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2009.06.30 (Tue)

雨に降られて、バスが、電車が・・・・

 6月も終わりだ。1年の半分が過ぎようとしている。昨日から降りだした雨だが、昼間はやんでいた。朝の出勤時には降っていたので、大きめの傘をさして出っていった。すると勤務中は、ほとんど降らず、カラ梅雨もいいところだなあと思っていたら、帰宅時に土砂降りの雨である。よりによって帰宅時に降らなくてもいいのに・・・。これだと3kmも歩いて帰るのは無理。仕方なくバスに乗る。

 運よくバスが来て乗車すると、意外にも空いていてシートに腰をかける。これは快適と思ったものの、雨の日、お決まりの交通停滞につかまってバスが動かない。あーあーとため息が出る。何しろ1km進むのに10分ぐらいかかるのだから参ってしまう。流石に田舎だ。雨の日と好天の日とでは、交通量が違いすぎる。何分にも車がないと不便極まりない田園地帯なので、雨の日には車が増えるという。それだけ公共交通が発達していないということなのであるが、マイカーが増えるとバスが遅れる。こちらとしてはいい迷惑である。それに、後ろに座っている若い2人の女の会話が煩すぎる。人に聞かれているということを気にもせず、大きな声で、あれだけ下世話な話ができるものだ。こちらは一篇に不愉快な気分になった。もっと羞恥心を持て・・・・・・。

 どうにか最寄の駅に到着するや、今度は吹田駅で人身事故があったということで、米原方面行きの電車が大幅に遅れているという。でも京都、大阪方面行きの電車は定刻どおりやって来たので、ホッとしたが、どうも様子がおかしい。何時もより混んでいる。暫くして判ったことなのだが、人身事故の影響で、新快速に運休が相次ぎ、普通と快速しか走ってないのであった。要するに新快速に乗るべき人までが、普通に乗っているので、混んでいるということだった。

 何時もなら京都駅で大半の人が下車するのに、今日は京都駅から、さらに人が乗ってきて満員で発車し、西大路でも桂川でも一向に車内が空かないから、また不愉快になってきた。ムシムシして冷房もあまり利かないし、バスの中といい、電車の中といい、今日はロクでもない日であった。
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2009.06.28 (Sun)

第50回宝塚記念

 春競馬の最後を飾る第50回宝塚記念(GⅠ・3歳以上、芝2200m、14頭)が快晴の阪神競馬場で行なわれた。梅雨とはいえ雨などさっぱり降らない阪神地方。朝から気温も鰻登りで真夏のような暑さ。こんな中、観衆が大勢詰めかけ盛り上がったようである。今年でこの宝塚記念も50回目を数えるという。年末の有馬記念に比較すると3歳の有力馬の出走がほとんど見られないからメンバー的にはいまいちであるが、過去の勝ち馬にはコダマやシンザンの名も見られるし、近年は2200mという距離だけにメンバーはそれなりに揃うようになった。また最近は牝馬の台頭もあって、有馬記念とは違ったレースになり得るようだ。それでも昔は頭数も少なく、春のグランプリとは名ばかりのレースであった。でも出走がたったの6頭でありながらもトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス、アイフル、ホクトボーイ、クライムカイザーと全馬が当時の8大競争の勝ち馬で争われたこともあった。ちなみに当時の8大競争とは3歳5大クラシックと春秋の天皇賞、有馬記念のことをいい、今のGⅠレースよりも価値があった。

 さて、今年の宝塚記念であるが、ウオッカが出てこなくてディープスカイが断然の1番人気に支持された。あとはドリームジャーニー、サクラメガワンダーという順であるが、有馬記念に勝ったスクリーンヒーローや春の天皇賞馬マイネルキッツは人気がなかったようだ。ところで先日、死んだアグネスタキオンの産駒であるディープスカイが人気したのは、その弔いの意味もあったのではないかと思うが、はたして結果はいかに。

 いよいよスタートが切られた。阪神の内回りコース。スクリーンヒーローかコスモバルクか、コスモバルクが先頭に立った。どんどん引き離していく。2番手にスクリーンヒーロー、3番手にカンパニー、4番手にアドマイヤフジ、その後、内にインティライミ、外にサクラメガワンダー、そして天皇賞馬マイネルキッツとダービー馬ディープスカイが併走。その後にアルナスライン、内にエリモエクスパイアが行き、モンテクリスエスとドリームジャ-ニー、さらにスマートギアがいて、ヒラボクロイヤルといった順で展開する。ハロンラップは12.6---10.9---11.2---12.2---12.1---12.7と1000m通過が59秒0で平均ペース。800のハロン棒を通過してから後続が急接近。800のハロン棒辺りでとうとうコスモバルクが吸収された。ここでインティライミ、スクリーンヒーロー、サクラメガワンダー、カンパニーが上位に上がる。そして早くも直線コースに入ろうというところ。ここでスクリーンヒーローが先頭に立った。2番手に外からサクラメガワンダー、その後ろにカンパニー、さらに外からドリームジャーニーが接近。ディープスカイも迫るがまだ、5、6番手の位置。あと200m、ここでドリームジャーニーが一気に出る。ディープスカイは4番手。先頭はドリームジャーニー、あと100m、完全にドリームジャ-ニーが先頭。2番手にサクラメガワンダー、ディープスカイは3番手辺り、ドリームジャーニーが2馬身ほどリード、ドリームジャーニーが2馬身リード、2番手争いにサクラメガワンダーとディープスカイだが、ドリームジャーニーが1着でゴールイン。

 1着ドリームジャーニー 2分11秒3、2着サクラメガワンダー 1馬身3/4、3着ディープスカイ クビ、4着カンパニー 1/2、5着スクリーンヒーロー 1/2.。

 結果的には人気馬3頭で決まったが、断然の人気馬ディープスカイは3着に終わった。それにしてもこの小柄なディープスカイが勝つときは、必ず末脚が決まった時なのだが、比較的、阪神コースは得意としていて、意外にも東京コースでは実績がない。GⅠレースも2歳時に朝日杯に勝っていたりして、3歳の時も期待されたが、その後、これといった成績が残せていない。なにしろ末脚勝負の馬であるし、展開に左右される。でも最近は比較的、融通が利くようになったというのが、今日の勝利に結びついたのかも知れない。
EDIT  |  18:47  |  競馬(国内レース)  |  Top↑

2009.06.26 (Fri)

マイケル・ジャクソン急死

 暑い、暑い、暑い、何度もいうが暑い。梅雨とは名ばかりで雨がさっぱり降らないから、どんどんと温度が上昇する。そのせいでこの数日、30℃以上の気温の日が続いていて、早くも寝苦しい毎日だ。今朝も朝から爽やかさの欠片もなく蒸し暑い。これから2ヶ月以上、夏が続くというのに、もう参った・・・・・・・。

 こんな按配なので、本日はブログの更新をやめるつもりだったのだが、朝、マイケル・ジャクソンの心肺停止という一報が入り、まもなく死亡が確認されたというので、この件について少しぐらいは書かなくてはと思い、こうしてPCの前に座っている。

 マイケル・ジャクソンとは、説明の必要がないほど知れ渡ったシンガーでエンタティナーであるが、突然の急死で驚いている。彼は兄4人とジャクソン5としてデビューしているが、メイン・ヴォーカルとして1970年に『ABC』『The Love You Save』『I’ll Be There』、1971年に『Mama's Pearl』『Never Can Say Goodbye』等のヒット曲を出し、まもなくソロ・デビュー。1982年にアルバム『スリラー』が記録的な大ヒット。その後も、アルバム『BAD』が大ヒットと、紛れもないキング・オブ・ポップと呼ばれたが、その後は奇行が目立ち、とてつもない浪費癖、整形疑惑、少年への性的虐待疑惑、200億円の借金など、スキャンダルには事欠かない。

 今年の2月にはメチシリン耐性黄色ブドウ球菌に感染し、菌が全身に広がっていると報道されたばかりでの今回の出来事である。いったい何が彼の身の上に起こったのか・・・・・・。日本時間26日の午前4時21分、ロサンゼルスにあるマイケル・ジャクソンの自宅からロサンゼルス市警に「マイケルが倒れている」という緊急電話が入り、救急隊が駆けつけたものの、すでに心肺停止状態で、蘇生処置を施され、UCLA附属病院に搬送されたが死亡したという。

 死因はまだ判らないが、鎮痛剤の大量摂取という噂もあり、もし、それが事実とするならミュージシャンにありがちなことではある。そういえば、私が10代の頃は、よく海外のポップ・ミュージシャンが急死した。たとえばモーテルで射殺されたサム・クック、飛行機事故で亡くなったオーティス・レディング、アルコールとドラッグの影響で溺死したブライアン・ジョーンズ、ヘロイン過剰摂取が原因?で亡くなったのかジム・モリスン、やはり大量のヘロイン使用が死因のジャニス・ジョプリン、飲酒しながらバルビツール酸系の睡眠薬を大量に服用して亡くなったジミ・ヘンドリックス、そして私が最も衝撃を受けたジョン・レノンの突然の死。

