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2015.02.28 (Sat)

仰げば尊し

 もう卒業シーズンのようで卒業証書や花束や卒業アルバム等が入った紙袋を持った高校生を電車で最近よく見かける。大方は3月だろうが私立の高校では2月に卒業するところが多い。早いところでは1月に卒業式を行う学校もある。小生はもう40年程前に学校を出たので遥か昔のことになってしまったが、やはりあの光景は今見てもいいものだ。後輩が見送り先輩が巣立っていく。そこには人それぞれの思いがこもっていて涙ぐむ者もいる。もうそういった状況から程遠い年齢になってしまったので、若い生徒や学生さんを見かけるたびに清々しく感じる。
 ところで、その卒業式で歌う歌であるが、最近は『仰げば尊し』をほとんど歌わないらしい。いや最近どころか既に20年前には歌われることが少なくなったとか。いや今でも日本のどこかで歌われているかもしれないが、ほぼ忘れられた卒業ソングになりつつあるようだ。それなら今は何を歌うのかと思ったら『旅立ちの日に』が定番だそうだ。この曲は20年以上前に埼玉県秩父市の中学校で作られ、その学校で歌われていた曲なのだが、そこから全国に広まっていったと聞いている。それ以外だとレミオロメンの『3月9日』を歌ったり、森山直太朗の『さくら』を歌ったり、各学校で歌う歌が違うようだ。
 何故に『仰げば尊し』が歌われなくなったのかという疑問が残るが、どうも歌詞が文語体で古すぎて意味が判りにくく今の時代に合わないということなのか。それと2番の歌詞~身を立て 名をあげ やよ励めよ~といった内容が立身出世を促がす歌詞で、卒業生の誰もが立身出世するものではなく、大方の者は平凡に生きていく。民主主義から逸脱するとか教育現場でいわれだし次第と卒業式の時に歌われなくなったようだ。
 でも聴いているとジーンと胸にくる歌である。確かに歌詞は古臭いし時代にマッチしないかもしれないが、小生は小学校、中学校とこの『仰げば尊し』を合唱したものだ。中学の時には、この曲を歌っている最中に女生徒の何人かが泣いていたのを思いだす。高校になると、それが一転して『仰げば尊し』を歌わなかった。生徒会の連中が拒否したのだ。当時、学生運動が盛んな時期、我が高校の連中もあんな意味のわからん歌なんか歌えるかと言って教師に食ってかかった。それで歌ったのが卒業の少し前にヒットした赤い鳥の『翼をください』だった。いい曲で飛躍していくのには向いているが卒業の時にはなあ、もっとしっとりとした歌の方がいいのにと小生はしぶしぶ歌ったかな。あの辺りから流行った曲で卒業に相応しければ歌うようになったのかな。森山良子の『今日の日はさようなら』を歌っていた学校もあった。小生から10年下になると海援隊の『贈る言葉』を歌う学校が多かったらしい。
 しかしである。卒業式といえば、やっぱり明治時代から歌い続けられた『仰げば尊し』だろ。でも、この曲は実は日本の曲ではない。作詞作曲者不明となっている。『蛍の光』にも言えるが明治時代に日本に入ってきた曲だ。そのメロディに日本語の歌詞をつけて歌っていたのだ。『蛍の光』はスコットランド民謡ということは知られている。が、『仰げば尊し』はよく判らない。でも1871年にアメリカで出版された楽譜に『Song for the close of school』という曲が記載されていて、どうもその曲が『仰げば尊し』の原曲のようである。作曲者はアルファベットのH.N.Dとしか書かれてなくどういった人なのかは謎である。でもそれが日本に伝わり、日本語の歌詞をつけて卒業式で歌うようになったというのだ。でも原曲でもタイトルが『Song for the close of school』と言うぐらいだから卒業式で歌われるのは当然だったのかもしれない。こうして明治、大正、昭和と歌われ続けた『仰げば尊し』である。最近は卒業の定番から外れてしまったようだがもう一度復活とならないものなのか。寂しいものだ。
 原曲の歌詞はWe part today to meet, perchance,Till God shall call us home and from this room we wander forth, alone,alone to roam.And friends we’ve known in childhood’s days may live but in the past, but in the realms of light and love may se all meet at last.
我々は今日別れ、また再会する。おそらく神が我々を御下に招かれる時だ。そして我々はこの部屋から出て各自が独り歩きをするのだ。幼少から今まで共にいた友は生き続けるだろう。これからは光と愛の御国で皆と再会できるであろう・・・・・といったような内容であり、卒業式に相応しい曲である。それが明治17年に唱歌として採り上げられ、今日に至っている。だから歌詞も古い。でも何か哀愁がある。今でも歌ってほしいものだが、だんだんと消えていくのかな。今でも台湾の学校では歌われているというが。

