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2008.11.30 (Sun)

第28回ジャパン・カップ

  第28回ジャパン・カップが今日、東京競馬場で行われた。振り返れば第1回のジャパンCが行われ、アメリカの牝馬メアジードーツが日本レコードで優勝したのがついこの前だったような気がするが、早いものでもう28回目になるのかあ・・・・。あの時は友人の家で友人の作った独特のタコ焼きを食べながら観ていたものだ。私はザ・ヴェリーワンの単勝5000円馬券を買って観戦していたが、あいにく最後のツメガ甘く、メアジードーツ、フロストキングに先着をを許した3着に終わり、国際競馬の難しさを感じたが、ホウヨウボーイ、モンテプリンスの日本最強コンビが完敗して、当時の日本馬の実力が露呈されてしまった形となった。とにかく上位馬をすべてアメリカ、カナダの馬が独占してしまったのだから、それまで鎖国競馬で外国馬を一切、走らせなかったツケガ回ってきたのだと思った。

 あれから28年か・・・・・今では来日外国馬のメンバーが当時に比べると小粒になった。今年のメンバーでは日本馬に勝てないなあと思った。それだけ日本馬も強くなった訳だが、ただ日本の競馬場の馬場は軽くて固いということで、ヨーロッパの各馬が敬遠して遠征してこなくなったと考える方が妥当だろう。寂しいことだが、日本にまでリスクをおかして遠征して勝ったからと言って、その馬の価値が急騰するというほどのものでもないし、飽く迄、日本の特殊な馬場で勝った馬といった評価しかされないのだから仕方が無いか。所詮、世界の中のローカルGⅠレースでしかないことは、今も昔も変らないということである。

 今年のジャパンCであるが、三世代に亘るダービー馬が顔を合わせるといった話題が先行して、すっかり外国馬の話題が出てこなくなった。もうジャパンCなんて招待レースは、必要ないかもしれないなあ。どちらにしろ再来年から、すべての重賞が外国馬に解放されるというし、JRAさん、そろそろ考えてください。

 さあ第28回ジャパンC(GⅠ・3歳以上、芝2400m、17頭)であるが、メイショウサムソンが出てきた。体調が問題だが、そのおかげで好メンバーが顔を揃えた。ダービー馬3頭に、菊花賞馬2頭、グランプリホース1頭。人気はディープスカイ、ウオッカ、メイショウサムソンの順だった。ゲートイン完了してスタート。

 ウオッカがいいスタートを切ったが、ややかかっている模様。各馬が抑えているのか最初からスローペース。だがネヴァブションが押し気味に先頭に立つ。意外な展開だ。このところアサクサキングス、コスモバルクがあまり先行しようとしないのでスローペースになり、馬がゴチャついている。2コーナーでようやく落ち着いたか・・・・。先頭はネヴァブション、2番手にコスモバルク、3番手にウオッカ、その外にマツリダゴッホ、5番手にメイショウサムソンとスクリーンヒーロー、その後にオウケンブルースリ、さらにダイワワイルドボア、トーホウアラン、その後に何とアサクサキングスがいる。さらにパープルムーンと続き、ディープスカイがいて、ペイパルブルにトーセンキャプテン、シックスティーズアイコン。後方はオースミグラスワンとアドマイヤモナークという展開で、向こう正面中間地点。ラップタイムは12.6---11.6---12.4---12.6---12.6---12.8。1000m通過が1分01秒8、1200m通過が1分14秒6という、古馬のGⅠレースとは思えないようなスローペースである。だから馬ごみがバラけずに4コーナーまで推移し、いよいよ直線に入る。

 ネヴァブションが先頭だがマツリダゴッホが僅かに出る。ウオッカは口向きが悪くて追い辛そうだ。内からメイショウも頑張る。あと200mで、先頭はマツリダゴッホ、外から人気薄の社台の勝負服スクリーンヒーローが迫る。内からウオッカもようやく出てくるがやや苦戦。スクリーンヒーローが優勢か。、その外からディープスカイが接近する。でも抜けている馬はいない。僅かにスクリーンヒーローが出ているか。ディープスカイも迫るが、スクリーンヒーローが粘りこんだ。

 1着スクリーンヒーロー 2分25秒5、2着ディープスカイ 1/2、3着ウオッカ 3/4、4着マツリダゴッホ アタマ、5着オウケンブルースリ クビ。

 メイショウサムソンは6着で、アサクサキングスは8着だった。結局は、スローペースの流れに上手く乗り切って、かからずにスムーズにレースが出来たかどうかが結果に結びついたように思う。とにかくペースが遅かったので、前にいた馬は有利だったように思う。あのペースではディープスカイにはきついレースになったと思うし、オウケンブルースリも同様である。また中団から進んだアサクサキングスは持ち味の欠片も出なかったし、ウオッカも何かおかしかった。マツリダゴッホはあれが精一杯であろう。この馬は中山では鬼だが、東京コースだとあんなものだろう。メイショウは体調に問題が????

 そして上がり馬スクリーンヒーローだが驚いた。前走でやっと重賞初勝利の馬だ。好調とはいえ、いきなりのGⅠレースに勝ってしまうとは・・・・・。ただ上がりだけの競馬になってしまい、力の競馬にならなかったので、今日の勝利が実力なのか、たまたま流れに乗り切って勝ってしまったのか、そこら辺りは評価の分かれるところであるが、力はつけていることは確かである。これで有馬記念が判らなくなってきたぞ。どの馬も欠点を抱えているからなあ・・・・。
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2008.11.29 (Sat)

嵐山に行く

 去りし秋の日々を惜しみつつ、錦秋の嵐山へ行った。京都の昔からの景勝地として名高い嵐山であるが、私は家から近かったということもあって、子供の頃はよく来たものである。でもこのところ年に1度か2度も来ないだろう。灯台下暗しというのでもないが、身近過ぎて行く気も起こらないというのが真相なのだが、久々に訪れてみると相変わらずの人出で、人気は全国区なのだろうか・・・・・。京都の人以外だと、嵐山というのはどの程度の認知度があるのかなあ・・・、私の知る範囲ではないが、とにかくこの季節、あきれ返るほど人が溢れてくる。午前10時で、阪急嵐山駅の前は人でごったがえしていた。そして、人々は駅前から決まって渡月橋の方面に向って歩くのである。

 どうも関西の人間ばかりではないようだ。色々なお国言葉が乱れ飛ぶ。渡月橋は人で溢れ、歩道が左側一方通行に規制されているというのも、観光シーズだからこそであるが、これだけ人が多いとウンザリする。朝の早い時間から観光バスで乗り込んでくるのだから仕方がないかもしれないが、バスの排ガスは何とかならないだろうか・・・・・。それとマイカー族・・・・・。歩道からはみ出した人と、クラクションを鳴らす車が入り乱れて、喧騒がやむことは無い。これではゆっくり観光気分というものでもないだろうに・・・・・。せっかく遠方から京都の嵐山までやって来たものの、人混みだけが印象に残ったのでは話にならない。皆さん、よりによってこんな季節に、よくぞ京都に来られますね・・・笑。

