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2009.01.31 (Sat)

新世界で串カツを食べる

 今日は昼下がりから、仲間と大阪の新世界で串カツを食べた。新世界と言っても関西以外の人には判りにくいと思うが、所謂、大阪で最も大衆的な繁華街の名称である。

 新世界なんていうと、たいへんモダンなところだろうと想像されるかもしれないが、辺りは時代に取り残されたかのような昭和も昭和、戦後間もない雰囲気を未だに残していて、スマートボールなんていうコリントゲームのような遊戯屋もある。21世紀に突入してすでに9年目に入ったというのに、レトロな街そのものである。なのに新世界とは、これ如何に・・・・。

 この付近は、明治の中頃までは葱畑があるぐらいの荒地であった。それが1903年(明治36年)に、この地域を整地して、第5回内国勧業博覧会を開いたのである。この博覧会は盛況で、その跡地には歓楽街とルナパークという遊園地が造成され、中央には初代の通天閣が建てられたのである。だからその時代に新世界と呼ばれることになり、今でもそれが続いているという訳である。

 こうして大衆の歓楽地として栄えたが、この地に最初の串カツ屋『だるま』が開業したのは1929年(昭和4年)のことである。つまり串カツ発祥の地であるという。串カツというのは関東では串揚げという場合が多いであろうが、大阪では一般的に串カツといわれ、肉、魚、野菜、チーズ、ソーセージ等を小さく切り串に刺して衣で包んだ具を油で揚げたものである。これが一本80円ぐらいから食べられるので、結構、人気があって、今では大阪の人よりも観光客の方が串カツ屋の店内を占拠するという状態になっている。

 昨今は大阪の新世界に行くと通天閣に登り串カツを食べるというのが、すっかり観光客の定番になってしまったようで、業者もその辺りは承知しているのか、この数年で新世界も串カツ屋だらけになってしまった。でも残念なことに、観光客を当て込んで最近オープンした串カツ屋の中には、あまり推薦できない店もあるのでご用心。そこで我々はジャンジャン横町にある串カツ屋に行ったが満席で諦め、もう一軒の老舗も覗いたが、ここも一杯。仕方無しに座敷のある店へ行って、串カツと鶏肉、そして生ビールをジョッキで何杯飲んだか・・・・・・・・判らない。何時間、店内にいたか、それも判らない。それで腹も膨れ、アルコールが少々入り、心地よくなって店を出たが、いや到る所、串カツ屋だらけで驚いた。今度は何時、来るか判らない。なにしろ地元の人でもサウスディープといって、昔はあまり足を踏み入れなかったところである。今は観光地化されてしまったが、すぐ隣は『あいりん地区』。昔は釜ヶ崎と呼ばれた日本屈指のドヤ街。このあたりから新今宮駅の南側一帯は、ホームレスのメッカといってもいい。何故に新世界だけが観光地として脚光を浴びるのか不思議ではある。カメラを構えたギャルがゾロゾロと行列をつくって串カツ屋に入る光景が見られる街のすぐ近くでは、明日の生活もどうなるか判らないような人がウヨウヨといる街。それが新世界なのである。この付近に来ると何とも複雑な心境に陥ってしまうから私は滅多に来ないのだが・・・・・。

 ウズラとソーセージと・・・・・・・・
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 こちらは鶏肉だ。軟骨は美味いね・・・・
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 ソース2度浸けお断り・・・・・・たらふく食べてビールを何杯か飲んだが、一人2000円以内に納まる。
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2009.01.30 (Fri)

任天堂・・・・・・

 任天堂の2009年3月期連結決算が見通しが公表され、売上高が1兆8200億円になるというから、何とも景気の良い話である。世界的な大不況でGMをはじめ、日本のトヨタやソニーといったところまでが軒並み業績悪化の中、よくぞこれだけの売り上げがあるものだと驚いている。

 任天堂といえば、京阪電車に乗って大阪に向かう時、東福寺の駅を過ぎると間もなく進行方向右側にかつての本社が見える。今は南区の上鳥羽の方に本社を移してしまったが、創業から一貫して京都に本拠のある企業である。一般的にはゲーム会社と思われているようだが、私が子供の時は、花札やトランプ、それ以外だと将棋、囲碁、麻雀の駒や牌や盤を作っていた会社である。だから、今の任天堂の大躍進を考えると信じられない。

 創業は1889年と古く、山内房次郎が『任天堂骨牌』という会社を設立して、花札を製造していたに過ぎない。1902年に日本で初のトランプの製造も始め、カルタなんかも作っていたのだろう。さsらに将棋盤、駒、囲碁セット、麻雀セット・・・・・。この辺りは日本の家庭では何処の家にもあった。だが、一つあれば事足りる。だからさほど売り上げが伸びることもなく、京都の片隅で細々と目立たず営業してきた会社といえるだろう。

 それが1970年代後半にテレビゲーム業界に参入して、この会社の躍進が始まるのだが・・・・。『ブロックくずし』『ドンキーコング』というとテレビゲームの古典だろう。でもテレビゲームというものに興味を全く示さなかった私は、これらのゲームを一度もやったことがない。また大流行した『スペースインベーダー』というのも、一度も挑戦したことがない。だから1983年に任天堂が『ファミリーコンピューター』というものを発売して会社が急成長している頃も、『ファミリーコンピューター』と聞いて、いよいよ家庭にもコンピューターが登場する時代になったのかと思ったぐらいである。

 こんな調子だから、時代に取り残されるようにゲームに興味も関心もなく、『スーパーマリオブラザース』や『スーパーファミコン』の登場で、任天堂が世界でも躍進していることなど知らず、ただ京阪電車に乗ると、大きな任天堂と書かれた社名の看板を見て、この会社の何処が凄いのだろうかと疑問に思っていた時期もある。

 しかし、その後にソニー等のゲーム業界の参入で、任天堂も危うしといった時期があるという。ソニーが『プレイステーション』を売り出して、急激に業績を伸ばし、ソフト会社までが任天堂から離れていったという。そのあたりの事情はゲームに疎い私のことなので、あまり詳しくはないが、その後に『ポケットモンスター』のヒットや、最近の『wii』『ニンテンドーDS』といったゲーム機で、さらに売り上げを伸ばし、色々な企業が四苦八苦する中、これrだけ業績を伸ばすというのは驚異である。昨年などはアメリカ、ヨーロッパにおいてゲーム機販売台数の記録を塗り替えたといい、本業の営業利益も5300億円に達するという。たかが子供のゲーム機がそんなに売れるのかと、私なんかは思うけども、最近は大人も中心に頭脳ゲームなんて夢中になっているという。こんな現況を知ると任天堂の先見性には感服するしかなく、その昔、花札を作っていた時代の任天堂の従業員達が、今日の同社を知るとたいへん驚かれるだろう。今や世界屈指の大企業だから・・・・・。でもこの会社は、どんなに大きくなろうとも、本社を京都から移さないし、また京都の多くの企業もそうだが、だからいいのかもしれない。それにひきかえ大阪の企業は、少し大きくなるとすぐに東京へ本社を移したがる。移したからといって、メリットがあったかといえば疑問符がつくのに・・・・・馬鹿じゃないの。だから大阪は地盤沈下が止まらないのだ。少しは京都の企業を見習え・・・・。
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2009.01.27 (Tue)

大阪の子供は・・・・・

 少々、ネタとしては古いが、大阪府の橋下徹知事が怒っているという見出しが新聞に踊っていたので記事に目を通した。その記事は文部科学省が全国の国公私立に通う小学校5年生と中学校2年生の計155万人を対象として全国体力・運動能力テストを実施し、その中で、何れも大阪の子供の体力が都道府県順位で39~43位と低く、昨年、行なわれた学力テストでも低かったから、「ふだん勉強が出来なかったら、体育は出来るはずだろう。なのに勉強も出来ない、体育も出来ないなら、何を自慢出来るのか」と、橋下知事が怒っているのである。

