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2012.12.31 (Mon)

大晦日の晩にだるまを飲む

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 いよいよ年も押し詰まってきた。あと数時間で2013年である。今は紅白歌合戦なるものがNHKで放映されているだろうが小生このウン10年観たことがない。日本の商業音楽が嫌いと言うのではないが、今時のアイドルも知らないし興味もわかないから当然のように観る気が起こらない。小生はなにしろ小学生のころから洋楽一辺倒で聴いてきたから日本の流行歌及びJ-POPは皆目知らないのだ。でも60年代、70年代ごろまでは日本の流行歌も知ってはいたが、社会人に成ってからというもの以降はさっぱり判らない。最も洋楽の方も1980年代以降は怪しいが・・・・・・・。まあそんなことはどうでもいい。20歳以降はジャズやクラシックを聴く方が圧倒的に多くなったから自然とポップスから遠ざかっているという類いだ。したがってジャンルは関係なく聴いてきた方だ。でも昨今のリズム中心の音楽はどうも好きになれない。音楽の三要素とはメロディ、リズム、ハーモニーだろうが明らかに今時の音楽はメロディを軽視し過ぎている。だから興味を引くところまで行かない曲が多すぎるのである。ということで年の最後に愚痴が出てきたが、こんなことを書いたところでしょうがない。それで今は行く年を惜しみつつだるまを飲みながらモーリス・ジャールやミシェル・ルグラン、ヘンリー・マンシー二を聴いているのである。

 ところで小生がウイスキーを飲むなんて滅多にないことである。それもだるまである。だるまといっても判らない人のために説明するがサントリー・オールドのことである。瓶が黒くて丸い形なのでだるまという愛称がついているのである。そういえばサントリーのウイスキー群の中でも最も人気のあったウイスキーである。サントリーと言えばオールドと言う時代があった。戦後の日本の洋酒ブームにあって一時代を築いたウイスキーである。また戦後の高度成長期と言うのはスコッチ・ウイスキーが持て囃されジョニ黒やジョニ赤何て言うのがあって1ドル360円時代は高価であった。それがドル変動相場に成りスコッチも安価で手に入るようになっていき次第とスコッチの人気も下がっていった。それでもオールドは人気が下がらず和製ウイスキーの高級品と言うイメージを保ちつつ今日に至るのだが、流石に現在では他の酒に人気を奪われすっかり売り上げも落ちているし高級感がすっかりなくなっている。今はサントリーでも山崎や響といった高級酒が発売されていて、すっかりオールドの影が薄くなってしまった。それだけオールドの価値が下がってきたということだろう。それで確かにオールドの価格も昔より下がり気軽に手に入るようになった。でも小生はウイスキーを飲むと言ったら今まで角瓶を飲むことの方が多くより高級なオールド自体飲むことなどほとんどなかった。つまり安酒ばかり飲んできたのである。しかしながら何処か若い頃に憧れに近いものを感じていたオールドである。何れ給料が上がったらオールドをキープしてやるぞと思っていたが・・・・・・次第と小生はウイスキーを飲まなくなってしまった。時代はチューハイに代表されるように焼酎が酒場での主流となってしまった。それでオールドの存在も忘れていた。それが酒屋の店頭で久しぶりに見かけたオールド。何故か懐かしくなった。所謂オールドことだるま。黒くて丸い瓶を手に取るや買ってしまった。それで久しぶりにだるまを飲みつつ音楽を聴いているところであるが少し昔のだるまと比べると違うかなと言うものがある。これも時代に合わせつつあるのかな・・・・・。これもしょうがないか。とにかく今年も色々とありました。それではホロ酔いになりつつも皆様、よいお年を・・・・・・。
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2012.12.30 (Sun)

今年最後の雨?

 今日は朝から晩までやみ間のない雨。一日中しっかりと降っている。それもかなりはげっしい雨。冬の雨とは思えない強い降り方で一日中降っているし、未だにやまない。困ったことに外出ができなかった。せっかく正月休みに入ったと思ったら正月の準備が出来なかった。自転車でスーパーに買い物に行くつもりだったが、とても行けたものではない。降り方の問題だが、これだけしっかりと降るととても自転車に乗って行けたものではない。したがって買い物には行けず、家の中の掃除をしていた。

 それにしても今年を象徴するかのように年末の最後になっても雨に邪魔されるとは・・・。今年はなにかというと土曜日、日曜日、祝日に雨が降る日が多く悩まされたものであるが、とうとう12月の30日が一日雨に降られるとは想像もできなった。この12月、晴れていても寒い日が多く、それ以外だと雪か雨がほとんど降っている。最近では珍しい冬だ。毎年、暖冬で年内は暖かく用事も比較的に容易く済ませることができたのに、今年に関しては未だに正月準備が全く進んでない。まだ掃除するところも多く、もういいかなと思って半ば諦めているのだが、昔ほど正月だからと言って特別なこともやらなくなったし、普段通りで良いかといえば良いのだけど要は心の持ちようというところだろうか。年が改まるのだから、気分一新して洗い流したいというのもあるだろう。迎春というだけあって正月を迎えるのに、昔から大掃除、お節料理、いろいろと準備をして新年を迎えたものである。しかし、もう面倒くさいし正月準備も適当でいいかなと最近考えるようになってきた。それでサボりだすと何もしなくなってしまう自分がいる。どうせ毎日、仕事こき使われて疲れているのだし、家にいるときぐらいはのんびりとしたいのだが根っからの貧乏性で気ばっかり焦ってしまう。それで結局は中途半端に正月を何時も迎えてしまうのである。

