2007.11.30 (Fri)
初めて買ったコンパクトディスク・・・・・・ベルリオーズ『幻想交響曲』
ベルリオーズ 『幻想交響曲』のCD
今年の10月で、コンパクトディスクが売り出されて、25年になるらしい。私はアナログ世代の人間なのでデジタル・オーディオ・ソフトという物が売り出されたとき、いったいそれは何だと思った。でも、その実物を見たのは、発売されてから1年ほど経ってからのことである。何故かというと、学生の頃までよく聴いていた音楽を、社会に出てからさっぱりと聴かなくなってしまい、レコード店からすっかり足が遠ざかってしまったからである。それというのも社会に出てから毎日、残業の連続で、帰宅が何時も深夜であり、日曜日も出勤していることがあった。そんな状態で、音楽なんか聴けるものではなく、テレビを観ることもなくラジオの電源を入れることもなくなった。
音楽とは絶縁状態で、世の中のヒット曲ともご無沙汰で、どんな歌手がいるやらチンプンカンブン。唯一、流行の音楽を聴くときというのは、出勤途中に毎朝、寄る喫茶店で流れていた曲を聴くときぐらいであった。だからレコード店に行くことも無くなり、CDソフトなる代物が世に出回っていることも知らず、ある日、何気なく入ったレコード店で見つけたドーナツ盤よりも小さなコンパクトディスク。私は何だこれはと思った。私が音楽から程遠い生活を強いられている間に、世の中はレコード盤からコンパクトディスクへと変わりつつあったのである。早速、視聴してみた時の印象は、とにかく音が鮮明で雑音が無い。そして曲の頭出しが簡単。長時間演奏も出来、それに小さくて持ち運びに便利で、音質も劣化しないという。私はすっかり気に入ってしまい。それから半年後には、CDプレーヤーを買ってしまった。
CDプレーヤーを買ってしまったが、肝心のソフトが無い。それで、何を聴こうかと迷った挙句、買ったのがユージン・オーマンデイ指揮、フィラデルフィア管弦楽団演奏のベルリオーズの『幻想交響曲』である。
何でクラシック音楽だと問われそうであるが、CDだからクラシック音楽にしようとブレーヤーを買った時から考えていたのである。お前はこのブログで、クラシック音楽のことを今まで一つも書いてないぞ! と言われると言葉が無いが、私は子供の頃から、ロックやポップスに混ざってクラシックも聴いていたのである。でもレコード盤だと、表、裏とひっくり返さなくてはならない。こんな面倒なことは無い。それに長時間演奏の曲だとLP2枚組みというのが珍しくなかった。だから最大74分まで連続して聴けるCDは、クラシック音楽を聴くのにもってこいだと思ったまでである。
さて、クラシック音楽と言っても実に幅広い。何を最初に聴こうかと悩んだ。当時のCDは高価(1枚約3000円)だったから何枚も買えない。そんな時、NHKのFM放送でベルリオーズの『幻想交響曲』が流れていた。誰の演奏かも知らず3楽章の終盤を私は聴いていた。すると突如としてティンパニーが連打された。ゴロゴロゴロゴロと打ち鳴らされる雷鳴。まさに稲光と雷鳴が轟いているかのような、そんな衝撃な音に酔いしれた。私は「これだ、これにしよう」と閃いた。
そんな訳で、最初に買ったCDがユージン・オーマンディ指揮によるフィライデルフィア管弦楽団演奏の『幻想』だったのである。このベルリオーズの『幻想交響曲』にはシャルル・ミュンシュ指揮の盤やモントゥー指揮の名盤もある筈なのにと思われがちだが、この時は、何の躊躇も無くオーマンディ盤を選んでしまったのである。ユージン・オーマンディというと、玄人には受けが悪く、ゴージャスな音だが、中身が空虚だとか、表面的な演奏だと評価は低い。でも私はオーマンディは嫌いではない。確かに録音過多で、どんな曲にでも手を出すきらいはあるが、音色は派手で艶やか、色彩豊な重苦しさの無い演奏である。でも、これがミーハーの好む音楽だと、口の煩い通には嫌われているようだ。でも音楽にあまり理屈を捏ねたくない私は、ただ聴いて自分が納得すればいいことであって、人がどのように評価しようが自分の耳しか信じない。一般的に日本人のクラシック通というのは、ベルリン・フィルやウィーン・フィルの評価が高くて、アメリカのオケに対する評価は低い。指揮者においてもフルトヴェングラーやワインガルトナー、メンゲルベルク、ブルーノ・ワルター、クナッパーツブッシュ、カール・ベームを好きな人は多かった。それに反してアメリカのオケに、トスカニーニ、ストコフスキー、ライナー、セル、オーマンディといった指揮者は無視されがちだった。でも私は、そんな通の評価に関係なく自分で好きな物は好きで嫌いな物は嫌いという性格なので、全て自分で聴きたいものは選んでいた。
それでこのアルバムであるが、ミュンシュ指揮、パリ管弦楽団演奏の名盤といわれるものと比較すると、テンポがゆったりしていて、意外にもあまりオーマンディらしくない音色であり、ラジオで聴いていた時の演奏とは少し違っていた。どうもそのあたりは、プレーヤーの機材に問題があるのかもしれないが、3楽章のティンパニーが連打されるところは、何人で叩いているのだろうかと、兎に角、ラジオで初めて聞いたときの印象そのものであった。そして、5楽章の『魔女の祝日の夜の夢』の中で鐘が打ち鳴らされるが、この鐘がまた渋くていい。ミュンシュ盤のような甲高い鐘の音色ではなく、そこへチューバの重低音が重苦しいメロディを奏でる。
いささか派手なオーマンディの演奏も、この曲にいたっては意外と大人しい演奏であるが、このような伝統的『幻想交響曲』らしくない『幻想交響曲』もいいのではないかと思った。このアルバムは1976年の録音で。当然のようにアナログ録音である。最近はデジタル録音が当たり前だが、曲自体がデジタル化で栄える『幻想交響曲』でアナログ録音によるCDもあまりない。そんなアナログ時代の最後の『幻想交響曲』ともいえるオーマンディの当アルバムである。実は、私はデジタルよりもアナログ演奏の方が好きであり、音質も柔らかい。たがら、デジタル録音のキンキンした硬質な音が苦手なのかもしれないが、最近の『幻想交響曲』のCDを聴いても、再び聴きたくなるような演奏にあまりお目にかかれない。それは曖昧さの必要なアナログに対して区切りが明確なデジタルによって作られた音楽というのは、どこか機械的だと思えるからかもしれない。
この演奏は1976年で、オーマンディ77歳の時の録音である。つまりオーマンディ最晩年の指揮ということになる。ストコフスキーが率いたフィラデルフィア管弦楽団を引き継ぎ、1980年にリッカルド・ムーティに譲るまで、42年間もフィラデルフィア管弦楽団常任指揮者として君臨していたが、1985年にオーマンディは亡くなった。
今はオーマンディの指揮で演奏を生で聴けることは無くなったが、大量に録音されたマスターテープが残っており、オーマンディ指揮のCDが安くで売っていたりする。でも人気が無く、カラヤンやアバード、ラトルといった王道の指揮者のCDが良く売れるだろう。でも私は、人の評価は低かったが、ゴージャスな音色のオーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団の演奏が好きだった。
2007.11.29 (Thu)
風邪をひく
10年ほど前、リンパ腺を腫らして高熱が続いた時、医者に煙草をやめろと言われ、とうとう煙草をやめたのだが、暫くは喉も気管も調子が良かったが、最近は昔よりも風邪を頻繁にひくようになってしまった。歳を重ね体力が落ちたのか・・・・まだ、老け込む年齢ではないのだが、とにかくよく風邪をひく。4年前は気管支炎で苦しんだが、完全に治癒したとは言えず、いまだに咳は出る痰は出る。そこへ最近は鼻炎で鼻汁までが出る。それで年から年中、鼻づまり状態で、口で息をすることが多く、だから風邪をひきやすいのかもしれないが・・・・。
今回は先週の中頃から喉がヒリヒリとするようになり、風邪の前兆らしき兆候が現れ始め、その2、3日後に鼻汁と咳が出るようになった。それでも熱がないからどうてっことはないなあと放っておくと、今週になってから痰と鼻汁がズルズルと出るようになった。またそれと伴ってくしゃみと咳は酷くなる。
こんな調子であるが、熱がないから出勤しなくてはならない。倦怠感があるから体が思うように動かない。しかし、いったい何処で風邪のウイルスをもらったのやら・・・・。
聞く所によると風邪は80%が、ウイルス感染によって起こるとされ、それらはライノウイルス、アデノウイルス、RSウイルス、コロナウイルス、エコーウイルス、エンテロウイルス、マイコプラズマ、パラインフルエンザウイルス、インフルエンザウイルスC型等、色々とウイルスの種類があるとされる。これらは空気感染や飛沫感染、接触での感染等、感染ルートはこれらに大別されるそうだが、私の場合、考えられるのは毎日、満員電車で揺られるので、空気感染、飛沫感染のどちらかであろう。よく電車の中で、ゴホゴホと咳をしている人や鼻をグズグスさせている人をよく見かけるが、こんな人が近くにいたら要注意である。
それでも風邪に罹らない人はいいが、私のようによく罹る人間は、電車の中で遭遇すると、背を向けたくなる。とにかく一度、罹ると本当に風邪は鬱陶しい。今回はあいにく熱は出なかったが、発熱でもするとどうしようもない。倦怠感と共に、頭痛、腹痛、悪寒と、散々な目に遭い、また快復まで時間がかかる。それに薬が効かないし、どうしようもないのだ。医者に言わせると風邪の特効薬は無いと言う。風邪を治すのに1番良い方法は、とにかく体を温めて、十分な睡眠と水分と栄養を摂ることだという。でも現代人は忙しいから、風邪ぐらいで仕事を休む訳にはいかない。結局、それが快復を遅らせている1番の要因らしい。だから、何もしないでボケーと風邪が治るまで寝ていたいものだが・・・根っからの貧乏症の私は、3時間も寝てられないだろうなあ。それに、平日の昼間から寝ていたら、何か自分が取り残されているような気分に陥ってしまう。いや、本当に、何時間も寝ていられる人が羨ましく思うときがある。
