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2008.02.29 (Fri)

芝生のお話

 見事なまでに美しい阪神競馬場の芝
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 明日からJRA(日本中央競馬会)の競馬開催は、競馬場が代わって関東は中山競馬場、関西は阪神競馬場、ローカルで中京競馬場開催となる。それで今年の冬は当初、暖冬の予報だったのが見事にはずれてしまい、連日の雪、みぞれ、雨で寒風吹きさらし、競馬場の馬場も例年以上に荒れていた。そのせいかもしれないが、何時になくレース中の故障も目立っていて、観ていてあまり気持ちの良いものではなかった。でも最近、競馬に目覚めた方はあまりご存じないと思われるが、1980年代までの冬の競馬場というのは、もっと馬場が荒れていた。・・・いや寒々しいというか、芝が枯れていて、今のように青々とした芝ではなかったのだ。

 私が競馬に興味を持ち出した昭和40年代の前半というのは、馬場の内側半分が剥げていて、外側の芝が剥げてない所でも冬場になると芝が枯れるので、土の色と同化してしまい、芝が生えているのか剥げているのかスタンドからでは判らないほどであった。だから5月ぐらいから10月までの競馬場は芝が青々としていて、観ていても気持ちが良かった。それが11月になると途端に芝が枯れ出し、薄い茶褐色に変化してしまう。だから馬場が見た目以上に悪化している感じがしたものである。

 何故、そうなるかというと日本の競馬場は野芝と言って、日本在来の芝を長い間使っていたからである。そもそも芝というのはイネ科の多年草の総称で、見た目が美しいから、昔から造園に使われてきたのである。だが、日本の野芝というのは、日本の本州以南に自生している芝で、高温多湿に適応しているが、気温が23℃以下になると生育が停まってしまい、葉が変色してしまうのである。ところが、この芝は繁殖方向が直線的で伸びが速いという長点があり、アスファルトの隙間でも生えるなど踏圧に強い。だから競馬場で使われていたのだが、緻密な生え方をしないのが欠点であった。そういったことで、競馬場で使われたが、ゴルフ場やサッカー場、野球場では野芝は用いられず、こういったところでは、主に高麗芝、姫高麗芝等が用いられたのである。

 このように昔から日本の競馬場や野球場、ゴルフ場とかで芝生が植えられているのを見かけられたものであるが、気温が低くなる11月になると、芝が冬枯れしてしまい、青々とした美しさは消えいったから、まことに残念であったものだ。これは、日本の在来芝というものが、全て夏型の芝であるからで、種類としては中芝、大高麗芝、高麗芝、姫高麗芝、ビロード芝、朝鮮芝等が挙げられる。

 一方、冬でも青々とした芝というものがある。それは西洋芝である。いや、冬は強いが、日本の芝と反対に夏に弱いというべきかもしれない。でも西洋芝は草丈も長く冬に強いので、日本の芝が冬枯れする中でも青々としているのである。とはいうものの踏圧に弱く、夏場になると病害虫に気をつけなければならない。つまり野芝は冬に弱く、西洋芝は夏に弱いと、まるで正反対の芝どうしなのである。

 さあ、こうして芝の特徴を語ったが、この野芝と西洋芝の何処が違うのかと・・・・・。そこでお互いの欠点を補う方法としてオーバーシードが開発されたのである。

 オーバーシードとは、1980年代後半に開発された天然芝の育成システムで、芝の二毛作とも言う。こうして野芝が枯れかかったときに、西洋芝の種を蒔き、冬でも青々していてる錯覚に囚われるのである。こうして年から年中、芝の青さを保てるシステムが一般化されると、これらはさっそくサッカー場や野球場で使用されるようになった。それは競馬場でも例外ではなく1991年の師走開催となった阪神競馬場で初めて試みられたのである。

 1991年の年末であっただろうか。一年半にも及ぶ閉鎖で、阪神競馬場は全面的に改築され、久々に競馬開催日を迎えた。そして、私は朝早くから新装オープン成った阪神競馬場に入場した。新しいスタンドに屋根つきのパドック、余りにも斬新な造りに驚いたのであるが、それ以上に驚愕したことがある。それは芝生がヨーロッパの競馬場のように青々としていたことである。それは過去の競馬場ではお目にかかれない光景であった。師走だというのに何という芝生の美しさだろうか・・・。目の前で見られる阪神競馬場の芝生の青さに比べて、テレビから映し出される同時開催の中山競馬場の冬枯れた芝生が哀れに思えて仕方が無かった。私はオーバーシードという言葉を、その時に初めて聞いたが、何のことなのかさっぱり判らなかったが、この時に言葉の意味が判明したのである。

 このようにして阪神競馬場で行われたオーバーシードは、翌年から全国の競馬場で行われるようになり、今では冬場でも競馬場の芝生は青いというのが、当たり前の現象となってしまったのである。夏は日本在来の野芝を使い、冬は野芝と併用してライグラスやトールフェスクといった西洋芝を使うようになった。西洋芝は芝丈が高く、芝丈の低い野芝を覆い隠すように生えている。でも欠点は踏圧に弱く痛み易い。だから最近はライグラスに加えてフェスク類の芝まで一緒に使用することが多くなった。フェスクは寒地型と暖地型、両方の性質を持ち、気温に適応力がある。だから夏場でも野芝と一緒に使われることがあるのだ。

 さて、明日からの中山開催は野芝にイタリアン・ライグラス、トールフェスクといった芝を混同させたコースを使うらしい。一方、阪神は野芝とイタリアン・ライグラスの混同芝である。まだまだ寒く、馬場も固いと思うが、芝がクッションになって高速で走るサラブレッドの脚を守っていると考えると、芝一つとっても気になるものである。どうか故障馬が出ませんように、祈るような気持ちでレースを見守りたいと思う。

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2008.02.28 (Thu)

古い映画を観る・・・・・『雨に唄えば』

 『雨に唄えば』1952年製作 アメリカ映画

 監督 ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン

 出演 ジーン・ケリー
     デビー・レイネルズ
     ドナルド・オコナー
     シド・チャリシー
     ジーン・ヘイゲン
     ミラード・ミッチェル

 【あらすじ】時代は無声映画からトーキー映画に変わりつつある頃。映画の都ハリウッドでも、徐々に声の出るトーキー映画が中心に作られるようになる。俳優のドンはいつも相手役の女優リーナと銀幕の中では恋人同士であった。でも現実では、悪声でうぬぼれが強いリーナにへきへきしていた。そんな時、ドンはコーラス・ガールのキャシーと出会う。まもなくドンはリーナとのコンビで映画を撮り始める。だが、この映画はトーキーで撮る事となった。問題は女優のリーナがとんでもない悪声で、とてもファンの前で披露できる声ではなかった。完成した作品も大失敗。これでは公開できないと思い落ち込んだドンは、この映画をミュージカルにすればと思いつき、さっそくキャシーに声の吹き替えをさせる・・・・。

 この映画はMGMミュージカルの傑作とされ、フランスの巨匠フランソワ・トリュフォーやチャーリー・チャップリンが絶賛したと言われる。当時、ミュージカル映画というのは、ブロードウェーで成功した作品を映画化するというのが当たり前であったが、この作品は映画のためのオリジナルというところが素晴らしい。

 この映画はタイトルが『雨に唄えば』である。この曲はもともと1929年に製作された映画『ハリウッド・レビュー』の主題歌で、主演のウクレレ・アイクが唄ってヒットした曲である。それをMGM映画の名プロデューサーであるアートー・フリードが、この曲を使って何時しかミュージカル映画を作れないかと考えていたのだった。またモダン・バレエ出身のミュージカル俳優ジーン・ケリーも同じような考えを持っていた。こうして2人の意見がかみ合ってミュージカル映画化されたのが、この『雨に唄えば』ということになる。

 ところでこの曲のオリジナルを唄ったウクレレ・アイクだが、これは偽名で本来の名前はクリフ・エドワーズである。クリフ・エドワーズというのはディズニー・アニメ『ピノキオ』の主題歌『星に願いを(When you wish upon a star)』を唄った人として有名である。

 このような経緯で作られたミュージカル映画『雨に唄えば』が、こんな傑作になるとは作った本人達も思ってなかったのではないだろうか。とにかく脚本といい音楽といい振り付けといい、全てにおいてバランスがいい。ジーン・ケリーが土砂降りの中でびしょ濡れになりながらタップを踏み踊りまくるシーンは、これぞミュージカル映画で、誰もが知っている名シーンである。私はこの映画を少年の頃、テレビで観てなんて楽しさそうなんだと思い、雨の中で傘もささず『雨に唄えば』を唄ったことがある。とにかく楽しいミュージカル映画である。結局、この映画の成功でジーン・ケリーはスターとして君臨していき、デビー・レイノルズも、この映画で有名になり、後に映画の主題歌『タミー』を唄い大ヒットした。最近だとデビー・レイノルズというより、『スター・ウォーズ』のレイヤ姫役のキャリー・フィッシャーのお母さんという方が判り易いかもしれない。

 この『雨に唄えば』は、その後、スタンリー・キューブリック監督が自身の映画『時計じかけのオレンジ』のエンディングに使い、1983年にはイギリスでステージ・ミュージカルとして上演されたのである。

"Singin' in the Rain"を唄うジーン・ケリー


I'm singin' in the rain
Just singin' in the rain
What a glorious feeling
I'm happy again
I'm luaghin' at clouds
So dark up above
The sun's in my heart
And I'm ready for love
Let the stormy clouds chase
Everyone from the place
Come on with the rain
I've a smile on my face
I'll walk down the lane
With a happy refrain
Just singin', singin' in the rain

Dancin' in the rain
Ya ya ya ya di da
I'm happy again

I'm singin' and dancin' in the rain

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2008.02.27 (Wed)

ヴェルディのオペラ『アイーダ』を観る

 ジュゼッペ・ヴェルディというとどんなイメージがあるだろうか。おそらくオペラの作曲家といったイメージではないだろうか。とにかくオペラ(歌劇)作品が多い。『ナブッコ』『エルナーニ』『マノン・レスコー』『リゴリット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』『運命の力』『ファルスタッフ』・・・・そして、『アイーダ』がある。

 『アイーダ』というのは、ヴェルディが1871年に初演したオペラで、古代エジプトの話である。

 古代エジプトの首都メンフィスで、エジプトの王女アムネリアスは若きラムダスに恋心を抱いていた。だがラムダスはアイーダと相思相愛であった。アイーダはエチオピアの女王であるが、身を隠し囚われの身となりアムネリアスの奴隷として扱われていた。ところが、ラダメスがエチオピア遠征の将軍として任命され、戦いに出発することになった。アイーダは祖国と恋人という二つの愛の板挟みに苦しむこととなる。さあ、エチオピアの運命は、ラダメスとアイーダは、どうなるのか・・・。

 ヴェルディて、オペラ以外の曲も作っている。宗教曲や声楽曲、器楽曲・・・・このようなものもあるが、一般的にいってオペラが目立っている作曲家である。何故だろうかと考えたが、言えることはヴェルディがイタリア人だからとしか言いようがない。

 思えば音楽用語というのはイタリア語である。アンダンテ、カンタービレ、ビバーチェ、アレグロ・ノン・トロッポ、アダージョ、フォルテ、ピアニシモ、ポコ・ア・ポコ、アッチェレランド・・・・。つまり現在に通じる西洋音楽は、グレゴリオ聖歌のような宗教音楽が中心になって発展してきた。それらはローマ・カトリックと関係が深く、そのためイタリア語が音楽用語として使われてきたのだろう。それで、イタリアというとどうしても歌の国、カンタービレの国で、器楽曲以上に歌が好きな国民の国という気がする。だからオペラもイタリアで始まったのではないだろうか。

 このように音楽というのは、声楽が中心となって発展の歴史を辿ってきたのである。器楽曲が中心になるのは、もっと後代のことで、交響曲なんていうのは、オペラが始まる前のざわざわした観客席を静めるために演奏されていたものであって、交響曲が演奏会の中心に持ってこられるようになるのは、ベートーヴェンの時代になってからではないだろうか。そういうことで、かつては声楽が中心だった西洋音楽が、器楽曲に取って代わられる様になると、オペラ等はクラシック音楽と兄弟のような関係でありながら、オペラは独自で上演されるようになった。こうして多くのオペラがイタリア人作曲家の手によって作曲されるようになりオペラの大作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの登場となる。

 でもオペラは嫌いという人は多い。肥った女が出てきて大きな口を開けて金きり声でアアア~~~~~と叫んでいるような印象が強いからではないだろうか。それにオペラはクサイといわれる。確かにクサイかもしれない。大袈裟でありテンポも鈍い。でも考えてみるとこれほど暇と金がかかった舞台劇というものは他に存在しないのではないだろうか。オペラというのは台本があり、曲があり、演技があり、それに相応しい舞台装置と衣装、それにプロの大オーケストラが奏でる演奏をバックにして、プロの歌手達が演技をしながら歌うのである。つまり総合芸術であるのだ。よくミュージカルは好きだが、オペラは嫌いだという女性が時々見受けられる。私に言わせれば実に勿体無い。

 ミュージカルが理解できるのなら、何故、オペラが理解できないといわせてもらう。ミュージカルはオペラから派生した一つの芸術なのであって、アメリカで生まれた現在オペラと言ってもいいぐらいだ。ただ、物語が現在の話なので判りやすいと言うだけである。その点、オペラは現在の話ではないので、判りづらいかもしれないが、これだって時代背景や登場人物の設定を吟味して頭の中で整理さえできていれば、これほど楽しい舞台劇はないと思う。もしヴェルディがダメならビゼーの『カルメン』なんて比較的入り易いオペラであるし、音楽も一度は聴いたことがある曲ばかりで形成されている。だから一度、DVDでも買って来て、楽しんでみては如何かと思うのである。

 歌劇『アイーダ』の一場面、『凱旋行進曲』が奏でられる。

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2008.02.26 (Tue)

アカデミー賞に思う・・・そして、最近の映画の題名に文句を言う

 第80回アカデミー賞の授賞式がこのほど行われ、日本人俳優の浅野忠信が出ていた『モンゴル』が、アカデミー外国語映画賞にノミネートされていたが、残念ながら受賞を逃してしまった。過去には日本人は早川雪洲やマコ岩松等、数名が俳優の部門で受賞を逃して、唯一、助演女優賞を獲得したのがミヨシ梅木だった訳だが、あのミヨシ梅木が出ていた『サヨナラ』だって、何処がアカデミー賞に輝く演技かと問われれば大いに疑問の残る受賞で、アカデミー賞なんて権威だけはあるものの、とても受賞に値しない作品や監督、男優、女優なんて枚挙に遑がない。でも、こんな賞を受賞したというだけで、その作品や俳優達は箔が付くから当事者は是非ともほしい賞なのであろう。

 このアカデミー賞というのは、1928年にアメリカ映画産業に従事する関係者で組織されている映画芸術アカデミーの会員6000人の無記名投票で、各部門が選出されるのである。それで、大部分の会員がハリウッドの業界の人ということで、どうしても商業主義的になり易く、必ずしも公平に選ばれているとは限らない。だから作品賞などは芸術的なものよりも、ヒットし興行的に成功した映画が選ばれることが多く、昔から色々とオスカー作品に対して賛否両論あったようだ。そんな訳でオスカーを逃したからといって、作品の価値が下がる訳でもあるまいし、余りオスカー、オスカーばかり言うなと言いたい。

