2010.01.31 (Sun)
根岸S、京都牝馬S
こんな日でも競馬は行われる。もっとも関東は雨など降っていなかったようだが・・・・・。さて、東西で重賞が行なわた。東京で根岸S、京都で京都牝馬S。これといって話題性もないし冬の競馬というのは気が乗らない。だからまた結果だけを記すことにする。
東京 根岸S(GⅢ・4歳以上、ダート1400m、16頭)
1着グロリアスノア 1分23秒7、2着サマーウインド 1馬身1/4、3着オーロマイスター ハナ、4着スーニ 1/2、5着ワンダーボデリオ ハナ。
1番人気のサマーウインドが先行して押し切るところを何と11番人気のグロリアスノアが最後に差し切ってしまった。
京都 京都牝馬S(GⅢ・4歳以上・牝馬、芝1600m、15頭)
1着ヒカルアマランサ 1分36秒4、2着ベストロケーション 1/2、3着ザレマ ハナ、4着ワンカラット アタマ、5着チェレブリッタ 1馬身1/4。
1番人気のヒカルアマランサは道中は最後方、直線入り口でも1番外の後方、ここから直線だけで全馬を差し切った。お見事。
2010.01.30 (Sat)
新しいパソコンから・・・
ということで、取り敢えずは新しいパソコンから、ブログ更新の第一歩を踏み出したということのお知らせする意味で、つまらないことを書いててみたのであります。まあ、これから今までのように更新ができるかどうか判らないが、亀のようにゆっくりゆっくりと更新していくことにするとしましょう。
2010.01.28 (Thu)
さっき帰宅したばかりで・・・
どうにか講習を終えて帰宅の途につく。真っ暗闇の田舎道、トボトボと駅まで3㌔を歩いてJRの駅に到着。夕方のラッシュの時間を外しているので、ホームにはあまり人がいない。6時台の時間帯だと、会社員、大学生、高校生等で溢れているのに、時間が少しずれると人影が疎らになる。このあたりは都市部とは違うところではあるが、それでも電車は15分に1本、でもこの程度の人波みなら充分捌ける本数である。でもラッシュ時でも15分に1本だから、困ったものである。
間もなくして12両編成の各駅停車がやって来た。やはり車内は空いている。でもクロスシートの2人がけは必ず1人は腰掛けている。それで2人ずつ向い合わせのシートに腰をかけた。乗車した駅から腰をかけるのなんて滅多にない。これは何時もより時間が遅いから恩恵に預かったものなのだが、これが災いして、不愉快になってしまった。2駅ほどして、初老の親爺が乗ってきたのはいいが、私の斜め前に腰をかけて、鞄からワンカップ大関を出してチビリチビリやりだした。でもこんな奴、ほとんど毎日、見かけるから気にもしていなかった。が、さらに次の駅で若い女が乗ってきて、私の横に腰掛けた。するとこの女はなにやら、前の親爺に触発されたのか、ポテトチップスの袋を取り出しパリパリ音をたてて食べだした。あーあ、横はポテトチップスで、斜め前は日本酒か。間もなくしてワンカップ大関の親爺はチクワとさつま揚げを取り出し食べだした。そして、ワンカップ大関を飲み干したら、また鞄から二本目のワンカップ大関を取り出し、また飲みだしたではないか。すでに顔は紅いし気持ちよさそうに鼻歌を奏でだす始末。横の女は女で、ポテトチップスを食べ終わると、次に菓子パンを食べ、コーヒーを飲み出す。
あーあ、こちらは腹が減って、こいつらが恨めしくなってきた。長々とこの2人に30分近く隣席でつき合わされ、匂いを撒き散らされ、ようやく帰宅したのが先ほどである。こんな調子だからブログの更新も気が乗らない。電車が空いているのをいいことに、こういった連中が増えたことは前にも述べたと思うが、ちょっとJRは多すぎないか。ちょっと若い女に一言言いたい。下品な親爺の真似をするな。みっともないぞ!
2010.01.27 (Wed)
チャイコフスキー・・・・・序曲『1812年』を聴く
デトロイト交響楽団

大序曲とも祝典序曲言われる『1812年』はチャイコフスキーが1880年に作曲した作品だが、とにかく大袈裟な曲である。そもそも1812年、フランスのナポレオンの軍によって焼かれたモスクワのキリスト教大寺院の再建を祝うお祭りのために作曲された曲である。チャイコフスキーは祭事的な音楽を書くことに不快感を持っていたが、ニコライ・ルビンシテインからの依頼で納得し1ヶ月で完成させたという。初演は1882年8月8日、モスクワの産業博覧会の催しの一貫として行なわれ、寺院前の広場に陣取った砲兵隊が、演奏時に太鼓のかわりに空砲を打ち鳴らしたそうである。
こういった大袈裟な描写の基はギリシャ正教徒の聖歌、ノヴゴロド地方の民謡、ロシア国歌、フランス国歌があり、曲の中のフランス国歌がナポレオン軍を表し、残りの主題のメロディがロシアを表し、それぞれの主題が入れ替り立ちかわり現れて、最後にフランス国歌である『ラ・マルセイエーズ』を沈黙させてしまうい、最後はロシア軍の勝利を描くという手法で、まあ、何とも単純明快で軽快な曲である。
ナポレオンが率いるフランス軍を『ラ・マルセイエーズ』で表現しようとしたのは判り易い発想であるが、まだ1812年の段階では『ラ・マルセイエーズ』はフランス国歌に定められてなかったのである。その後の1863年になって『ラ・マルセイエーズ』がフランス国歌として定められ、チャイコフスキーが『1812年』を作曲する頃には、すっかりフランス国歌は『ラ・マルセイエーズ』をして認知されていたということなのだろう。また、もう一つ付け加えるならば、『1812年』の中に出てくるロシア国家も1812年の頃には、まだ曲そのものがなかったのである。ロシア国歌が作曲されるのは1830年のことである。つまりこの曲は1880年の時点で表した1812年という矛盾だらけの大序曲といえるだろう。でも、何故か馬鹿らしくて大袈裟だけども、派手で演奏会では頻繁に演奏されてきたという歴史があり、日本でもよく演奏される曲ではある。また、初演してからの評判もよく、ロシアのみならずナポレオンに攻め込まれた国では好意的に受け入れられ、それらの国ではよく演奏会のプログラムに加えられたというが、ナポレオンのお膝元であるフランスではどうだったのか気になるところではある。
この作品自体は15、6分程度の曲であるが、とにかく大袈裟で賑やかな曲である。3管編成のオーケストラに加えて、鐘、吹奏楽団まで必要とし、場合によっては本物の大砲まで用いるというから作曲したチャイコフスキー自身も内心は照れくさかったのではないだろうか。後年、チャイコフスキーが演奏旅行でベルリンに行った際、現地のフィルハーーモニー協会が、この曲を歓迎演奏会のプログラムに載せたことにチャイコフスキー自身が反対したという話が伝わっている。チャイコフスキーは、この曲は愛国的な意義しか持っていないので、プログラムから外してくれと提案したという。でも結局、『1812年』は演奏され、大喝采を受けたことからロシア外でも度々演奏されるようになったのである。まあ、よく考えてみたら、日本で言う『軍艦マーチ』や『愛国行進曲』『海ゆかば』『君が代』のメロディを一つの曲に入れて大袈裟にアレンジしたオーケストラ曲のようなものかもしれない。もし、こんな曲があったら我々は親しんで聴くだろうか・・・・・・答えは当然ノー! だろうけど・・・・・。
序曲『1812年』の演奏パートⅠ
指揮 小澤征爾
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
パートⅡ
2010.01.25 (Mon)
映画『ロッキー』を観る
監督 ジョン・G・アヴィルドセン
出演 シルヴェスター・スタローン
タリア・シャイア
バート・ヤング
カール・ウィザース
バージェス・メレディス
ジョー・スピネル
【あらすじ】アメリカのかつての首都であったフィラデルフィアでしがない場末のボクサーであるイタリアン・スタリオン(イタリアの種馬)の異名を持つロッキー・バルボアは、リングに上がる合間はチンピラやくざの使い走りで日銭を稼ぐという情けなさである。だが、そんなロッキーにチャンスが訪れた。世界ヘビー級チャンピオンであるアポロが強すぎて挑戦者がいないことに窮し、人気取りのために無名のボクサーと闘う事を宣言したのであるが、アポロが選んだのは何とイタリアン・スタリオンことロッキー・バルボアであった。かくして薄汚れた下町のリングに上がっていた三流ボクサー、ロッキー・バルボアはトレーニングを開始。そこで付き合い始めた恋人エイドリアンのためにも頑張ろうとする・・・・・。