2007.11.27 (Tue)
古典文学を読む・・・・・『罪と罰』
ドストエフスキーの『罪と罰』を初めて読んだ時、20歳になっていただろうか・・・・。何とも複雑な読書感というものがあった。
簡単な筋書きを説明すると・・・・・極貧のラスコーリニコフは大学を中退する。そして汚い部屋に閉じこもり奇妙な考えが思い浮かぶ。人間には才能ある人と平凡な人に分けられ、才能ある人は少数で選ばれたものであり、法律を作り、改革の為に障害を乗り越える権利を持っている。一方、大半の平凡な人は法律に従うしかないという。この理論にしたがって、ラスコーリニコフは偶然も手伝って、高利貸しの老婆を殺してしまう。予審判事ポルフィーリはラスコーリニコフが犯人だと見抜くが、物的証拠がない。ポルトフィーリは自首をすすめるがラスコーリニコフは屈しない。それは自分の思想の破綻を意味するからである。この2人の間には激しい心理的暗闇が繰り返される。そんな時、不幸な娼婦シーニャの愛に触れラスコーリニコフは遂に自首するのである。そしてシベリアへ流され、囚人達にも疎外されるのであるが、同じ囚人達がソーニャを尊敬しているのを見て、ラスコーリニコフは自らの敗北を認めるのである。
この小説を初めて読んだ時の、複雑な心境は忘れられない。殺人によって富と権力を握ろうとしたラスコーリニコフ。自己の知的論証によって正当化された殺人を起こしたのであるが、犯行後、激しい自己嫌悪に陥り、やがてソーニャという愛の具象者との出会いがあり、やがて内的に崩壊していく。この過程では老婆を殺したラスコーリニコフと、ソーニャの生きる道や使命といったものが、同じ目的にあるのだという妙な話の決着に驚いたものである。
つまり敬虔なキリスト教の信者ソーニャは「キリストが私を甦らせてくれた」という。ソーニャはキリストによって生命を与えられ、愛による救いを広めていくことが使命となったのである。一方、ラスコーリニコフは殺人により、富と権力を握ろうとしたが、それは新しいユートピアを作るための手段にしか過ぎないとしたら、ソーニャとの行きつくところは一緒なのだと言った。そして、ここから2人の愛が真実の闘争をとる形となるのだという。
今も昔も、この作品を読んだ時の印象が強くて、ロシア文学は難解だといった思いがあるのは、こうした複雑な二重、三重もの心理的葛藤と欲求が話の中に内包され、短絡的に答えが見つからないから、私は何時も物語に翻弄されたという記憶しかないからだろう。でもドストエフスキーはトルストイやチェーホフ以上に、奥が深いというのか、その作品群の深遠なる漆黒の闇に入ってしまうと、どうしても抜け出せなくなるから不思議だ。
2007.11.26 (Mon)
戎橋を渡る
戎橋を東の方角から眺める。橋の下は道頓堀川。橋の西側の遊歩道はまだ工事中だった。
大阪の名物といえば道頓堀であるが、そこへ架かる橋が長らく工事中だった。先代の橋は1925年(大正14年)に架けられた鉄筋コンクリート製だったが、老朽化と損傷が激しくて新しい橋に架け替えるため、工事をおこなっていた。それが、このほど完成し渡れるようになっていた。
以前の橋は客引き、ナンパが多く、何時の間にやら「引っかけ橋」「ナンパ橋」という有り難くない名称で呼ばれたり、阪神タイガースの優勝時やサッカー・ワールド・カップで日本が勝つと道頓堀川に飛び込む人が多発したり、とにかくあまり印象の良くなかった橋だが、新しい橋に替えられて汚名返上となるかどうか。でも、今回の橋は丸い曲線的な橋で、その橋脚の下には遊歩道まで設けてある。これだと飛込みを助長しているようであり大丈夫かなとも思う。喜ぶのは結構だが、節度ある大人の態度で表現してもらいたいと思う。
ところで、この橋を心斎橋だと勘違いしている観光客が時々おられるが、この橋は戎橋(えびすばし)という。そもそも道頓堀が完成したのは江戸時代の1612年である。安井道頓らが中心となって開削した堀で、江戸時代には運河として船が行き来していたのだ。その道頓堀が開削されたのと同じ頃、既にこの橋は架けられ、戎橋と名前がついたのである。謂れは諸説あってどれが定説か判明しない。また当時の大坂は、町中に堀が開削されていて、水の都と呼ばれていた。江戸の八百八町、京都の八百八寺に対し大坂は八百八橋というだけ橋が多かったらしい。今は堀や川を埋め尽くしてしまい、橋の数も減ったようであるが、心斎橋という橋は、昭和30年代まで現実に存在した橋で、心斎橋筋商店街を抜けた長堀通にあった長堀に架かっていた橋のことを言う。したがって現在、心斎橋という橋は存在せず、地名だけが残るということである。だから大阪に橋のつく地名が非常に多いのは、そういった事情によるものである。
ざっと橋のつく地名を挙げてみると、淀屋橋、肥後橋、四ツ橋、心斎橋、日本橋、天神橋、天満橋、長堀橋、京橋、緑橋、深江橋、鶴橋、太子橋、芦原橋、朝潮橋、出入橋、桜橋、千鳥橋、阿部野橋、西大橋、新橋、三休橋、白髪橋、鰹座橋、末吉橋、農人橋、大手橋、高麗橋、玉造橋、朝日橋・・・・・・まだまだあるが、こんなとをやっていても意味が無い。とにかく戎橋は、そんな数多くある大阪の1つの橋にしかすぎない。でも大阪で最もテレビに映る率の高い橋が戎橋であり、最も人が渡るだろうと思われる橋も戎橋である。これからはひつこい客引きもナンパも頻繁に現れないことを祈るだけだ。
2007.11.25 (Sun)
チキンラーメンを食べる
チキンラーメンを久々に食べた。うん、やや脂っこいが素朴で懐かしい味がする。初めて食べたのは何時だったろうか・・・・。小学校に入って間もなくしてから食べたような気がする。封を切って麺の塊を丼鉢に入れてお湯を注ぐ。3分間で出来上がる。その時の印象はほとんど無い。美味しかったのかどうなのか・・・小学校低学年の頃の話である。当時はインスタントラーメンなんてチキンラーメン以外なかった。その後に袋入りの粉末スープが添付してあるインスタントラーメンが出回った。エースコックの『ワンタンメン』『明星ラーメン』が出回ったのは後のことである。歳がバレそうであるが、まだ日本に食が溢れ出る以前の話である。今ほど何でもある時代ではない。そんな時代のインスタントラーメンだから、有り難く思ったのかもしれない。でもチキンラーメンが発売されて直後に食べたというのでもなく、私が小学校に入学してからのことなので、発売から数年経ってはいただろう。私が初めてチキンラーメンを食べたのは1960年代前半だと思う。それでも、今ほど食べるものがありふれていた訳ではない。だからシンプルなチキンラーメンでも有り難く頂戴したものだ。
チキンラーメンが世に出たのは1958年の8月だという。日清食品創業者の安藤百福が終戦直後に、大阪・梅田の闇市でラーメンの屋台に並ぶ行列を見て、量産できるインスタントラーメンの開発を思いついたという。そして、大阪・池田市の自宅敷地内に作業小屋を建て、試行錯誤を繰り返し、生まれたのがチキンラーメンなのである。そして、このチキンラーメンが売り出され、インスタントラーメン文化が花開き、その後、世界中に広まって行ったという事である。
映画『ラストエンペラー』の愛新覚羅溥儀が亡くなる直前に好物であったチキンラーメンを食べたいと言った話が伝わっているぐらい、全世界に広まったのであるが、インスタントラーメンの先駆けとして、その後の改良型を含め、今でも隠れたファンが多いのがチキンラーメンであろう。私は丼鉢に入れた揚げ麺の上に卵を落とし、沸騰したお湯をかけて3分間待ったが、卵が流れ上手く出来なかった。今となって味覚がこえてしまって、チキンラーメンが昔ほど有り難味を感じなくなったが、それでも空腹には何を食べても美味しく感じ取れる。
そういえば、このチキンラーメンを創案した安藤百福は、今年の1月5日に亡くなったが、ニューヨーク・タイムスが1月9日付けの社説で、安藤百福を取り上げ「人類の進歩の殿堂内に不朽の地位を占めた」と絶賛している。安藤百福は世界の食文化に革命をもたらした偉大なアジア人の一人として紹介されているのである。また安藤百福を敬愛する『博多一風堂』の河原成美が、安藤百福がインスタントラーメンではなく、ラーメン屋を開業していたらどんなラーメンが生まれていたかというコンセプトで開業したラーメン店が『麺翁 百福亭』である。この『麺翁 百福亭』は阪急池田駅からほど近いところに2003年11月オープンした。この近所には、『インスタントラーメン発明記念館』があり、既に入館者が100万人を超えているという。
このようにラーメンはカレーライスと共に、日本人の国民食になってしまった感があるが、安藤百福が日本の食文化、世界の食文化に貢献した度合いは計り知れないだろう。最近、ミシュランが東京のレストランを星の数でランク付けする案内本を発売したが、値段ばかり高くてさほど美味しくない店も紹介されているような紹介本よりも、自分で美味しい店を見つけることの方がよほどいいと思うが、あんな本に関係なく、庶民に安く広く召し上がれるインスタントラーメンを世に広めた安藤百福の遺産チキンラーメンは、時代を超越した普遍的な味がするのであった。
2007.11.24 (Sat)
京都紅葉最前線
こちらの写真は、全て円山公園で撮った写真です。ここでカップルに写真を撮ってくださいと言われた。(写真はクリックすると拡大します)
今度の写真は南禅寺で撮った写真です。円山公園から南禅寺まで歩いてくる途中、2組の人達から道を聞かれた。私はよく写真を撮ってくださいと頼まれたり、道を訪ねられたりすることが頻繁にある。よほど声をかけやすい風貌をしているのかなあ・・・・。まあ、童顔で実年齢よりも遥かに若く見られるが・・・・。まだ30代だと思っていた人もいるぐらいだから(10年以上若く見られるということか、まさか・・・・・・?)。