 多かれ少なかれミュージシャンというのは大体ドラッグに溺れている。また海外は日本ほど薬への抵抗感がなく、また取り締まりも緩い。いかんせん薬漬けになると健全でいられる筈がない。いつしか体を蝕み、やがてボディ・ブローのように効いてくる。今回のマイケル・ジャクソン死亡の件も、死因は今のところ、よく判らないが、何らかの薬を大量に摂取していたのかもしれない。自業自得といえばそれまでだが何か釈然としない。何れにせよマイケル・ジャクソンには多くのファンがついている。さぞや急な出来事で、ファンの多くが呆然としていることだろう。こういった出来事で涙を流してくれるファンの存在は大きく、そのファンの知らないところで、マイケルは逝ってしまった。まだ50歳というから死ぬのには早すぎた。

 ただ、私からも一言・・・・・・・・・ここまで書いてきたが、私自身のことでいうと、マイケル・ジャクソンの曲で知っているというのは、ジャクソン5時代の曲ばかりであって、マイケルがソロになってからの曲なんて、ほとんど知らないのだ。だから、本当はマイケル・ジャクソンのことを記事にすべきではなかったのだが・・・・・・。
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2009.06.25 (Thu)

ジョン・コルトレーンのアルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』を聴く

s-P1010522.jpg

 私は高校生の頃に、マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーンを聴いてジャズの世界に足を踏み入れた。ジャズの真髄を何処まで判っていたか甚だ疑問ではあるが、ジョン・コルトレーンの吹くサックスの音色に引き込まれ虜になっていたように思う。その頃に聴いた曲名なんて覚えてもいないが、とにかくジョン・コルトレーンがサックスを吹いてさえすれば何でも良かったのかもしれない。まあ、その後に有名なサックス奏者がコルトレーン以外にも大勢いるとことを知る羽目になるのだが、何故、コルトレーンだけを知っていたかというのは、当時、コルトレーンが亡くなってから、まだ数年しか経っていなかったのだろう。とにかくラジオのジャズ番組でコルトレーンばかりを流していたのだ。こういった経緯があって、トランペットのマイルス・デイヴィスとサックスのジョン・コルトレーンは少年時代に、よく聴いたのだ。でも聴いたというよりはジャズの持つ雰囲気に陶酔していたというべきかもしれない。とにかくロックを支持する当時の多くの若者たちとは一線を画する意味合いで、細々とジャズに接していただけかもしれないが・・・・。

 ジョン・コルトレーンは1926年にノース・カロライナで生まれ、12歳でクラリネット手にしたのが奏者としての出発点であるが、高校卒業後は働きながら音楽学校に通うなどあまり目立ったミュージシャンではなかったようだ。その後も酒場のバンドで食いつないでいたというから、若い時のコルトレーンは後の名声が嘘のような存在であった。20歳でプロとなり23歳でディジー・ガレスピーのバンドでテナー・サックスを吹いていたというから信じられない話である。1955年にはマイルス・デイヴィスのバンドに参加したものの、多くの聴衆からブーイングを浴びるなど散々で、マイルス・デイヴィス自身もコルトレーンは下手くそと言っていたほどである。それが1958年になって再びマイルス・デイヴィスのバンドに迎えられたときに、ようやく、これまでのジャズの理念を超えたモード・ジャズを方法論をして世間が理解するようになり、彼は一流ジャズ・ミュージシャンをして認知されるのである。1960年にコルトレーンは自分のバンドを組み、アヴァンギャルドな音楽要素を含んだフリー・ジャズへと傾向が移っていくが、この下地にあったのはインド哲学の傾倒、ジャズ原理主義への思いがあったものと考えられる。

 このアルバムはコルトレーンが自らのバンドを結成した頃の1960年秋に録音されたもので、メンバーはコルトレーン以外にはマッコイ・タイナー(ピアノ)、スティーヴ・デイヴィス(ベース)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)の4人である。曲は『マイ・フェイヴァリット・シングス』『エヴリタイム・ウイ・セイ・グッドバイ』『サマータイム』『バット・ノット・フォー・ミー』の4曲である。面白いことにジョン・コルトレーンのソプラノ・サックスが聴かれるのだ。コルトレーンは最初に持った楽器がクラリネットだったが、その後にアルト・サックス、テナー・サックスと移り、とうとうソプラノ・サックスまで演奏しだし晩年はフルートの演奏まで残しているほど多芸である。残念ながら1967年7月17日、肝臓癌のため僅か40歳で亡くなった。今ではチャーリー・パーカー、ソニー・ロリンズと並ぶサックス奏者として、その後のモダンジャズの世界での影響力は大きくて計り知れないほどである。


 1961年、西ドイツ・バーデンバーデンでのライヴ。『マイ・フェイヴァリット・シングス』の演奏。
 ジョン・コルトレーン(ソプラノ・サックス、テナー・サックス)、エリック・ドルフィー(フルート、アルト・サックッス)、マッコイ・タイナー(ピアノ)、レジー・ウォークマン(ベース)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)

EDIT  |  20:29  |  音楽(ジャズ)  |  Top↑

2009.06.23 (Tue)

映画『ペーパー・ムーン』を観る

 『ペーパー・ムーン』1973年製作、アメリカ映画

 監督 ピーター・ボクダノヴィッチ

 出演 ライアン・オニール
     テイタム・オニール
     マデリーン・カーン
     ジョン・ヒラーマン
     P・J・ジョンソン
     ジェシー・リー・フルトン

 【あらすじ】舞台は1930年代のアメリカ中西部。母を亡くして一人ぼっちになってしまった少女アディ。母の葬式で、アディは、かつて母の恋人だったモーゼという男と出会う。そしてモーゼは、アディを親戚の家まで送り届けることになってしまう。こうしてモーゼという男とアディという少女が旅をすることになるが、モーゼは聖書を売りつけて小金を稼ぐ詐欺師であった。でもアディは子供だが頭の回転が早く、モーゼが詐欺師であることをすぐに見抜いてしまう。でも、アディはモーゼに父親に似た愛情を感じ始め、モーゼも本物の親子のような感情を持つようになる。奇妙な2人が旅を続ける間に結束が強くなっていく。

 この映画は上映される前から、あることで話題になっていた。それは、この年のアカデミー助演女優賞を史上最年少の9歳で獲得したテイタム・オニールの演技が評判になっていたからである。またモーゼを演じたライアン・オニールと共に親子共演という興味もあった。

 若い頃だったが、映画を最初に観たときの感想は、ほのぼのとしたロードムービーという印象だった。でも、何が面白かったかというと、アディとモーゼの会話のやり取りが軽妙だったことと、親子のように似ている2人(実の親子なので当然だが)が他人を演じるという奇妙なキャスティングが巧であった。また監督のピーター・ボクダノヴィッチがカラーではなく、わざとモノクロで撮ったというが、これは時代設定が大恐慌の時代ということで、カラーで撮るとオニール親子が青い目をしていることが判り、時代にそぐわないという理由からモノクロになったらしい。けどもモノクロの方がカラーよりも至って真実味があるように思われるから、結果としては成功したのかもしれない。

 本来は『アディ・プレイ』という小説が原作になるが、この『アディ・プレイ』ではなく、映画の『ペーパー・ムーン』という題名も妙である。結局、映画の主題歌として使われた『It’s Only a Paper Moon』から映画のタイトルを採られたが、この曲の歌詞にもあるように・・・・・信じあえば 愛しあえば 助けあえば 紙のお月様だって 本物に見えるでしょう・・・・・・といった、奇妙な2人が旅をする間に芽生える愛情というものを、この古い1930年代のジャズ・ナンバーとが上手くマッチして、小粋な出来に仕上がっている秀作である。ただ残念なことに、映画初出演でいきなりアカデミー助演女優賞をいただいたテイタム・オニールは、その後、『がんばれ!ベアーズ』『リトル・ダーリング』等に出演するも、芳しくなく以降、低迷する。その間、テニス・プレイヤーのジョン・マッケンローと結婚するも離婚。最近はテレビ・シリーズで細々と演技をしているらしいが、女優としてはいきなり滑り台の上に上がり、後は滑っていくだけという停滞振りでがっかりさせられる。とうとう昨年は、コカインを購入した疑いで逮捕されてしまった。やはり女優というのは大器晩成型の方が息が長いということなのか・・・・・。テイタム・オニールはあまりにも若くしてオスカー女優になったがため天才子役として騒がれ、その後の女優としての生き方は辛かったのかもしれない。
 
 最後になるが、この映画が上映されてからというもの、日本国内のジャズメンが、矢鱈と『It’s Only a Paper Moon』を演奏するようになったという記憶がある。この曲は『ザ・グレート・マグー』(1932年)という演劇作品のために書かれた曲で、作詞がビリー・ローズ、E・Y・ハーバーグ、作曲ハロルド・アーレンである。でもその頃は、あまり注目されず、翌年にミュージカル映画『テイク・ア・チャンス』で使われて広く知られるようになった。

 Said it is only a paper moon
Sailing over a cardboard sea,
But it wouldn't be make believe
If you believe in me.

