2016.11.13 (Sun)
真田丸
真田丸とは今NHKで放映中の大河ドラマのタイトルだが、主人公は言わずと知れた真田信繁こと真田幸村である。ところでNHKがこのタイトルで真田幸村の物語を始めたときに思ったことだが、ドラマは一年間放映されるのにタイトルは真田幸村ではなく真田丸。なんで真田丸というタイトルにしたのかなと思った。謂わば真田丸とは大坂冬の陣で真田幸村が築いた大阪城の南の端の先にある出丸。砦のような物をいうのだが、真田幸村の一生で言うと最後も最後。徳川家康が大阪城責めをした大坂冬の陣、夏の陣。その冬の陣でだけ登場する出丸。つまりドラマにおいて、この真田丸が最大に重要だからということでタイトルに使用されたのだろうが、一年間の大河ドラマの中でクライマックスがこの真田丸での戦いにあると言うことになるのかもしれない。
歴史上において真田幸村は結局、豊臣方につき最後は討ち死にすることを我々は知っているが、徳川家康はこの真田幸村との戦いに手を焼いて、冬の陣では和睦することとなる。しかし、和睦の条件として大坂城の外堀を埋めることと真田丸の解体が条件として突きつけられたのである。これを考えると徳川家康が如何に真田幸村を恐れていたかよく判る。どころで今回、小生は真田丸のあった場所を訪れてみようと思ったまでであるが、実のところ、この辺りはよく知っているところで、何を今更だが改めて行ってみた。
実際の所、大坂冬の陣は1615年の1月(旧暦だと1614年)に起こっている。つまり今年は301年目と言うことになる。だからこのドラマが始まる前の去年に訪れるべきだったのだが、昨年は家族の不幸があって、とても行く余裕がなかった。そして、今年、大河ドラマ『真田丸』が放映中なのでちょうど良いかなと思い訪れてみた次第である。ところで小生、大河ドラマなんてほとんど観ないから詳細は知らない。だがこのドラマが好きな者が身近にいて、ちょうど大坂冬の陣に話が差し掛かっていると言うことで記事にするのにタイミングが良いかなと考え、このほど久しぶりに現地を訪れてみた。
まあここでは真田信繁が豊臣秀頼方について徳川家康と相対するまでのことは長くなるので省く。こんなことは歴史に詳しい方なら承知のはずなので書くまでもない。だから取り敢えず現地へ行ってみた。JR大阪環状線及び大阪市営地下鉄玉造駅で降りる。どちらでもいいが地下鉄の駅の方がより現地に近い。地下鉄玉造駅は大坂城の外堀だった空堀跡に造られている。だからこの玉造駅を降りて地上に上がると、そこはもうおそらく真田丸のあった敷地の東側だろうと予測できる。ちょうど玉造駅から南へ100mほ行くと三光神社がある。そこには真田幸村の像と抜け穴がある。この穴は大坂城への抜け穴と言われているが信憑性は低いといわれている。さて三光神社に行ってみると人が大勢いた。流石にテレビで放映されると訪れる人が多い。昔来たときはほとんど訪れる人などいなかったんだけど・・・。この神社は坂の上にあり曲輪があったんではと思わす地形である。この神社が真田丸の東端かもしれない(最近の調査では三光神社は真田丸からは東に外れていると言われるが)。この神社の北は空堀があった所とされ、神社の北は緩やかな崖になっている。ここから西一帯が茂みのある公園があり、その公園をさらに西へ行くと心眼寺がある。この心眼寺には真田幸村の出丸跡と書かれた石碑があるが、最近の調査では西隣の明星中高校の辺りが真田丸の大部分があったところと言う報告がなされ、明星中高校の側に新しく石碑が建てられた。要約すると真田丸の大きさは不明。色々と説があり実のところ大きさは確定していない。おそらくこの辺り一帯が真田丸だったのかもしれない。
さてさて真田丸一帯からさらに南へ2.5km歩いて行くと四天王寺の西南、茶臼山の北に安居神社がある。この安居神社こそ真田幸村が最後を迎えた地である。大坂城の外堀を埋められ真田丸を潰された大坂城は裸同然だった。冬の陣から4ヶ月後に大坂夏の陣が起こり、真田幸村は徳川の大軍に向かって戦いに出た。このときの勇猛果敢な戦い振りが後世に伝えられる結果となったのだが、特に5月7日の天王寺、岡山(現・御勝山)の戦いでは家康の本陣まで突入したという。結局、徳川の大軍相手には非力すぎて、現在の安居神社のある場所で傷ついた体を休ましているときに討ち取られたとされる。49歳だった。
三光神社には真田幸村の像がある
幸村の像の側には抜け穴がある。誰が掘ったのかな。
三光神社へ行くにはこのような石段を登らなくてはならない。つまり段差があるということである。
こちらは心眼寺にある真田幸村の墓。しかし大坂は徳川幕府の直轄地だった関係から幸村の墓は造れなかったので実際の話、墓ではない。
今年になって真田丸の場所が調査によってある程度、指定されるようになり明星学園が真田丸のほとんどを占めているということが判ってきたらしい。そして明星学園の側にこのような顕彰碑が今年になって設けられた。
明星学園の校舎の壁にはこのような物が描かれている。実はこの明星高校、小生が子供の頃、甲子園で優勝したり全国高校サッカーで優勝したりして有名な学校で名前は知っていた。今は大阪で屈指の進学校になり野球もサッカーも弱くなった。が部活は盛んである。ちなみに大阪では数少ない男子校となってしまった。
こちらは安居神社にある真田幸村が亡くなったとされる碑。真田幸村が夏の陣のときに陣を構えた茶臼山からほど近い。