この映画をどう形容すればいいのだろうか。最初、ロードショーで観た時つまらない映画だと思った。よくある月並みなサクセスストーリーで、いわばアメリカンドリームの定番映画にしか過ぎないと感じたのである。私の姉は当時、この映画がアカデミー作品賞を貰ったことに対して、こんな映画が作品賞を獲るなんてアカデミー賞も価値がなくなったと憤慨していたが、いわばこの作品はアメリカン・ドリームを象徴する典型的な作品として、アメリカ人の郷愁を誘う映画として考えれば作品賞は貰ってもいいのかもしれないと思う。
よく知られているように主演をしたシルヴェスター・スタローンはこの映画で一躍有名になったし、事実としてそれまで彼はポルノ映画の出演や用心棒などで生活費を稼いでいた。でも彼は一応は俳優の端くれであり、それまでも映画のオーディションに参加するものの何十回も落選していたのである。そんな彼が、当時の世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ対チャック・ウェプナーの試合を観戦し、そこからヒントを得て、たった3日で脚本を書き上げたという。あの試合は私もテレビで観戦したが、無名のボクサーであるチャック・ウェプナーが予想外の善戦をし判定で敗れたのであった。その試合にスタローンが自分を照らし合わせていたのかもしれないが、出来上がった脚本を持ってプロダクションを訪れた。プロダクションは気に入って早速、映画化の話が出た。でも主演は有名な俳優で映画を撮るというものだった。だがスタローンは自分が主演することを条件にプロダクションと交渉した。それで結局、彼自身の脚本と主演で映画化されることとなり、映画は大ヒット、興行収益も好調、おまけにアカデミー賞の作品賞まで受賞するという。まさにアメリカン・ドリームそのものの具現化であった。
今、この映画を観てみると確かにベタで在り来たりのストーリーのような気がしないでもない。でも日本人には理解しがたいサクセス・ストーリーの典型的な映画として、映画を観た当時のアメリカ人は感動を覚えたのかもしれない。夢が実現する国、それがアメリカなんだと、かつてアメリカ人がベトナム戦争で失いかけた自信というものが、この映画によって再び成せばなる。アメリカ復興の狼煙を上げるきっかけになったような機運があったのも確かである。そういった意味では理屈っぽい映画ではなく、この『ロッキー』のような判り易い映画を時代は求めていたのかもしれない。なにしろ、それ以前の10年間は、『ロッキー』と相反するアメリカン・ニューシネマが幅を利かしていたのだから・・・・・。
映画『ロッキー』トレイラー
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2010.01.24 (Sun)
アメリカJCC、平安S
アメリカJCC(GⅡ・4歳以上、芝2200m、13頭)
1着ネヴァブション 2分12秒6、2着シャドウゲイト クビ、3着トウショウシロッコ 3馬身1/2、4着マイネルキッツ 1/2、5着ゴールデンダリア 1馬身1/4。
平安S(GⅢ・4歳以上、ダート1800m、12頭)
1着ロールオブザダイス 2着ダイシンオレンジ 1/2、3着ネイキッド 2馬身1/2、4着ダイショウジェット 1馬身1/4、5着トーセンアーチャー クビ。
2010.01.21 (Thu)
リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』を聴く
デトロイト交響楽団
交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』

この長い題名の交響詩はリヒャルト・シュトラウスの中でも傑作の部類に入る作品であろう。でも作品としては演奏時間15分程度と短く、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』『ツァラトゥストラはかく語りき』『マクベス』等のような雄大さはない。でも何故か愛される曲である。
そもそもティル・オイレンシュピーゲルというのは何だということになるが、どうもハンガリーのハーリ・ヤノーシュと同様、14世紀にいたドイツの悪戯者で、一説によると実在したとも実在しなかったとも言われる人物である。解説書によるとティル・オイレンシュピーゲルという名前はウン・デン・シュピーゲル(尻をよく拭け)から生れたものらしく、
悪戯をしかけた相手に「尻を拭いておけ!」という捨て台詞を残す癖があったといわれ、とにかく面白い人物で、ティルの悪戯物語は中世のドイツ人の間ではよく知られていたらしい。
そこで、この話をリヒャルト・シュトラウスはオペラにしようと構想を練っていた。だが台本を書き始めたものの頓挫してしまい、結局は交響詩として書き上げてしまったのである。書き始めは1894年で翌年の5月に完成、1895年11月5日、ケルンで初演されている。
この曲は交響詩なので、当然のように物語形式に曲が構成されているが、何気なく聴いていても物語の展開が読めてくるようで聴いていて楽しい曲である。この作品は『昔の無頼の物語によるロンド形式の大管弦楽のための』という副題がつけられていて、短いプロローグから始まり、馬に乗ったティルが市場の中で暴れまくり逃げていくと、今度は僧侶の衣装で人々の前で道徳について説教を始め、その後、ティルは美女に恋するものの失恋。ここで人類に復讐を誓うのである。その手始めに学者達に論争を吹っかけるが、敵わないとみて退散する。そして、再び悪戯を始め、とうとう捕らえられたティルは裁判にかけられ死刑を宣告される。死刑を宣告されることがいいのか悪いのか知らないが、結局は絞首刑の台の露と消えてしまうのである。
こんな曲であるがリヒャルト・シュトラウスは演奏時において、この音楽的物語に何の注釈もつけなかったのである。だから曲の解釈は指揮者や演奏家まかせで、初演の時、指揮者のフランツ・ヴェルナーに話の粗筋を聞かれたとき、聞き手の方で勝手に想像してくださいといって、この質問に答えなかったのである。しかし、後にリヒャルト・シュトラウス自身がスコアに説明の言葉を書き入れ、現在では解説用として使われている。でも曲を聴いてみると判るが、そこはどんな物でも曲に再現できると豪語するリヒャルト・シュトラウスのこと、部分部分で、ティルがつかまった、絞首刑のところだなあといったぐらいは誰でも判るようになっている。昔、昔、いたずら者がいたという風に始まって、ティルのテーマがホルンのソロで奏でられ、クラリネットが悪戯っぽい動きを表現する。でもこの曲は第1ホルンとクラリネット奏者には大敵といわれるほど難しいとされるのは、奏者にもユーモア精神がないといけないからである。日本の何処かのお堅い交響楽団の奏者のように難しい顔をして演奏していると、この曲の良さが引き出されないかもしれない。つまり楽譜どおり型どおり演奏するのではなく、少々、遊んでいるような演奏も必要ということなのかもしれない。
交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』の演奏(部分)
指揮ダニエル・バレンボイム
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
2010.01.20 (Wed)
カーペンターズを聴く

1970年代のポップシーンを代表するデュオ・グループといえばカーペンターズであろう。私はけしてカーペンターズを好んで聴いていたというのでもないが、1970年代前半においては必ず、何処かでカーペンターズの曲が流れていたという印象がある。ということは老いも若きも含めて、カーペンターズの音楽は愛されていたということになるだろう。
私が初めてカーペンターズを聴いたのは1970年のことだった。ラジオからスローバラードの『遥かなる影(Close to you)』が流れていた。
~Why do birds suddenly appear ?