 今や日本人までが注目するアカデミー賞であるが、この賞が設けられた1928年頃は、映画芸術アカデミーの夕食会の一環として始まったという。その頃は、今ほど注目もされず名誉というものでもなかったのだろう。それが何時しか授賞式そのものが大きなイベントとなってしまった。それでオスカーの栄誉に輝くや、一躍有名になってしまう・・・。これが現在のオスカーなのである。

 さて、こんなアカデミー賞なのであるが、この中で1番重要視されるのは、やはり作品賞ではないだろうか。前年の1年間の間にロサンジェルスで公開された映画の中から、映画芸術アカデミーの会員が選ぶのだろうが、今年は『ノーカントリー』という映画だそうな・・・。

 ところで最近10年間のアカデミー作品賞に輝いた10作品の中で、私が観た映画というのは、『恋におちたシェイクスピア』のみである。これを聞いて、それなら映画を語るなという声が聞こえてきそうである。申し訳ない・・・言葉がない。でも、何故に最近、映画を観に行かなくなったかというと、理由がはっきりしている。それは映画の題名を聞いただけでは行く気が起こらないからというのが、私から映画を遠ざける要因になっているのだ。そういうことで、この記事を読んでいる映画会社の宣伝部が心を入れ替えてくれたら、最近のアメリカ映画のタイトルに見られる悪習慣を切って捨てて、もっと邦題にこだわって欲しいと思う。

 『アメリカン・ビューティー』『グラディエーター』『ビューティフル・マインド』『シカゴ』『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』『ミリオンダラー・ベイビー』『クラッシュ』『ディバーテッド』・・・・これらは最近のアカデミー賞作品賞受賞の題名である。でも、この題名の羅列を見て連想するものってあるのだろうかと・・・。単なる英語で書かれた原題のカタ仮名化にすぎない。

 そりゃ英語は世界で使われている。だけども、アルファベットで書かれた原題を、ただカタ仮名に直しているだけで、かつて存在した邦題のタイトル・・・・もう死語になりつつあるのか。だから私は最近の外国映画を観ようとする気がしないのである。

 それではここで、第1回から第二次世界大戦が終結する1945年までのアカデミー作品賞の栄誉を担った作品の題名を並べてみるとする。『つばさ』『西部戦線異状なし』『グランド・ホテル』『或る夜の出来事』『戦艦バウンティ号の叛乱』『巨星ジークフェルド』『風邪と共に去りぬ』『レベッカ』『ミニヴァー夫人』『カサブランカ』『我が道を往く』『失われた週末』・・・・・見事なまでに邦題のタイトルが並んでいる。つまりこの当時は、英語のタイトルを日本語に訳すか、映画の内容を観て、それを引き出すようなタイトルを邦題でつけていたのである。これだと題名から何となくどんな映画なのか、その方向性が読み取れたものである。だから私は観てみたいという気が起こったものである。なのに、最近のアメリカ映画のタイトルは何だ・・・・・・。ただ原題のタイトルをカタ仮名に置き換えただけというお粗末さ、出鱈目さ、いい加減さ・・・・・。これだから私は最近の映画を観てみようと思わなくなった。だから映画のタイトルというのは重要なのである。たかがタイトルと思うかもしれないが、昔の宣伝マンは、映画ひとつとっても邦題のタイトルに拘ったのである。『荒野の決闘』『駅馬車』『波止場』『お熱いのがお好き』『緑園の天使』『雨に唄えば』・・・・もし『風と共に去りぬ』が、今だったらおそらく『ゴーン・ウイズ・ザ・ウインド』というタイトルになるだろうし、『駅馬車』なら『ステージコーチ』になってしまう。これだと何のコッチャといいたくなる。

 聞く所によると、最近の映画会社の宣伝マンは、日本で公開されるときでも、原題をそのままカタ仮名に変えて映画館に回すという。だから邦題のタイトルを頭からつけようなんて思ってないのだ。要するに育ちの違いかもしれないが、カタ仮名慣れしてしまって、何の違和感もないという。だからJポップの曲にも言えるけど、ヒットチャートに横文字が並んでしまうのである。これだと何処の国の曲なのか判らなくなってしまう。つまり私の考えが古いのかもしれないが、若い人のためだけに映画があるのではない。日本語をお粗末にする今の風潮は嫌いだ。もっと母国語を大事にせよと言いたい。
                                
EDIT  |  20:28  |  映画  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.02.25 (Mon)

山本周五郎・・・・・『青べか物語』を読む

 山本周五郎という作家がいる。『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』『季節のない街』『さぶ』『ながい坂』・・・・これらの小説の題名を羅列するだけで、何となく作風が判りそうであるが、我々の年代以上の読者に特に人気があるようだ。書かれた小説は、主に時代物が中心で、町人の生き様を描いた作品が多く、内容からして我々のような凡人が読んで共感できるのだ。だから山本周五郎は人気がある。読んでいて胸がキュンとなることがある。

この『青べか物語』は、昭和初期の漁師町・浦粕が舞台である。浦粕町は根戸川の下流というより河口にある。貝と海苔と釣り場で知られ、貝の缶詰工場と、貝殻を焼いて石灰を作る工場と、海苔の干し場と、魚釣りに来る人のための釣舟屋、それにごったくやといわれる小料理屋の多いのが特徴である。北は田畑、東は海、西は根戸川、南は沖の百万坪と呼ばれる広大な荒地がひろがり、その先は海である。その町へ主人公である私が訪れ、私という主人公は蒸気河岸の先生と呼ばれていた。

 蒸気河岸の先生は、町に来るなり芳爺という老人にぶっくれ舟「青べか」を買わされてしまう。買った以上は住みつかなくてはならない。こうして私である蒸気河岸の先生が、語るところの浦粕の町の住人達の物語が始まるのだった。

 この町の常識はずれの狡猾さ、愉快さ、素朴さ・・・・・惑わされながらも主人公は少しずつ町の住人に中に溶け込んでいこうとする。・・・・・ただし、この物語には8年後に訪れた話が続いている。一度、浦粕を離れた主人公は、8年後に再訪した。その半年前、この町の住人のことを短編小説にして雑誌に掲載されたのである。主人公は浦粕にやって来て、ここの住人が、その小説を読んでいるとは思わなかったから、安心していたが、留さんという水夫は読んでいた。驚いた主人公は「あれは小説なんでね」と弁解したら、留さんは「おら大事に取ってあんよ」「一生大事にしておくだ」と言われ、人の良さに触れたものの、親しかった人の両親からは、厳しい警戒と拒否の眼を持って眺められ、30年後に、またまた訪れた時は、誰も蒸気河岸の先生だと思い出してもらえなかったのである。かつては土地に溶け込み、隅々まで名前が行き渡っていたと思っていたが、所詮は余所者であったことに気がつくのである。

 以上が、小説のあらましであるが、この浦粕という町は昭和初期の浦安が舞台だといわれている。したがって根戸川というのは旧江戸川のことである。作者の山本周五郎は昭和3年頃、実際に浦安に住んでいた。当時は千葉県東葛飾郡浦安町で、今とは違って寂しい漁村であったという。それで住民は警戒心が強く、余所者をなかなか入れようとしなかった。こんな町に山本周五郎は暫くの間住みつき、この素朴な田舎町をモデルにしたのが『青べか物語』なのである。小説の中にあるように、貝や海苔を採り、海苔を干し、貝の缶詰を作ったり、貝殻で石灰を作ったり、舟釣屋等で生計を立てている人が多く、都会人が入る余地はなかったところである。

 現在、浦安はディズニーランドやデイズニーシーが出来て、人が溢れるように訪れるが、私が知る限り、ほんの40年前は、『青べか物語』で語られるような面影が残っていたと思う。まだその頃は、浦安町だったのだから・・・・。それが、1969年に地下鉄東西線が浦安町を通るようになると、町の歴史が変わり始めたのだろう。一躍、東京のベッドタウンとして開発が急になった。そんな1972年頃だったか、私は地下鉄東西線で浦安を何度か通過した覚えがある。でも、まだ浦安町だった。

 浦安町が浦安市となったのは1980年頃ではなかったかと思うが、暫くして東京ディズニー・ランドがオープンして、一躍、有名な地名となってしまったのだ。だから、その頃から浦安は急変して、今や何処にも『青べか物語』の風景はないかもしれない・・・・。少なくとも電車から眺められる風景を見る限り、見当たらないようだ。すっかり町は様変わりし、芳爺さんも、留さんも、漁師の源さんも、船宿「千本」の長も、船宿の娘おすずも、乱暴者の増さんも、小料理屋「喜世川」の栄子も、みんないなくなってしまったであろう。

 町は街となり浦安町は浦安市となり、漁師も次第に減っていき、今や大部分が東京へ通勤する住人で溢れかえってしまった。かつて山本周五郎が警戒心と拒否反応でなかなか近付けずに苦労した地元民も少なくなり、大挙して移住してきた都会人によって街の性格も姿も一転してしまった。『青べか物語』の時代から80年が経過した。今や沖の百万坪も何処へやら・・・・・・・・。
                                                      
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2008.02.24 (Sun)

第25回フェブラリーS

 関東では春一番が吹いたといってたが、京都では昨日の夕方からまた雪が降り積雪の朝を迎えた。そのせいで今日の京都競馬は1日中ダート競馬。それにより何とつまらない競馬ばかりを見せられたことか・・・・。

 こんな日に東京では今年最初のグレードⅠレース、第25回フェブラリーS(GⅠ・4歳以上、ダート1600m、16頭)が行われた。日本では花形でないダート競馬であるが、このほどヴァーミリアンがこれを勝って、ドバイのワールドCに参戦の予定らしい。はたして上手くいくかどうか・・・・。また昨年の皐月賞馬ヴィクトリーが出走してきた。どういう理由で出てきたのか判らないが、取捨に困るなあ・・・・。

 人気はヴァーミリアンが断トツで、フィールドルージュ、ワイルドワンダーが2、3番人気を分け合った形となった。

 いよいよスタートである。ゲートが開いたが、ロングプライドとフィールドルージュのダッシュがつかない。あっという間にフィールドルージュは取り残されてしまった。人気の馬なのにどうしたというのだ。さあ、先行争いであるが、皐月賞馬のヴィクトリーが先頭を奪った。ダートコースは初めてだというのに、行きっぷりがいい。近走は菊花賞16着、ジャパンC18着と馬に精彩がなくなったが、ダート路線に活路を見出そうと参戦したのだろうか、とにかくガリガリとぶっ飛ばす。2番手にはデアリングハート、3番手にメイショウバトラー、4番手にブルーコンコルドが続き、5番手にビッググラス、6番手に本命ヴァーミリアンが外目を通って悠々と進む。その後ろには公営の雄アンバサンド、さらには12歳馬のノボトゥルー、その後からリミットレスビッドが続き、そのインコースにはクワイエットデイ、アウトコースに人気の1頭で期待の関東馬のワイルドワンダーが追走する。そして、白い芦毛馬フジノウェーブがいて、外側に追い込みのロングプライド、後方にはメイショウトウコン、最後方にドラゴンファイヤーがいる。そして、もう1頭大きく離されてフィールドルージュであるが、はるか圏外・・・・いったい何があったのだろうか・・・・。

 先頭のヴィクトリーはスタートから飛ばし12.4---10.9---11.5---11.9---12.4とハロン毎のラップが芝並みに速い。1000m通過が59秒1でちょっとオーバーペースではないかと不安が先にたつ。それでも本命のヴァーミリアンは3コーナーから楽々と外を通って好位置に上がってくる。これを見てワイルドコマンダーもついてくる。直線コース入り口でもヴィクリーが頑張っている。その外にデアリングハート、ビッググラス、さらに外には桃色の帽子の人気馬2頭、ヴァーミリアンとワイルドコマンダーが肉薄してくる。あと400m、ヴィクトリーをかわしてデアリングハートが先頭に出る。内からブルーコンコルドもやって来る。そしてヴァーミリアン、ワイルドコマンダーが迫る。残り300m、ヴァーミリアンとワイルドコマンダーの一騎打ちか・・・。あと200m、完全にここでヴァーミリアンが先頭に立つ。ワイルドワンダーは引き離される。ここでブルーコンコルドがワイルドワンダーを捉え2番手に上がる。外からロングプライドも伸びる。でもヴァーミリアンは強くて余裕を持って先頭でゴールイン。

 1着ヴァーミリアン 1分35秒参、2着ブルーコンコルド 1馬身3/4、3着ワイルドコマンダー 2馬身、4着ロングプライド 1馬身1/4、5着リミットレスビッド 1/2。

 これでヴァーミリアンと武豊騎手は3月末にドバイへ参戦することになるだろう。このところダートのGⅠレースばかり使われて3連勝で国内に敵無しとなってしまった。でも海外には強豪が何頭もいる。どれだけ通用するか見てみたいが、勝つのは容易ではないだろう。

 ところでヴィクトリーは完走した馬の中ではシンガリであった。本当に昨日のフサイチホウオーといいヴィクトリーといい、このところの不振が目に付いて離れない。このあたりの馬が復活してくれないと競馬も盛り上がらないと思うのであるが・・・・・。
                                 
EDIT  |  19:39  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.02.24 (Sun)

小説『阪急電車』有川浩著を読む

 先日、大手書店の入り口で山積みしてあるハードカバーの書籍を見つけ、そのタイトルに惹き付けられ思わず買ってしまった。題名は『阪急電車』有川浩著・・・・・題名から阪急の社史かその手の本だと連想したのである。それこそ、入り口に積み上げられているから、おそらく話題の書なんだろうけど、阪急の関係の書籍なんて珍しいことではないし、それが何故、こんなに並べてあるのだろうかと手にとって拝見したのである。するとページを捲ってから、すぐにその理由が判った。これは阪急の社史でもなく小説だったのである。

 それも阪急の一支線である今津線を舞台にした小説である。それを知ると私は興味が沸々と湧いてきて、この新刊本を買う羽目になってしまった。著者は有川浩という高知県出身の30代の女性である。この人は初めて聞く名前なのであるが、既に『塩の街』という作品で電撃小説大賞を受賞し、『空の中』『海の底』等の話題作も書き、近著『図書館戦争』では『本の雑誌2006年上半期ベスト1』に選ばれたという。そして、同書は人気を呼び、このたびアニメ化されることが決定したという。でも、私は最近の音楽と同様、最近の文学たるものには疎いので、皆目、何のことか判らなかったのであるが・・・・・。そんなこんなで『阪急電車』という小説を読むことになってしまった。それも電車の中で起こる日常の話である。人の出会い、人の別れ、生活の中で体験する様々な出来事を、今津線という短い路線の中に限定して話は展開されるのである。

