2ntブログ
2008年08月 / 07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2008.08.31 (Sun)

ガーシュウィン 『キャットフィッシュ・ロウ』を聴く

s-IMG_0464.jpg

 ジョージ・ガーシュウィンというと浮かぶ曲はなんだろうか・・・・・。最近は『ラプソディ・イン・ブルー』の人気が高く、その曲を連想する人が多いかもしれない。またミュージカル好きな人は『パリのアメリカ人』だと答える人がいるかもしれない。でも衆目の一致するところ、おそらく『サマータイム』が最も知れ渡ってるのではないだろうか。でも『サマータイム』という曲はオペラ『ポーギーとベス』の中の一曲である。

 1920年代半ばにジョージ・ガーシュウィンは、デュ・ボス・ヘイワードによって書かれた小説『ポーギー』その物語をオペラ化することした。そして、1934年から1935年に亘って作曲し、1935年ボストンのコロニアル劇場で初演されたのである。でも初演の直後、ニューヨークで上演された時には賛否両論あり、その後の地方公演に失敗し、あまり上演されなくなったという。現在では人気演目なので信じられない気がするが、ガーシュウィンもそのことが気になっていたのか、『ポーギーとベス』の管弦楽組曲の編曲に取り組んだ。そして、完成した組曲が『キャットフィッシュ・ロウ(なまず横丁)』で、1936年1月21日、アレクサンダー・スモーレンス指揮、フィラデルフィア管弦楽団によって初演されたのである。

 組曲は『キャットフィッシュ・ロウ』『ポーギーは歌う』『フーガ』『ハリケーン』『グッド・モーニング・シスター』の5曲からなっており、当然のようにオペラと違って全曲歌の入らない管弦楽曲である。その中で『サマータイム』は第1曲『キャット・フィッシュ・ロウ』の中の一部で、オペラの最初の部分にあたり、序奏、『ジャズボー・ブラウン』のピアノに続いて『サマータイム』が演奏される。

 さて、この『サマータイム』は、オペラの中の1曲にしか過ぎないが、この曲だけが飛び抜けて人気を呼んで、数々の演奏家、歌手によって演奏されたり、歌われたりするようになった。そもそもガーシュウィンは、ミュージカルではなくオペラの手法で作曲しているのだが、題材も音楽もアメリカ黒人のものに根差しているとの理由からフォーク・オペラと人は呼んだのである。曲の原典としては古い黒人霊歌『時には母のない子のように』のメロディにインスパイアされたとジョージ・ガーシュウィンが語っている。オペラ『ポーギーとベス』では、第1幕の第1場、若い漁師の妻マララが子守唄として歌う。

Summertime and the livin' is easy
Fish are jumpin' an' the cotton is high

 この冒頭のところは1小節メロディが現れただけで、ああ、あの曲かと誰もが今や知っている。すっかりスタンダード曲となってしまい、特にジャズの名曲として知れ渡っていて多くのアーティストが演奏している。シドニー・ベシェ、ルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルド、ギル・エヴァンス、マイルス・デイヴィス、ビリー・ホリデイ、ヘレン・メリル、チャーリー・パーカー、そして日本のザ・ピーナツまで歌っていた。とにかくポピュラー音楽における『サマータイム』の浸透度は凄いものがある。でも本来はオペラの中の歌曲だということを忘れないで欲しいと思う。


 映画『アメリカ交響楽』での1シーン。『サマータイム』を歌う。


 今年の5月であったか、御堂筋でオープン・フェスタという催しがあって、そこで大阪にある高校生のジャズ・バンドが『サマータイム』を演奏していた。最近は高校生もジャズをやるのかと驚いた。それもメンバーの半分は女生徒である。時代は変わった・・・・・

EDIT  |  10:24  |  音楽(クラシック)  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.08.30 (Sat)

このところ涼しいが・・・・・

 今朝は昨日からの雨が降り続いていた。でも午後にはやみ蒸し暑さが増した。でも日本列島は木曜日の夜から活発な前線が停滞し、東海や関東、中国で記録的な雨が降ったようである。東京都の町田市では1時間に115ミリ、広島県の福山では91.5ミリ、また愛知県の岡崎では146ミリの雨が降り、水害がかなり出ている模様である。本当に日本列島はどうなってしまったのだろうか。こういった短時間で集中的に降る雨をゲリラ豪雨というが、今夏に限っては日本のいたるところで記録されている。

 今年の夏は7月に記録的な猛暑を記録したものであるが、不思議なことに盆明けから意外にも涼しい。例年だと残暑が厳しくて、まだまだ30℃超えの日が続いているものだが、今年は梅雨のような雨が今時、降り続いているから、やはり異常気象なのだろう。とはいっても異常気象は今年だけのことではない。このところ毎年、異常気象で、それでいて毎年、違った夏の顔を見せている。