歴史上において真田幸村は結局、豊臣方につき最後は討ち死にすることを我々は知っているが、徳川家康はこの真田幸村との戦いに手を焼いて、冬の陣では和睦することとなる。しかし、和睦の条件として大坂城の外堀を埋めることと真田丸の解体が条件として突きつけられたのである。これを考えると徳川家康が如何に真田幸村を恐れていたかよく判る。どころで今回、小生は真田丸のあった場所を訪れてみようと思ったまでであるが、実のところ、この辺りはよく知っているところで、何を今更だが改めて行ってみた。
実際の所、大坂冬の陣は1615年の1月(旧暦だと1614年)に起こっている。つまり今年は301年目と言うことになる。だからこのドラマが始まる前の去年に訪れるべきだったのだが、昨年は家族の不幸があって、とても行く余裕がなかった。そして、今年、大河ドラマ『真田丸』が放映中なのでちょうど良いかなと思い訪れてみた次第である。ところで小生、大河ドラマなんてほとんど観ないから詳細は知らない。だがこのドラマが好きな者が身近にいて、ちょうど大坂冬の陣に話が差し掛かっていると言うことで記事にするのにタイミングが良いかなと考え、このほど久しぶりに現地を訪れてみた。
まあここでは真田信繁が豊臣秀頼方について徳川家康と相対するまでのことは長くなるので省く。こんなことは歴史に詳しい方なら承知のはずなので書くまでもない。だから取り敢えず現地へ行ってみた。JR大阪環状線及び大阪市営地下鉄玉造駅で降りる。どちらでもいいが地下鉄の駅の方がより現地に近い。地下鉄玉造駅は大坂城の外堀だった空堀跡に造られている。だからこの玉造駅を降りて地上に上がると、そこはもうおそらく真田丸のあった敷地の東側だろうと予測できる。ちょうど玉造駅から南へ100mほ行くと三光神社がある。そこには真田幸村の像と抜け穴がある。この穴は大坂城への抜け穴と言われているが信憑性は低いといわれている。さて三光神社に行ってみると人が大勢いた。流石にテレビで放映されると訪れる人が多い。昔来たときはほとんど訪れる人などいなかったんだけど・・・。この神社は坂の上にあり曲輪があったんではと思わす地形である。この神社が真田丸の東端かもしれない(最近の調査では三光神社は真田丸からは東に外れていると言われるが)。この神社の北は空堀があった所とされ、神社の北は緩やかな崖になっている。ここから西一帯が茂みのある公園があり、その公園をさらに西へ行くと心眼寺がある。この心眼寺には真田幸村の出丸跡と書かれた石碑があるが、最近の調査では西隣の明星中高校の辺りが真田丸の大部分があったところと言う報告がなされ、明星中高校の側に新しく石碑が建てられた。要約すると真田丸の大きさは不明。色々と説があり実のところ大きさは確定していない。おそらくこの辺り一帯が真田丸だったのかもしれない。
さてさて真田丸一帯からさらに南へ2.5km歩いて行くと四天王寺の西南、茶臼山の北に安居神社がある。この安居神社こそ真田幸村が最後を迎えた地である。大坂城の外堀を埋められ真田丸を潰された大坂城は裸同然だった。冬の陣から4ヶ月後に大坂夏の陣が起こり、真田幸村は徳川の大軍に向かって戦いに出た。このときの勇猛果敢な戦い振りが後世に伝えられる結果となったのだが、特に5月7日の天王寺、岡山(現・御勝山)の戦いでは家康の本陣まで突入したという。結局、徳川の大軍相手には非力すぎて、現在の安居神社のある場所で傷ついた体を休ましているときに討ち取られたとされる。49歳だった。
三光神社には真田幸村の像がある
幸村の像の側には抜け穴がある。誰が掘ったのかな。
三光神社へ行くにはこのような石段を登らなくてはならない。つまり段差があるということである。
こちらは心眼寺にある真田幸村の墓。しかし大坂は徳川幕府の直轄地だった関係から幸村の墓は造れなかったので実際の話、墓ではない。
今年になって真田丸の場所が調査によってある程度、指定されるようになり明星学園が真田丸のほとんどを占めているということが判ってきたらしい。そして明星学園の側にこのような顕彰碑が今年になって設けられた。
明星学園の校舎の壁にはこのような物が描かれている。実はこの明星高校、小生が子供の頃、甲子園で優勝したり全国高校サッカーで優勝したりして有名な学校で名前は知っていた。今は大阪で屈指の進学校になり野球もサッカーも弱くなった。が部活は盛んである。ちなみに大阪では数少ない男子校となってしまった。
こちらは安居神社にある真田幸村が亡くなったとされる碑。真田幸村が夏の陣のときに陣を構えた茶臼山からほど近い。
2014.12.13 (Sat)
久しぶりに伏見稲荷大社に行く
先日の寒い日に伏見稲荷大社に行った。昨年は入院するしこの前の動脈硬化の検査で黄信号が出たので、これから精進するとしてついでに無病息災の願をかけにいったということだ。小生はあまりこういったことはやらないのだが、流石に最近は弱気になっている。つまり苦しい時の神頼みというほどでもないが、長生きしたいので思いついたついでに伏見稲荷まで行ったのである。土、日は人が多いだろうから平日に行ったのだが人が多かった。これはある程度、判っていたことだが外国人の多さに呆れかえった。もしこれが平日でなかったらおそらく混雑しただろうな。もっとも正月の初もうでの時ほどではないだろうが、流石に外国人が訪れてみたい日本のスポットの全国1位に選ばれただけある。でも日本人もけっこういるではないか。修学旅行生も多い。でも最近は師走に修学旅行を行ったりするんだな。でも何で日本の訪れたい場所の第1位に選ばれたかと言うのは、これあもインターネットの影響だろう。最近は一般の人が動画を投稿して、そこから口コミで広がる場合が多く、あの朱色の千本鳥居のトンネルがクールだというのである。それで日本に行けば絶対行くべきだと言った、書き込みをインターネットでよく見かける。それで年々、伏見稲荷大社を訪れる外国人が増えてきたようだ。
