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2008.05.31 (Sat)

シューマンのピアノ協奏曲を聴く

   シューマン ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54
 マルタ・アリゲリッチ(ピアノ)、指揮ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
 ワシントン・ナショナル交響楽団
s-IMG_0123.jpg


 その昔、人気のあったテレビの特撮ドラマ『ウルトラセブン』の最終回で、主人公のモロボシ・ダンが突如として友里アンヌ隊員に告白する。

「アンヌ、僕はМ78星雲からやって来た宇宙人なんだ」

 アンヌ隊員は驚いて突然、タターンタターンタターンタタタタンタタンタンタンとシューマンのピアノ協奏曲が流れるのだった。だからシューマンのピアノ協奏曲というのは、知る人ぞ知る名曲ということになる。

 一般的にシューマンはピアノの独奏曲の作曲家として有名である。知名度の高い『トロイメライ』が含まれる『子供の情景』を始め、『クライスレリアーナ』『幻想小曲集』『子供のためのアルバム』『森の情景』等、また歌曲の作曲も多くて『ミルテの花』『女の愛と生涯』や小品も多い。だからオーケストラをバックにしたピアノ協奏曲というのは、珍しく、シューマンのピアノ協奏曲はこの一曲しか存在しない。

 当初、シューマンは『ピアノと管弦楽のための幻想曲』として作曲し、後に間奏曲とフィナーレを加えて3楽章からなるピアノ協奏曲イ短調として完成させた。それは1845年、シューマン35歳の時で、曲の初演では妻のクララ・シューマンがピアノを弾き、指揮をメンデルスゾーンが務めたのである。

 シューマンは1810年生まれというからショパンと同年代ということになる。幼いときから音楽に親しんでいたが、家庭の事情で法学の道へ進む事となる。だが音楽の道が捨てきれず、20歳になって高名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィークに弟子入りする。つまりこのピアノ教師の娘がクララ・ヴィークで、後にロベルト・シューマンの妻となる女性であった。その後、シューマンはピアノ演奏家の道は残念し、作曲家として世に出て行くのであるが、彼の曲をピアニストでもあるクララが弾きつづける事となる。

 このような経緯があり、シューマンは作曲家として出発した頃はピアノ曲が多かったのである。その後、歌曲の作曲が増え、31歳で交響曲の作曲を始め、1841年交響曲第1番『春』を完成させた。つまり管弦楽の作曲に自信がつきだし、ようやく完成にこぎついたのがピアノ協奏曲だったのである。でも先ほど『ピアノと管弦楽のための幻想曲』として作曲された曲であると述べたが、4年後にはピアの協奏曲として生まれ変わっている。でも何故、シューマンはピアノ協奏曲に作り変えたのであろうか。

 一説には友人のメンデルスゾーンが作曲したピアノ協奏曲を聴いて刺激を受けたからだともいわれ、後に間奏曲とフィナーレが付け加えられたのに、曲全般を通して聴いても統一感があり、完成度の高いピアノ協奏曲として評価が高い。

 3楽章形式だが、1楽章はのっけからピアノの序奏で始まり、全体的にロマン主義的な叙情が漂い華やかな楽章である。かつて『ウルトラセブン』の最終回では、この第1楽章が使われドラマをより劇的にする演出効果を齎した。第2楽章と3楽章は連続して演奏され、間奏曲と題された2楽章から軽快な3楽章に転じて終わる。

 どちらかというとシューマンのオーケストレーションは地味だが、この曲は比較的に色鮮やかな音色である。でも残念ながら、この頃からシューマン自身、精神的におかしくなる兆候が見え出し、躁鬱病、精神状態の悪化などもあって自殺も計っている。その後、持ち直し彼を慕ってやってきた若者の面倒を見ている。その若者こそ、ヨハネス・ブラームスである。

 ヨハネス・ブラームスの才能を見抜き、彼の将来を見透かしていたが、ブラームスが作曲家として独り立ちする前に精神病院に入院するほど精神が病んでいた。やがて病も快復することもなく1856年、46歳でシューマンはこの世を去る。その後、彼の名声を確立するために妻クララは、夫の作曲した曲を積極的に弾き続け、その後40年も生き続けるが、何故か、ブラームスとの親交が深くなり、2人は男女関係があるとまで言われるが、真相のほどはわからない。結局、短命に終わったロベルト・シューマンが亡くなってから、クララは40年後の1896年に亡くなり、ブラームスは41年後の1897年に亡くなる。何とも意味ありげな話ではあるが、晩年のシューマンは精神障害に苛まれていたにも拘らず遺言を残している。それは「私は知っている」だった・・・・・・・・。

シューマンのピアノ協奏曲の演奏。マルタ・アリゲリッチ(ピアノ)、指揮リッカルド・シャイー

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2008.05.29 (Thu)

雑感・日本ダービー

 今週の日曜日、いよいよ第75回日本ダービーが行われる。今年は傑出馬不在で、混戦ダービーと言われる中、安定感で№1のマイネルチャールズが1番人気になるのだろうか。でも好事魔多しでダービーだけは何が起こるか判らない。でも、最近のダービーは比較的、人気馬が勝っているようだし、混戦だからと言って穴馬券ばかり狙うと案外、本線で決まることも多くますます悩んでしまう。

 私は競馬暦が長く、初めて日本ダービーをテレビの生中継で観たのが小学生の時の第32回ダービーで、この時は雨の降る中をキーストンが逃げ切った。この年以来、ダービーはほとんど生中継で観ているか、東京競馬場において現場観戦している。しかし、はっきり言って最近のダービーは面白くない。確かに競馬の祭典らしく、観ることは観るが、昔のように胸がワクワクすることはなく、レースが淡々と始まって淡々と終わってしまう。何故なのかと考えてみたが、最大の原因は頭数が少なくなってしまったからに他ならない。

 今は馬券の関係でフルゲートが18頭と決まってしまい、ダービーでさえも例外ではなくなった。だから紛れも少なく、本命馬が勝つ要素が高まり、強い馬が強い勝ち方をするレースとして印象の強いレースだと思っている人が多いかもしれない。でも私の年代の競馬ファンからすると、ダービーというのは時々、予期せぬことが起こり、予期せぬ馬が勝つレースと言った印象の方が強く、またそんな時の方が記憶に残る可能性が高かったものである。

 私が競馬に興味を持ち出した頃の日本ダービーというのは、フルゲートが28頭で、今よりも10頭多く出走していた。だからダービーだけは画面を見ただけで、すぐに判るレースであったのだ。今のように頭数が少ないと、東京の2400mの条件レースとダービーの両方を音声無しの映像で見せられると区別はつかないだろう。しかし、28頭も出てくると、枠順によって有利不利が絶対的に働くので、連枠で8枠に入ってしまうと出走馬の関係者は目の前が真っ暗になったという。枠順が確定した段階で、大外の25番、26番、27番、28番あたりの出走馬は勝利を半分諦めたものである。

 だから28頭も出ていた頃には、第1コーナーを10番手以内で回ることがダービー・ポジションと言われ、スタートから各馬が物凄いダッシュで殺到したものである。そんな時であっただろうか、ドロンコの馬場で行われた昭和44年(1969年)の日本ダービー・・・・・何と1番人気のタカツバキがスタートから100mも行かないうちに落馬したのは・・・・。タカツバキは内から外から馬が寄ってきた反動で驚いたのか一瞬、立ち上がったような感じになり騎手の嶋田功が落馬したのである。テレビの映像はその時のシーンを捉えてなかったが、実況している鳥居アナウンサーの横で解説者が「アッ!」という声を出した。すると「タカツバキは落馬しています」とアナウンサーが実況し、馬群の後ろからカラ馬のタカツバキが走っていく映像が映し出されていた。タカツバキは抽選馬であり安馬だった。だから安馬にダービーを勝たれてしまっては、色々と問題が残るから誰かが落馬させようと仕組んだのだという声もあがったダービーである。それでこの時、勝った馬がダイシンボルガードであったが、ダイシンボルガードの石田厩務員(当時は確か馬手という呼び方をしていたと思う)が「俺の馬だ!」と叫んで、馬場の中へ入ってしまいゴールへ向って走り出したのである。今では考えられないような出来事が次から次へと起こるダービーであった。

 私が初めて東京競馬場で日本ダービーを観戦したのは昭和47年(1972年)のことである。まだ国鉄の武蔵野線が開通してなくて、新宿から京王帝都で東府中まで行き、そこから降りて歩いて行ったものだ。だがあいにく7月に行なわれたダービーで、梅雨もまだ明けてなく小雨が降っている中、行なわれ、レースは見応えがあった。27頭立てで、スタートから四白流星といわれたタイテエムが、22番枠から猛ダッシュで先行集団にとりついて行こうとするシーンが今でも焼きついている。ところが逃げる予定であったトルーエクスプレスがダッシュに失敗し、逃げる予定のなかったスガノホマレが先頭に立ってしまったので、スガノホマレの騎手が馬を抑えにかかった。すると超スローペースになってしまい、向こう正面から27頭が一塊になるという過去に見たことの無いようなダービーとなってしまった。3コーナーからユーモンドとタイテエムが先頭に立ち、そのまま4コーナーを回ると、何時の間にか皐月賞馬の2番人気ランドプリンスがタイテエムの外から進出していた。あとゴールまで200m、ここでタイテエム、ランドプリンスの競り合いに加わったのが武邦彦(武豊の父)の乗る1番人気ロングエースであった。ここから1番人気ロングエース、2番人気ランドプリンス、3番人気タイテエムの3強がデッドヒートを繰り広げ、人気順にゴールしたという実に見応えのあるレースであった。

 次にダービーを現場観戦したのは昭和57年(1982年)で、この時が最後の28頭立てであった。この年のダービー、快速馬ロングヒエンが絶好の5番枠からハナを奪うだろうと私は考えていた。ところが全馬ゲートイン完了して、さあスタートと思ったとき、ロングヒエンがゲートを突き破り飛び出してしまったのである。困ったことに5番のゲートは閉まらない。仕方なくロングヒエンは30番枠からのスタートとなってしまった。25番よりも外の馬は勝ち目が無いと言われるダービーで、よりによって逃げるだろうといわれていたロングヒエンが30番ゲートからスタートなんて有り得ない。この時点で勝つ可能性どころか逃げることも不可能だろうと思えた。だがロングヒエンは大外の30番から馬場を斜めに横切って第1コーナー、第2コーナーを先頭で回り、向こう正面も悠々先頭。しかし、玉砕的なペースで逃げたせいか、最後の直線で失速してしまい15着に終わった。でもハイペースで逃げたから、勝ったバンブーアトラスは当時のダービー・レコード2分26秒5で突っ走った。

 私は翌年の昭和58年(1983年)の第50回記念ダービーも東京競馬場で観戦した。この年はミスターシービーが3冠馬の栄誉に輝くのであるが、この馬は今でもそんなに強い馬だと私は思っていない。でも勝ち方は派手だった。ダービーでも第1コーナーを最後方で回り、向こう正面でも後方、(当時はターフビジョンなんてものはなく、私は必ずトランジスター・ラジオの実況を聴きながら観戦していた)、4コーナーで外の馬を弾き飛ばし内に斜行して妨害し、強い勝ち方だったが今では失格になっても仕方がないレースっぷりだった。考えてみれば当時は人気馬が斜行して勝ってもほとんど失格にはならなかったから、おおまかな時代だったのかもしれない。それ以外でも、カブラヤオーの弥生賞とか、今なら失格の可能性がある。それに昭和54年(1979年)のダービーの時のテルテンリュウも失格だろう。

 その後、ダービーの現場観戦は敬遠している。何故かというと混雑するからである。私がダービーの観戦に行ってた頃は、ビニール・シートで席取りをする輩もいなかったし、パドックが横断幕だらけということもなかったし、メイン・レースの何レースも前からパドックの最前列で写真を撮るために陣取りしている連中もいなかった。いわば、前時代のダービーの光景がまだあったものだ。それが今は、○○コールで、吹奏楽団がGⅠファンファーレを演奏し、それに応えるように手拍子して歓喜する。今やもうお決まりの光景であるが、あの雰囲気が苦手で行きたくなくなったというのもあるのだ。もう、今や私が観てワクワクした時代の日本ダービーではなくなっている。でも今年も行われ、第75代目のダービー馬が誕生するのである。だから最近になってダービーを観戦し始めたと言う競馬ファンは、今の情景が日本ダービーだと思ってしまうだろう。でも30年、40年前のダービーの光景とは違うということ、それを言いたかったのである。
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2008.05.27 (Tue)

お知らせ

 このところ、何だか訳のわからないアダルトサイトの広告のようなものが、毎日、毎日、頻繁にコメントのところに貼り付けられるので、ちょっと困っています。それで、暫く様子を見ますが、あまりにひつこいようだと、やむを得なくブログを閉鎖するかもしれませんので、ご了承ください。
EDIT  |  20:01  |  その他  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.05.26 (Mon)

青葉繁れる桜井の

 こんな歌をご存知だろうか。

 ~青葉繁れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ
  木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
  忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か

  正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
  父は兵庫へ赴かん 彼方の浦にて討死せん
  いまはここ迄来つれども とくとく帰れ故郷へ

 これは題名を『桜井の訣別』といい、全部で6番まであり、楠木正成と息子・楠木正行(まさつら)の別れの情景を歌った唱歌である。作詞が落合直文、作曲が奥山朝恭で、歌が出来たのは何と1899年(明治32年)というから驚く。この歌は今では誰も歌はなくなったし歌の存在さえ知らない人が大半である。でも戦前の日本では誰もが知っている歌であったという。それなら何故、戦前に国民がみんな知っていたのかというと、それは皇国史観の下、戦死を覚悟で大義のため戦場に赴く姿が『忠臣の鑑』『日本人の鑑』として讃えられ、修身教育で祀られたからである。

 当時の天皇を中心とした皇国史観の教えを日本国民に浸透させるため利用されたといえば言葉は悪いが、とにかく楠正成という人物は崇められたのである。だから楠木正成と縁もゆかりもない東京に大きな楠木正成像があるのはおかしいと思うが、天皇家に忠誠を尽くしたからということで皇居前広場に大楠公像が存在するのである。でも一般的に楠木正成という人は何をやった人なのだと問われると、今では名前さえ知らない人の方が多いかもしれない。

 時は鎌倉幕府が危うい頃の話で、腐敗しきった幕府を倒幕しようと後醍醐天皇の論旨を受けて足利高氏を始めとする諸国の武士が立ち上がった。そんな中に河内の豪族・楠木正成がいる。当初は幕府軍に属していた新田義貞等の軍が楠木正成の居城である赤坂城を攻めるが、城を焼いて姿をくらましてしまう。再起した楠木正成は赤坂城の背後に千早城を建て、今度は数万とも数十万ともいわれる幕府軍に対し、100日間篭城し撤退させている。その間に新田義貞は幕府を見限って手薄となった鎌倉を攻め、幕府は滅亡してしまうのである。

 鎌倉幕府滅亡の後、後醍醐天皇は朝廷の復権を計ろうと建武の新政を実現する。だが、この新政は武士達の不満を招き足利尊氏が離反してしまったのである。次第に権力を拡大している足利尊氏に対し、朝廷側は工作し足利尊氏を九州に追いやったのであるが、足利尊氏は大軍を率いて京都に再び攻め上ってくるのであった。

