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2007.09.30 (Sun)

ジャズ・アルバムを聴く・・・・・アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ

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 今時はジャズを聴く人がいるのだうろか? 大阪のブルーノート・ライブはビルボード・ライブに変わったし、往年のジャズの巨人の多くが死んでしまった現在において、ジャズは過去の音楽になってしまったのではと考えてしまう。でも昔の名盤は残ってるし、何時聴いても良いものは良い。時代を超越して古さを感じさせない。

 もう亡くなったがアート・ブレイキーなんていうドラマーがいた。1919年生まれであるから日本で言うなら大正生まれということになる。ジャズメンの多くはこのように明治時代、大正時代の生まれが多いから、ジャズの全盛時代というのは1930年代と言われる。ビッグバンドを中心としてたジャズの時代である。それが戦後になってコンボ(小編成)を中心としたジャズが盛んになり即興音楽が演奏されるようになる。いわばモダンジャズの登場である。

 こんな時代にアート・ブレイキーはホレス・シルヴァーとジャズ・メッセンジャーズ(初代)を結成した。戦前からビリー・エクスタイン楽団やそれ以外のバンドでマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーと共演していたアート・ブレイキーは、自己が最大表現出来るバンドを得て大きく飛躍するのである。その後、1954年になってホレス・シルヴァーが脱退し、アート・ブレイキーが事実上のリーダーとなり、1958年10月30日に、このアルバムを録音する。ブルーノート・レーベルからリリースされた当アルバムは瞬く間に人気と評判を呼び、日本でもモダンジャズ・ブームが訪れた。アート・ブレイキーというとハードバップであるが、このファンキー・ジャズとも言われる一つの流れを作った。

 当アルバムは『モーニン』『モーニン(別テイク)』『アー・ユー・リアル』『アロング・ケイム・ベティー』『ザ・ドラム・サンダー組曲』『ブルース・マーチ』『カム・レイン・オア・カム・シャイン』と7曲収録されている。メンバーはリー・モーガン(トランペット)、ベニー・ゴルソン(テナー・サックス)、ホビー・ティモンズ(ピアノ)、ジミー・メリット(バス)、アート・ブレイキー(ドラムス)である。

 冒頭からファンキー・ジャズの傑作『モーニン』が流れる。ボビー・ティモンズのピアノのイントロから始まり、ベニー・ゴルソンのテナー、アート・ブレイキーのドラムが加わる。昔から何100回聴いたか判らないが、何度聴いても良い。体が高揚すると言うか、何時の間にか曲に合わせてビートを刻んでいる自分に気がつくから驚いてしまう。この曲以外では『ザ・ドラム・サンダー組曲』でアート・ブレイキーの"ナイアガラ大瀑布"と異名を持つ激しいドラムロールが披露される。これぞモダンジャズの黄金期を支えたアート・ブレイキーの真骨頂。もともとピアノを弾いていたが、エロル・ガーナーというピアノの達人に出会いドラムスに転向したという。結果的にはドラマーに転向して成功し良かったのではないだろうか。

 『アロング・ケイム・ベティー』『ブルース・マーチ』はベニー・ゴルソン作のお馴染みの曲であるが、リー・モーガンのトランペットとベニー・ゴルソンのテナーがフューチャーされ、2人の対照的な掛け合いが面白い演奏である。自由な表現で奔放に吹きまくるトランペットに対して、テナーは飽くまでもクールである。

 全体的に1950年代のスモールコンボを体現している象徴的な演奏が多く、これから秋の夜長、部屋を暗くして薄暗い照明の中でワインでもバーボンでもいいからグラスを傾けながらファンキー・ジャズを聴いてみるのもいいかもしれない。そんな事を思わすアルバムである。
                                                   
老いたアート・ブレイキーが若いメンバーと『モ-ニン』を演奏する

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2007.09.29 (Sat)

なくなった喫茶店

喫茶『みゅーず』のあったところ
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 ようやく気温のうえでは秋らしくなったが、また来週辺り暑さがぶり返すという。もう10月だというのに、どうなってるのだろうか。異常気象もとうとうここまできたか・・・・・・。

 今日は京都の歓楽街・四条河原町周辺へ出かけてきた。これといって当ても無いのだが、目的もなく繁華街をブラブラすることはよくある。書店やレコード屋(今は言わないか)へ行ったりして、昔は本を買うと必ず喫茶店に立ち寄って、コーヒーの香りに包まれながら煙草をプカプカさせながら読書に耽っていたものである。なのに最近は喫茶店に皆目行かなくなった。何故だろうと自問自答してみたら、煙草を止めたからであろう。煙草を止めてかれこれ10年にはなる。それまでは1日にして、2箱は吸っていたかもしれない。でもだんだんと煙草との相性が悪くなって、喉が何時もゼイゼイとしているし風邪もよくひく。そして、思い切って止めてしまったのだ。すると次第に喫茶店も行かなくなってしまった。そういえば喫茶店に通い始めたのは高校生の頃だったろうか。大人ぶってコーヒーを飲むようになり、喫茶店のマッチなんかを集めていたという覚えがある。

 その頃から、京都の四条河原町周辺にある著名な喫茶店には出入りしていた。当時はまだ市内を市電(路面電車)が縦横に走っていて、何処まで乗っても25円だった(歳が判りそうである)。四条通りも河原町通りも市電が走っていて、市電に乗ると窓から11階建ての喫茶店が見えていたのを思い出す。何時の間にか無くなったが、四条河原町を少し上がったところに確かにあった。店名を11(イレブン)といい、1階から11階まで全て喫茶店なのである。高校の仲間とよく行ったものだ。また四条河原町を少し西に入ったところには『トレッカ』という明るい大きな喫茶店があった。パーラーのような雰囲気でチョコレートパフェといったデザート類が充実していたように思う。でも、2店舗とも何時の間にか消滅し今は痕跡も無い。とはいえ京都というところは、大阪や東京と違い、公家の伝統が生きている街である。つまり犬の都ではなく猫の都なのである。だから、あまり儲かりもしない昔ながらの純喫茶が未だに健在で、古くからの常連客が通い詰めるのである。そのほとんどの喫茶店が老舗と呼ばれるもので、創業から50年なんて店が珍しくない。