 最も人混みに揉まれるのを覚悟で来ている小生もご同慶の至りはあるが、私はその気になれば何時でも来れるが、遠方からやって来るとなると、おいそれとは行かないだろう。だから良い印象を持って帰ってもらいたいというのは、京都在住の人間の一致した意見ではあるが、ただ一言、言わせて貰うならば、近年の紅葉はショボクなりました。どういえばいいのだろうか、紅葉の赤味度が落ちたというしかなく、20、30年前の京都の紅葉に比べれば、物足りないといわざるを得ない。それもこれも地球温暖化という現象に左右されているのだろうけども、30年前、11月中旬には見頃だった紅葉が、このところ、11月末が見頃という状況が毎年のように続いている。それに紅葉もせずに落葉する楓が数多く見られるようになったのも、この数年来の傾向である。このままだと、あと30年もすると、12月の紅葉が当たり前となり、紅葉の度合いも年々、低くなっていくかもしれない・・・・・・こりゃ、ますます地球はやばいぞ!

 と小生は、最近、毎年のように紅葉狩りに訪れては、ぼやきまくっているのであります。

 定番の風景。桂川左岸の下流から嵐山を後背にして渡月橋を写す。
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 ※これより下の写真はクリックして下さい。拡大します。
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 渡月橋から法輪寺を望む。
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 天龍寺にて。
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 苔と楓(天竜寺にて)。
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 珍しく保津川(桂川)の右岸の上流から渡月橋を撮る。
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 保津峡を望む。
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 保津川の向こう側には百人一首で有名な小倉山が・・・・・。 
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 十三まいり(京都でよく行なわれている行事)で知られている法輪寺に上がってみた。そこからは御室の双ヶ丘が見える。さらにその後背には、うっすらと比叡山が・・・・・。
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 何時もとは逆で法輪寺から渡月橋を見下ろす。
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 法輪寺からは曼荼羅山の鳥居形(大文字五山送り火の一つ)も見える。
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 法輪寺の多宝塔。渡月橋からは、いつも視界に入ってくる塔。
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 ※十三詣り・・・・・ 十三参り(じゅうさん まいり)は、旧暦の3月13日(現在では月遅れで新暦の4月13日)の間、数え年13歳に成った少年少女が元服を迎え大人と成ったことに感謝して、これから先の万物の福徳と英知を授かるために、虚空蔵菩薩に参詣する行事であり、知恵詣り、または、智恵もらいとも云う。3月13日,4月13日,5月13日。『知恵詣り』」とも呼ぶ。数え年で13歳になった男女が、健康を願い参詣する。また、お詣りが済んだ後の帰路、渡月橋を渡るまで、後ろを振り返ると知恵が本堂に帰ってしまうという言い伝えがある
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2008.11.26 (Wed)

リー・モーガンのアルバムを聴く

 『ザ・サイドワインダー』の入っているアルバム
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 昨年の9月30日、当ブログでアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのことを採り上げたとき、そのバンドにトランペッターとして加わっていたリー・モーガンという子供の頃から神童と呼ばれたハード・バップの代表的トランペッターがいる。 彼は1938年フィラデルフィアで生まれ、15歳で自分のコンボを持ち、その頃から注目されていた。さらに1956年、ディジー・ガレスピーのバンドに参加。その年には早くもブルーノートから『リー・モーガン・インディード』でデビュー。そのとき、彼はまだ18歳だった。

 その艶やかな音色からクリフォード・ブラウンの再来とも呼ばれたもので、特に1957年3月24日にレコーディングされたアルバム『リー・モーガン Vol.3』の中の『アイ・リメンバー・クリフォード』の演奏で高い評価を得た。58年にはアートブレーキーのジャズメッセンジャーズに参加。クリフォード・ブラウンの死と入れ替わるように、ニューヨークのジャズシーンに登場したため“第2のクリフォード”とも言われたのである。ハードバップの頃に登場し、ジャズメッセンジャーズ時代にはファンキージャズへとスタイルを変え、アルバム『ザ・サイドワインダー』ではジャズロックという新しいスタイルを生み出したのである。つまり、いずれの時代においても、人気トランペッターとして脚光を浴びていたようで、艶やかな音色と伸びのあるトーンが特徴である。

 さて、そんなリーモーガンであるが、上の写真にのアルバムは、1963年12月21日にレコーディングされてブルーノート・レーベルからリリースされた 『The Sidewinder』」で、何とビルボード・チャートの25位までランキングした。これは、当時のジャズ界からすれば空前のヒット作と言えるだろう。 『ザ・サイドワインダー』は8ビートをジャズにいち早く取り入れた楽曲の1つで、ジャズ・ロックなどと称されることもあり、現在でもカヴァーされる人気のある曲である。ところで『ザ・サイドワインダー』が、ビルボード25位まで上がってきた頃の1位の曲は何かというとベルギーの女性歌手ラ・スール・スーリールの唄う『ドミニク』であり、ボビー・ヴィントンの唄う『ブルー・ファイアー』であり、ビートルズの『抱きしめたい』であった。だからジャズ・ナンバーとしては、そんなに古い曲ではない。まさに天才トランペッターとして輝き始めていた。そして、彼は人気グループアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに参加したことは前述したが、61年に来日した時のはなしで、楽屋にはリー・モーガン目当ての女性ファンが花束を持って押し寄せ、リーダーのアート・ブレイキーは「奴ばかり何故モテる」と苦笑いだったという。でも彼の人生も長くはなかった。

 1972年2月18日、リー・モーガンはニューヨークにあったジャズクラブ『スラッグス』でライブ演奏をしていたが、その2ステージ目と3ステージ目の合間の休憩時間に、愛人のヘレン・モア に拳銃で撃たれ、ただちにベルビュー病院に移送されたが、ほぼ即死状態だった。 死亡が確認されたのは2月19日午前2時45分だった。

 彼の最期は天才の例に漏れず、三角関係のもつれから、愛人によって射殺されたというモテ男の生き様そのものであった。享年34歳。

 当アルバムの『ザ・サイドワインダー』の音声のみ。


ジャズ・メッセンジャーズでトランペットを吹くリー・モーガン。曲は『チュニジアの夜』

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2008.11.24 (Mon)