 映画の冒頭

EDIT  |  20:34  |  映画  |  Top↑

2009.06.21 (Sun)

第199回アスコット・ゴールドC

 イギリス競馬伝統のレース、第199回ゴールドCが18日、アスコット競馬場で行なわれたので、その詳細を記すとする。

 毎年、6月にアスコット競馬場で行なわれるゴールドCは、1807年に第1回が開催されたという伝統のレースであるが、最近は長距離レース軽視の中にあって盛り上がりを欠いている。でもかつてはイギリスの競馬界では権威のあるレースとして位置づけされ、歴代の勝ち馬の名を見ると、セントサイモン(19世紀末から20世紀初頭の大種牡馬)、パーシモン(ダービー馬)、サイリーン、ベイヤード、ゲイクルセーダー(三冠馬)、ゲイーンズボロー(三冠馬)、オーウェンテューダー(ダービー馬)、アリシドン(長距離三冠馬)等が連ねている。

 現在では20F(約4023m)という半端なく長い距離が敬遠され、出走に踏み切る超一流馬が皆無になったが、相変わらずステイヤーにとっては世界最高峰のレースであることに変りはない。何年か前、日本の天皇賞を勝ったイングランディーレも挑戦したが惨敗したことは記憶に新しい。

 それで今年の第199回ゴールドC(GⅠ・4歳以上、20F、9頭)も無事に行なわれ、1番人気の8歳馬イエーツが見事に勝利して、史上初の4連覇を記録した。

 1着 Yeats 4分20秒73、2着 Patkai 3馬身1/2、3着 Geordieland 15馬身、4着 Sagara 3/4、5着 Eastern Anthem 1馬身3/4。

 イエーツは通算24戦15勝だが、最近3年間で使われたレースで、1番短い距離のレースが13F(約2600m)というから驚く。前走は3100m、前前走は4000m、その前が2マイル、さらに過去を遡ると2.5マイル、13F、4000m、14F、2.5マイル、2マイル・・・・・なんとタフな馬だろうか。

 18日のゴールドCでも好位置につけ、直線で危なげなく抜け出して勝ち4連覇を達成した。今では長距離を重視しないので騒がれるころはないが、これも快挙といっていいだろう。ただヨーロッパから一度だけ出て、オーストラリア最大のレース、メルボルンC(約3200m)に挑戦したが7着に敗退した。
参考までにこの時の1、2着が日本から遠征したデルタブルース、ポップロックであった。

 血統は父がサドラーズウェルズ、母がリンドンヴィル(母の父トップヴィル)である。

 黒い騎手服、黒い帽子がイエーツである。

EDIT  |  18:24  |  競馬(海外レース)  |  Top↑

2009.06.21 (Sun)

マーメイドS

 暑い、兎に角暑い。入梅しているものまったく雨が降らないから非常に蒸し暑い。今日なんか雨の予報だったのに、ひとつも降らず気温ばかりが上昇するので、家の中がむせ返るように暑い。でも、まだ本格的な夏に入ってないのだということを考えると憂鬱になる。雨は好きではないが、梅雨ぐらいは雨が降らないと夏がとてつもなく長く感じられるので、梅雨の時期はしっかりと雨が降ったほうがいいとは思う。が、どうせ今年の梅雨も集中的な豪雨があって、知らぬ間に夏に突入しているような気がする。

 ということで春競馬も最後の阪神競馬の開催を残すのみとなった。来週は宝塚記念だが、その1週前の今日は阪神でマーメイドS(GⅢ・3歳以上・牝馬、芝、16頭)が行なわれた。牝馬限定のレースはあまり好きではないがメンバーはそこそこ揃っていたので記事にしてみた。1番人気はベッラレイラ、2番人気はリトルアマポーラ、3番人気はザレマであった。でもレースは人気薄のコスモプラチナが最内枠からハナを奪い、そのままマイペースで逃げ切った。2着は3連勝中のニシノブルームーンが3番手から伸び、3着は中団から伸びたリトルアマポーラで、開幕週さけに馬場が荒れてなく、先行の馬が粘りきったということだろうか。

 1着コスモプラチナ 2分00秒2、2着ニシノブルームーン 1馬身3/4、3着リトルアマポーラ 3/4、4着ベッラレイラ 1/2、5着レッドアゲート クビ。

 これから夏競馬に入り、有力馬は休養に入るだろけども、夏の間に急成長する上がり馬も出現するだろう。また2歳馬がデビューするので、どちらかというと古馬よりもこちらの方に注目がいきそうである。

 今日の阪神の新馬戦(芝1600m)なんか、勝ち時計こそ遅いが、勝ったダノンパッションは最後の伸びだけで勝ったようなもので、流石に良血馬だと思わせた。父がアグネスタキオンで母がスターズインハーアイズとくれば、ディープインパクトの近親にあたる。叔父ほどの強さはないだろうが、秋以降、どの程度の出世が見込めるか注目というところか・・・・・。
EDIT  |  17:23  |  競馬(国内レース)  |  Top↑

2009.06.20 (Sat)

新型インフルエンザは・・・

 今から1ヶ月前は新型インフルエンザ騒ぎで大阪や神戸を中心にマスクをした人で街中は溢れていた。が、今やマスク着用の人がほとんどいなくなった。ならば新型インフルエンザは治まったのかというと、そうともいえないだろう。なのに最近は新型インフルエンザの件について、テレビも新聞も皆目、採り上げなくなった。ほんの1ヶ月前は怖ろしい伝染病が蔓延したかのような大騒ぎで、関西が汚染地域のようにいわれ、風評被害で観光客も激減した。これぞまさしくマスメディアの過剰報道のなせる業である。すると、このところのマスメディアの醒め方は、新型インフルエンザに感染した人が出てないかのように感じるところである。でも気がつけば日本国内では729人も出ている(6月19日11時現在)。

 内訳は高校で集団感染者が出た兵庫208人、大阪169人の両府県が極めて多いのは仕方がないにしても、何時の間にか福岡が77人、千葉が75人、東京が48人、神奈川が37人、愛知が24人も出ている。何れも人口の多い所なので納得は出来るものの、このようなことを、最近はマスメディアも報道しなくなった。報道しないとなると、もう安心なのかと思ってしまうこの国の大衆心理の恐ろしさは一体なんだろう。日本全国の47都道府県で感染者が出てないのは、今だと僅か14県にしか過ぎず、さらに、この調子で、今後も感染者が増え続けるものと思われるのに。また、これから冬を迎える南半球で新型インフルエンザの感染者が急増していることを聞くと、やはり夏よりも冬の方が感染しやすいのだと考えられる。つまりこれから日本はだんだんと暑くなっていくから、感染度のペースが落ちるのかと思っていたがなかなか落ちそうも無い。この新型インフルエンザは夏でも感染するのだ。さらに冬はもっと感染度が増すようだ。だとすると夏を越して秋を迎えてから、感染者がまた大量に増加するのではないかという懸念がある。

 もう日本人は1ヶ月前の大騒ぎを忘れたのだろうか。感染者があっという間に増え、瞬く間にマスクをする人で街が溢れかえったというのに、もう過去のことのように思えてくる。でもこういった状況を煽り立てているのがマスメディアだというのは皮肉めいた話であるが、またテレビで大袈裟に報道すると、またまたマスクをした人で街が洪水するのかもしれないなあ。すると今の間にマスクを買い占めといて、来るべき新型インフルエンザ騒動第2波に備えようかなあと思う。今度はより毒性を増して、日本を襲ってくるかも知れず不安は拭えないと思うけど・・・・・・・・。その時、国内の感染者に死者でも出ると、また先月以上の大騒ぎになるのかもしれないな。その時こそ大変だ!
EDIT  |  20:32  |  時事  |  Top↑

2009.06.19 (Fri)

夏の兆し

 暑くなってきた。入梅宣言があった筈なのに雨が降らない。もう6月も下旬にさしかかろうとしている。雨が降ることは降ったのだが、雷とともにやって来たスコールのような雨しか降らない。それも短時間、激しく降ってすぐにあがるから、余計に蒸し暑い。こんな局地的に激しい雨が降るというのは、地球温暖化が増した証拠だともいうが、きっちり、その洗礼を昨日の夕方、受けてしまった。

 仕事が終わって帰ろうかという時に、雷鳴が轟いてきて、それが徐々に大きな音に変わっていく。やがて空が暗くなり、いきなり叩きつけるような激しい雨が襲ってきた。しばらくは職場で待機していたが、何時、雨が小やみになるか判りはしないので、仕方なく傘をさしてバスの停留場へ向う。土砂降りの雨の中を歩くと膝から下はドボドボの状態になる。10分以上歩いて、バス停に到着しようという時、雨が嘘のように緩やかな降りとなり、この程度の雨ならと駅まで歩くことにした。

 テクテクと雨の中、30分歩くといつもの駅に到着。しかし、それを待っていたかのように空が明るくなり、雨がすっかりやんでしまった。まあ、なんともふざけた話である。結局のところ、帰宅の時間を待っていたかのように、雨が降り出して、拙者が駅まで歩いている間だけ雨が降っていた。まるで、こちらの行動が見透かされているような、天気にまで嫌がらせを受けているような按配であった。でも、これからのシーズン、こんなことが度々ありそうで夏近しを感じ取った。・・・・・けども夏は嫌いだ。