 私が高校、大学を通してよく行った喫茶店が姿を変えずに今でも在るから嬉しい限りだが、煙草を止めてからは、その方にもご無沙汰になってしまった。それで四条河原町、寺町、新京極、三条周辺を歩いたついでに昔の老舗喫茶店が在るのか確かめてみた。

 京都の喫茶店というと昔、フォークシンガーの故・高田渡が唄って有名になった『イノダコーヒー』というのが大丸の横の堺町通りを上がったところにある。京町屋風の喫茶店で、知らない人なら通り過ぎてしまいそうな店である。1940年創業で、私も何度か行ったことがある。テラス席というものがあって、コーヒーを注文すると砂糖もミルクもかき混ぜて持ってくるので、知らない人は仰天する。1999年に火事で焼けたのだが、その後、リニューアルオープンした。でも、私は新しくなってからは一度も行ってない。

 三条河原町を下がったところに『六曜社』という間口の狭い喫茶店がある。1階と地下1階からなる喫茶店であるが、ここも創業は1950年と古い。しかし、ここのコーヒーは何度でも飲みたくなる。でも、この店も長い間、行ってない。

 京都に百万遍というところがある。ここは京都大学の本拠地であるが、この近くに『進々堂』いう創業1930年の老舗喫茶店がある。ここは学生だらけで、大きな長いテーブルがあり、読書をしている学生や眠っている者、議論を盛んに繰り広げている者が入り乱れて、長居していたものである。最近は百万遍周辺は近付きもしないので、今もあるかどうか判らない。

 百万遍は行かないが、出町柳にはよく行く。昔は京阪電車の終点が三条だったので、便利が悪いところであったが、今は終点が出町柳というから叡電(叡山電車)に乗り換えるのに都合が良くなったから時々、出町柳には行くことがある。その出町柳には『柳月堂』がある。京都では有名な名曲喫茶で、椅子が全て正面を向いていて、正面にはグランドピアノ、両サイドには巨大なスピーカーが陣取っていて、今でもLP盤でクラシック音楽を聴かしてくれる。昔は各家庭にステレオ・プレーヤーなんてものが無かったから、近くの京大、同志社、立命館(昔は衣笠ではなく京都御苑の横にあった)の学生が聴きに来たという。一度、客足が減ったので閉店したが、ファンの熱望により再開業したという店である。そのためかしらないがコーヒー一杯が1000円と高目である。なお、この店は私語厳禁である。

 三条寺町を上がったところには『スマート珈琲』という創業1932年の店が今もある。最近は知らないが、よくコーヒーとホットケーキを食べた思い出がある。今もメニューとして残っているのかな?

 今も四条通りの烏丸よりに『イシズミ』という喫茶店があるが、昔は新京極の四条側入り口にもあった。1階が婦人服の店で2階が純喫茶だった。確か三条店も同様だったが、喫茶店は経営が難しくなっているのかもしれない。ここの黒い箱に入ったマッチは気に入ってたのだが。

 それでは四条河原町というより四条木屋町周辺の喫茶店に話しを移そうと思う。阪急電車の河原町駅の東口を出て、地上に上がると四条木屋町に出る。すぐ側を高瀬川が流れているが、高瀬川沿いの木屋町通りを少し南に下がると『フランソワ』がある。1934年創業と古く、イタリアン・バロック風の建築物でサロン風な雰囲気である。建築物は文化財でもあるが、京都では特別珍しいことでもない。ここも音楽喫茶でよくショパンが流れていた気がする。

 四条河原町を僅かに上がり、一筋目を東に入ったところに『築地』がある。築地なんて名前は東京の魚河岸みたいだが、どうして『築地』という名前なのかは知らない。ここも創業は1934年と古く、この店舗ともう一店舗が、河原町通りをさらに上がった二筋目を東入って路地を左に曲がったところにも在った。私は、この二筋目にあった『築地』の方が店内の装飾がシンプルだったので、好きだったのだが、こちらの店舗は何時の間にかなくなっていた。よくバッハ等のバロック音楽を聴かしてくれていて、混雑してくると2階の方に案内され、長い時間を友人と雑談して居座ったものだ。ここのコーヒーはウインナー・コーヒーで、私は京都の喫茶店では、この店に一番多く通ったのでもある。

 現在、1店舗だけある『築地』の前を通り抜けると木屋町通りに出る。すると高瀬川が目に入るが、その前に『ソワレ』がある。創業1948年で、店内に入ると薄暗く感じる。照明が青く、ステンドグラスのランプが独特の雰囲気を醸しだす。東郷青児の絵が飾ってあって、女性の多い喫茶店である。私がこの店に初めて行ったのは高校2年の時である。同級生のO君がよく行ってたらしく、彼に連れて行ってもらったのが最初だった。

 『ソワレ』の斜め前、高瀬川の辺に沿って音楽喫茶『みゅーず』がある。というより在ったというべきかもしれない。昨年の5月にとうとう閉店してしまい、現在は建物は残っているが外装が変わり韓国風焼肉屋に変身してしまった。・・・・この店も1954年の創業で、昔からクラシック音楽を聴かせてくれた。私は阪急から京阪電車に乗り換えるとき、この店に入るのが常であった。よくモーツァルトのセレナードが流れていたりしたが、昨年の春に行った時は(これが最後になろうとは・・・)、ワーグナーのローエングリンが店内に流れていた。何故、閉店に追い込まれてしまったのか・・・・おそらく喫茶店は経営が難しくなっているということだろうか。でも、まさかこの『みゅーず』が切っ掛けになって、老舗の喫茶店が次から次へと廃業って事はないと思うが、せめて東京や大阪のように次から次へと新しいものに変わってしまうような愚かな現象を、京都だけは追随して欲しくない。何時までも悠久の時間を過ごせる空間を少しでも残していてくれと、私は願いたいし、そのように在るべきだとも思う。

高田渡と坂崎幸之助がイノダコーヒ本店へ行く

EDIT  |  18:35  |  近場散策  |  TB(2)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.09.28 (Fri)

