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2013.11.30 (Sat)

2013年京都紅葉最前線の続き

 昨日の続きで紅葉の写真をアップしてみたがいかがなものでしょうか。それなりに見応えはあるが、全般的に赤味が足らないし、真っ赤な楓もあることはあるが例年以上に少ないような気がする。もっとも一番紅葉が見ごろだろうという日に巡り合ったかどうかそれは判らないが、それにしても今年の紅葉は色が薄いように思う。何時も11月のこの季節なら、もう少し赤い紅葉が見られる筈なのだが派手さがないかな。銀杏の木なんかは見事に黄色の葉をしているのだが、楓の葉の赤味具合が薄いから感嘆するほどの紅葉ではなく、どうも今年は全体的に京都の紅葉は地味である。5段階で言うならば5点満点の2ぐらい。去年は紅葉巡りをしていないので比較ができないが、一昨年もあまり見栄えがしなかった紅葉だが、今年は一昨年以上に見栄えがしない。というよりも年年、紅葉の艶やかさが落ちて行っているような気がしないでもない。何時か今年の紅葉は見事だといえるような画像をアップしたいのだが、ここ数年、毎度のように今年の京都の紅葉は派手さがないなあと言ってるようでは期待できないなあ。まあ、こればかりは天候頼みだからしょうがない。少なくとも10月がもっと涼しくならないといけないだろう。この10数年、暑いのから一気に寒くなるので若いころに見た錦秋の京都は望むべくもない・・・・。でも今年は見事だというような紅葉に再びお目にかかりたいものだが・・・・・・・。
















最後は定番の八坂の塔で締めくくり

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2013.11.28 (Thu)

2013年京都紅葉最前線

 そうだ京都へ行こうなんてJR東海のCMではないけども、小生も京都に行って来た・・・・。とはいっても京都に住んでいるから行って来たというのはおかしいかな。ならば紅葉狩りに行って来たといっておこうか。今年の紅葉はどうなのかな。格別に綺麗ってほどでもなく毎年、見てるから日常ありふれた光景なんだけど、余所から来る人には京都の紅葉って特別なのかな。昔の紅葉の方が鮮やかだったと思うのだが・・・・・昔日の見事な紅葉の思い出があるから、それを追い求めているのだが、昨今は地球温暖化の影響で紅葉にボリューム感がなくて揃って葉が紅葉しないのだ。赤くなった楓の側で緑の葉のまま散っている木もあって、艶やかとは言い難い。それでもポスターなんかの写真を観ると綺麗な紅葉が映し出されているのだが、もしかして20年ぐらい前の写真を使っているのではないだろな。勘繰るわけではないが、京都でこれは凄いという紅葉の風景に最近はお目にかったことがない。なんか昔に比べるとショボいのだ。それなら紅葉が美しくなる条件て言うのはどういうものかというと、好天が続き葉が日光を十分に受けている。最低気温が8℃以下の日が続き、昼夜の寒暖の差が激しいくて乾燥していること。すると今年なんかは10月前半は夏のような日が続いたし台風もよく接近した。それでこの1週間ほどで一気に寒くなった。こんな風に夏から一気に初冬のようになってしまったから見事に綺麗な紅葉は望める筈もない。でも例年ぐらいの紅葉の綺麗さは保っているだろう。それで本当に綺麗な紅葉っていうのは10年に一度ぐらいあるそうだが、小生の記憶では今から30年以上前のことだが、見事に至る所で深紅の紅葉が見られた年があった。その時の見事さが絶えず脳裏にあるのでどうしても比較してしまうのだ。だから今年の紅葉はだめだと言っている訳でもないが、楓も深紅ではなく葉焼けを起こして赤黒くなっている木々が目立つのだ。あとは朱色のような薄い紅葉。また銀杏の葉は黄色くても落葉した葉が多いので寂しいものがある。