 そんな時、後醍醐天皇に当初から忠誠を尽くしていた楠木正成の話が持ち上げられるのである。楠木正成は朝廷側の新田義貞の才能を見限っていて、後醍醐天皇に尊氏と和睦するように勧め、一旦、京都を離れて比叡に登り、空になった都に足利軍を封じ込め兵糧攻めをするべきだと色々、進言するが受け入れられずやむなく勝算の無い戦いに挑もうとしていた。

 こうして1336年5月、後醍醐天皇の信任を得た楠木正成は足利尊氏の大軍を迎え撃つべく兵庫の湊川へ向うこととなる。いわば決死の覚悟で京の都を発った楠木正成は、山城の国から摂津の国に入ったがまもなく桜井の駅に到着する。この時、楠正成は11歳の息子・楠木正行に河内の国・千早赤坂に帰るように言い渡すのである。・・・・・自分が討ち死にした後は足利尊氏の世になる。だが、助命を願って降伏したりすると楠木家の長年の奉公が泡と消える。たとえ一兵になろうとも最後まで千早赤坂に籠もり天皇を助けるように諭すのである。このようにして正行は、この桜井の駅で父と別れ、淀川を渡って樟葉に出て千早赤坂へ帰って行ったという。つまりこれが桜井の別れである。

 戦前はこういった皇国史観の下、修身教育が盛んであり、忠誠という滅私奉公の精神が謳われ、大いに国民の涙を誘ったという。でも結局、戦後に民主主義が導入され、時代と共に大楠公、小楠公の話は忘れられていったのである。

 ところで何故このような話をしたかというと、先日、その桜井の駅跡を訪れたからである。桜井の駅とは古代律令制度下の駅家(うまや)の跡で、大阪と京都を結ぶ交通の要所だから駅家が置かれていたという。またこの駅家は711年(和銅4年)に駅家が所在した記述が残っているから、すでに古代からあったとされる。

 実は桜井の駅跡を訪れたのは偶然からである。昔から桜井の駅跡の場所は知っていたし、楠公父子訣別の地であることも知っていた。それに阪急電鉄の水無瀬駅から歩いて400mほどのところなので、今まで何度も来ている。しかし、今回JR東海道線の島本駅が開業して、何気なく新設の駅に降り立ってみたのである。するとこの島本駅の駅舎はなんと、桜井の駅跡の西側の一部に建てられていたのである。以前、訪れた時は青々とした森であったが、今回は半分ほど史跡が削られていて、駅跡の西側の一部は駅前のロータリーと駅舎に変っていた。

 私は島本駅を降りて桜井の駅跡に行ってみると、そこには乃木希典筆による楠公父子訣別の所と書かれた石碑があり、すぐ側には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公と書かれてある。これは近衛文麿の筆によるもので、如何に大日本帝国時代には楠正成が崇められていたかということの証明であろう。今では右翼団体ぐらいしか~青葉繁れる桜井の~なんて歌は歌はないだろうが、戦前の人達は誰もが知っていた歌と聞くと、何だか複雑な心境に陥るのであった。

 そんな新設の島本駅は東海道線の山崎と高槻の間に出来た駅である。所在地は大阪府三島郡島本町で、山崎~高槻の間、8㎞も駅がなく地元住民が長い間、嘆願してようやく新設された駅である。でも駅名も島本に決まるまで、喧々囂々と議論がなされたという。近くの阪急電鉄には水無瀬駅という名の駅があるが所在地は島本町である。でも島本よりも水無瀬神宮のお膝元だから水無瀬の方がいいという意見もあったり、桜井の駅駅という話もあったらしいが、結局は島本駅に治まったらしい。

 また、この島本駅はJR西日本管内の駅では珍しく、電車の到着の際にメロディが流される。そのメロディが小林亜星作曲のサントリー・オールドのCMで使われる曲なのである。でもサントリー山崎蒸留所は確かに島本町にあるが、山崎蒸留所からだと約2㎞弱は離れている。山崎蒸留所はどちらかというと隣の山崎駅の方が遥かに近く島本駅からだと遠い。でも、サントリーの山崎蒸留所が所在する自治体だから電車の到着メロディをサントリー・オールドのCM曲に決めたといっても強引だなあと思ってしまう。せっかく、桜井の駅跡の側に駅があるのに何故、曲を青葉繁れる桜井の・・・・・ではなく、サントリー・オールドの曲に決めたかというのは、やはり皇国史観の教えで伝わった曲では今の時代にマッチしないということだろうか。でもサントリー・オールドの曲を使うのもおかしい気がするが・・・・・。この度、桜井の駅跡を訪れてみて色々な歴史観というものを考えさせられた。

 桜井の駅跡には楠公父子訣別の所と書かれた石碑がある。この字は乃木希典の筆によるものだという。
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 同じく桜井の駅跡には大楠公、小楠公の像があり、その台座には滅私奉公という今では死後といってもいいような文字が書かれてある。この筆は近衛文麿によるものだそうだ。
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 真新しい島本駅の駅舎。この付近も以前は史跡の一部であった。
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 複々線でひっきりなしに電車、列車が通るが、この駅は島型式といってプラットホームが一つしかない。
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 京都方面行きの普通電車が到着しようとしている。12両連結の電車がやって来たが、新しい駅だから10両以上連結されていても停車出来るように造られている。
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 この島本駅はサントリー・オールドのCM曲が電車到着の時のメロディとして使われている。



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2008.05.25 (Sun)

第69回オークス

 昨日からの雨も上がって、今日は東京で優駿牝馬こと第69回オークス(Jpn-Ⅰ・3歳牝馬、芝2400m、18頭)が行なわれた。今年の3歳馬は牡馬も牝馬も混戦模様。桜花賞は人気薄のレジネッタとエフティマイアが1、2着で大荒れだった。そして、桜花賞から1ヶ月余り経って阪神から東京に場所を替え、距離も1600mから2400mに伸び、馬場もやや重ときていては何が勝つのか皆目、見当がつかない。それでファンが支持したのは桜花賞で負けてなお強しと印象を深めたリトルアマポーラ。この馬が1番人気で2番人気が前走のオークス・トライアルで強い勝ち方をしたレッドアゲート、3番人気が桜花賞3着のソーマジック、4番人気が昨年の2歳女王で、桜花賞1番人気ながら8着に敗退したフサイチホウオーの妹トールポピーであった。

 定刻の3時40分過ぎ、いよいよスタートが切られた。ケートが開くや4頭、5頭が先行しようとするが、第1コーナーを先頭で回ったのがエアパスカル。2番手にカレイジャスミン、3番手にブラックエンブレム。その後、2、3馬身開いてハートオブクィーン。さらに2馬身差があってレッドアゲートとソーマジックが行き、エフティマイア、トールポピー、ムードインディゴと続き、オディールがいて、その後ろに社台レースホースのお馴染みの勝負服がなんと5頭も並んでいる(ライムキャンディ、レジネッタ、リトルアマポーラ、アロマキャンドル、スペルバインド)。その後にマイネレーツェルがいて、その後は4馬身開いてジョイフルスマイル、さらに3馬身開いてシャランジュが1番後ろから追走の構えである。先頭から最後方までは25馬身ぐらいの差があって縦長の展開となっている。

 ハロン・ラップは12.5---10.6---12.8---12.8---12.7---12.9と800mが48秒7、1000mが1分01秒4、1200mが1分14秒3。やや重という馬場を考えるとそれほどのスローペースではない。でも3コーナーから4コーナーにかけて中団に待機していた各馬が先行集団の直後に上がって来たので、前の方は一塊になっていた。さあ、第4コーナーから直線へ。先頭はインコースをついてエアパスカル、その外にカレイジャスミン。あと400m、ここで3頭、4頭の先頭争いとなる。レッドアゲート、ブラックエンブレム、その外からエフティマイアというとろこであるが、エフティマイアの脚色がいい。あと200m、馬群を縫うようにインコースからトールポピーが来た。リトルアマポーラは大外にコースを選択して末脚を伸ばそうとするが、あまり脚色が良くない。あと100m、ここでインコースのトールポピー、その外のエフティマイアの2頭が抜け出した。3番手、4番手はブラックエンブレムとレジネッタである。先頭争いは内のトールポピー、外のエフティマイアに絞られたが、内のトールポピーが僅かに出ている。そして、そのままの大勢でコールイン。

 1着トールポピー 2分28秒8、2着エフティマイア アタマ、3着レジネッタ 1馬身1/2、4着ブラックエンブレム クビ、5着オディール 1/2。

 1番人気のリトルアマポーラは7着、2番人気のレッドアゲートは6着、3番人気のソーマジックは8着で、上位は混戦といわれながらも実力のある馬で占められた。勝ったトールポピーは4番人気で、桜花賞敗戦の雪辱を果たした。父はダービー馬ジャングルポケット、兄がフサイチホウオーと血統的バックボーンに支えられ、2歳女王の貫禄を示したことになる。

 なお中京ではダートの長距離重賞・東海S(GⅡ・3歳以上、ダート2300m、16頭、重馬場)が行なわれた。結果は次の通りである。

 1着ヤマトマリオン 2分24秒0、2着ラッキーブレイク 1/2、3着フィフティーワナー アタマ、4着ワンダースピード アタマ、5着マルブツリード 1/2。

 来週はいよいよ日本ダービーである。
EDIT  |  17:23  |  競馬(国内レース)  |  TB(1)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.05.25 (Sun)

第88回アイリッシュ2000ギニーS

 昨日(日本時間深夜)の5月24日、アイルランドはダブリン郊外のカラー競馬場で、3歳馬による第88回アイリッシュ2000ギニーSが行なわれヘンリーザナヴィゲーターが快勝した。

 今年のアイルランドの2000ギニーS(GⅠ・3歳、8F、5頭)は僅か5頭立てとなった。当初、8頭の出走予定であっが、蓋を開けてみると5頭立て。これはニューアプローチとヘンリーザナヴィゲーターの2頭が抜けているので、勝算無しとみて出走を見合わせた陣営がいたからである。

 カラー競馬場というのはアイルランドの主要レースの大部分を行なう競馬場で、馬蹄形の形をした2マイルの右回りコースで、イギリスのダービーが行なわれるエプソムのコースの右回り版と考えてもらえばいい。今回の2000ギニーは、先日にイギリスの2000ギニーで1着、2着したヘンリーザナヴィゲーターとニューアプローチの再戦の意味合いが強く、人気もこの2頭に偏っていた。

 スタートからニューアプローチが先頭に立ち、2番手の位置をスタップスアートが進み、3番手でヘンリーザナヴィゲーターが構えるという展開であった。長い直線コースに入り逃げ切りを目論んだニューアプローチに対し、あと1ハロンというところで外からヘンリーザナヴィゲーターが仕掛けに入り、見事前回のイギリス2000ギニーに続いてニューアプローチを抑えて勝利した。結果は次の通りである。

      第88回アイリッシュ2000ギニーS

 1着 Henrythenavigator 1分39秒63、2着 New Approach 1馬身3/4、3着 Stubbs Art 3馬身1/2、4着 Jupiter Pluvius 4馬身1/2、5着 Nownownow 5馬身1/2。

 これでヘンリーザナヴィゲーターは英愛両方の2000ギニーを制覇したことになり、通算で6戦4勝2着1回3着1回という成績。騎手はJ・ムルタ、調教師はエイダイ・オブライエンである。

 父はKingmambo、母はSequoyah(母の父Sadler's Wells)である。しかし、ヘンリーザナヴィゲーターにしろニューアプローチにしろアイリッシュ2000ギニーに出走してきたということは、6月7日の英国ダービーに出走しないという意思表示だろう。これで今年もイギリス2000ギニーの勝ち馬がイギリス・ダービーに出走しないことになる。もう2000ギニーとダービーは別路線と考えていいのかもしれない。しかし、昔から競馬を観ている人間には寂しいものがある・・・・・・・・・・。


EDIT  |  10:10  |  競馬(海外レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.05.24 (Sat)

比叡山に登る・後半

 坂本ケーブル延暦寺駅から徒歩で15分ほど歩くと東塔地域に到着する。延暦寺というのは比叡山全域を境内といってもいいが、おもな伽藍は東塔、西塔、横川の三地域に集まっている。でも、それぞれの地域が離れていて、徒歩で回ろうと思うと1日仕事となるので、今日は東塔地域だけにして、いずれまた西塔、横川には来ようと思う。

 延暦寺は最澄上人が788年(延暦7年)に創建した天台宗の総本山で、空海が開いた真言宗と並んで日本仏教の母胎となった。最澄は天台数学、密教、禅、戒を融合する総合仏教を目指したが、後年に日本の新仏教の宗派を開くこととなる法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、真盛、良忍などの名僧がみんな、この比叡山延暦寺に学んだことは言うまでもない。

 延暦寺の駅から歩いて東塔の中に入る。諸堂巡拝券550円を買って境内に入る。でも東海道自然歩道の遊歩道があって、そこを歩いているだけだといえば無料で通してくれるらしいが、いちいち関係者にその旨を伝えるのも面倒臭いので550円を支払った。だが、この東塔には延暦寺の総本堂にあたる根本中堂がある。南都仏教に背を向け比叡山に篭って修行した最澄の出発点が、いわばこの場所である。

 この根本中堂は織田信長によって焼き討ちされたあと、徳川家光によって1640年再建されたもので国宝に指定されている。だから国宝としては比較的に新しい建造物といってもいいが総欅造りである。つまり現在では手に入れるのが不可能とされる巨大な欅を使っているため貴重な建造物といえるであろう。

 写真は根本中堂とそれを囲む回廊である。
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 根本中堂の正面には急な階段があって、その階段を上がると文殊楼がある。文殊楼は比叡山の総門の役目も果たしているという。
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 この東塔地域には大講堂、阿弥陀堂、戒壇院、法華総持院などの堂塔が所在するが、時間が無いのでおさらばする。

 東塔地域を出て目指す先は叡山ケーブル乗り場である。ここから山道で2㎞あるのでちょっと急がねばならない。だが、その途中に鄙びたお堂があったので立ち寄ってみた。それが山王院である。山王院は法華堂鎮護山王院といい、第六祖智証大師円珍の住居で後唐院ともいうし、千手観音を祀るので千手堂とも千手院ともいう。円珍は最澄の弟子で、密教が盛んになりつつある時代、真言密教に対し台密を確立したのである。最澄の没後、円珍と円仁との間に密教についての意見の対立があり、円珍は園城寺(三井寺)に追われ、以降、三井寺が寺門派の拠点となる。一方、比叡山は山門派の拠点となる。
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 今回は延暦寺の来るのが目的ではなく、ただケーブル・カーに乗ってみたかったというだけの理由でやって来たので、先を急がねばならない。だから西塔地区も横川地区も行っている暇がない。バスを使えばすぐに行けるが、これは邪道であろう。やはり寺に来るには基本的に徒歩というのが訪れる者の最低限のマナーだろう。だから舗装されてない山道を歩いて西塔、横川に行くべきだと思う。西塔は東塔から30分歩けば行けるが、横川までは4kmある。それも上がったり下がったりの舗装されてない山道を歩くとなると1時間では到着しない。それも往復歩くとなると今回、とても時間が足りないので行っている暇がない。

