2017.03.31 (Fri)
高校野球についての独り言
小生、最近は野球に全く関心がない。サッカーにも関心がない。当然オリンピックにも関心がない。人間は齢を重ねると関心のあるものが削られていくのかどうか判らないが、スポーツ自体だんだんと関心がなくなっていった。ただスポーツが嫌いだとか興味がないだとかではなく昔からスポーツに詳しかったし興味があったが、もう人生の折り返しになって他人のやっているスポーツにいちいち一喜一憂してられないだろう。そんなことより自分の身の周辺のことの方が大切になってきているというのが正直なところである。どこが勝っただとか負けただとか、良い勝負をしただとか若いときは熱中したものだが、その熱もすっかり冷め、プロ野球なんてどうでもよくなったし、高校野球もテレビで放映していてもさっぱり見なくなってしまった。ただし予選だけは観に行くんだな。何故ならかつての高校野球の在り方が予選には残っているからだ。高校野球というのは本来、地元の中学生が地元の高校に行ってクラブ活動の一環として練習を積み、その結果、実力を試したいがため予選に参加し勝ち抜き結果として、最終的に甲子園があるというのがあるべき姿だったのだが、今の時代、そんな悠長なことは言ってられない。今や各県には必ずセミプロ化した強豪校が存在し、そのほとんどが有力選手を集め甲子園に出て学校の知名度を上げるというのが当たり前になっている。まあこういう学校は1960年代からあったが、最近は日本全国こういた学校だらけになり、こういった学校しか甲子園に出なくなったし勝てなくなった。それで甲子園大会も関心がどんどんと薄れていったのである。ただ今年の選抜でその究極の姿とも思える高校2校が決勝に残ったので記事にしてみようと考えたのである。
今年の選抜大会の決勝はご存じの通り大阪の強豪2校が戦う大阪決戦となった。結果はともあれ何れこのようなことが近いうちに起こりうるだろうと小生は思っていた。それは大阪という野球盛んな地域の強豪校が2校出ていたことと、最近は強豪校の多い大阪の中でもこの2校が他を圧していた。つまり素質のある選手が集まりやすい環境にあるということ。そして今年の選抜のような決勝戦になってしまった。でも今まで大阪勢2校が決勝に残らなかった方が不思議なくらいだ。過去にはベスト4に大阪の学校が2校残った例は1979年(浪商、PL)、1981年(PL、上宮)、1990年(近大附属、北陽)、1998年(関大一、PL)と4度あったぐらいだ。だが何れかの学校が準決勝で敗れて大阪決戦にならなかっただけだ。だから別に驚かない。そして5回目にしてようやく大阪同士が決勝に残ったということだろう。ただ過去に選抜では愛知県同士(2回)、京都府同士、東京都同士の決勝戦があったのである。ただ最近は野球レベルの高い大阪で大阪勢(兵庫も含めて)の成績が振るわないと言われていた時期がある。1990年代後半から10年間は低迷していたのである。何故なら大阪の素質のある中学生が遠方の県へ数100人も野球留学するため大阪の学校が空洞化して弱くなってしまったと言われたのである。一因として大阪に野球強豪校が多かったがため、とてもじゃないが甲子園に出られないと思ったのか遠方の県へ野球留学する選手が大変な数になったと言われる。
ごく一部の例を出すとダルビッシュ(東北高校)、田中将大(駒大苫小牧)、坂本(光星学院)、内海(敦賀気比)、筒香(横浜高校)、北条(光星学院)等は当然、大阪か兵庫か京都辺りの強豪校に普通なら入学していただろう。それが地元の強豪を選ばず遠方の県へ行き実績を残した。結果として野球弱小県のレベルが上がったとも言える。それはそれでいいが、結局はそれがより野球留学を助長させ、地元の公立勢が皆目甲子園に出られなくなったとしたら、本来の高校野球の在り方が失われてきたと言うことになる。かつては地方の高校から都会の強豪校へ野球がしたいがため留学したというのがあったが、今はそれが全国へ広がってしまった。だから何処の代表かなんてほとんど意味がなくなってしまった。昨今、よく言われる熊本の秀岳館高校の監督が元・松下電器の監督で、その後、全国的な強豪で知られる枚方ボーイズで選手を育成していた。そして枚方ボーイズから選手を大勢連れて行き、秀岳館高校に入学させた。したがって突然、秀岳館が強くなったというのは偶然ではないのだ。こういった例が全国各地にはある現象だ。だから昔のような高校野球とは意見合いは違っている。
ところで野球の強い大阪であるが、けして昔から強かったという訳ではない。大阪が強くなったのは戦後のことであろう。それもボーイズリーグ(リトルリーグとは異なる)を始めてからのことである。戦前も浪華商業の優勝はあるが、近畿でも大阪より兵庫、京都、和歌山の方が圧倒的に野球は強かった。さらに突き詰めて言うならば大正から昭和の始めに強かった県は限られていた。春夏の当時の中等野球で強かったのは愛知、岐阜の東海勢。京都、兵庫、和歌山の近畿。香川、愛媛の北四国。そして広島。この辺りの学校ばかりが優勝していたというのが現実で、関東に至っては慶応普通部が優勝したのが一度あるだけであった。つまり静岡、長野から広島にかけての太平洋側及び瀬戸内海側の学校しか優勝しなかったのである。
それが戦後になり小倉高校が2連覇し九州に初めて優勝旗が渡った。さらに湘南高校が初めて昭和24年・神奈川に優勝をもたらし時代は変わっていった。でも当時は文武両道の学校が強く、飽くまでも教育の一環と言った印象はあったのだろう。それがだんだんとマスメディアが高校野球を採り上げるようになり、私学は生徒を集める手段として甲子園に出ることにより学校の知名度が上がることを必然とした。まあ進学実績を上げるかスポーツで有名にするかが手段として手っ取り早かったのだろう。こうして全国から有力な選手を集める私学が増えて行き、それが各地に広がっていったというのが今の有様である。
さて大阪決戦となった今回の選抜であるが、なんでこんなことになったかというと2強時代になってしまったからであろう。つまり大阪桐蔭か履正社に良い選手が集まりやすくなった。その結果、かつて私学7強(浪商、明星、PL、大鉄、北陽、興国、近大附属、上宮は時代が遅くて入らない)と言われた時代があった大阪であるが、この頃は何処が出て来るか判らなくて今ほど選手が集中せずそこそこ分散していたものだ。それが良い選手が2校に絞られるようになり、この2校に入れなくなった大阪の野球少年達は遠方の強豪校へ分散していったというのが、より大阪の2強化を進めてしまい、以前より2校が強くなってしまったのだが、ただ面白くなくなったとも思える。また大阪の2強化は東京化、神奈川化したともいえる。東京も神奈川も最近は2校以外あまり出なくなってしまった。かつて大阪の良さは強豪が多い群雄割拠だったのに2強に絞られてしまうと全くもってつまらない。今後、しばらくはこの状況続くのかもしれないが、こうなるとますます小生は高校野球から興味が薄れてしまう。それとこれからは何処の県でも選手を他県から集めた強豪私学しか甲子園に出てこれなくなるかも知れない。もう公立高校と私立高校は別で大会を開催しないといけないのではないかとさえ思ってしまう。
さて、最後になるが大阪勢の決勝戦が行われる一方で、かつて高校野球の代名詞的強さを誇ったPL学園の野球部廃部が決まったらしい。もうPLの復活はないかもしれない。選手を全国から集めて強豪にのし上がる先鞭をつけた学校がPLだが、今や全国の強豪が昔のPLよりも露骨な選手集めのようなことをやっている。もう部活の延長で野球をやり甲子園で勝ち抜くことは至難の業になってしまったようだ。仕方がないと言えばそれまでだが、なんだか寂しいね。
