2007.10.31 (Wed)
食品偽装問題に触れる
何年か前に『雪印』が問題を起こして大騒ぎになったが、今年になってから食品の偽装が次から次へと起こり、日本の食品は本当に大丈夫か? と問いたくなったのである。
そもそも今年の1月、『不二家』で期限切れ原料を使用していたことが発覚し、大手メーカーも信用できないと思われた人も多いが、同月、『日本ライス』がブランド米の産地偽装を行っていたことが判り、遺憾に感じたものである。すると、その後は出てくるは出てくるは、食物偽装の連鎖。
6月に北海道の『ミートホープ』が牛肉ミンチの偽装を行っていたとして問題になってから、農林水産省への告発が一気に増し、6月~9月の3ヶ月間で1241件もあったという。まさに日本列島、総崩れ、これから安心して食べられる物はあるのかといった状態に陥ってしまっている。
8月に北海道の土産物として定番になっている『白い恋人』の賞味期限改ざんがあったばかりだが、9月になると宮崎でウナギの原産地偽装があった。また名古屋では『名古屋コーチン』の2割が偽者という報告があったし、10月に入ると、もう軒並み偽装の嵐である。
秋田で『皮内鶏』の材料の地鶏偽装、『東京豊島青果』で賞味期限切れの梅干しを販売してしまったし、『無印良品』でクッキーの賞味期限誤表示が起こるし、長野の『ゴールドパック』で、トマトジュースの原料原産地偽装が発覚、宮崎で『地鶏』の材料の不当表示も発覚、『鹿児島漬物』では、中国産の大根を原料にしたたくあんを鹿児島産と偽って販売していたし、福岡の『船場吉兆』では、生菓子の消費期限のラベルを張り替えていたのである。また仙台では『トーチク』が、今年1月中旬以降製造の牛タン製品4500パック全部で使用期限切れの肉を使用していたという。また今日、『ミスターー・ドーナツ』でも期限切れシロップを使っていたことが判明した。
う~~ん、呆れ果てて言葉にならない。この調子だと、これから幾らでも告発によって食品偽装が明らかになるのではないだろうかと思える。本当に日本人て、何時の間に恥知らずの国民になってしまったのだろうか・・・・・・・。これだと何を信用していいのか判らなくなってしまう。終いには何一つ食べるものが無くなって、国民が飢え死にするのでは・・・・。でも飽食の国だから、飢えて死ぬことも無いか・・・・。食い物の毒が回って死ぬことはあっても、食品がなくなることは有り得ない。でも食べる食品がどれも信用できないとなると、みんな自給自足で、畑を耕すしかないなあ・・・・・・・。でも都会人には、そんなこと何も出来ません。それに耕す土地も無いし・・・・。ああ、困った困った。皆さん、雑草でも食べましょう。ぺんぺん草なら何処にでも生えてますよ、ただし食べても大丈夫かどうか知りませんが、味も保障しかねます。
2007.10.30 (Tue)
マイ・カメラの紹介
今日は私が使っているカメラを紹介します。私が現在使っているデジタル・カメラは、キャノンのIXY DIGITAL 1000です。ほぼ1年前から使っているカメラですが、1000万画素で、デジタルズームが4倍、光学ズームと合わせると最大で12倍。ISО1600、シャッタースピードは15~1/2000秒、光学ファインダーがあり、全体的に丸みがあって、純チタンボディで、アルミにはない独特の味わいがあります。
このカメラが発売された昨年の今頃は、まだ1000万画素のデジタル・コンパクト・カメラは無かったので、発売するやすぐに買い求めました。でも後から気がついたのですが、肝心な手振れ防止機能がなく、撮影時に気をつけても発光禁止にすると手振れが起きます。三脚があれば大丈夫ですが、一眼レフでもあるまいし、コンパクト・カメラで三脚を使う気にもならず、撮影時には苦労するのです。それとバッテリー使用量が判らず、突然カメラのバッテリーが切れてしまうことが欠点です。またバッテリーの持ちがあまりよくなく、カシオのデジタル・カメラに比べると、この辺は欠点です。
ただ、このカメラで撮った画質は木目が細かくて、流石に1000万画素カメラだなあと感心するのでもあります。でも私は、あまりこのカメラを使うことは無く、最近はもう一台のデジタル・コンパクト・カメラの方を使うことが多くなってしまい、このところは箪笥の中に眠っていて活躍の場がありません。それでは、もう1台のデジタル・カメラは何かというと、パナソニックのTZ-3なのですこちらの方は720万画素のカメラですが、使い勝手が良いというか、手振れ防止機能がついていて、バッテリーの持ちもこちらの方が優れているようです。しかし、キャノンのIXY DIGITAL 1000はデザイン的に見て、飽きが来ないというか、他の機種にない高級感が漂っているのです。
撮影機能では最新のカメラに比べると見劣りますが、手に持った感覚にしても、ボディの材質にしても最も心地よい感触のあるカメラです。だから使うことが少なくなっても、何処か愛着があり手放せないカメラなのです。
2007.10.29 (Mon)
たまには野球の話でも・・・
私が子供の頃といえば、ガキどもが広場で必ず野球をやっていた。軟球で野球をするのだが、私はグローブを持ってなかった。それでキャッチボールを小学生の3年生になるまで1度もやったことが無かった。だからグローブというものを初めて手にして、キャッチボールを始めたものだが、巧くボールがグローブに収まってくれない。小さい頃から親とキャッチボールをやっていた子は巧かった。そして、バットを初めて握ったのも、その頃だった。最初はスウィングしてもボールがバットに当らない。空振りばかりでは野球をやっていても馬鹿らしくなってくる。それで、私はボールを蹴るサッカーの方が興味が沸いてきて、サッカー少年になっていくのだが・・・・・・・。
こういった事情で野球が今までも巧くない。だから内野なんか守るとトンネルばかりで、恥ばかりかいていた。まあ、小学校高学年になるとキャッチボールは人並みには出来るようになったと思う。特に金田正一や稲尾和久、村山実、杉浦忠、江夏豊の真似をして投げるのは得意だった。
こんな調子だから野球は下手であったが、当時の少年の大半が野球好きだったように私もプロ野球の試合はよく観ていた。あの頃は、小学生の大半が巨人ファンではなかったかと思う。これは漫画やテレビの影響が多く、少年マガジンで連載されていた『ちかいの魔球』(ちばてつや)、『黒い秘密兵器』(一峰大二)、『巨人の星』(川崎のぼる)等が巨人の選手を主人公にしていたせいである。それと、当時のテレビが野球中継を行う場合、巨人対○○に限られていたというのもある。明けてもくれても巨人の試合を毎日々々観せられているのだから、純情な子供達は当然のように巨人ファンになってしまうだろう。特にあの頃は、長島茂雄に売り出し中の王貞治と2枚看板が揃った巨人が黄金時代を築きつつある時代だったから、当たり前のように巨人ファンだらけになっていたような気がする。本当に今では信じられない現象だが・・・・。
ところで当時からへそ曲がりの私は、当然のようにアンチ巨人になってしまった。だが、アンチ巨人で関西在住だから、阪神ファンになってしまうのかというと、これが違うのである。私の亡くなった親父は阪神ファンであったが、私はセントラル・リーグに背を向け、パシフィック・リーグの南海ホークスのファンになってしまったのである。だから巨人とも阪神とも日頃から試合をする訳ではない。そしてテレビ放送もあまり無い。これがパ・リーグ在籍の球団の宿命である。ラジオでは中継を時々やっていたようであるが、我が家にはトランジスター・ラジオが無かった。それで南海ホークスの試合結果は翌日の新聞で知る有様であった。
さて、プロ野球が嫌いになった原因は色々とあって、話せば長くなるから、ここでは述べない。これは長年の積み重ねなので、突然に嫌いになったのではない。今から20年近く前、南海ホークスが身売りして球団が消滅した。これを機に私は完全にプロ野球を観ることを止めた。それで野球に興味が無くなったのかというと、そうでもなくNHKが衛星放送を始めるに及んで、私は大リーグの試合中継を観るようになった。やはり昔から、アメリカの大リーグというものに興味があって、小学生の頃、ミッキー・マントルやロジャー・マリス、サンデー・コーファックス、ウィリー・メイズのプレーに憧れたものである。
そんな理由もあって、大リーグばかりを観ていた時期がある。まだ野茂がドジャースに入団する前のことである。それが、最近は大リーグも観る気が起こらなくなってしまったから、野球に対して嫌悪感があるのかもしれない。
今日、松坂のいるボストン・レッドソックスがワールド・シリーズでコロラド・ロッキーズに4連勝し、見事に大リーグチャンピオン・チームになったが、そもそも、レッドソックスのレギュラーで生え抜きがいったい何人いると思うのか・・・・・・。私の知る限りレッドソックスに10年以上在籍している選手はキャッチャーのジェイソン・ヴァリテックとナックルボーラーのティム・ウェイクフィールドぐらいのものではないだろうか。残りのメンバーはみんな大金で移籍してきた選手ばかりで、結局、最近の大リーグは潤沢な資金を持っているチームが実力のある選手を集め、覇権を勝ち得るといった現象が続いていて、弱小球団が新人の頃から、素質ある選手を育成して優勝を争うなんてことは皆無になってしまったのである。
現在の大リークでは、1年の間に3チームぐらい移籍する選手が珍しくないし、10年もすれば全選手が入れ替るぐらい流動が激しい。球団が選手を買い、選手も自身の実力を売る。こんな具合だから、大金を叩ける球団ばかり優勝することとなる。覇権を金で買うといったご時勢が今の大リーグであり、また日本のプロ野球なのである。これは何も野球だけではなく、ブロ・サッカーにも言えるのだが、イングランドのチェルシーやスペインのレアル・マドリッドといったところは如何なものだろうか・・・・・。スポーツも何十億という単位で選手が移動するようになってしまった。もう、かつて私が興味を持ったヨーロッパ・サッカーでもなくなってしまった。だから、だんだんとスポーツ嫌いになってしまう。昔は良かったなあ・・・なんて言いたくないが、時代の趨勢には逆らえないのかもしれない。でも寂しい・・・・。
2007.10.28 (Sun)
ボブ・ディランのアルバムを聴く・・・・・『フリーホイーリン』
今やフォーク・ソング界、いや20世紀後半の商業音楽のカリスマであるボブ・ディランの若い頃のアルバムを聴くと当時のことを思い出す。このホブ・ディランの2枚目のアルバム゜『フリーホイーリン』が世に出たのは1963年のことである。既にイギリスではビートルズがデビューしていたが、日本にはまだその影響はなかった。そんな頃、アメリカでデビューした若きフォーク歌手がボブ・ディランである。
ボブ・ディランは1941年にミネソタ州で生まれたユダヤ人である。本名をロバート・アレン・ジンマーマンといい、現在は改名してボブ・ディランと名乗っているが、その名は詩人のディラン・トーマスから取ったとか、叔父のディロンから取ったともいわれる。幼少から独学でピアノを習得し、エルヴィス・プレスリーにあこがれ、ランボー、ヴェルレーヌ等の詩人の影響を受けて育つ。やがて大学を中退しニューヨークにやって来た彼は、フォーク・ソングの大御所ウッディ・ガスリーに出会い、この頃、コーヒー・ハウスで弾き語りを始めたという。そんな時、才能を見出され1962年にファースト・アルバム『ボブ・ディラン』でレコード・デビューする。このアルバムは評判にもならずあまり売れなかったが、この2枚目のアルバム『フリーホイーリン』で一躍、有名になる。
この1963年というのは、悩むアメリカの問題が噴出していた時期で、キューバ危機の直後でもあったが、この年にジョン・F・ケネディ大統領の暗殺があったり、黒人の公民権運動が盛んになり、やがて泥沼化するベトナム戦争等、栄光の50年代から時を経てアメリカの暗黒部分が表面化していた60年代の初頭であった。そんな頃に、颯爽と若きプロテスト・ソングのシンガー・ソング・ライター、ボブ・ディランが登場する。
『フリーホイーリン』は全部で13曲収録されていて、曲目は次の通りである。『風に吹かれて』『北国の少女』『戦争の親玉』『ダウン・ザ・ハイウエイ』『ボフ・ディランのブルース』『はげしい雨が降る』『くよくよするな』『ボブ・ディランの夢』『オックスフォード・タウン』『第3次世界大戦を語るブルース』『コリーナ、コリーナ』『ワン・モア・チャンス』『アイ・シャル・ビー・フリー』
残念ながら、このアルバムがリリースされた頃というのは私は小学校の低学年で、ボブ・ディランの名も知らないし、当然のように、このアルバムの存在も知るはずが無い。だから後年にボブ・ディランの名を知ることになる訳であるが、何時の頃にボブ・ディランの名を耳にしたかというと、それから数年後のことで、『ライク・ア・ローリング・ストーン』が世に出た頃だと思う。それから間もなく私は中学生になり、本格的に洋楽というか海外のポップスを聴くために、ラジオにかじりつく毎日であった。ちょうど日本では和製フォークというものが流行りだし、ピーター・ポール&マリー、ブラザース・フォア、キングストン・トリオとかいった辺りのコピーを大学生がやっていた。そんな中でピーター・ポール&マリーの唄う『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』を聴いて、私はフォーク・ソングに目覚めた世代である。
How many roads must a man walk down
Before you call him a man ?
