2ntブログ
2010年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2010.10.31 (Sun)

第142回天皇賞

 昨日、関西には影響はあまりなかったが関東の方では時期はずれの台風の影響で東京競馬が中止になったという。それで今日は昨日に降った雨が馬場を湿らし、回復したもののやや重馬場での競馬となった。一方、関西はまたまた昼から本格的な雨。どうも天候の一定しない中での競馬である。そんな中で、第142回天皇賞(G-Ⅰ・3歳以上、芝2000m、18頭)が行なわれた。

 先週の菊花賞もメンバーは小粒だったが、この天皇賞ももう一つ盛り上がらない。でも3歳のペルーサ、アリゼオあたりが出てきたから菊花賞よりは見応えがあるかも・・・・。その中で1番人気は牝馬のブエナビスタだった。古馬の牡馬が頼りないからしょうがないが、圧倒的な人気である。2番人気がアーネストリー、3番人気がシンゲン、4番人気がペルーサ、5番人気が春の天皇賞馬ジャガーメイルであった。

 さてレースであるが、ペルーサは例によってスタトが悪く後方から。東京の2000mは欠陥コースといってもいい。スタートからしばらくカーブが続き乗り方が難しいからだ。以前、メジロマックイーンが2着に6馬身もの圧勝劇で天皇賞を勝ちながら、このゆるいカーブで斜行してしまい18着降着、武豊は騎乗停止を喰らったことは記憶に新しい。どうにか何事もなくバックストレートに入る。シルポート先頭、2馬身リード。オウケンサクラ、皐月賞馬キャプテントゥーレが並んで2番手。そのあとにコスモファントム、アーネストリー。内からスマイルジャック、その外にアリゼオ。そして本命ブエナビスタ、その外にヤマニンキングリー。さらにエイシンアポロンがいてジャガーメイル、シンゲン、ネヴァブションと続き、ショウワモダン、トウショウシロッコ、スーパーホーネット、さらにペルーサ、シンガリからアクシオンといった順である。ハロンタイムは12.4---11.3---11.6---11.6---12.2と1000m通過が59秒1、やや重にしたらまずまずのペースである。でも先頭のシルポートは4、5馬身リードするも2番手以降は縦に長くならず比較的に固まっている。レースは淡々と進み、直線に入る。

 シルポート先頭、シルポート先頭。オウケンサクラが2番手、3番手に芦毛のキャプテントゥーレ。ブエナビスタは中団の位置。シルポート先頭、シルポート先頭。ここでブエナビスタの前が開き一気に進出。シルポートをかわして早くもブエナビスタが楽な手ごたえで先頭に立った。あと200m、ブエナビスタがリード、2馬身以上抜けた。2番手はオウケンサクラかアーネストリーか、しかし馬場の真ん中から馬群が開いたところをペルーサが伸びてきた。一気に伸びる。2番手まで上がる。しかし、先頭のブエナビスタはもう騎手のスミヨンが抑えている。ブエナビスタが悠々ゴールイン。

 1着ブエナビスタ 1分58秒2、2着ペルーサ 2馬身、3着アーネストリー 1馬身1/2、4着オウケンサクラ 1馬身1/4、5着ネヴァブション クビ。

 ブエナビスタの横綱相撲だった。もし3歳のペルーサがいなかったら圧倒的な差がついていた。宝塚記念で敗れたナカヤマフェスタもいないし、それ以外の古馬の牡馬陣はだらしないし勝って当然といえば当然かもしれない。昨年の有馬記念は2着で、今年のドバイのシーマクラシックも2着、宝塚記念も2着と惜しいレースが続いていたが、ようやく牝馬限定ではない中距離のG-Ⅰレースを勝って箔がついた格好になる。あとはジャパンCと有馬記念だが、この2つも勝つ様だと歴史的牝馬となりそうだ。
EDIT  |  17:33  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.30 (Sat)

検査

 5日ぶりにパソコンの前に座ることとなる。

 1ヶ月前の健康診断で要再検査と指摘されていたもの、このところ土曜日出勤が多く行けなかったが、今日、心電図の検査を受けた。結果からいうと心拍数が早い以外はこれといって異常が見られなかった。取り敢えずは一安心ではあるが、相変わらず高血圧なので今後、降圧剤を飲みながら徐々に食生活をも含め改善していかなければならなくなった。もっと早く医者に行けばと言われればそうなんだが、何しろ通勤に時間がかかるため、帰りに寄るということも簡単に出来なくなった。近くの内科医院などは、こちらが帰宅した頃には閉まっている。かといって会社の近くだと、今度は帰宅時間の心配をしなくてはならない。とにかくよく遅れる電車なので、通院するわけにもいかない。困ったものだ。

 耳鼻科に通っているのに、こんどは内科のお世話にもならないといけないとは・・・・・歳はとりたくないねえ。
EDIT  |  19:35  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.25 (Mon)

ブログの更新が滞るかも

 これからしばらくは健康上の理由で更新頻度が落ちますが、ご了承ください。
EDIT  |  20:36  |  その他  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2010.10.24 (Sun)

第71回菊花賞

 朝から今にも降り出しそうな空模様だったが、昼からポツリポツリと雨が降り出した京都地方。今日、雨の中、淀の京都競馬場で第71回菊花賞(G-Ⅰ・3歳、芝3000m、18頭)が行なわれた。

 3歳クラシックの最後を飾る伝統あるレースとして71回目にもなるが、私が初めて菊花賞を観たのはシンザンが3冠馬になった翌年のことである(もちろんテレビ観戦)。昭和40年の菊花賞でダイコーターとキーストンの一騎打ちの末、ダイコーターに凱歌が上がったときだった。この頃は小学生で、小学生が競馬中継を観てはいけないと親に怒られたものだが、それから4年後の昭和44年には親には内緒でこっそり京都競馬場で生の菊花賞を観た(私はスポーツ感覚で観ていたのだが、世間はギャンブルとしかみないから)。この時に勝ったのが上り馬のアカネテンリュウだった。それ以来、菊花賞は春シーズン名前も聞かなかったような馬が夏以降、急速に力をつけ菊花賞を制するといったことが多々ある。それで今年の場合はどうなのかと出走メンバーを見渡していたら、何とダービー馬のエイシンフラッシュが出走を回避した。これでダービー馬が出走をしなかった菊花賞は、今年で4年連続となってしまった。さらに付け加えるなら、今年は皐月賞馬のヴィクトワールピサが凱旋門賞に出走のため渡仏したので、何とも寂しい菊花賞となってしまい、それならダービー2着で2歳王者のローズキングダムが断然かと思ってしまうのだが、最近の菊花賞は超スローペースになることが多く、必ずしも実力馬が実力を出し切れるレースとなっておらず、伏兵が勝利を得ることも多く予想の難しいレースとなっている。

 そんな中で予想通り1番人気はローズキングダムで、2番人気が上り馬のトウカイメロディ、3番人気がヒムノダムール、4番人気がクォークスター、5番人気がコスモラピュタであった。スタート前から雨足が強まり何かと波乱の前兆が見え隠れする中でスタートが切られた。

 まずまずのスタートでビッグウィークが先頭に出ようというところ、外からコスモラピュタが押して強引にハナを奪う。これは予想通りである。3コーナー、4コーナーにかけて一列縦隊に落ち着き、平均ペースで正面スタンド前にかかる。先頭はコスモラピュタ、2番手カミダノミ、3番手ビッグウィーク、4番手ビートブラック、その後、インにレーヴドリアン、外にゲシュタルト。さらにアロマカフェ、ヒルノダムール、トレイルブレイザー、そしてリリエンタール、トウカイメロディ。さらにネオヴァンドームがいて、その外にローズキングダム、そしてシルクア-ネスト、ミキノバンジョー、シルクオールディー、クォークスター、サンディエゴシチーの順である。スタートから1000mを1分01秒0で通過。例年よりもややゆったりとしているが、それほど遅くはない。でもここから遅くなるのが最近の菊花賞である。1、2コーナーからバックストレートにかけて超スローペースに落ちるのが最近の菊花賞である。案の定、ハロンタイムが13秒台に落ちてしまった。それでも先頭のコスモラピュタと2番手のカミダノミの差は開き10馬身。ローズキングダムは相変わらず中団の外で、その前にトウカイメロディがいる。スローペースで2周目3コーナーの坂の手前にかかる。でもコスモラピュタと後続の差は10馬身。坂を上りきって下りに入る。コスモラピュタが8馬身ほどリード。ここら辺りで後続が仕掛けに入ろうというところである。4コーナーを回っていよいよ直線に入ろうとするが、コスモラピュタは、まだ7馬身、8馬身のリードを保っている。コスモラピュタ先頭、コスモラピュタ先頭。2番手にビッグウィーク。ローズキングダムは1番外の8番手、9番手の位置。はたして届くのか・・・・・。コスモラピュタ先頭、コスモラピュタ先頭。まだ5、6馬身のリード。2番手のビッグウィークが伸びる。前の2頭が抜けている。あと200m、コスモラピュタ先頭、コスモラピュタ先頭。ビッグウィークが伸びる。ローズキングダムが大外から伸びるが、まだ5、6番手の位置。ここでビッグウィークがコスモラピュタを一気にかわして先頭にっ立った。ビッグウィーク先頭、ビッグウィーク先頭。2番手にコスモラピュタだが、ビートブラックが伸びる。外からローズキウグダムがやっと来た。先頭はビッグウィーク、ローズキングダム来る。ローズキングダムが来る。ビッグウィーク先頭、ビッグウィーク先頭。ローズキングダムが来る。ビートブラックも伸びる。しかし、ビッグウィーク先頭、ビッグウィーク先頭。ローズキングダmジュが一気にきた。しかし、ビッグウィークが粘りこんでゴールイン。