 ゴキブリは出てくるし、蚊には刺されるは、小さな虫がいっぱいいるし、とにかくいいところは何も無い。家に帰れば2階は既にサウナ風呂のように暑い。昼間の太陽光線を浴びて、瓦屋根が焼けてしまって、2階の各部屋はムッとする暑さである。とはいえ、まだエアコンを入れるには早い。6月から空調していたら7月、8月が乗り切れない。だから我慢しているのであるが、我慢にも限界はある。2階の室内において、空調無しで数時間も過ごしていると、頭がクラクラしてくるから水をがぶ飲みする。でもそれがすぐに汗になって体の汗腺から溢れ出てくる。そして喉が渇き、また水を飲む。こんなことの繰り返しで、また夏を過ごすことになるのだろうが、夏バテだけには気をつけて乗り越えて見ようと思う。・・・・・でも夏は嫌だ。嫌なものは嫌だ。もう早く秋が来ないかなと、そればかり考えている。あーあ、これから2ヶ月半は地獄だな・・・・・。
EDIT  |  21:11  |  その他  |  Top↑

2009.06.17 (Wed)

ラフマニノフ 『ピアノ協奏曲第2番』を聴く

 セルゲイ・ラフマニノフ(ピアノ)
 レオポルド・ストコフスキー指揮
 フィラデルフィア管弦楽団演奏のCD(1929年録音)
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 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のピアノ・パート譜面(共に第1楽章)・・・このような和音が多い。
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 このところヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝した全盲のピアニスト辻井伸行青年の話題で持ちきりだ。生まれつき全盲で世界的に権威のある国際コンクールに優勝したということで、テレビが派手にこのことを採り上げ、新聞は新聞で一面に載せて快挙だと報道する。その甲斐があって辻井伸行のコンサートは一躍、チケットが完売し、今ではプラチナ・チケットだという。ウン、なるほど・・・・確かに快挙である。でも彼が4年前のヴァン・クライバーンよりも権威のあるショパン国際ピアノ・コンクールに出て批評家賞を受賞していた時は、誰も騒がなかったというのに・・・・・。あの時、既に全盲の少年ピアニストがショパン国際コンクールで賞を頂いたというぐらいは私は知っていた。とはいえ、新聞の記事は隅の方に僅かに載せられたぐらいである。それが今回の大騒ぎ、コンサートのチケットがバカ売れし、彼の演奏したCDまでが売れ出した。何ということか、もしマスメディアがこれほど採り上げなかったら、こんな現象にはおそらくならなかっただろう。如何に大衆はマスメディアに踊らされているかということだ。そして、一つ付け加えるならば、全盲のピアニストとしては既に梯剛之がいることをお忘れなく。梯剛之はヴァン・クライバーンよりも歴史と伝統のあるロン・ティボー国際コンクールで2位になっているし、ショパン国際ピアノ・コンクールでもワルシャワ市長賞を頂いている。それでいて今回のような大きな報道にはならなかったのだ。つまり報道姿勢の偏重を感じたのである。だから今回の全盲の日本人ピアニストが、ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールを優勝したからといって、その関連の記事は敢えて書かなかったのだ。それなら何故、辻井伸行青年の話から入ったかというと、彼がピアノ・コンクールの決勝で弾いていた曲がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調Op.18だったからである。

 セルゲイ・ラフマニノフという人は大柄で身長が2m近くあったという。それでいてあの甘いメロディを生み出すは、ピアノを弾けば超絶技巧ときている。そこへ大きな体に大きな手。普通のピアニストなら届かないような12度の音程、和音を左手で軽く押さえることが出来て曲を楽々弾きこなしたといわれる。オクターヴなどは普通の人の5度、6度ぐらいのかっこうで弾いたと伝えられている。こんなラフマニノフが作った曲なので、ピアノ協奏曲2番は難曲でもある。おそらく並みのピアニストでは運指、和音をこなすのが困難である。こういった大男が作った当曲は難曲でありながらラフマニノフの曲の中では、最も有名で通俗的といえるだろう。そもそもはロンドン・フィルハーモニー協会からの委嘱で作られた曲であるが、かつては映画音楽としてよく使われたというのも頷けるほど甘美的なメロディが鏤めてあるぐらいだ。今から60年以上も前の映画だが、私が敬愛する映画監督デヴィッド・リーンの恋愛名作『逢びき』(1945年、イギリス)の中では頻繁にラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が流れていた。

 この曲はラフマニノフの出世作といってもよく、彼が28歳の時であった1901年に完成した。1901年11月10日、ラフマニノフ自身を独奏者としてモスクワで初演され成功を収めたのである。全3楽章から成り、演奏時間は30分から35分はかかるが、ラフマニノフ自身がピアノを弾いた場合は演奏時間が短いことが多い。とにかく冒頭から手を思い切り広げなくてはならない和音で始まり、ロマン的な旋律が彷徨うように展開して行く。まさに20世紀初頭に現れた名曲であろう。


ラフマニノフの映像


  ピアノ協奏曲第2番ハ短調の演奏の映像
 アレクシス・ワイセンベルク(ピアノ)
 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

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2009.06.15 (Mon)

枚方宿ジャズストリート

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 京都から大阪に向う京街道を歩いて行くと、伏見、淀の宿場がある。現在は伏見も淀も京都市内に組み込まれてしまったが、江戸時代には栄えた宿場であったらしい。淀を過ぎると宇治川と木津川を渡らねばならないが、2つの大きな河川を越えるとまもなく、山城の国から河内の国に入る。河内の国に入ると枚方(ひらかた)という宿場があるが、この宿場が発展し現在の枚方市となる。人口は約40万人。京都と大阪のちょうど真ん中にあたるが、ここは淀川の左岸である。従って淀川の右岸は高槻市になる。つまり淀川を挟んで北側が高槻市、南側が枚方市である。どちらも大阪府に属するが、高槻市は摂津の国、枚方市は河内の国と淀川で分断されてしまう。でもどちらの市も大阪、京都に行くのには都合のよい街なので、立地的には申し分ないところである。それで昨日、枚方に立ち寄ったのであるが、京阪電鉄・枚方市駅周辺でジャズのイベントを開催していたので、ちょっとだけ覗いてみた。

 なんだか枚方宿ジャズ・ストリート2009プレイベントということらしい。プレイベントということは、本イベントもあるらしいので、訪ねてみると11月7日、8日の両日に開催されるという。へー、今まで知らなかった。対岸の高槻で同様のイベントが毎年、行われているのは知っていた。事実、今年もGW中に行なわれ、私も僅かの時間だったが聴きに立ち寄った。だが枚方でジャズのイベントがあったとは知らなかった。また聞く所によると、同じようなジャズ・イベントは枚方の近くの門真、守口でも行なわれていると知り驚いた。まさか最近はジャズ・ブームということはないだろ。これも町おこしのようなものかもしれないが、ジャズ好きには、こういったライヴが増えるとつい聴き耳をたててスイングしてしまう。やはりジャズはいいなあ・・・・・。

 この日は幾つかの会場に分かれてビッグバンドばかり登場したが、年齢層の幅広いビッグバンドが多く熱の入った演奏を堪能させてもらった。曲も色々と・・・・『ルート66』『ザ・チキン』『オン・ザ・サニー・サイド・オフ・ストリート』『リスペクト』『ベイシー・ストレート・アヘッド』『ホワッド・アイ・セイ』等・・・・ジャズのスタンダードもあれば、リズム&ブルースもあるし、ラテンもあるしサンバもある。あっという間に時間が経ち、気がつけば夕方だった。本イベントにも来て見たいが、11月のことなので判らない。いやあ、音楽って本当にいいものですね(故人になられた映画評論家のパクリだが)・・・・・・。
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2009.06.14 (Sun)

エプソムC、CBC賞

 暑くなってきた。まもなく夏が到来か・・・・・・。競馬の方も東京開催が終わり、来週からは関東ではローカル開催となり、関西は中京から阪神開催へと替わる。それで今日は春競馬の東京開催最後のエプソムC(GⅢ・3歳以上、芝1800m、18頭)が行なわれた。

 レースは1番人気のヒカルオオゾラをマークするように中団に待機していた2番人気シンゲンが、早めに動いたヒカルオオゾラを直線で差し切って勝った。

 1着シンゲン 1分45秒5、2番人気ヒカルオオゾラ 1馬身1/4、3着キャプテンベガ 2馬身、4着ショウナンラノビア 1馬身1/2、5着トウショウウェイヴ アタマ。

 人気馬が上位を占めることとなったが、最後は、このところマイル戦を主に走っているヒカルオオゾラと1800m~2000mが得意なシンゲンとの追い比べとなった。結局、1800mではシンゲンの方が一枚上であったということだろう。秋の天皇賞に向うらしい。また天皇賞ではウオッカ、ディープスカイあたりと対決することになるのかもしれない。

 また中京ではCBC賞(GⅢ・3歳以上、芝1200m、17頭)が行なわれたが、結果だけを記しておく。

 1着プラミアムボックス 1分08秒0、2着エイシンタイガー クビ、3着スピニングノアール 1/2、4着ソルジャーズソング クビ、5着アーバンストリート クビ。
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2009.06.13 (Sat)

野球場址を訪ねて

 プロ野球も開幕して2ヶ月、野球シーズン真っ盛りである。すでに私は10数年以上も前、プロ野球にすっかり興味がなくなってしまったことは、このブログ上で再三、書いている。だから野球の記事は出来る限り書かないようにしている。でもかつてあった野球場というものが、今、現在どのようになっているのかということに興味が湧き、急遽、訪れてみることにした。