 ・・・・・・確かに一理あるが、そんなに目くじらを立てることでもないだろう。都会の子供が運動能力が無いのは、遊び場所がないことと、子供の頃から塾に行く子が多いこと、その結果、体を動かす時間が少なくなっているということだ。でも大阪の子は勉強も出来ないというのは何故だろう。・・・・それは最近の経済不況で、親が失業し子供の教育にお金を掛けられない家庭が、昔よりも急増したことなどがあげられるだろう。もっともそのような現象は東京や名古屋でも同様だが、昨今の大阪の経済的地位のレベルダウンは凄まじく、バブル経済崩壊後の立ち直りに1番時間を要したのも大阪ならば、打撃を受けたのも大阪である。昔から庶民の街とされ、気取らず物価が安いから人が集まったが、中小企業の多い土地柄、倒産した企業も多く、貧困に苦しんでいる家庭も必然的に多くなる。だから子供の教育費をつぎ込むことが出来なくなったということではないのか。

 橋下知事は「大阪の教育は最悪。いい加減にしろ」と、教育現場のせいにして、矛先を大阪府教育委員会に向けていたが、必ずしも教育が悪いだけでは済まされないだろう。ただ言わせて貰うならば、大阪というところは狭いようで、地域格差があるところである。比較的に富裕層が住む箕面、池田、吹田、豊中、茨木辺りの子供は学力が高いとされているが、何処とは言わないが明らかに学力の低い地域がある。それらの地域というのは、やはり貧困な家庭が多く、教育にお金を注げないのである。生きていくので精一杯の家庭も多く母子家庭もある。もちろん躾の行き届いてない家庭の子も多く、それらの子弟が数多く通う地域の公立学校では、学級崩壊も起こっているという。親としては子供を荒れた地域の公立学校に行かせず、入試のある私立の学校やレベルの高い高校に通わせたいというのが本音だろう。が、金銭的余裕がなく、やむを得ず大半の家庭は公立の学校に進学させているというのが現状なのである。

 確かに橋下知事のように、裕福でない家庭で育ちながら、府立トップクラスの北野高校に進学し、ラグビーで花園の全国大会にも出るような、文武両道に秀でた人間から見ると、確かに今の大阪の子供達のだらしなさは末期的に映るかもしれないが、そんな人は希である。大半の子は、満足に勉強する環境下にあるとも思えない。それに現在の彼らがおかれている家庭状況からすると、勉強も運動も中途半端になりかねないのだ。つまり地域の経済状況と少なからず比例しているとも考えられ、教育現場ばかりに目が行きがちだが、実のところ経済の好況、不況とリンクしているように思う。それほど大阪の大衆層の家庭は四苦八苦しているのだ。そのことを視野に入れ、大阪の経済を安定に導くことが、学力、体力アップの近道と考えるのだが、如何なものだろうか・・・・・。
EDIT  |  21:26  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.01.25 (Sun)

2009大阪国際女子マラソン

 久々にマラソンの記事でも書くことにする。マラソンは子供の頃から観るのが好きで、君原、寺沢、円谷、重松、宇佐美の時代から宗兄弟、瀬古、中山、児玉といったあたりは日本の男子マラソンが強かったのでよく観ていた。それがいつしか日本の女子の方が強くなり、今は女子マラソンを観る機会が増えたものの、このところ観ることも減っていた。だが、何気にテレビの電源を入れると、大阪国際女子マラソンのスタートが切られようとしていた。それで観る羽目におちいったのだが、注目は2ヶ月前の東京に出場した渋井陽子が雪辱を期して出てきたということ。またママさんランナーとして北京オリンピックの10000mに出場した赤羽有紀子も出ること。そして、小出監督の秘蔵っ子で21歳の脇田茜が初めてマラソンに出るということ。こういったメンバーを見ていると、やはり観なくてはならないだろうということになり、テレビの前に2時間半も陣取ってしまった。

 この大阪のマラソンというのは、長居公園スタートの御堂筋と長堀通との交差点が折り返しになるのだが、比較的平坦で記録の出易いコースとされている。そして、この競技場のある長居公園であるが、かつては競馬場と競輪場のあったところで、その後、都市公園として整備され、陸上競技場、球技場、野球場、相撲場、プール等があり、立派な運動公園となっている。またここの公園内にある周回コースは1周が2813mあって、大阪のアマチュアランナーのメッカともなっている。それは2813mを15周すると、ちょうど距離がマラソンと同じ42195mだからである。つまり1周を走ってタイムを計れば自分の実力が判るということになる。たとえ1周だけでもマラソン選手の凄さが垣間見れるのである。

 そういえば今から、40年ぐらい前は、ここの周回コースを使って大阪府の中学駅伝大会というのをやっていて、昭和30年代に大阪で無敵を誇った吹田三中のエースが沢木啓祐だったと、私の中学の時の体育教師が話していた。沢木啓祐は、その後、茨木にある大阪府立春日丘高校に進学して、インターハイに出場。1500m、5000mで優勝。順天堂大学時代には海外遠征をもして頭角を現し、時の世界記録保持者ロン・クラークを破った時は、大きなニュースになったものである。メキシコ・オリンピックでは期待されたが、レース中にスパイクされ、不本意な結果となったが、当時のトラックの長距離種目において全て日本記録を塗り替えたという名ランナーであった。特に日本で行なわれたユニバーシアード大会での5000m、10000mでの金メダルは見事なものであった。その人は今や、日本陸連の強化委員長であるから時代は進むものである。

 さて、いよいよマラソンのスタートが切られた。最初の5㎞が17分25秒だという。このペースでいくとゴールでは2時間26分58秒である。みんな互いに牽制しているのか・・・・。渋井は知られている選手なので、詳細は省くが、赤羽選手と脇田選手は気になる存在である。赤羽は城西大学時代、全国大学女子駅伝で4年連続区間賞に輝いたことがある。社会人になっても記録が伸びて、10000mで31分15秒34の記録を持っているスピードランナーである。また脇田も女子駅伝の強豪である兵庫県の須磨学園高校時代に、全国高校駅伝優勝メンバーのアンカーとして1年生ながらテープを切ったエリートである。こういったスピードランナーに加え10000mの日本記録保持者(記録30分48秒89)の渋井陽子もいる。なのにスローペースである。でもスローペースと言っても、100mで換算するなら20秒8~9で走っていることになる。我々だとほぼ全力に近いスピードで走らなければ付いていけないことになる。それを42kmも、このペースを維持しないといけないから、女子とはいえ一流のマラソンランナーは、どれだけ凄いか判るだろう。

 序盤はスローペースで15、6人の集団であったが、その後、スプリットタイムが17分台を維持していて、ペースが上がってこない。
EDIT  |  18:02  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.01.24 (Sat)

4日ぶり

 パソコンの前に座るのが4日ぶりとなる。したがって記事を書くのも20日以来のことである。このところ風邪気味で、喉や鼻の調子が良くないが、そこへ腸の具合まで悪くなってきて、どうもいけない。寒さのせいでもないだろうが、あいにく今日は雪も降っていた。明日は予報だと氷点下を記録する寒さが襲ってくるというが、休日なので外出しない限りは影響はない。でも歳のせいだろうか、手も足も乾燥肌でガサガサ、足の踵も皹が入ってしまい痛くてしょうがない。それで踵にクリームを塗って、それから靴下をはくという念のいれようだが、それでも踵の皹は悪化する。若いときは脂ぎっていて、こんなこともなかったのだが、最近は毎年、冬になるとあかぎれのようなものが足や手にできてしまう。加齢による老化現象といってしまえばそれまでだが、これだけ踵がパックリ割れてくると、歩いているときも痛くて、情けなくなってしまう。だからだんだんと出不精にもなるのだが・・・・・。