それで願をかけて帰るつもりであったが、どうせ来たのだし裏の稲荷山の千本鳥居を潜ってやろうと思い行ったのだが、予想通り人が多かった。みんは鳥居の入口や中で写真を撮っているのでなかなか前に進めない。でもここは無料で来れるし時間の制約もないし、訪れる外国人が多いと聞く。夜でも訪れる外国人がいるというから驚いた。でも照明もないし夜の鳥居は不気味だと思うのだがな・・・・・・。でも相変わらず中国系の外国人が多い。鳥居を背景に写真を撮っていて、なかなか動かないから前を通れないのだ。さっさとやってくればいいのにと思いながら待っていた。中国も多いが、香港から来た人や台湾から来た人も多いようだが、神社の人に聞くと台湾の人はリピーターが多く、大陸から来る中国人よりもマナーは良いらしい。でもこちらとしたら中国人も香港人も台湾人も区別がつかない。西洋人も多いが、英語は当然としてドイツ語やフランス語、スペイン語で喋っている西洋人もいる。たまに何処の言葉か判らない西洋人もいる。いやいや何ともグローバルなところだ。
最初の大鳥居
こんな幟を立てなくともいいのにと思ったが・・・・
稲荷大神様のお使い(眷族)はきつねとされている。但し野山に居る狐ではなく、眷属様も大神様同様に我々の目には見えない。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめている。だから狐を祭っている訳ではない。
千本鳥居のスタート
この鳥居のトンネルが二か所に分かれてところでは、みんなが写真を撮るので前に進めない。
珍しく間が開いている
ここまで登ってくるとあまり人がいない。中国人はほとんどここまで来ない。登って来るのは日本人と西洋人だけだ。
四つ辻で写真を撮る。この鳥居のところから登ってきたのだ。
西村和彦の実家のある四つ辻では視界が開ける。これは西山方面。我が家もこの中にある。
それで願をかけて帰るつもりであったが、どうせ来たのだし裏の稲荷山の千本鳥居を潜ってやろうと思い行ったのだが、予想通り人が多かった。みんは鳥居の入口や中で写真を撮っているのでなかなか前に進めない。でもここは無料で来れるし時間の制約もないし、訪れる外国人が多いと聞く。夜でも訪れる外国人がいるというから驚いた。でも照明もないし夜の鳥居は不気味だと思うのだがな・・・・・・。でも相変わらず中国系の外国人が多い。鳥居を背景に写真を撮っていて、なかなか動かないから前を通れないのだ。さっさとやってくればいいのにと思いながら待っていた。中国も多いが、香港から来た人や台湾から来た人も多いようだが、神社の人に聞くと台湾の人はリピーターが多く、大陸から来る中国人よりもマナーは良いらしい。でもこちらとしたら中国人も香港人も台湾人も区別がつかない。西洋人も多いが、英語は当然としてドイツ語やフランス語、スペイン語で喋っている西洋人もいる。たまに何処の言葉か判らない西洋人もいる。いやいや何ともグローバルなところだ。
最初の大鳥居
こんな幟を立てなくともいいのにと思ったが・・・・
稲荷大神様のお使い(眷族)はきつねとされている。但し野山に居る狐ではなく、眷属様も大神様同様に我々の目には見えない。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめている。だから狐を祭っている訳ではない。
千本鳥居のスタート
この鳥居のトンネルが二か所に分かれてところでは、みんなが写真を撮るので前に進めない。
珍しく間が開いている
ここまで登ってくるとあまり人がいない。中国人はほとんどここまで来ない。登って来るのは日本人と西洋人だけだ。
四つ辻で写真を撮る。この鳥居のところから登ってきたのだ。
西村和彦の実家のある四つ辻では視界が開ける。これは西山方面。我が家もこの中にある。
2014.11.29 (Sat)
再び東福寺に行く
二週間ほど前に東福寺に紅葉を見にいったものの見頃には、ほど遠かったという記事を書いたが、3日ほど前に再び東福寺に行ってきた。珍しく平日の午前中に行ってきたのだが大変な人の数。JR京都駅の奈良線のホーム。各駅電車の中は既に満員の状態。この紅葉シーズン観光客で人が溢れる京都だが、最近は外国人が奈良線に大勢乗っているのを見かける。でも、この日は日本人も多い。喋っているのを聞くと関東から来た人が多いようだ。それで一つ目の東福寺の駅でどっと降りる。西洋人は次の稲荷駅でどうせ降りるんだろうが、日本人は大半がこの東福寺の駅で降りる。それは当然、紅葉が目当てである。駅前の狭い通りを人が数珠つなぎで歩いている。車も多いし危ないなと思いながらも、歩いて10分ほどで東福寺の境内へ。物凄い人の数。この東福寺は紅葉シーズン以外だと、それほど人出も多くない寺院である。それが11月の紅葉の頃になると、人出が10倍~20倍に膨れ上がる。清水寺や金閣寺、伏見稲荷大社のように年から年中、人で溢れているお寺ではない。それが紅葉シーズンだけが突拍子もなく人で溢れる。それは桜が満開になった時の醍醐寺と似ているところがある。
ようやく人混みに混じって到着。拝観料を払って中に入るものの、通天橋のところで前に進めない。みんな通天橋から写真やビデオを撮りまくるので前に進まないのだ。ここでも中国人が多い。一見すると日本人かなと思っていると、喋り出すと中国人だったというから、いったどれだけの中国人が来ているのだ。中国は今、深刻な大気汚染で日本の青い空は望むべくもなく、この青い空と綺麗な空気と紅葉に魅入られるのかもしれないが、中国にだって紅葉がまったくない訳ではないが、日本の木目細かい紅葉と木造の寺院建築と庭園との調和。かつて中国にあった文化が今や中国にはないと聞いている。中国の歴史は王朝が変わるたびに破壊され、辛亥革命や中国共産党の台頭以降、喪失した物も多い。それで古き良き唐の文化も日本に行けば見れるといって訪れる中国人も多いと聞く。かつて四大文明を生んだ中国なのだが、中国の現状を孔子が知ったら何て言うだろうか・・・。