Everytime you are near
Just like me they long to be
Close to you
時はレッド・ツェッペリンに代表されるようにハードロック全盛の時代。そんな最中、淡々と女性の声で歌い上げるスローバラードが印象的だったのでよく覚えている。カーペンターズというから何人かのグループなのかと思ったら、ピアノを弾くリチャード・カーペンターとドラムを叩くカレン・カーペンターの兄妹デュオをいうことを知って驚いたものである。この曲は当時に人気のあったバート・バカラックとハル・デヴィッドというヒットメーカーが作詞作曲を担当していて、見事、カーペンターズの出世作となったのである。それ以降、カーペンターズはトントン拍子にヒット曲を出すようになり、日本でも人気グループとして認められるようになったことはいうまでもない。そして今回は、そんなカーペンターズを聴いてみて、色々と当時のことを思い出してみることにする。
兄リチャード(1946年生まれ)と妹カレン(1950年生まれ)の兄弟デュオ1969年にビートルズの曲をカバーした『涙の乗車券』でデビューする。この時、2人はカリフォルニア州立大学に通う大学生だった。ドラムを叩いているのがカレンで、当時は歌を歌うよりもドラマーとしての役割の方が優先していたのか、彼女は自分自身の歌声の素晴らしさに、まだ目覚めてなかったと見える。
もともとカレンは音楽よりもスポーツの好きな少女で、音楽的素養は兄リチャードが持っていたようである。リチャードは幼い頃からピアノを習い、少年時代から聴いたレコードの曲を分析し、よく独自のアレンジで弾いていたという。その後、リチャードは妹カレンを引っ張り込みジャズ・トリオを結成したり、大学の仲間とグループを組んでデモテープを片っ端からレコード会社に送っていた。それが何時しか功を奏し、大手のA&Mと契約することに成りデビューの運びになったのである。
『遥かなる影』大ヒット以降のことは、今さら述べることでもないが、出す曲、出す曲が次から次へとヒットする。『愛のプレリュード』(1970年)、『スーパースター』(1971年)、『雨の日と月曜日』(1971年)、『ふたりの誓い』(1971年)、『ハーティング・イーチ・アザー』(1972年)、『愛にさようならを』(1972年)、『小さな愛の願い』(1972年)、『愛は夢の中に』(1972年)、『トップ・オフ・ザ・ワールド』(1973年)、『イエスタデイ・ワンス・モア』(1973年)、『シング』(1973年)、『ジャンバラヤ』(1973年)、『プリーズ・ミスター・ポストマン』(1974年)、『ソリテアー』(1975年)、『青春の輝き』(1976年)、『見つめあう恋』(1976年)、『スウィート・スマイル』(1978年)・・・・・・・・
癒されるカレンの歌声と共にカーペンターズの音楽は一般受けしたのである。激しくて喧しいハードロック、ヘビーメタル、無機的なテクノポップといったものも、そろそろ頭を擡げてきた、そんな時代の真っ只中で彼らの奏でる音楽に、一体どれだけの人がやすらぎを感じたことであろうか・・・・。それがカーペンターズなのである。けしてトレンドをいっていた音楽ではない。どこか古典的でもあるが、彼ら独自のサウンドであったことは確かである。またカーペンターズを考える時、如何にカバー曲が多かったかを考えてみると判るが、オリジナルと違った見事なカーペンターズのサウンドに生き返っているのである。
デビュー曲からしてビートルズの曲であったように、『ヘルプ』(ビートルズ)、『プリーズ・ミスター・ポストマン』(マーヴェレッツ)、『ふたりの誓い』(ラリー・メレディス)、『見つめあう恋』(ハーマンズ・ハーミッツ)というようにカバー曲でありながら、オリジナルとは色合いの違う再構築している。また場合によってはカレンの声の魅力と共に、オリジナルよりも洗練された曲に仕上がっていたりするので、カーペンターズの方がオリジナルだと思っている人も多い。
そんなカーペンターズであるが、1983年2月4日にカレンが亡くなることにより、突然、カーペンターズの存在が消え去ってしまった。死因は一般的に拒食症だと報道され、我々はびっくりしたものだが、どうやら報道が一人歩きしたようなところがある。拒食症は拒食症だったらしいものの、亡くなる前日には普通に食事を摂取していたそうだ(それもシュリンプサラダ2人前にタコス)。本当の死因は心不全で、彼女は痩せるために様々な薬を使用していたらしく、その中で毒性のある薬剤も混ざっていて、それが心臓停止につながったといわれている。享年32歳。
カレン・カーペンターは32歳の若さで亡くなった。これによりカーペンターズは消滅。2度とカーペンターズを聴くことは出来なくなった。今あるのは過去のカーペンターズが歌った歌声が残るのみ。あの曲の歌詞の意味を思い出しながら・・・・・・・歌ってみようか。
When I was young
I’d listen to the radio
Waitin’ for my favorite songs
When they played I’d sing along
It made me smile
Those were such happy times
And not so long ago
How I wondered where they’d gone
But they’s back again
Just like a long lost friend
All the songs I loved so well
Every Sha-la-la-la
Every Wo-o-wo-o
Still shines
Every sings-a-ling-a-ling
That they’re startin’ to sing
So fine
(以下、省略)
出世作『遥かなる影(Close to you)』を歌うカーペンターズ。
『Yesterday once more』を歌うカーペンターズ。
2010.01.18 (Mon)
帰りの電車内で・・・・
それにしても放射冷却で大気が冷え切っている。こんな日に水を使うのは、なおさら辛く顔を洗って朝食を摂って身支度して出かける。そして無事、仕事を終えて帰宅の途につくのは何時ものことである。さて、電車がやって来て乗車する。・・・・それにしても混んでいる。いつもこの時間帯の電車は混んでいる。もっとも大阪市内まで通勤していた頃に比べれば、混雑の度合いはしれている。でも、そこそこ混んでいる。何しろ帰宅のラッシュ時でも15分に1本しか電車がやってこないところだから混むのだろう。乗客の多くは大学生、高校生だが社会人も多い。あーあ、ここから延々と混んでいる電車の中で、立ったまま幾つ駅を停車しないといけないのか。もう、いい加減嫌になっているのだが・・・・。とにかく各駅電車で帰らなくてはならないから時間もかかり辛いものがある。新快速という間の駅を通過していく列車があるのだが、この滋賀県内だと新快速も停車駅が多く各停と大差がないから各停で帰るしかないのだが、時間がかかってしょうがない。それに混雑しているのに・・・・・・最近、困ったなあと思うことだが、何かを食べている輩が多いこ多いこと。毎日、帰りの電車の中で物を食べている者が必ず、一つの車両に数人はいる。
さすが田舎の電車なんて見下したりはしないが、阪急で大阪まで通勤していた頃にはあまり見られなかった光景である。べつに物を食べてもいいだろうと思う方もいるだろう。でも混んでいる車内である。よく平然と食べていられるなあと思う。それも高校生、大学生、男女関係なし、パンを食べている者、お菓子を食べている者、ハンバーガーを食べている者、何時から電車は食堂車になったのだ。