 この4日の間、アメリカでは第44代大統領バラク・オバマの就任式が行なわれた。しかし、今さらオバマ大統領の話題に触れてもしょうがないので、記事を書く気もしないが、私はあのブッシュの後なので、期待するところは大きいと思う。なにしろアメリカ初の有色人大統領だし、公民権運動の到達点といえばいいだろうか。白人大統領でないことに拍手を送りたいのである。でも今のアメリカは問題が山積していて、経済危機をはじめイラク、アフガニスタン問題に、泥沼化しているパレスチナ、イスラエル対立のこともある。とにかく好戦的であったブッシュが残した負の遺産は多すぎる。だから期待度が大きいということになるのだろうが、黒人でありリベラルである。彼は若さと共にカリスマ性がある。大統領予備選に出てきたときは知名度も低かったが、長い選挙戦を経て、徐々に民主党の全面に出てきたという印象がある。かつてケネディがそうであったように、演説に於いて人をひきつける求心力というものを持っているのだろう。今後、アメリカや世界が抱える問題を切り開いていく中心人物とならなければならないし、アメリカの大統領というのは良くも悪くもそのような使命を担っているのだから、オバマの言動は絶えず注目されるだろう。でも、リベラルな思想をもっているだけに柔軟な対応で応えることも出来ると信じている。ただ4年間、8年間と政権を全うすることが出来ればいいが、黒人でリベラルな大統領というだけで、保守派の白人がどういった心境でいるのか、その辺りも大いに気になるところであるが・・・・・・。だからリンカーン、ケネディの二の舞だけは御免被りたい・・・・・・・。
EDIT  |  18:26  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.01.20 (Tue)

喉が痛い

 最近、どうも体調がおもわしくないなあと思っていたら、どうも風邪をひいたようだ。毎日、朝早く起きて、延々と2時間かけて寒いところまで行ったり来たりしている関係から、知らぬ間に疲れが蓄積してしまい、寝不足も手伝って、風邪をひいたのかもしれない。喉は痛いし、痰は出るは、体はだるいは、咳は出るは、何もいいことがない。どうも行き帰りの電車内、よく咳をしている人を見かけるが、色んな人が乗り降りする車内、ここで風邪をもらったかも判らない。あいにく熱がないのが幸いだが、気分がすぐれなく頭も重い。日頃から、鼻炎気味で、風邪をひきやすい体質で、毎年、冬が来ると一度は絶対に風邪に罹っていることになる。あまり褒められたものではないが、風邪を一度もひかずに冬を越したという記憶がないほど風邪をよくひくので、あまり気にしないのだが、やはり何度、罹ってもいいものではない。出来ることなら風邪とは無縁でありたいのだが、気をつけていても風邪に罹るときは罹る。今も喉が痛く頭も重いし・・・・・・・。

 これだと夜更かしも出来ないかなあ。兎に角、温かくして栄養を摂って、充分な睡眠が風邪を治す近道なので、今日はそろそろ失礼するとしましょうか・・・。それで、2、3日、更新を控えようと思うので、何卒よろしく、お願いいたします。

 次回の更新は、週末になると思います。それでは、お休みなさい。
EDIT  |  20:52  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.01.18 (Sun)

京成杯、日経新春杯

 本日の競馬は中山で京成杯、京都で日経新春杯が行なわれた。まず中山の京成杯(GⅢ・3歳、芝2000m、13頭)は3歳の重賞レース。1番人気は2戦2勝のナカヤマフェスタ、2番人気はアーリーロブスト、3番人気はトゥリオンファーレであったが、これといって絶対的な本命馬はいないので、混線が予想された。

 スタートからモエレビクトリーがハナを奪い3、4馬身リードする。2番手にアーリーロブスト、3番手、2馬身あとにサンライズキール、その外にセイクリッドバレー、そしてナカヤマフェスタがインコースでやや頸を上げている。その外にフサイチナガラガワ、さsらにサトノエクスプレス、その後ろからトゥリオンファーレ、ハイローラー、さらにファインビスティー、そしてサクラルーラー、モンテトウルヌソルで、1番後ろからケニアブラックが続く。3コーナーで各馬、差が詰まって来て除々にペースが上がるところであるが、4コーナーにかかるところでインコースにいたサンライズキールが落馬した。人気馬の落馬だ・・・。波乱の様相が・・・。この落馬で、その外にいたナカヤマフェスタが驚いたのか、やや外にふくれてしまった。さて、4コーナーを回って直線へ。

 メレビクトリー先頭。2番手アーリーロブスト、馬場の真ん中からサトノエクスプッレス、あと200m、ここでアーリーがモエレを捉まえる。後続は一団である。あと100m、ここでアーリーロブストが完全に先頭。モエレビクトリーが粘る。でもナカヤマフェスタが競り合いから抜け出て2番手に・・・。でもアーリーロブストが粘りこむ。

 1着アーリーロブスト 2分02秒7、2着ナカヤマフェスタ クビ、3着モエレビクトリー 1/2、4着モンテトウルヌソル クビ、5着ハイローラー 1/2。

 雨の降る京都では古馬のレース、日経新春杯(GⅡ・4歳以上、芝2400m、16頭)が行なわれた。メンバーは小粒だが有馬記念2着のアドマイヤモナークが出てきた。でも馬体重が16kgも増加。そのせいもあって2番人気。1番人気は目下4連勝中の上り馬ヒカルカザブエ。

 この季節のレースとしては、雪ではなく雨の降る中となったが、ゆったりとした展開からテイエムプリキュアが先頭に立った。2番手にメジロコルセア、3番手ドリームフライト、4番手ホッコーパドゥシャ、5番手メイショウクオリア、その外にアップドラフト、その後ろにマキハタサイボーグ、さらにホワイトピルグリム、タガオノエルシコ、内にヒカルカザブエがいて、マイネレーツェル、ナムラマースと続き、さらにアドマイヤモナーク、シゲルフセルト、トウショウパワーズといてアグネストレジャーが離れたシンガリを進む。だが逃げるテイエムプリキュアは差を拡げ、3コーナーの坂の下りでもさらに差を拡げて行く。このレース1000m通過が1分01秒1と遅く、1200m通過も1分13秒7と遅い。なのに2番手と、あれだけの差がついていたということは、テイエムプリキュアを逃がしすぎたと言うしかない。4コーナーを回って後続馬も仕掛けるが、時既に遅し、テイエムプリキュアは後続馬の凌ぎ攻めも関係なく、悠々ゴールイン。

 1着テイエムプリキュア 2分26秒6、2着ナムラマース 3馬身1/2、3着タカノエルシコ 1/2、4着ホワイトピルグリム 1/2、5着アドマイヤモナーク クビ。

 勝ったテイエムプリキュアは、2005年の阪神ジュビナイルフィリーズを勝っているGⅠホース。この時はデビューから無傷の3連勝で勝ち、一躍、桜花賞馬候補として期待されたものだが、そこから何と24連敗。3連勝のあと一つも勝てずに24連敗で、とうとう引退して繁殖に上げるつもりで出た最後のレースで逃げ切ってしまった。だから競馬というのは本当に走ってみないと判らない。この日も11番人気と誰もが予想しなかった、6歳牝馬が勝ってしまうのだから。でも苦悩の末の引退の花道で勝ってしまうなんて、テイエムプリキュアもやってくれるではないか。繁殖に上がっても良い子を産んでもらいたいものである。
EDIT  |  18:11  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.01.17 (Sat)