今年の選抜大会の決勝はご存じの通り大阪の強豪2校が戦う大阪決戦となった。結果はともあれ何れこのようなことが近いうちに起こりうるだろうと小生は思っていた。それは大阪という野球盛んな地域の強豪校が2校出ていたことと、最近は強豪校の多い大阪の中でもこの2校が他を圧していた。つまり素質のある選手が集まりやすい環境にあるということ。そして今年の選抜のような決勝戦になってしまった。でも今まで大阪勢2校が決勝に残らなかった方が不思議なくらいだ。過去にはベスト4に大阪の学校が2校残った例は1979年(浪商、PL)、1981年(PL、上宮)、1990年(近大附属、北陽)、1998年(関大一、PL)と4度あったぐらいだ。だが何れかの学校が準決勝で敗れて大阪決戦にならなかっただけだ。だから別に驚かない。そして5回目にしてようやく大阪同士が決勝に残ったということだろう。ただ過去に選抜では愛知県同士(2回)、京都府同士、東京都同士の決勝戦があったのである。ただ最近は野球レベルの高い大阪で大阪勢(兵庫も含めて)の成績が振るわないと言われていた時期がある。1990年代後半から10年間は低迷していたのである。何故なら大阪の素質のある中学生が遠方の県へ数100人も野球留学するため大阪の学校が空洞化して弱くなってしまったと言われたのである。一因として大阪に野球強豪校が多かったがため、とてもじゃないが甲子園に出られないと思ったのか遠方の県へ野球留学する選手が大変な数になったと言われる。
ごく一部の例を出すとダルビッシュ(東北高校)、田中将大(駒大苫小牧)、坂本(光星学院)、内海(敦賀気比)、筒香(横浜高校)、北条(光星学院)等は当然、大阪か兵庫か京都辺りの強豪校に普通なら入学していただろう。それが地元の強豪を選ばず遠方の県へ行き実績を残した。結果として野球弱小県のレベルが上がったとも言える。それはそれでいいが、結局はそれがより野球留学を助長させ、地元の公立勢が皆目甲子園に出られなくなったとしたら、本来の高校野球の在り方が失われてきたと言うことになる。かつては地方の高校から都会の強豪校へ野球がしたいがため留学したというのがあったが、今はそれが全国へ広がってしまった。だから何処の代表かなんてほとんど意味がなくなってしまった。昨今、よく言われる熊本の秀岳館高校の監督が元・松下電器の監督で、その後、全国的な強豪で知られる枚方ボーイズで選手を育成していた。そして枚方ボーイズから選手を大勢連れて行き、秀岳館高校に入学させた。したがって突然、秀岳館が強くなったというのは偶然ではないのだ。こういった例が全国各地にはある現象だ。だから昔のような高校野球とは意見合いは違っている。
ところで野球の強い大阪であるが、けして昔から強かったという訳ではない。大阪が強くなったのは戦後のことであろう。それもボーイズリーグ(リトルリーグとは異なる)を始めてからのことである。戦前も浪華商業の優勝はあるが、近畿でも大阪より兵庫、京都、和歌山の方が圧倒的に野球は強かった。さらに突き詰めて言うならば大正から昭和の始めに強かった県は限られていた。春夏の当時の中等野球で強かったのは愛知、岐阜の東海勢。京都、兵庫、和歌山の近畿。香川、愛媛の北四国。そして広島。この辺りの学校ばかりが優勝していたというのが現実で、関東に至っては慶応普通部が優勝したのが一度あるだけであった。つまり静岡、長野から広島にかけての太平洋側及び瀬戸内海側の学校しか優勝しなかったのである。
それが戦後になり小倉高校が2連覇し九州に初めて優勝旗が渡った。さらに湘南高校が初めて昭和24年・神奈川に優勝をもたらし時代は変わっていった。でも当時は文武両道の学校が強く、飽くまでも教育の一環と言った印象はあったのだろう。それがだんだんとマスメディアが高校野球を採り上げるようになり、私学は生徒を集める手段として甲子園に出ることにより学校の知名度が上がることを必然とした。まあ進学実績を上げるかスポーツで有名にするかが手段として手っ取り早かったのだろう。こうして全国から有力な選手を集める私学が増えて行き、それが各地に広がっていったというのが今の有様である。
さて大阪決戦となった今回の選抜であるが、なんでこんなことになったかというと2強時代になってしまったからであろう。つまり大阪桐蔭か履正社に良い選手が集まりやすくなった。その結果、かつて私学7強(浪商、明星、PL、大鉄、北陽、興国、近大附属、上宮は時代が遅くて入らない)と言われた時代があった大阪であるが、この頃は何処が出て来るか判らなくて今ほど選手が集中せずそこそこ分散していたものだ。それが良い選手が2校に絞られるようになり、この2校に入れなくなった大阪の野球少年達は遠方の強豪校へ分散していったというのが、より大阪の2強化を進めてしまい、以前より2校が強くなってしまったのだが、ただ面白くなくなったとも思える。また大阪の2強化は東京化、神奈川化したともいえる。東京も神奈川も最近は2校以外あまり出なくなってしまった。かつて大阪の良さは強豪が多い群雄割拠だったのに2強に絞られてしまうと全くもってつまらない。今後、しばらくはこの状況続くのかもしれないが、こうなるとますます小生は高校野球から興味が薄れてしまう。それとこれからは何処の県でも選手を他県から集めた強豪私学しか甲子園に出てこれなくなるかも知れない。もう公立高校と私立高校は別で大会を開催しないといけないのではないかとさえ思ってしまう。
さて、最後になるが大阪勢の決勝戦が行われる一方で、かつて高校野球の代名詞的強さを誇ったPL学園の野球部廃部が決まったらしい。もうPLの復活はないかもしれない。選手を全国から集めて強豪にのし上がる先鞭をつけた学校がPLだが、今や全国の強豪が昔のPLよりも露骨な選手集めのようなことをやっている。もう部活の延長で野球をやり甲子園で勝ち抜くことは至難の業になってしまったようだ。仕方がないと言えばそれまでだが、なんだか寂しいね。
2017.03.24 (Fri)
籠池爆弾
このところ連日マスメディアをお騒がせしているのが森友学園学園理事長の籠池泰典である。そもそも森友学園という大阪市にある幼稚園を運営している法人で、籠池氏が大阪府豊中市ある国有地を買い新たに小学校を開校させるということから問題が発覚したのだが、この国有地だった土地を鑑定評価額を遙かに下回る価格で手に入れたことから大問題になり、ここから安倍首相、安倍首相夫人の名前まで出て来たので大騒ぎしているというところだろう。
籠池泰典は森友学園理事長であるが、何で森友学園って名前なのかと思ったら創設者の名前らしい。1950年に大阪市淀川区に森本学園が誕生した。これが始まりであるという。その創立者は森友寛といい珠算教育に力を入れていた人だという。この人が1953年に塚本幼稚園を設立して初代園長として君臨するのであった。その後、現在の籠池泰典が園長となるが、何時のことかは知らない。この籠池さんとやら小生と歳がほとんど変わらないので、そんなに古い話ではないだろう。大学を出て奈良県庁に勤め、その後は文房具メーカーに勤務していたので教育関係には一切関わってなかった人である。それがどうして現職に関わるようになったのかは知るところではない。でもこの籠池氏が園長をを勤める塚本幼稚園というのはちょっっと尋常ではない幼稚園で、保護者が子供をよく退園させるのでも有名な幼稚園である。