 そんな中、先日に京都は東山界隈をうろついてきた。それで南禅寺から岡崎公園、青蓮院門跡、円山公園、高台寺と東山界隈をうろついてきたので、その時撮った写真をアップすることにした。それで後は拙い文章を書いても意味がないから写真だけを載せることにするとします。場所の説明はしませんので気に行ったところがあれば、自分で探してください。南禅寺から八坂の塔までの間のどこかです。











マイルス・デイヴィスのミュートのきいたトランペットを聴きながら枯葉を見ていると何か切なくなってくるんだな。










ところでこの写真は上の写真と同じところを撮ったものだが2007年の画像である。この年の紅葉も派手さがなかったが、今年とは趣が違うことが判る。黄色が目立つかな。










 つづく

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2013.11.27 (Wed)

映画『エデンの東』を観る

『エデンの東』1954年制作、アメリカ映画

監督 エリア・カザン

出演 ジェームズ・ディーン
   ジュリー・ハリス
   レイモンド・マッセイ
   リチャード・ダヴァロス
   ジョー・ヴァン・フリート

【あらすじ】第一次世界大戦がヨーロッパで繰り広げられている1917年、カリフォルニア州北部の田舎町サリナスに住む少年キャルは中年女性を尾行していた。その女性は父から亡くなったと聞かされていた母親らしき人だった。しかし無下なく追い返される。その女性はモントレーで酒場を経営しているケイトという女性だった。父のアダム・トラスクは生真面目で農場を営んでいた。またキャルには温厚な性格の双子の兄アロンがいた。キャルは兄のアロンと違って反抗的な性格で父から邪険にされていた。アロンには恋人アブラがいて、2人で冷凍保存に使う氷倉庫で逢い引きしていた。その2人をキャルは隠れて覗いていた。それを知らぬアブラはキャルが不気味だとアロンに告げたいた。父からの愛情を受けていないキャルは突然、父がレタスの冷凍保存に使う氷を倉庫から打ち砕く。父アダムは聖書の一説を引用して叱責をするが、逆に死んだ母のことを問いただす。父は母との不仲をキャルに話すが生きてはいないという。キャルは再びケイトの店に向かい対面に臨むがまたも追い返される。本当の母なのか謎は深まるが、アダムの旧友である保安官サムから両親の新婚当時の写真を見せられケイトが実の母であると確信を持つ。

 そんな或る日、キャルはアロンの恋人アブラに父から愛されてないと悩みを打ち明けると、アブラも同じ悩みを抱えていたときがあると言い2人は急接近する。まもなくしてアダムが冷凍保存したレタスを使った取引を実行に移すが、列車が立ち往生した関係で氷が溶けてしまい損害を受ける。それでも善人アブラは憔悴していたが冷静であった。それを見たキャルは損失を補おうと取引に先見の目があるウィルに相談する。すると戦争に伴う特需で大豆が高騰するであろうと言われるが、その資金に5000ドルが必要と言われ、再三ケイトのところにお金を借りに訪れる。そこでケイトと接見することが出来、父との不仲だった話を聞かされる。つまり母とキャルはアダムの正直すぎる堅物さに嫌気がさしていたということで同調し上手く金を借りることに成功する。すると、まもなくしてアメリカがドイツに宣戦布告し青年たちが戦争に駆り出される。アダムは徴兵の委員をやらされ清廉潔白なアダムは心が痛んでいた。戦争は思ったより長引き大豆は高騰しキャルは5000ドルをウィルから受け取り、父アダムの誕生日にプレゼントとして渡そうと誕生日パーティーをアブラと計画した。その日に兄のアロンはアブラとの婚約を父に発表してアダムを歓喜させるが、その後でキャルはアダムが損失した同額の5000ドルの札束をプレゼントする。するとアダムに、戦争特需の相場で設けた大金は徴兵の委員をやっている手前受け取れないから返して来いと逆に諭される・・・・・・。