Song for the close of school

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2015.02.22 (Sun)

ウェザー・リポートのアルバム『ヘヴィー・ウェザー』を聴く



 ジャズ、フュージョンのグループであるウェザー・リポートがこのアルバムを出したのは1977年である。小生が社会に出て急に身辺が慌ただしくなり毎日が忙しい。必然的に音楽をゆっくりと聴いていられなくなった頃である。なにしろ毎朝6時前には起きて出ていき、帰宅は夜の10時か11時、遅い時は午前様だから家に居る時間もない。したがって音楽から次第と離れって行った時期である。当然流行りのポップスなんてさっぱり判らない。テレビは勿論(当時、観ていたのは競馬とサッカーだけ)、ラジオだって聴いてない。ただ巷に流れている曲だけを聴いて、ああ、こんなのが流行っているのだなという程度でしか音楽に接してなかった。もうロックは聴かなくなっていたかな。ここから小生のポップス歴は終わってしまったのである。もっとも日曜日とかにFMを聴いていたのはいたが、好きでもないテクノポップとかの台頭でちょっと厭気もさしていた。実際には1980年12月、ジョン・レノンの死によって完全にロック、ポップ・ミュージックから遠ざかってしまったのだ。つまり流行りの音楽にすっかり疎くなってしまったという訳だ。それで聴き出したのが流行りと関係なく歳とっても聴けるかなと思いクラシックやジャズを中心に聴くようになっていた。ジャズの生演奏を聴くようになっていたのもこの頃かな。それで当時、ジャズの生バンドがよく演奏していたのが『バードランド』である。
 この曲はウェザー・リポートの等アルバムの頭に入っている曲で、ラジオでもよく聴かれたものである。それで当時、小生はウェザー・リポートのことを調べるようになっていた。1971年結成のエレクトリック・サウンドを中心にしたジャズ・フュージョン・グループ。メンバーの中心はジョー・ザヴィヌル(ピアノ、シンセサイザー、作曲)とウェイン・ショーター(サックス)。共にジャズ界で名前が知れ渡っていて、2人ともマイルス・デイヴィスのバンド・メンバーであった。そこへミロスラス・ビトウス(ベース)、アイアート・モレイラ(パーカッション)が参加してウェザー・リポートとして活動。時代はジャズからフュージョンへ、アコースティックからエレクトリックへと流れたいた。結成当初から話題になったが、このグループを一躍有名にしたのが、ジャコ・パストリアスが加わってから録音されたこの『ヘヴィ・ウェザー』である。冒頭の『バードランド』はフュージョンの曲にしては異例のヒットとなり、当時の日本の多くのジャズ・フュージョン・バンドがプロ・アマ問わずカバーをしていたものだ。そういえば当時の小生は、仕事が早く終わった時はジャズの生演奏を聴きに行ったり、休みの日はクラシック音楽をテープで聴きまくっていたというのが音楽との唯一の接点であった。テレビはほとんど観なかったから日本人歌手も知らなかった。ただ朝に寄る喫茶店で日本の流行の曲が流れていた。それで曲を覚えていたがぐらいだ。あとは滅多に行かないが、行ったパチンコ屋で流れている曲を聴いていた。それ以外はほとんど日本の流行音楽を聴かない生活を送っていた。まあ、それは今でもそうなのだが、今はインターネットで動画サイトと言うものがあるから、知らないまでもつい聴いてしまうということもあるが、あの当時はそういった媒体から遠ざかると流行りの音楽なんてさっぱり判らなくなる。そういった時代だった。だから当時のアイドルなんて全く知らないのだ。そういったこともあり、その反動で小生はジャズとクラシックはどんどんと詳しくなっていた。20代後半ではかなりのジャズを聴きこんでいたし、クラシックもベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの交響曲、協奏曲はどこを部分的に聴いてもすぐに何番の何楽章と判っていたのも、このころである。今はベートーヴェンなんて滅多に聴かないが・・・・・。
 さて何の話だ。ウェザー・リポートの話だった。1980年前後ジャズのコンボでウェザー・リポートの『バードランド』をよく聴いていたので、この曲からウェザー・リポートの名をよく聞くようになるが、確かドラマーだけが毎年入れ替わっていたように思う。その他にも多少のメンバーの変遷はあった。それでも核となるメンバーがいたから音楽は不滅だったが、1981年グループからジャコ・パストリアスが抜け、さらにピーター・アスキンも抜け、1986年にはジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーターがそれぞれのバンドを作ったことによりグループは消滅。ただ15年間でウェザー・リポートが残したクリエイティヴな活動には称賛を贈りたいと思う。解散して約30年。今でもウェザー・リポートの音楽は今でも新鮮に聴こえる。
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2015.02.15 (Sun)