 でも正月に入ると毎度のごとく、寝正月で何にもしないのが恒例になっているのだが、今年は正月を迎える前にすでにサボってしまっている。どうせ雨だしというのもあるが、明日晴れても自分自身、動かないような気がしている。まあいいか。それでは良いお年を・・・といいたいが、まだ明日もこのような調子で更新するかもしれない。
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2012.12.29 (Sat)

2012年、仕事が終わって

 師走も29日になってしまった。あと2日で新年ではないか。歯痒くもこの12月はほとんどブログの更新ができなかったな。とにかく忙しくて出勤日は全て残業だった。例年、12月は忙しいものだが今年ほど忙しいのも稀である。例年は11月の方が忙しくて12月になると落ち着いてくるのに、今年は忘年会も出来ないほどの忙しさ。まあ暇なところから見ると羨ましいかもしれないが、こちらは仕事量が増えるだけで給料には全く影響がない。忙しくなった分、余計に働いているのに給料は変わらない。残業代が僅かにプラスになっただけである。そしてやっと仕事から解放され、ようやく今になって落ち着いた。ただただ疲れただけである。

  安部復活首相はデフレを脱却して2%のインフレターゲットを設定して、無制限金融緩和を試みるようだが、インフレになれば経済が好転すると思っているのかな。それによってまた企業が潤うとも思っているのかな。暢気な人だ・・・・・・・。たとえインフレが進み企業が儲かるようになっても給料は上がらないことが目に見えている。給料が上がらず物価だけが上がると庶民はますます財布の紐を締めるだろう。そしてますます庶民の生活は苦しくなるし二極化が顕著になる。なのでお金があれば庶民は将来のために貯蓄をする。だから経済が好況にならば消費税をすぐにでも上げるつもりでいるようだが、そのようにはならないだろう。みんなますます物を買わないし消費の流れも滞るというものだ。したがって安部首相の無制限緩和政策も失敗に終わりそう。そしてまた短期生命の首相になりそうだ。何しろ拙者、この10数年間必死に働いてきて給料が上がったためしがない。酷いものだ。もう会社なんて組織には何の期待もしていないが、せめて給料が上がらないのなら仕事は楽な方がいい。もう企業のいいなりになって会社を儲けさせても、こちらには何のおこぼれもないし一つも裕福にならない。ただただ生活費が嵩みだんだんと余裕がなくなってくる。こういった庶民感覚が歴代の首相には判らないというよりも世間とは微妙にずれている。だから経済で失敗するのだろうな。今後、日本は金持ちと貧乏人に二極化し将来は貧富の差がどんどんと激しくなっていく。いずれ暴動が起きるのでは・・・・・・。もう拙者は先が長くないからいいけど、日本の未来はまさに暗夜行路だな・・・・・。

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2012.12.24 (Mon)

ドヴォルザーク 交響曲第8番を聴く

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 ドヴォルザークにはベートーヴェンと同様に9曲の交響曲があるが、最後の第9番こと新世界が圧倒的に有名で、その次に演奏されることが多いのがこの8番である。ただしこの8番も昔は第4番といわれていて新世界は第5番といわれていた。最初の4曲は作曲者の生前には出版されず、出版された5曲の交響曲のうちの最後のものが第5番『新世界より』、その前の曲が第4番というわけであった。しかし、その前の3曲も出版社が勝手に番号を変えてつけていたので混乱を招いたこともあったのである。出版された交響曲と作曲された順番とは必ずしも一致してなかったので、昔は初期の交響曲の番号表記がいい加減であったのである。それでこの40年位前になってやっと正しい順序で呼ばれるようになったということである。そういえば、まだLP時代には交響曲第5番『新世界より』と表記されたジャケットを見かけたことがある。私が小学生の頃の話なので随分と前のことであるが。