 今年の関しては日本の南海上に大きな低気圧があり、東海上に太平洋高気圧が張り出している。そして、その間を暖かくて湿った空気が流れる道が出来上がっているという。結局、この湿った暖かい空気が積乱雲を発生させ、各地に大雨を降らせているのだろう。

 昔から日本列島は、北海道を除き温帯モンスーン気候に属していたものだが、どうも最近はこの形が崩れつつある。一定の方向へ風が吹くのを気象用語で卓越風と呼ぶが、季節によって風の方角が変化する場合がある。これをすなわちモンスーンと呼ぶ。だが今年は温帯モンスーン気候とは違って、亜熱帯気候のような様相を呈している。ずうっと暑いかと思っていたら、今度は一転して長雨が続き、各地で信じられない雨量を記録している。

 驚くこととしては富士山の初冠雪が8月9日に見られたという。記録上最も早い初冠雪で、それでいて台風も敬遠しているのか、日本列島を避けて通る。このような諸条件を見ていると、どうも昨年の夏とも一昨年の夏ともパターンが違う。それぞれもおかしな夏と考えていたのであるが、今年は例年にも増して異常な夏かもしれない。今年は蝉の泣き声でも変化があって、去年のようなクマゼミのみの大合唱ではなく、アブラゼミの鳴き声も、ミンミンゼミの鳴き声も聞いた。またツクツクボウシにヒグラシと、麗しくて哀愁のある音色まで聞くことが出来た。でもそれでいて冷夏ではなく、暑い夏という印象に変わりは無かったが、おそらく今年の年末から、来年度の初春にかけての冬は、生暖かい暖冬になるのではないだろうかと、こんな予報をたててみたのである。でも今年の夏は、何と天気予報官泣かせであったことだろうか。とにかく過去の夏とは確実に違ってきているのは確かである。だから盆休みの後に涼しくなったからといって喜んでばかりいられないのである。
EDIT  |  19:55  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.28 (Thu)

サボっているわけではありませんが・・・・・

 何かこのところ更新の頻度がおちてしまっている。実は毎日、帰宅時間が遅くてゆっくり書いている時間がとれなくて、帰宅するなり焼酎をあおって、その勢いで寝てしまうといったパターンが続いている。

 こんなことではいけないのだろうが、疲れているのでそれところではない。でも明後日あたりには更新できると思うのであしからず・・・・・・・。しかし、今日の蒸し暑さはどうなっているのだろうか。まるでサウナ風呂にいるようで汗がタラリタラリと額を流れてくるので、マイッタ!

 比較的、今年は盆を過ぎてから意外にも涼しいのでと思っていたら、ここに来て蒸し暑くて蒸し暑くて、この湿気で体調の方もすぐれない・・・・。やはり簡単に秋は来ないようだ・・・・。
EDIT  |  23:14  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.25 (Mon)

野球の普遍性を問う

 北京オリンピックはどうにか終わったが、このところ何か釈然としない人が多いように思う。それは北京オリンピックの日本の成績がどうのこうのというのではなく、日本の野球チームの成績が悪かったのと、次回では野球がオリンピックの種目から外されるといことで、不満タラタラの諸氏が私の周囲にも蔓延っていて、私に「何で日本のプロ野球が韓国に負けるのか? それに野球が何でオリンピックから外されるのだ」と憤慨するのである。それで私は言ってやった。「日本のプロ野球と言っても、安易な気持ちでオリンピックに参加したって、簡単に勝てるほど世界は甘くないし、野球がオリンピックから外されるのはマイナースポーツだから」と言っておいた。

 どうも日本人の野球ファンというと、年配の人ほど野球に毒されている人が多く、プロ野球べったりの人は世界中で野球が行なわれていて、また世界で最も面白い球技だと思い込んでいる節がある。昔、私の職場にいた年配の人に、野球は世界の中のマイナースポーツにしか過ぎないと説いても、到底信用せず、こんな面白いスポーツを知らない国の人は馬鹿だと言わんばかりで、オリンピック種目に入っていて当然と言い、サッカーみたいな面白くないスポーツなんかオリンピックから外してしまえとのたまうのである。それで私は閉口してしまったのであるが、現実問題として野球はオリンピックから外されても仕方がないと考える。

 ところでオリンピックの種目に採用される条件というものをご存知だろうか。それは夏季オリンピックに限っては、男子で4大陸75ヶ国以上、女子で3大陸40ヶ国以上で広く行なわれていること。これが諸条件である。

 この条件に当てはめてみると、野球が4大陸75ヶ国以上で行われているかというと、大いに疑問が残る。おそらく盛んに行なわれている国というのは本家のアメリカと、カナダ、メキシコ、キューバ、ドミニカ、パナマ、プエルトリコ、ベネズエラ、日本、韓国、台湾ぐらいなものであろう。それ以外だと、フィリピン、イスラエル、ロシア、ウクライナ、イタリア、オランダ、ドイツ、オーストラリアに国内リーグがあるという。それと最近、中国ではプロリーグが設けられ、細々と野球の試合が行なわれているが、あまり人気が無く、実力は発展途上というところである。

