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2009.02.28 (Sat)

北野天満宮の梅

 一週間前のことなのであるが、北野天満宮に行ってきた。北野天満宮といっても京都の人以外、判りにくいと思うが、北野天満宮というぐらいだから、学問の神様として信仰されている菅原道真を主祭神としていることはお解かりだと思う。それで全国に散らばっている、天神さんといわれる菅原道真を祀っている社の中でも、北野天満宮は九州の大宰府天満宮と並んで最も由緒ある天満宮といってもいいだろう。でもここでは、あまり蘊蓄を披露しても仕方がないので、簡単にいうと、九州へ左遷された菅原道真が京都を立ち去る時、一つの和歌を残している。

 東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春は忘れそ

 梅をこよなく愛した菅原道真らしい和歌であるが、道真が九州の大宰府で没した後、都の京都では落雷が頻発した。それで、これは道真の怒りに違いないと恐れをなした京都の朝廷や藤原氏を始めとした公家達が、その怒りを収めようと菅原道真を祀ったのが天神信仰の始まりである。だから北野天満宮は全国の天満宮、天神さんの総社ともいえるだろう。

 そういった理由もあって、北野天満宮の境内には大きな梅苑があって、毎年、2月の末になると一般公開されているので、どんなものか行ってきたのであるが、あいにくまだ七分咲きといった状態で、やや期待ハズレであった。でもお茶と茶菓子を頂いて、梅の花に囲まれて、ほのかに匂う春の香りに心をうたれてきたのである。・・・・・ということで、やや鮮やかさには欠けるが梅の写真を掲載することにしましたので、ご覧ください。なお、小さな写真はクリックすると拡大します。

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 楼門は天満宮本殿へ向う最初の門である。
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2009.02.26 (Thu)

内視鏡検査

 今日はとうとう内視鏡検査を受けさせられた。結果からいうと異常が見られなかったので、ホッとしているのだが、もう2度と受けたくない検査である。

 太さが5㎜位あるのだろうか、グラスファイバーのような黒い管の先にカメラがついていて、それを口から突っ込まれるのである。まず、ベッドに横になり、喉に麻酔を注射され・・・・といっても鼻孔の入り口辺りに麻酔をうたれ、しばらくすると喉の辺りの感覚が麻痺を起こしてくる。それから所謂、胃カメラと呼ばれる内視鏡を突っ込まれるのだが、当初は鼻から突っ込まれる筈であった。しかし、私は鼻炎という持病があるので、鼻の中の粘膜が弱く、鼻孔も狭いときている。それで鼻から出血してしまった。それで急遽、口から突っ込むことになったのだが、これが往生した。喉に麻酔が効いているので痛くはないが、喉を内視鏡の先端が通過する時の、あの嫌な感触。突然、オエーとなった。

 それで食道から胃、十二指腸まで検査されたのだが、胃の中を洗浄されたり空気を入れられたりして、その間、呼吸も一苦労。深呼吸をやってくれというが、なかなか思うようにいかない。結局、10分ぐらい検査したのだろうか、これといって悪いところも見当たらず、やれやれと胸をなでおろしたのだが、検査後は麻酔が効いていて、しばらくは喉の方がおかしかった。それに体中に影響があり、なんとなく虚脱感というものに支配されていた。

 麻酔が完全に抜けたのは1時間以上経過してからのことで、まずは昨日の晩から何も食べてないので、水を飲むことからはじめ、固形物をその後に流し込んだ。これでようやく落ち着いたが、胃カメラを飲んでいるときは、それこそ人体実験にでも駆り出されている様な、拷問に掛けられているような、とにかく気持ちが悪いし、気分的にも嫌だし、早く終わってくれと、そればかり祈っていた。

 無事に終わって、気が抜けたようになったが、取り敢えず悪い患部もなく、安心感に浸ってしまった。とはいうものの、こんなのを何度も何度も飲んだことがある人がいるから、畏れ入ってしまう。気が小さい小生なんかは、病院にある医療器具を見ただけで縮み上がってしまう方なので、あんなのを胃の内部まで突っ込まれると聞いただけで、憂鬱になってしまった。でも、無事終了。今後、胃カメラを飲めとは、当分の間、言われないだろう。いや、出来るものなら、2度と飲みたくはない。とにかく健康には気をつけよう。
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2009.02.23 (Mon)

映画『おくりびと』のアカデミー外国語映画賞受賞に思う

 今朝、ハリウッドで第81回アカデミー賞の授賞式が行なわれ、見事に日本の『おくりびと』が外国語映画部門で受賞、また同時に短編アニメーション部門でも加藤久仁生監督の『つみきのいえ』が受賞した。このところ日本のアニメは世界でも優れたものとして認知されていて、2003年に長編アニメ部門で『千と千尋の神隠し』が受賞しているから、アニメではジャパニメーションの実力誇示といったところであるが、一般映画にいたっては、何と名誉賞と言われていた頃の1956年に『宮本武蔵』(稲垣浩監督)が受賞して以来の日本映画の受賞ということになる。

 『おくりびと』は遺体を棺桶に納める納棺師を通して、人間の生と死を見つめ、それらを題材にしてユーモラスに描いた作品である。監督の滝田洋二郎氏は、これまで『陰陽師』『壬生義士伝』等の話題作や『釣りキチ三平』といった娯楽作を手がけているが、今から30年近く前は、成人指定の映画ばかり撮っていた監督であるから、何がきっかけでこのような名作を撮る羽目になったのか判らないが、とにかく日本映画界にとっては半世紀強ぶりの快挙であろう。