映画『博士の異常な愛情』を観る

『博士の異常な愛情』1964年制作、イギリス/アメリカ映画

監督 スタンリー・キューブリック

出演 ピーター・セラーズ
    ジョージ・C・スコット
    スターリング・ヘイドン
    キーナン・ウィン
    スリム・ピケンズ
    ピーター・ブル

【あらすじ】アメリカの空軍基地バープルソン。司令官のリッパー将軍が突然のようにB52爆撃機34機にソビエト連邦への核攻撃を命じる。これはR作戦と呼ばれ第2次世界大戦で使用された全ての爆弾・砲弾の16倍の破壊力の水爆を搭載していた。そしてペンタゴンでの会議中にそのことが伝わる。マフリー大統領はその命令は自分以外は出来ない筈だと言うが、リッパー将軍は気が狂って命令を発したようである。これは大事だと捉えたアメリカ首脳は直ちにソ連大使をペンタゴンに呼び、ソ連の首相とのホットラインで対話をする。するとソ連は核攻撃に備え、もしソ連が攻撃を受けた場合、自動的に発射され爆発して地球上のありとあらゆる生物が死滅する放射線物質を降下させる爆弾が配備されていることが判る。つまり人類皆殺し装置である。アメリカがソ連に核爆弾を投下した段階で皆殺し装置は発射される。それ故に誰も止めることが出来ない。これは大変だとアメリカとソ連との間で喧々囂々となる。アメリカ側は策を講じ暗号を解読し作戦中止の命令を発す。大半の爆撃機は攻撃を中止し帰還する。それ以外は爆弾を投下される前に爆撃機をソ連側が撃墜してくれと頼みこむ。ソ連側は3機を撃墜。ところが1機だけが撃墜もされず、帰還命令受信も届かず目的地に向かって進撃していた。ミサイル攻撃をかわしたときに被害を受けたが破損のみで、計器や受信器全てが故障。やむなく低空で目的変更してシベリアの基地を目指して飛び続けるのでレーダーにもかからなかった。とうとう事はなされ、たった1機のB52が落した水爆が爆発。これにより人類皆殺し装置が発射される。もうきのこ雲の雨嵐・・・・・。そして美しい音楽と共に映画が終わる。

 この映画を初めて観たのは学生の時だったかな。何とも恐ろしいブラック・ユーモア満載の映画である。スタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を撮る前の作品が本作品である。副題に『または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』とついている。この映画では登場シーンこそ少ないがストレンジラヴ博士が登場する。彼はドイツから帰化した大統領化学顧問であり側近である。脚が悪く車椅子に乗っていて、大統領を総統と言い間違えるのもナチス・ドイツ時代の名残で、興奮してくると義手が勝手に動いてしまい、それを左で押さえつけるなど奇行が目立つ人物で絶えず薄気味の悪い笑みを浮かべ、人類が生き残るための自説を展開。何とも不気味な博士をピーター・セラーズが演じていて、大統領もピーター・セラーズ、リッパー将軍の副官のマンドレイク大佐もピーター・セラーズという一人3役で出演している。
 冷戦時代の産物のような映画であるが、とにかく当時の社会情勢から考えると必然的に出てきた映画のように思える。この映画制作直前にはキューバ危機というものがあったし、何かとアメリカとソ連が対立していた時代の映画である。それを鬼才キューブリックが彼特有のアイデアで、偶発的なことから核攻撃が始まり人類滅亡と言う最悪のシナリオが待っているという様をシニカルに描いている。登場心物は全て利己的で邪悪。精神を害しているし、まさに皮肉たっぷりの風刺コメディである。小生、このおぞましい内容にもかかかわらず、この映画を観ていて笑いが絶えなかった。下手なコメディよりもよほど面白い。ただ現実に起こりえたら笑ってはいられないが・・・・。
 ところで全編、『ジョニーが凱旋するとき』が流れ、最後に核爆弾が連続して爆発を繰り返すところではイギリスの歌手ヴェラ・リンが歌う『また会いましょう(We’ll Meet Again)』(1939年)の甘美なメロディが流れる。

We’ll meet again,
Don’t know where, don’t know when.
But I know we’ll meet again, some sunny day.