モーツァルトのレクイエムを聴く

 モーツァルト 『レクイエム』ニ短調 K.626
 ブルーノ・ワルター指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック
 イルムガルト・ゼーフリート(ソプラノ)、ジェニー・トゥーレル(アルト)、レオポルド・シモーノ(テノール)、 ウィリアム・ウォーフィールド(バス)
 ウェストミンスター合唱団  1956年録音
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 今日は阪神淡路大震災から14年目にあたる日である。6000人以上の尊い命が失われてから、何時の間にかそれだけの時間が経過してしまった。あの頃に生まれた赤ん坊も今や中学生になったという。本当に時間の経過は残酷だと思う。あれから未だに立ち直れない人がいるし、震災が過去のものではけしてないということを何時までも記憶に留める必要があるだろう。それで今日は、鎮魂の意味もこめてモーツァルトのレクイエムを聴くことにした。

 モーツァルトのレクイエムというと未完成品である。モーツァルトがこの作品に取り掛かっている最中に亡くなっているから完成しなかったのだが・・・・・。オペラ『魔笛』の完成も近付いた1791年の夏の晩、異様な風采の灰色のマントをまとった男がモーツァルトのところに現れた。彼は『死者のためのミサ曲』(鎮魂曲・レクイエム)の作曲を依頼した署名のない手紙をモーツァルトに手渡し、前金として大金を置いて、何処とも知れず立ち去ったという。当時、モーツァルトは病状に蝕まれていて、作曲依頼の手紙を持参した男が、灰色の服を着ていたこともあって死神の使者かと思い込み、自分に死が迫りつつあるとの予感に打たれ、また自身が貧窮のドン底にあり、この依頼主の判らない不思議な作曲依頼を引き受けたといわれている。

 ところが、この頃のモーツァルトは『魔笛』や『皇帝ティトゥスの仁慈』等の仕上げにも追われていて、なかなか『レクイエム』は完成しなかった。またモーツァルトの精神状態も散々で、あて先の判らないモーツァルトが書いた当時の手紙にこういうのがある。
「小生はもう頭も混乱し、気力も尽きてしまい、例の見知らぬ男の姿が眼の前から追い払えないのです。懇願し、催促し、じりじり待ち遠しがりながら小生の仕事をせきたてる彼の姿が、絶えず見えるのです。僕も休息している時よりも疲れないので、仕事を続けています。それだけでなく、僕はもう何者も気にしたくないのです。時にふれ、小生はもう自分の終わりの鐘が鳴っているなと、ふと気づかせられるような感じがします。僕はもう息も絶え絶えです。自分の才能を楽しむ前に死んでしまうのです」
(吉田秀和訳)

 この手紙のあと2ヶ月後にモーツァルトは病状が悪化し、レクイエムの第3曲第6部(ラグリモーザ)を8小節書いたところで、不帰の客となるのである。

 おのれの死期を覚ったモーツァルトは、愛弟子であったジェスマイヤーを枕元に呼んで、この曲の完成方法について指示を与えたおかげで、彼の手で4曲が追加作曲され、演奏時間約1時間ほどの『レクイエム』が完成するのである。この『レクイエム』の作曲の部分は映画『アマデウス』の中では、サリエリが手伝っていることになっているが、史実と照らしあわしてみると、あんなことはまず有り得ない。でもフィクションとしては、あの方が面白いということはいえるであろう。

 結局、この曲の依頼主はヴァルゼック伯爵で、妻の命日に新作の『レクイエム』を演奏させ、それを自分の作として世に発表しようとしたことから、依頼主の名を厳しく秘密にしたことが後に明らかになり、例の灰色のマントの男は、伯爵の忠実な使いライトゲプという男だったのである。でも人の書いた曲を自分の曲として紹介しようなんていう邪な伯爵の依頼により、モーツァルトの死期が早まったとするなら、何とも罪深き者ではないだろうか。

 ところで、この『レクイエム』は、第1曲『レクイエム・エテルナム』と第2曲『キリエ』全部、6曲からなる『セクエンツィア』と2曲からなる『オッフェルトリウム』の声楽パートとオーケストラのバス・パート、これらがモーツァルト自身の作曲によるものであり、未亡人となったコンスタンツェが、ウィーンの宮廷楽長アイブラーに補筆完成を頼むが、彼は『ディエス・イレ』『コンフターティス』のオーケストレーションを完成させただけで、その後は弟子のジェスマイヤーが全曲を完成させたという。

 それではモーツァルトの絶筆となった『ラグリモーザ(涙の日)』の歌詞を読んで、黙祷しましょう。

 Lacrymosa dies illa,
Qua resurget ex favilla
Judicandus homo resus,

Huic ergo parce, Deus,
Pie Jesu Domine,
Dona eis requiem, Amen.

 (対訳) 
 かの日こそ涙の日なり、罪あるもの裁きを受けんため
 灰より甦れ

 さらば神よ、彼を惜しみたまえ
 あわれみ深き主イエズスよ、彼らに安息を与えたまえ
 アーメン

『レクイエム』~ラグリモーザの演奏
 カール・ベーム指揮 ウィーン・フィル及び合唱団

EDIT  |  18:17  |  音楽(クラシック)  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2009.01.14 (Wed)

・・・・・更新率低いので

 このところブログを書くのも疲れてきて、更新をサボりがちである。ネタはいくらでもあるのだが、兎に角、体調が良くない。毎日、雪化粧しているところから夜、帰ってくるとすっかり体が冷え切っていて、ブログどころではなくなってしまう。寒さには滅法、強いと自負していたのだが、やはり大阪の寒さとは一味違う。また薄着のせいもあって体が冷えてくるのか、腰やら背中やら、膝やらがこのところ悲鳴をあげていて、階段を下りるときなどズキンと痛むから早足で歩けない。

 帰宅すると部屋に暖房を入れてから、パソコンの前に座り、ブログを更新しようかと思うと、今度は自動的にウイルスソフトの更新が始まり、突然、動作が鈍くなる。またかと思っても、パソコンを立ち上げた段階で更新が始まるようになっているのだろう。そのせいで文字を書き込んでも、なかなか進まない。更新もなかなか完了しないのでイライラする。それで、ウイルスのバージョンアップなり、更新なりが終わってから、ブログの更新をこころみるが、出鼻をくじかれるのでやる気が失せてしまう。

 また週一回のウイルススキャンが始まると、2時間以上何も出来ない状態となる。本当に鬱陶しい。いくらウイルスから逃れるためとはいえ、毎日、更新しないといけないものなのだろうか。安全にこしたことはないが、パソコンを立ち上げるごとに自動的に更新されるのだから、こちらとしてもどうすることも出来ない。だから、最近、更新率が低い要因の一つとして、ウイルスソフトが動き出すことによって、ブログ更新のやる気が起こらなくなるというのがある。兎に角、帰宅してから寝るまでの間の時間に制約があって、朝が早いことから就寝時間も自然と早くなっている。そのおかげでブログを書く時間が少なくなっている。・・・・ということで、ブログ更新頻度がだんだん少なくなっていくことはやむを得ないかなあと考えているのである。それ今日は、こんへんでおしまい。次は何時の更新になることやら・・・・・。ま、こんな、ヘボブログ、そろそろ閉鎖してもいいけど・・・・・。
EDIT  |  21:18  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.01.12 (Mon)