 このように見ると、まずアフリカ大陸で野球は行なわれていない。それとヨーロッパでは一部の国だけに国内リーグがあり、それも広く知られているというものではない。おそらくオランダやイタリア、ドイツ、ロシア、ウクライナと言った国でも野球そのものを知っている人はごく僅かであろう。だからそれ以外のヨーロッパの国にいたっては、野球の存在さえ知られてないかもしれない。そういえば、2002年の日韓ワールド・カップ・サッカーが開催された時、あるイギリス人記者が言った言葉が忘れられない。その人は「アジアの日本で、野球という競技が盛んに行なわれているとは夢にも思わなかった」と言い、スポーツ・ニュースでワールド・カップの結果よりもプロ野球の結果を先に報道するということに驚いていた。おそらくヨーロッパの大部分の人は、サッカーこそが世界的スポーツであると信じて疑わないから、野球が盛んに行なわれている日本の現状に目を疑ったという。

 そういった意味では、野球は北米、中米、南米の一部、東アジアとオセアニア、ヨーロッパの数ヶ国でしか行なわれていないマイナー・スポーツとしか言わざるを得ない。だからオリンピックの種目から外されてもしょうがないとは思うのである。だが、それなら何故、世界中で野球が盛んにならないのだと思うだろう。その答えはおそらく野球のルールの複雑さにあるのだろうと私は考えるのだが・・・・・。

 野球のルールブックというのをご覧になったことの或る人は多いだろう。とにかく分厚くて読みきれない。それほど野球という競技はルールが複雑なのである。それはアメリカ生まれのスポーツらしく、合理的に考えてあるからで、攻撃と守備を交互に行なう。ゲームが静止する時があり絶えず動いているというものでもなく、局面局面で作戦を立てる。守備位置や打順の役割、または代打、代走、守備要員などスペシャリストを使い分ける。やたら記録にこだわる。とにかく得点が良く入る。これらの要素は同じアメリカ生まれのスポーツであるアメリカン・フットボールにも言えることであるが、ヨーロッパ生まれのサッカー、ラグビーとは異なっていることは一目瞭然だろう。

 だからルールが複雑な野球というのは、ルールの簡単なサッカーに比較して、世界中に広がらなかったのかもしれない。つまり野球が盛んな中米の国は、アメリカから近いということから、交流が多かったということで教わることも多く、盛んになっていったと思えるし、日本の場合は、絶えず動いているサッカーよりも、静止して局面局面で作戦を考える野球の方が日本人のメンタリティーに合っていたと思える。だからサッカーよりも野球の方が盛んになったのでは・・・・・・。その影響で台湾、韓国も野球をやっていたといえるだろう。

 だが野球の認識の無い国の人に野球を教えようと思うと、これはたいへんな難事業だと思える。アフリカの人にサッカーを教えるのは安易だったと思う。サッカーはルールが簡単で、敵陣と自陣に分かれて、相手のゴールに手を使わないでボールを入れれば1点が入ると教えれば、細かなことを教え込まなくても、ある程度、試合は成立する。しかし、野球を教え込むことを考えてみると、これはたいへんである。まずストライクとボールの説明。ワン・アウト、ツー・アウト、スリー・アウトの説明。守備位置の説明。打順の説明。打ってゴロなら一塁に走り、守備側の野手が捌いて一塁でホースアウトにするとワン・アウトだとか、三塁にランナーがいて外野フライを打てば野手が捕球する。すると捕球した瞬間に三塁ランナーはスタートすることが出来る・・・・このようなことを細かに、延々と教え込まなくてはならないのである。

 我々、日本人はプロ野球中継や草野球で、常に野球に接しているから、子供の頃からルールを熟知しているが、初めて野球に接する人に教え込むには、これほど難しい球技は無いと思う。ことに教育水準の低いアフリカ諸国で野球を流行らせようと思うと、これは並大抵なことではいかないだろう。とにかく文字の読めない少年が多い地域である。言葉だけで理解させるのにも苦労するし、それに道具の確保も簡単には行かない。だから野球というのは何かにつけ、普及させるのに不都合な条件が揃っている球技なのである。ということで、残念ながらいくら野球が面白いといって世界中の人にアピールしたところで、彼らは興味を示さないだろう。所詮は一部地域で圧倒的に盛んなローカル・スポーツといってもいい。なのでオリンピックから外されるのはやむを得ない。でも野球は面白いことは確かだ。でもだからといって世界の中で最も面白い球技に決まっているといわれると、それは認識不足であるといっておこう。野球以外にも面白い球技は或るはずだ。それを日本人が知らないだけかもしれない。クリケットという野球に似た球技もあるが、この方はイギリスやイギリスの旧植民地で盛んであり、しかも彼らは熱中する。