 ドヴォルザークは第1番の交響曲を24歳で作曲しているが、同じ年に2番も作曲しているのだ。つまり19世紀後半の数少ない交響曲作曲家として名を残すようになる方向性を若い時に示しているのである。ドヴォルザークと同じチェコ出身の作曲家スメタナが最初はピアニストとして名声を高め、初期にピアノ曲を多く書き後年に管弦楽曲に手を伸ばしていったのとは違い、ドヴォルザークは初期から器楽曲ではなく室内楽や交響曲等の合奏音楽を主に書いている。こういったところがドヴォルザークらしいといえばそれまでだが、それは彼の生い立ちが関係している。一般的に作曲家と言うのは幼い頃からピアノを弾いているのが当たり前であった。それがドヴォルザークは貧しい家庭で生まれたので、少年に成ってもピアノの手ほどきを受けたことがなく、父からヴァイオリンを教わって音楽に慣れ親しんだということである。こうしてドヴォルザークは村の楽団で合奏するようになり、自然と室内楽や管弦楽の響きが身についたのであろう。その後、彼は16歳でプラハのオルガン学校で学ぶようになるが、この2年間だけ正式な音楽専門教育を受けたということで、あとは楽団員の暮らしの中で経験をつみ、独学で作曲の知識を獲得したのだろう。だから数多い作曲家の中でもドヴォルザークは異色の存在と言えるかもしれない。

 ドヴォルザークは21歳の時にコムザーク楽団が仮劇場付の管弦楽団に吸収されたとき。ビオラ奏者として入団している。そしてビオラを弾きながら合間に交響曲第1番と第2番を既に作曲しているのである。とはいうものの名のない一介のビオラ奏者が交響曲の作曲をしたからといって楽譜が出版されるわけでもない。それでもドヴォルザークは仕事の合間に作曲を続けるのである。紆余曲折ある中でようやく作曲家として認められ出したのが1873年だという。既にドヴォルザークは32歳、この年に交響曲第3番を作曲している。

 さて、この第8番ト長調の交響曲であるが、通称ドボハチという。1889年に作曲されていて第9番の新世界交響曲が作曲されるのが1893年であるから、遡ること4年。新世界がアメリカに渡ってから書かれたのに対し、8番はチェコにいた当時に書かれているので民族的な色彩が強い交響曲である。前作の第7番がロンドン・フィルハーモーニー協会の名誉会員に推されて、その要望にこたえて作曲されたのと違い、チェコのヴィソカーの村に自分の別荘を作って安らいだ気持ちに落ち着いた頃に作曲されたので、第8番は民族的であり、且つ全体的に牧歌的な雰囲気が漂っているのである。純粋にボヘミアも作曲家であるドヴォルザークそのものといってもいいだろう。旋律も和性もリズムも楽器もボヘミア色が強い。プラハに近いネラホゼヴェスという小さな村に生まれたドヴォルザークは、早くからワーグナーの音楽に魅せられ、生涯にわたってワグネリアン的な志向であったといわれる。しかしながらドヴォルザークの音楽は絶対音楽に近いものであり、交響曲や協奏曲、室内楽等の作品の中に民族的な話法と意識を表すべく努力を重ねた。そんな中でこの頃、ドヴォルザークの作品に少なからず影響を与えたのはワーグナーとは全く逆のブラームスの交響曲であったとされる。ドヴォルザークが交響曲第6番から、この8番の交響曲まではブラームスの第2番以降の3曲の交響曲に対応する形で生みだされている。即ち第8番はブラームスの第4番の交響曲の4年後に作曲されている。終曲が変奏の手法によっていることや、調性が平行調であることなどを含めブラームスとの関連は明確である。しかし、それでいて作風は前2作よりも自由で独創的なものがあり、スラヴ民族特有の色彩感が豊かに見られボヘミアの美しい自然と民族の素朴なメロディで自然交響曲と呼ばれたりもしている。


 カラヤン ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 ドヴォルザーク 交響曲第8番の演奏

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2012.12.23 (Sun)

第57回有馬記念

 三連休の真ん中。昨日の土曜日はまた朝から雨が残っていたが、今日は晴れ間ものぞいて久しぶりに暖かい日であった。それで今年の中央競馬もいよいよ締めくくりの有馬記念(G-Ⅰ・3歳以上、芝2500m、16頭)が中山競馬場で行われた。今年はジャパンCで死闘を繰り広げたジェンティルドンナとオルフェーヴルの2頭が共に有馬記念を回避したので、やや混戦ムードになったが、そんな中でも皐月賞、菊花賞を制した芦毛馬ゴールドシップが1番人気におされ2番人気が善戦続きのルーラーシップ、3番人気が秋の天皇賞で復活したエイシンフラシュ、4番人気が関東期待のダークシャドウ、5番人気が中山コースを得意とするナカヤマナイトという人気順になった。