 この映画は若い頃に何度も観た。今でもジェームス・ディーンの熱演と共に小生の心の残っている良い映画だ。原作はジョン・スタインベックの小説だが、原作を読んだ人は判ると思うが、映画は小説の最後の方の僅かな部分だけを映画にしているのだ。でも、それだけで十分に親子愛をいうものを表現した作品となっている。物語の原典は旧約聖書のカインとアベルにあることは一般的に知られている通りである。アダムとイブの息子たちカインとアベルの兄弟の葛藤の話を頻繁に例として持ち出されるが、多少、例えとは違ってもジョン・スタインベックは現在風にアレンジして小説化している。それを基にエリア・カザンが脚本をポール・オズボーンに書かせ、そこへ新人ジェームズ・ディーンの演技があって秀作となったことは言うまでもない。ジェームズ・ディーン以外にもケイトを演じたジョー・ヴァン・フリートといい、懐かしくもあるレナード・ローゼンマンの主題曲の名旋律。最も撮影中はジェームズ・ディーンの勝手気ままな性格が周りを困惑させたと言い、台詞を覚えてこないジェームズ・ディーンに父親アダム役のレイモンド・マッセイが手を焼いたという逸話も残っている。それでいて最後の方のシーンで、5000ドルを父アダムに渡して返して来いと言われた後の演技は即興で行ったものだというから、ジェームス・ディーンは天から授かった役者の申し子かも知れず、24歳での突然の事故死を惜しまずにはいられない。まさに映画も現実もジェームズ・ディーンであって、彼は永遠の若者であるべきだったのだ。まさに反抗的若者そのものであり、それこそ理由なき反抗であり、大人になってはいけなかったのかも・・・・・・・・。もし今も生きていたら82歳の筈。しかし、82歳のジェームズ・ディーンなんて皆目、想像も出来ない。デームズ・ディーンは子供の頃に母と死別。その後は色々とあったことを故エリザベス・テイラー(映画『ジャイアンツ』で共演)が晩年にジェームズ・ディーンとの想い出話として残しているが、今は2人ともこの世の人ではない。死人に口なしで何処までが事実なのかは疑わしい。やはりジェームス・ディーンは永遠の若者で在り続けてほしい。


EDIT  |  19:39  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.11.24 (Sun)

第33回ジャパンC

 もう冬の入り口であるが今日は比較的暖かい日であった。そんな晩秋の中、東京競馬場で第33回ジャパンC(G-Ⅰ・3歳以上、芝2400m、17頭)が行われた。何だか国際招待レースなのだが年年、外国馬が小粒になって行く。とうとう今年は3頭のみ。それもJoshua Tree、Simenon、Donadenとバリバリの一線級が来ていない。シメノンやドーナデンなんてアスコット・ゴールド(20f)やメルボルンC(3200m)で実績のある競走馬。これらが日本の速い馬場での2400mに対応出来るのかなと思ってしまう。もう凱旋門賞馬トレーヴぐらいしかジャパンCに出ても意味がないのではと考えるほど外国馬は日本の馬場に戸惑ってしまう。最近は外国馬の成績が悪いのか、今年はとうとう一線級が来なくなった。したがって国内馬の実力決定戦になってしまった。それも多頭数で行われる中山の有馬記念がトリッキーな馬場で実力を発揮できない競馬場だけに、東京コースで行われるジャパンCの方がメンバーが最近は揃ってしまうからでもある。ただし今年はオルフェーヴル、キズナ、エピファネイアが出てこなかったので国内メンバーも寂しいものがある。そういtった状況の中で1番人気は連覇を狙うジェンティルドンナ、2番人気はゴールドシップ、3番人気はエイシンフラッシュ、4番人気はアドマイヤラクティ、5番人気はアンコイルドというものだった。

