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2013.12.31 (Tue)

2013年も暮れようとしている・・・

 師走に入ってから寒い日が続いていたが、大晦日の今日は晴れて穏やかな一日であった。そんな大晦日だが、大阪の梅田の某所で高校時代の旧友とそれこそ20年振りぐらいに会い、河豚鍋をつつきながら飲んでいた。夏に脳幹梗塞で入院していたので、深酒はするなと言われているのだが、ビールぐらい飲むのはいいだろうと思い、再会して募る話に花が咲いていたのである。この前の29日の日曜日も職場の仲間と新世界の串カツ屋で生ビールを中ジョッキで4杯ほど飲んでいたから、このところよく飲んでいるかな。
 それはそうと一昨日に突然、高校時代の旧友であるSから電話がかってきて驚いた。最近は年賀状で現況を知るぐらいで電話でも喋ったことはなかった。しかし年賀状に書いてある電話番号を携帯電話に登録していたので、呼び出しコールと共に表示される名前を見て驚いた。それで久しぶりに電話で喋り久しぶりに再会することにした。以前に会った時も実のところ、高校卒業以来だったので、高校を卒業してから何と40年ほどで会うのは2回目というから一体どういう仲なんだと思われるだろう。実は彼は一浪して国立の理数系の大学に進み、メーカーに就職して技術畑一筋で海外と日本を行ったり来たりしていたから、ほとんど実際に再会することもなかった。彼が何処で働いているのか、日本に居るのかさえ判らなかった。ただ年賀状が来るので住所は兵庫県の阪神間だということだけは判っていた。そこへ居を構えて10数年にはなるようだが、それ以外のことは何も判らない。それが突然の電話で会おうということになったまでである。昼間に待ち合わせをして再会して。背丈はあまり高くなく当時からがっちりしていたが、白髪が混ざって眼鏡をかけているので小生よりもかなり老けている。久しぶりに会ったが20年前から老けていたので、それほど変わったという印象はない。しかし小生は実年齢よりも若く見えるという。体型も若い時よりは体重は増えたが、外見はあまり変わらず「相変わらず若いな」と言われた。
 それで約20年振りに飲み交わしたのだが、その間、東南アジアに長い間、単身赴任していたので連絡も出来なかったという。そして、東南アジアの後は韓国に何年かの間、行ったり来たりしていて、もうすっかりあの国が嫌になったという。それで定年を前にして会社を辞めたらしい。彼はこれで韓国人と接しなくていいからホッとすると言い、韓国という国に愛想が尽いてしまったのか、罵詈雑言の嵐で散々こきおろしていた。このことは何れ、当ブログで書かなくてはならないかな・・・・・。
 長い間、会ってなくて約20年振りの再会で、飲みに行ったものの、延々と旧友が一方的に語るだけで、小生はただ聞き役に徹するしかなく何とも形容しようがない再会となってしまった。それで彼は、暫くは失業保険で暮らし、出来る仕事があれば何でもいいからやってみたいという。最後にまた近々、食事でもしようということになり別れたのだが、会わない方がよかったかなと思いつつ、行く年の夜風に吹かれながら帰宅したのである。彼と別れてから帰路につくが、大晦日の繁華街には既に人が溢れてきたようで、もう新年まであと数時間・・・・・。
 しかし、あまり愚痴るのはやめよう。気分良く新年を迎えたいものだ。
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2013.12.29 (Sun)

百田尚樹『黄金のバンタムを破った男』を読む



 これは1人のボクシング選手にスポットをあてたノンフィクションである。著者は今、公開されている映画『永遠の0』の原作者である百田尚樹である。『永遠の0』というのはゼロ戦の神風特攻隊の話だが、この本がミリオンヒットをするなどよく売れたという。本来は放送作家で、朝日放送の人気番組『探偵ナイトスクープ』のチーフライターである。それが最初に書いた小説『永遠の0』がベストセラー。それ以降は『BOX』『モンスター』『海賊とよばれた男』と話題の作品を出していて、今、最も勢いのある作家の1人である。そんな百田尚樹が書いたノンフクションが『黄金のバンタムを破った男』である。
 この本は1人のボクサーに焦点を当てたノンフィクションであるが、ただ1人のボクサーにだけ焦点を当てるのだけではなく、彼のおかれた立場や彼が登場するまでのボクシング界の実情、そして彼を取り巻いた人物たち全て、及び当時の社会事情まで事細かに書かれている。百田尚樹の書斎は資料に埋まれて足の踏み場もないというほどらしいが、本を書くにあたり徹底的に調べあげていて、小生も知らない箇所も多く、なるほどと思うところであった。描写力も優れていて、時代を忠実に追ったノンフィクションだが読んでいて飽きさせな文筆力に唖然とした。それで小生はあっと言う間に読み終えてしまったのである。
 さて黄金のバンタムを破った男と言うタイトルであるが、ボクシングを知らない人なら何の事だと思われるだろう。バンタムと言うのはボクシングのバンタム級のことである。そのバンタム級で黄金のバンタムと呼ばれた男がいた。ブラジルの英雄でエデル・ジョフレという。