 思えば、今から20年以上前には、在阪球団といわれるプロ野球球団が4球団あった。今では大阪在住者でも、そんな時代を知らないという人が増えてきて寂しい限りだが致し方ないだろう。要約するとセントラル・リーグに所属した阪神タイガース以外の球団は全てなくなってしまった。つまりパシフィック・リーグに所属した南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ・・・・・全て消えてしまった。

 人気がないから消えざる運命にあったといえばそうかもしれないが、人気は人が作るものである。ただ我々は指を銜えて関西の地から球団が一つ、また一つ、消えていく様をを傍観することしか出来たかったのは実に残念である。でも何故、なくなったのかということに対してあまり議論されなかったように思う。理由は簡単である。3球団とも赤字だったからである。球団経営者は懸命に経営努力を試みたと思うが、何をやってもパシフィック・リーグ所属という理由だけで、マスメディアの扱いが少ない、テレビで生中継しない、馴染みが無い、ファンが増えない、人が入らない。こういった悪循環の連鎖で、3球団とも無くなったというしかない。

 また関西に人気の無いパ・リーグの球団が3球団も存在したという矛盾もあったが、長い間のセ・リーグ偏重に抗する術をなくし、ただでさえ少ないパ・リーグ・ファンを奪い合っているしかなかった。その横で、阪神タイガースが本拠地とする甲子園球場がいつも満員になるというアンバランスさがいっそう妙である。とはいうものの、かつて南海ホークス黄金時代の昭和30年代は大阪球場も人で溢れていたものだ。それがだんだんとテレビを含めたマスメディアの巨人を中心とするセ・リーグ偏重主義に駆逐され、パ・リーグそのものの人気が落ちていった。中でも阪神タイガースのみが巨人と試合することにより、覇権を争ったり雌雄を決することが出来るということがファンの目を牽きつけ、関西のマスメディアも阪神一辺倒という扱いに変っていった。当然、人気もないパ・リーグであるにも係わらず3球団もが、狭い地域内においてパイを奪いあっていると行き着くところは本拠地の移転か、球団の売却しかなく、昔からパ・リーグの球団を心から応援していた私にとっては、南海ホークス、阪急ブレーブスの球団身売り、本拠地移転は予測できた出来事であったとはいえ、心にポッカリ穴が空いたような心境に陥ったものである。

 この出来事以来、私はプロ野球に興味が持てなくなった。プロ野球というものは各チームが共存共栄してこそ成り立って面白いものなのである。対戦相手があってこそ試合は成立するものである。ごく一握りの球団しか潤わないような現行のプロ野球界、それに伴うマスメディアの報道姿勢・・・。改革といっておきながら、可笑しなルールばかりをゴリ押し通し、自分のところさえ良ければ良しとする球団代表(何処とは言わないが)。最早、私が何を言いたいのか、判ると思いますが・・・・・・・・。まあ、今後のプロ野球界をどうするかといった将来の大きな展望もビジョンもないでしょうけども・・・・・・。それで、今さら愚痴を言ったところではじまらないから、かつてプロ野球が使用していた野球場を訪れてみた。

 まずは日生球場である。こんな球場があったことなんて若いファンは知らないと思う。所在地は大阪市中央区森之宮である。通称、日生球場。森之宮球場ということもあったが、名前で判るとおり大阪に本社のある日本生命保険相互会社所有の野球場である。だから正式名は日本生命球場である。JR環状線の森之宮駅で降りて西の方角に歩くと左側に見えていた球場である。戦後、日本生命は大阪市民が楽しめる野球場設備が足りないということと、当社の福利厚生充実の意味合いもあって1950年に建てた球場である。収容人員は20000人強。キャパとしては少ないが、交通の便が良いこととナイター設備があったので、1958年から1983年まで近鉄バファローズが本拠地として使用していたのである。また、関西学生リーグの試合や、社会人野球や、高校野球の大阪府予選決勝は、ここで試合を行なっていた。私も20回、いや、それ以上、来ているだろう。近鉄ー南海戦、近鉄ー西鉄戦、近鉄ー阪急戦等、また、高校生の頃の江夏、岡田(前阪神監督)、ドカベン香川に牛島、PLの木戸、吉村、小早川、清原、桑田、立浪、片岡、野村、宮本、上宮の元木、種田を見たのも、この球場である。

 日生球場は大阪ドームが完成した1997年に閉鎖された。現在は写真のとおり、駐車場と空き地と住宅展示場になっている。まだ、この土地が何に使用されるのか判らないが、大阪城の目の前にあるという立地条件だけに、迂闊な開発だけは避けて欲しいものである。

 かつて日生球場の内野スタンドがあった付近。
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 日生球場の三塁側スタンドがあったところ。日生球場跡地マンションズプラザという看板だけがその名を留める。
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 日生球場は近鉄バファローズの本拠地と書いたが、本当の本拠地は藤井寺球場である。日生は借り物で、都心にあって便利が良いこととナイター設備があったから近鉄が本拠地として使っていたのである。一方、藤井寺球場であるが、こちらは近鉄のグループ企業が経営する純然たる本拠地である。であるが、ナイター設備がなく、夜は試合が出来なかったから日生球場を長い間に亘って、使用していたのである。

 藤井寺球場は近鉄・阿部野橋駅から準急に乗ると15分もかからない藤井寺駅の南側にあった32000人収容の球場である。1925年に近畿日本鉄道の前身である大阪鉄道が、阪神電鉄が甲子園球場を建設して、成功していることに触発されて1928年に建設された野球場で、その当時は甲子園に匹敵する大きな球場であった。だが、戦時中に荒れ放題となり、戦後は改修されたが、球場の規模としては小ぶりとなった。戦後の1950年にプロ野球が2リーグに分裂したのを期に、近鉄がプロ球団を作った。それが近鉄パールズであり、後の近鉄バファローズである。

 近鉄バファローズは当然、藤井寺球場をフランチャイズとしたが、それも暫くの間だけで、時代がナイター中心になっても、藤井寺球場にはナイター設備がなかったから日生球場を長い間、借りる羽目になる。そして、藤井寺球場でナイターが出来るようにと、球団、球場側は照明塔を建設しようとしたが、周辺は住宅ばかり。当たり前のように地元住民から照明塔建設反対の運動が起こる。結局、球団側と地元住民の間で度重なる裁判沙汰に発展、その結果、ナイター設備が完成し、1984年からは藤井寺球場でようやくナイトゲームが出来るようになったが、鳴り物の応援は一切禁止、外野の外側には防音壁を張り巡らすことでどうにか対応した。でも、こんなエピソードも今となっては笑えて来る。球場は今や跡形も無い。

 藤井寺球場も何度か訪れたなあ・・・・。球場のあった所に来ると、【近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005】と刻まれたプレートが嵌め込んである像がたっていた。
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 球場跡の西側は四天王寺学園のキャンパスとなり、大学と小学校が入る校舎が建っていた。
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 球場跡の東側は、まだ更地である。このあとどのように使われるのか、また何年かしたら、訪ねてみたい。
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 今回はかつて近鉄バファローズが本拠地としていた日生球場と藤井寺球場を訪れてみたが、また後日、大阪球場跡と西宮球場跡も訪れてみようと思う。
EDIT  |  18:38  |  近場散策  |  Top↑

2009.06.11 (Thu)

安部公房・・・・・『終りし道の標べに』を読む

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 何とも形容しがたい小説である。安倍公房の処女作であるが、難解で読み辛く小説的でない文体で書かれてある。いや、小説でないといったほうが適切かもしれない。話としては故郷からの逃亡者である日本人の語り手の私を通して語られているが、兎に角、思弁的で哲学的である。

 錦県という満州の地で、サイダー製造の技師をしていた私は、ある年の秋、小資本家の雇用主・房から瀋陽の新しい職場へ移ることを命じられ、仲間の中国人・高らと馬車を駆使して荒野を越えていく途中に匪賊に襲われる。匪賊の頭目・陳は私が財宝の秘密のありかを知っているのではないかと考え丁重に扱ってくれる。そもそも20年前、彼女の許から逃れて満州の地に流れつき、今は自分の存在理由と故郷の意味について自問自答し、ノートに書き綴ったのである。《斯く在る》という価値観に囚われて、私は異民族の中で模索し続ける。テーマとしては故郷からの逃亡、異民族の中の孤立、終わりの無い流浪、失われた喪失、これらを観念的に捉えている。

 この小説のストーリーを語ってもあまり意味は無い。チマチマした日常的なものよりももっと大局的な価値観が全体を支配しているからだ。それは自己の存在象徴から始まり斯く在るべきで帰結する一つの環である。自分の言葉で語りえる唯一の忘却、すなわち真理である。またその周囲には未完の円周が始まるということ。20年前、恋人の与志子を棄てて満州へ逃走したというのが故郷を去った理由であるが、長い異国での生活の中では、今や阿片中毒である。故郷を忘却した果てに流浪が始まった。

・・・・・・・あゝ、どうしたのだ。何処まで落ちるのだ。この洞穴は、この暗さは、この響きは、このしびれは・・・・・死、死ぬのだ。終ったのだ。もう一息。あゝ、素晴らしい童話!