 写真のようにこのような山道が延々と続くのである。上り下りに崖っぷちのところもあるし森林の中を歩くこともある。道中、野鹿と遭遇したかと思えば蛇も現れた。脚力に自信の無い人はバスでどうぞ。
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 山道を歩き滋賀県側から京都府側に出て暫く行くと、比叡山の人工スキー場跡に出た。リフトも動いてなく痕跡だけをとどめている。このスキー場跡の上は比叡山の山頂で、昔は山頂遊園地というものがあり、お化け屋敷が有名であった。しかし、それも閉園してしまい、今はガーデンミュージアム比叡がある。だから延暦寺のある滋賀県側と違って比叡山の京都府側は行楽客ばかりである。
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 スキー場跡の前を通って坂を上って下ると叡山ロープウェーのロープ比叡駅が見えた。やっと着いたかという感じ・・・・・。暑いのなんのって、汗をかかなれけばどうってことないけども、やはり5月の下旬もなると暑い・・・・・・。
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 ロープウェイが発着した。このロープウェイは、ロープ比叡駅から比叡山頂駅までを繋いでいる。ただし距離はたったの500m、所要時間は3分。でも歩いて山頂に向うとなると回り道を歩くのでなかなか到着しないから、みんな乗ってしまうのである。
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 京都市内を見渡させるところにやっと出てきた。でもモヤがかかって見渡せない。見下ろすと眼下に洛北地域が見える。ちょうど松ヶ崎の山と宝ヶ池と国立京都国際会館、宝ヶ池プリンス・ホテルが見える。この松ヶ崎にある山に妙法の文字が燈され、8月16日の五山送り火の時にはクローズアップされるのであるが、この写真は妙法の文字が浮かぶ山の裏側から覗いている事になる。
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 ロープウェイ比叡駅の近くに叡山ケーブルのケーブル比叡駅がある。坂本ケーブルは滋賀県大津側の登山口となるが、こちらは京都側の登山口である。さあ、これから降りるとしようか・・・・・。
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 このケーブル・カーに乗るのも小学生の頃以来である。こちらは坂本ケーブルのケーブル・カーと比較すると、ごく普通のケーブル・カーでこれといって特徴が無い。全長1458m、坂本ケーブルよりも500m以上短くてトンネルも鉄橋も途中駅も無く、景色も素晴らしいというものではないが、高低差561mは日本最大である。
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 所要時間9分で到着。坂本ケーブルは10人ほどしか乗っている人がいなかったが、こちらは座れないほど乗客が多かった。
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 地上のケーブル八瀬駅である。
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 ケーブル・カーを降りて、これから京都の市街地に向う叡電に乗ることにする。ケーブル八瀬駅を出て高野川に架かる橋を渡れば叡山電鉄の八瀬比叡山口駅がある。叡山電鉄は昔は京福電鉄の経営であったが、今は京阪電鉄グループの別会社となっている。かつて、京福電鉄嵐山線・北野線を嵐電(らんでん)と呼ぶのに対して京福電鉄叡山本線・鞍馬線は叡電(えいでん)と京都の人は呼んでいたのである。それが今は独立して叡山電鉄と名称が変わっているので文字通り叡電である。叡電は、この八瀬からターミナルの出町柳までと、もう一つ鞍馬まで行く路線があり、宝ヶ池駅で分岐しているのである。
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 出町柳に到着したが、考えてみれば何も食べていなかった。それで軽い食事をとることにしたが、今まで入ったことが無いロッテリアで、コーラーとてりやきバーガー、チーズバーガーを食べた。
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 夕方の6時からはもう1人が合流して、京都の某所にある焼肉屋に入る。時間がまだ早いので店内はすいていた。
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 まずは生ビールを飲んでからユッケを食べる。
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 あとは炭火でソーセージ、鳥の軟骨、ハラミ、色々焼きながら乾杯! ・・・・・・・・ああ、疲れた疲れた。
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2008.05.23 (Fri)

比叡山に登る・前半

 コールデン・ウィークもしゃかりきになって働いたので、今頃になって休日をもらったのであるが、この2、3週間ですっかり暑くなってしまった。それで私は暑いのが苦手なので、あまり遠出する気も起こらず、かていって家に居るのも性に合わない。それならとばかり出かけたのであるが、行った先はなんと比叡山。私は京都に住んで何10年、でも比叡山に登ったのは、幼少の頃と、小学生の頃の2度だけ。大人になって一度も登ったことがない。だからその気にならないと行こうともしないから、ちょうどいい機会だと思ったのである。それに、今回は同行者がいて、同行者は比叡山に一度も行ったことがないというので、それならとはがり一緒に行くことにした・・・・・・・・・。

 比叡山といっても京都近辺以外の人にはよく判らないと思う。京都市の北東に位置する東山三十六峰の一つで山頂の高さは848.3m。古くから紀州・高野山と並ぶ、信仰対象の山とされ、京都の鬼門にあたる北東に位置するので、比叡山は王城鎮護の山とされているほど重要な山なのである。

 私が比叡山に行ってみたいと思いついたのは、ケーブル・カーに乗ってみたいと突然、思ったからである。だから比叡山の延暦寺に行こうと考えたわけでもなく、子供の頃に一度だけ乗ったことのある坂本ケーブルにもう一度、乗ってみたいという欲望にかられたからである。それでケーブル・カーに乗るのだから、山の上まで上がってしまう。それならついでに延暦寺も寄って、京都側に降りて帰ればいいだろうと考えたのであった。

 まずは大津市内を走る京阪電鉄石山坂本線の終点である坂本駅まで目指して出発。・・・・京阪電鉄とは大阪~京都を結ぶ大手私鉄であるが、滋賀県内には、このような2両連結の小型の電車がトロトロと走っている。
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 京阪の坂本駅で降りて坂本ケーブルの坂本駅まで歩く。カンカン照りで初夏の太陽が射す。気温は25度を超えて夏日であり、ケーブルの駅まで20分ばかりかけて歩くと汗ばんでくる。日吉大社の境内を通って、坂を登りケーブルカーの出発駅に到着。
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 坂本ケーブルは全長2025mと日本最長である。1927年に開業し、山上まで11分で到着する。途中に2つの駅があり、トンネルも2ヶ所あり、ところどころ視界が開け琵琶湖が見渡せるので、車内からの景色は素晴らしい。

 ケーブル・カーの坂本駅から登っていく軌道を望む。
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 日本には現在営業中のケーブル・カーが23ヶ所あるが、そのうち12ヶ所が近畿にあるという。何故、近畿に多いかというのは、都市の近くに必ず600m以上の山が存在するからである。東京近辺は人口は多いが、ケーブル・カーで登るような山がすぐ近くには無く、多摩方面まで行かないといけないからあまりケーブル・カーが発達しなかったようだ。

 したがって京阪神には神戸の六甲、摩耶、大阪の生駒、信貴、妙見、京都の比叡、鞍馬、男山、和歌山の高野といった山々には必ずケーブル・カーがあって山頂まで行けるようになっている。それで日本最長のケーブル・カーが、この比叡山坂本ケーブルである。でも1966年までは群馬県の伊香保ケーブル(2090m)が日本最長であった。残念ながら伊香保ケーブルは採算が合わなくなり廃止に追い込まれ、それ以降、この坂本ケーブルが日本最長ということになっている。ちなみに第2位は神戸の六甲ケーブル(1764m)である。

 もっとも戦前には京都市内に愛宕山鉄道鋼索線(愛宕山ケーブル)という日本一長いケーブル・カーがあったということは聞いている。京都の清滝川から愛宕までの間の2135mをケーブル・カーが走っていて、愛宕山にはホテル、遊園地、スキー場があったという。でも戦時中に不要不急線として軍部に撤収され、廃止されたのである。その頃は、各地のケーブル・カーは受難の時代だったといえよう。戦後、愛宕山ケーブルは復活することも無く今日に至っている。
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 坂本ケーブルのケーブル・カーの車内はこんな感じで、レトロな雰囲気となっている。同行の輩はずいぶんと喜んでいた。
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 いざ出発!しかし、ゴトンゴトンとよく揺れる。
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 最初のトンネルにさしかかる。「トンネルだトンネルだ嬉しいな」と童心に返って・・・・・。
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 鉄橋もある。鉄橋の向こうには2つ目の長い方のトンネルが見える。
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 おお! トンネルから下りのケーブル・カーが姿を現した。
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 ここでケーブル・カー同士がすれ違う。でもケーブル・カーは下るよりも上がって行くほうが楽しい。
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 2番目の長い方のトンネルに入ろうとする。乗務員とその後ろに立っていた人の顔が窓に反射している。
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 これが結構、長いトンネルである。
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 トンネルの出口から視界が広がっている。
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 山上のケーブル延暦寺駅に到着。延暦寺駅の駅舎は風情がある。この建物は文化財らしい。
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 延暦寺駅の側から琵琶湖方面を一望できるのであるが、あいにくモヤがかかっていて見通しが悪い。今の季節はやはり駄目だ。秋から冬だと空気が澄んで見晴らしがいいのだが・・・・・・・。
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 後半は明日にでもアップするとします・・・・・・・・・・。
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2008.05.21 (Wed)

『ぼてぢゅう』のソース焼きそば(カップ麺)を食べる

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 大阪のお好み焼きチェーン店の一つに『ぼてぢゅう』がある。ここは1946年(昭和21年)創業という老舗で、大阪の玉出で細々と営業していたが、何時の間にか全国展開して、大阪のお好み焼き=ぼてぢゅうというほど浸透しているようだ。つまりここの『ぼてぢゅう』がソースの上にカラシとマヨネーズをかけて味付けをしたことで、大阪のお好み焼きは全てそのように焼かれていると思われてしまったようだ。

 だが、『ぼてぢゅう』のお好み焼きは日本全国どこへ行っても美味しいかというと、必ずしもそうではなく、やはり店によってバラつきがあるのは当然である。だから私は『ぼてぢゅう』なんて行かないのだが・・・・。お好み焼きは単純なように思えて意外と奥の深い食べ物なのである。作るまでの作業工程で少しおかしいと不味くなるからだ。まず混ぜ加減であるが、混ぜすぎてもいけないし、混ぜる時にも漠然と混ぜてはいけない。それに焼き方も難しい。だから東京などで、自分で焼くお好み焼きの店があるが、ずぶの素人が焼いていては、店の人が焼くほど美味しくは出来ないと思う。自分で焼くのを楽しんでいるのならそれでもいいが、余り美味しく出来上がらない。だから熟練した職人に焼いてもらうのが一番良いのは当たり前なのである。それでチェーン店というものは、職人の数も多いが熟練者もいれば新米もいる。それで彼らが全て均一のお好み焼きを焼くかというと、そうではないのだ。だからチェーン店でも店を選べということである。だから私は、あまりチェーン店は行かないのである。

 ところで、のっけから『ぼてぢゅう』の話になったが、お好み焼きの話を書くつもりではなかったのだ。今日は、『ぼてぢゅう』がエースコックから出しているソース焼きそば(カップ麺)を食べたので、そのことを書こうと思っているのだ。

 以前、鶴橋『風月』のカップ焼きそばを食べたときも書いたが、所詮はインスタント食品だから店で焼いてくれる焼きそばのようにはいかないが、今回はどうだろうかと思い買ってみた。ただし今回の『ぼてぢゅう』のソース焼きそばは、内包された白いマヨネーズを加えるというのが特徴である。前回の『風月』の焼きそばは、生麺を使っているから美味しいかと思ったが、揚げ麺のカップ焼きそばと比較しても大差はなかった。それで今回の『ぼてぢゅう』の焼きそばであるが、揚げ麺で日清とかが出しているようなカップ焼きそばと似たような、麺のかたまりが入っていて、その上にかやくをばら撒くや熱湯を注いで蓋をする。そして5分間も待つそうだ・・・・・。

 どこにでも出ているカップ焼きそばよりも、余分に2分間熱湯に浸しているというのは麺がやや太めだからだろうか。5分間待ってお湯を捨てて、そこへ特製ソースと例の白いマヨネーズをまけて麺になじむように掻き混ぜる。それで食べてみた。・・・・・・あんまりかわらないなあ。

 所詮はインスタントのカップ焼きそばである。期待しすぎであった。確かにカップ焼きそばの水準からいうと上のほうであろう。でもやっぱり水臭い。巧くソースとマヨネーズかき混ぜ合わされないし、インスタント独特の匂いが鼻につく。それにかやくがしょぼくれてしまい味覚に生きてこない。でも価格からしてこんなもかもれしないが、腹の足しぐらいにはなるだろう。最も私はよほど美味しいと思わないと褒めないから人よりは辛口のコメントになるかもしれないが・・・・・。
 
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2008.05.20 (Tue)

ジミ・ヘンドリックスのアルバムを聴く・・・・・『アー・ユー・エクスペリエンス』

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 1970年の夏休み、映画『ウッドストック』が上映された。10代の少年だった私は暑い最中、映画館に足を運んだが、平日ということもあって館内はガラガラで、私以外ではサラリーマン風の人が3人と、ヒッピー風の若者が数人しかいなかった。でも映画は新鮮さも手伝って、海外のミュージシャンが奏でる音の饗宴に私は時間を忘れて見入っていた。

 『ウッドストック』とは、1969年8月15日から17日までの3日間、アメリカ・ニューヨーク州のウッドストックで繰り広げられたロック・フェスティバルで、観衆が40万人、参加したミュージシャンが30組以上。ざっと名前を挙げるだけでもカントリー・ジョー、ジョン・セバスチャン、ジョニ・ミッチェル、ラヴィ・シャンカール、アーロー・ガスリー、ジョーン・パエズ、サンタナ、スライ&ファミリー・ストーン、シャナナ、ジャニス・ジョプリン、CCR、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、テン・イヤーズ・アフター、クロスビー,スティルス&ナッシュと当時の著名なフォーク、ロック、ブルースといったミュージシャンが大勢参加した。参加していない大物といえば、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ドアーズ、サイモン&ガーファンクル・・・ぐらいで、これだけの音楽アーティストが集まれば、さぞや見応えがあっただろうと思う。そんなウッドストックのロック・フェスティバルで、トリを務めたのがジミ・ヘンドリックスである。

 ジミ・ヘンドリックスが登場したのは、3日目の朝で観衆の大勢が帰ってしまっていた。だから観衆の盛り上がりもいまひとつであったが、私は映画のスクリーンから映し出されるジミ・ヘンドリックスに圧倒されたことはいうまでもない。登場するやいきなり『アメリカ国歌』を演奏し始めたのである。それも右利き用のギターを逆さにして、右手で弦をおさえ、左で弦をつまびくというとんでもない奏法で演奏するのである。『アメリカ国歌』のメロディの途中に、爆弾の破裂音や機関銃の効果音をギターで弾きこなし、当時、泥沼化していたベトナム戦争への大いなる皮肉を表現したのであった。そして、『アメリカ国歌』に続いて、激しい重低音と共に『Purple Haze』のイントロが始まり・・・・・・・Purple Haze was in my brain,lately things don't seem the same,actin' funny but I don't know why 'scuse me while I kiss the sky.・・・・・とジミ・ヘンドリックスのシャウトする声が館内に轟いていて、これが噂のジミ・ヘンドリックスかと思った。とにかく歯でギターを弾いたり、ギターを壊したり燃やしたりするパフォーマンスと卓越したギター演奏でそれ以前から有名であった。でも今と違って、当時は海外のロック・ミュージシャンの動く映像に触れることは簡単にできない時代であり、ラジオでも流行のポップスはよく聴かれるが、ジミ・ヘンドリックスあたりになると、マニアックな者しか聴かない音楽であった。だから私がまともなジミ・ヘンドリックスの動く映像を観たのは、この時が最初であった。その後はテレビでもジミ・ヘンドリックスの映像を良く取り上げるようになっていたと思うが、残念ながら『ウッドストック』の映画が上映されてから、一ヵ月後の1970年9月13日、ジミ・ヘンドリックスは27歳という若さで亡くなった。