Keep smiling through ,
Just like you always do,
Till the blue skies chase those dark clouds, far away.

So I will just say hello,
To the folks that you know,
Tell them you won’t be long,
They’ll be happy to know that as I saw you go
You were singing this song

We’ll meet again,
Don’t know where,don’t know when.
But I know we’ll meet again, some sunny day.

エンディング

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2015.02.14 (Sat)

チューリッヒ美術館展に行く

 神戸市立博物館で開催中のチューリッヒ美術館展へ行ってきた。チューリッヒ(英語圏の人はズーリックというが)と言うからにはドイツ語圏の美術館である。だがドイツではなくスイス最大の都市であることは誰もが知っている。そういえば1970年代はヨーロッパに行くと、このチューリッヒが交通の拠点になっていたものだ。長らく飛行機に乗ってないので今は知らないが・・・・。
 ところでスイスと言う国は四国より少し広いぐらいの国で大きくはないが、永世中立国でスイス語というのがなく、したがってドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四つが公用語として使われていて、あと山岳地帯の山村で使われている言語があるなど多言語の国家である。そのなかでも過半数の人はドイツ語を話す。だからチューリッヒはドイツ語圏にある都市だということは判る。一方、西部のジュネーブはフランス語圏に属する。つまり一つの国でこれだけの言葉が公用語として使われているのも面白い。
 まあ、こんなことはどうでもいい。チューリッヒ美術館展とやらに行ってきた。副題として印象派からシュルレアリスムまでとタイトルがついている。つまり近代絵画から現代絵画の流れを展示してあるわけで、その近代絵画の変遷が分かる仕組みとなっている。
 会場に入るやいきなりセガンティーニの油彩画が登場。以前、セガンティーニ展に行ったときに記事にしたことはあるので今回は割愛する。次にホドラーである。しかし、ここらは時代的に印象派と被るが印象派には属さないだろう。次にモネである。これこそ印象派の元祖。縦2m、横6mの睡蓮の絵がお出迎え。いったいモネは睡蓮の絵をいったい何点残したのやら・・・。次にドガ。そしてロダンの彫刻。ゴッホが2点、ゴーギャン、セザンヌときて、アンリ・ルソー。ナビ派に入りボナール、ヴァロットン、そしてムンクが数点。抽象的になる前のムンクである。表現主義の絵画からキルヒナー、バルラハ、ベックマン、ココシュカ。そしてフォーヴィズムとキュヴィズム。ここらになるとかなり抽象的であり、現代絵画と言えるかもしれない。マティス、ヴラマンク、ブラック、ピカソとお馴染みの画家が数点ずつあって、シャガールが6点、さらに時代が新しくなりカンディンスキー、イッテン、ジャコメッティ、モンドリアン、レジェ、クレーときて、キリコ、エルンスト、ミロ、タンギー、マグリットとシュルレアリズムの大家がいて、サンバドール・ダリの『薔薇の頭の女』という小品が1点だけ展示されていた。でも何故かこのダリの小品が気にいってポストカードを買ってしまった。ダリの絵は小生、意外にも気に入っているものが多く、正直、あのぶっ飛んだ絵に魅せられ部屋に複製画でも貼っておきたいものだが、貼っておくほどのスペースも我が家にはないから貼ってないが、ダリの絵は何時も衝撃を受ける。小生にとって最初に観たときにハッとした絵はピカソではなくダリなんだな。
 しかし、今まで絵画の展覧会って何回行ってるやら数えきれない。もう印象派や中世の宗教画なんかの展覧会は見飽きたと言ってもいいぐらいだ(それでも開催されれば行ってしまうのだが)。ミロあたりになってくると、ただの装飾品にしか見えなくなってくる。やっぱりある程度のリアリズムは必要だなとは思った次第である。
EDIT  |  16:09  |  美術  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2015.02.11 (Wed)