Yes,'n'how many seas must a white dove sall
Before she sleeps in the sand ?
Yes 'n'how many times must the cannot balls fly
Before they're foever banned ?
The answer my friend, is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind.
とろこがPPMがオリジナルでないということを知り、当時から原典主義的なところが私にはあったので、本家のボブ・ディランの『風に吹かれて』を聴いて驚いた。それは、独特のしわがれ声に何とも癖のある唄い方で、PPMを聴いて馴染んでいた耳には違和感があった。 でも当時から、ボブ・ディランは21歳でレコード・デビューしたにもかかわらず悪声で有名だったという。この辺りが、日本のフォーク・ソングを唄う学生には不向きで、ソフトなフォーク・ソングを当時の学生達はコピーしたそうである。
こんなボフ・ディランであるが、その影響力は大きく、『戦争の親玉』が死の商人を告発した歌詞が籠められている事でも判るように、ブロテスト・ソング色が強かった。それが何時の間にかプロテスト・ソングを唄わなくなり、フォークロックな色がだんだんと強くなり、より活躍の場は拡がって行く。やがてボブ・ディランはビートルズと共に時代の寵児となり、カリスマとして現在まで君臨し続けるのである。ところでボブ・ディランは何度も来日しているが、今でも現役であり、最近は彼の曲を耳にすることも極めて少なくなったが、後年のポップス界に与えた影響というのは非常に大きいと思える。
『風に吹かれて』を唄うホブ・ディラン
2007.10.27 (Sat)
キャベツ焼きを食べる
今日は野暮用で大阪の難波まで行ったついでに、キャベツ焼きなるものを食べた。
この数年、大阪の商店街の片隅などで、このキャベツ焼きなるものが売られている。これも所謂、大阪の粉物の食べ物で、お好み焼きのルーツとなる一銭洋食焼きに似ている。そういえば、私が子供の頃、よく食べたお好み焼きというのは、溶いたメリケン粉を薄く鉄板に拡げ、粉鰹をパラパラと振りかけ、その生地の上に千切りキャベツをどっさり乗せる。そして、天カス、紅生姜、ネギ、イカ等をトッピングする。ある程度、焼けてくると、別に焼いていた豚肉の上にひっくり返して被せる。さらに両面を焼いてから、最後に卵を鉄板にしき、その上にお好み焼きを被せて、焼き上がると出来上がりである。
このようにお好み焼きの焼き方を記述すると、おかしいのではないかと指摘を受けそうである。関西のお好み焼きは全て混ぜこぜではないのかと?
確かにそういった焼き方が主流ではあるが、広島風の焼き方の店も私の子供の頃には、存在したということなのである。それが大阪のチェーン店(おそらく『ぼてぢゅう』だと思う)が、全国に系列の店舗を広めて行ったせいで、関西のお好み焼き=混ぜこぜというようにイメージがこびりついてしまったのではないかと、私なんか考えるのだが。それに、一言付け加えるならば、大阪のお好み焼きは、チェーン店で食べるよりも、場末でおばさんが焼いている小さな店の方が、私なんかずっと美味しいと思うのだが。だから道頓堀の○○や、難波の××で食べるお好み焼きは、格別美味しいものではない。あんな観光客が多い店では食べない方がいいと思う。そこそこの美味しさ程度で、また食べたくなるというほどのものでもないし、観光ガイドを見て行列をしてまで食べようという人の気持ちが判らない。それよりも裏通りにある名も無い店を回って、美味しい所を見つけるほうが得策である。
ところでお好み焼きのルーツは一銭洋食焼きと書いたが、それが昭和10年ごろに、何故かお好み焼きと呼ばれるようになったという。誰が名付けたか定かではないが、洋食焼きの中に何でも入れてもいいというところから始まったらしい。戦後になって、大阪の西成区玉出にあった『ぼてぢゅう』が現在の大阪風お好み焼きの原型を広めていったということである。混ぜこぜで焼いて、ソースとマヨネーズとからしで味付けをする。それが大阪のお好み焼きということになったのかもしれない。しかし、一銭洋食焼きというお好み焼きのルーツなる焼き方は広島で発展し、独自のスタイルとなって現在に至るようだ。
そこでキャベツ焼きなのだが、この味は私にとっては懐かしい。昔、食べたお好み焼きを何処か彷彿とさせる素朴な食べ物なのである。薄く拡げた生地にキャベツと天カス、紅生姜、青ネギ(入れない場合も或る)を乗せ、最後に卵とドッキング。二つ折りにしてソースをかけて出来上がりである。マヨネーズもからしも無く、ソースだけの素朴な味なのだが、何か食べていてこれが癖になる。一枚110円なのであるが、それを2枚買って食べた。それほど空腹ではないが、何か食べたい時にはちょうどいい。うどんも食べる時はあるが、こちらの方が安上がりである。しかし、店にとって大した儲けはなさそうだなあ・・・・。
2007.10.26 (Fri)
チャーハンを食べる
食欲の秋というが、最近はバタバタしていていまいち美味しいものを食べてない気がする。こんなことではいけないと思うが、どうしても簡単なもので済ませてしまおうという傾向がある。それで炊飯器を覗いてみたら、ご飯が余っていた。だから、このところ残飯と適当な有り合わせでチャーハンを作る癖がついてしまった。そんな訳で、今日も冷蔵庫にある物でまたまたチャーハンを作ってしまった。
ご飯、青ネギ、焼豚、人参、卵・・・・これだけしかないが、何とかなるだろう。中華鍋があればいいが、無い袖はふれない。仕方なくフライパンを温めて、油をひき、溶き卵をフライパンに流し込む、そしてご飯を放り込む。お玉で解しながら、ご飯を返していくのだが、なかなか巧くいかない。フライパンから小さなご飯の塊が飛び出す。何度かひっくり返して、そこへ焼豚、人参、青ネギを入れ、醤油を少々、塩とコショーで味付けをする。隠し味に日本酒を僅かに入れて、後はひたすらフライパンの中のご飯と具をひっくり返す。香ばしい匂いが拡がってくる。そして、数分・・・・・・ 出来た。
味の方は保障しかねるが、とりあえず皿に盛って頂くとする。冷えたビール(アサヒ・スーパードライ)を飲みながら、口に入れてみた。うん、悪くない。ご飯が少しべとついているが、我ながら上出来だ!
男子厨房に入るなかれ!なんてことは言わせない。小生はよく自分で作って食べるのだが、やはり食べたいものは自分で作るべきではないかと考える時がある。それは味覚は主観だと思うからであって、人の味覚がどのような嗜好になっているか判らないので、自分好みの味付けにするのにはどうしても自分でやるしかない。そうしないと納得できない・・・・食い物に対しても、変なこだわりが身についてしまったなあと、最近はつくづく思う。
2007.10.24 (Wed)
古い映画を観る・・・・・『2001年宇宙の旅』
『2001年宇宙の旅』1968年製作、アメリカ/イギリス映画
監督 スタンリー・キューブリック
出演 ケア・デュリア
ゲイリー・ロックウッド
ウィリアム・シルヴェスター
ダニエル・リクター
【あらすじ】あらすじと言ってもストーリーらしきストーリーが無く、坦々と展開して行く。地球の夜明けがあり人間の祖先らしきヒトザルが現れ、食べ物を奪い合っていた。彼等はやがて二本の脚で立ち上がり、或るところで屹立する黒色板を見つける。黒色板は異様な音を発し、光をも反射する。どうやらこの黒色板がヒトザルに知恵を授けたようだ。彼等は骨を手に持ち、武器として使った。その知恵を持ったヒトザルの一匹が骨を高く投げ上げる。すると骨が突然、飛行中の宇宙船に変わってしまうのである。・・・・・知恵を持ったヒトザルから数百万年が経ち、その骨が宇宙船にかわっていた。
宇宙船は宇宙ステーション内に到着する。その頃、月では緊急事態が発生し、科学者たちが飛行士を待ち受けていた。そして、極秘の会議が行われる。それは月の或るところで、屹立している黒色板についての会議だった。この黒色板は何処から来たものか、また何物なのか、さっぱり謎を解くことが出来なかった。やがて、その謎を解くため原子力宇宙船の木星派遣が決定する。宇宙船には3人の冬眠飛行士、ボウマン隊長、プール飛行士、コンピューター「ハル」が乗っていた。だが、やがてコンピューター「ハル」が反乱を起こしプール飛行士は宇宙の彼方へ放り出されてしまった。残りの3人の飛行士も死亡。残ったのはボウマン隊長だけになった。ボウマンはコンピューター「ハル」の反乱を打ち砕き、再整備してたった1人で、黒色板の謎を探りに異次元空間へと向って行く・・・・・そして、その後、ボウマンが見たのは、いったい・・・・・・・・。
この映画が上映されていた頃のことはあまり記憶に無い。シネラマでの上映だったように思うが、娯楽映画のようなタイトルに反して難解な映画だという噂は聞いていた。それで結局、私は観にいかなかった。それから何年後だったろうか、私が20歳になった頃、再びリバイバルで上映されていて、その時に初めて『2001年宇宙の旅』を観に行ったのである。
いきなりオープニングからリヒャルト・シュトラウス作曲の交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』で始まり、やがて猿が大勢出てくる。すると猿同士が戦を始め、その中で骨を手にした猿が相手を叩きつける。この骨が人類最初の道具ということなのであろう・・・・。猿の投げた骨が一瞬にして宇宙船にかわる映像・・・数百万年の時を経たジャンプ・ショットである。すると今度はヨハン・シュトラウスのワルツ『美しく青きドナウ』の旋律に乗って宇宙船が宇宙ステーションに向っている映像が映し出される。私は鬼才スタンリー・キューブリックのトリックに酔った。しかし、この映画を楽しめたのはここまでであった。その後は考えれば考えるほど理解できない。まるでブラックボックスに入ったかのように、唖然、唖然の連続で、気がつけばボウマン隊長がロココ風の部屋の中に現れる。「何なんだ、この映画は?」最初に観たときの感想はそんな感じだった。
その後、何度か『2001年宇宙の旅』を観る機会があった。でも観る度に考えさせられる。科学の範疇で観ていると、突然神話的になり、神話的かと思うと哲学的でもある。この映画のポイントとなる黒色板・・・これは何を意味するのか。考えれば考えるほど自分自身、ブラックホールに入っていく。再生と輪廻の起こうる清淨空間が黒色板の中に存在するのだろうか・・・・。
この映画に出てくる黒色板(モノリス)は有機物というより鉱物、金属の類を連想させるが、このあたりキューブリックのマジックにかかっているようでもある。彼が考える神話は科学や現代物理学であり、一方で古代的な自然哲学や万有神論にも結びつきそうだ。万有の生と死を、永遠のサイクルでとらえる輪廻転生思想のようでもある。・・・・とか、なんとか言って、自分自身で答えを見つけようと色々考えた時期もあったが、最近は『2001年宇宙の旅』を観て、何も考えなくなった。つべこべ理屈を捏ねるよりも、この素晴らしい映像に酔って彷徨えばいいのだと思うようになった。要するに、この映画を観た人の捉えかたは10人いれば、10通りあるということだ。深く考えるのはやめたのである。
