の芝1800mは3着だったが、それ以降はダートで6連勝。またまたサクセスブロッケン、カジノドライヴに続いて強い4歳ダート馬が出現した。これで秋以降が楽しみになった。それでは次週は天皇賞ということで、サヨナラ!
2009.04.25 (Sat)
朝から雨
4月25日、土曜日。朝から強い雨が降っていた。せっかくの土曜日だが、あいにくの雨。春は雨が多いという印象があるが、今年はさほど目立った長雨はない。でも土曜日になると、よく雨が降っている。いや、統計をとるとそんなに降ってないかもしれないが、何故か土曜に雨が降っている気がする。私は土曜日に外出することが多く、その日ばかりは雨が降らないことを祈るしかないのだが、今日は1日中・・・・・・雨模様。
朝から、例によって耳鼻咽喉科に行く。もういい加減に治癒して欲しい。朝9時には医院に入っているのだが、既に順番待ちの状態である。それに子供が多い。だから行きたくなかったのだが、しょうがない。待ち時間45分ほどで、ようやく診てもらった。だいぶ症状が軽くなったのだが、完全に鼻汁がとまったわけでもなく、時々、鼻づまりもする。何時ものように一週間分の薬をもらって土砂降りの中を帰る。足元はベトベトでどうにか帰宅。本来なら出かけるのだが、窓の外の雨が恨めしく出かけるのを諦めた。少々の雨なら出て行くが本格的に降っている。よりによって土曜日に降らなくてもいいのにと思いながら、今日は部屋に閉じこもって読書とあいなった。
ということで、こんなどうでもいい記事を書くつもりはなかったが、どうせ来週には黄金週間が待っているので、また何処かへ出かけて、記事でも書こうと考えているので、こんな記事でご勘弁ください。
2009.04.24 (Fri)
チャイコフスキーの『白鳥の湖』を聴く

子供の頃からも含め、クラシック音楽をずいぶんと長い間、聴いてきたが、最初に覚えた曲というのははっきりしている。それはチャイコフスキーのバレエ曲『白鳥の湖』だった。それは物心がついた頃だろうか、家にピンク色の木箱のオルゴールがあって、そのオルゴールの蓋を開けると『白鳥の湖』の情景で流れる曲~ラーララララーンララーンララーンラララララーンとオルゴールの金属的な音が繰り返し繰り返し奏でられる。このオルゴールは姉が幼稚園に入園した頃に買ってもらったらしいが、その曲を何度も何度も聴いている間に、すっかり耳に馴染んでしまい、当時、よくラジオから流れていた三橋美智也の『夕焼けとんび』『古城』『達者でナ』や、テレビドラマ『快傑ハリマオ』の主題歌と共に、私の愛唱歌となっていた。
『白鳥の湖』の第2幕の情景で流れる曲を幼かった私は、メロディを当然、知ってはいたが、その曲がチャイコフスキーの作曲した『白鳥の湖』の中の曲だということを理解するのには、5年も6年も先のことになるのだが、とにかく最初に覚えたクラシック音楽の曲であることは確かである。その後、私が小学生の高学年になっていたが、我が家にステレオという代物がお目見えした。それは今から考えると骨董品のような古臭いステレオである。レコードプレイヤーとラジオとスピーカーとチューナーと一つの箱の中に納まっているセパレートタイプではないステレオである。それで、そのコロンビアというメーカーのステレオプレイヤーを購入した時、一枚だけ試聴盤というレコードがついていた。それはピンポンの音や、電車が通過する音、ジェットコースターの音に混ざってチャイコフスキーの『白鳥の湖』の例の曲も録音されていて、その時に初めて私はオルゴールではないオーケストラ版の『白鳥の湖』を聴いたのである。だから『白鳥の湖』との曲の付き合いは何十年になるだろうか。甘くて優雅で典雅で煌びやかな曲の多いチャイコフスキーのメロディメーカーらしい代表曲といえるだろう。
チャイコフスキーには『悲愴交響曲』や4番、5番の交響曲。冒頭が余りにも有名なピアノ協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲、弦楽セレナード、序曲1812年、アンダンテ・カンタービレ、『眠れる森の美女』『胡桃割り人形』といったポピュラーな曲が多いが、バレエ『白鳥の湖』はよく演奏されるし、バレエとしても頻繁に上演される。でも、私はオーケストラ版の生演奏を聴いたことは一度しかない。それもバレエ公演における演奏で聴いただけである(当然といえば当然なのだが)。
20代の頃だろうか、バレエをやっていたという女性と一緒にバレエ『白鳥の湖』を観にいったことがある。私はバレエに興味はなく、伴奏音楽の方に興味があって、彼女は音楽よりもバレエダンサーやバレリーナの踊りの方に興味があったという妙な2人が並んで観ていたと言うから笑ってしまうが、とにかくその女性のバレエに対する蘊蓄ぶりは相当なもので、彼女の解説を聞いているうちに音楽の方が頭に入らなくなって、よく覚えていないという苦い体験がある。