 スタートが切られたが逃げ馬がいない。それでエイシンフラッシュが押し出された形で先頭に立った。2番手にトーセンジョーダン、3番手にヴィルシーナ、そしてジェンティルドンナ、ルルーシュという順で続くが明らかにスローペース。何と1000mを1分02秒4、1200mを1分15秒2。単純にこの倍だと2400mが2分30秒4かかることになる。古馬のG-Ⅰにおける良馬場のレースでこのペースは遅すぎる。なのにゴーールドシップはシンガリ追走。本当に行き脚がなくなったな。それでも3コーナーから上がって行ったが、前が楽をしているからはたして届くのかどうか。4コーナーを回って末脚勝負のレースとなってしまった。あと400mで先頭のエイシンフラッシュの内にジェンティルドンナが並びかけた。あと300m、ジェンティルドンナが先頭に立つ。ジェンティルドンナが先頭。あと200mでも先頭。しかし、あと100m。外からトーセンジョーダンとデニムアンドルビーの伸びがいい。ことにデニムアンドルビーの伸び脚は図抜けている。最後に急襲したがジェンティルドンナが押し切った。

 1着ジェンティルドンナ 2分26秒1、2着デニムアンドルビー ハナ、3着トーセンジョーダン クビ、4着アドマイヤラクティ 3/4馬身、5着ドーナデン クビ。

 ジェンティルドンナは最近は前に行って残るケースがあって、末脚を生かさない競馬を強いられている。それでこのところ勝ててなかったが、今日は前に行って残った。でも本来ならもっと後ろからいって追い込んで来る競馬の方がいいのだが、どうも前に行ってしまうな。それでも勝つから強いのだろうが、3歳牝馬のデニムアンドルニーがあの脚で追い込んできたことを考えれば、キズナ、オルフェーヴルが出ていたらどうなっていたか判らない。それにしてもゴールドシップはどうしたのかな。馬がだんだんとズブくなっている。3歳時も前に行けなかったが、もっと道中軽い感じで追走していた。それが古馬になって追いづめの競馬が多くなった。一体どうしたのかな。このまま終わってしまうような馬ではないだけに何がどうなっているか判らない。ゴールドシップには復活してほしいが・・・・・。

 結果的には超スローでジェンティルドンナは粘り切った。もっとペースが速い方がこの馬にはいいだろう。そして史上初のジャパンC連覇。それも牝馬である。2着も牝馬。それも3歳牝馬。また1着、2着がディープインパクト産駒。よほど東京の2400mというのはディープインパクトにとって相性がいいのだろう。
EDIT  |  17:01  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.11.22 (Fri)

ユニクロに寄ってみたが・・・

 今日、京都駅で降りてユニクロに寄った。長袖のカラー・ワイシャツが草臥れてきて新しいのがいるから二枚ほど買おうと思って立ち寄ったのだが凄い行列で驚いた。何と50人位並んでいる。平日なのに・・・・・・。しかし感謝祭とかで限定商品を安売りしているからなのだ。それも女性が多く、ほとんどの人が店舗用のプラスチック製の買い物カゴにテンコ盛り商品を入れて並んでいるから、レジ係の人が10人ほどいてもなかなか列が捌けない。こりゃ店員も大変だなと思いながら待っていた。ユニクロって何処がそんなに良いのかなとは思うが、低価格であるのに最近は品揃えが豊富になってデザインも以前よりは良くなっているから女性層がより一層増えているのかもしれない。

 初めてユニクロの店舗を見つけたのは何時頃になるかな。20年位前かな。あまり記憶にないが最初はユニクロって何の店かなと思ったほど知名度がなかった。名前がユニクロUNI-QLOなんて意味が不明で何屋さんなのか判らなかったというのもあるが、今では世界的な企業になってしまった感がある。山口市に本部のある会社で、1984年に広島で第一号店UNIQUECLOTHING WAREHOUSEをオープンさせたときの名前を略したのがこのユニクロという会社名になったらしいが、今では衣料品小売り店として知らない人はいないだろう。そして、そこから急成長で特にフリースのユニクロとして売り上げを増加させたことは知られている通りである。ただしその後は海外に進出するものの順風満帆ともいえず一時は赤字に陥るなど紆余曲折あったみたいだが、それでも再生し今でも成長を続けているようではある。