エディット・ピアフを聴く

 エディット・ピアフの名を知る人も少なくなった。亡くなって40年以上も経過しているから当然ではある。私が『愛の讃歌』という曲を知ってからでもかれこれ35年は経っているのだから、今時、エディット・ピアフの生涯が映画化されても、この人誰? という若者は多いだろう。

 かつてのシャンソンの女王といえば言いのだろうか。私が若い頃、シャンソンをよく聴くなんて言うと、仲間から怪訝な顔をされたものである。シャンソンはオジン臭い、女々しい、パンチが無い、歌謡曲と変わらんとロック好きの仲間に盛んに馬鹿にされたものである。でも私はロックも聴いていたし、シャンソンも同様に聴いていたものである。けしてオジン臭いことも、女々しいことも無い筈だが、ロックしか聴かない奴にはシャンソンの良さは解らない。いや、解らなくて結構という思いであった。

 ところでシャンソンというのは何だろうか? シャンソンというのはフランス語で歌のことである。だからフランス語で歌う歌はシャンソンということになるが、現在では1970年以前のフランス語の商業音楽ということになるのだろう。しかし、シルビー・バルタンやフランス・ギャル等の歌はシャンソンとは呼ばないから、シャンソンの定義は難しい。それならどんなのがシャンソンといえるのかというと、ダミア、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコー、シャルル・アズナヴール、シャルル・トレネ、コラ・ヴォーケール・・・この辺りの歌をシャンソンと呼ぶそうである。私が少年の頃はサルヴァトール・アダモの全盛時代だったが、アダモなんかもシャンソンの部類に入るかもしれない。

 さてエディット・ピアフであるが、この人の伝記映画がまもなく上映されるという。この人の人生は波乱そのものであった。1915年にパリで生まれるが、3歳から7歳まで目が見えなかったというし、15歳で家を飛び出し16歳で出産(赤ん坊は2年後骨膜縁で死去)。20歳でナイトクラブのオーナーに見出され歌うようになる。でもまもなくオーナーは殺害され、エディット・ピアフも共犯者として告発されるが無罪。

 第二次世界大戦中、ピアフは『ばら色の人生』を発表。この曲により大成功を収め、人気者となる。戦後まもなく大女優マレーネ・ディートリッヒと交友関係を結び、生涯を通じての親友となる。またこの頃、シャルル・アズナヴール、イヴ・モンタン、ジルベール・ベコーを見出す。

 エディット・ピアフは戦後まもなく、一人のプロ・ボクサーと大恋愛をしている。彼の名はマルセル・セルダンという。古いボクシング通の人なら知っている名前かもしれない。マルセル・セルダンは元世界ミドル級チャンピオンなのである。1948年9月にマルセルは世界ミドル級チャンピオンのトニー・ゼールに挑戦した。名チャンピオンのトニー・ゼールであるが、過去ロッキー・グラジアノ(注①)と3度にわたる死闘で疲弊していたのか12Rでマルセル・セルダンに倒される。こうしてマルセル・セルダンは世界ミドル級チャンピオンとなる。しかし、翌年の1949年6月、今度は挑戦者ジェイク・ラモッタ(注②)との初防衛戦で10RにTKО負けを喫す。この頃、エディット・ピアフとマルセル・セルダンは大恋愛の末、ピアフは一つの曲を残す。それが『愛の讃歌』であった。

 1949年10月27日のことである。ジェイク・ラモッタとのリターン・マッチに臨むためニューヨーク行きの飛行機に乗ったマルセル・セルダンであったが、その飛行機が北大西洋で墜落してしまう。マルセルを失ったエディット・ピアフはショックから暫くは立ち直れなかったという。

 その後、ピアフは1951年に交通事故に遭い、さらにはモルヒネ中毒に苦しんでいる。1952年には歌手のジャック・パルと結婚、1956年に離婚。1962年には元ヘアードレッサーで、歌手、俳優に転身したテオファニス・ランボウカスと結婚。しかし、翌年の1963年10月10日、エディット・ピアフは癌で帰らぬ人となった。享年47歳。

 ところでエディット・ピアフというと『愛の讃歌』であるが、日本では越路吹雪が歌って有名になった。その時の岩谷時子訳の歌詞は確かこうだった。

 ♪あたなの燃える手で あたしを抱きしめて ただ二人だけで 生きていきたいの
  ただ命の限り あたしは愛したい 命の限りに あなたを愛したい
  頬と頬よせて 燃える口付けを かわす喜び あなたと二人で 暮らせるものなら
  何にもいらない・・・・・・

 何かこの歌詞だと、訳といえるものではない。これだと完全に岩谷時子作詞と言わなければならない。原詩の訳だと、『愛の讃歌』はだいぶイメージと違う歌になってしまうからである。

 ♪青空だって私達の空に落ちてくるかもしれないわ
  地獄だってひっくり返るかもしれないわ でも大したことないの あなたが愛してくれるなら
  世の中のことなんかどうでもいい 恋が私を毎朝満たしてくれるなら
  私の体があなたの手でふるえるときには 重要な問題なんかどうでもいいわ
  あなたが愛してくれるなら
  世界の崖まで行くわ 金髪に染めてもいいわ あなたがそういうのなら
  お月様だってとりに行きますわ 宝物だって盗みに行きますわ
  あなたが欲しいというのなら 自分の国を捨ててもいいわ
  友達を見捨ててもいいわ あなたがそうしてほしければ
  人があたしを笑っても平気 なんだってしてあげます あなたがそういうのなら

 原詩を見ると『愛の讃歌』というのは、ロマンティックな歌でもなく、激しい盲目の恋に突っ走っている女の歌だということが解る。では、こんなエディット・ピアフが歌っている『ばら色の人生』『愛の讃歌』の2曲をYou Tubeのサイトから抜粋しましたので、ご覧ください。





 注① ロッキー・グラジアノの伝記映画『傷だらけの栄光』(1956年)、ポール・ニューマン主演。
 注② ジェイク・ラモッタの伝記映画『レイジング・ブル』(1980年)、ロバート・デ・ニーロ主演。

