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2010.08.30 (Mon)

ほんのりと秋の兆しが?

 今年の暑さはラニーニャ現象が影響していると先日書いたが、ついでに言うとダイボールモード現象も起きているという。このダイボールモード現象というのはインド洋の赤道付近の海水面気温が正常では西部が低く、東部が高いのだが、何が原因か判らないが東部が低く、西部が高くなるときがある。これをダイボールモード現象といい、この現象が起きると日本は猛暑になるという。したがって今年はラニーニャ現象とダイボールモード現象の挟み撃ちで記録的な猛暑になっているということがいえるかも・・・・・・・。でも、相変わらず今日も猛暑だったのだが、帰宅時に職場の室内から戸外へ出るのだが、先週までだと戸外へ出た瞬間にムッとするような気持ち悪いほど熱い空気が身体を覆いつくすのだが、今日は扉を開けて出たものの、意外にも先週ほどの暑さは感じず、いくらか心地よい風が吹いていた。これだけ猛暑だといっても季節は進むのだ。日照時間が違ってくるし、徐々に直射日光の射す角度も違ってくる。これは地球の自転によってこのようになるのだが、酷暑、猛暑、炎暑といってももう8月30日、とっくに盛夏は過ぎている。少しずつだが秋の気配が忍び寄っているのだ。

 帰りはJRの駅から自宅まで10分ほど歩くのだが、やっぱり日が短くなっているし、空の雲も少しずつ装いを変えている。そして、ムンムンとした蒸すような空気が落ち着きつつあり、自宅までの道のりの間も僅かな風がそよいでいた。間もなく自宅に着いて家の中に入る。そして、2階へ上がるや前言撤回したくなる。何だこの暑さは。部屋に入った瞬間、暑さでめまいがしそうだった。2階は屋根が焼けて異様な暑さとなっている。日頃、こんなところで寝ているのだから発汗もするし喉も渇く。よほど外で寝てやろうかと思うが、外にいると蚊に刺される。仕方なく室内で寝るしかないが、室内気温が29℃もあっては寝られやしない。昼間の暑さはしょうがないとしても、熱帯夜だけは勘弁して欲しい。もう、この夏、長い期間、寝不足が続いている。実のところ猛暑日が記録されることよりも、熱帯夜からの解放を小生は待っているのだ。夜中に心地よい涼しい天然の風が室内に注がれるようにならないと熟睡できない。エアコンの冷気は身体によくないし、どうも好きになれない。小生にとってもっとも眠れる気温というのは20℃あたりだろうか。もっと低くてもいいが、個人差はあっても25℃以上あると寝辛いのだろう。毎日、会社に行っても皆、寝不足気味で元気がない。もしかしたらこの猛暑で日本人の労働意欲が失われているとしたら、これは大きな経済喪失ではあるまいか・・・・・・。とりあえず熱帯夜から早く解放されたいものだ。
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2010.08.29 (Sun)

キーンランドC、新潟記念

 暑いの言葉しか出てこないのだが暑い。とても記事なんて書いていられないが、競馬の結果だけでも書いておくとする。

 今日は札幌と新潟でキーンランドC、新潟記念が行なわれた。まず札幌のキーンランドC(G-Ⅲ・3歳以上、芝1200m、16頭)は短距離戦。1番人気はビービーガルダン、2番人気はワンカラット、3番人気はローレルゲレイロだった。結果は次の通り。

 1着ワンカラット 1分08秒4、2着ジェイケイセラヴィ 1/2、3着ベストロケーション 1/2、4着ビービーガルダン 1馬身1/4、5着モルトグランデ アタマ。

 新潟記念(G-Ⅲ・3歳以上、芝2000m、17頭)は1番人気がスマートギア、2番人気がメイショウベルーガ、3番人気がスリーオリオン、4番人気がサンライズベガ、5番人気がナリタクリスタルだったが、上がりの競馬になりゴール前は大混戦。僅か0.2秒の間に8頭が入線するという横に拡がっての攻防だった。

 1着ナリタクリスタル 1分58秒4、2着トウショウシロッコ クビ、3着サンライズベガ アタマ、4着メイショウベルーガ クビ、5着スリーオリオン クビ。

 さて、来月初頭に行なわれる凱旋門賞にヴィクトワールピサとナカヤマフェスタの2頭が出走する。だが、その前に行なわれる9月12日のニエル賞、フォア賞にそれぞれヴィクトワールピサとナカヤマフェスタが出てくるというので注目することにしよう。なお、日本馬の3歳馬の凱旋門賞挑戦は初である。
 
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2010.08.28 (Sat)

ぐうたら生活

 今日の土曜日は休日だったが、まったく怠惰な生活で家に引き篭もっていた。とはいっても朝の8時半には家を出て耳鼻咽喉科に行ってきた。ついでに買い物に行って帰宅するとあとは冷房の入った室内で引き篭もり生活である。これだけ暑いと出て行くのも億劫になる。朝から快晴でというのは何時ものこと。少しぐらいは曇ってくれといいたくなるぐらい晴れている。降り注ぐ陽射しが恨めしい。昼前に何とか汗だくになって帰宅する。

 外出しても医院の中やスーパーは涼しいけれど、その間、僅かな距離でも炎天下を歩かなくてはならない。でもその僅かな距離を歩くだけでも頭から水を被ったように汗で身体が濡れている。炎天下だといった何度あるのだろうか。帰宅して早速、シャワーを浴びたついでに汗で濡れた衣服を洗濯するといった有様であった。

 午後は冷房の効いた室内で昔に読んだ本を引っ張り出してきて読んでいたが、すぐに眠くなってウトウトとしていた。結局、こんな風にぐうたらな生活を送ってしまい趣味に関する記事も滞りつつあるが、涼しくならないと書く気が起こらない。とにかく暑い。暑くてどうしようもない。例年の夏と比べてどうなのかということだが、1番暑い夏は1994年だったと思う。あの時は梅雨らしいものがなくて、5月の末からかいもく雨が降らずで、6月から30℃を突破した日があった。それが9月の10日ぐらいまで続き、もうバテバテという時に雨が降り、それ以降は空気が入れ変わり秋らしくなった。それはそれで猛烈な夏だったが、メリハリが効いていて季節の変わり目がはっきりしていた。でも今年はそのようにはなりすもない。何時までも残暑が続き、涼しくなったと思ったら突然のように寒くなる最悪のパターンかもしれない。でも暑いよりはまだ寒いほうが好きな小生としては、この暑さから早く開放されたいもおであるが、それまではこれといった記事は書けないかもしれないなあ。
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2010.08.26 (Thu)

書くことは何もないが

 残暑お見舞い申し上げます・・・・・といいたくなる。どうもこの猛暑、9月になっても続くとか言ってるが、もうけっこうだ。でもなかなか涼しくなりそうもない。

 この暑いのにもう2学期の授業が始まった高校が何校かあるみたい。本当に勉強、ご苦労さんです。受験生なんかは暑いなんていってられないだろうなあ。受験勉強も追い込みに入らないといけないだろうし、塾や予備校にも通ってるだろう大変でございます。

 ツクツクボウシが鳴いている。でも一向に涼しくならない。でもまだ鈴虫や松虫といった昆虫の音色が聞こえない。この暑さでは虫の方も出番じゃないと遠慮しているのかもしれない。昆虫というと相変わらずゴキブリと蚊は頻繁に現れるが、こいつ等はお呼びじゃない。あの触覚が長くてすばしっこいゴキブリを見ると草履の裏で叩きまわしたくなるが、厄介なのは真夜中の蚊である。ウトウトしている耳元にブーンと蚊の飛んでいる音が聞こえるなあと思ったら、暫くして足元や腕とかが痒くなってくる。今畜生とばかり部屋の電燈をつけて明るくしてから蚊を叩き殺すまで追いかけまわすのだ。小さいからなかなか見つけられないが、一度見つけると両手でパチンと蚊を叩き潰すのだが、敵もしたたかである。なかなかこちらのテリトリーに来てくれない。天井の近くまで上がって飛翔している。この野朗とばかり椅子を持ってきて何とか殺してやろうと見渡したら、今度は障子のところに垂直にとまっている。こうなると手で叩くわけにもいかず、新聞紙を丸めて叩いたが、障子が破れてしまい蚊に逃げられてしまった。残念。

 仕方なく、再び床に就くが、またも汗の臭いをかぎつけたのか耳元で蚊の飛来する音が・・・・・こいつは安眠妨害だ。絶対に殺してやるとまた電燈をつける。そして格闘15分、やっと見つけて2匹も殺す。一匹は小生の血を吸ったのか丸々と肥っている。こいつは血を分けた兄弟だなんて子供の頃に冗談で言ったことがあるが、今回は痒みの原因をつくりやがってとばかり憎しみをこめて叩き潰したのだが、手の平には紅い血がこびりついてしまった。洗面所に行って手を荒い、ようやく寝れるなあと思いつつ横臥したが、またまた蚊が飛来した。何でこんなに蚊が多いのかと調べてみたら、何時もは閉める網戸が全開になっていた。これでは蚊がいくらでも入ってくる。これで頭にきて、蚊取り線香を四分割して煙を充満させてやったら、蚊の死骸がゴロゴロと転がっている。やった!
これで安心して寝れると喜んだが、外を見ると白々と明るくなってきたではないか。何と蚊の安眠妨害により結局は朝まで起きていたというしまらない話である。

 今後は室内に蚊がいないのを確認してから寝ようと思うが、あの小さい悪魔は何処からともなくやってくるから困ったものだ。しかし、夏は暑いだけではなくゴキブリに蚊に、それと喧しい蝉と、苦手なものばかり出てくるから碌なことがない。早く涼しい秋よこい。
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2010.08.25 (Wed)

雨乞いしたくなる

 いいたくはないが暑い。とうとう我が職場の隣で熱中症になり救急車で運ばれた者がいる。男性だが冷房のないところで作業中に倒れたらしい。直接、見ていた訳でもないから詳しくは判らないが、痙攣を起こしていたという。熱中症になるとよく痙攣が起こるというが、汗もかかないというから傍目には判断できないのかもしれない。熱中症になってからでは遅いので、こまめに水分を摂取しといっても塩分も摂らないといけないらしいから、水よりもスポーツドリンクの方がいいとは聞いている。小生なんか今日、午前中だけでスポールドリンクをの入った500ccのペットボトルを1本飲み干し、午後からはやはり500ccのお茶を飲んでいる。それでも喉がすぐにカラカラになるほど今年の夏は暑い。