 ところで阪急電車というのは、全国的にはどの程度の知名度があるのだろうか・・・。この本はタイトルからして関西圏では売れているようだが、全国的にはどうかなあという疑問が成り立つ。おそらく東京の路線だとテレビ・ドラマで京王線なり小田急線なり東急なりが出てくるので、日本全国知れ渡ることとなるが、関西の路線というのは全国ネットで紹介されることは滅多にないだろうから、知名度という点では弱いだろう。でも、現在の日本で、私鉄の在り方を最初に示したのが阪急電鉄だというと判るであろうか・・・・・。昔、小林一三という人がいて、この人が阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道という鉄道を明治40年(1907年)に敷いた。それは大阪~神戸間、大阪~京都間、大阪~奈良間という既存の都市の間ではなく、大阪の梅田と兵庫県の宝塚間だったのである。当時の宝塚というのは兵庫県武庫群、兵庫県川辺郡と呼ばれ、小浜村、長尾村、西谷村、良元村に分かれていた。つまり温泉以外、何もないただの田舎だったのである。また現・阪急宝塚線の沿線は周辺に大きな街がなく一面の田園地帯で、こんなところに電車を走らせたのである。でも小林一三には秘策があった。沿線の土地を買占め、宅地造成し住宅を建て分譲販売した。一方、終点の宝塚には温泉に浸かれる娯楽施設を建て、少女による歌劇団を組織した。それが、その後の宝塚歌劇であり、宝塚ファミリーランドであった。また逆に起点の梅田駅には日本で初となるターミナル・デパート阪急百貨店をオープンさせ、周辺や沿線に住む多くの人を呼び込んだのである。

 このようにして沿線の開発に着手し、街を発展させ、後年に神戸線、京都線と沿線を延ばしていき、さらにはプロ野球球団(阪急ブレーブス)と映画会社(東京宝塚映画・・・略して東宝)、劇場(梅田コマ劇場、新宿コマ劇場)の経営に乗り出したのである。こういった手法で阪急が私鉄経営に長じたことにより、東急の事実上創業者である五島慶太が、小林一三に経営方法を学びに来たことは有名な話である。その結果、五島慶太は東京で同じことをした。それは渋谷の街の開発と、田園調布の宅地造成である。だから小林一三の阪急電車が如何に時代を先取りした鉄道会社か判るだろう。

 それでこの『阪急電車』という小説であるが、阪急の宝塚から今津までの10駅、距離にしてたった9.3km、でも小説では西宮北口から今津までの間は話から省いてあるので、話の中に登場する駅は宝塚、宝塚南口、逆瀬川、小林(おばやし)、仁川、甲東園、門戸厄神(もんどやくじん)、西宮北口の8駅、7.7km、所要時間14分の路線で起こる様々な話ということになる。でもこの短い路線の沿線には、宝塚大劇場、ガーデンフィールズ(旧宝塚ファミリーランド)、手塚治虫記念館、宝塚ホテル、宝塚ゴルフクラブ、甲山森林公園、仁川ピクニックセンター、仁川テニス場、阪神競馬場、西宮カントリークラブ、関西学院大学、神戸女学院大学、門戸厄神、兵庫県立芸術センター、建築中の西宮ガーデンズ(西宮球場跡)、また、その他のショッピングセンター、お洒落なスイーツ店、レストラン、大学、高校も多く、色々な種類の人が集まってくるところでもある。それに今津まで足を延ばせば、甲子園球場も近いという立地条件で、関西の富裕層が住みたがる地域と言っても過言ではない。つまりそのような路線を走る電車の中のお話であるということを頭に描いて欲しいと思う。

 登場人物は何組かいて、オムニバス形式で出てくるが、それぞれが何らかの関係で繋がっていて、巧に話が構成されている。

 まずは宝塚駅での話・・・・・征志という本好きの青年がいる。彼は二週間に一度、宝塚中央図書館で本を借りるが、何時も読みたい本を先に奪われる。その本を奪うのは何時も同じ女性で、それが征志の好みのタイプの女性だった。或る日、宝塚から乗り合わせた電車で、その女性と隣り合わせになる。それが偶然なのか判らないが、そこから彼女との会話に発展していく。

 宝塚南口では白いドレスを着た結婚式帰りの美女が乗って来た。しかし、彼女は花嫁ではない。結婚式に招待された女性だったのである。でも何か訳がありそうで・・・・・、顔は怨念に溢れていた。何が彼女にあったのだろうか・・・・・。

 逆瀬川では女の子の孫を連れたお祖母さんが乗ってきた。彼女達は白いドレスの女性の異様な姿に驚くが、お祖母さんは彼女に何があったのか見抜いていた。それで彼女にいい街だから、小林で降りるように説得する。

 一方、小林で降りていった美女を見ていた若いカップルは、結婚式の招待者が白いドレスを着て結婚式に行くものではないと、喧々囂々と論戦を繰り広げていた。それは何気ない会話であったが、とうとう喧嘩にまで発展し、次の仁川駅に到着するや彼は怒って、突然、競馬に行くと捨て科白を残して電車から降りてしまった。そのカップルの有様を一部始終、見ていた孫を連れたお祖母さんは、下らない男ね。やめておけば? 苦労するわよ。と説得する。
                                
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2008.02.23 (Sat)

クイーンC、京都記念

 昨日の暖かさから一転して、今日は強風とみぞれと雪に見舞われた寒い1日であったが、こんな日、私は久しぶりに京都競馬場へ出向いてきた。

 土曜日ではあるが、この日は東西で重賞が行われたのである。東京では3歳牝馬によるクイーンCで、京都は古馬による伝統の京都記念。

 まず東京のクイーンC(Jpn-Ⅲ・3歳牝馬、芝1600m、16頭)であるが、3歳牡馬は今のところ確たるクラシック候補が見当たらないが、牝馬の方は何頭か有力馬が出てきている。それで今日出走する牝馬の中にも、注目の1頭がいた。その馬がリトルアマポーラである。今日の勝ち方次第では、当然のように桜花賞馬候補としてクローズアップされるだろう。それに対して、他の陣営も虎視眈々で注目された。

 スタートが切られるやデヴェロッペがハナを奪う。その外にラルケット、3番手にカレイジャスミン、マイネブリッツ、その後方、マルターズオリジン、エフティマイア、さらにオールフォーミー、リーガルアミューズ、ライムキャンディが追走する。そして、1番人気のリトルアマポーラは外目を通って10番手辺りを窺う。ペースはあまり速くもなく、淡々とレースは進む。いよいよ4コーナーを回って直線に向く。インコースにデヴェロッペ、その外にラルケット、そして、エフティマイア、ライムキャンディと横に拡がり大外からはリトルアマポーラも接近。

 残りあと200m、ここからトリルアマポーラが出てくる。このメンバーでは力が抜けているようだ。武幸四郎騎手の鞭に応えてスパートするとするすると抜け出した。すぐに1馬身以上の差がついて、後は2番手争いに絞られた。結局、勝ったのはリトルアマポーラで2着にはライムキャンディが混戦を制した模様。

 1着リトルアマポーラ 1分35秒5、2着ライムキャンディ 1馬身1/4、3着ラルケット クビ、4着デヴェロッペ 1/2、5着マイネウインク 3/4。

 今日の勝ち方を観る限り、リトルアマポーラも桜花賞でも人気なることは間違いないだろう。

 京都の方は、伝統の第101回京都記念(GⅡ・4歳以上、芝2200m、16頭)が行われた。私は競馬場に行ってたのだが、冷たい強風が吹きまくって体が冷え切ってしまった。競馬場というのは、吹きさらしなので、とにかく寒い。特別指定席のある上階は暖房完備だが、一般席は寒くて仕方が無い。よくこんな日に、競馬なんか開催するなあと怒ってみてもしょうがないが、1階スタンドの中まで強風が通り抜けるのには参った。おかげで顎はカダガタと震えるは、鼻水が止まらないは、競馬観戦の前に寒さと戦っているようなもので、思考力なんか失せてしまったのである。

 そんな中、京都記念のスタートが切られた。行く馬がいないのか最初からスローペースである。シルクフェイマスが先頭に立ち、アイポッパーとトウカイエリートが併走して2番手。4番手にセンカク、アドマイヤフジ、6番手にはタイキマドレーヌ、トウショウナイト、ヴィータローザ、トウカイトリックが続く。その後にはドリームパスポート、アドマイヤオーラで、さらにエーティーボス、フサイチホウオー、ダークメッセージが後方集団を形成する。その後はウオッカで最後方がサンバレンティン。

 向こう正面でウオッカが後方3番手に上がり、3コーナーの坂の手前でシルクフェイマスが後続を引き離しにかかる。これで後続の馬は大丈夫なのか・・・・。ここまで9歳馬シルクフェイマスはスローペースで逃げている。1000m通過が1分01秒7と遅い。1200m通過も1分14秒3と驚くほど遅い。これだと後続馬が届くのかどうか気になった。3コーナーから4コーナーにかけてウオッカが徐々に押し上げる。さあ、直線コースに入った。先頭はシルクフェイマスである。2番手にセンカク、3番手以降は集団であるが、ここで各馬に鞭が入る。あと200mのハロン棒を通過。ここで馬場の中央を通って1番人気のアドマイヤオーラが伸びてくる。ウオッカは馬場の1番外である。まだ7番手か8番手あたり・・・・。内にトウショウナイト、外目を通ってアドマイヤフジも来る。先頭は、まだシルクフェイマス、まだまだバテてない。そこへアドマイヤオーラが叩き出されるように先頭に立つ。シルクフェイマスを捉えるや一気に先頭に踊り出た。2番手争いは激しくて、粘るシルクフェイマスに内からドリームパスポート、トウショウナイト、外からアドマイヤフジが襲いかかる。またウオッカも大外から先団に取り付く。しかし、アドマイヤオーラが1馬身以上の差をつけて完勝した。

 1着アドマイヤオーラ 2分13秒6、2着アドマイヤフジ 1馬身1/4、3着シルクフェイマス ハナ、4着ドリームパスポート ハナ、5着トウショウナイト アタマ。

なお2番人気のダービー馬ウオッカは6着であった。でもウオッカは出走馬中、もっとも速い上がり33秒8の時計を記録していて、勝ったアドマイヤオーラが33秒9の上がり時計だったことを考えれば、道中の位置が悪かったとしかいいようがない。ところで、勝ったアドマイヤオーラは、おそらく春の天皇賞は距離が長すぎる(3200m)から、出てこないであろう。また、フサイチホウオーはいいところがなく15着に惨敗した。いったいこの馬はどうなってしまったのだろうか・・・。去年の皐月賞までは4戦4勝だったのに、その後は7連敗・・・・・。負け癖がついたとしか言いようがない。また復活してくれると嬉しいのであるが・・・・・・・・。ああ、とにかく今日は寒かった。

 復活なるかドリームパスポート。
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 昨年のダービーでは1番人気だったフサイチホウオー。昔の光、今何処・・・・。
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 上がり33秒台の末脚を誇るアドマイヤオーラ。
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 6歳の古豪アドマイヤフジ。
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 昨年のダービー馬ウオッカ。牝馬とは思えない堂々たる馬体。
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 ダークメッセージに跨って武豊が・・・いざ、出陣。
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 ドリームパスポートと新コンビの松岡騎手。
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 フサイチホウオーにはルメールが乗る。
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 アドマイヤフジと川田騎手。
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 ウオッカにはお馴染みの四位騎手。
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 アドマイヤオーラの末脚が爆発した。アドマイヤオーラと安藤勝己騎手。
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 1着、2着は同じ馬主のアドマイヤオーラとアドマイヤフジだった。どうせなら一緒に記念写真を撮ろうということか・・・・。

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2008.02.22 (Fri)

古い映画を観る・・・・・『道』

 『道』1954年製作 イタリア映画

 監督 フェデリコ・フェリーニ

 出演 アンソニー・クイン
     ジュリエッタ・マシーナ
     リチャード・ベースハート
     アルド・シルヴァーニ
     マルセーラ・ロヴェーレ

 【あらすじ】怪力男の大道芸人ザンパノが助手となるべき頭の弱い女ジェルソナを一万リラで買った。しかし、実際には奴隷に近い扱いであった。でも男の粗野な振る舞いにも逆らわず、旅する大道芸人ザンパノと一緒にジェルソミーナは旅を続けるのである。でも、何時か彼女はザンパノに捨てられる。何時しかザンパノは、ある町で彼女がよく口ずさんでいた歌を耳にする。ここでジェルソミーナが数年前に亡くなった事を知る。野卑な男のザンパノは、、この時、僅かに残っていた人間の心が甦る・・・・。

 フェデリコ・フェリーニという映画監督は、イタリアン・ネオ・リアリズムが生み出した巨匠というべきなのか、今日では映画界において轟きわたっている。私がフェデリコ・フェリーニ監督の作品を初めて観たのが小学生の頃であって、『8 1/2』という映画だった。何だか幻想的なシーンが到る所に出てきて、かなり難解な作品であり、小学生の私には到底、理解しがたい映画であった。次にフェリーニ作品を観たのは、私が高校生の頃で、その作品は『サテリコン』であった。だが、この作品も私の思考能力を超える難しさがあって、楽しめる映画ではなかった。このように私の中で、何時しかフェリーニ作品は難しいという固定概念が焼きついてしまっていた。なのに私は大学に通っていた頃もフェリーニの映画は観続けていた。『フェリーニのローマ』『フェリーニのアマルコルド』・・・・この2作品は、『8 1/2』や『サテリコン』よりは楽しめたが、アメリカのハリウッド映画のような判りやすさからは、ほど遠い作品であった。こうして私の中では、フェリーニの映画は取っ付きにくいという印象が、何時までも離れなかったのである。

 人が巨匠だ大監督だといっても、作品の何処が素晴らしいのか当時の私には消化出来ないものがあったように思う。その後、私も社会人になり、フェリーニの過去の作品を何度か観る機会を得た。すると、それまで持っていたイメージとは違って、実に判りやすい映画をそれ以前は撮っていたのだということが判ったのである。つまり私がフェリーニ作品に接した頃から、作品の方向性が変わって行ったというべきなのかもしれない。その前の作風と『8 1/2』以降との作風とは明らかに違っているように思えるのである。何故に彼の作品が難解な方向に変わっていったのか知る由もないが、現代のイタリア映画界でも偉大なる巨匠として名を残していることは確かなのである。

 フェリーニという人は1920年生まれというから、日本で言うと大正9年生まれということになる。映画界の数いる巨匠の中でも、比較的に若い世代と言ってもいいだろう。それでフェリーニは19歳の時、漫画を描いたり、詐欺やペテンまでを働いたというアウトローなのである。それが、一座の座付け作者として地方巡業に出て、まもなくラジオ・ドラマを書き出したことで、当時のイタリア映画界の巨匠ロベルト・ロッセリーニと知り会うこととなる。ロッセリーニ監督といえば、イタリアン・ネオ・リアリズムの巨匠として名を馳せた監督であるが、『無防備都市』(1945年)で脚本の協力をしたのがフェデリコ・フェリーニだったのである。こうして映画界に入ったフェリーニは、何時しか監督デビューする。まもなく『青春群像』(1953年)あたりから評判になり、彼の名声が確立されたのが『道』(1954年)だったという訳だ。

 この『道』は、イタリア国内では左翼思想家から批判され、高く評価されなかったという。それはネオ・リアリスモから脱却できてないからというものであった。 ロベルト・ロッセリーニやヴィットリオ・デ・シーカに代表される戦後のイタリア映画の作風と大差ないヒューマニズムに溢れたものであったというのが、理由のひとつに上げられるのであるが、意外にもアメリカでは評価され、アカデミー外国語映画賞を受賞してしまい、日本でも高い評価を得て、ここにフェデリコ・フェリーニの名声が高まったといっても良い。それからフェリーニは『カビリアの夜』(1957年)、『甘い生活』(1959年)、『8 1/2』(1963年)、『魂のジュリエッタ』(1965年)と綺羅星の如く名作をたて続けに発表している。まさにこの頃が最も映画監督として脂が乗り切っていたのだろう。でも作風は徐々に洗練されていくのと引き換えに難解さも含まれていき、そんな頃に私はフェリーニと出会ってしまったのだろう。