 死因はバルビツール酸系の睡眠薬の大量摂取ということであったが、同時にアルコールも飲んでいたという。でもそれ以前から、薬物常用者であり、死の真相は不明ともいわれている。

 ジミ・ヘンドリックスを初めて聴いたのは、1967年初頭だったろうか。曲は『Hey Joe』だった。それは、その頃のポップスにありがちな判り易いサウンドではなく、重い響きのブルースで、とにかく音が大きくて驚いたものである。1966年から1967年というと音楽が変わっていく時代であり、ビートルズが歴史的アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を出すことでも判るがポップス全体が大きく動いていた。そんな最中にジミ・ヘンドリックスは母国アメリカではなくイギリスでデビューしたのである。つまりR&B色の強いロックは、時代が求めていた音楽だったのかもしれない。だから時を同じくしてクリームやヴァニラ・ファッジ等もデビューしているし、ヤードバーズも健在であった。でも、そんな中でジミ・ヘンドリックスの存在は異色であった。

 まず彼は黒人であったこと。それにアメリカ人なのにイギリスでデビューしたこと。それと何よりも恐るべきギター・テクニックの持ち主であったこと。その頃、私は『ミュージック・ライフ』等の雑誌をよく読んでいたが、ジミ・ヘンドリックスは、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出されてイギリスへやって来て、ノエル・レディング(ベース)、ミッチ・ミッチェル(ドラムス)というイギリスの白人とグループを組むという風変わりさ。また提供している音楽もハードなブルース色の強い難解なものであったこと。だから日本ではなかなか大衆受けしなかった。だが、イギリスで火がつきアメリカでもファンが増え、徐々にジミ・ヘンドリックスのギター演奏とパフォーマンスが評判を呼び、日本でもジミ・ヘンドリックスの特集が音楽雑誌で組まれるようになっていったように思う。

 彼はシアトルで1942年に生まれている。父は黒人で母はアメリカの先住民族だという。だから純粋な黒人ではない。子供時代は貧しくて多くのミュージシャン同様、彼もレコードを聴いて育ったという。15歳でギターを始め、主にR&B、ロックンロールを聴いて独学でギターを習得、10代はアマチュア・バンドでギターを弾いて、軍隊に入隊し、除隊後、プロとして音楽活動を開始。当初はバックミュージシャンだったが、この頃にB・B・キング、サム・クック、アイク&ティナ・ターナー、リトル・リチャード等と一緒に音楽ツアーに参加していた。そして、1966年夏、アニマルズのチャス・チャンドラーに見出された事実は、先ほどに述べた通りである。

 その後、ジミ・ヘンドリックスは1969年になってエクリベリエンスを解散し、今度は黒人2人とバンド・オブ・ジプシーを結成するが、1970年の初頭に解散している。

 結局、ジミ・ヘンドリックスは表舞台に出てからだと、僅か実動4年という短い期間で生涯を終えてしまった。でも伝説のギタリストとして、語り草になるほど後世に名を残していて、今でも史上最高のギタリストだとして評価を与える人は実に多い。僅か27年の生涯だっただけに、急逝したのが惜しまれるミュージシャンであった。

 『Foxy Lady』を演奏するジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス


 ウッドストックの中で『アメリカ国歌』を演奏するジミ・ヘンドリックス


 ウッドストックの中で『Purple Haze』を演奏するジミ・ヘンドリックス

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2008.05.19 (Mon)

ハービー・ハンコックのアルバムを聴く・・・・・『処女航海』

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 ハービー・ハンコックは1940年生まれだから今年で68歳ということになる。でもジャズの世界で言うと新しい世代に入る。それだけに何かをやろうとする意欲が現れているが、このアルバム『処女航海(Maiden Voyage)』なんかはジャズという潮流の中で変革期にあったといえるものである。録音は1965年と新しく、これまでの一曲一曲が独立しているのではなく、アルバム・タイトルの通り海をテーマにしていて、アルバム全体で海の物語を形成している。

 最初の曲はアルバム・タイトルと同じ『処女航海』で、船出の情景を表現していて、2曲目以降が『The Eye Of The Hurricane』『Little One』『Survival Of The Fittest』『Dolphin Dance』であって、それぞれが独立している曲でありながら、全体的に海のイメージを描写している。つまりアルバムのテーマに沿って曲が構成されている。これは時代の流れかもしれないが、単なる曲の寄せ集めのような、これまでのアルバムとは雰囲気も違っていて、とめどもなく管楽器がメロディを奏で、ハービー・ハンコックのピアノが彩りを加えるが、音色そのものは暑苦しさが無くサラッとした印象さえ受ける。人によっては60年代を代表するジャズだという人もいて、新主流派と呼ばれ、ピアノのハービー・ハンコックをはじめとしてフレディ・ハバード(トランペット)、ジョージ・コールマン(テナー・サックス)、ロン・カーター(ベース)、トニー・ウィリアムズ(ドラムス)といった新時代のジャズの流れを汲む面々が顔を揃えて、このアルバムは録音されたのである。つまり1960年代の中頃、マイルス・ディヴィスのグループにいたメンバー達で形成されているのである。だから各自が技を競い合っているようで、実は個人個人のプレイが積み重なって全体の雰囲気を構成しているといえばいいだろうか・・・・・。とにかく60年代を代表するジャズ・アルバムである。

 ところでハービー・ハンコックという人であるが、この人は7歳からピアノを本格的に始め、11歳でアメリカ屈指のオーケストラであるシカゴ交響楽団と共演したという。当時のシカゴ交響楽団というと、ラファエル・クーベリックが音楽監督として就任していた時代で、後任のフリッツ・ライナー時代ほどではないが、アメリカの5大オーケストラに数えられていた。そういったピアノの才能に恵まれていたハービー・ハンコックが高校時代からジャズに目覚め、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンスの影響を受け新しいジャズを模索していたものであるが、僅かに弱冠20歳でプロ・デビューしている。また一方では音楽と電子工学の分野で博士号を持つ秀才なのである。

 ハービー・ハンコックはインテリ故に研究心旺盛で、絶えず新しい試みを追求していたといえよう。1963年から68年まではマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとして活躍し、作曲家としても『ウォーターメロン・マン』『カンタロープ・アイランド』等を残している。ストレート・アヘッド・ジャズ、フュージョン、ファンクなどで先端を走りジャズ・ロックなるものを開拓していたのもハービー・ハンコックである。彼は最も影響を受けた作曲家の中に現代音楽の旗手バルトークがいて、無調的な和声を含んだジャズを取り入れようとしていたのではないかとも思えるし、ジャズの世界だけではなく色んな音楽の要素を自己の音楽の世界に内包しようと絶えず挑んでいるようでもある。

 最近のハービー・ハンコックは映画『ラウンド・ミッドナイト』の音楽監督としてアカデミー賞作曲賞を受賞したり、2008年のグラミー賞で最優秀アルバム賞を受賞するなど、70歳近くなっても才能を枯れさせてないから驚愕する。まさに挑み続けるミュージシャンである。

『ウォーターメロン・マン』でマイルス・デイヴィス(トランペット)と共演するハービー・ハンコック

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2008.05.18 (Sun)

第3回ヴィクリトア・マイル

 来週からオークス、日本ダービーと控える東京競馬場で、今日は古馬牝馬のマイルGⅠである第3回ヴィクトリア・マイル(Jpn-Ⅰ・4歳以上牝馬、芝1600m、18頭)が行なわれた。

 今年で3回目となる新設のグレードⅠレースであるが、あまり興味がない。私は正直、牝馬限定のレースは嫌いなのである。昔からある3歳クラシック・レースの桜花賞、オークスはしょうがないとしても、秋華賞というレースは無くてもいいと思っているし、エリザベス女王杯は牝馬の年度№1を決めるのには必要かもしれないが、私個人的にはどうでもいいレースである。そもそも牝馬というのは、勝つことよりも良い産駒を産むことの方が大事であって、牝馬限定のレースに勝つことよりも牡馬と混合のレースで勝ってこそ、名牝と呼ばれるのではないだろうか。それに牝馬というのは総体的に早熟の傾向にある。だから3歳時は強くても古馬になって成績が尻下がりという馬ばかりで、何時までも現役で走らせていると成績に傷がつく。だから早目に繁殖に上げた方がいいと思っている。それに、いくら牝馬限定のレースで勝ってきても所詮は牝馬限定での話である。また3歳時は牡馬に伍して戦えても、古馬になると牡馬はさらに成長するから牝馬との間に実力差が出てくるのは当然であり、短距離路線なら戦えても中距離以上の牡馬牝馬混合のレースで勝ち続けることの方が遥かに難しいのだ。なので、古馬になって天皇賞を勝ったトウメイ(有馬記念を勝った最後の牝馬)やエアグルーヴというのは格別の値打ちがあるのだ。・・・・・と嘆いたところで、レースは行なわれるのだから記事だけは書くことにするが、ダービー馬のウオッカが出てきて大いに注目された。

 このウオッカも3歳の時からあまり成長していないし、史上屈指の牝馬から並みの一流牝馬程度まで評価が落ちてきている。早く引退させた方がいいのでは・・・・・・。それに今さら、マイルのレースに出ると馬が戸惑うだろう。

 1番人気はウオッカ、2番人気はニシノマナムスメ、3番人気はベッラレイアで、好天の中、スタートが切られた。まずトウカイオスカーが後ろから行く予定なのか、すんなりと下がってしまった。先行争いはこれといって行く馬がいない。長い向こう流し、押し出されるようにピンクカメオが先頭に立つ。2番手にはヤマニンメルベイユ、3番手にインコースを通ってジョリーダンス、その外にニシノマナムスメ、さらに外からレインダンス、その後にベッラレイアとエイジアンウインズ、内にローブデコルテ、そしてブルーメンブラット、ベルモントプロテアと続き、その後にダービー馬ウオッカ、さらにタニノハイクレア、タイキマドレーヌ、パーフェクトジョイと続き、アルコセニョーラ、テンイムホウ、トウカイオスカー、マイネカンナまで差が無く続く。

 スタートからのハロン毎のタイムが12.4---11.3---12.0---12.2と前半の800mが47秒9、1000m通過が1分00秒なので、馬場を考えるとかなり遅い。でも隊列は変化無く、いよいよ直線に向こうとしている。インコースのピンクカメオ、ヤマニンメルベイユがコーナーワークを利して先頭。その後にブルーメンブラット、ニシノマナムスメが追い出しにかかろうというところである。あと200m。ここでブルーメンブラットが先頭に出た。その外からエイジアンウインズが勢いよく接近。ウオッカはようや大外から5、6番手に進出。あと100m、ここからは3頭の争いに絞られる。でもエイジアンウインズが出ている。ウオッカも勢いよく伸びてくるが、エイジアンウインズも伸びている。内のフルーメンブラットも粘り強い。結局、エイジアンウインズが勝った。

 1着エイジアンウインズ 1分33秒7、2着ウオッカ 3/4、3着ブルーメンブラット ハナ、4着ヤマニンメルベイユ 3馬身1/2、5着ニシノマナムスメ ハナ。

 勝ったエイジアンウインズは初のマイル戦を克服した。まだこれが11戦目というキャリアの少なさを乗り越えて勝った。ウオッカは3歳の時はマイル戦は得意だっただろうが、その後、中距離を中心に使われているので、道中の走りっぷりからして馬が戸惑っていたのではと感じるが、上がりが33秒2と最速で伸びてきているし、あれだけスローペースの展開なのだから、もっと前で競馬しないとなかなか勝てない。またこの馬も古馬になってずぶくなっているせいなのか、前に行けなくなっている。だから勝ち味が遅いのかもしれない・・・・・・。今後、ウオッカは出るレースに困るだろうが、当面は秋の秋華賞、エリザベス女王杯が目標だろう。でも昨年の春から成長はあまり見られないので、これからも善戦ばかりで勝てないレースが続くかもしれない・・・・・。カントリー牧場の馬は応援しているのだが・・・・・・・・・・。

 最後に昨日行なわれた重賞の結果を記しておくとする。

     東京 京王杯スプリングC(GⅡ・4歳以上、芝1400m、17頭)

 1着スーパーホーネット 1分20秒8、2着キストゥヘヴン 1馬身3/4、3着スズカフェニックス クビ、4着アイルラヴァゲイン 1/2、5着キングストレイル 3/4。

     京都 京都ジャンプS(J-GⅢ・4歳以上、芝3170m、11頭)

 1着テイエムトッパズレ 3分33秒3、2着ナイトフライアー 1馬身3/4、3着エイシンペキン 3馬身、4着バトルブレーヴ 4馬身、5着メイケイグリーン 3/4。
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2008.05.18 (Sun)

第133回プリークネスS

 アメリカ競馬、3歳クラシック3冠レース第2戦のプリークネスSが17日夕方(日本時間今朝)、ボルティモア郊外にあるピムリコ競馬場で行なわれた。

 第133回プリークネスS(GⅠ・3歳、ダート9.5F、12頭)は、圧倒的1番人気に支持されているケンタッキー・ダービーの覇者ビッグブラウンが予想通り圧倒的強さで快勝した。レースも前回のケンタッキー・ダービー同様、好位置につけて、4コーナーから一気に先頭に立ち、後続を5馬身以上も引き離して圧勝した。結果は次の通りである。

 1着 Big Brown 1分54秒80、2着 Macho Again 5馬身1/4、3着 Icabad Crane 1/2、4着 Racecar Rhapsody 3/4、5着 Stevil 4馬身1/4。

 これでビッグブラウンはデビューから負け無しの5連勝で3歳クラシックの2冠を制したことになり、いよいよ6月7日のベルモントSで、アファームド以来となる30年ぶりの3冠馬を目指すこととなった。ベルモントSには日本から参加のカジノドライヴも出走予定なので、大いに注目される事となった。

 今回、簡単ではありますが速報ということで、このあたりで失礼します。
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2008.05.17 (Sat)

シルヴィー・ヴァルタンを聴く

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 私が小学生の頃だったが、姉が聴いていたレコードの中で愛らしい声で印象深い曲がある。それは姉がよく聴いていた英語のポップスではなく、英語以外の言葉で歌われていた。私は、まだ英語もかじってない小学生であったが、英語とそれ以外の言語の区別ぐらいは、その頃でもついていた。それで誰が歌っているのかと姉に訪ねるとフランスの曲だという。その曲はシルヴィ・ヴァルタンが歌う『アイドルを探せ』だった。

 1963年のフランス映画の主題歌で歌っているシルヴィー・ヴァルタンが主演した映画であるという。姉はこの映画を観たのだろうか、18歳のシルヴィー・ヴァルタンの愛くるしい笑顔と共に曲の方もヒットしたのだった。確かに当時のレコード・ジャケットのシルヴィー・ヴァルタンは愛くるしい顔をしていて、まさにアイドルであっただろう。

 シルヴィー・ヴァルタンというとフランスのシャンソン・イエ・イエ(新しいシャンソン)といわれる歌手であるが、日本ではたいへんな人気があった。だから小学生の私でも曲を覚えているのであって、いわゆる本格的なシャンソンとは一線を画していて、どちらかというとフレンチ・ポップスと呼ばれるジャンルに属するものではないだろうか。だから英語圏の曲もよくカバーしていたように思う。