 エデル・ジョフレは1936年3月、ブラジルのサンパウロで生まれた。ボクシングジムを経営する父アリステディスからボクシングの手ほどきを受け、アマチュアボクサーとして1956年のメルボルン・オリンピックに出場。準々決勝で敗れたが、アマ時代の通算は150戦148勝2敗というとてつもない成績だった。翌1957年プロボクサーとしてデビュー。
類い稀な才能を発揮。デビューからいきなり5連続KO勝利。その後、引き分け3を含むが負け知らずで38戦目に空位となった世界バンタム級のタイトルをメキシコのエロイ・サンチェスと争い6回KOに下し世界バンタム級チャンピオンとなるや、その後も防衛を繰り返し、ピエロ・ローロ、ラモン・アリアス、ジョニー・コードウェル、ハーマン・マルケス、ホセ・メデル、青木勝利、ジョニー・ジャミトー、ベルナルド・カルバロと8度の防衛戦を全てKOで下し17連続KO勝ち。まさに天下敵なしの強さで、チャンピオンの中のチャンピオン。通算で50戦47勝(37KO)3引き分け無敗。このエデル・ジョフレの圧倒的な強さを人はゴールデン・バンタム(黄金のバンタム)と評したのである。そして昭和40年5月18日、無謀にもこの怪物エデル・ジョフレに挑戦した22歳の日本の若者がいた。それがこの本編の主人公である。その名をファイティング原田と言う。

 ファイティング原田というと日本のボクシングファンなら知らない人はいないほど有名なボクサーであるが、あの頃、エデル・ジョフレに挑戦するのは無謀と言われていた。また大事な素材を潰すと言って反対する人も多かった。それほど当時のジョフレは強かったのである。ガードで身体を固め防御する。最初は出てこないので相手は攻めてくるが、序盤が過ぎたあたりから相手の攻撃を読み切ったところで、次第と防御から攻撃に転じるや強烈なフォロースルーと右のアッパーで仕留める。まさにボクシングの申し子のようなボクサーだった。一方のファイティング原田は1943年4月に東京の世田谷で生まれた。本名原田政彦。背が高くなくズングリしていてボクサーに向いてない体型。それでいて中学卒業前に笹崎ジムに入門。デビューからこれまた連戦連勝。東日本新人王決定戦では海老原博幸(後の世界フライ級チャンピオンでサウスポーの強打者)から序盤2回ダウンを奪い判定で勝利。僅かデビューから2年半で世界フライ級チャンピオンだったポーン・キングピッチに挑戦権を得る。それはポーン・キングピッチに挑戦が決まっていた矢尾板貞雄が突然に引退してしまったので、その代役として19歳の原田がタイトルマッチを戦うこととなった。だがキャリアがなく不利と思われていた原田が若さを発揮して老獪なチャンピオンを圧倒。11回に狂った風車と評されるほどの連打を浴びせ、白井義男以来、日本人2人目の世界チャンピオンになる。しかしリターンマッチが相手のホームタウンのバンコクであったがため僅差の判定で敗れ、減量苦からバンタム級に上がってきたのである。それから2年以上経過、今度は2階級制覇を目指してバンタム級王座に挑戦。ところが相手が悪すぎる。黄金のバンタムが相手である。助言者はジョフレが引退してからタイトルを狙ってもいいからとか、まだ時期尚早という人もいたほどだ。それでも原田陣営は可能性を信じて挑戦したのである。

 このあたり筆者は克明にそれまでに行きつくところの日本ボクシング界の事や、社会背景のことまで忠実に書いている。百田尚樹は小生と同年代と言ってもいいくらいなので、書いてある内容はほぼ覚えていたが、百田尚樹はこの試合の詳細をラウンドごとに書いている。そういえば小生が自分で試合を採点しながら観ていたのも、この試合が最初だった。とにかく小生も勝ち目がないだろうと観ていたような記憶がある。でも今、この本を読むとどんな試合だったかなと漠然としていて克明に覚えているわけでもない。なにしろ昭和40年のことである。小生はまだ小学校の高学年だった。試合は原田が左右のショートを連打するが、ジョフレは下がってカウンターを狙い、突如、前に出てコンビネーションのあるパンチで応戦する。試合は一進一退だった。序盤から中盤に試合が進んでいき、勝てっこないから次第に原田は意外とやるとなり、やがてもしかして・・・に変わって行く。そして15回終了まで原田は倒されずに持った。いや、それどころか見せ場を多く作り日本中を熱狂させた。この時の視聴率は54.9%だったというから如何に多くの国民がこのボクシング中継を観ていたかということだ。それで2対1の際どい判定ながら原田は勝ったのである。奇跡だと言われた。この偉業は世界中に配信され、世界中のボクシング関係者が驚いたという。とにかく敗れたことのないエデル・ジョフレを日本の若いボクサーが破ったのだ。これでMasahiko Haradaの名は一気に有名になる。エデル・ジョフレは初の敗北で口惜しがったという。しかし、試合後は笑顔で原田を祝福した。
 原田も一世一代の勝負が出来たと思った。ジョフレを破ったから次の防衛戦は問題ないと思ったが、原田はクラスをバンタムに上げても減量に苦しんでいた。普段から体重が60kgを超えているのにバンタム級のリミットである53.5kgに落とさなければならない。さらに体重を落とした状態で過酷なトレーニングをする。それで初防衛戦の時のコンディションは悪く(対アラン・ラドキン)、勝つには勝ったが今後に不安を残した。
2度目の防衛戦はまたエデル・ジョフレであった。今度はジョフレが本気で勝ちに来るので原田は今度こそ危ないと思ったものだ。かくしてバンタム級王座に輝いてから1年後の1966年5月31日、ファイティング原田はチャンピオンとしてエデル・ジョフレの挑戦を受ける。前回はエデル・ジョフレは負ける筈がないと思っていたかもしれない。それが油断に繋がった。今回はそういった余裕も見せず、来日しても必死だったように思う。生涯で初めて負けたのがよほど残念だったのだろう。練習にも本気で取り組み試合に臨んだのである。今回も激戦だった。どちらも負けていない。意地と意地のぶつかりあいだ。しかし、若い原田は終盤の14回、15回になって無尽蔵のスタミナを見せつけてジョフレを驚かせた。猛ダッシュをしたのである。ジョフレはこの日本の若者の何処にこれだけのスタミナが残っていたのだろうか。もう呆れ顔で最後はやや戦意喪失気味だったのを覚えている。今回は前回よりも点差が開き、原田の勝利が確定的だった。こうして奇跡は2度起きた。原田は無敵のジョフレに2度も勝ったのだ。尚、この時のテレビの視聴率63.7%。