 帰宅してからでも冷えた麦茶をコップ2杯ぐらいは飲んでいるし、寝る前にも冷えた水(薬缶で沸騰させ冷蔵庫で冷やしたもの)を飲んで寝る。でも夜中に起きて、また水を飲んでいる。いったい1日どれぐらいの量の水分を摂っているのか自分でも判らないほど水分ばかり摂っている。でも汗も嫌になるほどかいているから、それぐらいの量の水分を摂っていないと身体の調子も悪くなるから飲むしかないのだが。それというのも連日の暑さのせいなのだが、もうそろそろ纏まった雨が欲しいところである。昨日は午後の4時過ぎに雷の混じった激しい雨が職場の付近に降ったが、僅かな時間だったので蒸し暑さだけが残った。でも雨が降るというのは嬉しい限りであった。今夏は雨らしい雨が降らず旱魃が心配されるほどだった。それで作夕に降った激しい雨が、我が家の付近にも降っていてくれればと思い帰りの電車に乗ったのだが、残念、我が家の方は一滴の雨も降ってなかった。これだと周囲は雨が降って、肝心要な我が家の地域は雨も降らず、蒸し暑い空気だけが運ばれてきたという。ただでさえ暑いのに、湿った熱気も持ってくるなといいたい。それで我が家の中は暑い空気が漂っていたのだった。もうそろそろ涼しくなってもいい頃なのに、今年の夏は残暑が厳しそうで雨もなかなか降りそうもない。ただ、深夜の11時になってから、遠くで雷鳴が聞こえ出し突如として叩きつけるような雨が降り出した。これで少しは涼しくなるかなと思いつつも今日も暑かった。

 これだけ雨が降らないと冗談ではないけれど雨乞いというものをやりたくなる。まあ苦しい時の神頼みというものだが・・・・・。そういえば京都の太秦に木島神社がある。この神社は歴史も古く、京都に都が移る前からあったとされ、通称で蚕ノ社ともいわれ御祭神の一つである天之御中主神を祀っている。この木島神社は古くから祈雨の神として信仰が強く。小生は嵐電に乗るときでも蚕の社という駅名を良く認識していたので、この駅の近くに神社があるのは判っていた。でもそれが通称で蚕ノ社と呼ばれる木島神社がの事だったとは夢にも思わなかった。でも嵐電の沿線に存在する神社だったとは知らなかった。

 我が家からも比較的に近い木島神社なのだから、一度、雨乞いのため木島神社に寄って雨乞いするのもいいかもしれない。とにもかくにも雨よ降ってくれ。
EDIT  |  21:32  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.08.23 (Mon)

ラニーニャ現象・・・・

 もう処暑も過ぎたというのになんという暑さであろうか。既に大阪では猛暑日が17日もあるという。今後、どこまで猛暑日が増えるのか・・・・・もういらないが。こういったところは猛暑日が大阪の半分ぐらいしかない東京は羨ましいと思う。あちらも暑いが暑さの厳しさでは大阪の方がより上ということになる。テレビの全国ネットでよくアナウンサーが「今日は東京でとうとう気温が33℃も上がりました」なんてよく言うけれど、こちらはそんなの毎日だとテレビに突っ込みたくなるほど暑い。この調子だと9月も30℃以上の日が続くという予報が見込まれているが、もうたくさんだ。

 でも何故、今年は記録的に暑いいのかということになるが、どうもラニーニャ現象の生ではないかといわれている。ラニーニャとはエルニーニョ現象と交互によく起こるとされる現象だが、ラニーニャが起こると日本では猛暑、厳寒等の異常気象が見られるという。それはどういうものかというと東太平洋の赤道付近で海水温度が低下する現象をいうらしい。つまりエルニーニョとは逆になるということであるが、一般的にはエルニーニョ現象の方をよく聞くのだが、共に海洋と大気の相互作用によってこれらは起こるとされているようだが、猛暑だけは起こして欲しくないものである。

 結局は連日の猛暑で書く記事もお粗末で申し訳ないが、これだと9月に入っても全うな記事は書けないかもしれない。なにしろ暑い部屋で長時間もパソコンのキーを叩いていると頭がぼうっとしてくるのだ。つまり思考力がなくなって枯渇するのである。考えるよりも頭が涼を求めているというか、暑さのせいで何をするにも億劫になってしまうのである。今年は夏でも冷房の効いた部屋で記事を書くためにノートパソコンを買ったのだが、どうもウインドウズ7のノートは使いにくい。それで相変わらずウインドウズXP搭載のデスクトップを使っているという有様である。このパソコンが完全に潰れてしまったと言うならウインドウズ7を使うが、まだまだ使える間は、古いパソコンを使い続けるつもりである。だが、それにしても暑い。長時間、この冷房のない部屋に居れないのでそろそろ退散するとしよう。
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2010.08.22 (Sun)

札幌記念

 今日は朝からパソコンのメンテナンスをやっていた。暑い中で汗だくになりながら、どうにか内部を開けて埃やへばりついた汚れをおとしていた。殊に冷却ファンの羽根の部分に埃が付着していた関係からパソコンがすぐに熱を持っていた。このところ連日の猛暑でパソコン自体も熱を持ちやすく、いずれ内部を掃除しなくてはと思いつつサボっていた。どうにか今日、内部をすっきりさせたので動きはいいようだ。

 それにしても暑い。一向に雨が降らない。毎日、暑くてしょうがない。外に出ると地面から照り返しの灼熱と頭からは焦熱の紫外線が全身を襲う。まさに炎暑である。例年、夏は暑いのだが、今年のように連日、情け容赦のない暑さの連鎖は滅多にない。何時もだと夜中には少々、涼しい風が吹く一時があるのだが今年はそれもなし。仕方なく家に居ると朝から晩まで、いや真夜中までエアコンを入れっぱなしである。これだと電気代が嵩むだろうなあとは思うが、蒸し風呂のような室内にいると自殺行為になるからエアコンを入れざるを得ない。でもまだ8月を10日ほど残しているので・・・・・きついなあとは思う。早く涼しくなってくれないかなあと淡い期待をしつつ、9月を待っているのである。

 さて、今日は久々に競馬の記事である。今日は札幌で伝統の札幌記念(G-Ⅱ・3歳以上、芝2000m、16頭)が行なわれた。札幌も暑いといってたが、北海道は気温が上がっても湿気がないから羨ましい。関西の湿度の高い夏と比べると、同じ35℃でも感じ方が全く違うし凌ぎやすい。また北海道の夏を体験しに行きたいものだが、今は簡単には行けないが、何れリタイアした時、夏は北海道で何日か過ごせればと考えている。とにかく関西の夏は地獄である。

 ところで札幌記念であるが、今回は天皇賞馬のマイネルキッツ、ダービー馬ロジユニヴァースが出走してきた。でも1番人気は宝塚記念3着のアーネストリー、2番人気が3歳のヒルノダムール、3番人気がマイネルスターリーだった。

 スタートからドリームサンデーが行き、2番手を勢いよくロジウニヴァースがつける。やや離れた3番手をアーネストリーという展開で、直線に向いて抜け出したロジユニヴァースの外からアーネストリーがかわして勝った。

 1着アーネストリー 1分59秒4、2着ロジユニヴァース 1馬身3/4、3着アクシオン 1馬身1/4、4着ヒルノダムール アタマ、5着ジャミール 1馬身1/4。

 天皇賞馬のマイネルキッツは6着だった。勝ったアーネストリーは実力をつけている。昨秋、アルゼンチン共和国杯2着のあと、中日新聞杯、金鯱賞と連勝、宝塚記念は3着。今回は復調しつつあるダービー馬ロジユニヴァースとの勝負になったが、見事ねじ伏せた。今秋の古馬G-Ⅰ路線は主役を務める1頭と成り得るかというところである。ロジユニヴァースは22㎏の太目で出てきたがどうなんだろう。成長なのか絞りきれてないのか、430㎏を超えているが引張り気味で2番手追走から伸びたが結局は競り負けた。でも復調気配はある。秋が楽しみといえば楽しみだが、この秋は海外のビッグレースに挑戦する馬が多く、どちらかというとそちらの方に興味が注がれそうだ。
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2010.08.21 (Sat)

今日は更新しない

 今からパソコンのメンテナンスをやろうと思うので記事の更新はいたしません。明日もどうなるやら・・・・。とにかく気温が高くてパソコンが熱を持つようなので、中を開けて掃除をするのでおそらく更新難しいでしょう。それでは・・・・・・・・・・・。
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2010.08.20 (Fri)

高校野球の思い出⑤

 1969年春、小生は久々に甲子園へ行った。1961年の夏以来である。前回は親父に連れられてだったが、この時は中学校の級友と行ったのである。ただ、前回と同様、浪商絡みであった。この年の選抜に浪商が久々に出場したので観にいったのである。それは2回戦だったと思う。浪商対三沢の一戦。級友が「三沢って何処?」って聞くほど馴染みのない学校であった。当然、初出場。青森県からやってきた三沢高校だが、白い帽子、白いユニフォーム、緑の文字と緑のアンダーシャツにストッキング。当時、黒か濃紺の文字、アンダーシャツ、ストッキングが当たり前だったから新鮮に見えたものであるが、級友は青森の学校なので、浪商が楽に勝てると思っていたらしい。でも1回戦で三沢は小倉高校を4対2で勝利をものにしている。楽な相手ではないはずだ。浪商は1回戦で日体荏原高校を相手にホームラン3本を含め16対1で圧勝していたから、三沢には勝てると思っても不思議ではなかったし、当時は北海道を含め、青森、秋田、岩手、山形といった東北の学校には勝って当たり前という雰囲気があったことは確かだった。ところがこの三沢高校は強かった。エースの太田幸司投手が本格派で大会屈指の好投手であったし、野手にも八重沢、菊池、桃井といった好打者が揃っていた。浪商は油断してはいけないぞと言っている間に三沢が2点を先取した。浪商は2点を返し延長戦になった。果てしない延長戦である。何回か忘れたが、裏の攻撃で三沢が一死満塁、ボールカウント・ノースリーのチャンスを迎えた。浪商絶体絶命のピンチ。これで浪商は負けると小生も級友も思い込み、帰り支度に取り掛かっていた。するとその時、浪商のピッチャー上田が、絶妙のタイミングで二塁に牽制球を投げた。ランナーは飛び出していてアウト。浪商は最大のピンチを切り抜け延長15回の表に2点を入れ4対2で勝った。でも小生の頭の中に三沢高校という名前がきっちり叩き込まれた瞬間であった。

 その年の夏、あの三沢高校が北奥府(青森、岩手)を勝ち抜いて甲子園にやってきた。あのハーフの本格派投手・太田幸司がより大きくなって甲子園に戻ってきた。この夏、三沢旋風が吹いた。前年が沖縄の興南旋風で、今回は北の三沢旋風か・・・・・・。渋い試合をするのだが、粘りで大分商業、明星、平安、玉島商業とすべて1点差で倒し、まさかとは思ったが決勝に勝ち上がってきた。一方は優勝候補筆頭だった松山商業であった。これは死闘になった。

