2009.10.31 (Sat)
読書週間らしいが・・・・
もっとも私は文学少年ではなかったので、そんなに本を読んできたということでもないけども、学生の頃は暇にあかして人並みに本を読んだつもりである。デカルト『方法序説』、カント『純粋理性批判』、パスカル『パンセ』、ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』、ハイデッガー『存在と時間』、『史記』、『十八史略』、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』、マルクス『資本論』・・・・・・理解出来る出来ないはともかく、一応は読んでおくべき書物として、その高い壁に挑むかのように挑戦したものである。でも今となっては、何が書いてあったかというのも、断片的にしか覚えてなくて、その後の人生に活かされたかどうかも判断できないが、それでも読まないよりは読んだほうがいいだろうと思う。しかしこういった理屈の世界は面白くなく、結局は小説に向ってしまうのである。
ディケンズ『二都物語』『デイヴィッド・コパフィールド』、大デュマ『巌窟王』『三銃士』、ショーロホフ『静かなドン』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』『白痴』、トルストイ『戦争と平和』、ゲーテ『ファウスト』・・・・・・・・これらも大半はストーリーそのものも忘れてしまったし、本もどこかへ消えてしまい、ここのブログで紹介するときは、本の写真を載せることにしているのだが、今さら買い求めることもないだろう。だから今後、再び読み直すかというと、ちょっときついかなあという思いがある。やはり大著は体力も根気も読解力も記憶力も感受性も漲っている若いときに読むべきであるということは、この歳になってみて判ることである。だから今さら言ってもしょうがないが、もっともっと若いときに本を読むべきであったとは思う。
だが、今は私に限らず本を読まない人が増えたという。まあ、テレビがあれば暇はつぶれるし、インターネットがあれば情報は入る。でも読書癖をつけないと読解力もつかないし思考力も維持できない。読書量が1番多い筈の大学生が最近は本を読まないというから、本屋もつぶれていくし、古本屋も少なくなった。昔は京都の百万遍に古本屋が多数あったが今は減ったようだし、活字に飢えた人種が貴重価値になってきたようである。
今後、文字で能力を鍛えていた人間は減り続け、画像、映像等の視覚から能力を得る人が増え続けると世の中は一体どうなるのだろうか・・・・・・。あまり好ましい傾向とは思えない気がする。言語を得た人類が文字を生み出し、書を残し、大衆の識字率が高くなるからこそ、教育水準が高まり文明が格段に進化してきたのだが、視覚だけで得た情報だけだと均等化された能力が育まれるとは思えない。だから若者よ、もっと本を読んでくれ!
もっとも私が言える立場にはないが・・・・・・・・・・・。
2009.10.29 (Thu)
薬だらけ
この写真は内科と耳鼻咽喉科で貰った2週間分の薬である。錠剤やカプセルや粉末状の薬やら、何がなにやら、食事のあとに飲めということだが気乗りがしない。薬が好きだという人もいないだろうが・・・・・。鼻づまりが酷く息するのも辛くなってきた。鼻腔に細菌でも入ったのかしらないけれど、鼻水もよく出る。それに朝方は体温が低いのに午後から体温があがり喉がカラカラになるから水分ばかり摂取している。ということは万全の体調ではないのだろう。
一昨日に内科で貰った風邪薬は効果がほとんどないから、今日、耳鼻科で貰った抗生物質を含めた薬を飲むことにする。まあ、あまり褒められたものではないけれど、身体の具合が悪い時は何かに縋りたくなるものなので、仕方ないかな・・・・・。それでは、また。
2009.10.27 (Tue)
微熱・・・・
結局、新型インフルエンザではなく風邪という診断だったが、身体がだるいのはどうしようもない。薬を5日分貰って帰宅。熱を測ったら36.8℃に下がりつつあり、安心していたら、夕方、またまた37.5℃まで熱が上がってしまった。残念である。・・・・・ということで、指の動きも悪く頭もすっきりせず体調が良くないので、今日は、この辺りで失礼するとして、完全に熱が下がったら、また更新を再開することにします。ということで、今週は更新出来るかどうか判りません。あしからず・・・・・。
2009.10.25 (Sun)
第70回菊花賞
最も今よりも昔の菊花賞の方が面白かった。3歳馬の有力どころは全て出てきて、覇を競った頃が懐かしい。11月の肌寒い季節に京都で行なうというのが良かったのだ。それが時期が早まり、有力馬の何頭かが回避するようになってしまった。血統的に向いていないというのもあるけれど、今となっては時代遅れのレースになりつつあるのかとも見て取れるような年もある。だから最近はダービー馬が出てこないなど興味がそがれることもあり、今年もロジユニヴァースが出てこなかった。ということで本命不在の群雄割拠とか言われるが、ロジユニヴァースが出ていてもどうか・・・・・・。
かくして第70回菊花賞(Jpn-Ⅰ・3歳、芝3000m、18頭)が行なわれた。1番人気はリーチザクラウンで2番人気はイコピコ、3番人気はアンライバルド、以下ナカヤマフェスタ、アドマイヤメジャーという順だった。はたして結果は如何に・・・・・。
定刻3時40分にスタートが切られた。横一線のスタート。3コーナーの坂にかかるあたりアントニオバローズをかわして人気のリーチザクラウンが先頭に立った。武豊が逃げ作戦に出た。3馬身のリード。2番手アントニオバローズ、3番手ヤマニウイスカー、4番手インコースにスリーロールス、5番手は皐月賞馬アンライバルド。そのあとにシェーンヴァルト、紅一点ポルカマドルカ、そして2歳王者のセイウンワンダー、さらにナカヤマフェスタ、良血フォゲッタブル、セイクリッドバレーがいて、そのあとにアドマイヤメジャー、キタサンチーフ、さらにキングバンブーと続き、トライアンフマーチ、ブレイクランアウト、人気のイコピコ、イグゼキュティヴの順で正面スタンド前を通過。最初の1000mを59秒9というから速めのペースであるが、絶好の馬場を考えれば、それほど速くはない。リーチザクラウンは1、2コーナーを回り向こう正面で2番手以下を10馬身以上も離している。2番手以降は各馬は隊列をなして進んでいる。リーチザクラウンは向こう正面でややペースダウンして、後続との差が縮まりつつあった。2周目の3コーナーの坂を上る。リーチザクラウンと2番手との差は3馬身くらい。各馬が仕掛けに入ろうというところ。そしていよいよ4コーナーを回って直線に入る。先頭はリーチザクラウン、ヤマニンウイスカーが2番手。3番手スリーロールスだがアンライバルドは伸びない。先頭はリーチザクラウン、外からセイウンワンダーが来る。あと200m、リーチザクラウン先頭、リーチザクラウン先頭。スリーロールスが伸びる。リーチザクラウン粘る。リーチザクラウン粘る。あと100m、スリーロールスが先頭に出た。やや外にふくれ気味であるがスリーロールス先頭。内からフォゲッタブルが来る。ディープインパクトの勝負服だ。フォゲッタブルが来る。セイウンワンダーも来る。イコピコも外からようやく伸びてくるが、まだ5、6番手。先頭はスリーロールス、スリーロールス先頭。フォゲッタブルが伸びた。スリーロールスとフォゲッタブル、スリーロールスとフォゲッタブル。僅かにスリーロールスが出てゴールイン。
1着スリーロールス 3分03秒5、2着フォゲッタブル ハナ、3着セイウンワンダー 1馬身1/4、4着イコピコ 1馬身、5着リーチザクラウン クビ。
何と1着、2着共に父はダンスインザダーク。やはり長距離におけるダンスインザダーク産駒は強い。フォゲッタブルは母が名牝エアグルーヴというから、ここにきて良血が開花したことになる。神戸新聞杯を勝ったイコピコは絶えず後方から2番手という位置が災いしたようだ。いくら末脚が切れるといっても無理があった。アンライバルドは全く良いところがなかった。どうしたというのだろうか。血統的にも問題はないと思っているのだが、気性難が出たかな。
