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2008.01.31 (Thu)

プロコル・ハルムのアルバムを聴く『青い影』

 1967年に結成され、大ヒット曲『青い影(A White Shade of Pale)』で一世を風靡したプロコル・ハルムというグループがあった。いや、今でも再結成され、活動しているとは聞くが、ほとんど表舞台に出てこない。何故なら、彼等は『青い影』の印象だけで、後世まで名を残しているグループだからであって、それ以外の曲を知る人は、彼らのマニア以外いないのではないかと思えるからである。それほどに『青い影』のインパクトは強かったのである。

 彼らのルーツは1962年にイギリスで結成されたパラマウンツというグループがベースになっている。パラマウンツはヴォーカルとキーボードを担当していたゲイリー・ブルッカーと、ロビン・トロワー、クリス・コピング、ミック・ブラウニーの4人グループで、リズム&ブルースを中心に歌っていたか、大したヒット曲もなく1966年に解散したのだった。ところが、その年の9月にゲイリー・ブルッカーは詩人のキース・リードと知り合い、『青い影』という曲を書き上げるのだった。この曲はバッハのカンタータからヒントを得たとも、パーシー・スレッジのヒット曲『男が女を愛する時』から影響を受けたともいわれるが、真実は判らない。それで、出来上がった『青い影』をレコード化するために、新聞広告でメンバーを募集したという逸話が残っている。

 こうして結成されたのがプロコル・ハルム(Procol Harum)である。その時のメンバーは、ゲイリー・ブルッカー(ヴォーカル、ピアノ)、マシュー・フィッシャー(オルガン)、レイ・ロイヤー(ギター)、デイヴィッド・ナイツ(ベース)、ボビー・ハリスン(ドラムス)、キース・リード(作詞)であった。なおグループ名はキース・リードの友人が飼っていた猫の名前だそうな。

 『青い影』は1967年4月に発売され、いきなりのヒットとなり、全英で第1位、全米で5位、ヨーロッパ及びアジアでもヒットし、日本では同時代のGSのグループ(スパイダース、ゴールデン・カップス、ズーニーヴー)がカバーしたので知れ渡っている。

 『青い影』の大ヒットでプロコル・ハルムはシングルと同名のアルバムを製作するのであるが、アルバム製作の直前にレイ・ロイヤーとボビー・クリスンがグループを脱退してしまい、代わりにロビン・トロワーとB・J・ウィルソンが加わって初のアルバムがリリースされたのである。でも、『青い影』以外の曲は、まるで違ったサウンドで、後にプログレッシブのように言われるプロコル・ハルムとはだいぶ違っている。結局、2枚目のアルバムから、プロコル・ハルムの音楽スタイルが確立されるのであるが、『青い影』以上の曲は遂にリリースされず、未だに『青い影』だけのグループのように思われている。

 でも、音楽を志す多くの人に強烈な印象と影響を残し、そのクラシカルなメロディは誰でも一度は聴いたことがあるといわしめるほど世間に浸透していた。また、この『青い影』を聴いて目指す音楽の方向性が見えたとする日本のアーティストも大勢いる。とにかく『青い影』以外に話題になるような曲のないプロコル・ハルムであるが、その一曲が余りにも知れ渡ったがために、スーパー・グループであったかのような錯覚さえ起こさせてしまう。現在でも『青い影』は巷でよく聴かれる。グループ名や題名は知らなくても曲が一人歩きして、メロディは広く認知されている。つまりプロコル・ハルムというグループの知名度のなさを曲がカバーしてしまい、オルガンで奏でられる冒頭の旋律を世の人々は記憶してしまい、すっかりクラシックの曲だと思い込んでしまった人もいるぐらいだ。とにかくプロコル・ハルムは同時代のミュージシャンでも異色であったし、ハードロックが隆盛を極める時代にありながら、ロック・シーンでも彼らは一時代を築き上げたことは確かである。


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 『青い影』を演奏するプロコル・ハルム(1967年の映像)



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2008.01.30 (Wed)

映画『ラストエンペラー』を観る

 『ラストエンペラー』1987年製作 イタリア、イギリス、中国合作

 監督 ベルナルド・ベルトリッチ

 出演 ジョン・ローン
     ジョアン・チュン
     坂本龍一
     デニス・ダン
     ヴィクター・ウォン
     高松英郎
     ピーター・オトゥール

 【あらすじ】1908年の清国。北京の紫禁城内、西太后により溥儀が皇帝に任命された。でも愛新覚羅溥儀はわずか3歳。溥儀は清の皇帝として弟の溥傑と共に何不自由なく暮らすが、1924年のクーデターで突然、紫禁城から退去させられてしまう。清国の滅亡である。溥儀は北京を追われ天津に逃れる。ここで日本の関東軍と密接な関係を持つようになり、やがて日本のバックアップもあり、建国された満州国の皇帝となる。しかし、満州国は日本の傀儡国家であることは歴然としていて、溥儀は操り人形でしかなかった。時代が進み大東亜戦争が終結。日本の敗戦と共に溥儀もソビエト軍に捕らえられ戦犯として裁かれる。

 波瀾万丈の一生を送った清国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の生涯の映画化である。アカデミー作品賞を始め、9部門で賞を獲得するなど話題になった大作である。この映画が公開された1988年の一年後に昭和は幕を降ろすが、日本とも関係の深かった溥儀の物語であり、溥儀と昭和という時代は密接なつながりがあったのだと考えると、日本の現代史において興味深い映画である。

 僅か3歳の幼児である溥儀が清の皇帝として即位したものの、20世紀という時代、彼は大きな国の変革と激動の嵐に飲み込まれ翻弄され、かつてないほど波瀾に満ちた生涯を送った。皇帝の座から追われ、傀儡政権での皇帝、戦犯として収容所に収監、釈放、その後は一市民として余生を送り、細々と死んでいった。こういった一生を送った人も珍しいが、中国の変動期において、何かと関係の深かった日本の国民としては、この映画を観ていて辛いところがあった。かつて日本は中国に侵略し、盧溝橋事件、南京大虐殺・・・あまり触れて欲しくない歴史もあって、日本人を良く描いてないというのもあるが、そんな中でもけして誇りと紳士然とした態度だけは保ち続けた溥儀。それに対して、関東軍の甘粕正彦は欲望と陰謀の塊のように映り、日本人の卑しさが目に付いた映画であった。

 大東亜戦争で日本が無条件降伏すると同時に、溥儀は自ら満州国を解体し退位したのである。その後、収容所に収監され、皇帝から一転して戦犯扱いの身となる。1960年には恩赦があり長い収容所生活から釈放された。でも、溥儀は溥傑ともども一市民として生活を送らざるを得ず、儚くも時代は毛沢東の世の中。中国全土を襲った文化大革命の嵐の中、当然のように溥儀は目立った生活は封印した。でも癌に侵され、治療もままならず、とうとう1967年10月17日、愛新覚羅溥儀は「チキンラーメンを食べたい」といって亡くなったという。

 この頃、中国は最も自由の利かない時代であり、溥儀は隠れるようにして生きていた。おそらく皇帝から戦犯まで経験し、最後は一市民として、共産党が支配する世の中でも過去の栄光に縋ることもなく、しょぼくれた一人の人間として生きながらえていた。そしてそして、愛新覚羅溥儀は最後までラストエンペラーとして語り継がれるのである。

                           

                                
EDIT  |  20:23  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.01.29 (Tue)

グレン・ミラーを聴く

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 子供の頃、我が家には78回転のSP盤レコードが数え切れないほどあった。私の死んだ親父が持っていたものであるが、その多くは東海林太郎、藤山一郎、ディック・ミネ、李香蘭などの戦前の流行歌のレコードであった。でも、何故か一枚だけジャスが混じっていて、そのレコードを蓄音機でよく聴いていた。それで、その曲というのが『ムーンライト・セレナーデ』であり、裏が『茶色の小瓶』だった。外国のジャズなんて聴く趣味のない親父が、どうしてそんなSP盤を持っていたのか未だに判明しないが、とにかく所有していたことは確かであり、それをよく私は聴いたものである。

 電気ではなくハンドルを一生懸命回してスイッチを入れるとレコード盤が高速で回転する。後の33回転のLP盤、45回転のドーナツ盤と違って、落とせば割れる直径25cmのSP盤である。表1曲、裏1曲。それを鉄の針で聴く。音質は今日の物とは比較にならないほど劣悪である。でも、そんなレコード盤に興味を持って私は頻繁に聴いていた。だから『ムーンライト・セレナーデ』と『茶色の小瓶』はすっかり覚えてしまい、小学校に入学したばかりの私は、よくそのメロディを口ずさんでいたものだ。大人はどのように思ったか知らないが、ジャズのメロディを口ずさむガキは、さぞや生意気に見えただろう。でも私はメロディは覚えていたが、曲名はおろか誰の演奏かもまったく知らなかった。そして、その全てが判るようになったのは中学生の時であった。

 テレビの洋画劇場で『グレン・ミラー物語』を観た。その時に、小さい頃に聴いていたジャズはグレン・ミラーの曲だったということを知るのである。映画はジェームズ・スチュアートがグレン・ミラーになりきりトロンボーンを演奏していた。

 グレン・ミラーは1904年にアイオワで生まれ、トロンボーンとの出会いから、やがてベン・ポラック楽団のトロンボーン奏者となり、2年後に退団して、ニューヨークに行き編曲の勉強をする。1937年には自身の楽団であるグレン・ミラー楽団を結成する。1939年にはニューヨークで人気者となり、トロンボーン奏者、バンド・リーダー、作曲者、アレンジャーと八面六臂の大活躍。グレン・ミラー独自のサウンドを作り出し、5サックス、4トランペット、4トロンボーン、4リズムといった典型的なビッグバンド・スタイルを最初に確立し、甘くロマンティックなサウンドを披露した。

 また彼はベニー・グッドマンと同様の白人であるが、デューク・エリントン、カウント・ベイシーらと共にビッグ・バンドのスウィング・ジャズを代表するミュージシャンとして一世を風靡したのである。

 グレン・ミラーの代表曲としては『ムーンライト・セレナーデ』『茶色の小瓶』『真珠の首飾り』『イン・ザ・ムード』『アメリカン・パトロール』等が挙げられるが、何れも良く知られたナンバーで、日本のビッグ・バンド等も必ず演奏する曲と言っても過言ではない。

 ただ、こんなグレン・ミラーであったが、1944年12月15日に帰らぬ人となる。第二次世界大戦の最中、ヨーロッパへ兵士の慰問演奏のため行っていたグレン・ミラーの乗った飛行機が、ドーバー海峡で消息を絶ち、結局は生きて帰ることはなかった。そのとき、グレン・ミラーはまだ40歳だったから真に残念である。

 戦後になり、グレン・ミラー亡き後、オーケストラの団員がグレン・ミラー楽団として長きに亘って活躍している。

 その昔、我が家にも、これと似たような蓄音機があり、私は『ムーンライト・セレナーデ』をよく聴いていた。


 『イン・ザ・ムード』を演奏するグレン・ミラー・オーケストラ。グレン・ミラー自らトロンボーンを吹いている貴重な映像(1940年)。

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2008.01.28 (Mon)

大阪府知事選の結果を見て

 昨日、行われた大阪府知事選挙は即日開票され、新人の橋下徹氏が当選した。年齢は38歳と若く政治家の経験もないが、タレント弁護士という抜群の知名度を活かし、断トツの票を稼いでトップ当選した。しかし、投票率は48.95%と低く相変わらず無関心。こんなことでいいのかと思うが、誰が当選しても今の大阪を立て直すなんて無理かもしれない。立候補している顔ぶれを見ても余り大きな期待をもてそうもなし、それなら若いし知名度があるから入れておこうかという程度の政治信条の持ち主が大挙入れたものと思える。本当に大阪というところはどうなっているのだろうか・・・・・。まあ、私は大阪府民ではないので、どうでもいいといえばいいのだが、毎日、通勤して金を落としているところだから、一概に無関心で通すことも出来ないし、一言、口を挟みたくなった。

 太田房江という官僚出身の知事の前は、強制わいせつ事件で知事を追われるという前代未聞の失態を演じた横山ノックで、タレント知事は懲りたはずなのに、またまた選んでしまった。それも一度、出馬しないといいながら、出馬してきた。それを圧倒的な投票数でトップ当選させてしまった。はたして、こんなことで大丈夫なのであろうか。大阪府はハコモノ行政を推し進めてしまい、累積赤字5兆円というとんでもない数字を抱え込んでしまっている。いったい、この府債返済をどのように克服するのだろうか。既に財政再建団体の一歩手前まで来ている。前知事の太田房江は、借り換えることで府債の返済を先送りするという事態を隠していて、批判を浴び結局は出馬を残念した。ここまで地に落ちた大阪であるが、付け焼き刃では財政立て直しなど出来ないところまできている。相当な抜本的改革が必要であるが、相変わらず大阪府民は懲りもせず期待薄のタレント弁護士を知事にしてしまった。本当に大丈夫なのか・・・・・。とはいえ、何も大阪に限ったことではないが・・・・。

 今回の大阪府知事選の結果を揶揄したように報道した東京のマスコミだって、言い換えれば高みの見物、野次馬根性丸出しの報道ぶりで~~だから大阪府民は馬鹿なのだと~と書いたが、あんたのところも言えたものではないだろう。それなら言うが、高圧的で厚顔無恥な石原慎太郎を当選させているのは何処の人達なの?・・・・と問いたくなる。慎太郎なんか、東京から日本を元気にするといって、東京オリンピックを招致しているではないか。過去に一度開催しているのに、またオリンピック?