『2001年宇宙の旅』のワンシーン。『美しく青きドナウ』の旋律が流れる中、宇宙船が宇宙ステーションに向う。
2007.10.23 (Tue)
古典文学を読む・・・・・『ガリヴァー旅行記』
『ガリヴァー旅行記』というと、児童文学作品ではないかと思われるかもしれないなあ。確かに子供の頃に読んだ『ガリバー旅行記』・・・・ガリバーが小人の国に行ったり巨人の国に行ったりする話は、何処かメルヘンチックであった。でも子供の頃に読んだ童話の『ガリバー旅行記』はここで終わっている。ここまでだと読んだ限りは、子供向けの児童文学ではないだろうかと考えるのが普通である。
こんな『ガリバー旅行記』が、実のところイギリス文学史上に残る風刺文学の傑作と言われているのをご存知であろうか・・・・。『ガリバー旅行記』というのは、日本では中野好夫の訳で全編読むことが出来るが、それはそれは内容が、世の中の森羅万象、人間の欺瞞、学界の腐敗、官僚、政治家を詳細に皮肉った批判の嵐である。ガリバーというのはある意味で、作者ジョナサン・スウィフトの分身といわれ、牧師の立場から文壇、政界の人間と親しくなり、有力な政治的代弁者としてペンの闘士になったとされる。言わば、斜に構えて物事を眺め、観察し、洞察し、鋭い批判精神を身につけたものと思われる。このようなスウィフトだから、一般社会にまで批判精神が及び、それはまたイギリス社会だけに留まらず、古今東西に通じる普遍性を持っているから読んでいて頷けるのだ。
こんな『ガリバー旅行記』であるが、ガリバーが巨人の国に行った後の事は、童話の世界では書かれていないので、簡単に補足しておこうと思う。
巨人の国の話から後、ガリバーはある島を発見して上陸する。その島は飛ぶ島でラピュータと呼ばれていた。そこの住民は抽象的な思念にふけり、空想的な連中ばかりである。彼等はあちらこちらへ出かけ、日本にも立ち寄る。さらにラグナックという国ではストラルドブラグと呼ばれる不死の人々に会い、いくら死のうと思ってもそれを許されない奇怪な哀れむべき姿を見て、たいへん驚く。
ガリバー最後の旅は、フウイヌム渡航記で、そこの住民たちは外見こそ馬に似ているが、みんな高い知能と自制と礼節を有し、極めて素晴らしく美しい存在であった。ヤフーと呼ばれる人間そっくりの生き物から、人間に対する激しい憎悪の念を吹き込まれ、そのためにガリバーは故郷に帰っても、我が家の家族さえ見るに堪えられず、唯一つのくつろぎは馬小屋にいる時だけという有様であった。
以上、簡単ではあるが『ガリバー旅行記』のあらすじである。こんな内容だから、児童文学というのには質が高すぎて、とても理解できるような代物ではない。
ところで、『ガリバー旅行記』を読んでいて、笑い転げた部分がある。翻訳原文のまま紹介するとしよう・・・・・・・・・・・・・いま一人の教授はまた、反政府陰謀検挙心得書という大きな書類を見せてくれた。彼は政治家諸氏に忠告しているのだ。すなわち怪しいと思える人間がいれば、次には食事の時間、また彼らがどちら側を下にして寝るか、どちらの手で手を拭くか、それからまた排泄物を厳重に検査する、そしてその色合、匂、味、濃度消化の良否といったものから、彼らの思想計画を判断せよ、なんとなれば人間というものは、その上厠せる時ほど真剣に、いちずに物を考える時はないからだ、これは彼自身再三の実験によって発見したものであるという、すなわちそうした上厠時に、むろん、ほんの実験のためだが、どうすれば最も巧く国王しい逆が出来るかということを考えてみたところが、その糞便は常に緑色を帯びていた。ところがただ単に内乱を起すとか、首都を焼くかといった程度の考えでは、全然そうした変化は起らなかったと、というのであるる・・・・・・・・・・・・・・・・・・何とも物騒な風刺であるが、国王の命を狙っている奴は緑色の糞便をしていて、内乱程度では糞便の変化が起こらなかったと書いているのである。このように『ガリバー旅行記』は、こういった調子で、最初から最後まで批判、皮肉、風刺の連続である。ある意味、児童文化的な小人の国、巨人の国の話から、後半、物語がより荒唐無稽へと展開していくが、風刺色はより強くなり昇華していくのである。すでに『ガリバー旅行記』を子供の頃に呼んだ覚えがあり、小人の国、巨人の国までの話ししか知らない人は、後半こそが『ガリバー旅行記』の真髄であることをお忘れなく。出来れば、面倒くさいが読んでもらいたいと思う。
2007.10.22 (Mon)
比叡山の千日回峰行
京都の北東に比叡山という標高848mの山がある。この山は高野山と並び、昔から信仰対象の山とされ、京都の鬼門の方角にあたるので王城鎮護の山とも言われていた。そんな比叡山に天台宗の総本山延暦寺がある。
延暦寺の修行は厳しいので有名であるが、山内の院や坊の住職になるためには最低でも3年間における籠山の修行をしなくてはならない。さらに12年籠山行というものがあり、厳しさは口で言い表わせない。そして、その上に千日回峰行があり、12年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれた者だけが許される行である。行者は途中で行を続けられなくなると自害する決まりとなっていて、首を吊るすための紐と短刀を常時携行するという。回峰行は7年間続き、700日目の回峰行を終えた日から「堂入り」が行われるのである。
その「堂入り」なのであるが、その内容はというと、比叡山中の明王堂で9日間、断食、断水、不眠、不臥(ふが・・・横にならないの意味)の状態で不動真言を唱え続けなくてはならない。つまり天台宗の荒行千日回峰行の最難関が「堂入り」なのである。それで、昨日の未明に無事、星野円道さんが行を終えて堂を出たというから驚嘆したのである。
この行を達成した行者は6年ぶりのことで、戦後12人目というから、如何に限界を超えた荒行かということが解るだろう。・・・・比叡山中を計1000日かけ約4万㎞を踏破する千日回峰行の最大の難関が「堂入り」というから、容易に達成できる行ではないが、寝ない、食べない、飲まない、横にならない・・・・この状態で真言を10万回唱えるというから、体力も衰弱するであろう。通称「生き葬式」と呼ばれ、お供えの水を汲みに行く以外は堂を出ず、5日目から許されるうがい以外は何も口にすることが許されないのである。
その上、介添え役や、一緒に線香をあげたりする僧侶などが常に20人はいるため、睡眠は不可能である。そして、無事に「堂入り」を終えても、体調の快復は容易でないという。食事は食べても吐いてしまうから、ジュース、流動食から始め、暫くは寝ようとしても寝られないという。
一般的に言って、断食、断水、不眠の限界はせいぜい5日だという。脱水症状になると血圧低下で脳に血液が送られず意識朦朧となり、細胞も浸透圧の低下でミイラのようになってしまうと言うから死と隣り合わせの難行、苦行、荒行なのである。
なお、星野円道さんは、この後、京都市内の寺社など1日84kmの行程を巡る「京都大廻り」の行が待っているという。・・・・いやはや、お寺の僧というのは、とんでもない行をやらないといけないんですね・・・・。参りました・・・。
2007.10.21 (Sun)
古い映画を観る・・・・・『戦艦ポチョムキン』
『戦艦ポチョムキン』 ソヴィエト映画 1925年製作
監督 セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
出演 アレクサンドル・アントノーフ
グリゴリー・アレクサンドロフ
ウラジミール・バルスキー
【あらすじ】1905年の第一次ロシア革命前夜のことである。戦艦ポチョムキンの船上では、水兵が士官から蛆虫のわいた肉を食べるように命じられていたが、それに反感を持った一水兵ワクリンチェクは、みんなに呼びかけて蜂起する。水兵が一斉に反乱を起こし、それは成功した。ところが、士官の報復によりワクリンチェクは死ぬ。船はオデッサの港に到着、人々はワクリンチェクの死を悲しみ、ワクリンチェクの死体を取り囲み悲しみに沈む。しかし突如として銃声が鳴り響き、政府軍の一斉射撃が始まり、群集は逃げ惑うこととなる。オデッサの階段を人々は転がるかのように・・・・・・・。革命の火種を巻き起こすこととなったポチョムキンの反乱に題材をとった、歴史的作品である。
日本では戦前、共産主義のプロパガンダが含まれているとみなされ、政府の検閲にひっかかり上映禁止となった。この映画が、日本の映画館で一般に公開されたのは、何と戦後22年経った1967年のことである。当然のように、ソヴィエト共産主義の国策映画なので、政治色が強い映画であることは歴然としている。でも何故、この映画が歴的価値があるのかというと、それはモンタージュ手法を確立した映画として世界の映画関係者から絶賛を浴びているからなのである。
モンタージュ論とは、バラバラに撮影されたフィルムのカット(断片)を繋ぎ合わすことによって意図する表現効果、映像効果、芸術効果を生み、一つの作品として纏め上げることを広義の意味として理解してもらえればいいと思うが、エイゼンシュテインは、カットをモンタージュのための断片ではなく、映画の一部の細胞と考え、その結合が生む衝突の意味を重視して自分で弁証法的モンタージュ理論を考察したのである。
このように言うと、何か難しく思われそうだが、今の映画は何らかの形で、エイゼンシュテインの手法を踏襲しているので、この『戦艦ポチョムキン』を観てもさほど驚くことはない。でも、この映画が製作されたのは1925年である。日本で言うならば大正14年であるが、まだ17コマの映像が中心で、もちろん映像に音はない。そのことを考えるならば、この映画の持つ意味がどれほど大きいか理解できると思う。
後年、映画が24コマになり、音が出るようになり、映像がカラーへと成長を遂げた。それにより映画の表現方法が飛躍的に向上したことは言うまでもないが、今から80年以上前に、エイゼンシュテインはモノクロの音のない映像だけで、訴えたいことを見事に表現しているのである。この映画の場合、あらすじがどうのこうの、当時の時代背景がどうだの、そんなことはどうでもいいのである。とにかく映像の表現力が出色で、革命的だったのである。中でも『オデッサの階段』と言われる6分間の映像は、「映画史上最も有名な6分間」とされ、特に撃たれた母親の手を離れた乳母車が階段をカタンコトンと落ちていくシーンは圧巻である。映画通は、この映画を観ずして映画を語ることなかれ・・・・。絶対に観るべき作品である。
『戦艦ポチョムキン』のオデッサの階段の場面。この映像ではレッド・ツェッペリンの『天国の階段』がBGMに流れているが、かつて私が観た時は、ショスタコーヴィチの交響曲第5番~第1楽章が流れていた。
2007.10.20 (Sat)
キリンプラザよ、さようなら!