・ ・・・・・・・私は永久に死なないゝい。あの名をいつまでも口に出さないでいてやるんだ。あゝ、旅はやはり絶えざる終焉のために・・・・・・。

 このように綴られて小説は終わっている。死の淵に至っても観念的である。ところで安倍公房の世界というのは、何故にここまで無国籍的でアナーキーなのかというと、彼自身が東京に戻るまでの15年間の大部分を植民地である満州の奉天で過ごしたからである。彼が小学生の時には満州事変が勃発している。自宅から2㎞ほど行ったところに運河の堤防があり、その向こうは茫漠たる荒野であったという。粘土塀で囲まれた農家と落花生畑が点在する砂地は中国人の墓場で、子供が死ぬと親不孝者としてそこに捨てられたと書いてある。金のある家だけは埋葬のとき、棺桶を地面の上に置き土を被せたのだが、その日のうちに盗掘され、蓋の開いた棺桶は野犬や野鳥によって食い荒らされ自然に帰っていったらしい。また人さらいの馬賊が出没すると恐れられ、安倍公房少年にとってこの頃の体験から、人間社会を超越する世界観が少年時代に養われたものだろう。また、この『終りし道の標べに』は、少年時代の友達であった金山時夫のことが忘れられず、書かれたものと思える。金山時夫は敗色の濃くなった昭和20年8月、家族と共に疎開列車に乗り、途中、何を思ったのか末の弟を連れ、逃げてくる多くの人の流れに逆らって満州の新京に舞い戻ってしまい、後年、中国人たちと一緒になって盗みを働き、その後、結核性の助膜炎を発症し、まもなく死んだという。

 安倍公房は言う。・・・・・・・・・何故そうしつように故郷を拒んだのだろうか。僕だけが帰ってきたことさえ君は拒むのだろうか。そんなにも愛されることを拒み死せねばならなかった君に、記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが・・・・・・。
EDIT  |  20:27  |   |  Top↑

2009.06.09 (Tue)

2009年フランス・ダービー

 何かこのところ毎日、競馬の記事を書いているみたいだが・・・・・。フランス・ダービーが7日の日に、パリ郊外のシャンティ競馬場で行なわれた。当初、フランス・ダービーの記事を書くかどうか迷っていた。それは、2005年からフランス・ダービーの距離が2400mから2100mに短縮されてしまい、ダービーとしての価値がなくなってしまったからだ。

 フランス・ダービーというのはイギリス・ダービーと開催時期がダブるので、どうしても有力馬はイギリス・ダービーに出走してしまい、フランス・ダービーは裏開催のようなメンバーに甘んじることが多かった。それでマイラーにも出走してもらおうという意図から距離が2100mに短縮されてしまったのだが、残念ながら勝ち馬が、その後に活躍することがなくなってしまい、レースの権威が失墜してしまった感がある。ということで、フランス・ダービーの記事を割愛しようと考えたのだが、また書いてしまった。

 結局、2009年度のフランス・ダービー(Prix du Jockey-Club、GⅠ・3歳、2100m、17頭)は、中団のインコースにつけた6番人気のルアーブルが、直線入り口で好位置に上がり、最後に抜け出して勝った。

 1着Le Havre 2分06秒8、2着Fuisse 1馬身1/2、3着Westphalia 1馬身1/2、4着Beheshtam
 1馬身1/2、5着Calvados Bleus 1/2。

 仏2000ギニーに勝って1番人気に支持されたシルヴァーフロストは6着だった。勝ったルアーブルは、仏2000ギニーが2着で、通算6戦4勝2着1回の成績。

 父はNoverre・・・・・・・・・Red God系。母はMarie Rheinberg(母の父Surako・・・・・・・・・・Blandford
系)、日本では傍流になるRed God系で、母の父なんかはBlandford系である。Blandfordなんていうのは、1930年代に活躍した種牡馬であって、日本にはその仔のブッフラーが輸入されたが、その仔に2冠馬コダマがいる。本当にヨーロッパでは、今時、珍しい血統を持つ馬が出現するので興味深いのである。

 道中、中団のインコースにつけ、最終コーナーで好位置にあがり、直線半ばで抜け出したルアーヴル。黒い帽子に白っぽい騎手服がルアーヴルである。

EDIT  |  20:45  |  競馬(海外レース)  |  Top↑

2009.06.08 (Mon)

第141回ベルモントS

 アメリカ東部時間の6月6日午後、アメリカ3冠レースの最後を飾る第141回ベルモントS(GⅠ・3歳、ダート12F、10頭)が行なわれた。今年の3冠レースはケンタッキー・ダービーをマインザットバードが勝ち、プリークネスSを牝馬のレイチェルアレクサンドラが勝ち、このベルモントSも混線模様で、結局、レイチェルアレクサンドラは距離が長いと見たのか出走してこず、1番人気はケンタッキー・ダービー馬のマインザットバードであった。

 レースはダンカークが逃げ、マインザットバードは後方待機。しかし、早めに動き後方から直線で追い込んできたサマーバードに差されてしまい3着。

 1着Summer Bird 2分27秒54、2着Dunkirk 2馬身3/4、3着Mine That Bird クビ、4着Charitable Man 3馬身3/4、5着Luv Gov 3馬身3/4。

 勝ったサマーバードはベルモントSが5戦目というキャリアで勝ってしまった。通算5戦2勝。ケンタッキー・ダービーは6着であった。

 血統は父がバードストーン(Birdstone)・・・・・・・・・・ミスタープロスペクター系。母がホンコンスコール(Hong Kong Squall)・・・・・ブルードメアサイヤー(母の父)がプリークネスSの覇者サマ-スコール(Summer Squal)である。

 赤い帽子に青い騎手服が勝ったサマーバードである。

 
EDIT  |  20:39  |  競馬(海外レース)  |  Top↑

2009.06.07 (Sun)

第230回英国ダービー

 現地時間で昨日の6日、ロンドン郊外のエプソム競馬場で、伝統の第230回ダービーS(GⅠ・3歳、12F10y、12頭)が行なわれたので、その結果を報告するとする。

 今年は久々に2000ギニーに勝ったシーザスターズ(Sea the Stars)が出てきた。でも2番人気で1番人気は、ダービー・トライアルに勝って、これまで4戦4勝のフェームアンドグローリー(Fame and Glory)だった。レースは終始、好位置につけた2000ギニーの覇者シーザスターズが、直線半ばで抜け出し、激しい2着争いを尻目に優勝した。

 1着Sea the Stars 2分36秒74、2着Fame and Glory 1馬身3/4、3着Masterofthehorse クビ、4着Rip Van WInkle ハナ、5着Golden Sword 短頭。

 シーザスターズはデビュー戦こそ4着であったが、2000ギニーを含め4連勝。ナシュワン以来の2000ギニー、ダービー連覇馬となった。もし、この馬が9月のセントレジャーに出て勝つようなことがあると、ニジンスキー以来の英国3冠馬誕生ということになるのだが、まず出てこないだろうなあ・・・・。

 血統は父がケープクロス(Cape Cross)、母は凱旋門賞馬アーバンシーという良血で半兄にダービー馬ガリレオがいる。ケ-プクロスはダンツィヒ系の種牡馬で、奇しくも先週の日本ダービーに勝ったロジユニヴァースの母の父でもある。偶然とはいえ、種牡馬は同時期に突然、産駒が活躍しだしたりするから面白い。

 黄色の騎手服がシーザスターズなので判別しやすいと思う。起伏があるので馬なりで走っているように見える。

EDIT  |  18:32  |  競馬(海外レース)  |  Top↑

2009.06.07 (Sun)

第59回安田記念

 春のマイル王決定戦、第59回安田記念(GⅠ・3歳以上、芝1600m、18頭)が今日、東京競馬場で行なわれた。香港から参加のサイトウィナー、アルマダを含めウオッカ、ディープスカイといったダービー馬2頭の対決が注目を浴びた。1番人気はウオッカで、2番人気はディープスカイ、3番人気はスーパーホーネットであった。何でダービー馬2頭がマイル戦の安田記念で対決するのか不思議でもあるが、この2頭は3000mや3200mといった長距離路線には見向きもしないで、マイルから1マイル半の距離のレースを中心に走り続けているのでユニークな存在なのである。

 いよいよスタートが切られた。長いバックストレート、激しい先行争い。外からローレルゲレイロ、アルマダが行く。そしてコンゴウリキシオーが出鞭をいれて強引にハナを奪いにかかった。ペースはおのずと速くなる。先頭はコンゴウリキシオー、2番手にローレルゲレイロ、3番手にアルマダ、内からタマモサポート、マルカフェニックス、トウショウカレッジと続き、香港のサイトウィナー、そしてライブコンサートとウオッカがいて、その後にホッカイカンティ、さらにディープスカイ、スーパーホーネット、リザーブガードが行き、カンパニーとスズカコーズウェイ、さらにスマイルジャックとアブソリュート、離れた最後方からファリダットという順番で展開する。ペースは速く、12.0---10.6---10.8---11.9---12.1と800m通過が45秒3、1000m通過が57秒4。3コーナーから4コーナー、コンゴウリキシオー、ローレルゲレイロ、アルマダと順位に変化なく、直線コースに入ろうというところ。コンゴウリキシオー先頭、その外にローレウゲレイロ、その外にアルマダと横一線。ここでウオッカが好位置に上がるが、前が壁になって出るところが無い。ディープスカイがウオッカの前にいる。あと300m、ウオッカがクビを上げていて前がまだ塞がっている。ここでディープスカイが先頭に出る。ディープスカイが先頭に立った。あと200m、ディープスカイ先頭、ディープスカイ先頭。大外からカンパニーが伸びる。ファリダッドの脚色もいい。前が開いてウオッカがやっと抜け出ようとする。先頭はディープスカイ、ディープスカイ先頭。あと100m、ここからウオッカが出てくる。ウオッカが来た。ウオッカが来た。先頭はディープスカイだが、ウオッカが一気に迫る。ウオッカがあっという間に先頭に立った。ウオッカが先頭でゴールイン。