ところで一つ気になっていたのだが、伝説の新馬戦というのがあって、ちょうど1年前の京都の1800m新馬戦で勝ったのがアンライバルドで、2着がリーチザクラウン、3着がブエナビスタだったのだが、その時には目立たなかったが、4着に入線したのが今日の菊花賞に勝ったスリーロールスなのである。これで伝説の新馬戦から3頭目のGⅠホースが誕生したことになる。珍しいことがあるものだ。
伝説の新馬戦。初出走の馬ばかりが出てくるレースで、後にこれだけ出世する馬が集まることは珍しい。
2009.10.24 (Sat)
去り行くタワー
大阪タワーは朝日放送が中之島から大淀区に移転してきた時、社屋と同時に造られた。当初は社屋の上に鉄塔が建てられるはずだったが、少なくとも110m以上の電波塔が必要ということで、社屋の上では無理があることから急遽、社屋の横の空き地に建てられる事となったが、土地が狭いことから東京タワーのような裾が広がった形の鉄塔が造れず、やむなく五重の塔のような形となったようだ。
完成が1966年7月というから、まだ完成して43年にしかならず、それでいて壊されているのである。既に朝日放送が昨年、堂島川沿いに新社屋を建てて移転したことは、このブログ上で記事にしたことがあるが、この大淀の旧・社屋は完全に跡形もなくなり更地となっている。それで大阪タワーがグリップダウン工法(通称ダルマ落とし)で、取り壊されている最中なのだが、ずいぶんと低くなったものである。この調子だと年内にすっかり姿を消してしまいそうであるが、それにしても大阪タワーというのは実に短い命だったなと思う。
そもそも大阪を代表する鉄塔というと通天閣が在り、こちらは明治時代に初代が建てられ、現在のは2代目である。でも高さが103mと低い。まあ、テレビ塔でもなく、もともとは博覧会の目玉として建てられた鉄塔なので、形が面白かったのだが、空襲で焼け落ち、戦後に地元の商店街の人の嘆願で建てられた鉄塔なので、大阪の人には低くても愛着があるのだろう。でも大阪タワーは知名度でも今一つであった。本来、建てられるはずではなった鉄塔だが、急遽建てられ、電波塔としての役割を果すことになるのだが、大阪タワーなんていう名前から想像すると意外にも低い。158mなんて東京タワーの半分もない。
もっとも関西には東京タワーのような電波塔を建てる必要などないから、この程度の高さでおさまっているのだが・・・・・・・・・。つまりだだ広い関東平野全体にテレビの電波を届かすのが必要だったから、東京タワーはあの高さになり、新たに第二東京タワーも超高層ビルが乱立した今日においては、600mの高さが必要だったということになるのだが、関西では標高600m以上ある生駒山の山頂に小さな電波塔さえ建てれば、それで関西全てに電波が行届くので、桁外れの高さの電波塔を建てる必要が全くないのである。それで大阪タワーなんていう名の鉄塔もあまり活躍することもなく、お役ごめんとなってしまった。
2008年9月20日に書いた記事を参照してもらうと判ると思うが、大阪タワーも低くなり、隣の元ホテル・プラザの高さとあまり変わらなくなりつつある。このまま、工事が進み、いよいよ消えてなくなるのだろう。いずれ大阪タワーなんていう大袈裟な名前を持った鉄塔があったと、人から人に語り継がれるようになり、その頃には、この周辺も大阪タワー以上に高いビルディングで埋もれつつある街に変貌しているかもしれない。
左の元ホテル・プラザが搭屋部分も含めて高さが88m(23階)である。それから推測すると、大阪タワーの高さは100mと少し超えているぐらいだろうか。いや、100mもないかもしれない。
違う角度から撮ってみた。右の板塀は旧・朝日放送社屋があったところ。
2009.10.22 (Thu)
ジイド・・・・・『狭き門』を読む
『狭き門』は~力を尽くして狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者多し。生命に至る門は狭く、その道は細く、之を見いだす者少なし《ルカ福音書13章24節》~からきている
幼くして父を亡くしたジェロームは少年時代から夏になると叔父の家で過ごす。叔父の家にはアリサ、ジュリエットという姉妹がいる。姉のアリサは物静かで、ジュリエットは活発であったジェロームと姉妹は実の兄妹のように遊びながら成長する。そんな成長過程の中で、ジェロームは次第にアリサへ恋心を抱くようになる。一方、アリサもジェリームのことを慕ってはいたが素直に受け入れることが出来ずに悩んでいた。アリサの母は彼女が推さない時に父親以外の男性と親密な関係に陥り、家を出て行ってしまったことから、アリサは母の恥ずべき行為を反面教師として男女関係というものに敏感になっていて、天上の愛を求めるようになっていたからである。またジェロームはそのようなアリサの心の奥を知り己も清く正しくありたいと願っていた。が、日々が経過するにしたがってアリサへの思いは大きくなり悩み苦しむのだった。そんな時、アリサは妹ジュリエットがジェロームに好意を抱いていることを知る。アリサは自分が身を引いてジュリエットにジェロームを譲ろうと考えるが、ジュリエットも気遣ってかなり年長の男性と結婚することに決める。
数年後、フランスを離れていたジェロームが戻り、アリサを忘れられないジェロームは求婚する。だがアリサは取り合わない。それから3ヶ月後、ジェロームはアリサが亡くなったことを聞き、アリサの日記の存在を知る。その日記にはジェロームに対する思いが綿々と綴られていたのである。
この小説をただの純愛小説と片付けることは出来ないのは、ジイドの作品中で唯一プロテスタントの風貌を備えるものと言われることが所以であるとされる。地上の恋を捨て、ただひたすら天上の愛を求めるアリサが物語の中心にいることは、敬虔なキリスト教徒の支配が強い風土を謳歌しているという向きもあるものの、一方でジェロームのような異性に恋心を抱き続け、一般的な愛の成就に結論を求めようとする心の動きも描ききっている。
この話はジイドの従妹であったマドレーヌがモデルになっているとされるが、現実にはマドレーヌ自身、ジイドの妻となっているから、小説と現実とではいささか食い違いが生じるものの、『狭き門』がジイドの半自伝的小説と呼ばれるのも、ある程度は納得できるのである。マドレーヌは母の不義によって心に痛手を負っていて結婚生活に極度の恐れと不信を抱いていたと思われる。結局、ジイドの熱心な求婚に心が動き、2人は結婚する。しかしけして2人は求めあう結婚生活ではなかった。
ジイドの死後に出された『秘められた日記』によると、ジイドは同姓愛の趣味があり、結婚当初も性欲に対して無感覚で、マドレーヌのような清純な女性は肉体的欲望がないと考えていた。一方、マドレーヌは夫の欲望の欠如は自分に魅力がないからだと思い込み、人前に出ないという生来の傾向をさらに強めていくのであった。このようにして不自然な夫婦の関係でありながら、マドレーヌはジイド夫人として処女妻としてこの世を去るのである。結局、マドレーヌはジイドの創作作品の中で大きな位置を占めるにいたり、彼の著作においてマドレーヌが濃い影を落としているというのは明確であった。
ジイドはプロテスタントの家庭に生れたが、次第と左翼思想へと傾倒していき共産主義者となる。その裏には現在のキリスト教に対する反発があったとされるが、真に理解された個人主義は共同体に奉仕すべきであるとして、彼は自分が自由に生きる世界を共産主義に求めたのだ。だが、現実のソビエトを訪れてみて、共感から批判に一転し、徐々に肩肘張った部分がとれていったものと考えられるが、晩年、ジイドはマドレーヌを失ってから彼女の存在の大きさを知るのである。ところがその間、思想の二転三転、同姓愛問題、エリザベート。ヴァン・アレグレとの肉体関係等、色々とあり、生涯においての妻マドレーヌを失ってから、その至上の愛の大きさを実感することになったのだろう。『狭き門』に登場したアリサとジェロームムとの関係は、彼の思想の中で考え得る最高の愛の形であるとするならば、現実に生きたジイドとマドレーヌとの関係は何だったのだろうかと深く探求すると、彼の言わんとする男女関係は自ずと答えが出ているような気がするが・・・・・・。