 オリンピックを開いたからって、日本が元気になると思っているとするなら、この人の政治センスは随分とずれているとしか思えない。石原慎太郎は、まさに右肩上がりの高度成長期だった1960年代の手段しか思いつかないのか・・・。今時、20世紀の遺物で、単なるイベント化したオリンピックに莫大な税金を投入してまでやる必要が何処にあるのか・・・。また、こんな人を知事に選んだ東京都民も大阪府民と大差ないと思うけど・・・・。それに大阪の場合は、多くの企業が事業所や本社を、官僚の指導で東京に移したがため、法人事業税が入らなくなり台所が苦しくなったという事情もある。その点、東京は法人事業税が潤っているから、比較的、財政的に恵まれていると思う。だからといってオリンピックはないだろう。いずれにせよ、日本の東西の2大都市の知事が知名度抜群のタレントだと思うと、日本の民度もたかが知れている。将来の日本は真っ暗闇かもしれませんねえ・・・・。
                                
EDIT  |  19:51  |  時事  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.01.27 (Sun)

神戸メリケンパークを歩く

 窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える~

 その昔、淡谷のり子が唄った『別れのブルース』の冒頭の歌詞である。昨日、寒風吹きすさぶ中、神戸旧居留地に来たついでにメリケンパークへ行ってきた。

 現在はメリケンパークというが、昔はメリケン波止場といった。メリケンとはアメリカンが訛ったものである。昔の人はおそらくアメリカンと聞き取れなくてメリケンと聞こえたのだろう。昭和の初期、メリケン波止場のことを唄った『別れのブルース』が大ヒットした。当初は『本牧ブルース』として売り出す予定だったらしいが、本牧だと横浜に限られてしまうので、別れのブルースに題名を替えてしまったと聞いている。つまりメリケン波止場は横浜にも神戸にもあったということである。面白いことに地名というのは共通点があって、元町も両方にあるから港町というのは何処か似通ってしまうのかもしれない。ところが神戸のメリケン波止場は、中突堤との間を1987年に埋め立ててしまい、辺り一帯を公園として整備し現在ではメリケンパークとして存在している。それで私は、久しぶりにメリケンパークまで足を運んだのである。


 神戸は映画が上陸した地でもある。1896年(明治29年)に、神戸で活動写真が上映された。それを記念したモニュメントが石のスクリーンである。大きな石をくりぬいただけだが、この穴をスクリーンとして見ると面白い。
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 中突堤から対岸のモザイクを眺める。モザイクとはかつて造船所のあったところに建てられた商業施設である。百貨店や専門店、レストラン、観覧車が並んでいる。
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 メリケンパークの東の端には、阪神淡路大震災の時の記憶を何時までもとどめておこうと、被害にあった岸壁の姿を、その時の状態で残している。その岸壁の周辺は整備され、震災メモリアルパークとして残している。
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EDIT  |  10:35  |  名所・名刹探訪  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.01.26 (Sat)

浮世絵名品展へ行く

http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/ 

 当ブログのカテゴリーの中に美術というものが含まれているのに、一向に美術関係の記事がないと不満の声が聞こえてきそうである。もしかして筆者は美術が苦手なのではないかとも思われているかもしれない。でも嫌いではない。いや、美術館にはよく行くし、絵や彫刻や工芸品を鑑賞するのは文学作品を読む以上に好きである。でも、最近はすっかり美術館にも足が遠のいてしまったし観にいかなくなった。

 けして出不精ではないのであるが、週一回の休日に、わざわざ美術館に行ってまで美術を鑑賞しようなどと、考えなくなったからかもしれない。それでも若いときは、片っ端から美術館、博物館等に足繁く通っていたものである。ところが、最近は美術品を前にしても感動が薄くなったというか、若いときのような感受性もなくなったというべきか、芸術のジャンルにおいて凡そ美術というものに、最も興味、関心がなくなったからかもしれない。

 かつてはレンブラント展、エルミタージュ展、印象派展、プラド美術館展、バルビゾン派展、ピカソ展、ゴッホ展、ルノワール展、シュールリアリズム展、モネ展、ベラスケス展、ルネッサンス展、セザンヌ展、アングル展、エコール・ド・パリ展・・・・それこそ行かないものは無いほど展覧会通いをしていたものである。それで、ほとんど美術誌に掲載されているような絵は見尽くしてしまった感がある。ところが私には弱い分野というものがある。それが日本画なのである。だから、これからは同じ美術展に行くにも日本の美術を重点的に観るべきではないかと考えた次第である。それで今日は神戸まで『浮世絵名品展』を観にいってきた。

 イギリスにあるヴィクトリア・アンド・アルバート美術館所蔵の浮世絵が大挙して展示してあるというので、久々に神戸まで行ってきた。神戸に行くのは半年振りぐらいである。昔は友人に会う為に頻繁に神戸へ行ったものであるが、最近はあまり行かなくなった。阪急で三宮まで特急を乗り継いでいくが、乗車駅が増えて昔よりも所要時間がかかるようになった。阪急は、これから日本の人口増が見込めなくなったから、乗客を拾おうと考えたのか、昔よりもやたらめったら停車駅を増やしてしまった。これだと京都から神戸に行くのには、何かと便利が悪い。近くまで電車で行くぐらいならいいだろうが、50km以上の距離を移動するのには、やりにくい時代になってきた。京都から大阪まで行くのにも停車駅が多くなったとぼやいていたのに、大阪の十三から三宮まで行くのにも、西宮北口、夙川、岡本と停車する。このせいで時間が予想以上にかかってしまった。ああ、昔が懐かしい。

 ようやく、三宮に到着して、神戸の旧居留地まで歩く。この付近は先の震災でズタズタにやられたが、今では見事に復興していて、超高層ビルもチラホラと目立つようになってきた。今回、『浮世絵名品展』が行われている神戸市立博物館は、整然とした居留地の一画にある。さっそく1100円を払って館内に入る。

 3階と2階が展示場であるらしい。さてさて、3階まで階段で行くが、3階の入り口に行くやいきなりの行列である。

 鈴木春信、歌川国貞、歌川豊春・・・・浮世絵師の作品が額縁に入れられて並べてある。それを人が囲むように凝視しているのであるが、浮世絵だけに一枚の絵の大きさはしれている。西洋の油絵の大作のように巨大なものはない。したがって、縦50cmもないし、横も3、40cmぐらいの小品ばかりである。それを多くの人が集るように観ているので、なかなか前に進まない。浮世絵というのは版画だけに、同じ絵柄の作品は世界中に散らばっているだろうが、それでも江戸時代に摺られた版画ばかりだから紙そのものが弱っている。だから館内の照明を暗くして、温度と湿度を一定に保って展示している。だから、作品も近付いて観なくては詳細まで窺い知れない。だからこれは参った。

 人が皆目、動かない。美術展には慣れきっているものの、人が多いときは確かに落ち着いて観れたものではない。平日に行けばいいものであるが、平日なんか行けない立場の者には、祝日や土、日に行くしか術がない。本当に困った。人垣の後ろから首を伸ばすようにして垣間見る始末。かつて日本から大量に海外へ持ち出された浮世絵が、こうして里帰りして展覧会を開くというのも妙だが、外国人によって評価され、それによって日本人が再評価するというのもこの国にはありそうだ。浮世絵は明治の初期には見向きもされなかったというから、時代によって随分と評価は違うものだ。そういえば、私の姪が言ってたが、伊藤若冲なんて絵師はアメリカ人によって評価され、最近は国内でもたいへんなブームだというから、日本人って案外、自分の足元を見ていないのかもしれない。外国の絵ばかり観る人が多いが、これからは今一度、日本古来の文化を見直すよい時期にきているのかもしれない。もう、既に西洋画はほとんど日本で紹介されつくしているだろう。門外不出というのは、規格外の大作か、寺院の壁に画かれたフレスコ画ぐらいのものではないだろうか・・・・・。これからは日本画を再認識する人が増えてくるように思う。これはいいことだ・・・・。

 さて、今回、喜多川歌麿を始め、歌川国芳、鈴木基一、渡辺崋山、といった珍しい浮世絵も多かったが、目玉は葛飾北斎の富嶽三十六景と歌川広重の東海道五十三次の版画展示だろう。北斎の富士の絵は、お馴染みの『神奈川沖波裏』『凱風快晴』である。『神奈川沖波裏』は記念切手にもなっているが、かつてドビュッシーが、その絵を観て作曲をしたというから、フランスの人にとっては度肝を抜かれるほど衝撃的で印象的な絵だったのだろう。『凱風快晴』は例の赤富士である。北斎の富嶽三十六景は計10点の展示であった。一方、歌川広重(安藤広重)は東海道五十三次、近江八景、面白いことに『摂洲天保山』を画いた作品まである。今の大阪天保山の姿を観たら、広重はあまりの変わりように仰天しそうだが、京都で終わらずに大阪まで出向いて浮世絵を残していたとは驚いた。

 さて、日本初公開163件あって、なるほどと感心しながら館を後にしたのであるが、いったいどれほどの浮世絵が海外に持ち出されたのか気になった。本当に明治維新というのは、日本の文化にとって良かったのかそれとも・・・・・・考えさせられる1日だった。
                                
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2008.01.25 (Fri)

古典文学を読む・・・・・E・ブロンテ『嵐ヶ丘』

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 私の中学生の頃というのは、文学少女と呼ばれる子がクラスの中に数人は必ずいたものである。そんな彼女達は決まって、成績がよく品行方正で世界文学全集たるものを読んでいた。私はそんな本の何処が面白いのかと、よくからかっていたりしたが、とにかく彼女達は毎日のように本を読んでいた。

 何時だったか、その中の一人の女の子が百科事典のような分厚いハードカバーで綴じられた文学作品を読んでいた。私は何を読んでいるのか確認したくて、近付いて取り上げるように題名を確認した。すると彼女は「何するの!」と私を睨みながら、「嵐ヶ丘・・・」と呟いた。その時に、私は『嵐ヶ丘』という文学作品があることを初めて知ったのであるが、私自身、その作品を読破するのは、それから5年も6年も後のことだった。

 最近、その頃のことを思い出すが、彼女たちは私に比べて、ませていたのか大人だったのか判らないが、単純に読書量だけを比較してみると、私とは比較にはならなかった。それでまた彼女達は、大方の子が『風と共に去りぬ』や『嵐ヶ丘』を読んでいたように思う。『風と共に去りぬ』も『嵐ヶ丘』も女性が書いた作品なので、女の子に受けるのかもしれないが、どちらが作品として優れているかというと、『嵐ヶ丘』であることは間違いない。『風と共に去りぬ』は映画化され、大ヒット映画となったが、文学作品としては物足りなさがあるのに対し、『嵐が丘』は女性らしい繊細さもあるが、見方によっては男性が書いたのではないかと思える部分もある小説なのだ。

 それでは簡単にあらすじを追ってみることにする。・・・・・イギリスのヨークシャーにある農場は嵐ヶ丘と呼ばれていた。或る日、農場主のアーンショーは一人の孤児を連れて帰る。アーンショーは、その子にヒースクリフと名付け、実の子のヒンドリー、キャサリンと一緒に育てるることになった。だが、ヒンドリーはヒースクリフを敵視するが、キャサリンとはある種の絆のようなものが出来上がっていた。でもヒンドリーはヒースクリフを虐待する。

 アーンショーが亡くなるとヒンドリーの暴挙はさらに増す。そのためヒースクリフとキャサリンの関係はより強くなる。一方、ヒンドリーは結婚してヘアトンが生まれる。

 キャサリンは裕福な地主リントン家の息子エドガーの求愛を受け、ヒースクリフを愛しながらも結婚する。それを知ったヒースクリフは突然姿を消す。キャサリンはヒースクリフを探すが見つからない。

 3年後、嵐ヶ丘に帰ってきたヒースクリフは外見は裕福な紳士であるものの、中身は復讐の鬼と化していた。彼はヒンドリーを、賭博に誘って財産を奪い、ヒンドリーの息子ヘアトンに虐待を加える。さらに憎悪からエドガーの妹イザベラを誘惑して妻とし、ついでにキャサリンに詰め寄ってエドガーを苦しめる。キャサリンはヒースクリフの妄執に耐え切れず女児を生んで死んでしまう。また妻のイザベラはヒースクリフとの生活に耐え切れず家を出てリントンを生むが、その後に死んでしまう。またヒンドリーも失意のうちに世を去る。

 ヒースクリフはリントン家の財産手に入れるため、リントンとキャサリンの娘を強引に結婚させるが、リントンは直後に病死する。そして、エドガーも死に、復讐の念が衰えたヒースクリフもキャサリンの幻を追うように死んでいく。そして、最後に残ったヘアトンと母と同じ名のキャサリンが結婚して話が終わる。

 こうしてあらすじを書いているだけで、人間関係が複雑に入り乱れ、最後には誰がどうなってどのように死んでいったのか、さっぱり判らなくなってしまう。私は、この小説を読んだ時、ヒースクリフの執念深さと共に、ヒースクリフに絡む人間関係の複雑さに戸惑いを隠せなかった。ヒースクリフはアーンショーに連れてこられて、その子供達と生活を始めるものの、虐待から復讐の鬼と化し、ヒンドリーを始め次から次へと不幸に陥れようとするが、あまりにも異常性を帯びた復讐の悪魔に背筋がゾッとした覚えがある。おそらく男が書いたとしたら、ここまで執念深い憎悪の塊のような性格を持たせることなど出来なかっただろう。だから、よくぞここまでの復讐劇を書いたものだとあきれ返ったものだ。でも、これも作者が女性だからと言ってしまうと、語弊があるだろうが、男性が書いた物語だとしたら、はたしてここまでの復讐鬼が登場しただろうか。『風と共に去りぬ』の物語にもいえるが、男よりも女の方が、もしかして粘着質な性質を内包しているのではないかと思える。日頃、男尊女卑だと言って威張っている男でも、いざとなったらオロオロして何も出来なくて案外だらしないものだ。その点において、土壇場では女の方が逞しいものであると私は考えているのである。一見、か弱き姿に見える女性でも、実は男以上に怖ろしい。だから、私は何時までたっても女心は判らないのである。
                                 
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2008.01.24 (Thu)

何時も飲んでいる焼酎『かのか』

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 今日は雪も舞い、みぞれ混じりの雨も降り、寒風も吹きまくる寒い1日であった。寒さはあまり苦にならぬが、これも限度問題である。昨年のような冬だと、寒いと感じた日はほとんど無かったが、今年は平年並みの寒さで推移している。

 若い頃は、こんな寒い日だとちょいと一杯とばかり赤提灯をくぐり、おでんや鍋に舌鼓をうち、日本酒なり焼酎なりを飲んで気分よく帰ったものであるが、最近は歳も重ねたせいなのか、いかんせん体力がない。若い若いと思っていたが、何時の間にか中年と言われる親父達の年齢に浸かっていた。どうりで体力が落ちている筈だと妙に納得して、この頃は、盛り場からすっかり足が遠のいてしまい、拘束から逃れるや大人しく家に帰るような生活を送るようになってしまった。ただ、帰っても相変わらず酒だけは、よく飲んでいるのだけども、このところ安い紙パックの焼酎ばかり飲んでいて、一升瓶の焼酎もお目にかかったことがない。それで今日は、私が毎日のように飲んでいる焼酎の写真をアップしてみた。

 私が今飲んでいる焼酎は『かのか』である。焼酎の多くが九州で作られるように、この『かのか』も当然、九州で作られている。でも製造元は、小さな醸造所ではなく、ニッカウヰスキーの門司工場(2001年アサヒビールがニッカウヰスキーの全株式を取得した為、アサヒビールの子会社となる)で作られていた。以前、私は『いいちこ』という大分の焼酎を飲んでいたが、このところ格下げなのか、紙パック入りの『かのか』に換えてしまったのだ。つまり『かのか』の方が『いいちこ』よりも400円程安価というけど、飲んだ限りさほど価格の差は感じられなかったので、現在は『かのか』が私の夜のお友達なのである。ところで焼酎ていうのは、何故に九州ばかりで作られているかご存知だろうか。・・・それは暖かい地域だからである。

 焼酎とは蒸留酒の一種で、主に南九州で作られる。南九州では、その昔、日本酒の製造を行っていたが、腐造が多くどうにもならなかった。それで、結局、酸を大量に出す黒麹菌を使用することで腐造の拡がりを防いでいる。そして、最近よく飲んでいる焼酎『かのか』は、南九州ではないが、北九州で作られていた。焼酎甲類乙類混和と表示があり、甲類66%、乙類34%となっている。種類としたら『むぎ焼酎』で、口当たりは癖が無く、比較的さわやかである。そして、私は何時もロックで飲む。でも、底冷えするような、こんな寒い夜はお湯割にして鍋を食べれば、心もお腹も豊になるというものである。
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2008.01.23 (Wed)