 今から20年ほど前は郊外型の店舗が多かったが次第と都市型店舗が増え、さらに低価格というのもあって急激に購買者が増えた。しかし、それが逆効果となりユニバレという現象を起こしてしまう。これは日本国民の多勢の人が個性のないユニクロの服をが身に付けたことによるもので経営が悪化したのである。そこでユニクロはデザイン性の高い品を意識して安く売るという方向転換し、さらに大都市の繁華街に大型店舗を続々展開。さらにグローバル化も伴って今があるということなのだが、一方でブラック企業ではないのかという声もある。実際、社員はサービス残業も含め過酷な労働条件下にあるようだ。最も社長の柳井正は反論していて、それが、ある意味では日本の雇用体制におけるモデルケースの一つでもあり、今後がどうなるのか注目もされているのだ。ただ消費者としては品質とデザインの良い衣料品が低価格で売られているなら当然のように飛びつくだろう。ただし小生は若い時のように洗練された服も買わなくなったし、そのようなものに執着しなくなった。衣食住で一番、興味がなくなったのはこの衣の方である。やっぱり着る服に興味を抱くのは若い時であって、今は着心地が良いか悪いか、動きやすいかどうかが先決で、ファッション性は二次的要素になってしまった。だからユニクロは価格的にもデザイン的にいってもちょうどいいかなということで、ファッションにほとんど興味がなくなった小生としても、時々、利用しているのである。でも今日のような行列には、いい加減ウンザリしたというのが本音である。
EDIT  |  19:28  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.11.17 (Sun)

晩秋の法隆寺に行く

 先日の寒い日に斑鳩の里、法隆寺に行ってきた。何年振りだろうか。10年以上前に来たかな。初めて行ったのが小学生の頃の遠足で来たものだが、それ以降は何度訪れたか判らないほど来ているのだが、それこそ現存する日本最古の、いや、世界最古の木造建築物群といっても差し支えがなく、それこそ建っている物がほとんど国宝で世界遺産であるといってもいいぐらいだ。でも寒い平日に訪れたから一般の観光客が少なくてホッとしていたのだが、それに反して修学旅行生が多すぎて煩かった。いった何校来ていたのだ・・・・・。

 法隆寺は創建が607年と伝わっているので、今から1400年前に建てられたということになる。あまりにも古すぎてピンとこないが、今、存在する金堂、五重塔のある西院伽藍はもっと後に造られたものとされるが、それでも7世紀後半か8世紀初頭とされ、飛鳥時代には建てられていたので古いことには変わりはない。そもそも推古天皇と聖徳太子が用明天皇の遺願を継いで607年に薬師如来と寺院を建立したのが始まりとされ、その後にそれらは焼失し、その後に建てられたのが現存する法隆寺とされているのである。最も聖徳太子たる人物が存在したのかどうか疑問視する歴史学者もいるが、そのモデルとなる人物が現法隆寺を創建したことは確かなようで、時代が余りにも古いと確証出来るものも少なく謎だらけということになる。ところで大阪市のど真ん中にある四天王寺は同じ聖徳太子が建立した寺院で、創建が593年というから法隆寺よりも古いのだが、大阪と言う大都会にあるがため、過去に何度も災害にあい当時ものは何も残ってなく、現在ある伽藍は全て昭和になって再建された鉄筋コンクリート造りというのは実に淋しい限りである。だから斑鳩と言う人里離れたひっそりとしたところに建てられた法隆寺は、飛鳥時代の姿のまま威容を未だに保ち続けているのは大変喜ばしいことである。ただ、何故に法隆寺が都から少し離れた斑鳩の里に建てられたのか色々と説があるが、当時の都である飛鳥に建てられていたら現在の姿で残っていたか疑わしい。おそらく藤原京、平城京と遷都するにつれ何れ伽藍は解体されていたかも知れず歴史の中で埋もれていたに違いない。よくぞ斑鳩の地に建ててくれたものだ。

 さて、久しぶりの法隆寺だが修学旅行生で溢れていた。小学生、中学生、高校生。皆、列をなして金堂やら五重塔やら大講堂やらを見学している。金堂の中には釈迦三尊像、薬師如来像、阿弥陀如来像、四天王像、吉祥天立像、毘沙門天像。五重塔の中には塑像群。大講堂の中には薬師三尊像、四天王像(重要文化財)などが安置されていて、これらほとんど建物と共に国宝というから何とも恐れ多い寺院である。