 ところでジョフレは老いて全盛期を過ぎていたのだから原田が勝って当たり前だと思わないでほしい。何故ならジョフレはこの後、いったん引退する。が、原田が減量苦から逃れるためバンタム級からフェザー級にクラスを上げ、世界を目指すという話を聞き、3年後にエデル・ジョフレもカムバックしているのだ。ところが1969年7月オーストラリアで世界フェザー級チャンピオン、ジョニー・ファメンションに挑戦した原田が実に不可解なインチキ判定に屈し(ダウンを2度奪い終始優勢だった)、3階級制覇はならなかった。そして燃え尽きて原田は翌年に引退したため、エデル・ジョフレは原田を倒すチャンスもなくなってしまった。でもカムバックしても負けず37歳にしてホセ・レグラを倒しWBC世界フェザー級チャンピオンとなるから恐れ入る。さらに元世界フェザー級チャンピオンで、こちらもカムバックしてきた7歳下のビセンテ・サルディバルの挑戦を受け4回KOで退けるなど、怪物ぶりは老いても健在であった。ただ原田のいないボクシング界で試合をする意味もなく、王座を返上。その後、40歳まで闘い通算78戦72勝(50KO)2敗4引き分けで完全に引退した。それで生涯でたったの2敗が何れもファイティング原田だったのが何時までも心の奥に残っていたのか、ジョフレは引退してからかなりの年月を経た日に原田へ手紙を出している。その内容は旧交を深めようというものだった。旅費も宿も全て負担するから遊びに来いというではないか。原田は喜んだ。急いでブラジルに行く準備を進めたが、その中で条件としてボクシングのエキシビジョンマッチを行おうというのが気になった。そして関係者に聞くと、ジョフレは今度こそ原田を倒すと言って、本気でトレーニングを行っていると聞いて原田はジョフレの申し出を断ったという。如何にも負けん気の強いジョフレらしい話だ。

 しかし、黄金のバンタムと呼ばれバンタム級史上でも最強ではないかと評されるジョフレを2度も破ったことで世界ボクシング殿堂入りした原田。一応、世界2階級制覇したボクサーなのだ。今のように統括団体が4団体、17階級あって世界チャンピオンが60人も70人もいる今とは違い、世界チャンピオンがたった11人しかいなかった時代の2階級制覇である。それだけでもすごいのに世界ボクシング殿堂入りの要因がエデル・ジョフレを破ったということが最優先されたのだ。これだけでエデル・ジョフレがどれだけ凄いボクサーか判ろうかというものだ。でも原田自身63戦56勝(23KO)7敗という成績が示すほどの立派なボクサーだったのだ。でもジョフレと言うとんでもない怪物がいたことで、それが独り歩き伝説となったのである。当時小生は子供だったのでそれほどの偉業とも思えなったが、この本を本を読んでいると、それは凄いことだったのだなと思わざるを得ない。それを考えると昨今のボクシングの世界チャンピオンが昔ほど注目されなくなったのは判るような気がする。

原田が世界バンタム級タイトルを奪取したジョフレ戦


世界バンタム級王者になってからのジョフレ戦


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2013.12.28 (Sat)

ウーン8万円

 上顎の右側親知らずが虫食って歯医者に通っていることは以前に書いたと思うが、先日、上顎側切歯の左側にある差し歯が抜けて治療した。上顎側切り歯というのは正面から見ると上側に大きな2本の歯があると思うが、その両サイドにある歯のことを言う。つまり口を開けると目立つ歯なのである。だいぶ前に治療して差し歯にしたのだが、2年ほど前にポロっと抜けて治療にもいかず放っておいたのである。それが今回、親知らずが虫歯になって治療したついでに治してもらったのだが、歯根が割れているので、もう差し歯にできないという。それで両サイドの歯を削ってブリッジにするか部分入れ歯にするか、それとも高額だがインプラントにするかどれかだと言われ、部分入れ歯にすることにしたのである。だが、保険がきく部分入れ歯だと1万円ぐらいですむらしいが、これは金属が他の歯に覆いかぶさるようになるので目立ってしまう。前歯はどうしても目立つからってことで、保険のきかないテレースコープデンチャー、スマイルデンチャーという方式の部分入れ歯にしたのだが・・・・・これが一本被せるだけで8万円・・・・。オーマイゴッド。

 これだから歯は大事にしないといけないのだ。それで完全に歯茎から抜歯をして型をとる。そして2週間して、その歯が出来上がったので被せてもらった。この歯はシリコンで出来ているので一見、本当の歯だと思うほどである。ただ装着感がもう一つ。物を噛んだ時に少し動くかな。咀嚼してもぐらつかないが、もうひとつしっくりこない。これならインプラントにすればいいのだろうが、インプラントだと金額も半端ではない。いくらとられるか判ったものではない。おそらくウン十万円だろう。いくらなんでも貧乏な小生は贅沢過ぎる。芸能人なら歯は命だから、インプラントにするのだろうが、小生は間違いなく庶民である。インプラントなんてとてもやってられない。それでも8万円だ。ため息が出てしまう。奥歯なら目立たないから銀色の金属を被せようがブリッジ治療しようが前歯だけはどうしようもない。ということで年末、色々とお金が飛んでいく。本当に寒さも厳しいが懐はもっと寒い。ああ・・・・。
EDIT  |  15:06  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.12.23 (Mon)