ザ・モンキーズのアルバムを聴く『小鳥と蜂とモンキーズ』

 アルバム『小鳥と蜂とモンキーズ』
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 1960年代の後半、実働5年に満たないグループが存在した。その名をザ・モンキーズという。

 話は1965年に遡るが、アメリカテレビ業界にバート・シュナイダー、ホブ・ラフェルソンという敏腕の若手プロデューサーがいた。彼等は映画『ビートルズがやって来るヤア!ヤア!ヤア!』を観て、アメリカでも似たようなグループを作れないだろうかと考えた。そこで、企画されたのがオーディションである。一般公募というかたちがとられ、1965年9月に雑誌を通して広告を掲載した。内容は・・・・・新しいテレビ・シリーズの役者として、ロックやフォークの演奏が出来る17歳から21歳までの、個性的な4人のキャラクターを求む・・・・・というものだった。

 このオーディションには437人が応募し、結果、デイビー・ジョーンズ、ミッキー・ドレンツ、ピーター・トーク、マイク・ネスミスの4人が選ばれ、彼等はショーマンとしての訓練を受けた。そして、ついに1966年9月、彼等をアイドル・グループとして育て上げるべくテレビ音楽ショー『ザ・モンキーズ・ショー』をスタートさせ、同時に彼らのデビュー・シングル『恋の終列車(Last Train to Clarksville)』も発売された。結局、この企画は大成功し、テレビは高視聴率、シングルは大ヒットとなった。こうして生まれたのがザ・モンキーズということになる。この頃、日本でもアメリカから遅れて、『ザ・モンキーズ・ショー』がテレビで放映され、また『恋の終列車』も大ヒットした。でも、私が記憶するところの当時の感覚としては、作られた急造のグループという範疇にあり、所詮はビートルズの亜流という認識でしかなかった。でも当時のヒットメーカーに曲を依頼しただけあって、彼等にはお手頃のよい曲が提供され、企画はまんまと成功したのである。

 ところで私は、最近、彼らの曲の一曲を鼻歌でを奏でることが頻繁にある。それがザ・モンキーズの5枚目のアルバム『小鳥と蜂とモンキーズ』の中に入っている曲『デイドリーム・ビリーバー』である。この曲は1968年4月に発売されたが、メロディが判りやすく、一度聴いただけで印象に残る曲なのですぐにヒットした。フォーク・グループのキングストン・トリオにいたジョン・スチュワートが書いた曲であり、アメリカでは4週連続1位を記録し、日本でも大ヒットした。そして、モンキーズの代表曲の一つとなり、後年、日本のグループがカバーしたことでも有名になるのであるが、私がよく口ずさむ曲の一つでもある。

 私が口ずさむ曲というのは、1960年代のポップスが多いのであるが、やはりメロディアスなバラードが中心となる。その幾つかを挙げるとビートルズ『アンド・アイ・ラヴ・ハー』『ガール』『ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア』『アイ・フィール・ファイン』『オール・マイ・ラヴィング』、ローリング・ストーンズ『アズ・ティアーズ・ゴー・バイ』『ルビー・チューズデイ』『レディ・ジェーン』、ハーマンズ・ハーミッツ『見つめ合う恋』、タートルズ『ハッピー・トゥゲザー』、シーカーズ『ジョージ・ガール』、ペトラ・クラーク『ダウンタウン』・・・・主なところはこのあたりの曲なのであるが、モンキーズの『デイドリーム・ビリーバー』も思わず歌ってしまう曲である。とにかく歌い易いから知らぬ間に、歌詞がメロディにのって軽やかに出てしまう・・・。

Oh I could hide neath the wings of the bluebird as she sings
The six o'clock alarm would never ring
But once it rings, and I rise, wipe the sleep out of my eyes
The shavin' razor's cold and it stings

Cheer up sleepy Jean, oh what can it mean
To a daydream believer and a home coming queen

You once though of me as a white kight on a steed
Now you know how happy I can be
And our good times start and end
without dollar one to spend
But how much baby do we really need

 ザ・モンキーズは1970年6月に解散した。それはビートルズ解散宣言から2ヶ月後のことだった。アメリカのビートルズを目指して意図的に作られたグループ『ザ・モンキーズ』だったが、ビートルズの解散と共に消えていってしまった。結局は何だったのかということになるが、曲は何時まで残り、私は今でも口ずさむ・・・・。これだけでも、この企画は成功したのだといえないだろうか・・・・。 

『デイドリーム・ビリーバー(Daydream Believer)』を歌うザ・モンキーズ。

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2008.01.22 (Tue)

古典文学を読む・・・・・トルストイ『復活』

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 こんな唄をご存知だろうか。

 "カチューシャ可愛や 別れのつらさ
  せめて淡雪 とけぬ間に
  神に願を かけましょか"

 これは『カチューシャの唄』という。大正時代に流行った歌謡曲で、松井須磨子が唄ったものだ。大正時代、芸術座の島村抱月によって舞台化されたトルストイの『復活』で、カチューシャを演じた松井須磨子が劇中に唄って評判になった曲である。また、この時に松井須磨子が頭にしていたC型のヘアーバンドをカチューシャと呼ぶようになったのは、この時からである。

 それで、トルストイの『復活』とはどんな話なのかというと・・・・ネフリュードフ公爵が、或る日、陪審員として地方裁判所の法廷に出ることとなった。その裁判は殺人強盗事件である。売春婦が客に毒を盛って殺した上に、金と指輪を盗んだという。陪審員席のネフリュードフは、被告の顔を見て、名前を聞いて愕然とした。被告の女は、かつてネフリュードフが伯母の屋敷に遊びに行った際、誘惑して弄び、金を与えて棄ててしまった小間使いの女カチューシャだったのである。ネフリュードフはカチューシャが、とうとう売春婦にまで堕落して落ちぶれてしまったことに対して、自責の念に囚われだす。

 カチューシャは無実だったのだが、法廷の手続きのミスで懲役4年が確定。その結果、シベリヤ送りとなってしまった。ネフリュードフは自分のために女一人が崩れ去ったことに深い罪の意識を感じ始め、どうにかしてでも彼女を救わねばならないと決意し、刑務所にカチューシャを訪ねて恩赦を求めて奔走した。それでも刑を逃れることは出来ず、カチューシャは囚人隊に加わってシベリヤに向う。ネフリュードフは貴族の生活を棄てて、カチューシャのあとを追うようにシベリヤへ行く。

 シベリヤで判決取り消しの特赦が下りることとなり、ネフリュードフはカチューシャを訪れる。カチューシャは自由の身となっていた。ネフリュードフはカチューシャと晴れて結婚するつもりでいた。なのにカチューシャは、囚人隊で知り合った政治犯シモンソンと結婚することを決意し、ネフリュードフにに許しを被る。ネフリュードフは複雑な気持ちで祝福した。そして、カチューシャはシモンソンとさらに遠い旅へと出発するのだった。

 この『復活』は、日本で特に人気があって、トルストイの代表作のように思われている。でも実のところ、トルストイの代表作といえば大作『戦争と平和』で、『復活』を意識することは今日では余りない。けども日本ではメロドラマ風の『カチューシャ物語』として語られることが多く、人気ある作品でありトルストイの代表作と思われていた。

 はたして、この作品は言われるところのメロドラマであろうか。違うと思う。トルストイは文明批評に長けた人物である。単なるメロドラマでは片付けられない風刺、皮肉、批判が込められていることは、けだし確かなことである。そして、トルストイがこの作品を書くまでに至らせしめた目的というものは、当時の帝政ロシアにおける偽善的で世俗的な権威に対する当てこすりではなかったかと思える。

 当時のロシアにおける権威的なもの、官庁、元老院、裁判所、刑務所、教会、大地主等・・・これらの仮面を剥ぎ取り、権威主義への痛烈な罵倒、及び上流階級と下層階級の間に潜む不条理、すべてにおいて体制批判を行っていたのである。つまりトルストイはメロドラマという形をとりながらも、帝政ロシア社会の矛盾に満ちた世界を、彼特有の方法で強烈にシニカルに痛罵するのを意図として書かれた作品なのである。従いまして、カチューシャ可愛や 別れのつらさ~なんて唄で知られる『カチューシャ物語』に代表される恋愛物語なんかでは、けしてないということを申し上げたいのである。
                               
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2008.01.21 (Mon)

阪神のイカ焼きを食べる

 玉子入りデラックスバン
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 一昨日の土曜日に、阪神百貨店地下1階のフードパーク売り場にあるイカ焼きを買って食べた。久々に買って見たが、値上がりしていて驚いた。イカ焼き一枚140円、デラックスバン(玉子入り)200円、和風デラックスバン210円。どれも一枚20円づつ値上がりしたのだろうか。最近は食べたことがないので、いつ値上がりしたのか知る由もないが、色んな諸事情でやむなく値上げと相成ったのだろうか。腹が減っていたというのでもなかったが、持ち帰ってビールのつまみにでもしようと思いデラックスバンを5枚買ったのだが、1000円でおつりは3円だった。

 ところで、このイカ焼きといっても、これは大阪のソウルフードで、全国的にはマイナーな食べ物である。おそらく全国的にイカ焼きというと、たぶんイカの姿焼きのことを指すと思う。イカに醤油をかけて、そのまま焼いたものをイカ焼きという。だが、大阪でイカ焼きというと、このお好み焼きとも一銭洋食焼きとも違うメリケン粉にイカの切り身をのせて鉄板でプレスするように焼いたものをイカ焼きという。おそらく知名度ではお好み焼き、たこ焼きに比べると遥かに及ばないと思う。まず、大阪以外だと知る人も少ないと思う。お隣の京都だって、ほとんど売っているのを見かけたことがない。だけども大阪の人は馴染んでいる食べ物なのである。

 そもそも、このイカ焼きは明治時代から存在するらしく、大阪の煎餅職人の賄い物として作られていたという。まず鉄板の上に小麦粉を溶いたものを丸く薄く拡げ、そこにイカの切り身をのせ、そして上の鉄板で挟んで焼き上げる。すると丸く大きく圧縮され、焼けたイカと小麦粉が混ざり合った香ばしい匂いが周辺に漂う。お好み焼きのようなふっくら感はないが、もちもちとした食感で、小腹が空いている時は適度のおやつとなる。

 現在、大阪では屋台も含めて、このイカ焼きの店がどれほどあるのか把握してないが、最も知名度の高いイカ焼きが、阪神百貨店のイカ焼きなのである。常時、列を成していて、長い時は2、30人は並んでいるだろう。でも見事なまでの作り方、捌き方で、思っている以上に待ち時間が短くてすむ。おかげで、この日、私もほんの数分待っただけで、デラックスバンを買い求め、帰宅してから電子レンジで温めて、ビールを飲みながら食してみた。うん、昔から味は変わってない。けして美味というのでもないが、何故に人が列をなしているかというと、飽きがこない味なのである。小麦粉を魚等を中心にしたダシで掻き混ぜ、イカと玉子をのせて焼く。すると小麦粉に含有されるグルテンの作用が働き、強く腰のあるモチモチとした食感が生まれ、そこへ無添加のソースをさっと塗って完成。これがひつこくなく、あっさりとした味で、5枚ぐらいなら軽く胃に入ってしまう。

 ここの阪神百貨店のイカ焼きは1957年から売られているという。私がこのイカ焼きを知ったのは、高校生ぐらいだったと思う。当時は、あまり大阪に行く機会は無かったが、大阪の親類の人に教えてもらって、一度食べてみたら不思議な味がした。それ以来、忘れた頃に、何となく食べたくなるファーストフード・・・・・それがイカ焼きというものである。最近、私は発見したのだが、ビールのつまみにいいが、案外、焼酎とも相性がいいことに気がついた。だから焼酎を飲むとき、よくイカ焼を食べていることがある。さほどボリューム感のある食べ物ではないので、満腹になるというものでもない。でも、すきっ腹の時、たとえイカ焼き1枚でも食べていると焼酎そのものも美味しく感じるのである。
                                                       
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2008.01.19 (Sat)

大阪城に行く

 大阪城内に来るのは、1年ぶりである。でも去年は、それこそ何10年ぶりかというほど、久々の来訪だったことを考えれば、滅多に来ない大阪城である。

 この写真は南外堀から見た大阪城の石垣である。六番櫓だけが残っている。
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 大阪城の西側の入り口、大手門から入る。
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 大手門から入り、多門櫓を抜けると内堀が姿を現す。西側の内堀は空堀である。でも天下の巨城だけあって石垣は堆い。しかし、現存している石垣や本丸は、全て徳川が再建した大阪城であって、この本丸の下に豊臣時代の大阪城は眠っている。
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 本丸の入り口にある巨石・蛸石・・・瀬戸内海の犬島から運んだという130トンの巨大な岩だが、どうやってここまで運んだのだろうか・・・見てみたい。
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 本丸に入ると、天守閣が聳えている。大阪城の天守閣は1615年の大阪夏の陣で落城したが、その後、徳川が再建した。・・・・・豊臣秀吉の建てた天守閣は、漆黒の天守閣であったとされるが(?)、立っていた場所も違っているし、本丸自体の構造も形も違っていた。
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 徳川が再建した天守閣であるが、1665年の落雷によって焼失し、その後、二世紀半に亘って天守閣の姿のない城であったが、1931年に大阪市民の募金150万円で再興された。以降、天守閣を再興させるモデルケースとなる。現在の天守閣は鉄筋コンクリート製で、エレベーターがあり、中は博物館となっている。
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 昨年も大阪城には来ているが、天守閣に登るのは、それこそ何十年ぶりだろうか・・・。小学校に入った頃に親父と来たことがあるが、それ以降は、学生の頃に一度、登ったきりである。天守閣に登ると最上階からは大阪市内を眺望できるようになっているが、最近は天守閣よりもビルの方が高いので、あまり見晴らしがいいことはない。この写真は、大阪駅から西梅田方面を望んだもので、空中庭園のある梅田スカイ・ビルが右端の奥に見えている。後背の山は六甲山系である。
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 先ほどの写真から右によると、阪急グランド・ビルとHEPファイブの観覧車が目に入る。
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 こちらは北浜、中之島方面である。
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 場所を移動して京橋方面を眺める。映画『ゴジラ対ビオランテ』でゴジラが壊したビルの数々が屹立している。
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 こちらは大阪城ホール。上から見ると亀の甲羅みたいだ。
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 こちらは西の方角。正面に古い大阪府庁がある。老朽化していて、雨漏りもするというが財政難で建て替えも出来ないという。東京都庁とは月とスッポンほどの違いがあるが、建物自体は風格がある。でも後背のビルの方がどうしても目立ってしまう。
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 南西方面を望むと、ビルの間に京セラドーム(旧大阪ドーム)も見える。
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 南の方角に目を向けると、通天閣が寂しく立っている。大阪の新世界付近は高い建造物が少ないので、目立ってはいるが高さはたったの103m。今時で言うならば超高層マンションよりも低い。あと何年かすると、この近くの阿倍野に高さ300mの近鉄ビルが建設される。こうなると通天閣は骨董品扱いになってしまいそうだ。
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 天守閣を別の角度から撮りました。
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 最後にもう一枚。北の方角から眺めた天守閣。ところで大阪城は、やたら韓国からの観光客が多かった。この人たち、豊臣秀吉に嫌悪感を持ってないのだろうか。朝鮮出征という意味のないことをやろうとした秀吉である。本当にどう思っているのか気になった。
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2008.01.18 (Fri)