 試合前は松山商業が勝つと予想した人が圧倒的に多かったように思う。技巧派の井上投手と控えに中村投手がいて、3番樋野、4番谷岡を中心に打線も強力で守備は鉄壁を誇っていた。だが太田投手の速くて切れのある球を松山打線は簡単に打てない。三沢もコントロールの良い技巧派井上投手に巧くかわされている。とうとうスコアーボードに0が18も並び延長戦に突入。でも淡々と試合は進むが両リームとも点が入らない。こういった展開の中で山場がきた。延長15回裏、三沢の攻撃。まず菊池が三遊間を破り出塁。高田が送りバント。ピッチャーの左側に転がるがそれをサードの谷岡がハンブル。これで無死1塁2塁。谷川が送りバント成功で一死2塁3塁。ここで松山商業は次打者を歩かせ満塁策をとる。三沢サヨナラのチャンス。松山絶対絶命のピンチ。井上投手は打者立花のスクイズを警戒してたちまちノーストライク、スリーボール。いよいよ三沢の勝利か・・・・・・。だが次の球がど真ん中のストライク。次の球はやや低めだった。ボールで押し出しサヨナラか・・・・・。でも郷司主審はストライク。ボールカウント2―3。次の球を投じた。カキーンと立花はバットを振った。ボールは井上のグラブをはじく。これで決まったと思ったら、前進守備をしていたショート樋野の正面にボールが来て、それを本塁へ返球。アウトアウトアウト。三沢の菊池は本塁憤死。これで二死になり次の打者がセンターフライで15回裏無得点。

 16回裏も山場が来る。三沢はヒット、エラーなどでまたも一死満塁のビッグチャンス。だが松山の監督一色はスクイズを見破った。見事にスクイズを外しピンチを脱した。死闘は18回終了で引き分け。翌日再試合となった。結果は皆さんはご存知であろう。だから翌日のことは書かないでおく。ところでこの試合、小生は友人と外野席で観戦していたので、とても疲れたがよくぞこんな試合を観れたことに対して感謝したものだった。とにかく1時に始まったのに終わったのが5時16分だったと記憶している。

 さて、ここまで高校野球の思い出を書いてきたが、これで最後にしようと思う。これ以降、小生は噂の江川を観に訪れ、作新学院VS柳川商業の試合を観戦しているし、あの箕島VS星稜の延長18回も甲子園で観ている。まあ、自慢するのでもないが、高校野球史上に残ると言われる試合を何試合か観ていることになる。これを幸運というのだろうか。観にいった試合が凡試合よりも好試合の方がいいのに決まっている。でも観にいく試合が不思議と延長戦になったり、もつれたりすることが多い。一方的にならないでシ-ソーゲームになることの方が多いので、観にいっている小生も驚くが、まさか小生に野球の神がついているのでもないだろうが、行く度にいい試合を見せてもらっている。これは選手に感謝しなくてはならないが、今後、甲子園に行くことも減っていくだろう。何故なら、最近は大味の試合が多くて、かつての小技で点をコツコツと取るような野球とは違いすぎて、10点リードでも今の高校野球は追いついてしまうことがある。それはあの金属バットという打ち出の小槌のせいである。非力な打者でも簡単にホームランになってしまう。これが高校野球の魅力を半減させたと小生は今でも思っている。そら清原なら木のバットでもホームランを打つだろうが、これだけ打高投低になってしまうと野球本来のきめ細かいプレーが疎かになる。そんなことよりもパワーを身につけ、遠くへ飛ばすことばかり指導者は考えているようなところがあり、どうも短絡的すぎるのではないだろうか。野球はホームラン以外にも見所はあるだろうに・・・・・・。

 今後も高校野球は続くだろうが、もう一度だけ観たいのは木のバットで繰り広げられる高校野球である。ホームランの応酬はもういい・・・・・・・・。


小生の拙文よりもこの映像を観てもらったほうが説得力があるだろう。









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2010.08.19 (Thu)

暑い眠い

 今週からまた仕事が始まっているが、相変わらず暑くて暑くてやってられない。今年は夕立もなく通り雨もない。したがって連日連夜の猛暑。毎日、36℃~38℃ぐらいあるではないか。でも昼は我慢するが、夜ぐらいはせめて25℃以下になってくれとの願いも虚しく、これまた連夜の熱帯夜。真夜中でも30℃越えているから夜の清々しさは何処にもない。兎に角、暑い。昼名は冷房の効いた職場にいるからいいけど、帰宅してからは如何に室内を涼しくするかに窮してる状態だ。帰宅して我が家の2階に上がるため階段を上っていくが、途中からムッとした熱気が顔や身体に感じ取れる。2階の部屋に入ろうものなら、まるでサウナ風呂のような暑さが立ち込めていて、急いで窓を全開するが外の熱気も凄いので、部屋の中が一向に涼しくならない。顔から汗が滴り落ちて、タオルで拭うがひっきりなしに汗が噴出してくる。2階の屋根が焼けているので、天井に近いところがとんでもない熱気を帯びているから部屋中が暑いのだ。しょうがないから扇風機を持ってきて天井に向って風を送る。こうでもしないと部屋の熱気が何時までも充満するからである。

 こんなことをしたって無駄な抵抗なのだが、就寝の時は扇風機の風を弱にしてタイマーをかけて寝るのだが、それでも暑い。そこで水枕に水と氷を入れて頭を乗せると気持ちはいいが、これも1時間ほどで水枕がぬるくなる。でもなかなか寝付けない。すると喉がカラカラになってくるので、冷えたお茶を飲みに1階の冷蔵庫のところまで行って喉を潤す。時計の針は何時の間にやら午前3時・・・・・・・。この間、一睡もしてないのだ。この後は何とか寝ようと努力するが、鼻が詰まっていることもあって、暑さとイライラでさっぱり眠れない。外はまだ暗いが、新聞配達のバイクの音がする。午前4時50分・・・・・。寝れない、寝れないでとうとう朝が来た。寝てないから目はショボショボして開けられない。身体はだるい。このところ毎日、こんな調子である。毎日、寝不足で体力の限界にきているが、何とかして暑い夏を乗り切らなくてはならない。どうやら今年の残暑も例年以上に厳しいらしいが、大自然の流れに沿って生活していくしかないのだ。所詮は非力な人間であるからして、暑いは暑いなりに身を任せていくしかないのだろうが、もうソロソロ夏にも飽きた、早く虫の音色が聞きたくなってきたが、まだツクツクボウシも鳴いていないし、クマゼミはまだ鳴いているし・・・・・・。もう、どうでもいいわ。早く心地よい風が吹く季節になってくれ。夏はもういらない。
EDIT  |  21:06  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.08.17 (Tue)

ヨーグルトを食べる

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 お盆が過ぎても驚異的な残暑が続いている。夕立もないから日に日に暑さが増すような状況に辟易する。せめて就寝する時間には涼しくなってくれればと淡い期待をするけれども期待を裏切るほどの暑さで、連夜の熱帯夜でとても安眠できたものではない。あまり暑いから夜中に何度も目が覚めるというより寝れないのだ。暑いから起きては冷たいお茶ばかり飲んでいる。あまり冷たいものばかり飲むのもどうかなあとは思いながらも、発汗で喉が渇くから飲まずにはいられない。でも、睡眠中はいったいどれだけ汗をかくのかしらないが、敷布団の湿り方やTシャツ(夏はTシャツを着て寝ているので)の濡れ方を見ると相当な汗をかいていると思われる。

 毎日、毎日、暑いので水ばかり飲んでいるが、塩分も汗と共に出て行くから、塩分も摂取しないといけないだろうし、夏バテしないようにと食事の内容も考えなくてはいけないのだろうが、ついついあっさりした物ばかりを食べてしまう。豆腐や冷やしうどん、冷やし素麺、西瓜、こんなのばかりでは栄養充分とはいえないかもしれない。でも冬のように何でも美味しく食べられるというものでもないから困ったものである。自分では気がつかないが、どこか夏負けしているのかもしれないなあ。そもそもアイスクリームを食べようなんていう考えは以前なら微塵もなかったのに最近はよく食べる。これだと腹の中が冷えっぱなしである。身体にはよくないかもしれない。どこで思いついたのがヨーグルト食べる事にしたのだが・・・・・・・あまり美味しくない。

 このところ暑さのせいで冷たいものばかり食べているから帳の調子があまりよくない。それでヨーグルトを食べようと思いついたのである。ヨーグルトは乳に乳酸菌や酵母を混ぜて発酵させることによって出来た食品である。ヨーグルトに含まれる乳酸菌というの摂取することにより整腸作用があるといわれている。ヨーグルトを摂取することにより善玉菌とされる菌が増殖し有機酸が増加する。また逆に悪玉菌やアンモニアが減少する。その結果、腸内環境が改善されるという。それでヨーグルトを食べる事にしたのだが、400g入りのカップを全部食べ終わるのに苦労した。なんだか粘りの或る豆腐のような食感だが、あまり美味しくない。酸味があってやや苦味も或る。しかし、良く考えてみたら発酵食品である。癖になれば食べられるかもしれないと食べ続けたが味が薄いから参った。そこで何か美味いヨーグルトはないかと色々、試してみた。そこで巡り合ったのが、『カスタードバニラ』のヨーグルトである。

 長野県の松本にある安曇野食品工房が製造しているヨーグルトである。乳製品、砂糖、卵黄、バニラの香りで作ったカスタードのような優しい味わいのヨーグルトと謳っている。確かに卵黄のこくとバニラの風味が混ざり合って、さっぱりとした食感と酸味の少なさとまろやかな味に仕上がっている。このヨーグルトは、はまる人にははまる味だ。栄養成分表示を見ると100gあたり、エネルギーが110kcal、蛋白質4.0g、脂質3.2g、炭水化物16.2g、ナトリウム39mg、カルシウム106mgでヨーグルトにしてはカロリーはやや高めかもしれないが、1カップで400gあり、ファミリーサイズだという。だが、私は1回で全部食べてしまう。他のヨーグルトなら3日はかかる量なのに、このヨーグルトは10分もかからない間に食べきってしまうから、私には合っているのだろう。それで最近、よく買うのだが、何処のスーパーでも売っているという訳でもなく、見かけたら買うようにしているのだが、私がヨーグルトをこれだけ食べるようになるとは自分でも思わなかった。ただし、このヨーグルトを食べたからといって整腸作用により調子が良くなったかどうかは判らないけども・・・・・・・・・・・。

EDIT  |  20:54  |  食・飲  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.08.16 (Mon)