話を聞くと水を飲まさない。教育勅語を暗記させる。躾が厳しい。愛国行進曲を園児に歌わせる。とにかく時代錯誤なことを園児に強要させている幼稚園であることが言われている。つまり愛国的な精神を学ばせるとう。これは悪いことではないが、行き過ぎは良くない。一方で韓国等へのヘイトスピーチのようなことを園児に暗唱させたりしている。結局、何も訳がわからない園児に言わせている間は良いが、退園して公立の小学校に入ると普通の教育を受けるようになり、森友学園の教えを綺麗さっぱり忘れてしまう。これに対して不満を持っていた籠池さんが、小学校でも同じ愛国教育を続けさせようと、小学校設立を考えたらしい。そして、このほど国有地を異様な安価で手に入れ、校舎を建ててほぼ完成している。だが土地の汚染問題で色々と癖がつき、掘り起こすこととなり、結局、小学校開校の認可が下りなくなり今春の開校は絶望となってしまい、その間に政治家を巻き込んだ大きな騒動となり、森友学園の理事長・籠池泰典の証人喚問へと発展してしまったようだ。
そのドタバタ劇、裏では色々とあるようだ。籠池氏は安部昭恵夫人に国有地の借款契約に関して相談したと言い、さらに安倍首相から昭恵夫人を通して100万円の寄付金を受けたと発言するが、一方で昭恵夫人は寄付などしていないという。真っ向から言うことが対立しているではないか。証人喚問では虚位発言は偽証罪になるのに籠池氏は公然と言い放った。果たしてどうなるのやら、どちらかが嘘を言ってることになる。もし安倍首相側が嘘を言ってるとしたら、これはロッキード事件以来の大事となりそうだ。真実は如何に・・・。
ところで塚本幼稚園って噂を聞くだけで色々と胡散臭い幼稚園だな。まず教育勅語を暗記させるという。教育勅語っていうと明治23年10月30日、明治天皇が我等臣民の従い守るべき道徳の大綱を示すために下されたものである。
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
戦前の教育では日本全国の尋常小学校で暗記させられていた。皇国史観の下で行われていた思想教育であり愛国教育である。よく母親が朝の朝礼で何時も言わされていたとぼやいていたのを思い出す。これに対し生徒達が勝手に ~チンが屁をこいだ 汝 臣民 臭かろうが我慢せよ~ と陰で言っていたと聞いて笑った覚えがある。まあ、あの頃の生徒達も、嫌だと思っていた人もいたのである。何も皇国史観の下で全員が天皇を崇拝していたのでもない。まあ大きな声では言わないが(言ってしまったが)、小生、皇室なんて今の時代いらないと思っている。戦後、GHQが日本の制度を変えだしたときマッカーサーが潰しといてくれればとさえ考えている。つまり戦前の皇国史観から、やがて帝国主義の増長、そして軍国主義になり結局、大東亜戦争にまでなったということで戦後にGHQが日本の教育を改革した。そして一方的にアメリカ的民主主義を押しつけられたということであろう。ただ唯一残したのが天皇制である。まあ当時の社会情勢としてはやむを得ないところもあり迂闊には言えないが、結局、アメリカの制度改革の反動から、今でも戦前の神道教育、愛国教育、保守的教育を行っている学校はある。まあ時代に逆行しているとはいえ、今の時代、世界的に極右政党が擡頭してきているので日本も保守化しているのかも知れない。でもあまり良い状況ではないだろう。
まあ取り敢えず、籠池氏が運営する小学校が認可を受けなくて良かったと思っている。幼稚園で教えたところでは真に内容を理解出来ているわけではないが、小学校でも行うとなると、まさに洗脳教育となりうるから困ったものだ。現実問題として反日教育を受けている韓国や中国の若者が、日本に観光に来て初めて真実の一端を見る有様となっているほどだ。小学校での洗脳教育はある意味恐ろしいと言えよう。
小生、塚本幼稚園で行われた運動会で園児が ~見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲~ と歌っている映像を見てゾッとした。園児はオウム返しのようなものだから何の思想もなく歌っているだけだが、これを見ていた保護者の中で、この幼稚園から子供を退園させたいと正直なところ思った人はは少なくないだろう。さらに学校設立に対し裏では金が暗躍する。もう籠池氏のやっていることは教育者といえるものではないな。さてこれから森友学園問題がどうなるやら。さっぱり展開が読めない。でも誰かが嘘をついているのだ。真実は闇と消えるのか・・・・・・。
籠池泰典は森友学園理事長であるが、何で森友学園って名前なのかと思ったら創設者の名前らしい。1950年に大阪市淀川区に森本学園が誕生した。これが始まりであるという。その創立者は森友寛といい珠算教育に力を入れていた人だという。この人が1953年に塚本幼稚園を設立して初代園長として君臨するのであった。その後、現在の籠池泰典が園長となるが、何時のことかは知らない。この籠池さんとやら小生と歳がほとんど変わらないので、そんなに古い話ではないだろう。大学を出て奈良県庁に勤め、その後は文房具メーカーに勤務していたので教育関係には一切関わってなかった人である。それがどうして現職に関わるようになったのかは知るところではない。でもこの籠池氏が園長をを勤める塚本幼稚園というのはちょっっと尋常ではない幼稚園で、保護者が子供をよく退園させるのでも有名な幼稚園である。
話を聞くと水を飲まさない。教育勅語を暗記させる。躾が厳しい。愛国行進曲を園児に歌わせる。とにかく時代錯誤なことを園児に強要させている幼稚園であることが言われている。つまり愛国的な精神を学ばせるとう。これは悪いことではないが、行き過ぎは良くない。一方で韓国等へのヘイトスピーチのようなことを園児に暗唱させたりしている。結局、何も訳がわからない園児に言わせている間は良いが、退園して公立の小学校に入ると普通の教育を受けるようになり、森友学園の教えを綺麗さっぱり忘れてしまう。これに対して不満を持っていた籠池さんが、小学校でも同じ愛国教育を続けさせようと、小学校設立を考えたらしい。そして、このほど国有地を異様な安価で手に入れ、校舎を建ててほぼ完成している。だが土地の汚染問題で色々と癖がつき、掘り起こすこととなり、結局、小学校開校の認可が下りなくなり今春の開校は絶望となってしまい、その間に政治家を巻き込んだ大きな騒動となり、森友学園の理事長・籠池泰典の証人喚問へと発展してしまったようだ。
そのドタバタ劇、裏では色々とあるようだ。籠池氏は安部昭恵夫人に国有地の借款契約に関して相談したと言い、さらに安倍首相から昭恵夫人を通して100万円の寄付金を受けたと発言するが、一方で昭恵夫人は寄付などしていないという。真っ向から言うことが対立しているではないか。証人喚問では虚位発言は偽証罪になるのに籠池氏は公然と言い放った。果たしてどうなるのやら、どちらかが嘘を言ってることになる。もし安倍首相側が嘘を言ってるとしたら、これはロッキード事件以来の大事となりそうだ。真実は如何に・・・。
ところで塚本幼稚園って噂を聞くだけで色々と胡散臭い幼稚園だな。まず教育勅語を暗記させるという。教育勅語っていうと明治23年10月30日、明治天皇が我等臣民の従い守るべき道徳の大綱を示すために下されたものである。
朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