ボブ・ディランのデビュー・アルバムを聴く



 ボブ・ディランというと今や大御所。レコード・デビューして既に51年、現在72歳と言うからもうベテランの域を通り越している。でも知名度ほど日本で人気があるかと言うと・・・・・?? マニアックな人にしか受けないシンガーでありソングライターである。と言うと語弊があるかもしれないが、本国のアメリカと比較すると日本での人気はもう一つではないのではと思いつつ今日に至っている。そもそもデビューしたころからそうであるが、日本でボブ・ディランのことが知られるようになったのはボブ・ディランが書いた曲によってである。今のように時代の代弁者、プロテストソングの旗手として崇められていたというのでもなく、今から50年ほど前は一部の洋楽ファン(それもフォーク・ソングのファン)でしか、ボブ・ディランの名前は知られていなかったように思う。それが知られるようになったのは『風に吹かれて』が大ヒットしたからである。それによりボブ・ディランの名前が日本でも知られるようになったというものの、歌っていたのはピーター・ポール&マリーであって、ボブ・ディランの『風に吹かれて』がヒットしたのでもない。しかし、ソングライターとしてのボブ・ディランの名は知られるようになる。殊にその詩の内容が急進的で当時のアメリカの若者に支持されたのである。時は公民権運動が盛んだったころであり、時代の旗手として変わりつつあったアメリカで支持されたのである。それが日本ではどうかとなると、日本のフォーク・ソングはアメリカのフォーク・ソングをカバーすることから始まった。そして当時の日本の学生たちがアメリカで流行っていたフォーク・ソングの楽曲を歌い始めた。『花は何処へ行った』『500マイル』『グリーンフィールズ』『七つの水仙』『悲惨な戦争』『パフ』『虹と共に消えた恋』『レモン・トゥリー』等。

 あの頃、あまり意味も判らず、ただ綺麗な曲を中心に日本の学生は歌っていたのだろう。特にPPM、キングストン・トリオ、ブラザース・フォアといったグループが歌うバージョンに人気があり、当時の日本の学生の大半が彼等のカバーをやっていた。ただ本来アメリカのフォーク・ソングと言うのはプロテスト・ソングとして始まりウディ・ガスリー、ピート・シーガーといった当時の大御所が築いた土台があり、それを受け継ぐような形で出てきたのがボブ・ディランであり、ジョーン・バエズだったような気がする。ただし日本のフォーク学生たちは、個人が歌うフォーク・ソングよりもグループが歌うバージョンをより多くカバーしたのである。何故なら日本はプロテスト・ソングとしてのフォーク・ソングの大きな要素である歌詞の内容よりか、ハーモニー、メロディといった音楽の美しい要素に影響を受け、日本でカレッジ・フォークとして流行っていった背景があるので、ギター一つでしわがれ声で朗々と歌い上げるボブ・ディランはもう一つ人気がなかったのだろう。何しろボブ・ディランが歌うと美しい曲でも美しく聞こえない欠点があった。でもプロテスト・ソングとして、新しい時代の代弁者として当時のアメリカでは支持されたのである。つまり歌詞の意味が直接伝わらない日本人には容易にボブ・ディランの凄味が理解できなかったかもしれない。それは今でもそうであろう。『ライク・ア・ローリング・ストーン』という曲の何処が良いのか判る日本人はどれだけいるだろうか。それほどボブ・ディランの曲と言うのには詩が重要であるということだなのである。もっともお坊ちゃん芸のようなものだった日本のカレッジ・フォークもその後に変わって行き、ボブ・ディランのような過激な歌詞を重要視したフォーク・シンガー(岡林信康、高田渡のような・・・)が何人か出てくるようにはなったが、これらに影響を与えたのが間違いなくボブ・ディランである。

 しかし、ボブ・ディラン本人はそういった自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われたりすることを嫌い、次第にスタイルを変えていきエレクトリック・サウンドへと変遷するに至り、次第にプロテスト・ソングは消えていく。でもボブ・ディランの曲は『ミスター・タンブリンマン』『イフ・ノット・フォー・ユー』『くよくよするな』『いつまでも若く』等・・・・カバーされるなど、本人の意向とは違ってボブ・ディランの存在はフォーク界のみならずポップス界全体に与える影響力が段々と強くなっていく。そして72歳の今でもボブ・ディランは現役であるが、そんなボブ・ディランが最初に出したアルバムが当アルバムである。

 このデビュー・アルバム『ボブ・ディラン』は1962年3月に発売されたがアメリカでも、ほとんど売れなかった。日本では当然、発売もされてない。ボブ・ディランのアルバムが日本で発売されたのは彼の名が浸透し出した1966年のことで、すでにデビューから4年が経過していたのである。つまりCDになってからボブ・ディランのアルバムがほとんど出回るようになったが、LP盤はほとんど日本ではリリースされなかった。ということは当時は幻のフォーク・シンガー扱いだったのである。名前はアメリカから轟いていたが、ボブ・ディランの曲はさほどラジオでも流れていなかったし、ベールに包まれているような感じだった。実際に私がボブ・ディランの2枚目のアルバム『フリー・ホイリーン』を買ったのはリリースされてから既に6年か7年経ってからのことだったのでよく覚えている。