2009.10.21 (Wed)
映画『慕情』を観る
監督 ヘンリー・キング
出演 ジェニファー・ジョーンズ
ウィリアム・ホールデン
イソベル・エルソム
ジョージャ・カートライト
トリン・サッチャー
マーレイ・マンソン
【あらすじ】第二次世界大戦後の香港が舞台である。1949年、イギリス人と中国人とのい間に生まれた女医ハン・スーインは、夫が先の大戦で戦死し失意の日々を送っていた。ストイックな彼女は医療への献身に全てを捧げていた。そんな頃、アメリカからやって来た新聞記者マーク・エリオットと出会うこととなる。通常の恋愛映画がそうであるように、この2人も当然のように恋におちることとなる。2人は病院の裏のビクトリアパークで逢引を重ねるが、エリオットにはシンガポールに残してきた妻がいた。エリオットの妻は愛し合ってないのにも係わらず離婚を拒んでいて別れようとしない。なのにスー・インは結婚が問題ではなく、愛が全てと言ってエリオットに身を委ねるのである。ところがエリオットは自身が所属する新聞社の命令で朝鮮戦争の取材へ行くことになが・・・・・・・。
この映画を観たのは中学生の頃だった。京都のとある映画館で観た記憶がある。当初、映画の主題歌が有名で、こんな恋愛映画は苦手だなあと思いながら観ていた。でも観ている間にのめり込んでいた気がする。今の超高層ビルが乱立する香港と違って、まだ牧歌的で旅情的で近代化されてない香港の街を舞台に、2人が織り成す恋愛ストーリー。つまり悲恋に終わるベタな映画なのだが、恋愛物が苦手な小生でも一度も船を漕ぐことなく最後まで観ることが出来たのは主役2人の熱演によるところが大きいのだろう。それでいて不自然さはなく、淡々として話は展開して行く。だが、その間の2人における巧みな心理描写と演出の効果はいたるところで発揮されている。
この映画を観て香港に行きたいと思った方も多いだろうが、かつて映画の中で2人が何度となく逢引を重ねたビクトリア・ピークと言われる丘も、今や映画で観た風景と大きく異なってしまっていることに気がついた日本人も多かろうと思う。かくいう小生も、その一人である。朝鮮戦争で命を落とすエリオット、そのエリオットが亡くなったことを知りビクトリア・ピークに行き2人と出会っていた当時を偲びながら涙するスー・イン。少なくとも映画では、そこから見渡せる光景は素晴らしかった。でも今や、見下ろすと聳え立つ摩天楼の壁ばかりにがっかりされた諸氏もいらっしゃるだろう。時代は進みすぎた。既に香港は中国に返還されてから12年が経つ。すっかり街が変わってしまって、『慕情』で見られた街並みは僅かに残すのみである。でも我々が映画で見た香港は紛れもなく同じ香港なのである。今や超近代的な街に変化してしまったが、あのフォー・エイセスが歌った主題歌を聴くと、当時の香港の風景が頭の中に甦ってしまうほど、曲と画面が一致していたという稀有な映画であった。そして今でも~Love is a many splendered thing~と口ずさむことがある。よくあるストーリーでありながら、何故か自分の中で納得してしまう。『慕情』とはそんな映画だったように思う。
『慕情』トレイラー
ザ・フォー・エイセスが歌う『慕情』(音声のみ) ~Love is a many splendored thing
It's the April rose that only grows in the early Spring
Love is nature's way of giving a reason to be living the golden crown that makes a man a king
2009.10.19 (Mon)
ザ・フォーク・クルセダーズを聴く
先週の土曜日(10月17日)、加藤和彦が軽井沢のホテルで首吊り自殺をしたという。まさかと思ったが本当だった。彼の身の上に何があったのか知らないがとにかく驚いた。でも今の若い人は加藤和彦といっても知る人は少ないだろう。かつて昭和40年代の前半に一世を風靡した音楽制作集団ザ・フォーク・クルセダーズの中心的人物であったといえばいいだろうか。とにかくやることなすこと全てが斬新でお洒落であった。
思えば私は少年の頃からポップスは洋楽一本で聴いてきたが、唯一、日本ではザ・フォーク・クルセダーズに興味を持った。何故かと言うと余りにも衝撃的に音楽シーンに登場したからである。昭和42年の秋だろうか、私の姉がラジオで洋楽を聴いていたと思ったら、或る日、ラジオから聴こえてくるのは日本語のおかしな歌だった。
~おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
天国に行っただ
長い階段を 雲の階段を おらは登っただ ふらふらと・・・・・
何だこれはと思った。テープを早回しした奇妙な声で歌っている。こんな変な歌が流行っているのかと思った。いわばこれがザ・フォーク・クルセダーズとの出会いだった。姉に聞くと、京都の大学生仲間で結成されたフォーク・グループが自主制作で作って自ら歌っているという。それがシングル盤で280万枚売れた大ヒット曲『帰って来たヨッパライ』だった。メンバーは加藤和彦、北山修、平沼義男、芦田雅喜の4人だという。
そもそも1965年の夏、龍谷大学の学生だった加藤和彦が雑誌『メンズクラブ』に「フォーク・グループを作りませんか」という呼びかけをした。すると京都府立医科大学の学生だった北山修が、その呼びかけを見て急遽、妹の自転車に飛び乗って、何と京都駅の近くにある自宅から、伏見区深草にある加藤和彦の家まで会いに行ったという。こうして結成されたのがザ・フォーク・クルセダーズである。その後、メンバーの移動があったものの、約2年間アマチュア・グループとして活動し、彼らが大学を卒業する間際になって、解散するのだから、記念に自主制作アルバムを作ろうということになり、アルバム『ハレンチ』を300枚製作する。だが名もない素人集団のアルバムなど売れるわけがない。それで仕方なく自ら関西の放送局にアルバムを持って行き置いていったという。するとラジオ関西(現ラジオ神戸)で『ハレンチ』の中の曲『帰って来たヨッパライ』をかけて電波に流したところ、凄い反響でリクエストが殺到したのである。ちょうどその頃、私の姉は聴いていたということになる。
こうして彼らの名は一躍、全国的に知れ渡り、レコード会社からプロデビューの話が持ち上がり、加藤和彦、北山修に端田宣彦を加えて、1年だけという期限付きで新生ザ・フォーク・クルセイダーズがスタートしたのである。
その後、『イムジン河』の発売禁止があり、その代わりに出した曲が『イムジン河』のテープ逆回しから生れたという『悲しくてやりきれない』・・・・・そして『水虫の唄』『さすらいのヨッパライ』『戦争は知らない』『何のために』『青年は荒野をめざす』等・・・・。結局、一年だけ活動してザ・フォーク・クルセダーズは解散する。つまり、これが伝説のフォーク・グループ『ザ・フォーク・クルセダーズ』である。そして、その音楽的支柱が加藤和彦だったのである。その後、加藤和彦は一度、北山修とのコンビで『あの素晴らしい愛をもう一度』をヒットさせているが、主に表舞台に登場せず、新人歌手への楽曲提供、またはプロデュースをするようになった。その後、サディスティック・ミカ・バンドなんていう私的なバンドも持ったが、彼の曲は他人に提供した『白い色は恋人の色』(ベッツィ&クリス)、『初恋の人に似ている』(トワ・エ・モア)、『妖精の詩』(アグネス・チャン)等で聴くことが出来たのであるが、そういえば井上陽水がアンドレ・カンドレという名前で歌っていた頃に『花にさえ鳥にさえ』という加藤和彦から曲の提供を受けているし、吉田拓郎のヒット曲『結婚しようよ』や泉谷しげるの『春夏秋冬』の音楽プロデュースをやっていたのも加藤和彦である。