メンデルスゾーン 交響曲『スコットランド』を聴く

 オットー・クレンペラー指揮
 フィルハーモニア管弦楽団(1960年1月録音)
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 フェリックス・メンデルスゾーンというと圧倒的にヴァイオリン協奏曲が有名で、その他の曲というとシェークスピアの戯曲を音楽化した『真夏の夜の夢』の『結婚行進曲』や、序曲『フィンガルの洞窟』、ピアノ曲の『春の歌』、声楽曲『歌の翼に』位で、交響曲というと4番の『イタリア』が知られているかなあと思うぐらいで、総体的に私はあまり聴かない作曲家ではある。

 こんなことを言うと失礼であるが、メンデルスゾーンはヴォイオリン協奏曲だけが突出して素晴らしく、それ以外の曲はさほど素晴らしいとは思わない。とにかく管弦楽曲を聴くとどの曲も管楽器が騒々しくて、オーケストレーションが下手だなといった感想がある。でも敢えて言わしてもらうならば、交響曲3番『スコットランド』は、いい曲だとは思う。4番の交響曲『イタリア』ほど演奏される機会はないが、私個人的にはメンデルゾーンの中では最も好きな曲である。・・・・・全体的に霧のベールに覆われたような重苦しい雰囲気があり、交響曲第4番『イタリア』の出だしのような派手さは全く無い。兎に角、管楽器が鳴りを潜め弦楽器中心に曲が構成されているから嬉しいかぎりだ。

 1829年7月20日、メンデルスゾーンはスコットランドのエディンバラを訪れ、現地の古城を見た印象を書簡に纏めている。「この地方の素晴らしさに例えることの出来るのは、私の様々の体験の中でも、僅かにスイスで体験した2、3の想い出くらいです。ここでは、あらゆるものが靄の中に霞んでいます。日曜の朝、教会から出てゆく紳士達は手に手にバグパイプを携えて、スコットランド特有の衣服に身を飾り、これまた盛装の婦人に連れ添って、如何にも誇らしげです。人々は草むす古城のあたりを、声もなく歩んでいます。・・・・・今日、スコットランド交響曲の構想が私の中に浮かびました」

 しかし、この曲が完成したのは1841年。実に10年以上経過した後のことである。その間、彼はイタリアに滞在したり、ドイツに戻ったりで、都合にして6回もイギリスを訪れているが、『スコットランド交響曲』は、なかなか完成せず、推敲に推敲を重ねたと言われている。だから先に交響曲4番の『イタリア』が完成してしまったのである。

 この『スコットランド』は、各楽章を中断せず続けて演奏するのがよいとメンデルスゾーン自身が述べていて、各楽章に休憩を入れて分断してしまってはならないと指摘している。だから聴いていても、交響曲というよりも標題付きの管弦楽曲といった印象がする。

 1楽章の出だし、オーボエとヴィオラが奏でる楽想から、いきなり霧に包まれた古城を連想させるが、甲高い金管楽器が喧しく吹かれることはあまりない。メンデルゾーンの管弦楽曲にしては木管楽器が活躍し、弦楽器が趣を加える。したがって曲全体に明るさはなく、如何にも重苦しいスコットランドの光景が、そのまま曲に展開されているような叙情的な交響曲である。

 兎に角、日本で言うならば、今頃の季節に聴くのが、この曲を理解するのに最も相応しいのではないかと思う。なかでも4楽章は、この曲の全てが集約していて、最後の396小節から490小節がコーダである。コーダはアレグロ・マエストーソ・アッサイと表記されていて、快速に、荘厳にといった意味になるのだろうか。この部分は指揮者によって解釈が大きく異なるから、聴き比べて見ると実に面白い。

 このコーダの部分、ショルティ指揮、シカゴ交響楽団の演奏では2分04秒で演奏するのに、上記の写真のクレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団の演奏では3分20秒もかかっている。これが同じ曲かと思えるほど曲のテンポが違う。曲の解釈は指揮者に任されているから、指揮者を選ぶ時に、大いに参考になる曲でもある。でも個人的には、ショルティよりもクレンペラーの解釈の方が、スコットランドの情景に合っていると私は思っているのであるが・・・・・。

 ※指揮者のオットー・クレンペラーは、このコーダについて批判的意見を持っていたらしい。クレンペラーが「スコットランド」を指揮した録音では、1960年フィルハーモニア管弦楽団とのスタジオ録音(上の写真の盤)が一般に知られているが、これは通常の演奏である。しかし、同レーベルで1966年にバイエルン放送交響楽団を指揮したライヴ録音では、第4楽章のコーダの後半95小節分をカットし、第4楽章の第2主題に基づく独自のコーダを演奏したものが残されている。この演奏では、イ長調の新たな旋律は現れず、音楽は短調のまま静かに閉じられる。

『スコットランド』の終楽章、コーダの演奏。この演奏もテンポが速い。

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2008.11.23 (Sun)

マイル・チャンピオン・シップ

 久々の競馬記事である。このところ競馬記事をサボっているというのでもないが、毎週、毎週、書くことでもないかなあと考えたら、自分の中で急に醒めてきてしまい、GⅠレースと言っても無視していた。先週はエリザベス女王杯が行なわれたが、珍しく3歳馬のリトルアマポーラが勝った。見事にカワカミプリンセスの追撃を抑えて逃げ切ってしまったが、これもウオッカ、ダイワスカーレットが出ていたら・・・・・というのもある。つまり、関西の競馬はつまらないレースが多いということで、面白いレースは関東に集中させてしまったから、エリザベス女王杯なんて、どうでもいいレースの記事は書く気も起こらなかったというのが本音ではある。

 それで今週はマイル・チャンピオン・シップである。マイルのレースもあまり好きではない。でも久々に書くことにするが、内容は簡単明瞭にする。

 京都競馬場で行なわれた第25回マイル・チャンピオン・シップ(GⅠ・3歳以上、芝1600m、18頭)は、マイネルレーニア、サイレントプライド、ローレルゲレイロ、コンゴーリキシオー等、先行する各馬から離れた中団のインコースをぴったり進んだブルーメンブラットが、直線に入りローレルゲレイロ、ファイングレインの間を抜けて、1番人気のスーパーホーネットの追撃を抑えて勝った。

 1着ブルーメンブラット 1分32秒6、2着スーパーホーネット 3/4、3着ファイングレイン 3/4、4着カンパニー 5着ローレルゲレイロ 1/2.。

 勝った馬が5歳牝馬のブルーメンブラットととかで、今年は本当に牝馬の活躍が目立つが、前走の府中牝馬Sでカワカミプリンセスを差し切ったときは驚いたが今回も驚いた。確かにこの馬は実力をつけているぞ。