 1着ビッグウィーク 3分06秒1、2着ローズキングダム 1馬身1/4、3着ビートブラック クビ、4着レーヴドリアン 3/4馬身、5着コスモラピュタ クビ。

 上がりの競馬となってしまい、前にいたほうが有利になってしまった。でもローズキングダムは掛かり癖があり、積極的に前にいけなかったのか後手を踏んでしまった。やっぱり残りの800mの競馬となると、上がり時計が3Fで33秒台から34秒台の末脚を繰り出さないと勝ち負けできない。しかも勝ったビッグウィークは終始2番手、3番手のインコースにいた。無理なくレースに乗れたのが勝因だろう。それにインコースの最短コースを走り、スタミナのロスを軽減できたこと、全てが巧く働いたと思う。ただビッグウィークは初勝利が7月の阪神の未勝利戦。それが僅か3ヶ月半で菊花賞を制するとは驚いた。ただレースとしては物足りなかった。最近は菊花賞もメンバーが揃わなくなり、本場、英国のセントレジャーのように時代遅れのレースに成り下がってしまうのだろうか。そう考えると寂しいものがある。ところでビッグウィークは名前に冠名がないので、気にならなかったがカントリー牧場の生産馬で、懐かしい黄、水色襷の勝負服であった。私が最も競馬に熱狂した昭和40年代に一時代を築いたカントリー牧場の馬だった。当時、タニノの冠名で一世を風靡した。タニノハローモア、タニノムーティエ、タニノチカラ・・・・・・。今まで、ダービーには何度か勝っているが、菊花賞は初めてだったように思う。思えばダービーに勝って3冠確実といわれたのに、夏の間にのど鳴りに罹り菊花賞で惨敗したタニノムーティエのことを思い出さずにはいられない。

 最も最近はウオッカが活躍したように、カントリー牧場の馬も復活しているようだ。しかし、菊花賞制覇は先代オーナーの頃からの悲願だっただろう。とりあえずおめでとうございますといっておくとしよう。
 
EDIT  |  18:10  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.23 (Sat)

ああ、疲れた

 またまた土曜出勤だった。もう毎度のことで慣れてはいるが、週6日間ぎっしり朝から晩まで仕事をすると疲れる。それで例によって通勤に2時間だから、帰宅すると思わず「ああ、疲れた」と口走ってしまう。

 土曜日は普段の日よりもバスの便数がはるかに少ないから駅まで30分かけて徒歩となる。その結果、帰宅時間が遅くなるので、余計に疲れるのだが、電車が空いているので座れることも多い。だが、今日なんか結婚式帰りのグループが途中の駅から乗ってきて、大きな声で喋りだすから喧しい喧しい。こいつらアルコールが入っているから、顔が赤ら顔で気が大きくなっている。したがって周囲に目が行かないのだろう。矢鱈と大きな声で喋る。男も女も、こちらとしては仕事でぐったり疲れていて、居眠りしていたのに、こいつらが騒がしいから今まで心地よかったのに一遍で不愉快になってしまった。だから土曜日や祝日には出勤したくないのである。

 休日の電車というのは、行楽地へ帰りの人が多く乗っていたりするので、まあ、大方は喧しいのだが、今日のような喧しいグループもあまりいない。私の背中越しの方で7、8人の男女グループが騒いでいるから、車両を変え様としたが、隣の車両も部活帰りの男子高校生グループが通路にバッグを置き占領しているから車両を変える気が起こらず、そのまま大人しく居眠っていたが、余りにも大きな声で話をするので、嫌でも会話の内容が筒抜けになる。聴いていた限りはあまり上品ではない。それも男女混じっての下ネタを周囲に披露しているから、けして褒められたものではない。

 こんな連中の下らない会話に20分ほど付き合わされて、彼らは京都駅で全員降りていった。その後の車内は当然のように静寂そのもので、ただレールを走る車輪の音だけが響いていた。
EDIT  |  20:52  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.21 (Thu)

カウント・ベイシーのアルバム『ストレート・アヘッド』を聴く

s-P1020083.jpg

 戦前から活躍しているジャズ・ピアニストでバンド・リーダーのカウント・ベイシーだが、このアルバムは1968年の秋に出された40年ほど前のもので、晩年のベイシー・サウンドの代表的なアルバムといっていいだろう。収録曲は全部で9曲『ベイシー・ストレート・アヘッド』『イッツ・オー、ソー・ナイス』『ロンリー・ストリート』『ファン・タイム』『マジック・フリー』『スイッチ・イン・タイム』『ヘイ・バーナー』『ザット・ウォーム・フィーリング』『クイーン・ビー』であるが、全てがサミー・ネスティコの曲によるものである。

 そもそもカウント・ベイシーは初期の頃、泥臭いサウンドが売りで洗練されたデューク・エリントンに比べると都会的ではなくカンザスシティ・スタイルとも言われ、生命線はリズムとテンポであった。それが、楽団を支援した多くの作曲家、編曲家たちによってサウンドが年々、洗練されてくるようになり、このアルバムが発売された頃には泥臭さは影を潜めてきた。等アルバムで楽曲を全て提供したサミー・ネスティコもカウント・ベイシー楽団にとってはそういう意味で重要な人物である。サミー・ネスティコはは1960年代前半には空軍のアレンジャーをやっていた。それが1960年代後半になり、カウント・ベイシー楽団の仕事を積極的に行なうようになり、1970年以降の楽団の発展に大きく貢献しているのである。

 ネスティコは空軍バンドの指揮者を始め、15年間の空軍在籍中に演奏者(トロンボーン奏者として)、作曲者、編曲者として才能を発揮し、その間にトミー・ドーシー、ウッディ・ハーマン、ジーン・クルーパといった戦前からのビッグバンドに参加するなど、八面六臂の活躍が見られる。そして、その頃、カウント・ベイシー楽団でトロンボーンを吹いていたグローバー・ミッチェルとサミー・ネスティコが旧知の間柄ということで、楽曲を提供するようになったというものである。

 このアルバムが登場する少し前は、楽団の方向性が見えないときがあって、ベイシー・サウンドからかけ離れた曲ばかりを採り上げていた。たとえばミュ-ジカル曲、ポップスのヒット曲、それにビートルズ・ナンバー。または歌の伴奏オケ。それこそカウント・ベイシーらしくなかったのである。それが、サミー・ネスティコの曲提供や編曲を受け、カウント・ベイシーのオリジナル曲ばかりで登場したのが、当アルバムであるといいえよう。アルバムを聴くと本来のベイシーのジャンプするようなリズム感と高揚感が伝わり、楽団の新たな指針が垣間見れたような、そんな気がするアルバムである。

 ところでこのアルバムの標題曲である『ベイシー・ストレート・アヘッド』であるが、現在はビッグバンドのスタンダードになってしまった感がある。演奏していてもノリがよく、心地よいリズム感があり、それでいて如何にもジャズを演奏している風な曲なので、多くのアマチュア・ビッグバンドがレパートリーに入れているぐらいだ。ここではカウント・ベイシーのピアノが躍動し、軽快なタッチで見事にスイングしている。

 カウト・ベイシーは1984年4月26日に亡くなるが、その後はサド・ジョーンズ、フランク・フォスターがバンドを引き継いでカウント・ベイシー楽団として活動を続行し、その後はカウント・ベイシーとサミー・ネスティコを結びつけたグローバー・ミッチェルが楽団のコンダクターとして演奏者として楽団を率いて何度も来日している。まさに楽団が生き残ったのも、息を吹き返したのも当アルバム辺りからだろう。そういった見解で言うならば、ベイシー・サウンド復活の狼煙を上げたアルバムといっても過言ではないだろう。


 『ベイシー・ストレート・アヘッド』の演奏。動画はなし。 

EDIT  |  20:20  |  音楽(ジャズ)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.19 (Tue)

発砲事件

 退社間際のことであった。突然、知らせが入った。滋賀県の湖東地域で発砲事件があったという。それで1人が死に、複数の犯人が逃げたという。何とも物騒な話であるが、我が職場の或る沿線で起こったらしく、物騒なので駅まで歩かないでバスで帰ってくれというお達しがあった。しょうがないなあと思いながらも急いで帰って、テレビをつけた。何かニュースでも見ようかと・・・・・。しかし、帰宅時間がどうしても遅くなる。帰ると既にニュースは終わっていて、新聞の夕刊にもそれらしい記事はなかった。詳細が判らないので、インターネットで色々と検索すると、どうやらそれらしき記事を発見。それによると・・・・・・・・・

【「鉄板がひっくり返ったような『バン』という音がした」。滋賀県草津市の住宅街で19日正午すぎに起きた発砲、刺傷事件。刺された男が乗っていたとみられる車を数人の捜査員が取り囲み、周辺は物々しい警戒が続いた。白昼に突然響いた銃声に、住民は「こんなことが起きるなんて」と驚きを隠せなかった。
 刺された男が住むとみられるアパートは4階建てで、1階の敷地に駐車場がある。男はシルバーのワゴン車を運転して帰ってきたところを襲撃されたとみられている。アパートには規制線が張られ、捜査員らは淡々と車や周囲の検証を進めた。
 このアパートに住む無職の男性(50)は「12時すぎぐらいに、鉄板がひっくり返るような『バン』という音がした。(刺された男は)4階に住んでいたらしいが、面識はない。いつもは静かな所なので、こんなことが起きて驚いている」と、不安そうに話した。】 


 何、草津だと。同じ沿線ではないか。こんな田舎町で何とも物騒な事件が起きて困惑している。滋賀県に通うようになって2年半。今までのどか過ぎて退屈以外の何ものでもない湖国だったが、不愉快極まりない事件が起きてしまった。以前、大阪に通っていた頃は、喧嘩や事故は珍しくないほど見てきたし、刑事事件もよくあるし発砲事件も起こりうるところだったので、免疫になってしまいよほどのことがない限り驚かなかったが、滋賀県で起こるとなると意外にも驚いてしまう。とにかく人間がのんびりしているし、ギスギスしていない。むしろこういった田舎の県で起こるほうが怖いなあという印象がある。だからといってバスで帰るように上からお達しをだすのはどうだろうか。みんな社会人で立派な大人なのだし・・・・・。それとも犯人が会社の近辺をウロウロしているからとでもいうのか?

 帰宅時、既に外は真っ暗では或る。確かに人通りの少ない住宅街や田んぼの中を歩いて帰る。しかし、それが危険であるということはあるまい。どちらかというと真っ暗で人通りが少ないから、女性が痴漢に襲われるという可能性はあるかもしれないが、大の男がいきなり、こんなところで殺傷に現れるだろうか・・・・・・。いや、おかしな奴ならこんなところで、意味もなく人を殺しに来るかもしれない。最近は理由なき殺人が多いので・・・。でも今回は発砲事件だから、明らかに包丁やナイフで意味もない殺傷事件を起こすのとは違っている。拳銃を持っている段階で銃刀法違反にひっかかるのだから、普通は拳銃は持てないはずだ。すると何故、発砲事件が起きたのかということになる。怨恨事件か痴情の縺れか、それとも金銭がらみのいざこざか、それとも暴力団の抗争か?