 どちらもボクシング映画の名作です。

EDIT  |  20:21  |  音楽(ポップス、ロック、その他)  |  TB(1)  |  Top↑

2007.09.26 (Wed)

力士の急死事件について

 今年の6月26日、大相撲時津風部屋の力士・時太山が死亡した事件で、愛知県警が刑事事件として立件する方針を固めたというニュースを今朝、テレビを見ていて知った。

 調べによると6月26日、名古屋場所前のぶつかり稽古を兄弟子としていた時太山が体調不良を訴え、病院に運ばれ死亡した件について調べていた愛知県警によると、死因は当初、虚血性心疾患とされていた。しかし、遺体の顔、体に何ヶ所も傷やあざがあり、遺族の希望で行政解剖された結果、多発性外傷によるショック死の可能性があることを示唆したのである。そして、時津風親方に任意の聴取を求めたところ、親方、兄弟子による集団暴行を認めたという。

 時太山は前日の6月25日の午前中、部屋から逃げ出そうとした。ところが兄弟子等に連れ戻され、その日の夕方、親方からビール瓶で額を殴られ、兄弟子達によってたかって数10分間、殴る蹴るの暴行を受けたという。それで私は、このニュースを聞いて、時代錯誤の体罰主義が相撲界ならありうると思った。

 こんなことを言うと何だが、戦前の軍隊というのは理不尽な事がまかり通る集団組織であったが、その体質を何時までも引きずっていたのが、日本の学校の体育会系のクラブや組織であった。常に質実剛健であり、そこには先輩後輩という縦社会が形成され、指導という大義名分の下で虐め、体罰、しごき等が平然と行われていた。またそれが組織の規律と団結力を強め、相手に対して負けない精神力を養ってきたのである。そして、それらは時代が進むにつれ、次第と旧態依然の体育会系的な体質から合理的な組織へと変わりつつあるのも確かなのだが、そんな中、最も昔からのやり方に固執しているのが相撲界である。

 今回、亡くなった時太山は今年の春に入門したばかりで、力士になってまだ2ヶ月であった。体力的に見ても、まだ力士の体になりきってなく、激しい稽古にもついていくのが精一杯だったろうと思われる。今時の日本で、15歳、16歳の年齢から、個人プライバシーもない状態の大部屋に放り込まれ、毎日毎日、大勢の仲間とともに暮らさなければならない。おそらく、このような体験をする少年は稀有な存在だろう。また稽古が厳しいうえ、部屋の規律、掟、習慣、これら全てが本人の育った環境と180度、異なっていることも彼等にとっては耐え難い試練である。

 当然のように、新弟子達は部屋から逃げ出そうとする。これらのことは日常茶飯事で起こっていることであり、表面化したこの事件は氷山の一角にしか過ぎないとも考えられる。ところが、今回、何故に死亡事件まで起こってしまったのか・・・・・。問題はその辺りにある。

 逃げ出そうとして部屋に連れ戻され、暴行を受けたというのは、今に始まったことではないだろうし、今回は死亡事件があったので、発覚したに過ぎないとも考えられる。しかし、問題は親方の対処の仕方ではなかったろうか。大事な人の子供を預かっているのである。時代は平成である。太平洋戦争に息子を借り出されていた時代とは違うのである。世の中、高校や大学の体育会系クラブをも含め、古い体質では対外試合や競技に勝てなくなっている時代である。スポーツ根性物語なるアニメやテレビドラマが流行った時代もあったが、それでさえ30年以上前のことである。最近のスポーツ強豪校というのは、これまでの質より量の練習から、量より質に変わりつつある。意味の無い体罰、しごきというものは影を潜めようとしている。出来れば練習は短時間で効率よく行うというのが、好成績を挙げる必要条件でもある。でもなかなか無くならないのが、陰湿な集団暴行、いじめ、体罰といったところで、今回の時津風部屋で起こった死亡事件というのは、やはり時代に取り残された不可解な事件ということが言えると思う。

 現在、昔のように殴りつけてでも従わせるといった強引なやり方が通用する時代ではない。時代は変わりつつあり、それは古い体質そのものの大相撲界でも同様である。強引に従わせるのではなく、相手を尊重して、納得させてから従わせなくてはならない。つまり対話も求められるし説得力もいる。言い換えれば親方に必要なのは包容力と指導力であろう。

 要するに時津風親方に指導力があったのかどうか・・・・・。部屋を逃げ出そうとしたからビール瓶で額を殴ったというのでは、お話にならない。その上、先輩達でよってたかって暴行し、倒れている時太山を廊下に一時間以上も放置していたというから、これはまさに言語道断としか言いようが無い。

 稽古で死者が出たというのも聞いたことが無いし、親方がビール瓶で額を殴ったというのも悪質な行為である。時津風親方は指導力不足ととられてもやむを得ないだろう。あまり言いたくは無いが、今までと同じやり方では通用しないと考えている親方が多いだろうと思う。人間の気質も昔と比べると変わっているし、時代は進んでいるのだ。そんな世の中で、唯一、時計が止まったかのように錯覚するところが、大相撲という世界である。現在、大相撲界も外国人力士が増え続け、幕内の上位を日本人以外が占拠しつつある。柔道界が日本人不在の中で、どんどんと変わっていくのに対して、大相撲界は良き伝統ならず悪しき伝統まで変えようとしないでいる。新弟子力士に相撲道の精神までを教えるのはいいが、彼等の体に染み付いたとは思えず、行き過ぎた過剰な体罰やいじめ、暴行が横行するようでは、今後、ますます大相撲は衰退していくような気がしてならない。これは時津風部屋だけの問題ではなく大相撲界全体の問題であり、改善すべきことは今後、改めなければならないだろう。
                          
EDIT  |  21:30  |  スポーツ  |  TB(1)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.09.25 (Tue)

千の風になって

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 最近、私の母が、何度も繰り返し聴いている歌がある。それが『千の風になって』である。ご存知のように昨年の末のNHK『紅白歌合戦』で、テノール歌手の秋川雅史が歌ってブレークし、ミリオンセラーになった曲である。私は時代の流行に乏しい性質なので、その歌が流行っていることも知らず、聴いたこともなかった。それで最近、私の母がいい歌があると言っていたのを思い出し、尋ねてみたら『千の風になって』であった。