 他の球技も観ずして野球が絶対的に面白いという考えはよそう。それに肥大化したオリンピックで野球のような場所と時間のかかる球技はやるべきではない。また野球というのはリーグ戦でこそその実力の真価が試される球技なのである。一発勝負のオリンピックには向いてない球技とだけ言っておこう。だから私は野球がオリンピックから外されても仕方が無いと考えているのである。
EDIT  |  22:41  |  スポーツ  |  TB(1)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.08.24 (Sun)

人見絹枝とは・・・・・

 北京オリンピックも今日で終わる。私は中継を皆目、観なかったのでその詳細までを知ることはないが、毎朝、テレビでその結果が嫌が上でも報道されるから、ある程度はニュースが入ってくる。でも北京オリンピックには興味が無いといったから、ほとんど何の感想も無いのだが、昨日の朝のニュースで、陸上男子400mリレーで日本チームが銅メダルを獲得したというニュースを聞いて、思わず「ウソ!」と叫んでしまった。でもニュース映像を観ると銅メダルに輝いたのは事実で、正直いって驚いた。

 ただアメリカ、イギリス、ナイジェリア、フランス、イタリアといった強豪チームが相次いでバトンリレーに失敗し、棚からぼた餅式に強豪が敗退し、日本が繰り上がって銅メダルに輝いたことを知ったのは、その後のことであるが、それでも銅メダルには違いない。まさに日本の陸上では80年ぶりの快挙という。過去、日本はオリンピックの陸上競技で、メダルに輝いたことは何度かあるが、そのほとんどが三段跳び、走り幅跳び、棒高跳び、ハンマー投げとっいったフィールド種目であり、あとは競技場外を走るマラソンでのメダルに限られていた。それで今回、トラック種目で日本男子初のメダル獲得に輝いた塚原、末続、高平、朝原の4人を讃えると共に、私は80年前の女性メダリストの名前を思い出したのである。その人こそが人見絹枝である。

 今回の400mリレーは80年ぶりの快挙だといわれたが、突如として名前の挙がった人が80年前のメダリスト人見絹枝である。でも今の人は名前さえも知らないだろうし、そんな天才アスリートがいたことさえ信じないかもしれない。その人こそがオリンピックで日本人史上ただ一人、トラック種目でメダルを獲得した人見絹枝である。それで私は今回、人見絹枝のことで少し記事を書いてみようと思ったのである。

 私が小学生の頃、東京オリンピックが開催されたが、まだあの当時は日本人初の金メダリスト織田幹雄(三段跳び)が健在であったし、南部忠平、金栗四三、西田修平、村社講平、田島直人といった陸上競技界の重鎮が生きていて、この人たちがテレビに出演すると必ずと言っていいほど名を出す人がいた。その人が人見絹枝であった。そして異口同音に言うことは、稀代の天才アスリートであったということだ。とにかく驚異的な日本人女性であったという。

 人見絹枝は明治40年(1907年)に岡山で生まれ、子供の頃から抜群の運動神経をしていたという。岡山県立高等女学校ではテニスの選手として活躍していたが、類希な才能を活かして陸上競技に出場するようになる。そして1924年には女子三段跳びで10m33の世界記録を出す。さらに翌年の1925年、三段跳びの自らの世界記録を破る(11m62)。

 1926年には大毎新聞(大阪・毎日新聞)に記者として入社。スウェーデンのゴールテンブルグで開催された第2回国際女子陸上競技大会に出場した。その大会で人見絹枝は走り幅跳び5m50(世界記録)で優勝。立ち幅跳び2m47で優勝。円盤投げ32m62で2位。100ヤード走12秒0で3位。60m走5位。250走35秒で6位となり個人総合優勝を果たす。

 そして1928年(昭和3年)には100m12秒2、走り幅跳び5m98と2つの世界記録を出し、同年夏の第9回アムステルダム・オリンピックに出場するのである。人見絹枝が出場するのは女子100m。当時の世界記録を持っていたので、日本での期待度は大きかった。だが、よりによって彼女は準決勝で4位になり敗退。彼女は号泣し「この成績だと日本に帰れない」と言ったという。同じ大会に出ていた南部忠平や織田幹夫たちに、人見絹枝は走ったことも無い800m走に急遽出ると言い出した。周囲は反対したが、彼女の意志は強く、短距離の選手が中距離の種目に出ることになった。

 そしてたてた作戦が、1周目はみんなについていって、2周目に勝負をかけるというものであった。予選を突破して、決勝へ・・・・・。だが人見絹枝は100mの世界記録保持者である。スタートから知らぬ間に先頭に立っていた。これだと最後までもたないというので、織田や南部が「下がれ!下がれ!」と人見絹枝に向って叫んだという。結局、彼女はラストスパートでドイツのラトケに続いてゴールし、2分17秒6のタイムで銀メダルに輝いたのである。この時の話であるが、ゴールした女子選手はみんなバッタリと倒れ、起き上がることが出来なかった。それで女子に800mはきつ過ぎるという事になり、その後、1960年のオリンピックで復活するまで女子800mは行なわれることがなかった。でも今では女子マラソンが当たり前のように行なわれているので隔世の感がある。