『白鳥の湖』にはオデット(白鳥)とオディール(黒鳥)がいて、同じバレリーナが演じるだとか、32回のパ・ド・ドゥは見応えがあるだとか、マヤ・プリセツカヤは凄いだとか、バレエの上演中、彼女の蘊蓄を聞かされどおしの私は、ただウンウンと頷くだけであった。それで数日後、彼女に渡された漫画が山岸涼子のバレエ漫画『アラベスク』だった。でもそれ以来、私はバレエに少しずつ興味を持ち、今では少しぐらい判るようになった。しかし、それ以前からニジンスキーやイサドラ・ダンカン(バレエではないけれど)、アンナ・パブロワ、マーゴット・フォンテーン、ルドルフ・ヌレエフ辺りの名前を知っていた私には、さほどバレエが取っ付きにくい物でもなかった。ただバレエに少なからず興味があるなんて、男児たるもの恥ずかしくて周囲には言えないだろう。でもバレエを観る限り『白鳥の湖』に係わらず、結局のところ、音楽は演出するための添え物であって、主はバレエダンサーでありバレリーナであったということだ。だからコンサート形式で演奏される『白鳥の湖』とバレエ『白鳥の湖』の時にオーケストラピットで演奏される場合とでは、同じ曲でありながら、間のとり方やテンポの緩急の付け方が微妙に違うということを、バレエを観にいって判ったことなのである。それが所謂、バレエ曲なのである。つまり、私が良く聴きなれていた『白鳥の湖』というのは、組曲の方であり、こちらはコンサート形式でよく演奏されるので馴染みがあったということである。
第2幕~情景
マーゴット・フォンテーンのオデット(第2幕)
2009.04.22 (Wed)
映画『いちご白書』を観る
監督 スチュアート・ハグマン
出演 ブルース・ディヴィソン
キム・ダービー
ボブ・バラバン
ジェームズ・クーネン
バッド・コート
ジーニー・バーリン
【あらすじ】サイモンはボート部に所属する大学生だが、彼の大学はストライキ中。それは学校当局が、近所の子供達の遊び場になっている空き地に、予備将校訓練隊のビルを建てようとし、それに学生達が反旗を翻したことが始まりである。サイモンはボート部に籍をおくだけのノンポリ学生であり学生運動には無関心。だが、その運動に身を投じているリンダに出会う。サイモンは下心と好奇心から運動に参加するようになる。しかし、リンダには中途半端な気持ちで運動に参加しているサイモンの態度が気に入らなくなり、彼のもとから去ってしまう。リンダのいなくなった学生達の運動にやる気が起こらなくなったサイモンであるが、やがて彼らの本気度を見ているうちに本質的な闘争心が湧き上がってきた。また保守的な考えを持っているボート部員に殴られたことから、次第次第に運動の中へのめり込んでいくのであった。そして、サイモンの意識の目覚めを待ち受けていたかのように、リンダもサイモンのところに再び現れるのだ。こうして腐敗した学校当局に対して学生達は団結し、いよいよ講堂に集結する。だが学校当局は実力行使に出る。講堂の前には武装した警官隊と州兵が集結する。
この映画を観たのは高校生の頃だった。ちょうど日本でも全共闘が最後の戦いを行なっていた頃で、このような学生から派生した反政治運動が世界的に盛んだった頃の映画であろう。そもそもはジェームズ・クーネンの書いた原作があり、彼は1966年から1968年にかけての闘争を記述しているが、1968年には抗議行動が学部長事務所占拠に及び、過激さを極めた。結局、この時の出来事が映画化されたのである。そういえば同じ頃、日本でも東大の安田講堂を学生が占拠するという出来事があった。また学生闘争が極限にいたり、翌年の東大入試が行なわれなくなるという前代未聞の事が起こる。
今、思うと学生達は何をそんなに熱くなっていたのだろうか・・・・と捉えるのは簡単だが、現在の学生達が余りにも大人しくなってしまったのにも物足りなさを感じずにはいられない。暇があって色んな書を読みふけられるのも学生の特権であるし、正義感が最も目覚めるのもこの頃である。だから世の中の矛盾、理不尽、悪習慣に対して牙を剥き襟を正そうと一致団結するというのは理想に燃えた若者達の自然な行動とは思うのだが・・・・・。ただ全共闘運動は、理想と現実とのギャップをあまり理解していなっかたし、過激になりすぎて最後は内部闘争から自滅した形となってしまった。でもかつてバンバンが歌っていたヒット曲『いちご白書をもう一度』(曲は荒井由実)ではないけれど、学生が血気盛んだったあの頃のことを、私達の年代の者たちはどうしても思い出してしまうのである。今よりは良かったと・・・・・・・・・・。
『いちご白書』の冒頭。バフィ・セントメリーの歌う主題歌『サークル・ゲーム』(曲ジョニ・ミッチェル)が聴かれる。
映画の最後。学生達は講堂に集合し、全員でジョン・レノンの『平和を我等に』(Give Peace a chance)を歌い最後の抵抗を試みる。そして武装警察と州兵が突入する。一人、また一人、学生達は捕らえられていく。
2009.04.20 (Mon)
薬を飲み続けて・・・・・
特にニポラジン錠は、アレルギーによるくしゃみ、鼻水、皮膚のかゆみをおさえる薬だというけれど、眠くなる作用があり、車の運転や機械作業は出来る限り控えてくれといわれ、またアルコールを飲むと薬の強くするという。まあ、薬を飲むときは酒は飲まないが、2週間もの間、毎日、薬を飲み続けるというのも、あまり気分の良いものではない。
さて、それで2週間たっても、まだ完全に治癒してないので、一昨日に耳鼻咽喉科に行くと、今度は、またまた別の薬を渡された。今度はクラリシッドとアレロックだ。アレロック錠は、鼻炎に効果のある薬らしいが、また一週間飲み続けなければならない。それで、またまた、アルコールを控えなくてはならない。でも、本当に治るのかなあ・・・・・・・。それなら、酒も我慢するのだが・・・・・・・・。
2009.04.19 (Sun)
第69回皐月賞