大阪の名所、道頓堀川に架かる戎橋の袂にあるキリンプラザ大阪が、今月末で営業を停止し、取り壊されることとなった。まことに残念である。
キリンプラザといっても、大阪以外の人には何のことか判らないと思うが、1987年に麒麟麦酒が建てた建造物で、館内にはエントランス、地ビール工場、ビアレストラン、アート書籍売り場、カフェ、現代美術ギャラリーがあり、その文化的見地から見ても建築学的に言っても存在感のある建物だったのである。
建築家・高松伸の代表作として知られ、1989年のアメリカ映画『ブラックレイン』では、クラブ・ミヤコとして使われ、猥雑でアナーキーな映像を撮るリドリー・スコット監督が上手く演出していたので、知る人ぞ知る建築物であった。映画は日本のやくざとニューヨーク市警、大阪府警を含めた抗争を題材とした映画であり、マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシア、ケイト・キャプショー、高倉健、若山富三郎、神山繁が出演していたので話題になったものである。そして、なによりも癌に罹りながらも無理して出演した松田優作の遺作となった作品として有名であった。そんな映画の中で、キリンプラザは夜空に煌々と巨大な行灯のような白い光を燈していて、それが余りにも印象的であった。
そんなキリンブラザが建てられてから、まだ20年にしかならないのに、早くも取り壊されるというのは、なんとも惜しい気がする。ちょうど大阪に観光に来る人は、まず道頓堀に行き、グリコのネオンサインの前で記念写真を撮るというのが定番のようであるが、その道頓堀川を挟んで対角線にある建物がキリンブラザなのである。
独特の外観と、内部とのコントラストの違いをも含め、派手な看板、広告の目立つこの周辺では、地味な色合いと共に異彩を放っていた建物だったのである。それが、何故、壊されるのか理解に苦しむが、とにかく今月末で閉館の憂き目に遭い、解体され、土地は売却ということである。最近は大阪の都市部を含め、どんどんと古いものが壊され、新し物へと建て替えられていく。この道頓堀界隈も、昔は芝居小屋が五座あったことから芝居の街とされていたが、今は何の面白味もないパチンコ屋、カラオケ屋、ゲームセンター・・・・こんなのばかりで、観光客は多いが、何処にでもある繁華街に成り下ってしまった感がある。せめてキリンプラザは残しておいて欲しかったが、これも時代の流れであろうか・・・。私は、キリンプラザの前身であるキリン会館内の映画館で、映画『スター・ウォーズ』ともう一本を観た覚えがある。そういえば映画館がシネマ・コンプレックスに代わってしまい、映画を観に行く気もだんだんと起こらなくなってしまったが、昭和は遥か遠くになってしまったのだろうか・・・。
この跡地に何が出来るのか判らないけども、せめてパチンコ屋だけは造らないで欲しいと切に願うのである。
映画『ブラックレイン』のシーン集
2007.10.19 (Fri)
ジャズ・アルバムを聴く・・・・・デューク・エリントン
デューク・エリントンというとジャズ界の巨匠であり重鎮である。既に亡くなって30年以上になるが、ジャズ界の大御所で最高、最大のアーティストとして、今でもその名を知らない人はない。1899年の生まれというから19世紀の人なのである。
本名エドワード・ケネディ・エリントン。彼は黒人にしては稀有な存在で、ワシントンDCにあるホワイトハウスの黒人執事の息子として生まれたのである。そのせいか、幼い頃から立ち振る舞いが上品で垢抜けていたという。だからデューク(公爵)とニックネームがつけられ、幼少の頃からクラシック・ピアノを習い始めたという。これも黒人としては異色であろう。ところが高校時代に同じ黒人音楽のジャズにはまってしまい、高校を中退してプロの演奏家になる。1923年にニューヨークへ移り頭角を現すようになる。そして1927年にはハーレムの「コットン・クラブ」と契約し、以後、バンドリーダー、ピアニスト、タレントスカウト、作曲家、編曲家として大活躍することとなる。
今回、聴いたアルバムは『オリジナル・デューク・エリントン ベスト20』である。私は基本的には、ベスト・アルバムなんて嫌いなのだが、このアルバムは数あるデューク・エリントン楽団の有名な曲のオリジナル・バージョンばかり収録されているから、聴く価値のあるベスト・アルバムということになる。収録曲は『黒と茶の幻想』『クリオール・ラブ・コール』『ザ・ムーチ』『ムード・インディゴ』『ソリチュード』『私が言うまで何もしないで』『ドント・ゲット・アラウンド・マッチ・エニモア』『コットン・テイル』『A列車で行こう』『アイ・ガット・イット・バッド』『パーディド』『キャラバン』『イン・ナ・センチメンタル・ムード』『ソフィスティケイテッド・レディ』『ロッキン・イン・リズム』『エコーズ・オブ・ザ・ジャングル』『コ・コ』『イン・ナ・メロトーン』「灯りが見えた』『スイングがなければ意味がない』・・・・・・・・・・
デューク・エリントン楽団のアレンジャー、ビリー・ストレイホーン作曲による余りにも有名な曲『A列車で行こう(Take the "A" Train)』のオリジナルも当然のように収録されていて、オリジナル・バージョンはエリントンのピアノソロで始まるが、これは1941年の録音。今やデューク・エリントン楽団のテーマ曲であり、ジャズ・スタンダードの定番である。ビッグ・バンド・ジャズといえば、必ず演奏曲目に入れられるほど知れわたった曲である。
『キャラバン』という曲があるが、デューク・エリントン楽団がジャングル・サウンドと呼ばれたりするが、この曲を聴くとよく判る。この曲のメロディを、私は小学生の頃から知っていて、何故かなあと考えたら、ザ・ベンチャーズがエレキギターで弾いていたのを聴いて慣れ親しんでいたからであるということを後年に知ったのである。
『ソフィスティケイテッド・レディ』は、同名のミュージカルがあるのでよく知っていたが、デューク・エリントン楽団の曲とは知らず、ミュージカルの挿入曲とばかり思っていた。
『スイングなければ意味がない(It don't mean a thing)』は、マリー・エリントン、ケイ・デイヴィス、ジョヤ・シェリルの3人の女性ヴォーカルが聴かれる。
『ムード・インディゴ』とは藍色のムードとかいった意味であるが、色を音で表現すると、このようになるのかもしれない。ダンス音楽としてジャズが栄えた頃のような雰囲気がある曲である。
『ソリチュード』はシンガーによって唄われることが多いが、本来は器楽曲であり、甘く切ないいスローバラード風の曲である。
『ザ・ムーチ』もデューク・エリントンの代表作で、管楽器の掛け合いが特徴のリズムが鼓舞される黒人色の強い曲である。
デューク・エリントン楽団の演奏は、従来の楽器演奏法にとらわれない方法で演奏され、このあたりはエリントン楽団の質の高さによるとされる。メンバーは代わってもメンバーは優れた奏者が多く、そのため彼等の演奏はジャズの要素が内包されていて、時代のスタイルに拘らなくてドビュッシーやラヴェルの作品にも興味を示し、それらの要素も巧みに採り入れている。
でも、今時のコンボスタイルのジャズを聴きなれた人には、ビッグバンドというのはどうだろうか・・・・・という懸念があるが、これはこれで新鮮に聴こえるかもしれないな。
デューク・エリントン楽団 1969年の映像 『A列車で行こう』を演奏する
2007.10.18 (Thu)
雑酒を飲む
今日は帰宅してからKIRINのどごし<生>を飲んだ。でもビールに比べて渋味が薄いし、ぐっとくるものがない。この「のどごし<生>」は、ビールではないことは判っていたから、こんなものなのかと思っていたのだが、発泡酒にしても飲んでいると頼りない気がする。それでよくよく調べてみたら、この「KIRINのどごし<生>」は雑酒に分類される酒で、第3のビールとも言われる種類に属するということが判った。以前から安価で買える第3のビールというものが出回っていることを認識をしていたが、いざ、飲んだことはなかった。
ところで第3のビール及び雑酒ってなんだ? という声が聞こえてきそうである。それでは簡単な説明に入ろう。
酒税法によると酒は日本酒、ワイン、ウイスキー、ビール・・・・・等、10種類に分けられるという。その中でビールは、麦芽、ホップ、酵母、水など決められた原料を使って、麦芽の使用比率が2/3以上とされ、麦芽以外に使用する原料の種類も決められているのだそうだ。
発泡酒は、麦芽を原料の一部とした発泡性を有する酒類のことで、麦芽以外の原料の酒類は決められていなくて、原料に麦を1%使用していれば発泡酒とされる。
それでは雑酒とは、どんなものかというと、酒税法において何処にも分類されないお酒のことを呼ぶらしい。つまり麦芽を一切使わずビールに似た味を作り出し、安くで売り出されたものを言うらしい。だからKIRINの「のどごし<生>」が雑酒、または第3のビールに属するものとして扱われるのであるが、この「のどごし<生>」は大豆タンパクを原料として、ホップ、糖類、酵母エキスを使用し、よりビールに近い味を出そうとして開発されたものである。それで私は飲んでみた・・・・・。うん、ズバリ言ってビールの方がいい! でも安いから、ついつい買ってしまうのだ。これはもしかしたら貧乏人の性かも・・・・悲しいネエ。
2007.10.17 (Wed)
亀田一家パッシングについて考える
さて、ここで私が言いたいこととは・・・・・それならJBC(日本ボクシング・コミッション)とTBSの関係者は処分されなくていいのかということである。ともに今回の亀田家騒動とは切っても切れにない関係にあると思うのだが。
そもそもボクシングは最近人気が凋落していて、テレビの世界タイトルマッチでも放送されない試合が増えていて、その人気低迷を止めることが出来なかった。そして、テレビ局も視聴率が悪いということで、ボクシングの試合を徐々に中継しなくなっていた。そんな或る日のこと、TBSのエグゼクティブ・プロデューサー菊池伸之が、ボクシングに全てを捧げた亀田一家の事を雑誌で知ることとなる。それで、全てはここから茶番劇が始まったということであろう。
私が亀田一家のことを知ったのは、関西ローカルのニュース番組であった。1999年だったと思うが、息子3人を世界チャンピオンにさせると豪語する父親と共に3人の息子の練習風景がテレビで映し出されていた。その時、私は世の中には色んな人がいるものだなあという程度の感想でしかなかったが、それからまもなく、長男の亀田興毅が中学に進学してグリーンツダ・ジムに入門するという。そして、その前に、元・世界ストロー級チャンピオンだった井岡弘樹とスパーリングも試すというから、それは面白いと思った。テレビはその時の模様を紹介していた。まだ中学生になったばかりの亀田興毅は、井岡と互角の勝負をしていたので、いくら現役を尻ぞいているとはいっても、相手は元・世界チャンピオンである。この中学生は将来大物になるかもしれないと直感したものだ・・・・。しかしである。スパーリング後の亀田興毅の発言が気になってはいた。「世界チャンピオンになるんや。井岡ごときでひびってられるか!」と人の名を呼び捨てて大口を叩いたのである。私はその一言で、世界チャンピオンに成るのもいいが、その前に礼儀作法というものを教えてもらえよとテレビに向って言った覚えがある。
2003年12月21日である。亀田興毅はデビューした。鮮やかなKО勝ちであった。その試合を観たTBSの菊池プロデューサーは早速、大阪の亀田家に飛んで、彼等3人の特集を組んだテレビ番組をこれから作ることを確約したという。これが亀田家を増長させ、勘違いさせる大きな要因になろうとは、その時、誰が思ったであろうか。確かに亀田家の3人はボクサーとしては素質があったし、人気も出そうな色んな要素を備えていた。ファイティングスピリット、体力、パンチ力、ビッグマウス・・・・。