 彼女は1944年にブルガリアで生まれている。だから純粋のフランス人ではないといいたいが、フランス人というものは人種が入り交ざって形成されている。でも基本的にはラテン人でゲルマン人やケルト人といった北方の民族を祖先に持つ人も含まれていて、フランス民族といったものはない。だから純粋のフランス人ではないという言い方もおかしいが、フランス人の父とハンガリー人の母との間に生まれたブルガリア出身のフランスの歌手であるというから随分とややこしい。そして、彼女が10歳の時一家そろってパリに移住し、16歳でレコーディングしてデビューしている。

 こうして歌手になったシルヴィー・ヴァルタンは、『アイドルを探せ』で一躍人気が出て、映画の通りアイドルとなるが、その映画で共演した男性歌手ジョニー・アリディと結婚するも離婚。そして夫婦で自殺未遂事件を起こしてしまう。さらに離婚後、シルヴィー・ヴァルタンは交通事故に数回見舞われ、再起不能とまでいわれたことを思い出す。でも1968年、突如として『あなたのとりこ』という曲でカムバックする。

 でもこの時のシルヴィー・ヴァルタンは『アイドルを探せ』を歌っていたときとは何もかも雰囲気が違っていて、可愛さよりも大人の女の雰囲気が漂っていて、私は違和感を覚えずにはいられなかった。その後は『悲しみの兵士』等のヒットもあり、またモーツァルトの交響曲40番のメロディにフランス語の歌詞をつけた『悲しみのシンフォニー』や、アメリカン・ポップスのカバー等もやっていた。

 最近はシルヴィー・ヴァルタンの『あなたのとりこ』が映画『ウォーターボーイズ』やCMで使われたりして、知っている若者も多いという。でも18歳で歌っていたシルヴィー・ヴァルタンも今や60歳を越えている。40年以上の時を経て、シルヴィー・ヴァルタンの容姿もすっかり変わってしまった。本当に時間の経過というものは残酷である。

 『アイドルを探せ』を歌うシルヴィー・ヴァルタン


 『あなたのとりこ』を歌うシルヴィー・ヴァルタン

 
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2008.05.16 (Fri)

これから帰ります

ようやく職場を離れ、これから帰宅します。だから今日も更新はありません。
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2008.05.15 (Thu)

またまた電車の中

またまた携帯電話から書きこんでいます。先程、やっと仕事を終えて電車に乗りました。

 今週は残業が多くて、ブログの更新どころではありません。それに明日も帰宅は遅くなるので書きこめるかどうか判りません。だから更新は土曜日以降になると思います。あしからず・・・。
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2008.05.14 (Wed)

四川大地震から2日たって・・・・・

 昨日は帰宅が遅くなってしまいブログ更新がままならなかった。今日は比較的に早く帰れたのでブログ更新をすることにする。でも明日は早く帰れるか判らないし、明後日はまず更新は無理だろうと思うので、先に断っておきます。

 昨日はブログ更新が出来なかったから書けなかったが、一昨日の昼間(現地時間午後2時28分)、中国の四川省でM7.8の巨大地震が起こった。当初は被害がどの程度出ているのか判明しなかったが、日が経つにつれ死者の数がだんだんと増えてくる。地震発生から今日で2日、すでに死者の数は1万人を突破し、生き埋めになっているだろうという人の数が23000人超といわれている。そして、これまで被害が明確ではなかった震源付近では7700人以上が死亡したとみられ、これから日が経つにつれ死者の数は増えていくものと推定される。

 私は地震といえば、13年前の阪神淡路大震災をすぐに思い出すが、中国では過去に唐山地震という20世紀最大の被害をもたらした地震が有名である。それは1976年7月28日で、まだ文化大革命の真っ只中であった。この時、今回と同規模のM7.8の巨大地震が北京の東方の工業都市。唐山を襲った。諸外国は人的支援を表明したものの、中国側は拒否し、そのため救助が送れ、最終的には242419人という未曾有の死者を出すに至った。この時、中国共産党は外国のマスコミを、その後、暫くは唐山市内に入れなかったという。でも公表は24万人の死者であるが、現実にはもっと多くの死者が出ていたのではないかと未だに噂されている地震である。

 今回の四川省で起こった地震であるが、資本経済も導入して、あの当時よりは比較的に情報を公開するようになった中国であるが、まだまだ共産党一党支配の体制はなんら変わってない。だから今回も国連及び、米英仏露や日本などの諸外国が人的支援や医療部隊の派遣を表明しても、中国からの要請は一向になく、救助が大幅に遅れ死者が日を追うごとに増えていくものと思われる。

 何故、諸外国の救援部隊の介入を拒んでいるかは不明であるが、おそらく北京オリンピックを控えた中国での大地震、今回、色んな噂が飛び交っているようだ。まず中国は諸外国の救援部隊等、またNGО関係者に報道統制が及ばない場合の事態を考えているのでは・・・・・。これにより中国のテレビ、新聞等のメディアが伝えてないような深刻な情報を入手し、それらを洪水の如く情報として垂れ流すことを恐れているという。

 北京オリンピックを国威発揚の場と考えている中国政府にとっては、今回の地震は寝耳に水だろうが、こんなところで国の威信に傷がついてはならないと、外国のマスメディアに報道規制をかけようとするが、ありとあらゆる国からやって来る救援部隊にまで、報道管制が行き届かず、見られたくない闇の部分まで情報を垂れ流しされては困るというのだろう。

 でも変に意固地をはってプライドだけ誇示したところで、損をするのは中国の国自身なのによく判らない。人命救助というのは一刻を争うというのに、何ともおかしな対応をするから呆れ返ってしまう。我々は阪神淡路大震災で、もう少し救助が早ければ命が助かったという例を何度も見てきただけに、出来る限り早く現地に飛んで、生き埋めになった人や瓦礫の山に下敷きになった人を救助することこそが、国境を越えた援助だと考えるのであるが、中国という国は世界の社会通念が簡単に通じないようだ。

 唐山地震が24万人亡くなったというのも、救援が大幅に遅れたからだといわれているのに、またまた、今回の地震で同じような愚行を繰り返そうとしている。これだと死者の数が鰻登りに増えていくかもしれない。でも、それなのに同じ国内の福建省ではオリンピックの聖火リレーが行なわれていて、当地では盛り上がっているという。これを聞くと何とも複雑な心境になってしまう。今さらオリンピックでもないだろうと思うけど、一刻も早く瓦礫の山に埋もれた人の救助に向うのが筋ではないだろうか・・・。それとも13億人もいる国なので、1万や2万の人が死んだぐらいどうってことがないと思っている人がいるとしたら、これはこれで怖ろしい国ではあるが・・・・・・・・。
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2008.05.13 (Tue)

まだ電車の中

  この記事は携帯電話から書きこんでいます。

 残業を終えて、今、帰宅途中の電車の中です。こんな時間から家に帰ってブログを書いていたのでは、内容のある記事など書けるはずもないので、今日はこれで失礼します。

なお、今週は忙しくてこのような状況が続きそうなので、真っ当な記事は土曜日まで書けそうもありませんので、ご了承下さい。
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2008.05.12 (Mon)

カフカ『変身』を読む

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 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。彼は鎧のように堅い背中を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにぴくぴく動いていた。胴体の大きさにくらべて、足はひどく細かった。

 このような書き出しで始まるカフカの『変身』は、何とも奇妙な小説である。何故、主人公が奇怪な虫に変身したのか、また何故、変身しなくてはならなかったのか・・・・皆目、理由がわからないし、小説の中でも、何故に変身に及んだかについて一切、説明がなされてないからである。

 この小説の簡単なあらすじを言うと、グレーゴル・ザムザは、商科大学を卒業して軍隊に入り、その後はセールスマンとして働き、両親と妹の扶養をしている。ところが、この妙な変身により、自分の体がどうにもこうにもならず、早朝の汽車の時間も間に合わず、店から支配人がやって来て、何故、無断欠勤するのかと家族と押し問答が始まる。鍵をかけて寝る習慣のザムザは、ドア越しに弁明をするが、支配人は「獣の声だ」と恐れをなして退散する。

 昼になり顔を出したザムザを見て母親はへたり込み、父親は部屋へ突き返そうとする。その後、この家には色々と変動があって、女中は暇を取って出て行くし、父親は銀行の小間使いとして働きに出るようになり、母親は内職の針仕事に精を出し、妹も売り子になったが、さらに良い職につこうとばかり、速記術とフランス語の勉強をやりだした。

 ところが家族はザムザを徐々に邪険にし、グレーゴルの部屋は物置同然になっていく。グレーゴルは父からリンゴを投げつけられ重傷を負い、食欲も減退し、体も衰弱していく。いつしか手伝い女がグレーゴルが横たわって微動だにしないところを発見する。父親は「これで神様に感謝できるというものだ」と言って、親子3人は電車に乗って郊外に散歩に出かける。

 何とも冷酷で寒々しい小説であろうか。何とも理解しがたい話であるが、この虫に変身するという意味合いは、カフカ自身が言うには寄生虫というニュアンスがあるようだ。カフカは父親コンプレックスがあり、父親のすねをかじっていた寄食者であった。小説の中でグレーゴルが父親が投げたリンゴの傷が原因で死ぬが、これは父親の勝利を意味している。またカフカは現実問題として、『変身』を執筆している頃、午前中は役所に勤め、午後は父親の経営する工場の管理を任されていたという。つまり父親との関係上、彼が天職と考えていた文学のための時間をつくることか困難であり、こういった焦燥感がカフカに『変身』を書かせたとも言われ、虫けらそのものは経済的に自立することができなかった自分自身を示唆しているのである。

 カフカが激しい父親コンプレックスを持っていたと先ほど述べたが、彼が36歳の時に書いた『父への手紙』を読めばよく判る。まさしくそれは、親子の関係というよりも主君と奴隷の関係のようなものである。またカフカの短編『死刑判決』のように、結婚問題を中心として父子の意見がわかれ、父から溺死の刑を言い渡された息子が自殺するといった作品のように、自己断罪に終わるといったケースが多い。

 カフカの研究家ヘーゼルハウスが言うには、文学作品におけるメタモルフォーゼ(変形)というのは、三つのタイプがあるが、カフカの『変身』の場合は、人間が低次元、あるいは無生物的な自然領域へ追放される場合に使われる技法だという。結局、カフカは現実社会と非現実社会との対比を扉一枚で使い分けていたということだろうか・・・・・・。でも小生のような凡人には理解しがたい奇妙な文学作品である。
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2008.05.11 (Sun)

第13回NHKマイルC

 昨日来の雨が上がり、今日は東京で3歳馬のマイルGⅠ、NHKマイルC(Jpn-Ⅰ・3歳、芝1600m、18頭)が行なわれた。

 馬場やや重で時計がかかりそうな馬場であるが、皐月賞を回避した馬や、ここを当初から目標にしていた馬などが集結して覇を競った。人気はディープスカイが1番人気に支持された。今年の3歳馬としては末脚が鋭く、2月の東京のマイル戦(500万級)で2着であったが、破格の33秒4の上がり時計を記録している。そして、前走1800mの重賞・毎日杯にも勝っている。2番人気はビリーヴの仔で外国産という風変わりなファリダット。3番人気は皐月賞でも人気したブラックシェルである。

 第2コーナーの入り口がスタート地点で、長いバックストレートを走ることになる。ゲートが開くと2歳チャンピオンのゴスホークケンが先頭に立つ。朝日杯の再現を狙おうかという考えだが、中山のコースのように行くかどうか・・・・・・。2番手には桜花賞7着の牝馬のエイムアットビップとダンツキッスイがつける。4番手に皐月賞5着のレッツゴーキリシマ、その外にセッカチセージがいて、スプリングソング、リーガルスキーム、ドリームシグナル、エーシンフォワードが続く。その後にアンダーカウンター、サトノプログレスがいて、ブラックシェル、アポロフェニックスが続き、さらに人気のファリダット、サダムイダテン、そして1番人気のディープスカイが進む。ディープスカイの外にはアポロドルチェがいて、最後方にはダノンゴーゴーという展開である。ペースはやや重馬場を考えれば、少し速いかもしれない。スタートから12.2---11.0---11.4---12.1と前半の800mが46秒7。1秒ほど突っ込んで入ったという気がする。先頭のゴスホークケンは楽をしているように見えるが問題はこれからである。4コーナーを回っていよいよ直線コースに入る。中山よりも200m近く直線の長い東京競馬場。ゴスホークケンは逃げ切ることが出来るかどうか。内ラチ沿いではなく、馬場の三分どころを選んで走っている。あと400mというところ。ここでゴスホークケンの内からブラックシェルが伸びてきた。でもゴスホークケンは粘っている。ファリダットは外に持ち出して追い出だすが、まだ中団の位置。その間に内からブラックシェルが先頭に立つ。あと200mのハロン棒を通過。ここでさらに内からディープスカイがブラックシェルに並びかけようとする。ここから3頭が抜け出したが、先頭はディープスカイ、2番手にブラックシェル、3番手に最後方から伸びてきたダノンゴーゴー。完全に3頭が抜け出しているが、ディープスカイが先頭。2番手にブラッククシェル、3番手にダノンゴーゴー。ファリダットは外から来るが、前の3頭とは差が開いている。結局、前の3頭が等間隔でゴールイン。

 1着ディープスカイ 1分34秒2、2着ブラックシェル 1馬身3/4、3着ダノンゴーゴー 1馬身3/4、4着ドリームシグナル 3馬身1/2、5着ファリダット 1/2。

 勝ったディープスカイはテレビ画面を通しても馬体のよさで目立っていた。勝ち方も強かったが、ダービーに出るとどうだろうか・・・・・・。今年の3歳はオープン馬と条件馬の実力が接近しているので、ダービーでも展開一つでとんでもない穴馬が連に絡みそうな気がする。だからディープスカイも可能性がある限りダービーに出走してみればと言いたくなる。

 最後に昨日行なわれた京都と新潟の重賞を記載しておくとする。

     京都新聞杯(GⅡ・3歳、芝2200m、16頭、やや重)

 1着メイショウクオリア 2分18秒4、2着ロードアリエス アタマ、3着マイネルローゼン アタマ、4着ホワイトピルグリム 1馬身1/2、4着ブラストダッシュ 3/4。

     新潟大賞典(GⅢ・4歳以上、芝2000m、16頭、良)

 1着オースミグラスワン 1分58秒5、2着マンハッタンスカイ 2馬身1/2、3着フィールドベアー ハナ、4着シルクネクサス ハナ、5着スウィフトカレント クビ。   
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2008.05.11 (Sun)

ピーター・パンS・・・・・カジノドライヴ圧勝

 今日の早朝、アメリカのベルモント・パーク競馬場で行なわれたピーター・パンS(GⅡ・3歳、ダート9F、9頭)に、日本から藤沢和雄厩舎のカジノドライヴが出走して圧勝した。

 カジノトライヴは2月23日の京都の新馬戦に出走して、この時は大差で圧勝したが、日本のクラシック・レースには目もくれずダート競馬の本家アメリカへ旅立った。もちろん目標はベルモントSである。カジノドライヴはアメリカ産の3歳馬で、半兄がジャジル(Jazil)、半姉がラグストゥリッチーズ(Rags to Riches)で、共にアメリカ3歳クラシック・レースの最終戦であるベルモントSの覇者である。だからカジノドライヴも、デビュー当初から目標はベルモントSと決めていたようで、もしこのレースに勝てば兄弟の3連覇の偉業が達成されることとなる。