 それが縁で、このほど『千の風になって』の曲のことを色々と調べてみた。すると『千の風になって』という曲に纏わる色々な事象が判って来た。それは、原詩があって作者は不詳だということ。その原詩を新井満が訳詩して自ら作曲し歌ったこと。結局はこれがオリジナルであり、以降、新垣勉、秋川雅史、中島啓江、宗田舞子、オユンナ、Yucca・・・・競作になったこと等である。ところが、さらに調べていくと作者不詳といわれているが、諸説あって、一番有力なのはアメリカ女性メアリー・エリザベス・フライという人の詩がもとになっているということ。

 それはメアリー・フライさんの友人のユダヤ系ドイツ女性マーガレット・シュワルツコップという人が、ナチス・ドイツからアメリカに亡命して来た際に、ドイツに残して来た母の訃報を知り悲嘆にくれていた。その時、友人を慰める意味で、この詩が生まれたという。結局、この話が一番有力な説とされ、『Do not stand at my grave and weep』の詩を、新井満が訳して作曲した歌が記録的なヒットとなったのである。

 この歌の中で I am a thousand winds that blow を千の風になってと訳したのは新井満であるが、千の風というのは何のことだろうか・・・・・。意味が解り辛いが、とにかく巨大な風になって吹き渡っているといった心理を、切実に訴えている歌詞の内容になっているようだ。

 日本では、この歌が、太平洋戦争で主人を失った遺族の言いようの無い無念さにマッチしたのか、戦争未亡人を中心にCDが売れ始め、長いロングセラーとなったようである。そんな何人かの競作の中で、秋川雅史が『紅白歌合戦』に出場したことにより、一気にブレークしミリオンセラーとなった。

 私がほとんど知らなかったこの歌。よくよく聴いてみると旋律といい歌詞の内容といい、確かにヒットする要素は持っている。このところの横文字の羅列ばかりでメロディラインが明確で無い、リズムばかりがフューチャーされるヒット曲の中では異彩を放っている。この曲が年配者を中心に人気が出たことは必然的なものだったということが、何度か聴いているうちに容易に理解出来るのであった。
EDIT  |  19:53  |  音楽(ポップス、ロック、その他)  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2007.09.24 (Mon)

今日の昼メシ

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 今日は振り替え休日とかで、昨今の何でも月曜日に休日を振り替える習慣は、旅行する人にはいいかもしれないが、纏めて三連休なんてもらってもあまり喜ばしいことも無い。どちらかというと週の間にポツンと休みがあって、飛び石で休日がある方が疲れた身体には案外、嬉しいものなのだ。それで三連休の最後の月曜日、相変わらず暑くて、出かける気が起こらない。家に居ても本を読む気がしない。エアコンを入れると冷えすぎるし切ると蒸し暑さで、室内がムンムンとしてくる。まったく何時になったら涼しくなるのか・・・・。

 朝から昼に食べるお好み焼きでも作ろうと思ったが、小麦粉はあるが肝心のキャベツが無い。キャベツだけで買いに走るのもなんだし、何を食べようか思いつかず仕方なくコンビニに出かける。その結果、何を買って来たかというと、ペプシコーラーとチーズバーガー、テリマヨチーズバーガー、そしてチキンカツサンド。計602円なり・・・・・。

 日頃、マクドナルドもモスバーガーもウェンディーズもドムドム、ファーストキッチン、バーガーキング等のハンバーガー・チェーン店に行かないので、何が美味しくてどんなものを売っているのかあまり知らないのである。最近は既存のハンバーガー・チェーンの店舗よりも大型の佐世保バーガーを売りにしている店もあるが、こちらも食べたことが無い。

 私はアメリカ流のファーストフードの店というものに嫌悪感があるのかもしれないが、ケンタッキー・フライドチキンも食べたことがない。どうもアメリカ人の好む高たんぱく、高カロリーのジャンクフードが私の中で悪いイメージとして定着しているのかもしれないが、あんなもの食べるのなら寿司やうどん、ラーメン、餃子を食べている方が身体に良いという考えが知らぬ間にインプットされているのかもしれない。

 さてさてコンビニに出かけたのはいいが、品切れ状態なのか、何時もは棚に狭しと並んでいる弁当群の山が、この日は見事に売れていた。これは休日ということも関係しているかもしれないが、私の住むところではコンビニが少なくて、半径500m以内にたった3軒しかないから、早めに目ぼしい物は売れてしまうのだろう。補充を待てばいいのかもと思ったが、昼前という時間帯から待てないし、だからといって食欲を誘う物は置いてなかった。おにぎりばかりを食べるのも物足りないし、かといってカップラーメンでは味気ない。それで思いついたのが、常では食べないハンバーガーとサンドウィッチ、それにペプシコーラーであった。

 上記のような理由で、私がチーズバーガー、テリマヨチーズバーガー、チキンカツサンド、ペプシコーラーを頂く羽目になった。・・・・・帰宅して電子レンジで温めてあっという間に食べ終わった。あまり食べつけてないので、ハンバーガー・チェーン店との比較は難しいが、味覚的にいってはそんなに悪くは無いだろう。ことにテリマヨチーズバーガーのテリヤキとソースが絶妙にマッチして、マヨネーズが上手い具合に絡んでくる。うん、なかなかいけるではないか。マクドナルドなんかに入っても、店舗によっては焼き加減やタレとのバランスが悪いことがあって、マニュアル通りなんだろけども、微妙に出来具合で差が出るのはどうしてだろう。これならコンビニのハンバーガーでもそんなに遜色はない。

 ただ、街角でそこら中に見かけるハンバーガーのチェーン店は、何処も若者を中心に繁盛しているようであるが、これからも自ら率先して足を運ぶことはほとんど無いだろうと思う。
                                                       
EDIT  |  14:02  |  食・飲  |  TB(1)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.09.23 (Sun)