結局、フォークル解散後は、自分自身あまり積極的な演奏活動をせず、他のシンガーへの楽曲提供、または音楽プロデュースを手がけていた加藤和彦である。彼から影響を受けたシンガー・ソング・ライターが非常に多く、加藤和彦がいなければ、その後のフォーク・ブームもニューミュージックももっと違ったものになっていたかもしれず、日本のポップス界に与えた影響力は大きいだろう。でも何故に自殺したのだろうか・・・・・。もうやる音楽がなくなったと書かれた遺書が見つかったらしいが、私から言わせて貰うならば、音楽性の欠片もない曲が大手を振るう昨今を見ると思わず納得してしまう。もはやレコード大賞なんて何の意味もなさない・・・・・・。だから私はジャズやクラシックばかり聴いているのだが・・・・・・。
2009.10.18 (Sun)
第14回秋華賞
それで今回はブエナビスタが牝馬3冠をかけて出走してきたのだが、あまり妙味がない。はたして牝馬3冠なんていうタイトルは必要なのだろうか。牝馬は牡馬のGⅠレースにも出走することが出来る。だから牡馬を相手に勝てばいいのであっって、牝馬だけのレースで3冠馬だといっても、所詮、牡馬に混ざってどうかという疑問が常に付き纏うのだ。だから牡馬相手に大活躍しているウオッカや引退したダイワスカーレットが強かったという印象がある。でも過去に牝馬3冠を達成したメジロラモーヌ、スティルインラブが、さほど強かったという印象を持ちえないのは、牡馬に混ざると好成績が上げられなかったからなのである。そういうことで秋華賞は、あまり好きになれないレースである。
さて1番人気は圧倒的にブエナビスタであったが、桜花賞、オークス共に2着だったレッドディザイアが虎視眈々と主役の座を狙っていて、オークスは鼻の差であった。ブエナビスタが後ろから行く馬だけに、2000mの京都のコースは直線が短い。もしかしてレッドディザイアが雪辱するのではとも考えられる中でのレースとなった。
バラバラとしたスタートから各馬スタンド前を通過。1、2コーナーを回ってヴィーヴァヴォドカが先頭、ワイドサファイアが2番手。3馬身あいてグーデグレイスが3番手、5馬身後に4番手デリキッドピース、さらに5馬身開いてホワイトグレイン。その後にパールシャドウ、ダイアナバローズが行き、レッドディザイアとイイデエース、さらにラインドリーム。それからインコースにブエナビスタがいて、モルガナイトが続き、ブロードストリート、ジェルミナル、ワンカラット、アイアムカミノマゴ、そしてミクロコスモス、ハシッテホシーノという順。ハロンラップは12.3---10.3---11.4---11.9---12.1と1000m通過が58秒0。これは平均ペースである。各馬、早くも内回りコースの3コーナーで坂があまりなく、淡々とレースが動くが、後続も押し上げてきて固まってきた。4コーナーでインコースのレッドディザイアとその直後のブエナビスタが仕掛けに入る。
さあ、直線コース。ヴィーヴァヴォドカ先頭。インコースからレッドディザイアが上がってきた。ブエナビスタもインコース。レッドディザイアは3番手。ブエナビスタは内の5、6番手という位置。あと200m、ここでレッドディザイアが先頭にたつ。ブエナビスタは内から外へ持ち出して追う展開。レッドディザイア先頭、レッドディザイア先頭。ブエナビスタが追う、懸命に追う。レッドディザイアが完全に先頭。ブエナビスタが急追する。レッドディザイアが頑張る。ブエナビスタが追う。ブエナビスタが追う。レッドディザイア逃げ込むか、ブエナビスタが差しきるか・・・・2頭がほとんど並んでゴールイン。
1着レッドディザイア 1分58秒2、2着ブロードストリート 鼻+1馬身1/4、3着ブエナビスタ 2位降着、4着ク-デグレイス 3/4、5着ミクロコスモス 3/4.。
人気馬同士が名勝負を繰り広げたが、鼻差で3冠を逃したブエナビスタが直線入り口辺りでブロードストリートの進路を妨害したとかで3着に降着している。京都の内回りコースの多頭数ともなると馬ゴミがゴチャゴチャして、捌くのに一苦労する。つまり今日のような脚を余して敗れるケースがあって、必ずしも実力どおりにはならない。でも今年の場合は比較的、人気サイドで勝敗が決した形となった。残念ながらブエナビスタの降着という予想できない結果に終わったが、今後もこの2頭は何度か対戦することだろう。現況ではブエナビスタが強いと考えていたが、今日のレースを観戦したかぎり2頭の実力に差があるというほどのものではなかった。今後の対戦が楽しみである。
2009.10.17 (Sat)
未だに医者通い
でも症状はいい方向に向っているのだろうか、どうなのか、相変わらず鼻も詰まるし鼻水も出る。慢性化しているのかもしれないが、とにかく毎度、似たような薬を出されるから、大丈夫なのか、医者を信じていいものなのか疑心暗鬼になるときがある。でも相手は百戦錬磨の臨床医。色んな症状例を垣間見てきているから、こちらも信用するしかない。それで開院前に並んでいる人と話をしてみたのだが、その人は1年以上、通院しているというから鼻の病気は時間がかかるのだと納得。
ところで4月ごろはどのような薬を飲んでいたのかと調べてみたが、今飲んでいるのと余り変化はない。主にニポラジン錠、クラリシッド錠、アレロック錠、サジテンカプセル、ジェニナック錠、ムコダイン錠、アプレース錠、ラセマイシン錠、セフタックカプセル・・・・・・・・。それで今日はラセマイシン錠、アプレース錠、ロキソニン錠、ニポラジン錠を手渡された。
効能はラセマイシンが細菌を殺し、感染症を治す作用があり、アプレースは胃壁を保護し、粘膜を修復する役目があり、ロキソニンは傷みや熱や炎症を抑え、ニポラジンはアレルギーによるくしゃみ、鼻水、皮膚のかゆみを抑える効果がある。
効能効果を読んでいるとなるほどなあとは思うけども、これだけ飲み続けるとだんだんと効果が無くなっていくのではと、いらん心配までしてしまうではないか。でも騙されたと思って飲み続けていると少しばかり効果があったように感じるのは気のせいかな。よく病は気からとはいうが、鼻がグズグズしたいると、とにかく憂鬱になってくる。しかし、鼻の手術をやればいいのにという人もいるが、医者がその必要はないと言うから問題はないのだろう。鼻中隔彎曲症といって、鼻づまりの原因になる人に多いらしいが、私はそれには属さないから、薬だけの治療で大丈夫というのだが・・・・・・・・。なかなか完治しません。もっともっと通い続けなくてはならないのかどうかしらないが厄介なものである。
2009.10.15 (Thu)
パソコンの動作が鈍くて・・・
とはいうものの、ウイルスソフトのインストールが終わったと思ったら、今度はマイクロソフト社のウインドウズの自動更新が引き続き始まった。それが更新時間が長く、30分ぐらいかかり、その後に再起動するようにメッセージが出てきた。仕方なく再起動させたのだが、もう今日のブログを書く気が失せてしまった。昨日といい今日といい連続して邪魔が入り、今日もこんなくだらない記事を書いてしまった。とにかく自動更新なんかが始まると、このパソコンは動作が鈍くなり何も出来なくなってしまう。ああ、早く新しいパソコンに乗り換えたいものだ。
パソコンが動かず文字を打つのに時間がかかりすぎたので、今日はここらあたりで終わりにするとしよう。
2009.10.14 (Wed)
書く気が失せた
しょうがないから15分後の電車を乗ろうとするが、しばらくしてアナウンスが入り、次の電車は踏み切りの安全確認のため6分遅れているという。何、すると駅で20分は待たなくてはならないのかと考えていたら、暫くして遅れは10分に訂正され、さらに15分遅れに変更、さらに25分遅れだと言い出し、結局、その後の電車の方が先に来るというが、その電車も8分遅れで到着した。
何だかんだと駅のホームで40分近く待ちぼうけをくらい帰宅が先ほどとなってしまったので、何かを書くつもりであったが、書く気が失せてしまった。あーあ、毎度の事ながらよく遅れるJR。15分に1本というノンビリとした過疎ダイヤなのに、電車が25分延着なんていうと、何時帰れるのか不安になってくる。昨年の春まで過密ダイヤのところで働き、次から次へと電車が到着し、不便に思ったことがなかったから、滋賀県に通うようになっていっそう不便さを痛感する。