さて、取り敢えず物凄い人混みの中で紅葉を堪能してきたが、残念なことに紅葉の盛りは過ぎていたかな。今年の紅葉は昨年や一昨年に比べるとピークの時期が早かったみたいだ。最近では珍しい。30年ほど前は11月半ばが紅葉シーズンだったのだが、この10年位は11月下旬から12月初頭が見頃という年が多かったものだが、こればかりは言ってみて実感しないと判らない。しかし、もう昨夜から今日の午前中の強い雨で、もう紅葉も終わりかな。
もう赤い楓の葉が落ちていて、紅葉の盛りが過ぎていることを思わす。
通天橋と真っ赤な紅葉。通天橋から見下ろす紅葉は見事だが、橋の上は人が多すぎてどうしようもなかった。
真っ赤にならなくて青いまま散る葉もある。陽に浴びないと赤く染まらないのだ。
ようやく人混みに混じって到着。拝観料を払って中に入るものの、通天橋のところで前に進めない。みんな通天橋から写真やビデオを撮りまくるので前に進まないのだ。ここでも中国人が多い。一見すると日本人かなと思っていると、喋り出すと中国人だったというから、いったどれだけの中国人が来ているのだ。中国は今、深刻な大気汚染で日本の青い空は望むべくもなく、この青い空と綺麗な空気と紅葉に魅入られるのかもしれないが、中国にだって紅葉がまったくない訳ではないが、日本の木目細かい紅葉と木造の寺院建築と庭園との調和。かつて中国にあった文化が今や中国にはないと聞いている。中国の歴史は王朝が変わるたびに破壊され、辛亥革命や中国共産党の台頭以降、喪失した物も多い。それで古き良き唐の文化も日本に行けば見れるといって訪れる中国人も多いと聞く。かつて四大文明を生んだ中国なのだが、中国の現状を孔子が知ったら何て言うだろうか・・・。
さて、取り敢えず物凄い人混みの中で紅葉を堪能してきたが、残念なことに紅葉の盛りは過ぎていたかな。今年の紅葉は昨年や一昨年に比べるとピークの時期が早かったみたいだ。最近では珍しい。30年ほど前は11月半ばが紅葉シーズンだったのだが、この10年位は11月下旬から12月初頭が見頃という年が多かったものだが、こればかりは言ってみて実感しないと判らない。しかし、もう昨夜から今日の午前中の強い雨で、もう紅葉も終わりかな。
もう赤い楓の葉が落ちていて、紅葉の盛りが過ぎていることを思わす。
通天橋と真っ赤な紅葉。通天橋から見下ろす紅葉は見事だが、橋の上は人が多すぎてどうしようもなかった。
真っ赤にならなくて青いまま散る葉もある。陽に浴びないと赤く染まらないのだ。
2014.11.16 (Sun)
紅葉には早すぎて
そろそろ紅葉が見頃なんて観光案内に表記してあるのを見るとホントと思いながらも行ってみたくなる。そもそも自宅から近い山々では紅葉が少し色付き始めたかなと言う段階なのに疑いながらも観光案内に騙されていってしまった。行った先は東福寺。京都では有名な紅葉の名所だ。でも、まだ紅葉には早いだろうと思ってはいたが、どれほど色づいているのか見にいったという訳だ。東福寺なら京都駅からどうせ一駅だし、近いからまあいいかといった感じかな。
それにしても電車は人でいっぱいだ。JRの奈良行きの普通電車。日本人も多いが、外国人も大勢乗っている。以前に書いたと思うが外国人は伏見稲荷大社に行くのだろう。でも日本人もそうなのかと勘ぐっていたのだが、京都駅から一つ目の東福寺駅で日本人は大半が降りた。そうか紅葉で有名な東福寺にみんな行くのだなと思った。それで境内へ入ったのだが・・・・・・・。まだ紅葉には早すぎたかな、予想通りではあったが。ところでこの東福寺。1236年から19年をかけて大伽藍が出来上がった臨済宗の大寺院であった。奈良の東大寺と興福寺から、それぞれ東と福の文字を頂いて東福寺と名付けられたほどだから、どれほど巨大な寺院だったか想像できるというものだ。それが明治維新の廃仏毀釈によってかなりの部分が取り壊されたから寺院の規模は縮小したのである。でも現在でも広大な境内をとどめていて、殊に通天橋から眺める紅葉は京都でも屈指のものであるとされている。
さて、まだ紅葉には中途半端なのだが、それでも観光客が大勢来ている。とくに中国人が多い。最近は何処に行っても中国人が多くて呆れかえるが、ここも例外ではなかった。ただ二週間ほど来るのが早かったかな。今、京都で紅葉が最も進んでいるのは鞍馬や神護寺といった山の中にあるところかなとは思うが、京都市街地周辺ではまだ紅葉が進んでいない。やっぱり11月下旬まで待たないといけないみたいだ。
通天橋からみんな写真を撮っている。これが紅葉最盛期になると人でぎっしり埋まってしまう。
正直なところ見ごろなんてとんでもない。ようやく淡い赤色になりかけたかなっていうところだろう。やはりガセネタだった。
それにしても電車は人でいっぱいだ。JRの奈良行きの普通電車。日本人も多いが、外国人も大勢乗っている。以前に書いたと思うが外国人は伏見稲荷大社に行くのだろう。でも日本人もそうなのかと勘ぐっていたのだが、京都駅から一つ目の東福寺駅で日本人は大半が降りた。そうか紅葉で有名な東福寺にみんな行くのだなと思った。それで境内へ入ったのだが・・・・・・・。まだ紅葉には早すぎたかな、予想通りではあったが。ところでこの東福寺。1236年から19年をかけて大伽藍が出来上がった臨済宗の大寺院であった。奈良の東大寺と興福寺から、それぞれ東と福の文字を頂いて東福寺と名付けられたほどだから、どれほど巨大な寺院だったか想像できるというものだ。それが明治維新の廃仏毀釈によってかなりの部分が取り壊されたから寺院の規模は縮小したのである。でも現在でも広大な境内をとどめていて、殊に通天橋から眺める紅葉は京都でも屈指のものであるとされている。