 その頃のフェリーニというのは巨匠然として、映画とはこういうものだとばかり我々に語りかけているようであり、何か高尚な舞台芸術を見せ付けられているように思えた。でも難解さを増していたが、彼の根底にあるヒューマニズムと回顧趣味もあって、その後の作品が何処か郷愁を誘う作風に仕上がっていることに私は愛着を覚え、何時の間にか魔術師フェリーニの虜になっていたという訳である。だから今でもフェデリコ・フェリーニは私の好きな映画監督の一人なのである。だから1993年にフェリーニが心臓発作で亡くなった時は、イタリア映画も終わったと思ったものである。この時、フェリーニは国葬され、葬送には彼の友人ニノ・ロータの曲が使われたのである。

 『道』のシーン集

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2008.02.21 (Thu)

エロル・ガーナーを聴く

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 ジャズのスタンダード曲は数多い。『聖者の行進』『セントルイス・ブルース』『スターダスト』『A列車で行こう』『シング・シング・シング』『ムーンライト・セレナーデ』『枯葉』『オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート』『アズ・タイムズ・ゴーズ・バイ』『サマータイム』『オーバー・ザ・レインボー』・・・・・数え上げればキリがないが、そんな中でジャズ仲間に最も愛され続けている曲といえば、『ミスティ』ではないだろうか。作曲はかのエロル・ガーナーである。

 1954年のことで、エロル・ガーナーは仕事の都合でニューヨークからシカゴに向う飛行機に乗った。そこでエロル・ガーナーは窓の外を眺めていた。でも外は霧に包まれていて視界がまったくなかった。そんな時、ふと旋律が浮かんだという。ガーナーとしては記譜が出来ないから、そのメロディを忘れないためにも、どうにかしてピアノを弾いて曲を録音して残しておかなければならなくなった。それで彼はシカゴに着くなりホテルに直行、そこでようやくピアノを弾いて曲がテープに記録されたという逸話がある。こうして名曲『ミスティ』は誕生した。でも残念ながら、エロル・ガーナー自身は、その曲『ミスティ』ほどの人気が日本ではない。『ミスティ』を作曲した人という程度の認識度でしかなく、その類希に見る職人的なピアノ演奏も、芸術性が薄いというだけであまり評価されないのである。それはピアニストとしてのエロル・ガーナーが持つ特異性から来るもので、いわゆるオーソドックス奏法からかけ離れたリズム感溢れるビハインド・ザ・ビートが、日本人の感性と趣が異なるからに外ならないからだろう。

 エロル・ガーナーは1921年生まれで、黒人の家庭にもかかわらず音楽に理解のある恵まれた環境で育っている。父のアーネスト・ガーナーは詩人でピアニストでもあったが、父の兄弟達が正式なピアノ・レッスンを受けていたのに、父のアーネストだけが独学でピアノの奏法を身に付けたのである。だから、その子のエロル・ガーナーまでがいかなる流派にも属さない独自のピアノ演奏方を習得したといえよう。そんなエロル・ガーナーであるが、3歳でジャズやクラシックのレコードを聴きまくり、ピアノで既に真似して弾いていたというから天才的な音感を持っていたのだろう。7歳の時には近所の人々が彼のピアノを聴こうと集まってきたという。そこで彼の母が、エロル・ガーナーを正式な音楽教師につけてレッスンを受けさせようと試みたが、教師の方が逃げ出してしまったという。それはエロル・ガーナーが楽譜を読もうとせず、基本的な知識も運指練習も学ぼうとせず、自分の思いついたコードや、メロディの創作だけに興味を持ったからである。そんな調子だから、エロル・ガーナーは生涯を通して楽譜が読めなかったのである。

 以上のような理由からエロル・ガーナーは日本で評価されないピアニストであり、それでいてピアニストの腕としては超一流なのである。彼は左利きで、それがピアノ演奏にも及ぼしていて、左手が強烈なリズムを刻めるのはそのせいでもある。またスローバラード等の曲も素晴らしく、左手のリズムに対して右手のメロディが遅れ気味に出るからビハイド・ザ・ビートと呼ばれるのであるが、これが幸いして独自の魅力となっているのだ。

 ところで『ミステイ』という曲は、多くのミュージシャンがカバーしているが、エロル・ガーナーの演奏が1番素晴らしいと思う。この曲は彼が作曲した翌年にジョニー・バークが歌詞をつけ、多くのシンガーも唄っている。このように『ミスティ』は美しい旋律と共に人に愛され続け、曲が飛翔して有名なスタンダード曲として演奏され、聴かれ続けられるようになった。けども作曲者でピアニストのエロル・ガーナーがもっと日本でも当然のように評価されてもいと私は思うのである。

『ワン・ノート・サンバ』を弾くエロル・ガーナー。


サラ・ヴォーンが唄う『ミスティ』


 エロル・ガーナーが弾く『ミスティ』

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2008.02.20 (Wed)

レイモンド・チャンドラー・・・・・『長いお別れ』を読む

 私はあまりハードボイルドという類の小説を読んだことがない。でも、ハードボイルド小説が大好きで、その手の小説しか読まないという人を私は知っている。彼が言うにはとにかくお洒落で恰好がいいという。それにちまちましてなくて、行動的でバイタリティがあり、それでいて知的な探偵が登場するからいいのだそうな・・・・・。そういえば若い頃、ハンフリー・ボガートの映画を良く観たものだ。彼なんかはハード・ボイルドそのものであったなあと感じる。

 ハードボイルドとは・・・・堅いゆで卵といった意味である。でも人間に例えるなら感傷や恐怖に左右されなくて、冷酷でいて強靭な肉体と妥協しないタフな精神を持ち合わせた者を言うのだそうだ。そんな人間離れした彼等は、決まってハードボイルド小説の中において、よく探偵として登場する。一般的に探偵小説とも推理小説ともミステリー小説とも言われる種類の小説があるが、その中で、シャーロック・ホームズに代表されるような考察力、分析力を駆使した思考的な推理小説もあれば、躍動的で快活で明朗な探偵小説もある。だから一言で推理小説、探偵小説と言っても色々とあるが、ハードボイルドは当然、後者の部類に属するものであろう。それで、そんなハードボイルド小説を代表するのがレイモンド・チャンドラーである。

 レイモンド・チャンドラーは1888年にシカゴで生まれたというから、意外と昔の人であることに驚く。私なんか20世紀に生まれた人だとばかり思っていたが、随分と昔からハードボイルド小説というのは存在していたことになるのだろうか。レイモンド・チャンドラーは7歳の時に、両親が離婚をした関係で母親についてイギリスに渡っている。ダリッジ・カレッジに入ったが中退してミュンヘンで学んだ後、イギリスへ戻り海軍省に入るが長続きせず1912年に再びアメリカの土地を踏むこととなった。間もなく起こった第一次世界大戦では、カナダ軍、イギリス軍に従軍、除隊後アメリカに戻ることとなる。その後、石油会社の役員も務めるが、1932年に解雇される。それでレイモンド・チャンドラーは、ここでようやく小説を書く決意を持つのである。

 それでは、ここでレイモンド・チャンドラーの人気小説『長いお別れ』のあらすじを簡単に辿ってみるとしよう。・・・・・私立探偵フィリップ・マーロウは偶然知り合ったテリー・レノックスに何処か惹かれるものを感じ取り、酒場で杯を傾けるようになった。やがてテリーは「僕のためにコーヒーを一杯ついで、バーボンを入れて、、タバコに火をつけてくれたら僕を忘れてくれ」と言い残し、妻を殺したと告白して死んだテリーからの手紙には、そのように書かれていた。以前から、レノックスは資産家の娘である妻殺しの容疑をかけられていて、マーロウに助けられ逃れたメキシコの街で自殺を遂げてしまう。やがて心残りのマーロウは、別の事件でレノックスの隣人達と係わるようになったが、事件の意外な真相に辿り着くことが出来るのかどうか・・・・・・・・・・・・。

 この『長いお別れ』はレイモンド・チャンドラーが1953年に書いた作品である。億万長者の娘で夜も昼も男漁りに明け暮れる女を妻にしたアルコール中毒のテリー・レノックスと、腐敗と頽廃、暴力と欲望に満ち溢れた都会の空間に棲息する孤高の男フィリップ・マーロウとの出会いから、この物語は始まるが、私がよく読んでいる本格的な推理小説とは何もかも違っている。知能的な探偵ではなく酒に強く、タフであり、饒舌ではないが言葉に味がある。時々、口から発する科白が粋に感じられるのだ。つまりハードボイルドとはこのようなものなのだろう。「ギムレットには早すぎる」・・・・・とにかく気障な科白がよく似合う。そんな探偵が出てくるのがハードボイルド小説なのである。中でも『長いお別れ』は、ハードボイルド小説において出色の出来栄えにあることは歴然たる事実であるのだから、一度、ご賞味くださいとだけ申し上げておく。とりあえず「男はタフでなくては生きていけないのだ・・・・・」
                                                      
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2008.02.19 (Tue)

日本のブログ開設1200万件突破・・・・・

 一昨日であったか、テレビのニュースで知ったのであるが、日本のブログ開設件数がとうとう1200万を突破したという。これは日本の人口の一割に当る。つまり10人に一人の確率でブログを開設した人がいるという計算になる。まあ、この中には何度もブログを開設しては閉鎖し、また開設するといった人も含まれるので、10人に一人ということもないが、若者を中心に実に多くの人がブログを開設してることになる。それだけ日本のインターネット人口が増加したという証明にもなるのだろうけども、ブログを開設する目的というものは各自、それぞれ違うのだろうなあ。

 アフィリエイトを貼り付けて少しでも収入を得ようとする人や、ただ私のように漠然と何かを書いてみたいと考えた人も含めて、老若男女、ブロガーだらけになってしまった感がある。ただ、書き出すと、これがけっこう面倒くさいので、途中で挫折する人や手抜きになってしまう人が大勢いて、1年続けるだけでも大変な作業だと思う。私も一昨年にブログを始めたが、昨年の9月に一度閉鎖してしまった。それで、このブログは2度目ということになるが、いやはやネタがないときは書くのもつらいものである。

 ところでブログというのはWeb Logの略だといわれる。WebとはWebサイトのことで、Logというのは日々、日記、更新といった意味合いがあるので、Weblogとは日々、更新される日記といった意味になるのだろうか・・・・・・・。でもホームページほど大袈裟でなく、日記風に簡単に伝えたいことを紹介できるので急速に広まったようである。

 そもそもブログというのは、アメリカのJorn Bargerという人が1997年12月に開設したサイト「Robot Wisdom Weblog」で初めて使われた言葉であるらしい。日本では今世紀に入ってから知られるようになり、2003年夏頃から、専門的な人たちがブログを書いていたが、2003年12月にニフティが『ココログ』を開設し、これにより一般的にブログが広まったとされる。

 ブログは誰でも簡単に開設できて、気軽に更新できるというメリットを活かして庶民の間に急速に拡がっていったのであろうが、現在のブロガーというのは20代、30代が中心になるのだろうか・・・・。そこへ10代の若年層のブロガーが急激に増え、最早、総ブロガー時代になりつつある。でも40代、50代と上の年齢になるほどブロガーが少ないのだろうと思う。だからどうしてもブログを読んで欲しいと思うならば、あまり文を詰めないで、間隔を空けてアクセントをつけるか、文字の大きさを変えてみたり、色をつけてみたりして、メリハリあるブログにしないと読んでくれないという人もいる。けども私のような年齢になると、若者が書くようなブログは気恥ずかしくてとても書けない。だから誰も読んでくれないとわかっていても、文字の羅列ばかりになってしまうのである。それで、生来の皮肉屋であると自負する小生としては、毒気ある内容の記事を書いて気を惹こうとするが、これも逆効果のようである。

 そこで考えたのであるが、『きっこのブログ』のように、一切のコメントを受け付けず、何でもかんでも腹の底で思っていることをズケズケ書いてみれば面白いだろうと・・・・・・・・(自民党と石原慎太郎が嫌いなところは彼女と一致している)。そのようなことを、やってみたいとは考えるが本音をすべて書くと、小生はこの世から抹殺されかねない。それにコメントを受け付けないなんてフェアではない。だから、毒舌、皮肉、辛口の連鎖で・・・・・小生は気に入らない、ちょっとおかしいと思うと誰彼なしに叩きまくるかもしれないから、コメントも炎上してしまうだろう。ということで、これでも言いたいことの半分も書いてないのである。だからと言って世の中に媚を売りたくもないから、適当に皮肉めいたことを平然と書いているのであるが、まあ、世の中の人が認めようとしているものに、小生は反発する癖が昔からある。したがってマイノリテイの域は出ないだろうが、今後とも書きたいことだけを書くというスタンスは崩したくない。だから当ブログは、恒久的に人気ブログには成り得ないであろうと思う。

 
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2008.02.17 (Sun)

ダイヤモンドS、きさらぎ賞

 今日から当ブログに競馬記事を掲載することにしました。考えてみれば、私が一昨年にブログを始めたときというのは、競馬ブログを書いてました。ですが、あることからブログを閉鎖し、再開したのが昨年の9月でした。そして、競馬ブログだけは独立して、別のブログとして書いてました。でも結局、2つのブログを同時に更新することが厳しくなり、どうせならここで競馬の記事も書いてしまおうと思い立ち、遂に掲載することにしました。だけども日本人の中には未だ、競馬はギャンブルだからといって敬遠する人が少なくありません。だから競馬の掲載を故意に控えていたのです。とはいっても私自身、興味あることは記事にしないと自分を騙すことになります。それで今日から競馬も記事として載せることに踏み切ったのであります。ですが、競馬をギャンブルとしてではなく、1つの文化としてスポーツとしてロマンとして採り上げることにします。ですから、今後ともよろしくお願いします。

 それで今日の競馬ですが、東京でダイヤモンドS、京都できさらぎ賞が行われたのである。

 ダイヤモンドS(Jpn-Ⅲ・4歳以上、芝3400m、14頭)は長丁場。かつての秋の天皇賞を彷彿とさせるレースである。人気はトップハンデのアドマイヤモナーク、以下、コンラッド、ブラックアルタイル、エフティカロスの順。

 向こう正面からスタートが切られる。当然のようにスローペースで始まった。まず先頭に立つのはマンハツタンスカイ、2番手にミストラルクルーズ、3番手にトウカイワイルド、4番手に牝馬テイエムプリキュアが続く。その後ろにはゴースウィンド、エフティカロス、そしてブラツクアルタイル、アドマイヤモナークと人気の両馬がいて、エーシンダードマン、ブリットレーンが追走。後方グループにはラムタラプリンス、レーザーズエッジ、コンラッド、チェストウイングといった展開。

 正面スタンド前から第1コーナー、第2コーナーと回ったあたりトウカイワイルドが2番手に上がる。レースはスタートからハロン12秒半の平均ラップを刻み、一度、14秒のラップに落ちたが、概ね平均ペースで淡々とレースが運ぶ。