 ところで、今日の京都第5レースで武豊が落馬し、右尺骨を骨折したため、その後のレースを他の騎手が乗り換わった。武豊は先週のエリザベス女王杯でも、スタートして直ぐにポルトフィーノが躓いたため落馬している。日本の№1騎手としては最近物足りないが、40歳も近くなり運動神経も落ちてきたのではないとは思うが・・・・・・・・。新人の三浦皇成騎手とかが注目を浴びる中、まだまだ頑張ってもらわないととは思う。まだまだ体力が落ちる年齢でもない筈なんだが・・・・・・。

 来週はジャパンCか・・・・・。
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2008.11.22 (Sat)

グランド・ファンク・レイルロードを聴く

 グランド・ファンク・レイルロードのデビュー・アルバム『オン・タイム』
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 1971年初来日時のコンサート・チケット
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 グランド・ファンク・レイルロードというハード・ロック・グループが、今から40年以上前に大ブレークした。時は1969年7月、アトランタ・ポップ・フェスティバルにグランド・ファンク・レイルロード(GFR)は、聴取の前に初登場。12万人のファンの前で大喝采を浴び、デビュー・アルバムであるオン・タイムを1969年10月に出し、直後にレッド・ツェッペリン全米ツアーの前座として同行し、レッド・ツェッペリン目当てのファンの前で度肝を抜いたという。ファンは何度もアンコールを要求し、レッド・ツェッペリンがなかなかステージに上がることが出来なかった。そして彼らについたキャッチ・フレーズが「レッド・ツェッペリンも吹っ飛んだ超大型新人グループ」で、このようにしてGFRは華々しくミュージック・シーンに登場したのである。

 メンバーはたったの3人。ヴォーカル、リード・ギターのマーク・ファーナー、ベース・ギターのメル・サッチャー、ドラムスのドン・ブリューワー。そもそもGFRは1965年、デトロイトのDJ、テリー・ナイトが結成したグループにマーク・ファーナーとドン・ブリューワーが参加したことから始まる。だが紆余曲折があって、上記の3人で出発したのが1969年夏で、マネージャーとしてテリー・ナイトがついた。

 デビューからセンセーショナルだった彼らだが日本で人気が出るのは遅れ、1年半経過して突然のように火がついたのである。当初、このデビュー・アルバムは日本でさほどヒットしなかったように思う。でもアメリカでの評判が日本にも伝わり、1970年に『ライヴ・アルバム』を出した頃には、グランド・ファンク・レイルロードの知名度は急速に広がっていた。そして、1971年7月の初来日コンサートが東京と大阪で行なわれることになったのである。

 まずは東京・後楽園球場での生ライヴ。嵐の中でのライヴは伝説と成り、文章として記録されている通りであるが、数日後に行なわれた大阪球場のライヴも、雷鳴と豪雨の中で強行されたことは余り知られていない。

 当時、高校生だった私は仲間4人と出かけ、前座のセミ・プロ・グループや、マッシュ・マッカーン等の演奏で、除々に盛り上がり、最後にグランド・ファンク・レイルロードが登場したときの喚声は忘れない。彼らはオープニングの曲『アー・ユー・レディ』からハイテンションで演奏しまくった。激しい雨と電光、稲妻が轟いているのだろうが、GFRの奏でる大音量に打ち消され、雷鳴の欠片も聞こえない。聴取は総立ちでビショ濡れ、だが傘をさしている者もほとんどいない。3人はパワフルな演奏で、『タイム・マシーン』『クローサー・トゥ・ホーム』を始め、名曲『ハート・ブレイカー』やアニマルズのカヴァー曲『孤独の叫び』等を演奏。1時間余りの演奏時間で、さっさとステージに横付けされていた車に乗って退場して行った。

 翌日、私の耳は余りの大音量に晒されたせいで、やや難聴になっていた。この時のライヴのエピソードとしては、大阪球場から200m離れた民家の電話の呼び鈴が、GFRの奏でる音量のせいで全く聞こえなかったという。とにかく音楽性よりも音がでかいとか、ライヴのノリがいいとか、演奏がワイルドだとか、二次的な話題ばかりが先行するGFRの初来日コンサートであった。

 ところで今、思うことなのだが、GFRは本当にレッド・ツェッペリンを吹っ飛ばしたのだろうか。多分、音の大きさとアグレッシブな演奏で衝撃が大きくて圧倒されてしまい、初めて観たファンは舞い上がってしまったのではないだろうかと思う。

 音楽的な奥深さからいうと、GFRはレッド・ツェッペリンの足元にも及ばないだろう。でもたった3人で、あれだけ聴取を虜にするステージをこなす彼らのパフォーマンスといえ情熱というものは、あの時代において確かに輝いていたのである。実働7年ほどでGFRは解散してしまい、すっかり今となっては過去のグループでしかない。その後、81年にベーシストにデリス・ベリンジャーをメル・サッチャーに替えて再結成したが、もう彼らの時代ではなく、サウンドの変化は僅かに見られるものの、若いときの彼らのような溌剌さがなく、あまり話題にもならなかった。だが、今から37年前の彼らが繰り広げたライヴは、何時までも私の記憶の中にはっきりと残っている。

 『ハートブレイカー』を演奏するグランド・ファンク・レイルロード。この曲を聴いて井上陽水は『傘がない』を思いついたという。


 『孤独の叫び』を演奏するGFR。アニマルズの演奏とはだいぶ違っている。

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2008.11.20 (Thu)

遅刻した

  今日の朝、とうとう遅刻した。朝、何時もどおり駅についていつもと同じ時間に電車に乗った。当初は快調に動いていたが、間もなく京都駅に到着かという西大路駅で電車がなかなか発車しない。するとしばらくして車内放送が入る。「お急ぎのところ誠に申し訳ございませんが、お客様にお詫び申し上げます」

ドキ! いやな予感がする。

「先ほど茨木駅付近において、人が倒れているとの情報が入り大阪方面行きの各電車が停まっています。従いまして京都駅に折り返しの普通電車が停車している関係で、この電車も発車出来ません。・・・・今のところ何時、発車出来るか運転のメドがたっておりません」

  こうして朝、電車が立ち往生した。10分ほどして動き出し遅れて京都駅に到着。降りるや否や急いで人混みを掻き分け、階段を駆け上がり隣のホームに行き、米原方面行きの電車に乗ろうとするが既に満員。でも後続の電車は何時、やって来るか見当もつかないので、やむを得ず満員の電車に乗り込んだ。でも時間調整でなかなか発車しない。結局は15分遅れで発車した。京都を出て山科に到着。でもホームに溢れている人が乗ろうとするが大量の積み残しが発生。ここで17分遅れ。さらに大津でも降りる人と乗る人とがかち合い、またまた積み残しの人がホームに取り残される。こんな調子で駅に到着するごとに遅れ方が酷くなり、結局は30分ぐらいの遅れで最寄り駅に到着する。