ここの写真は永観堂で撮った写真です。紅葉の名所として有名であるが、やはり昔ほどの美しさではない。それでも「わあー、きれい」と訪れる人は驚嘆の声を上げていた。
ここは都心部の、河原町御池の交差点。ホテルの前の街路樹が紅葉していた。
最後に、昨年に撮った写真を掲載します。昨年も紅葉はいまいちだったのですが、今年よりは見応えがあったかもしれません。
・・・・・写真は全てクリックすると拡大します。
2007.11.23 (Fri)
御堂筋を歩く
御堂筋の出発点は、梅田の阪急百貨店である。日本最初のターミナル百貨店としてオープンしてから70年以上はなるが、その時の建物は壊されて、2年後には新しい阪急百貨店がオープンする。新店舗は現在建築中のビル(41階)の下層部に入ることとなる。
中之島の大阪市役所の前の遊歩道である。ここの木は紅葉が進んでいる。
淀屋橋付近から御堂筋の南方面を望む。この辺りはビジネス街のせいか、祝日なので車が少ない。
日本生命本社ビルが見える。御堂筋は長い間、高さが100尺(約30m)に制限されていたため、ビルの高さが揃っている。
そもそも御堂筋という名称は、北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)と南御堂(浄土真宗大谷派難波別院)という2つのお寺があったことから、そのように呼ばれている。もとは幅が6mの狭い道路であったが、地下鉄工事が始まると同時に拡張され、1937年に現在の姿となった。この写真は北御堂である。
この空間にセントレジス・ホテルの入る超高層ビルが3年後の完成を目指して建てられている。今年の2月に1階を公共の空間とするのを条件に、後方部分の高さが140mに緩和された。その結果、早速、高さ制限いっぱいにビルが建てられることとなった。
本町付近では高速道路が上を走っている。阪神高速道路の下は船場センター・ビル。
こちらは南御堂。
銀杏の木の背景にはエプソン・ビルが見える。
長堀通との交差点。この辺りから人の数がぐっと増える。かつて、この長堀通には堀があって、昔は橋が架かっていた。今は埋められて下には巨大な地下街が・・・・。
心斎橋までやって来た。このビルはそごう百貨店の本店。南隣には大丸百貨店がある。
千日前通を過ぎるといよいよ難波である。この古風な建物は新歌舞伎座。現在は歌舞伎の公演は行われておらず、ほとんどが歌謡ショーや演劇の公演がメインである。でもいよいよ取り壊されることとなった。この建物は難波の名物だったのに残念である。上本町の方に移転してしまい建物も新しくなる。どんどん新しい建築物に建て替えられる。何か風情がなくなるようで寂しい・・・。
とうとう御堂筋の終点までやって来た。起点が阪急百貨店なら、終点は高島屋百貨店である。この建物も古く、増築するのを機会にして、改装される事になった。どんな外観になるのやら・・・・・・・。でも、御堂筋の銀杏並木も全てが色づいているのでもなく、青い部分もあって、来週あたりの方が紅葉が進んでいるだろう。
2007.11.22 (Thu)
映画『ブルース・ブラザース』を観る
『ブルース・ブラザース』1980年製作、アメリカ
監督 ジョン・ランディス
出演 ジョン・ベルーシ
ダン・エイクロイド
キャリー・フィッシャー
キャブ・キャロウェイ
ジョン・キャンディ
ヘンリー・ギブソン
ジェームス・ブラウン
アレサ・フランクリン
【あらすじ】帽子、サングラス、ネクタイ、スーツと黒ずくめのジェイク・ブルース、エルウッド・ブルースの2人は契りを交わした義兄弟である。彼等は昔、お世話になった孤児院が窮地に陥っていることを聞き、何とか救おうとするが、案が浮かばない。そんな時、黒人教会で牧師のソウル・ミュージックによる説教を「天啓」として聞き、「ハレルヤー」という声と共に天空から一条の光が射し、その光に体を包まれた瞬間に「バンドー」と叫んで踊りだす。そしてブルース・ブラザース・バンドを結成し、金を儲け、税金滞納で潰れかかっている孤児院を救済するのだと決意する。さて、彼等がその後に、巻き起こす騒動はハチャメチャで・・・・はたしてどうなるか。
とにかく、これほど滅茶苦茶な映画も珍しい。2人は中古車を見つけてきて乗り回すが、それが何とパトカーである。映画の中でカーチェイスがあるが、パトカーで逃げまくり、パトカーが追いかけるといった出鱈目ぶり、それもシカゴ中のパトカーが追いかけているのではないかと思えるほどの数である。そこへネオ・ナチス極右団体の車が加わって、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』の音楽が流れる中、いったい何がどうなっているのやら・・・・とにかくドタバタ爆笑喜劇、いやミュージカルか・・・・・。突然、映画の中でジェームス・ブラウン、レイ・チャールス、アレサ・フランクリン、キャブ・キャロウェイが唄いだす。何れも有名なシンガーであるが、そこへ彼等を追い掛け回すイカレタ謎の女がいて、なんと彼らのアパートをバズーカ砲でぶっ壊したかと思ったら、マシンガンで撃ちまくる。このイカレタ女を演じているのが、何と『スター・ウォーズ』でレイヤ姫役だったキャリー・フィッシャー。この突拍子もないキャスティング・・・・。その他にはミニスカートの女王だったツィギーが出ていたり、『ジョーズ』『未知との遭遇』『ET』の映画監督スティーブン・スピルバーグもチョイ役で出ていたり、とにかく仰天の連続である。
阿呆らしくて、馬鹿らしくて、それでいて何度でも観てしまう。そんな映画か『ブルース・ブラザース』である。でも、馬鹿げているとは思っても、とにかく面白く好きな映画の一本なのである。
最後の場面で『監獄ロック』を唄うブルース・ブラザース・バンド
2007.11.21 (Wed)
消費税率引き上げに物申す
そこで私に一言、言わせてくれ。冗談じゃない!!
1989年4月、日本で初めて消費税3%が導入された。その時の謳い文句は何だったろうか・・・・。その時は「高齢化社会の福祉のため」の財源確保だった。だから国民は信じてしぶしぶ承知した。それがである。この18年間で健康保険本人の医療費自己負担は1割から3割に引き上げられ、老齢年金の支給開始年齢も60歳から65歳に引き伸ばされ、介護保険制度の創設で、保険料の負担に加えて利用負担など社会保障は衰退の一途を辿っている。消費税導入が「福祉のため」というのは、真っ赤な大嘘だったということが、これで明確になった。それならその財源はいったい何処に回されたかというと、大企業の法人税が景気低迷で税収減になったため、その補填のため穴埋めされたのである。
さらに1997年に消費税が3%から5%に引き上げされた時も、理由らしい理由を述べていたが、その増税分も当初の目的と違うところに使われたのである。こんな調子で、またまた消費税率を引き上げないと、社会保障制度を支える財源を確保できないなんて、大嘘である。財政が苦しけりゃ歳出を抑えればいい。それに、消費税を上げることなら、誰にでも出来る政策だ。その前に、政府も閣僚も官僚も含めたお役人達は、社会保険庁の無駄遣いをはじめとして、襟を正すべきところが山ほどあるだろう。まずはそちらから徹底的に洗って欲しい。庶民の血税を湯水のように使っておいて、財源が確保できないとなると、真っ先に消費税率引き上げだという・・・・・・。ふざけんな!
それに新聞も新聞だ。消費税率引き上げが当然のような論調で書きまくる、保守系新聞のの提灯記事、あれは何だ!
国民はあんなのに騙されてはいけない。よく外国に比較すると日本の消費税率は低いから、上げて当然というような記事も見かけるが、外国での実情も書けといいたい・・・・。
日本は消費税が5%で、イギリスは17.5%、オーストラリアは20%、ドイツは19%、フランスは19.6%、スウェーデンは25%、デンマークは25%、アメリカは州によって違う・・・。これだけ見ると確かに税率は低い。でも中身が違うだろ。イギリス、アイルランド、メキシコ、オーストラリアなんかは食品や日用品に税率はかけない。他の国でも食料品の消費税率は0ではないが、特定品目は税率を抑えているのだ。それにイギリスでは「子供の成長には税金をかけない」ことを前提におりこんであり、衣服、文具、遊具など非課税である。また税率の高いスウェーデン、デンマーク等の北欧諸国は、消費税率が25%とべらぼうに高いが、教育費が無料で社会福祉が行き届き、それこそ「ゆりかごから墓場まで」という例えのように保障されているから、国民に不満の声はあまり聞かれないのだ。ところが日本はどうだ。
消費税を何でもかんでも一律に取り上げるし、子供の教育費は高いし、給料は上がらないし、役人は血税を無駄遣いするし・・・・文句を言えばキリがない。それに消費税率を決める連中こそ、高給で血税を平然と使っている。
政治屋さんに、閣僚さんに、官僚さんに、高給取りさん、年収200万、300万に満たない人が年々、増加しているというのに、安易な消費税率引き上げは問題が多いと思いませんか。財源確保のため、どうしようもないというのなら、宝石や家や高級車のような贅沢品だけに消費税率をかけるべきではないだろうか。毎日、必要な食料品や日用品にかけるというのは、それこそ貧乏人虐めである。庶民の皆さん、政府の官報のような新聞記事に騙されてはいけない。あなたの生活は苦しくなるのですよ。消費税率引き上げの前に、やることは山ほどあるはずだ。それもしないで、容易に消費税率引き上げの話ばかりするな・・・・。消費税こそ、庶民虐めのボッタクリ税である。こんなの簡単に、認められるか!