 帰国した人見絹枝は記者である本業を活かし、オリンピックの記事を書いたり、全国に講演に出かけ、また女子選手の発展に貢献しようとした。

 1930年には後輩の女子選手も育ってきて、プラハで行なわれた第3回万国女子オリンピックにチームとして参加した。でもこの時は天候が不順で、雨がちの天気であった。あいにく風邪をひいていて咳に悩まされていた人見絹枝は後輩日本人選手と共に出場したものの、後輩選手の相次いだ予選落ちの中、孤軍奮闘した。60m、100m、200m、走り幅跳び、三種競技、やり投げ等、6種目に出て、走り幅跳びに優勝。だが体調不良のため、あとの競技では優勝することが出来なかった。

 1930年9月25日、彼女達一向はロンドからの船で帰国の途につく。だがこの時に、マルセイユで受け取った日本の新聞を見て人見絹枝は愕然とする。日本の新聞に大きなことをいっておきながら、成績が揮わなかったというので扱き下ろされたのである。この時、人見絹枝は「あまりにも故郷の人は勝負にとらわれ過ぎる」といった感想を持っていたという。

 帰国した人見絹枝は多忙を極めていた。1930年秋から1931年冬にかけて、新聞に連載記事を書く合間、京都、大津、名古屋、東京、高知、徳島と講演につぐ講演。新幹線どころか長距離電車も走ってない時代である。蒸気機関車で各地の講演に出かけて行った。雄弁家でいて天才アスリートである故に、人気もあり、また断れなかったという。

 1931年の3月、人見絹枝は体調も優れず、講演の傍ら大阪の十三から尼崎の塚口へ引越しをしたと父の猪作の手記に書いてある。ところが翌月の4月、喀血し助膜炎、肺炎を併発して阪大病院に入院した。かなり病魔は進んでいた模様で、疲労困憊していた彼女の病室の名札には軽井直子の名札がかけられてあったという。

 そして、1931年8月1日、乾酪性肺炎により人見絹枝は逝去する。まだ24歳であった。なんと短すぎる一生であっただろうか・・・・・。亡くなった8月1日は奇しくも彼女が、3年前に銀メダルを獲得したアムステルダム・オリンピック800m決勝の日であった。

 その後、彼女を失った日本の女子陸上界は進歩の度合いが遅れた。日本の女子陸上界にとって彼女の早すぎる死は大きな痛手であった。その後、トラック競技でオリンピック・メダリストに輝いた日本人選手は皆無であった。そして、ようやく80年目にして男子400mリレーで銅メダル獲得とあいなったが、このように考えると人見絹枝という人は、如何に凄い選手であったかということが、これで説明がつくであろう。後にも先にも彼女以外、日本人が陸上のトラック種目でメダルを獲った人がいないのだから、おそらく空前絶後の天才アスリートとっいってもいいだろう。とにかく当時の日本人女性の規範から外れた規格外の女性で、身長が170㎝強、体重56kg、大正末期、昭和初期の女性の平均身長は140cm程度だったから、体格も欧米の女性並かそれ以上だったといわれる。そこへ持ってきて、天性の運動神経が備わっていて、短距離種目だけにとどまらず跳躍、投てき種目まで世界水準であったという。おそらく日本の陸上界に突如として現れ、異次元の強さを持っていた選手ではないだろうか・・・・。今日でも彼女の記録は、幾つかの種目で現在の日本記録とあまり遜色が無いことを考えると、このような世界的女性アスリートが日本に存在したことが信じられない。だが、あまりにも短命であったがため、彼女の真実の姿を今日では知ることが出来ずに残念ではある。もし彼女が戦後も生き続けていたとしたら、その後の陸上界に何を思っただろうか・・・・・・・・。まさに不毛の日本の女子陸上界に輝く一等星というべき存在、それが人見絹枝だったのである。


EDIT  |  11:19  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.08.23 (Sat)

更新できず

 一昨日は残業で、帰宅が遅くなり、昨日はパソコンのウイルススキャン中により更新出来ず、今日は、土曜出勤により、午後8時前に帰宅。さて、ブログを更新しようと思い、パソコンの前に座ったのはいいが、雷鳴が鳴り出した。これだとどうにもならないので、更新は出来ずじまい。残念・・・。さきほど近くに雷が落ちたようなので、電源も落とします。それでは・・・・・また。
EDIT  |  22:50  |  その他  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.08.20 (Wed)

陸上男子100mの結果を見て感じたこと

 連日、北京オリンピックの速報が入る。競技の中継は皆目、観ていないので感想もないが、ニュースで知らされた陸上男子100mの映像を観て驚いた。何とウサイン・ボルトが9秒69で走りきったではないか。それも余裕のゴールで・・・・・。スタートは良くなく、前半は横一線だったのに後半に入ってから、加速がついてくるや一気に出てきた。そして最後は完全に抜け出したかと思うと、両手を広げながら走り、手で胸をポーンと叩いてゴールした。それでいて驚愕の9秒69・・・・・・信じられない。