彼等はテレビ局が特別枠で、番組を放送することで人気が沸騰することとなる。一般的に新人ボクサーは試合中継すらないのに、彼等の試合だけはゴールデンタイムで3時間にわたって中継されることとなった。まだ実力も定かではないのに、試合前には安っぽいサクセスストーリーを披露する。試合相手は何処の馬の骨か判らないような外国人ボクサー。これらは全てTBSとジムと亀田の父親が仕組んだ事である。当然のように素人同然のようなボクサーを一発で倒すこととなり、ボクシングを観た事のないギャルが、彼等に熱を上げ、亀田フィーバーが巻き起こることとなる。
これで菊池プロデューサーが喜んだことは間違いないだろう。テレビの視聴率も良かったし、まずは目出度し目出度しというところだ。しかし、目の越えたボクシングファンは、この現象に不快感を覚えていたものである。それは、彼等が日本人と試合をしなかったこともあるが、実力が本物でもないのに、金でマッチメークが出来るという現実。しかし、JBCは亀田興毅が試合すると視聴率が高いことなどもあって、何の苦言も呈さなかった。
やがて亀田一家はグリーンツダ・ジムと色々なことでもめて、東京の協栄ジムに移籍した。移籍金は3000万円であったといわれる。彼等には一軒家が宛がわれ、家の横に練習場を造った。これによりTBS側は、ますます東京シフトに成功した亀田家報道に力を入れることとなり、彼等寄りの試合ばかり中継することとなる。そしてそして、彼等は増長して行き、品性のない、不躾で生意気で、礼儀知らずで粗野な大法螺吹きと流転していくのである。たとえパフォーマンスとはいえ、世間からパッシングを受け、批判の渦の中に巻き込まれてしまい。今や亀田家はヒール役の中心にいる。
さて、ここで亀田家を罵るのもいいが、彼等はきつい罰則が待っている。それにより今後、浮上してくるのか、それとも沈没してしまうのか、これから先は判らない。彼等が反省しないで、態度を改めるつもりがなければ、後は奈落の底が待っているだけだ・・・・。だから、もう何も言うつもりはない。でも彼等を持ち上げ、美辞麗句で虚飾し、人気者に祭り上げ、増長させ大いなる勘違いを彼等に植え付けたのは、TBSではないのか・・・・・・・。それに対して、何の苦言も呈さなかったJBC、この2つの団体こそ何らかの処分が必要な気がする。今後、TBSも亀田家の試合も簡単に中継できなくなるだろうが、充分、彼等によって視聴率を稼いだであろう。
今後TBSは、亀田家のパッシング騒動で、手のひらを返したように彼等を見捨て、挙句の果ては、知らない放題の使い捨て状態になるのではないかと予測しているのだが、捨てられた亀田家こそ迷惑かもしれない。最初からテレビ局が過剰報道なんかしなければ、彼等がここまでやり玉に挙がることもなく、細々と下積みから叩き上げで強くなっていったかもしれないのに、なまじっか特別扱いされたばっかりに、自分で自分の頸を絞めることとなってしまったのだ。つまり祭り上げるだけ祭り上げておいて、後は手の平返すように扱き下ろすのが目に見えている。いい加減なマスコミも怖いが、私はその中でも、仕掛けたTBSが1番罪は重いように思う。そして、それを黙認し続けたJBCにも過失は充分ある。全ての罪を亀田家だけに背負わせておいて、後は知らないというのでは腑に落ちないと考えるのであるが・・・・。
2007.10.15 (Mon)
京都国際マンガミュージアム
一昨日の土曜日の午後、京都国際マンガミュージアムに行ってきた。京都国際マンガミュージアムって何だ? と言う人に説明すると、2003年4月、日本で唯一のマンガ学科のある大学として知れわたっている京都精華大学から、京都市に京都国際マンガミュージアムの計画を持ち込まれ、京都市と大学が共同研究する中で、地域の色々な方の理解と協力を得て開館されたマンガのミュージアムである。
場所は烏丸御池という京都のビジネス街の中、もともと龍池小学校のあったところで、閉校されていた建物が残っていたので、改築され昨年の11月にオープンしたのである。所蔵するマンガ資料は20万点というから、日本のマンガミュージアムでは最大で、日本の貴重な歴史資料から現代の人気作品、世界各国の名作まで保存されている。
私は地下鉄に乗って御池駅を降りて地上に上がると、すぐに場所が判った。小学校が昔からあったことを記憶していたので、探しやすかった。グラウンドが烏丸通に面していて、グラウンドの西側と北側にかけてはL字型の建物が立っている。入り口で500円を払うが入場券を見せれば、その日の間は何度でも出入りできるという。館内に入ると、小学校を改築したということが判り、教室程度の大きさの展示室が幾つか分かれている。
1階正面には140mの書架に4万冊が並ぶ「マンガの壁」が威容を誇り、閲覧は自由なので、子供達や大人達が、館内の椅子に座ったり、グラウンド一面に敷かれた人工芝の上に寝転がってマンガを読みふけっていた。あいにく私は、ただ見学に来ただけなので、マンガを読もうとは思わなかったが、今後も資料は増やしていくとのことであった。
地下1階には資料所蔵、研究展示ギャラリーとなっている。1階は喫茶店が入り口の横にあり、マンガのキャラクターのグッズ等を売っているショップもある。さらに奥へ行くと子供図書館、似顔絵コーナー、マンガの描き方の実演を見ることが出来るマンガ工房、各作家が描いた舞妓の絵の展示コーナー等がある。2階に上がるとギャラリーが幾つかあり、未来マンガ研究室と紙芝居コーナーがある。
拍子木を打ち鳴らしながら歩いている親父さんがいるので、付いて行ったらかつて教室だったろうと思われる所に椅子が並べてあった。そこへ座っていると、先ほどの親父さんが、これから紙芝居をするというので見ることにした。そういえば私も小さい頃は紙芝居というものに接したことがあるが、それ以来の体験かもしれない。・・・ところで、この日の紙芝居で採り上げた話は例によって『黄金バット』であった。また、ここでは創作紙芝居もやっていて、この日は『桃太郎?』であった。・・・・何故?がついているかというと・・・・・・昔、昔、ある所におじいさんとおばあさんが、いませんでした。おばあさんは川で洗濯をしていませんでした。川の上から大きな桃がドンブラコドンブラコと流れてきました。それで海まで流れていきました。・・・・桃は、その後に鬼ヶ島へ流れ着き、桃太郎は鬼に育てられ、村を襲いました・・・・・・・何という結末だ。
さらには3階へ上がって行くと、マンガ研究室、閲覧室等があり、検索機もあるので、ほとんどのマンガは読もうと思えば見つかるということだそうな。マンガの所蔵品は、今後も増えていきそうであるが、手塚治虫の『ジャングル大帝』フランス語版や青山剛昌の『名探偵コナン』中国語版なんていうのもある。
私の子供の頃は、マンガばかり読んでいると親に叱られたものであるが、今や日本のマンガはサブカルチャーの優良な輸出品で、世界中で読まれているというから時代も変わったものである。かつての田川水泡『のらくろ』や手塚治虫の数々の作品に、最近のヒット作品まで、全てを網羅してあるのだが、あまりに多すぎて、いざ、何を読めばいいのか困ってしまう。でも今の子は、これだけの中から自分が読みたいものだけを手にとって、館外の人工芝の上に寝転がって夢中で読んでいる。この光景は、昔も今も変わらない。マンガを読む子は、何もテレビゲームばかりをやっているのでもなく、テレビばかりを見ているのでもない。・・・私はここでの子供達の姿を見て、少々、日本の将来に希望が持てるようになった。でも、これは楽観的過ぎるかな・・・・・・・・・?
2007.10.14 (Sun)
写真で見る東山界隈②
④ ⑤ ⑥
⑦
昨日の続きで、平安神宮の前を東に向かい500mほど歩くと、白川という小さな川に出る。そして、さらに山側へ歩くと紅葉の名所・禅林寺(永観堂)の入り口に差し掛かる。この前を南に数分歩く。すると南禅寺の北側の入り口にぶち当たる。そこから境内に入る。
①南禅寺の三門である。巨大な三門で重要文化財に指定されていて、歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな」と見栄を切る場面が有名であるが、あれは出鱈目である。何故なら、この三門は石川五右衛門の死後に建てられた(1628年)ものであるから、五右衛門が生きていた時代にはなかったということになる。
②南禅寺境内の奥の方に煉瓦造りの水路閣がある。明治時代に琵琶湖から水を牽いて京都市内に発電を起こしたというが、その水路の一部である。蹴上から南禅寺境内を通って、哲学の道へと水は流れて行き、松ヶ崎浄水場から鴨川を経て堀川まで続いている。
③水路閣を上から覗くとこのようになる。見事に水が勢いよく流れていることが判る。かなりの勢いで西から東へ、さらに北へと水が流れていく様が見られる。
④若王子神社から銀閣寺の参道までの琵琶湖疏水べりの道を「哲学の道」と呼ぶ。それは京大教授だった哲学者・西田幾太郎が何時も散策していたから、そのように言われるようになったそうだが、桜や紅葉の季節には人、人、人で溢れ返り、とても哲学といった雰囲気ではなくなってしまう。
⑤鹿ケ谷にある法然院の山門である。哲学の道を北へ向かって1㎞も歩くと、法然院へ抜ける道がある。正式名は萬無教寺。でも法然上人ゆかりの寺なので法然院で通っている。法然院は10月の間は訪れる人も余り多くなく、静かな竹林に囲まれ落ち着いた佇まいの中にあり、山門は茅葺の数奇屋造りで独特の風情がある。でも私は法然院に行く時は、しとしとと小雨が降る日に限ると思っている。濡れた石畳と竹林が薄曇の中で映え、静寂が周囲一帯を包み隠してくれるような雰囲気になるのだ・・・・。
⑥法然院を出て、北へ300mほど歩けば、慈照寺の参道に出る。ここへ来ると驚くほど観光客が多い。ちょっと人の多さにウンザリする。参道の両側は土産物屋や漬物屋、料理店等が切れ間なく並んでいて、それが慈照寺の入り口まで続いている。慈照寺、通称は銀閣寺というが、室町幕府8代将軍・足利義政が建てた山荘で、銀閣と呼ばれる写真の建物は観音殿のことである。
⑦もう一つ、観音殿(銀閣)を別の位置から撮った写真である。でも観光客の大半は「ショボいよねー」とか「何か冴えないよー」とか言って、すこぶる評判がよくない。彼女達は銀箔でも貼ってあるとでも思ったのだろか。名前は銀閣寺だが、キンキンキラキラの金閣寺と比較してもらっては困ります。これでも国宝であって、庭園を含めた様式美というものに趣があることを察してもらわないと、銀閣寺に来る価値はありませんよ。
以上、清水寺付近の八坂の塔から始まって、延々と4時間近く歩きました。途中、昼食と休憩をいれて、ほぼ半日はかかるでしょう。でも、これを全て歩く人は珍しいでしょう。観光客は先を急ぐようにバスに乗るか、タクシーで次の目的地に向います。しかし、京都は歩いてこそ本来の良さが判る街です。何気ない裏通りや土塀や名もない寺社、民家、竹林、小川、大木、これら全てに歴史が感じられるのであって、ポイントポイントだけを観て、土産物を買って、あとは食べるだけの観光はやってもらいたくはないです。・・・とは言っても観光客は時間的制約があるので無理があるかもしれませんねえ。
2007.10.13 (Sat)
写真で見る東山界隈①
④ ⑤ ⑥
⑦
ようやく秋らしくなってはきたが、まだまだ上着を着て歩くほどの気温ではない。雨が降ると肌寒くはなるが、陽光が射すと汗ばむような陽気となる。それでも半月前と比較すると涼しくはなってきた。それで、京都はまだ本格的な観光シーズンというのでもないが、そろそろ観光客が増えつつある季節になってきた。そんな中、私は東山界隈を歩きながら、写真を撮ってきたので、今日は写真ブログのようなことを試みてみた。
まず①の写真であるが、八坂の塔(法観寺)を西の方角から撮った写真である。もうすでに清水寺周辺は、観光客でごった返しているが、この付近は人がまばらで、落ち着いている。でも、あと一ヶ月もすれば、この周辺も観光客だらけになってしまう。
②は二年坂(二寧坂)である。八坂の塔の前を東に向って歩くと坂道に突き当たる。右に折れると三年坂(産寧坂)があり、登ると清水寺へ向う参道に行き当たる。そして、左に折れると、この二年坂である。ここから下って行くと、ねねの道へと繋がる広い路地に出る。