今日なんか遅れた理由が踏み切りの不具合だというからアホらしくなってきた。整備点検はどうなっているのか。JRは人員を整理した関係で、いたるところで歪が出ているし、これが安全面にまで影響を及ぼしているとしたら、何のための人員整理かといいたくなる。こちらとしてはJRが儲けるよりも安全第一であってほしいし、とにかく初歩的な整備点検だけは怠ってもらいたくない。今日は10月14日、鉄道記念日である。よりによってこんな日に、くだらないミスで電車が遅れるとは・・・・・。そのせいで今日、別の内容ののブログを書こうと思っていたのに、すっかり書く気が失せてしまったではないか。
2009.10.13 (Tue)
ロドリーゴ・・・・・『アランフェス協奏曲』を聴く
今から40年近く前になるが女性用の服飾ブランドのCMでロドリーゴの『アランフェス協奏曲』の第2楽章アダージョが使われていた。残念ながら当時、ロドリーゴなんていう人を知らなかった。その後の調べで1901年、スペイン東部。地中海沿いのサグントに生まれた音楽家ということを知るに至った。でもとっくに故人であろうと思っていた。ところがである。今から10年ほど前になるだろうか。日本の若い女性クラシック・ギタリストである村治佳織が、テレビの番組中で何とホアキン・ロドリーゴ本人と対面して、本人の作曲した曲を演奏するといったところが映し出されていた。私はロドリーゴが生きていたということに驚嘆したのだが、それからまもなくロドリーゴは98歳で亡くなった。
確かロドリーゴは幼いときに悪性ジフテリアが原因で失明したはず。なのに長生きというのが驚いた理由なのだが、スペインに住んでいるということが長生きの要素かもしれないが、スペイン人の芸術家の長生きというのは私の頭の中ではインプットされている既成概念なので、なかなか変えることは出来ない。アントニ・ガウディ73歳。ジョアン・ミロ90歳。パブロ・ピカソ91歳。サルバドール・ダリ84歳。パブロ・カザルス96歳。スペイン出身の著名な芸術家はおしなべて以上のような年齢で亡くなっている。最も早世する人もなかにはいるが、スペインを代表する上記の芸術家達に限ってはガウディの73歳以外は長生きである。要因は色々とあると思うが、おそらくスペインの温暖な気候とスペイン人の気質によるものと考えられるが、それでも90年生きるのは難しい。今でこそ日本は世界でも屈指の長寿国になったから90歳といっても驚かなくなったが、今から30年そこら前は、80年生きると長生きだと感心されたものである。でも幼い時に悪性ジフテリアに罹って失明したはずのロドリーゴが90年以上も生きているわけがないと私は思い込んでいた。だからロドリーゴが98歳まで生きていたというのが信じられなかったのである。
さて、そんなロドリーゴであるが本来はピアニストだったらしい。盲目にもかかわらず音楽的才能に恵まれていて、20歳頃からすでに作曲に勤しんでいた。いくつか作品を発表しポール・デュカスから目をかけられ徐々に作品を発表していき、1938年にこの『アランフェス協奏曲』を完成。一躍、有名になったのである。題名は『アランフェス協奏曲』であるが、内容はギター協奏曲といってもよく、20世紀におけるギターという楽器の最高峰の協奏曲といってもいいだろう。その後、ギター協奏曲が多くの作曲家によって作られたものの『アランフェス協奏曲』ほど成功した例はないだろう。ポップスという分野において、ギターは大いに発展した楽器だが、ことクラシックというジャンルにおいてはマイナーな楽器でしかなく、そのことがロドリーゴの『アランフェス協奏曲』をより際立たせているものと考えられる。
そもそもアランフェスとはマドリードから南へ50㎞ほどいった土地の名で、雨が少なく荒涼とした土地の多いスペイン中部の高原の中で、タホ川の恵みを受けたアランフェスは緑が豊な土地である。でも目が見えないロドリーゴは、夫人と共に訪れた際、夫人が語る情景に想像力を働かせ作曲意欲が湧いたものと思える。そしてギターのことが良く判らないロドリーゴは、マドリード音楽院でギター科の教授をしているレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサの助言を受け作曲が進められ、1940年11月9日、バルセロナでレヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサのギター演奏により初演されたのである。
ロドリーゴは情感豊なアランフェスの風景を、スペインの国民的楽器といってもよいギター協奏曲に仕上げたことで、スペインもとより世界中に旋律美と民族的彩を広めたといったも過言ではないだろう。これこそ日本人にとって行きたい国に必ず名前の挙がるスペインの心の協奏曲である。
『アランフェス協奏曲』第2楽章の演奏。12弦ギター独奏はナルシソ・イエペス。
2009.10.11 (Sun)
毎日王冠、京都大賞典
スタートが切られた。ウオッカが好スタートで飛び出した。逃げそうな馬がいないのでウオッカがそれならと押し出されたような感じで先頭に立った。かかってないようようなので無理に逃げているとは思はないが先が長い。2番手にナムラクレセント、3番手アドマイヤフジ、4番手ヤマニンキングリー、その後に8歳馬カンパニーだが、この距離には滅法強い。さらにスマイルジャックがいて、4馬身あいて3歳馬マッハヴェロシティ、その外にサンライズマックス、その後にハイアーゲーム、サラニメテオバースト、シンガリからダイシンプランが行く。ウオッカがスタートから13.0---11.3---11.5---12.2---12.0のラップを刻み1000m通過がちょうど1分というからマイペース。巧く逃げ込む態勢に入っているといってもよいだろう。3コーナーから4コーナーにかけて淡々とレースが進む。ウオッカは依然としてマイペースである。いよいよ直線に入る。東京の直線は長い、はたして逃げ切れることが出来るかどうか。アドマイヤフジが2番手だが、インコースからカンパニーが伸びてくる気配。先頭はウオッカ、武豊が追い出しに入る。ウオッカがスパートしたがカンパニーがついてくる。あと200m、ウオッカ先頭、ウオッカ先頭。2番手カンパニー、8歳馬カンパニー。3番手以降は3馬身開いた。ウオッカ先頭、カンパニー追う、カンパニー追う。あと100m、カンパニー来る、カンパニー来る。ウオッカ粘る、ウオッカ粘る。最後にカンパニーが差しきった。
1着カンパニー 1分45秒3、2着ウオッカ 1馬身、3着ハイアーゲーム 2馬身、4着ナムラクレセント アタマ、5着サンライズマックス 1馬身1/4.。
ウオッカはウオッカらしいレースをしたと思う。マイペースの逃げで上がりも33秒8で纏めているし、秋緒戦としてはこんなものだろう。ただカンパニーはこの距離は強く、8歳馬としても侮れなかった。上がり時計もカンパニーは33秒0と速く、文句のつけようがない。ウオッカは目標されただけに、カンパニーの強襲を防ぎきれなかった。今日の敗戦はしょうがないだろう。あと天皇賞までにどれだけ仕上がるかといったところだろうか。
京都では京都大賞典(GⅡ・3歳以上、芝2400m、14頭)が行なわれた。昨年の菊花賞馬オウケンブルースリが故障から立ち直って出走してきた。でも人気はジャガーメイル、トーホウアラン、オウケンブルースリの順である。春の天皇賞馬マイネルキッツは5番人気。天皇賞でも12番人気で勝って驚かせたが、宝塚記念で7着、やはり天皇賞はフロックかと囁かれているが、ここらで汚名返上といきたいところである。