2007.11.19 (Mon)
クリームのアルバムを聴く・・・・・『カラフル・クリーム』
私が外国のポップスを聴きだした頃というと1960年代中頃であるが、イギリスにスーパー・グループが存在した。その名をクリームという。メンバーはたったの3人、ギターとヴォーカルのエリック・クラプトン。ベース、ヴォーカル、ハーモニカのジャック・ブルース。ドラムスのジンジャー・ベイカー。
当時の洋楽雑誌で名前を知っていたが、小学校を出たばかりの少年に高価なLP盤など買えるわけもなく、したがってどんな演奏をしているのか知らなかった。私には姉がいて、この姉がラジオで洋楽ばかりを聴いていた関係で、私も洋楽ファンになったということもある。でも姉が聴くのはメロディアスなポップスが中心で、ギターテクニックがどうのこうの、ドラムスがどうのこうのといった聴き手ではなかった。だからクリームというバンド名を聞いても、興味を示さなかった。また日本のラジオでは、ヒットチャートの上位曲を中心に流していた。そういったこともあってクリームの名は知っていたが、ほとんど聴いたことがなかった。
そんな或る日、『サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ』という曲がラジオで一時期、よく流れていた。最初に聴いたときは重くて響くギター演奏で始まる曲だという印象があった。とにかく演奏が3人とも上手いと思った。それで、この『サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ』が入っているアルバム『カラフル・クリーム』が欲しくて、小遣いを貯めたのだが、結局は買えなかった。それで、このアルバムを持っている奴が周囲にいないか探したが、こんなクリームのような渋いバンドのアルバムを持っている中学生など、ほとんどいなかった。せいぜいローリング・ストーンズかモンキーズである。だから、私がアルバム『カラフル・クリーム』を買って、全曲を聴いたというのは数年後のことである。
収録曲は11曲『ストレンジ・ブルー』『サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ』『苦しみの世界』『夜通し踊ろう』『ブルー・コンディション』『英雄シリーズ』『スーラバー』『間違いそうだ』『アウトサイド・ウーマン・ブルース』『テイク・イット・バック』『マザーズ・ラメント』・・・。
総体的に透明感のある音色であるが重低音で、3人三様のテクニックが発揮されていて、当初はブルース・バンドかと思っていた。しかし、このアルバムに関しては、そのような印象は薄く、当時、流行りつつあったニューロックに近いサウンドだった。でも。それまでのリバプール・サウンドともウェストコーストのポップスとも違っていた。音楽性から見れば、さほど先進的なことを試みているのではないが、とにかくテクニックの見事な演奏に聴き惚れるといったようなバンドであったことは間違いない。
2007.11.18 (Sun)
東京国際女子マラソンを観て
私がマラソンというのを知ったのは、古くて1960年のローマ・オリンピックの時である。まだ幼かったが、テレビで何か大勢の選手が走っている映像を観て不思議な気がしたものだ。その中で2人の選手が抜け出して、最後には裸足で走っている選手が先頭に立ち、人で埋まる凱旋門の中に設けてあるゴールへ飛び込んだ。その選手が、後にアベベ・ビキラだったということを知るのであるが、ローマ・オリンピックの頃は、当然のように生中継ではない。収録して、数日後に編集したのをテレビで放映していたのである。私は幼かったが、その時の光景は良く覚えている。
それから間もなく、マラソンというのが日本国内でも行われていることを知り、テレビ中継を親父と一緒に観ていた時期がある。その頃は、スタートからの完全中継ではなく、後半の35km辺りからの中継であったように思う。その頃の選手で覚えているのが寺沢徹である。この人は長い間、日本の第一人者で、アベベ・ビキラがローマで出した2時間15分16秒2の記録を破る2時間15分15秒8という世界最高記録を1963年に別府で出したこともある。そして、翌年に東京オリンピックを控えて、日本は君原健二、寺沢徹、円谷幸吉という優れたランナーを輩出したのであった。
1964年の東京オリンピックのマラソンは今でも忘れない。学校の授業は短縮授業で、早めに帰されてマラソンを観るように言われたものだ。この時のマラソンが、おそらく世界でも最初の完全なテレビ生中継だったのではないだろうか・・・・。
スタートからオーストラリアのロン・クラーク(当時の10000m世界記録保持者)とエールのホーガンの2人が驚異的ペースで飛ばし、最初の5㎞を15分11秒で通過した。アベベは競技場を出るときは後方だったが、徐々に進出し、7km地点で追いついた。暫くは3人の併走が続いたが、途中からアベベの独走になってしまい2時間12分11秒2という世界最高記録で優勝したのである。この時、2位で競技場に入った円谷が、競技場内でイギリスのヒートリーに抜かれ、口惜しい思いをした覚えがある。あれから40年以上経過するが、日本のマラソン人気は今でも衰えてない。でも最近の日本のマラソン人気は女子に頼っているところがある。それは男子が弱いからでもあるが、女子はシドニー、アテネとオリンピックのマラソンで2連覇しているから、この人気は持続しているのだろう。
さて、きょうの東京国際女子マラソンに、アテネ・オリンピックの金メダリスト野口みずきが出場するということで、私は注目していたのである。この人は雨の日になると京都の三条会商店街の中を走っているし、私の職場の仲間は、アテネ・オリンピックの1週間後に、京都の西京極で、買い物帰りの彼女と遭遇したというから、身近な存在でもある。最も、福士加代子(10000m、5000mの日本代表)も西京極で走っているのをよく見かけるというから、福士にも注目しているのである。
スタートが切られたが、気温が16℃とマラソンを走るにはやや高目である。それも好天で陽射しがある。それに前半は向かい風だという。さて、何よりも東京コースというのは前半が下り坂が続き、後半に上り坂が続くという前半にハイペースになるコース。後半にどれだけタイムがロスするかが問題である。つまりここのコースは好タイムが出ないことは知れわたっている。マラソンというのはコースによって条件が違うので記録がずいぶんと異なることがあり、世界のマラソンで2時間20分を切る記録が出ているのは全て、日本以外のコースである。それは日本のコースが折り返しのある往復コースであるからして、条件が往路と復路で相反するから記録が伸びないのである。それに比べると欧米のコースはワンウェーコースが多く、気温が低めで湿度があって、追い風が吹き続けるなどの気象条件が揃えば、信じられないような大記録が出たりするのである。
そんな中で、スタートから渋井陽子、野口みずき、大南博美、尾崎朱美の日本人にコスゲイ、ジェノベーゼ、バルシュナイテといった外国人が先行集団を形成する。スタートから5㎞は下り坂が続き、16分39秒で通過。このタイムだと2時間20分台中頃のタイムであるが、後半にペースが落ちるだろうと予想して観ていた。
2007.11.17 (Sat)
紅葉というには物足りなくて
最初は嵐山である。流石に11月ともなると渡月橋は人で溢れている。大堰川に架かる渡月橋の向こうに嵐山があり、山全体はなんとなく紅葉が進んでいる。でも7分くらいかな・・・。嵐山の中腹に法輪寺の多宝塔が見える。京都では『十三詣り』という習慣があり、数えで13歳になった男女が、4月13日に法輪寺の虚空蔵さんへお詣りするのである。法輪寺は知恵、芸事の上達、丑寅生まれの守り本尊として信仰を集めているので、13歳になった年に知恵詣りする慣わしである。
お詣りがすんでから帰路、渡月橋を渡るまで振り返ると知恵が本堂に帰ってしまうという言い伝えがあり、京都では渡月橋は重要な橋なのである。橋の下を流れる川は、通称では桂川だが、これより上流は保津川といったり大堰川といったり別名が幾つかある。
この池は大沢の池である。嵯峨の大覚寺の境内にある大沢の池は、日本最古の庭池とされ、中国の『洞庭湖』を模して造られたという。奈良の猿沢の池、大津の石山寺と並んで日本の3大名月観賞地として知られている。また時代劇のロケ地としても有名で、よく撮影をしている。池の辺には、百人一首で有名な藤原公任が詠んだ歌・・・・・
瀧の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
で有名な名古曽の滝跡もある。
大沢の池には多くの鴨と鯉がいる。
この池は広沢の池である。大覚寺から田園地帯を少し東に歩くと広沢の池がある。この池も人工の池で、寛朝僧正が遍照寺を建立した際に造られたとも、8世紀頃、秦氏によって造られたともいわれる。また松尾芭蕉がこの池で一句詠んだ。
名月や 池をめぐりて 夜もすがら
嵯峨野を抜けて、御室まで歩くと仁和寺がある。真言宗御室派の総本山で、宇多天皇により888年開基される。ここの桜は御室桜といって、京都では1番遅く咲く桜として有名であるが、紅葉の名所でもある。下の写真は仁和寺の五重塔と紅葉した木々である。
仁和寺の五重塔を見上げる。
仁和寺から少し北へ歩くと枯山水の庭で有名な『龍安寺』があるが、『龍安寺』は何度も来ているので、その前を抜けて某大学の前の道路を歩く。今は学園祭をやっているのか構内がずいぶんと賑やかである。誰かも僅かの間だがお世話になったが、知らん振りして通り過ぎる。そして、やって来た所は、誰でも知っている金閣寺。京都に観光に来る人は、間違いなく清水寺とここへはやって来るという。実は、私は金閣寺の境内に入るのは、1969年以来である。昔、九州から親類がやって来て、姉と2人で案内した時に1度訪れただけだ。あの時は、金箔が剥げていて、こんなに鮮やかな金色ではなかった。でも、ここの紅葉もいまひとつというところであった。
下の小さな写真をクリックすると拡大します。
別のところから、もう一枚。
金閣寺は正式には鹿苑寺といって、足利義満が建てた山荘であった。でも1950年7月2日未明、同寺の修行僧が放火して焼失。現在の舎利殿(金閣)は1955年に再建されたものである。
この金閣寺炎上の事件を参考に三島由紀夫が小説『金閣寺』を書いたことは有名である。この写真は尾根の天辺にある鳳凰・・・・。
金閣寺の境内にある楓の木であるが、陽のあたるところは赤くて、あまりあたらないところは青々としているのだ。この調子だと、今年の紅葉はみすぼらしい紅葉となりそうな予感がする。最早、昭和時代の見事な紅葉は、京都の平地では見れなくなるのだろうか・・・・。
2007.11.16 (Fri)
古典文学を読む・・・・・『ドン・キホーテ』