 もしウサイン・ボルトが最後まで、気を抜かずに全力で走破していたとしたら、もうコンマ05ぐらい記録が縮まっていたのではないだろうか。この走りを観て、使い将来人類は9秒5の壁さえ破ってしまうのではないかと、そんな気さえしてしまう。本当に人類の壁というのは存在するのだろうか・・・・・。いや存在するだろうが、人間が昔よりも大きくなってきている以上、記録も更新し続けるのではないかといった感慨に囚われてしまう。つまりウサイン・ボルトというランナーは、2m近い大男である。過去に男子100mで世界記録成り、オリンピックで金メダルを獲ったランナーというのは、比較的筋肉質ではあってもさほどの大男はいなかったしガッチリした体型の選手もあまりいなかった。カール・ルイスは大きな選手であったし、東京オリンピックの時のボブ・ヘイズも筋骨隆々の堂々たる選手であったが、全般的に細身のランナーが多かった。ただソウル・オリンピックの時のベン・ジョンソンは筋肉の塊のような体型で、圧倒的な瞬発力で驚異的な9秒79というタイムで優勝したが、それはドーピングによるものであったことが判明し、結局、彼は陸上競技の世界から追放されてしまった。またアテネ・オリンピックの金メダリスト、シャスティン・ガトリンも同様に薬漬けだったらしいが・・・・・・・・。

 このような選手を除いては、100mのランナーというのは総体的に意外と筋肉質でも痩身の人が多かったように思う。1936年のベルリン・オリンピックで大活躍したジェシー・オーエンスもそうだが、ローマ・オリンピックの100m金メダリスト、西ドイツのアルミン・ハリーなんか、何処から見ても100mの世界記録保持者に見えなかった。色が白くひ弱そうでいて、スタートがズバ抜けて速く、100mの世界記録10秒0を記録した最初の人となった。

 またメキシコ・オリンピックで人類初の10秒の壁が破られたのであるが、この時のジム・ハインズも細身の選手であった。スタートはそんなに良くはないが、中間部においてスピードか乗ってきて、最後まで持続した。それで結果が9秒95である。ただし、当時は2000mを超える高地で行なわれたオリンピックだということで、この記録は別格の扱いになったほどである。だからジム・ハインズが出した記録は、その後、カルビン・スミスに破られるまで、10数年かかっている。このようにジム・ハインズの出した記録というのは、偶然の産物と言ってしまうと身も蓋もないが、空気の薄い高地で行われたことと、それまでのアンツーカーという赤土のトラックではなく、全天候型の人工トラック(タータン・トラック)が初めて使用されたことが重なって、この大記録となったようだ。

 ジム・ハインズがメキシコで出した9秒95というのは、長い間破られることが無かったが、カルビン・スミスやカール・ルイスの出現で、10秒を切るのが当たり前のようになってしまった。ただ人類がそれだけ進化したかというと、疑問符がつくのでもある。それはこのあたりから、シューズやウエアーの開発、反発力の強いトラックの開発が進み、それによりトレーニング技術の向上があって、100mの世界記録が徐々に破られていくようになった。でもウサイン・ボルトの今回のタイムは出色のもので、恐るべきスプリンターが現れたものだと思った。

 今後、ウサイン・ボルトが出したタイムが破られることになるとしたら、やはり大型のランナーで歩幅が広く、それでいてピッチ走法で走ることが出来るようなランナーがいたとしたら、記録も破られる可能性はある。とにかく人類は大型化しているのであり、身長2m超の短距離ランナーが何れ、近い将来出現するかもしれない。それで巨人の人は動きがスローモーといわれるが、もしこのような巨人が身長180㎝位の人と同様な動きが出来るようになれば、とんでもない大記録が生まれるかもしれない。20年、30年先には身長2m20cmもありながら、足の回転が滑らかでいて、大きなストライドなのにピッチ走法で走れる黒人が現れたとしたら、100m9秒49なんて今では考えられない記録で走ることが出来るかもしれない。だから人間の大型化により、必然的に記録は向上していくように思う。何故なら、人間が大きくなっても距離の100mは昔も今も変わらないからである。距離に対する身長の比率を考えれば、次第と記録は縮まっていくのではないだろうか・・・・。

 その昔、日本に暁の超特急と呼ばれた短距離ランナーがいた。その人の名は吉岡隆徳である。吉岡隆徳は、黒人や白人に混ざると小さく見えていたのにも係わらず、1932年のロサンゼルス・オリンピックで男子100m決勝に残り、東洋人初の6位に入賞した。その後に10秒3の世界タイ記録を出したほどだから出色のスプリンターということが出来ると思う。とにかくスタートが抜群で、50mまでは世界一速かったといわれていた。でも後半の50mになると加速のついてきた大柄な外国人に迫られてしまうのである。