 もっとも戦後間もない頃の日本映画。正確にいうと昭和20年代後半頃の日本映画には優れた作品が目白押しであった。だから当時、名誉賞といわれていたアカデミー賞の外国語映画部門で、黒澤明の『羅生門』(1951年)、衣笠貞之助の『地獄門』(1954年)、前述の『宮本武蔵』と受賞してきたのだから、その作品の質の高さは世界屈指だった。それが、54年ぶりに『おくりびと』で受賞するまで、何故、その間、貰えなかったかというのは、一言でいうと、昭和30年以降の日本映画粗製乱造時代に入り、娯楽主義、スター主義に徹し、質の悪い映画を大量生産したツケが尾をひいたとしか言いようがない。

 映画は芸術であるが娯楽でもある。その間の中で、映画製作者は悩むのであるが、結局、当時の日本の娯楽の花形であった映画は、年間製作本数が500本を越える事となる。これは1960年のことで、その2年前には、観客動員数が11億人を超えていた。まさに当時の日本人の人口の11倍以上の数の人が映画館に足を運んでいた時代である。だから映画会社は商業主義に徹し、芸術映画よりも人を呼べる娯楽映画を、週に1.5本以上のペースで作り、内容のないくだらない映画を上映し続けたのである。それが所謂、スター主義の映画で、荒唐無稽のおかしな映画を粗製乱造し、それでも人が入ったので、映画会社は儲かったのである。

 しかし、その時の芸術性軽視がたたり、日本映画が世界の映画祭で評価されなくなっていくのである。また時代はテレビの時代に入っていたのに、相変わらず、くだらない映画ばかり上映していたので、映画ファンは映画館から一気に遠ざかってしまったというから滑稽である。映画産業は瞬く間に斜陽産業に陥ってしまったというのが、私の少年時代のことである。だから長い間、日本映画は低空飛行の時代があった。それが最近、持ち直してきたように思う。それは若い、映画作家や映画監督が育ってきたからでもあるが、映画というのは、良い企画と、良い題材、良い脚本、良い演出があれば、今回のように日本映画でもアカデミー賞の栄誉に輝くのである。何もスペクタクルやCGを駆使した大作ばかりが映画ではないのだ。最近のアカデミー作品賞の受賞作品を見ても、大作、話題作ばかりが並んでいるのではないだろう。皆が本当に観たいのは、人間ドラマなのだと思う。だから、この日のアカデミー賞外国語映画部門の受賞をきっかけに、日本映画ももっと自信をもって、世界にアピールする映画を作って貰いたいと思うのである。
EDIT  |  21:31  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.22 (Sun)

フェブラリーS

 今年、最初のGⅠレース、フェブラリーS(GⅠ・4歳以上、ダート、1600m、16頭)が今日、東京競馬場で行なわれた。

 今年は日本の競馬史上の記録を塗り替えようとGⅠ8勝目を狙うカネヒキリをはじめ、古豪ヴァーミリアン、サンライズバッカスといった7歳馬がダート路線を数年間にわたりかき回してきたが、成長著しい4歳馬が覇権を奪おうと虎視眈々で注目された。そういった中で1番人気は7歳馬カネヒキリ、2番人気は4歳馬カジノドライヴ、3番人気は7歳馬ヴァーミリアンであった。

 いよいよスタート。ゲートが開くがサンライズバッカスが後退。あとはまずまずのスタート。さて、先行争いであるが予想通り、4歳馬エスポワールシチーが行く。2番手にカジノドライヴがつけた。3番手にサクセスブロッケンと前の3頭は若い4歳馬。それを見るように内からカネヒキリが4番手。その外にフェラーリピサ、その後にキクノサリーレ、そしてヴァーミリアンがいる。さらに内からカフェオリンポスとナンヨーヒルトップ。その後にバンブーエール、アドマイヤスバル、オフィサー、トーセンブライト、さらにヒシカツリーダー、サンライズバッカスと続き、1番後ろがビクトリーテツニという順で向こう正面から3コーナーにかかろうとする。スタートからのハロンタイムは12.7---105---11.9---11.9---11.8で、800m通過が47秒0、1000m通過が58秒8とハイペースである。

 先頭を行くエスポワールシチーは快調に飛ばし、2番手に差をつけるがカジノドライヴも接近。さらにサクセスブロッケンもカジノドライヴをマークする。いよいよ4コーナーを回って直線に入る。先頭はエスポワールシチー、2番手にカジノドライヴ、3番手にサクセスブロッケン、4番手、内からカネヒキリと有力馬がハイペースで先行してきたが・・・・・・・。エスポワールシチーが逃げる逃げる。カジノドライヴが追う。でもなかなかつかまらない。あと200m、まだエスポワールシチー先頭。あと150m、ここでようやくカジノドライヴが先頭に立った。しかし外からサクセスブロッケン、内からカネヒキリも接近。あと100m。サクセスブロッケンが迫る。カジノドライヴも伸びる。内からカネヒキリが追いあいに加わる。エスポワールシチーもバテない。しかし、ここから3頭の争いになった。内のカネヒキリ、真ん中のカジノドライヴ、外のサクセスブロッケン。有力馬同士の力の入った攻防だが、外のサクセスブロッケンがおい比べで僅かに出て、そのままゴールイン。