③「ねねの道」と呼ばれる。昔は高台寺道と言われていたが、最近は「ねねの道」だそうだ。この道を真っ直ぐ北へ行くと円山公園がある。「ねねの道」の山手側には豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)ゆかりの高台寺と園徳院がある関係から、このような名称で呼ばれているらしい。
④は円山公園内にある巨大なしだれ桜である。でも、最近はカラスがつつくのか大木がボロボロで、枯れかかっているというから、昔のような見事な満開の桜は見られない。
⑤知恩院の三門である。華頂山知恩院の三門は日本最大である。円山公園を北に抜けると、すぐ右側に勇壮な姿を誇示するように立っている。
⑥平安神宮の前までやって来ると、馬車が待機していた。京都の嵐山や東山界隈では人力車が到る所で走り回っているが、最近は馬車が登場したようである。でも京都の狭い通りでは走れるところが限られてくるであろう。
⑦私は南禅寺に向うつもりで、東へ向って歩こうとしたら、ちょうど平安神宮が目に入った。朱塗りの応天門は艶やかだが威厳がない。
次回へ続く
2007.10.12 (Fri)
『ホームレス中学生』を読んで
麒麟という名の漫才コンビがいるが、その一人である田村裕の書いた『ホームレス中学生』というタイトルの本が売れに売れているという。私はタレント本などは買ったことがないので、その存在も知らなかったが、職場の若い衆が買って読んだというから、さっそく借りて、一気に読んでしまった。
内容は1993年7月20日、中学2年生の田村裕少年は、一学期の終業式を終えて、自宅に帰ってきた。が、家のマンションの1階に見覚えのある家具が並んでいたという。彼は何かを察し、2階にある自宅に行くのをたじろいだ。すると高校3年の姉、大学1年の兄がたて続けに帰ってきて、自宅の前で父親を待っていた。彼等の自宅の入り口には差し押さえのテープがクロスに貼ってあり、家に入れないようになっていたという。そうこうすると、父親が帰ってきて、いきなり次のように言った。
「ご覧の通り、まことに残念ではございますが、家のほうには入れなくなりました。厳しいとは思いますが、これからは各々頑張って生きてください。・・・・・・・解散!!」
彼等の父親は、これだけ言うと真っ先に何処かへ去ってしまったのである。残された3人は、相談したが結局、田村裕少年が「僕は一人でなんとかするわ」と言って、彼だけ近くの公園で野宿生活を送る羽目になったという。最も兄と姉も同様ではあったが・・・・・。
彼等の母親は、既に3年前に亡くなっていて、その後、父親も癌になり、会社もクビになったという。その間の父親の金銭面の苦労話は詳しく書かれてはないが、差し押さえとなり一家離散に追い込まれたということである。そして、中学2年生の田村裕少年は、近くの『まきふん公園』(彼がそのように呼んでいる)で生活を始めるのである。巻貝をモチーフにした滑り台で寝て、草や段ボールをも食べ、自動販売機の下に落ちている小銭を拾ったり、鳩に餌をやっている人のパンの耳を頂いたり、雨で体を洗ったり、とにかく、現在の世の中で、こんな中学生が存在するのかといった思いで読み進んだのである。
本の内容は、公園でのホームレス生活がメインとなっているが、その後、如何にしてホームレスから免れ、兄弟3人で暮らせるようになるか、また、中学時代のこと、高校時代のこと、吉本興業に入る切っ掛けや、世話になった多くの人々のこと、さほど分厚い本ではないが、事細かに体験談として書かれてあって、殺伐とした事件の多い、今の時代において、一服の清涼剤といったような爽やかな読書感の漂う一冊である。
我々は現在、テレビで麒麟という漫才コンビを見ることが出来るが、田村裕という青年の過去に、このような凄まじい清貧生活を送った事実が、歴然としてあることに違和感を感じ得ないが、彼が人一倍、純粋無垢で心が澄んでいることに驚きを隠せないでいる。母親を愛し、母がいない世の中で、自分が生きていく価値が見出せず、死にたいと思っていた事実があり、また、生きていくことが母に対する親孝行だと芽生えた時点で、人の役に立ちたいと考えたという。その結果、彼は人を笑わすことを目指し吉本興業に入ったのである。
現在、彼等の元を去った父親が、生きているのかどうかも判らず、あるテレビ番組で父親が生きていることを知り、自分を見捨てた父親と一緒に暮らしたいという彼の優しさ、心の広さ、全てが、ある意味でこの本の中に集約しているといっても過言ではない。
ところで、彼がホームレス生活を送った公園は、今でも当時の姿を留めており、田村少年の寝た滑り台も残っている。場所は、大阪府吹田市山田西。団地と私立幼稚園、スーパーマーケットに囲まれ、静かな住宅地の中にある。彼は今でもこの公園を訪れるという。私もこの公園のある場所を知っていて、近くには万国博記念公園があり、エキスポランドの観覧車も、団地の上階に上がれば見えるところである。
私は今の日本で、それも都会の片隅で、中学生がホームレス生活を送ることがあるのだなあという実感と共に、明日は我が身かといった危うい時代に生きている自分に照らし合わせ、身を引き締める思いで読んだ。たかがタレント本、されどタレント本である。田村裕よ、感動を有難う・・・・。
『徹子の部屋』に出演した時の麒麟
2007.10.11 (Thu)
内藤大助VS亀田大毅の試合を観る
私は今でこそボクシングに興味がなくなったが、少年時代は、それこそファイティング原田、海老原博幸、関光徳、小坂照夫、青木勝利、田辺清、藤猛、ムサシ中野・・・・・・等の試合を観て感動を覚えたものだ。当時と今と比較してボクシングはどちらが面白かったかと言われれば、当たり前のように当時の方が断然、面白かったと答えるしかない。
だから最近、ボクシングの試合をテレビで中継していても電源をオンにしようとも思わなくなったのである。その1番の要因は階級を増やしたこと、統括団体の分割、それによりチャンピオン乱造、ミスマッチのオンパレード、試合内容の低下、結局、安直の世界チャンピオンだらけになってしまったこと・・・・・・。
昔からボクシングを見続けていた人には判ると思うが、昭和40年代まではジュニア・フライ級、ミニマム級、ジュニア・バンタム級、ジュニア・フェザー級、こんな級はなかった。一番下がフライ級で、一つ上はバンタム級、その上はフェザー級だったのだ。現代のように体重50kg以下の級が2つもあり、その中でチャンピオンを決めることの必要性があるのかどうか、それにボクシングを統括する団体がWBA、WBC、WBО、IBF等とあって、それぞれが認定チャンピオンを決めている。だから各階級で、世界チャンピオンが3人も4人も存在することになる。だから世界タイトルマッチという名目の試合が頻繁に行われ、安っぽいチャンピオンが生まれることとなる。それで今日、WBC世界フライ級タイトルマッチが行われ、チャンピオン内藤大助に亀田大毅が挑戦したのである。
試合結果から先に言う。私の予想通り内藤大助が大差の判定で勝った。正直言ってミスマッチであった。誰が画策したのか、誰がマッチメークしたのかしらないけれど、亀田大毅は、まだまだ世界チャンピオンになるようなテクニックは備えておらず、ただガードを固くして前へ前へプレッシャーをかけるだけで、パンチが出ない。ファイタータイプなので、パンチ力はあるだろうが、ジャブがなく、いきなり左右のフックを振る。それに対して、ボクサータイプの内藤は、けしてテクニシャンではないが、トリッキーな動きから左右どちらからも連打が出る。それも何処から出てくるか判らないから、亀田も幻惑されているような動きである。最初の4ラウンドは、亀田大毅は、ほとんど手が出ず様子を窺っているような感じさえする。
内藤は右目の上を切り出血するが、下がりながら手数だけは多い。最初から判定狙いかもしれないが、フライ級なんて昔から判定の試合が大半を占めている。判定狙いというのは正攻法である。亀田はパンチ力はあるだろうが、一発を狙いすぎてコンビネーションパンチがない。攻撃のバリエーションも少なく、突進してワンツースリーフォーとフックを出すぐらい。今まで噛ませ犬を含めて、名のない外国人選手とばかり試合を行ってきたツケが、ここで回ってきたとしか言いようがなく。今までの相手とは実力が違っていることに手惑いを隠せない。 後半、焦りからか内藤を捕まえては倒す、または抱え上げて投げつける。レスリングじゃあるまいし、もみあいの多い酷い試合に成り下がってしまった。最終ラウンドは、これがボクシングなのか、というようなお粗末な内容で、観ていて呆れてしまった。
亀田大毅にケチをつける訳ではないけども、これまでの10戦全勝(7KО勝ち)が色褪せて見えてくる。いったいどんな相手とボクシングをやってきたのだと・・・・。勝てる相手とばかり試合を組ませて、作り上げた無敗の戦歴にどんな意味がある。テレビ局と協栄ジムが組んで、亀田三兄弟を人気者にしようと意図され、それにより試合が組まれていったことは判りきっている。だけども、なかなか思うようにいかなかったというのが、今回の試合ではなかっただろうか。
もう、TBSと協栄ジムが仕組んだ茶番劇はもういい。亀田親子もテレビに出てこなくていいから、こつこつと実力とキャリアを身につけて、立派なボクサーとして成長してから試合に臨んでくれ。彼等はまだまだ若い。まだまだ伸びるボクサーだ。若い間から、生意気な大言壮語で相手を威嚇するものではない。テレビ用のパフォーマンスかもしれないが、もし実生活でもあの調子だと、ただのボクシング馬鹿と言われてもしょうがないぞ。
2007.10.09 (Tue)
カップ ヌードルを食べる
昨日の昼間、何年ぶりかで、カップヌードルを食べた。この量で満腹感を得られるようなものではないが、小腹が空いた時など食べるのにはちょうどいい。最近はカップヌードルといっても種類が増えたようであるが、私が食べたことがあるのは、このオリジナル・タイプとシーフード・ヌードルぐらいで、他の種類のは食べたことがない。したがって、どんな味がしているのかも判らない。ところが、今や世界中にカップ麺というものが広まって、何億人の人が食べたか判らないというから、時代が変われば、人間の嗜好も変わっていくのだなあと痛感せずにはいられない。
このカップヌードルが世に出たのは、確か1971年の夏だったと思う。盛んにテレビでCMを流していたから、よく覚えている。かつて世界初のインスタント・ラーメン(チキン・ラーメン)を世に出した日清食品が、新しいタイプのインスタント・ラーメンとして、売り出したのであった。それで売り出した頃は、カップヌードル専用の自動販売機というものが置かれていて、封を切ってカップを販売機の湯だし口の所に置くと湯が出てくるという仕掛けだった。そして透明のプラスチック製フォークが添付してあって、それで食べたという覚えがある。でも発売当初はなかなか売れずに苦労したという。それが、1972年の2月、連合赤軍による軽井沢・あさま山荘篭城事件というものがあった。当時の武装過激派・連合赤軍のメンバーが、人質をとって何日もの間、あさま山荘に立て篭もったのである。警察の機動隊は人質解放を訴えたが通らず、ついに強行突破することになった。真冬の山間部、雪が積もる寒い現場での銃撃戦、長時間もの攻防が続いた。それをテレビ各局が朝から晩まで生放送で中継していたのである。私は学校にいて、その事件のことを知り、夕方に帰宅してからも、まだテレビ中継していたことを鮮明に記憶している。その時、あさま山荘を取り囲む警備隊員に配られた食料というのが、売り出したばかりのカップヌードルであった。彼等は温かいスープの入ったカップヌードルを美味しそうに食べていた。結局、この事件が元でカップヌードルが急激に売れるようになったというから、何が原因でヒット商品が出るか本当に判らない。
私は早速、買って来たばかりのカップヌードルの封を切り、沸騰したお湯を注いだ。ところが5分間以上経過してから食べようとしたら、何と中のスープが無い。麺や具が中の水分を吸収してしまい、ふやけたような麺を食べる羽目に陥ってしまった。・・・・これは大失敗!やはりカップヌードルは、湯を入れて3分間ほどで食べないと美味しく召し上がれないということが判った。