高校野球の思い出④

 1964年から暫くの間、高校野球の試合を真剣に観ていなかったような気がする。所々は観ていたのだろうが、もう小学生の高学年になっていただろうから、夏休みといえば、ほとんど家にいなかったからかもしれない。だから、この当時の決勝戦も覚えがない。ただし1964年の春だけは観ていた。確か徳島海南と尾道商業の決勝戦で徳島海南が勝ったのだが、最後はピッチャーゴロで終わり、徳島海南の大きな投手がボールを捌いて一塁へ送球してゲームセットだったと記憶している。その時の徳島海南の投手が、池永と共に西鉄入りしたが、伸び悩み、結局はプロゴルファーに転向した尾崎将司だったことは後に知ったのである。ちなみに尾道商業のピッチャーが小川邦和(巨人―米マイナー・リーグー広島)だった。

 1964年の夏は京都の平安を応援していたので平安以外の試合は観ていなかったように思う。この時の平安のキャッチャーが後に広島入りして鉄人の異名をとった衣笠祥雄である。平安は残念ながら準々決勝で敗退した。決勝は意外な高校が進出したと当時は思った。準々決勝で平安を破った高知高校と早鞆高校である。高知高校は少し位は馴染みがあったが早鞆高校って何処だと思った。調べると山口県で、地元では強豪で通り当時は下関商業が強かったからなかなか甲子園出場まで辿り着かなかったらしい。なるほど、それで2対0で高知が勝ったのだが、この時の4番打者だった有藤通世(ロッテ)は1回戦で頭に死球を受け病院送りになっているのに優勝したと話題になった。

 1965年の春もあまり記憶がない。決勝は岡山東商業対市立和歌山商業の対戦になり、岡山東商業が延長13回にサヨナラ勝ちしたのであるが、この時のエースが後に大洋に入り剃刀シュートでならした平松政次である。また市立和歌山商業の主砲が阪神入りして大活躍した名遊撃手の藤田平である。その年の夏はほとんど観ていない。でも三池工業が初優勝したということは記憶にある。決勝で木樽投手(ロッテ)銚子商業を2対0で破って久々、福岡に優勝旗が渡るが、3年前の三池炭鉱大爆発事故で痛手を被った大牟田の人が歓喜したということをニュースが伝えていたものである。尚、三池工業のエースは南海に行った左腕・上田卓三である。また、この時の監督が後に東海大相模で指揮を取る原貢であった。

 そして1966年であるが、この年は中京商業が作新学院以来の春夏連覇を達成する。春の大会ではさほど強いとは思わなかった。準決勝の宇部商業戦で延長15回お死闘を演じ5対4で中京商業は決勝に進出。相手は土佐高校。中京の加藤と土佐の上岡の投手戦となり1対0で中京商業が勝った。夏は勝ち上がっていく間に憎たらしいほど強いと思うようになった。投手の加藤英夫、捕手の矢沢正、遊撃手の平林二郎、右翼手の伊熊博一あたりは名前を覚えている。独自の襟付きユニフォームにCHUSHO(今のユニフォームとはかなり違っている)と書かれた文字がテレビの前で躍動していた。決勝はその中京商業と松山商業という名門同士の対決となった。あいにく小生は決勝戦の日にキャンプへ行っていたから、この試合を観ていないが高校生の姉が観ていた。姉は松山を応援していたみたいだが、3対1で中京商業が春夏連覇を達成した。最後は三振で終わるのだが、最後の1球を投げる時、ファンの女の子が「加藤くーん」と声をかけたらしい。そこで加藤投手は振り返って軽く手を振ってニコッと笑い最後の打者を三振にとったのだが、姉がにやけていると憤慨していた記憶がある。結局、加藤英夫は1人で春も夏も投げきって連覇を果した。ここらが作新学院との違いであろうか。ところで、この時の中京商業もいい選手が揃っていて、加藤(近鉄)、矢沢(巨人)、伊熊(中日)、平林(阪急)と4人もプロ入りした。しかし、矢沢以外はほとんど活躍できずに終わった。

 1967年も高校野球はほとんど観ていない。春は津久見が優勝した。吉良という後に阪神入りしたカーブの鋭いピッチャーが投げていたなあ。夏は習志野が優勝した。これは意外だった。この大会では津久見を破って出場した大分商業に河原明(西鉄)という大会ナンバー1の投手がいて、当然、本命と言われていたが、その河原がやはり優勝候補だった春の準優勝校・市立和歌山商業に準々決勝で滅多打ちを喰らい19対5で敗れてしまったのである。結局、その間隙をついて習志野は勝ち進んだ。石井という牽制の巧い投手がいて、準決勝では連覇を狙う中京高(この年から中京商業から中京高校に名称が変更になった)から、見事な牽制球でアウトの山を築き、3対2で習志野が勝った。なにしろ走る中京が走れなかったのだ。決勝は習志野と市立和歌山商業を接戦で倒した広陵との対戦であった。この試合は習志野打線が広陵の2年生投手・宇根を攻略。池田の本塁打などを含め7対1で勝利した。

 翌1968年の春もほとんど小生は高校野球を観ていなかった。優勝も初出場の大宮工業であった。布施章という歌手と同じ響きの強打者がいて本塁打を2本打っていた。でもこの大会で小生が注目した選手が1人いた。東尾修である。初出場の箕島高校で4番兼エースであった。1人で打ち、1人で投げて活躍した。だが準決勝で大宮工業に3対5で敗れる。決勝は大宮工業と尾道商業の対戦であった。初回に尾道が2点を先制するが、大宮工業が逆転し3対2で初優勝した。その年の夏も当初、あまり観ていなかった。だが、小生の姉が高校3年生ということもあり、姉がよく観ていたので覚えている。この年の夏は興南旋風が吹き荒れた。例年、弱い沖縄の高校があれよあれよと準決勝にまで進出したのである。一方、優勝候補だった大宮工業は津久見に敗れ、津久見も盛岡一高(校歌が軍艦マーチのメロディの高校と話題になった)に敗れ、何が何やら判らなくなってきたが、その盛岡一高を興南が倒したということだった。そんな中、初出場ながらサイドハンドの好投手・丸山を擁し確実に勝ちあがっていったのが大阪の興国だった。また1年生エースの左腕・新浦で勝ち進む静岡商業。前年の準優勝校の広陵も宇根投手が健在だった。

 しかし、この大会の1番の注目は沖縄の興南がどこまで勝ち進むかということだった。とうとう準決勝まで進み、優勝するのではと思った人も多かった。そして準決勝は興南対興国になった。結果はあっけなかった。1回から興国の猛打が爆発、14対0で興国が圧勝。沖縄の夢は破れたのである。一方、静岡商業は倉敷工業に勝ち決勝進出。決勝は投手戦になり1対0で興国が初出場初優勝を達成した。
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2010.08.15 (Sun)

氷菓を食べる

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 盆休みの最中だが暑くてだらけきっている。室内も暑いのだが外へ出ると炎天下でたちまち汗だくになる。冷房の効いたショッピングセンターに行ってもいいが遠いし買うものもないので行く意味もない。とにかく郊外とはいえ家の周囲には民家以外は何にもないというところに住んでいるので暇を潰せるようなホームセンターや大型書店、それに映画館、図書館となると電車に乗って行かないといけない。それでやむを得なく家の中でエアコンのある部屋に入りびたりで本でも読もうと思うが、眠くてしょうがない。夜も熱帯夜なので寝れなくてそのツケが回ってきているのだろう。とにかく冷房の効いた部屋にいると心地よくて眠くなる。これでは本なんか読んでいられない。とはいっても本を読まないとなると何をしようかということになる。テレビは相変わらず下らないし、音楽も聴く気が起こらない。いずれにしろ夏は何かにおいてやる気が失せてしまう。おそらく人間が動きやすい気温は20度以下だろうし、室内で調べ物や読書や、それ以外のことをやるにしても適温というのは当然にしてあるだろう。そういった意味では30℃以上というのは、物事に対してやる気を失わせる気温であることは確かである。じっとしていても汗が出てきて、額からタラタラ流れてきた汗が目に入った段階で、もう何もかもやめてしまいたい気になる。

 仕方なく冷房の効いた部屋で映画のDVDでも観ながら何か冷たいものでも食べたくなる。小生はこのところ抗生物質を飲んでいる関係でアルコールを長いこと控えている。それでその代わりというのでもないが、よく氷菓を食べるのである。高価な物ではなく所謂、駄菓子に近い氷菓の方がよろしい。ジェラードやら高級アイスクリームなんてものよりも、近所のコンビにで売っているような物がいい。アイスキャンディー、アイス最中、アイスクリンといったような類のものがいい。

 でも氷菓なんて今まであまり食べなかった。夏といえばビールを飲んで、たまに酎ハイというのが相場だったが、アルコールを控えている身としては、口の渇きを癒すのに何か代わりの物が欲しくなる。でも外ではアイスクリームを食べたことがない。サーティワンだとかハーゲンダッツなんて女ばっかりだから大の男は入り辛いし、日頃は甘党ではないから食べようとも思わないのだが・・・・・・。家でぼんやりすると氷菓が何故か食べたくなる。

 そういえば小学生の頃だったが、夏休みになると朝の6時半に住宅街の中にある広場に集合して、ラジオ体操というものに参加していた。小生の住んでいたところでは、8月の頭から半月ほど、毎日、ラジオ体操を行なうのだが、参加した証に証明斑を紙のカードに捺してもらうのである。それで最後の日に名糖のホームランバーというアイスバーを貰うのである。銀紙で包まれたアイスバーである。長さは7、8㎝ぐらいだったろうか。白いバニラ・アイスクリームを固めたような角型の氷菓だったが、これを舐めて味わうのだが、あっという間に無くなって平たいバーが姿を現す。するとバーの表面にヒット、二塁打、三塁打、といった文字が打ち込んである。それで本塁打(ホームラン)が出ると当りで、もう1本ただで貰えるのだったが今でもあるのかなあ。

 子供の頃の思い出としては、そのホームランバーが氷菓の中では1番印象が強い。その後は色々な物が出てきては消え、出てきては消えているようだが、アイス最中や小豆アイスは根強い人気を誇っているようだ。それと、他の思い出としては、かき氷をよく食べた。氷と書いた暖簾が店の前に垂れ下がっていて、其処へ行くと透明の容器にてんこ盛りの氷にみぞれなり、イチゴなり、レモンなりの蜜をかけ、それをぺらぺらのスプーンで食べるのだ。素朴な食べ物だが、夏になると必ず食べていた。本当に病みつきになるというのはああいうものだ。それも長い間、食べてないな。今はフラッペとかいうのかな。もっと色々と凝っていて、昔の素朴なカキ氷とは違っているような気がするが、どうなんだろうか。