 1着ウオッカ 1分33秒5、2着ディープスカイ 3/4、3着ファリダッド 1馬身、4着カンパニー ハナ、5着ライブコンサート 1馬身1/2。

 いや、最後のウオッカの切れ味には驚愕しました。ディープスカイの四位騎手も勝ったと思っただろうが、最後の最後にウオッカが来た。直線で前が塞がって出るに出られず武豊騎手は困り果てたようだが、一瞬、前がバラけた間隙を突いて一気に差し切ってしまった。まさに絶体絶命のピンチから起死回生の勝利であった。マイル戦でいうと、かつてのマイルチャンピオンシップで、オグリキャップが今回と同様に、敗色濃厚のピンチからバンブーメモリーを差し切ったレースを思い出した。

 それにしてもこのところのマイル戦でのウオッカは強い。ただマイル戦ばかり使うと、次に中距離レースに出たとき、瞬発力はあっても長い持続力を保つことが出来るのか・・・・また、ペースがマイル戦よりも遅くなることで、馬がひっかかったりしないのかという課題が残る。でも今のウオッカを見ていると、マイルから中距離にかけての強さは群を抜いている。古馬の牡馬陣が頼りないので、あとは4歳馬との対決がどうなるのか、秋以降、見ものである。
EDIT  |  17:26  |  競馬(国内レース)  |  Top↑

2009.06.06 (Sat)

回転寿司

 今や日本国内のみならず、世界中に広まった感のある回転寿司。実は回転寿司が生まれてから半世紀以上になるという。でもそんなに古い歴史があるなんて思ってもいない人が多いのでは・・・。安くて適度に満腹感が得られるし時々、利用するのであるが、そのルーツは意外と知られていないように思う。

 今から30年近く前のことになるのだが、東京の友達に会うため私は東京まで出かけた。そのとき、彼と新宿で落ち合ってからとりあえず簡単な食事をすることにした。それで彼が案内した先は回転寿司であった。まだ今のように至るところに溢れかえってなく、回転寿司店も少なかった時代であるが、椅子に腰掛けて食べだすなり、いきなり彼が言い出した。
「こんなの関西にはないだろ。始まりは仙台なんだよ」

 彼が言うには回転寿司の始まりは仙台で、最近、東京に出回り始めたから関西にないと思っていたようである。そこで私は言った。

「発祥は大阪の布施で、万国博覧会に店が出ていたよ」と言った。
「嘘だろ! 仙台は昭和43年からあるよ」
「本当だ! 大阪は、その10年前からあるよ」
「本当かよ!」

 彼は信用しなかったが、事実を言うと、昭和33年4月、大阪の近鉄布施駅北側に元禄寿司第1号店が開業していて、この店が世界中にある回転寿司の発祥の地である。

 詳しく言うと1913年に愛媛県で生まれた白石義明という板前さんが戦争で満州に行き、戦後、引き上げてきて昭和22年、大阪の布施で小料理屋を開いた。彼は美味しい料理を安く提供しようと絶えず考えていて、当時、庶民には高嶺の花だった握り寿司を安く食べさせられる方法を模索していた。結果として、大量に魚を仕入れ価格を下げた上で、カウンターだけの立ち食い寿司の店をオープンする。

 店は予想通り繁昌した。でも、効率が悪く人手不足も手伝って店の中はてんてこ舞い。ここで何か良い方法はないものかと白石義明が思いついたことは、以前、大阪・吹田のアサヒ・ビールの工場へ見学に行ったとき、ビールがコンベアーで運ばれていく様子を寿司にも適用できないかということだった。これだと職人は運ぶ手間も省け、客は流れてくる寿司を取るだけという効率の良さでコスをより下げられる。試行錯誤の後、10年後の昭和33年(1958年)4月、回転寿司の第1号店『元禄寿司』が開店したのである。

 暫くは大阪のみのチェーン展開で、全国的に回転寿司は広まらなかった。それが昭和43年に仙台で元禄寿司がチェーン店を開店する。つまり、この時こそが回転寿司の始まりだと私の友人は考えていたのである。しかし、回転寿司が全国的に有名になるのは1970年に大阪で開催された日本万国博覧会である。この時、元禄寿司は会場に回転寿司店を出展、好評を博し、回転寿司の出店を試みる人が全国的にチラホラと現れだしたのである。それが今では世界中に回転寿司店が広まり、日本が生んだファーストフードとして知れ渡っているが、その回転寿司を生んだ白石義明という人の名は、ほとんど世間に知られていないように思う。

 この人は既に2001年8月29日に亡くなっておられるので故人であるが、ビール工場のコンベアーからヒントを得て回転寿司を考案したのだが、美味しいものを安く提供することこそ、サービス産業に従事する者の使命であると考えていた。もし回転寿司がなかったとしたら、今も握り寿司は高嶺の花だったかも知れず、庶民には滅多にありつける食い物ではなかったかもしれない。もっともっと白石義明という名前が知られてもいいと思う。板前の世界ではあんなの寿司ではないといった保守的な人が幅を利かすしているのかどうか知らないが、寿司を世界中に広めたといった意味では大きな貢献をした人であることは間違いがない。値段が高くて美味しいのは当たり前。安くて美味しいものを提供したことに対して賞賛するべきである。

 『元祖 廻る元禄寿司』の総本部のある布施駅前店。昭和33年に開業した第1号店は、この場所ではなく駅の北側にあったが、その後の駅前の開発で立ち退いた。
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 皿一枚130円。100円の時もあったが、開店の頃は一枚40円だったらしい。(携帯電話のカメラで撮ったのでピンボケしています)
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2009.06.05 (Fri)

毎日、毎日、疲れます

 滋賀県の田舎にある職場に通うようになってから早いもので1年が経過した。1年前は、こんな不便なところまで毎日、通わなくてはならないのは嫌だなあと思っていて、慣れればどうってことなくなるかなあと考えていた。でも今は、それ以上に嫌気がさしている。本音をいうと今すぐにでもやめたい。通勤時間は長いし、給料は下げられたし、仕事は以前ほどではないが、相変わらずきついし、つまらないし良いところが一つも無い。だが、このご時世、ハイ辞めますと簡単にいえないのが辛いところである。

 それにしても疲れる。行きも帰りも電車は混んでいるし道中も長い。帰りの電車も混んでいて、行儀の悪い大学生と一緒になることもしばしばである。彼らは偏差値が高いのだろうけどもモラルまでが高い訳ではない。従って、大勢で乗車してくると必ずといっていいほど行儀の悪い学生も当然の如く存在する。ドアの入り口でへたり込んだり、物を食べたり、大声で喋ったり、ヘッドフォーンから漏れてくる不協和音・・・・・・仕事が終わって、やれやれと一息ついて帰りの電車に乗ったものの、彼らに遭遇すると本当に疲れる。

 こちらは通勤時の長い時間を有意義に使おうと、読書を心がけているのだが、彼らの騒がしさが邪魔をする。また疲れているから次第に活字を追う目がとろんとしてきて、一つも頭にしみこんでいかない。若いときは記憶力と暗記力に自信を持っていたのだが、今はのべつ幕無し忘れまくっていて、健忘症じゃないかと不安になる。それに暗記力も見事におちた。それに覚えてもすぐに忘れるので、暗記しないほうがましなぐらいだ。

 ついでに言うならば読解力も急降下するほどおちた。本を読んでいても理解に苦しむ時がある。書いている物が難解なのか、ただ私の理解力が乏しいだけなのか判らないが、読書ペースも若いときに比べると遅くなった。でも私自身、活字中毒のようなものなので、電車の中での読書は欠かせない。だが30分ほどかかっても2、3ページしか進まないときがあって、時々、活字に目を走らすが、頭の中は他のことを考えていたりする。つまり集中力もなくなったということであるが、1番の原因は老眼が進んで、眼鏡が必要になったというもどかしさ、面倒くささが一つになって、読書に集中できなくなったということだ。眼鏡がないと暗い車内では小さい字は読み辛い。

 目も悪いが、鼻も悪く耳鼻咽喉科に通っているし、慢性的な腰痛に加え、膝も痛いし身体の方もずいぶんとガタがきていて、一晩寝ても疲れが残るので週末になるとぐったりと来る。まあ、誰でも老いはあるし歳をとるし、身体もあちらこちらと歪みがきて、フッと自分の年齢を振り返る。結論から言うと結局、自分自身がそういうような年齢に差し掛かっているのだということに気がつく。なんだか寂しいねえとボヤキつつ、毎日毎日、遠方まで通い、また疲れて帰ってくるのである。