吾が青春時代の映画を観る・・・・・『イージー・ライダー』

 『イージー・ライダー』1969年製作 アメリカ映画

 監督 デニス・ホッパー

 出演 ピーター・フォンダ
     デニス・ホッパー
     アントニオ・メンドーサ
     ジャック・ニコルソン
     カレン・ブラック

 【あらすじ】マリファナの密輸で大金を手にしたキャプテン・アメリカとビリーは、フル・カスタマイズされた大型のチョッパー型オートバイに乗って旅に出る。南部を目指して、ただひたすら走り続ける。途中、ヒッピーの集落に入るも、2人は拒絶される。先を目指す2人は旅を続けなければならない。次に彼らは、やって来た町のパレードに無許可で参加し、留置所にぶち込まれる。そこでは、弁護士ジョージもいて、彼と知り合い、今度は3人で旅に出る。3人の目指すべきところは、ニューオーリンズの謝肉祭である。しかし、彼らの行く手には災難が・・・・・・。自由の国アメリカの真の姿を求めた彼等であったが、南部で直面した現実という大きな壁・・・・・・・。

 この映画が初めて上映された頃というのは、B級映画扱いでマニアックな人以外、さほど話題に上がらなかったと思う。それが、月日を経て、徐々にアメリカン・ニューシネマを代表するカルト映画の傑作として語られるようになっていく。

 この映画が、最近語られるような素晴らしい映画であったかどうか評価は分かれるところであるが、少なくとも当時から多くの若者に支持された映画であることは確かである。・・・・・バイク、マリファナ、ヒッピー。今の若者に、1960年代末期から1970年代初頭がどんな時代であったか、説明しても意味が無いと思う。この時代は御しきれない何か一つの大きな潮流があって、それが若者文化として巨大に花開いていた頃である。

 アメリカで言うならベトナム戦争が激化していたし、中国で言うなら毛沢東の文化大革命があり、日本でも全共闘の活動が最も峻烈を極めていた。だからあの当時に生きてない人に、どんな時代であったかを説明するのに一万語を使っても言い表わせるものでもないし、時代の違いを解いてもほとんど無意味と思える。大袈裟ではあるが、とにかく若者が何かを変えるのだといった風潮が、世界全体にあったような気がする。つまり、そんな頃に作られた映画が『イージー・ライダー』なのである。

 時代はまさにアメリカの激動期。公民権運動が盛んで、ベトナム戦争の泥沼化により、アメリカの行く末に暗雲が漂っていて、それは映画にも反映された時期であった。この当時、若者は、それまで繁栄を謳歌したアメリカという国に突如、反旗を翻した。アメリカの若者達は、自ら動き出し、嘘と偽りで染められたアメリカという国を疑いだした。そういった動きが、ポリシー、音楽、ファッション、映画にまで顕著に現れ、とうとうアメリカン・ニューシネマという独自のスタイルの映画を
生み出したのである。

 アメリカン・ニューシネマ以前のハリウッド映画というのは、相変わらず能天気なスペクタクル映画、歯の浮くような恋愛物、古色蒼然としたミュージカル映画、時代錯誤の西部劇等、現実性を無視したスター偏重の娯楽作品が大多数を占めていた。その結果、アメリカの映画産業も日本と同様、斜陽産業になりかけていたのである。だから、映画の大きな変換期でもあったし、多くの映画ファンは新しい流れを期待していたのでもある。そして、登場したのがアメリカン・ニューシネマであった。

 アメリカン・ニューシネマというのは、素晴らしいアメリカを謳うような自画自賛の映画ではなく、アメリカの悩める問題にメスをいれ、アメリカの恥部をむしろ披瀝するような現実を直視する映画である。それでこの1960年代後半から1970年代前半にかけて、この手の映画が増えてくることとなる。この時代の映画はスター主義ではなく、作品の娯楽性よりも内容に焦点が定められるようになった。

 『俺たちに明日はない』『卒業』『ワイルド・バンチ』『真夜中のカーポーイ』『明日に向って撃て!』『M★A★S★H』『ファイブ・イージー・ピーセス』『いちご白書』『ラスト・ショー』『フレンチ・コネクション』・・・・・・。何処か青春の匂いがするのは、それまでの娯楽主義のハリウッド映画ではないからだろうか・・・・。そんなアメリカン・ニューシネマの傑作の一つとして『イージー・ライダー』は語られることが多い。

 当時の典型的な若者ファッションというか、長髪、サングラス、ジーンズに身を固め、ハーレー・ダビッドソンの巨大オートバイをカスタマイズし、それに跨って南部へ向かって旅に出る。映画はロード・ムービーなのであるが、その彼等に降りかかるアメリカの現実。自由であるはずの国アメリカで、実は保守的な人による弾圧が彼等を待ち受ける。南部に近づけば近付くほど、外見からしてヒッピー風の2人に対する風当たりは強くなってくる。ある村では保安官をはじめとして村の人が悉く悪意の目で彼等を眺める。とうとう野宿している彼等を村人が襲撃する。難を逃れたキャプテン・アメリカとビリーではあるが、ジョージは殴打され死んでしまう。

 難を逃れた2人は南部深くまで入っていくが、やがては彼等を快く思わない一般の人に爪弾きにされる。これが自由の国であるはずのアメリカの悩める側面なのである。アメリカの保守性を呪訴し自由は微塵も感じられない・・・・・。かつてアメリカの豊かさに触れ、アメリカ文化に憧れた日本は、この時代を境にして目標を大きく失っていく。そして、日本が経済大国として、エコノミック・アニマルとして世界に君臨し始める過渡期であっただろうか。アメリカは自ら、自分の国にダメだしをしたのである。また、そんなアメリカン・ニューシネマ全盛期の頃、どういう訳か私は青春時代を過ごし、アメリカという国に、アメリカという国の文化に嫌気がさしたのも事実であり、まだ成熟度の足りなかった日本の文化にも物足りなさを感じていたものである。

 『イージー・ライダー』のオープニング。ステッペンウルフの演奏による元祖ヘビー・メタル『ワイルドで行こう(Born to be wild)』の曲にのって、2人のオートバイが疾走する。

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2008.01.17 (Thu)

あれから13年

 1月月17日の今日、日本列島は寒波に見舞われ、京都市内では雪が降っていた。思えば13年前の1月17日も寒い日であった。

 1995年1月17日、三連休明けの火曜日だった。まだ日の出には早い午前5時半、私は目が覚めた。部屋の中は真っ暗ではあったが、カーテン越しにうっすらと仄かな明かりが、一抹の光芒を燈していた。でも吐く息は白く、誰の目にも深々とした寒さが外気を蔽っているのは確認できた。私は目が覚めてはいたが、布団の中が心地よく、暫くはまどろんでいた。

 ところが、そんな静寂を打ち消すように、家がゴトゴトと揺れだした。「地震!」私は咄嗟に布団から飛び出し、何をするでもなくその場に座っていた。すると揺れが突然大きくなる。それは、かつて経験したこのない大きな揺れであり、私はその場で箪笥と書棚を手で押さえ、ただ揺れに負かして跪いているだけで何も出来ないではあったが・・・。時間にして何十秒揺れていたのだろうか、見当がつかなくて、揺れが収まるや思わず一息ついた。くわばらくわばら・・・・。

 その直後、これからどうしようかと考えた挙句、テレビで地震情報を知ろうと思いスイッチをいれてみるものの、停電していたのである。その後、30分ほどしただろうか、電源の入っていたテレビが突然ついて、音声が部屋に響いていた。早速、地震のニュースをやっている。それによると震源は淡路島で、神戸を中心に被害が出ている模様とアナウンサーが伝えてるではないか。

 でも、まだその時は、地震の被害がどの程度の大きさかというものが、まったく掴めず私は、出勤の準備にかかっていた。7時前には家を出るので、テレビをつけっぱなしにしていたが、その間も刻々と地震のニュースが入ってくる。でもまだ映像はテレビに映されてなく、ただ何処で家が倒壊しているとか、ガラスが落ちたとか断片的に伝えているだけであった。そうこうするうちに私は家を出て最寄の駅に着いたものの電車は走ってない。仕方なく一端、家に舞い戻り会社に電話を入れて、すぐに出勤できないと報告し、電車が動き次第、出勤すると伝えた。その時である。私の姉から電話があり、家族は無事だから安心するようにといい、そちらは大丈夫かという。私は「大きい地震やったけど、何の被害もないで」というと、阪神間は甚大な被害が出ているというではないか。私はそれを聞いて驚いた。

 私は電車が動き出してから出勤したものの、職場の方は閑散としていて、出勤率は7割にも達していなかったように思う。あいにく私の住む京都近辺は大した被害も無かったが、阪神方面は未曾有の被害が出ているというので、仕事を中断してテレビを見る事にした。やがて、テレビはヘリコプターから映した映像を流していた。すると息を飲み込みたくなるような光景が、次から次へとテレビに映し出されていたのである。

 高速道路が横倒しになっているし、電車は脱線して転覆しているし、家は軒並み倒壊しているし、それも何処もかしこも見覚えのある町並みで言葉にならなかった。これは大変なことになったと思い、私は阪神地区に住む、知人、友人、親戚に片っ端から電話をかけてみたのである。ところが、一向に電話は繋がらず、結局は消息も不明であった。

 その日は帰宅して、テレビのニュースにかじりつき、身元が確認されている死者の名前を一人一人凝視した。あいにく心当たりある人の名は出てこなかったので、一安心であったが、相変わらず誰一人、無事なのか消息が判らない。地震の起こった日は、火曜日だったので、私は仕事が休みの日曜日の前日まで働き、休日の日曜日に、阪神方面に住む知り合いを尋ねようと、スーパーで食料品やタオルや石鹸を買い込み、阪急電車に乗って西へ向ったのである。

 電車は西宮北口までしか運行しておらず、そこからは徒歩である。そして、その時のことなのであるが、電車が尼崎市内を走っている間は、さほど被害は目立たないのであったが、武庫川を越えて西宮市内に入るや否や、私は風景が一変するので驚愕したものである。まさにそこは、この世の光景とは到底思えなかった。まさに断末魔の悲鳴が聞こえてきそうな光景が目の前に広がっていたのである。木造家屋は軒並み全壊、半壊、巨大な鉄筋コンクリートのマンションも横倒しになっている。また倒れていなくても、マンションの一階部分が潰れていたり、ひびが入っていたりして、その瓦礫が道路を塞いでいる。全く道路は寸断されて歩けやしない。でも、私と同じ考えの人が多数いて、群れをなすように黙々と西の方角へ向って歩いているのだ。

 私は片道で10kmは歩いたと思う。阪急電鉄の線路際を延々と歩いて、岡本まで行き、その辺り住んでいた友人をまず探した。住所録と地図帳を見ながらこまめに探すが、家が崩れていて、なかなか番地までは解らない。でも、どうにか友人の家のあるマンションまで到着した。すると貼り紙がしてあって、「ここの住人は○○小学校に非難しています」ということで、その小学校まで行って、何とか友人とは対面できたのである。

 それから一ヶ月もの間、私は休日になると消息の解らない何人かの友人と会う為にリュックを担いで、阪神方面へと出かけていったものである。

 あれから既に13年。神戸、芦屋、西宮、宝塚、伊丹・・・これらの被害甚大な街並みは、今や立派に復興した。でも現実に被害に遭った人々にとっては、永久に消えることのない心の痛手を負っている。実際に関西以外では、最近は阪神大震災のことも忘れ去られているだろう。でも現に6400人以上の人が亡くなっているのである。だから風化させてはならないと思う。

 この日本列島に住む限り、何処で大地震が起こりうるか解らない。1923年の関東大震災では死者、行方不明10万人以上という記録がある。また東海地震、東南海地震、南海地震と30年~40年以内に起こるだろうといわれている地震もある。昨年の7月16日には新潟中越沖地震が起こり、その記憶も生々しいところだ。災害は忘れた頃にやって来る。供えあれば憂い無し・・・・・・。もう一度、身の回りを点検してみたいと思う。
                                
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2008.01.15 (Tue)

株価が下がる

 3連休明けの日経平均株価が14000円を割ってしまったという。予想はしていたが、正月明けからあまり景気のよい話は出てきません。終値の14000円割れは2005年11月2日以来だという。

 そもそもアメリカのサブプライムローン問題で、アメリカの金融機関が痛手を被ったことから、日本にも飛びしていることにもなるのだろうが、最大手のシティ・グループが巨額損失を公表して、会長が交代してから既に数ヶ月が経つ。昨年11月には第4半期(2007年10月~12月)に最大で110億ドル(1兆1900億円)の損失が出ると発表し、アラブ首長国連邦のアブダビ投資庁に75億ドル(8100億円)の融資を受けた。その時、シティはサブプライムローン問題により、信用を失墜し経営不振に陥っているとまで報道されたり、バンク・オブ・アメリカやJPモルガンへの合併説まで噂されたり、とにかく雲域が怪しかった。最近、シティはSIVと呼ばれる連結対象外の運用会社を7社持ち、490億ドル(5兆2900億円)の損失の火種ともなる証券化商品をも保有していたという。これにより証券化商品の保有額を5500億ドル(5兆9400億円)として損失計上の作業を進めてきたものの、SIVを連結させることになって、保有額は1040億ドル(11兆2300億円)と倍増してしまうこととなったのである。

 サブプライムローン問題で暴落した証券化商品は、額面の15%程度でしか買い手がない状況であるらしく、アメリカのCNBCはシティの評価損は最大240億ドル(2兆5900億円)と報じている。しかし、これも大甘の数字だと予測する経済学者もいて、今後発表しうる損失は400億ドル(4兆3200億円)に達する可能性も大という。400億ドルなんていうとシティ・グループの自己資本(1338億ドル)の3割に相当するというから驚愕する。また、シティの自己資本率が10.61%から7%まで下がることになり、今後の展開としはますます予断を許さないというところである。

 シティ・グループというのがそこまで痛手を被っているのかと頭を抱え込んでしまうが、総資産2.2兆ドルという世界最大の企業にしては意外に脆いなあと思ってしまう。でもアメリカの代表的な株価指数であるダウ平均株価の構成銘柄であるだけに、サブプライム住宅ローン問題の焦げ付き問題だといっても、しっかりしてもらわないと日本の株価にまで繁栄するのだから困ったものである。

 アメリカ金融機関間の決算発表が15日のシテイ・グループから始まって、2月末まで続き、暫くは様子を眺めることになるだろうが、今後、どこまで株価が下がるのか・・・・・。先行きが見えない・・・・。
                                