チェ・ゲバラのこと・・・

 私の少年時代は、全共闘といって学生を中心にエセ革命家気取りの人が多かった。彼らの多くはマルクス=レーニン主義と言って、左翼運動、共産党運動に感化され、帝国主義打倒などと叫んで、シュプレヒコールを繰り返しデモを頻繁にやっていた。だから私は、京都の中心街を行進する学生デモ隊にも出くわすことが度々あった。そのデモ隊が或る日、過熱化して、挙句の果ては警察の機動隊と正面衝突してしまうのだから困ったものである。こんな光景を見たのは、一度や二度ではなかったから、当時の京都という街はよほど左翼思想にのめりこんだ若者が多かったということになるかもしれない。

 あれからおよそ40年近くなるだろうか、あの当時にヘルメットを被り、デモの中心にいた人たちは、もう還暦を越えた人が大半であろう。団塊の世代を中心とした全共闘運動に参加した若者達もそろそろ初老の域に差し掛かっている。あれほど盛んだった全共闘運動も、今ではすっかり影を潜め、日本の若者は怒ることを忘れてしまったかのように大人しい。思えば昔、大学の先輩に、かつて左翼運動に奔走した人がいたことを思い出す。その人の下宿先を訪れた時、ボロ屋のアパートの部屋の壁に一枚のポスターが貼ってあったことが忘れられない。ポスターには1人の男の写真が大写しになっていた。その男はベレー帽を被り、帽子の正面には星のマークが光ってあり、いかにもラテン人らしい風貌をしてある一点を凝視している。その男こそ革命家チェ・ゲバラである。

 私は最近までチェ・エバラのことを忘れていた。だが降って湧いた様にチェ・ゲバラの伝記映画が今年になって上映されるというので、今から35年位前に見た、あのチェ・ゲバラのポスターを思い出してしまった。でも今ではチェ・ゲバラといっても多くの若い人は名前さえ知らないだろう。チェ・ゲバラとは革命家である。革命家という職業など存在しないが、彼は天性の革命家ではなかったかと思う。

 1928年6月14日、人ロ60万人のアルゼンチン第2の都市ロサリオでチェ・ゲバラことエルネスト・ゲバラは生まれる。父はエルネスト・ゲバラ=リンチで建築技師。母セリア・デ・ラ・セルナはスペイン系であった。また父の父ファン・アントニオ・ゲバラは、1835年から17年間にわたってアルゼンチンを支配した独裁者ホアン・マヌエル・ロサスと戦った人物である。つまりチェ・ゲバラというのは、祖父の闘争家としての遺伝子が既に彼の血脈に組み込まれていたのかもしれない。

 チェ・ゲバラは幼い時は信じられないが病弱で、喘息が酷く小学校には就学できなかった。それで仕方なく母のセリアがABCを教えていた。こんな状況で、チェ・ゲバラは2年と3年のみ通学したが、5年、6年の時はまばらにしか学校に通えなかった。1941年にコルドバに一家は転居し、チェはデアン・フネス中学に入学。この年の7月、休暇を利用してチェ・ゲバラは最初の放浪の旅に出る。好奇心旺盛な彼は、13歳になったばかりであったが、自転車に小さなモーターを取り付け、古ぼけた皮のウインドブレーカーをひっかけ、ナップザックの中にマテ茶と湯沸しを放り込み、75ペソを所持して旅に出たという。日本の8倍の面積があるアルゼンチン国内放浪の旅に出て、チェは北部一帯を9月まで放浪し、ラテン・アメリカ大陸国家に眠る矛盾を垣間見て、色々な思いを巡らしたというが、この時の貴重な体験が、後の彼を形成する要因となったような気がする。

 チェ・ゲバラの父は3000冊の蔵書を有する読書家であったが、中心は社会学、哲学、数学、工学のもので、カトリックと軍事に関するものはなかった。母も無宗教で、彼女がカトリックの修道尼によって運営されている極端に厳格な学校に通わされたからの反動だとされている。でもチェ・ゲバラは形式的に洗礼を受けているので、僅かながら信心する気はあったのだろう。

 チェは高校に入る頃から、かなりの読書家になっていて、ジュール・ベルヌ、アレキサンドル・デュマ
が愛読書であった。それが、やがてフロイトを読んだりボードレールを読んだりしたが、最も熱心に読んだのがチリ生まれの詩人パブロ・ネルーダの、スペイン戦争をテーマにした詩であったらしい。この詩に接し、チェはスペイン戦争からの亡命者のことや虐げられた人の哀歌が自然と身についたものと思われる。

 6年制の高校に入りチェはラグビーの選手としてならし、次第と病弱の体は逞しくなっていく。ちょうどその年、太平洋戦争が勃発。全面的に世界戦争へと突入していくが、南米のアルゼンチンには間接的な影響でしかなかった。またアルゼンチンではペロン政権に入り、大規模な工業計画、社会改革に乗り出し、農園主として収入を得ていたゲバラ一家も打撃を受けた。この時、チェはブエノスアイレス大学の医学部に進学している。そして1951年の年末から、チェはオートバイに跨って1年間南米縦断の旅に出る。結局、この体験が生きてきて、広く世界を見ることによって世の中の理不尽、矛盾が彼の中に大きくしこりとなって残っていくのである。
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2009.01.11 (Sun)

フェアリーS、シンザン記念

 グレードⅠのレースでもないけど、今年最初の競馬記事でも書くことにするか。今年の3歳クラシック・レースを占う意味でも重要な3歳の重賞が今日、東西で行われた。

 まず中山では3歳牝馬の重賞フェアリーS(GⅢ・3歳牝馬、芝1600m、16頭)が行なわれた。今年の3歳牝馬はブエナビスタという馬が現時点では頭一つリードしたかというところだが、まだはっきりした勢力地図は判らない。一応、出走馬は16頭で、1番人気はジェルミナル、2番人気がパールシャドウ、3番人気がエリザベスムーンだった。

 スタートが切られグッデーコパが押し出されるように先頭に立つ。2番手にシルクマイホーム、3番手イルドロール、4番手イナズマアマリリス、内にジェルミナル、外からラブミラー、そしてパールシャドウとアカリがいて、その内にカイテキプリン、さらにダイワバーガンディ、アイアムネオ、ビエナリリー、マイネアリス、カツヨトワイニング、後方にエリザベスムーンとマイティースルーという順で800mのハロン棒を通過。スタートから12.8---11.6---12.0---12.2---12.3のラップを刻んでいるがスローペースもいいところである。1000m通過が1分00秒9だから、後方馬だと苦しいかもしれない。馬群が固まって直線に入る。先頭はグッデーコパ、2番手にイナズマアマリリス、だが好位置につけていたジェルミナルが縫うように出てきた。グッデーコパをかわして一気に先頭に立つ。あと100m、完全にジェルミナルが先頭。アイアムネオも追って来るがジェルミナルが1着。

 1着ジェルミナル 1分36秒5、2着アイアムネオ 1馬身1/4、3着グッデーコパ クビ、4着カツヨトワイニング 2馬身、5着マイティースルー 1/2.。

 京都では5冠馬シンザンの名を冠した名物レース、シンザン記念(GⅢ・3歳、芝1600m、14頭)が行なわれた。3歳牝馬はブエナビスタがリードしていると書いたが、3歳牡馬は、まだどの馬が強いのか判らない。そんな中、今日のシンザン記念で1番人気に支持されたのが前走GⅠ朝日杯6着のミッキーパンプキン、2番人気は前走で未勝利を脱出したばかりのアントニオバローズ、3番人気は北海道営上がりのモエレエキスパート。何か混戦模様の気もするが・・・・・・。