でも長距離列車だと、みんな車内で駅弁を食べたりするから構わないと言われるかもしれないが、私が乗っているのは通勤、通学電車である。せいぜい乗っても1時間。ほとんどの者は30分以内で電車から降りてしまうのだ。たったそれだけの時間さえ我慢できないのだろうか。それも混んだ車内だから立ち食い状態である。私の横に立ってコロッケを挟んだパンを食べている大学生がいたが、彼にソースを服に付けられないか気になって、こちらは読書どころではなくなった。でも3駅ほどで彼は降りていったからホッとしたが・・・・・・。たった10分ほど乗るだけなのに何かを食べなくてはいけないのかなあ。飽食の時代の申し子達は食べるものがありすぎて、腹を減らすという感覚さえ麻痺しているのではないだろうなあ・・・。また、電車内で物を食べることはみっともないことであると教わらなかったのだろうか。本当に時代は変わってしまったようだ。
しかし、若者だけではないから困ったものである。最近、歳いった親父までが電車の中で食べている光景をお目にかかることが多くなった。もっとも混雑した車内では食べないが、席が空きだして座るやいなや鞄からスルメを取り出し、しゃぶりながらビールを飲みだした。おかげで隣に座っている私はいい迷惑である。スルメの匂いが鼻につき、ビールをウイグイとやられると、こちらは気分がいいものではない。こちらも同様のことをやってやろうかと思う。人の迷惑省みず自己中心的な人物が、こんなに増えたのも最近のことだろう。だからといって、絶対にやってはいけないというものではないが、やはり周囲を見渡して状況判断が出来るかどうかということになるだろう。隣に人がいる状態で、このような行動をとられると周囲の人はいい気はしない。本人は悦に入っていい気分だろうが、迷惑に思っている人もいるということを考えてもらいたい。とにかく電車内は公共の場であるのだ。拘束から開放された帰りの車内だからといって、リラックスしたい気持ちは判るけども、もっと節度ある行動をしてもらいたい。・・・それとも都会の電車に比べるとマナーが悪いのか・・・・・・。いずれにせよ、最近、こんな輩が増えてきた。私は間違っても、このような破廉恥な真似だけはやりたくないが・・・・・。
2010.01.17 (Sun)
京成杯、日経新春杯
中山の京成杯(GⅢ・3歳、芝2000m、13頭)は皐月賞と同じコースと距離で行なわれるがメンバーは小粒。人気はエイシンフラッシュ、レッツドスパークル、アドマイヤテンクウの順だったが、レースはアドマイヤテンクウが超スローで逃げる展開。馬群も固まって、エイシンフラッシュが3番手で追走。直線に入っても逃げたアドマイヤテンクウとエイシンフラッシュのマッチレースになり、ハナ差でエイシンフラッシュが制した。
1着エイシンフラッシュ 2分03秒6、2着アドマイヤテンクウ ハナ、3着レッドスパークル 2馬身1/2、4着フラファラッハ アタマ、5着アースステップ 1馬身1/2。
京都の日経新春杯(GⅡ・4歳以上、芝2400m、12頭)も小粒のメンバーとなった。これも時期が時期だけにしょうがないだろう。人気は条件上がりの4歳馬トップカミング、芦毛牝馬メイショウベルーガ、サンライズマックスの順。ゲートが開いたがテイエムプリキュアの出が悪く逃げられず、ドリームフライトが逃げた。4、5馬身ほど離して逃げるが、2番手以下は固まっている。人気のトップカミング、メイショウベルーガは共に中団よりも後ろに待機。3コーナーの坂の下りを利用してトップカミングとメイショウベルーガが動き、直線半ばで前にいたトップカミングを外からメイショウベルーガが一気に抜け出して快勝。
1着メイショウベルーガ 2分24秒4、2着トップカミング 3馬身、3着レッドアゲート 1馬身、4着サンライズマックス 1/2、5着ゴールデンメイン 1馬身1/2。
2010.01.16 (Sat)
映画『ポーラー・エクスプレス』を観る
監督 ロバート・ゼメキス
声の出演 トム・ハンクス
ノーナ・ゲイ
ピーター・スコラーリ
エディ・ディーゼン
マイケル・ジェッター
チャールズ・フライシャー
【あらすじ】クリスマス・イヴの夜、クリスマスもサンタの存在も信じないという少年がベッドに入って寝ようとする。時刻は深夜の11時55分。すると地響きをたてて銀世界の中を蒸気機関車が牽く列車が突然、少年の家の前に現れた。列車の名前は『ポーラー・エクスプレス』である。車掌が出てきて「君はサンタクロースもクリスマスも信じてないから乗るように」と促がす。でも少年はなかなか決心がつかない。唖然とする少年であったが、ポーラー・エクスプレスが動き出すと意を決したように飛び乗るのである。列車の中には大勢の子供達が乗っていた。こうして列車『ポーラー・エクスプレス』は北極点を目指す。
全編CGを駆使したファンタジー・アニメ。『ジュマンジ』などでも知られるクリス・ヴァン・オールズバーグ原作の絵本『急行北極号』の映画化である。アニメを題材に私がブログに書くこと自体、驚かれるかもしれない。確かに私はアニメが大の苦手である。私の子供の頃からディズニーや東映動画等のアニメはあったが何時しかアニメなど観なくなった。所詮、子供向きと考えているからかもしらないが、やはりいい歳した男が必死になって観るものかなあとは思う。でもファンタジー作品なら、実写版で撮りにくいというところはあるだろうから、CGを使わざるを得ないのかもしれない。
このアニメはトム・ハンクスが1人5役で声の出演をしていて話題になったのであり、また製作総指揮もトム・ハンクスが兼ねている。つまり、それほどまでしてトム・ハンクスが映画化したかった作品なのではないだろうか。主人公の少年はクリスマスもサンタクロースも信じてない。まあ、これは何処の子供でもいえることだが、幼い時はサンタクロースがクリスマスにプレゼントを持って、枕元に置いていくことを信じていても、ある年齢から懐疑的になってしまう。歳をとる、成長する、物事が判ってくる。こうなると現実と非現実が見えてきて、結局、夢から醒めてしまう。これこそ子供から大人へ成長していく過程で誰でも体験する目覚めのようなものかもしれないが、この映画はクリスマスもサンタクロースも信じない子は、もっと心を純にして信じればきっといいことがあると訴えかけている。所謂、子供向きの絵本から出てきた話なので、大人が観ると陳腐なストーリーの展開でしかないが、今時の擦れた子供達には観て欲しいと思えるような語り調で締めくくってある。でも大人が観ている部分には、そういった訴えかけよりも、見事なモーションキャプチャーや3Dアニメーションだけで引き込まれてしまう。このあたりは流石に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作や『フォレスト・ガンプ/一期一会』を撮ったロバート・ゼメキス監督だなあと思うが、実際に映像を観ていると判るが、車掌の顔がトム・ハンクスそっくりだし、登場人物がどれもこれも現実にいるのではないかとと思えるほどリアリズムに迫っている。だから登場人物の描き分けの出来てない日本のアニメのように途中で嫌になることはなかったのである。
でも実のところ、このアニメ映画を観ようと思ったきっかけは、以前、ジャズの生バンドが『ロッキン・オン・トップ・オフ・ザ・ワールド』という曲を演奏しているのを聴いて、その曲のことが気になりだし、曲の出所を調べている間に、オリジナルは『ポーラー・エクスプレス』の中の挿入曲ということが判ったから観たまでである。
『ポーラー・エクスプレス』トレイラー
スティーヴン・タイラー&フレンズが歌う『Rockin' on top of the world』のシーン
2010.01.14 (Thu)
チャールズ・ミンガスのアルバム『MINGUS AH UM』を聴く