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2008.01.14 (Mon)

夏目漱石を読む・・・・・『こころ』

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 かれこれ30年ほど前になるだろうか。当時の大学生に最も感銘を受けた小説は何かとアンケートをとったところ、夏目漱石の『こころ』と答えた人が一番多かったという。今は時代が変わってしまったので、このような小説に心が動かされるのかどうか解りかねるが、とにかく昔の若者に支持された小説であることは確かだ。

 物語は鎌倉の海岸で始まる。主人公である私は、鎌倉の海岸で先生に出会った。先生は超然としていて、何処か取っ付き難かった。私はそんな先生に興味を持ち次第と先生の家に足繁く通うようになる。先生には学があり美しい妻がいて、一見何不自由なさそうではあるが、社会的には何もしていないという不思議なところがあった。そして、月に1回、雑司ヶ谷の墓地を訪れるという奇妙な習慣を持っていた。先生には誰にもいえない暗い過去があるようで、私は先生の心が知りたいが、先生はなかなか内面を見せようとしなかった。でも次第と私と先生は親しくなっていくのである。

 そして、そんな或る日、私は母から父の具合が悪いと言う手紙を受け取り急遽、故郷へ帰らなくてはならなくなった。でも帰ってみると父の病状はさほど悪くは無かった。東京に戻って私は論文を書き上げるのに奔走していたが、この間、先生と私の親密度は増し、先生は私に財産があるのなら貰っておいた方がいいとか、田舎者について、親類について色々と語るのであった。

 やがて私は大学を卒業し、再び故郷へ帰る。気になる父の病状はあまり変わっていなかったが、私が東京に戻ろうとする直前に、またも父は倒れたのである。そんな矢先に先生から分厚い手紙を貰う。手紙には延々と先生の心の核心を解くような内容が綴られていたのである。

 以上が、この小説の大方のあらすじなのであるが、ここから以降は、長い長い手紙の文章が小説の最後まで載せられているだけで、あらすじといったものはない。ただ、この手紙に、それまでの先生の人に見せなかった闇の部分が、全てあからさまにされているのであり、小説の謎が徐々に明白となっていくのである。

 この小説の実に半分を先生の手紙が占める。そこには先生が何故、厭世的な生活を送り超然とした生き方をしているのか、全ての謎解きがあった。先生は富裕な家の孤児だった。ところが先生に相続権のある財産を叔父が横領したという事実に気がつき、自分の孤独を知るのである。その当時、大学生だった先生は叔父一家と義絶し、自分に渡された財産を処分して金に換え、二度と戻らぬ決心で故郷を後にして東京へ居を構えるのである。さらに先生は、その後に未亡人と美しいお嬢さんがいる自分の下宿先に困窮している親友のKを同居させるのである。Kは先生に似た不幸な家庭に育った青年であり、究極の堅物であったが故に思い込みも激しかった。また、そんなKを先生は尊敬しているのでもある。それが、突然、先生はKからお嬢さんに恋していると告白を受ける。先生は堅物一辺倒のKに、そんな恋愛感情まで持ち出されるとは思ってもいなかった。また、先生も当然のようにお嬢さんに恋心を抱いていた。しかし、先生はKに忠実であるならば、その恋もKに譲らなければならなかったであろうが、先生は自分の感情の赴くままKを裏切るように、未亡人に先生とお嬢さんの結婚の許しを得るのだった。すると、まもなくKは、その事実を知りナイフで頚動脈を切って自殺してしまうのであった。

 先生は暫くして大学を卒業し、お嬢さんと結婚するのである。これだと何不自由なく暮らす夫婦であろうが、先生には、この時から絶えず暗い影がついてくるようになる。雑司ヶ谷に月1回訪れる墓地は友人Kの墓地だったのである。Kの自殺以来、先生はKのことが頭から離れなくなり、余生のような生き方を強いられてきたという。そして、明治天皇崩御があり、明治の精神が明治で終わるかのように、後に生き残ったものは時代遅れだと先生は思ったのか、乃木大将の自決を知らされた後に、先生も自殺を決意するのである。

 この小説の最後のところで、「もう何もする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」と書かれてある。先生は妻にも何も言わず、己の過去に対して持つ記憶を出来る限り純白にしておきたかったのか、何も言わず自殺したのである。

 如何でしょうか・・・・・。かつて私は、この小説を読んだ時は非常に窮屈な心境に陥りました。明治の世とはこのようなものだったのか・・・。今時、友人との三角関係で友人を裏切ったからといって、友人の自殺に伴って自身のエゴイズムに悩み続け、自らも自殺をするといった人はいるのでしょうか。私は『こころ』を読んだ直後、その感受性に私は感銘を受けたのですが、言い換えれば自分の生きている時代とのギャップを感じ、明治の人の生き様というものにも憧れたものです。結局、先生というのは、エゴイズムの叔父に騙された結果、自らエゴイズムになり通したがためKを裏切った形となり、それが結果的には、その良心の呵責から永久に抜け切れなかった。・・・・・結局、小説の到達点はそのあたりになるのだろうか・・・。
                                                       
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2008.01.13 (Sun)

ジャズ・アルバムを聴く・・・・・デイヴ・ブルーベック・クァルテット『タイム・アウト』

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 『テイク・ファイブ』という非常にのりのいい曲を、初めて聴いたのは何時頃だったのだろうか。とにかく調子のいいリズムで聴いていて体が動くのである。その頃、その曲のリズムとメロディはすっかり私の中に染み付いていたが、誰の曲なのか、その題名さえも知らなかった。

 結局、デイヴ・ブルーベック・クァルテットの代表的な曲で、『テイク・ファイブ』という曲だということを知るのは、高校生の頃だったと思う。FM放送でのジャズ番組で突如として流れ出した。私は「あー!この曲だ」と思った。ところが、今度はデイヴ・ブルーベック・クァルテットのことが知りたくて、大手の書店に行きジャズの雑誌や書物を立ち読みした覚えがある。そして、今度は白人中心のバンドだったことに驚いた。

 リーダーであるピアニストのデイヴ・ブルーベックは1920年にカリフォルニアで生まれている。ピアニストだった母に4歳からピアノの手ほどきを受け、9歳でチェロを弾いたらしい。大学の時にはシェーンベルク、ミヨーという有名な作曲家から指導を受けるなど、一貫してクラシック音楽畑の人間だったという。

 一方、ポール・デスモンドは、1924年にサンフランシスコで生まれ、高校でクラリネットを学ぶが、サックス・プレーヤーとなり。デイヴ・ブルーベックと知り合い、やがてデイヴ・ブルーベック・クァルテットでアルト・サックス奏者として活躍することとなる。

ジョー・モレロというドラマーがいる。この白人ドラマーもデイヴ・ブルーベック・クァルテットの一人だが、この見事で流麗なスティックさばきには見惚れてしまうが、この人は1928年生まれで、生まれつき視力が弱く、聴覚とリズム感で補うようにドラムスを会得したのである。

 以上三人がデイヴ・ブルーベック・クァルテットの主要人物であるが、そこへベースのジーン・ライトが加わって、この名作『テイク・ファイブ』が録音されたのは1958年のことである。ジャズというのはニューオーリンズから生まれた黒人音楽で、その音楽シーンの中心はやがてシカゴやニューヨーク等に移り、西部ではジャズ不毛と思われていたが、デイヴ・ブルーベック・クァルテットは西海岸で生まれたウェストコースト・ジャズである。でも当初、ジャズとはいえ少し違和感を感じたのは、変拍子ジャズだからだろうか。ジャズの場合、2拍子、4拍子以外のものをタイムアウト(変拍子)と呼び、その代表的なジャズが、この『タイム・アウト』なのである。

 レコーディングされている曲は全部で7曲。『トルコ風ブルー・ロンド』『ストレンジ・メドウ・ラーク』『テイク・ファイブ』『スリー・トゥ・ゲット・レディ』『キャシーズ・ワルツ』『エヴリバディーズ・ジャンピン』『ピック・アップ・スティックス』

 余りにも有名な『テイク・ファイブ』は3曲目である。4/5拍子という変拍子にポール・デスモンドのアルト・サックスのメロディが栄える。またジョー・モレロの巧みなドラム・ソロに思わず唸る。総体的にこのアルバムは、9/8拍子で始まったり、4/4拍子があったり、6/4拍子があったり特異でもあるが、気のきいたおしゃれな都会風ジャズという感じも受ける。ある意味ではボサノヴァに繋がるのかもしれないが、それまでの黒人ジャズとも違っている。好きか嫌いか評価は分かれるだろうが、一時代に好評を博したジャズであることは確かだ。ただ残念ながら、この中の『テイク・ファイブ』を書いたポール・デスモンドは1977年に死去しているので、デイヴ・ブルーベックとの共演は2度と見れなくなっている。

 デイヴ・ブルーベック・クァルテットによる演奏『テイク・ファイプ』
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2008.01.12 (Sat)

映画『パッチギ!』を観る

 『パッチギ!』2004年製作

 監督 井筒和幸

 出演 塩谷瞬 高岡蒼佑 沢尻エリカ 楊原京子 尾上寛之 
    真木よう子 小出恵介 オダギリジョー

 【あらすじ】1968年の京都。東高校2年の松山康介は、女の子にもてたいということしか興味が無かった。それで、グループサウンズの連中の髪型を真似て女の子の気を惹こうとしていた。そんな折、朝鮮高校と修学旅行生との喧嘩に巻き込まれる。でも東高校空手部と朝鮮高校との間でもいざこざは絶えなかった。そんな或る日、康介は担任の教師の指示から、争いの絶えない朝鮮高校へ親善サッカーの試合を申し込む羽目に成った。そして、親友の紀男と共に恐々、朝鮮高校へ訪れた。すると、そこで康介は、音楽教室から流れてくる美しい旋律に誘われるように、演奏されている教室を覗くのであった。その時、フルートを吹くキョンジャに康介は一目惚れしてしまう。ところが、彼女の兄は朝鮮高校の番長アンソンであることを知る。でも康介はキョンジャと仲良くなりたいがため、ギターを練習しようと思い楽器店へ行く。その楽器店では飲み屋の主人坂崎がギターで、この前に朝鮮高校で聴いた美しい曲を弾いていた。聞くところによると、その曲は朝鮮分断の悲しい現実を歌った『イムジン河』で、ザ・フォーク・クルセダーズが歌ったが、すぐにレコードが発売禁止になったという・・・・・・・。

 この映画は2005年の正月に映画館で上映していたと思うが、私はあまり関心が無かった。それが、この正月にテレビで、ノーカット放映していたからついつい観てしまったのである。

 パッチギとはハングル語で乗り越える、突き破るといった意味であり、また、頭突きの意味もある。・・・・・この物語は1968年の京都が舞台である。映画では、最初の方にオックスが出てきて『スワンの涙』を歌う。もちろん役者がオックスを演じているのだが、ヴォーカルの野口ヒデトやキーボードの赤松愛は雰囲気が似ていた。そこで、少女たちが失神していき、オックスのメンバーも失神するのである。こんなこともあったなあと、私は中学生の頃を思い出さずにはおれなかった。

 この映画は井筒和幸監督の映画である。そのせいか知らないけれど、とにかく暴力シーン満載で、けしてお薦めできる作品ではない。けども現在の日本に公然と存在する歪んだ問題といえば、けして目を背けるばかりでは意味が無いと思う。何故なら、この映画は、どうしても日本が負い目になる朝鮮併合の弊害を題材にしているからである。

 日本が1910年に朝鮮半島を併合して、教育も名前も全て日本式に変えさせた。そして強制連行で日本に連れてきて働かせた。つまり、その子孫の大半が今の在日朝鮮人である。この問題に井筒監督が取り組んだのである。映画は1968年の日本を舞台にした『ロメオとジュリエット』と言えばいいのだろうか、それとも『ウエストサイド物語』といえばよいのだろうか。

 東高校と朝鮮高校との間で抗争があり、互いの高校に在校生として物語の主人公である康介とその彼女になるべくキョンジャがいる。康介はザ・フォーク・クルセダーズが歌った『イムジン河』を彼女に聴かせるために懸命にギターを覚えるのであった。この『イムジン河』は、当時、ラジオやテレビで放送禁止になったし、レコードも発売禁止になった。私は何故、『イムジン河』が発売禁止になったのか、中学生だった当時、その事情がよくつかめなかった。朝鮮総連の抗議があったとは聞いているが、放送禁止、レコード発売禁止にいたる過程は記憶しているが、その理由たるものが釈然としなかった。当時はさほど知識があるわけでもないから、ふーん、そんなものかと思ったぐらいである。

 ところで、この映画で採り上げられるザ・フォーク・クルセダーズが『イムジン河』を歌ってはいけないと、実際に命じられた時は途方に暮れたという。それで仕方なく、フォーク・クルセダーズの3人は苦肉の策で、『イムジン河』のテープを逆回転させ、『悲しくてやりきれない』という曲を変わりに発売したという逸話が残っている。

 この1968年、『帰ってきたヨッパライ』で一躍、時の人となったアマチュアのグループ、ザ・フォーク・クルセダーズ(この時はプロ)が地元、京都のあるホールでコンサートを行ったが、私は姉が余分にチケットを持っていたお蔭で、彼らの歌を生で聴く幸運に恵まれた。その時の印象は、コミックバンドかと勘違いするほど、面白く、端田宣彦が歌の最中に北山修の頭をビニール製の小槌で叩いたり、『ソーラン節』を歌ったり、かと思うと『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を歌ったり、とにかくステージで喋り捲り客を笑わし、まるで漫才トリオのようであったが、その後の日本の音楽界に、彼等が与えた影響や業績を考えると、とても凄い伝説的グループであったのだと、最近は私自身驚いているのである。

 さて、この『パッチギ!』という映画は、日本が戦争で負けたことにより、朝鮮半島が開放されるのであるが、その後に米ソと体制の違う両大国の介入により、民族が分断されてしまう哀しみ怨念、そして日本への恨み・・・・・この映画を井筒監督が撮った本心は何処にあるのか判らないが、一般上映されるようになってから、売国奴だと嫌がらせを受けたり、暴力を助長するような映画だとか、とにかく賛否両論で、話題の多い映画となった。どちらにせよ、ただで転ばない井筒監督ではある。

 ただ暴力シーンが頻繁に出てくる映画にしては、何か清々しく感じるのは、やはりフォーク・クルセダーズの曲のせいかもしれないが・・・とにかく、私の世代にとっては懐かしい曲ばかりで思わず歌ってしまったのである。『イムジン河』『悲しくてやりきれない』『あの素晴しい愛をもう一度』・・・・・ああ、懐かしい・・・・・・・命かけてと 誓った日から 素敵な思い出 残してきたのに あの時同じ花を見て 美しいといった二人の 心と心が 今はもうかよわない あの素晴しい 愛をもう一度・・・・・・・ 

 『パッチギ!』の予告編


 非常に懐かしい映像を発見した。『イムジン河』を歌うザ・フォーク・クルセダーズ  左から加藤和彦、端田宣彦、北山修(1968年のテレビ放送から)