 でも氷菓子ばかり食べているとお腹をこわすからやめなさいと親に言われても食べに行ってたという記憶がある。あの頃は、ささやかな楽しみだったのだというつつ、今日は氷菓を買ってきて食べたが、歳をとっても昔、好きだった物は今でも格別、美味しく感じられるものだ。やはり日本人である。氷関係の氷菓の方が乳製品関係の物よりも小生は好きだなあ。となかく暑いから、氷菓を食べて夏を乗り切るしかないか。腹をこわさない程度に。
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2010.08.14 (Sat)

高校野球の思い出③

 1961年夏、初めて甲子園球場に行き高校野球というものを認識したが、翌、1962年春、夏ともに高校野球を意識したということはない。まだ小学校低学年だったし遊ぶのに忙しかったのだ。でも春の大会で作新学院が優勝し、その勢いで夏も優勝したということは覚えている。当時、史上初の快挙でテレビや新聞が大きく報道していたような記憶がある。なにしろ過去、多くの学校が臨んで達成できなかった大記録である。ただ親父は前年の浪商や2年前の法政二高ほどの強さはないとボヤいていたことを思い出す。でも偉業は偉業であろう。でも順風満帆に事が成し遂げられたのでもない。とにかく八木沢壮六というエースが相手打線を抑え、打線はワンチャンスを生かして最少得点数で逃げ切った試合の連続で春を制した。でも夏の大会直前にエースの八木沢が赤痢にかかり隔離されてしまったのである。そこでやむなく控え投手の加藤斌(たけし)がマウンドに上がった。

 夏の大会、作新学院は春よりも打線が強化されていて中野、高山、大橋等が鋭い打球を飛ばしていた。1回戦は気仙沼を相手に延長11回までいき2対1。2回戦は打線が火を噴き慶應相手に7対0。準々決勝も打線好調で岐阜商業相手に9対2。でも準決勝は中京商業に2対1。どうにか決勝へ駒を進め、久留米商業との決勝戦。久留米の伊藤と作新の加藤との投手戦になった。7回表まで0が並び、7回裏作新の攻撃。伊藤レフト前、敵失のあと、バントヒットで無死満塁となった。でも久留米の伊藤投手が踏ん張り2死にこぎつける。ここで作新は中軸打者の中野。中野は巧くボールを捉えた。球は春夏連覇の夢乗せて三遊間を抜けた。こうして作新は1点を取り、加藤が残りを抑えて1対0で見事に史上初の春夏連覇を達成したのである。

 過去、幾多の強豪が出来なかったことを、それまで無名の北関東の学校が初めて達成した。当時、親父が言っていたように、けしてずば抜けたチームではなかったかもしれない。薄氷を踏むような勝利も多く粘りで勝ち上がった。でもチームの纏まりがよく、殊にエース八木沢が赤痢で倒れてからはチームの結束がさらに上がったという。高校野球というのはスーパースターがいたから強いというのでもない。やはり9人が心を一つにしないと勝てないということの見本のようなチームであった。ただ残念なことに、夏の優勝投手だった加藤斌は中日ドラゴンズに入団した後、1965年の正月に交通事故で亡くなった。まだ20歳の若さだった。

 翌、1963年(昭和38年)の春は下関商業が優勝した。このチームは強かった。この年から私は高校野球のテレビ観戦をよくするようになったのだが、下関商業には尾崎行雄以来という本格派の好投手がいた。2年生の池永正明である。上背はないが伸び上がるフォームから投げ下ろされる速球は威力があり超高校級であった。この春、下関商業は1回戦で強豪・明星を5対0で倒し、次の2回戦は海南だったが延長16回3対2と辛勝。準々決勝、御所工業に3対2、準決勝、市立神港に4対1と全て近畿勢ばかり相手に勝ち抜いて決勝に進出。決勝は何と北海道代表の北海である。しかし、初めて下関商業は打線が活発になり、池永も好調で10対0の圧勝で優勝した。

 この年の夏、下関商業は優勝候補筆頭として甲子園に乗り込んだ。当然、作新学院に続いての春夏連続制覇がかかっていた。この年は45回の記念大会で、参加校48校、あまり多いので西宮球場も併用された。下関商業は1回戦、富山商業を相手に打線は湿ったが池永の好投で1対0で勝つ。でも2回戦の松商学園戦でアクシデントが発生。池永がランナーの時、ヘッドスライディングをして左肩を脱臼してしまう。池永は左肩を固定して、この試合を5対0で完封してしまう。次の3回戦は沖縄の首里ということで池永は温存(この当時の沖縄の学校はレベルが一段下だったので・・・)。それでも8対0で快勝。準々決勝の桐生戦から池永が復帰。2対1で勝ち、準決勝で今治西と対戦。苦戦して3対2と勝ちいよいよ決勝戦。

 だが打倒、池永に燃える高校があった。明星である。春の大会の初戦で池永に手も足も出なかった明星。監督の真田重蔵は夏に向けて猛練習することにした。真田というと戦前、夏の大会を2連覇した和歌山の海草中学のエースである。前年、豪腕・嶋清一投手で優勝した翌年、真田投手で優勝した。その後、真田はプロ野球入りし、戦後は松竹ロビンスで主戦投手を務め、さらには大阪の明星高校の監督になった。だが浪商の全盛期に甲子園出場を果せず、ようやく1963年に甲子園出場となったが春で下関商業にひねられてから猛練習を敢行。当時、明星は学校の方針でクラブ活動の時間制限を行なっていた。進学校に転換するための処置であったという。真田はこれでは甲子園で勝てないと、無理を承知で練習させたという。こうして明星は大阪予選を勝ちあがり甲子園に乗り込んだ。

 1回戦は不戦勝。2回戦は大垣商業を6対0で倒し、3回戦は堀内恒夫(巨人)が控えにいる甲府商業を11対0。準々決勝は九州学院との対戦、逆転サヨナラ、4対3で勝利。準決勝では横浜高校を相手に5対0。こうして決勝に進出。決勝は下関商業対明星の顔合わせになった。

 1回表、真田は先頭打者の片山にバント奇襲を命令。これが成功した。左肩が万全でない池永は焦り下関商業の内野守備が乱れた。あっという間に2点が入り明星がリード。でも
2回以降、池永は立ち直り揺ぎ無いピッチング。明星の先発、堀川も下関商業を0に抑える。だが6回裏、池永が三塁打、綿野が二塁打の連続長打で1点を返し、なおスコアリングポジションにランナーがいる。ここで真田は堀川からリリーフの角田へチェンジ、角田が見事に後続を三振にとり、とうとう2対1で明星が優勝した。残念ながら下関商業は春夏連覇にならず池永投手が号泣した。池永の号泣は女性週刊誌に掲載され彼は人気者となった。でも翌年、3年生になったものの池永は甲子園に出れず、明星も4番の和田(阪神)が抜けてチーム力が低下した。

 池永は卒業後、西鉄ライオンズに入団。いきなりの20勝で尾崎以来の高卒大物ルーキーといわれたが、1969年の西鉄黒い霧事件に巻き込まれ1970年、プロ野球永久追放の処分が下った。この事件はまことに残念なことであり、池永がその後もプロ野球で現役を続けられれば間違いなく200勝投手になっていただけに・・・・・・。何と無念なことであろうか。
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2010.08.12 (Thu)

高校野球の思い出②

 今日は朝から台風の影響で雷は鳴るは雨が激しく降るはで、耳鼻咽喉科に行くつもりだったが仕方なく日を変更した。日本海を北東に向って進んでいた台風が近畿に1番近づいたのが今朝の6時頃だった。上陸していないので直接の影響はないが、それに伴った雨が激しく降り、午前9時頃までは雨が降っていた。でも甲子園では早目に雨が上がったのか、試合時間を遅らせて敢行したらしい。さて、昨日は高校野球に初めて行くまでの話をしたが、今日は、その試合のことを書いてみるとする。

 1961年の夏、親父に連れられて甲子園にやってきた。それで、その日に観た試合は法政二VS浪商の試合である。法政二というと神奈川の強豪。田丸監督という近代的ベースボールの実践者が監督の時代にメキメキと頭角を現し、1960年に最強チームを率いて甲子園にやってきた。この年、法政二高は圧倒的強さで優勝し戦後最強とまで言われた。1961年の春にも優勝。戦後初の夏春連覇を達成。そして1961年夏、圧倒的強さで神奈川を制し史上初の春夏連覇、また夏春夏の3連覇がかかっていた。

 一方の浪商は古くからの大阪の強豪である。戦前から強く、浪華商業(なにわしょうぎょう)時代には選抜で2度、選手権で一度優勝している。また送り出した名選手も多く、平古場、山本八郎、勝浦、坂崎、樋口、張本らがOBである。もっともその頃、私は法政二も浪商も知るはずがない。親父が話していたのを記憶しているが、とにかく高校野球史に残る試合になるかもしれないようなことを言っていた。事実としてこの試合は三度目の対決であった。前年の夏、法政二高が優勝したとき、浪商は2回戦で対決している。浪商は1年生エース、ハト胸、でっ尻の体型から物凄い剛球を投げる尾崎行雄投手が7回まで、強打の法政二打線を0に抑えていた。でも法政二高の2年生エース柴田勲のドロップ(大きなカーブのこと、当時はドロップといった)とスライダー、外角の速球を巧に使い分ける投球に浪商も手が出ない。互いに0対0だったが、8回に疲れの見える尾崎を法政二高がたたみ掛けて一挙4点を奪い勝ち、そのまま優勝まで突っ走る。

 翌1961年春、法政二高と浪商は再び準決勝で対決した。柴田は3年生、尾崎も2年生になっていた。この時は浪商が先制した。でも、その後に法政二が尾崎を巧く攻め、1点ずつ小刻みに得点し、3対1でまたも法政二高が勝ち、その勢いで決勝も快勝。戦後初の夏春連覇を達成した。こうして、因縁の対決は三度目を迎えていたのである。

 ところで、この試合のことを私はよく覚えていないのだが、とにかく尾崎の投げる球の速さだけは覚えている。なにしろ一塁側スタンドの上の方で観ていたのだが、球が見えないのである。投げたと思ったらあっという間にキャッチャーのミットの中。砂塵が舞う剛球と形容されたが大袈裟ではなかった。ロッキングモーションという手を2回振り下ろす独特のワインドアップからふりかぶるや、やや横手から出てくる右手が撓ると白球が唸りをたてて向って行くといったような印象である。当時はスピードガンがない時代なのでどれ程のスピードが出ていたかは判らないが、未だに最速のピッチャーだという人がいる。そこで尾崎の東映フライヤーズ時代の映像を元に分析した人がいて、その結果、159㎞出ていたということらしい。尾崎はこの年の夏、優勝投手になるのだが、2年中退でプロ入りし、1年目からいきなりの20勝で新人賞。当時の大毎のミサイル打線の中心打者である山内や榎本がボールになかなか当らなかったことを考えると、横浜高校の松坂以上の凄さがあったのではないだろうか。それほど印象度があり怪童の名を与えられた選手は、後にも先にも中西太と尾崎行雄だけである。