さて、まだ紅葉には中途半端なのだが、それでも観光客が大勢来ている。とくに中国人が多い。最近は何処に行っても中国人が多くて呆れかえるが、ここも例外ではなかった。ただ二週間ほど来るのが早かったかな。今、京都で紅葉が最も進んでいるのは鞍馬や神護寺といった山の中にあるところかなとは思うが、京都市街地周辺ではまだ紅葉が進んでいない。やっぱり11月下旬まで待たないといけないみたいだ。
通天橋からみんな写真を撮っている。これが紅葉最盛期になると人でぎっしり埋まってしまう。
正直なところ見ごろなんてとんでもない。ようやく淡い赤色になりかけたかなっていうところだろう。やはりガセネタだった。
2014.05.18 (Sun)
長浜城、彦根城に行く
3月の末のことだが長浜城と彦根城に行ったので、その時のことを今頃になって記事にしてみることにする。
何で今頃になってかというと最近は出不精気味、それと筆不精というか、記事もあまり書いていないので突然、3月末に行ったお城のことを思い出し記事にしてみよと思っただけである。
長浜も彦根も滋賀県の北部。所謂、湖北地方で、3月上旬までは積雪があったところだ。3月も末になると雪はないけど肌寒さは残っている。大津あたりの湖南とは雰囲気も随分と違っていて、滋賀県は琵琶湖を中心にして南北に長いということを感じさせる。また京都からだと意外と遠く、滋賀県内の大津からでもかなり行くのに時間を要する。それに野洲までは電車の本数は多いが、それより先はもうローカル線そのものである。目に入るものは田畑ばかりで民家がちらほらとあるのみ。そこは何処にでもある日本の田舎の風景だ。1時間ほど電車に乗って米原に到着。そこから乗り換えて北陸線へ・・・。やっと長浜駅に着いた。人のあまりいない淋しい街だ。平日だったので駅前でも人があまりいない。滋賀県は人口が増え続けているというが、それは京都、大阪への通勤が可能な南部のみ。この北部と言ったら冬は豪雪地域で住みにくいというのもあるだろう。実際に大阪より名古屋へ行く方が近いぐらいで、若者も街を離れていくという。
そもそも長浜は今浜と呼ばれていてところに羽柴秀吉(豊臣秀吉)が1575年に主君の織田信長の長をとって長浜に改名し長浜城を築城。それと共に城下町として発展したところ。今は人口が12万人を超えるが、これは平成の2回による大合併により周辺の浅井町、びわこ町、虎姫町、湖北町、高月町、木乃本町、余呉町、西浅井町を吸収しての人口なので、1970年当時でも長浜の人口は11万人いたことを考えれば、この湖北地方一帯では大幅な人口減が見られる。したがって今の長浜市は滋賀県北部一帯に及び、面積においては大阪市のほぼ3倍。それでいて人口は22分の1という少なさである。実際、長浜駅の周辺だけ民家が密集しているが、あとは田園地帯。
その駅から近い湖岸に長浜城がある。そもそもはこの長浜城こそが秀吉最初の居城で、後の伏見城や大阪城を築城するにおいてその城下町も、この長浜で養ったことがその後に活かされている。ただ残念ながら市街地には幾つか、その頃の面影を残すが、当時のお城そのものは何も残ってなく現在の天守閣は1983年に犬山城、伏見城をモデルにして模擬復元されたものとされ、内部は例によって博物館となっている。また長浜市内には浅井長政が居城にした小谷城もあるが、長浜駅からだと車がないと行けないほど離れている。まあ、何れ訪れようとは思うが・・・・。
長浜から引き返して彦根に戻ってきた。彦根は長浜よりは繁華な街である。人口は11万人ほどであるが、市街地そのものは長浜とは比べられないほど賑やかであるとい言っても、大阪や阪神間の街の賑やかさと比べてもらっても困るが、滋賀県の湖北では賑やかな街の方である。彦根駅を降りて15分ほど歩くと彦根城の入口に到着する。実のところ彦根城に来るのは4回目である。最初は小学校4年の時の遠足で来た。当時、バスに乗って日本で最初の高速道路として開通した名神高速道路で京都南IC~栗東IC(まだ尼崎~栗東間しか開通していなかった)を経て一般道路に降りて長い時間バスに乗っていたような記憶がある。2回目は高校生の時の遠足で来た。この時もバスで行ったが既に東名も全通していた時代で、彦根ICから一般道経由で彦根城へ来た。3回目は大学生の時で仲間と共に電車で来た。すると彦根城に来るのは30何年振りだろうか。
そもそも徳川四天王の一人である井伊直政の嫡男である井伊直継の時代に、幼い直継に代わって家老の木俣安勝が徳川家康と相談して築城したのが彦根城である。開城は1606年で金亀城ともいわれ50mもの丘の上に天主閣が建てられた。それ以来、井伊家14代の居城となった。三層の天守閣は国宝で、大津城から移築したものとされ、その際、四層だったものを三層に縮小。またその他の天秤櫓も長浜城から、西ノ丸三重櫓は小谷城、太鼓門も観音寺城からの移築? ともいわれ、至る所コスト削減して築き上げられ城である。しかし文化財も多く、昭和になって再建された多くのお城とは一線を画している。