 さて、このアルバムであるが収録曲は13曲”You’re No Good””Talkin’ New York””In My Time Of Dyin’””Man Of Constant Sorrow””Fixin’ To Die””Pretty Peggy-O””Highway 51””Gospel Plow””Baby, Let me Follow You Down””House Of The Risin’ Sun ””Freight Train Blues ””Song To Woody””See That My Grave Is Kept Clean”でボブ・ディラン自身の曲は3曲しかない。あとは全てトラディショナルか他人の曲ばかり。まだボブ・ディランの本領は発揮されてなく、『朝日のあたる家』『死にかけて』を歌っていた20歳そこそこの頃の録音である。当時からボブ・ディランは美声ではなく故意にしわがれで声で歌っていたのだろうか、とても聴いていて一般受けしない歌い方をしている。しかし、このアルバムで存在感を示したのである。アメリカでも5000枚も売れたかどうかというところであり、一部の人には支持されたのであろう。ところがこのアルバムに収録されている『朝日のあたる家』を聴いたエリック・バートンが、自身のアニマルズのアルバムにカバー曲として収録したことは知れ渡っている。とにかく灰汁の強さはデビューからのもので、日本ではなかなか受け入れられなかったというのも納得せずにはいられない。しかし、このアルバムによりボブ・ディランは大御所としての第一歩を踏み出したのである。

"Talkin' New York"

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2013.12.22 (Sun)

第58回有馬記念

 本日、中山競馬場で第58回有馬記念(G-Ⅰ・3歳以上、芝2500m、16頭)が行われた。最近の有馬記念は豪華メンバーが揃うということはなくなったな。ジェンティルドンナはいないし、キズナもエピファネイアもいない。それこそ20年以上前の有馬記念ならスターホースが勢ぞろいしたものだが、このところは必ずしもスターホースが勢ぞろいということはなくなってしまった。殊にジェンティルドンナなんて最初から中山競馬場でのレースは敬遠しているようでもある。まあ、あのコースは特有のトリッキーさがあって、どうしても中山では本領発揮できない馬もいるからなのだが、それでも有馬記念はその年の掉尾を飾るレースとして人気がある。それで今年は三冠馬オルフェーヴルの引退レースということで熱気があったようである。

 それで当然のようにオルフェーヴルが1番人気に支持された。2番人気は昨年の覇者で2冠馬の芦毛ゴールドシップ。3番人気アドマイヤラクティ、4番人気ウインバリアシオン、5番人気トーセンジョーダンの順だった。レースは意外にもルルーシュが逃げた。2番手にカレンミロテックが続き、オルフェーヴルはシンガリから4番手。その前にゴールドシップで、淡々とした展開。2周目の3コーナーからオルフェーヴルは外を通って一気に上がっていった。何時の間にかゴールドシップもかわして4コーナーで先頭に並びかけ直線に入るや先頭。あとは後続を引き離すだけ。後ろから追撃する馬もなし圧勝劇でのラストランとなった。

 1着オルフェーヴル 2分32秒3、2着ウインバリアシオン 8馬身、3着ゴールソシップ 1馬身1/2、4着ラブイズブーシェ 2馬身1/2、5着タマモベストプレイ クビ。

 何だか8馬身差の圧勝劇でしらけてしまったな。凱旋門賞で2着になってトレヴに千切られたので、今年は昨年までのパフォーマンスを見せれるかなと心配したが、そんなものは無用だった。まさに怪物級の強さだ。時々ポカのある馬で個性的だったが、本気を出した時の強さは史上屈指のものである。これで通算21戦12勝2着6回3着1回(フランスでの4戦2勝2着2回も含む)、GⅠは皐月賞、日本ダービー、菊花賞、有馬記念、宝塚記念に続いて6勝。昨年の惜しい凱旋門賞を思いだされるが、この馬がファンに与えた印象度は、歴代でもナンバー1ではないかと思えるほどであった。けしてシンザン、シンボリルドルフ、ディープインパクトのような名馬の系譜に入る優等生ではなく、どちらかというとカブトシロー、エリモジョージといったクセ馬、個性派に分類される競走馬だった。それだけに観ている方は終わるまでハラハラドキドキ、何をしでかすか判らない。とにかく記録よりも記憶に残る馬として今後、後世に語り継がれていくことは間違いない。いや、とにかく面白い馬でした。本当にご苦労さん。

 今回、ウインバリアシオンが2着に突っ込んだ。この馬は日本ダービー、神戸新聞杯、菊花賞、全てオルフェーヴルが勝った時の2着。それで今回も2着。ただ今回は左前浅屈腱炎を発症して1年5ヶ月ぶりに復帰してから2レース目でこの成績だけに価値がある。オルフェーヴルの同期として来年も走ってくれることを祈る。また最近、凡走ばかりのゴールドシップが少しだけ走る気を起こしてくれたようだが、まだまだその気になってないようだ。この馬も本気になれば何処まで強いか判らない。まあ、オルフェーヴルほどではないが変な馬ではある。取り敢えず、今年の中央競馬もフィナーレ(明日も開催はあるが)。さて来年はどうなるか・・・・・。キズナ、エピファネイア、ゴールドシップといったところが中心になるのかな。でも競馬に絶対はないから今後どうなることやら。


EDIT  |  17:17  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.12.21 (Sat)