 ゲートが開く。するとスーとツルマルジャパンがハナを奪う。同型のミッキーパンプキンが抑えて2番手。3番手スズカワグナー、その後にモエレエキスパート、ダブルウェッジと続き、アントニオバローズ、トップカミング、ピースピースがいて、内からケンブリッジシェル、さらにタキオンクール、キングスレガリア、ハマノエルマー、キングストリートといて、1頭離れてトップオブピーコイがシンガリの位置。この間に先頭を行くツルマルジャパンは、2番手を5馬身引き離して飛ばす。2番手には単騎でミッキーパンプキン。ラップは12.5---11.0---11.6---12.1---12.1で800m通過が47秒2、1000m通過が59秒4と平均ペース。坂の下りでツルマルジャパンとミッキーパンプキンとの差が4馬身、ミッキーパンプキンと3番手とは3馬身の差があるが、3番手にはアントニオバローズが上がっている。各馬、そろそろ追い上げにかかり、いよいよ直線コースに入る。先頭はツルマルジャパンだが、あっという間にミッキーパンプキンが先頭を奪う。インコースからはダブルウェッジが接近。外からはアントニオバローズも・・・・・。ゴールまであと200m、ミッキーパンプキンに内からダブルウェッジが並ぶ。さらに外からアントニオバローズも並び掛ける。3頭の争いからミッキーパンプキンが脱落。最後はダブルウェッジとアントニオバローズの競り合いになるが、アントニオバローズが競り勝った。

 1着アントニオバローズ 1分35秒3、2着ダブルウェッジ、3着トップカミング、4着ミッキーパンプキン クビ、5着タキオンクール クビ。

 アントニオバローズは栗東の武田博調教師の管理馬である。武田博というとお父さんが関西の大御所といわれた武田文吾である。つまり関西の名門厩舎なのである。でも武田博厩舎から過去これといった大物は出なかった。武田博調教師は騎手時代、父の武田文吾厩舎に所属する騎手で、かのシンザンに騎乗した3人の騎手の中でただ1人生き残っている人だ。あとの栗田勝、松本善登騎手は何れも故人なので、シンザンに携わった数少ない人となってしまった。そんな武田博厩舎の馬がシンザン記念に勝つというのは、奇しくも因縁を感じる。今後、アントニオバローズが勝ちだすごとに、武田博調教師はシンザンとの比較を聞かれるかもしれない、また、それだけの大物であって欲しいが・・・・・・・・。
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2009.01.10 (Sat)

女子高生の会話を聞いて

 土曜日で休日だった今日の午後、電車に乗っていると、とある駅から女子高生4人が乗り込んできて扉の前に立ち止まった。土曜日に学校があるということはおそらく私立の高校生なのだろう。ちょうど私は扉の横のシートに座っていたので彼女達の会話は聞くつもりもなかったが、否応でも聞こえてくる。話しの内容というのは他愛ない芸能ネタから始まったのだが、それが段々と高校生活の話題に移り、やがては学校の悪口、教師への不満となり愚痴、罵り、雑言の雨、霰である。ものの10、15分程度の間であったが、よくも学校に対してあれだけ不平、不満がいえるものだと思った。みんな自分達が通っている学校に誇りがもてないのかなあ・・・・。淋しいものである。

 まあ、その内容というのは取り立て過激なものでもなく敢えて取り上げるほどのものでもないが、一部だけ抜粋するとしよう。
「なあ、なんでウチは土曜日も学校あるんやろ、公立の子なんか休んでんのになー」
「ほんまや、ほんまや、それにバリ校則厳しいし、自由もないし」
「髪も染められへんし、ピアスもできひん、化粧したら怒られるしメッチャむかつくわ」
「そうやそうや、ほんま最初から判ってたら、こんな糞学校なんか来いひんかったで」
「ほんまサギ学校やなー、ほんで勉強ばっかりさせといて、宿題も多すぎやで、こんなんやから一つも遊ぶ時間あらへんやん」
「先コーはウザいし、まじキモいし、家帰ったらおかんも勉強しろ、勉強しろてうっといねん。もう、何もかも面白ないわ」
「ほんまやほんまや、高校の選択ミスったわー。こんなイモ学校、潰れたらええねん」
「こんな学校なんか、いつでも辞めたるわ。芋糞学校、ウンコや!」

 このように散々、4人とも学校の悪口を言いたい放題で、こきおろすだけこきおろしていた。でも聞いていて、私は思わず高校生らしいと笑ってしまった。ところで、この女子高生達は、けして乱れた着こなしをしているのでもなく、蓮っ葉な様子もなく、いたって真面目そうな女の子等である。だからそんな女の子等が、ここまで不満をぶちまけるのかと思うと笑えてくる。それに誰でも一度は通る道だと考えれば、彼女達の言い分も十分理解出来るのだ。

 要約すると彼女達の不満の内容なんて実に可愛いらしいものである。まだまだ成長途上の大人になりきってない高校生、15、16、17歳といった感受性の強い多感な時期には誰もが感じる悩み、不満といったものが噴出し、それらが毎日、毎日、堪るに堪ると、上記のような本音が出てしまうということなのだろう。つまり勉強ばかり押し付けられ、校則で縛られ、自由がなく、毎日の鬱憤がこんな会話となって現れるのだろう。でも、学校においては先生の前で良い子で通し、家でも聞き分けの良い子かもしれない。それが同じ年齢の友達同士だと、ついつい日頃、鬱積している不満が愚痴として口から出てしまう。親も先生も判ってくれない。学校なんか面白くない。勉強なんか嫌いと、あの年齢の子が言いがちな当然の意見を聞いて、私は、今も昔も高校生の言う不満というのは、大して変化がないなあと思わず笑ってしまった次第なのである。

 今の大人、私も含めてほとんどの人が経験してきた、踏んできた成長の過程で、どの時代の人もどこの地域の人も10代のあの頃において考えることはほとんど同じである。それは「大人は判ってくれない」ということ・・・・・・。まだ精神的にも情緒的にも不安定で、社会生活での経験値が大人とは格段に少ない高校生が、純粋な心が薄らいできた大人に対していらだつのも当然の姿だと思う。一方、大人が何故に高校生に対して、規則で縛り、勉強を押し付けようとするのかは、大人が過去に経験してきた過程で、よりベターな方法をやらせようとするからである。結局、大人と少年、少女達との間で、互いに判らない埋まらない年齢のギャップというものがあり、教育する側と教育を受ける側との溝が深く入り込んでいるから、この問題を解決するのは簡単なものではない。

 だから何で高校生が私達に勉強ばかりを押し付けるの・・・・・・何で未成年だと自由が大人のようにないの・・・・・・と疑問に思うかもしれない。でもこれは、正直いって大人になってみてようやく理解できることであり、高校生の頃に、親や教師が口を酸っぱくなるほど繰り返し言ってたことが、成長し大人になってみて、ああ、なるほどと解るときがいずれ訪れるのである。ただし思慮分別が少年時代からありすぎて、親の言うことに反発もしないで、やたら出来の良い子もいることはいるが、10代の頃はある程度、親や教師の押し付けに対して、少々の不満や反発はあった方が大人になってからも子供に対して説得力のある意見を述べることが出来ると思う。それは自分が辿って来た、溜め込んできた不満や道程というものと同等な悩みが理解できるからである。

 だから社会人としての生きた経験で物事を判断しているから、高校生に対して特別、無理な注文を強いているわけではないのだが・・・・・・。現実として出来の悪い親や教師もいて、理不尽な現実も時にはあるだろうと思う。だが大人というのは、高校生よりも社会というものに対して長けているのである。それだけ世間に揉まれ苦労しているということである。だから社会人として認められているのであって自由もある訳である。だが大人というのは自由もあるが、それと引き換えに自己責任というものが付いてくる。つまり法律に違反しなければ何をやってもいい。でも責任は自分でとらなくてはいけないし、場合によっては子供のやらかしたことの責任までとる必要もあるということだ。ということは自由というのは、案外、しんどいものなのである。そのことを高校生は判ってないと思う。