最近は『ドン・キホーテ』なんていうと、ディスカウント・ストアだと思われがちだが、もとはスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスが書いた小説である。
簡単に筋書きをいうと・・・・ラ・マンチャの田舎に住む50歳の郷士キハーダは、当時に流行っていた騎士道物語を読み過ぎて気が狂いだす。彼は荒唐無稽に書かれている内容を歴史的な事実と混同してしまう。また中世の騎士道の理念を甦らせることは可能だと思い込んでしまったのである。
やがて彼は、それを実行するため古ぼけた甲冑に身を固め、騎士ドン・キホーテと名乗り、田舎娘を姫ドゥルシネーアに仕立て上げ、近所に住む百姓サンチョ・パンサを従士にして、痩せ馬ロシナンテに跨って旅に出る。騎士道に関係ないことは分別あるが、狂気と正気の両面を持っている彼は、宿屋を城、風車を巨人、囚人達を暴政、悪政の犠牲者とみなし、何かあると悪を見出し、自分がそれを正さなければならないと思い込む。
結局、色々な冒険にいどむが巧くいかず、村の友人の住職、床屋たちの策略によって檻に入れられた後、村に連れ戻される。
後編は公爵夫妻のドン・キホーテ主従に対する愚弄が話の中心と考えられている。内容はサンチョ・パンサの太守就任。その他ではライオンの冒険、モンテシーノスの洞窟の体験、魔法の船の冒険等の場面が思い出されるが、銀月の騎士との血統に敗れて、遍歴の騎士をやめさせられる。そして故郷に帰ったドン・キホーテは、病の床で夢から醒め、善人アロンソ・キハーノに戻って死んでいくのである。
よくあいつはドン・キホーテだという場合、思い描くのは前後の見境もなく猪突猛進する常軌を逸した男を連想させる。でもセルバンテスが小説『ドン・キホーテ』を書いた理由は、騎士道を罵倒するためだったらしい。つまりパロディを通しての古い時代の小説の否定だというのだ。かくして『ドン・・キホーテ』は騎士道物語打倒という当初の目的を遙かに飛び越えて、書物は現実において有効で有りうるのか・・・。さらには書物と現実の関係にまで扉を開け、今では文学全体にとって大きなテーマとなっている。
結局、ロシナンテに跨ったドン・キホーテは、騎士道物語のスーパーマンに対する皮肉、風刺であり、背伸びしすぎた当時のスペインと自分自身に対する風刺でもあったのだと思える。
この物語の最後・・・・ドン・キホーテが故郷に帰り、夢から醒めて死ぬが、カトリックによる世界制覇の夢破れたスペインも世界史の表舞台から姿を消してしまったのである。
2007.11.15 (Thu)
船場吉兆の偽装表示問題に触れる・・・・・
賞味期限のラベルの張り替えは当たり前、期限切れ間近のお菓子や惣菜については、日持ちがするから1ヶ月ぐらい伸ばしても大丈夫だから売れという指示・・・・。これらは全て『船場吉兆』の湯木尚治取締役の命令だという。また現場責任者のパート従業員の女性によると、偽装が発覚した10月31日~11月1日の夜、『船場吉兆』が営業する『吉兆博多店』の個室で軟禁状態にされ、湯木尚治取締役から「すべて私の責任」とする内容の文書に名前を書けと迫られたという。
『船場吉兆』側は11月9日、湯木正徳社長と長男の湯木喜久郎取締役、湯木尚治取締役が記者会見を開いて頭を下げたのはいったいなんだったのだろうか・・・・。嘘と偽りで固め、高級料亭というプライドだけが強くて、中身は空虚で愚かな実態が浮き彫りにされた形となった。
うーん、吉兆も地に落ちたなあ・・・・。いったいどうなってしまったのか・・・・。ここで私は『吉兆』の創業者である湯木貞一のことが突然のように思い浮かんだ。
湯木貞一・・・・1901年神戸生まれ、1930年に大阪の新町で割烹料理の店『吉兆』を開店。初日はお客がゼロだったという。でも口コミで客が増え、評判を呼び、小林一三、松永安左エ門といった財界人が常連客となる。茶道に目覚め、茶懐石を料理に取り入れるなどして料理の品格を高めた。1933年には石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗に因む十字仕切りのある器にヒントを得て、松花堂弁当を発案する。
その後も湯木貞一は料理界に新風を吹き込み、料理を文化として高め、ポール・ポキューズが来日した時には、『吉兆』などで懐石料理、京料理の料理法や盛り付けを伝授した。やがてポール・ポキューズは、その体験から素材を活かしたり、盛り付けに工夫したフランス料理を生み出すこととなる。そして、湯木貞一は料理界では初めての紫綬褒章を受章し、1997年にこの世を去ったのである。
さて、今回の『船場吉兆』の食品偽装問題であるが、創業者の湯木貞一が知ったら、どんな顔をするだろうか・・・・。『船場吉兆』の社長は湯木貞一の娘婿である。取締役の2人は孫である。いわば代を重ねるごとに質が低下していくパターンであるが、あいにく湯木貞一には子供が1人だけではなかった。子沢山だったので、息子や娘に暖簾分けの形でそれぞれを独立させたのである。それが今日ある吉兆グループ5社である。
『元吉兆』『神戸吉兆』『船場吉兆』『京都吉兆』『東京吉兆』の5社が独立採算制で切り盛りしていて、何処が本家とか分家とか言う概念はない。したがって各吉兆で、色合いが違っていて、それぞれに特徴があるという。なかでも『船場吉兆』はお菓子等を販売し、吉兆グループでも失笑を買っていたという。
ところで、今回の『船場吉兆』の問題発覚で思ったことだが、どれほどの高級ブランドでも、心を失えばただの三流料亭に墜落してしまうということだ。このようなブランドというのは築き上げるのは大変だが、名誉失墜は簡単である。これからはたして『船場吉兆』の信用は取り戻せるのだろうか・・・・・・。おそらく信用ガタ落ちで前途多難だと思われる。自業自得だから仕方ないが、ただ他の吉兆グループにまで、その影響が出て来るのではないかと、私は懸念しているのだが・・・。しかし、まさか他の吉兆でも同様な食品偽装をやってないだろうなあ・・・・。もしやっていたとしたら、世の中、信じられるものが何もなくなる。これぞ、まさしく世も末だ!
2007.11.13 (Tue)
鉄腕稲尾死す
私が小学生の頃、野球は現在よりも人気があった。あの頃、ブロスポーツといえば、プロ野球、大相撲、ボクシング、そして力道山のプロレスぐらいしかなかった。今のようにJリーグなんてないし、他のスポーツもテレビ中継など、ほとんどなかった。そんな時代だから、少年達はプロ野球に一喜一憂していたものだ。最も私は、みんなほど野球が好きではなかったが、それでも日本シリーズなんかはテレビでよく観ていたものだ。だから当時のブロ野球選手というのは子供の憧れの的であり、花形選手ともなると、超人だと思っていた。もちろん今でもイチローのようなスター選手もいるが、当時の野球選手というのは、何れもが個性に溢れ、我こそはといった気風が感じ取られたものである。だから単純に数字を比較してみるだけなら、当時の選手の生み出した記録というものはもう破れないのではというのが多数存在する。ただ打者に関しては現在の方が進歩していると感じるが、投手に関してはとてもじゃないが、現役の投手には、もう2度と破れない記録がずらりと並んでいる。
打者では、王貞治の通算ホームラン数は、2度と破れないだろう。ただし、この記録は球場が狭い時代の記録で、一概にどれだけ凄いのかと言っても伝わりにくい。現在の球場の広さで換算すると、868本のホームラン数の1割か2割か3割は減るだろうし、今のように先発、中継ぎ、クローザーと投手の役割分担がはっきりしている中で、あれだけのホームランを打つのも難しいと思える。
ところが投手の記録になると、話は違ってくる。昔は先発して完投が当たり前という時代だったから、当然のように現在とは野球のスタイルが違っている。だから20勝投手がゴロゴロいた。また、それが一流投手の条件であった。現在なら、20勝投手の出現も難しく、それこそ何年に一人ぐらいしか出なくなった。だから現在のように打高投低の時代と違って、当時の投手は超人ではないかというような人が大勢いたものである。通算400勝もした金田正一、年間奪三振401の江夏豊、年間38勝4敗の杉浦忠、高校2年中退でプロ入りしていきなり20勝した怪童・尾崎行雄・・・・・・。
そんな数多い、超人的な投手達の中で、最も私が人間離れしていると感じる投手が稲尾和久だったのである。もう神様、仏様、稲尾様といわれた稲尾和久のことは語りつくされているから、あまり述べることもないが、1年間で42勝を挙げたり、巨人との日本シリーズで3連敗から4連勝した逆転優勝の4勝を稲尾1人で挙げたり、新人の時の年間防御率が1.06だったり、入団から8年で234勝挙げてみたり、とにかく数字だけを見ると、本当!!・・・・・と言いたくなる。
だが、残念ながら私は稲尾和久の全盛期を知らない。私がプロ野球を観出した頃の稲尾は、往年の剛球は峠を越し、抜群の制球力で打たせない技巧派に転換している時期だった。でも聞くところによると、稲尾という投手は、シュートとスライダーを武器にしていたが、バッターと対峙した時、相手の動きを瞬時に判断して、リリース寸前で指の位置を変えることが可能だったと言う。指からボールが離れる直前に、バッターの動きを見て、スライダーを狙っていると判ると、瞬時でシュートの投げ方に変えることが出来たのである。だから巨人の川上哲治が「当時の稲尾君から、ヒットを3本続けて打つことなど有り得ない」と言ってたのである。
とにかく、稲尾という人は私にとっては最も人間離れしていた野球選手であった。昭和31年に西鉄ライオンズに入団するや、たちまちエースに伸し上がり巨人を破って日本一になり、翌年も日本一、3年目も日本一、神様、仏様、稲尾様と崇められ、昭和39年に肩を痛めてからは成績もガタ落ちするが、それまでは登板過多で先発にリリーフに獅子奮迅の活躍をしていた。
その後、西鉄の監督に就任したが、八百長事件に絡む西鉄の黒い霧事件でエースの池永を中心に、選手の何人かが永久追放され、西鉄は一気に弱小球団へと転落してしまう。やがて西鉄ライオンズは身売りされ、太平洋クラブ・ライオンズ、クラウンライター・ライオンズ、そして西武ライオンズとなり福岡の地を離れ、埼玉へ移転することとなった。そんな西鉄の晩年を監督として過ごした稲尾和久である。その後、一度はユニフォームを脱ぐが、再び監督に就任したのは1984年だった。その時はロッテの監督で、当時のロッテの主力バッターが落合博満であった。現在は中日ドラゴンズの監督を務める落合博満であるが、オレ流というだけに、一風変わった選手であり一匹狼であった。しかし、稲尾和久を師と仰ぎ、落合が唯一、聞き耳をたてる人物だという。落合が三冠王を3度獲得しているが、その中で2度は稲尾監督時代に達成したものである。このように稲尾という人は、超人的な記録を残す大投手であったが、やはり個性の強い落合を御せるただ一人の人物だったのだ。つまり超人は超人を知るのかもしれない。