すっかり寒くなって感じること・・・

 昨日は雪が降った。一昨日は雨、今日も一時的に冷たい通り雨。それに今週の寒いこと。風も強いし氷雨のような雨も降るし、最高気温も10℃を下回り真冬並みの寒さが続いている。夏は猛烈に暑っかったというのに冬が寒いとは・・・・・。
 もっとも今から30年、40年前の12月ってこれぐらい寒かったかのではないかなと、遠くなった昔の記憶の糸を探ってみる。そういえば子供のころ、足の指が12月でも痛かったのを思い出す。それを考えると最近は暖冬傾向だったのかな。それでも今年は最近の暖冬傾向の中でも寒いようだ。何故、今年はこんなに寒いのかよくわからないが、毎年起こる異常気象が当たり前のようになって、年ごとに色々と異変があって例年通りといったことが、さっぱり通用しなくなったのかもしれない。でも北極の氷が解けてオゾン層破壊も進んでいるようだし、今年は寒いと言いながらも地球温暖化に待ったがかかった訳でもなさそうだし、一体どうなっているのだろうか。例年、12月に寒波が一度は来るのだが、今年は毎日、寒いような気もする。小生はあまり寒い方はこたえないが、早朝の起床だけは辛いものがある。暗いし息も白いし布団からなかなか出られない。夏のようにはいかないな。夏は大嫌いだけども朝だけは夏の方がいいと思ってしまう。ただ最近の夏は日中が、どうしようもなく暑くなるので避けて通りたいものだが、毎年、毎年、間違いなくやってくる。それで夏を越すことに四苦八苦するのだが、良い気候が短くていきなり冬がやってくる。だから最近は加齢とともに身体が対応出来ないでいる。厚い暑いといっていたのに、一気に半袖から長袖に変わったと思ったらあっという間にコートやジャンバーにマフラーがいる始末だ。
もっとも北海道の人に言わせれば、関西の冬なんてと言いたくもなるだろうが、関西は夏が異様に暑いので、冬になってしまうと大方の人はすぐには対応できないのだ。それでようやく身体が冬に慣れたころには桜が咲きだすというから、面喰ってしまうのだ。それで春が来たとウキウキしていたら一気に暑くなる。本当に良い気候の日が最近は短くなったなあ。夏は大嫌いだが、かといって若い時のように冬は好きだとは最近は思えなくなった。それは加齢とともに身体のあちらこちらに歪が出てきたせいである。
 今は心地の良い春と秋がいい。でも昨今は、あまりにも春秋が短くて夏冬が長いから、どうしても体調を崩しやすくなった。歳のせいだとは思いたくないが、近頃は医者に架かることばかりで、医療費も嵩むようになってきた。だから夏と冬がなくて春と秋のような日ばかりだといいのになと思うのだが、こればかりはどうあがいても無理。毎年、冬が長く夏はそれ以上に長い。こんなことを思うようになったのも、頭の中のどこかに老いを痛感するようになったからかな。何時までも若いつもりだったのだが・・・・・・・。若い人から見ると明らかに歳をとっているから、こればかりは覆せるものではない。過去には戻れない。ああ、老いについては考えないようにしていたが、書いていて侘びしくなってきた。
EDIT  |  17:23  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.12.14 (Sat)

今年もあと半月

 2013年も残すところあと半月となった。早いものだな。ついこの前に新年を迎えたと思ったらもう少しで一年も終わってしまう。そういえば小生にとって今年は良い事が何もなかった。夏を前に入院したからだが、それが何時までも尾をひいている感じで、思いきった事が出来ないでいる。絶えず血圧が気になって激しい動きはひかえている。困ったものだが長生きしたいので気をつけている。先日、久々に検査があってMRIと動脈硬化の検査を受けて来たばかりだが、経過は良好で異常は見られなかったからひとまずは安心である。だからといって暴飲暴食は出来ないし、アルコールもなるべくなら控えて規則正しいく健康的な生活を送らなければならない。適度に運動し睡眠を充分とってバランスのいい食事をするということだが、それが簡単にいかない。修行僧でもないしそんな無味乾燥な生活を年から年中、送れるものでもない。アルコールもたまには飲みたくなるし、時間も忘れて夜遊びしたくなる時もある。かといって体力が落ちたのも確かで、どうしても休日なんかは引きこもりがちになる。この数日は急に寒くなってきたので朝、起きるのがだんだんと辛くなってくる。室内でも息が白く、年を越さない間に真冬のような日が多くなってきて水を使うのも嫌になってくる。今年は夏が強烈に暑くて(最近は毎年のことだが)、それでいて冬が寒くなるというではないか。ということは何もいいことがない。でも地球温暖化だというのに冬が寒くなるのか。ちょっと解せないが、向こう三ヶ月の天気予報ではそのようなことを言っていた。最近は暖冬の年が多かったのに今年は違うのかな。最も地球の気候のメカニズムなんて判らない部分も多いだろうし、寒い冬になるか暖かい冬になるか判断に困るところであろうが、今のところ今年は寒い冬になるだろうと言われている。まあ、そんなことはどっちだっていいのだが、今年は何かと医療費にお金が飛んでいく年末で何かと懐がさびしい。脳神経外科での検査が終わったと思ったら、明後日には新しいさし歯にお金が必要で、ため息しか出ない。かといって放っておく訳にも行かず莫迦らしいと言えば莫迦らしい。どうせなら、もっと楽しいことにあ金を使いたいものだが、健康にはかえがたい。世間では今年の年末は久々に大型の連休になるらしく、早くも海外旅行に行く人が今年は急増するとか言っている。みなさん本当に景気がいいのだな。羨ましいとい言えば羨ましい。残念ながら小生は身体と相談で無茶が出来ない年末年始なので、家にくすぶって読書三昧かな。これはこれでいいものだが・・・・。
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2013.12.08 (Sun)