さあスタートが切られた。クィーンスプマンテとテイエムプリキュアの牝馬2頭が行くがテイエムプリキュアが先頭に出る。5馬身遅れてクィーンスプマンテが2番手。さらに10馬身差があってコスモプラチナが3番手。さらに5馬身あとからメイショウクオリアとトーホウアラン、その後にトーセンキャプテン、キングトップガン、モンテクリスエス、ハギノジョイフル、マイネルキッツ、ジャガーメイルと続き、アルコセニョーラとオウケンブルースリが併走。1番後ろからスマートギアといった展開である。先頭からシンガリまで大きく離れ、縦に長い展開である。ハロンタイムは12.7---10.9---11.0---12.2---12.3---12.1で、1000m通過が59秒1、1200m通過が1分11秒2。この絶好の馬場を考えれば先行のテイエムプリキュアもさほどオーバーペースでもない。むしろ後続がゆっくり構え過ぎである。3コーナーの坂を下るが前の2頭と後続集団とは、まだ10馬身以上離れている。4コーナーを先行2頭が回り、遅れて後続集団も直線に入る。先頭はクィーンスプマンテ、テイエムプリキュアは失速。後続馬、懸命に鞭が入る。オウケンブルースリは外の後方から2番手の位置。スマートギアが最後方。あと200m、クィーンスプマンテ先頭。馬場の真ん中からトーセンキャプテンが伸びてくる。外から一気にオウケンブルースリがやって来る。あらに大外からスマートギアも来る。あと100m、ここでトーセンキャプテンが先頭か、いや外からオウケンブルースリが一気に抜けた。オウケンブルースリが先頭。オウケンブルースリが先頭。そして大外からスマートギアも伸びてきた。凄い脚だがオウケンブルースリが1着でゴールイン。
1着オウケンブルースリ 2分24秒3、2着スマートギア 3/4、3着トーセンキャプテン 1馬身3/4、4着ジャガーメイル クビ、5着モンテクリスエス 1馬身1/4.。
オウケンブルースリは見事な追い込みだった。半年以上の休養もなんのその。でも天皇賞は、この馬にとっては距離が短いのではという気がしないでもない。だから天皇賞よりもジャパンCが面白いだろう。ジャパンCはロジユニヴァースも出るというし、なかなか見応えのあるレースになりそうだ。
2009.10.10 (Sat)
神戸ジャズストリート
阪急三宮駅の北側、北野坂の入り口辺りからスタート。総勢30人ほど、外国人と日本人の混成バンドである。ジャズを演奏するのであるが、吹奏楽の如しスーザフォンも加わっているしバンジョーもいる。モダンジャズというよりはトラディショナルなディキシーランド・ジャズ風といった様子である。ここからスタートして演奏しながら北野坂を真っ直ぐ北に向かって坂を上がって行く。バンドを囲むように見学者がゾロゾロとついていく。信号があると停まり、青になるとまたバンドの行進が始まる。このようにして500mほどの道のりをジャズバンドが演奏しながら、異人館通りの手前までオープニングパレードを敢行した。何時の間にやらバンドの周囲は何重もの人垣ができ、演奏にあわせてみんな手拍子する。そして30分あまりの演奏が終わって、見学者も方々に散っていった。そしてこの後から、周辺の神戸外国倶楽部、インドクラブ、神戸バプテスト教会等、またバーやジャズ喫茶といったところで色々なバンドがジャズの演奏を繰り広げるのである。ただし聴くのは有料。結構、大物も出演しているので覗いてみては如何かと・・・・・・。
ディキシーランド・ジャズバンドの一団がやって来た。
先頭で幕を持ったお姉さん達が先導している。
ジャズの原型といわれるディキシーランドバンドのスタイルよろしくスザーフォンを吹いている人がいる。モダンジャズでは絶対に見られないスタイルである。
トランペットにトロンボーンにクラリネットにドラムスにバンジョーにスーザフォンに、日本人に外国人に・・・・
バンドの行進に沿って歩道の人垣が動く。
インドクラブで別のバンドと合流して暫くはセッションを繰り返す。
再びバンドのパレードが始まる。おお、今度は超有名ナンバー『聖者の行進』がドラムスのソロの後に始まった。~ドミファソードミファソードミファソーミードーミーレーミミレドードミーソーソーファーミファソーミードーレードード
延々と『聖者の行進』が演奏され続け、パレードの最終到着地点の広場での演奏。外国人の綺麗なお姉さんがトランペットを吹いていた。
Oh,when the saints go marchin' in
Oh,when the saints go marchin' in
Lord how I want to be in that number
When the saints go marchin' in
演奏者の年齢も幅広く、国籍も色々と・・・・・
2009.10.08 (Thu)
こんな日に出勤
一昨日辺りから、大型で強い台風が8日の早朝に、近畿地方へ上陸の可能性が高いと言われ、今日の仕事はどうなるのかと思っていたら何と出勤だという。何、出勤・・・・。他の会社は振り替え出勤日を決めて、代休にしたところが多いというのに・・・・・・。台風が抜け切らない強風の中を出勤せよということか・・・・・と良識を疑ったのであるが、何故に出勤に踏み切ったのか詳細をいわないから困ったものだ。午前3時から午前6時あたりが近畿に最接近ということだったので、これはやばいではないか。
こんな危険な日に何が出勤だとふてくされて、早めに床についたものの、予定よりも早い午前1時には突然のように風が強くなった。何しろ中心の気圧が940hPaというから、10月の台風としては異例の強さだという。とにかく屋外には猛烈な強風が吹き荒れていて、そこからまったく寝れなくなった。ウトウトしかけたら突然、ヒューという音と、カラカラカラン、ガシャーンと何かが転がっていきぶつかって弾けた音、バタバタバタとトタンが跳ねる音、ドタンバターンと何かが倒れる音。とにかく気になって寝れやしない。突風と共に家も揺れるし安心してられなく、とうとう早朝まで一睡も出来なかった。ウーン、恨めしい台風め。でも朝の5時には突然、強風が吹かなくなった。かわりに雨が降りだすし、おかしな台風である。しかし、風がおさまったということは暴風圏から抜けつつあるのかとテレビの台風情報を見ると近畿は依然として大雨、洪水波浪、暴風警報から解除されてない。これでは出勤どころではないかなとサボってやろかとも考えたが、そこは日本人の性である。生真面目すぎるのも困ったものだが、既に出勤体制を整えつつある自分がいた。親しい者もいないし、つまらん職場で何一つ取り柄がなく、何でこんなところで働くのかと思うときもあるがしょうがない。
一睡も出来ず、身体がだるく目はトロンとしているが、最寄のJRの駅から電車に乗った。でも既に満員で、40分遅れだという。それに快速のはずが普通電車に変更されているし、徐行運転で走っているので、延着時間が到着駅ごとに遅れていく。ああ、こんな苦労をしてまで出勤しなくてはならないのか・・・・。この米原行きの普通であるがだんだんと乗車率が高まってきて、超満員になってしまった。いい加減にしてくれ。こんな日に出勤して仕事の効率が上がるのか? とにかく不愉快極まりない。昔からおかしな変てこな会社であるとは思っていたが、到着駅ごとに満員度が増していくと、だんだんと腹が立ってきた。まだ台風の吹き返しの風が治まってないというのに、よくぞこんなに出勤する人が多いとは思わなかった。でも30分~1時間に1本ぐらいでしか電車が走ってないので電車が混むのは当たり前か。
結局、電車は55分遅れで目的の駅に到着。でも駅前から出ているバスの停留場にも長蛇の列。一難去ってまた一難。今度は職場の近くまで運んでくれるバスがやって来ない。もしバスがやって来てもバスに乗り切れず、必ず積み残しが出ると思う。それならとばかり小生は3kmの道のりを歩く事にした。あいにく強風も吹かないし、雨も小雨だし、テクテクと歩く事にしたが、寝不足で超満員電車に揺られて疲れきった身体には長い距離である。それでも不満を言いつつも雨の中をダラダラと歩いて30分で到着。
何と家を出てから2時間半ほど経過していることに気がついた。ああーしんど。ところが、ここから仕事を消化させなければならず、辛い辛い1日であった。どちらにしろ、もう真夜中に来る台風なんていらないよ。それで職場到着は午前10時を少し回っていた。
2009.10.06 (Tue)
特急『こだま』
川崎重工業とは神戸に本社のある企業で、明治時代から日本の重厚長大産業の花形・造船を支えた一角であった。その後、色々な企業と合併、分離を繰り返し、現在では主に2輪、航空機、船舶、建設機械、エンジン、タービン、鉄道車両などを製造している大企業である。そして、この神戸にある兵庫工場は主に鉄道車両を作っていて、新幹線や在来線及び、私鉄、海外の鉄道車両といった様々な車両を製造しているのである。