 いよいよ3コーナーから4コーナー、長丁場のハンデ戦、ここらあたりで各馬が追い上げにかかる。直線に向くが、まだマンハッタンスカイが先頭。ら2番手にトウカイワイルド。各馬が横に拡がった。あと300m。馬場の中央からトップハンデの7歳馬アドマイヤモナークが抜け出してきた。1頭だけ次元の違う脚色で抜け出してくる。2着争いは大混戦。横に拡がって叩き合う。最内からコンラッド、外の方からレーザーズエッジ、さらに外からエーシンダードマンも伸びてくる。でもアドマイヤモナークは堂々の先頭。2馬身、3馬身差をつけて完勝した。

 1着アドマイヤモナーク 3分33秒6、2着コンラッド 2馬身1/2、3着レーザーズエッジ ハナ、4着エーシンダードマン アタマ、5着マンハッタンスカイ 2馬身。

 これでアドマイヤモナークは57.5kgを克服し、春の天皇賞に視界良好となったが、本番には当然、ポップロックやマツリダゴッホ、アサクサキングス、ロックドゥカンブ、アルナスラインというメンバーが顔を揃えるのだから戦いは厳しくなると思うが、今日のレースを観る限り面白い1頭になりそうだ。

 京都の方はきさらぎ賞(Jpn-Ⅲ・3歳、芝1800m、15頭)が行われた。今年の3歳牡馬、重賞レースごとに勝ち馬が代わる。本当にどの馬が強いのか?・・・・・皆目わからない。それでクラシックの登竜門といわれるきさらぎ賞で、注目のアルカザン、ブラックシェルといったあたりが出走してきたが、この両馬が負けるようだと、ますます今年のクラシック路線は混戦めいて来る。だから重要なレースとなった。

 人気はブラックシェル、アルカザン、レッツゴーキリシマ、の順であるが、はたして・・・・・。スタートが切られた。まずメジロガストンとメイショウクオリアがハナを争う。でも強引にメジロガストンが行った。2番手にメイショウクオリアとオースミマーシャルが続く。4番手にはチョウサンデイ、レッツゴーキリシマ、その後ろにスマイルジャック、そらにナムラクレセント、アグネスターチ、アルカザン、レインボーペガサスあたりが続き、その後方にはジェントルフォーク、マッキーバッハ、ヤマニンキングリー、そしてブラックシェル、最後方にダイシンプランである。どうも、この金子真人さんの勝負服を着た武豊が後方に待機すると、どうもディープインパクトを連想するが、こんな後ろで大丈夫かと思ってしまう。ブラックシェルでは上がり3ハロン33秒台の脚なんて使えないと思うが・・・・・・。

 1000m通過が1分00秒8とやや遅いペース。でもメジロガストンは後続を引き離しにかかる。馬場も荒れているが、後方の馬は届くのだろうか・・・。いよいよ4コーナーを回って直線へ。ここで懸命に逃げていたメジロガストンが失速。外からレッツゴーキリシマ、スマイルジャックが並んで先頭に立とうとしている。ブラックシェルはまだ後方で大外にコースを選択した。2戦2勝のアルカザンはインコースを通る模様。さあ、いよいよあと200m。このあたりでベリエ騎乗のレインボーペガサスが伸びてきた。先頭はレッツゴーキリシマかスマイルジャックか、それをレインボーペガサスがかわしにかかる。さらにはヤマニンキングリーもやって来る。ブラックシェルは大外でもがいている。アルカザンも伸び脚がもう一息である。結局、混戦を制したのはレインボーペガサスであった。

 1着レインボーペガサス 1分48秒8、2着スマイルジャック 3/4、3着ヤマニンキングリー ハナ、4着レッツゴーキリシマ 1/2、5着ダイシンプラン ハナ。

 注目されたアルカザンは6着、ブラックシェルは7着。またしても人気薄の馬が勝ってしまった。本当に今年の3歳牡馬は頼りない。長い間、競馬を観てきたが、こんな年も初めてだ。重賞を2勝した3歳馬がいないなんて、いったいどうなっているのだろうか・・・・・。古い話を持ち出して悪いが、かつてのタニノムーティエやキタノカチドキは、この時点でデイリー杯3歳S、阪神3歳S、きさらぎ賞と重賞を3勝していたものだ。もしかしてサンデーサイレンス亡き後、競争馬のレベルの低下が始まったのではないだろうな。もう、そろそろクラシックレースの足音が迫ってきているというのに、一向にダービー馬候補が見えてこない・・・・・。一応、現在のところショウナンアルバがクラシックレース候補1番手としか言えないなあ。
                               
                                
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2008.02.17 (Sun)

ホーギー・カーマイケルを聴く

 ホーギー・カーマイケルというとジャズに分類されるのかかどうか判らないが、とりあえずジャズということにしておくとしよう。

 今から40年以上前のことであるが、リーダーズ・ダイジェストという雑誌がアメリカ国民に対して、1番好きな曲は何かという投票を試みたことがある。それによると1番好きな外国の曲が『枯葉』で、アメリカの曲は確か『スターダスト』であった。これは昭和40年頃の投票なので、今となっては古すぎるけども、とにかく今から40年ぐらい前はアメリカ人の好きな曲の№1に選ばれていたのが『スターダスト』だったのである。

 私は『スターダスト』という曲を知らなかったが、当時、人気のあったテレビ番組『シャボン玉ホリデー』で、ザ・ピーナッツがエンディングで唄っていた曲であると姉に教えてもらって知った。ところで、来日したホーギー・カーマイケルが、ホテルで、その『シャボン玉ホリデー』を観て、自分の曲が日本で唄われていることを知って驚いたという話を何かの本で読んだことがある。つまりホーギー・カーマイケルというのは『スターダスト』の作曲者として我々は認識しているのである。

 ホーギー・カーマイケルは1899年、インディアナ州ブルーミントで生まれる。やがて弁護士になるつもりでインディアナ大学の法科に入る。この時、友人とバンドを結成し、ビックス・バイダーベック(白人ジャズを確立したコルネット奏者)との縁で作曲を始めた。この頃は1920年代で、カーマイケルはトミー・ドーシー、ルイ・アームストロング等とも一緒に仕事をしたというから、若くしてジャズに目覚めたのであろう。またカーマイケルは作曲した曲がミルズ楽譜出版社から出されるという幸運を得た。

 カーマイケルは、1926年に大学を卒業し音楽の道に進むか、法律の道に進むか悩んだ挙句、当初はフロリダの法律事務所に就職し弁護士になる道を選んだのである。しかし、好きな音楽の方も捨てきれず、間もなく音楽で食べることを決意する。そんな矢先の1927年夏、ホーギー・カーマイケルは出身校のインディアナ大学を訪れる。ここで彼は夜空にくっきりと散りばめたように煌く星屑を見て、かつての恋人のことを思い出し、浮かんだ旋律を曲にした。それが『スターダスト』だったのである。

 この曲は名旋律であるが故に1930年代にアメリカで最も愛された曲となった。その後、歌詞がミッシェル・パリッシュによって加えられスタンダード曲として、後年、多くのアーティストに唄われる事となった。

Sometimes I wonder why I spend the lonely nights
Dreaming of a song the melody haunts my reverie
And I am once again with you when our love was new
And each kiss and inspiration・・・・・

 この曲はジャズ、ポップス問わず唄い続けられ、作曲した本人の名前は伝わらなくても、世界中に知れ渡ることとなった典型的な例だろう。こうしてホーギー・カーマイケルは音楽の世界で知れ渡るようになるが、その後も『ロッキン・チェアー』『ジョージア・オン・マイ・マインド』『ニアネス・オブ・ユー』『スカイラーク』等を世に出す。でもホーギー・カーマイケルは、ただ作曲者としてだけでなく、レコーディング・オーケストラを結成し、自らピアノを演奏していたし、ビクターに当時の録音が多数残っている。それで、その後にテレビ、ラジオ、映画のパーソナリティや役者として出演していたという経緯もある。そういえばテレビ西部劇『ローハイド』にウィッシュボーン爺さんの役で出ていたり、かつて日本で一世を風媚した『ララミー牧場』にもウィリー爺さんとして出ていたという。

 このテレビ西部劇『ララミー牧場』は、1950年代末期から1960年代初頭にかけて日本のテレビでも放映されていた人気ドラマで、私もよく覚えている。

 草は青く 山遠く ここは西部の 大草原
 たそがれの 牧場に のぼる煙り なつかしや
 俺はカウボーイ ラー ララミー ララミー ララミー

 若い人には何のことか判らないと思うけども、50代の人には判る筈です。『ララミー牧場』の主題歌で、この歌詞と旋律は我々の年代以上の人間にとってはとても懐かしいものである。主演はジェス役のロバート・フラーで、悲しいかな日本でしか人気が出なかったというドラマである。また、この番組のナビゲーターが若き日の淀川長治だったことも思い出される。

 何故に映画評論家の淀川長治が『ララミー牧場』のナビケーターを引き受けたかというと、実はホーギー・カーマイケルのファンであったからというのは、後年知ることになる訳だが、これで顔が売れた淀川長治は、日曜洋画劇場で一躍サヨナラおじさんとして有名になるのだから、世の中、何がきっかけとなるか判らない・・・・・。

 こうしてホーギー・カーマイケルは日本人にとっても、馴染みある人なのであるが、意外にも知られてない。つまり曲だけが一人歩きし、本人以外の人が唄って、彼の多くの曲が知れ渡ったという稀有な人なのである。『スターダスト』『ジョージア・オン・マイ・マインド』なんてスタンダード曲もナット・キング・コールやレイ・チャールズで知れ渡っている。でもホーギー・カーマイケルは知られていない。でも永遠に作曲者として、ホーギー・カーマイケルの名は残るのだ・・・。しか、最近は『スターダスト』を知る人も少なくなった。曲にも流行廃りがあるのだから仕方ないとしても、良い曲は何時までも残って欲しいとは思う・・・。

ホーギー・カーマイケルのピアノ演奏で聴く『スターダスト』(動画はなし)


ナット・キング・コールが唄う『スターダスト』


 『ジョージア・オン・マイ・マインド』を唄うレイ・チャールズ



 ドラマの中でピアノを弾いて唄うホーギー・カーマイケル

                                 
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2008.02.16 (Sat)

お稲荷さんに行く

 今日は京都の伏見にあるお稲荷さん・・・・・伏見稲荷大社に行って来た。これといって願い事もないが、ここは商売繁盛、五穀豊穣、交通安全、安産、厄除け、初宮、病気平癒、入試合格・・・・とにかく、何でもいいから願をかけるといい。

 ところで何故、神社の鳥居は朱色なのかと思われたことはないだろうか。朱色は魔力に反抗する色とされ、稲荷大社では稲荷大神の力の豊穣を表す色ということらしい。また、願い事が通る或いは通った御礼の意味から鳥居を奉納する習慣が、江戸時代から伏見稲荷ではあったという。

 最初の大鳥居をくぐると伏見稲荷大社の参道が続いている。
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 鳥居の後ろに楼門が見える。両側には稲荷大神様のお使いとされる狐の像が陣取っている。
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 伏見稲荷大社の本殿である。全国に32000社あるとされる稲荷神社の総本宮。711年、稲荷山に三柱の神を祀ったことに始まるとされ、大神様が鎮座して1300年になるという。
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 本殿の裏山である稲荷山一帯を神域とするが、本殿の裏側から千本鳥居が山頂まで続く。では出発・・・・・・・。
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 千本鳥居は続く。でも千本鳥居というけども、本当は一万本はあるという。
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 まだまだ鳥居のトンネルは続く。

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 鳥居のトンネル内で、立ち止まって写真を撮る人がいるから、追い抜かせない。

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 鳥居をたてられないところもあるのだ。
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 鳥居を逆方向から見ると奉納時期と奉納者の名前が記載されてある。
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 朽ち果てた鳥居は根元から取り除かれて新しい鳥居へと代えられる。
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 だんだんと勾配がきつくなる。
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 大正時代に奉納された鳥居は石造りである。
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 四ツ辻という山道が二つに分かれている広場に出ると視界が拡がる。ここからは京都の伏見から西山方面を望むことが出来て、私の住むところまで見渡せる。また、この四ツ辻には『仁志むら亭』という老舗うどん屋があって、食事しながら休憩できるのだ。実はこの『仁志むら亭』、俳優の西村和彦の実家である。今は彼のご両親とお兄さんが経営されている。
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 四ツ辻を過ぎて、これから稲荷山の山頂233mを目指す。
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 大きな鳥居が無理なら、こんな小さい鳥居を奉納する人も大勢いる。
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 かなりの急勾配だ。ここまで歩いてくる人は、あまりいない。流石に私も息が荒くなってきた。
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 山の奥深くでも鳥居の道は続く。
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 鳥居を横から見ると・・・・・
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さあ、帰ろう。疲れた疲れた・・・・・・。最寄の京阪電車『伏見稲荷駅』、駅の柱まで朱塗りである。
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2008.02.15 (Fri)

お知らせ

 えー、個人的なことでありますが、このほど、もう一つ並行して更新していた競馬ブログ『1マイル半』を、このブログに統合することにしました。

 当初、競馬ブログだけを分離して更新していたのですが、同時に更新するのが辛くなってきまして、この『uncleyieのア・デイ・イン・ザ・ライフ』の中で競馬をやむを得なくカテゴリーに加えることにしました。その結果、競馬の記事が加わり、今まで以上に頻繁に更新しますので、ご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。
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2008.02.14 (Thu)

市川昆逝去する

※市川昆の昆という字は本来、山冠の下に昆がくっつくのですが、その漢字に変換できないので、やむを得なく昆で通します。ご了承ください。
 
 映画監督の市川昆が亡くなられた。92歳だという。高齢だから仕方が無いとは言え、だんだんと良い映画監督亡くなって行くのは寂しい。

 市川昆といえば、最近まで元気で作品を撮られていたと思うが、遺作となったのが、『ユメ十夜・第二夜』(2007年)だという。この作品が監督の76本目の作品ということで、戦後に映画監督として第一作を製作してから、約60年で76本ということは、一年で一本以上の映画を製作していることになる。これはたいへんな製作ペースであるが、それでいて市川昆の映画は、標準以上の質の作品ばかりなので、そのバイタリティーには驚く。でも申し訳ないが、私は氏の作品を語れるほど観てないのであって、何本かを観ただけにおいては、良質の映画ばかりだと申し上げておきたいと思う。

 かつての日本映画というのは、製作本数にかけては世界トップクラスであった。こんな時代に市川昆監督は、数多くの作品を制作しているのである。元々、アニメーターとして映画界に飛び込んだというが、戦後に映画監督として映画を撮りだし、日本映画が全盛の頃の1950年代、『炎上』(1958年)、『野火』(1959年)、『鍵』(1959年)といった真面目な文芸作品を撮り続けていた。でも、その頃というのは、最も邦画が製作されていた頃で、1960年の長編邦画封切り本数は545本にも及び、これは現在の邦画封切り本数の倍以上になる。つまり映画全盛期の本数であって、当然、これらの多くの映画というのは娯楽作品であった。こんな時代に市川昆監督は芸術作品を撮っていた。