 書きたくはなかったが、ついつい書いてしまったのである。
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2009.06.03 (Wed)

浅田次郎・・・・・『活動寫眞の女』を読む

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 東京出身の三谷薫は昭和44年の春、京都大学の文学部に入学した。彼は東京大学に行くつもりであったがこの年の東大入試中止の影響で京大へ入る羽目になった。でも三谷にとって京都は馴染めない街であった。唯一、彼の心の癒しとなっていたのが映画である。もし京都が日本映画の故郷で無かったら京都に来たかどうかも疑わしい。そんな三谷が清家忠昭と初めて会ったのも映画館だった。清家は京都大学の医学部の学生で、地元京都の旧家の出である。清家は生まれながらの秀才で、高校の授業がつまらなくなって中退し大検を取って京大医学部に入ったという変り種であるが、2人とも映画が好きで結びついたようなものである。そんな2人が清家の知り合いがいる太秦の映画撮影所でアルバイトをすることになるのだが、偶然にも三谷が下宿している家の同居人である先輩の女子学生結城早苗までが同じ日に撮影所へアルバイトで来ていた。3人は時代劇の撮影のエキストラで参加していたのだが、この撮影所中に3人は奇妙な体験をすることになる。それは艶やかな絶世の美人女優に3人は撮影中に話しかけられたのだった。でも、3人が話しかけられた場所は、それぞれ違うのに時間的には同時刻だという。3人は撮影終了後、現場検証を行なってみるが、こんなことは有り得ない。色々と詮索するが判らない。だが、無声時代からの映画ファンである清家が、どっかで見たことのある女優だという。結局、その美人女優は既に亡くなっている伏見夕霞であることが判明するのであった。

 この小説は何年か前にNHKでテレビドラマ化されたことがあるので、ご存知の方もいらっしゃると思うが、幽霊が出てくる青春小説とでも言うべきであろうか、古い日本映画が好きな人には興味深い作品であろう。『蒼穹の昴』『鉄道員』『壬生義士伝』を書いた浅田次郎の青春恋愛物といえばいいだろうか、でも幽霊の出てくる妙な小説だ。京大生3人がエキストラとして参加した時代劇の撮影中に幽霊である伏見夕霞は現れる。でも3人以外には見えないのである。信じられない体験をした3人の前に、その後も伏見夕霞は現れては消える。以前から映画の撮影所に出入りしている清家は、知り合いの辻老人から意外な話を聞き、彼女はかつての大部屋女優で、日本映画の父・マキノ省三が連れてきた女優だという。でも彼女は美人過ぎて科白のない役でしか映画出演が回ってこなかった。それで昭和11年に自殺した。

 こんな変梃りんな話をよくも浅田次郎は書いたものだと思うが、怪談話でなくミステリーでもなく、どこか切ない哀愁のある物語となっているところは流石である。時代は昭和44年のことで、東大の入試が史上初めて中止になった年に大学受験に望むことになった三谷はやむを得なく京大に入るが、京都の街も人にも馴染めず映画を観ることでストレスを解消していて、その映画館で清家と知り合い、下宿先の同居人である結城早苗を含めた3人を中心にして話が展開し、そこへキーパーソンとなる30年前に亡くなった女優・伏見夕霞が絡んでくる。いつしか清家は伏見夕霞と恋愛関係に発展し、話がだんだんとややこしくなっていくなど、30年という時空を超えた不思議な物語である。

 この作品を読んでいると日本映画の創世記のことが矢鱈、詳しく書いてあって、マキノ省三、目玉の松ちゃん、溝口健二、永田雅一等、日本映画史の勉強にもなる。そういえば太秦にある東映映画村の周辺なんていうのは、戦前は撮影所だらけであったということは、昔の人からよく聞かされたが、映画ファンである浅田次郎が京都を舞台に映画をベースにした小説を書こうとした意図は何となく判る。かつて日本のハリウッドとまでいわれた京都の太秦から花園、等持院にかかる一帯は、日本映画の長い歴史の中で、大きな意味を占めてきた。それが今や撮影所は、東映映画村といわれるテーマパークを残すのみとなり、映画界を取り巻く環境はお寒い限りである。だから、まだ撮影所が幾つか残っていた昭和44年頃の京都にスポットをあてて話を構築せざるを得なかったのではないだろうか・・・・。また主人公・三谷薫の年齢と浅田次郎本人の年齢とは、ほぼ同時期ということを考えれば話を組み立てやすかったのではないかと思う。丁度、東大の入試が中止になったということで、やむなく京大へ入ったという主人公の設定も上手い具合に当てはまるので、昭和44年という時代が味噌になっていったように思う。

 アポロ11号が月に軟着陸し、人類が初めて月面に降り立った年である。そんな時代、日本では学生運動がやや沈静化していたというもの、なんか世情が慌しかったように思う。そんな時代の京都を、浅田次郎はどれほど知っていたかは知らないが、結構、調べ上げていると思う。ただ、その頃の京都に住む少年だった私に言わしてもらうならば、才人・浅田次郎でさえ、京都は保守的で排他的な街であるように表現しているし、やはりどっから見ても東京人から見たとしか思えないようなエセ京都人(清家)を小説の中に登場させている。また京都の喫茶店ではコーヒーに砂糖とミルクを入れて混ぜて持って来るのが一般的であるように解説していたが、これは大きな間違いである。京都も一般的にはコーヒーだけを持ってきて、あとは個人で砂糖、ミルクを好みに合わせて入れるようになっている。おそらく浅田次郎は京都で有名なイノダ・コーヒーが、そのようなスタイルでコーヒーを出したので、それが一般的と思ったのかどうかは知らないが、少なくとも京都のことに関しては私の方が遥かに詳しいだろう。それに京都の人は、東京の言葉を標準語なんて本音では誰も思ってない(特にあの時代の人は)。あれも東京弁、江戸弁という一方言だと思っている人が多いということ。これは1000年の都人である京都人のプライドといえばいいのだろうか・・・・・。余所の人が京都人を書く難しさはそこにあると思う。でも、この辺の可笑しさは指摘しておくものの、これもご愛嬌と思えば楽しく読める小説である
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2009.06.01 (Mon)

タイタニック号最後の生存者死去

 タイタニック号に乗船していた最後の生存者が死去したという。昨日の5月31日、イギリスのサウサンプトンにある高齢者介護施設でタイタニックに乗って遭難事故に遭い、ただ1人生き残っていたミルビナ・ディーンさんが死去したというニュースが伝わった。

 ミルビナ・ディーンという97歳になる女性は1912年4月、イギリスからアメリカのカンザスへ移住するため一家で乗船したという。タイタニックとは映画『タイタニック』で有名になったので、大方の人は名前ぐらい聞いたことがあるだろうと思うが、処女航海で沈没してしまった当時としては世界最大級の豪華客船である。

 ところでタイタニックはよく世界最大の客船で沈まないといわれていたというが、この話は勘違いで伝えられているのでは・・・・。タイタニックは確かに完成当時の大きさが全長269.1m(戦艦大和より6m長い)、幅員28.2m、46328総トンと巨大である。でもタイタニックの悲劇が世界中に伝わった時、世界最大の客船で、かつて例がないほどの豪華さを誇るなんていわれるが、この話は少々大袈裟であろう。何故なら、タイタニックはホワイト・スター・ライン社所有の客船であるが、タイタニックよりも一年先に完成した同型船オリンピックがすでに航行していたから、タイタニックが処女航海に出るからといって、あれほど騒がれたとは思えない。

 ホワイト・スター・ライン社は当時のドル箱航路だったヨーロッパ、アメリカの北大西洋航路で稼ぐために3隻の巨大豪華客船の建造を計画していて、それらは同型の姉妹船であり、それぞれオリンピック、タイタニック、ブリタニックと命名されたのである。そして、1911年にオリンピック号が完成し、この時に世界最大の豪華客船といわれ、花形航路に華々しくデビューしたと伝わっている。だから、所詮は2番船のタイタニック号がデビューするからといってオリンピック号の時ほど騒がれなかったのでは・・・・と私は勘繰っているのだが・・・・。ただ、オリンピック号が航海に出始めてから、タイタニックに改良が見られ、オリンピック号よりも客室が増えたため総トンで1004トン重くなっているという。

 つまりタイタニックの遭難事故後に、世界最大の客船が処女航海で氷山にぶつかって沈んだという悲劇性が大きな話になり、それらは弱冠、歪曲されて伝わったのではないかと思うのである。だが、現実に1500人以上の人が犠牲になり、海難史上最大の事故であることには間違いがない。とはいうものの、当時のことを覚えている生き証人が、これで誰もいなくなった訳であるが、亡くなったミルビナ・ビーンさんもタイタニックに乗船していた時は生後9ヶ月というから、当然、記憶にある筈も無い。だから。現実問題として、タイタニックの悲劇を伝えられる人はとっくの昔に皆無だったのだ。それにしても大変な海難事故で現場の状況は凄まじいものだったことは予想できる。それにしても97年前の話が、未だにエピソードとして伝わるのは、如何に衝撃的な海難事故であったということなのだろう。
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