 1着サクセスブロッケン 1分34秒6、2着カジノドライヴ クビ、3着カネヒキリ アタマ、4着エスポワールシチー 1馬身1/4、5着フェラーリピサ 1馬身1/2。

 2番人気のヴァーミリアンは外から伸びたが6着どまりだった。これで1着、2着、4着と4歳馬が上位に入ったことにより、ようやくダート路線の世代交代が始まったかなあ? という気もするが、まだまだ今の7歳馬世代も強いので、この一戦だけでは言い切れない。でも何れ4歳馬がダートの世界では、これから君臨するような予感がする。じゃあ、それにしてもサクセスブロッケン、カジノドライヴと素質あるダート馬が出てきたものだ。昨年は、この2頭ともカネヒキリやヴァーミリアンあたりには勝てなかったのだから、その成長力には驚く。これでサクセスブロッケンは、8勝が全てダートの勝利で、昨年のダービーにも出て人気になったがいいところがなかった。やはりダートとの相性がよほど良いのだろう。

 ところでサクセスブロッケンは、浦河の谷川牧場産というから妙に懐かしくなった。そういえば私が谷川牧場で名馬シンザンを見たのは、今から30何年前になるだろうか・・・・・。荻伏にある谷川牧場。久しく聞かなかったが、サクセスブロッケンで懐かしい牧場の名を思い出した。サクセスブロッケンよ有難う。
EDIT  |  17:09  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.21 (Sat)

京都記念

 またまた寒のぶり返しで、チラホラと京都市内は雪が舞う寒い1日であったが、伝統の京都記念(GⅡ・4歳以上、芝2200m、12頭)が今日、行なわれた。最近の京都記念は土曜日に行なわれることが多く、こまめにチェックしておかないと、つい忘れてしまうようなレースであるが、メンバーは揃うから無視できない一戦である。今年も例によって土曜日の重賞とは思えないような良いメンバーが揃ってきた。アドマイヤオーラこそは発走除外になってしまったが、皐月賞馬ヴィクトリー、菊花賞馬アサクサキングス、オークスと秋華賞を勝っているカワカミプリンセス。その他にもサクラメガワンダー、タスカータソルテ、10歳馬シルクフェイマス等。それで1番人気はサクラメガワンダーで、2番人気はカワkミプリンセス、3番人気はアサクサキングスであった。

 スタートから皐月賞馬のヴィクトリーが飛ばす。4馬身、5馬身と差を拡げていく。2番手にマンハッタンスカイ、その直後にカワカミプリンセス、4番手にアサクサキングス、5番手シルクフェイマス、さらにサクラメガワンダー、その後、3馬身開いて、4頭固まって、最後方のタスカータソルテだけが離れている。1000m通過が1分00秒7とやや遅めのペース。そのせいか3コーナーの坂のところでアサクサキングスが動き出した。ここで3番手に上がり、4コーナーで2番手集団を形成し、いよいよ直線に入ろうというところである。

 先頭は皐月賞馬ヴィクトリー、この馬は展開一つで逃げ粘ることがある。そうはさせまいとアサクサキングスがサクラメガワンダーと競る様にして伸びてくる。さらにはいったんポジションを下げたカワカミプリンセスも伸びてくる。でも内のヴィクトリーは粘り強い。あと100m、ここでやっとアサクサキングスが先頭にたつが、その外にサクラメガワンダーが肉薄している。でも僅かの差を保ちながらアサクサキングスが勝った。

 1着アサクサキングス 2分14秒6、2着サクラメガワンダー クビ、3着ヴィクトリー 1馬身、4着カワカミプリンセス 1/2、5着タスカータソルテ 3馬身1/2。

 なんとアサクサキングスは一昨年の菊花賞以来の勝利となる。
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2009.02.19 (Thu)

今週は体調不良により

 今週は体調不良により、更新をいたしません。

 というよりも書く気が起こらないので、今日はこれにて終了いたします。

 
EDIT  |  20:31  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.17 (Tue)

朝の通勤電車の車窓から

 今日は朝から寒気団が上空に居座り、随分と雪を降らせてくれたが、朝、電車で移動するごとに景色が白っぽく変化していくところを垣間見て、近江の国へ来ているということを実感させられた一日である。

朝、何時も通り電車に乗るが、辺りは曇っているが霙も氷雨も降っていない。前日の朝よりも格段に気温が低いが穏やかな天候であった。少なくとも京都駅までは穏やかな空模様であった。

京都駅で米原行きの221系普通電車に乗り換える。京都駅を発車した電車は鴨川の鉄橋を渡り東大路通りの陸橋を潜り、やがて東山トンネルに入る。2㎞弱のトンネルなのだが・・・・・国境の長いトンネルを抜けると雪国だった・・・・・・と書いたのは川端康成だが、その小説『雪国』の書き出しのように、東山トンネルを抜けると雪化粧だった。

山科盆地はうっすらと雪が表面を覆い隠している。でも山科は京都市である。東山三十六峰が京都盆地と山科盆地を隔てていて、西側の京都市街地は雪も降っていないのに東側の山科では僅かではあるが降雪が見られるという興味ある現象に目を見張っていたら、間もなく逢坂山トンネルに電車は入る。こちらは・・・・しるもしらぬも あふさかのせき・・・・・と蝉丸の詠んだ歌で有名な山である。この京都府と滋賀県の文字通り国境を抜けるトンネルを出ると、やはり雪景色だった。だが余り降った雰囲気ではなく、山科よりも薄い雪化粧であった。さらに電車は進み、膳所に来ると路面は乾いている・・・・・・・何ともこれは奇妙な? 大津と膳所なんてさほど離れていないのに、大津ではうっすら雪化粧、膳所では雪は降っているのに・・・・・・今、降り出したのだろうか?