選手、監督を含めて全てパ・リーグに在籍していた稲尾和久は、長島や王や金田ほど、注目されなかったが、その安定感といい、堅実な成績といい、驚異的なスタミナといい、私は2度と現れない人間離れした投手としてこれからも長らく記憶に留めるであろう。
2007.11.13 (Tue)
大阪の中之島を歩く・・・・・西部
関西電力ビルの西側には大阪市立科学館がある。前身は日本で初めてプラネタリウムを導入した大阪市立電気科学館(四ツ橋にあった)で、1989年にこの場所へ移転した。
大阪市立科学館の前には国立国際美術館のエントランスがある。この金属のパイプとガラスで覆われた現代アートのような物体が美術館の入り口である。かつて万国博記念公園内にあった国立国際美術館が老朽化によって閉鎖され、2004年11月に、この場所に移って来た。この美術館は全面地下の美術館で、地下3階まであり、常設展示と企画展示がそれぞれの階で別れている。
国立国際美術館の付近から、堂島川を挟み福島の方角に視線を移すと、建築中のビルが数棟、見受けられる。かつてここは阪大病院(大阪大学付属病院)のあったとろだ。10数年前までは、それこそ古臭い阪大病院が立っていた。私は今から20年ほど前、入院中の職場の女性を見舞うため、阪大病院を訪れたことがある。それは汚い病院だった。かつて『愛と死をみつめて』なんていう、マコとミコの実話が、この病院の中で繰り広げられていたが、それも今や過去の話。阪大病院は吹田市の万国博記念公園の北隣に移転した。そして、現在はご覧の通りの姿である。右から法務庁舎、そして建築中の低層マンションと、1200人収容のホールと商業施設。その後ろが50階建ての超高層マンション。最上階は分譲価格が4億とも5億ともいわれる(誰が住むのかな・・・・)。1番左はABC朝日放送の新社屋。ここが完成すると、大淀の朝日放送社屋は閉鎖されるのである。
中之島も玉江橋を過ぎ、さらに西へ行くとリーガ・ロイヤル・ホテルが目に入る。関西財界の迎賓館と言われる老舗の高級ホテルである。一度、宿泊してみたいものだ・・・。
この高さが100mを超える巨体な建物は、通称グランキューブと呼ばれる大阪国際会議場である。中には3000人収容のホールや会議室、その他、イベント可能なスペースが多数あるが、私は1度も入ったことがない。
昨日と今日、中之島を撮った写真を掲載しましたが、中之島は現在建築中の超高層ビルがあったり、京阪電車延伸工事中だったり、近代美術館の建築計画があったり、これから将来にかけて街が変わっていきそうで目が離せません。
2007.11.12 (Mon)
大阪の中之島を歩く・・・・・東部
中之島というのは堂島川と土佐堀川に挟まれた東西3kmに及ぶ中洲のことである。江戸時代、大坂が天下の台所と呼ばれていた頃、それこそ対岸の堂島と共に各藩の蔵屋敷が立ち並び、全国から船で物資が運ばれて来て、日本経済の中心であった。それが今では様相がすっかり変わり、官庁や高層ビル、美術館、ホテル、ホール、公園等が並び、ちょっとした都会のオアシス的雰囲気が漂っている。そんな中之島を散歩しながら写真を撮って来たので、ここで掲載するのもいいかなあと考えた次第である。
まずは中之島公園が中之島の東端にあるが、公園の正面に赤い煉瓦風の建物が見える。それが大阪中央公会堂である。通称・中之島公会堂というが、建てられたのが1918年と古い。株式仲買人・岩本栄之助の寄付金で建てられたというから、昔は気前の良い人がいたものである。この建物は重要文化財に指定されている。
この建物は大阪府立中之島図書館である。ちょうど中央公会堂と大阪市役所の間にある重厚感のある建物である。これは1904年開館というから、中央公会堂よりも古く、今でも使用されている図書館であり、建物は重要文化財である。
堂島川に架かる大江橋から東の方角を望むと、市役所の向こうに中之島図書館、さらに中央公会堂が見える。この風景、何処かに似てませんか・・・・。実はパリのシテ島と似ているのである。パリのシテ島は、もっと建物が古くて重厚感があるけれども・・・・。
大阪市役所の前には幅員43mの御堂筋が通っているが、御堂筋を挟んで西側には日本銀行大阪支店が構えている。この建物も1903年に建てられたというから100年以上経っている。設計は東京駅を設計した辰野金吾と葛西万司、永野宇平治の3人である。ベルギーの国立銀行をモデルにしたらしい。
日本銀行の建築物から西へ行くと、超高層ビルが幾つか立っている。その前を歩き、さらに肥後橋近くにやって来ると鉄塔の聳えたビルが目に入る。下の写真を観てもらおう。向こうの方から順番にいうと、まずは中之島三井ビルである。このビルは数年前に建てられたビルで、31階で高さが140m。その手前の低層ビルは住友ビルである。そのビルの脇を高速道路が貫いていて、昭和40年頃からこの辺りの風景は変わってない。ところが、まもなく手前の2棟の建物が壊されることになった。手前の2棟というけれども、正確には3棟かもしれない。
向こう側の幅の広い建物は朝日新聞大阪本社ビルである。そして、手前の鉄塔があるビルは新朝日ビルで、1番手前の白い建物がフェスティバル・ホールである。実はフェスティバル・ホールというのは、新朝日ビルと一体になっていて、入り口は新朝日ビル内にあり、ホール全体はビルにくっついているのだ。
結局、朝日新聞大阪本社ビルと、フェスティバル・ホールを含めた新朝日ビルが壊されて、新しく200m級のツインタワーに建て替えられることになったのである。したがって長年、親しまれて来たフェスティバル・ホールも暫くは閉鎖されるのだ。そして、超高層ビルの中に新しいホールが建てられる訳だ。でも、あの評判のよかった見事な音響は甦るのか、問題はそのあたりにあるのだが・・・・・・。
中之島西部は明日に掲載します。
2007.11.11 (Sun)
皿うどんを食べる
久しぶりに『皿うどん』を食べた。皿うどんなんて名前だから『讃岐うどん』や『きつねうどん』のようなものを連想されると困ってしまうが、長崎名物の皿うどんである。つまり中華料理なのである。
油で揚げた麺に野菜や肉とかを添えて餡をかけたものが皿うどんである。ラーメンほどメジャーな食べ物ではないから認知度が低いが、長崎では『ちゃんぽん』と並んでよく食べられている料理である。
そして先日、久しぶりに私は皿うどんを食べた。大阪にある中央軒という中華料理店で食べた訳だある。ここは40数年前に長崎の皿うどんとちゃんぽんを大阪に根付かせた店である。そういえば30年位前に長崎で食べた皿うどんを思い出す。長崎では細麺と太麺の皿うどんがあるが、中央軒の皿うどんは細麺のみである。
中央軒は大阪に20店舗ほど展開している中華料理チェーンである(東京にも道玄坂店、渋谷店のチェーン店がある)。ここの店は長崎ちゃんぽん、長崎皿うどんを売りにしていて、難波を中心に店舗が分散しているが、私がこの前、入った店舗は大阪・梅田のマルビル店。皿うどん定食なんていうのもメニューにあるが、皿うどんを単品で注文した。
白い楕円形の皿に盛ってある。細麺に具が混ざって、餡をたっぷりかけてある。まず最初の一口、パリパリとした揚げ麺の食感が何ともいえない。パリパリの麺にとろみのある餡(あん)が巧く混ざり合って絶妙な味わいとなる。
細い揚げ麺に、キャベツ、もやし、玉ねぎ、青ネギ、カキ、イカ、エビ、キクラゲ、かまぼこ、竹輪、豚肉等に豚骨でとったスープを加え、さらに水溶き片栗粉でとろみをつけた餡を麺の上にかけて出来上がりである。これで一皿790円。私は、この皿うどんとビンビールを飲んだら、腹がいっぱいになった。ボリューム感があって、サクサクした食感とまろやかな餡が見事にマッチして、香ばしい匂いが漂うと食欲も自然と増す。そして食べ終わってから満腹感で心地よい気持ちになり眠くもなる。
代金を払ってから店を出るが、不思議とまた食べたくなる。そんな食べ物が皿うどんなのである。
2007.11.10 (Sat)
都心のフリーフォール
面白い構造をしているが、砂時計の形をした空洞に赤いレールが縦に繋がっているが、これは何かというとフリーフォールなのである。大阪にはアミューズメント施設が備えてあるビルが珍しくないが、これもその中の一つである。フリーフォールの名称が「ヤバフォ」と決まったそうで、地上74mから秒速22mで、60m落下するらしい。眼下は御堂筋で、道路に向って落ちていくような感じになるのだろうか。まもなくすると、大阪の繁華街で絶叫が聞けるのかも・・・。私は乗りたくは無いが・・・・。
このゴンドラが1番上まで上がっていくのだろうか・・・・。
おそらく、ここが乗降地点と思われる。でも最初は珍しさも手伝って、行列が出来るだろうが飽きられることはないのだろうか・・・・。
なんばヒップスから、ほど近いところにはディスカウントストア『ドン・キホーテ』が運営する観覧車『えびすタワー』がある。こちらは2005年3月17日に営業を開始した。今でも道頓堀を訪れた観光客が乗っていくらしい。高さは77.4m。
そもそも、ビルの上にアミューズメント施設を設けて営業を開始したのは、1997年7月18日にオープンした『フェスティバルゲート』が最初かもしれない。でも、この手のアミューズメントは飽きられると終わりである。営業が破綻してしまい、無残にも今年の5月で運行を停止した『デルピス・ザ・コースター』の跡が痛々しい。第3セクターが運営していただけに、経営手腕も問題があったかもしれないが、造った場所に問題はなかっただろうか・・・。JR環状線の新今宮駅前といえば、かの「あいりん地区」の隣ですよ。昼間から浮浪者が寝転がっているし、とても女性が1人で行けるようなところではいのだから。
本当に大阪は面白いものを次から次へと造るなあと、妙に感心したのが、1998年11月28日にオープンした『HEPファイブ』。このHEPとは、阪急エンターテインメント・パークの略で、目玉は世界初、ビルの中に搭乗口のある大観覧車で、直径が75mある。観覧車がビルの上に突き出していて最高地点での高さが106m。でも隣の阪急グランドビルやアクティ大阪ビルの方が高いので、見晴らしはどうだろうか。私は乗ったことがないのでなんとも言えない。しかし、大阪は目立つものがよく建つが、何れも何10年か先には取り壊されて、新しいものに替わってしまうのだうろなあ。
2007.11.09 (Fri)
古典文学を読む・・・・・『赤と黒』
子供の頃は、ほとんど文学作品なんて読まなかった。どちらかというと漫画ばかりで、あんな字ばかり埋まっている小説なんて何処が面白いのかと思っていた。だから読書感想文なんて宿題を出されると、何時も困っていた。でも我が家には、世界文学全集なんてものが部屋の書架に並んでいた。誰が読んでいたかというと私の姉である。姉は小学生の頃から本の虫で、中学に入る頃にはロシア文学、フランス文学、イギリス文学、ドイツ文学、片っ端から読破していたようだ。そんな活字中毒のような姉の弟である私は、本を読むのが苦手で、これではいけないと思い、一念発起して夏目漱石の『吾輩は猫である』を読み出したのだが、読んでいる途中に眠たくなって、とうとう読破出来ずに投げ出してしまったものである。そんな私が、今ではすっかり活字中毒だから、本当に人間なんてどうなるか判らない。