 これら中門と大講堂と回廊に囲まれた伽藍全体を西院伽藍と言うが、著名な玉虫厨子や百済観音像等の国宝は新しく建てられた大宝蔵院に安置されていた。それにしてもこの法隆寺だけでいったいどれだけの国宝、重要文化財があるのだろうか。建築物、仏像、工芸品等全て合わせると凄まじい数になるだろう。一寺院としてはおそらく国内一位の数を誇るであろう。それだけ法隆寺は古い寺院であるということになる。小生は大宝蔵院を出て休憩所で暖をとっていたら、その時、偶然にも梵鐘がなった。

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 正岡子規の有名な俳句である。鐘の音を聞いて、その俳句を思い出したが、実際には正岡子規は法隆寺に訪れたことはないという説が強い。なので、この俳句はおそらく正岡子規が想像で浮かんだ俳句だろう。本当のところ正岡子規は1895年10月に東大寺を訪れた際、奈良の宿でご御所柿を食べていて、その時に梵鐘の音色を聞いたらしい。それを東大寺から法隆寺に変えたのだろうが、その理由は何故だか判らない。でも小生は休憩所でホットコーヒーを飲んでいるときに法隆寺で鐘の音を聞いた。でも俳句なんてちっとも浮かばない。そういった才能は残念ながら皆目、持ち合わせていないのでどうしようもない。でも正岡子規流に言うなら、珈琲飲めば鐘が鳴るなり法隆寺と言うことになるが、これだと赴きも何にもない。最も小生、俳句を詠んでも良い俳句と悪い俳句の判断も出来ないのであしからず。

 休憩所を出てから国宝の東大門を抜けて2、300mほど土塀に挟まれた道路を歩くと東院伽藍に到着する。ここは重要文化財の回廊に囲まれた中に有名な八角円堂の夢殿がある。この中には救世観音像、聖観音菩薩像、行信僧都像、孝養像、道詮律師の塑像が安置されているが、これらの像も国宝および重要文化財である。夢殿と言うのは行信僧都という高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで奈良時代の739年に建てた上宮王院伽藍の中心になる建造物で、現在では鎌倉時代に中門を改造した礼堂と回廊に囲まれている。しかし、それにしても寒かった。なので隣の中宮寺を寄らず、当然のように法起寺や法輪寺にも行かなかった。これ等と藤ノ木古墳をも含め、斑鳩地域が世界遺産に指定されている。若い頃の小生なら全て回るのだが、最近は入院したこともあって体力の低下を痛感しないではいられない。したがってまた暖かい時に再訪することにして斑鳩の里をあとにした。

金堂


五重塔 高さが32.5mで当然のように日本最古の五重塔である。


大講堂


五重塔と金堂


中門から入って左に五重塔、右に金堂、奥に大講堂がある。これを法隆寺式伽藍というが、それより前に建てられた四天王寺はこれらが一直線に並んでいて、これを四天王寺式伽藍という。


西院から離れた東院伽藍には夢殿がある。


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2013.11.12 (Tue)

歯医者

 久しぶりに歯医者に行った。それこそ約10年振りぐらいだ。その時は半年ほど通って全て治療したのだが、また右上の親知らずが虫歯になった。知らぬ間に虫歯になっていたのだ。まだ痛みはないが放っていくわけにはいかない。でも忙しくてなかなか行けなかった。しかしもうこれ以上は放っていられないので予約して通うことにした。