 ピーター・パンSはダートの9ハロンで行なわれたレースで、日本の新馬戦に大差で勝ったからといって、アメリカのGⅡレースにいきなり出てきてどうかなあと思ったが杞憂に終わった。スタートは悪かったが立て直して好位置に上がり3番手から4コーナーで直線に立つと、直線は独走で騎手のデザーモが勝利を確信すると、あとは手綱をおさえてゴールイン。2着とは6馬身近くの差が開いていた。

 1着 カジノジライヴ 1分47秒87、2着 Mint Lane 5馬身3/4、3着 Ready's Echo 1/2、4着 Golden Spikes 3馬身3/4、5着 Cosmic 6馬身1/4.。

 なお、カジノドライヴと一緒に出走していたスパークキャンドルは6着であった。

 さて、これでカジノドライヴがベルモントSに出走することは確実となったが、強敵は先日のケンタッキー・ダービーに勝ったBig Brownということになるだろう。Big Brownは、これからプリークネスSに向うが、これにも勝つとベルモントSで30年振りのアメリカ3歳クラシック・レース3冠馬を目指すことになる。もし、そこで対決するとなると大いに注目されるが、Big Brownの強さも格別で、カジノドライヴが簡単に倒せる相手ではないことは確かであり、それに3冠馬として挑戦してくるとなるとアメリカのファンを敵にまわすことになるだろう。そういった困難を乗り越えて、カジノドライヴはどのようなレースを繰り広げるのか、楽しみになってきた。今年は日本の3歳クラシック・レースが期待はずれのレースばかりで興味をそがれるので、海外の方にどうしても私なんか目がいってしまう。だから今からベルモントSが行なわれる6月7日が楽しみになってきた。

 ピーター・パンSで圧勝したカジノドライヴ。


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2008.05.10 (Sat)

胡錦濤が帰った・・・・・

 今日は1日雨。このところ初夏のような暑さが続いていたと思ったら、この雨のせいで一気に気温が下がりとても肌寒い日であった。でもこんな雨の中でありながら、野暮用で大阪の街の中を歩いていたら、何時もより警察官の数が多かった。それで何事かと思ったら、中国の国家主席・胡錦濤が大阪入りしているので、このような警備体制がとられているとのことだった。それでいっぺんに不愉快になった。ホント、何しに大阪に来ていたのか・・・・・・。ことに宿泊している中之島のリーガ・ロイヤル・ホテル付近はものものしい警備である。

 先日から、日中首脳会談とのことで来日していた胡錦濤が、日本の福田首相と会談してみたもののこれといって進展はなく、結局、上野動物園にジャイアント・パンダを借すことだけが決まった。だから東京でおもな用事は終わったと思っていたら、関西入りして奈良の法隆寺、唐招提寺を訪問して帰るという。そして、雨の中、厳重な警備に守られて夕方に無事帰国の途に着いたようだ。

 胡錦濤と福田首相との話し合いは、これといって進展せず、日本側は毒入りギョーザの問題もうやむやにされ、東シナ海ガス田開発問題も棚上げにされ、上野動物園からいなくなったパンダをレンタルされることだけが決まったという何ともなさけない結果に終わってしまった。それでいて福田首相は「非常に充実した、有意義な会談を持つことができた」などと暢気なことを言っていた。私は別に中国が嫌いな訳でもなく、愛国精神がみなぎっているのでもないが、今回の日中首脳会談の結果には予想していたとはいえ少々がっかりした。

 福田康夫首相は胡錦濤にいきなりパンダ貸し出しの話を持ち出され、先手を打たれてしまったのか、何も強い姿勢で言えなくなってしまい、弱腰外交で終始し、今回の意味のない胡錦濤の来日の露払いをしただけという顛末。そもそも今回の胡錦濤の来日というのは、時期からいっても北京オリンピックを成功させるための一つの戦略であることは見え見えであった。だから日本と友好な関係を結んでおくことも必要であっただろう。しかし、最近、問題視されているチベット問題も、毒入りギョーザの問題も、東シナ海ガス田開発問題もすべて水に流されてしまってはたまらない。ことに、チベット問題に端を発した少数民族弾圧問題も大きく触れることはなく、結局、経済援助と日本の先進技術の協力を受けることだけは取り付けて、得るものだけを得てさっさと帰ってしまった胡錦濤である。

 今回、東京だけならともかく、何故、関西入りしたのかというと、どうやら最大の目的に松下電器の本社訪問があったという。だから奈良の法隆寺、唐招提寺訪問はついでと言ってはなんだが、中国と関係の深い寺院の訪問に留まっている。

 法隆寺というのは聖徳太子にかかわりのある寺だが、聖徳太子は日本仏教興隆の祖として崇仏派の蘇我馬子と協力して排仏派の物部守屋を没落させ、隋と強い関係を持ったことなどもあり、また、唐招提寺は唐の僧侶・鑑真が開基した寺である。何れも中国とは深い繋がりがあるということで、今回の訪問先に選ばれたのであろうが・・・・・・・。今回の関西入りの目的は松下電器であるといわれる。

 松下電器は社名が10月からパナソニックに変更されるが、中国だけはこれまで通り松下電器、ナショナルで通すという。それは松下電器が日本の企業でいち早く中国に進出し、中国で実績を上げて来たからでもあるが、それ以上に松下電器がオリンピックの巨大スポンサーとして出費しているので、是非とも友好関係を築いていないといけないからでもあり、また1989年の天安門事件の時に松下電器は民主化問題に対して抗議もせず、中国から撤退しなかったから中国政府の中では受けが良いのである。だから今回、訪日に対しても松下電器本社訪問は念頭にあったようで、胡錦濤は帰国前の最後の訪問地として大阪府門真市の松下電器産業本社を訪ねている。松下電器は中国各地に工場を持ち、中国人を9万人も雇用している。多大な貢献を中国に対して行なっているから、それに対するお礼の訪問ということになるのだろうか。でも考えてみれば、結局は中国にとって有益なところばかり訪問していて、自国の利益にならないものには背を向け、それでいてチベット仏教には弾圧を加える。まことにもって不愉快である。

 これまで日本に対しても靖国問題や南京大虐殺等で何かにつけ日本叩きを繰り返していた。そして、中国の若者に一方的に戦前、戦中の両国の歴史史実を植え付けて中国人民の怒りを日本に向けさせてきた中国政府。それでいて一方では日本企業を巻き込んで先進諸国の仲間入りを果たそうというのが中国首脳部の思惑かもしれない。とどのつまりは、中国にとって突かれると痛い問題には目をそらし、都合の良いところだけには積極的になる胡錦濤。結局、今回の来日は何の意味もないただの外遊だったので、何も成果は上がらなかったというところだろう。しかし、一言、言わせてくれ・・・パンダなんかいらないし、北京オリンピックなんかやめてしまえ!!
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2008.05.09 (Fri)

古い映画を観る・・・・・『カサブランカ』

 『カサブランカ』1942年製作 アメリカ映画

 監督 マイケル・カーティス

 出演 ハンフリー・ボガート
     イングリッド・バーグマン
     ポール・ヘンリード
     クロード・レインズ
     コンラート・ファイト
     ピーター・ローレ

 【あらすじ】第二次世界大戦下の1941年12月。フランス領モロッコのカサブランカ。ここでは自由を求めてヨーロッパからアメリカへ渡ろうとする人で溢れかえっていた。そんなカサブランカでナイトクラブを経営するリックがいた。或る日、リックの店へナチスの手を逃れてここまでやって来た抵抗運動のリーダー、ラズロが現れる。だが、ラズロの妻はリックが、かつてパリで恋に落ちたイルザだった。その頃、フランスはドイツとその傀儡政権ヴィシー政権に分割統治され、フランス植民地のモロッコもドイツ軍の勢力下にあった。そのためドイツからその身を追われていたラズロは、現地司令官に出国禁止を言い渡されてしまう。ラズロの身を案じたイルザは、リックに・・・・・・・・・・。

 ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演した映画史上に残るラブ・ロマンス。けして二枚目ではないのに、気障が似合うボギーことハンフリー・ボガートと世紀の美女イングリッド・バーグマンが共演したハリウッド全盛期の恋愛映画というと月並みな形容であろうか・・・・・・。とにかくハンフリー・ボガートが気障な台詞を言いまくる。・・・・君の瞳に乾杯・・・・・・なんて言ったら、日本では間違いなく女性に嫌われる。でもそれがハンフリー・ボガートが言うと不自然ではないから不思議である。それに絶世の美女バーグマンの前では、そういった台詞もよく似合う。しかし、これがこの両名以外の俳優が演じたとしたら、この台詞がこれほど巧くはまっただろうか・・・・・。まさしくハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演したから、このような台詞を思いつかせたのではないかと私は考えるのだが。でも、この映画の撮影時というのは、混乱しまくっていて、撮影が始まっているのに脚本が出来上がってなくて、バーグマンはボガートとヘンリードのどちらを愛せばいいのかと監督に聞きながら演じたという。結局、どちらと結ばれることになるか、なかなか結論が出ず二通りのラストシーンを撮影して、良い方を採用しようということになったのである。それで先に撮影された方が使用されたという。

 またこの映画は編集でも揉めてしまい、全てがこんな調子だからイングリッド・バーグマンは映画の出来に対して自信が持てなかったという。でも短期間で低予算で製作され、撮影時はドタバタして完成もおぼつかなかった映画なのに、出来栄えが素晴らしく、アカデミー賞作品賞に輝く。

 またアメリカ映画協会が選ぶアメリカ映画歴代ベスト100の中の第2位に長い間選出されていた(1位は『市民ケーン』)。結局、最初から脚本もなく、行き当たりばったりで製作されていった映画なのに、結果オーライで、恋愛映画の古典とされ、気障な台詞も後年の映画に使われたりして、何かにつけ傑作傑作といわれる。しかし、製作中のゴタゴタを考えれば、気障な台詞や音楽も製作の流れで強引に使われたに過ぎず、巧くストーリーにはまっていると考えるのは論外というものであろう。

 だからこの映画の挿入歌『時の過ぎ行くまま(As Time Goes By)』が良いとか、反ナチスを訴えている映画だとか、政治風刺が効いているとか蘊蓄をたれても意味が無い。とにかく後から何でも製作時に付け加えられた映画なのである。つまり映画というものは、最初から一流の脚本家が書いて、巨匠監督が演出して、人気俳優や名優が演じてもけして上出来の映画が作れるというものでもない。この『カサブランカ』は偶然の産物なのである。ぶっつけで映画を撮り始めて、どうにか完成までこぎつけたら、最高のラブ・ストーリーだといわれたという。結局、怪我の功名だったのだというと、監督や脚本家、出演者に失礼だろうか・・・・・・。

映画の中でドゥーリー・ウィルソンが『時の過ぎ行くまま(As Time Goes By)』歌う。

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2008.05.07 (Wed)

ミャンマーを襲ったサイクロン被害を憂える

 先日の5月2日夜から3日にかけてミャンマーを直撃したサイクロンの被害は甚大で、ミャンマー国営放送が伝えるところによると、死者22464人、行方不明41054人に達しているという(6日現在)。その中で最も被害が大きかったのは、イラワディ河口デルタ一帯で、3m以上の高波が地域を襲い約1万人以上がのまれて死亡。被災者も全土で数100万人に及び、ライフラインも回復しておらず、今後、死者・行方不明者が増える模様とも言う。

 またまた東南アジアを襲ったサイクロン。1991年にはバングラデシュを襲ったサイクロンで、死者・行方不明14万人という大惨事を思い出すが、東南アジアで起こる天災というのは、とにかく死者が多くて何時も胸が痛む。

 そもそも熱帯低気圧の中で最大風速が34ノット(10分間平均)以上のものを台風と呼ぶが、これは日本だけの分類で、国際分類ではタイフーン(日本名で台風)は最大風速64ノット(1分間平均)以上とされている。だからハリケーンも最大風速64ノット以上のものをそのように呼ぶのだが、それ以下で最大風速34ノット以上だとトロピカル・ストームという呼び方がある。でも国際的には熱帯低気圧の中で最大風速64ノット以上のものを、タイフーン、ハリケーン、サイクロンと呼ぶのであって、どれが1番大きくてどれが1番強いというものではないだろう。とはいえインド洋で発生するサイクロンというのは、何時もアメリカや西インド諸島を襲うハリケーン、日本や東アジアを襲うタイフーンよりも被害が大きいというのは、何時も感じることである。

 今回のサイクロンがどの程度の強大さか詳細は判らないが、おそらく過去の日本の強大な台風と比較しても大きいとはいえないだろう。私が記憶している台風の中で被害が1番大きかったのは、1959年の伊勢湾台風である。私は幼かったので、かすかな記憶でしかないが、浸水した屋根の上に登って救助を待つ被災者の姿がテレビで映し出されていた。この時の伊勢湾台風は名古屋を中心に被害が大きくて、死者・行方不明5098人と、日本の台風史上最大の被害をもたらした台風として知れ渡っている。

 次に伊勢湾台風から2年後のことであるが、関西を第二室戸台風が襲った。この時のことははっきり覚えている。1961年(昭和36年)9月16日の土曜日の朝、西南の方角が薄暗く、台風が接近してることが見て取れた。この時は企業も学校も全て休みで、私の両親も姉も雨戸を閉めローソクの光の中でラジオをつけて、通り過ぎようとする台風が荒れ狂う中を耐えるように潜んでいたことを思い出す。第二室戸台風は勢力も強大だったが、スピードも速く、夕方には通り過ぎて青空が見えていた。私と姉は近所を見て歩き、瓦屋根が飛んだ家や、テラスが崩れている家や、土塀が倒れている家等があって、桂川の堤防までやって来ると、増水で河原がなくなっていて、何時もの何十倍もの水量が大量のゴミを運んでいるのが見てとれた。

 この時の第二室戸台風というのは、死者が194人と伊勢湾台風と比べると被害は少なかった。でも上陸時の中心気圧から言うと伊勢湾台風が929hPa、第二室戸台風が916hPaと1951年に気象台が観測を始めてからの台風としては、最大の勢力を保持していた台風である。しかし、何故、こんなに伊勢湾台風と比較して被害が少なかったかというのは、防潮堤、防波堤、堤防等の設備が名古屋よりも大阪の方が整っていたということで、この被害の差になっているのだった。

 大阪は戦前に室戸台風、戦後にジェーン台風で水害に遭っている。それで防潮堤や防波堤の整備が急務となり、第二室戸台風の頃には、設備が整いつつあったので被害が比較的に少なかったということである。結局、伊勢湾台風も強風よりも水害による死者が大半を占めていて、主に名古屋の南区が概ね浸水し甚大な被害を被ったのである。

 考えるところ今回のミャンマーを襲ったサイクロンも、暴風の被害よりも堤防の決壊とか河川の氾濫とか高潮、高波による水害の方が大きくて、防災体制が整ってないからこのような信じられないような死者・行方不明者の数になって表れるのである。