読書嫌いの私が本を読むようになったのは高校生の頃だったと思う。何を読んだのか覚えてないのだが、アイザック・アシモフのSF小説か松本清張の『点と線』『砂の器』だったと思う。ことに松本清張の小説は、物語の中に埋没してしまい一気呵成に読んだ覚えがある。この時、本というのは面白いものだと認識し、一度、興味を持つと邁進してしまう自分自身の性格もあって、毎日の読書が欠かせないようになってしまったという訳である。それで私は、こういった読書歴を経ているから、皆が最初に読む古典的な文学作品を、高校生になってからやっと読み出すようになってしまったのだ。
さて、スタンダールの『赤と黒』を読んだのは20歳の頃だろうか。皆より、遅い年齢で読んだから、主人公のジュリヤン・ソレル偽善的性格というものをある程度判る年齢になっていた。だから、この小説を読んだ時、主人公が出世のために偽善を貫き通す姿勢に同調も出来るのであった。
『赤と黒』の筋書きを簡単に言うと・・・・・スイスの国境に近い町の製材屋。その製材屋の息子ジュリヤン・ソレルは、ナポレオンを崇拝しながら、王政復古の世の中では平民に残された唯一の道である僧職につこうと考えていた。彼は町長レナール家の子供の家庭教師となり、レナール夫人を誘惑して愛し合う中となるが、町中に噂が広まったためブザンソンの神学校に入る。神学校では校長に推薦されて、パリの貴族で政界の大立者ラ・モールの秘書になる。
パリに現れたジュリヤンは社交界にに染まり、彼にひかれた侯爵令嬢マチルドが妊娠したのを機に結婚の許可を得る。さらには侯爵に軽騎兵中尉に任命される。その時、ジュリヤンを誹謗するレナール夫人の手紙が侯爵に届けられる。一瞬にして出世の夢が破れたジュリヤンは、レナール夫人をピストルで撃ち逮捕される。
投獄されたジュリヤンは、世俗的野心から解き放され、傷の癒えたレナール夫人と再会し、昔日の愛を取り戻してしまう。やがてジュリヤンは法廷に引き出され、「私は死刑に値します」と宣言する。さらには貧しい者が弾圧される社会の犠牲者として、支配階級である陪審員を告発したため、怒りをかって死刑を宣告されギロチンにかけられる。マチルドはジュリヤンの首を抱いて盛大な葬式を営み、レナール夫人は子供達を抱きしめながら、この世を去る。
実在の事件を元に恋愛心理の鋭い分析力で、読む者の心を捉える卓越した小説である。これはスタンダール本人に宿る精神性というのだろうか、ひたすら自己の尊厳を重んじ、自己を肯定することを目的としている精神の貴族なのだ。スタンダールは7歳で母を失い、弁護士で偽善家の父、僧侶の家庭教師、未婚の叔母に育てられたからなのか、圧制と偽善に対する反抗心を若いときから燃やしている。学校に入ってからは偽善を許さぬ唯一つのものとして数学に熱中したという。このような自らの体験があり、やがて『赤と黒』となって現れるのであるが、小説のタイトルでも判るように、赤はナポレオン時代の軍人の栄光及び熱烈のエネルギー、黒は王政復古に勢力をふるう僧侶階級の黒衣を表すという。
『赤と黒』は『1830年代記』という副題もついていることから、7月革命前の支配者交替の時代を生きる平民の青年の野心をとおして貴族、僧侶、ブルジョワジー等が凌ぎを削る社会での反動に、鋭くメスを入れ皮肉り批判的に描き出した見事な文学作品である。
2007.11.08 (Thu)
発泡酒『白麒麟』を飲む
そもそも発泡酒だから、ビールと比べて水臭くて、頼りないのは最初から判っているのであるが、安価であるという理由だけで飲んでいる。アルコール度が5.5%、原材料が麦芽、ホップ、大麦、米、コーン、スターチ、糖類・・・・・・でも冬季限定というのは、どういった意味合いがあるのだろうか。寒い時に飲む発泡酒と真夏の盛りに飲む発泡酒との違いは・・・・・・なんて、判る訳がない。
しかし、私の好みから言うとマグナムドライの方が合ってるかな。でも、つまみがないから発泡酒だけを飲んでいても、何処か物足りない。要するに酒を飲む時は何か食べるものがないと酒も美味く感じない。結局は食べ物にお金がかかるということなのだ。こんなことを言ってたら本当に温かい鍋を食べたくなってきた・・・・。
2007.11.07 (Wed)
ドリス・デイを聴く
『センチメンタル・ジャーニー』という曲がある。私は子供の頃に、この曲を聴いた覚えがあり、メロディは覚えていた。スローテンポで女性歌手が歌っていた。
Gonna take the sentimental jouney
Gonna sit my heart at ease
Gonna make a sentimental journey
To renew old memories
この歌を誰が歌っていたのかは知らないが、その後、中学生になってからドリス・デイが歌っていたということを知るのであった。
話は変わるが何年か前、職場の歳の離れた仲間に『センチメンタル・ジャーニー』という歌があると私が言うと、それは松本伊代だと言われた。私は「あれ!」とばかりに、ジェネレーションのギャップを感じたものである。こういった例を出すまでも無く、今ではドリス・デイの名を聞いても存じない人が増えてきたようである。
私は歌っている人は知らないが、曲が一人歩きして、『センチメンタル・ジャーニー』や『ケ・セラ・セラ』といったメロディを覚えていたので、その原曲をドリス・デイが歌っていたことを後年に知り、私の中で大きな存在として記憶に留めるようになった次第である。
思えば私が小学校の低学年の頃、母が『ケ・セラ・セラ』の日本語版をよく歌っていた。それはペギー葉山がカバーしていたこともあって、母が日本の曲だろうと思い歌っていたのかもしれない。当然、私は日本語バージョンの『ケ・セラ・セラ』を覚えていたのである。
それから何年後だろうか、ラジオから英語版の『ケ・セラ・セラ』が流れてきた。曲が終わってから「・・・ドリス・デイで『ケ・セラ・セラ』でした」とラジオのDJは告げていた。それでドリス・デイという名の歌手を知り、中学になってから『センチメンタル・ジャーニー』もドリス・デイが歌っていたことを知るのである。
ところでドリス・デイという人であるが、1924年生まれというから、もう83歳である。死んだと言う話も聞かないので、たぶん存命なのだろうが、ご老人である。だから今さら歌うこともないし、人前に出ることもない。レコード・ジャケットで顔は知っていたが、何しろ動く映像を観たことがない。それがである。何年か前にドリス・デイは映画によく出演しているということを知るに至り、その何本かの一つの映画、アルフレッド・ヒッチコック監督の『知りすぎていた男』DVDを店頭で見つけ早速、鑑賞した。ストーリーは・・・・モロッコへ親子3人で観光に来ていた一家が、謎の男と知り合いになる。たが、その男は暗殺されてしまう。彼はスパイだったのである。また同時に、一家の息子が誘拐されてしまう。どうやらロンドンに連れ去られたようだという情報を得て、夫婦はロンドンへ飛び、息子の捜索を始めるが、やがて巨大な陰謀に巻き込まれていく・・・・・・・。
ヒッチコック特有の格調高いスリラーであるが、この夫婦を演じていたのが、ジェームズ・スチュアートとドリス・デイである。私は長らくドリス・デイは歌手だと思っていたのだが、女優でもあったということを知るのである。その昔はビッグバンドの専属歌手で、ショウビジネスの世界で長らく第一線にいる数少ない女性だったという。レス・ブラウン楽団の専属歌手で、20年もの間、トップクラスの座を守っていたシンガーであり、映画にも『カラミティ・ジェーン』『情欲の悪魔』等・・・10数本は出演していて何れも主役級だという。
『知りすぎていた男』では、ドリス・デイが『ケ・セラ・セラ』を歌うシーンがあり、この曲が映画の中で歌われてから有名になったと言う。それでペギー葉山が日本語版でカバーして、日本でも有名になり、そのバージョンの歌を母が歌っていたから、私が記憶の中に残っていたということであろう。
そういえば『センチメンチル・ジャーニー』も、1944年のアメリカ映画でドリス・デイが主題歌を歌ったのが、戦後、日本でもヒットしたと言う。おそらくラジオから『センチメンタル・ジャーニー』が流れていたのを、幼い頃、私は何度か聞いて覚えていたのかもしれない。その後、私は高校に進み、ドリス・デイの歌う『センチメンタル・ジャーニー』や『ケ・セラ・セラ』のレコードを買い、よく聴いては歌ったものである。
それで今でも、何か困ったことが起こると、なるようになれとばかり歌う癖が身についてしまったのかもしれない。
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future's not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
映画『知りすぎていた男』の一場面~~ドリス・デイが『ケ・セラ・セラ』を歌う
2007.11.05 (Mon)
東大寺と興福寺、その周辺を歩く
いわゆる奈良の大仏と言われるル舎那仏像。この大仏は高さが14.7mあるらしい。私が子供の頃は確か16mあると言われていたのだが・・・・・・。何度も焼失していて、再興されたのが1691年である。
大仏の何ともいえぬ神々しい表情。
正倉院を正面から見る。元は東大寺の倉庫であったが、現在は宮内庁の管理下におかれている。そのため文化財保護法による指定の対象外となっていたから国宝ではなかったが、その後、ユネスコの世界文化遺産として登録されるにあたり、1997年5月19日に国宝指定された。正面が33.1m、奥行9.3m、床下2.5m。校倉造、屋根は奇棟造、瓦葺。
正倉院が校倉造だということが、この建物の端を見ればよく判る。日本最古のログハウスと言ってもいいだろう。
これは興福寺の五重塔である。興福寺は法相宗の大本山で、669年創建。興福寺も度々、火災に見舞われ、この五重塔も1426年に再建された。高さが50.8mで高さとしては、京都の東寺の五重塔に次ぐ高さであり、もちろん国宝である。でも西金堂、講堂、南大門は焼失してから再建されなかったため、東金堂と五重塔以外の建物は残っていない。また、興福寺は明治元年に排仏棄釈で廃寺同然となっていたが、1881年再興された。
これこそ奈良の定番の風景。猿沢の池から興福寺の五重塔を望む。
最後に面白い動画を載せておくことにする。三条通に面した「もちいどの商店街」入り口にある和菓子屋『中谷堂』では、面白い餅つきが見られる。最近はすっかりテレビで有名になったようであるが、高速餅つきには名人芸を感じる。とくとご覧あれ!