チャールズ・ミンガスというと熱いミュージシャンといったイメージがある。とかく人種差別に抵抗したということにおいては彼の音楽そのものより興味深い。だからそれが彼の曲にも現れているのではないだろうか。人間の心の表現として喜怒哀楽があるが、その中でも音楽で怒を表現したのがチャールズ・ミンガスではないだろうか。彼が活躍したのは1950年代から1970年前半である。その間、アメリカで公民権運動が盛んになると、彼もストレートに音楽で世相の矛盾に目を向けて、心から怒れる感情を露に表現していた。それは何よりも彼自身が怒りっぽい性格だったからだといえるが、ジャズという音楽が、そういう彼のパフォーマンスを最大限にまで活かせるジャンルの音楽であったということが1番の要因ではある。
彼は1922年にアリゾナ州で生まれ幼いときにロサンゼルスへ転居。6歳でトロンボーンを吹き始めるが、友人の薦めでチェロを弾き出し、学校時代はクラシック音楽に凝っていた。そこで学校のバンドや交響楽団に所属し、クラシックと共にジャズも盛んに演奏していたのである。ジャズを本格的にやりだす頃からベースに興味を持ち出し、20歳前後でプロのジャズ演奏家として活動する傍ら、ニューヨーク・フィルの首席ベーシストに師事するなど研鑽をも忘れなかった。50年代になるとチャーリー・パーカー、ルイ・アームストロング、バド・パウエル、ディジー・ガレスピーといったジャズの巨人らとの共演をも含め、独自の強烈な世界を表現した作品『直立猿人』『道化師』などを発表して一躍、注目を集めるようになる。『直立猿人』はジャズに物語的要素を持ち込んだ作品として話題になったが、この頃からバンドリーダーとして作曲家として幅広い活躍を見せるようになる。
そして当アルバム『ミンガスAh Um』(1959年)であるが、このアルバムは全部で12曲収録されていて、『Better GIt It In Your Soul』『Goodbye Pork Pie Hat』『Boogie Stop Shuffle』『Self-Portrait In Three Colors』『Open Letter Duke』『Bird Calls』『Fables Of Faubus』『Pussy Cat Dues』『Jelly Roll』『Pedal Point Blues』『GG Train』『Girl Of My Dreams』・・・・・全曲をチャールズ・ミンガスが作曲している。この中で2曲目の『グッドバイ・ポーク・パイ・ハット』は、後にロックの名ギタリストであるジェフ・ベック。また女性シンガー・ソングライターのジョニ・ミッチェル等がカバーしたことで有名になったナンバーである。また、7曲目の『フェーブルス・オフ・ファーバス』であるが、邦題を『ファーバス知事の寓話』といい、差別主義者の白人達を徹底的に皮肉った曲として知られている。
彼は差別主義に頑固として反対していたが、白人嫌いでもなく有能なミュージシャンであれば、たとえ白人でも仲間に入れていたし、彼の最初の妻も2人目の妻も白人であった。そもそもミンガスの音楽はハードバップから出発しているが、後年に色々な要素を入れ、自身,色んな楽器をこなす事から編成も変化したりして、ピアノを彼自身が弾いたりヴォーカルでマイクを握ることまであった。でも、このアルバムではベースを弾いている。でも彼が真に尊敬していたのはデューク・エリントンであったらしく、盛んにデューク・エリントンの曲を採り上げるなどしている。そんなミンガスだったが、50歳代後半には筋萎縮性側索硬化症(往年の大リーガー・ルー・ゲーリックと同じ病気)という難病に罹り車椅子生活を余儀なくされる。でも作曲、編曲は56歳で亡くなる直前まで精力的にやっていたという。
"Fables Of Faubus"の演奏(動画はなし)。チャールズ・ミンガスはベースを弾いている。
"Goodbye Pork Pie Hat"の演奏。ベースを弾いているのがチャールズ・ミンガス。
2010.01.13 (Wed)
・・・更新しようと思ったけども・・・・・
1ヶ月か2ヶ月に1回、マイクロソフトの方から自動更新の準備が出来ましたので、インストールをしてくださいという催促のアイコンがタスクバーに現れた。あーあー、セキュリティソフトのインストールの次は、マイクロソフトのインストールか。仕方なくアイコンをクリックして、自動更新のインストールを始める。すると、これがまた長い。パソコンの動きが鈍いから、メモリーの大きいパソコンと違って、時間もかかるのか、これが30分ぐらいかかる。それで無事インストールできたかと思うと、コンピューターを再起動させて下さいというメッセージが出る。やむを得ず再起動する。せっかく立ち上げたのに、またシャットダウンして、再びパソコンが立ち上がる・・・・・。
結局、帰ってきてから、何も出来ずに1時間20分ほど、更新だのインストールだのに時間がかかりすぎてしまいブログの更新をする気が失せてしまった。書く気満々でいても、このような妨害・・・・といってしまうと身も蓋もないが、とにかく頼みもしないのに、自動的に更新のためにインストールやらソフトやらが動き出すのが実に鬱陶しい。勝手に動き出すから、こちらとしては対処のしようがない。せめて、こちらの使用目的が終わってから自動更新やインストール出来るようにならないものだろうか・・・・・・。
パソコンを立ち上げるや、勝手にセキュリティのためのインストールが始まるし、続いてマイクロソフトの方のインストールが始まり、その間、何も出来ず、いざ書こうかと思ったら結構、時間が経過しているので、もう今日はブログ更新もやめようかといった心境にだんだんとなっていくものである。だから、今日のブログは愚痴日記のようなものになってしまった。明日は何を書こうかというネタは頭の中にはないけれども、書く気が横溢するとネタがなくとも書けるものなのだ。とにかく書く気が出るか、書く気が失せるかのどっちかだと思う。でも、とにかくパソコンの自動更新及びインストール、ウイルススキャン・・・・・これらに時間さえ奪われなければ、何とか更新する気が起こるのだが・・・・・・。
2010.01.11 (Mon)
今日は成人の日らしい・・・
昔は元服といたものがあったらしいが、現在のような複雑な構造社会においては意味をなさないだろうし、現在の成人年齢というのは、まだ独り立ちしていない人が多く江戸時代の社会とは大きく異なっているから成人というものも何を持って成人とするのかよく判らないところが多い。一応、大人として認めるということになるのだろうが、これは社会人として独り立ちするということと自己責任を持つということ、またそれには社会的責任を持つということも含まれるのだが、とてもそれに見合うことが出来てない大人が多くて困ってしまうのだが。所謂、子供大人が多いという現実があって、最近はその割合が増しているように思う。
最近の成人式で式の最中に大騒ぎする者や、酒を飲んで警察に検挙される者が日本の何処かで必ずいるが、こんなの昔では考えられなかったことだ。それが7、8年ぐらい前から成人式となるとこういったことがニュースになる。やはり全体的に精神年齢が昔より低くなっていることは確かなようだ。成人というのは個人の責任で何をやってもいいことになっている。親の承諾もいらないし、酒も飲めるし煙草も解禁、その他、何でも自由になる。でも一方で自分の行動に責任も持たなければならない。それは当然のことである。それを自由だから公式の場で暴れるやら酒を飲んで騒ぐというのは、意味を穿き違えているとしか思えない。彼らはもっと本当の意味での大人にならなくてはならないだろう。あんなことをやっている間は、まだまだ子供としかいえないね。それに成人式が嫌なら成人式に行かなければいい。それともみんなが集まる場で、目立ちたいだけなのか・・・・・・。