 こういったミャンマーのような軍事政権下では、サイクロンに対する防災意識も低く、財政的にも苦しくて、防波堤一つ造るのにも簡単に行かないようである。結局、虐げられるのは一般市民であり、食料も飲料水にも困窮する。緊急支援物資が隣国のタイから届けられたというが、耐乏生活を強いられる人民に明日はない。でもこうしてニュースを見るにつけ何もしてあげられない我々、日本人がいて美味い物を食べながら口角泡を飛ばして叫んでいる。地球は狭くなったとはいえ、数1000km離れたところでは、こんな国ばかりだという現実を知ることとなる。でも考えてみれば、50年ほど前の日本なんていうのは、台風が通り過ぎれば、必ず1000人程度の死者は出ていた。それが伊勢湾台風以降は防災意識が高まり、台風で甚大な被害を出すことは少なくなった。結局、生活の智慧で経験が生きるというのか、災害列島日本に住む以上、天災は何時も隣り合わせであることを忘れてはいけないということになるのだろうか。

 でも早くミャンマーの人民に平静が訪れますように・・・・・・・・。 
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2008.05.06 (Tue)

ウェス・モンゴメリーを聴く

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 ウェス・モンゴメリーのギター演奏を聴くと心地よい。彼の特徴であるオクターブ奏法が妙に耳障りが良いのである。音色は太くて柔らかい。エレクトリック・ギター独自のギンギンした音ではなく、親指一本でピッキングしているためか包み込むような音色が心にまで響いてくる。

 ジャズ・ギターというと今ではウェス・モンゴメリーが第一人者であるが、彼はすでに1968年に亡くなっている。でもその後、ジャズ・ギターというジャンルで、彼以上の名声を得た人はいない。もっとも彼の死後は、ジャズ・ギターというよりもフュージョンという枠組みで扱われることが多くなったからかもしれないが、その過渡期に彼は存在した。だからウェス・モンゴメリーのイージー・リスニング風のジャズがポピュラー・ファンにも受け入れられ、その後、音楽のクロスオーバー、各種の融合があってフュージョンへと受け継がれていくのである。だからウェス・モンゴメリーをジャズ・ミュージシャンであると思ってない人もいて、昔からあるようなビッグバンド・ジャズとは一線を画している。それはジャズ・ギターというものがあまりジャズの世界において花形の楽器ではなかったからであろう。戦前のジャズというのは管楽器が中心で、その後、ビッグバンドからコンボへと移り変わっていくにしたがって、色々な楽器が用いられるようになるが、ジャズ・ギターというものは、トランペットやテナー・サックス、ピアノほどメジャーな楽器ではなかった。そんな中でジャズ・ギターというものの創造性を大いに引き出した人がチャーリー・クリスチャンなのである。そのチャーリー・クリスチャンが影響を与え、多くのジャズ・キダリストが現れるが、50年代末期になってようやく現れたオクターブ奏法のウェス・モンゴメリーこそが、ジャズ・ギタリストの最後の天才と言えるかもしれない。

 ウェス・モンゴメリーは1923年に生まれているが、彼が有名になるのは1950年代末期のことである。独学でギターをマスターし、30代半ばまで出身地のインディアナポリスで活動する。だが50年代末期にウェスト・コーストへ進出し、サックス奏者のキャノンボール・アダレイに見出されレコーディングし、傑作『インクレディブルー・ジャズ・ギター』を発表。ジャズ・ギター奏者として一躍、有名になり1968年に亡くなるまで活躍の期間は短かったが、その後のジャズ・ギター及びフュージョンの奏者に与えた影響は大きい。

 またウェス・モンゴメリーはジャズ・ギタリストであるが、ポップス曲の録音が非常に多い。彼はジャズという音楽に拘っていたかどうか知らないが、ポップスとジャズの間で行ったり来たりしていて、大勢のポップス・ファンの心をも掴んだ。私が知っているだけでもフォーク・ソングの曲『花はどこへ行った』だとか『スカボロー・フェア』をイージー・リスニング風に演奏している。そして、彼の得意曲の一つにビートルズの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』がある。これらの曲を軽いタッチで弾きこなしていて、時々、これがジャズなのかなあという錯覚に囚われるが、彼自身は「私がやっていることのコンセプトは、常にジャズなのだ」と語ったという。なるほど、彼が言うからジャズなのだろう。でも20世紀の商業音楽というのは、絶えず変化してきたのだから、ロック、フォーク、ジャズ、フュージョン、ボサノヴァ・・・・あまりジャンルごとに枠の中に閉じ込めて、理屈を捏ねるのはよそう。どんな音楽でもいいものはいいのだから・・・・。


 『ラウンド・ミッドナイト』を弾くウェス・モンゴメリー 
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2008.05.05 (Mon)

第195回1000ギニー・ステークス

 またまた競馬の話で恐縮であるが、昨日の4日(現地時間)、イギリスのニューマーケット競馬場で行なわれた3歳クラシック・レースの1000ギニーSで、ナタゴラ(Natagora)という馬が勝った。ただ1000ギニーが行なわれて、その結果の報告だけなら記事にするまでもなかったのであるが、勝った馬がナタゴラということで急遽、記事にさせてもらうことにした。

 競馬がさっぱり判らない人にはどうでもいいことであろうが、少しばかり競馬が判る人なら、これは日本競馬史上初の出来事だと理解できるだろう。つまり1000ギニーを勝ったナタゴラはフランス生まれの牝馬だか、父は日本産馬のディヴァインライトなのである。

 ところで1000ギニーというレースなのであるが、このレースはイギリスの3歳5大クラシック・レース(1000ギニー、オークス、2000ギニー、ダービー、セントレジャー)の中で、牝馬だけが出走できるレースとしてはオークスと並んで最大のものである。この1000ギニーを模範にしたのが日本の桜花賞と考えてもらえばいい。だから距離もニューマーケットの1マイルで行なわれ、ここにイギリスやアイルランド、フランスあたりの有力3歳牝馬が挙って集結するのである。

 それで、今年の第195回英国1000ギニーS(GⅠ・3歳牝馬、芝8F、15頭)は、昨年からフランスで活躍している牝馬ナタゴラが出走してきた。これまで7戦5勝2着2回という成績で、ここでもインファリブルに続いて2番人気で大いに期待されていた。レースは日本時間の深夜に行なわれ、今朝、私は結果を知っていたのだか、あいにく祝日にもかかわらず出勤だったので、記事の掲載が遅れたという次第である。

 結局、レースはスタートから先頭に立ったナタゴラがまんまと逃げ切ってしまったのである。

 1着 Natagora 1分38秒99、2着 Spacious 1/2、3着 Saoirse Abu 1/2、4着 Infallible クビ、5着 Nahoodh アタマ。

 これでナタゴラは8戦6勝2着2回ということになる。なお騎乗していたのは日本でもお馴染みのルメール騎手である。

 ナタゴラは芦毛の3歳牝馬で2005年にフランスで生産された。父は日本のディヴァインライトで母がReinamixa(その父Linamix)という血統である。ナタゴラは父が名のない日本の馬だったので、セリでたった450万円で買われたという安馬である。そんな名のない安馬が競馬の母国イギリスでGⅠの大レースを勝ってしまったのだから驚いてしまう。それも父親は日本の名もないディヴァインライトだから本当にびっくりする。

 それでそのディウァインライトという馬なのであるが、日本でもよほどの競馬通しか記憶にないと思う。1995年に社台ファームで産まれた牡馬で、父がサンデーサイレンス、母がメルドスポート(その父ノーザンテースト)という血統である。異父姉がカッティングエッジというから良血の部類であろう。ディヴァインライトは1998年1月にデビューし、新馬、特別と2連勝。1998年の皐月賞にも出走している。この時は5着(勝ち馬セイウンスカイ)で着順表示板にも載ってるのだ。それで日本ダービーにも出走し勝ち馬のスペシャルウィークから離されての7着であった。その後は、成績が芳しくなく、低空飛行状態であったが、2000年の阪急杯で2着になり、次走はGⅠの高松宮記念であった。インコースからゴールまで50mという地点で先頭に立ったが、最後にキングヘイローに差されて2着。結局、このレースが最大の見せ場であった。

 通算成績は26戦4勝。重賞勝ちはなし。よくぞ種牡馬になれたなあとも思うが、父がサンデーサイレンスだけに使い道はあると思われたのだろうか・・・・・。でもサンデーサイレンスの直仔が溢れかえっている日本の馬産界。名もないディヴァインライトに種付けしようとする肌馬(繁殖牝馬)もなし。それならサンデーサイレンスの血が珍しいフランスへ、2003年に種牡馬として送られたという。

 でもフランスでも人気がなく、初年度の種付け数はたったの8頭。その8頭の中にReinamixaという肌馬がいたのである。その馬から産まれたのがナタゴラである。そして、ナタゴラがイギリスの1000ギニーを勝った。日本産馬の仔が英国のクラシック・レースの一つを勝った。これはまさに快挙である。その昔、日本は名馬の墓場であるとイギリスの競馬ライターに皮肉られた。だから今度は、日本から種牡馬を輸出して優秀な仔を出せば文句はないだろう・・・・・・・。最近はフジキセキといい、日本産馬の産駒が海外で活躍するようになった。21世紀になって、日本の競馬界もようやく国際的になってきたということだろうか・・・・・・・・。

 1000ギニーの映像。


 2000年の高松宮記念。ディヴァインライトが勝利目前、キングヘイローに差しきられて2着。


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2008.05.04 (Sun)

第137回天皇賞

 昨日から初夏のような暑さの関西地方。5月に入ったばかりなのに早くも京都では30℃を突破してしまい、早くも体がだらけてしまいそうで困った。一雨欲しい気がするが・・・・・こんな暑い日に京都では天皇賞が行われた。

 第137回天皇賞(GⅠ・4歳以上、芝3200m、14頭)は日本のGⅠ競争では1番距離か長いが、ここに何とアドマイヤ勢が4頭も出てきた。さらにはトウカイ勢が2頭。一方、寂しいことに関東の有力馬だったトウショウナイトが調教中に骨折して死去してしまったので、ドリームパスポートが唯一の関東馬ということになった。でも考えてみれば、ドリームパスポートも去年までは関西所属の馬だったので、実質的に生え抜きの関東馬の出走はゼロになってしまい何か気の抜けた天皇賞という感じがしないでもない。どうせならマツリダゴッホに参加して欲しかったといのが実感である。

 そんな天皇賞の中で1番人気に支持されたのは、昨年の菊花賞に勝ち、ダービーで2着だった4歳馬アサクサキングス。2番人気は昨年の覇者で、テイエムオペラオーに続いて史上2頭目の天皇賞3連覇を狙う5歳馬メイショウサムソン。3番人気は骨折から立ち直り、最近メキメキと実力をつけてきたアドマイヤジュピタであった。

 馬場は雨がこのところ降ってないのでパンパンの良馬場である。定刻どおりスタートが切られる。ゲートが開くや大外のアドマイヤジュピタがやや立ち遅れる。一昨年のディープインパクトを彷彿とさせるスタートであった。さあ、まずはメジロマックイーンの子ホクトスルタンが先頭に立つ。それをトウカイ2頭が追う。でもすぐにアドマイヤメインが2番手に上がる。1周目の正面スタンド前、ホクトスルタンが先頭、2番手にアドマイヤメイン、3番手にアサクサキングスとトウカイトリック、そしてトウカイテイオーの弟トウカイエリートが続く。それからアイポッパー、アドマイヤフジ、ポップロックと続き、ドリームパスポートがインコース、アウトコースに武豊のメイショウサムソンが並んでいる。その後からメイショウをマークするようにアドマイヤジュピタと岩田騎手が追走。さらにはドリームパートナーがいて、その後は5馬身ほど差があってアドマイヤモナーク、一番後ろがサンバレンティンである。

 1、2コーナーを回って2周目の向こう正面に入ろうとする。ペースは1000m通過が1分01秒1、1600m通過が1分37秒9と平均的なペース。昨年、一昨年よりは遅いが、スローペースではなく淡々としていて馬がゴチャついてない。2000mを通過、2分03秒0の途中タイム。ここから3コーナーに向って坂を徐々に上がっていく。ホクトスルタンはここでまた後続に差をつけ始めた。坂の下りを利用してアサクサキングスが2番手に上がってくる。メイショウサムソンも外から好位に進出を開始。さあ、ここからペースが速くなる。先頭はホクトスルタンで第4コーナーを回って直線に向く。

 ホクトスルタンが先頭。直後にアサクサキングス、メイショウサムソンと有力馬が上位を占めようとするが、インコースでホクトスルタンが粘っている。先頭はホクトスルタン、その外から3頭が襲いかかろうとしている。馬場の真ん中にアサクサキングス、その外からメイショウサムソン、さらに外からアドマイヤジュピタ。でもここでアドマイヤジュピタが先頭に立った。メイショウは後退か・・・・・・。先頭にアドマイヤジュピタが立った。2番手にアサクサキングス。だがあと200mを切ってから、メイショウサムソンが再び脚勢を伸ばして、また先頭に立とうとしている。激しい勝負である。しかし、一度、メイショウサムソンにかわされたかと思ったアドマイヤジュピタがまた伸びてきて2頭の争いとなる。かつてこのようなレースは、アンバーシャダイとホリスキーが競った天皇賞で観たことがある。でも最後には僅かであるがアドマイヤジュピタが出ていた。

 1着アドマイヤジュピタ 3分15秒1、2着メイショウサムソン アタマ、3着アサクサキングス 2馬身1/2、4着ホクトスルタン 3/4、5着アドマイヤフジ 1馬身1/4。

 アドマイヤジュピタは5歳馬であるが、このレースがまだ13戦目。3歳の春に骨折してクラシック・レースを棒に振ったが、昨年の夏に復活して見事、天皇賞を制覇した。そういえば昔のタニノチカラが骨折してから立ち直り、古馬になってから天皇賞と有馬記念を勝ったことを思い出さずにはいられない。でも負けたとはいえ、久しぶりに強い競馬を見せてくれたメイショウサムソンも侮れない。今日は暑くて家でへばっていたが、なかなか見応えのある競馬を見せてくれたので気分がいい。やはり3歳馬のレースとは一味違う。これが古馬の貫禄というやつかもしれない。

 最後に昨日の東京競馬場で行なわれたダービー・トライアルの青葉賞(Jpn-Ⅱ・3歳、芝2000m、16頭)の結果だけを記載しておくとする。

 1着アドマイヤコマンド 2分26秒9、2着クリスタルウイング 1馬身1/4、3着モンテクリスエス 1馬身1/2、4着ゴールデンハッチ 2馬身1/2、5着ニシノエモーション クビ。

 ここでもアドマイヤか・・・・・。本当にアドマイヤ軍団は勢いがある・・・・・・。
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2008.05.04 (Sun)

第200回2000ギニー、第134回ケンタッキー・ダービー

 昨日(現地時間)、英米の3歳クラシック3冠レースの第一弾がそれぞれ行なわれた。まず、イギリスでは今年で200回目を迎える2000ギニー・ステークス(GⅠ・3歳、芝8F、15頭)が行なわれた。

 今年はこれまで5戦5勝のニューアプローチが断然の1番人気に支持され、2番人気にイブンカルダン、3番人気にレイヴンズパス、4番人気にヘンリーザナヴィゲーターといったところが有力とされていた。

 レースはニューマーケット競馬場のローリーマイル・コース。つまり直線である。約1600mの競馬ならほとんどが直線で行なわれるイギリスの競馬場の広大さにはいつも驚かされるが、このニューマーケットというところは、2000mの競馬でも直線で行なわれるから、イギリス国内でもことのほか大きい競馬場である。