 そして、いよいよスタートのゲートが開いたのだが、またまた出遅れ癖のあるルーラーシップが出遅れた。それも大きく出遅れた。5馬身以上は損をしただろう。またゴールドシップも発馬が悪く2馬身立ち遅れ。よりによって1番人気、2番人気の両馬がこの大一番で出遅れてしまった。波乱の予感が・・・・・・。その間にアーネストリーとビートブラックという同じ服色の馬2頭が前に行く。コーナーワークでアーネストリーが先頭、2番手にビートブラック、3番手にローズキングダム、その外に新鋭ルルーシェ、5番手にダイワファルコン、そのあとにスカイディグニティ、外からトゥザグローリー、その内にダークシャドウ、さらにトレイルブレイザー、インコースをついてエイシンフラッシュ、そしてオーシャンブルー、2、3馬身あいてナカヤマナイト、さらに4、5馬身あいてオウケンブルースリとネヴァブション、そのあとにゴールドシップ、ルーラーシップ。人気の2頭が最後方を行くという展開で正面スタンドン前を通過して1、2コーナーを回ってバックストレートに入る。ハロンタイムは7.0---11.3---11.6---12.0---12.2と平均ペースだが、この直後に12.7---12.6とペースがダウンする。そして馬群がやや固まってくる。さあ早くも3コーナーにかかろうというところだが、800のハロン棒を通過したあたり、いったんシンガリまで下がっていたゴールドシップが馬群の外側を通って上がって行く。3コーナーから4コーナー、先頭はアーネストリー、2番手にビートブラック、やや横に広がってこれから直線に入ろうというところ。ゴールドシップは1番外を通った。まだ7番手ぐらい。先頭はアーネストリーとビートブラックだが、その間をついてエイシンフラッシュが抜け出した。その外からオーシャンブルーも伸びてきた。あと200m、先頭はエイシンフラッシュ、エイシンフラッシュ、オーシャンブルーも来た。オーシャンブルーも来た。あと100m、エイシンフラッシュかオーシャンブルーか、オーシャンブルーが出た。オーシャンブルーが出た。外からゴールドシップ、ゴールドシップ一気に来た。さらに大外を通ってルーラーシップも突っ込んできた。ここでゴールドシップが先頭、ゴールドシップが先頭。出た出た、2馬身ほど抜けた。ゴールドシップ先頭。2番手はオーシャンブルーかルーラーシップか、ゴールドシップ先頭でゴールイン。

 1着ゴールドシップ 2分31秒9、2着オーシャンブルー 1馬身1/2、3着ルーラーシップ クビ、4着エイシンフラッシュ 1馬身1/2、5着スカイディグニティ 1/2馬身。

 最後方待機からかなり強引なレース運びでゴールドシップが圧勝した。昨年のオルフェーヴルを彷彿とさせる競馬ぶりだった。もしオルフェーヴルが絶好調で出ていたとしても勝てていたかどうか判らないようなゴールドシップの勝ちっぷりだった。これで来年のゴールドシップが楽しみになってきた。またオルフェーヴルも引退をせず来年も現役を続行させるというし、ジェンティルドンナもいるし、来年の競馬が面白くなってきた。それにしてもゴールドシップといい、オーシャンブルーといい父は共にステイゴールドである。オルフェーヴルもそうだが、ステイゴールドは良い産駒を出すものだ。もっともオルフェーヴルは栗毛でゴールドシップは芦毛と見た目からして全く違うが、これは両馬とも同じ配合なのにゴールドシップは母の芦毛が遺伝したものである。これは母の父のメジロマックイーンからくるものであり、オルフェーヴルは同じように母の父がメジロマックイーンなのに母に芦毛が遺伝しなかったようである。これからはステイゴールドの産駒から目を離せなくなってきた。当然、ディープインパクトの産駒も同様だが。
EDIT  |  17:23  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2012.12.16 (Sun)

2012年衆議院総選挙

 今日は衆議院の総選挙の投票日。流石に街宣カーが出現せず静かだったが、その代わりに朝から電話と来客が多くてどうしようもなかった。来客といってもこちらにとってはどうでもいい客なので、招かれざる客である。来客とは何れも選挙関係。電話もそうである。電話が鳴るのでとってみると「○○党をよろしく」だkら鬱陶しいことこの上ない。来客も同様である。近所に○○党を熱心に支援している人がいるのだろうか。選挙になると度々我が家を訪ねてくる。若いころなら喧嘩になっているだろうが、最近はこちらも丸くなったので「はい、判りました」と言って追い返すことにしている。つまりこちらも無駄に話などして時間をつぶしたくないからだ。それにしてもせっかくの日曜日だというのに静かにしてもらいたいものだ。

 先週は家を出て最寄り駅に行くまでにビラ配りをしている者が何組かいいるし、滋賀県の職場の最寄り駅でも同様で、こちらは街宣カーで喧しく演説しておられる。ほとんどは他党の批判か候補者の応援演説であるが、喋っている内容は何処も大差はない。今回は既存政党を含め何と12党も乱立しての選挙だというが、これというのも乱世の時代だからか?