スタートが切られた。前走、逃げて圧勝した最内のロジユニヴァースは横山典が抑えたようだ。それでハナに立ったのがゴールデンチケット。2番手にアーリーロブスト、3番手メイショウドンタク、その後にミッキーペトラとリーチザクラウン、そしてこれらの先行馬を見る様に断然人気のロジユニヴァースが行く。その後にはナカヤマフェスタ、モエレエキスパート、イグゼキュティヴが行き、ベストメンバーがいてアンライバルドと続き、リクエストソング、セイウンワンダー、アントニオバローズが固まって進み、後方はフィフスペトル、シェーンヴァルト、トライアンフマーチという展開である。ハロンタイムは12.1---10.8---11.9---12.1---12.2と1000m通過が59秒1と最近では1番速い。各馬、早くも3コーナーにかかろうというところだが、先頭はゴールデンチケット、アーリーロブスト、外からリーチザクラウンだが、ロジユニヴァースは武豊のリーチザクラウンをマークしているのか、その直後につけている。さあ、いよいよ直線コースに入ろうかというところ。先頭は最内のゴールデンチケット、おっとロジユニヴァースがちょっと下がった。先に外を回ってアンライバルドが上がってくる。先頭はゴールデンチケット、2番手にアーリーロブストだが、ここで一気にアンライバルドが来た。あと200m、ここでアンライバルドが突き抜けた。一気に外から抜けた。完全に抜けた。早くも勝利が確定的だ。あとは2着争いだがセイウンワンダーとトライアンフマーチ。外のトライアンフマーチが出ている。トライアンフマーチの方が出ている。しかし、アンライバルドが先頭でゴールイン。
1着アンライバルド 1分58秒7、2着トライアンフマーチ 1馬身1/2、3着セイウンワンダー 1/2、4着シェーンヴァルト 2馬身1/2、5着ベストメンバー 1馬身1/2。
勝ったアンライバルドは強かった。勝ち方としてはナリタブライアンが内から突き抜けた皐月賞をオーバーラップさせるような勝ちっぷりであった。一方、1番人気のロジユニヴァースはどうしたのか・・・・・。4コーナーで脚が止まってしまった。またリーチザクラウンも同様である。共に2桁着順の惨敗である。ただ先行馬共倒れの展開で、上位入線の馬は後方待機していた馬ばかりなので、レース展開も左右したように思う。でもリーチザクラウンは脆さのある馬だし、ロジユニヴァースは欠点が肝心なレースで出てしまった。立ち直りに期待しよう。
アンライバルドは急成長したようだ。気性に難があって、一度、3着に負けているが、今年に入ってから3連勝。馬が大人になってきているのだろうか。ダービー馬フサイチコンコルドの弟だけのことはある。素質が垣間見れた。名前もUnrivaledというだけに、ライバルがいないということか。いやいや、ダービーに他馬の巻き返しもあるだろう。ダービーへの道はこれからである。
2009.04.18 (Sat)
北浜を歩く
中央公会堂の前を通りすぎて公園沿いを歩くと橋に出る。難波橋である。なんばばしではなく、なにわばしと読む。全長189.7mで堂島川、土佐堀川の両河川を跨いでいる。江戸時代には上流の天神橋、天満橋と並んで浪花三大橋と呼ばれていたが、最近、大阪の住人にアンケート調査をした結果、大阪で最も好きな橋の第1位に選ばれたという。ちなみに第2位は戎橋で、第3位は水晶橋ということになっているらしい。
難波橋

難波橋は別名でライオン橋ともいわれ、橋の袂にはライオンの石像が構えている。

難波橋を渡ると北浜一丁目である。その土佐堀通と堺筋の交差点の南東側に大阪証券取引所がある。取引所は、丸い外観で時代を感じさせてくれる。この北浜というところは船場の北端にあたり、土佐堀川に面した地域をいうが、現在では証券会社の集中している一丁目、二丁目を指す。江戸時代の初期から北浜会所、金相場会所、俵会所、米問屋会所、両替所が集まり、日本経済の中心であり天下の台所といわれた大阪の金融の中心であり、それが現在まで引き継がれている。
大阪証券取引所

北浜一丁目の証券取引所から堺筋を南に向うと一際高い高層ビルが迫ってきた。先月に竣工したばかりのThe Kitahama(北浜タワー)である。ここは以前、三越百貨店の大阪店があったところであるが、建築中の大阪駅北ビルに店舗を移すのにあたり、この北浜から撤退し、その跡地に建てられたビルである。でもオフィスではなくマンションというのには参った。
54階で高さが209.35mだという。今まで1番高かった大阪・弁天町にあるクロスタワー大阪ベイ(54階、200.375m)を追い抜いて、日本一高いマンションだという。それで同時期に竣工した川崎のパークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー(59階、203.5m)に階数で譲るが高さでは上回っているという。なにしろ大阪で言うならば通天閣の2倍以上の高さのマンションであるということを考えれば、こんなの必要なのかなあ・・・・・・・。いやはや、京都では絶対に考えられない。

この北浜タワー&プラザは、商業施設の低層ビルの横に超高層マンションが立っている。それでこのマンションの平均販売価格は6700万円、最上階の一戸(303平方㍍)の価格は5億8000万円というが、既に販売済みで、このマンション全体でもほぼ完売だという。一体、どのような人が住むのか知らないが、金を持っている人はいるものなんだと納得。また郊外のマンションの売れ行きは伸び悩みらしいが、都心の超高層マンションは直ぐに売れるという。つまり眺望を買うのだろうが、私なんかは高所恐怖症だし、地に足が着いてないと落ち着かないので、こんなところには絶対に住みたくない。でも高いところが好きな人はいるようだ。・・・・・でも、○○と煙は高い所に上がりたがる・・・・・とか言うだろう。いや、失礼!