 レースは1番人気のニューアプローチがスタートからラチ沿いを逃げた。何と本命馬が逃げまくったのである。でもあと1Fの標識からヘンリーザナヴィゲーターが馬体を併せてきて、そこからは2頭の鍔迫り合いとなった。でも競り合いでヘンリーザナヴィゲーターが僅かにハナ差で制し、ニューアプローチのデビューから6連勝はならなかった。

 1着 Henrythenavigator 1分39秒14、2着 New Approach ハナ、3着 Stubbs Art 4馬身、4着 Raven's Pass 1/2、5着 Dream Eater アタマ。

 ヘンリーザナヴィゲーターは通算で5戦3勝2着1回3着1回の成績。重賞はこれまでGⅡのコヴェントリーSに勝っている。

 父はKingmambo、母はSequoyah(母の父Sadler's Wells)という本格的なヨーロッパ血統で、ダービーも楽しみになった。またニューアプローチもハナ差で敗れたが、こちらも強い馬である。今後が大いに注目される。


 次にアメリカのケンタッキー・ダービーは日本時間、今朝行なわれた。

 第134回ケンタッキー・ダービー(GⅠ・3歳、ダート10F、20頭)は、ケンタッキー州のチャーチル・ダウンズ競馬場で行なわれた。今年はこれまでフロリダ・ダービー圧勝を含め、これまで3戦全勝のビッグブラウンが断トツの1番人気で、2番人気はコロネルジョン、3番人気はパイロであった。

 結局、ビッグブラウンは危なげなく、2着に4馬身と3/4の差をつけて圧勝した。

 1着 Big Brown 2分01秒82、2着 Eight Bells 4馬身3/4、3着 Denis of Cork 3馬身1/2、4着 Tale of Ekati 2馬身3/4、5着 Recapturetheglory 3/4。


 
ご覧のとおりバラバラの入線である。でもBig Brownは、ここ2走の勝ちっぷりから見て次のプリークネスが面白くなってきた。またプリークネスSで楽勝すると、いよいよ30年ぶりのアメリカ3冠馬の期待がかかる。そして、そのベルモントSには、今のところ日本からカジノドライブが参戦の予定であるが、まだ日本での新馬戦に勝っただけなので、どの程度、勝負になるか判らない。でも今年は日本の3歳クラシック・レースがあまりにもつまらないので、海外に興味がいきそうである。

 最後にBig Brownの血統に触れてみるとする。父はDanzigの直仔でBoudary、母はMien(母の父Nureyev)。つまりNorthern Dancerの3×3という近親勾配である。

 さあ、あと数時間後には京都競馬場で天皇賞が行なわれる。詳細は夜にでも・・・・・・。

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2008.05.03 (Sat)

寺山修司を偲ぶ・・・・・・死後25年を経過して

 明日、5月4日は寺山修司が亡くなってから、ちょうど25年目に当る日である。昭和の詩人・寺山修司が僅か47歳で亡くなったのが1983年(昭和58年)5月4日であった。寺山修司といっても今では知らない人の方が多いかもしれないが、彼はかつてテレビの画面を通して、青森出身の朴訥とした喋り方で独特の世界を醸しだし、視聴者にとても大きな存在感与えていたものである。

 私が寺山修司という名前を意識したのは中学生の頃だったと記憶している。あの頃にザ・フォーク・クルセダーズの歌う『戦争を知らない』という曲を聴いて、いい曲で特に詩がいいなあと思い、作詞者のところに寺山修司という名前を見つけたというのが、寺山修司を知るきっかけだったのである。そして翌年、今度はカルメン・マキの歌う『時には母のな子のように』を聴いたとき、またまた作詞者の項に寺山修司の名前を見つけることができた。またその後、テレビ・アニメ『あしたのジョー』の主題曲を聴いて、これは寺山修司ではないだろうかと思ったら、やはり間違いなく寺山修司であった。このように寺山修司は彼特有の世界観がある。それが寺山修司であった。

 彼は1935年(昭和10年)青森県に生まれる。9歳の時、父が戦死したため母1人子1人の母子家庭となるが、まもなく母も経済的事情のため息子・修司を青森において1人、福岡へ出稼ぎに出る。残された寺山修司は小学校6年で自炊生活を始めるが、やがて映画館を経営しているおじさん夫婦が引き取り、以降、大学に入学するまで映画館が彼の家となる。彼が無類の映画好きなのは、どうやらこの辺に原因があるようだ。後に映画や演劇の脚本を書くようになったのも、すでにこの頃に、より多くの映画と接し、それによって養われた結果なのだろう。

 寺山修司は大学に入りまもなくネフローゼという奇病に罹り入院生活を余儀なくされる。何とか持ち直すが絶えず病とは隣り合わせだったようである。学生時代から詩や戯曲を書き、その頃からすでに競馬や賭博にも興味を持っていたようである。その後、病状がおもわしくなく早稲田も退学して、ラジオやドラマの脚本を書いて自活しだす。さらに実験映画の演出や数多くの詩集、戯曲などを出版。そして27歳の時に女優・九條映子(九條今日子)と結婚。1967年(昭和42年)、九條映子と仲間を集めて演劇実験室『天井桟敷』を創立。しかし、劇団運営に熱中するあまり離婚。その後も九條映子とは劇団のスタッフとして寺山修司が亡くなるまで親交は続く。これが私の知るところの大雑把な寺山修司の経歴である。

 この経歴を見るだけで寺山修司が如何に人と違った環境下におかれた少年時代を送っていたかがよく判る。ほとんど家庭というものは存在しない。彼の少年期というのは暖かい一家団欒とは無縁な境遇であり、およそ月並みな少年とは物事に対する洞察力、観察力に違いがあるのは、こういった家庭状況からきているものと推測される。少年期にして研ぎ澄まされた鋭利な刃物のような眼で物事を見つめ探索していく思想構造は、まさに幼くして大人の慧眼力を持っていたものと思われる。それだけに彼の著書にもある『家でのすすめ』が家庭離散を味わった疎外感のある子弟に支持され、当時の家出少年少女達のボストン・バッグには必ずこの本が入っていたという現象を巻き起こすのである。また『書を捨てよ、町へ出よう』に見られる彼の体験主義礼讃は、寺山修司がたいへんな読書好きにもかかわらず、これらを否定している。これは机上論者にありがちな書生論を打破し、さらにはエリートを粉砕しようとする仲間の先陣に立って、学歴偏重、学閥、閨閥、家柄などが形骸化した民主主義社会において、相変わらず横行する世の中へあてつけようとする意味が込められていたのではないだろうか。

 彼は世の中が負け犬だとか落ちこぼれだとか、すでに世間から疎んじられている者に対して啓開の道を切り開いているようにも思え、敗者の美学というものに執着しているふしがある。だからアンドレ・ジイドの言葉を借りて若者に対して行動を起こせと呼びかけているのかもしれない。こんな寺山修司であっただけに彼の一貫した思想や行動には、私達にとって大いに共感を呼ぶところがあった。

 ところで寺山修司というといったい何を職業としていたのだろうか・・・・・。詩人、歌人、作家、脚本家、演出家、随筆家、評論家等、彼につけられた肩書きはこれだけでは終わらない。彼は自分の職業を寺山修司と言っていた。劇団の主宰者としては彼が死去するまで続いていたし、映画もいくつか作品があったようだ。それに彼の著書の見られる広範囲における博覧強記ぶりは、我々を感嘆させずにはおられないぐらいだった。ちょっとした評論、批評の類は数え切れないぐらいである。文学、映画、演劇等はもちろんのこと、社会、政治等から果ては野球、ボクシング、そして競馬がある。しかし、彼の場合はただ斜に構えて評論するだけに留まらず、その世界に没頭してしまい、挙句の果ては現実を越えてしまうといった純粋性があり、それがまた興味をそそられるのである。かつて漫画『あしたのジョー』の中の登場人物である力石徹の葬式を催した人々がいて、中心になっている人の中に寺山修司の名前を発見してみたり、プロボクサーのファイティング原田が無敵の世界チャンピオン、エデル・ジョフレに挑戦する前で、たいへんな減量に苦しんでいた頃、原田に鰻重をご馳走した人がいて、それが実は寺山修司であったというのは、今となっては笑えるエピソードである。
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2008.05.01 (Thu)

忘れ得ぬ2000ギニー・ステークス

 今週の土曜日(5月3日)に英米で、それぞれ3歳クラシック3冠レースの第一関門の2000ギニーSとケンタッキー・ダービーが行われる。日本ではすでに3歳クラシック3冠レース第一弾の皐月賞が行なわれ伏兵キャプテントゥーレが勝ったが、レース後に骨折が判明し、ダービーの出走は不可能になった。

 一方、アメリカは、ケンタッキー・ダービーから始まって、プリークネス・ステークス、ベルモント・ステークスと一ヶ月半の間に3冠レースを全て行なってしまう。アメリカは1978年から3冠馬が出てないので、そろそろ見てみたいという気もする。対する本家のイギリスはどうかということなのであるが、イギリスも3冠馬は1970年のニジンスキーを最後に出現していない。

 ただイギリスの場合は出現していないというよりも、最初の2000ギニーを勝った馬が、次のダービーに出てこない方が多いということで、3冠馬という栄誉も存在価値がなくなっている。思えば3年前の2005年、日本ではディープインパクトが史上6頭目の3冠馬となり騒がれたのが、つい昨日のことのようである。だから日本では今もクラシック3冠馬というと名馬として最高のの称号に値するのだ。そしてアメリカでもクラシック3冠馬は価値がある。

 ところが競馬の本家であるイギリスでは、3冠馬は何の価値もなくなった。いや、価値がなくなったというよりも、三つのクラシック・レースを全て出てくる馬がいなくなったといった方がいいだろう。だから1970年に3冠馬となったニジンスキーがおそらく最後の3冠馬になるだろうと噂されているぐらいだ。それは何故かというと、アメリカの3冠レースは距離が約1911m~約2414mの間で争われるのに対して、イギリスの場合は2000ギニーが1マイル(約1609m)、ダービーが約2423m、セントレジャーが約2937mという距離で行なわれるので、違う距離で勝とうという考えが時代に合わなくなってきたためである。それで今日、これから語ろうとする話は、そういった考えが競馬社会に浸透するきっかけとなった頃の2000ギニーであると考えてもらえればいいだろう。

 私が競馬に興味を持ったのは小学生の頃である。その頃の名馬というとシンザンでありメイズイでありキーストンだった。でも外国の競馬に興味を持ったのは、少し遅れてスピードシンボリやタケシバオーが海外遠征を盛んにしていた頃である。でもほとんど勝負にならなかった。その頃のアメリカやヨーロッパの馬はとてつもなく強かった。強かったというよりも日本の馬が弱かったといった方がいいかもしれないが、日本の馬と欧米の馬とでは月とスッポンぐらいの差はあっただろう。そんな時であろうか、ニジンスキー(Nijinsky)という馬がイギリスの3冠馬になった。これは一般のニュースとしても取り上げられ、私はニュースでその映像を観て唖然としたものだ。ニジンスキーは何と35年ぶりの3冠馬だという。過去に2000ギニー、ダービーと連覇し2冠馬となっても3冠目の最長距離レースのセントレジャーで敗退するといったパターンが多く、またダービーとセントレジャーを勝っても、その前の2000ギニーに負けているため3冠馬になれなかったという場合もあって、1935年のバーラムからニジンスキーまで3冠馬の出現は皆無だったのである。それでもニジンスキーはイギリス競馬史上15頭目の3冠馬というから、まことにイギリスの競馬は歴史が長いと言うことになる。

 セントレジャーに勝って11戦全勝で3冠馬となったニジンスキーは、次の目標をフランスの凱旋門賞に絞った。10月のパリ、ロンシャン競馬場、ニジンスキーは堂々の1番人気、レース運びも悠々としていた。最後のストレートでニジンスキーは先行各馬を捉えにかかった。あと100m、ニジンスキーの横に1頭のフランス馬が競ってきた。同年のフランス・ダービーに勝っているササフラである。2頭は競ったがニジンスキーはササフラに敗れた。初の敗戦である。ところがニジンスキーは次のチャンピオンSでもロレンザチオという馬に負けてしまったのである。

 当時、私は外国競馬に余り詳しくなかったので、強い馬というのはどんな距離でも強いものだと思っていた。事実、日本の競争馬は皐月賞(2000m)に勝てばダービー(2400m)、秋には菊花賞(3000m)、古馬になると天皇賞(3200m)というのが一流馬の歩む路線であった。今のように距離別選手権というものが確立されてなかったのである。

 その頃、本家のイギリスで言われていたニジンスキーの敗因は、セントレジャーに勝つためのトレーニングをしたため、保持していたスピードと瞬発力が弱まったからという意見が支配的であった。そして結局、この年を境目にして、ヨーロッパの一流馬は長い距離を敬遠するようになったといわれる。それは、ニジンスキーが3冠馬に輝いた1970年だから、今から38年前のことになる。でも翌年になると、ダービーでさえ距離は長いという馬が出現するので私はさらに驚くのである。

 ニジンスキーがターフを席巻していたこの年、ある3頭の2歳馬がデビューしていた。マイスワロー、ミルリーフ、ブリガディアジェラードである。

 マイスワロー(My Swallow)は、1970年5月にデビューし2連勝。ミルリーフ(Mill Reef)も同じ1970年5月にデビューし2連勝。ブリガディアジェラード(Brigadier Gerard)は、1ヶ月遅れの1970年6月にデビューし当然のように勝つ。

 さて、1970年7月20日、フランスのメゾンラフィット競馬場のロベール・パハン賞(1100m)にマイスワローとミルリーフの両雄が早くも激突する。スタートから飛び出したマイスワローを前に見てミルリーフが待機策をとる。でもマイスワローは予想以上のスピードを持っていた。ミルリーフは猛然と追い込んだが、アタマ差まで詰めたところがゴールでマイスワローが勝った。

 1970年の3頭の成績は、マイスワローが7戦7勝。ミルリーフが6戦5勝2着1回、ブリガディアジェラードが4戦4勝であった。

 翌年の1971年、3頭とも3歳馬となり、イギリス競馬の3歳クラシック・レース2000ギニー・ステークス(約1609m)で、お互いが顔を揃えることとなった。5月1日のニューマーケット競馬場の直線コースに6頭が出走してきた。これは2000ギニーとしては希に見る少なさである。それは余りにも3頭が強すぎるということで、他の陣営が勝ち目無しと出走を見合わせたからである。

 1番人気は8戦全勝のマイスワロー、2番人気は7戦6勝のミルリーフ、3番人気は4戦4勝のブリガディアジェラードだった。

 レースはたった6頭なので静かにスタートが切られた。マイルの直線コース。でも当初から3頭の競馬と目され、唯一ニジンスキーの全弟ミンスキーが一角崩しを狙っていた。レースは戦前から世紀のレースになるだろうという評判が立っていたが、実際のレースも見応えがあった。スタートからマイスワローが飛ばす飛ばす、それを2歳時の借りを返そうとばかりミルリーフがマイスワローの直後につけてマークする。それを見るようにブリガディアジェラードが追走する。いよいよ仕掛けどころに入る。マイスワローが懸命に逃げる。それをミルリーフが追う。ブリガディアジェラードが虎視眈々と追走する。早くも4番手のミンスキーは脚色が怪しい。後の2頭は勝負にならない。

 さあ、マイスワローを逃がすまいとミルリーフが並びかけようとした時、猛然とブリガディアジェラードがスパートした。あっという間に前の2頭を差しきり、3馬身差をつけてゴールイン。2着にはミルリーフが入った。マイスワローは3着。 
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