私なんか成人式に参加しなかった。私の成人式というと、かれこれ30何年も前のことだったが、あんなもの行く必要あるのかと思ったし、成人式を行なう意味もないと考えていた。だからその日は、前日の夜勤明けから帰ってきて、昼間はひたすら眠っていた(大学生だったんだが)。何だか振袖着たりスーツ着たりで着飾りすぎだろ。それに卒業した学校の友人達と再会する意味でみんな行っていたのだと思う。要は同窓会のようなものだった。だから私は行かなかった。
もっとも20歳といっても充分、精神的にも経済的にも社会的にも大人の人がいるかと思えば、30歳なっても一向に大人に成りきれない人がいる以上、地方自治体が税金をつぎ込んで、こういった公の式を行なう意味もないだろう。もうやめてしまえばどうかと思う。その結果、酒を飲んで騒ぐ連中のパーフォーマンスの見せ場に成り下がっている。彼らは人に迷惑をかけても平然と行いを遂行しようとする暴走族とやっていることはあまり変わらない。こんな彼らも大人の仲間入りするのだから困ったものだが、騒ぐことを目的にしてしまっている連中がいるのも確かなことだから、成人式もそろそろやめてしまってもいいのでは・・・・・・・。
それにしても新成人の数が減ったものである。今年は127万人しかいないという。それも今後、減り続けるというから少子化の問題は大きい。我々の頃では180万人前後だと思うが、私より上の団塊の世代では220万人~250万人の人が新成人になっていた。つまり団塊の世代に比べると今は半分の人しか新成人にならないのか・・・・・。今後、日本が老人大国へ移行していく過程において、若者の持つ意味はだんだんと大きくなっていくというのに、これだけ若者が少なくなっていくと日本の未来も明るくはないなあと意を強く持ってしまった。どうせ私は、あと30年生きているかどうか判らないが、若者が老人になる頃の日本はと見渡すにつれ暗い話題しか出てこないというのでは、少子化になるのも無理はないなあ・・・・・・。
2010.01.10 (Sun)
シンザン記念
でも問題は、このような冠馬名を平然と黙認してきた中央競馬会の方ではないのか。しかし、いくらいい馬名をつけても過去にいたとかで、簡単に馬名が受理されないらしいから冠を馬名につけるという悪習が日本の競馬サークルには残っているようだが、それでも冠をつけないで1頭、1頭、いい名前をつけている馬主もいるのだから、もっと馬名に拘ってもらいたいと思う。だからせっかく冠名のないディープインパクトなんていう名馬もいるのだから、このような馬の名前のレースなら設けてもいいのではないだろうか・・・・・。
話はそれたがシンザン記念(GⅢ・3歳、芝1600m、16頭)が京都競馬場で行なわれた。本命馬不在で人気はピサノユリシーズ、キョウエイアシュラ、メイショウカンパク、ガルボの順だったが、スタートでピサノユリシーズが出遅れ、シャインがスローで逃げて、道中4番手のインコースにつけていたガルボが直線であっさりと抜け出し快勝した。2着は逃げたシャインで、後方待機の馬は全滅した。
1着ガルボ 1分34秒3、2着シャイン 3馬身、3着セレスロンディー 1馬身1/4、4着クレバーサンデー ハナ、5着カネトシディオス 1/2。
ところで関西テレビの競馬中継が一新された。それで50年以上も競馬中継を支えてきた、関テレの名物・杉本清元アナウンサーが競馬番組をとうとう降りたようだ。そして番組は『競馬beat』というタイトルで、タイトル音楽からラフマニノフの『パガニーニの主題にによる狂詩曲』の第18変奏が使われ、メインキャスターに俳優の金子昇、アシスタントにフリーアナウンサーの石山愛子が起用された。金子昇は競馬に造詣があって、競馬サークルにも知り合いが多いということ。石山愛子はグリーンチャンネルで競馬番組に携わっていたということから起用されたのだろう。新たな船出となるようだが如何なものだろうか・・・・・・・・・。
2010.01.09 (Sat)
ベートーヴェン・・・・・『交響曲第7番』を聴く
指揮 カルロス・クライバー
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1975年11月~76年1月、ウィーン楽友協会大ホールでの録音)

私の古い友人でクラシック音楽に長けている者がいる。1年前になるが、その友人と偶然に街で会ったときに携帯電話の呼び出しコールの話になり、彼はベートーヴェンの交響曲第7番の第1楽章の第1主題のところを呼び出しコールに使っているという。それは彼がその曲が好きだからであるらしい。もっとも私もベートーヴェンの7番はベートーヴェンの交響曲では3番の『エロイカ』の次に好きな曲ではあるが・・・・・・・。
さて、その友人の話であるが、彼が言うには駅の待合室で電車を待っていた時に携帯電話の呼び出し音が鳴り、ベートーヴェンの7番の第1楽章の第1主題のメロディが携帯電話から流れ出した途端、待合室にいた女子高生2人が顔を見合わせてクスッと笑い「のだめの曲やで」と言ったという。のだめて何?・・・と疑問が出たので、彼は帰宅してから大学生の娘に聞いたという。そこで『のだめカンタービレ』という漫画があって、この漫画はクラシック音楽を奏でる音楽大学の学生たちが多数登場して、テレビ化されアニメ化され話題になっているという。また、そのドラマの中ではクラシック音楽が次から次へと出てきて、彼女達の間ではドラマで使われた曲を気に入って聴くようになった子が多いという。そしてベートーヴェンの7番第1楽章がテーマ曲として使われているので、『のだめカンタービレ』をよく観ている人たちは曲を覚えているという。それで彼は女子高生に笑われたことに納得したという。
なるほど、そういうことだったのであるが、私は『のだめカンタービレ』というドラマを、以前に知って、最近、再放送されていたので観たことがある。確かに効果的にクラシック音楽が使われていて、それがコミカルなドラマにうまくはまっていて、とかく堅苦しいといわれ敬遠されることの多いジャンルの音楽がこのような形で話題になるのは面白いと思った。それでベートーヴェンの7番の話であるが・・・・・・・・。
この曲はベートーヴェンが1812年に完成させた交響曲であるということは、ベートーヴェン41歳の時の作品ということになる。ベートーヴェンの生涯は57歳だったので彼の後半期の作品といえるかもしれない。でもこの7番イ長調は独特の性格を持ち、ある意味でベートーヴェンらしい作品ということが言えるかもしれない。大きな特徴として旋律を歌うアンダンテ、アダージョのようなテンポの遅い楽章がなく、全曲を通して一貫のリズムが強調され、ワーグナーはこの曲を『舞踏の聖化』と評したことは有名である。また比較的、緩いテンポの第2楽章が、最初から6小節もの間、旋律が動かず、和声進行とリズムに表現のすべてが託されているという。別名『永遠のアレグレット』と2楽章が呼ばれるのはそのためである。
ところでベートーヴェンは、この曲を書き出した頃から、使っていたラッパ型の補聴器をやめて筆談帳を使うようになったおいうのだ。つまり補聴器が役に立たないほど彼の耳は悪化していたということなのだろうが、1819年から1827年までの筆談帳が残されていて、現在ではベートーヴェン研究の貴重な資料になっているという。・・・・結局、こんな難聴を抱えながらベートーヴェンは傑作の7番を作曲してしまい、この後の8番と9番に繋がっていくのだが、ベートーヴェン音楽を語る上では絶対に欠かせない曲の一つであることは間違いないであろう。
ところで『のだめカンタービレ』でベートーヴェンの7番に親しんだ人は、あのドラマで使われている部分は、曲の冒頭ではなく、63小節以降ということを知っているのだろうか?