 各党の公約なんて似たようなものだろうが、まずこれらは果たせないだろうな。3年前に政権を担うようになったが、全く機能せず今やガタガタの民主党。2030年に原発稼働ゼロ。消費税を社会保障財源に。議員定数を衆院75減、参院40減だと主張しているが、まず実現は出来ないだろう。今回政権を奪い返すであろうと言われている自民党は、原発再稼働の可否は3年以内に結論。デフレ・円高対策で大胆な金融緩和。事前防災を重視した国土強靭化だとさ。これも3年後になれば覆っているかもしれない。

 おそらく与党になるであろうと予想できる2党の主張を見てみても、あまり新鮮味はない。もっとも第三極と言われている中でも注目されている日本維新の会であるが、そもそも橋下徹と石原慎太郎が手を結んで上手くいくのかどうか・・・。原発の問題でも橋下は原発廃止で石原は存続だったのに、それが合体するとフェードアウトだというから意味がわからない。原発がだんだんと消えていくという意味か・・・・・。何れ内部分裂してしまうのでは?

 何れにしても妙味はないが、とにかくどこかが政権を握ってまつりごとを捌いていかなくてはならない。財政が火の車の日本丸。外交も下手で断崖絶壁に追い込まれている。経済もガタガタ。教育改革も必要に迫られている。さらに社会保障制度も綱渡り状態・・・・。もう何かにつけお先真っ暗なのだ。こんな国に誰がしたのだ。もう後には引けないところまで来ている。派閥争いやくだらない論争ばかりしていないで、もう本気で将来を構築していく方法論を見つけ出さないと本当に日本は沈没してしまうのではないだろうか。あと30年、いや50年、今よりも酷い国になっているのでは・・・・・と危惧するのも辛いものがある。あまりぼやいてもしょうがないが、取り敢えず出来ることといえば、国会・政府のスリム化から手始めにして歳費を出来る限り抑えてもらいたいということである。
EDIT  |  20:17  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2012.12.15 (Sat)

師走もあと半月

  もう師走も真ん中にさしかかってしまったな。それにしても今週は寒かった。もう真冬並みの寒さが続いて、すっかり喉がやられてしまった。朝なんか気温が連日の氷点下で空気も乾燥しているから、すっかり喉をやれれてしまったようだ。そのせいで喉はガラガラとして気持ちが悪いし飲み込む唾も痛い。本来から鼻が悪いから喉に痰が落ちたりするので喉は日頃から荒れ気味なのだが、このところの強烈な寒波で余計に喉が荒れてしまったようだ。それで今朝から耳鼻科医院に行って何時もの薬+点鼻薬を貰って来た。これはアレルギー用の薬らしいが、これで喉の荒れが治まるのかな・・・・・・。医者が処方してくれたのだから治るとは思うが、今年の寒さはちょっと堪えるな。例年の12月といえばこのところ毎年のように暖冬暖冬といっていたのに、一体どうなってしまったのだ。それで今日は比較的に暖かい。それも昨夜半からの雨が今日になってからあがってしまい、そのあとに暖かくなった。何時もと逆のパターンだな。何時もなら雨が上がると冷え込むというのに今回は反対だ。まあ暖かくて助かるが・・・・・。

 今週は寒いと書いたが仕事の方は忙しく11月以上の仕事量である。それでお目出度いことに毎日残業がある。したがいまして当ブログは全く更新できない状態であった。仕事があるとどうしても帰宅が遅くなるから時間的な余裕が皆目ない。それで週末にこうして更新している有様なのであるが、土曜日になると決まって雨だから、行動範囲も狭まってしまいどうしても面白い記事が書けない。傘をさすとどうしても行けるとところは限られてくるので今年の秋以降は大した記事もかけてないが、天気の悪さばかりはどうしようもない。もう紅葉どころか葉が散ってしまったし、冬が例年よりも早く来てしまったし秋があまりにも短かった。小生なんかは仕事上、どうしても平日の晴れた日に休みを取って行楽地に出かけられる状況ではないから、日曜日か休める土曜日ぐらいしか行ける日がない。それが今年に至っては休める日に限って雨だから、とうとう今秋はどこにも行けなかった。また紅葉というのは当たりの年とハズレの年があるので、毎年のように綺麗な紅葉が見れるとは限らないからな。こればかりは運まかせとしかいいようがない。

 もう正月まで半月、今年も無事に終わりそうで何より。もうぼやいてもしょうがないから、来年に期待するとして、残りの2012年も平平凡凡と平穏無事に過ごすことにするか・・・・。ということで、あまり書くこともないので、失礼するとしよう。
 
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2012.12.09 (Sun)

ジョン・レノンの過去のアルバムを聴きながら・・・・・

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 昨日の12月8日はジョン・レノンの命日である。というよりも仏教の年忌法要でいうところの33回忌(没後32年目)である。もっともジョン・レノンはイギリス人なので関係がないが、妻が日本人の小野洋子であったことから記事にしてみようと思い立ったまでである。