戦前の教育では日本全国の尋常小学校で暗記させられていた。皇国史観の下で行われていた思想教育であり愛国教育である。よく母親が朝の朝礼で何時も言わされていたとぼやいていたのを思い出す。これに対し生徒達が勝手に ~チンが屁をこいだ 汝 臣民 臭かろうが我慢せよ~ と陰で言っていたと聞いて笑った覚えがある。まあ、あの頃の生徒達も、嫌だと思っていた人もいたのである。何も皇国史観の下で全員が天皇を崇拝していたのでもない。まあ大きな声では言わないが(言ってしまったが)、小生、皇室なんて今の時代いらないと思っている。戦後、GHQが日本の制度を変えだしたときマッカーサーが潰しといてくれればとさえ考えている。つまり戦前の皇国史観から、やがて帝国主義の増長、そして軍国主義になり結局、大東亜戦争にまでなったということで戦後にGHQが日本の教育を改革した。そして一方的にアメリカ的民主主義を押しつけられたということであろう。ただ唯一残したのが天皇制である。まあ当時の社会情勢としてはやむを得ないところもあり迂闊には言えないが、結局、アメリカの制度改革の反動から、今でも戦前の神道教育、愛国教育、保守的教育を行っている学校はある。まあ時代に逆行しているとはいえ、今の時代、世界的に極右政党が擡頭してきているので日本も保守化しているのかも知れない。でもあまり良い状況ではないだろう。
まあ取り敢えず、籠池氏が運営する小学校が認可を受けなくて良かったと思っている。幼稚園で教えたところでは真に内容を理解出来ているわけではないが、小学校でも行うとなると、まさに洗脳教育となりうるから困ったものだ。現実問題として反日教育を受けている韓国や中国の若者が、日本に観光に来て初めて真実の一端を見る有様となっているほどだ。小学校での洗脳教育はある意味恐ろしいと言えよう。
小生、塚本幼稚園で行われた運動会で園児が ~見よ東海の空明けて 旭日高く輝けば 天地の正気溌剌と 希望は踊る大八洲~ と歌っている映像を見てゾッとした。園児はオウム返しのようなものだから何の思想もなく歌っているだけだが、これを見ていた保護者の中で、この幼稚園から子供を退園させたいと正直なところ思った人はは少なくないだろう。さらに学校設立に対し裏では金が暗躍する。もう籠池氏のやっていることは教育者といえるものではないな。さてこれから森友学園問題がどうなるやら。さっぱり展開が読めない。でも誰かが嘘をついているのだ。真実は闇と消えるのか・・・・・・。
2017.03.21 (Tue)
チャック・ベリーが亡くなった
先日、GS界の大御所かまやつひろしが亡くなったことを記事にしたと思うが、今度はロックンロール界の大御所チャック・ベリーが3月18日に亡くなった。90歳だったという。1926年生まれだから日本流で言うと大正15年である。この年は大正天皇が崩御した年でもあり一週間だけ昭和元年だった。アメリカ人なので関係ないけど大正生まれの生き残りと言うことになる。随分と昔の人なんだと驚いている。小生の母親世代だからな。
小生がチャック・ベリーの名を知ったのはビートルズのカバー曲によってである。『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ロックン・ロール・ミュージック』とパンチのある曲で、当初、ビートルズってこんな音楽ばかりかと思っていた時があって、オリジナルがチャック・ベリーと知ってビートルズもかなり影響を受けたのだなと後になって思ったものだ。だから当然、チャック・ベリーの全盛時代を小生は知らない。チャック・ベリーが颯爽と音楽シーンに現れたのは1950年代半ばだろう。この頃にロックンロールという音楽が席巻することとなる。それまでのゆったりとした音楽から、ビートのきいた煩い音楽(少なくとも当時の大人はそう思っただろう)が出現した。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で1955年にタイムスリップした主人公マーティが高校生のダンスパーティでエレキギターを手に持ってチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』を演奏して場内を唖然とさせる場面があったのを思い出すが、当時、ロックンロールは激しい音楽として扱われていたのだろう。
チャック・ベリーは1926年10月にセントルイスで生まれた。家は中流であり音楽には小さいときから接し聖歌隊に加わったり人前で演奏したりしていたものの、不良仲間の影響で悪事にも手を染め18歳から3年ほど感化院に入っている。当時は人種差別が公然としてあった時代でありやむを得ないところもあるだろう。ただ周囲の環境もあり素行の良い少年ではなかったようだ。
27歳の時サー・ジョン・トリオにギタリストとして参加。ここから彼のプロとしての音楽人生がスタートする。間もなくして彼がバンド・リーダーに変わるが、マディ・ウォーターズ(ブルースのシンガーでギタリスト)の口利きでレコードデビュー。『メイビリーン』(1955年)はいきなりの全米5位。この頃、時を同じくしてこういった激しいリズムの音楽を演奏するミュージシャンが大勢現れた。こrをロックンロールというようになるが、その創始者の1人がチャック・ベリーであり、また後生に最も影響を与えたのもチャック・ベリーだろう。最も当時で一番人気があったのはエルビス・プレスリーで日本にロカビリー・ブームが襲来するのはプレスリーの影響が大きい。でもロカビリーというのはどちらかというと白人音楽である。黒人のチャック・ベリーは同じロックンロールでもブルース色が強く白人の音楽であるカントリーの要素も含まれ、チャック・ベリー独自のサウンドを作り上げたのである。これは当時、出現したモダン・ジャズにも言えるが、商業音楽の変遷期であり、あたかも電気ギターが広まると同時にロックンロール文化が花咲いた最初の頃だろう。ビル・ヘイリー、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、カール・パーキンス等、大勢出現した。そんな中でチャック・ベリーの曲の持つ独自さは出色していたのだろう。プレスリーほどの大衆の人気は得れなかったものの後生のロック・ミュージシャンに与えた影響力を考えたら、チャック・ベリーこそがロックンロールの最初の偉大なるミュージシャンと言えるかもしれない。ただその後、アメリカでロックンロールは下火になる。1959年チャック・ベリーは少年時代の素行の悪さが出てしまい売春強要の容疑で3年間の刑務所暮らしを余儀なくされてしまい、彼が出所した頃、すでにロックンロールの時代は過ぎ去っていた。ところがチャック・ベリーの影響を受けた少年達の多くがイギリスでバンドを組み育っていた。ビートルズ、ローリング・ストーンズ等である。ジョン・レノンはチャック・ベリーのカバー曲をビートルズで録音しているし、ローリング・ストーンズのデビュー曲『カム・オン』もチャック・ベリーのカバーだった。こうして逆輸入という形でロックンロール・ブームが再びアメリカを席巻するようになる。ただしこのときはイギリスのバンドが主流になってしまっていた。でもビートルズやローリング・ストーンズの大活躍があって、チャック・ベリーがアメリカで再評価を受けるようになるという珍現象となった。そして現在、『ジョニー・B・グッド』『スウィート・リトル・シックスティーン』『キャロル』『リトル・クイニー』等、色々なミュージシャンのカバーによってチャック・ベリーの曲は現在でも愛され続けていた。日本でも内田裕也や矢沢永吉などは影響を受けているし、チャック・ベリーはまさにロックンロールの黎明期に現れた一等星だろう。