自民党総裁選のことを少々

 今日の午後、新しい自民党総裁が決まろうとしている。安倍晋三前首相の突然の辞任により、急遽、行われることとなった自民党総裁選であるが、福田康夫元官房長官と麻生太郎幹事長の二人が総裁選に出て、今日の午後、新たな首相が決まろうとしている。それで現在のところ福田康夫元官房長官が有利と伝わっている。

 ところで私は、この二人のどちらが新しい総裁になろうともあまり体制に変化は無いと思うので、興味は薄く注目している訳でもないが、ここらで庶民から見た総裁像というのを少し述べてみたい。

 福田康夫がどのような人か存じぬが、この人の父が福田赳夫だということは知っている。昭和40年代の佐藤栄作内閣末期に次期総裁候補といわれた三角大福の4人がいた。三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の4人の頭文字を取ってそのように呼ばれたのであるが、何れも後に内閣総理大臣に就任している。その中の一人、福田赳夫の長男が福田康夫だということである。それで福田康夫という人がどのような政治哲学を持っているのか大体は想像がつく。一方、対立候補の麻生太郎であるが、この人は父が麻生太賀吉という元衆議院議員で母方の祖父が、かの昭和の名物宰相吉田茂である。

 麻生太賀吉は麻生セメント会長、九州電力会長を歴任した財界人であるが、衆議院議員となり吉田茂の三女と結婚し、吉田茂の側近として活躍した。また吉田茂は終戦直後の名物宰相で、5回にわたり内閣総理大臣に任命され、1967年に死去したおりには戦後唯一の国葬が営まれた人物であった。

 以上のことから察すると、福田康夫、麻生太郎共々、政治家一家の御曹司である。つまり世襲制の中からしか内閣総理大臣が出てこないというのも、問題がありはしないかと私なんかは考えてしまうのである。

 そういえば前首相となってしまった安倍晋三も、父は元外務大臣の安倍晋太郎であるし、母方の祖父は岸信介であり、大叔父は佐藤栄作という政界の重鎮一族から出ている。また絶大の人気を誇った小泉純一郎元首相も、父は元衆議院議員で、防衛庁長官、逓信大臣を歴任した政治家小泉純也で、母方の祖父が小泉又次郎という昇り竜の刺青を彫っていた「いれずみ大臣」(逓信大臣)であった。

 こうやって名を並べてみると、最近の内閣総理大臣は全て、政治家一族から選ばれているのである。子供の頃から帝王学たるものを教わっているかもしれないが、政治というものはまつりごとと言うだけあって、万人に与えられるべきである。それが最近は特別な専門家一族によって事が運ばれ、彼等によって国が預けられていいものかどうか、私はその辺りを危惧するのである。今の国会議員を見渡してもなんと2世、3世議員の多いことか・・・・。プロ野球選手は親が名選手でも、息子はプロ野球に入れるとは限らない。それは実力が全ての世界だからである。ところが政治界というものは、実力以外の要素が大部分を占める。そんな中で親が政治家だったというだけで、当たり前のように国会議員に当選し、何時の間にやら大臣に就任している。これはあまり好ましい状況とは思えず、子供の頃から裕福で、お金の苦労も知らない若者が、20代やそこらで国会議員となり先生と呼ばれる。そして、ふんぞり返って私達の10倍以上もの巨額の給料を得て大邸宅に暮らす。こんな人たちが国の舵を操るのだと考えたら何とも不可解ではないだろうか。

 どちらにしても今日の午後、新しい自民党総裁が決まる。新しい宰相には身を粉にして私利私欲に奔走しないで、真剣に政治生命をかけて山ほどある無理難題に取り組んでもらいたいと思う。私の言いたいことはそれだけである。
                                                        
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2007.09.22 (Sat)

嵐山、嵯峨野を歩く

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 今日の土曜日は休日だった。ところが秋分の日も過ぎたというのに、未だに真夏と言ってもいいような強烈な陽射しが差してくる毎日。毎度、毎度、言うことは暑い!暑い! これだけ酷暑が何時までも続くと、もう諦めの心境になるが家の中で燻ってもおれない。だから暑いのは承知のうえでトコトコと出かけてしまった。行く当ても無いのだが、自宅から比較的近い嵐山、嵯峨野まで散歩がてらに出かけるのもいいだろう。子供の頃、花見に行くといえば決まって嵐山だったことを思い出す。考えて見れば最近は嵐山周辺に行くことも極めて少なくなった。去年の秋に渡月橋周辺を歩いてみたが、人垣の山で落ち着いて歩けやしなかった。だから観光シーズン前の今頃だと、まだ人も少ないと考え、出かけようと咄嗟に思いついたのである。でも昼からだと、また33℃、34℃辺りまで気温が上昇するというから午前9時半には家を出た。

 阪急嵐山駅に電車が到着したのは10時過ぎだったろうか、こんなに暑いのに人がぞろぞろいるではないか。駅前広場から渡月橋まで歩くが、予想以上に暑かった。すでに肌シャツは汗でビッショリ、額からも汗が顔を伝わって落ちていく。こんなに暑いと来るのではなかったなあと、後悔するが後の祭りである。桂川の畔に来ると僅かであるが涼しさが増してくる。でも焼け石に水。雲ひとつ無い空から強烈な紫外線が容赦なく放射する。ジリジリと照らし続け、渡月橋を渡る人も汗だくの様子だった。通りかかる車のナンバープレートを見ると、名古屋、石川、福井、岐阜、尾張小牧、岡山、鳥取、香川・・・・他府県ナンバーが多いが、比較的、関西から近県の人が車でやって来るようである。それ以上遠くなると新幹線で来るのかなあ。

 渡月橋を渡りきると、人力車の兄ちゃんが声をかけてくる。「乗りませんか。いい所知ってますよ」「いや、遠慮するわ。あんたらより、俺の方が良く知ってる」と言って、真っ直ぐ北に向って歩いて行く。しかし、この暑さでも流石に名勝・嵐山である。考えていた以上に人が多い。もちろん11月の頃と比べるほどのことはないが・・・。