 真実は判らない。それで逃げた犯人は何処にいるか判らない。それが物騒でバスに乗って帰れということだったのである。仕方が無いから小生もバスに乗って駅まで向ったが、暗い中、バスの車窓から部活帰りの女子高生が自転車に乗って駅まで向っているところを発見。この光景を見る限り、我々よりも彼女達の方が危ないと思うけどなあ。何れにせよ早い段階での犯人逮捕を願うしかない。 
EDIT  |  20:24  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.18 (Mon)

秋の夜長には・・・・

 昨日あたりからやっと秋らしくなった。もっとも朝、晩は涼しいのだが、日中の暑さは尋常ではない。毎日、京都の周辺は夏日である。何しろ上着がいらないのだから、私の感覚ではまだ残暑であった(長い残暑だな)。とにかく、今年の9月、10月共に雨が少ない。そのせいで気温も上昇するのだろう。10月の中頃になっても25℃を超える夏日だから上着を着る必要もない。それどころか歩くと暑いから、発汗するぐらいだった。それが昨日の日中はようやく夏日ではなく最高気温が25℃を下回った。こうなると一気に秋めいてくるのである。

 今朝なんかは今秋、1番の冷え込みで、布団の中が気持ちよくて起きるのにも時間がかかったほどである。こんな日は、低血圧の人は起きるのに一苦労するのだろうなあ。血圧の高い小生には考えられないことだが、これから寒くなるにつれ朝が辛くなるのは誰しも同じだろう。でも、これぐらいのピリっとした空気の冷たさの方が小生は身体のキレが良い。しかし、もう10月18日である。とうの昔にこれぐらいの気温に下がっていないといけないのに、一昨日までは日中だと半袖で歩けるほどの高い気温だった。やっぱり地球温暖化というのは切実な問題になっているのだろうか・・・・・。小生が若い頃よりも確実に秋が短くなっているし、冬も暖かくなっている。それに何よりも夏がより長く、さらに暑くなっている。実に暑いのが大嫌いな者としては、年々、嫌な時代になって行きそうで大いに困っている。はたして年老いて抵抗力がなくなっていき、夏を迎えるたびに乗り切れるのかどうか毎年のように不安になる。

 とはいうものの来年のことをいうと鬼が笑う。目先のことも判らないのに、来年の夏のことまで心配するなということだろうが、最近は夏が長く秋が短いときている。ようやく昨日辺りからめっきり秋らしくなったものの、もう少しで11月ではないか。冬はもうそこまできているではないか。すると秋をもっと感じないといけないのだ。秋はあっという間に通り過ぎてしまい、いつまでも秋があるというのではない。その後には冬が待っている。冬になると冬眠する動物がいる。さらには虫も土に返るのか・・・・・。冬でも冬眠しない人類は齷齪と働きまわるしかない。人間は知恵を得ただけ他の動物よりも辛い試練を乗り越えなくてはならない。社会の柵に耐えながらも生きていかなくてはならない。万物の霊長とされるも、その分、楽しいことも多いが同様に辛いことも多い。そこへ何かと社会におけるルールというものが存在する。これらの厄介なものから逃避するのには仙人暮らししかないだろうが、所詮、人間は社会的動物である。個人生活よりは不特定多数の人間の中で暮らすほうが、より効率的である。だから社会の中においても身勝手な行動は抑制されるのである。いや、理性でもって節度ある行動をとっているに過ぎない。

 結局、筆者は何がいいたいのだ!  ・・・・・いや、自分でも判らない。とにかく秋の夜長、色々と考えることが多く、思考回路が支離滅裂になってしまう。もう、これ以上、続けると分裂症気味の患者が書いた手記のようになってしまいそうである。なので、やめた。
EDIT  |  21:58  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.17 (Sun)

第15回秋華賞

 比較的、湿気のない秋の日であった。まだ陽射しは強く上着を着込むほどの気温ではないが、心地よいことは心地よい。ただ動くと相変わらず汗をかく。そんな日、京都競馬場で3歳牝馬のG-Ⅰレース、秋華賞が行なわれた。

 私は毎度言うように牝馬限定の3冠レースなんて意味が無いと思っているので、アパパネが牝馬3頭目の3冠馬になろうとも興味が無い。どうせ牝馬なんて牡馬に混じると・・・・・・・。最もウオッカやダイワスカーレットといった牡馬に混じっても十分活躍できる牝馬は価値がある。とはいってもどちらも牝馬3冠レースに食指も行かなかったようだが。

 そんなこんなで第15回秋華賞(G-Ⅰ・3歳牝馬、芝2000m、18頭)だが、つまらない京都の内回りコースを使って18頭もの多頭数で3冠最後の決戦だなんて下らないもいいところである。せめて2200mの外回りコースでやるべきだ。それならエリザベス女王杯があるって? エリザベス女王杯は昔のように2400mでいいではないか。京都の2000mという紛れの多い、坂もない直線の短いコースでG-Ⅰレースを行なうべきではない。それに昔は秋華賞というレースはなかった。馬券の売り上げ増を狙った話題つくりのための急造レースとしか言いようがない。それにエリザベス女王杯が本来は牝馬3冠レースといわれ、それ以前はビクトリアCといわれていたのだ。こんなことを知っている人は競馬歴35年以上の人に限られるだろうが・・・・・・。つまり大した伝統も何もないレースなのである。それに言っとくが秋華賞は3歳クラシックレースでもない。最近出来た3歳牝馬のG-Ⅰレースとしか私は認識していない。だから今日の記事は適当に書く。

 1番人気はアパパネ、2番人気はアプリコットフィズ、3番人気はサンテミリオンで、スタートが切られた。予想通りアグネスワルツが逃げ、3馬身、4馬身リードする。ベストクルーズ、オウケンサクラ、アプリコットフィズ、エーシンリターンズ、レインボーダリア、ショウリュウムーン、レディアルバローザ、ディアアレトゥーサ、コスモネモシンと続いた後にアパパエンがいた。中団の外を通っている。アグネスワルツが58秒5で1000mを引っ張り、淡々と3コーナーを回る。あっという間に4コーナーから直線に入る。まったく京都の内回りコースは力の入らないレースになりがちだが紛れも多い。でもアパパネは強かった。1番外を通り、他の馬に妨害されないところから伸びてきた。あと200mで早くも前の馬を捉え先頭に。残りは後続から伸びてきたアプリコットフィズ、ワイルドラズベリー、アニメイトバイオをいったライバルを寄せ付けず快勝。

 1着アパパネ 1分58秒4、2着アニメイトバイオ 3/4馬身、3着アプリコットフィズ 1/2馬身、4着ワイルドラズベリー クビ、5着レディアルバローザ クビ。なおオークスでアパパネと同着で優勝したサンテミリオンは皆目、いいところがなく18着のシンガリに大敗した。

 これで馬主の金子真人氏は、クラシック3歳3冠のディープインパクトと牝馬3歳3冠のアパパネ、両3冠を獲得した馬主第1号となった。この人は馬主歴も浅く、それでいてクロフネやブラックホーク、キングカメハメハも持っていた。何と馬相眼のある人だろうか。

 それにしてもアパパネは強かった。でも牡馬に混じってどうかという疑問は残る。所詮は牝馬限定で勝っただけという注釈がつく。だから牝馬限定の3冠レースは意味が無いと私は考えている。やはりウオッカ、ダイワスカーレットの両馬のように牡馬相手にG-Ⅰレースを勝っていくほうが至難だと思う。まあ、今後のアパパネの活躍に期待するとして高見の見物で眺めて見るか。如何に牝馬3冠が大きな勲章とはならないということが判ると思うが・・・・。有馬記念で惨敗したメジロラモーヌ、その後、ぱっとしなかったスティルインラブのように・・・。
EDIT  |  17:09  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.16 (Sat)

納豆

s-P1020081.jpg

 先日、9月に行なった健康診断の結果報告書が返って来た。・・・・散々である。もう若いとはいえないが、あちらこちらに支障をきたしているので、報告書にいいことは何も書いてない。要するに身体がガタガタということである。もともと血圧が高めのうえ気管が弱かったので煙草をやめて既に10数年になる。でも40代始めまでは異常なしとの診断が常だった。それが最近は何と、あそこが悪いだのこちらが良くないなど、色々と所見が見られるようになった。でも、まあ歳をとると何だかんだと悪いところが出てくるもので、仕方が無い部分もあるが、今回の健康診断で動脈硬化や糖尿病のどのリスクが高まってきたから、生活習慣改善に取り組んでくれというものだった。

 しかし、煙草は吸わないしアルコールも耳鼻咽喉科に通いだしてからは、ほとんど飲んでいないのに、それでも悪い方向に向うのだから、こればかりは一概に言えないなあと感じた。とりあえず血糖値が基準値より高いから、それに血圧も高いから、何かといいことは言われないのだが、食事改善と量を減らし適度の運動を試みることにしたといっても、小生、毎日、職場から最寄り駅までも3㎞の道のりをテクテクと結構な速度で歩いているが、これでも運動は足りないというのだろうか・・・・。血圧の高いのは遺伝のせいでもあるだろうし、気管が弱いのもそうだろう。でも遺伝のせいにもしていられないし、改善出来るところはやってみようということになり、その結果、食事の量を減らし、野菜中心の食事に変更する。さらに、手始めとして毎日、納豆を食べる事にした。

 納豆・・・・・大豆を納豆菌で発酵させた食品で、どこが発祥かはよく判らないが、主に茨城県を中心にして関東地方で昔からよく食べられていたので、関東の郷土料理という人もいる。とにかく納豆は身体に良いとされる。その効能は色々とあるが、一般的にはナットウキナーゼ、ビタミンK2が含まれているからだといわれている。ナットウキナーゼは血栓と溶かす酵素が含まれていて、血をサラサラにする効能がある。また、有害物質の排泄、コレステロールや糖質の吸収を遅らせる働きもある。ビタミンK2は腸の悪玉菌を減少させ、善玉菌を増加させる。この働きで腸内環境を正常化するのである。

 このように効能を聞くと、食べないといけないだろう。でも昔から近畿地方では納豆を食べる習慣がなかった。あの粘々とした糸ひきに、あの食感に独特の匂いが駄目で食べられなかった。食習慣というのは面白いもので、幼少の頃から食べなれてしまうと何ともないのである。それが大人になってから、食習慣を変えて今まで食べる習慣がないものを食べろといっても、簡単に食べられるものでもない。でも、長生きしようと思えば食べないわけにはいかないだろう。とうことで昨日から納豆を毎日、食べる事にしたのだが・・・・・・・10年ほど前、一度、納豆を食べようと思い立ち、暫くは食べていたのだが、何時の間にか食べなくなった。苦手だからかなあ・・・。でも今回は、嫌だとも言ってられない。とにかく肉は出来る限り食べないで野菜中心に切り替えて、納豆を毎日食べる。そして食事の量を減らす。でもこれを続けることが1番、難しいのだが・・・・・・。健康を保つのも大変である。
EDIT  |  20:44  |  食・飲  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2010.10.14 (Thu)