(写真はクリックすれば拡大します)
2009.04.16 (Thu)
ディジー・ガレスピーのアルバムを聴く『アット・ザ・ニューポート』

ジャズ・トランペッターにディジー・ガレスピーという人がいる。既に故人であるが、この人がトランペットを吹いている映像を初めて観たのは何時だったろうか。とにかく面白い形をしたトランペットを吹いていたので強烈な印象があった。そのトランペットというのはラッパに当る部分が折れ曲がっていて上を向いているのだ。何だこれは? と思った。聞く所によると1954年のことで、パーティの席で転んだ客が、置いてあったディジー・ガレスピーのトランペットの上に尻餅をついてしまい、トランペットのラッパ部分が曲がってしまったという。ディジー・ガレスピーは気分を害したが、取り敢えず折れ曲がったトランペットを試しに吹いてみた。すると音が狂いもなく出るし、今まで吹いていたトランペットよりも自身の耳に音がよく聴こえるようになったので、意図的にガレスビーは楽器メーカーに曲がったトランペットを作らせた。それがガレスビーの代名詞とも言うべき曲がったトランペットの始まりである。
ディジー・ガレスピーは1917年生サウスカロライナ州まれで、1993年に没している。ジャズ界における彼の位置付けはとなるとチャーリー・パーカーと共にモダン・ジャズの原型であるビバップを構築した一人でジャズ界に残した功績は大きいということになるが、知名度で言うとルイ・アームストロングやマイルス・デイヴィスには及ばないというところか。
ところで、このアルバムは1957年7月6日のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでのライヴ・アルバムである。曲目は『ディジー・ブルース』『スクール・ディズ』『ドゥードリン』『マンテカ・テーマ』『アイ・リメンバー・クリフォード』『クール・ブリーズ』『ソディアク組曲』『キャリオカ』『チュニジアの夜』の9曲で、演奏メンバーはディジー・ガレスピー以外にリー・モーガン(トランペット)、カール・ワーウィック(トランペット)、エルミット・V・ペリー(トランペット)、ダリーブ・ダウード(トランペット)、メルバ・リストン(トロンボーン)、アル・グレイ(トロンボーン)、チャック・コナーズ(トロンボーン)、ジミー・パウエル(アルト・サックス)アーニー・ヘンリー(アルト・サックス)、ビリー・ミッチェル(テナー・サックス)、ベニー・ゴルソン(テナー・サックス)、ピー・ウィー・ムーア(バリトン・サックス)、ウィントン・ケリー(ピアノ)、ポール・ウェスト(ベース)、チャーリー・パーシップ(ドラムス)、メリー・ルウ・ウィリアムス(ピアノ)・・・・・・・大人数である。ディジー・ガレスピー&ヒズ・オーケストラの演奏ということなのだが、つまりビッグ・バンドなのである。ディジー・ガレスピーはモダン・ジャズの創始者の一人なのだが、元々はビッグ・バンドのバンド・リーダーだったのだ。その昔、数々のバンドを渡り歩いたが、自らもビッグ・バンドを率い、それが輝いていた。だが余暇でやっていたジャムセッションにおいて、リズムとアドリブを追求するようになり、いつしかビバップとして開花していくのであった。なお、このアルバムの最後に入っている曲の『チュニジアの夜』といえば、ディジー・ガレスピーが1944年にピアニストのフランク・パパレリと共に作曲した曲であるが、今ではモダン・ジャズのスタンダード曲として有名である。でも意外とディジー・ガレスピーの作った曲ということは知られてないように思う。このアルバムでは、若かりし頃のリー・モーガンがトランペット・ソロを吹いている。最後に疑問に思っていることだが、Gillespieなのに、何故ガレスピーと発音するのだろうか・・・・・・。
アルトゥーロ・サンドヴァルと一緒に『チュニジアの夜』を演奏するディジー・ガレスピー。なんと2人共、トランペットが曲がっている。(ガレスピー晩年のステージ)
2009.04.14 (Tue)
通勤時の雨
それはそうと今日、久しぶりに雨が降ったが、これが激しい降り方で、よりによって帰宅時間とぶつかってしまった。何時もなら職場から最寄のJRの駅まで歩くのだが、帰宅にあわせたかのように本降りとなった。これはヤバイぞ! と空を見上げて恨んだが、相手は大自然。雨も降る時を選んでくれない。困ったものだ・・・・。何を困っているのかと問われるかもしれないが、雨が強く降ると3kmの道のりを歩くのはたいへんなのである。大きめの傘をさしていても、30分もの間、強い雨に晒されながら歩くと、駅に到着した頃には膝より下がビショヌレ状態になり、挙句の果てには靴の中まで浸水し不快になってくる。せめて駅まで近ければいいのにと思いながら、仕方無しにバスに乗ることにして、停留場まで歩く。でも今日の雨は容赦しなかった。バス停留場に着くまでに雨の洗礼を受けズボンも靴も靴下もベトベト。バス停留場に着いたものの、人垣が出来ていた。晴れた日には私と同様に駅までテクテクと歩く人が多いのに、このしっかりした雨の中では、3kmの距離を歩こうかという人は余りいない。それでバスを待つことになるのだが、このバスが雨の日になると、なかなかやって来ない。