考えてみると太平洋戦争までは国内に20の現存天守閣があった。それが昭和20年のアメリカ軍の空襲で水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の天守閣は何れも焼失。松前城は昭和24年の火事で焼失。結局、現存天守閣と言うのは12城。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城であり全て重要文化財である。その中で国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城であることを思うと彦根城天守閣は実に貴重な建築物と言うことになる。
長浜城の天守閣。1983年に再建され館内は博物館になってる。
彦根城の天守閣に行くには、この石段を登らねばならない。
坂を上がると天秤櫓へと続く橋脚が目に入る。
橋を渡ると天秤櫓がある。この櫓は長浜城から移築したもので重要文化財に指定されている。
彦根城天守閣。これも大津城からの移築なのだが、全国で四つしかない国宝の天守閣の一つである。
彦根城から琵琶湖を望む。
何で今頃になってかというと最近は出不精気味、それと筆不精というか、記事もあまり書いていないので突然、3月末に行ったお城のことを思い出し記事にしてみよと思っただけである。
長浜も彦根も滋賀県の北部。所謂、湖北地方で、3月上旬までは積雪があったところだ。3月も末になると雪はないけど肌寒さは残っている。大津あたりの湖南とは雰囲気も随分と違っていて、滋賀県は琵琶湖を中心にして南北に長いということを感じさせる。また京都からだと意外と遠く、滋賀県内の大津からでもかなり行くのに時間を要する。それに野洲までは電車の本数は多いが、それより先はもうローカル線そのものである。目に入るものは田畑ばかりで民家がちらほらとあるのみ。そこは何処にでもある日本の田舎の風景だ。1時間ほど電車に乗って米原に到着。そこから乗り換えて北陸線へ・・・。やっと長浜駅に着いた。人のあまりいない淋しい街だ。平日だったので駅前でも人があまりいない。滋賀県は人口が増え続けているというが、それは京都、大阪への通勤が可能な南部のみ。この北部と言ったら冬は豪雪地域で住みにくいというのもあるだろう。実際に大阪より名古屋へ行く方が近いぐらいで、若者も街を離れていくという。
そもそも長浜は今浜と呼ばれていてところに羽柴秀吉(豊臣秀吉)が1575年に主君の織田信長の長をとって長浜に改名し長浜城を築城。それと共に城下町として発展したところ。今は人口が12万人を超えるが、これは平成の2回による大合併により周辺の浅井町、びわこ町、虎姫町、湖北町、高月町、木乃本町、余呉町、西浅井町を吸収しての人口なので、1970年当時でも長浜の人口は11万人いたことを考えれば、この湖北地方一帯では大幅な人口減が見られる。したがって今の長浜市は滋賀県北部一帯に及び、面積においては大阪市のほぼ3倍。それでいて人口は22分の1という少なさである。実際、長浜駅の周辺だけ民家が密集しているが、あとは田園地帯。
その駅から近い湖岸に長浜城がある。そもそもはこの長浜城こそが秀吉最初の居城で、後の伏見城や大阪城を築城するにおいてその城下町も、この長浜で養ったことがその後に活かされている。ただ残念ながら市街地には幾つか、その頃の面影を残すが、当時のお城そのものは何も残ってなく現在の天守閣は1983年に犬山城、伏見城をモデルにして模擬復元されたものとされ、内部は例によって博物館となっている。また長浜市内には浅井長政が居城にした小谷城もあるが、長浜駅からだと車がないと行けないほど離れている。まあ、何れ訪れようとは思うが・・・・。
長浜から引き返して彦根に戻ってきた。彦根は長浜よりは繁華な街である。人口は11万人ほどであるが、市街地そのものは長浜とは比べられないほど賑やかであるとい言っても、大阪や阪神間の街の賑やかさと比べてもらっても困るが、滋賀県の湖北では賑やかな街の方である。彦根駅を降りて15分ほど歩くと彦根城の入口に到着する。実のところ彦根城に来るのは4回目である。最初は小学校4年の時の遠足で来た。当時、バスに乗って日本で最初の高速道路として開通した名神高速道路で京都南IC~栗東IC(まだ尼崎~栗東間しか開通していなかった)を経て一般道路に降りて長い時間バスに乗っていたような記憶がある。2回目は高校生の時の遠足で来た。この時もバスで行ったが既に東名も全通していた時代で、彦根ICから一般道経由で彦根城へ来た。3回目は大学生の時で仲間と共に電車で来た。すると彦根城に来るのは30何年振りだろうか。
そもそも徳川四天王の一人である井伊直政の嫡男である井伊直継の時代に、幼い直継に代わって家老の木俣安勝が徳川家康と相談して築城したのが彦根城である。開城は1606年で金亀城ともいわれ50mもの丘の上に天主閣が建てられた。それ以来、井伊家14代の居城となった。三層の天守閣は国宝で、大津城から移築したものとされ、その際、四層だったものを三層に縮小。またその他の天秤櫓も長浜城から、西ノ丸三重櫓は小谷城、太鼓門も観音寺城からの移築? ともいわれ、至る所コスト削減して築き上げられ城である。しかし文化財も多く、昭和になって再建された多くのお城とは一線を画している。
考えてみると太平洋戦争までは国内に20の現存天守閣があった。それが昭和20年のアメリカ軍の空襲で水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の天守閣は何れも焼失。松前城は昭和24年の火事で焼失。結局、現存天守閣と言うのは12城。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城であり全て重要文化財である。その中で国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城であることを思うと彦根城天守閣は実に貴重な建築物と言うことになる。