ジョン・レノンがチャックベリーと共演する。小野洋子もいる。
小生がチャック・ベリーの名を知ったのはビートルズのカバー曲によってである。『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ロックン・ロール・ミュージック』とパンチのある曲で、当初、ビートルズってこんな音楽ばかりかと思っていた時があって、オリジナルがチャック・ベリーと知ってビートルズもかなり影響を受けたのだなと後になって思ったものだ。だから当然、チャック・ベリーの全盛時代を小生は知らない。チャック・ベリーが颯爽と音楽シーンに現れたのは1950年代半ばだろう。この頃にロックンロールという音楽が席巻することとなる。それまでのゆったりとした音楽から、ビートのきいた煩い音楽(少なくとも当時の大人はそう思っただろう)が出現した。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で1955年にタイムスリップした主人公マーティが高校生のダンスパーティでエレキギターを手に持ってチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』を演奏して場内を唖然とさせる場面があったのを思い出すが、当時、ロックンロールは激しい音楽として扱われていたのだろう。
チャック・ベリーは1926年10月にセントルイスで生まれた。家は中流であり音楽には小さいときから接し聖歌隊に加わったり人前で演奏したりしていたものの、不良仲間の影響で悪事にも手を染め18歳から3年ほど感化院に入っている。当時は人種差別が公然としてあった時代でありやむを得ないところもあるだろう。ただ周囲の環境もあり素行の良い少年ではなかったようだ。
27歳の時サー・ジョン・トリオにギタリストとして参加。ここから彼のプロとしての音楽人生がスタートする。間もなくして彼がバンド・リーダーに変わるが、マディ・ウォーターズ(ブルースのシンガーでギタリスト)の口利きでレコードデビュー。『メイビリーン』(1955年)はいきなりの全米5位。この頃、時を同じくしてこういった激しいリズムの音楽を演奏するミュージシャンが大勢現れた。こrをロックンロールというようになるが、その創始者の1人がチャック・ベリーであり、また後生に最も影響を与えたのもチャック・ベリーだろう。最も当時で一番人気があったのはエルビス・プレスリーで日本にロカビリー・ブームが襲来するのはプレスリーの影響が大きい。でもロカビリーというのはどちらかというと白人音楽である。黒人のチャック・ベリーは同じロックンロールでもブルース色が強く白人の音楽であるカントリーの要素も含まれ、チャック・ベリー独自のサウンドを作り上げたのである。これは当時、出現したモダン・ジャズにも言えるが、商業音楽の変遷期であり、あたかも電気ギターが広まると同時にロックンロール文化が花咲いた最初の頃だろう。ビル・ヘイリー、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、カール・パーキンス等、大勢出現した。そんな中でチャック・ベリーの曲の持つ独自さは出色していたのだろう。プレスリーほどの大衆の人気は得れなかったものの後生のロック・ミュージシャンに与えた影響力を考えたら、チャック・ベリーこそがロックンロールの最初の偉大なるミュージシャンと言えるかもしれない。ただその後、アメリカでロックンロールは下火になる。1959年チャック・ベリーは少年時代の素行の悪さが出てしまい売春強要の容疑で3年間の刑務所暮らしを余儀なくされてしまい、彼が出所した頃、すでにロックンロールの時代は過ぎ去っていた。ところがチャック・ベリーの影響を受けた少年達の多くがイギリスでバンドを組み育っていた。ビートルズ、ローリング・ストーンズ等である。ジョン・レノンはチャック・ベリーのカバー曲をビートルズで録音しているし、ローリング・ストーンズのデビュー曲『カム・オン』もチャック・ベリーのカバーだった。こうして逆輸入という形でロックンロール・ブームが再びアメリカを席巻するようになる。ただしこのときはイギリスのバンドが主流になってしまっていた。でもビートルズやローリング・ストーンズの大活躍があって、チャック・ベリーがアメリカで再評価を受けるようになるという珍現象となった。そして現在、『ジョニー・B・グッド』『スウィート・リトル・シックスティーン』『キャロル』『リトル・クイニー』等、色々なミュージシャンのカバーによってチャック・ベリーの曲は現在でも愛され続けていた。日本でも内田裕也や矢沢永吉などは影響を受けているし、チャック・ベリーはまさにロックンロールの黎明期に現れた一等星だろう。
ジョン・レノンがチャックベリーと共演する。小野洋子もいる。
2017.03.14 (Tue)
またまた久しぶりで
また更新の間が開いてしまったな。といってもなかなか時間が取れないというのが一因だろうけど、ブログ更新への熱も冷めているからしょうがない。書くことは山ほどあっても書くのも簡単にいかない。年金生活者で一日中自由な時間があれば良いが、働いている身としてはなかなか時間が空かない。もっとも年金だけで生活できる人ってのは少数で、ほとんどの高齢者はごく少額の年期を貰ってあとはパートタイマーで働いているというの実情だ。これから少子高齢化が進み、若者が減っていく中で高齢者が増えていくと大変なことになると言われている。当然、働きたくなくとも働き続けなくてはならない。国は70歳以上でも働いて貰うような方向に持って行くようだが、健康であれば働けるだろうが実際は杖をついていたり車いす生活の70歳も多い。昔は70歳なんて平均寿命だった。当然、ご隠居さんお年齢だった。それが現役で働いてくれと言うのはいかがなもんか。多くは生活のためやりたくもない労働を強いられていているに過ぎない。頭から定年のない自営業や職人なら関係ないだろうが、多くの勤め人は給料を貰っていて、ある年齢になると何れ辞めなくれはならない。そのときにそれ相応の老後の蓄えがあれば良いが、そんな人は一部だろう。小企業、零細企業で長年勤めても蓄えなどなく老後の生活に四苦八苦。待ってるのは下流老人。いやな話だが、こういった人が実際には多い。だから70歳過ぎても働き続けなくてはならない。ああ現実は厳しい。これが経済大国と言われた日本の今日の姿なのだ。昔、日本の政治家で人口を減らそうと言っていた人がいた。その頃は急速に少子高齢化が進むことなど考えなかったのだろう。今は日本の人口は減少に向かいだしたが高齢者ばかりが増え、労働に必要な人口は確実に減っている。こんな事態に誰がした。
まあぼやいてもしょうがないが、小生もやりたくもない労働を何時までも続けなくてはならないのかと思うと憂鬱になってくる。身体が何時までも動けば良いけどな、働くのを辞めた頃は動けない身体になっていたというのでは話にならない。それだけは避けたいものだが・・・・・。
まあぼやいてもしょうがないが、小生もやりたくもない労働を何時までも続けなくてはならないのかと思うと憂鬱になってくる。身体が何時までも動けば良いけどな、働くのを辞めた頃は動けない身体になっていたというのでは話にならない。それだけは避けたいものだが・・・・・。