                                
 フォークルも映画に出ていました。


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2008.01.11 (Fri)

エドモンド・ヒラリー死去

 夕刊の隅の方に載せてある僅かな記事「ヒラリー氏死去」に目が行った。最近はヒラリーというと大統領候補のヒラリー・クリントンを連想するだろう。でもこの記事の主は、エドモンド・ヒラリーである。1953年5月29日、シェルパのテンジンとともに世界の最高峰エベレストの初登頂に成功したニュージーランド人である。

 私が子供の頃、何故、山に登るのか?・・と質問された登山家が「そこに山があるからだ」と答えたという逸話を聞いたとき、山登りをすることなんて、どんな意味があるのだろうかと考えたことがある。結局、登山家も何故、山に登るのか解らないのかもしれない・・・・。それに、山に登ることは人類の進歩とは何ら因果関係が無く、そこには経済的な生産性も日常性もない。だから山登りなんて暇人の意味のない無謀で愚かな行動に過ぎない・・・なんてことを言う人もいる。それで、世界の最高峰に登ったから偉大な人なのかと質問されれば、私は解らないと答えるだろうが、人が成し遂げたことのないことを最初に成功した人は、やはり偉いと言わなければならないだろう。そういう人がエドモンド・ヒラリーなのではないだろうか。

 さて、話の続きである。山は山でも身近にある山などはハイキングがてらに軽装で登れるであろうが、標高2000mを超える峻烈な峰になると簡単にはいかなくなる。こうなると登山というものは冒険という類の領域に入ってくる。だから、私は山登りが人類の未来にとって余り意味のない行為だとは、けして思わないのは、山登りにはそれだけ労力と時間と経験が必要なのであると考えるからだ。そして、人間というのは冒険心を絶えず持っていないといけないのであって、それが無くなれば進歩という言葉も置き去りにされるのだと私は言いたい。

 さて、エベレストという世界の最高峰の山が中国とネパールの国境にある。高さは諸説あって長い間8848mとされていた。ところが、2005年10月に、中国国家測量局が標高を8844.43mと発表した。しかし、ネパール政府は認め無かった。最近は地殻変動、地球温暖化により、標高は変動しているらしい。それで、そのエベレストは、ネパールでサガルマーター、チベットでチョモランマと呼ばれ、一般的にはインド測量局長官のイギリス人カーネル・サー・ジョージ・エベレストの名を冠したエベレストで通っている。

 このエベレストは発見が遅く、世界に知れわたったのは19世紀のことであった。それで、エベレストに登ろうと考える連中は必ず現れるものである。そして、20世紀になり、1921年イギリス山岳会がエベレストを目指して6985mまで到達したのである。さらに、その翌年の1922年、イギリス山岳会の第2次遠征があり、エベレストの8225m地点に到達したのだった。

 その後、イギリス山岳会は、1924年に第3次遠征を試みて、頂上にアタックしたが行方不明となってしまう。1933年にはイギリス山岳会が第4次遠征を敢行し、8570mまで登っている。

 1934年には、M・ウィルソンが非合法登山敢行も凍死してしまう。1951年には、イギリス隊が、ネパールからアタックして、ノーマルルートの南東稜ルートを発見したという。

 そして、1953年の5月29日に、イギリス隊に参加しているニュージーランド人エドモンド・ヒラリーとネパール人シェルパのテンジン・ノルゲイの2人が、遂に難攻不落のエベレストの山頂に足跡を残したのである。この時、ヒラリーは頂上にいた15分から30分の間、テンジンの写真を撮ったという。またテンジンはカメラの使い方が解らないので、頂上に立つヒラリーの写真は残されてないのである。

 このヒラリーとテンジンがエベレストの頂を征服するまで、数々の人が登頂を目指してアタックしたものの、その度に撥ね返され続けてきた。だから最初に成功した人は偉いのである。つまり誰もやってないことを成功させた人は、凄いのである。人類未踏の地に足を踏み入れたヒラリーとテンジン。結局は、彼らの成功例があるからこそ、後年の人が、同じ人間が成し遂げているから、我々も登れるのだという意識が働くものなのである。例を挙げると陸上競技に似ている。陸上競技などで、よく100m10秒の壁、200m20秒の壁、マラソンで2時間10分の壁とかいわれた時代がある。それで、またなかなかこの壁を破ることが出来なかった。しかし、一度、この壁が破られると、あっという間に壁を破る人がどしどし現れてくるのである。だから、登山もこれに似ていると思う。

 誰も成し遂げたことのない偉業を一人の人が、達成してしまうと、次に達成する人は、意外と容易に達成してしまうことがある。これは最初の人の経験が糧になっていることもあるだろうが、それ以上に、誰かが出来たのだから、自分も出来るであろうといった精神的な働きが多いものと思える。だから何事も最初に成し遂げた人が一番えらいということになるのだ。

 登山家なんて、何の存在価値があるのだという人も時々いることは確かだ。でも人間が、この科学文明の発達した時代において、自分の脚力だけで極限まで切り詰めて挑戦し続けるという行為は、勇気と体力、知力が備わってないといけないだろう。そして、絶えず死と隣り合わせの中で達成する喜びというものは、何事にも変えられない貴重な体験だと思える。だから私はエドモンド・ヒラリーは当然のように、称えられて然るべき人物なのだと考えるのである。
 
 さて、ヒラリーとテンジンがエベレストの山頂に足跡を残してから早54年以上になる。その間、エベレストの山頂まで登った人は、現在まで2500人以上を数えるという。だから今時、エベレストに登頂したからといって、誰も興味を示さないしニュースにもならない。でも、ヒラリーとテンジンの名前だけは、何時までも残るのである。彼等が成功したお蔭で、後の人達が過去の成功例をベースに懸命に励行しているから、2500人以上もの人がエベレストに登れたのである。このことは考えるまでも無く、最初に達成した人は、やはり尊敬されるべきである。それでは88歳で亡くなったエドモンド・ヒラリーに黙祷を捧げましょう。

 
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2008.01.10 (Thu)

松下の名が消える

 えべっさんで沸く大阪で、今日、驚くようなニュースが飛び込んだ。それは・・・・松下電器産業株式会社が、社名をパナソニック株式会社に変更すると発表されたことだ。

 なんだ、それが驚くことかといえばそれまでであるが、私の世代にとってみると、松下電器は松下幸之助あっての松下であり、世界的家電メーカーの松下というのは、何処まで行っても松下であって、それがブランド名のパナソニックに変わってしまっては違和感があるというものなのだ。

 私が子供の頃にサクセスストーリーとして、よく聞かされた話の中に松下幸之助の出世物語というものがあった。それは、1894年に和歌山で生まれた松下幸之助が、1917年に大阪の鶴橋でソケットを製造販売したことから全てが始まるという。幸之助と妻と妻の弟である井植歳男(三洋電機創業者)の3人で始め、やがて二股ソケットが好評で売れたという。そして、1918年、大阪の大開(現・福島区大開)で松下電気器具製作所を創立し、本格的に松下電器がスタートしたのである。

 1933年には事業を拡大するために大阪府北河内郡門真町(現・大阪府門真市)に移転し、松下電器産業として成長していくのである。そして、今や売上高9兆1082億円、世界全体で650社のグループを抱え、従業員32万8000人という日本を代表する巨大企業へと成長してしまったのである。

 ただ、その松下電器の今日があるというのは、偏に創業者・松下幸之助の力があったからに他ならないのであって、松下幸之助なくしては、ここまで会社が大きくならなかったであろうと思えるのである。

 現代でも松下幸之助は、経営の神様として語り継がれる人物であり、伝記物語としてもよく名を挙げられる代表的な人物である。その松下幸之助が亡くなったのは、1989年だから、既に19年経過しているのだが、松下の名が今まで継続されていたのは、余りにも創業者の名前が大きかったということである。それが今、とうとう松下の名前が社名から消えてしまうということになった。うーん、確かにこれは驚きである。

 昔、私が子供の頃の話であるが、テレビのコマーシャルで・・・明るいナショナル・・・・なんて歌があったが、松下の社名と共にブランド名はナショナルであった。その後、テクニクスなんてブランド名も併用していた時がある。そんな松下が何時の間にか、パナソニックなんてブランドまで使い出していた。

 PAN=あまねく、SONIC=音・・・この2つの単語を組み合わせて「松下の音を世界に」といった意味を込めて、パナソニックというブランド名をスタートさせたのである。それ以降、松下は創業間もない頃から使っていたナショナルブランドは白物に限ることとなった。でも私の世代にとっては、松下はナショナルというブランド名が一番馴染みがある。

 さて、とうとう松下の名が消えることになった訳であるが、これはどういうことなのか・・・・。つまり最近の松下は5代連続で創業者以外の人が社長に就任していることから、創業者の支配力が小さくなったためと考えられる。現在の松下で創業家出身者といえば、松下幸之助の娘婿・松下正治取締役相談役名誉会長と、その正治の長男・松下正幸代表取締役副会長の2人がいる。ところが実質的に、第一線を退いており現会長の中村邦夫、現社長の大坪文雄と実務派が経営の最高幹部にいる。したがって社の創業から90年続いた「松下」の名前を社から消滅させるには、松下家の理解が必要とされたのであるが、それが解決したものと思われる。

 さらには創業家と経営とは分離が進んでいるとも言われ、海外ブランド力強化のためには、松下という名よりも海外で知名度が高いパナソニックの名を社名にする方が、営業的に見ると、海外での売り上げが伸びるという結論に至ったのであろう。要するにトヨタやソニーといった社名とブランド名が一緒の企業に比べると、ブランド力が弱いということで、海外での営業強化には是非とも必要な戦略であったともいえるであろう。

 時代の流れだから、仕方が無いとは言え、とうとう松下幸之助の手綱から解き放たれ、創業家との関係が切れ掛かろうとしている。そして、何10年もすると、松下の名前が人々の間から忘れ去られパナソニックという会社名が当たり前になる頃、松下幸之助の存在も徐々に消えていくのかもしれない。でも私の世代にとっては、松下の名前が消えていくのに、一抹の寂しさはある。かつて子供の頃、テレビのヒーロー物でナショナル・キッドというものがあった・・・。

 雲か 嵐か 稲妻か・・・こういった歌で始まるナショナル・キッドであったが、スポンサーが松下電器であった。だからナショナル・キッドなのであるが、これもやがて時代の渦の中に巻き込まれ、やがて忘却の彼方へ消えていくだろう・・・・。50年すれば、おそらく松下=パナソニックと連想する人は誰もいなくなるかもしれない。名前が変わり企業の性質も変わる。そして、グローバル企業として、何れは海外の企業を併合するかもしれない・・・・そして松下電器の名は完全に埋没してしまうのだろう。うーん、これが世の中の潮流なのだろうか・・・。
                                
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2008.01.09 (Wed)

伝統芸能は大阪で根付くのか?

 大阪に一昨年オープンした落語の定席『天満天神繁昌亭』が活況で、連日のように人が押しかけ、オープン以来一年半で20万人以上が詰め掛けたという。

 こんなことを書くと、大阪に落語なんて存在するのかと思われる方がいるかもしれないが、上方落語協会というものが昔からあって、その現会長が桂三枝である。でも大阪の落語があまり全国的に取り上げられないというのは、今まで落語の定席がなかったからであって、落語の発表会を開く場所も一定してなかったのである。また、大阪の寄席というと漫才が中心というイメージがあり、落語はキワモノ扱いという不遇の時代もあって、江戸落語に比べると肩身が狭かったのである。

 しかし、落語は江戸が発祥の伝統芸能だと考えている人が多いとすれば、少し待ってくれといいたい。落語というのは現代では江戸落語が中心である。でも上方落語というのも細々と生き延びていたのである。

 そもそも落語には元祖という人がいて、その人は曽呂利新左衛門だという。でも、この人物は架空の人だともいわれ、はっきりしたことが判らない。一説には豊臣秀吉に御伽噺を面白く聞かせたとも言われている。でも一般的に言われている落語家というものを辿ると鹿野武左衛門、露の五郎兵衛、米沢彦八の3人に行き当たる。この3人は何れも江戸時代初期、17世紀末に活躍した落語家とされる。今の形式とは違っていたであろうが、ほぼ同時期に江戸、京都、大坂に現れている。それで江戸落語の祖が鹿野武左衛門、京都での落語の祖が露の五郎兵衛、大坂での落語の祖が米沢彦八だといわれている。ところが、鹿野武左衛門という人は、実は大坂出身なのであって、この人が江戸に行って落語を広めたということは、つまり落語そのものが、上方から江戸へ伝えられたものであることも意味しているのである。だが、今日では江戸落語が継承されて今まで続いていたというのに、上方落語は消えかかっていたということがいえるのである。

 ただこれは落語だけの問題ではなくて、伝統芸能というもの全般的に言えることなのであるが、歌舞伎、能・狂言、人形浄瑠璃というものが、発祥は全て京都・大坂の上方であるということ。それが現在においては江戸で花開き、現代では江戸の伝統芸能であるかのように語られることが多いという現実がある。

 東京には歌舞伎座があって、公演の時はほとんど人で埋まっている。しかし、この歌舞伎の始まりというのは、1603年に出雲阿国が京都の北野天満宮でかぶき踊りを披露したのが最初であるとされている。また人形浄瑠璃でも文楽というのがあり、これも江戸時代初期に大坂で始まったとされるし、能・狂言も室町時代の奈良、京都に、大和猿楽の観阿弥、世阿弥が現れて、ここから能や狂言に発展したものであるといわれている。

 さて、伝統芸能が京都や大坂で芽生えたというのに、現代においては関西で寂れて、東京で盛況というのはどういうことなのかと私は考えてみたのであるが・・・・・。

 ところで、総務省の社会生活基本調査(2006年)というものがり、それによると関西人の文化に拘る時間の少なさを露呈した結果が数字に見て取れるのである。それによると、一年間になんらかの美術館賞をした人の割合は東京が28.0%、大阪が18.9%、京都が22.4%だという。そして、演劇や演芸、クラシック音楽の鑑賞、どれをとっても関西、とくに大阪の比率が低いという。

 上の数字を見て、だから大阪の文化度は低いのであるといいたいが、これもよく考えれば、美術館や博物館、劇場、芝居小屋等が東京に集中しすぎたがために、起こっている数字であって、一概に言い切れないと思う。ただ、大阪は江戸時代の後期頃、住民の大半が商人だったという実態があって、商人というのは文化にあまり金を払わないというところがある。それに比べると江戸は武士が多く、あとは職人か農民で商人は少なかったのである。そして、京都は武士もいるが、公家が多く、職人もいるし、商人もいたのである。そういった中で、職業柄、教養を身に付けようとする人は武士や公家に多く、商人には文化というものは関心事ではなかったのである。つまり、どの職業の人で構成されていたのか、それぞれの街の性格がそのまま現代まで続いていて、それが習慣となっているように思える。