 とにかく到着する駅ごとに雪景色が変化していくので、何時もは外の風景等を楽しむことなどないのに、今日に限っては面白い。だが草津あたりでは雪の降り方が激しくなってきた。結局、守山で積雪が5㎝に及んでいそうだし、其処から先はだんだんと雪の降り方も、積雪も激しさを増してくる。つまりこれが、近江の国、湖国なのだと痛感する1日であった。でも、これが毎日、続くといい加減、うんざりするだろう。やはり滋賀県というところは近畿の中の雪国なのである。積雪など数年に一度あるかどうかの大阪とは、全てにおいてかけ離れていて、まことに面白いところである。
EDIT  |  20:24  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.16 (Mon)

湖国の冬も暖かい

  昨日までは、2月とは信じられない暖かさの日が続いていたのに、今日は寒の戻りで気温も一気に10℃近く下がってしまい、すっかり冬の様相となってしまった。気圧配置も西高東低と冬型に変わってしまった。でも、これが2月本来の姿だろう。

  だが今年は暖冬が続く昨今の中でも異様なほど暖かいようだ。そのせいか湖国でも暖かく大津、草津、栗東あたりはさっぱり雪も降らない。ただ彦根、米原、長浜辺りまでやってくると、寒波が押し寄せる毎にきっちり積雪を記録するし、湖西地方もよく雪が積もるようだ。だから比叡山は積雪がなくとも比良山になると山頂近くは白い冠をかぶっている。

 湖国というのは湖北と湖南、湖西と湖東では明らかに降雪量が違うので、妙に面白いところである。ほんの10数㎞しか離れてないのに、かたや積雪10数㎝、一方では降雪の跡形もないということが日常茶飯事に起こりうる。こんなところだから毎朝の天気予報は気になるもので、京都で雪が降ると湖国は確実に積雪かと思うと湖南地方は意外にも積もってなかったりするもので、予測が難しい。ところが八洲、近江八幡から北へ行くと一面の銀世界とくるから、油断が出来ないのである。

 そういった事情もあって、私は積雪の日や、路面が凍った日の歩行のため、トレッキングシューズを買ったのだが、今のところ皆目、履く機会もない。でもまだ2月の後半が残っているし、3月でも寒い日は当然のようにある。だから用意周到にしているのだが・・・・・・・。寒波といっても例年ほどでもなく、確かに暖かすぎる。でも毎年、毎年、異常気象だ、暖冬だといっているが、今年はそれらにもまして異常である。これだと今年の夏も思い遣られそうだ。
EDIT  |  20:19  |  その他  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2009.02.15 (Sun)

きさらぎ賞

 ずいぶんと暖かい今日、東京では長距離のダイヤモンドS、京都では3歳クラシックへ向けての大事な一戦、きさらぎ賞が行なわれた。

 それで何時もならレース展開をダラダラと書くのだが、左手の方が書いているとだんだんと痛くなってくるので、今回は結果のみ表記することにする。それで、きさらぎ賞(GⅢ・3歳、芝、1800m、10頭)
は、前走で逃げて2着に敗れたが、圧倒的1番人気に支持された好素質馬のリーチザクラウンがマイペースの逃げで、見事逃げ切った。

 1着リーチザクラウン 1分48秒9、2着リクエストソング 3馬身1/2、3着エンブリオ 1馬身3/4、4着ベストメンバー クビ、5着キタサンガイセン ハナ。

 一方、東京では3400mの古馬の長距離レース、ダイヤモンドS(GⅢ・4歳以上、芝、3400m、16頭)が行なわれ、4歳馬のモンテクリスエスがレコードで快勝した。

 1着モンテクリスエス 3分29秒4、2着ブレーヴハート 1馬身1/4、3着スノークラッシャー 1馬身1/4、4着ベンチャーナイン 1/2、5着ゴーウィズウィンド 2馬身1/2。
 
EDIT  |  17:19  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.14 (Sat)

病院に・・・

 今週はロクなことがない。腱鞘炎のような状態になり、ブログの更新があまり出来なかったが、一昨日と昨日、連続して帰りの電車が遅れてしまって、帰宅が遅くなった。ことに昨日は最寄の駅に到着する寸前で前を走る新快速が人身事故を発生してしまい、私の乗っている普通電車が1時間足止めを喰らってしまった。そのおかげで職場を出てから帰宅まで3時間もかかってしまった。以前からJRが頻繁に遅れることは、このブログ上で再三とりあげたが、電車の中で缶詰状態が1時間も続くと、いい加減、嫌になる。いまさら文句を言ってもしょうがないが、もっと早い対応が出来ないものだろうか。

 ところで、今日の午前中、病院に行ってきた。といっても腱鞘炎とは関係がなく、一昨日に腹痛をおこして、気になったから行って来たという訳なのだが・・・・・・。その結果、後日、胃カメラを飲む羽目に陥ってしまった。一昨日の午前中、空腹になってくると急にお腹が張ったような状態で痛み出したのである。仕事中なので、そのまま昼の休憩に入ったが、そこで食事をとると腹痛が治まった。それでたいしたことがないと思っていたら、今度は夕方にまた痛くなってきた。すると帰宅の時間になり、駅までテクテク歩いている間に、また治まってしまった。

 すると今度は、昨日の午前中に、また腹痛で・・・まいった、まいった。どうもお腹が張ったようになりみぞおちあたりが痛くなるのである。それで気がかりになったので、今朝、病院にいったということなのである。そして、長い待ち時間のあとで診察を受けたら、胃潰瘍ではないかという。それで念のため胃カメラで検査をするという・・・・・。愕然。ウーン、胃には自信を持っていたのに、胃カメラを飲む羽目になったか・・・・。仕方がないとは言え、小生も年々、あちらこちらと体に歪がきている。もう若くはないのは判っているが、あまりいい気はしない。とりあえず仕事の様子を見ながら、検査の予約を入れないといけなくなり、半日間は仕事を休まなくてはならなくなった。ということで、今日は報告だけでお終いとする。
EDIT  |  19:43  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.11 (Wed)

腱鞘炎?