 もし吉岡隆徳が身長2mあったとしたら、当時にとんでもない大記録を出していたであろう。とにかく小さい人は俊敏に動き、スタートもいいのだが、体格で劣るためどうしても後半は大きな外国人に負けてしまうのだ。だからもし身長2m30ある人がいたとして、その人が吉岡隆徳のような動きで100mを駆け抜けることが出来たとしたら、おそらく現在では考えられないような驚異的タイムが出るのではないだろうかと私は考えているのだが・・・・・・・・。人類は総体的に体格が向上しているし、昔は動けないとされたバスケットボールの2m超の選手が、今では実に素早い動きをするようになった。とにかく人類は大きくなっていき、それでいて昔の160cm位の身長の人と同じような動きを、今では身長180㎝位の人が当たり前のようにやっているのである。だから人類の体格が向上していく以上、100m走の記録も伸び続けるように思うのだが・・・・・・・・・・。

1960年のローマ・オリンピックから2000年のシドニー・オリンピックまでの陸上男子100m決勝の映像。

 
EDIT  |  21:50  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.19 (Tue)

高校野球も終わったが・・・・・

 このところ毎日、毎日、北京オリンピックのニュースばかりで、観るつもりはなくとも情報だけは垂れ流しのように入ってくる。それと昨日、ようやく閉幕したが高校野球と含めて、テレビは朝から晩までそればかり・・・・・。どちらも観る気はなかったが、新聞の紙面といいテレビのニュースといい、必ず大々的に報道するから結果は判ってしまう。

 北京オリンピックを何故に観ないかは、これまでに理由を何度も書いたから新たに書かないが、高校野球を観ない理由は、いくつかある。

 第1、高校生の野球を朝から晩まで、天下のNHKや朝日放送が生中継をする意味が判らない。
 第2、教育の一環といいながら、他の運動部と比較しても野球だけを特別扱いしている。
 第3、朝日新聞や毎日新聞が主催して過剰報道をしている。
 第4、高校野球連盟が腐っている。
 第5、野球留学生が全国で蔓延ってしまい、野球強豪高校の出現と、職業監督の出現を促進してしまい、その裏で金が舞っている。
 第6、クラブ活動の一環に過ぎないのに、もはやその域を超えて、それが目的になってしまっている。

 結局、高校野球というのは、新聞社が販売促進のために始めた大会であり、そこへラジオ中継、テレビ中継が加わって、次第と全国的な人気を得たがため、各地に野球強豪校を誕生させ、選手の青田買いから始まって、監督の引き抜き、野球留学生等を蔓延らせ、全国ネットでテレビ中継されることにより、スター的な扱いを受ける選手が出現してしまう・・・・・・。はたしてこれは教育の一環として行なっている大会の健全な姿かと、懐疑的になってしまう。もうNHKも朝日放送も全試合の生中継をやめたらどうかと思う・・・・・・・・・。もし中継するとしても、決勝だけとか。

 それに比べると同じ高校生の運動部でも、他のスポーツだとこれほどの過剰な報道の扱いを受けることは無く、インターハイと言ってもほとんど知られることは無い。このような理由で、私はあまり高校野球が好きではないのだが・・・・・。

 ただしこういったことに眼を瞑って言わせて貰うならば、最近の高校野球は大味な試合ばかりで面白くない。今年なんかは1イニングに10点やら、9点やら簡単に入ってしまう。これだとセーフティーリードはいったい何点なんだ・・・・。本当に打高投低でピッチャー受難の時代が続いているといってもいい。最近の高校野球しか知らない人は、こんなのが高校野球だと思っているかもしれない。でも私が高校生だった頃の高校野球は木製バットの時代だから、こんなに簡単に大量得点は入らなかったものだ。

 当時、非力な高校生達は木製バットを短く持ち、ミートを中心としたセンター返しに徹していた。だから外野手の守備位置も、今とは違って内野のすぐ後ろに守っていたものである。つまりプロ野球の外野手よりも10m近く、前に守っていた。だから外野手の頭を超えると長打に成り、時々ランニングホームランもあったものだ。そんな調子だから、木製バット時代の高校野球では、一大会でホームラン数が10本行くか行かないかで、今のように40本も50本もホームランが乱れ飛ぶ野球とは違っていたものである。

 こんな時代だら、高校野球というのはヒットか四球でランナーが出ると、送りバントかスチールで進塁させ、三塁にランナーがいるとスクイズというのがセオリーであった。でも今だと、金属バットのおかげで強打強打というのが定石かもしれない。その結果、ビッグイニングの大量得点が見込めるようになってというべきか・・・・・。本当にピッチャー受難の時代である。

 今だと昭和33年の徳島商業VS魚津、昭和44年の松山商業VS三沢の延長18回引き分け(両試合とも0対0)なんてことにはならないのかもしれない。つまり昭和49年の夏の大会から、金属バットの使用が許可されてから、高校野球そのものが変わってしまったのである。それまでの快速球がバットをへし折ってしまうという醍醐味は無くなり、今あるのは甲高い金属音と共に外野スタンドまで飛んでいく白球の姿ばかりである。結局、金属バット使用により、芯に当らずともボールは飛んで行くので、安易なスラッガーばかりが急造していまい、プロ野球に入って木製バットに変わると伸び悩んでしまうのだ。