 美空ひばり館の前を通り過ぎる。現在は閉館して数ヶ月なるが、また美空ひばりの遺族が新たに運営すると聞いている。でも美空ひばりという歌手を知る人がだんだんと減っていく現状では、はたして安定した経営を保つことが出来るかどうか、大いに疑問が残るが、時々、通りすがりの人が「なんで美空ひばり記念館が京都にあるの?」と不思議がっている。確かに横浜出身の美空ひばりの記念館が京都の嵐山にあるのはおかしい。・・・・つまり美空ひばりが映画の撮影で頻繁に嵐山に訪れていて、行きつけの旅館や店や知人が多いことと、本人が気に入っているところでもあるから嵐山に記念館が造られたようなことは聞いたことがある。

 さらに北へ歩くと左側に広大な天龍寺の大伽藍が姿を現す。すでに世界文化遺産ではあるが、ここには入る気もしない。ここまで歩くと体温が上昇するのか、ますます発汗が増す。何の当ても無く化野念仏寺まで歩くつもりであったが、この暑さではバテがくると思い急遽、天龍寺の境内に沿って設けてある竹やぶの小径に入った。

 最近は京都観光ガイドに載っている小路だとかで、人気があるのか観光客が嵯峨野に来ると決まって歩くという。この日も人はまばらだが歩いている人もそこそこいる。小径を日陰が覆い隠し涼しい。いくらかホッとする。この竹藪の間をテクテクと歩く。時々、人力車が人を乗せて通っていくのはいいが、この小径をタクシーで入って来る人がいるから興ざめする。観光に来ているのなら出来る限り自分の足で歩いて欲しいというのが、私の願いではあるが、この小径を抜けて先の目的地までタクシーで行こうという考えなのだろう。でも徒歩でないと観光した気分になりませんよ・・・。

 竹やぶの小径を抜け大河内山荘の前までやって来る。大河内山荘とは往年の俳優・大河内傳次郎が住んでいた住居を改装して有料で見物させているところである。私は当然、入ることも無く前を通り過ぎる。大河内傳次郎が丹下左膳の恰好で、「姓はタンゲ、名はシャジェン」と日本刀を振りかざして「オヨオヨヨ!」と言っている映画のワンシーンを思い出した。

 大河内山荘を抜け、嵯峨野らしき風景が姿を現す。ここは常寂光寺である。さらに歩くと二尊院。ここまで歩いてきたら、もう降参。暑くて暑くて、散歩どころではなくなった、私はきびすを返すように後戻りして、知り合いがやっている茶房にお邪魔して休憩をすると、脇目も振らず嵐電の嵐山駅から京都の都心へ向う電車に飛び乗った。・・・・まだまだ歩き回って散歩する気候でもなく、まだ8月が続いているような信じられない9月の末。本当に秋はやってくるのだろうか。心配になってきた。
                                                       
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2007.09.20 (Thu)

発泡酒を飲む

今日飲んだ発泡酒
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 今日は帰宅してから発泡酒2本を飲んだ。一つはサントリーが出しているマグナムドライ、もう一つはアサヒビールが出しているクリアブラックである。一般的にはマグナムドライの方が出回っていて、シンプルな味わいでさっぱりしている。もう一つのアサヒ・クリアブラックはビールで言うなら黒ビールのようなもので、黒発泡酒という代物。マグナムドライに比べるとコクがあり
飲む人によって好き嫌いがはっきりと分かれるであろう。

 ところで何故、発泡酒を飲むのだろうか? 答えは簡単、価格が安いからである。でも私は、日頃、飲むつけているのは焼酎で、ビールや発泡酒の類は滅多に飲まない。でも、今日のような暑い日には缶ビールでキューと一杯ひっかけたくなる。でもビールは価格が高めなので、どうしても発泡酒になってしまうのだ・・・・・。

 こんな発泡酒だが、初めて売り出されたのが1994年であった。サントリーの京都工場(私の家からあまり離れてないのだが)で一人の研究者が生み出したという。麦芽や麦を原料の一部として発泡性を有するアルコール分20度未満の飲み物をそのように言うらしいが、当初、『ホップス』が発売されたときには、とても安いビールが発売されたものだと驚いたのである。でも買って一口流し込んだものの、ビールにしては水臭いと感じたのである。ビールと同様の味わいなのだが、何処か飲んでいて頼りない。ビールのグッとくる苦味も乏しく、重みも無い。ライトビールとでもいったらいいのだろうか・・・・・野球で言うならば硬式野球と軟式野球ぐらいの差があったのである。でも缶ビールに比べると発泡酒は、同じ容量でも価格が安価であるから、しばらく似非ビールのような発泡酒ばかりを飲んでいた時期がある。

 ところが1996年に発泡酒税率改正に伴って、各メーカー共々、発泡酒の麦芽率を下げなくてはならなくなった。今まで麦芽比率65%の発泡酒が標準だったものが、新しい酒税法によって麦芽比率25%未満でないと価格が高騰するのである。これだと各ビールメーカーは発泡酒が売れなくなると危惧したのだろうか、それからまもなく麦芽比率25%未満の発泡酒が次から次へと登場した。発泡酒の麦芽比率が下がったので、それまでのホップの利いた喉ごしの良い味わいが保てるだろうかと心配したものであるが、見事にそれさえもクリアーしていて今に至っている。さらには最近では第3のビール(原料を麦芽以外に求めた酒類。エンドウたんぱく、サトウキビ、大豆たんぱく等を原料にしている)と言われる安価の酒類が新たに店頭を賑わしている。

 ところが黙ってないのが国税局である。うーん、最近では国税局とメーカーとの戦いになっている気がするが、私は頑張れメーカーと言いたい。我々のような低賃金労働者が少ない給料から身銭を削って、安価な発泡酒を飲もうとして何故悪い。ささやかな楽しみを奪うな! メーカーは必死になって安上がりの美味しい酒類を開発しているというのに、かたや税金を徴収することばかり考えている。何でこうなるのー!
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2007.09.19 (Wed)