 この頃というのは、稲垣浩、衣笠貞之助、溝口健二、小津安二郎、黒澤明、成瀬巳喜男、木下恵介といった芸術指向の監督がいて、多くの娯楽作品に混ざって戦後の映画史に残る作品も撮っていた。そんな先輩の後を追うように市川昆も質の良い映画を撮っていたのである。だか、私は市川昆監督作品はほとんど観ていなかったのだ。私は幼少の頃、母に連れられて邦画を観た覚えがあるのだが、あまり記憶はない。やがて小学校に上がり、観た映画を記憶できる年齢になっていたが、当時の映画は荒唐無稽のくだらない娯楽作品が多かった。結局、この時代の粗製乱造がたたり、その後、日本映画はテレビの普及も手伝って一気に斜陽産業となってしまうのであるが、そんな時代に私は市川昆監督の2作品を観たものである。その映画は『太平洋ひとりぼっち』(1963年)、『東京オリンピック』(1965年)である。

 『太平洋ひとりぼっち』は、堀江謙一青年のヨット太平洋無奇港横断の映画化である。堀江謙一の役を石原裕次郎が演じ、当時は話題となった。そして、私が市川昆監督の映画で最もよく覚えているのが『東京オリンピック』の記録映画である。

 この作品はドキュメンタリーなのであるが、上映後、評価が二つに分かれた。芸術的過ぎるという声が多く、スポーツの祭典を記録しただけの映画の枠をはっきりと超えていて、マラソンで優勝したアベベの横顔をアップで撮り続け、走る哲人そのものを表現していたり、選手の躍動美を色んな角度から撮った映像を流し続けたりして、それまでのオリンピックを撮ったニュース風映画とは一線を画す作品に仕上がっていた。結局、この作品にはがっかりしたと、スポーツ関係者から批判の声が上がったりして、必ずしも成功した作品とはいえなかったが、私は非常に印象に残る作品となった。この映画の後に『白い恋人たち』という、グルノーブル冬季オリンピックの記録映画も現れて、数年後には再評価されるのであった。このように市川昆は時代の先をいくような映画の撮り方をやっていた。

 その後、一時期、迷っていたのか知らないが、横溝正史の小説の映画化で、『犬神家の一族』(1976年)、『悪魔の手毬唄』(1977年)、『獄門島』(1977年)、『女王蜂』(1978年)といった作品を撮っている。この時期は市川昆も娯楽に走ったのかと、私はややがっかりしたものである。しかし、このような作品も撮れてこそ、芸術作品も撮れるのだという幅の広さを見せつけることになった。 

 現在、日本映画は一時期の低迷を脱し、ある程度は息を吹き返してきたような錯覚がある。でも、これはハリウッド映画がつまらなくなったがため、日本映画に人が流れたとも言え、けして将来の展望が見えてきたというのでもない。何れにせよ、映画界の未来は暗雲が漂っているのだ。既にハリウッド映画はリメイクばかりでネタ切れ模様であるし、CGを駆使しすぎて、映像の動きも安直で、何か物作りの原点を忘れているように思えてならない。それで、昔ながらの市川昆監督が亡くなられて、日本映画の良き時代は忘却の彼方へ・・・・・・。

 映画『東京オリンピック』の冒頭。市川昆監督作品


 ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)の姿が・・・・・開会式での実況は、NHKの鈴木文弥アナウンサーである




 マラソン場面、クラーク、ホーガン、アベベの先頭争い


 走る哲学者アベベ・ビキラ(エチオピア)
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2008.02.12 (Tue)

パティ・ペイジを聴く

 『テネシー・ワルツ』という曲をご存知だろうか。日本では昔、江利チエミが唄ってヒットしたという。最近ではジャズ・シンガーの綾戸智恵がよく唄っていたので知っている人もいるだろう。だから江利チエミ、綾戸智恵と並べるとジャズの曲かと連想しがちである。でも『テネシー・ワルツ』というのは、テネシーというタイトルからして判るようにカントリー&ウェスタンの曲なのである。

 ~恋人と『テネシー・ワルツ』を踊った夜、旧友に出会ったので私の恋人を紹介した。すると彼女は、私の恋人を私から盗んでしまった。私はあの夜と美しい『テネシー・ワルツ』を忘れない~

 こんな内容の歌なのであるが、これをカントリー・バンドのリーダー兼アコーディオン奏者のピー・ウィー・キングが作曲し、歌手のレッド・スチュアートが作詞して、ピー・ウィー・キングが1948年に唄ったのがオリジナルなのである。でも僅かしかヒットしなかった。だが、カントリー歌手のカウボーイ・コーパスがレコーディングしたところ、これがミリオンセラーを記録。これに触発されて、2年後の1950年、各レコード会社が競作するように色んな歌手に唄わせたのである。そして、その中で、1番売れたのがパティ・ペイジの『テネシー・ワルツ』だったのだ。だから今日、日本人が聴きなれたという『テネシー・ワルツ』というのは、ほとんどがパティ・ペイジの唄っている『テネシー・ワルツ』といってもいいだろう。他のレコード会社も錚々たる歌手に唄わせているのだが、パティ・ペイジのレコードが最も人気を呼んだのである。それは、パティ・ペイジの情感溢れる唄い方と艶のある声に、皆がしびれたということになるのだろうか。現在では『テネシー・ワルツ』といえばパティ・ペイジというぐらい馴染みがある。

 パテイ・ペイジは本名をクララ・アン・ファウラーといい、1927年にオクラホマ州で生まれた。11人兄弟の下から2番目で、ハイスクール時代に地元タルサのラジオ局で、ペイジ・ミルク会社提供のカントリー&ウェスタン番組に出演し、その時のスポンサーの名前を芸名にしたのである。その後、タルサ大学に進んでからもラジオで唄っていた。1945年になると編曲者のジャック・レイルに認められジミー・ジョイ楽団に入る。しばらく楽団専属で唄い、2年後にソロ歌手として唄いだし、1950年の『テネシー・ワルツ』の大ヒットで「ワルツの女王」「カントリーの女王」と呼ばれるようになったのである。

 現在、パティ・ペイジは表舞台から退いているが、時々、ステージに上がっているという。既に80歳、もう往年の艶っぽくて情緒的な歌声は衰えたものの、もともと唄は上手い歌手で、ジャズ・ナンバーもビートルズ・ナンバーも唄いこなしている。おそらくアメリカで最古参の女性シンガーかもしれない・・・・・。しかし、何時までも我々の耳に残っているのは、あの若い頃の『テネシー・ワルツ』の歌声で、これだけは一生忘れないだろう。

I was dancing with my darling
To the Tennessee Waltz
When an old friend happened to see
I introduced her to my loved one
And while they were dancing
My friend stole my sweetheart from me
I remember the night and the Tennessee Waltz
Now I know just how much I have lost
Yes I lost my little darling the night they were playing
The beautiful Tennessee Waltz

 『テネシー・ワルツ』を唄うパティ・ペイジ(1980年)



 『パティ・ペイジ・ショー』(1950年)

                                   
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2008.02.11 (Mon)

建国記念の日て何だ

 今日は建国記念の日ということになってるらしい。世界中の国家というものは何処でも建国の日があるだろうが、日本のように古い歴史がある国だと、国の起源というものが判りづらい。そもそも現在の建国記念の日は1966年に制定され、翌年から実施された記念日である。でも戦前には紀元節という名で明治6年から続いていた歴史がある。それがアメリカ進駐軍によって消されていた記念日である。それで考えるのである、日本の起源って何時なんだ?・・・・・・また、そんな大昔のことなんか今さらどうでもいいではないかなんて思ったりする。でも歴史観的な視点から言うと必要なのかもしれない。

 それで『日本書紀』『古事記』等の古い書物を紐解いて明治6年に制定したのが紀元節で、これは初代天皇の神武天皇が即位した日を新暦(グレゴリオ暦)に換算して2月11日を祝日としたことに始まっているのだ。それなら神武天皇って誰だということになるが、神武天皇というのは日向の国、現在の宮崎県で生まれ、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)と言われ、45歳の時に東征をして現在の奈良県橿原市橿原神宮の地において天皇として即位したということになっている。それが何と紀元前660年1月1日だったのである。その日を日本の起源と定めているだけの話である。つまり神話の世界であって、明らかに神武天皇は架空の人物といわれている。それがどういうわけか、現在の125代今上天皇の祖先ということになっているのであるが・・・・・・あまりこの話はしたくない。

 そして神武天皇は52歳で即位して75年間も在位したという。それで崩御したのが127歳・・・・これが信じられるでしょうか。こういった皇国的な神道教育を戦前の日本は公然と行っていたのだから、笑えるといえば笑えるネエ。

 さて、神武天皇が127歳で崩御して、2代目にすいぜい天皇(漢字が出てこないので仮名で書きます)は在位が32年、3代目の安寧天皇が在位38年、4代目のいとく天皇(これも漢字が出てこない)が在位33年、でもこのあたりだと人間的である。でも5代目の孝昭天皇になると在位82年、6代目の孝安天皇は在位101年、7代目の孝霊天皇も在位75年、まさに超人である。この時代の人はいったい何年生きるのだと考えるのが普通だろう。疑問に思うことの一つであるが、この時代の天皇はみんな驚異的に長生きで、現在の世界長寿記録を持つ人も及ばないということであるが、14代の仲哀天皇までは実在してなかっただろうと言うのが現在では定説である。要は神武天皇以前の神代といわれた神の化身、神そのものといわれた時代と、同様、神武天皇から仲哀天皇までも含めて神話時代といってもいいだろう。

 それなら起源があやしい神武天皇の即位も意味がないことになるが、明治から昭和20年までの国家神道教育の時代には、天皇=神といった時代錯誤の教育を当たり前のように行っていたのであって、天皇が100数十年生きたということを教諭が真顔で教えていたという。それが戦後におけるGHQによる教育改革により、思想、価値観の崩壊とともに紀元節も消失してしまったのである。それならその後の建国記念日の復活とは、どのような意味があるのだろうかと考えてしまう。

 海の中にある島国で、他国の侵略を受けなかったばかりに、一つの国としての歴史が脈々と続いていることは確かであるが、その起源の明確でない紀元節に倣って建国記念の日と定め、それを何の違和感もなく受け止めている我々、国民も不思議な気がする。はたして建国記念の日を設けることに意味はあったのたのだろうかと、最近、考えるようになった。
                                
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2008.02.11 (Mon)

浅田次郎の『カッシーノ!』を読む

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 この『カッシーノ!』という本は、作家の浅田次郎が今から7、8年前、ヨーロッパの各地のカジノを回って奮戦した紀行エッセイである。浅田次郎は自衛隊にいた経験も持つ風変わりな直木賞作家であるが、平成の泣かせ屋と異名をとるほど彼の小説は人々を虜にする。『蒼穹の昴』『鉄道員』『シェエラザード』『壬生義士伝』『中原の虹』等の小説を読んで、ファンになられた方も多いと思う。でも何故に浅田次郎がギャンブル奮戦紀なるものを書いたのか理解に苦しむ諸氏も少なくなかろう。あれだけの文学作品を残すような立派な人が、ギャンブル如きにうつつをぬかすとはと、目くじらをたてられるかもしれない・・・。それが日本人の一般的な良識というものだから仕方が無いが、浅田次郎が何故にここまでギャンブルに夢中になるのかを説いた本が、この紀行エッセイである。でも余り頭の柔軟でない方には薦められない本でもある。ただ、この『カッシーノ!』を読むと、ギャンブルに熱中する浅田次郎の行いに理解できない人もいるだろうが、共感できる人も同様にいるだろうと思う。そもそもギャンブルいうのはどういうものなのかという分析に始まって、彼独自の考察が含まれている。だから単にギャンブルの紀行文というだけではなく、そこには各国の文化、哲学、習慣等に及ぶ幅広い視点から見た比較論なるものも展開されていて、実に興味深い読み物となっている。

 それでは、さっそくであるが、浅田次郎がギャンブラーというものはどのようなものか考察している。それは根っからの投機的性格を持ち、勝とうが負けようが生涯その道を捨てず、ギャンブルを趣味としてではなく仕事としてでもなく、信仰としている人のことをいう。だから賭博者は芥川龍之介がいうように、偶然すなわち神と対峙するものは常に神的威厳に満ちているという。そんなギャンブラーだからカジノの聖地モナコへ乗り込めるのである。そこには日本のパチンコ店の雰囲気ではなく、気位の高さがある。そんな中へ敢然と日本の典型的親父である浅田次郎が臨んだのである。

 そこで浅田次郎がいうところの博才とは何か・・・・。

 其の1、金勘定が出来るか否か。金銭管理能力が無い者はただお金を減らすだけである。
 其の2、基本的性格において冷静沈着であること。熱しやすく冷めやすいタイプは身上を潰すだけである。
 其の3、生まれ持った運の強さを持っている。天性の運の強さを持ってないといけない。

 以上のうちで一つでも該当していたらギャンブルを楽しむべきであり、二つ該当していたら数少ない勝ち組になれ、三つ該当していたら世界カジノ行脚に出てもよいらしい。

 こうして浅田次郎はモナコから始まって、ニース、カンヌ、サン・レモ、バーデン・バイ・ヴィーン、ゼーフェルト、ロンドン、ノルマンディー、ヴィースバーデン、バーデンバーデン・・・国で言うとモナコからスタートしてフランス→イタリア→オーストリア→イギリス→フランス→ドイツと回っている。さて、この間の珍道中、彼なりのアイロニーとペーソスが十分込められていて面白い。巨大なるスロットマシーンとの格闘、カードゲーム、ルーレット、挙句の果てはドーヴィルでの競馬。浅田次郎という人は生まれつきのギャンブラーかもしれない。自身、私の趣味は1にギャンブル、2に温泉、3に音楽鑑賞という。本人曰く、それ以上に読み書きが好きだが、これはなりわいとなってしまって趣味の範疇ではないという。だから仕事を離れ、この世でおよそ能うかぎりの極楽を体現するとなれば、何処かの温泉場で名曲を聴きつつバクチを打つことだという。・・・うーん、驚いた。私も競馬は好きで観戦歴40年以上、馬券歴35年以上なるが(いったい何歳で馬券を買っていたのだろうか・・・・時候だからお許しを)、ここまで好きではない。

 浅田次郎のお祖父さんは、菊花賞のグリーングラスの単勝馬券(1976年の菊花賞。人気が無く大穴だった)を握って死に、お父さんは京王閣(東京の調布にある競輪場)のスタンドで倒れた。従って彼も何処かのカジノのテーブルで血を吐いてくたばるであろうと考えている。だから彼の祖先の遺伝子がそうさせるのかもしれないが、高校生の頃、浅田次郎は欲望に駆られて後楽園の競輪場へ行き、そこで親子三代ハチ合わせという悲劇に見舞われたという話は傑作である。学校に行っているはずの孫と、仕事に行っているはずの父と、ちょっくらタバコを買いに行っていた祖父とが、同じ穴場の窓口に並んだから驚いてしまう。おそらく堅物の両親から生まれた家庭では、バクチなどやる奴はロクな奴じゃないと思われるかもしれない。読んでいて不謹慎な一家だと・・・・・。それが日本人というものであり、一般的な良識というものであろう。でも、私の両親も生真面目で堅物であったが、私は小学生の頃から、競馬中継を観ていたという変わり者ではあった・・・・。
                                