 今から32年前の12月8日、ニューヨークのダコタ・ハウス。このダコタ・ハウスには当時ジョン・レノンの自宅があった。この日の午前、ジョン・レノンは雑誌に掲載する写真の撮影に臨み、夕方からは小野洋子の新曲のミックスダウン作業のためレコーディング・スタジオに出かけていた。そして、夜の10時50分、ジョンとヨーコを乗せた車がダコタ・ハウスの前に到着。2人が車から降り立ちすくんだ時、その場にいたマーク・チャップマンという若い男がレノンを呼び止め、持っていた拳銃をジョン・レノンに向けて5発発射。そのうち3、4発がジョン・レノンに命中。数歩進んで倒れる。直ちに警備員は警察署に電話。セントラルパーク署から警官がすぐに到着。ジョン・レノンをパトカーに乗せ近くの病院に搬送。一方、撃った犯人は謎の行動をとっていた。現場から逃げず、手にしていたアルバム『ダブル・ファンタジー』を放り出し、サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたりその場を徘徊したりしていた。マーク・チャップマンは逮捕されても抵抗しなかったという。現在も刑務所で服役中のマーク・チャップマンは元整備工で銃撃の3ヶ月前に『サージェント・ペパーズ』のアルバム・ジャケットでジョンを見て計画をたてたと話している。「彼の顔を見て混乱して自分が誰でもないと感じる私の疑問が解決できるという感覚が同時に心に浮かんだ。それでこう言った『もし、彼を殺せば大したものじゃないか。有名になるし誰でもない人間でなく大物になれるぞ』それがその当時の私の論法だった」「私はその時、ジョンを感知し彼を誠実でないと間違った判断をした。彼は豪華な建物に住み愛とか他のことについてずっと歌っていた。私はこれに腹が立ったんだ」と言い、殺したことに対しては恥じていて後悔しているとアッティカ刑務所において最近は話している。何れにせよマーク・チャップマンが事件当初に言われていたジョン・レノンの熱狂的ファンではなくストーカーをしていたのでもない。ただの狂った男が拳銃を乱射しただけだったのだ。しかしチャップマンが起こした過ちは余りにも大きかったということであり、それ以外の何ものでもなかった。

 ところでジョン・レノンの死後32年にあたり思うことであるがビートルズって一体何だ? 今更、問うことでもないが色々なメディアで語られるところによると、ポピュラー音楽の概念を変えたグループ。ロック・グループ、アイドルというジャンルを超越したミュージシャン。20世紀後半のポップス界におけるスーパーグループ・・・・・・・・。そのような解説がなされている。それまで作曲家、作詞家、歌手という分業制が当たり前だった商業音楽の世界をビートルズが出現したことにより、大きく変わっていったことは否めない。自ら曲を作りみずから演奏する。さらには、それまでポップスであまり使わなかった楽器であるヴァイオリンやチェロ、電子音楽、管弦楽を使用。アルバム制作に至ってもだだ曲を集めただけの物から脱皮しコンセプトアルバムのようなものを次から次へ発表して、その後に続くミュージシャンの音楽づくりの模範となった。さらに付け加えるならばファッションからライフスタイル及び言動まで当時の若者に影響を与え続けた。当初はアメリカのロックンロールを踏襲したかのようなビートポップス・グループでしかなったが、やがて4人の個性が突出し始め、ビートルズの音色のようなものが出来上がっていった。それがカリスマ性を発揮し出し、アイドル・グループからミュージシャン、やがてアーティストの域まで階段を駆け上るかのように疾走し、あっという間に消えていったグループがビートルズである。解散から42年経った今でもビートルズの楽曲は売れ続け新たなファンを獲得している。こんな現象はあまり聞かない。ビング・クロスビー、フランク・シナトラは古すぎて比較の対象にさえならないが、エルヴィゥ・プレスリー、バディ・ホリー、チャック・ベリーの楽曲がヒットチャートに登場することはないし、ローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズ、ボブ・ディラン、レッド・ツェッペリンでさえビートルズと比較するとマニアックなアーティストにすぎないだろう。その昔、ヘビーなサウンドでビートルズのライバルと言われていたデイヴ・クラーク・ファイブというグループがいた。だが曲調が弾みっぱなしで抑揚がなく単調すぎて飽きられていった。それがビートルズは飽きられずに絶えず変化し続けた。結果として僅か実働8年間で解散してしまったのであるが、その中身は余りにも濃いと言わざるを得ない。

さて、そのビートルズの中心的人物であったのがジョン・レノンである。ジョンはビートルズ解散後は妻であるオノ・ヨーコと行動を共にした。何かとジョン・レノンのアルバムに顔を出す。いや既にビートルズのアルバム『Let It Be』のレコーディング中のスタディオには常にオノ・ヨーコの姿があった。このオノ・ヨーコこそがビートルズの解散の要因の一つだと言う人もいた。そうなんだろうか・・・・・・よく判らないが、既にビートルズはその数年前から各自が単独で動き出していた。ただポール・マッカートニーとジョン・レノンとの間にはオノ・ヨーコが出現しようがしまいが何れ隙間風が起こり、それぞれの道を歩むであろうと言うような予測もなりたっていたし、ポールにはリンダが既にいた。彼等はもう夢を追い続け、ロックンロールを歌ってキャーキャーと騒がれ続けるアイドルでも既になかった。それぞれの進むべき道が待っていたとしか言いようがないだろう。