待つこと10分、せっかくバスがやってきたが、バスの中は既に満員。2、3人乗り込んだかと思うと我々をほたっらかしてドアを閉めるや、さっさといってしまった。オイ! 乗車拒否はやめようぜ。まだまだ乗れたはずだ。すっかり不愉快になり、さらに待つこと10分。すると今度はバスが2台一緒に来た。何も2台同時に来なくてもいいだろう。お得意の団子運転か・・・・。けども2台に分乗したおかげでバスの車内は空いていたが、今度は交通停滞につかまって一つも動かない。・・・・・ああ、なんだかんだと20分ほどかかって駅前に到着。これだと歩いて帰っている日に乗る電車よりも遅くなってしまったではないか。これだと歩いた方がまだ早い。でもずぶ濡れになりたくないが為にバスに乗るしかない。でもバスは交通停滞につかまって、何時もより遅く着く。つまり私は、雨が降るとどうにもならない陸の孤島で働いているということを身に沁みて感じたのである。あーあ、最寄り駅が徒歩10分以内のところに職場があった昨年の今頃が懐かしいよ。
2009.04.12 (Sun)
第69回桜花賞
第69回桜花賞(Jpn-Ⅰ・3歳牝馬、芝1600m、18頭)は、1番人気のブエナビスタが単勝配当1.3倍という驚異的人気で、2番人気は2戦2勝のレッドディザイア、3番人気がダノンベルベール、4番人気がサクラミモザ、5番人気がジェルミナルであった。
発走時間の15時40分を少し回っていたがスタートが切られた。まずまずのスタート。向こう正面からのスタートだがヴィーヴァヴォドカと九州産のコウエイハートが先行争い。3番手サクラミモザとデグラティア、5番手ショウナンカッサイ、内からダノンベルベール、ツーデイズノーチス、ルシュクルと行き、アイアムカミノマゴ、レディルージュ、さらにルージュバンブー、ワンカラット、レッドディザイアと続き、ジェルミナル、イナズマアマリリス、カツヨトワイニングがいて、その外にようやくブエナビスタが追走。その後にはアンプレショニストしかいない。スタートからのハロンタイムは12.4---10.8---11.7---12.0---12.2と800m通過が46秒9、1000m通過が59秒1。これは昨年よりもスローで、一昨年よりは速いペースである。いよいよ600のハロン棒を通過して各馬が固まってきた。だがブエナビスタはまだ後方にいる。さあ、阪神の外回りの直線コースに入る。直線は470mあるがブエナビスタは大外から3頭目の後方。この位置から届くのか・・・・・。先頭はコウエイハートとヴィーヴァヴォドカ。ブエナビスタは1番外に回して追い込むようである。あと300m、ヴィーヴァヴォドカが先頭だが、内から武豊のアイアムカミノマゴが先頭を奪おうというところである。だが外から各馬が襲ってくる。安藤勝己のブエナビスタはまだ後方。あと200m、馬場の中央からルージュバンブー、外からレッドディザイアが伸びる。レッドディザイアが先頭に立とうという模様。さらに大外からブエナビスタが来た。猛烈な脚でやって来た。レッドディザイアかブエナビスタか、レッドディザイアかブエナビスタか。ブエナビスタが出た。ブエナビスタが半馬身出た。ブエナビスタが優勝。
1着ブエナビスタ 1分34秒0、2着レッドディザイア 1/2、3着ジェルミナル 1馬身1/2、4着ワンカラット 3/4、5着ルージュバンブー ハナ。
ブエナビスタには敬服いたしました。桜花賞史上を紐解いても、18頭の多頭数で直線入り口ドンジリの位置から追い込んで勝った馬などお目にかかったことが無い。牡馬を含めても過去に日本ダービーで同様の位置から追い込んで勝ったヒカルイマイがいるぐらいである。これで5戦4勝だが、新馬戦の3着は来週の皐月賞で人気になるアンライバルド、リーチザクラウンに敗れたもの。この時でも最後の脚色はブエナビスタが出色であった。位置取りの差で負けたようなものである。なんとも凄い牝馬が出てきたものである。ただ一昨年の桜花賞で対決したダイワスカーレットやウオッカと比べてどうなのかというと疑問が残る。それは余りにも展開に注文がつくからである。競馬の正攻法は好位置につけることだから、こんな追い込み一辺倒だと墓穴を掘る可能性が高いからである。今日のレースなんか、昔の阪神の桜花賞コースなら届いてないかもしれないからだ。でも母のビワハイジは、アドマイヤジャパンといいアドマイヤオーラといい、このブエナビスタといい良い仔を出すねえ。これで、すっかり名繁殖馬として価値が上がったね。
2009.04.11 (Sat)
長岡天満宮に行く
やはり桜の花は散り掛かっていて、満開の時の迫力が無い。毎年、桜の花が満開になると京都の名所を訪ねるのだが、どこも人でごった返していて、ゆっくりと写真など撮れたものではなかった。嵐山、嵯峨野、東山、醍醐寺、宇治・・・・京都の桜の名所は多い。それで今日は趣向を変え、京都の郊外なら観光客も疎らだろうという判断で、乙訓の長岡天満宮を久しぶりに訪れてみた。
子供の頃はよく来た長岡天満宮である。京都市内から大阪方面へ向う阪急電車に乗って長岡天神の駅で降りる。ここはかつて平安京に都を移す前に僅かの間、都が置かれていたところだ。だから長岡京市という。この長岡天神の駅から歩いて10分ほどで長岡天満宮の境内に到着する。この辺りは八条ヶ池といって、八条宮智仁親王によって築営された池があり、その周辺は桜の名所となっていて、おそらく地元の人か京都の人しか花見に訪れない穴場である。