マーラーの交響曲第5番を聴く

 ブルーノ・ワルター指揮
 ニューヨーク・フィルハーモニック
s-P1020063.jpg

 ゲオルグ・ショルティ指揮
 シカゴ交響楽団
s-P1020068.jpg

 グスタフ・マーラーの名前を意識したのは何時ごろだろうか。確かイタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』を観てからだと思う。

 『ベニスに死す』とはドイツの作家トーマス・マンの原作による映画化で、この映画が上映された当時、高校生だった私は、まさに印象派の絵が動いているかのような映像の美しさと、それとリンクした耽美的な音楽に酔いしれ、何時しかマーラーの5番のアダージェットの虜になってしまい暫くは抜け切れなかったものである。

 映画の内容はというと、静養のためベニスを訪れた老作曲家グスタフ・アッシェンバッハだが、彼は、この世のものとも思えない美少年タジオと出会う。彼こそアッシェンバッハが求めていた理想の美である。ベニスの宿に到着してからもタジオのことが頭から派なれない。アッシェンバッハはタジオを見たいがため浜や浜に続く回廊を彷徨い、やがてベニスで流行っている疫病に感染する。でもタジオを求めて海岸を徘徊しやがて息絶える。

 映像が美しく、そこへ当時、話題になった美少年ビョルン・アンドレセンが出てくる。ただ男から見ると男らしさに欠け、ナヨナヨしている感もあるが、この世にこんな美少年がいるのだなあと感嘆した覚えもある。そして、何よりも映画全般に流れていたアダージェット。この映画で知るや、早速、レコードを買いに走ったのだ。・・・・・といっても買ったのは姉の方である。何とLP2枚組で1時間以上の演奏時間がある。アダージェットはその中の第4楽章だった。でも買った姉は、一度、全曲聴いたものの、2回目からはアダージェット以外は聴かなかった。結局、何時も全曲を通して聴いていたのは私の方だった。

 こうして私はマーラーの交響曲と出合ったのであるが、それ以前からマーラーの曲は話題にはなっていた。でもほとんど聴いたことがなく、レコード店においてもマーラーの曲は交響曲1番がほとんどで、この交響曲5番というのは、当時、置いてないところもあった。確か映画『ベニスに死す』で有名になったから、5番の交響曲が人気になったのである。つまり映画『ベニスに死す』からマーラーの人気がさらに高まったといってもよいだろう。

 ところで、このマーラー5番の交響曲だが、第4楽章のアダージェットは実際にアルマ・シントラーに贈ったものであり、1901年11月にマーラーとアルマは知り合い、1ヶ月後に婚約、4ヶ月後に結婚という早業であった。要するアダージェットは、グスタフ・マーラーがアルマに宛てた愛の告白である。この10分もない第4楽章アダージェットだけは全5楽章の中でも図抜けて有名になってしまったのは、そういった経緯があったからだろう。

 交響曲全体としては演奏時間が62分~70分の大曲である(指揮者によって大幅に変わる)。第1楽章は『葬送行進曲』と標題がついているように重々しい。冒頭からトランペットが葬送を告げるファンファーレが吹かれるも、このフレーズが何処かメンデルスゾーンの結婚行進曲を連想させるが、結婚行進曲と葬送行進曲とでは正反対、そこがメンデルスゾーンとマーラーの違いか・・・・・。第2楽章も『嵐のように激しく、いっそう大きな激しさで』と記され、イ短調、2/2拍子。ソナタ形式で序奏、提示部、展開部、再現部、コーダとやや古典的な楽章である。第3楽章は最も長く、この楽章だけで15分は超える。ニ長調のスケルツォだが、ウィーン風であり、牧歌的であり、ホルンの奏でるメロディが印象深い。第4楽章は例のアダージェット。ヘ長調でハープと弦だけによる演奏で、透明感が素晴らしい。第5楽章はニ長調のロンド楽章。ホルンが主要主題を奏し、他の楽器でフーガ風に展開し弦が加わり主要主題の再現、さらに副主題が姿を現し、やがて、この大曲を締めくくるフィナーレと続く。

 マーラーの交響曲としてはさほど編成の大きいものではないが、それでもフルート4、オーボエ3、クラリネット3、ファゴット3、ホルン6、トランペット4、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、シンバル、大太鼓、小太鼓、タムタム、鉄琴、ハープ、バスクラリネット、ピッコロ、コントラファゴット、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。やはり大編成の交響曲である。作曲は1901年の夏から始められ、1902年の夏に完成している。つまりアルマと知り合い、結婚にいたるまでの間、この5番の交響曲は同時進行で作曲されていたということになる。


 マーラー 交響曲第5番 第1楽章の演奏
 レナード・バーンスタイン指揮
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


 続いて第4楽章アダージェットの演奏

EDIT  |  21:35  |  音楽(クラシック)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.12 (Tue)

老眼鏡

s-P1020059.jpg

 最近、老眼が進み小さな活字がさっぱり読めない。もう新聞も電車の中においては裸眼では読めなくなった。何時から老眼を意識しだしたかというと10年以上、前のことである。読書しても目が疲れるし文字がぼやける時があった。それで眼鏡屋に行ってためしに眼鏡を合わせてもらったら文字がよく見えるではないか。正直言ってショックだった。40代前半で老眼が進行していたとは・・・・・・・。それ以来、小さな文字を読む時は老眼鏡をかけるようになったが、あまりかけすぎると老眼がより進行するので、出来る限りかけずにいて、本を読む時でも眼鏡を使用せずにいた。それが最近はさらに老眼が進行し、とうとう眼鏡無しでは本も読めなくなった。ああ情けない。そのせいか最近はさっぱり読書をしなくなった。というよりも眼鏡がないと読めないからなのだが、その眼鏡を何処に置いたのか忘れてしまい、せっかく買ってきた本も読まずに置きっぱなしということもしばしば。困ったものだが、そのたびに老眼鏡を買うので、とうとう手元に3つ、会社に2つある。

 若い頃、私の視力は1.5~2.0の間をウロウロしていたほど目は良かったのだが、40歳の頃に1.0を下回り、それ以降、老眼も進行したということである。でも老眼というのは30㎝あたりの距離において、小さな物が見えにくくなる場合が多いので、文字を読む以外はほとんどかけない。いや、かけると前方がぼやけて日常生活に異常をきたすから、近眼の人が眼鏡を離さずかけているというのとは違うのだ。

 加齢により水晶体の弾力性が失われ調節力が弱まり、近くの物に焦点を合わせることが出来なくなるのが老眼だから、1m離れると老眼鏡はかけないほうがいい。だから厄介なのである。そしていざ書類に目を通して書こうかと思うと眼鏡を忘れたということが多く、裸眼では見えないから老眼鏡は絶対に必要なのだが、普段はかけないからよく忘れるのである。

 でも最近は私の老眼も進み、度数がさらに強くなった。なので読書をしなくなった、出来なくなった。いや、困ったものである。どちらかというと私は映像世代ではなく活字世代である。テレビは見なくてもいいが、本は読みたいといった類に属するので、活字に飢えている。それが手元に眼鏡がないと読めなくなってきたから、最近は読書も億劫になってきた。

 先日、久々に姉が我が家を訪れた。相変わらずの読書狂いである。とにかく昔から文学少女で、中学の時に大概の日本文学全集、世界文学全集を読破してしまい、高校では片っ端から西洋のミステリーを読み漁り、大学では歴史文学、時代小説の類はほとんど読んだと言う。それが社会に出てからも続き、そこからは大衆小説、エッセイ、紀行文、哲学書、何でも読んでいたのでは・・・・・・・。結婚してからも続き、今でも近くの図書館で毎週、数冊の本を借りて読んでいるようだ。その姉が我が家に来ても相変わらず本を持参しているではないか。でも眼鏡をかけずに読書しているのを見て羨ましく思った。姉は今年、還暦を迎えたのに視力は未だに1.0だという。同じ血の繋がった姉弟なのに、この差はいったい何なのだ。私も目がよければ、今でも週に数冊の読書ペースを保っていたはずだ。それが出来なくなった自分に腹が立つ。そこで姉に尋ねると、文明の利器を使わないからだと言うではないか。そういえば姉は最近まで携帯電話を持っていなかった。でも主人との連絡用にと義兄の会社から仕方なく持たされたという。また未だにパソコンを操れない。夫は銀行員でオンラインの関係の作業をしているから、家にもパソコンが数台あるというのに、姉は使い方も知らないという。以前は姉の娘にメールを打ち込んでもらっていたというから、相当なОA機器オンチといってもいいだろう。

 ところが、このような携帯電話、パソコンといった機器の画面を見ることもなかったから目がいいのだと言い張る。そういえばそううかもしれない。それに姉はテレビを一切、観ない。それは私も同様だが、私以上にテレビを見ない。情報は全て新聞か雑誌。または情報誌。そらなら何のためにテレビを置いているのかというと、映画のDVDを観るためだという。レンタルでDVDを借りてきて、週に映画を3本は観てるという。それで最近の映画のことも詳しいのであろう。古い映画しか知らない私とは大違いである。

 いずれにしても姉と私とでは趣味や思考、嗜好が似ているようで、実はさっぱり似ていない。でもあやかりたいところはあるが、真似はしたくない。でも目は良くなりたいと思った次第である。
EDIT  |  21:30  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.11 (Mon)

ビートルズのアルバム『フォー・セール』を聴く

 左がCDで、右がLP盤。LP盤は1970年に買ったものでアップル盤。アップル盤はステレオだが、その前に姉が買ったモノラルのオデオン盤も持っていた。オデオン盤はボロボロになるまで聴きまくったので、5年後にアップル盤を購入したのである。
s-P1020053.jpg


 とうとう我がブログでもビートルズを採り上げる。思えば私が洋楽を聴くきっかけになったのもビートルズなら、洋楽を熱心に聴かなくなったのもビートルズ解散以降のことである。だから私が最も西洋のポップスを聴いていたのは1960年台後半ということになる。そして、絶えずその中心であり、核だったのがザ・ビートルズである。