2007.11.04 (Sun)
春日大社に行く
博物館の横を通り、さらに公園を奥に入って行くと春日大社へ向う参道へ続く小径(ささやきの小径)が森林の中に連なっている。日本の都市公園でこれだけ巨大な公園は例が無いだろうと思えるほど、奈良公園は雄大だが、背後には春日山原始林が続き、御蓋山(みかさやま)と言われる付近に春日大社が建てられている。
それにしても参道は長い。日本の神社はお寺に比べて、本殿まで遠いところが多いが、この春日大社も本殿にはなかなか到着しない。森の中を延々と歩き、ようやくその南門という入り口にさしかかった。下の写真は参道にある石灯籠である。
ここにも石灯篭があり、朱色の建築物と巧く溶け合っている。
南門から境内にに入るが、ここからは先には進めない。本殿に参拝することは出来るが、わざわざ本殿に行く用事もないし、ここから中門を眺めているだけで充分である。そもそも春日大社というのは、平城京に遷都した710年、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神社を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神社としたのに始まるとされ、現在では全国にある春日神社の総本社である。それで本殿は4棟あり、国宝である。下の写真は中門と回廊、そして釣灯篭である。この中門から内部に入ると本殿が並んでいる。
奈良公園というと鹿で有名であるが、何故、奈良公園に鹿がいるのだろうかと思われるだろう。これは春日大社が建てられた時、鹿島神宮の祭神が神鹿に乗ってやって来たと伝えられたことから、鹿は神の使いとして大切に保護されるようになり、人々には長い間、崇められて来たのである。現在は約1200頭の鹿が生息していて、これらは野生で繁殖しているのである。
2007.11.03 (Sat)
シャガール展
正倉院展の会場になっている奈良国立博物館に着いたものの長蛇の列。ある程度は予想していたが、二重三重巻きの人で埋め尽くされていた。これでは入場するまでいったい何分かかることやら・・・。1時間位はかかりそうな雰囲気である。TDLやUSJじゃあるまいし、並ぶのはゴメンとばかり失敬した。でも家から1時間以上かけてやって来たのに、このまま引き下がれるかといった気持ちであった。それで急遽、近くの奈良県立美術館で開催されている『シャガール展』に行くことにした。
今年はシャガールの生誕120年ということで、各地で同様の展覧会が開かれているようである。でも、それぞれ微妙に展示作品が違っていたりして、多作の画家であることを連想させる。主に今回の奈良での展覧会は ・・・・ー愛と自然の讃歌ー・・・・と題し、シャガールの油彩、リトグラフ、エッチング、写真等も展示されている。その中で目玉は『左右両岸の間のパリ』という油彩画になるのだろうか、でもシャガールの絵はモチーフが限られていて、馬にも牛にも見える動物、鶏だろうと思える動物、全体的に青味かかった色彩で、どうも私の中では消化しにくい作品が多いように思う。
そもそもシャガールはユダヤ人を両親としてロシアに生まれたというが、印象派風の作品を描いていたのに23歳でパリに行ってピカソ、マチスの影響からかキュービズムと移行していったようである。その後、ベルリンで個展を開き認められ、再びパリに現れているが、やがてキュービズムから表現主義風の自由な描き方へと変化し、スラブ民族の幻想とユダヤ人特有の神秘主義を反映した詩情豊な画風は、シュールリアリストの先駆者であろうと目されるようになるのだが、私には理解しかねる作品も幾つか或る、皆さんも私と同様に、やはり現代絵画は苦手なのだろうか、印象派辺りの絵画展と比較すると、遥かに人の数が少ない。これがルノアールだとかモネだとかゴッホだとか、またはバルビゾン派のミレーの展覧会となると、人混みを見に行く状態になってしまうのだが、シャガール辺りの作品になると、確かにとっつきにくく親しめないかもしれない。
ただ、パリのオペラ座の天井一面に描かれている絵は、何故か見事に古い建築物と調和が保っているから不思議である。
2007.11.02 (Fri)
最近の映画を観る・・・・・映画『ALWAYS 三丁目の夕日』
『ALWAYS 三丁目の夕日』2005年製作
監督 山崎貴
出演 吉岡秀隆 堤真一 小雪 堀北真希 三浦友和 薬師丸ひろ子
須賀健太
【あらすじ】昭和33年、東京の下町、東京タワーが拝めるところ。夕日町三丁目で鈴木則平が営む自動車修理工場・鈴木オートに、東北から集団就職で六子(原作では男だった)がやって来る。しかし、思い描いていたイメージとのギャップに失望する。その鈴木オートの向かいには駄菓子屋があった。駄菓子屋の店主は売れない小説家の茶川竜之介であった。ところが彼はひょんなことから、一杯飲み屋の女将・ヒロミのもとに連れてこられた身寄りの無い少年・古行淳之介の世話をすることになる・・・・・。
ということで、前回の『ALWAYS 三丁目の夕日』は大ヒットし、話題を独占することとなり、日本全国を感動と涙の渦に巻き込んだという。う~ん、確かに悪い映画ではなかった。しかし、小生はこの手の映画は正直言って苦手である。でも、今の日本が失った昭和の良き時代をリアルに再現しているというので、観る人のノスタルジーを誘い、評判は良かったようだ。
ところで、この作品の原作は、西岸良平がビッグコミック・オリジナルに1974年から連載している漫画で、タイトルは『夕焼けの詩』である。過去にはアニメ化され、毎日放送が製作しテレビで放映もされたという。でもあいにく人気アニメ『ドラエもん』と放映時間が重なったために視聴率が稼げず、早々と放映打ち切りとなったらしい。
それで2005年に『ALWAYS 三丁目の夕日』というタイトルで実写映画化され、大ヒットとなり、この度、続編の『ALWAYS 続・三丁目の夕日』も公開されるのだ。
昭和33年~34年というと私が幼少の頃で、かすかな記憶でしかないが、この作品を観た限りでは、あんなのだったかなあという程度で、皆が言うほどリアルさを感じ無かったように思う。CGを駆使して出来る限り再現を試みたと思うが、これも限界がある。でも日本の昭和史の戦後を考えるならば、東京オリンピック以前と以後に分かれると思うが(私の考えるところ)、昭和30年代という、まだまだ貧しかった日本の原風景が、あの映画の中で随所にちりばめられているところは、僅かではあるが見て取れる。また、あの映画は東京の話なのであるが、当時の大阪や京都でも似たような部分は随所に或る。たとえばテレビが家に入った時の状況や、家の中の家裁道具、人々の服装、髪型、登場する車、路面電車、少なくとも昭和30年代を知る世代にとっては、懐かしい風景となるのかも知れない。
白黒の14型真空管テレビ、ちゃぶ台、駄菓子屋、ヒルマンミンクス、クロガネのオート三輪、ダイハツのミゼット、トヨペット・クラウン・・・・・路地裏の道は未舗装で、車の数も少なくて、大通りには路面電車が走っていた。これは何も東京だけの話ではない。大阪も京都も思い出せば、似たような状況であった。ただ、これだけCGで映像画面を埋めてしまうと、逆にリアル感が乏しくなる。セットで全てこなせないのは判るけども、何処かアニメと実写の混合のような映画に見えて仕方がなかった。それと話があまりにもベタ過ぎて、私は感情移入が出来ず、何か醒めて観ていたような気がする。この手の子供を使って涙を誘う話というのは、センチメンタリズムを鼓舞するようで、気恥ずかしさを覚えてしまう。結局、私にとってこの映画は、忘れたいが忘れられない幼少の頃の郷愁と、消し去ることの出来ない過去の恥辱との間で揺れ動く形而下的な物ということになるのだろうか・・・。
この映画の時代から時を経て、その後、東京オリンピックを境にして、急激に日本が変貌していく中で、我々が失っていった古き良き心というものを思い出させてくれて、ほのぼのと癒されるというのが、この映画の魅力ではないだろうか・・・・・。何だかよく判らないが、これが感想といえばいいだろうか・・・・。
ところで話の本論とは関係ないが、吉岡秀隆演じる茶川竜之介の風貌が、若い頃の開高健にダブってしまうのは私だけだろうか・・・・・。