今日、久しぶりに来てみたが、人は疎らだった。これが、ここから程近い嵐山になると黒山の人盛りということなのだろう。でも、桜の花の命は短くて、満開から3日ほど過ぎていて、華やかさには欠けていた。残念。・・・・・しかしこの暑さだと、参ってしまうなあ・・・・・・。
八条ヶ池と取り巻く桜の木。散り始めているので、ボリューム感が無い。(写真は全て要クリック)




この八条ヶ池の奥に長岡天満宮がある。周辺は躑躅の名所でもある。




長岡天満宮は名前の通り菅原道真を祀っている。菅原道真が大宰府に左遷された時、京都からこの長岡に立ち寄ったことで創立されたという。実は私の自宅から歩いてでも行けるところなので、今まで身近すぎて行ってみようとも思わなかったが、案外、いいところだなと感心した。また筍の産地であり、美味しい筍料理を出す料亭も池の辺にはある。



2009.04.09 (Thu)
映画『アメリカン・グラフィティ』を観る
監督 ジョージ・ルーカス
出演 リチャード・ドレイファス
ロン・ハワード
ポール・ル・マット
チャーリー・マーティン・スミス
キャンディ・クラーク
シンディ・ウィリアムズ
ハリソン・フォード
【あらすじ】1962年の夏。カリフォルニア北部の小さな田舎町。高校を卒業し、それぞれの道へ各自が進もうとする最後の一夜。スティーヴとカートは故郷での最後の夜を楽しむべく、テリーとビッグ・ジョンを誘い街に繰り出す。酒を買うのに四苦八苦したり、カーレースにガールハント、暴走族の仲間に入らされたりと何とも他愛ない大人になる手前の少年達の行動が手に取るようである。・・・・・当事のヒットナンバーに乗せて映画は綴られていき、やがてカーとは東部の大学へ進むために飛行機へ・・・・機内の窓から故郷の街を望む。
ジョージ・ルーカスにとっては2作目の監督作品となる作品で、今や青春映画の古典的作品に挙げる人は多い。ルーカスは監督デビューとなった『THX1138』の興行が失敗したことから2作めの作品は一般受けする青春映画を撮ることにした。ベースはルーカス自身の体験から、1962年の夏、高校を卒業した若者達が旅立とうという日の前日の夕方から翌日の朝までの出来事を網羅した話で、ストーリーらしきものはなく、題名どうり落書き(graffiti)のように出来事を綴ったような映画である。
1962年といえばアメリカではケネディ大統領の頃で、この翌年にケネディは暗殺される。いわばアメリカがまだ辛うじて輝きを放っていた頃のことで、これ以降は何かと病めるアメリカばかりが浮き彫りになるだけだが、そんな時代のアメリカの若者達が、この映画を観ていると何故か溌剌としているように見える。1962年といえば私は小学校に入って間がない頃だろうか、あの頃のアメリカなんて知る筈もないが、当時の日本から見ると遥かに進んだ先進国。物資も豊富で、アメリカから入ってくるキャデラック、シボレー、フォード等の車、コカコーラにホットドッグ、映画やテレビドラマ、音楽には強烈な洗礼を受けていた。いわばある意味で憧れの国であったものだ。そんな時代のハイティーンの若者達。この映画が上映されたのは1974年だった。私は日本の若者といえる年齢になっていた。その時に感じたことであるが、やはりアメリカの若者は大人っぽい。17歳でほとんどの者が車に乗っているし、門限もなく朝まで遊びほうけている。日本の少年で同様のことをやっている者と言うのは、所謂、不良という領域の少年達ぐらいだろうと、この映画を初めて観た時の印象なのであった。ドライヴインでハンバーガーを食べながら、何をやろうかなんて語る彼らを観ていると、まだ1974年当時の日本では、あまり見られなかった光景だと思う。
その後、日本もコンビニエンスストアーが一般的になり、ドライヴインでハンバーガーが食べられるようになり、若者達が車を乗るのが当たり前になり、ようやく映画『アメリカン・グラフィティ』で行なった若者の行動を日本の若者が平然と行なうようになったが、感じることは時代が違えど国が違えど、少年がやりそうな事は様の東西問わず同じであったという現実に、私はこの『アメリカン・グラフィティ』が青春映画のバイブル的な要素を感じ取るのは、その辺りにあるのかなと思った次第である。
ところで、この映画の監督、出演者に名を連ねるジョージ・ルーカスを始め、ハリソン・フォード(『スター・ウォーズ』『ブレードランナー』『インディ・ジョーンズ』)しかり、リチャード・ドレイファス(『ジョーズ』『未知との遭遇』『スタンド・バイ・ミー』)しかり、ロン・ハワード(監督として『スプラッシュ』『コクーン』『バックドラフト』『アポロ13』『ビューティフル・マインド』)しかりで、皆、その後、映画界で成功者と成り得たのも奇しき因縁なのか、まさにこの映画は彼等にとっても、無名時代の一時代を描いた青春時代のグラフィティといえそうである。
映画『アメリカン・グラフィティ』トレイラー。当時のヒット曲に乗せて・・・・。あの頃、あなたは何をしていましたか・・・・・。
2009.04.08 (Wed)
お知らせ