ジョン・レノンがソロに成り、発売したアルバムが今、手元にある。『ジョンの魂』『イマジン』『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックン・ロール』『ダブル・ファンタジー』『ミルク・アンド・ハニー』・・・これらのアルバムに収録されているいくつかの楽曲『マザー』『ゴッド』『ラヴ』『イマジン』『インスタント・カーマ』『パワー・トゥ・ザ・ピープル』『女は世界の奴隷か』『真夜中を突っ走れ』『マインド・ゲームス』『夢の夢/♯9』『ハッピー・クリスマス』『スターティング・オーヴァー』『ウーマン』・・・こうした曲を聴くにつれオノ・ヨーコの影響が少なからずあるという感想を持つに至るのである。ビートルズの終焉が噂されていた頃、ジョン・レノンは結局ビートルズを捨ててオノ・ヨーコを選択したのだ。そして、そのヨーコの影響が少なくともソロになってからの楽曲の変化として主に歌詞に見られるかもしれない。ジョン・レノンはオノ・ヨーコと共にこのあたりから急進的に政治運動に傾斜していく。本来から前衛芸術家であり、活動家でもあったオノ・ヨーコがジョン・レノンとの結婚後はジョン・レノンを伴って反戦文化人として抗議やデモに参加、暴動の被害者救済コンサートを行ったりしてオノ・ヨーコがジョン・レノンに与えたものは少なくないのだ。ジョン・レノンはかつてオノ・ヨーコのことを「世界で最も有名な無名アーティスト。誰もが彼女の名をを知っているが誰も彼女のしていることを知らない」と語るほどオノ・ヨーコの芸術性を高く評価しているのである。こうして時代が進みビートルズは60年代で消滅しジョン・レノンも70年代で消滅するのであるが、私の心の中には未だにジョン・レノンは生き続けている。それと言うのも死や消滅という常套句で片づけられる程度のレベルの範疇にビートルズやジョン・レノンを入れてほしくないと思うからでもあるが、未だにビートルズは何処かしこに居ても楽曲は流れているし、ジョン・レノンの精神を受け継いだアーティストが死後何10年を経てもジョン・レノンの曲をカバーするなりして歌い続けてくれるからである。そして、世界のどこかで今でも『抱きしめたい』『ヘルプ』『イン・マイ・ライフ』『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』『平和を我等に』『イマジン』『ハッピー・クリスマス』・・・歌い続けられているのである。

"Jealous Guy"を歌うJohn Lennon


"Instant Karma"歌うJohn Lennon


"Woman"の映像
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2012.12.07 (Fri)

早くも真冬並みの寒波が・・・

 このところ強烈に寒い日が続いていて12月の初旬とは思えない。当初、今季の冬はエルニーニョ現象が出ているので冬は例年と同じく暖冬だという長期予報だったのが、大幅に修正され今季は寒い冬だという。なぜかというエルニーニョ現象が何時のまにか消滅し、今季の冬は寒いという長期予報に変更になった。残念ながらこれが今のところ当たっている。今日なんか朝から氷点下だし日中も8℃しかない。それでも今日は快晴だったので日射しがあって風もほとんど吹いてなったからまだましだったのだが、昨日は強風が吹いていて体感温度からいっても堪える冷え方だった。この気温だと湖国は当然のように雪が降るのだが、職場のあるところは降らなかったので幾分かは助かる。でも風は強烈であった。湖国は建築物がまばらなので遮ることも出来ず吹き付ける風はまともに吹いて来る。これが本当に堪える。

 もっとも今年は最近にしては珍しく11月から低温傾向が続いていて、それが師走に入りより一層顕著になってきた。例年ならこの季節まだまだ暖かいものだが、今年は低温傾向でちょっと参ったな。小生は歳をとるごとに乾燥肌になってきているので、手や足がガサガサ。足の踵は罅割れして痛くて痛くてしょうがないが、さらに足の裏までひび割れが出来ているではないか。こうなると歩いていても痛いのでどうにもならない。これだけ空気が乾燥して低温が続くと手も足も荒れてくるので、ケアを怠るとたちまちひび割れだらけになってしまう。まことに困った者だ。ところで12月に入って仕事がさらに忙しくなっている。毎日、残業だし、この寒い時期、真っ暗な夜道をトボトボと寒風に吹きさらされて疲れた足で歩いて帰るという惨めさ。それに田舎道なので灯りが乏しく、歩いている人の数も少なく吹き付ける風の音が聞こえてくる。あーあ、暖冬の筈だったのに突然の寒波に心も懐も寒い。今からこの調子だと、ころから真冬に向かうのに・・・・・・・・。いったい1月から2月にかけてどうなることやら。小生が子供のころの寒い冬を彷彿とさせるが、子供のころと違ってこの歳になると寒さが堪えるようになった。小生は暑いのは嫌いだが、寒いのは嫌いではなったのだが、歳をとってくると寒いのも辛くなってきた。それというのも秋が短かったので余計に感じるのかもしれないが。
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2012.12.02 (Sun)