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2008.02.10 (Sun)

映画『ティファニーで朝食を』を観る

 『ティファニーで朝食を』1961年製作 アメリカ

 監督 ブレイク・エドワーズ

 出演 オードリー・ヘプバーン
     ジョージ・ペパード
     ミッキー・ルーニー
     パトリシア・ニール
     マーティン・バルサム
     バディ・イブセン

 【あらすじ】ニューヨークの片隅で名の無い猫と自由気ままに暮らす高級コールガールのホリーは、ショーウインドウを見ながらパンを食べるのが好きだった。そんな彼女の住むアパートに引っ越してきた小説家志望の青年ポールは、何処か小悪魔的で無邪気で奔放、それでいて純真で妖精のような部分を併せ持つ不思議な魅力のホリーに惹かれていく。また彼女もそんなポールに興味を持つようになる。やがてホリーがブラジルの外交官と結婚することになるのを知って、傷ついたポールは小説を売って得たお金をつきつけるが・・・・・。

 この映画はトルーマン・カポーティの小説の映画化であるが、小説と映画とで微妙にストーリーが違っているが、これは致し方ない。カボーティは小説を書いた後、映画化権をパラマウントに売り渡すが、カポーティ自身は、ホリーの役をマリリン・モンローが適役と考えていて、脚本家にモンローを念頭に入れて書くように依頼し、監督にジョン・フランケンハイマーを指名している。だが、実際にはマリリン・モンローと正反対のタイプの女優オードリー・ヘプバーンに決まったし、監督もブレイク・エドワーズになってしまった。さらには結末も、小説とはまるで正反対のハッピーエンドで終わってしまった。これにはカポーティも気に入らなかったらしい。でも映画は大人のお洒落な映画という雰囲気を醸しだし、大ヒットとなった。

 私が『ティファニーで朝食を』を観たのは小学生の低学年の頃である。だから映画の内容を掴めず、変な日本人が出て来たり、ヘプバーンが派手な衣装を着て、宝石店の前で食事をしたり、何だか変わった映画だなあという印象でしかなかった。その後、こちらも成長し何度か観る機会を得たが、いわゆる娼婦の役をあのヘプバーンが演じていたということを知り、再び驚いたものである。かつて『ローマの休日』で、とある王国の王女を演じた純白な妖精は、大人になって夜の女として帰ってきたのである。でもオードリーが演じるコールガールというのは、不潔なイメージからは程遠いものであり、彼女の持つ様相から一種の清潔感さえ漂わせている。何処か無邪気で、何処か頼りないようで、それでいて芯はしっかりしていて憎めない、そんな女がホリーである。もし当初のようにマリリン・モンローが、このホリーを演じていたら、そのキャラクターからいって、全く違ったホリー像になるだろうが、今となってはオードリー・ヘプバーンで良かったのではないか・・・・・と考えさせられる。そして、何よりもこの映画でニューヨークにティファニーという宝石店があることを知ったものである。

 映画の中で窓際に座ってオードリー・ヘプバーンがギター一つで『ムーン・リバー』を唄うシーンがある。けして上手くはないが、オードリーは精一杯唄っている。こういった雰囲気が当時のニューヨークにはあったのだろうなあと、思いつつ『ムーン・リバー』をよく唄ってしまうのである。確かに当時の日本とはかけ離れた、お洒落な映画であった。

Moon River wider than a mile
I'm clossing you in style someday
Old dreammaker, you heartbreaker
Whenrever you're going I'm going your way

Two drifters off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend, My Huckleberry friend
Moon River and me

 オードリー・ヘプバーンが『ムーン・リバー』を唄う




    
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2008.02.09 (Sat)

アーサー・コナン・ドイルの『緋色の研究』を読む

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 世の中には名探偵シャーロック・ホームズが、実在の人物だと思っている人が多いらしい。だからロンドンのベーカー街221Bに、シャーロック・ホームズ宛で手紙が今でも来るという。この話は冗談かと思っていたのだが、現実だと聞いて驚いたことがある。確かに探偵という職業はあるが、あれだけ何でも解決してしまう探偵がいれば警察なんて必要ないし、またあまりにも超人的過ぎる。でも実際に存在して欲しいなんて気もするが。

 でもシャーロック・ホームズの名は知っているが、アーサー・コナン・ドイルの名前を知らないという人も多い。誰だそれは?・・・・と思われる人も実に多いだろうが、それなら名探偵コナンといえば知る人も多い。名探偵コナンはマンガからアニメになり、テレビで高視聴率を稼いだが、コナンという名はアーサー・コナン・ドイルから採られた名前であるということが私の世代ではすぐに判る。

 アーサー・コナン・ドイルは、1859年にスコットランドのエディンバラで生まれた。エディンバラ大学の医学部に入り、医師の助手となり、捕鯨船に乗り込んで医師として働いた後、正式にアフリカ航路の船医として任務に就いた。その後は診療所を開いたものの暇の時が多く、その間に幾つかの小説を書き溜めたのである。そして、1887年にシャーロック・ホームズを主人公とする探偵小説『緋色の研究』を雑誌に発表。これが大ベストセラーとなり、それから数10年の間に世界中で読まれるようになったということである。

 書いた本人も仰天するほどの人気ぶりに、シャーロック・ホームズは一人歩きし、やがてフランスのモーリス・ルブランは対抗する意味で、怪盗アルセーヌ・ルパンを主人公とする小説を書いたことは有名である。

 やがて世界中で読まれるようになったシャーロック・ホームズの物語は、実在の人物であると錯覚を起こし、ホームズと相棒のワトスン博士が共同で住んでいるロンドンのベーカー・ストリート221Bに、手紙が世界中から送られてくるというから大したものだ。でもシャーロック・ホームズは知っていても作者で、ホームズの生みの親であるコナン・ドイルの名前を知っている人は意外と少ないのである。これなどは如何に作品がどんどんと大きくなって、虚構と現実との区別がつかなくなってしまった典型的な例だろうけども、コナン・ドイルはこういった現象をどう思っていたのだろうか・・・・・。

 ところで、数あるシャーロック・ホームズの物語は大半が短編であり、長編は4篇しかない。そして、その最初の作品が『緋色の研究』なのである。それでは、その内容を少しだけ・・・。

 シャーロック・ホームズはワトスン博士が考察するところでは、身長6フィート以上、鷲鼻で角ばった顎が目立ち、性格は冷静沈着、アントニオ・ストラディヴァリ製作のヴァイオリンを弾く名手で、ボクシングはプロ級、化学実験を趣味とし、へビースモーカーで常時パイプを咥えている。また時々、暇の時にピストルで壁に発砲してイニシャルを書いたり、モルヒネに惑溺する悪癖があり、女性嫌いであるが、女性の勘には一目置いており、紳士的に接する。ただし、文学、哲学、天文学の知識はなし。政治学の知識は僅かという異色な人物である。

 そもそもワトスン博士はイギリスの軍医として、アフガニスタンの戦場に赴いていたが、ジザイル弾で肩をうたれ、イギリスに送還された。帰ってきたもののやることもなく、ふとしたことからシャーロック・ホームズという男と共同生活を送ることとなった。だが、そのシャーロック・ホームズという男は初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰ってきたことを含め、ワトスンの前歴を言い当てるなど、観察力、洞察力、推察力、どれをとっても比類なきものを持っていた。そんな或る日、彼らの元に、スコットランドヤード(ロンドンの警察)の刑事から殺人事件が発生したとの手紙が届き、ワトスンはホームズについて現場に向ったのである。殺されていたのはイーノック・ドレッバーの名刺を持っていた中年男。壁には復讐と血で書かれた文字があり、女の結婚指輪が落ちていた。この怪事件にとまどう警察当局を尻目に、ホームズの推理は冴え渡る。はたして結末は・・・・・・・。

 要するにワトスン博士というのは、アーサー・コナン・ドイルといってもいいだろう。コナン・ドイルから見たシャーロック・ホームズという図式である。でもこの小説が予想外に売れてしまい、作家として生きる決心をするものの、本人はシャーロック・ホームズの名前が一人歩きすることを快く思っていなかったと見える。実際にコナン・ドイルは1891年、母に宛てた手紙の中で「僕はホームズの殺意を考えている。・・・そして彼を永久に消してしまいたい。ホームズは僕の心をよりよいものから取っ払ってしまった」と書いている。自分が生み出したホームズが有名になり、その一方で悩んでいたのでないだろうか。けして書きたい小説ではなかったのだともいえる。

 その後、コナン・ドイルは『失われた世界』『勇将ジェラールの回想』といったSFや歴史物を書いていて、シャーロック・ホームズには言及していない。彼自身の中にもけして優れた小説とは考えてなかったようである。でも、人々は支持し人気を得て、その後の探偵小説、推理小説に多大な影響を与えてしまったのである。おそらく世界の推理小説において、エドガー・アラン・ポーと共に、コナン・ドイルは並び称される人物であることに異論は無いと思う。今や探偵というと、そのスタイルまでが、シャーロック・ホームズの出立を真似るという有様である。本人は不本意であったが、シャーロック・ホームズは何時までも生き続ける永遠のヒーローなのである。
                                                    
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2008.02.08 (Fri)

吉川英治の『三国志』を読む

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 日本人には『三国志』を好きな人が多い。古代中国における100年間の勇壮な治乱興亡の物語。歴史物語も数あれど、これほど愛され続け、読まれ続けている話も多くは無い。それが『三国志』なのである。

 そもそも『三国志』とは、中国の後漢末期から三国時代にかけての100年間(紀元180年頃~280年頃)の正史である。つまり日本では、卑弥呼が収める邪馬台国が存在したといわれる時代である。そんな古代に、中国では正式な歴史を記録した書物が既にあったというから、何と歴史の深い国なのか驚嘆する。

 そんな『三国志』であるが、書いたのは陳寿である。でも読み物としてはあまり面白くない。だが、後年に羅貫中らによって書かれた『三国志演義』という物語風の書物が世に出てきて、これが世間に広がったのである。したがって現在語られることの多い『三国志』は、この『三国志演義』が元になっていることが多い。

 さて、日本では『三国志』が何故、こんなに人気があるかというと、それは吉川英治の小説があるからであろう。吉川英治は昭和14年8月~18年9月にかけて朝日新聞へ『三国志』を連載していた。結局、その『三国志』に人気が出て、ロングセラーとして売れ続けているという。だから日本人の知る『三国志』というのは、吉川英治の書いた『三国志』が規範となっているのだろう。それほどインパクトの強い小説だったのかもしれないが・・・・・・。

 それでは吉川英治の書いた『三国志』のあらすじを簡単に紹介するとしよう。

 西暦184年、中国では政治が腐敗しきっていた。それでついに黄巾族による反乱が起こってしまった。その反乱を鎮圧するために劉備玄徳は同志の関羽、張飛と桃園にて義兄弟の契りを結び、鎮圧に乗り出すのだった。

 反乱は鎮圧したものの混乱に乗じて菫卓が権力をにぎり、恐怖政治を行う。すると魏の国で勢力を拡大していた曹操が反菫卓として立ち、そこへ劉備も加わる。菫卓は逃げ延びるが養子の呂布に殺され、時代は群雄割拠の時代へと突入する。

 こんな時代の権力者として、曹操が中国の天下統一に燃え進軍を開始する。劉備玄徳は天才軍師・諸葛亮孔明を迎え、呉の孫権と協力する。蜀呉連合の軍は、赤壁の戦いで曹操の軍を破る。これにより劉備は蜀を平定し、三国時代に入る。

 劉備は曹操に挑むが今度は、魏と呉が手を結び義兄弟の関羽が呉によって討ち死にする。呉に復讐しようとする劉備も病に倒れて、後を孔明に託し世を去る。しかし、曹操もまもなく病死。今や蜀のため戦う諸葛亮孔明であるが、魏には司馬仲達という名軍師がいて、戦いはなかなか終わろうとしない。終いには要の孔明までが五丈原で病に倒れ死去。その後、蜀は魏によって滅ぼされ、魏も司馬一族によって滅び、呉も晋によって滅ぼされる。

 以上が簡単な吉川英治の『三国志』であるが、主人公となるべき人物は劉備玄徳であり、途中からは諸葛亮孔明である。したがって蜀の人物から見た『三国志』の興亡ということになる。つまり曹操や孫権は飽くまでも敵であり、一般的に言って悪人扱いなのである。だから劉備玄徳しかり関羽しかり張飛しかりで、彼等は人情味のある人間として描かれていて、諸葛亮孔明にいたっては、超人的な部分が在り、この物語のスーパーマン的ヒーローであるといっても過言ではない。だから吉川英治が最も思い入れしたのが孔明であることは読んでいて一目瞭然で、孔明が亡くなった時点でこの話は終わっている。

 よく『三国志』は実話が7で、作者の創作が3と言われるが、吉川英治の場合は想像で書いた部分がかなり含まれていると思う。でも、この創作部分により登場人物に人格と表情を与え、表現することで話がより活性化し、だらだらと長大な叙事詩を、興味ある男のロマンが内包された物語に変貌しているのである。とにかく私がつべこべ御託を並べてもしょうがない。登場人物が多すぎるのと、同じ人物が二度死ぬなど、欠点はあることはあるが、読んでない人は一度読んでもらいたい。それが吉川英治の『三国志』である。
                                                      

 
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2008.02.07 (Thu)

活いか蟹づつみを食べる

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 昨日、黒豚のスモークレバーを紹介したが、今日は焼酎を飲むときに『活いかのかにづつみ』という物を食べた。イカの中に蟹のほぐし実を詰めた食べ物であるが、豚や牛の肉、内臓よりも、このような海産物の方が私は好きである。とにかく海の幸には眼がないのである。

 そういえば、私が初めて北海道の地に足を踏み入れたのは、昭和40年代の終わりごろだったが、その当時だと、まだ北海道に蒸気機関車が走っていた。それで私は大沼湖畔でテントを張って一晩を過ごしたが、夜中になると息が白くなり、ガタガタと震えながら寝ていたことを思い出す。確か7月の22、3日だったので、夏の盛りだったはずである。それなのに空気は乾燥しているし、夜中になると気温が一気に下がる。これは関西の夏とは異質のものだなあと感じたものである。結局、私は翌日から湖畔の浜にテントを張ることをやめて、それ以降は宿舎に泊まることにしたのであるが、10代の少年時代に旅をした北海道で、最も印象に残っていることが蟹やイカ、鮭、帆立貝といった海産物の新鮮さだった。とにかく何処で買って食べても、安くて美味なのである。このような物は、やはり産地に優るものなしで、イカなんか、醤油とわさびさえあれば、いらん調理なんか必要ない。とにかく絶品である。

 その時の印象があるからかしらないが、とにかく北海道の名産品に私は弱い。それで今回食べたのは、函館にある『味の海豊』という会社が加工して販売している『活いかかにづつみ』。真イカを加圧加熱して、ズワイガニを詰めたものである。そこへ醤油、砂糖、味醂、お酒、食塩、調味料で味付けをして真空パックにしたものである。要するにイカメシのような食べ物である。イカメシを初めて食べたときの衝撃ほどではないが、類似品としてはイカと蟹という贅沢な組み合わせかもしれない。そして、さっそく食べてみた。封を切って、スライスして加熱しないでもすぐに食べられるのである。