長浜城の天守閣。1983年に再建され館内は博物館になってる。
彦根城の天守閣に行くには、この石段を登らねばならない。
坂を上がると天秤櫓へと続く橋脚が目に入る。
橋を渡ると天秤櫓がある。この櫓は長浜城から移築したもので重要文化財に指定されている。
彦根城天守閣。これも大津城からの移築なのだが、全国で四つしかない国宝の天守閣の一つである。
彦根城から琵琶湖を望む。
2014.04.27 (Sun)
あべのハルカスの展望台に行ってみたが・・・
先日、3月に全面オープンしたばかりのあべのハルカスに行ってきた。あべのハルカスと言うのは、近鉄百貨店を含めた新しい超高層ビルディングの愛称で、地上60階で高さが300mと言う日本1高いビルである。まあ高さが日本1といっても東京スカイツリーの634mに比べると高さは半分もない。そこは鉄塔とビルディングの違いかもしれないが、世界でも名だたる地震多発国の日本では超高層ビルを建てるにも、色々と基準があって外国のようにはいかないということか。もっとも私が子供の頃と言うのは日本では100m以上のビルが一つもなかった事を考えれば時代も進んだということだ。あの当時、ニューヨークの摩天楼の写真を観て驚愕したものだが、今や超高層ビルはアジア諸国の方が多くなってしまった。
石油で潤っているアラブ首長国連邦のドバイにある世界1のブルジュ・ハリーファは何と163階で828mもの高さがある。第2位がサウジアラビアのメッカにあるアイラージュ・アル・ベイト・タワーズのホテルで95階の601m、3位が台北にある台北101で101階、504.2m、4位が上海環球金融中心ビルの101階、492.3m、5位が香港の環境貿易広場ビルの118階、484mと言うからベスト5は今や全てアジアである。それで、かつて摩天楼の代名詞だったニューヨークのビルはベスト10にも入ってないし、8位にようやくシカゴにあるウィリス・タワー(旧シアーズ・タワー)の名前が見られる程度である。つまり今はアジア各地で超高層ビルが建てられていることになる。それで現在建設中を入れると、この順位はすぐに入れ替わり、サウジアラビアのジェッダではキングダム・タワー(167階、1007m)が2019年の完成を目指して建設中である。
それでビル群となると、香港や上海に行ったことのある人なら判ると思うが、よくもあれだけ超高層ビルが林立しているものだと呆れかえるしかない。300m以上のビルがいったい何棟建っているのやら、ただ呆然とするしかない。その点、日本は地震があるので、あれだけ高いビルを矢鱈に建てられない。東京の新宿にあるビル群はせいぜい200m超である。もし300m以上のビル群を建てると、地震の時の揺れが半端ではないだろう。なので日本はアジアの一国とはいっても容易に300m級のビルを建てられないのである。どうしても免震、耐震を考えないといけないので、地震が起こらない国のようにはいかないのだろう。それでやっと300mに達したあべのハルカスは世界で言うと何番目の高さのビルかと言うと現時点で98位だという。まあ、これも間もなく100位から転落しそうではある。それだけ世界では高いビルを競い合うように建てているのである。しかし、この世にそれだけ高いビルが必要なのかと思ったりするのだが・・・・・。砂上の楼閣ではないだろうな。
それであべのハルカスに行ってきたのだが、私は正直なところ高所恐怖症である。だから飛行機も大嫌い。飛行機に乗っている間、何時も心拍数が上がってしまう。気圧の関係で耳もキューとなる。それで窓際の席は遠慮するほどだ。だから出来る限り乗りたくない。それで超高層マンションに住んでいる人の気持ちも理解できない。眺望を買うとか言っているが、やはり高いところには住みたくない。なのに何故、あべのハルカスに登ったのだといわれると、それは京都タワーが見えると聞いたからである。本当かなと確かめてみたかったからだが・・・・・・。よりによって行った日の天気が良くなく、見通しが効かずさっぱり見えなかったということでがっかりした。晴れた日には永遠が見えるではないが、春霞やら靄がかかって六甲山も見えなかったので残念としかいいようがない。それでまた再訪することにしたのである。今度は秋か冬の空気が澄んだ晴れの日に来るとするか。○○と煙は高いところに上がりたがると言うが、何も好き好んで高いところに上がるつもりはないのだが、もう一度だけ登りに来ることを誓い、あべのハルカスから立ち去ったのである。
地上から観るとこんな感じだが、香港の超高層を見慣れた者してはこんなものかとしか思わない。
大阪と言えば通天閣だったが今や見下ろされる。
天王寺公園
四天王寺
難波界隈
東の方角だが住宅ばかり。晴れていると生駒山とかがはっきり見える筈だが・・・・
展望デッキはこのような感じかな。
長居陸上競技場
真下にある大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎。秀才を集めた国立の高校である。卒業生にはiPS細胞でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥、俳優の辰巳琢郎、漫才師の宇治原史規らがいる。
北の方角だが靄で霞んでいる。
京橋方面。左の方に大阪城が薄っすらと小さく見える。
この上がちょうど300mらしい。
京セラ・ドーム(旧大阪ドーム)
弁天町方面だが見通しが悪いな。
南側でキューズモールが真下にある。阿倍野の霊園も見える。
阪堺電車
JR天王寺駅
道頓堀付近。ドン・キホーテの観覧車が見える。
谷町のお寺群。実は大阪府は京都府よりもお寺が多いのである(小さい寺ばかりだが)。これを言うとほとんどの人が驚かれる。