2017.03.05 (Sun)
かまやつひろしが亡くなった
3月1日にムッシュこと・かまやつひろしが亡くなった。死因は膵臓がんだったという。それも何と78歳だったというから驚いた。かまやつひろしというと長い髪でひょうひょうとしてドラマに出ていたこともあり面白そうな人というイメージがあった。最初にかまやつひろしを知ったのは当然ザ・スパイダース時代である。昭和41年(1966年)にスパイダースの『夕陽が泣いている』のヒットによってである。これ以来テレビによく出るようになった。もちろんかまやつひろしは後ろでサイドギターを弾いていたのでそんなに目立つわけではない。目立っていたのはヴォーカルの堺正章と横でタンバリンを叩いていた井上順である。なにしろ7人組というから人数が多いなあと思った。こういった後にグループサウンズと呼ばれるようになるエレキギターのヴォーカルグループが出てきたのはこの辺りからだった。時を同じくしてブルー・コメッツの『青い瞳』『青い渚』もヒットしていたからグループ・サウンズの黎明期はこの頃になるのだろうか。またアマチュアの番組『勝ち抜きエレキ合戦』で優勝したザ・サベージも同じ頃出てきた。俳優・宇野重吉の息子(寺尾聰)がいるというので話題になった。そもそも日本でエレキバンドが流行出すのはザ・ヴェンチャーズが来日した後である。1965年だろうか。まだ歌謡曲と言い方が主流の時代でジャンル分けなんてなかった。それがアメリカからインストゥルメンタルのエレキバンド、ザ・ヴェンチャーズが来日して日本公演を行う。これに触発された若者の多くがエレキギターを手に取り演奏するようになった。このときに『勝ち抜きエレキ合戦』なんて番組がテレビで放映された。もう当時にビートルズやローリングストーンズ、アニマルズ、ビーチ・ボーイズの音楽も日本に入ってきていたが、ごくマニアの一部しか聴いていなかった時代である。多くの若者は日本のテレビで聴ける歌謡曲を主流に聴いていた。そして『勝ち抜きエレキ合戦』に出てくるバンドはイストゥルメンタルが主体でヴォーカル付きのバンドはほとんどなかった。日本のエレキブームはビートルズではなく飽くまでヴェンチャーズだったのである。そんな頃、すでにザ・スパイダースはヴォーカルをフィーチャーしたエレキバンドを組織してレコードを出していた。『フリフリ』がそうだがヒットにまで至らず知る人も少なかった。多くの日本人の若者は和製ポップスといわれるような歌謡曲の中でも洋楽風のサウンドを聴く人が増えてきた時代である。まだこの頃は演歌だとかいった形容もなく、商業音楽は全て歌謡曲。それ以外は洋楽と言われていた時代である。
さて1966年、日本の音楽シーンが大きく変わるようになる。ビートルズの来日である。それ以前からエレキブームは起こっていたが、ヴォーカル付きのエレキバンドが一躍若者に浸透していく。猫も杓子もエレキギターを弾きだし下手な歌を歌い始めた。また同時にフォークソング・ブームもやってくる。この頃が日本の商業音楽の一大転換期と言えるだろう。若者達が自ら作詞作曲をして歌い出すようになった。
ザ・スパイダースの話に戻ろう。ザ・スパイダースは田辺昭知が1961年に結成したバンドが元になっている。当時はブルー・コメッツにも言えるがバックバンドをやっていて目立つことはなかった。ところが1964年にリバプール・サウンドの洗礼を受け、スパイダースもそのサウンドを取り入れることになる。この頃に堺正章、大野克夫、かまやつひろし、井上順が加わり後のスパイダースの形となる。またこの頃だが後のワイルド・ワンズのリーダーだった加瀬邦彦もメンバーに名を連ねている。そして1965年にアルバムやシングル『フリ・フリ』を出すも大ヒットせず、結局、彼等が有名になるのは歌謡曲の大御所作曲家・浜口庫之助の『夕陽が泣いている』によってである。しかし、その次にはかまやつひろしの作曲による『なんとなくなんとなく』がヒットして、やっとスパイダースらしい音楽が出来るようになり人気も上がっていった。当時、このグループ・サウンズの御三家というのはスパイダース、ブルー・コメッツ、サベージであった。それがである1967年に入りタイガースがデビュー、さらにワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、カーナ・ビーツ、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、オックス等、雨後の竹の子のようにバンドが現れ、瞬く間にスパイダースやブルー・コメッツ、サベージは目立たなくなってしまう。これをグループ・サウンズというようになり、エレキ=不良と言うレッテルを貼られるようになった。彼等の多くは長髪でまたオックスの赤松愛のように演奏中失神するといったこともあった。これで大人達の間ではGSへの風当たりがだんだんと強くなっていった。ブルコメ以外のバンドは紅白歌合戦に呼ばれなかった。まさに大人と若者との間に亀裂が生じだした最初の時代だろ。子供から一気に大人になるのではなく、その過程で若者の文化が芽生えていた。それまでの歌謡曲を言うのは世代間関係なく聴いていたが、この頃から若者が聴く音楽と大人が聴く音楽に分れていき、またそれぞれのジャンルが出来ていった。しかし、グループ・サウンズというのはまさにバブルであった。正直の話ブームは2年ほどしかなく、1969年にはGSブームは去っていて、代わりにフォークソングを歌う若者の方が主流であった。
ところでかまやつひろしであるが、彼は父がディーブ釜萢という有名なジャズシンガーであり、その息子と言うことで外国の音楽に子供の頃から傾倒していた。スパイダース時代も彼の作曲による『バン・バン・バン』『ノー・ノー・ボーイ』『あの時君は若かった』『いつまでもどこまでも』の曲がヒットしている。スパイダースはGS人気が消滅した1970年に解散。かまやつひろしはソロ活動を行うが、合間にテレビ出演。ドラマ『時間ですよ』の風呂焚きの釜田さん役は良い味を出していた。音楽活動も盛んで『シンシア』『我が良き友よ』ヒット曲もあり、その後も色んなところで目にしたのだが突然の訃報で驚いた。昨年の秋に肝臓癌が見つかってから体調が急激に悪くなったのだろう。
音楽的な素養については父・ディーブ釜萢からの影響もあるだろうが、母方の影響もある。従兄弟はフォーク・シンガーの森山良子だし、従甥は森山直太朗。また叔母はジャズ・シンガーの浅田陽子。従姪は元歌手の森山奈歩という音楽ファミリーである。こういった環境下からかまやつひろしは出てきたのである。羨ましくもあるが出るべくして出てきたような人なんだと思った。それにしてもかまやつひろしって78歳で死去ってことは、スパイダースで堺正章や井上順と歌の合間のコントをやっていた頃は30に近かったんだ。随分と気の若い人だったんだってことに正直驚いている。
『あの時君は若かった』この曲を聴くと、若かった頃に心から戻りたくなる。小生も年とって最近は少年時代を懐かしむようになった。
さて1966年、日本の音楽シーンが大きく変わるようになる。ビートルズの来日である。それ以前からエレキブームは起こっていたが、ヴォーカル付きのエレキバンドが一躍若者に浸透していく。猫も杓子もエレキギターを弾きだし下手な歌を歌い始めた。また同時にフォークソング・ブームもやってくる。この頃が日本の商業音楽の一大転換期と言えるだろう。若者達が自ら作詞作曲をして歌い出すようになった。