 焼酎を飲みながら食べてみたけれど、つまみとしてはいける。でもイカの味が前面に出ていて、蟹の方の味が薄いかなあと感じる。結局は醤油や味醂や食塩などで味付けをするから蟹の微妙な味加減が出来てないかなあという感じではある。仕方がないにしろ、それでも十分に焼酎のつまみになりえるから、また買ってしまいそうである。
                                                      
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2008.02.06 (Wed)

黒豚のスモークレバーを食べる

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 この前の日曜日、黒豚のスモークレバーを食べた。以前から良く食べているのだが、焼酎を飲むときに、よくつまみにする。その製品はナンチク(南九州畜産興業)という会社が作っているスモークレバーで、こりこりとした食感と何ともいえぬレバーの渋みと甘みが融合して、これが実に焼酎と合うので、時々、つまみに買ってくる。日本酒と合うかどうか判らないが、鹿児島の芋焼酎との相性は抜群である。白豚のレバーだとこんなに赤味が多いのか問われるところであるが、この鹿児島産黒豚のスモークレバーに関しては何度か食べている間に癖になるし嵌ってしまう。

 ところで、何故に鹿児島が黒豚の産地なのか知る筈もないが、江戸時代から飼育されていたという。聞く所によると鹿児島の黒豚は沖縄から江戸時代初期に入ってきたという。また沖縄の黒豚は1385年に中国から海路で渡って来たということなので源は中国か・・・・。

 鹿児島の黒豚は、明治以降に、肉質が優れている英国のバークシャー種との交配によって、改良を重ねて出来上がった品種で、肉が柔らかくて、水っぽくなくて、さっぱりしていて旨みがあるのが特徴だという。そんな良質の黒豚であるが、業者はさらに黒豚が美味しくなるように、大きくなるとサツマイモを粉末にして餌に混ぜて食べさせているらしい。これは一定量のサツマイモを与えると、肉のアミノ酸量が増え、甘みがでるとのことだ。そして、赤肉脂肪中に抗酸化作用のあるビタミンEが増加して旨み成分が増すという。

 そんな黒豚のレバーを原料にして、独自の製造法によりレバー独自の臭みを消して作ったのがナンチクのスモークレバーと言う事である。つまり燻製なのであるが、これが燻製にしては柔らかい。それで、このスモークレバーを食べながら焼酎を飲んでいたらやめられなくなり、何時の間にか焼酎も底をついていた。やはり私は焼酎だけだと量は飲めないなあ・・・・。だから何かつまみがないと飲む気がしない・・・・・。だから酒だけだと、さほどお金を使った意識が無くても、つまみも買わなくてはならないから懐具合が寂しくなる。だからこのところ、私はあまり飲みたくもない発泡酒ばかり飲んでいるのだが・・・・・。
                                
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2008.02.05 (Tue)

フランク・シナトラを聴く

 エンターティナーというのはフランク・シナトラのような人を言うのかもしれない。歌えて演じて人気もある。私が初めてフランク・シナトラを知ったのは大ヒット曲『夜のストレンジャー(Stranger in the Night)』を聴いてからである。1966年のことだと思うけど、ラジオでよく流れていた。当時はビートルズが来日した頃で、私が聴く曲といえば明けても暮れてもビートルズだった。そんな或る日、突然のように年輩の人の渋い声で

Stranger in the night
Exchanging glances
Wond'ring in the night
What were the chances
We'd be sharing love
Before the night was through~

 と言うように聴こえてきた。私は「この人誰?」と姉に聞いた。すると高校生の姉は「フランク・シナトラ」と答えた。この時がフランク・シナトラという人の名前を意識した最初の時であった。

 それからしばらくのことであった。今度はナンシー・シナトラという女性歌手が歌った『シュガータウンは恋の町』という曲を聴いて、私は似たような名前の人がいることを知った。そして、さらに1年後のことである。今度はフランク・シナトラがナンシー・シナトラとデュエットした『恋のひとこと(Something Stupid)』という曲がヒットしていた。また私は姉に聞いた。「ナンシー・シナトラって、フランク・シナトラと夫婦?」「違う、娘や」・・・・こうして親子でシンガーとして活躍していることを知った。でも、この頃は娘のナンシー・シナトラの方がヒットチャートを賑わしていたように思う。現にナンシーは、この1967年の夏、映画『007は二度死ぬ』の主題歌『You Only Live Twice』もヒットさせている。

 その頃、フランク・シナトラというのは、私自身、余り馴染みがなかった。だが、姉に言わせると戦前からアメリカで大変人気のあったシンガーで、映画も多数出ているし、映画『地上より永遠に』では、アカデミー賞助演男優賞を受賞しているという。つまり歌っても演技させても素晴らしいということで、エンターティナーとしてもずば抜けていることになる。それで私は、フランク・シナトラという人を再認識したのであるが、その数年後にフランク・シナトラのテーマソングと言ってもよい『マイ・ウェイ』をレコーディングする。これで私の中のフランク・シナトラ像が出来上がってしまったと言ってもよいだろう。

 フランク・シナトラは1915年、イタリア移民の子としてニューヨーク郊外で生まれ、23歳の1939年には初レコーディングしている。後に有名なトミー・ドーシー楽団で歌い、その後に独立。甘い声でバラードを歌い10代の女性を中心に、アイドル並みの人気を得て「ザ・ヴォイス」という称号を与えられた。戦後は一時期低迷したが、1950年代にはジャズ、バラードを歌い人気が復活。その後にサミー・デイヴィス・ジュニア、ディーン・マーティン、ピーター・ローフォード等とフランク・シナトラ一家を組んで、テレビや映画、ステージ等で大活躍したのである。フランク・シナトラはポップス歌手であるが、ジャズ歌手としても優れ、晩年はロックにも挑戦しようとビートルズ・ナンバーを歌っていた。

 その後のフランク・シナトラはよく知らないが、60代後半になって『ニューヨーク・ニューヨーク』を歌いヒットさせたのである。この曲は今やニューヨークのテーマソングとして定着し、ヤンキー・スタジアムでは、試合終了後に何時もシナトラの歌う『ニューヨーク・ニューヨーク』が流されるのである。そんなアメリカを代表するシンガー、フランク・シナトラも年老いて、1998年5月14日、心臓発作により亡くなった。82歳であったが、まさにアメリカの顔として、エンタティナーとして、長い間、君臨し続けたフランク・シナトラである。

 既にシナトラが逝って10年、現在、シナトラに匹敵するほどのエンタティナーはいないし、アメリカの音楽界も小粒になってしまった。それほどにシナトラの功績は大きかったのかもしれない。


 『夜のストレンジャー(Stranger in the Night)』を歌うシナトラ(動画はなし)


 娘のナンシー・シナトラと『恋のひとこと(Something Stupid)』を歌うシナトラ(動画はなし)


 『マイ・ウェイ』を歌うフランク・シナトラ。


 『ニューヨーク・ニューヨーク』を歌うシナトラ(動画はなし)。

                 
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2008.02.03 (Sun)

恵方巻き

 節分である。私が子供の頃、節分というのは豆まきをするのが慣わしであった。枡に入れた豆をまきながら「鬼は外、福は内」という。これは昔からある節分の習慣である。でも最近は全国的に恵方巻きなんて習慣が蔓延って来て、だんだんと豆まきがされなくなったという。考えてみると豆まきは散らかるし、豆を食べても腹は膨らまない、それなら太巻きの寿司を買って食べれば、夕食の替わりになるし一石二鳥というものだから、全国的に恵方巻きなんてものが流行りだす。これは主婦にとっては都合がいい。だから流行るのかもしれない。

 ところで、この恵方巻きなんて習慣が昔からあったなんて知らなかった。よく関西が発祥の地だといわれるが、私も関西の真ん中に長いこと住んでいる人間だ。でも社会に出るまで知らなかった。それで何処の習慣なのかと調べてみたら、大阪の船場の習慣だということが判った。

 聞く所によると江戸末期に船場の商人が商売繁盛の祈願をするために始めたとかいわれるが定かではない。また豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が、節分の前日に巻き寿司を食べて出陣し、勝利を収めたことに起源を発しているなんて説もあるが、これもはっきりしていない。つまり諸説あって何時頃、誰が始めたのか今となっては判らないという。

 ただ大阪の人に聞くと、子供の頃から恵方巻きという習慣を行っていた家と、そんなことがあるのも知らなかったという人に分かれる。だから大阪においても一般的な習慣ではなかったのだ。それが何時頃か判らないけれど、節分には太巻き寿司をまるかじりするのだとテレビなどで言いだした。少なくとも30年も前には、そのような習慣は広まってなかったと思う。どうせ誰か仕掛け人がいて、広めようとしたのだろうと思っていたが、1977年に大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った海苔の販売促進行事等から広まったという。

 やはりバレンタインデーのチョコレートと同じで、仕掛け人はその手の関係者と思っていたが、こうでもしないと海苔が売れないのだろうか。確かに私の子供の頃は、寿司というと海苔巻きが中心で、握り寿司など食べさせてもらえなかったから、今よりも海苔巻きの需要はあっただろう。でも最近は回転寿司の発達で安価な握り寿司が食べられるようになったので、子供達は贅沢が身につき、巻き寿司など目もくれなくなったのかもしれない。ただ、それでも節分に食べる海苔巻きも、なかなか普及せず京都でも知る人はほとんどいなかった。それが何時の間にか恵方巻きなんて呼び方があるのも知れ渡り、あっという間に全国的になったという。それもこの4、5年のことらしいのだが・・・。

 そのきっかけが広島のセブンイレブンで売り出した太巻きだという。大阪ではなく広島だというのも面白いが、節分になると太巻き寿司を売り出して、やがて徐々に地域を拡大し、今世紀に入って全国的に広まったと言う。ただ、大阪で子供の頃からその習慣に馴染んでいる人に聞くと、昔は恵方巻きなんて呼ばず、節分の巻き寿司という風に読んでいたという。それでもっと細くて、短い巻き寿司だったという。でも縁起かつぎの意味もあって急速に広まったものかもしれないが、このところはロールケーキを食べるなんておかしなことを言い出す輩が現れた。太巻き寿司とロールケーキに何の因果関係があるのだろうか・・・。ここまで来ると、単なる便乗としか言いようが無い。最も私は恵方巻きなんて、一度もやったことがないけども・・・・。
                                 
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2008.02.03 (Sun)

バッハを聴く・・・・・無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番


 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001~1006は、ソナタとパルティータの3曲ずつ計6曲からなり、何れもヴァイオリンの独奏の曲なのであるが、ソナタの方は緩急緩急の4楽章からなり、第2楽章にフーガをおいている。それに対してパルティータはアルマンド、クーランド、サラバンド、ジーグ、ルール、ガヴォット、メヌエット、ブーレといった舞曲を集めた形式のもので、これら6曲からなる無伴奏ヴァイオリンの曲は、大バッハことヨハン・セバスチャン・バッハ35歳の頃に作曲されたという。

 バッハが35歳の頃というと1720年であるから、ワイマールの宮廷オルガン奏者を辞職して、アンハルト・ケーテン公、レオポルト伯爵家の宮廷楽長となってから3年後のことになる。この時代に無伴奏ヴァイオリンのための6曲が作曲されているのであるが、この時期のバッハは最も脂が乗り切っている頃である。それというのもワイマール時代のように教会音楽やオルガン曲を作る義務がなくなったことで、就縛から解き放され、泉の如く湧き出る才能をあらゆる楽器のための作曲に注ぐことが自由に出来るようになったからであろう。だからこの時期、バッハのオルガン曲以外の重要な曲のほとんどが作曲されている。例えば『無伴奏チェロ組曲』『ブランデンブルグ協奏曲』『フランス組曲』『イギリス組曲』『管弦楽組曲』等、バッハの代表的な曲の多くは、このケーテン時代と言われる頃に作曲されている。そんな中で無伴奏ヴァイオリンのためのパルテイータは優れた楽曲である。3曲あるが最も有名なのが無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004だろう。

 全5楽章からなり、1楽章アルマンド、2楽章クーランド、3楽章サラバンド、4楽章ジーグ、5楽章シャコンヌという形式である。中でも5楽章のシャコンヌはバッハの数ある器楽曲の中でも傑作とされ、単独で演奏されることも多く管弦楽版、ピアノ版、ギター版というのもある。シャコンヌはスペインに昔からある3拍子の舞曲であるが、バッハはここで主題と30の変奏で構成させ、8小節単位で30の変奏を取り入れている。重厚な中にも華やかさのある崇高な楽曲である。私はシャコンヌを聴くと何時も体がシャキと引き締る気がする。やはりバッハは偉大成り、流石、音楽の父である。 

 『シャコンヌ』を弾くヤッシャ・ハイフェッツ

                                 
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2008.02.02 (Sat)

四天王寺に行く

 大阪に四天王寺という寺院があることをご存知だろうか。日本の仏教寺院としては奈良の飛鳥寺と並んで最も古いお寺である。でも知名度が無く、大阪の人以外ほとんど知られてない。建立した人はかの聖徳太子で、太子建立七大寺の一つであるが、実際に聖徳太子がかかわったのは四天王寺と斑鳩の法隆寺だけなのである。でも法隆寺は有名で溢れるほどの観光客が来るというのに、四天王寺は閑散としている。観光客は皆無で、宗派の参拝客が僅かに訪れるぐらい。何故、こんなに由緒ある寺なのに、観光客がいないかというと、四天王寺式という伽藍形式を持つ建築物も、全て鉄筋コンクリートで建てられたものであり、法隆寺のように1300年以上の建築物が残っているというものではなく誰も珍しがらないからである。でも日本書紀によると、593年の建立という。これが事実だとすると驚くべき古さを誇る寺ということになる。

 その当時、物部守屋と蘇我馬子との間で戦いがあって、崇仏派の蘇我馬子についた聖徳太子が、形勢の不利を逆転すべく「もしこの戦いに勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔を建てる」と誓願し、見事に蘇我氏は勝利し、593年に四天王寺が建立されたという。だが、四天王寺は大阪の中心部に近いところにある不運も手伝ってか、何度も災難に遭っている。大阪冬の陣、室戸台風、太平洋戦争と何度も伽藍は壊滅的な被害を受け、現在の主になる建築物(仁王門、五重塔、金堂、講堂)は、全て1957年から1963年にかけて建てられたもので、鉄筋コンクリートという味気ないものとなっている。だから観光客が訪れるはずも無いが、日本最古の仏教寺院ということは事実であるからして、それだけでも一度訪れる価値はあると思うのだが・・・・・。

仁王門の外から回廊に囲まれた五重塔を眺める。五重塔は鉄筋コンクリート造りで1959年に再建されたという。
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2008.02.01 (Fri)

今日は記事は無し

 ええ、今日は記事が無くなってしまいました。一応は中国産冷凍ギョーザに関しての記事を長々と書いたのですが、これからアップしようと思った矢先の事、自動的にパソコンのウイルススキャンが始まり、それにあわせてパソコンが重くなって、画面が一瞬消えてしまったのです。そして、再び、画面が現れると記事は消えてしまっていて・・・・・せっかく書いたのに残念。・・・・・だから、そのような訳で、本日の記事は無しということでご了承ください。そして、まだウイルススキャンは終わらないのです。

 ・・・時々、パソコンは暴走するから困ってしまうのです。

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