 まず歯科衛生士が歯の点検をするが、右上の親知らず以外にも3本ほどCOと評価され、放っておくと虫歯になる可能性のある歯があるという。それでレントゲンを撮り歯の写真まで撮られしばらくは通院する羽目になった。それで手始めに歯科医が右上の親知らずの治療にかかった。例の歯を削る音がする。グィーンとあまりいいものではない。次に麻酔を打ち神経を抜いて埋める作業に取り掛かる。その間、助手が歯を洗浄する。それでゴムのような柔らかい物を埋めて固める。結局30分を越えて本日の治療は終了。麻酔を打ったので歯茎が腫れている。感覚も麻痺している。それで食事は麻酔が引いてからにしてくれと言われたが、暫くはぼんやりとした痛みが右側の口全体に広がっていた。それで次の予約をいれて帰宅したが、これから暫くの間は、歯医者に通はないといけないとは情けない。予防はしているつもりなのだが、どうしても磨き残しが出ているのだろうか。歯は最低でも10分以上磨かないといけないらしいが、忙しい身だと歯を磨くのも手っ取り早く手短にしてしまう。これではいけないとは思うがつい面倒臭くなる。たからと言って老いて総入れ歯というのだけは避けたいので、電動歯ブラシでも買って丁寧に歯を磨いていくしかないかな。
EDIT  |  20:09  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.11.10 (Sun)

ナンシーシナトラを聴く



 ナンシー・シナトラって誰っと若い方なら思われるかもしれない。無理もない。1940年生まれだから今年で73歳の老人である。でも小生が小学生から中学生の頃にかけて最も人気のある外国の女性シンガーの1人だった。だから恥ずかしながら小生はフランク・シナトラよりも先にナンシー・シナトラの方を知ったのである。最初に名前を聞いたのは小学生の時でザ・ピーナッツが歌う『レモンのキッス』カバー曲のオリジナル歌手がナンシー・シナトラであるということを知ってからである。しかし、大して気にもしなかった。それが1967年だったかナンシー・シナトラの歌が矢鱈と当時のラジオで流れていたのである。

 まず『シュガータウンは恋の町(Sugar Town)』である。♪シューシューシュー、シューシューシュー、シューシューシューシュー、シューシュー、シューガータウンという覚えやすいメロディと歌詞で瞬く間にヒットしたのである。かと思えば直後にはフランク・シナトラとのデュエット曲『恋のひとこと(Somethein’ Stupid)』がヒットした。これもバラード調の覚えやすいメロディで、小生は同じシナトラなのでナンシー・シナトラの夫かと思っていた。それで姉に聞いたら何と親子だというではないか。それも世界的に有名なエンタティナーだという。それで父フランク・シナトラの存在を知ったという訳である。つまりナンシー・シナトラこそ親の七光歌手だったのである。でも親の威光をちゃっかり利用してきっちりヒット曲を連発するあたり並みの七光ではないことを証明したのである。もっとも前年の1966年にフランク・シナトラの『夜のストレンジャー』がヒットしているのにも関わらず、ナンシー・シナトラのことは当時は全く意識していなかったのである。

 さて1967年はナンシーの当たり年だったのか、その後も『007は二度死ぬ(You Only Live Twice)』、『サマー・ワイン』(リー・ヘイゼルウッドとのデュエット)とヒット曲を連発。ところが絶頂期はこの頃までで、それ以降もレコーディングはすれで大ヒットには恵まれなかった。デビュー時は可愛い娘チャン路線で売り出し、途中からセクシー路線へと変わって行ったナンシー・シナトラである。けして美人ではないが何処か小悪魔的な雰囲気があって当時は絶大な人気があったものだ。