マイルス・デイヴィスのアルバム『クールの誕生』を聴く



 マイルス・デイヴィス名義の本格的アルバムと言うならこの『クールの誕生』が最初かもしれない。いや、もっと前からあったのだが(1945年4月24日に最初のレコーディングをしている)、マイルス・デイヴィスがチャーリー・パーカーのバンドを飛び出して色々と試みた中で生まれたのが当アルバムである。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらはビ・バップと言うアドリブ中心のジャズのスタイルを確立した。このビ・バップはそれまでの古典的スタイルであったビッグ・バンド・ジャズを一気に過去に追いやってしまうほどで、その先進性から現代のジャズ、所謂モダン・ジャズと総称されるようになる。だが、このビ・バップも限界があった。つまりコード進行という音楽の基本構造をもとに、その場で新たなメロディ・ラインを構築していくという斬新なスタイルがビ・バップであるが、このスタイルは音楽上の知識は当然として楽器演奏のテクニックも一流のものが要求され、何よりも天才的な閃きを持っているミュージシャンしか出来なかった。それまでのビッグバンド・スタイルのジャズよりも大きく前進していたが、一方ではそういった問題もあった。

 マイルス・デイヴィスは20歳そこそこでチャーリー・パーカーというビ・バップの巨人と出会い、その傍で研鑽を重ねている若い時があった。それでビ・バップの限界を悟ったのかも知れない。ビ・バップは一発勝負の要素が高く、一握りの天才達しか望み得る演奏が出来なかった。それはジャズの今後とも関係していて大衆性とは相反していた。つまりジャズというジャンルの音楽の今後にもかかわっている問題であった。一瞬のアドリブの閃きに全てを掛けてしまう天才達が繰り広げるアナーキーなー前衛音楽が即ちビ・バップである。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー及びバド・パウエルといった才能のあるミュージシャンを持ってしても、その日の体調、気分によって出来不出来がある。すると行きつく先は破滅しかない。そこでチャーリー・パーカーのもとから去ったマイルス・デイヴィスは新しいジャズを模索していたのである。

 そこで登場するのが当アルバムである。録音は1949年1月、4月、1950年3月と3回に亘っている。メンバーも多く9重奏団である。チャーリー・パーカーのコンボから脱退し何故、アンサンブル中心の9重奏団を率いたのか判らない。ビ・バップの立役者の引き立て役を演じていたマイルスはビ・バップのアナーキズムに違和感も感じていた模様で、もっときっちり練られた枠組みの中で優美なサウンドを作れないか、編曲とアドリブを組み合わせられないかと絶えず考えていたようでもある。こうして名アレンジャーのギル・エヴァンスと知り合い己の試みをスタートさせた。そして数年後に当アルバム『クールの誕生』が誕生した。トランペット、アルト・サックス、バリトン・サックスの背後でフレンチ・ホルン、チューバと言ったクラシックでお馴染みの楽器が妖しく絡み合う。それまでの一発勝負のビ・バップに比べると構成が複雑で音色の変化に富んでいる。バードの即興演奏やそれ以前のスウィング・ジャズに顕著な個人の個性で音楽を聴かせる方法は王道であったかもしれないが、マイルスはそれ以外の要素をも求めていたのである。ジャズと言うのは時代と共に変遷していった音楽である。当然、ジャズはこれだといった決まりがあったのでもない。ならばクラシック音楽の要素も加味してもいい訳であって、絶えず進化し続けたマイルスの最初の変革期が訪れていたのである。

 ジャズが持っている特徴である演奏の生々しさ、躍動感、演奏者の癖をそのまま結びつける自由な楽器奏法。これらのジャズの特徴を活かしヨーロッパ音楽のスタイルを合体させるといった方法をとったのが当アルバムである。それまでジャズメンの個人技に寄りかかっていた音楽に基本的な設計図を導入し頭を使ってジャズを演奏する。これがマイルスの発想であった。そして、その後のマイルス・デイヴィスの変遷は全てこういったスタイルが基本となって行く。しかしである。このアルバムは聴いていてもあまり楽しくないのだ。すべての曲が3分半以内という短さ。当時のSMフォーマットの制限のため仕方ない部分もあり、マイルスが本当にやりたかった事の半分もアルバムからは知り得ないが、その後のマイルスの躍進の第一歩を知る大事なアルバムである事は窺える。

 曲はMove, Jeru, Moon Dreams, Venus De Milo, Budo, Deception, Godchild, Boplicity, Rocker, Israel, Rougeの11曲収録されている(Darn That Dreamの入っているアルバムもあるし、それ以外の曲を追加した盤もある)。このセッションに参加したミュージシャンは曲によって異なるがマイルス・デイヴィス以外だとジョン・バーバー(チューバ)、リー・コニッツ(アルト・サックス)、ジェリー・マリガン(バリトン・サックス)、カイ・ウィンディング(トロンボーン)、J.J.ジョンソン(トロンボーン)、ジュニア・コリンズ(フレンチ・ホルン)、サンディ・シーゲルスタン(フレンチ・ホルン)、ガンサー・シュラー(フレンチ・ホルン)、アル・ヘイグ(ピアノ)、ジョー・シュルマン(ベース)、ネルソン・ボイド(ベース)、アル・マッキボン(ピアノ)、マックス・ローチ(ドラムス)、ケニー・クラーク(ドラムス)、アレンジャーにギル・エヴァンス、ジョン・カリシが加わっている。何ともいえない大所帯のバンドではないか。とにかく今聴くとマイルスらしさはない。アルバムタイトルの『クールの誕生』も後年の1957年にLP盤が出た時(収録曲も追加された)につけられたものであって、クールの誕生と言いながら小生には全くクールに聴こえないのが欠点ではある。でも当時では革新的でありクールに聴こえたのかもしれないのだろう。




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2013.12.06 (Fri)