7番には導入部といわれる序奏があって、これが62小節と長く、そのあと例の第1主題へと続くのであるが、往年の名指揮者フェリックス・ワインガルトナーは「この曲を指揮することは、他のいかなる曲におけるよりも精神的疲労を来す」と語っているということは、指揮者にとってはかなり難曲の様である。
ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調Op.92~第1楽章冒頭から
指揮 カルロス・クライバー
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団・・・・・やはり私にとってはカラヤンよりもクライバーの方がいいなあ
2010.01.07 (Thu)
懐かしのボンカレーを食べる


元祖レトルト食品といわれるボンカレーを食べた。もっとも食べたのはボンカレーゴールドトいう製品だが・・・・。今から40年ほど前になるだろうか、大塚食品が世界初の市販用レトルト食品として発売したのがボンカレーである。
それは1968年2月のことで、阪神地区限定で細々と発売されていて、CMもあったのかどうか知らない。でもレトルトパウチに穴が空くという欠陥があり、それを補う意味で新型のレトルトパウチを作り、賞味期限が3ヶ月から2年に延び、全国発売されるようになったのである。それが1969年4月のことで、テレビCMには『琴姫七変化』で有名になったお姫様女優の松山容子が起用されたので、私は非常によく覚えている。
CMでは品川隆二と松山容子が出ていたが、その後、松山容子が引退したので、途中から笑福亭仁鶴がボンカレーのCMに出るようになった。でも残念ながら、私は松山容子がCMに出ていた頃のボンカレーを食べたことがない。あの当時はカレーライスが好きではなかったので、わざわざ家でカレーライスを食べなくてもといった思いがあった。つまり外出先ではどうにかカレーライスは食べられるようになってはいたが、晩御飯にカレーライスを食べようなんて気はさらさらなかったので、母は絶対に家でカレーライスを作ろうとはしなかった。でも仁鶴がCMで「3分間待つのだぞ」と台詞を言うから、3分間で食べられるので画期的なインスタント食品であることは判っていた。
その後、大塚食品は1973年にボンカレーゴールドを発売するようになるが、実際に私が食べたカレーはこの製品である。カルダンモンの香りが際立ったスパイシーなカレーといわれ、玉葱、ジャガイモ、人参、牛肉、小麦粉、乳製品、ブイヨン、フルーツチャツネ、砂糖、食塩、カレー粉、食用油脂、トマトベースト、澱粉、リンゴベースト、香辛料、赤ワイン、酵母エキス、レーズン、還元水飴、たんぱく酵素分解物、調味料、カラメル色素、香料、スパイス抽出物、パプリカ色素、酸味料・・・・・・原材料にこれだけ使っている。それでボンカレーゴールドであるが、どこか懐かしい味がするが、昔のボンカレーを何しろ食べたことがないので比較の仕様がない。でもボンカレーゴールドではあるけれども、どこか昭和のレトロの味覚がするのは、元祖レトルトカレーというイメージから来ているものなの・・・・・・。
少なくとも他社にあるような凝ったカレーといった風味ではなく、親しみ易くて庶民的でいて、それでいてスタンダードとなるレトルトカレーの風味と味付けなのである。もっともカレーという食品が日本人の国民食であると考えるならば、レトルトカレーは昭和を代表する食べ物である。だから一般的にカレーは食べなれた味というのか、あまりにかけ離れた味付けに出来ないというもどかしさはあるだろうが、同じ国民食といわれるラーメンが次から次へと、流行の味が変わるように、カレーも流行の味があるのかと思っていたが、基本的にはカレーの味付けは昔も今も大きく変わっていないように思う。たとえラーメンが変わり続けようとも、カレーは突拍子もない製品は出回らないかもしれない。言い換えれば保守的な食べ物かもしれないが、カレーパン、カレーうどんといった食べ物も生み出したことは、カレーの今後も可能性はあるだろう。でもカレーライスは今後も大きな変化はなく、日本人が好きな食べ物として存在し続けるのだろう。
ボンカレーを食べたことがないのに懐かしい味がすると思ったのは、CMに出ていた松山容子のイメージがあるからかもしれない。私が小学校に入った頃、読売テレビ製作の『琴姫七変化』という時代劇をよく観ていて、その琴姫を演じていたのが若かりし頃の松山容子である。とにかく綺麗な女優さんで、こんな美女が剣を持ってバッサバッサと悪漢どもを切り捲るというところに意外性と爽快感があった。そんな松山容子であったが、今、何しているだろか。すでに70歳を越えていると思うけども・・・・・・・。
2010.01.05 (Tue)
今年の初出勤
何時ものように最寄の駅まで歩き、早速、電車に乗って出勤。どうも長期休養明けの出勤ていうのは嫌なもんであるが、どの諸氏も同様なのか、どの顔を見てもやる気のない顔をしている。シートに座っているものはほとんど居眠りしているし、立っていても半分、居眠りしたように顔が眠っている。身体もなまっているが頭の方も目覚めていない。皆、仕事が好きじゃないんだなあ・・・・・・。
まだ、高校生や大学生が休んでいるので電車は普段よりは空いている。それで、京都駅で人が降り立ち席が幾つか空いたので、私も腰掛けて目的の駅まで居眠りしていたらあっという間に到着した。でも駅前の路面は凍っていたし、明らかに雨が降っていたことが判る。出勤して訪ねてみると、滋賀県の方では風も雨も雷も激しかったといっている。一方、大阪の方は雨も降らず雷も鳴らなかったというから、昨夜の天候は局地的な荒れ方をしていたということか。
そして、いざ仕事だが、当然のようにやる気が出ない。こんなに1時間が長く感じることはない。ようやく昼食の時間になる。食堂に行くまで歩くのだが、何と湖西の山々は厚い鉛色の雲に覆われ稜線が確認できないでいる。比叡山、比良山地、上半分は全く見えない。これは雪雲に包まれてしまっていることは一目瞭然である。そうこうすると、こちらの方もチラホラと小雪が舞い降りてきた。でも結局、雪はその後は降らず、また晴れてきたのだが、今度は底冷えがする。いよいよ湖国も寒波が襲来か。昨年は、この付近、一度も積雪がなかった。珍しいことであると地元の人が言っていた。今年は昨年のようにいかないだろう。いくら地球温暖化といっても、この湖国は雪が積もって当たり前の地域である。今日、5日になってようやく新年の第一歩を歩みだしたが、これから本格的な冬が到来する。そうなるとバスは動くのか、それとも3㎞の道のりを、滑りながら危なっかしい足取りで職場まで歩かなくてはならないのか・・・・・・・。何かにつけて、以前では考えられないことを心配しなくてはならないのだが、またまた暖冬であることを祈るしかないか・・・・・。でも近々、ドカ雪が降りそうな予感がしないでもない。そうなると・・・バスはノロノロと動かないから、女性もパンプスで3㎞の雪上を歩いて出勤するのだろうか。どうだろうか・・・・・・・。それともそれとも・・・・・・・・。
2010.01.04 (Mon)
もう4日だけども
、
さあ、年が改まってすでに4日目。今さら初詣というのでもないが、ちょっと雰囲気だけでもと思いたったので、神社にいってみることにした。それで取り敢えずいったところが平安神宮。大きな神宮であり観光客も多い。京都の岡崎公園の中にあり、近辺は府立図書館、国立近代美術館、京都市美術館、京都市勧業館、京都会館、細見美術館、京都市動物園といった公共施設が点在している文京地区である。でも正月三ヶ日明けの4日となると初詣の人混みもガクッと減るようである。来ている人は初詣の人もいるが観光客の方が多いのではと思わせる。
平安神宮の境内は広いから人がいてもまばらにしかいないように見える。でも元日は多かっただろうなあ・・・。