暑い中、新長田から東へ国道2号線沿いを約1㎞ほど歩き、そこから南の方角へ歩くと懐かしい鉄道車両が見えてきた。181系車両である。181系といっても判りにくいだろう。それなら新幹線が開通するまで、在来線で走っていた特急『こだま』型の車両といえば判るだろう。あの肌色に赤い帯が入ったボンネット型電車である。かつて東京~大阪間を6時間30分で走っていた花形特急であった。
その昔、在来線の東京~大阪間といえば日本の特急列車の実験場のような路線であり、最も最新の列車がこの区間に何時も導入されたのである。つまり日本の鉄道の歴史を物語っているといってもよく、絶えず東京~大阪間を何時間で走ったという表現がなされ、その所要時間で大体のスピードが判ったという。そもそも特急列車が国鉄に登場したのが1930年10月で、その時に特急『つばめ』が東京~神戸間を走っている。そして東京~大阪を何と8時間20分で突っ走ったのである。余りの速さに当時の人は驚いたという。それでこの当時の機関車は当然、蒸気機関車である。
1934年12月、丹那トンネル開通により特急『つばめ』が東京~大阪を8時間で走るようになった。ところがこれ以上の時間の短縮は不可能となり、戦後の1956年11月、とうとう東海道本線全線電化完成により、東京~大阪を電気機関車が牽引する特急『つばめ』が7時間30分で走破するようになる。でもさらに時間短縮を望もうとすれば、機関車が引っ張るのではなく、電車型特急を走らせて見るしかないだろう。このように181系の電車型特急が現れてから時間が短縮されるようになり、東京~大阪を6時間50分で走るようになったのである。その後、ビジネス特急といわれ、6時間30分で東京~大阪を走破するが、1964年9月30にてビジネス特急『こだま』のお役目は新幹線によって引き継がれることになったのである。
お! 特急『こだま』車両だ。最初は20系とも『こだま』車両とも言われたが、その後に車両称号規定改正で151系と呼ばれるも、1965年から181系と変更される。
0系と181系が並んでいた。どちらも『こだま』では?・・・・・
もう、どちらの車両も走っている姿を拝めなくなった。かつての栄光車両が、今ここに・・・・・。
2009.10.05 (Mon)
第88回凱旋門賞
10月の第1週の日曜日、ヨーロッパ競馬の総決算、凱旋門賞がパリのロンシャン競馬場で行なわれた。今年はイギリスの2000ギニー、ダービーを20年ぶりに制覇し、もしセントレジャーをも勝てばニジンスキー以来39年ぶりのイギリス3冠馬が誕生したかもしれないのに、セントレジャーには出てこなかった。それで満を持して凱旋門賞へ出走してきたシーザスターズ。これまで7連勝でGⅠ5連勝。圧倒的1番人気で、早くも21世紀最強馬の声があがっている。それでレースが始まったが・・・・。
スタートが切られた。長いロンシャンのバックストレート、シーザスターズは意外にも好スタート。だがクビを上げてかかっている。マイケル・キネーンがなだめていてインコースに馬を入れた模様。セットセイル、グランデュカルの2頭が前を行く。この2頭はオブライエン勢のペースメーカーである。セットセイルが5馬身リード、2番手にグランドデュカル。3番手にスタセリタ、ダルレミとキャヴァルリーマンが並んで4番手。そしてヴィジョンデタ、さらにフェイムアンドグローリーがいて、ベーシュタイムと続き、その外にザボグベリー、注目のシーザスターズはインコースの9番手から10番手の位置。その外にコンデュイットという順で前半が終わり、早くもフォルスストレートに向おうというところであるが、前の2頭が大きくリード。これは馬群が固まるヨーロッパの競馬では珍しい。まるで日本の競馬のような展開である。セットセイルが先頭で5馬身遅れてグランドデュカルが2番手。さらに10馬身ほど離れて集団が続くが、その馬群の先頭にいるのがスタセリタである。ダルレミ、キャヴァルリーマン、タンガスピード、ベーシュタイム、フェイムアンドグローリーと続き、相変わらずシーザスターズはインコースの9番手から10番手といったところ。前の2頭が大きく後続を引き離していよいよロンシャンの直線コースには入ろうというところ。
後方集団が前の2頭に襲い掛かる。前の2頭が馬群に呑み込まれようとしている。あと400m、各馬仕掛けに入る。シーザスターズも上がって行く。あと300m、ここでスタセリタが先頭に出た。スタセリタ先頭。キャバルリーマンがいて、インコースからシーザスターズが伸びてきた。シーザスターズが動いた。あと200m、ここでシーザスターズがスタセリタをかわして一気に先頭に踊り出た。シーザスターズ、シーザスターズ。シーザスターズ先頭、シーザスターズ先頭。あと100m、シーザスターズ3馬身リード。ユームザイン、コンデュイット、キャバルリーマンが激しい2着争い。先頭はシーザスターズ、シーザスターズが先頭。シーザスターズ完勝。
1着 Sea the Stars 2分26秒30、2着 Youmzain 2馬身、3着 Cavalryman アタマ、4着 Conduit アタマ、5着 Dar Re Mi 1馬身。
シーザスターズは強かった。初コースも関係なく完勝した。願わくばセントレジャーに出走して英3冠馬として凱旋門賞にも勝つという史上初の離れ業を期待したのだが、しょうがないか・・・・。
でも英国の2000ギニー、ダービーを勝った2冠馬が凱旋門賞をも制することは初の快挙なのだ。これで凱旋門賞の勝利により、近年最強の名馬と評価が高まっていて、早くもシーバード、リボーと比肩する史上に残る名馬だと称する人もいる。でも勝ちっぷりからいって、何馬身もぶっちぎるリボーやシーバード、ミルリーフに比べると地味であるといって、そこまで評価できないという人もいる。ところで今後、どうするのだろうか・・・・・・。このまま引退の可能性が強いが、ブリダーズCにでも出て勝つようだと、おそらく100年に一度の名馬の声も出てきそうだが、ちょっと大袈裟かな。何れにせよ、最近では1番強いヨーロッパ馬かもしれない。
第88回凱旋門賞。黄色の騎手服で紫色の帽子、帽子のアタマに黄色の星マークの馬にご注目。オレンジの騎手服はスタセリタである。
2009.10.04 (Sun)
第43回スプリンターズS
ゲートが開いた。バラけたスタートだったが、ローレルゲレイロが懸命に押して行く。内からアルティマトゥーレも行くがローレルゲレイロが外から強引に行く。2番手にアルティマトゥーレ、その後にアイルラヴァゲイン、アーバニティ、ビービーガルダン、トレノジュビリー、そしてキンシャサノキセキ、サンダルフォンと続き、その後にシーニックブラスト、グランプリエンゼル、アポロドルチェ、マルカフェニックス、ヤマニンエマイユ、ソルジャーズソング、カノヤザクラがいて最後方にプレミアムボックスという激しい流れ。3コーナー、4コーナーにかかろうというところだが、馬群の真ん中にいたシーニックブラストがガクンと突然のように前のめりになって後退。これでやる気をなくしたようだ。残念・・・・。
早くも直線コース。先頭はローレルゲレイロ、2番手にアーバニティ、アルティマトゥーレ、その外からビービーガルダンが接近。あと200m、まだローレルゲレイロ先頭。ローレルゲレイロ先頭。ビービーガルダンが2番手に上がる。ビービーガルダン2番手に上がる。ロ-レルゲレイロ先頭、ローレルゲレイロ頑張る。ビービーガルダン迫る、ビービーガルダン迫る。内にローレルゲレイロ粘る。外からビービーガルダン迫る。ローレルゲレイロ粘る。ビービーガルダン伸びる。内か外か、内か外か、並んでゴールイン。
1着ローレルゲレイロ 1分07秒5、2着ビービーガルダン ハナ、3着カノヤザクラ 1馬身1/4、4着アイルラヴァゲイン クビ、5着アルティマトゥーレ アタマ。
長い写真判定の結果、ローレルゲレイロが春の高松宮記念に次いで秋のスプリンターズSをも制したが、この馬は勝ちパターンで逃げると強いが脆さも持ち合わせていて、成績が安定しないのは気性に難があるのだろう。でもとにかくおめでとう。