 到着するや延着証明書を貰い、バスに乗ろうとするが、こちらも超満員ですし詰め状態。へとへとになってようやく会社に着くが、始業時間を10分以上経過していた。つまり普段よりも40分ほど遅れて職場に着いたことになる。

 常日頃、30分前には職場に入ることにしているが、これだけ電車が遅れると打つ手が無い。でも私の遅れは、この程度で済んだが、仲間の1人は10時前にやって来た。いったい何時間立ち往生したことやら。毎度、毎度、JRは遅れてくれるが、もうウンザリを通り越して開き直るしかない。どうせなら1日中動かなければいいのにと思ってしまう。それだと無理して出勤もしなくてすむのにと思いながらも、職場に急ごうとする自分自身に腹が立つのである。これもこれも日本人の性かもしれないが・・・。
EDIT  |  20:55  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.11.19 (Wed)

またまた何時ものぼやきです

 今季、最初ともいえる真冬なみの寒波がやってきた。この前まで暖かい日が続いていたので、突然の寒波は身にしみる。私は暑いのは苦手で、寒いのは嫌いではない。若い頃に北海道の冬を体験しているし、氷点下20℃というものが、どんなものなのか知っている。だから関西の冬の寒さもあまり苦にはならないのだが、湖国の吹きすさぶ寒風にいきなりさらされるとやはり身体に堪えてくる。

  今日なんか、仕事が終わって何時ものように駅まで30分かけて歩き、駅のプラットホームにようやく到着してから電車が遅れていることに気がついた。ああ・・・先ほど電車が出たばかりなのにとボヤきつつ電車を待つ。これで4日連続、帰りの電車が遅れていることになる。JRの電車がよく遅れるというのは今にはじまったことではないが、これだけ毎日続くとホントにウンザリする。そのせいで駅のホームで20分以上も冷たい風に晒されてしまったので、すっかり身体が冷え切ってしまった。こういった時、湖国の風は厳しいなあと痛感する。

 それに若い時と違ってこの年齢になると、寒さに対する抵抗力も弱まっているのだろう。私も年々、冬が苦手になってくるのを身体で感じとれるようになった。若い頃、気にもならなかった寒さが、齢を重ねるごとにボディブローのように効いて来る。だから30分歩いた後で、寒風吹きすさぶ中、何時来るとも判らない電車を待っていると、全く自分が情けなくなってくる。本当に何のため、こんなところに来ているのか・・・・・。通勤時間は長くなったし、交通費も嵩むし、プライベート時間は減るし、それに収入まで減ってしまったから憤懣ものである。来年夏まで行って、いよいよ潮時を迎えるかもしれない。ものは考えようかもしれないが、通っている意味が見出せなくなった。もっと時間を有効に使いたくなってきた。JRさん、いい加減にして頂戴・・・・・・・・・・・。
EDIT  |  20:46  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.11.17 (Mon)

朝の通勤時に於いて

  今朝、家を出ると乳白色の霧が立ち込めていた。こんなに暖かいというのに何ということか、1月、2月ならともかく、11月の中頃で、こんなに深い霧が発生することは珍しい。これだと電車が遅れるのでは?・・・・と不安がよぎり駅まで急いで歩く。するとJRの駅までやって来るや、駅前で真っ赤な服を纏った女性が拡声器を持って、通勤で急ぐ人に向って演説しているではないか。周囲にはビラを配る運動員が数人。駅前でどこやらの政党がビラを配ることはよくあるので、たいして気にもとめていなかったが、演説している女性の顔が判別できる至近距離まで近づいたので何気に顔を見てしまった。

 何とその女性は辻元清美だった。社民党の衆議院議員である。かつて国会答弁で小泉純一郎首相に「総理! 総理!」と連呼し、衆議院予算委員会では、鈴木宗男議員に「あなたは疑惑の総合商社です」と食い下がった、あの女性議員である。

 その後は秘書の給与流用で責任をとり、一時期、衆議院議員を辞していた。でも選挙で再選され現在に至るのであるが、何でまた京都の隅っこにある小さな駅の前で、朝の7時前から何を一説ぶっているのだろうか・・・・。 しかしよく考えてみなくとも、彼女の選挙区は大阪10区。つまり京都府と隣接している所を票田にしている。結局、大阪府の住民も乗り降りするということだ。こりゃ、いよいよ選挙も近いぞ。

 こちらは通勤を急ぐので、国会議員の演説にお付き合いなどしていられない。それで貰ったビラを電車に乗ってから目を通す。・・・・・・・うん、うん、最もらしいことは書いてある。・・・・・人間らしく働き、年をとってもボチボチやれる社会を。赤ん坊からお年寄りまで、命を守り育てる。教育や子育ての家計負担減で景気拡大の長期展望を。財政の地方分権が、地域活性化の第一歩。憲法第9条を活かし「ほっとかれへん=人道大国」に。

 言ってることはなるほどである。しかし、私の頭の中には、そんなことよりも、電車が遅れるかどうかで頭がいっぱいで、ビラに書かれてある内容はどうでもよかった。兎に角、京都から大阪北東部、奈良県一帯で発生した濃霧により電車が遅れないか、そちらの方が心配なのであった。でも国会議員にとって選挙というものは、最も大事な行事であろう。だから今から票集めに躍起になるのも判る。いよいよ年明けには内閣解散で総選挙といわれているからな。議員さんは、選挙に落ちればただの人だから、必死になるのは判るけども、私としては、電車が定刻どうり到着するかどうか気になってしょうがない。不安は的中、結局、濃霧のため電車が遅れてしまった。

 本当にこんな朝の早い時、勤め人は先を急ぐことしか考えてないから、政治家さんの演説なんか、誰も聞いてませんよ。
 
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2008.11.16 (Sun)

ゴダールの映画『勝手にしやがれ』を観る

 『勝手にしやがれ』1959年製作 フランス映画

 監督 ジャン=リュック・ゴダール

 出演 ジャン=ポール・ベルモンド
     ジーン・セバーグ
     ダニエル・ブーランジュ
     ジャン・=ピエール・メルヴィル

 【あらすじ】街のチンピラ、ミシェル・ポワキャールは、マルセイユで自動車を盗み、訊問しようとする警官を射殺してパリへ逃亡し、アメリカ人留学生パトリシアと再会、2人の気ままな生活が始まる。
無謀でナンセンスなミシェルの言動、キュートで奔放なパトリシア。彼らは自由で気ままで束縛の無い関係を楽しんでいたが、或る日、彼に警察の手が及ぶ。そこでパトリシアはミシェルの愛を確認するため、警察にミシェルの居場所を密告する。やがて警察の凶弾に倒れたミシェル。・・・・・・でも街角に倒れた彼に、パトリシアは言う「最低って何のこと」・・・・・・・・・