平安神宮から南へ1.5キロほど歩くと八坂神社へ到着する。ここは平安神宮よりも人が多い。観光客もいることはいるが、大阪あたりから大挙して訪れた初詣の人の方が圧倒的に多い。やはり繁華街の隣にある神社だからか、色々と願をかけに来る人が多いのかなあ・・・・。


一方、所変わって大阪の天満宮。大阪の北新地から東へ僅か1キロのところにある神社。大阪では住吉大社と競い合うほど初詣の人の多いところだが、境内は京都の神社と比べると、とても狭くビルに囲まれた一角にある。

大阪天満宮は学問の神様・菅原道真を祀っているだけに大学や高校、私立中学の合格祈願の絵馬が数え切れないほど吊り下げられてある。受験生は必死なんだなあと、30数年前のことを思い出した。

ところで明日から、またまた出勤だ。やる気もないし、ため息しか出ない。また虚しい経済の枠組みの中で、停まることのない歯車のように働かなければならないのだなあ・・・・・。
2010.01.02 (Sat)
ワーグナーの歌劇『タンホイザー』を観る
指揮ジュゼッペ・シノーポリ
ハンス・ゾーティン、リチャード・ヴァーサル、ヴォルフガング・ブレンデル、チェリル・ステューダー、
ルートヴィヒ・エンゲルト=エリ、ウィリアム・ペル
バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団

新年も2日目に入ると正月気分もだれてくる。正月休みだからといって特別なことはないけども、日頃、観ないオペラというのでも観てみようと思い立ち長い長いワーグナーの歌劇を観てみた。ワーグナーというのはドイツ・オペラの作曲者として名高いが、中期以降の作品は音楽劇、通称で楽劇と言われる作品を創作し、より劇に音楽性を用いたことでオペラの発展史に貢献したことでも知られているが、ここで歌劇と楽劇と違いはあるのと問いかけがあるかもしれない。
基本的に違いはないけども、歌劇というものは序曲、アリア、重唱、合唱、そこに間奏曲が加わり、絶えず音楽が流れているというものではない。それがワーグナーは不満だったらしく、その歌劇に無限旋律という手法を取り入れた。それはライトモティーフというメロディを得ることで途切れのない一つの音楽物語の創作。つまり音楽劇(楽劇)へと発展させたということに尽きる。
この楽劇はことに1865年初演した『トリスタンとイゾルデ』以降の作品で見られるようになるが、今日、紹介する『タンホイザー』はワーグナーがまだ楽劇を生み出す以前の作品で、比較的、初期の作品なので、劇自体も大袈裟でなく、歌劇の趣がある。でも話が単純でいて滑稽なイタリアのオペラに比べれば重々しいかもしれない。
そもそも、この歌劇の主人公タンホイザーは実在の人物とされる。1200年頃に生まれザルツブルク地方を含む南部の地方に住みついていた貴族の家系に属していたに違いないとされるミンネジンガーとされる。ここでミンネジンガーと何だということになるが、ミンネジンガーとは吟遊詩人のことである。中世のドイツでは騎士でありながらミンネジンガーとして歌う習慣があり、その内容はドイツの伝説や物語を主に歌うのである。この時代から後世になると、ドイツではマイスタージンガーという者が現れ、これらは15世紀頃に職人達が詩人組合を作っていたとも言われる。それで歌のコンクールのようなものを開くという。これがワーグナーの楽劇『ニュールンベルクのマイスタージンガー』で知られるところであるが、何で騎士が歌を歌わなければならないのかといった話は一先ず置いといて先に話を進めるとしよう。
歌劇『タンホイザー』は、ワーグナーが1845年に完成させた作品で、彼が32歳の時というから若い時に作られている。したがって彼の後半の作品に見られるような大袈裟でくどいといったことはなく、まだ親しめるかもしれない。簡単に粗筋を説明すると(・・・といっても長いが)、13世紀初頭、タンホイザーと呼ばれるミンネジンガーは官能的な愛を体験したいと禁断の地とされる愛の女神ヴェーヌスの館に逃避した。ところが、そんな生活にも飽きてしまいヴェーヌスの館から抜け出してしまう。タンホイザーは仲間から何処へ行って来たのかと尋ねられ返答できなかった。しかし友人ヴォルフラムが君の恋人エリザベートが帰りを待っていると言われ、また旅立とうとしているところを踏みとどまる。
そして、いよいよヴァルトブルク城の大広間で歌合戦が始まる。多くの貴族、騎士が集まる中、領主ヘルマンは歌合戦の課題を出す。それは『愛の本質』というものだった。それで勝者にはエリザベート賞が与えられると宣言され始まった。ヴォルフラムは「精神的な愛こそ愛の本質だ」と歌うが、タンホイザーは「愛の本質は快楽にある」と歌い官能の女神ヴェーヌスを讃美する。これによって禁断の地、ヴェーヌスの地に行っていたことがばれたタンホイザーに対して、人々はタンホイザーを国から追放せよと罵倒する。だがエリザベートが彼をかばい、1番傷ついているのはタンホイザー自身なのだという。すると領主ヘルマンは罪を償うためにはローマ教皇も下へ行くよう命じる。
それから数年、ローマから帰ってくる巡礼者の一団があった。だが、その中にタンホイザーの姿はなく、エリザベートは天国へと旅立つ。それから間もなく、タンホイザーは帰ってきて、ローマで許しを得ることが出来なかったといって、再び禁断の地ヴェーヌスの地へ行こうとする。だが、そこへエリザベートの棺が運ばれる。エリザベートの死に絶望したタンホイザーは・・・・・・・・・・。
一言でいうならばワーグナーのオペラは観終わると疲労困憊する。それにテーマが愛だとか死だとか人間の生活の中で普遍的にある概念を謳っているというのに、何やらストレートに入ってこず、イタリア・オペラのような「好きだ」「君は美しい」だとか言った判り易い言葉で粉飾されないから余計に判りにくいのである。でも『タンホイザー』は、そういったワーグナーの数あるオペラの中でも比較的、話が込み入ってなく、単純で判りやすく、上演時間も3時間余りと短い。
よく言われるのだがワーグナーのオペラは上演中に寝てしまい、目が覚めても同じ場面であったということがよくある。無限旋律が延々と奏でられ男女の出演者が愛について哲学を明け方まで論じ合うような長さである。だからワーグナーのオペラは、ちょっと敬遠したいという人は多い。でも世の中にワーグナーの世界に嵌ってしまった人をワグネリアンというが、こういった人も非常に多い。どこかワーグナーの音楽を聴いていると官能的で、一度、好きになると病みつきになるといった類の音楽である。でも長い。長すぎる。聴くのに体力も精神力も必要である。今まで、ワーグナーのオペラのDVDを何度となく観てきたが、未だに『ニーベルングの指環』四部作を通して観たことがない。でも、この『タンホイザー』は、それほど体力も必要としないから大丈夫、一度どっぷり嵌るとワーグナーの世界から抜けられなくなりますよ。
『タンホイザー』序曲の演奏(前半)
指揮アルトゥーロ・トスカニーニ
NBC交響楽団
『タンホイザー』第3幕の一場面、斬新でエロティックな演出である。
指揮ズービン・メータ バイエルン国立歌劇場での公演。
2010.01.01 (Fri)
2010年に入りました
ところで、このブログ上に掲載している過去の写真が滅茶苦茶になっているので、現在、修正中である。記事数にして600以上あるから、なかなか終わりそうにない。どうなっているのか知らないが、記事と関係のない写真がいたるところで載っていたりして、こちらとしては対応の仕様がない。システム・トラブルなのか判らないが、過去の書いた記事を読み直して、おかしな写真を削りに行かなければならなくなった。また、写真に添えた文まで削らなくてはならないし、ブログの生命線が失われるようで残念だがしょうがない。
本当に、このブログはどうなっているのでしょうか。・・・・ということで、正月早々であるが、暫くは記事の更新を怠るかもしれないので、よろしくお願い申し上げます。それか、写真無しのブログにしてしまうか、現在、検討中である。あーあー、いやんなっちゃうよ。