何処かの愚か者が、コメントのところに何度も何度もアダルトメールを貼り付けるので、やむを得なく、このような処置をとりました。それで今後、コメントの受付を復活するか、どうか判りません。場合によるとブログを閉鎖するかもしれません。
2009.04.07 (Tue)
イタリアの地震
イタリアはヨーロッパではギリシャと並んで最も地震の多い国である。小さな地震も含めると年から年中、地震の起こっている日本からすると数は少ないが、兎に角、イタリアは地震の多い国である。今回はイタリア中部の観光地だけに日本人旅行者も被害にあってないか気になるところであるが、歴史的な建造物も多く、石造りだけに崩壊すると被害も当然大きくなる。これがヨーロッパの古い街の欠点であるが、自然災害だけに止めようが無い。でも我々の認識では、ヨーロッパは余り地震が起こらないものといった印象がある。確かに起こらない国が多いが、人間の歴史が始まってから起こってないというだけであって、何万年、何十万年、何百万年、何千万年といった年月で考えると、おそらく地震の起こったことの無い国なんて皆無だろう。地球の起伏なんていうのは造山運動の繰り返しで出来上がったものだし、高い山や谷なんてあるところは間違いなく、過去に地震が起こっているだろう。だから世界中で地震など起こらないところなど一つも存在しないと思う。でも人間の生きている範囲でいうならば、地震が起こらないところは多い。例えばイギリスで地震なんて聞いたことがないし、イギリス人は、地震がどんなものなのか知らない人が多い。またアメリカでも地震が起こるのは決まって西海岸であるが、東海岸は起こったという例は一度だけだと聞いている。
つまり地震は環太平洋といって、太平洋を取り囲む地域。チリ、ペルー、中米、メキシコ、アメリカ西海岸、カナダ西部、アラスカ、カムチャツカ半島、千島列島、日本、マリアナ海溝、台湾、フィリピン、インドネシアといったところでは頻繁に起こっている・・・・・。それとアジアではインド、アフガニスタン、パキスタン、ネパール、ミャンマー。中央アジア、イラン、イスラエル、シリア・・・・この辺りもよく起こる。
それで今回、イタリアで起こったが、イタリアは地震多発国であるとは先ほど書いたように2002年にも大きな地震が起こっているし、1980年11月23日にイタリア南部でM6.8に地震が起こり、死者も4000人以上出ているし、1976年にも死者930人を出す地震が起きている。また1908年12月28日にはM7.2というメッシーナ地震が発生。死者が11万人という膨大な被害を出している。
ヨーロッパ全体で言うならば、地中海沿岸に地震が多く、ギリシャも地震多発国。おそらくイタリア、ギリシャがヨーロッパでは最も多く、それ以外だと旧ユーゴスラビア、ルーマニア、ポルトガルでも地震が多い。それにアルプスのあるオーストリア、スイスでも過去に大きな被害を齎した地震は起こっている。つまり大自然が生み出した雄大な風景を謳っているところがあるが、それも地震が齎したものなのであるということを忘れてはいけないと思う。
地震とは怖いものだが、避けては通れないものだ。何れ我が身にも降りかかってくる。でもほとんどの人は、自分が生きている間だけは、大きな地震が起こらないことを信じているのだ。
2009.04.05 (Sun)
サンケイ大阪杯
ゲートが開くや各馬がソロッと出る。逃げるだろうと思われたシャドウゲイトが行かずに鼻を奪ったのは皐月賞馬のヴィクトリー。1、2コーナーを回って向こう流しに入るや後続に5馬身以上つけて先頭に立つ。2番手にはヴィクトリーと似た勝負服のアドマイヤフジ、3番手にマストビートゥルー、4番手にマツリダゴッホ、5番手になんとシャドウゲイト、6番手に本命ディープスカイ、その内にサンライズマックス、そして追い込みのドリームジャーニーがいて、ダイシングロウ、その後にこれまた何時もなら好位置にいる筈のカワカミプリンセス。その後にサザンツイスター、アグネストレジャーといった順で早くも各馬3コーナーに差し掛かる。ハロンタイムは12.6---11.5---11.9---11.9---12.1と800m通過が47秒9、1000m通過が1分ジャストと平均ペースよりやや遅め。
相変わらずヴィクトリーは3馬身以上リードしている。だが4コーナーで一気に後続が押し寄せてきた。各馬が固まってきて直線に向こうというところ。阪神の内回りは直線が短いが、ディープスカイもドリームジャーニーも外側から上がって来た。先頭はヴィクトリーだが最内にマツリダゴッホがつける。あと300mでアドマイヤフジが先頭に立つ。内からマツリダゴッホ、外からディープスカイも来る。あと200m、まだアドマイヤフジ先頭。その外にディープスカイ、だが大外からドリームジャーニーが伸びてくる。ディープスカイとドリームジャーニー、ディープスカイとドリームジャーニー。この2頭の追い比べとなった。この2頭が抜けて競り合うが、僅かに外のドリームジャーニーが競り勝った。
1着ドリームジャーニー 1分59秒7、2着ディープスカイ クビ、3着カワカミプリンセス 2馬身、4着アドマイヤフジ ハナ、5着ダイシングロウ クビ。
一方、中山ではダービー卿チャレンジトロフィー(GⅢ・4歳以上、芝1600m、15頭)が行なわれたが結果だけ記すとする。