 それに親というのが何故、子供に対してガミガミいうかというと、親は自己の子供に対して保護義務、養育義務、そして自立させる義務がある。だから責任上、自分の子供が大人として、社会人として自立するまでは責任があり、義務をはたさなくてはならないから管理するわけだ。

 ここまで書くと、そんなことは判っているけど・・・・・と言われるかもしれない。でも学校が煩い校則で縛り付けるのは納得できないと思っているだろう。うん、確かに意味のない校則もある。しかし、私の高校時代と比較すると、遥かに恵まれていると思うけど・・・・。

 昭和40年代の高校というとほとんどが詰め襟の学生服という時代であった。ところが京都というところは、街は古いのに先進的なところがあって、あの頃の京都市内にあった大半の公立高校は私服で通ってもいいことになっていた。また中学校の男生徒は、大阪や神戸で丸刈りが当たり前という時代に、全て髪を伸ばしていた。そういった意味で、大阪あたりの高校生から羨ましがられていた。
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2009.01.08 (Thu)

堀辰雄の『風立ちぬ』を読む

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 堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読んだのは学生時代だったと思う。文庫本で100ページほどの中篇だが、これといった筋書きがなく、読んでいて退屈な小説だと当初は思ったものだ。

 これと言って筋書きはないが、簡単に粗筋を言うと・・・・・秋を思わせる涼風が立ち始めていた夏の高原。私(語り人)は節子という少女と知り合い、愛し合う。ヴァレリーの「風立ちぬ いざ生きめやも」という詩句をつぶやきながら、それが私の心だと思ったのであり、2年後の春、私は節子と婚約した。彼女はすでに肺結核で病床にあったが、「私、なんだか急に生きたくなったのね・・・あなたのおかげで・・・」とつぶやく。しかし、看病の甲斐もなく彼女は死んでしまう。つまり肺を病んでいる婚約者の看病するため八ヶ岳山麓のサナトリウムにやって来た私と節子との心理描写を、詩的に表現した美しい小説といえばいいだろうか・・・・そもそもは堀辰雄自身の体験が題材となっているようだ。

 堀辰雄は軽井沢で知り合った矢野綾子と1934年に婚約する。だが、その翌年に綾子の肺結核が進行し、また同様の病で臥せがちだった堀辰雄は決心し、綾子と共に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に入る。でも堀は回復するが、綾子の方の病状は回復する気配もなく、その年の暮れ彼女は亡くなってしまう。・・・・・結局、この時の体験から、書かれた小説が『風立ちぬ』である。

 つまり純愛小説といえるかもしれないが、今風の安っぽい恋愛小説でもない。婚約者節子の肺結核が進行するにつれ、彼女の死を現実として意識した時、私という主人公は節子の死を認めることができず、直接には描かれていない。終章『死のかげの谷』で、一人きりになった私が、死者を悼む寂しい山小屋暮らしをするが、そこで、だんだんに現実をとり戻すところで物語はしめくくられるのである。
 
 人によってはこの作品全体に及ぼす死のモティーフと混ざり合って顔を出す美しい愛が、調和の良い二重唱のようで、それがいつしか不可欠の不協和音のように聞こえてくると表現する。小説の中で死に向う節子の言葉が印象的であった。
「あなたはいつか自然なんぞが本当に美しいと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだと仰しゃったことがあるでしょう。・・・・・・私、あのときね、それを思い出したの。何だかあのときの美しさがそんな風に思われて」

 淡々と話が進む中で、何処か切なく虚しく思え、それでいて生きることの美しさが全編を通して語られていて、作者である堀辰雄自身も死と隣りあわせであったと言うから、死の渕にいて見えてくる感情というものを綿々と語りつくしていたのかもしれないが、小生にとってこのような美しい小説は、いささか食いつきにくいと言うのが正直な感想である。
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2009.01.07 (Wed)

更新が進まん

 通勤に時間がかかりすぎて、全く更新が進まない。このところ景気の悪化で仕事も減ってきた・・・・ヤバイ・・・・・・・。

 そして、残業もほとんど無い。だから残業で少ない給料の補填を埋めようと思っても、肝心の仕事がない。だから、拙者とすれば定時に帰っているのだが、寄り道しないで真っ直ぐ帰宅の徒についてもマイホーム到着が8時とはこれ如何に・・・・。これだと家でゆっくりする時間も限られてきて、ブログ更新をする暇もあまりない・・・。この現況だと全うな記事など書ける筈もなく、適当に空欄に字を埋めていると状態である。したがいまして、今日はこの辺で失礼をばいたします。・・・次の更新は・・・・更新は簡単だが、読み応えのある記事らしい記事を書く暇がないので、暫くは書かないか書けないかわからないけども、週末ぐらいしか更新できないかもしれずで、あしからず・・・・・。
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2009.01.05 (Mon)

2009年初出勤の日に・・・

 2009年度、初出勤。だから気持ち良く出勤したかったのだが・・・・・・・年始早々から電車が大幅に遅れてしまい朝から大変な目にあった。

 いつもの時間通り家を出て、いつも乗る京都止めの普通電車に乗車。電車は順調に動き出す。でも大阪方面行きの電車と皆目、すれ違わない。それに複々線の外側の列車が走る線路上に『サンダーバード』や『はるか』、『雷鳥』、それに新快速等が等間隔で列んでいる。この状況を見た瞬間、またまた嫌な予感が頭の中を過ぎりだした。けども車内アナウンスは何も言わないので、このまま無事に京都まで辿りつけさえすれば、そこからだと京都発の普通に乗り換えるからいつもと同じ時間に職場へ到着するであろうと、およそ希望的観測でいた。だが観測は甘かった。

 電車が西大路を出て東寺の五重塔が視界に入ってきたと思った途端、スピードが緩まり徐行運転を始めだした。やはりそうか・・・・・延着の予感が。すると間もなく車内アナウンスが始まった。やはり何かあったのだ? 反対車線の異常は感じとっていたので驚かなかったが、せめてもっと早く伝えられないものなのか文句を言いたくなった。

 アナウンスによると、兵庫県西宮市内の甲子園口駅付近で人身事故が発生し各電車に遅れが生じ、先着の普通電車が京都駅のホームに停車しているので当電車が京都駅に入れないという。あーあ、またか。それも新年の初出勤の日に、なんたることか。電車は10分以上も立ち往生していて、どうにか何時もと違うホームに到着した。急いで隣のホームまで走り、京都発の普通電車に乗ろうとしたが、既に満員。でも乗らないわけにはいかなく、強引に乗り込んだ。だが発車が定刻より15分以上遅れ出発。

 ・・・・・・ここからがきつかった。一駅ごとに降りる人、乗る人との間で押しくらまんじゅう状態で、各駅ごとに大量の積み残しが出て、遅れの度合いが酷くなり、超満員の車内でもまれ続けて、ようやく30分遅れで目的の駅に到着した。・・・・ああ、疲れるなあ・・・・・。すると例によって、路線バスまでが超満員。どうにか始業時間ギリギリに職場へは着いたが、新年最初の日からいきなりの延着には参ってしまった。本当にJRさん、頼みますよ・・・・。どうにかなりませんか。