ところで今日、深夜、パリのロンシャン競馬場において凱旋門賞が行なわれる。今年は19頭という多頭数で行なわれ、メンバー的にも揃っていて、イギリスの2冠馬で現在まで8戦7勝でGⅠ5連勝中のシーザスターズ(Sea the Stars)が注目されている。母は凱旋門賞馬のアーバンシーで、半兄に英ダービー、キング・ジョージに勝っているガリレオという良血馬で、もし今日、勝つとミルリーフの持つGⅠ6連勝に並ぶことになる。圧倒的に強い勝ち方をするのではないが、とにかくきっちり差して勝つところや競り合っての強さといい、70年代のニジンスキーやグランディを彷彿とさせる。
ライバルは7戦5勝の愛ダービー馬のフェイムアンドグローリー。古馬で昨年のセントレジャーと今年のキング・ジョージを勝っている12戦6勝のコンデュイット。地元フランス勢で、7戦4勝だがロンシャンの2400mで2戦2勝のパリ大賞典馬カヴァルリーマン。強い3歳牝馬としては6戦全勝で、仏オークス、ヴェルメイユ賞に勝っているスタセリタ(ヴェルメイユ賞は1着馬失格による繰り上がり)等が有力である。
尚、今年は関西テレビが久々に完全中継するらしく、夜中までおきて観る事にしよう(フジは別番組)。
2009.10.03 (Sat)
ビルの街にガオー
先日、神戸の新長田駅前で高さが18mの鉄人28号を製作していると当ブログ上で紹介したと思うが、とうとう完成したので、またまた現地まで足を運んできた。
鉄人28号とは、昭和31年(1956年)~昭和41年(1966年)まで月刊誌『少年』に掲載されていた横山光輝の漫画である。それで、この漫画を読んで育ったのが我々の世代ということになるが、一般的には昭和38年(1963年)にアニメ化され、暫くテレビで放送され『鉄腕アトム』と共に、日本の連続アニメ・ドラマの草分けとなった(その前には実写版もあったが)。その後、何度かリメイクもされ、若い人はリメイク版で『鉄人28号』を知ったようである。
そもそも第二次世界大戦の日本の秘密兵器として製造されていたロボット鉄人28号であるが、完成したのが戦後のことである。リモートコントローラーで動き、ジェット噴射で空を飛ぶ。まさに鉄人ロボットである。開発に当ったのが金田博士や敷島博士であり、その後、完成した暁には金田博士の息子である金田正太郎少年が操縦していた。しかし、悪者にリモコンを奪われ、時には鉄人が敵となるなど、今となっては勧善懲悪のストーリーで古臭くもある。でも当時の子供にとっては、『鉄腕アトム』と並んでロボット物に夢を託すきっかけとなった漫画であった。
その鉄人28号の等身大といわれるモニュメントが、このほどJR新長田駅前の若松公園に完成して、明日、完成セレモニーが行なわれる。1995年の阪神淡路大震災で焼け野原となった長田の街の復興のシンボルとして、計画され製作されたという。原作者の横山光輝は既に故人であり、この鉄人28号の勇姿を見ることもないが、もし生きていたとしたら故郷・神戸の街に立つ鉄人28号の原寸大モニュメントに感激したのではないだろうか。
それでは鉄人28号をとくとご覧。
(この写真のみ、クリックすると拡大します)
横から見たところ、足元はまだ整地中である。ショベルと大きさを比較すると面白い。重さは50t。
やや後ろから撮ってみた。
ジェット噴射だ。
頭が意外と小さく、子供の頃に見たアニメよりも現代的な顔と体型をしている。
昭和38年から放送されたアニメ版『鉄人28号』のオープニングと主題歌。グリコ、グリコ、グリコなんて懐かしい。
2009.10.01 (Thu)
三島由紀夫『仮面の告白』を読む
永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみも色さした目つきで眺めた。(中略)
笑う大人たちは、たいてい何か科学的な説明で説き伏せようとしだすのが常だった。そのとき赤ん坊はまだ目が明いてないのだとか、たとい万一明いていたにしても記憶に残るようなはっきりした観念が得られた筈はないのだとか、子供の心に呑み込めるように砕いて説明してやろうと息込むときの多少芝居がかった熱心さで喋りだすのが定石だった。
このような書き出しで始まる『仮面の告白』を読んだのは高校生の頃だった。ずいぶんと衝撃的な告白の始まりであるが、生れてすぐの赤ん坊が、その時の光景を覚えているのだろうかといった疑問が生じてくる。でも三島由紀夫の『仮面の告白』には、次のように書かれている。・・・・・・・・・私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。産湯を使わされた盥のふちのところである。下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光がさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。しかしそのふちの下のそころの水は、反射のためか、それともそこへも光がさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。
これが生れたばかりの赤ん坊の記憶だとしたら、怖ろしいばかりの記憶力である。とはいうものの世の中、時々、天才と言われる人種が出現する。三島由紀夫が言うところの情景が事実だとすると、やはり三島由紀夫は天才か神童の域にある作家だったということになるのかもしれない。ただ天才と言われる人は、何かと平凡な人とは感性も美意識も違っているのかもしれなくて、この三島由紀夫の自伝的小説とも伝えられている小説の中においては、到底、私には理解しがたい描写が綿々と綴られている。
主人公である私は祖母に溺愛されていた。祖母は私が悪いことを覚えないように近所の男の子たちと遊ぶことを禁じ、選ばれた3人の女の子とだけ遊んでいた。一方で私は従妹の家などへ遊びに行くと1人の男の子であることを要求されたのである。まさに仮面を被っていたような態度をとらなくてはならなかった。そんな私も成長し中学2年の時、近江という少年に惚れ込むようになる。近江はひ弱な私にない逞しい肉体を保持していて、そんな近江に恋心を持つようになる。つまり同姓愛的な恋心を抱くのであるが、体力的にも肉体的にも及びつかない私が、男性的な近江に恋をし、それでいて愛してはいけない存在と位置づけている自分があり、普通でありたいとも願っている私。やがて近江は退学し私の前から消えてしまい恋は終焉する。
私という主人公は少しずつ年下の少年にも愛を感じるようになり、高等学校へ入ったばかりの頃には18歳の少年にも倒錯した目を向けるようになる。やがて大学に入り、召集令状を受けるものの、軍医に肺病と勘違いされ帰郷させられる。それでいて私は普通でありたいと思い、何時しか園子と言う女性を愛さなくてはならないという因習に囚われる。だが結局、園子を愛してないということ、異性愛者という仮面を被りとおしていたという自分自身を知る。
・・・・・・・・愛しもせず一人の女を誘惑して、むこうに愛がもえはじめると捨ててかえりみない男になったのだ、なんとこういう私は律儀な道徳家の優等生から遠くにいることだろう。
全体的に通して見られる同性愛の現実と、普通でありたいという仮面を被った私が同供している内面の葛藤、これらが入り乱れ、私という主人公が語り綴っているのだが、この小説は三島由紀夫が24歳の時に書いた半自伝的小説と言われる。確かにひ弱で頭でっかちな少年であったという。自分に最も足りない男性的な部分に惚れていたのかもしれないが、この小説を読む限り、我々、平凡な者が考えうる愛というものとは違っていて、到底、その領域に踏み込めない我々としては、理解しがたい倒錯した愛がある。それでいて三島由紀夫は仮面を被り続けていたとしたら、その後の三島由紀夫はどこまでが真実であったのだろうか。『仮面の告白』の後の三島由紀夫がボディービルや、ボクシング等で身体を鍛えていたという事実があり、所謂、肉体的コンプレックスから派生した同姓愛なのか、それともただ、男性の肉体美に憧れていたのか・・・・・・おそらく前者だろうとは思うが、天才的な人の感受性は、私には判りかねるというのが『仮面の告白』を読んでの率直な意見である。