さて、あべのハルカスに登ったが京都タワーどころか生駒山も霞んでいた。晴れた日には明石海峡大橋、淡路島、関西国際空港、神戸市内、そして京都タワーが見えるのは本当らしい。でも来た日が悪かった。薄日は射していたが曇天で空気が乾いていない。中国のPM2.5の影響もあるかもしれない。やはり秋か冬の晴れた時に来るべきだな。しかし、車が米粒のように見え、人が蟻の大きさにしか見えないところに登るものではない。エレベーターで展望台に到着するや、しばらくは足がすくんで思うようにが動かなかった。小生、本当に高いところは苦手だ。出来る限り行きたくないと思った。
石油で潤っているアラブ首長国連邦のドバイにある世界1のブルジュ・ハリーファは何と163階で828mもの高さがある。第2位がサウジアラビアのメッカにあるアイラージュ・アル・ベイト・タワーズのホテルで95階の601m、3位が台北にある台北101で101階、504.2m、4位が上海環球金融中心ビルの101階、492.3m、5位が香港の環境貿易広場ビルの118階、484mと言うからベスト5は今や全てアジアである。それで、かつて摩天楼の代名詞だったニューヨークのビルはベスト10にも入ってないし、8位にようやくシカゴにあるウィリス・タワー(旧シアーズ・タワー)の名前が見られる程度である。つまり今はアジア各地で超高層ビルが建てられていることになる。それで現在建設中を入れると、この順位はすぐに入れ替わり、サウジアラビアのジェッダではキングダム・タワー(167階、1007m)が2019年の完成を目指して建設中である。
それでビル群となると、香港や上海に行ったことのある人なら判ると思うが、よくもあれだけ超高層ビルが林立しているものだと呆れかえるしかない。300m以上のビルがいったい何棟建っているのやら、ただ呆然とするしかない。その点、日本は地震があるので、あれだけ高いビルを矢鱈に建てられない。東京の新宿にあるビル群はせいぜい200m超である。もし300m以上のビル群を建てると、地震の時の揺れが半端ではないだろう。なので日本はアジアの一国とはいっても容易に300m級のビルを建てられないのである。どうしても免震、耐震を考えないといけないので、地震が起こらない国のようにはいかないのだろう。それでやっと300mに達したあべのハルカスは世界で言うと何番目の高さのビルかと言うと現時点で98位だという。まあ、これも間もなく100位から転落しそうではある。それだけ世界では高いビルを競い合うように建てているのである。しかし、この世にそれだけ高いビルが必要なのかと思ったりするのだが・・・・・。砂上の楼閣ではないだろうな。
それであべのハルカスに行ってきたのだが、私は正直なところ高所恐怖症である。だから飛行機も大嫌い。飛行機に乗っている間、何時も心拍数が上がってしまう。気圧の関係で耳もキューとなる。それで窓際の席は遠慮するほどだ。だから出来る限り乗りたくない。それで超高層マンションに住んでいる人の気持ちも理解できない。眺望を買うとか言っているが、やはり高いところには住みたくない。なのに何故、あべのハルカスに登ったのだといわれると、それは京都タワーが見えると聞いたからである。本当かなと確かめてみたかったからだが・・・・・・。よりによって行った日の天気が良くなく、見通しが効かずさっぱり見えなかったということでがっかりした。晴れた日には永遠が見えるではないが、春霞やら靄がかかって六甲山も見えなかったので残念としかいいようがない。それでまた再訪することにしたのである。今度は秋か冬の空気が澄んだ晴れの日に来るとするか。○○と煙は高いところに上がりたがると言うが、何も好き好んで高いところに上がるつもりはないのだが、もう一度だけ登りに来ることを誓い、あべのハルカスから立ち去ったのである。
地上から観るとこんな感じだが、香港の超高層を見慣れた者してはこんなものかとしか思わない。
大阪と言えば通天閣だったが今や見下ろされる。
天王寺公園
四天王寺
難波界隈
東の方角だが住宅ばかり。晴れていると生駒山とかがはっきり見える筈だが・・・・
展望デッキはこのような感じかな。
長居陸上競技場
真下にある大阪教育大学附属高等学校天王寺校舎。秀才を集めた国立の高校である。卒業生にはiPS細胞でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥、俳優の辰巳琢郎、漫才師の宇治原史規らがいる。
北の方角だが靄で霞んでいる。
京橋方面。左の方に大阪城が薄っすらと小さく見える。
この上がちょうど300mらしい。
京セラ・ドーム(旧大阪ドーム)
弁天町方面だが見通しが悪いな。
南側でキューズモールが真下にある。阿倍野の霊園も見える。
阪堺電車
JR天王寺駅
道頓堀付近。ドン・キホーテの観覧車が見える。
谷町のお寺群。実は大阪府は京都府よりもお寺が多いのである(小さい寺ばかりだが)。これを言うとほとんどの人が驚かれる。
さて、あべのハルカスに登ったが京都タワーどころか生駒山も霞んでいた。晴れた日には明石海峡大橋、淡路島、関西国際空港、神戸市内、そして京都タワーが見えるのは本当らしい。でも来た日が悪かった。薄日は射していたが曇天で空気が乾いていない。中国のPM2.5の影響もあるかもしれない。やはり秋か冬の晴れた時に来るべきだな。しかし、車が米粒のように見え、人が蟻の大きさにしか見えないところに登るものではない。エレベーターで展望台に到着するや、しばらくは足がすくんで思うようにが動かなかった。小生、本当に高いところは苦手だ。出来る限り行きたくないと思った。