北斎展に行く

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 今現在、天王寺公園内の大阪市立美術館で開催中の特別展『北斎』---風景・美人・奇想---に行ってきた。葛飾北斎というと今や世界的に著名な浮世絵師であるといってもいいだろう。フランスの後期印象派に多大な影響を与えただけでなくアメリカの権威ある雑誌『ライフ』において、この1000年間で最も重要な功績を残した世界の人物100人の中に日本人でたった1人選出されたのである。そんな葛飾北斎の大規模な展覧会。一般的に知られている北斎と言うと『富嶽三十六景』の浮世絵師。ところが今回はそれ以外にも、肉筆画や読本挿絵、北斎漫画、戯画、狂歌絵本・・・・・それこそ全国に散らばっている北斎の手による絵が一堂に会して集まった感がある。今まで海外の油彩画ばかりの展覧会ばかりを見てきたが、時には趣向を変えて我々の土壌で育った美術と言うものを振り返ってみるのも面白い。

 葛飾北斎は1760年に生まれた江戸末期の浮世絵師であるが、少し年齢的に後になる広重と共に風景画で海外に知れ渡っている。その最たるものが言わずと知れた『富嶽三十六景』なのであるが、『凱風快晴』といタイトルの赤富士。ドビュッシーが此の絵から発想を得て交響詩『海』を作曲したと言われる『神奈川沖浪裏』がことさら有名である。それで今回、この北斎の展覧会には『富嶽三十六景』全てが集められて展示されているのだが、残念なことに余りに展示品が多くて、毎週のように展示されるものが代わるという大規模な北斎展なのである。だから全てを見たいと思うならば、毎週行かなければならなのだが、小生それほど暇人ではないので今回の一回しか行けなかった。それで展示されていたものが、他に『東海道五十三次』から18点、江戸八景、近江八景、諸国の名称を描いた風景画、戯画、藻魚・鳥獣、歌仙と武者、美人画、妖怪百物語の図、洋風風景版画、詩歌に詠まれた風景・・・・それと今回の展示において北斎との大坂との関係について展示してあった。北斎は生涯に二度大坂を訪れている。最初は1812年(文化9年)というから52歳の時である。この年の秋に名古屋の牧墨僊邸に逗留したついでに大坂、和泉、紀州、伊勢と回っている。さらに5年後の1817年(文化14年)年末、再び大坂、伊勢、紀州、奈良吉野を訪れてりうのであるが、その滞在時において数多くの傑作を残している。風景画としては大坂に立ち寄る前に京都の嵐山渡月橋を描いた浮世絵に、大坂の淀川にかかる天満橋、安治川河口の天保山があるが、曲亭馬琴の作『三七全伝南柯夢』への挿絵を始め読本へ膨大な絵を残している。また北斎は大坂で弟子をとり、その多くが絵を残している。代表的な絵師としては春好斎北洲、春陽斎北敬、葛飾北洋、春梅斎北英、柳川重信、岳亭春信、柳斎重春などがいて弟子の手による絵の展示も行われていた。

 ところで北斎の『富嶽三十六景』は何時頃、描かれたものかご存じだろうか。実は1820年(文政3年)以降のことなのである。つまり北斎が60歳と言ういう円熟期に入ってから『富嶽三十六景』を手掛けているのである。それから13年かけて『富嶽三十六景』を完成。その後に『富嶽百景』に手を染めていることを考えれば老いてますます活発に筆を進めていたということである。結局、北斎は何度も名を変え90歳で世を去るまで幾多の作品を残し死後160年経っても名声が衰えるどころか、その後どんどんと世界に広まっているのである。

 さて、今回の北斎展であるが、これだけ多岐に及んだ北斎の絵を見るにつけ、『富嶽三十六景』が特出して有名であるが、ただそれだけを描いていた絵師でないことは一目瞭然であるが、スケッチ描きのようなものを墨で描いていて、これらの多くが細密な手法で描かれている。おそらく西洋の写実画が参考になったのではないかとも思える。日本の浮世絵が誇張した形で平面的に描ききり、対局にあったヨーロッパの絵画に影響を与えたことは我々の知るところであるが、逆に西洋の絵画に興味を持ち手法を取り入れようとしてたとしたら意外な北斎の一面を見たような気がする。それだけ絵の探求を死ぬまで続けていたことになるだろう。さらに今回、北斎展に行って思ったこと。外国人が多数来ていたということ。アジア人でなく明らかに西洋人。丹念に1枚、1枚、小さな浮世絵に顔を近づけ凝視していたことはいうまでもない。近づいて彼らがどんな言葉を発するか興味があったので聞いてみたら・・・FantasticだとかGreatestだとか月並みなことしか言ってなかった。これには期待外れだったが・・・・・。
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