 ナンシー・シナトラは父がいわずと知れたフランク・シナトラで母がフランク・シナトラ最初の妻であるナンシー・バルバド。つまり母の名前をそのまま受け継いだのである。西洋ではよくある習慣だが、女の子に母と同じ名を継がす場合もあるのだな。1940年6月8日、ニュージャージー州ジャーシーシティで生まれ、その後、南カリフォルニアに移る。ナンシーはフランクの最初の子で、4歳下に弟のフランクリン、8歳下には妹のクリスティーナがいる。それでナンシーが10歳の時、フランク・シナトラと母ナンシーは離婚してしまうのだった。その頃からナンシーはピアノ、13歳でダンスを習い始め、15歳からは歌と踊りのレッスンを始めたのである。大学は南カリフォルニア大学で経済学を専攻。さらにピアノ、発生、ダンス、ドラマ等の勉強に勤め、父フランクの後を追いかけるようにショウ・ビジネスの世界へ足を踏み入れたのである。そして父の後押しもあって20歳でレコード・デビュー。でも、なかなかヒット曲が出ず、念願のヒット曲『にくい貴方(These Boots Are Made For Wakin’)』(1966年、ビルボード1位)が出るまでに何と15枚のシングル・レコードをリリースしているのである。日本でヒットしカバー曲まで出された『レモンのキッス』は本国アメリカではヒットしなかったのだ。この曲は原曲がポンキエルリの歌劇『ジョコンダ』の中の『時の踊り』のメロディに歌詞をのせただけなのでアメリカでは受けなかったのかもしれない。ただし日本ではメロディが判りやすくヒットしたのである。こうしてヒット曲がいったん出るや、その後の数年はナンシー・シナトラの曲がラジオで流れない日はないほどだった。そういえば当時のシングル盤のレコード・ジャケットを見れば判るように、あの当時のナンシー・シナトラは金髪に染め、ミニ・スカートにブーツ、ジーパン姿ばかり。デビュー当時の清楚な感じからは逸脱し、行け行けネエチャン風でゴーゴーが流行っていた時代に上手く乗ったという感じが現れていた。それが1970年代に入ると再婚(実は20歳の時にナンシーは大学時代からの恋人トミー・サンズと結婚していて65年離婚している)。74年出産。しばらくは家庭に入っていたらしい。それが夫ヒュー・ランバートが亡くなったため再びショウ・ビジネスの世界に戻ってきたという。しかし、日本では彼女の名も段々と忘れ去られていく運命にある。既に他界している父フランク・シナトラは今でもCDは店頭にあるが、娘ナンシーのCDはあまり見かけない。やはり親の七光だったのかなとしかいいようがないが、1960年代中頃はとにかくナンシー・シナトラの人気は物凄いものだった。


Like A Do(レモンのキッス)・・・原曲はポンキエルリ作曲のオペラ『ジョコンダ』からの『時の踊り』である。


Sugar Town(シュガータウンは恋の町)


You Only Live Twice(007は二度死ぬ)


Summer Wine

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2013.11.03 (Sun)

晴れの特異日だったが・・・・

 もう11月になってしまったのだな。今日は文化の日で日曜日。あいにくの雨が路面を濡らし肌寒い一日である。ところで昔から文化の日は晴れの特異日とされるのに今年に限っては当てはまらなかったみたいである。文化の日の11月3日は明治時代から晴れる日が多く特異日とされてきた。それが1950年代から1960年代初めにかけてはそれが当てはまらなく雨が良く降るようになったという。その頃のことは覚えてないが、それが最近では決まって晴れる日が多く特異日復活の模様だったのだが、今年はしっとりと雨。朝から薄暗く曇っていて昼間でも明るくはない。それがザーっという雨ではなく、しとしとと雨音が聞こえないよな雨が降り続いている。こういった日は気が滅入る。如何にも冬の入り口という様相で、暑い暑い10月から一転して秋を通り越して初冬の雰囲気を醸し出しているではないか。

 今日は日曜と文化の日が重なったから明日も休みのところが多く、明日に天気が持ち直せば行楽日にもなりそうだが、前々からこの日に予定を立てていた日人も多いはず。冷たい雨では外出もままならないな。今年は週末に雨になることが多く、晴れの日の特異日という文化の日も今年のジンクスに負けた形となってしまった。天候を恨んでも仕方がないが、今日だけは晴れてくれと思っていた人も多いはず。なんて言う年なのだ。夏は驚異的に暑かったし台風接近も異様に多い。なかなか雨が降らないが、降り出すと観測史上に類を見ないほど降り出し災害を各地でもたらした。

 もう残すところ今年もあと二ヶ月。もう2013年も終わろうとしているが、私、個人的にとってもいい年ではなかった。あと二ヶ月、せめて悔いのないように時間をつぶすとしよう。
EDIT  |  17:07  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑
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