1着タケミカヅチ 1分33秒7、2着マイネルフォルケ クビ、3着マヤノライジン 1/2、4着キャプテンベガ アタマ、5着リザーブガード クビ。
2009.04.04 (Sat)
耳鼻咽喉科
早速、1時間ほど待たされた後、診察を受け、鼻腔内の写真を撮られ診断の結果を聞くと、蓄膿症の一歩手前だという。ことに右側の鼻腔は狭く、これだと息がし辛いだろうと言われた。それで抗生物質で治療しようということになり、暫くは通院しないといけない模様となり、薬を一週間分貰らった。帰り際にネブライザー吸入器で鼻の中に噴霧するも今のところ、あまり効果はなし。しかし、この年齢になると、次から次へと色々なところが悪くなる。
困ったものだが、機械でも何でも長い年月の間、使い倒すと磨耗したりガタがきたりするが、人間の体も同様かな。とにかく、あちらが治まれば、今度はこちらが悪くなる。小生は子供の頃から気管が弱く、小学生の時に鼻カタルと言われたことがある。でも何時の間にかタバコを吸っていた。若い頃は1日2箱は吸っていたとは思うが、それでも風邪はひいても鼻づまりになったことはなかった。しかし、最近、あちらこちら歪が生じ、体もおかしくなっている。既に体によくないと言う理由で、思い切ってタバコはやめた。タバコを断って既に12年、今ではタバコを吸う人の近くには行きたくはない心境である。ところが、タバコをやめた当初は風邪もひかず、気管も調子がよかったものなのに、徐々に鼻や気管における疾患が見られるようになった。それで人間の体というのは、機械のように新しい部品と取り替える訳にもいかずこういった疾患ともお付き合いしていかなくてはならない。あと30年生きられるのかどうか判らないけれど、人間、体のどこか一部に違和感があると、体全体がおかしくなったようになるから不思議なものである。・・・・だから取り敢えずは日頃の、不摂生な生活を改めて、規則正しい生活を心がけるようにしようとは思う。
2009.04.02 (Thu)
シェークスピアの『ハムレット』を読む

シェークスピアの戯曲の中の傑作とされ、シェークスピア4大悲劇の一つである『ハムレット』は、若い頃に読んだというよりも映画で馴染んでいたというのが正直な感想である。本来から劇のための脚本的なものが戯曲というものだから当然かもしれないが、過去にローレンス・オリヴィエ監督、主演による『ハムレット』(1948年)は何度となく上映され、テレビでも放映されている。いわば『ハムレット』の定番のようなものである。最近でもオペラの演出者でもあるフランコ・ゼッフィレッリ監督の『ハムレット』(1964年)もある。こちらはハムレットをメル・ギブソンが演じローレンス・オリヴィエとは趣の違うハムレットである。またケネス・ブラナー監督、主演の『ハムレット』(1996年)というのもあるが、最も雰囲気が中世の『ハムレット』に近いかなあと思わせたのは、1964年に製作されたグリゴーリー・コージンツェフ監督の『ハムレット』かもしれない。
この映画は旧ソヴィエト時代に製作されたもので、俳優の名前もほとんど知らないし、映画館で上映されたのかどうか詳しいことまでは知らないが、何年か前にビデオで拝見した。でもなかなかの秀作であった。このようにヨーロッパ各地で『ハムレット』は、舞台で上演され続け、映画でも何度となく製作され続けた傑作と言われるのだが、日本人の我々も有名すぎる文学として『ハムレット』はよく知られているところである。でも何故にこんなにポピュラーな戯曲なのかというと難しい。でも、おそらく『ハムレット』というのは、人間の持つ猜疑心、裏切り、欲望、矛盾、情熱、憎悪、復讐、ありとあらゆる心の裏の部分が醜くも絡まりあって表出し、そこから生まれた人間同士の葛藤が物語に繋がっているからだと思える。
シェークスピアの『ハムレット』以前に、13世紀にデンマークで書かれた『ハムレット物語』というものが存在していて、またトーマス・キッドという人が、それを種本にして書いた『ハムレット』という物語もある。結局、ウィリアム・シェークスピアの『ハムレット』は、それらの手本をさらに焼きなおして、より進化させた物語といってしまうと何だリメイクか・・・・ということにもなりそうだが、そこは才人シェークスピアである。より物語らしく、より憎悪が増して見事な復讐劇へと生まれ変わっている。
ところでよく・・・・To be,or not to be…. That is the question. を生か死か、それが問題だと訳されるが、『ハムレット』が、明治時代に日本に紹介されてからというもの、過去の多くの人が翻訳を試みてきた。だが明確な訳はなく、どのように解釈するかは人それぞれであろう。ちなみに明治時代に活躍した小説家でシェークスピア文学の翻訳者でもあった坪内逍遥は「世にある、世にあらぬ、それが疑問じゃ」と訳している。その他には
・ ・・・・Get thee to a nunnery! 尼寺へいけ!
といった名台詞もあるが、とにかく『ハムレット』というのは、今世紀にまで影響を及ぼしている、名戯曲であり、名台詞の宝庫でもある。現在の日本の戯曲もかなりの部分、この作品を踏襲したと思えるものがあり、おそらく西洋文学の普遍的傑作といえるであろう。
2009.04.01 (Wed)