 仕事を終えて、夕刊を見ると朝の人身事故の記事が載っていた。

 ・・・・・・・・・・4日から行方不明になっていた痴呆症の老人が、線路脇に倒れていたらしい。すでに死亡していて、撥ねられた痕があるとのこてで、おそらく暗い間に撥ねられた老人が線路脇に倒れていて、、明るくなってから運転士が発見したのだろう。しかし、大変な迷惑だが、人身事故の被害者が痴呆症老人だと聞いて、怒りの矛先を向けることも出来ず、ただ哀れさを感じてしまったが、JRの線路内にこれだけ立ち入りが多いということは問題である。それこそ高い鉄格子に鉄条網でも張り巡らさないと、簡単に人が入ってしまうのでは・・・・・・・。

 もうここまでしないと、容易に人が入ってしまう。たった一人が線路内に侵入するだけで、何万人、何十万人という人が迷惑するのである。だからこのような事態を防ごうと思うなら、ここまでやらないといけないのかもしれない。でも、ここまでやっても侵入する人はするだろうけども・・・・・・。でもねえ、毎度毎度、電車が遅れるたびに、たいへんな目に遭わされるのだから、愚痴の一つでも言いたくなるのである。でも、何度言ってる事やら・・・・・先が思い遣られるなあ・・・・・。
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2009.01.03 (Sat)

肉親が来たが・・・・

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 今日は1月3日、1年ぶりに姉が子供二人を連れて我が家にやってきた。上の子は社会人、下の子は大学生であるが、1人が誕生日だというので案の定ケーキを持参して来た。だが、きっちりお年玉を取られたので懐具合があやしくなる。この不景気に・・・・来なければいいのにと思いながらも日頃、食べることのないケーキを食べたが、ほんとに今の子はチャッカリしている。

 それで下の女の子は大学3年生。今年、就職活動しないといけないだろううけども、突然の就職難でたいへんだなというようなことを話すと「進学するかも」と言い出すから「え!」と私は驚いたが、何処まで信じていいのやら。この下の女の子には時々、驚かされることがあるが、肝が据わっているというか、物事に動じないから、一見、暢気そうに見える。「勉強がすきやな」というと「おかげさんで」と返すから面白い。

 確か留学するとかいってたはずなのに、一向に外国に行ったという話も聞いてなかったから、留学をやめたのかと問うと「アメリカなんか嫌いやもん」と言い出す。
「好き、嫌いの問題やないやろ。語学とかで留学する人もいるのに」
「語学ぐらいで留学するなんてアホやん。英語ぐらい日本にいても勉強次第で話せる様になるよ」と言い出した。
「最近は高校生でも、英語検定2級をとらしている学校もあるらしいで・・・」
「そんなん、私も高校時代に2級とってるから、どうってことないで、私は準1級とって、その後、あほらしなって1級とるのをやめたけど、英字新聞ぐらい読めるで」
「そうか・・・・・・」

 確かに昔から成績の良い子ではあったが、このように返されると絶句する。
「それで、何の勉強をやりたいのや」
「まだ検討中」だそうで、正月から見事に、この娘に振り回されてしまった。

 やれやれ、正月から若い子と喋ると思考回路までいかれてくる。それで「これから、大阪で待ち合わせしているから」といって、1人だけさっさと出て行ってしまった。本当に大人しくしていない。小さい時からガサガサとして男みたいな子ではあったが、もう手におえないなあ。親はなくても子は育つというが、姉もいうことを聞かないのでほとほと困っているらしいが、まあ、間違った方向性にはいかないだろうから、見守るしかないとだけ言っておいたが、最近の女の子はとんでいる子が多い・・・。
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2009.01.02 (Fri)

ルイ・アームストロングのアルバム『プレイズ・W.C.ハンディ』を聴く

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 正月も2日になると、そろそろダレてくる。御節料理なんて毎日食べられというものでもないし、胃にももたれてくる。とはいうもののこれだけのんびり出来るのも正月ぐらいなものだけども、体がなまると仕事始めに差し支えるから、あまり暴飲暴食も出来ない。昨日はとうとう一度もテレビを観なかった。朝から駅伝、昼からサッカーの中継をやっていたが観なかったし、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートも観なかった。今年はダニエル・バレンボイムが指揮棒を振っていたというが、いかがなものだったのか、どうせ再放送するだろうし・・・。なんだかんだで元日は終わってしまった。それで昨日は久しぶりにルイ・アームストロングのトラペットとしわがれ声を聴いた。

 ルイ・アームストロングというといわずと知れたジャズの王様である。ジャズが20世紀の世に登場してからというもの、長きに渡ってジャズの王様に君臨していたトランペッター兼シンガーである。私が小学生の頃に聴いた『聖者の行進』という曲のイメージは、今でもルイ・アームストロングそのものだし、ミュージカル・ナンバー『ハロー・ドーリー』やヒット曲『この素晴らしき世界』等で、ルイ・アームストロングは、ポップス・ファンにもずいぶんと御馴染みの人になったものである。

 そんなサッチモ(ルイ・アームストロングのニックネーム)がブルースの父と言われるウイリアム・クリストファー・ハンディの曲ばかりをを演奏して唄ったのが当アルバムである。・・・・・ところでウイリアム・クリストファー・ハンディといわれても判らないかもしれないが、『セントルイス・ブルース』を作曲した人だといわれれば納得されるかもしれない。

 ウイリアム・クリストファー・ハンディ(1873年~1958年)はブルースの父と呼ばれるだけに、数多くのブルースの採譜と曲を残した人であるが、『メンフィス・ブルース』に続く作品の素材を探していた時、立ち寄ったセントルイスで彼は、サロンの前で男の辛い仕打ちを酒で紛らす黒人女性の嘆きを聞き、彼女の言葉がヒントになり1914年書き上げられた曲が『セントルイス・ブルース』である。『セントルイス・ブルース』は、ボードビルを通じて人気曲となり、やがて多くの名唱、名演を生み、1958年に彼の伝記映画『セントルイス・ブルース』ではナット・キングコールが演じた。ハンディ自身はコルネット奏者で、19世紀末にミンストレルの一員としてアメリカ各地を巡演した経歴があり、後に音楽教師、作曲家に転じたのである。

 一方、このアルバムの奏者兼歌手のサッチモ(ルイ・アームストロング)については詳しい説明は不要だろう。けども若い人の中には知らない人もいるだろう。でもジャズの王様といえば、この人以外にいないと思う。サッチモは1901年にジャズ発祥の地ニューオーリンズで生まれ、少年院でトランペットを覚え、1923年にシカゴに進出しキング・オリヴァーの楽団に入る。だからサッチモの師匠に当る人はキング・オリヴァーといってもよいだろう。その後、サッチモは出世し、数々の名演を残すがトランペット奏者として素晴らしいだけではなく、シンガーとしても独自の雰囲気持っていて、スキャットというスタイルを広めたのはサッチモだといわれている。サッチモは私が高校生だった頃の1971年に亡くなったが、あの頃はラジオでよく追悼番組をやっていて、多くのサッチモの演奏する曲を聴いたものである。

 それで結局このアルバムは、ブルースの父の曲をジャズの王様が演奏して唄うということで、名演とっされているのだ。録音は1954年というからサッチモが円熟期に差し掛かった頃と言ってもいいだろう。10曲以上収録されているが、冒頭から『セントルイス・ブルース』の物悲しいメロディがトランペットによって奏でられやがて唄が入る。それ以外の曲では『ラヴレス・ラヴ』だとか『ロング・ゴーン』『メンフィス・ブルース』等、聴き応えがあり、このアルバムを聴いてウイリアム・クリストファー・ハンディが感動し涙したという。サッチモ以外では、ヴォーカルのヴェルマ・ミドルトンが素晴らしく、なかなか貴重な一枚だといえよう。

 ルイ・アームストロングの楽団が演奏する『セントルイス・ブルース』(音声のみ)

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