プルースト『失われた時を求めて』を読む

 フランスのマルセル・プルーストが書いた『失われた時を求めて』という未完の小説がある。この小説も長編も長編、大河小説である。これも大学生の頃に読んだかな。兎に角長い。小説を読み慣れてないと途中で挫折するのではないかな。それ故に20世紀の小説に一大転回を記した大巨編として知られている。
  一杯の紅茶に浸して口に含んだプチット・マドレーヌが話者の私に喚起する少年時代の回想からこの話は始まる。少年が毎年休暇を過ごす田舎町コンブレーには二つの散歩道がある。一つはブルジョワ、スワンの別荘に向かう道であり、そこには娘のジルベルトがいる。もう一つは中世以来の名門、ゲルマント公爵夫人の城館に向かう道である。それらは少年の私の心の中に住む二つの情景の方向であるが、小説はこの二つの世界が世紀末から第一次世界大戦直後までの時代を背景に互いに交錯し融合していく様を軸にして展開して行くのである。
 話者はパリで再会したジルベルトとの淡い初恋に破れた後、祖母とノルマンディ海岸のバルベックへ出かけ、浜辺で知り合った花咲く乙女たちの一人アルベールチーヌに心ひかれる。社交人の集まるこの避暑地では、またゲルマンと一族のサン=ルーやシャルリュスの知己を得る。が、パリに帰ると、彼等に導かれて憧れのサン・ジェルマン街の貴族社会に少しずつ入り込んでゆき、またシャルリュスを中心とした奇怪なソドムの町も垣間見る。一方、話者はバルベック以来のアルベルチーヌとの交わりが深まるにつれて、彼女がゴモラの女ではないかという疑惑をつのらせ、嫉妬のあまり彼女を自分の家に閉じ込めて真相を知ろうとするが、やがてアルベルチーヌの出奔と死によって、この地獄的な同棲生活も終結する。
 人生への夢も作家への希望も失って索漠たる気持ちで二度目の転地療養からパリに帰って来た話者は、招かれてゲルマント大公邸のマチネに赴く途中、邸内の中庭の不揃いな敷石につまずく。すると突然、言い知れぬ幸福感が全身を浸しサン・マルコ寺院の洗礼場の敷石の感覚と共に、ヴェネチアの町が蘇る。それはマドレーヌ体験と同じ無意志的記憶の現れである。話者はこれら過去と現在とに共通の超時間的な印象こそが存在の本質を開示し、そして、此の奇跡だけが『失われた時』を見い出させる力を持っていることを理解する。
 サロンで会った旧知の人々はみな驚くばかり年老いてる。死んだサン=ルーとジルベルトの間にできた娘が目の前に現れた時、彼はこの少女の中に、彼の少年時代の憧れであった二つの方向が一つに結びあわされているのを見る。かくして彼は時の破懐を越えた永劫不壊の世界の存在を知り、いよいよ念願の書物に着手しようと決意する。

 大河小説を簡単に纏めるというのは難しいが要約すると以上のような内容になるかな。バルザックやスタンダールの小説とかに比べると、この『失われた時を求めて』は少し変わった小説である。この小説には『幻滅』『パルムの僧院』のような情熱的行動によって、ストーリーを展開させていく人物は一人もいないからだ。ゲルマント公爵夫人、シャルリュス、ブロックなどのように忘れがたい印象を残す人物の存在するが、彼等にしても行動によって性格を示すのではなく、謂わば、印象派の絵画のように様々な時間と空間の中で少しずつ点描されながら次第に複雑な全体を現してゆくのである。主人公も作品の中では活きるというよりも観察することを旨としており、心に映ずる自然界の官能的な美しさや社交界の微細で醜悪な人間模様な精巧なレンズのように写し撮ったり、おのれの内面に寄せては返す感情と感覚の起伏をじっと味わい尽くしたりすることを主要な任務とする一種の虚点、言葉の性格な意味での反=主人公である。
 この小説の眼目は現実界で起こるような様々な事件をそのまま描出するのではなく、主人公という観察器械を通して体験された言葉で言い表すことのできない困難な感覚や心理を異常に息の長い喚起的な文体を用いて明るみに引き出すことにあるのかもしれない。


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2015.02.08 (Sun)