 話は長くなったが、この日の試合について語ろう。1回の裏、法政二高は先制した。一塁に柴田をおいて、次打者との間でエンドランが決まった。球はレフト前に飛び、レフトの野手が緩慢なプレーをし、その球を二塁に返球した。その間、一塁走者の柴田は俊足を活かし一気にホームまで生還。浪商は唖然とした。この時、緩慢なプレーをした左翼手が高田繁である。野球センスがあり、この大会から1年生ながらレギュラーに抜擢されたのだが、柴田の抜け目ない走塁を予感していなかった。この時の屈辱から這い上がり、やがて巨人入りしてからは名外野手として名を成すようになる。余談だが、この時のライバルだった柴田も巨人入りして、高田と共にセンター、レフトを長い間守っていたことは、周知の通りであろう。

 こうして法政二高は1点を先制。さらに4回、またも制球の乱れた尾崎を巧く攻め2点目を法政二高が入れる。こうして2対0のまま、とうとう9回表となりそれも二死である。あと一人の打者を抑えれば法政二高は史上初の春夏連続優勝をかけての決勝進出である。でも打倒法政二高の執念に燃える浪商は、そこから粘りを見せる。まず3番の住友がヒット、4番の前田もヒット。勝ちを意識した柴田は投げ急いだようだ。二死1塁2塁で5番バッターに回ってきた。それが尾崎であった。尾崎はこの頃、カーブしか打てず、これまで柴田に対し10打数0安打だった。でも必ずカーブを投げると信じて待っていた。柴田も当時の高校野球の水準から言うと超高校級のピッチャーであって、速球のスピードは尾崎ほどではないが速かった。そこへカーブとスライダーを投げ分ける巧みなピッチングで相手を翻弄してきた。そこでカーブを巧く叩いた尾崎の打球は三遊間に飛んだ。二死だったのでランナーはスタートを切っていたこともあって一気に二者が生還した。同点となった。こうなると追いついた浪商側が俄然に勢いずいた。延長11回表、浪商の攻撃、連打で1
、2塁とし、次打者が打った内野ゴロで併殺を狙ったが、慌てたショートの長嶋が1塁へワンバウンドの送球をしてしまい打者はセーフ。その間にランナーは生還してしまう。さらに尾崎が外野へ犠牲フライを上げ追加点。その裏の法政二高の攻撃を尾崎は抑え4対2で雪辱した。さらに、浪商は決勝に進み、和歌山の桐蔭高校を相手にシャットアウト。とうとう念願だった真紅の大優勝旗を手にしたのである。

 ところでこの頃の両チームは凄いメンバーが揃っている。法政二は柴田(巨人)、幡野(阪神)、是久(東映)、的場(大洋)、五明(法政大監督)、村上(南海、サンフランシスコ・ジャイアンツ)等。一方の浪商は、2年中退でプロ入りした尾崎(東映)を始め、大熊(阪急)、住友(阪急)、大塚(大毎)、高田(巨人)等。対戦した両チームともこれだけの選手がプロ入りしている。だから両チームともこれだけ強かったのである。お互い対戦して勝った方が優勝している。共に対戦するまで絶対に負けなかったのである。それほど図抜けていた2校であったといえよう。最近の高校野球でこれほど一つのチームからプロ選手を送り出したといえば、1987年に春夏制覇したPL学園(立浪、片岡、野村、橋元、宮本)ぐらいしか思い当たらない。それなのに超高校級の選手をこれだけ擁したチームが同じ年に2チームも現れるなんて稀有なことである。

 しかし、これだけ全盛を誇った両校だが、その後、夏の甲子園から縁がなくなってしまう。法政二高の名監督・田丸仁はプロ野球入りして1966年には東京オリオンズ(現ロッテ)の監督に就任。それ以来、法政二高は神奈川予選も勝てなくなった。一度、1982年に出場したがかつての強かった法政二高ではなかった。また、大阪の強豪だった浪商も夏の大会に出れなくなった。その後の大阪は明星、大鉄、近大附属、北陽、興国、PLが浪商に替わって出場するようになり、ドカベン香川と牛島コンビで復活したのが18年ぶりのことであった。でも、それ以降は全く出場できず、やがて大阪はPLの天下となり、その後には上宮、そして大阪桐蔭の躍進。浪商はすっかり影が薄くなってしまった。今年2010年の夏、それこそ31年ぶりに大阪府予選の決勝に大阪体育大学浪商高校と名前が変われど、昔のユニフォームそのままに進出して懐かしかった。

 あの49年前の死闘から大阪対神奈川代表は名勝負を繰り広げるようになり、その後も何度か対戦があるようだ。過去、春では16回の対戦で大阪が9勝、神奈川が6勝、1引き分け。夏の大会は10度の対決で大阪が6勝、神奈川が4勝。大阪がリードしているが、最近は大阪の中学を出た多くの有力選手が遠方へ野球留学するために大阪の高校が弱体化していると問題になっている。今後、過去の名勝負が繰り広げられたようにはいかないかもしれないが、1961年の夏観た浪商VS法政二の試合は、木製バット時代の高校野球名勝負として必ず語られる試合なのである。
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2010.08.11 (Wed)

高校野球の思い出①

 台風が近づいている。盆の直前に来るとは何ともお騒がせな台風である。飛行機など欠航するだろうに困ったものだなあ・・・・。とはいえ自然の猛威には人間は非力である。ただ無事に被害もなく台風が通過するのを待つばかりである。それはそうと今、甲子園の高校野球が行なわれている。日本の風物詩となって何10年・・・。NHKが生放送するから昔から人気はあった。でもこのブログ上で私は高校野球のことをあまり讃美しない。その理由は何度か語っているので今更、言いたくもない。でも高校野球が、日本人にこれだけ浸透してしまったのは何故だろうと考えてみた。それはまず故郷の代表だということ。学校を出て、就職すると都会に出る人が多い。彼らは故郷を背にして右も左も判らない大きな街に出て、知らない人が大勢集まったところで暮らすのだ。でも故郷を思う心は常に或る。そこで夏になると故郷を代表して高校野球が始まるのだ。たとえ自分の母校ではなくとも、故郷の学校だということで応援に熱が入る。そして、次第に忘れていた故郷愛というもの甦るといったことが毎年、繰り返される。これが高校野球ではないだろうか。

 それと負けることが許されない。一度負けると姿を消す。全国で最後に残った高校だけが真紅の大優勝旗を手にする。つまり負けると終わりといった心理状態から選手は懸命にプレーする。たとえ大量にリードされていても、ゲームセットになるまで諦めない精神。最後まで全力でプレーする。結局、これが高校野球を観ている者に感動を与えるのである。彼らの一生懸命さが、やがて名試合を作るといっても過言ではない。

 そこで私が幼少の頃から観てきた高校野球について思い出を語ってみたいと思う。そこで取り敢えず高校野球の負の部分は多いが、今回は目を瞑って、印象に残った思い出だけを語ろうと思う。

 私が高校野球を意識したのは家にテレビが入った頃だ。昭和30年代の前半だったが、あの頃はまだ各家庭にテレビはなかった。それで近所のオッサン(若かったと思うが幼い私から見たらおっさんである)が、我が家に来てテレビを観ていた。それが高校野球だった。ちょうどプロ野球では長嶋茂雄が新人でデビューし、プロ野球人気に火がついた頃ではないだろうか。でも私は幼かったので野球を観てもさっぱり判らなかった。

 それから数年して、ある程度、私は野球のルールが判るようになっていた。そんな夏休みである。私は小学校に上がるかどうかといった年齢の頃である。好奇心旺盛の頃といえばいいだろうか。無趣味であるが相撲と野球観戦だけが好きだった親父に甲子園の高校野球を観に連れて行ってもらったのである。これがおそらく生まれて初めて観た野球場での野球だろう。親父が何故、幼い私を高校野球に連れて行ったのかは知らない。しかし、終戦直後は阪神間の尼崎に住んでいた親父のこと。甲子園球場が近い関係から、よく阪神タイガースの試合はよく観にいってたとは聞いた事がある。それで初代ミスター・タイガースの藤村富美男のファンであったことも。また夏の中等野球(現・高校野球)で2連覇した和歌山の海草中学は嶋投手の快投を生で観たことを自慢していたし、終戦後まもない夏の高校野球で2連覇した小倉高校の福島投手の話もしていた。なにしろ九州出身の親父にとっては真紅の大優勝旗が九州に渡るのは初めてのことだっので嬉しかったのだろう。甲子園に応援に行ったとも聞いている。さらには私の姉を連れて甲子園にも行っている。そういった理由で私の姉は早稲田実業の王貞治投手のことを知っていたのだが・・・・・。

 さて、昭和36年の夏の大会。私は親父に連れられて茶色の阪神電車(当時はそんな色の電車も走っていた)に乗って甲子園駅に降り立った。初めて見たた甲子園球場は大きいと思った。外壁は一面に蔦が絡めてあって、風格があるといっても小学校入るか入らないかといった年齢の子供に風格があるなんて判るはずはないが、何故、建物の外側が蔦だらけというのに不思議さを感じていたことは覚えている。それでいよいよ中に入る。その時の印象は、とにかく人が多い。広い。確か、一塁側の内野席の上のほうだったと思うが大歓声が凄かった。

 ・・・・・・そして試合は始まった。その日に観た試合は準決勝で法政二高VS浪商である。でも続きは明日にでも書こう。


 甲子園球場には夏の大会に優勝した歴代の高校の校旗が飾ってあり、訪れたファンが記念写真を撮っていく。
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2010.08.10 (Tue)

おかしな天気で

 もう少しでお盆である。もう帰省ラッシュに入っているのかな。両親共々、九州出身ながら関西で骨を埋める覚悟であるから、小生としては今まで帰省というのには縁がなかった。だから帰省ラッシュのニュースを見ると大変だと思うと同時に、そこまでして帰省したいのかといった思いがあるが、こればかりはその人の立場にならないと判らないから語ってもしょうがないか。でも帰省先の両親は喜ぶだろうが、同居している長男の嫁は大変だという。必ずしもみんなが喜ぶというのでもない。そのせいか私の両親は、若い頃に関西に来たもののほとんど帰省しなかった。そのせいで私は九州に居る大勢の従妹等の大半は顔も知らないし、今でも関係は希薄である。そういった親類一同なので、毎年、帰省する人の故郷を愛する気持ちは判らなくはないが、小生なら毎年のように帰省はしないだろうなあと思いながらテレビを見ていたのである。