 一昨日から左指が麻痺したように動かなくて、手首の甲あたりから中指、薬指、小指にかけて痛くなってしまい、パソコンのキーが打ち辛くなってきた。これは一体どうなってしまったのか・・・。もしかして腱鞘炎といものかもしれない。・・・ということは、ブログの更新頻度が、今後、ますます落ちていきそうである。それでなくても書く時間が無くなってきているというのに、このままではさらに更新のペースが落ちていきそうだ。

 とにかく左手の手首が痛く、思うようにキーが打てないという歯がゆさがあり、今現在は右手だけで打っているという状態である。したがいまして記事を書いていても、一向に前に進みません。片手で書き込んでいる状態ではラチがあかず、しばらくはブログ中断もやむを得ないかもしれず、中断しないにしても更新ペースはさらに遅くなるだろうと予測できるのである。こうして書き込んでいる間も、左手が思うように動かず、左手の手首がだんだんと痛くなり、指が回らなくなってくるのが実感できるのである。これはやばいぞ・・・・・・。これだと長い文も書けないであろうし、長文どころか全うな記事も書けやしない。

 こんな調子だからブログを書くのもやっとこさである。だから暫くはブログを中断するかもしれないが、飽く迄も左手の状態しだいということになる。でも右手だけならどうにか書けるので、亀の歩みのようなペースで、月1回か2回の更新率になるかも判らず、今いえる事は左手の状態次第であるということ。

 とにかく右手だけでは思うようにならない。ということで、これからは何時、更新するか判らないので、よろしくお願いいたします。
EDIT  |  18:21  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.09 (Mon)

手塚治虫没後20年

  手塚治虫が亡くなって今日で、ちょうど20年になるという。月日の経つのは年々、早くなるように感じるが、もうそんなに経過したのかと改めて驚いている。

 私が手塚治虫の織り成す世界に初めて触れたのはTVの『鉄腕アトム』だった。といってもアニメではない。人間が演じている『鉄腕アトム』である。少年がアトムのコスチュームを着て正義のために戦うという少年少女向けのドラマだった。私はまだ小学校に上がってなかったと思うが、真剣になって観ていたものだ。だから『鉄腕アトム』の主題歌というと ~空をこえて ラララ星の彼方 ゆくぞアトム ジェットの限り 心やさし ラララ 科学の子 十万馬力だ 鉄腕アトム~ ではなくて、 ~僕は無敵だ鉄腕アトム 良い子のために戦うぞ 勝ったつもりか 負けやしないぞ さあ来い悪者 やって来い ジェット推進 十万馬力 僕は鉄腕アトム 七つの威力を持っている~ の歌を真っ先に連想してしまうのである。

 あの頃、まだ『鉄腕アトム』が手塚治虫の原作であることも知らなくて(幼稚園児だったので、当たり前だが)、ただ漠然と観ていた気がする。それで小学校に上がり漫画というものに出会い、よく通っていた近所の散髪屋で漫画を貪り読むようになったのである。だから私は漫画を読みたいがばかりに、散髪屋に通っていたようなものである。既に週刊誌の『サンデー』『マガジン』は創刊されていたが、毎週、散髪屋に通う訳にもいかず、したがって読むのは何時も月刊誌であった。

当時だと『漫画王』『冒険王』『ぼくら』『少年』『少年画報』『少年ブック』といった漫画雑誌があったと思うが、その中で私が1番気に入っていたのが『少年』である。散髪屋に行ったものの、すぐに散髪の順番が回ってくると『少年』が読めないので、わざわざ順番待ちの多いときを選んで散髪屋に行き、読み終えない間に順番が回ってくると、後から来た子を先に刈らせたというほど漫画が好きだった。

 そんな漫画月刊誌『少年』に連載されていたのが『鉄腕アトム』であり、横山光輝の『鉄人28号』であった。だから小学校に上がり、漫画を読み始めて『鉄腕アトム』の存在を知ったときの印象は強烈であった。それまで観ていたテレビのアトムが実に陳腐なものに見えてしまい、手塚治虫の漫画のアトムの話は、もっとスケールが大きくてストーリーも遥かに面白かった。こうして私は手塚治虫の名を知った訳である。それから数年、とうとう手塚治虫が自ら製作に加わったアニメ版『鉄腕アトム』の本放送が始まり、日本に本格的アニメ・ブームがやってくることになる。

 アニメ『鉄腕アトム』が始まってから以降は、どんなアニメがテレビで放送されたかは、ほとんどの人が知っているので、この先は書かない。でも今や、世界中で愛される日本制アニメと日本のコミックの、礎を築いた人物こそ手塚治虫その人といっても過言ではないだろう。つまり現在活躍中の漫画家の大半の人は、何らかの形で手塚治虫の影響を受けているからである。