ところで、カップヌードルが世に生まれる切っ掛けとなったのは、1966年に日清食品のチキンラーメンを海外で売り出そうとして、営業マンがアメリカ人バイヤーに売り込んだ時、彼等はチキンラーメンを砕き、紙コップに入れて熱等を注ぐとフォークで食べだしたことにヒントを得ているそうだ。
この時に思いついたのが、カップラーメンという代物だった。そこへフリーズドライ化したエビ、豚肉、卵、ネギ、キャベツ等の具材、そして味付け揚げ麺、味付けには醤油、チキンエキス、香辛料、食塩、調味料、野菜エキス、動物油脂、ポークエキス、糖類、澱粉を加え、適度の量で食べやすくしたのである。日本で火がついたカップヌードルであるが、最初から海外戦略を狙って、製造販売されているので、瞬く間にアジアを中心として、世界各国へ拡がっていったということである。
しかし、久々に食べて感じたのであるが・・・・・よほど腹が減っている時か、食べる時間が無いときにしか食べようとは思わないなあ・・・・。所詮は主食になりえない・・・。
2007.10.08 (Mon)
古い映画を観る『オズの魔法使』
『オズの魔法使』 1939年製作 アメリカ映画 MGM作品
監督 ヴィクター・フレミング
出演 ジュディ・ガーランド
バート・ラー
ジャック・ヘイリー
レイ・ボルジャー
【あらすじ】家ごと竜巻に巻き上げられた少女ドロシーが到着したところは(家の扉を開けるとモノクロ映像からカラー映像に変わる)、鮮やかな色彩の国オズだった。ドロシーは故郷のカンザスに帰ろうとするが、帰り方が判らない。帰り方を知っているのは、オズの魔法使いだけだという。そのオズの魔法使いが住んでいるのはエメラルドの都であり、その都に行くには黄色い煉瓦の道を歩いていけば辿り着く。そのようにすればオズの魔法使いに出会い、カンザスに帰れるというからドロシーはエメラルドの都に向う。
それを知った西の悪い魔女は、東の魔女を殺されたことで(竜巻で飛ばされた家の下敷きになった)、ドロシーを狙っていた。一方、ドロシーはエメラルドの都に向って、黄色い煉瓦の道を歩いていた。するとまず、お喋りだが脳みそのない案山子に出会う。そして、次にハートのないブリキのきこりに会う、さらに勇気の無いライオンに出会い。ドロシーを含めて4人でエメラルドの都に向う。エメラルドの都にいるオズの魔法使いに会うと、ドロシーはカンザスに帰れるし、案山子は脳みそ、ブリキ男はハート、ライオンは勇気がそれぞれ貰えると信じている。どうにか西の悪い魔女の妨害をかわし、エメラルドの都の門に着き、やっとの思いでオズの大魔王に謁見する。ところがオズの大魔王が言うには、願い事を叶えて欲しかったら、西の悪い魔女のホウキを奪って来いというものだった。やむなくドロシーと案山子、ブリキ男、ライオンは西の悪い魔女のところへ向うのだった・・・・・・・。
この物語はアメリカのライマン・フランク・ボームが書いた児童文学が原作で、映画化も何度かされている。最初は1910年、2度目が1925年と何れもサイレント映画である。3度目は短編アニメとして製作されたが未公開。そして1939年の本作品であるが、同じ年に製作された大作『風と共に去りぬ』等と共に、この年に製作されたアメリカ映画の傑作として評価が高い。ただアメリカ人好みの物語であって、これが日本人に、そのまま受け入れられるかといった問題はあるが、ミュージカルとしても観れる見事な作品であり、挿入曲『虹の彼方に(Over the Rainbow)』は、独り立ちし日本人にまで、親しみ唄われ続けるスタンダード・ナンバーとして映画の題名と共に知れわたっているところである。
ところで、この『オズの魔法使』のドロシー役は、最初、シャーリー・テンブルが演じるはずであったが、ジュディ・カーランドが代役で務めた。でも今となっては歌唱力も含め、ジュデイ・ガーランドの方が適役だったように思う。この時、ジュディ・ガーランドは、まだ16、17歳であったが、大人びた歌唱力である。しかし、人気が出たジュディ・ガーランドは、睡眠薬を多用するようになり、薬物中毒と陥り身を崩していった。そんな彼女が亡くなったのは、1969年であり、まだ47歳であったことを考えると、薬物中毒から抜け出せなかったのは残念である。
その後、ジュディの娘ライザ・ミネリも母と同様、女優、歌手として活躍するが、ライザも現在、薬物中毒と闘っているというから、親子2代にわたって、薬から縁を切れなかったというのは皮肉でもある。
『Over the Rainbow』を唄うジュディ・ガーランド
2007.10.07 (Sun)
ロック・アルバムを聴く・・・・・キング・クリムゾン『クリムゾン・キングの宮殿』
私は少年の頃(主に中学、高校時代)、ロックに狂っていた。私の中学当時といえば、まだビートルズは現役だったし、ローリング・ストーンズも人気があった。そんな1960年代末期、ロックが変わろうともしていた。そんな過渡期に一枚のアルバムがリリースされたのである。それがキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』である。キング・クリムゾン(King Crimson)は1968年に結成されたイギリスのグループで、当時のメンバーはロバート・フリップ、グレッグ・レイク、イアン・マクドナルド、マイケル・ジャイルス、ピーター・シンフィールド(作詞で参加)であった。
その彼等が最初に出したアルバムが、この『クリムゾン・キングの宮殿』である。私はラジオで、このアルバムの何曲かを聴き、これは新しいスタイルのロックだと思い、親に小遣いを前借して急いで買いに行った覚えがある。まず、アルバムのジャケットから斬新で、大きな口を開けた男が斜視していて、ジャケットに文字は無い。これは何と変わったデザインだろうと思ったものだ。この絵は画家のバリー・ゴッドバンという人が描いたとされ、統合失調症患者が幻聴に「死ね」「誰かを傷つけろ」と命令されて苦しむ様を表しているということで、精神病患者側から表現した音楽なのかと、自分なりに解釈して当時、このアルバムを何度か聴いたものである。
曲は全5曲、『21世紀の精神異常者』『風に語りて』『エピタフ』『ムーンチャイルド』『クリムゾン・キングの宮殿』からなる。冒頭の『21世紀の精神異常者』は騒動しい曲である。頭から激しいドラムスの連打とギター、キーボートが唸る。そして支離滅裂な不協和音、まさに精神が病んでいるような類の音楽である。ところが、喧しいのはこの曲でけで、2曲目からはキング・クリムゾンの真骨頂。クラシック、ジャズの要素を取り入れて新しいプログレッシブ・ロックの扉を開いたといわれる彼等だけに、何ともいえぬムーディーな空間に誘ってくれる曲が続く。このグループ以前にもムーディー・ブルース、ピンク・フロイド等、同じイギリスから出てきたプログレッシブ・グループはいたが、この『クリムゾン・キングの宮殿』ほどのインパクトはなかった。
メロトロン(エレクトロニクスを駆使したオルガン)、フルートを巧みに使った幻想的、瞑想的なサウンドが繰りひろげれ、ピーター・シンフィールドの詩も哲学的で、厭世観、無常観を如実に物語っているような気がする。3曲目の『エピタフ(墓碑銘)』から詩を抜粋するとする・・・・・・・予言者が書き記した壁が ひび割れを 崩れて行く 死をもたらす道具に反射して 日の光がきらめく 夢と悪夢と だれもが我を見失い 勝利の栄冠をかぶる者もいない 静寂が絶叫を飲み込む時 幾多の運命の鉄門の門 時代の種はまかれ 世事に通じ 名を成した人々の 偉業により水を与えられる 掟を定める者もいないから 知識は命取りとなりかねない 人類の運命は愚か者どもの手に 握られているように見えるのだが 或いは僕の墓碑銘となろう ひび割れた道をはって進む 成功を収めれば笑っていられる だが 明日への恐れのため 僕は叫び続けるだろう やはり 明日への恐れのために 僕は叫び続けるだろう
キング・クリムゾンは、このデビュー・アルバムで一躍ブレークした。このアルバムが発売されたのは1969年10月10日で、ビートルズのアルバム『アビイ・ロード』を1位から蹴落としたアルバムとして紹介されたこともある(デマという説も)。とにかく当時から、話題の多いアルバムであり、数多いロックのアルバムの中でも傑作と謳われ、プログレッシブ・ロックのまさに金字塔となった。
なお、キング・クリムゾンは、その後もメンバーを何度か代え、今でも存在するグループである。ただ、今ではどんな音楽性を追求しているのか、私は皆目、知らないが・・・・・・。
"Epitaph"を演奏するKing Crimson
2007.10.06 (Sat)
切符deアート
カラッとしているが、陽射しが強くて汗ばむ1日。まだ本格的な秋には程遠い。秋というと芸術の秋なのであるが、これだけ何時までも暑いと、夏から一足飛びに冬になりそうで、秋は短いだろうな・・・・・。
大阪の難波にある高島屋。ここの本館の正面入口に名画が再現されて、人だかりが出来ている。南海電車が「ナンバdeアート」というイベントを開催していて、その中の催し物の一つに、使い古した切符を使ってヨーロッパの名画を再現する試みがなされ、それらの作品が展示されている。名付けて「切符deアート」。
南海電車のなんば駅で回収された切符32万枚を使って、有名な絵画4作品が、南海電車の従業員によって丁寧に再現され、それが今、なんばの高島屋本館、1階正面入口で展示されている。四つの作品は、ルノアールの『舟遊びの昼食』、ミレーの『落穂ひろい』、ボッティチェルリ『ヴィーナスの誕生』、そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』である。
何れの作品も見事に再現されていて、モナ・リザに関しては縦2.3m、横1.6mというもの。細部まで手が込んでいて、切符の裏の磁器を塗ってある部分と、表の白い部分を使い分け、点描写により、鮮明とまではいかないが、見事に画かれていて新聞の写真を見ているような錯覚に陥る。外出するととにかく紫外線が強くて、まだ秋らしくは無いが、芸術に触れ、心を落ち着かせるのもいいかもしれない。でも、こんな雑踏の中で展示されていてはゆっくりと鑑賞も出来ない。しかし、廃棄に困る切符を利用して、名画の再現とは・・・・・鉄道マンも色んなことをやりますねえ。
なお、期間は10月16日までです。
2007.10.05 (Fri)
時津風親方解雇
上記の通り時津風の解雇処分が決定した。死者を出した部屋の親方だから当然という声は多い。新弟子の時太山の額をビール瓶で殴り、「かわいがってやれ」としごき、体罰を指示したともいわれているから、解雇処分も当たり前というのが世間一般的な意見でもある。でも時津風親方がテレビに出演して、若手先輩力士に時太山への暴行を指示した事は「間違ってもない」と関与を否定していた。しかし、今さらこんなことを言っても死人に口なしで、自らを庇うための事実の歪曲ととられても仕方が無い。何故なら、火葬まで一方的に行おうとして、保護者から断られている。つまり隠蔽工作も図っていたと言えなくも無いからである。今さら往生際が悪いぞと言いたい。だから確かに時津風親方のやり方は悪いのである。ただ一言付け加えるならば、私は、相撲協会が信用を失墜させたという理由で時津風親方を解雇処分にして、全てを片付けてしまおうというやり方も気に食わないのである。
相撲部屋が現在50以上あるとして、時津風部屋のようなしごきや体罰が無い部屋を探すのは容易で無いと思える。何処の部屋も似たり寄ったりで、時津風部屋に近いことは当たり前のように行っていると見るべきである。だから今回、死者が出たことで事情徴収となり、親方解雇という前代未聞の破廉恥な出来事が起こってしまったが、過去にも同様な事があって、それを協会がもみ消した事実はあったのではないかと推測するのである。