 それはそうと、今日の天気は本当におかしかった。今は雨は降っていないが、つい1時間ほど前は降っていた。朝、起床したときから既に雨が降っていた。昨日は甲子園球場で激しい雨が降り、一時、中断していたらしいが、こちらの方は全く雨が降らなかった。それが今日は全てが逆である。こちら側で降っていたのに、甲子園で降らなかったという。甲子園と我が家とでは、さほど距離が離れているのでもないのに、この天気の違いは何だ。今日なんか雷が鳴り雨が降っていた。でも断続的なものではなく、朝降って、その後は雨が降らずに雲の切れ間もあった。それでいて夕方から再び雨が降り出し雷鳴も轟いていた。その間、甲子園では高校野球の試合が行なわれている。本当におかしい。随分と局地的な降り方をするものだ。どうも台風の影響の余波でもあるのだろうか。台風が突然、現われ日本列島に影響を与えているのかもしれない。今のところ台風は日本海を進む公算が強いが、こればかりは判らない。取り敢えずは激しい雨を降らせる可能性もあり、台風の進路には気をつけなければならないだろう。

 でも台風の影響にしろ連日の猛暑から一転して、どんよりした厚い雲に覆われ雨を降らせる。お湿り程度かもしれないが、やや気温が下がったので有り難い雨のように思える。でも、雨が降って猛暑から一時的に開放されたものの湿度が増し相変わらず蒸し暑い。つまり雨が降っても、降らなくても・・・・ということで、今日はこのあたりで終了することにするが、まだまだ暑い夏の日は続くのだ。是非とも健康だけは注意するしかないだろう・・・・・。
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2010.08.09 (Mon)

CT検査

 昨日の日曜日は更新しなかった。更新しようと思えば出来たのだが、気が滅入ってしまい放置した。それというのも先日、耳鼻咽喉科でCT検査を受けてくれといわれ、その検査日が今日だったのである。したがってその検査が終わるまでブログ更新する気が皆目、起こらなくたってしまったというのが要因である。今まで鼻の治療を行なっているが、このところ医師が言うには気になる現象が起こっているから、一度、医院ではなく設備の整っている病院に行ってCT検査をやってくれといわれ、勝手に予約されていたのである。でも副鼻腔炎ということで治療を行なってきたもの、鼻腔の粘膜が弱いといわれ、頭の方に問題がないか、頭部も含めて検査をしてもらった方がいいということで検査を受けることになった次第である。

 さて、今日は10時に検査を行なうからといって15分前には病院に入ってくれという指示だった。それで15分前には病院に到着。すると大勢の待合の患者が・・・・・。世の中これだけの人が一つの病院だけで毎日、病院に詰め掛けているということは、日本全国でいったいどれだけの患者がいることやらと驚くと共に、我が国は高齢者大国といいながらも実は、病気に罹らずにいる健康な老人が意外と少ないのかもしれないと痛感した。言わば日本の平均寿命というのは医学の発達と共に、医療施設が整った上で成り立っている。これだけの老人が毎日、医者にかかっているという現実を垣間見ると、如何に医療の力は大きいのだと認識を隠せない。だとすると無医村の村が仮にあったとして一生医者にかからず長寿を全うした人というのは極めて少ないのではないだろうかと考えてしまう。もし、これだけ医療技術が発達していなくて、医師の数も少ないとなると明らかに日本人の平均寿命は下がるだろう。それ故に日本の各地に点在している病院、医院、診療所の力は偉大なりということになる。日頃はこのようなことは考えないが、ふと、病院の待合室を見て考えさせられた。

 ところで昨日の晩に食事を摂取してから、その後は何も口にしていない。今回のCT検査というのは頸部よりも上の造影検査というものであるから、食事をしないでくれといわれたが、腹が減ってしょうがない。それで造影検査の前に外科医の医師から問診を受けてから、左手の腕の太い血管に点滴をうたれ、点滴をした状態でCT検査機の上に寝転がるという。今までこのような検査を受けたことがないので気分がいいものではない。それに検査結果が悪ければ気分も晴れないだろう。でも覚悟を決めて検査を受けなけらば始まらない。

 いざ寝転がって点滴で液を流し込んでいる管に造影剤という検査薬を投入された。この薬を注入することによりCT検査がやりやすいという。つまり写真にはっきりと影が写るからである。それで造影剤を流し込まれると身体が熱くなってきた。そして撮影が始まった。この間、5分位だが絶対に動かないでくれという。動くと画像がぶれて見難くなるからというからじっとしていたが、枕の位置がしっくりこなくて頸に力が入る。検査が終了した時にはホッとした。でも検査結果の写真を持って,この後、耳鼻咽喉科に直行しなくてはならない。でも結果は頭部に異常なしということで胸をなでおろしたのだが、この検査で鼻が良くなる訳ではない。結局、何時もより抗生物質を飲む回数を増やされてしまった。でも歳をとるとだんだんと身体もガタがくる。日本人は長生きといっても、医者にかからず健康であるならば歳がいっても嬉しいだろうが、動くのがやっとという人や寝たきり状態になると、どうなんだろうと考えてしまうのである。私事だが、父は脳梗塞で20年以上、身体が不自由であった。だから家族に頼って生きていかなければならなかった。結局は治療で長生きしただけである。本人だけでは何も出来ないので、家族の支えが必要であった。だから長寿っていったい何だと考えてしまうのである。
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2010.08.07 (Sat)

今日も出勤でした

 暑い中、本日の土曜日も出勤で、ヘトヘトに疲れてさきほど帰宅したのである。しかし、よく働くなあ。いや働かされているといった方が適切だが、こう毎週、毎週、土曜日出勤に祝日出勤が続くと、疲れた身体が余計に疲れるので、帰ってから何もする気が起こらない。ただ寝転がっていたいという心境になる。

 今日は朝の電車が空いていたけれど仕事に向う人もチラホラいる。何時も同じ電車で顔を覚えているから、判るのだが景気は悪いといいながらも企業は儲けているに違いない。儲けるだけ儲けておきながら、我々に対しての給料はびた一文上げる気配がない。だから仕事も当然のようにやる気がない。それに土曜日出勤や祝日出勤なんて何一ついいことがない。だから出勤したくないのだが、やむを得ない。まあ、いいことを探すと電車が空いているぐらいなもので、でもバスの本数が少なく、駅から職場まで真夏の炎天下をテクテクと歩く羽目に・・・・・。何で真夏に3㎞もの道のりを歩かなくてはならないのか、アホらしくなって来る。それで職場に到着したのはいいが、例によって汗まみれで、額や首筋から、脳天から汗が滴り落ちる。こんな調子だから、とんぼ返りして帰ってやろうかと思うが、我慢して仕事をこなし帰宅するのである。

 結局、このところ休日は日曜日だけになってしまっている。だから疲れるのだろうが、そこへ猛暑の毎日である。もういい加減にしてくれといいたい。おかげでブログ記事も全く書いてない。書く気になればすぐにかけるのだが暑さと疲れのダブルパンチで、このところ書く気がさっぱり起こらない。それに時間もない。しょうがないからこのところはウダウダと御託を並べて愚痴ばかりの記事になってしまっているが、盆休みに入ったら全うの記事を書いてみようか。それではボチボチおさらばするとしよう。
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2010.08.06 (Fri)

花火大会は迷惑なだけ

 今日はびわこ花火大会の日であった。そのおかげで帰りのバスも大停滞、電車も延着が相次いで、こちらは迷惑以外の何ものでもなかった。先日から今日がばわこ花火大会ということは判っていたから、急いで帰ろうとバス停まで走ったのだが、バス停でバスを待っている人の多いこと。浴衣姿のカップルもいるから、滋賀県の人はこの花火大会を楽しみにしていたのだろう。でも通勤でやむなく大会の会場である浜大津の最寄り駅である大津、膳所を素通りして帰る者としてはいい迷惑である。こちらは花火に関心はないから空いた車両でのんびりと帰りたいが、このような催しがあるとそうはいかない。バスは超満員。おまけに道路は停滞。まさかマイカーに乗って、みんな花火に行く訳でもないのに、なんという道路の込み具合だ。30分近くかかってようやくJRの駅に到着。しかし、ここからが問題だ。案の定、ホームの上は人だらけ。浴衣姿の人の多いこと。朝のラッシュアワーでも、これだけ人がいないのに何だ。こんな田舎の駅のプラットホームに人がわんさか詰め掛けているではないか。みんな花火に行く人に見えてきて仕方が無い。JRは臨時の列車をこの日に限って走らせているらしいが、とても捌けたものではない。15分遅れでようやく電車が到着。12両の1番空いている最後尾の車両まで走る。やっと乗車したが、なかなか発車しない。まだ乗り込んでいない人がいるらしい。でも積み残しも出た模様。遅れている電車はさらに遅れだした。それから駅ごとに人が乗り込んできて、車内はぎゅうぎゅう詰め、助けてくれー、帰りの電車まで押し競饅頭か・・・・。これだけ人が乗り込むと冷房は効かないから、また汗が噴出してくる。交通手段がJRしかなくて、毎年、花火大会になるとこのような有様になるのは承知しているが、そのたびに腹が立つ。花火を楽しみにしていた人には申し訳ないが、こちらとしては大迷惑である。電車は駅ごとに延着時間が増していき、ようやく膳所駅に到着。すると車内の半分位の人が下りてしまった。さらに次の大津駅でまた人がゾロゾロと降りていき、車内は見てる間にガラガラとなってしまった。

 何だこれは。まるで花火専用電車だな。なんだかホッとして、がら空きの車内のシートに腰掛けるや否や目を瞑った。しばらくして逢坂山トンネルに入る。先ほどの喧騒が嘘のようである。あーあ、1年に一度とはいえ、毎年、このびわこ花火大会の日になると、ホント憂鬱になる。もっとも大阪市内へ通勤していた時は淀川花火大会というのがあって、このびわこ花火大会よりも多くの人が詰めかけるが、こんなに電車に乗ろうとする人が、一時に集中することはなかった。この辺は公共交通手段をJRだけに頼っている滋賀県特有のものかもしれないが、その騒動に巻き込まれる他府県の人間にはまことに迷惑である。もっと増便しろと言いたいが、ダイヤの関係上難しいのだろう。しかし、その余波をまともに喰らうこちらとしては不愉快である。