 一昨日の10月9日はビートルズのリーダーだったジョン・レノンの生誕70年の日であった。あったといってジョン・レノンは1980年の12月8日、ニューヨークの自宅前でファンという男にピストルで撃たれ40歳で亡くなっているから本人は生きている訳でもない。でもよくベートーヴェン生誕200年だとかモーツァルト生誕250年だとかいってクラシック音楽の世界では記念コンサートが行なわれたり、記念アルバムが出たりする。それでそういった慣習に倣っていうならばジョン・レノン生誕70年ということになる。また1980年に亡くなっているので、死後30年ということもいえる。

 ところで今回、記事にしたアルバムは『フォー・セール』である。本家のイギリスではビートルズ4枚目のアルバムとして1964年12月4日にリリースされた。デビューから2年を経過し、ビートルズがビートルズらしいサウンドを創作しだした頃のアルバムであり、これまでのアイドル・グループらしき様相から徐々に脱皮し、音楽性がより確かなグループになりつつあった頃である。収録曲は全14曲である。彼らのオリジナルも8曲となり、初期のアルバムの頃と同様、そこへカバー曲が加わっている。ただし初期の頃のビートポップス的な曲から進化し、明らかにビートルズ・サウンドらしきものが現れより曲が洗練されている。

 収録曲は『No Reply』『I’m A Loser』『Baby’s In Black』『Rock And Roll Music』『I’ll Follow The Sun』『Mr. Moonlight』『Kansas City~Hey,Hey,Hey』『Eight Day’s Week』『Words Of Love』『Honey Don’t』『Every Little Thing』『I Don’t Want To Spoil The Party』『What You’re Doing』『Everybody’s Trying To Be My Baby』以上である。

 頭の『ノー・リプライ』を初めて聴いた時、衝撃を受けた。いきなりのジョン・レノンがシャウトして曲が始まるが、ビートルズが本当にビートルズらしくなりオリジナル性を発揮した曲の代表であろう。私にとっても『ノー・リプライ』はジョン・レノンによる珠玉の名曲である。ビートルズの中でも好きな曲の一つであり、何時聴いても新鮮な気持ちで聴けて、今でもこの曲を聴くと心が洗われる。『アイム・ア・ルーザー』は、ジョン・レノンがボブ・ディランを意識して書いたとされるが、ボブ・ディランをビートルズが意識していたというのも面白い。『ベイビーズ・イン・ブラック』ジョンとポールの共作だという。ビートルズにしては珍しい12拍子。『アイル・フォロー・ザ・サン』はポールの作。ポールお得意のバラード。この曲も私はよく鼻歌で歌ったものだが。

 LPではB面の頭になるが、『エイト・デイズ・ア・ウィーク』はジョン、ポールの共作で、如何にもビートルズらしいメロディラインで、イギリスではシングル盤は発売されずアメリカでシングル盤が出された。そして当然のようにヒットチャート1位を記録。『エヴリー・リトル・シング』ジョン・レノン作の可愛らしい曲。ドラムスではなくティンパニをリンゴが叩いていて、リードをジョージではなくジョンが弾いている。ところでエヴリ・リトル・シングというと私よりもずっと若い世代では日本のグループ名だという。でも我々より上の世代では誰もグループ名を連想しない。やはりビートルズの曲名を連想してしまう。もっとも日本のグループも名前をビートルズの曲名から頂いたのだろうが・・・・・。『アイ・ドント・ウォント・トゥ・スポイル・ザ・パーティ』は『パーティはそのままに』という本題がついているが、当時は邦題がつけられることが多かった。ジョンとポールの共作で明るく楽しい曲である。『ホワット・ユー・ドゥーイング』はポールの曲で、片手間で作ったのかポールはあまり覚えてなく、ジョンが作ったといったらしい。

 以上がビートルズのオリジナルで、残りの曲はカバー曲である。実を言うとビートルズは全てをオリジナルにしたかったらしいが、1964年というとビートルズの人気が絶頂であった。この年の9月21日にアメリカ公演から帰国し、10月9日からはイギリスの国内ツアーが控えていた。そんな中でレコーディングが開始され、それもEMIの強い要望でクリスマス商戦にアルバムを出すことになり、短期間の間に作曲せねばならなかったが、8曲は用意したが、アルバムを出すには曲が少ないということで残りがカバー曲になってしまったのである。

 『ロック・アンド・ロール・ミュージック』はいわずと知れたチャック・ベリーの曲。ジョンのヴォーカルで光っているが、この曲は来日公演でオープニングを飾った曲として有名であり、またザ・ピーナッツが紅白歌合戦で『ピートルズ・メドレー』として歌っていた。・・・・恋をするならロックン・ロール・ミュージック・・・・・と、だから私はビートルズの曲かと思っていたぐらいだ。『ミスター・ムーンライト』も印象的な曲である。オリジナルはドクター・フィールグッド&インターンズだが、ほとんどの人はビートルズの曲と思い込んでいるようだ。あと『ハニー・ドント』『エヴリバディズ・トライング・トゥ・ビー・マイ・バイビー』は等ブログでも何年か前に記事で紹介したことのあるカール・パーキンスの曲である。でもカール・パーキンスの曲をビートルズは幾つかカバーしているが、それはジョージ・ハリスンがカール・パーキンスのファンだったからでもある。

 さて、このアルバムを久しぶりに聴き返して感じたことであるが、このアルバムまで、ビートルズはジョンのバンドであるということが窺える。それが次の『ヘルプ!』あたりからポール・マッカートニーが才能を発揮しだし、次第とポール中心のバンドとなっていくのが判る。そしてただのビートポップ・グループから真のミュージシャン、アーティストとしての評価が段々となされるようになるのである。


 『ノー・リプライ』の演奏。動画はなし。


 1966年6月、ビートルズ来日時のコンサート。E・H・エリックの司会のあとに登場したビートルズがオープニングで『ロックン・ロール・ミュージック』を歌う。残念ながら、この日のジョン・レノンは声のはりがない。
この初日の武道館でのコンサート。テレビで生中継され、姉と一緒になって歌っていた覚えがある。もう、44年も前のことになった。

EDIT  |  14:29  |  音楽(ポップス、ロック、その他)  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2010.10.10 (Sun)

毎日王冠、京都大賞典

 昨日は1日雨だったが、今日は雨が上がって晴れ間が見えたが気温がまた上昇、半袖でも十分なほどのやや湿気を含んだ暑さだった。まったく秋の爽やかさとは違って残暑といってもいいような暑さがぶり返した。そんな中、今週から東京、京都開催と代わり天候とは違って秋競馬が本格的になってきたようだ。今日は朝から野暮用で出かけていたが、ちょうど淀競馬場息のバスが走っていたので、開催が阪神から京都へ代わったのだ感じた次第である。そんな秋競馬だが、東京で毎日王冠、京都で京都大賞典が行なわれた。

 まずは東京の毎日王冠(G-Ⅱ・3歳以上、芝1800m、10頭)だが、1番人気は3歳馬のペルーサ、2番人気はショウワモダン、3番人気はスマイルジャック、4番人気はシルポート、5番人気はアドマイヤメジャー。はたしてオグリキャップ以来の3歳馬勝利となるかが注目されたが・・・・・・。レースはスタートからペルーサがまた出遅れた。どうも出遅れ癖があるようだ。3馬身の不利。その間にシルポートがハナを奪う。アドマイヤメジャー2番手、3番手エイシンアポロンとスマイルジャック。その後にアリゼオとショウワモダン。さらにマイネルスターリー、2馬身あいてネヴァブションとトウショウウェイヴ。5馬身遅れてペルーサがシンガリから追走。ラップは12.9---11.2---11.4---11.5---11.9で800m通過が47秒0、1000m通過が58秒9と重馬場だということを考えれば、さほど遅いこともない。バラバラの展開でシルポートが3馬身リードで逃げていたが、あと600mの地点から馬群が固まってきた。そして直線に入る。シルポート先頭、シルポート先頭。内にエイシンアポロン、外からスマイルジャック。あと200m、シルポート先頭。スマイルジャックとエイシンアポロン。内のエイシンアポロンが出た。エイシンアポロンが出た。ペルーサはまだ後方。エイシンアポロン先頭、エイシンアポロン先頭。さらに内からアリゼオが来る。アリゼオが来る。エイシンアポロン先頭、エイシンアポロン先頭。アリゼオが来る。アリゼオが来る。エイシンアポロンかアリゼオか。エイシンアポロンかアリゼオか。並んだがアリゼオが僅かに出たか。2頭並んでゴールイン。

 1着アリゼオ 1分46秒4、2着エイシンアポロン ハナ、3着ネヴァブション 1馬身1/2、4着スマイルジャック 1馬身1/4、5着ペルーサ 1/2馬身。

 ペルーサは5着に敗退したが、1着、2着が人気薄の3歳馬とは・・・・。3歳馬が古馬を抑えて同レースを勝ったのはオグリキャップ以来、22年ぶりのこと。今年の3歳はレベルが高いのかも知れないなあ?

 京都では京都大賞典(G-Ⅱ・3歳以上、芝2400m、10頭)が行なわれた。ここでは昨年のジャパンCで勝ったウオッカとハナ差で2着に敗れたオウケンブルースリがやっと出てきた。しかし+22kgというから明らかに重そうな馬体である。なんだか波乱含みのような気もしたが・・・・・・。1番人気はそれでもオウケンブルースリ、で2番人気がメイショウベルーガ、3番人気フォゲッタブル、4番人気プロヴィナージュ、5番人気ベストメンバーであった。

 馬場は良発表だが昨日の激しい雨で馬場がいくらか渋めだとのこと。そしてスタート。ホームストレートの長い直線。ゆっくりした流れからドリームフライトが出てきた。内からゴールデンメインで1、2コーナーを回る。先頭はドリームフライトで逃げる逃げる。差は10馬身。2番手にゴールデンメイン。さらに10馬身あいて3番手プロヴィナージュ。4番手にシルクネクサス、5番手にベストメンバー、6番手メイショウベルーガ、その後にベンチャーナインとフォゲッタブル。そしてオウケンブルースリがいて、3馬身開いてシンガリにスマートギア。スタートからのハロンタイムは12.6---10.5---11.0---11.6---12.0---12.0と800m通過が45秒7、1000m通過が57秒7、1200m通過が1分09秒7と1毎日王冠よりもペースが速い。こちらは1800mと違って2400mのレースである。ちょっと速いかもしれないなあ。向こう正面から3コーナーの坂へ向うが、先頭のドリームフライトをゴールデンメインが追う。その差は4馬身、しかし3番手との差は15馬身以上。800のハロン棒を通過。坂を下ろうというところ。ゴールデンメインがドリームフライトを捉えにかかる。とうとう捉えて先頭に出る。ここで後続も一気に迫る。でもゴールデンメインが先頭で植え込みの横を通って直線に入る。ゴールデンメイン先頭。4馬身のリード。2番手にプロヴィナージュ。あと300m、先頭ゴールデンメイン、2番手プロヴィナージュ。後続からメイショウベルーガが来る。先頭ゴールデンメインで200mのハロン棒を通過。馬場の中央からメイショウベルーガが来た。プロヴィナージュも伸びる。あと100m、メイショウベルーガが先頭に出た。メイショウベルーガが先頭。オウケンブルースリが外から伸びる。メイショウベルーガが先頭、メイショウベルーガ先頭。オウケンブルースリ来る。オウケンブルースリが伸びる。オウケンブルースリが差をつめる。しかしメイショウベルーガが先頭でゴールイン。