プーシキン美術館展に行く



 フランス絵画300年と題しられたプーシキン美術館展に先日、行ってきた。会場は神戸市立博物館。所謂、神戸の中心部。外国人の旧居留地の中にある博物館だが、ほとんど絵画展を中心に催しているところである。それというのも神戸は意外にも美術館や博物館が少ないから博物館で美術展を頻繁に開催するのだろうが、それにしても朝の早い時間に行ったのに長蛇の列。これは驚いた。やはり三宮から近いという利便性もあるだろうが、フランス絵画の美術展と言うのが大きいということだろう。ところでプーシキン美術館って何だと言うことなのだが、名前で理解出来ると思うがロシアにある美術館である。モスクワにあり開設は1912年と言うから100年の歴史のある美術館である。当初はロマノフ王朝の皇帝であるアレクサンドル3世芸術博物館という名称だったそうな。それがロシア革命後にモスクワ美術館となり、さらにロシアの詩人アレクサンドル・プーシキン没後100年を記念して1937年に国立A.S.プーシキン造形美術館という現在の名称になったという。また驚くことに数あるヨーロッパの美術館の中でも最大級の美術館と言うではないか。収蔵品の数でも同じロシア内のサンクトペテルベルグにあるエルミタージュ美術館に次ぐ数だという。そういえば昔、エルミタージュ美術館展に行った時も大勢の人で溢れていたが、ロシアの美術館展が催されると多数の人がつめかける何故だろう。偶然なのか、それとも日が悪かったのか・・・・・。

 取り敢えず中に入るが人垣が二重、三重になっている。やれやれ、疲れるなあ。美術館において人が多いのだけは何時もウンザリする。少ない時を狙っていったのに誰しも考えることは同じか。開館の前から並んでいる人がいるぐらいだからどうしようもないな。さて今回の催しはフランス絵画の300年と言うことだから特に人気がある。今時、おフランス帰りと言っても珍しくはないが、それこそ40年ぐらい前はそれを気取る輩が多くて対応に困ったものだった。それだけ日本人はフランスが好きなようでといっても拙者が好きなのは、フランス文化(映画、絵画、文学、音楽)だけでフランス料理よりも和食の方が好きだし、ルイ・ヴィトンもエルメスもシャネルも興味がないし、自由、平等、博愛(フランス国旗のトリコロールはそれを表現している)といいながら自尊心だけが強く博愛精神に欠けているフランス人(パリに行ったことのある人なら一度は感じるだろう)はあまり好きになれない。まあ、それは人それぞれの考えがあるから、これ以上は言うまいが・・・・。

 今回の展覧会は17世~18世紀の古典主義、ロココから、19世紀前半の新古典主義、ロマン主義、自然主義、19世紀後半の印象主義、ポスト印象主義、20世紀のフォーヴィズム、キューヴィズム、エコール・ド・パリに至るまでのフランス絵画を網羅した美術展であると言ってもプーシキン美術館が所蔵している美術品の中からの展示なので、当然、ルーブルやオランジェリー、オルセー、マルモッタンといった美術の殿堂が数多くあるパリには劣るのだが、ロシアの一つの美術館でこれだけの物を揃えているというのも驚くしかない。でもプーシキン美術館はロマノフ朝の歴代の皇帝等がコレクターの中心だった訳で、その内容も豊富である。最初はニコラ・プッサン、クロード・ロラン、ジャン=パティスト・シャルパンティエ、フランソワ・ブーシェ、ジャック=ルイ・ダヴィッド・・・・美術史に名を残す多くの画家の油彩画がそれこそ時代順に展示してあるが、ほとんどが写実絵画でこれと言って特徴はない。それが19世紀になって次第と絵画も変遷していく。ドラクロワ、アングルといったフランス絵画の巨匠がいて、その後にコローやミレーといったバルビゾン派の絵画があって、印象派と言われる大勢の画家が登場した。ドガ、マネ、モネ、ルノワール、ゴッホ、そしてゴーギャン、セザンヌ。そして20世紀、マティス、ピカソ、ルソー、ローランサン、キスリング、ローランサン、シャガール・・・・・・つまりフランス人かフランス人ではないが、パリやフランス国内を拠点にしていた画家ばかりだ。それだけフランスと言うのは今も昔も芸術が煌びやかでパリは芸術の都、花の都と言われただけはある。過去にこれだけの芸術家が集まってそれこそ街の至る所に屯していたことが窺える。もしタイムマシンがあるとするならば19世紀中頃のパリに行ってみたいと思うのは小生だけではないだろう。それほど19世紀のフランス絵画と言うのは凄まじいものがるほど円熟期だったのである。こうして絵を堪能したのはいいが、もっと人が少ない時に来ないとゆっくり観れたものではない。来月、この同じ所でターナー展が開催されるが、またまた同様に人が多いのだろうなあ。

 会場を出てみるとすぐ横の通りでは神戸の年末恒例のイベントであるルミナリエの準備が既に整っていた。昼間に見るとなんだか板に電球を無数に貼り付けているだけで知らないと通り過ぎてしまいそうだが、点灯されあたりが暗くなると見事なイルミネーションとなって浮かび上がるから不思議なものだな。一度、来てみてもいいがあの人ゴミだけは勘弁だ。だから行かないのだが・・・・・・。

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2013.12.01 (Sun)

嵐山の紅葉は・・・・

 昨日、一昨日と京都東山界隈の紅葉の写真をアップしたが、今度は嵐山で撮った写真をアップすることにする。撮影日は昨日の午前中である。でも紅葉の峠を越えていたのか、もう一つというところであった。やはり今年の紅葉は最近の中でも一番見応えがないかもしれない。どうも色がくすんでいる。







ここからは2008年11月下旬の画像である(要クリック)




5年前の紅葉と比較してもらえば分かるが2008年の嵐山の紅葉の方が色鮮やかである。今年は紅葉において色彩度が落ちる年であったようだ。もっとも京都においての話だが・・・・・。
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