 何とも表現のしにくいクールな映画である。映画の原題は"A Bout de Souffle"で、「息切れて、力尽きて」といったような意味らしい。この『勝手にしやがれ』という邦題は、翻訳者・秦見穂子がつけたもので、日本人に受けが良かったのか、その後、沢田研二や中島みゆきの曲にも同じタイトルが使われたほどインパクトのある映画である。

 ヌーヴェルヴァーグの傑作とされ、それまでの映画の概念や手法を打ち破って、即興演出、ジャンピングカットの多用、ハンディ・カメラでの街頭撮影等、何もかも斬新で画期的で所謂、衝撃作とされ、後年のアメリカン・ニュー・シネマに最も影響を与えた作品と称される。

 この映画の監督であるゴダールは、若い頃シネマテーク・フランセーズに集っていた面々(フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロール、エリック・ロメール、ジャン=マリ・ストローブ等)と親交を深めると共に、彼らの兄貴分的な存在だったアンドレ・バザンの知己を得て彼が主宰する映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」に批評文を投稿するようになっていた。つまりゴダールは、他のヌーヴェルヴァーグの面々、いわゆる「カイエ派」がそうであったように批評家として映画と関わることから始めたのだったが、徐々に製作現場に入るようになる。

  彼は数編の短編映画を手掛けた後、先に映画を制作して商業的な成功も収めたクロード・シャブロール(『美しきセルジュ』『いとこ同士』)やフランソワ・トリュフォー(『大人は判ってくれない』)のように、受け取る遺産もコネクションもいないゴダールは、プロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールと出会うことで、長編処女作『勝手にしやがれ』でやっとデビューできたという。ところが公開されるや、一躍スターダムにのし上がる。

 ジャン=ポール・ベルモンドが演ずる無軌道な若者の刹那的な生き様という話題性のあるテーマもさることながら、即興演出、同時録音、自然光を生かすためのロケーション中心の撮影など、ヌーヴェルヴァーグ作品の特徴を踏襲しつつも、物語のスムーズな語りをも疎外するほどの大胆な編集術(ジャンプカット)とそこから醸し出される独自性と自由さが高い評価をされたのである。でもこんな映画だから評価の方は賛否両論あって、 ある人は『勝手にしやがれ』は空虚で不道徳だという。しかし、その形式と内容において、この作品ほど社会的な価値から解放されている映画が、他にあるだろうかと思ってしまう・・・・・・・。

 映画手法の既成概念から大きく逸脱し、 過去もなく、未来もなく、ただ現在だけにゴダールは興味を示す。『勝手にしやがれ』は、無垢で、道徳的で、真理である。人間に何かを企てたり、人間を歪曲したりしない。知ったかぶりをせず、謙遜に人間を見つめている。科学的僧侶のようなゴダールは、現代生活を抽出し、合成する。そして、彼自身の道徳的判断を表明する。まさにゴダール自身の勝手にしやがれ的な映画である。でもジャン=ポール・ベルモンドもジーン・セバーグも実に適役で、いい味を出しているなあ。ことにジーン・セバーグはボーイッシュで初々しい。

『勝手にしやがれ』予告編


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2008.11.13 (Thu)

またまた延着で

  今日の帰り、仕事を終えて播州赤穂行きの電車に乗ろうと思い駅まで必死で歩いたものの、プラットホームに着いた途端、電車の到着が遅れているとアナウンスが入る。またか・・・・本当に毎日、遅れてるじゃないか。

  こんな時間帯(夜9時)だと車内もさほど混んでないのに何故、毎度々々遅れるのかなあ? こりゃ理解に苦しむわ!

 ああ、阪急で通っていた頃が懐かしい。

  しかし、JR西日本はよく遅れるし車両は低コストで安っぽいし、運賃は高いしどこから見ても取り柄がないぞ!

 速いというのだけが利点だったのに、こんなに遅れてはそれも帳消しだ。金返せ!

 先ほど、やっと家に着いたけど、もうブログを書く気力も思考力もない。そういうことで、この場をかりて愚痴を言わしてもらう。

ホントに最近ボヤいてばかりだなあ。ボヤきたくはないけども、ついボヤいてしまう・・・・・。
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2008.11.12 (Wed)

田舎の会社に通い始めて半年

  毎日、2時間かけて湖国の田舎にある会社まで通いはじめて早くも半年になる。最初は物珍しさから、これぐらい苦にならないと思っていたが、今になるといい加減嫌気がさしてきた。理由はいくつがあるが、とにかく通勤に時間がかかる。

 まず第一に電車の本数が少なすぎる。朝はともかく帰宅時の夕方のラッシュアワーでも電車が15分に1本しかやってこない。帰宅時の時間帯でも時刻表を見るとたった4本しか電車がない。それにクロスシートの車両なので、車内が混みやすく乗降に手間がかかる。また電車が日常茶飯事のように延着する。5分、10分の遅れなんてさほど珍しいことではない。時には30分遅れということもある。これだけ遅れると当然のように駅のプラットホームに人か溢れ、電車の中はすし詰め状態。 こんな状況になると平静でおられなくなるがJR西日本では時々、起こりうる。

 また長い時間、電車に揺られ人混みに揉まれ、やっとの思いで目的の駅に到着したものの、ここから職場まで3㎞はある。距離を測ったことはないから正確なものではないが、脚力には自信のある小生の急ぎ足で歩いても30分かかることを考えると3㎞はあるだろう。そして、ついでに言うならば、道中、避けて通れない横断歩道が道中に4ヶ所もあり、これらの信号がなかなか青に変わらない。その中でも国道のところの信号は最悪で、まさに関所のような信号である。一度、おおよその時間を測ってみたら2分間以上もも赤信号のままで、青信号に変わったと思ったら僅か15秒で再び赤信号に戻ってしまう。これだと横断歩道を渡るのも一苦労である。退社して駅まで歩いた時は、長い長い信号待ちの間に電車が到着して出発してしまい、寒い駅のホームで15分間、電車を待つはめになった。それで待った電車が頻繁に遅れるからとにもかくにも腹立たしい。

  朝は駅前から路線バスに乗ることになるが、このバスも、道路での混雑度によってはよく遅れる。とくに雨の日はマイカーが増えるのか、田舎の道もよく停滞する。また駅前のバス停を出たかと思うと200m先に停留所があって、そこから乗ってくる者がいるので、バスはストップする。するとその間に、前にある国道と交差する信号が赤に変わってしまい、またまたバスが2分以上動かない。信号が青になり、やっと動き出したのもつかの間、今度は県道の渋滞につかまってしまいさっぱりバスが進まず、たった3㎞の距離なのに、バスで20分以上かかることも度々ある。