ザ・スパイダースの話に戻ろう。ザ・スパイダースは田辺昭知が1961年に結成したバンドが元になっている。当時はブルー・コメッツにも言えるがバックバンドをやっていて目立つことはなかった。ところが1964年にリバプール・サウンドの洗礼を受け、スパイダースもそのサウンドを取り入れることになる。この頃に堺正章、大野克夫、かまやつひろし、井上順が加わり後のスパイダースの形となる。またこの頃だが後のワイルド・ワンズのリーダーだった加瀬邦彦もメンバーに名を連ねている。そして1965年にアルバムやシングル『フリ・フリ』を出すも大ヒットせず、結局、彼等が有名になるのは歌謡曲の大御所作曲家・浜口庫之助の『夕陽が泣いている』によってである。しかし、その次にはかまやつひろしの作曲による『なんとなくなんとなく』がヒットして、やっとスパイダースらしい音楽が出来るようになり人気も上がっていった。当時、このグループ・サウンズの御三家というのはスパイダース、ブルー・コメッツ、サベージであった。それがである1967年に入りタイガースがデビュー、さらにワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、カーナ・ビーツ、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、オックス等、雨後の竹の子のようにバンドが現れ、瞬く間にスパイダースやブルー・コメッツ、サベージは目立たなくなってしまう。これをグループ・サウンズというようになり、エレキ=不良と言うレッテルを貼られるようになった。彼等の多くは長髪でまたオックスの赤松愛のように演奏中失神するといったこともあった。これで大人達の間ではGSへの風当たりがだんだんと強くなっていった。ブルコメ以外のバンドは紅白歌合戦に呼ばれなかった。まさに大人と若者との間に亀裂が生じだした最初の時代だろ。子供から一気に大人になるのではなく、その過程で若者の文化が芽生えていた。それまでの歌謡曲を言うのは世代間関係なく聴いていたが、この頃から若者が聴く音楽と大人が聴く音楽に分れていき、またそれぞれのジャンルが出来ていった。しかし、グループ・サウンズというのはまさにバブルであった。正直の話ブームは2年ほどしかなく、1969年にはGSブームは去っていて、代わりにフォークソングを歌う若者の方が主流であった。
ところでかまやつひろしであるが、彼は父がディーブ釜萢という有名なジャズシンガーであり、その息子と言うことで外国の音楽に子供の頃から傾倒していた。スパイダース時代も彼の作曲による『バン・バン・バン』『ノー・ノー・ボーイ』『あの時君は若かった』『いつまでもどこまでも』の曲がヒットしている。スパイダースはGS人気が消滅した1970年に解散。かまやつひろしはソロ活動を行うが、合間にテレビ出演。ドラマ『時間ですよ』の風呂焚きの釜田さん役は良い味を出していた。音楽活動も盛んで『シンシア』『我が良き友よ』ヒット曲もあり、その後も色んなところで目にしたのだが突然の訃報で驚いた。昨年の秋に肝臓癌が見つかってから体調が急激に悪くなったのだろう。
音楽的な素養については父・ディーブ釜萢からの影響もあるだろうが、母方の影響もある。従兄弟はフォーク・シンガーの森山良子だし、従甥は森山直太朗。また叔母はジャズ・シンガーの浅田陽子。従姪は元歌手の森山奈歩という音楽ファミリーである。こういった環境下からかまやつひろしは出てきたのである。羨ましくもあるが出るべくして出てきたような人なんだと思った。それにしてもかまやつひろしって78歳で死去ってことは、スパイダースで堺正章や井上順と歌の合間のコントをやっていた頃は30に近かったんだ。随分と気の若い人だったんだってことに正直驚いている。
『あの時君は若かった』この曲を聴くと、若かった頃に心から戻りたくなる。小生も年とって最近は少年時代を懐かしむようになった。
2017.03.03 (Fri)
映画『俺たちに明日はない』を観る
『俺たちに明日はない』1967年制作、アメリカ映画
監督 アーサー・ペン
出演 ウォーレン・ベイティ
フェイ・ダナウェイ
ジーン・ハックマン
マイケル・J・ポラード
エステル・パーソンズ
デンヴァー・バイル
【あらすじ】時は1930年代、不況の中のアメリカはテキサス。刑務所から出てきたばかりのクライド・バロウはある家から車を盗もうとして彷徨いていた。それを見ていたウェイトレスのボニー・パーカー。パーカーは家の車が盗まれそうになるので声をあげて男に近づく。ところがお互いが気に入ったのか馬が合ったのか2人は行動を共にするようになる。クライドはボニーの前で食料品店に入り強盗をする。それを見ていたボニーは彼の大胆さに興味を持ち、やがて2人で銀行強盗に入り成功する。こうして2人で犯罪を繰り返すようになり、ガソリンスタンドの店員モスがそこに加わり、3人で強盗を重ねていく。やがて指名手配までになるが、彼等はゲームを楽しむかのように犯罪を次から次へと成功させる。そして新聞に報道され彼等の名は知れるところとなる。ところが警察も黙っていない。でもその捜査網の中を抜けるように犯罪を重ねていき、やがて終幕を迎えることとなる。ボニーとクライドは隠れ家に帰ってくる途中で草むらに隠れた大勢の警察官から一斉射撃を浴びる。
我が青春の映画と言ってもいいかな。アメリカのニューシネマはこの映画から始まっている。謂わばアンチヒーローものである。何故、この映画のことを記事にしたかというと、先日のアカデミー賞授賞式の会場で作品賞を発表するときのプレゼンテイターがウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイだったからである。このときフェイ・ダナウェイが「ラ・ラ・ランド」と言って歓声が上がったが、あとで関係者が違うといってとんだハプニングになった今年のアカデミー賞授賞式だったが、今から約50年前にボニーとクライドを演じた2人がプレゼテイターをしていたことに驚いたのである。当初、この2人誰だか判らなかった。無理もない歳をとりすぎている。あのときのボニーとクライドの面影が何処にもない。
この映画が上映されたとき小生は中学生だった。何処の映画館で観たのか覚えてない。でもラストシーンがあまりにも衝撃的だったのでこの映画は何時まで経っても忘れない。物語としては実話である。ボニー・パーカーは1910年生まれ。クライド・バロウは1909年生まれ。ボニーもクライドテキサス州の生まれでボニーは16歳で高校の同級生と結婚するも夫が銀行強盗の容疑で刑務所に入れられる。そしてウェイトレスとして働いていた。クライドは子供の頃から素行が悪く、動物虐待をやっているところをよく目撃されていて、17歳でギャング団に入り、自動車泥棒を繰り返していた。そんなある日にクライドはボニーの母親の車を盗もうとしてボニーに見つかる。こうして出会った2人であるが、やがて犯罪に手を染めていくようになる。銀行強盗に入って警察をあざ笑うかのように逃走する。しかし多くの殺人、強盗を繰り返しているのに当時のアメリカの世相は暗く、世界大恐慌の直後。禁酒法時代の最中、世の中の人は憂さ晴らしをするネタにしたかったのかボニーとクライドを何故か英雄視した。実際彼等は貧乏な人から金は奪わなかったのだ。新聞報道も彼等の犯罪を度々載せていて、その度に民衆はボニークとライドの犯罪をこっそり応援するようになったという。