 ところで、それほどまでして滋賀県の人は花火を見に行きたいのだとは思わなかった。滋賀県でもかなり遠方の人も詰め掛けるというから、滋賀県民の最も人の集まる催しかもしれないが、そのとばっちりだけは頂戴したくない。えっ! それならお前も花火を見て帰れだと・・・・・・そんなもの見て帰ったら、帰れるかどうか判らない。電車の本数と花火の見学者を天秤にかけて見て見ると、乗客を全て裁けないどころか駅の改札口も入れるかどうか判らなくなるから遠慮するよ。でもみんな、何で近くで花火を見たいのだ。花火なんて遠方からでも見れるのに・・・・・・。あれだけの人がいると、疲れるだけと思えるが・・・・・・・・・・・・。
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2010.08.05 (Thu)

映画館も行かなくなった

 今日も似たような内容で申し訳ないが、毎度、毎度、口をついて出ることは暑いの一言。毎日、灼熱地獄ですっかりグロッキーであるが、まだ食欲はあるので大丈夫だろう。でもまだ8月の5日なんだ。そろそろ暦の上では立秋ということになるから、暑中見舞いも残暑と書かなければならないだろうが、これから暑さが本番ではないか。若い頃は暑いのは嫌いだが、体力があったから海、山、プール、川、涼を求めて頻繁に出かけていったものだが、この歳になると空調の効いた室内でウトウトと昼寝をしているか、読みかけの本を読んで暇を潰しているほうがいい。

 最も出かけるとなると、海、山には行こうとは思わない。もうすっかり身体がアウトドアからインドア用に仕上がってしまっているので、スポーツをしようとも思わないし、無理に汗をかきたくもない。だから大型書店で立ち読みをしていたり、これまた大型家電販売店内をウロウロしてみたりする。もっとも今はやりの、郊外型ショッピングセンターやアウトレットばかりの店にも行こうとは思わない。

 昔なら、この暑い時、決まって涼しい映画館で1日を過ごしたものである。盆休みなんかどこへ行っても人が多いから、ロードショーから流れてきた三本立ての映画館で、アンパンとコーヒー牛乳を片手に持ってまる1日入りびたりだったことを思い出す。こういった映画館は観たことのある映画と、まだ観たことのない映画とセットで上映する場合が多いので、既に観賞済みの映画の時は決まって、お昼寝の時間であった。冷房が効いていて、椅子に深く腰をかけて居眠りするのである。ウトウトとしているとセリフが妙に心地よいので居眠りには最適の空間である。なかでもフランス映画というのは居眠りするのに好都合である。何故かあの囁くように喋るフランス語というのは眠気を誘う。よく目が覚めてスクリーンに目を向けるとアラン・ドロンが大写しになっていたということがあったものだ。、また小生は西部劇が苦手で、ジョン・ウェインなんかが出ていたら大概は寝ていたかな。でも、こうして1日、暇を潰せる二流映画館が好きで、よく通ったものなのだが・・・・・・。

 最近は映画館ともご無沙汰になってしまった。それはあのシネマ・コンプレックスの登場によって、以前のスタイルの映画館が激減したからである。今のシネマ・コンプレックスはスクリーンこそ、一つの建物の中に7も8も、いやそれ以上あるだろう。そこで臨機応変に上映映画を変え、最も動員できる映画を三つ、四つのスクリーンで上映したりして客を捌こうとしている。そして、途中入館が出来ないし、途中で出るともう入れない。このシステムが嫌なのだ。それにスクリーン自体が小さすぎる。映画を観ているといった感じではない。これなら家で大型のワイド画面のテレビで観ているのと大差ない。

 やはり映画は大型スクリーンで観るべきであり、また途中から観て、観たところまで来ると納得して出て行ったものだ。それに朝から晩まで居られたから、気に入った映画なら何度も観て帰ったものだ。こうして暑い夏は、涼を求めて二番館の三本立てを観て1日楽しんだというのが、かつての映画好きの過ごし方だったのだが・・・・。

 それで往年の名画に敬服したものである。今思えば・・・・・『或る夜の出来事』『つばさ』『逢びき』『怒りの葡萄』『失われた週末』『エデンの東』『市民ケーン』『望郷』『81/2』『サウンド・オブ・ミュージック』『赤い砂漠』『去年マリエンバートで』『カビリアの夜』『冒険者たち』『波止場』『サンセット大通り』『男と女』『博士の異常な愛情』『俺たちに明日はない』『シェーン』『奇跡の人』『サイコ』『黒いオルフェ』『ニノチカ』『イヴの総て』『情婦』『アラバマ物語』『欲望という名の電車』『レベッカ』『夜と霧』・・・・・いっぱい観たなあ。ちょっと思いつくだけでも、これでだけ出てきた。でももう映画館に行くこともないか。シネコンでは行き気が起こらない。

 時と共に映画館も様変わりしたが映画も随分と内容が変った。3Dって、あれは何だ。CGを駆使したり映像に細工したり視覚効果ばかり狙った映画が多いような気がするが、これも時代の定めかな。もっといい脚本で内容の或る映画を作ってほしいとは思うが・・・・・・・。
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2010.08.04 (Wed)

・・・・ただただ暑い

 毎度、毎度、言い過ぎるがまことに暑い。言いたくはないが暑い。今年は夏の高気圧がエンジン全開で、とんでもない猛暑となり身体を持っていくところがない。帰宅して2階の部屋に入ろうものならそれこそサウナ風呂のような暑さで、窓を全開といいたいところだが、唯一、2階にエアコンのある部屋は六畳の畳部屋だけなので、窓を閉め切った状態でエアコンを入れる。もうエコなど糞くらえだ。会社でもエコと煩いし、テレビでは有識者かなんかしらないが、エコ、エコばかりいってエアコンの温度は控えめにとはいうが、そんなもの知ったことか・・・・。これだけ暑いとエアコンを入れないと生きていけないぞ。

 国会議員や官僚、有識者といった連中が電力の消費を控えめにとは言うが、お前等みたいに、でかい家に住んでいると涼しい部屋の一つや二つはあるだろう。だからエアコンがなくとも凌げるのだ。もし、エコエコと言うのなら、庶民のウサギ小屋に住んでみろといいたい。それこそ隣近所が犇めき合っていて、風の通りも良くない。家は小さいし部屋は少ないから、空いた部屋なんかあるはずもない。それで2階の部屋に寝ることになるのだが、2階は屋根が焼けて暑くなるのはご承知だろう。

 もし、こんな部屋にエアコンも入れないで寝ていると、絶対に脱水症状になることは間違いない。エアコンも入れないでやせ我慢して、挙句の果ては救急車要請では洒落にならないだろうに・・・・・。せめて庶民にエコだエコだという前に、お前等のハイヤー通勤を何とかしろといいたい。高給取りだからって贅沢しやがって、それこそエコの正反対をいく高級車で送り迎えだろ。CO2の垂れ流しもいいところだ。お前等こそ電車通勤するべきだろ。国民の先頭をいって、率先してエコ活動するなら国民もついていくが、庶民は超満員の電車に詰め込まれてフラフラになって通勤しているのに、かたや資産家や国会議員や高級官僚といった類は、それを尻目にゆったりした高級車で通勤だから、公平なはずがない。それでいてこいつらが省エネだの、エアコンの温度設定までガタガタぬかしやがる。だから帰ってからエアコンをフル回転させることぐらい許されていいだろうと思うのだが・・・。そうでもしないと庶民はますます睡眠不足で、日本の経済にまで影響しまっせ・・・というほど大袈裟ではないが、とにかく暑い夏、貧乏人は避暑に行くことも出来ず、ただただ暑い暑い都会でせせこましく生活していくしかないのだから、暑い夏ぐらいは電力消費は考えないでおこう・・・・。こんなこというと、しかられそうだがしょうがないじゃないか。出来ることなら一ヶ月の間、仕事を休んで小生も北海道に避暑に行きたいよ。でもそれが許されないから、暑いところで耐えているのだが・・・・これだけ毎日、暑いと発狂しそうだ。でも人殺しはしないぞ。こんなことを平気でする奴が最近は多いが、暑さのせいかもしれないなあ。

 毎日、暑い暑いといい続けてもまた言ってしまう。ああ。早く秋よ来い。
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2010.08.03 (Tue)

土曜日以来の更新

土曜日以来の記事となる。今まで3日ぶりの更新というのは何度かあったが、今回は日曜日をはさんで更新できなかった。それというのも日曜日は冷房を効かして安静にしていたからだ。それで今日、ようやく左の鼻に詰められている綿とガーゼを取り除いてもらった。これでやっと鼻で息が出来る。鼻出血のため左の鼻の穴を止血した訳だが、片方の鼻の穴を塞ぐだけで、これほど辛いとは思わなかった。とにかく食事がしにくい。水も飲みにくい。それに息もやりにくい。寝ていても寝にくい。つまりいいところはどこにもないということ。それに小生の場合、日頃から右の鼻が通りにくいから、左側の鼻を塞がれると、両方の鼻を塞がれたような形となって口で息をする羽目になる。すると口で息をするとなるとどうなるか・・・・・。口の中が直ぐに乾いてしまい喉もカラカラになる。こうなると口の中の免疫力が低下して病気になりやすいのだ。それで日頃から鼻で息をする習慣をつけておかないといけないのだが・・・・・・。

 それにしても暑い。連日の猛暑で、ややグロッキー気味。夜は当然、熱帯夜の猛襲の餌食になるのだが、昨日も一昨日もさっぱり寝れなかった。鼻で息が出来ないと全く寝れない。口を半開きにしていると、すぐに口の中が唾液一つ出てこなくなり、そのたびに冷蔵庫のところまで行って、水を飲むという有様だったから、鼻が通じるのは有り難いものである。昨日も今日もすっかり寝不足で身体に倦怠感があったが、どうすることも出来ない。ようやく今夜から、鼻の通りが良くなったのでどうにか寝れるだろう。でも小生は昔から睡眠時間が少ないし、二度寝、三度寝も出来ないし、それでいて生きていられるのだから、あまり睡眠には拘らない。でもぐっすりと目も覚めずに朝まで6時間位、睡眠がとれればいいなあとは思う。しかし、贅沢は言わない。せめてもっと昼寝をさせてくれ。1時間位、昼寝してみたいよ。仕事の合間に昼寝するというのは午後からの仕事に対して効率が上がるのである。もっとも小生は、夜はあまり寝れないのに、困ったことに通勤電車の中や、仕事の合間の昼休みになると眠たくなる。だから仕事中でも船を漕ぐことが多い。つまり万年の睡眠不足ということになるが、それを昼寝で補いたいのである。

 結局、またウダウダと内容のない記事を書いてしまったが8月は仕方がないだろう。暑いし思考力が低下するし、ブログの記事どころではないのだが、今月はこのような調子で推移していきそうだ。
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