JUDOに物申す

 先日、ブラジルのリオデジャネイロで世界柔道が行われていた。私はその大会を放映したテレビをほとんど観てないので詳細は省くが、察するところ日本にとって逆風が吹き捲くり、柔道が柔道でなくなっていくような、何かきな臭い動きがあるように思えて仕方がない。世界柔道は男女16階級が行われ、日本人で優勝したのは、女子が無差別級の塚田真希、48kg級の谷亮子、男子は無差別級の棟田康幸だけという。エースの100kg超級代表、井上康生は技をかけたところを返されて逆にポイントを取られたし、100㎏級の鈴木桂治も同様な内容で負けにされてしまった。そもそも技をかけた方にポイントが加算されるべきなのに、技をかけられ、倒された時に身体を入れ替えて背中をつかなかったからという理由だけで、なぜ井上、鈴木の両名にポイントがつかないのか不思議である。

 これらは審判が柔道をあまり理解していないといえばそれまでだが、世界の柔道が日本人の知らないところで、明らかに変化しつつあるということを認識しなくてはならないだろう。そして、その結果、柔道はますます柔道でなくなりつつあり、JUDOとして武道の精神に反し、西洋風の格闘スポーツとして、日本人には耐え難い可笑しなものになっていくような気がするのである。

 そもそも柔道というのは本来「柔能く剛を制し、剛能く柔を絶つ」というものだった。明治の初期に嘉納治五郎が、日本に古来からあった柔術を研究し整理体系化し、修行面に加えて人間形成という精神面を鍛える手段として柔道と名付けたのである。明治15年に講道館を創設し、ここに講道館柔道が始まったのだが、小男でも大男を制することの出来る柔道は、嘉納治五郎の弟子達により世界へと広まっていったのである。

 しかし、武道の精神まで海外へ伝わったかは疑問符がつき、西洋式のスポーツ格闘技とは一線を画す柔道が、今や日本人の知らないところで、だんだんとただの格闘技に変わっていくのは日本人としては、やはり見ていて辛いものがある。

 私が子供の頃、黒澤明の映画『姿三四郎』を観て、藤田進演じる姿三四郎が、右京ヶ原の決闘で檜垣源之助を破ったシーンを柔道というと、すぐに思い出すのである。ところが、それからまもなく東京オリンピックが始まった。日本は重量級で猪熊功が大きなカナダのロジャースを一本背負いで破ったが、最終日の無差別級でオランダの大男アントン・ヘーシンクによって日本の神永昭夫が袈裟固めで押さえ込まれて敗れた。私は、この時「小男が大男を投げ飛ばすなんて無理だ」と思った。所詮、大男の怪力に日本人はなす術も無く負けてしまったと悔しい思いもしたものである。でもアントン・ヘーシンクは見事に日本の武道作法を会得していて、とても礼儀正しい柔道家であった。

 あれからすでに43年。昔は武道たる柔の道があったものだが、今の柔道は単なる西洋式の格闘技スポーツになってしまった感がある。ルールも外国人の圧力によってどんどんと変えられていくし、青い柔道着まで登場してしまった。効果、指導、注意とポイント制がより強化され、ただ力任せに技をかけ逃げする黒人に白人、柔道着の襟を厚くして相手に掴まさないようにしている何処かの国の選手達。もう柔道から武道の道は抜け、ただ勝てばいいだけの精神性の空虚な格闘技に成り下がりつつあるJUDO・・・・・。ああ、なんだか虚しい。

 先ほどの国際柔道連盟の理事選で山下泰裕は大差で破れ、これで日本人の執行委員はいなくなったという。これでますますJUDOはつまらなくなる。今のJUDOでレスリングとJUDOの違いはあまり無いのでは・・・。もし柔道着を着てないとすると、どちらがレスリングか判らなくなりそうだ。なんかポイントだけを稼ぐ、ちまちました面白くない競技になってしまった。私は映画『姿三四郎』の中で、三四郎が檜垣源之助を倒した時のように、時間無制限一本勝負で決着されるのが本来の柔道の有り方だと考えているのだが、オリンピックの競技に組み込まれてしまっては、もはや時代の趨勢に逆らえないから、今のようなポイントを稼ぐつまらないJUDOで我慢しなくてはならなくなってしまったのかもしれない。でも、そんな中でも全試合を綺麗な一本勝ちで優勝する選手がいれば、文句も言わないのだが・・・・。
                                
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2007.09.17 (Mon)

秋は、まだ遠い

暑い! 暑い! とにかく暑い! もう9月の17日になろうというのに、なんという暑さであろうか。地球温暖化が進んでいるのは判っているが、これだけ暑いと文句の一つでも言いたくなる。9月の中頃で34℃もの気温があるというのは、確かにおかしい。

 秋雨前線というものがあるけれど、降り方も何か夏のスコールのような雨で、長時間降らずに僅かな時間で集中的に降ったかと思うと、すぐに晴れ間が覗き、今度はモワーとした蒸し暑さが襲ってくる。何ということだ。家の中に居ても、この暑さで頭がクラクラしてくるので、水分の補給は欠かせないし、未だにエアコンのお世話になっている。今まで残暑がここまで続いていた年は記憶に無い。1994年だったか、記録的な暑さに参ってしまったことがあるが、あの年は9月の10日に雨が降り、そこからは秋の気候にすっかり入れ替ったものだが、今年の残暑は一筋縄でいかないようだ。しかし、この厳しい残暑も、何年後か何十年後かには、きっと当たり前のようになってしまうのだろうな。この調子だと私のような夏に弱い人間には、生きていくなというようなものだから、何れ北海道にでも移住しなくてはならないかも。これは冗談ではなく、真剣に考えなくてはならない。
                                 
EDIT  |  11:12  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2007.09.17 (Mon)

ブログを始めます

私のパソコンの画面
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 uncleyieと申す中年男性です。このほど趣味を中心にブログを書いていきたいと思い、このブログを開設しました。どうぞよろしくお願いします。

 以前、一つのカテゴリーに絞ってブログを書いていましたが、どうもネタが限られてきて、自分の中で行き詰まりを感じていました。それで新たに色々なジャンルにわたって書いてみたいという欲求がこみ上げてきて、今回のブログを立ち上げました。この先、どのような展開になるかは判りませんが、取り敢えずは船出することにします。
                                 
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