  退社の時はさらに酷くて、バスが待てども待てどもやってこず、バス停で15分待ったが一向にバスの影も見られない時は、しまった歩けばよかったと後悔してしまう。

  色々と文句をいったが、まだ私は湖国の真冬を体験してないので、こんなのはまだ序ノ口かもしれない。職場のある湖国はよく雪が積もるところである。もし積雪したらバスはベタ遅れだろうし歩くのも一筋縄ではいかない。おそらく大変な困難が待受けているような気がする。だから残業を3時間でもしようものなら、確実に帰宅は午前様になるだろう。従いまして残業も2時間が限度である。しかし、よくぞみんな、こんな所まで文句も言わずに毎日通っているもんだ。自分も含めて感心するよ。

  まあ、こんな毎日の通勤状況で、もう慣れたとはいえ、休日になると一気に疲れがくる。やはり職住は接近していた方がいい。・・・・・でも最近、この話題で何度も記事を書いているような気がするが、いよいよネタ切れか・・・・・・いや、そんなことはないけども・・・・・。
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2008.11.09 (Sun)

元町イースト・ジャズ・ピクニック2008

 今日、野暮用で久しぶりに神戸に行ったら、元町界隈で
元町イースト・ジャズ・ピクニック2008というイベントが催されていて、思わず足を止めて観てしまった。

 神戸というのは、日本におけるジャズ発祥の地として知られているが、それは1923年4月、井田一郎とラフィング・スターズというプロのジャズ・バンドにより本格的に演奏会が行なわれたのが始まりだとされている。そんな神戸だから、昭和の初期からジャズ・ファンが多いという。戦中は対戦国の音楽として演奏することも聴くことも禁じられていたが、戦後はジャズ文化が花開き、とくに学生達、若者がジャズに夢中になったといわれている。だから大学生を中心にビッグ・バンドが多く結成されたという伝統の土地柄であり、それが今では高校生どころか、中学生のビッグ・バンドまで誕生している。

 そして、この元町イースト・ジャズ・ピクニックは、兵庫県の中高生(大阪の高校が1校加わる)を中心に元町周辺の4ヶ所の会場で演奏会を開くというもので、開催の名誉実行委員があの日野てる正(てるという漢字が変換されないのでご了承ください)である。

 この催しは今年で6回目ということで、昨日と今日の2日間、行われていた模様で、私はちょうど元町の南京町で、大阪からただ1校参加している某大学の附属高校の演奏に出くわした。しかし、よく考えてみたら、この高校、5月の御堂筋オープン・フェスタという催しでも、演奏を聴いたぞ(当ブログ、8月31日の記事を参照)。あの時は確か彼らが、私服を着て演奏していたので判らなかったが、よく見ていたら見覚えの或る子もいた。でも、半年たってみると、さらに女生徒が増えていた。いったい男は何やっているのだ。ジャズというのは、男性的な音楽だと思っていたのに・・・・・・。どうも映画『スウィング・ガールズ』の影響が大きいのかもしれないが、この兵庫県といえば、高砂高校という全員が女生徒というビッグ・バンドが全国的に有名で、映画よりも30年近く前から、女生徒だけのジャズ・バンドが存在している。つまり、今時、女生徒のジャズ・バンドも珍しいことでは、ないのかもしれない。

 結局、中学生のバンドも含めて幾つか聴いたが、私はスモール・コンボは聴きなれているが、ビッグ・バンド・ジャズは素人に近いものがある。だからどの程度のレベルの演奏をしているのか評価は出来ないが、思っていた以上に演奏は上手いと思った。ただ、曲の選択であるが、街頭でジャズに興味の無い人の前で演奏するのなら、もっとスタンダード曲を演奏曲目に入れた方がよかったのでは・・・・。『Apple Honey』(ウッディ・ハーマンのナンバー)なんて曲、ジャズ通じゃないと誰も知らないと思うけど・・・。それにフュージョンやヒップホップ系、ラテン系の曲をジャズで演奏するのもいいけど、どうもテクニックに走りすぎているような感じがする。

 要するに私の中高生の頃の吹奏楽部の連中に比べると、彼らは遥かに演奏は上手い。だから誰でも知っている曲は演奏したくないというのは判るが、子供やお母さんやお婆ちゃん、お爺さんも、神戸に修学楽旅行で来ている田舎の中高生も聴いているのだから、もっとみんなが知っている曲を演奏すれば、もっと盛り上がったのではないかと思うが・・・・・・・。でも今時の中高生は、本当に演奏が上手い。私の中学生の頃には、ジャズを演奏する奴なんて皆目いなかった。時代も進んだものである。


 この高校は、男女共学だがメンバーの大半が女生徒であった。それも女生徒は全員が1年生というから、男生徒は何をやっているのかと思ってしまう。『チュニジアの夜』を演奏していたが・・・・・聴き慣れたコンボの演奏とは、だいぶ雰囲気が違っていた。
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2008.11.08 (Sat)

山本有三の『路傍の石』を読む

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 路傍の石とは、道端に転がっているただの石ころである・・・・・・・・・・・。

 中学生の頃、夏休みの宿題の一つに読書感想文というものがあって、何か本を読んで感想文を書いてこいという訳で、幾つかの作品を指定されたものだが、その中に確か『路傍の石』も含まれていた。それで私は、この小説の存在を知ったのである。当初は路傍の石なんて意味が判らず、難しい小説なんか読むのも嫌だなあといった思いもあり、『路傍の石』の文庫本を買ったものの2週間ほど机の上に置きっぱなしになっていた。私は生来から本が嫌いで、子供の頃は何一つ本を読まなかった。読むというと漫画ばかりで、漫画狂いと言ってもよかった。それで親に「ちゃんとした本を読みなさい」と何時も言われていたものである。

 それで、中学に入った夏休みも盆が過ぎて、いよいよ休みも残り少なくなって来ると宿題のことが気になりだすという悪い習慣が身についている。そして、お尻に火がついてから事を始めるという有様である。だから『路傍の石』なんて本は、仕方なく読んだ小説という印象が私の中には今でもあるが、その内容はというと、次のようなものである。

  日本という国が、今よりもずっと貧しい貧しい時代(明治時代の末期か大正時代)、由緒ある士族の家に生れながら町の人々との間に係争を起し、訴訟に明け暮れ一向に定職を持たない父庄吾と、手内職で生計をたてる母おれんに愛川吾一は育てられた。小学校6年の吾一は新しくできる中学に入りたかった。受け持ちの次野先生も成績の良い彼を進学させたがった。一方、金持の呉服商伊勢屋の息子で、成績の悪い秋太郎が進学すると聞いて、吾一は腹立たしかった。食べていくにもせいいっぱいの生活では、彼の進学はとても無理だったのだ。