 1着メイショウベルーガ 2分25秒0、2着オウケンブルースリ 1/2馬身、3着プロヴィナージュ 3馬身、4着ベストメンバー 2馬身1/2、5着ゴールデンメイン クビ。

 メイショベルーガもオウケンブルースリも馬体重が増えていて、それでも強かった。ことにオウケンブルースリは手薄な古馬陣の中心にならないといけない馬である。今日は久々だったので明らかに重目残りだったかもしれない。これで一走叩いて次に天皇賞に行くのかジャパンCに行くのか判らないが、この馬は2000mは未知数だ。ジャパンCでは凱旋門賞2着のナカヤマフェスタとの顔合わせになりそうだ。こりゃ久々に面白いかも。
EDIT  |  17:07  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.09 (Sat)

1日中、雨

 今日は出勤で先ほど帰宅したところである。このところ土曜日や祝日の出勤が多くて、いささかウンザリしているのだが、今年、あと何回ほど土曜、祝日の出勤があるのかな・・・・・。土曜出勤だからといって代休があるわけでもないし、かといって特別に給料が割り増しになるのでもないから、出れば損なのだが仕方がない。したがって今日は土曜日という気がしない。おまけ一日中、雨だった。今年の春は雨が多かったが、夏以降はさっぱり雨が降らなくなった近畿地方。だが、一旦、降り出したら長い時間、強く降る傾向がある。そのおかげで朝から、傘をさして出かけたが、まだ我が家の付近は小雨だった。それがトンネルを2つ抜け、湖国に入るやしっかりと雨が降っていた。このような状況は毎度のことだから驚かないが、よく雨の降るところである。これが冬になると雪に変わるからやっかいでもあるのだが、何時ものように会社の最寄り駅に到着。ここでバスに乗る。平日ならバスがピストン運転されるのだが、そこは土曜日のこと、バスの便数が激減する。仕方なく雨の中を傘をさしてバスを待つ。

 何とも惨めな話であるが、足元はベトベト。雨足が強いと路面を叩き付けた雨が跳ね返って靴や靴下、ズボンの裾を容赦なく濡らす。足元が湿っぽくなってきた。バスよ早く来てくれないかないかなあと懇願するも、雨日はマイカーが増える土地柄、バスが動かない。だから土曜出勤は嫌なのだ。やっとバスが来て乗り込む。職場に到着したものの何時もより遅い時間である。

 仕事中も雨がひっきりなしに降っていた。まあ、休日だったとしたら雨の日で憂鬱だったことだろう。まだ仕事に従事しているほうがましかと思いつつ、この拘束時間がとても耐えがたい時間なのである。毎日、こんな無意味なことを消化して時間を潰し、その日の日当なり給料なりを貰うことが最近、本当に馬鹿らしくなってきた。サラリーマンっていうのは何の才能もない連中が集まって、会社という大きな組織に従属することを生業とし生活の糧となるお金をせしめている。はたして彼らの中のどれだけの人間が、このやりたくもない労働を好き好んでやっているのか、ほとんどいないと思う。みんな生活のためとしか言いようがないだろう。だから私もやりたくない。でも職がなければ収入が途絶える。つまりしょうがないから仕事に従事しているということだが、私はその従属度が他人より希薄なので、余計に土曜出勤に腹が立つ。よく中年野朗で、休みの日が重なると暇で暇でやることがないといっている奴がいるが、私には信じられない。休日にやることが多すぎて、もっと暇が欲しいと感じているのに、そいつらの休日を分けて欲しいぐらいだ。

 だから私の睡眠時間は4時間ぐらいだろう。毎日、午前4時には目が覚めている。一度目が覚めると、そこから寝れないので、目を瞑っているだけである。よく休みの日に昼まで寝ているという話を聞くが私には出来ない。そのせいで昼寝を行なっているのだが・・・・・・。だから何を言いたいのかってことだが、これ以上、休日出勤を勝手に増やして拙者の貴重な自由時間を減らさないでくれということである。

 ・・・・・・・こんなことを考えながら仕事をやっていたが、何時もより仕事が多いではないか。いい加減にしてくれ。ようやく解放されて、いざ帰宅・・・・・。雨だからバスで帰ろうかと思ったが、土曜日なのでバスの便数が少なすぎる。今畜生、だから土曜日、祝日の出勤は嫌なのだ。もっと駅の近くに会社を造りやがれ。こんな陸の孤島に造りやがって、駅まで遠すぎるではないか。それでバスがないと歩かなくてはならない。しかし、雨の中を延々と30分も歩くとだんだんと怒りがこみ上げてくる。なんでこんなに歩かせられて無駄な時間を消化しなくてはならないのか。やっと雨の中を歩いてきたのに、電車が行ってしまった。あーあ、また15分の待たなくてはならない。本当に田舎の会社は嫌になる。そして駅に到着。すると次の電車は5分到着が遅れるという。いい加減にしてくれ!!

 雨は降るわ、バスは来ないわ、歩かさせられるわ、ロクでもない。延着の電車を待ちつつ、ホームのベンチに座り薄暗くなった駅前のロータリーを眺めていたら、何とバスを待っている女子高生が傘をさして雨の中でステップを踏みながら踊っていた。何だこの娘は。ダンス部にでも所属しているのだろうか。なんだか映画『雨に唄えば』のジーン・ケリーを思い出したが、この娘はジーン・ケリーなんて知らないだろうな・・・・。とにかく一日中、立腹していたが、この女子高生の行動を見て思わず笑ってしまった。今日の中で、唯一、微笑ましいと思った瞬間である。
EDIT  |  21:52  |  その他  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2010.10.07 (Thu)

日本人のノーベル賞受賞者が2人

 昨晩、日本人2人がノーベル化学賞を受賞したというニュースが飛び込んできた。最近は尖閣諸島付近において中国漁船が日本の海上保安庁の船に衝突し、外交問題へと発展。それ以来、中国になめられまくっているが、そこへ相変わらずの異様な円高ときては何かと閉塞感の漂う日本丸だった。そこへ日本人2人の学者がノーベル化学賞を受賞という降って沸いたような明るいニュースが飛び込んで、まだまだ日本も吾を見失っていないぞと自信を取り戻させるような出来事であった。

 今回、ノーベル化学賞を受賞されたのは鈴木章、根岸英一の両名。鈴木章さんは北海道大学の名誉教授で、根岸英一さんはアメリカのパデュー大学特別教授である。今回の受賞対象となった研究業績は・・・・・有機合成におけるパラジウウム触媒を用いたクロスカップリング・・・・・・。クロスカップリングって何だ?

 異なる有機化合物の骨格となる炭素同士を仲立ちする金属の触媒によってつなげる反応と説明されているが化学の知識を全く持ち合わせていない私には、何のことかさっぱりわからない。説明されているのを続けて読むと・・・・・有機化合物の炭素は化学的に安定していて他の炭素とは反応しにくく、以前は結合させるのに何段階ものステップの反応が必要だったり、効率が悪かったりして、思い描いた新しい化合物を得るのは難しかった。これに対してクロスカップリングは、1回の反応で、速く、効率よく結合させ、複雑で多彩な物質を工業的に製造することを可能にした。触媒にはパラジウムのほか、ニッケルや鉄等も利用される。

 以上のような説明で判るだろうか。まあ判らないだろうが、つまりこれらは有機合成法の実用化が進み、やがて複雑で多彩な物質を効率よく作り出すことが可能となり、海の生物から採取した物質をモデルにした抗炎症剤、エイズ治療薬、抗癌剤、抗生物質等の優れた医薬品の開発に繋がったというから凄いものである。2人ともアメリカ・パデュー大学のブラウン教授に学んだ同窓生で、2人の研究成果は、それぞれが根岸カップリング、鈴木カップリングを見出した。

 これで日本人のノーベル賞受賞者の数は18人となり、出身大学別で言うと東大が7人、京大が5人、名古屋大が2人、北大、東北大、東工大、長崎医大が1人ずつだが、東大の7人中、3人は文学賞の川端康成、大江健三郎、平和賞の佐藤栄作ということを考えると、物理学、化学、生理学、医学といった理系関係の受賞者に限れば、京大が1番ノーベル賞受賞者を出していることが判る。これはおそらく国を司る政治家や官僚育成機関の趣が強かった東大とは違って、政治に関係なく自由な研究に没頭することが出来た京大の学風と関連しているからだろう。でも、最近は儲からない学者の道を志す人もあまりいないというし、理系に進む若者も減っていく一方とも聞いている。つまり日本の学者がノーベル賞を受賞するのも今の間だけということか? こりゃ、やっぱり斜陽国家の道をまっしぐらだなあ。

EDIT  |  21:29  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.05 (Tue)

シカゴの初期アルバムを聴く

s-IMG_0407.jpg
s-P1020030.jpg

 39年前のことだが、1971年6月13日の日曜日、シカゴのコンサートに行った。当時、高校生だった私は、ロックのコンサートだというとほとんど行っていた。この頃はロックバンドの初来日が相次いでいて、片っ端からチケットを購入してコンサート(今はライヴとしか言わないか)に駆けつけていた。そのためにアルバイトをやっていたのでもあるが・・・・。それでこの前年と翌年も含めて行ったコンサートは、サム&デイヴ、B・B・キング、ブラッド・スウェット&ティアーズ、バート・バカラック、グランド・ファンク・レイルロード、エルトン・ジョン、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、サンタナ、エマーソン・レイク&パーマー(チケットは持っていたが行けなかった)・・・他にも行った覚えがあるがすぐにはちょっと思い出せない。そんな中で最も印象的で盛り上がったのが、このシカゴのコンサートだった。