 また東京の人が文化に金を出すというのは、ある意味では、自分を良く見せたいとする見栄が前面に出るからだろうと推測できるのであって、だから解らなくても一応は見栄を張って美術館賞もするし、観劇もするというところではないだろうか。それに比べると、大阪の人は自分を飾ろうとしないところがあり、興味ないものは一切手を出さない。見栄を張っても仕方がないといった人が多く、高尚なものよりも身の丈にあったものにしか興味を示さなかったといえるのである。でも見栄を張ってでも、解らない物に足を踏み入れる切っ掛けが無いと、一生触れることもないだろうし、解らなくとも接していると、いつか解る時が来るものである。だから見栄っ張りの東京人の方が文化に手を染めるということは言えるだろう。

 さて、困ったのは文化に手を染めない大阪の人ということになるが、、多くの伝統芸能の発祥の地でありながら、大阪では人が入らないという理由で、歌舞伎役者まで東京に逃げられてしまってはどうしようもない。確かに、商人に学や教養は必要なかったかもしれないが、明治時代になっても、大学を大阪に建てようという時にでも、煙突の無い物はいらないというので、京都に建つことになった大学もあるぐらいだ。とにかく文化というものを敬遠していたところがあり、それが平成の今日でも続いているとしたら、大阪に美術館、劇場、芝居小屋の類が少ないのは自業自得としか言いようがない。ただ、これまで落語に関心が無いと思えた大阪の人が、定席小屋を連日大入にさせている現実を目の当りにすると、身近にあるのであれば手を染めようと思っている人が意外に多いものであることが判った。

 21世紀になってから既に丸7年、大阪の人も徐々に趣味嗜好が変わりつつあるのかもしれない。でも、時すでに遅しと言えなくも無く、新歌舞伎座では歌舞伎の公演をやってないし、建物もいよいよ壊されるいう。道頓堀の五座あった芝居小屋は今や一つもない。現代は松竹座があるのみで、道頓堀は伝統芸能の欠片もない町になっている。それでも大阪には宝塚歌劇を生んだ土壌があり、立派に育ったが、これも東京に半分は持っていかれてしまった。

 太古の昔から日本の政治・経済・文化の中心であった関西にあって、大阪は大衆文化の発展に寄与した土地柄である。井原西鶴、近松門左衛門等が出現し、日本の劇文化の礎を築いたところでもある。ある意味で、古い文化だけに頼っている京都と違って、今でも新しいものを生み出す気風がある。だから天満天神繁昌亭の活況を切っ掛けに、大阪の文化意識が庶民の間にも高まれば、それだけで街が活気づくと思うのであるが・・・・。何時までも大阪城、通天閣、吉本興業、阪神タイガース、たこ焼き・・・と思われていたのではお話にならないでしょう。

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2008.01.07 (Mon)

参議院の資産公開で思ったこと

 このほど、2007年の7月の参議院選挙に当選した120人の議員の資産が、国会議員資産公開法に基づき公開された。それによると120人のうち、衆議院からの鞍替えを含めた初当選が65人もいて、古参議員が相次いで落選したことにより、議員120人の平均資産は過去最低の2378万円だったと発表された。

 公開対象は本人名義の土地、建物、預貯金、有価証券等であるが、飽くまでも公開義務が本人名義の資産運用に限られていて、当座預金、普通貯金は公開対象外であるという。そのためこの報告書を鵜呑みに出来なくて、資産状況を正確に把握することは極めて困難だという。だから資産を法人名義にしていたりして、光熱費等が経費で落とせることとか考えれば、全うな数字ではないだろう。でも、それにしても国会議員はお金持ちである。

 平均が2378万円といって1992年以降で過去最低なんていうが、今や庶民が四苦八苦している時代である。原油価格高騰によりガソリン代の値上がり、止まらない株価の下落、増税による増税、上がらない給料・・・。国会議員の資産が過去最低だといっても給料以外の資産だけで、それだけの額があるのだから、やはり我々とは桁が違うとしかいいようがない。それに初当選議員が過半数を占める中で、平均が2378万円もあるというのはどういうことかと問いたくなる。みんな国会議員になると、資産を貯めるのが上手くなるのでしょうか・・・。上手くいけば、何でも経費で落とせるし、議員バッジがあれば、何でも上手くすり抜けられるのでは・・・。

 最も初当選の丸川珠代議員は、資産が7万円とテレビ朝日株4株と質素ではあるが、まだ議員になって半年程度である。それでウン千万円なんて持っていたらおかしいだろう。でも、丸川珠代はテレビ朝日時代の年収は1800万円もあったというから驚いたが・・・。女性アナウンサーなんて職業はそんなに給料がもらえるのかと思ったら、よけいに腹が立ったが・・。本当に世の中は二極化時代ということか・・・。億万長者が増えている時代にあって、年収200万円以下の人が急増しているし、派遣社員、契約社員、アルバイト・・・これらの悪条件で労働を強いられている人も激増している現実があって、それでいて増税だ消費税率を上げるのだと税制調査会は盛んに叫んでいる。このまま行くと、いずれ生活苦から大量に自殺者が増えるのではないかと心配になってくる。こりゃ、ますますやばいぞ日本は・・・・。


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2008.01.06 (Sun)

祇園 呼吸チョコを食べる

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 昨年の12月23日の記事で、『北新地 呼吸チョコを食べる』というタイトルでマルシゲのオリジナルのチョコレートを紹介したと思う。ところが今回は、その姉妹品ともいうべきチョコレート、『呼吸チョコ 祇園』のことを少し書いてみるとする。

 私は以前から、店頭に並べてある『呼吸チョコ 北新地』が気になっていたが、しばらくすると『呼吸チョコ 祇園』が隣に山積みしてあった。

 それでどう違うのか、これは比較してみないといけないと思い買ってみたのである。・・・・・その結果、中身はほとんど一緒であった。ただ違うのは、『北新地』がココアパウダーを塗してあったのが、『祇園』だと、これが抹茶に変わっていたというたけである。なんだか騙されたと思って口に放り込んだ・・・。うん、こちらの方が苦味が無くて女性向けかなあ・・・・。

 基本的に中身は一緒と言ったが、まったく『呼吸チョコ 北新地』と変わりないのである。アーモンドをマスカルポーネチーズでコーティングして、チョコレートで包んであるということであるが、チョコレートにココアパウダーを塗すと苦味が増すが、抹茶を塗すとはんなりとした甘みが出てくるというだけである。

 包装袋の説明書きによると「祇園・・・ はんなりとした京風情を残す花街、祇園。そんな祇園で長く愛し続けて頂きたい新しい味。ほのかに香り立つ抹茶ティラミスチョコレートをご賞味下さいませ。」ということである。

 ところで、もしかすると、この後は神戸遍があるのではないかと勘繰りたくなるが・・・・。神戸だと何処の地名が出てくるのだろうかと考えたりする。三宮、元町、新開地、北野町・・・・大人だけの街というようなものが神戸には存在しないから、もしかして有馬温泉かもしれないなあと思ったが、その手は桑名の焼き蛤・・・・。もし神戸遍が姉妹品として出ているようでは、策がなさ過ぎる。でも神戸だとチョコレートに何を塗すのかなあ・・・・・見当がつかない。ということで、見事に私は企業側に騙されてしまったのである。でも、抹茶を塗ったアーモンド・ティラミス・チョコレートは食べだすと癖になるような味がして、なかなか止められなくなる。しかし、580円だからなあ・・・・。問題はその価格というところか・・・・・。
                                 
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2008.01.05 (Sat)

ブランデーを飲む・・・・・サントリーVO

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 正月からアルコールばかり口にしているが、今日は昼間からルチアーノ・パヴァロッティの歌を聴きながらブランデーを飲んでいた。あんまり褒められた生活ではないが、滅多に洋酒は飲まないからいいだろう。

 ・・・とは言っても安物のブランデーである。サントリーのVOなんて1000円程度で買える一番価格の低いブランデーなのである。ブランデーなんて、貯蔵年数で幾らでも高価になるのだから、ピンからキリまでるあるのだが、これはそういった意味においてキリのブランデーということになるだろう。

 昔、日本人の親父達で、フランス土産に高級ブランデーを買って来ては、よくナポレオンは美味いなんて言う西洋かぶれの輩が大勢いた。今時の人は、みんな海外旅行慣れしているせいか、ナポレオンなんて名称で呼ぶような愚かな人は当然の如くいなくなってしまった。みんな目利きが利く様になって、知識も昔の人間と比較できないほど豊富になったから、外国の酒だというと何が何でもナポレオンという人は流石にいない。

 今から30年以上前は、渡航する人も金のある小父さんに限られていたので、よくカミュ、ヘネシー、マーテル等のナポレオンを買って来ては美味い美味いと連発している年輩の人がいた。私は馬鹿じゃないのかと思ったが、小父さん達は悦に入ってた。

 そもそも昔の小父さん連中は、ナポレオンが何だということも知ら無い人が多かった。つまりナポレオンという種類の酒だと思っていたのだ。私がナポレオンというのは、コニャックの中で最も熟成期間の長い物をそのように読んでいるのだと簡単に説明したが、今度はコニャックって何だときた・・。それでコニャックとはフランスのコニャック地方で産出されるブランデーのことだと言うと、ナポレオンてブランデーのことかと聞く・・・・。要するに何も知らないのだった・・・・。だからナポレオンが美味いだとか言っているものの、ブランデー自体飲んだこともない親父達が言い放っていたのだった。要するに30年前の親父連中の洋酒の知識なんて、その程度のものだったのである。

 そもそもブランデーというのは、ワインを蒸留したものの総称で、昔、コニャックでワインを蒸留したものをヴァン・ブリュレ(焼いたワイン)と称したことに由来し、それをオランダの貿易商がオランダ語で直訳し「ブランデ・ウェイン」として輸出したのである。さらに、その商品をイギリス人はブランデーと読んだのが始まりだったのである。

 でもコニャックは、高級ブランデーというイメージがあるが、コニッャク以外にも産地としてはアルマニャックもあるし、それぞれが等級をつけている。熟成の年数でVO、VSO、VSOP、VVSOP、XO、EXTRA、NAPOLEONとブランデーを等級で分けているが、これはコニャックの分け方であってアルマニャックでは少し違っているようだ。さて、その意味であるが、VOはvery oldで、VSOはvery superior old、VSOPはvery superior old paleの略になる。しかし、これだって明確なものではなく、銘柄によって微妙に違ってくるという。昔はカミュ、レミー・マルタン、ヘネシー、マーテル等のコニャックの銘柄が幅を利かしていたもので、親父達は銘柄よりもナポレオンに拘っている人が多かったからお笑い草である。今はこんな舶来帰りを自慢するような人はいなくなったが、それだけ日本人が国際化してきたという証拠であろう。

 何かブランデーだのコニャックだのナポレオンだのと説明が長くなったが、私が飲んだサントリーのブランデーは一番価格の安いものだから、飲んだ感想も何もない。やはり高級ブランデーと比べると、口に含んだ時のまろやかさや芳醇な香りは少ないといえるであろう。でも、そんなことよりも、小さな六畳のタタミの間でコタツに入って飲むのだから、ウン万円の高級コニャックなんて飲むのは何処か馬鹿っぽいし、安酒で十分と思えばそれなりに満足できるものなのだ。そして、ついでにロッテやグリコや森永のチョコレートを舐めながら、パヴァロッティでもプラシド・ドミンゴでもホセ・カレーラスでもいいし、時には藤山一郎でも岡晴夫でも三橋美智也でも聴くのもいいものである。・・・・・こんな事を書くと・・・・・夕焼け空が 真っかっか トンビがくるりと輪をかいた ホーイノホイ・・・・・と唄を唄いながらブランデーを飲んでるのかと錯覚されそうだが、日頃は焼酎しか飲んでないのだ。焼酎を飲みながらシャンソンも聴くし、ジャズも聴く、ロックも聴く、ボサノヴァも聴く、クラシックも聴く、まあ何を飲んでもいいのではないだろうか・・・・。
                               
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2008.01.04 (Fri)

祇園さんへ行く

 初詣というのでもないが、今日は祇園さんへ行ってきた。祇園さんて何だと問われそうなので、正式な名称を言うと八坂神社である。でも京都の人は、昔から八坂神社なんて呼び方はせずに、八坂さん、祇園さんと敬称をこめて言う。

 本来、八坂神社の起こりは856年だと言われるが、876年に円如が午頭天王の分霊を遷し、藤原基経が精舎を建立して祇園寺(観慶寺)と称したのに始まる。創建については諸説あり、古くからある神社ではあるが、寺とみなされていたり、神社と見られていたりしたが、明治元年に八坂神社と改められたのである。しかし、それまでは祇園社と呼ばれていたから、祇園とは京都の繁華街のように思う人がいるが、実際は八坂神社のことを指すのである。

 現在の八坂神社は日本全国に2300社あるスサノオを祭神とする神社の総本社で、私は若い頃、大晦日の夜に行われる「おけら参り」に「おけら火」をもらいに来たことがある。今は自宅が京都の市街地から離れてしまった関係で、「おけら参り」こそ止めてしまったが、今でも京都の中心部にある神社なので、時々、訪れることがある。

 ところで、先ほど祇園とは八坂神社のことを指すと書いたが、今では祇園というと京都を代表する歓楽街、または花街のことを指すと考えている人が全国的に多いと思える。しかし、江戸時代までは八坂神社は祇園社と呼ばれ、祇園社の門前町として四条通沿いに発展した歓楽街を祇園と呼ぶようになっただけの話である。

 今日、八坂神社の石段下で「ここから一個目の信号のところが祇園だよ」と知ったかぶりしていたお兄ちゃんがいたが、明らかに間違っている・・・・。現在、祇園というのは鴨川に架かる四条大橋から八坂神社石段下までの四条通沿いを中心に、南北にして7、800m位一帯は全て祇園と呼ぶ。そして、この中には祇園東、祇園甲部、宮川町(祇園には入らないという人もいる)等の花街が含まれる。つまり、祇園とは範囲が実に広いのである。そして、敷居が高いことでも有名であり、中には一元お断りの店も存在するのでご用心・・・・・。

 京都で遊ぼう思てもなかなか難しおすなあ・・・・・ほんま・・・。

 花見小路である。逆光で見にくいが景観保存地区に指定されていて、古い京町屋が並んでいる。
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 八坂神社の石段上から四条通を望む。まさに快晴・・・・。この四条通はちょうど北緯35度である。
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 八坂神社の楼門。一応は重要文化財に指定されている。最近までは工事中で、この門の姿を眺めることは出来なかった。
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 八坂神社の本殿。この建物も重要文化財である。私も賽銭箱に100円を放り込んで、頭を下げて来た。何を願ったかというと、無病息災・・・それ以外にあるでしょうか・・・。
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 本殿裏の境内は灯篭のある参道になっていて、四条通から円山公園へ抜けられるようになっている。
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EDIT  |  17:08  |  近場散策  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.01.03 (Thu)

ショートケーキを食べる

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 正月の3日ともなるとお節料理も飽きてきて、そろそろ普段の食事に戻したいところであるが、何故か、今日は食べなれないショートケーキを食べた。甘党というのでもないが、食べない訳でもない。