 戦前から、田川水泡の『のらくろ』、阪本牙城の『タンクタンクロー』、島田啓三の『冒険ダン吉』といった児童漫画はあったが、展開も遅く、舞台芝居を観ているようなのんびりとした話が多く、如何にも少年向けの内容であった。それが戦後に登場した手塚治虫の漫画は新鮮に映ったであろうと思える。私が、その後に手塚治虫初期の作品である『新宝島』『ロストワールド』を読み直したとき、これが昭和20年代初頭に描かれた漫画なのかと驚くやら、手塚治虫の斬新な手法に唸ったというべきなのかもしれない。それまでの舞台劇のような漫画から、映画のような動きのある漫画に変えてしまった最大の功労者が手塚治虫である。こうして児童向けのストーリー漫画は、大きく可能性を秘めるようになり、飛躍して行ったのである。

 その後に手塚治虫に触発された漫画家の卵たちが手塚治虫の下へ集まるようになったことは言うまでもないだろう。これはトキワ荘の話として有名であるが、寺田ヒロオ、よこたとくお、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、つのだじろう等・・・・・現在、漫画界の重鎮として名を残した人ばかりであるが、このような人材が集い、日本の漫画が世界へ飛躍していく出発点がここにあるとしたら、手塚治虫の残した功績というのは余りにも大きいといわざるを得ない。
EDIT  |  20:25  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2009.02.08 (Sun)

共同通信杯

 今日は東京で共同通信杯、京都でシルクロードSと東西で2つの重賞が行なわれたが、これだけ重賞が多いと全てのレースの記事を書く訳にもいかないので、個人的にどうでもいいようなレースの詳細は省くことにする。したがって今日は3歳クラシックレースを占う意味でも重要な共同通信杯だけを記事にしてみた。

 トキノミノル記念という副タイトルの付いている共同通信杯(GⅢ・3歳、芝1800m、15頭)が、東京競馬場で行なわれた。1番人気はブレイクランアウト、2番人気はトーセンジョーダン、3番人気はプロスアンドコンズという順で、絶好の馬場コンディションの中、スタートが切られた。

 ゲートが開くやフレンドケントがポーンと飛び出した。2番手にシングンレジェンド、3番手にトーセンジョーダン、その外にヒシポジション、その後にカノンコートとショウナンアルディ、そしてマイネルクラリティ、マッハヴェロシティ、そしてインコースに武豊騎乗のブレイクランアウトが続き、ダイワプリベール、プロスアンドコンズ、トップカミング、シェーンヴァルトと続き、シゲルエボシダケ、メイショウパルマが最後方から追走する。スタートからのハロンタイムは12.4---11.5---11.7---12.2---12.6と1000m通過が1分00秒4と遅めである。

 馬群が3コーナーにかかる辺りでヒシポジションがズルズルと後退した。どうやら故障発生のようである。アクシデントはあったが、レースは間もなく4コーナーに向う。この付近で前を行っている2頭と後ろの集団とは5、6馬身の差がついている。この差を保っていよいよ直線に入る。先頭はフレンドケントとシングンレジェンド。あと400m。ブレイクランアウトは上手く内をついて伸びてくる。先頭はまだフレンドケント、馬場の真ん中をついてマッハヴェロシティがやって来る。内からはブレイクランアウトも勢い良い。あと200m、ここでブレイクランアウトが出た。完全に先頭に立った。マッハヴェロシティの内側からトーセンジョーダンも伸びて来る。しかし、ブレイクランアウトは2馬身ほど抜けている。2番手争いはトーセンジョーダンとインコースから迫ってきたトップカミングに絞られたが、トーセンジョーダンが僅かに出ている。でも1着はブレイクランアウト・・・・・・。

 1着ブレイクランアウト 1分47秒3、2着トーセンジョーダン 1馬身3/4、3着トップカミング 1/2、4着マッハヴェロシティ 1/2、5着シェーンヴァルト 1馬身3/4。

 ブレイクランアウトの勝ち時計1分47秒3も上がり33秒6(推定)は立派。ディープインパクト級というのは無理があるが、3歳馬として、この時期でこの時計で、あの勝ち方をされるとダービー候補誕生かと騒ぎ立てられるかもしれない。でも前走も前々走も惜敗しているブレイクランアウトである。今回は上手く展開がはまったとも思われるし、次走も同様の走りが出来るかどうかが問題である。でも素質馬であるころに異論はないだろう。しかし、残念なことにアメリカ産馬である。内国産馬ならなあ・・・・・と悔やんでも仕方がないが・・・・。
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2009.02.07 (Sat)

土曜出勤であったが

 今日は土曜出勤で先ほど帰宅した。今朝は放射冷却で寒かったが、午後から2月上旬とは思えない暖かさであった。最近は地球温暖化の影響で、暖冬というのがお決まりであるが、今年は特に暖かい。毎日、毎日、湖国へ通っているものの雪が皆目、降らず、このところ拍子抜けの日々である。暖かいのは助かるが、冬が冬らしくないとかえって不安になる。この調子だと、また大嫌いな夏が長いのではと・・・・・・数ヶ月先にやって来る夏を憂いていてもしょうがないが、年々、冬が短くなり夏が長くなっていくのをひしひしと感じる今日この頃で、確かに地球はおかしくなっている。