 この頃、ブラス・ロックというものが流行った。ブラッド・スウェット&ティアーズ、チェイス、タワー・オブ・パワー等、その最も先駆けとなったのはバッキンガムズなのだが、このバンドはまだブラスが全面に出ていない。この1960年代の後半にポップスはより激しくなり多様化し、そういった中でブラス・ロックというものが出没してきたのである。これまでの電気ギター中心のロック・ミュージックにブラスセクションが加わったというものである。音楽が多様化した結果、ポップスもジャズも接点がだんだんと無くなってきて、フュージョンなんていう音楽も出てきたが、従来のエレキサウンドにブラスが加わったものがブラス・ロックだろう。そんな中で最も活躍していたのがブラッド・スウェット&ティアーズであり、このシカゴであった。

 どちらのバンドも同じような頃に出てきたと思うが、当初、あまり気にもかけなかったし、ジャズのようなロックのような訳の判らないバンドが出てきたなあという印象でしかなかった。それがブラッド・スウェット&ティアーズの『スピニング・ホイール』が大ヒットし私の中で認識が変ったのである。これまでブラスはジャズ。ロックはエレキ・ギターと思い込んでいた。それがジャズとロックの見事な融合といえばいいのか。これまでのロックとは違い音色に幅が出てきた。最もあの頃、私のロック好き仲間はあんなラッパ吹き音楽はロックではないと言い張り毛嫌いしているものが多かった。

 でも当時からジャズも何となく聴いていた私は俄然と興味を持ち、ブラッド・スウェット&ティアーズ初来日の時に早速、コンサートに出かけていった。でもあまり盛り上がりがなく淡々として終わってしまった。やはり日本ではブラス・ロックは駄目なのかなあという思いがある中で出かけていったのが、シカゴの初来日コンサートであった。当時の大阪は、まだ本格的にロックのライヴが出来る会場がなく(大阪城ホールが出来るのは10年後であるし、その他の会場はもっと後年に完成した)、クラシックの殿堂であるフェスティバル・ホールが会場に使われることが多かった。

 そしてホールの指定された席に座って前を見渡すや、何と同級生のY君が彼女を連れて観に来てた。また、それ以外のロック好きの仲間も大勢来ていて、ブラス・ロックは嫌いといいながら、みんな生のシカゴを聴きたかったというのが本音だろう。

 こうして『イントロダクション』から演奏が始まった。ステージに現れた彼ら7人。テリー・キャス(リード・ギター、ヴォーカル)、ピーター・セテラ(ベース、ヴォーカル)、ロバート・ラム(キーボード、ヴォーカル)、ダニエル・セラフィン(ドラムス)、ジェイムズ・パンコウ(トロンボーン)、ウォルター・パラゼイダー(木管楽器全般)、リー・ロックネイン(トランペット)。巨漢テリー・キャスがメインヴォーカルを勤めるが、何とバンドの中央の最前列にドラムスのダニエル・セラフィンが居座っている。面白い配置だったと記憶する。演奏は徐々に盛り上がり、シカゴの連中も自身で盛り上がってきたのだろう。休憩にはいる前半の最後には観衆の歓声が大きくなっていた。

 休憩が終わり、彼らがステージに入ってきた時から観衆は既に酔っていて、2階から飛ばされた紙ヒコーキがステージの方まで飛んで行き、それを拾ったダニエル・セラフィンが客席に投げたら場内はどっとどよめき大歓声。後半のステージは狂気、乱舞した。シカゴの連中が盛り上がり過ぎて、サービス精神旺盛な彼等が、どの曲でもアドリブを余分に行うので観衆は徐々に立ちはじめ、手拍子が自然発生的に始まり、所々で踊り出す者も現れる。今では当たり前だが、あの頃のライブでは考えられない出来事であった。それまでの日本の聴衆というのは大人しく、じっと座って聴いている。時には手拍子もするが、それも演奏者に促がされて渋々やっていた場合が多い。それがこの時は観に来ていた人から燃え滾るものがあって、一気に盛り上がったのである。

 こうして後半はヒット曲、『クエスチョンズ67/68』、『メイクー・ミー・スマイル』『ぼくらの世界をバラ色に』を中心に演奏し、盛り上がりがだんだんとピークに達する。そして最大のヒット曲『長い夜(25 or 6 to 4)』の頃は観衆が自分の席を離れ出し、ステージの前に集まりノリノリであった。その後、アンコールの声がやまず、彼等はアンコールを計3回行なったのではなかったかと思う。シカゴは引っ込んだが、まだ帰ろうしない客が30分もステージの前でアンコールをするように叫んでいたという。こうして盛り上がりすぎたシカゴの初来日コンサートの初日は終わった。彼等は翌日も大阪で1回行い、その後、東京の日本武道館で1回コンサートを行なった。何れも盛り上がったという。

 ところでシカゴは結成された頃(1967年)、ビッグ・シングをいう名前だった。シカゴのデ・ポール大学の学生中心のバンドだった。如何にもジャズのビッグ・バンドを連想させるバンド名で、ロックにジャズ的要素を加えようとしていたことが窺える。1969年にはプロデビューし、シカゴ・トランジット・オーソリティーという名前だった。ファースト・アルバムのジャケットに書かれてある通りなんだが、2枚目のアルバム時にはシカゴという変哲もない名前に変えている。それはシカゴ交通局からの苦情があったためであるが、初期の彼らはベトナム戦争を皮肉ったっり政治的な歌詞が多く、時代を反映していたと思う。

 その後、私はロックを聴かなくなり、以降の彼らは知らない。ただテリー・キャスが拳銃を暴発させて死んだという新聞記事を見て驚いたことはある。それも私が生コンサートに行ってから7年後のことだった。既に私は社会人であり、生活が忙しくなり音楽をゆっくり聴いている時間もなかった。シカゴはメンバーを入れ替えて、現在でも演奏活動を行なっているとは聞いている。今となっては聴こうとは思わないが、あのブラス・ロックを聴いて大いに盛り上がったことは青春の1ページとして私の記憶の中に確実に残っている。


 シカゴの『長い夜(25 or 6 to 4)』の演奏(1974年)。


 シカゴ『Make Me Smile』の演奏(1970年)

EDIT  |  20:38  |  音楽(ポップス、ロック、その他)  |  TB(0)  |  CM(6)  |  Top↑

2010.10.04 (Mon)

第89回凱旋門賞

 昨日の深夜(現地時間10月3日)に行なわれた第89回凱旋門賞はご存知のとおり、日本のナカヤマフェスタが大健闘の2着に入り、ヴィクトワールピサも7着でゴールインした。

 2010年度のヨーロッパ競馬のクライマックスを飾る第89回凱旋門賞(G-Ⅰ・3歳以上、2400m、19頭)がフランスはパリのロンシャン競馬場において行なわれた。今年は出走馬が1頭取り消しの19頭と多く、本命不在の混戦とされ、一応は前走のニエユ賞で勝ったBehkabadが1番人気に支持され、2番人気がFame and Glory、3番人気がPlanteur、4番人気が英国ダービーで圧勝したWorkforce、5番人気が凱旋門賞で3年連続2着のYoumzainだったが、日本の2頭は人気こそないが、それぞれが前哨戦を使い、ことにナカヤマフェスタは2着と頑張り、ロンシャン競馬場の馬場適性があることを立証し期待を抱かせた。

 馬場はベリーソフトというから日本で言う重馬場に近い。これだと時計がかかりそうな超スローペースになるだろうと思って観戦していたが・・・・・・。19頭というのは最近の凱旋門賞では多い。したがって馬群に包まれると抜け出すのに往生する。なにしろ日本の競馬とは違って、馬群が固まりになって進むから気をつけなければならない。とにかく馬群がバラけないから抜け出すのに一苦労する。最後で一瞬の脚を持っていないと馬ゴミを捌けない。そのあたりが問題なのである。さて、それで凱旋門賞であるが、予想通り超スローペースになった。ナカヤマフェスタは中団のあたり、ヴィクトワールピサはその後ろにつけていた。ただあまり後ろだと最後の追い比べで前が壁になって追い出しが遅れることがある。ヴィクトワールピサは後ろ過ぎないか?

 フォルスストレートを通過して各馬が追い出しにかかろうとする。そして直線に向いた。各馬に鞭が入る。ヴィクトワールピサは案の定、前の馬ゴミを捌けず、仕方なく外へ持ち出して追い出すようだが、ジリ脚のこの馬には瞬発力勝負は辛い。それでも徐々に前の馬を少しでも捉えようとしている。一方、ナカヤマフェスタは巧く馬ゴミを捌いて、追い出しに入る。だがナカヤマフェスタの内から同じようなタイミングで追い出しに入ったのがWorkforceだった。この2頭は抜け出しびっしりと競った。僅かにWorkforceがリードして、ナカヤマフェスタと馬体を接して競り合った。日本競馬界の悲願なるか・・・・・・。しかし最後まで差は詰まらずWorkforceに凱歌が上がった。

 1着 Workforce 2分35秒30、2着 ナカヤマフェスタ アタマ、3着 Sarafina 2馬身1/2、4着 Behkabad 1馬身1/2、5着 Fame and Glory。

 結果は意外だった。ナカヤマフェスタが英ダービー馬Workforceとびっしり競りながら2着に入線したのを確認するものの正直いって驚いた。ナカヤマフェスタがあれだけ見事なレースをするなんて・・・・・。確かに今年は成績はいいが、昨年の3歳時には皐月賞7着、日本ダービー4着、菊花賞12着というもう一つ成績のぱっとしない競争馬だったからだ。それが今年は成長したからなのか。気性に問題があって、昨年は成績が伸びなかったのに、今年になって宝塚記念を勝ってしまった。でもそれは驚きの序章でしかなく、今日の好走を観て改めてナカヤマフェスタに拍手を送りたくなった。

 でも言い換えれば今年はメンバーがもう一つだから好走できたともいえる。勝った英国ダービー馬のWarkforceはダービーで驚異的なダービーレコードで突っ走り、2着を4馬身差に切って捨てている。それで古馬との緒戦になったキング・ジョージでHerbingerに16、17馬身も千切られる5着。それ以来の競馬となったが見事に凱旋門賞を制したことになる。一方、ナカヤマフェスタは宝塚記念を勝って、その勢いで凱旋門賞挑戦をほのめかし、早めに現地へ渡り前哨戦を経験できたことは大きい。結果的には過去の日本の馬の中では最もいい成績を挙げたのは、同じ馬場で一度レースを使ったことが好走に繋がったのだと思う。ところでナカヤマフェスタが過去の凱旋門賞に出走した中で日本馬最高の成績を挙げたのは賞賛に値するが、だからといってナカヤマフェスタが日本競馬史上最強をいうことにはならないし、今日はスローペースがこの馬に味方したし、短い距離の瞬発力勝負になったことが結果的に良かったということになるだろう。