 お菓子はどちらかというと和菓子の方が好きなのであるが、今日は姉が子供二人を連れて、我が家にやって来た。その時、ついでにケーキを持ってきたから、食べたまでである。

 姉の子供と言っても二人とも成人してしまった。上の子は社会人一年生で、下の子が大学生である。それで、その一人が誕生日だというので、ケーキを買って来たのであろう。何と自分用の誕生日ケーキを買って来るという奇妙な話。流石に今の子はちゃっかりしてる・・・。でも姉の子と言っても、昔はよく我が家に来たものであるが、最近はとんとご無沙汰で、見る度に大人になっていく。もう、昔の子供らしさはすっかり消えているのだが、相変わらず食い意地だけは張っているから面白い。それで、下の女の子に何処で買ったのか聞いてみた。すると伊勢丹のJR京都店だという。

「いや、買った店を聞いてるのと違うで・・・どこのケーキか聞いてるのや・・・」というと、アンリ・シャルパンティエだという。

 まあ無難なところかもしれないが、アンリ・シャルパンティエなんて、昔は良かったが、最近は全国展開しているから、特別美味しいとも思わないと言うと・・・「芦屋の駅前が本店?・・・」と姪が聞く。
「そうや、かなり昔からある」「東京の銀座に本店がある」と返すので、「あれは東京の拠点として、2003年に東京本店となっただけで、もともとは芦屋の洋菓子屋で、登記上の本社は今も芦屋」と言った。
「神戸方面は洋菓子屋とパン屋が多いね。シーキューブとかは・・・何処?」
「シーキューブはアンリ・シャルパンティエと同じ会社や」
「そうなの・・・・梅田の大丸にあるラジィも?」
「あそこも同じところの経営かな・・・それでも、まだ東京に店出してないから、今が食べ時かもしれんで・・・全国的に店出し始めると味も落ちるしなあ」
「モロゾフとかユーハイムも神戸の店?」
「そういうこと。それからケーニヒスクローネ、ゴンチャロフ、レーブドゥシェフもパン屋のドンクも神戸が発祥の地」
「どうりで・・・この前、東京の友達のところへ行った時、銀座で食べたケーキがメッチャ美味しかったんで、帰ってから調べたら神戸が本店だったんでがっかりしたけど・・・・ところで、叔父さん、堂島ロールて知ってる?」
「ああ、食べたことあるで」
「ええーー! 食べたいーー。店は大阪にしかないらしいけど」
「一昨年の秋、神奈川の川崎にも支店が出来たらしいで・・・大阪の堂島本店と同じ品質かどうか判りかねるけど。それから堀江にも店が出来たらしい」
「それで、どんな味・・・」
「中のクリームに特徴があって、甘すぎず「の」の字に巻いてなくて、クリームがたっぷり入ってるケーキかな。一人でも食べ切れるような軽さがあるけど、食べて見ないと判りにくいケーキではあるなあ・・・・・」
「この前、大阪の堂島に用事で行った時、サントリーの本社前の堂島本店覗いてみたら長い行列だったので、諦めたよ」
「そら、しょうがないなあ・・・諦めなはれ・・・・そやけど、大阪で食うのに行列するって珍しいなあ」
「大阪の人も行列してる店あるよ。阪神のイカ焼きとか、りくろーおじさんのチーズケーキとか、道頓堀の大たことか、道頓堀の神座とか」
「それは、観光客も入ってるやろ・・・道頓堀の大たこなんか一つも美味しいことないよ。あの程度のたこ焼きなんか大阪に山ほどあるやろ。それに、神座も不味くなったて評判やで。先入観で並んだらあかん」
「それもそうね。でも、堂島ロールは食べてみたい!」
「一生懸命並んで、食べたらいいのと違う」
「口惜しい・・・食べたい」「今から、このショートケーキ食べたらいい」
「もちろん食べるよ・・・・・」

 甘い物を食べるとなると、若い女の子は眼が輝くので呆れ返ってしまう。しかし、聞く所によると堂島ロールは本当に、なかなかありつけないらしい・・・・知らなかった。でも堂島ロールが全国的に話題になると、堕落への道が始まるかも・・・・それで美味しくなくなるかもしれないから要注意。しかし、次に話題になるのは小山ロールかもしれないなあ・・・・・・・。この店こそは、支店など出さないで欲しいと思うが・・・・・。東京なんかに店を出せば、瞬く間に拡がってしまい注文が追いつかなくなる。そんな調子で、良いケーキなど作れるでしょうか・・・・・?                   

 
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2008.01.03 (Thu)

古い映画を観る・・・・・『第三の男』

『第三の男』1949年製作 イギリス映画

監督 キャロル・リード
出演 ジョセフ・コットン
    オーソン・ウェルズ
    アリダ・ヴァリ
    トレヴァー・ハワード

 【あらすじ】第二次世界大戦直後の荒廃したウィーン。親友ハリー・ライムの招待でウィーンに訪れた作家のマーティンスであるが、到着するや否やハリーが亡くなったことを知らされる。ハリーの死には3人の男が立ち会っていたという。それで2人の男は判ったが、3人目の男だけが判らなかった。その間、マーティンスは何者かに脅かされ始める。そして、ここから話は思いがけない展開へと進んでいくのである。

 グレアム・グリーンの原作による著名なサスペンス映画であるが、映画のために書いた原作があって、同時にシナリオも書いていたという。このような一流作家によるストーリーもさることながら、何処にこの映画の素晴らしさがあるかというと、モノクロのスクリーンに映されたウィーンの街角である。第二次世界大戦後の物々しいウィーンの光と影。巧みなカメラワークにより見事に陰影で表現し、まさにキャロル・リードの演出が冴えわたっている。また、天才オーソン・ウェルズ演じるハりー・ライムが闇の取引人として姿を現す時。ウィーンの地下水道に消えたハリー・ライムを追うマーティンスとの緊迫した映像。映画の手本ともいえるべきショットが各所に見られ、全体としては優れた映画である。ただ、アリダ・ヴァリ演じるアンナと、ハリー・ライムとの関係や、ジョセフ・コットン演じるマーティンスがアンナに密かに恋心を抱くまでの過程の描きが希薄ではないかと思える。

 考えて見れは僅か1時間半ほどの中で、全てを描ききるのは難しいかもしれない。おそらく、今の時代にリメイクするならば、2時間以上の映画になってしまうだろう。つまり『第三の男』は1949年の映画であることを我々は忘れてしまっている。今の映画人は、これらの見本的な映画があってこそ、よりよい作品を生み出しているのであって、現代の視点から映画の批評をしたところで、あまり意味がないだろう。

 それでなくても、この映画は、ウィーンのプラター公園の観覧車も物語に組み込まれ、随所にウィーンらしき光景が現れてくるし、ところどころに見られる時代というものを十分に感じさせてくれるのだ。そして、あまりにも有名なラストシーンに到るまで、穴がほとんどない。我々が映画を文化として捉えるならば、この『第三の男』などは、歴代に残る映画として殿堂入りは確実である。それ故に覚えておかなくてはならない作品なのである。

 アントン・カラス奏でるツィターの音色で、あまりにも有名な『第三の男』のタイトル曲


 マーティンスはプラター公園でハリーと落ち合う。そして、観覧車に乗り・・・・・


 ハりーの葬式の後、マーティンスはハリーの恋人であったアンナ(アリダ・ヴァリ)を道路の脇で待つ。しかし、アンナは知らぬ顔をして通り過ぎる・・・・これもまた、映画史上に残る有名なラストシーンである

EDIT  |  10:07  |  映画  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.01.02 (Wed)

2008年 ウィーン・フィル ニューイヤー・コンサート

 昨夜、元日恒例のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサートが生中継され、酒を飲みながらぼんやりと観ていた。今年は現役最高齢の指揮者ジョルジュ・プレートルが指揮するということで、注目されたが、指揮ぶりは年齢のせいもあるが地味である。ただ、指揮者がフランス人ということもあって、父シュトラウスの曲『中国人のギャッロップ』『ヴェルサイユのギャッロップ』、弟ヨーゼフ・シュトラウスの曲『ルクセンブルク・ポルカ』なんてニューイヤー・コンサート初登場の曲が組み込まれ、興味深いプログラムとなった。

 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートというのは1939年から行なわれているらしいのだか、私が観出したのは1980年頃からかもしれない。もっと前からNHKで放映していたのだろうが録画だった。それで何時の間にか生放送に替わっていたのだが、指揮は毎年ボスコフスキーで、その後は数年間ロリン・マゼールが担当していた関係で、あまり真剣に観ていなかった。それが、1987年に帝王と言われたヘルベルト・フォン・カラヤンが初めてニューイヤー・コンサートの指揮台に立ち、私は珍しさからその時は一部始終観ていた。この時、カラヤンという指揮者は、レパートリーが広すぎて、何が得意な曲なのか判らないところがあり、CDを聴いても、カラヤンのベートーヴェンやマーラー、ブルックナーは聴く気が起こらなかったし、かといってオペラはどうなんだろうか・・・と懐疑的だったことを覚えている。それで、この年のニューイヤー・コンサートでヨハン・シュトラウスのワルツを例によって指揮していたのであるが、これが随分と楽しそうだったのである。やはりカラヤンは、このような軽い調子の曲は上手いなあと感じたものである。でも最晩年の指揮であまり手は動いてなかった。結局、この2年後にカラヤンは亡くなるのである。

 カラヤンが指揮台に立ったということで、この年あたりからウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは注目されるようになったと思う。毎年、指揮者が替わるようになり、1989年には、かのカリスマ指揮者カルロス・クライバーが指揮台に登場した。初めて生中継で観るクライバーは指揮台で踊るような華麗な指揮を見せ、聴衆を唸らせた。彼は1992年にも指揮台に上がったのである。

 2002年になると日本人の小澤征爾が舞台に上がって、新年の挨拶で中国語を披露したことは記憶に新しいが、今年のジョルジュ・プレートルの指揮は大人しかった。ただ、『美しく青きドナウ』の演奏中、ダンスをしているカップルが、ホールのロビーから観客席に登場したというのは今までにない趣向であり、来年からはまた違う演出を試みて観ている人を驚かせようとしているのかもしれない。

 ところでジョルジュ・プレートルという人は、フランス物の指揮者として伝わっているのだが、主に昔はラヴェル、プーランク、ドビュッシー、ビゼー、サン=サーンスの曲を指揮していたと思う。またビゼーの『カルメン』では、必ずといっていいほど世紀のディーヴァ、マリア・カラスからご指名を受ける指揮者であった。だからプレートルがウィーン楽壇の最高峰、ムジーク・フェラインザール(楽友協会ホール)の新年の舞台に上がるというのはサプライズであった。しかし、考えてみればオーケストラこそ違うが、1991年までウィーン交響楽団の首席指揮者の地位にあった人なのだから、人選的には当然なのかもしれないが、ウィーン・フィルの指揮台に上がらせてみたい指揮者も最近はいなくなってしまったなあ・・・。

 昔は、カリスマ的な指揮者が山ほどいたが、今のクラシック音楽の楽壇においては興味深い指揮者が減ってしまった。サイモン・ラトルではつまらないし、ベルナルド・ハイティンク、コリン・デイヴィスでも同様だろう。リッカルド・シャイーやチョン・ミョンフンが上がってもあまり観たいとは思わないし、ヴァレリー・ゲルギエフが案外面白いかもしれないというところか・・・・・しかし、日本人としては我等が大植英次に期待するとしよう。何時のことになるか判らないが・・・・・。ただ、来年のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート、指揮者だけは決まっているらしい。それで来年はダニエル・バレンボイムの予定だそうな・・・・。前シカゴ交響楽団の音楽監督で、若くして逝去した女流天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの元夫といえは話題性はあるだろう。でも突然の変更はあるかもしれないので、当てにはならないが・・・・。

 1987年のニューイヤー・コンサート カラヤンの指揮でキャスリーン・バトルがヨハン・シュトラウスの『春の声』を歌う 

                                 
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2008.01.01 (Tue)

雑煮を食べる

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 謹んで新春のお慶びを申し上げます。

 このブログも年を越しました。2年目に入りますが、今までどおりスタンスを変えることなく話題を提供していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます

 さて、2008年1月1日。早速、朝にお雑煮を食べた。写真の通り白味噌で丸餅の雑煮である。全国的に言ってすましのお雑煮を食べるところが多いので、違和感があるだろうと思う。でも、これが関西というか、京都の伝統のお雑煮なのである。最も白味噌、丸餅といっても家庭によって中に入る具材は随分と違っているものであって、私の家では水菜、里芋は毎年入るが、それ以外は違う具材が入ることがある。時によっては豚肉が入ったり、人参が入ったり・・・・結構バラエティーに富んでいる。

 でも今や、雑煮は日本の正月の風物詩ではあるが、雑煮一つをとっても文化の違いが明確に現れているというのは面白いものである。先ほど白味噌とすましに大別されるといったが、餅も丸餅と角餅に大別される。

 丸餅と角餅の分布で言うと、西日本が丸餅で東日本が角餅である。そして意外なことに讃岐地方と瀬戸内海の一部では餡餅が雑煮に入る。それで丸餅と角餅を使う地域は何処で分かれているのかと言うと、やはり関ヶ原で分けられるというから興味深い。従って徳川政権が勢力を拡大した江戸時代以降、江戸の街は人口が集まるようになり、最初は丸餅を使っていたものが、丸餅よりも大量に生産できる角餅を使用することになったという。結局は江戸文化の影響が強かった東日本でその習慣は広まったようである。でも京都を中心とした上方は、反徳川の意識が強いところであり、当然のように丸餅を使い続けたのではないだろうか。

 ところがである。西日本は全体的に丸餅を使うのであるが、出汁に関しては中国、九州を中心とした西日本も江戸同様、すましの雑煮である。それで京都と大阪を含めた関西と四国の東半分ほどが白味噌を使うのである。つまり関西風の白味噌雑煮は日本の中では完全な少数派ということになる。

 考えてみると文化の古さから言って、京都が江戸の真似をする訳が無く、昔から白味噌を使っていた京都に対して、江戸文化が花開いた時代に、参勤交代で江戸文化を持って帰った大名や武士や町人によってすましのお雑煮が広まったのではないかと推測される。当時、下りものといって上方から江戸に伝わった物をそのように呼んで重宝したが、その逆は下らない物とされたので、まず真似をするはずが無いという説が成り立つ。14世紀から雑煮というものは既にあったとされるが、白味噌といわれる甘い西京味噌は京都の人に好まれたのであろう。それなら何故にすまし汁が江戸の人に好まれたのか、そのあたりは良く判らない。でもおそらく、濃い口醤油が広まった江戸では、味付けする時に醤油を使うことが多く、それで醤油を使うすまし汁が一般的になったのではないだろうか。一方、西京味噌を使う京都の雑煮は醤油を使わず、塩で味付けするのである。・・・・憶測の域は出ないが、そのような事情があったのではないかと思える。

 正月から雑煮一つで色々と考えさせられたが、これからもこんな調子でブログを進めるとなると、やはり当ブログの記事はどうしても長くなってしまうなあ・・・。

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