  次野先生は書店いなば屋の黒川安吉に吾一の学資のことを相談した。だが黒川は生一本の吾一の父庄吾のことを考えると、学資を出せなかった。正月になり、子供たちが松小屋に集って遊ぶ季節がやってきた。みんなが自慢話をはじめた時、もののはずみで吾一は、汽車の走ってくる時鉄橋の枕木にぶらさがったことがあると話してしまう。やむなく言ってしまったがため、それを証明するため、彼はみんなの前で鉄橋の枕木に端下がらねばならぬことになった。次に吾一が目をさましたのは病院の寝台の上だった。次野先生は自分をもっと大切にするよう彼を叱るのであった。

  その後、伊勢屋の番頭忠助が、借金のかたに吾一を奉公に出すよう言ってきた。卒業するとすぐに吾一は丁稚奉公に出た。伊勢屋で吾一は五助と見下されたような名前で呼ばれ、苦しい毎日をおくるようになった。友達だった秋太郎や、その妹おきぬも彼につらくあたった。間もなく母のおれんが心臓病で倒れた。父の庄吾には電報がうたれたが、彼は帰ってこなかった。葬式もすんだある日、吾一は東京に行くという次野先生に会った。悲しみに沈んだ吾一の気持も知らず、主人や忠助は彼を叱り、虫けらのように扱った。吾一を慕っていたおきぬまでが靴の手入れが悪いと彼にあたった。吾一の怒りは爆発した。彼は、伊勢屋を飛び出し東京行きの汽車に乗った。

  小説では、吾一が東京に行ってからのことも遠々と語られるが、何一ついいことがなく、職を変え、虐げられ、詐欺まがいのことまでやらされる・・・・。結局は世間の狭い田舎にいても、東京に来ても何一ついいことは無く、世の中の非情さだけが彼の前に立ちはだかった。そんなとき、印刷所の職工見習いをしていた吾一の前に、とうとう次野先生が現れ、吾一の現状を知った先生は彼を商業学校に入れてやるといい、ここで小説は終わっている。

  この小説は結局は未完で、著者・山本有三も続筆を断念している。この『路傍の石』が、朝日新聞に連載されていたのは昭和12年のことである。ちょうど軍国主義が頭を持ち上げてきた頃のことで、当時から左派的な新聞であった朝日新聞が軍部に睨まれていて、時代にそぐわない小説ということで、検閲も煩く『路傍の石』の続編執筆は消滅していったようだ。

 この小説は資本主義、社会主義、自由主義、出世主義、色々なイズムが混合しているが、日本の一時代を築き上げた思想が混在する中で、人に対する差別を批判し人間の尊厳を守り、人の個性を尊重して伸ばし、それらをより活かして力強く生きていくことをテーマとしているのである。しかし、個人の尊厳を否定させ、国のため戦争のためという理由で個人の生命が軽く扱われた時代の小説なので、時の軍部からも睨まれた小説であった。

  時代の趨勢とはいえ不運な小説であったことは確かであるが、ただ戦後20年以上経過していた私の中学時代に、この本を読めとばかり『路傍の石』を推薦図書に選んだ教師は誰なのか、私は今頃になって気になるのであるが、景気後退から生活が段々と苦しくなっていく人の多い昨今、この『路傍の石』も『蟹工船』同様に、今の時代に合う小説ではないだろうかという意を、私は強く持ったのでもある。
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2008.11.05 (Wed)

出でよ牡馬の逸駿

  このところパソコンのキーボードが不調なので、ブログの更新が数日おきになってしまっている。ことに毎週、開催される競馬の重賞レースの記事をことごとくパスしてしまった。最近では秋華賞、菊花賞、天皇賞とGⅠレースが続いていたのだが、これらのレースは当然のように記事にするべきなのだが、とにかく今のバソコンの具合や状況からいって、あのカタガナばかりの馬名の羅列を書くのが実に面倒臭い。だから競馬記事をサボってしまっている状況なのである。

 でも総括すると秋華賞も菊花賞もメンバーが小粒で共につまらないレースだった。菊花賞にいたってはダービー馬のディープスカイが出てこなかったので興味半減、条件馬オウケンブルースリの独壇場になってしまった。

 結局はディープスカイが天皇賞に回ったことで、こちらの方に好メンバーが揃った恰好となり、見応えのあるレースが繰り広げられた。でもウオッカにしろダイワスカーレットにしろ強い牝馬に違いはないだろうけども、裏を返せば、それだけ牡馬陣がだらしないということである。それでこの数年、感じていることなのだが、年々、競走馬のレベルが落ちているのでは!?・・・・

 確かにディープインバクトという逸材は出現したが、それ以外だと1990年代の競争馬の方が全体的にレベルが高かったのではないかと思えるほどである。それというのも、この数年の牡馬がだらしないからかように思うのかもしれない。だから、私の推測を覆すほどの牡馬が、そろそろ現れてくれることを期待しているのでもある。
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2008.11.03 (Mon)

ダラダラと連休を

 11月3日の文化の日。3連休んの人も多いだろう。私も昨日、今日と連休だったが何もせずにゴロ寝。何とも勿体ないし、時間を有意義に使わなくてはならないのだが、兎に角、日頃の疲れがたまっているようで何もやる気が起こらない。若い頃、こんなときは本の一冊でも読んだものだが、最近はだんだんと老眼が進み、眼鏡がないと文字が読み取れなくて、本を読むのも、このところとても億劫になってきた。また読んでみたいと思えるような本も少なくなってきて、最近は本屋ともご無沙汰である。

 文化の日なので文化的なことを行なえばいいのだろうが、こんな調子で2日間ともダラダラ過ごしてしまった。以前なら音楽でも聴いていたものだが、あいにくCDコンポが潰れてから音楽ともすっかり遠去かっている。11月ともなるとブラームスが恋しくなるし、マイルス・デイヴィスも聴きたくなる。

 シャンソンもさっぱり聴いてないし、生演奏も長らく接してないし、だんだんと出不精になるのも歳のせいでもないだろが、ホールやライブハウスというものも何時行ったのか記憶に無い。

 またスポーツも、やる気は勿論のこと見る気も皆目、起こらなくなった。日本シリーズなんてテレビで中継をやっているが、まいど変化の無いプロ野球の何処が面白いのやら・・・・・・・。もう既に野球に興味が無くなって20年ぐらいになるだろうか。それに日頃のテレビの番組が、余りにも下らなさすぎて見る気もさっぱり起こらずで、結局、何もせずに連休が終わってしまった。やはり、何か本を読むべきであった。最近は本を読まない人が増えたと言うが、それだけ日本人の知力、読解力が落ちているということなのかもしれない。私の経験からいっても、よく本を読む人は、読まない人よりは間違いなく魅力的な人が多い。だから読書は絶対に励行すべきである。よし、今からサルトルでも読もう。
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