 また、こんなに世の中の景気が冷え切っている時に、土曜出勤なんて、何とお目出度い会社であろうか・・・。案の定、行きも帰りも電車の中は閑散としていた。何時もなら座席に座るなんてこともないが今日は京都から座れた。しかし、相変わらず不景気の風が吹き荒れているようだ。車内で新聞を読んでいる者がいて、どうしても新聞の見出しが目に入る。

 「トヨタ最終赤字3500億円」「大手銀 利益9割減」「パイオニアTV事業撤退視野」「シャープ1000億円赤字」「アメリカ失業率悪化7.6%」「大手6行減益」「信金中金404億円赤字」・・・・・とにかく暗い記事ばかりが並んでいる。そのせいでもないだろうが、電車の中もガランとしていて、会社員風の人は少なく高校生がやけに目立っている。でも土曜日に学校があるというのは私立高校に限られるので、公立高校の方が圧倒的に多い滋賀県のこと、高校生が多いといってもたかがしれている。とにかく土曜日に出勤するところが、このご時世では珍しく、仕事があることを喜ばなくてはならないのかもしれないが、かといってそんなに忙しいというのでもなく土曜出勤って、これ如何に・・・・。

 まあ、とりあえず業務をこなして帰宅したが、帰りの電車も空いていた。とにかく暖冬ということもあり、春のようにポカポカ陽気であったが、車内の中はお寒いかぎりである。まさに気候も景気も異常ずくしである。この世界的な不況は、この先も不透明で、ワークシェアリングを行なったぐらいでは、企業も乗り切れないところまで来ている。聞くところによると、5日連続で操業停止だとか、急遽、営業を停止したところもある。・・・・・空いた電車の中で、揺られながら色々なことを考えていると、我が身にも何時、それが現実として降りかかるかもしれないと、思いながらボンヤリと車窓の外に拡がる暗闇を眺めつつ日本経済は暗夜行路かな・・・・・・なんて他人事のように小生は呟いていたという訳である。
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2009.02.05 (Thu)

アバを聴く

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アバの曲がヒットして盛んに聴かれるようになったのは、何時ごろだろうか。もう私がポップスというものを熱心に聴かなくなっていた頃だろうか、その頃『ダンシング・クイーン』が巷でよく流れていた。透明感の或る印象的な声だった。初めて聴いたとき私は、女性のコーラス・グループかと当初は思った。それで詳細を知りたくてレコード屋に行き、シングル盤のジャケットを見て男2人、女2人の4人グループであることを知る。

 間もなく彼らはスウェーデン出身で、メンバーはアグネッタ・フォルツコグ、ビョルン・ウルヴァース、ベニー・アンダーソン、アンニ=フリッド・リングスタッドの4人で、4人の頭文字をとってグループ名がABBAになったという経緯を聞いたのである。最初はビョルン&ベニー、アグネッタ&アンニ=フリッドという長ったらしいグループ名だったという。でもアバという名の方がインパクトは強く、『ダンシング・クイーン』のヒットで世界的に名が知れることとなったようである。

 アバは1974年のユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝。間もなく『ウォータールー』がヨーロッパでヒットし、一般的に知られるようになったが、その頃、既に私は洋楽もポップスも流行音楽というものを皆目、聴かなくなっていた。理由は色々あるが、この頃は音楽と無縁の生活を送っていたので、あれほど聴きまくった洋楽とも遠ざかっていた。ただ一方で、よくパチンコ屋に通っていた頃だったから、その頃のヒット曲というものは、パチンコ屋で流れていたので、どんな曲が流行っているのかは大方、判っていたが、ただ洋楽に関しては疎かったと言わざるを得ない。

 そんな頃、アバの歌っている姿を、友人の家のテレビで観た。これがアバかという程度の印象であった。残念ながら1960年代の洋楽は好きだったが、この頃の洋楽の曲の傾向からして、あまり好きにはなれなかった。アバを最初に聴いたときの印象は、軽快なダンス・ミュージックといったような気がして、私の聴いていた時代のポップスとは少し違うなあというぐらいのものであった。おそらく、アバを熱心に聴いた人たちというのは、私よりも10年ぐらい下の世代になるのだろうか。だから私はアバのことを書こうと思っても詳しくはない。だから付け焼刃のような知識で、この記事を書いているのだが、それでも幾つかの曲は知っている。『テイク・ア・チャンス』『マンマ・ミーア』『マネー、マネー、マネー』『SOS』『チキチータ』『ギミー、ギミー、ギミー』・・・・・・さほど詳しい訳ではないものの、曲を聴けば思い出す。私にとってアバというと、その程度の思い出しかないが、『マンマ・ミーア!』というアバの曲ばかり22曲で構成されたミュージカルがヒットし、最近は映画化もされた。舞台の方は全世界170都市で観客動員3000万を突破する大ヒットとなった。つまり、私には熱中した音楽というのでもなく、ファンというのでもないものの、これだけ時代が経っていてもアバの曲が、これだけ流れるというのは、やはり時代を超越した普遍性があるということであり、良いものは何時の時代でも良いということなのである。・・・・・だからアバという世界的グループは、今でも人々の心の中に生き続けているのである。

『ダンシング・クイーン』を歌うアバ。(1976年、inオーストラリア)


『チキチータ』を歌うアバ。

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2009.02.03 (Tue)