散歩していて・・・・・・・

 昨日の土曜日、今冬にしては珍しく晴れて穏やかな一日であった。そんな午後、散歩してみた。最近は有酸素運動と言うことで一時間ほど散歩するが、これは晴れた日にしかできないのでほぼ一週間ぶりに散歩してみた。ほぼ5キロから6キロほど歩く。時間にして1時間ほどなのだが、自宅から2キロ、3キロほど早歩きして往復する場合がほとんどで、コースも度々変える。小生の付近は京都市街の郊外になるのだが、まだ田んぼも多くまだ田舎の原風景が残っている。でも昔に比べると交通量も増えたので車をよけながらの歩行となるのだが、それでも良い運動になる。でも、これも夏になるととても歩けるものではないから寒い時期の間だけなのだが、とにかく週に一度は5キロ以上歩くようにしている。日頃は行った先から往復したり往路からそれて別の道で帰路につくのだが、たまに1駅、2駅先まで歩いてその先の駅か帰りは電車に乗る場合もある。こういうときはかなりの距離を歩いているのである。
 昨日の土曜日は久しぶりに心地よい天候だったので、気分が高揚していたのだろうか、どんどん歩いているうちに京都府から大阪府に入り、西国街道を西に向かっていた。するとサントリー山崎工場の前まで来てしまった。工場の前にはJR東海道線の踏切があって、その前を大勢の人が紙袋を持って踏切待ちをしている。どうやら工場見学みたいだ。最近は工場の見学が流行っているというが、此処も例外ではないようだ。でもそれだけではなさそうだ。こんな閑静な所なのに、工場の前で写真を撮っている人も多い。何故なのか写真を撮っている人に尋ねてみたら、今、朝ドラやっているから見学に来たという。それもはるばる遠方からだ。なるほどそれで多いのかと思った。調べてみると今、NHKの朝の連続ドラマ『マッサン』を観て訪れてみようと思った人が多かったようだ。小生あまりテレビを観ないので正直なところ『マッサン』のことはあまり知らなかった。テレビの影響って大きいのだなと痛感。
 マッサンとは竹鶴政孝のことだなと思った。日本のウイスキーの父と言われ、広島県竹原の造り酒屋の家に生まれたが日本酒を造らずにウイスキーを造り出したという変わり種。そもそも大阪高等工業学校(阪大工学部の前身)の醸造科で学んでいたが、卒業を待たずに摂津酒造(今の宝酒造)に入社。そこでスコッチ・ウイスキーと出会い会社からの命でウイスキー造りを学ぶ為に本場スコットランドに留学する。そこで後に妻となるリタ(ジェシー・ロバータ・カウン)と出会う。帰国してウイスキーづくりを始めるものの資金難で頓挫。結局、摂津酒造を退社して仕方なく桃山中学(現・桃山学院高校)で化学を教えていたが、間もなくして寿屋(現サントリー)の社長鳥井信治郎から声がかかる。当時、寿屋はウイスキー造りを本格的に考えていて、スコットランドで適任者を探していたが上手くいかず、スコットランドでウイスキー造りを学んだ竹鶴政孝を呼びよせ、寿屋がウイスキー造りを始めた時の最初の蒸留所だった山崎工場の初代工場長に就任させる。それが、今のサントリー山崎蒸留所である。結局、ここで10年以上勤め、後進に道を譲り本人は念願だった北海道に渡り、ここで大日本果汁(現ニッカ・ウヰスキー)を創業。つまりこういった経緯があって竹鶴政孝のことを日本のウイスキーの父と言う。あれから70年、80年経ち日本のウイスキーは本当に品質がよくなり世界でも屈指のものとなった。もっとも日本でウイスキーを造っていることをスコットランドの人はほとんど知らないが、今や品質だけなら本場スコットランドをも凌駕するという。これも竹鶴政孝の尽力があってこそだろう。だから何故に今頃になって竹鶴政孝の話をドラマ化にしているのだと考えるのだが、今まであまり話題にならなかった人だけに、ここらで大きく取り上げられても何ら不思議ではないといった気はする。それと大正時代、国際結婚と言うのは非常に珍しかったから、ドラマ化のネタとしては面白かったのだろう。それでタイトル名の『マッサン』と言うのは、スコットランド人の妻リタがマサタカと言いにくくマッサンと呼んでいたところから来たという。ところで、このドラマの影響か知らないが、最近はウイスキーを飲む人が増えたいうから面白い。ついでにいうなら北海道余市の二っカ・ウヰスキーの蒸留所も大勢の見学者で賑わっているという。

※なおサントリー山崎蒸留所のことは2007年12月26日に記事にしています

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