でも警察の方はメンツも何もあったものはない。どうにかしてボニーとクライドを逮捕しようと躍起になっていた。やがて居場所が知れて、待ち受けていたテキサス・レンジャー4名。ルイジアナ州の警察官2名による機関銃の一斉射撃を浴び死亡。車には弾痕の痕が。2人は蜂の巣になる。通説にはボニーとクライドは80発の弾丸を浴びたという。ラストシーンが衝撃的だったが、この映画の影響は大きくアメリカン・ニューシネマの始まりだと言われた。所謂、栄華に満ちあふれたアメリカだけじゃなく、こういった闇の部分が溢れていると言うこと。世の中の恥部であったが、彼等は富裕層をぶち壊すかの如く銀行強盗を繰り返す。実際にはアンチ・ヒーローなのだが、何故か2人の若い男女は何時しかヒーローとして大衆層から扱いを受ける。ボニーとクライドは銀行強盗をまるでスポーツを楽しむかのように行い逃走する。1930年代とは世相も暗く、何故かこういったチンピラ2人が持てはやされたのだろうか。大衆は持って行きようのないやるせなさをボニーとクライドに託していたのかもしれない。世の中を潰してくれとばかりに・・・・・。
ところでこの実話が映画化されたのが1967年。まさにアメリカが参加したベトナム戦争が泥沼化した時代。世情は政府を許さないとばかり各地で反戦運動が頻繁に起こっていた。そんなときにボニーとクライドの実話の映画化。この映画はヒットした。社会現象にまでなった。その後のアンチヒーロー物の礎ともなった記念碑的作品である。
時は1934年5月23日、ルイジアナ州北西部にあるビヤンヴィル郡の街アーケディアから離れた道路を走っていた1934年型フォードV8は雨霰の弾丸を受け。死亡。儚くも美しく散ったボニーとクライド。アンチヒーローが何故か美しかったという終幕。また演じていたフェイ・ダナウェイとウォーレン・ベイティはとても恰好良かった。
フォギー・マウンテン・ブレイクダウンのメロディに乗って逃げまくる
実際のボニーとクライド
監督 アーサー・ペン
出演 ウォーレン・ベイティ
フェイ・ダナウェイ
ジーン・ハックマン
マイケル・J・ポラード
エステル・パーソンズ
デンヴァー・バイル
【あらすじ】時は1930年代、不況の中のアメリカはテキサス。刑務所から出てきたばかりのクライド・バロウはある家から車を盗もうとして彷徨いていた。それを見ていたウェイトレスのボニー・パーカー。パーカーは家の車が盗まれそうになるので声をあげて男に近づく。ところがお互いが気に入ったのか馬が合ったのか2人は行動を共にするようになる。クライドはボニーの前で食料品店に入り強盗をする。それを見ていたボニーは彼の大胆さに興味を持ち、やがて2人で銀行強盗に入り成功する。こうして2人で犯罪を繰り返すようになり、ガソリンスタンドの店員モスがそこに加わり、3人で強盗を重ねていく。やがて指名手配までになるが、彼等はゲームを楽しむかのように犯罪を次から次へと成功させる。そして新聞に報道され彼等の名は知れるところとなる。ところが警察も黙っていない。でもその捜査網の中を抜けるように犯罪を重ねていき、やがて終幕を迎えることとなる。ボニーとクライドは隠れ家に帰ってくる途中で草むらに隠れた大勢の警察官から一斉射撃を浴びる。
我が青春の映画と言ってもいいかな。アメリカのニューシネマはこの映画から始まっている。謂わばアンチヒーローものである。何故、この映画のことを記事にしたかというと、先日のアカデミー賞授賞式の会場で作品賞を発表するときのプレゼンテイターがウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウェイだったからである。このときフェイ・ダナウェイが「ラ・ラ・ランド」と言って歓声が上がったが、あとで関係者が違うといってとんだハプニングになった今年のアカデミー賞授賞式だったが、今から約50年前にボニーとクライドを演じた2人がプレゼテイターをしていたことに驚いたのである。当初、この2人誰だか判らなかった。無理もない歳をとりすぎている。あのときのボニーとクライドの面影が何処にもない。
この映画が上映されたとき小生は中学生だった。何処の映画館で観たのか覚えてない。でもラストシーンがあまりにも衝撃的だったのでこの映画は何時まで経っても忘れない。物語としては実話である。ボニー・パーカーは1910年生まれ。クライド・バロウは1909年生まれ。ボニーもクライドテキサス州の生まれでボニーは16歳で高校の同級生と結婚するも夫が銀行強盗の容疑で刑務所に入れられる。そしてウェイトレスとして働いていた。クライドは子供の頃から素行が悪く、動物虐待をやっているところをよく目撃されていて、17歳でギャング団に入り、自動車泥棒を繰り返していた。そんなある日にクライドはボニーの母親の車を盗もうとしてボニーに見つかる。こうして出会った2人であるが、やがて犯罪に手を染めていくようになる。銀行強盗に入って警察をあざ笑うかのように逃走する。しかし多くの殺人、強盗を繰り返しているのに当時のアメリカの世相は暗く、世界大恐慌の直後。禁酒法時代の最中、世の中の人は憂さ晴らしをするネタにしたかったのかボニーとクライドを何故か英雄視した。実際彼等は貧乏な人から金は奪わなかったのだ。新聞報道も彼等の犯罪を度々載せていて、その度に民衆はボニークとライドの犯罪をこっそり応援するようになったという。でも警察の方はメンツも何もあったものはない。どうにかしてボニーとクライドを逮捕しようと躍起になっていた。やがて居場所が知れて、待ち受けていたテキサス・レンジャー4名。ルイジアナ州の警察官2名による機関銃の一斉射撃を浴び死亡。車には弾痕の痕が。2人は蜂の巣になる。通説にはボニーとクライドは80発の弾丸を浴びたという。ラストシーンが衝撃的だったが、この映画の影響は大きくアメリカン・ニューシネマの始まりだと言われた。所謂、栄華に満ちあふれたアメリカだけじゃなく、こういった闇の部分が溢れていると言うこと。世の中の恥部であったが、彼等は富裕層をぶち壊すかの如く銀行強盗を繰り返す。実際にはアンチ・ヒーローなのだが、何故か2人の若い男女は何時しかヒーローとして大衆層から扱いを受ける。ボニーとクライドは銀行強盗をまるでスポーツを楽しむかのように行い逃走する。1930年代とは世相も暗く、何故かこういったチンピラ2人が持てはやされたのだろうか。大衆は持って行きようのないやるせなさをボニーとクライドに託していたのかもしれない。世の中を潰してくれとばかりに・・・・・。
ところでこの実話が映画化されたのが1967年。まさにアメリカが参加したベトナム戦争が泥沼化した時代。世情は政府を許さないとばかり各地で反戦運動が頻繁に起こっていた。そんなときにボニーとクライドの実話の映画化。この映画はヒットした。社会現象にまでなった。その後のアンチヒーロー物の礎ともなった記念碑的作品である。
時は1934年5月23日、ルイジアナ州北西部にあるビヤンヴィル郡の街アーケディアから離れた道路を走っていた1934年型フォードV8は雨霰の弾丸を受け。死亡。儚くも美しく散ったボニーとクライド。アンチヒーローが何故か美しかったという終幕。また演じていたフェイ・ダナウェイとウォーレン・ベイティはとても恰好良かった。
フォギー・マウンテン・ブレイクダウンのメロディに乗って逃げまくる
実際のボニーとクライド
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