巻き寿司を食べる

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 仕事の帰りにスーパーマーケットによってみると、ワゴンの上に堆く巻き寿司が陳列してあった。そういえば今日は節分である。元来は豆まきの日であるが、最近は恵方巻きとかいって太巻きの巻き寿司をその年の恵方に向ってまるかじりするという習慣が、この4、5年ですっかり定着してしまった感がある。その習慣は大阪で始まったものとされているが、そんな習慣、私が知ったのも20年ほど前のことで、その前から大阪で行なわれていたなどとは全く知らなかった。ということは大阪のごく限られた地域のみで行なわれていた慣習なのかもしれない・・・・。つまりお隣の京都でも、つい20年ほど前までは、知らない人が多かったのだから、全国的に恵方巻きという慣わしが、これだけ短い年月で広まったのには驚かされる。

 その恵方巻きを流行らせた人達は大阪の海苔問屋だとする説が根強いが、1970年代に色々な試みを持ち、一般に知れ渡る事となり、平成元年にコンビニで大々的に巻き寿司を売るようになり、全国的に拡がっていったというのが定説のようである。

 でもどちらかというと、豆を食べるよりも巻き寿司を食べるほうが、腹も膨れるから、家庭の主婦にとっては都合がよく、晩御飯を作る暇が省け、太巻き寿司を何本か買ってきて、食べさせれば後片付けも簡単なので有り難いことである。こういった理由で日本中に広まったのではないにしろ、この日ばかりは炊事を休める日として、主婦にとっては崇められているのかもしれない。

 結局、私も巻き寿司を買って帰り、焼酎を飲みながら鉄火巻き、ネギトロ巻き、納豆巻きの三本を食べた。ただカッパ巻きを買うはずのところを、間違って嫌いな納豆巻きを買ってしまうなど、ミスも犯したが、焼酎のつまみにちょうどよく、腹も適度に膨れ眠くなってしまった。・・・・ということで今日はここらでお終いにするとしよう。・・・・・何! 恵方巻きは太巻きを食べなくてはならないだって・・・・そんなもの知らん。拙者は細巻きの方が好きなだけだ・・・・・。
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2009.02.01 (Sun)

田中英光『オリンポスの果実』を読む

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 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房を貰い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体育教師をしていると、近頃風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 恋というには、あmりにも素朴な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念日の財布のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏の実を、とりだし、ここ京城のろう屋の陽もささぬ裏庭に棄てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。

 ・・・・・・・・・・『オリンポスの果実』はこのような書き出しで始まるが、全編、熊本秋子という女性を好きだ好きだといった雰囲気が漂う小説である。学生の頃に読んだときは、このような純粋な恋の表現もあるのかと思ったものだが、今、読み返すとアホらしいとも感じられ、歳老いて読む小説ではないなあとも思った。

 田中英光は1913年生まれで、大きな体の持ち主ゆえに早稲田のボート部員となり、実際に1932年(昭和7年)のロサンジェルス・オリンピックに日本代表のクルーの一員として参加している。彼はボートのクルーの一員として、アメリカ行きの船に乗り込み、そこで知り合った走り高跳びの女子選手に熱を上げる。結局、その時の甘い切ない体験を小説にしたのだが、当時もお文学界で、スポーツ選手の恋を切実に表現した作品というものが稀有だったので新鮮であったろうと思える。

 この小説の中で、彼が初めて熊本秋子と出会ったときのことが書かれてあるが、それは純粋そのものである。船内で観た映画が済んでデッキに出てきた彼は彼女と出会う・・・・・・・・・・・・ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは驚いたように顔をあげて、ぼくをまいた、真面目になった。あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の貌と、成熟した女の貌との混こうによる奇妙な魅力でした。
 みじんも化粧せず、白粉のかわりに、健康がぷんぷん匂う清潔さで、あなたはぼくを惹きつけた。あなたの言葉は田舎の女学生丸出し、髪はまるで、老嬢のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑ましい魅力でした。・・・・・・

 ・・・・・・・何とも時代を感じさせるような形容が並ぶが、今で言うところのプラトニックな恋であろう。この小説は、船で渡米し五輪に参加し、アメリカでの日々、帰りの船での出来事が主であるが、今ならこのような精神的な恋慕を綴った作品というのは滅多にないだろうが、男女七歳にして同席ならずなんていっていた戦前の話である。当時としては国を代表するオリンピック選手同志の恋愛はご法度であろうからして、今の感覚からして何をウダウダと書き貫いているのかと思ってしまう。それほど表立った男女の恋愛は許されてなかった時代なのである。

 しかし彼女を好きだ好きだというニュアンスが小説の大半を占める中、最後に締められている文章が面白い。

 ・・・・・あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。

 田中英光が、この小説を発表したのは1940年のことで、ロサンゼルス・オリンピックからすでに8年の歳月が経っている。彼が19歳で出場したオリンピックというのは、すべてにおいて初体験で、彼の目には何もかも新鮮に映ったろう。そんな淡い恋の思いが、既に既婚者になり、子供もいる身になってから、一篇の詩の様に若年の思いを書き留めなくてはならないという心境に駆られたのかもしれないが、その後の彼を考えると、この小説は一体、何なのだろうと思ってしまう。

 田中英光は戦後、間もなく左翼思想に染まり共産党に入党。だが党活動及び、党そのものに疑問を感じ翌年には離党。その後に共産党やスターリン批判の作品を残し、彼が兄として慕っていた太宰治の自殺を追うように、妻を残し別邸で同棲生活を始めるが、やがて薬物に手をつけ同棲相手を刺してしまう。そして1949年11月。太宰治の墓前で睡眠薬を服用し手首を切って自殺してしまった。そのとき彼は、まだ36歳だった。一体、田中英光という人は、どんな人だったのだろうか。よく判らない・・・・・。
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