日本相撲協会は、そもそも営利を目的とせずに公益に関する事業を行う財団法人とされ、監督官庁である文部科学省の許可を得て、営利法人より低い22%の軽減税率が適用されている団体なのである。これは国技という名の下に特別枠で守られていて、角界は特別といった意識があり、そこに相撲協会の理事等の幹部連中の甘えの構造が見え隠れするのである。だからお互い身内に甘くなってしまい、朝青龍事件にしても八百長問題にしても、なかなか内部にまでメスを入れたくないのである。
彼等、相撲協会の幹部達は、全員が元関取で、外部からは当然のように理事にはなれないし、部屋の頭の親方になるにしても資金が半端ではなく、有能な人材でも年寄名跡が手に入らないから相撲協会に残れないのだ。こういった現状では、相撲協会の中で、より仲間意識が強くなり、改革よりも保身に走ってしまいがちである。だから、この世界特有の制度、しきたりが重んじられ、理不尽な制裁の習慣は残ってしまうようである。特に出世を諦めた年長力士のいじめが何処も顕著で、稽古、鍛錬と名を変えたいじめが横行しているようである。
全ての部屋とは言わないが、多くの部屋では公然と行われていると見る。ただ、このようないじめをなくし、集中的な合理的稽古を始めた部屋では、力士が好成績を挙げているらしい。だから理不尽ないじめ、体罰、制裁はかえって才能の芽を摘んでしまうとも考えられ、早く相撲部屋も悪しき習慣から脱皮して欲しいと思う。でも少年の頃から、相撲一筋で生きてきて、関取となり、親方となっても一般社会から隔離された社会で育った人間達である。また、こういった人達だけで理事が組織されている社会である。社会の常識から外れている部分は多く、世の中の流れと意識のずれが生じ、今の時代にそぐわない前時代的な組織となってしまっている。もう、相撲協会も古い伝統、慣習に固執せず、そろそろ大きな改革も必要だと思うし、外部の世界から理事を選ぶというのも一つの手である。しかし、身内に甘くて仲間意識の強い協会である。おいそれと外部から人を入れようともしないだろう。結局、行き着くところは崩壊しかない。このままでは日本相撲協会の存続も危ういと私は見ているのだが・・・。
2007.10.04 (Thu)
缶チューハイを飲む
暑い、秋が近付きつつあると思ったら、今日の蒸し暑いこと。30℃ほどあったのではないだろうか・・・。何か今年は9月も8月のような気温で推移し、10月に入っても涼しくはなくて、朝と晩がようやく秋らしいそよ風が吹きつつあるが、日中は相変わらず28、29℃の毎日である。人によっては秋が来たと感じるかもしれないが、暑がりの小生としましては、とても秋といえるような気候ではない。小生が秋だと感じる時は、薄手のジャケットを羽織ることが可能な温度。つまり薄いジャンパーを着て、歩いても汗をかかないような気候になって、やっと秋といえるのだ。
もっとも気温の感じ方も個人差があって、既に長袖、上着着用の女性もいらっしゃるから、人によっては充分秋の気候になっていると言えるのかもしれないが、20年以上前に比べると確実に暑くなっているのだ。なんでこんなことを言うかというと、私が高校生の頃は、10月1日が衣替えで、一斉に夏服から冬服へと服装を改めたものである。それが今日では、高校生を見ていても、一向に冬服に変わる気配が無い。今、冬服を着用すると、とてもじゃないが汗だくになる。
まもなく10月10日も近いが、25年前の体育の日に、私は友人と3人で太秦の広隆寺から龍安寺、仁和寺、妙心寺、嵯峨野を縦断して広沢の池、大沢の池、天龍寺、嵐山と歩いた覚えがあり、あの時はジャケットを着ていても心地よかったと記憶している。それが今年の気温の中で、同じ服装、同じところを歩けといわれれば遠慮する。それほど暑くなっているということなんだ。本当に暑いのが大嫌いな人間としては、秋が年々短くなっていくのが耐え難いので゜ある。
しかし、暑い暑いばっかり言っててもどうしようもない。暑いから缶チューハイでも飲もうと、帰り際に買って来た。サントリーから出ているAWA'Sという缶チューハイ。アルコール分が5%で、発泡性があるという。レモン果汁3%でさわやかな味覚が口内に拡がる。最近はチューハイもご無沙汰であったが悪くは無い。
そもそもチューハイなんていう飲み物は、昔からあったのだろうが、巷でよく見かけるようになったのが、1980年代の前半だった。チューハイというのは焼酎ハイボールの略で、甲類と言われる匂いのあまり無い焼酎に、レモン、ライム等を少々入れたものであるが、その頃、若者を中心に大流行した。居酒屋へ行くとビールよりもチューハイを飲んでいる人の方が多かった時代である。
やがてチューハイも缶チューハイが売り出されるに及んで、家庭でも飲まれるようになったが、その第一号が1984年に出された「ハイリキ」である。ハイリキは東洋醸造が発売したもので、同じ年には宝酒造が「タカラcanチューハイ」を出した。これによりチューハイはビールと並んで、何処ででも簡単に手に入り、アルコール度が少ない分、誰にも飲まれるようになった。
今日飲んだAWA'S(アワーズ)は、缶チューハイの進化系ではあるが、基本的な味覚は変わらない。でも口当たりは爽やかで飲みやすいが、飲んだ後はより暑くなって、汗が皮膚から浮いてくるのである。飲んでよけいに暑く感じる・・・・。飲むんではなかった。
2007.10.03 (Wed)
古い映画を観る『モロッコ』
その後、歳をとり人並みに成長し、人情の機微というものがある程度判るようになってくると、他愛も無いと思われた恋愛映画もだんだんと観れるようになっていた。そんな時、『モロッコ』を再び観る事があった。するとつまらない映画と思っていた『モロッコ』が、恋愛映画のスパイスを詰め込んだ粋な映画であることが判ってきたのである。
『モロッコ』 1930年製作 アメリカ映画 パラマウント作品
監督 ジョセフ・フォン・スタンバーグ
出演 ゲイリー・クーパー
マレーネ・ディートリッヒ
アドルフ・マンジュー
ウルリッヒ・ハウプト
【あらすじ】外人部隊の色男トム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)はモロッコの酒場で、歌手アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリッヒ)に出会い恋に落ちる。でもトムには副官夫人の情人もいて、トムとアミーとの間柄に嫉妬した副官夫人は、人を使ってトムの命を狙わせる。でもその企みは失敗。この騒動が元でトムは営倉入りとなるが、夫人の名誉の為に真実を隠すのである。それを感謝した副官は、好意でトムを軍法会議にかけなかった。しかし、トムはサハラの最前線行きとなる。トムが去ったためアミーは孤独であった。そんな時、アミーに惚れていた富豪のベシスがアミーに求婚する。アミーは承諾し、結婚間近と思われた。しかし、2人を祝福する宴の席でトムが重傷だという報が入る。アミはー急いで、トムの所へ駆けつけるが、トムは怪我もせず元気であった。その翌日、再びトムは前線へと出発する。トムの所属する部隊は砂漠に向って行進を開始する。アミーは見送るが、次第に後を追う。やがてアミーは駆け足になり、砂漠の中を追いかける。ハイヒールが砂漠の深い砂にとられ速く走ることが出来ない、終いにはハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で灼熱の砂漠を走り、何処までも追いかけていくのである。
最後のシーン、灼熱の砂漠の砂の上を裸足で走ると火傷するであろうと誰もが考える。でも野暮なことを言い出すと恋愛映画は成り立たない。熱かろうが火傷しようが・・・・そんなの関係
ねえーー!
この『モロッコ』という映画は、ベノー・ヴィグニーの小説『アミー・ジョリー マラケッシュから来た女』の映画化と言われているが、この小説を読んだディートリッヒは「気の抜けたレモネード」と評しあまり気が乗らなかったらしい。でも監督のスタンバーグに請われてアミー役を演じたが、彼女のハスキーな声と妖艶な妖しい雰囲気、退廃的な気だるさ、全てにおいてディートリッヒだから演じられる役であり、彼女以外は演じられないように思える。前作のドイツ映画『嘆きの天使』に出演したときから、評判になっていたディートリッヒの妖しい美貌と見事な脚線美であるが、ハリウッド第一作になった、この『モロッコ』に出演する際、パラマウント映画のチーフ・デザイナー、トラヴィス・バントンはディートリッヒにダイエットをするように言ったという。確かに『嘆きの天使』に出ていたマレーネ・ディートリッヒはふっくらとしていたが、『モロッコ』では、見事にスレンダーな女性となって現れている。妖艶で退廃的で酒場の俗っぽいシーンに似合うディートリッヒであるが、シルクハットに燕尾服を着た男装の麗人に扮し、女性にキスをするところなど、当時の日本人はどのような感覚で観ていたのだろうか。まさに、ディートリッヒの魅力で持っているような映画である。
2007.10.01 (Mon)
郵政民営化
これで国鉄、電電公社、専売公社に続く民営化であるが、今回の郵政民営化は過去のどれも上回る戦後最大の改革だといわれている。その主なる目的は財政投融資を廃止することにより、約340兆円という潤沢な郵便貯金資金を特殊法人等の政府機関でなく、個人や民間企業に融資できるようになり、日本経済の活性化が図れるという。
さて、その民営化の内容であるが、郵政公社の4機能・・・・窓口サービス、郵便、郵便貯金、簡易保険が有する潜在力が十分に発揮され、市場における経営の自由度の拡大を通じて良質で多様なサービスが安い料金で提供が可能になり、国民の利便性を最大限に向上させるという。それで、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険の2社は2009年度から2010年度の間に株式上場を実現し、日本郵政の株式も2017年の上場に合わせて、政府は2/3程度の株式を売却することにより完全な民営化を目指すという。
ということでアドバルーンを掲げるのはいいが、現実は厳しいのではないだろうか・・・。そもそも郵便局の職員の給料に税金は使われておらず、役所関係と違って自立性が強かった所である。それをいじくり回して混乱を呼んだだけではないのかと思える節がある。もともと小泉純一郎は祖父からして逓信大臣であったし、自らも郵政大臣に就任していたからか、郵政の問題になると目の色が変わっていた。公社を民営化にするとメリットもあるが、当然のようにデメリットも多い。どうも小泉という人は弱者切り捨ての先鋒者では無いかと勘繰りたくなる時がある。
確かに民営化されると合理的になり採算的に効率が上がるであろう。しかし、既に合理化の名の下に郵便物の回収、配達を行う4669局の集配局のうち1048局が業務を停止したという。さらに分社化により郵便局内に別会社の職員が同居することになり、他社の専用ブースの入退室はICカードで管理され、他社の出入りは禁止となる。さらに不採算という理由でATMは6000台が撤去され、振込みや為替の手数料負担が増えたというではないか。手続きが複雑な窓口に座る職員の数が減らされたので、当然、窓口に行列が出来ることが予想され、慢性的な人手不足から今までのサービスが持続できるのだろうか。それに年賀状の元日配達も、もしかして不可能ではないかと囁かれている。
全国、到る所に在った郵便局が、不採算というので過疎地から撤退すると、過疎地に住む老人は何10㎞も離れた街までサービスを受けに行かなくてはならない。これ等も弱者切り捨てであり、何も都会だけに人間が住んでいる訳ではないのだ。このような僻地に住んでいる住人を見捨ててまで、合理化の為、採算性を重視した民営化が促進されていいのだろうか。民営化は聞き様によっては改革のようであるが、それも身の丈にあった方法が必要だと思う。でも郵政民営化は始まってしまった。もう後戻りは出来ないのだ。これから先、昔の方が良かったなんて声が聞かれないように、上手く事が運ぶようになればいいが・・・・。現実問題として難題だらけなのである。