 好走に水をさすようだが、ナカヤマフェスタというけして自他共に認める日本の最強馬でもない馬があれだけの好走をするということは、凱旋門賞を日本馬が制覇するのもそんなに先の事ではなさそうだという気がしてきた。確かに今年のナカヤマフェスタは成績が安定しているが、正直なところあれだけの好走を見せるとは思えなかった。これだと今年、ディープインパクト級の日本馬が出走していたら勝ったのではと思えてくる。だが、競馬というのはそういった単純なものでもなく、最強馬が遠征したからといって必ずしも勝てるものでもない。それだけ海外の競馬は難しいのである。ナカヤマフェスタが好走したのは、所謂、順応力に優れていたからであろう。フランスの馬場が合っていて、彼の地の環境にも適応したからであろう。そこへ一度、ステップレースを経験させ、馬場に馴れさせて本番に望めたからいい結果に繋がったのだと思う。やはりぶっつけ本番では凱旋門賞は勝てないことが、これで明白になった。今後、日本から遠征する場合、今年のように凱旋門賞の前にロンシャンの馬場で競馬をさせること。そして、そこである程度の手ごたえを掴むこと。これが今後、遠征する日本馬に求められる条件であろう。



EDIT  |  21:49  |  競馬(海外レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.03 (Sun)

第44回スプリンターズS

 昨日、夏のような暑さだった近畿地方だが、今日は昼から本格的な雨になった。そして中央競馬は秋のグレードⅠがいよいよ始まろうとしている。

 中山で第44回スプリンターズS(G-Ⅰ・3歳以上、芝1200m、16頭)が行なわれた。今年は香港から参加の2頭が逃げ馬と差し馬で、ことにグリーンバーディーが前走、阪神のセントウルSで2着に敗れたが、届きそうもない位置から接戦に持ち込んだとかで、本日は1番人気に支持された。2番人気はワンカラット、3番人気はキンシャサノキセキ、4番人気はビービーガルダン、5番人気はローレルゲレイロだったが、絶対的な本命馬はなく混戦が予想された。中山は阪神のように雨が降っておらず、激しいレースが期待された。

 スタートが切られた。激しい先行争いから香港馬のウルトラファンタジーが手綱を強引に押して先頭に立った。2馬身リード。2番手は混戦で外からローレルゲレイロ、中にビービーガルダン、内からアイルラヴァゲイン。その後にワンカラットとウエスタンビーナス、ジェイケイセラヴィ、ヘッドライナー。さらにキンシャサノキセキ、ギリーンバーディー、マルカフェニックス、ファイングレイン、ダッシャーゴーゴー、プレミアムボックス、サンカルロと続き、シンガリの位置にはサンダルフォン。早くも3コーナーにかかり600mのハロン棒を通過。馬群がだんだんと固まってきて4コーナーを回る。キンシャサノキセキは外を通って好位置にあがり、いよいよ直線に入る。先頭にウルトラファンタジー、ジェイケイセラヴィ2番手、外にキンシャサノキセキ。あと200mというところ、まだウルトラファンタジー先頭。粘る粘る。ジェイケイセラヴィ、キンシャサノキセキ、内から白い帽子が出てきた。ダッシャーゴーゴーだ。ウルトラファンタジー先頭、ウルトラファンタジー先頭。キンシャサノキセキ3番手。内からダッシャ-ゴーゴー。ダッシャーゴーゴーが伸びた。ダッシャーゴーゴーが伸びた、ウルトラファンタジー粘る。ダッシャーゴーゴーが来た。ダッシャーゴーゴーが来た。ウルトラファンタジー先頭、ダッシャーゴーゴー迫る。ウルトラファンタジー先頭だが、ダッシャ-ゴーゴー迫ってほとんど同時にゴールイン。

 1着ウルトラファンタジー 1分07秒4、2着キンシャサノキセキ ハナ+1馬身1/4、3着サンカルロ 1/2馬身、4着ダッシャーゴーゴー 2位降着、5着ワンカラット クビ。

 ダッシャーゴーゴーは長い審議の結果、直線に入った直後、内に斜行しサンカルロの進路を妨害したとかで2着に入ったのに4着降着となってしまった。しかし、短距離路線の香港馬は強い。グリーンバーディー向きの展開にならなかったが、きっちりウルトラファンタジーが逃げ切ってしまった。

 さて、今日の深夜、いよいよ第89回凱旋門賞が行なわれる。日本からは周知の通りナカヤマフェスタとヴィクトワールピサが出走する。今年は混戦で20頭も出てきた。1番人気はニエユ賞に勝ったBehkahadで、2番人気はFame And Glory、3番人気は英国ダービー馬のWorkforceと仏ダービー2着のPlanteurである。ナカヤマフェスタは単勝21倍、ヴィクトワールピサは単勝41倍と共に人気がない。両馬共に厳しいレースとなりそうだがどのようなレースになるのか興味が沸く。なお、今年のキング・ジョージで11馬身差の圧勝劇を演じたHerbingerが出れば面白いと思っていたが故障により引退。何と来年から日本で種牡馬となるようだ。どうなっているのかな。
EDIT  |  17:25  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.10.02 (Sat)

ジャック・ルーシェ・・・・・『プレイ・バッハ Vol 1』を聴く

s-P1020049.jpg

 私が高校生の頃、何故か姉がジャズを聴いていた。喧しいハードロックは毛嫌いし、かといってフォークも好きではない。カントリーは嫌い。ラテンもノーグッド。シャンソンもごく一部の歌手しか聴かないし、クラシックもあまり聴かないし、かといって邦楽が大嫌いな姉のこと。それが或る日、当時、家にあったステレオプレーヤーでジャズのLPを聴いていたから驚いた。そういえば姉が大学生の頃、時々、ジャズ喫茶でコンボ演奏を聴いていたようなことは知っていた。でも家でLP盤を聴くほどのことはなかった。さて、それで何を姉が聴いていたかというと、ジャック・ルーシェ・トリオの『プレイ・バッハ』だった。どういうことかというとフランスのピアニストであるジャック・ルーシェがトリオを組んで音楽の父であるヨハン・セバスチャン・バッハの曲をジャズ風に演奏するというものであった。

 ジャック・ルーシェは1934年にフランスのアンジェで生まれた。10歳でピアノを習い始めた。ピアノを習う年齢としては遅い年齢であるが、バッハの音楽的な精神性、数学的な緻密さに影響を受けたといい、パリ音楽院に入学した頃まではクラシックのピアニストになる決意を持っていた。そんな中、バッハの曲をピアノで弾いている間に我慢が出来なくなったという。ハーモニーを変えたり、対旋律を創り出したりしていると次第に自身の作品が出来上がってしまったということだった。

 ジャック・ルーシェはパリ音楽院を卒業し、シャルル・アズナヴール等の伴奏を務めるなどフランス・ポピュラー音楽界に係わっていた。それが、その頃、モダン・クァルテットの存在を知り、モダン・ジャズに対する感性に火がついたのである。こうしてデッカ(レコード・レーベル)のオーディションに迎えられ、クラシックやジャズ、民謡等の色々なジャンルの曲を彼風にアレンジして弾いてみた。そして、最後に冗談のつもりでバッハを弾いたら聴いていた連中が皆、飛びあがったという。いわば、これがプレイ・バッハ誕生の瞬間であった。1959年、ジャック・ルーシェはフランスジャズ界では既に知れていた2人、ピエール・ミシェロ(ベース)、クリスチャン・ギャロ(ドラムス)に声をかけ、ジャック・ルーシェ・トリオが結成され、その結果、録音されたのが当アルバムである。

 当時から遊びでクラシックの曲をジャズ風に演奏していた人もいたが、これだけ大々的に採り上げたこともなく、全てバッハの曲をアレンジしてジャズ風に演奏している。曲は8曲あるが『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』から前奏曲が4曲、フーガが3曲、そしてもう一曲は有名な『トッカータとフーガ ニ短調』が収められている。基本的にはメロディのラインを残しながらジャズのリズムで突っ走っている。バッハの生きていたバロック音楽の時代はアドリブ演奏が珍しくなかったというから、現在のジャズに共通するものがある。その後、クラシック音楽が古典派の時代になり、やがてロマン派へと受け継がれる過程で曲の構成が大掛かりとなり、即興演奏がだんだんと影を潜めるようになるのである。したがってプレイ・バッハといってもバロック音楽の時代に近い形でジャック・ルーシェはピアノを弾いているのかもしれない。

 結果として『プレイ・バッハ1』はジャズのアルバムとしては大ヒットした。rコード売り上げは2週間で6000枚に達し、2度目のプレスを行なって発売したが、それもすぐに売り切れてしまった。その頃のフランスのラジオ局が電波で『プレイ・バッハ』を流すようになったkら、余計に人気が出たのであるが、保守的な人の中には、あれはバッハではないといって突っぱねた。「バッハの音楽というのは書かれたとおりに演奏すべきであって、それ以外は認められない」というものだった。確かにそうなんだが、楽譜に書いてないことをバッハは即興で演奏してみせたこともあるから(モーツァルトは頻繁に即興演奏をやったというし)、強ち暴挙だともいえないのだが、クラシック音楽しか聴かない頭の固い人は許せない。バッハを愚弄していると考えたかも知れないのである。だが、一般大衆にプレイ・バッハは圧倒的に支持されたのである。

 その後もジャック・ルーシェ・トリオのプレイ・バッハ・シリーズは続き、今や世界中で認められ600万枚のアルバム売り上げがあり、3000回以上ものコンサートを行なった。こうしてクラシック音楽とジャズの融合が今では当たり前となったが、そのきっかけをつくったのがジャック・ルーシェである。つまりジャック・ルーシェのような自由な発想を持っていないとこういった音楽は生まれなかっただろう。最もクラシック音楽を聴く人の中には他の音楽を聴かない人も多いし、ポップスを聴く人はクラシックを聴かない人が多い。やはり良い音楽には垣根はない筈だ。いらない規制概念は捨ててもっと自由に音楽に接して欲しいものである。


 バッハの『平均律クラヴィーア曲集 第1巻~前奏曲第1番 ハ長調 BWV.846』の演奏。ジャック・ルーシェとジャズ・シンガーのボビー・マクファーリンの共演。バッハの曲はどんなアレンジをしても生き生きしている。

EDIT  |  19:54  |  音楽(ジャズ)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑
 | BLOGTOP |