 おそらく木製バットの時代と現代の金属バットの時代とでは、バッティングフォームも変化しただろう。今では、上半身を鍛えてパワーを身に付けた選手が飛距離を伸ばしているように思えるが、昔の木製バットの頃は、下半身が強くなくてはボールが飛んで行かなかった。それに真芯に当らないと木製バットは飛距離が伸びないので、技術の向上にもなったものである。だがバットの根っこや先でも当れば飛んで行く金属バットを見ていると、速く振り回すパワーさえ身に付ければボールは遠くに飛んでいくなあと意を強くした次第である。

 今さらよく折れる木製バットを使用しろとは言わない。でも金属バットが高校野球そのものを大味にしてしまったのである。一見派手な撃ち合いの応酬で面白いが、如何に一点を取るかということに拘った木製バット時代の高校野球を知るものにとっては、守りの野球の面白さをもっと知って欲しいとは思う。

 今から40年前の第50回記念大会の決勝戦。興国高校VS静岡商業。一点取るのに四苦八苦。当時はこのような試合が実に多かったものである。参考までにいうと、静岡商業の左腕投手は後に中退して巨人入りした新浦投手である。

EDIT  |  21:33  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.17 (Sun)

冷やしうどんを食べる

s-P1010413.jpg

 ブログを復活させたものの、2日ほど更新が滞ってしまった。それはあまりに暑くて、デスクトップ型パソコンの置いてある部屋が2階の西日を受けるところにあるため、室内温度が40℃近くなるので、とても更新などやってられなかったからである。部屋を涼しくすればいいのだろうが、あいにくこの部屋にはエアコンは無く、日中はまるで蒸し風呂状態。こんな部屋に西日を浴びる午後、長時間パソコンの前に座っていると頭がくらくらしてきて、思考回路も働かずブログ更新どころではない。

 夜でも涼しければいいが、今年の夏に関しては陽が落ちても室内温度が30℃以下にならないので、ちょっと困っている。夜も寝苦しいから体全身がなんとなくだるい。それに食事にしてもひつこいものは食べたくないのでスタミナ不足になる。いよいよ盆が終わるが、残暑はいつまで続くことやら・・・・。それで何かあっさりした口当たりのいいものでも食べたいなあと、思いついたのが冷やしうどんである。よく定番で冷やし素麺とか、夏になると食べるだろうが、あの冷やし素麺が、私は嫌いではないが麺そのものが細すぎて食べた気がしない。だからどうせ食べるのなら、冷やし素麺よりもボリューム感のある冷やしうどんの方が食べた気がおこると思い、早速、食べてみたのである。

 讃岐うどん3人分の麺を沸騰した熱湯の中に放り込み茹でる。8の字型に掻き混ぜながら、麺をほぐしていく。かれこれ10分以上茹でるとうどんらしくなってきた。粉っぽくなくなって巧い具合に茹で上がっている。早速、鍋の中のうどんをザルに落とし、冷水でもみ洗いする。さらに氷を入れた冷水で麺を冷やし引き締めて出来上がりである。つけつゆにはネギ、生姜、刻み海苔を入れて頂くが、喉ごしがいい。暑い最中、あっという間に3人分の麺を食べてしまった。

 うどんは比較的、よく食べるのだが、冷やしうどんはあまり食べない。どうも私にはうどんというのは、熱い出汁の中に入ったかけうどん(大阪で言うところの素うどん)しか日頃、思いつかない。それも晩秋から、初春にかけての寒い時期にしか食べようとも思わないので、ましてや冷やしうどんなんて滅多に食べないのだ。でも最近は讃岐うどんが全国的に有名になったので、ぶっかけうどん、釜揚げうどんやこのような冷やしうどんを食べる人が増えてきた。そういった影響で私もたべてみたという次第である。それに私は、ラーメン、うどんと分けて考えると日頃からうどんを食べることの方が多い。

 主にうどんを食べるのは寒い時期が多く、当然のように熱い出汁に入ったかけうどんばかり食べているのだが、やはり昆布と煮干でとった風味のある淡口の出汁には、コシのある讃岐うどんよりもコシの弱い大阪のうどんの方が出汁に馴染むのか相性が良い。けども麺そのものを楽しむのには、コシのある讃岐うどんの方がいいだろう。讃岐うどんは生醤油をかけただけでも食べられるし、冷やしうどんにも向いている。

 口当たりが柔らかくて喉ごしがいいからスルスルと食べられるのだが、所詮は麺類である。それに具は無いから、すぐに腹が減ってしまう。冷やし素麺と同様で、酷暑の夏には向いているが、腹持ちがよくなく満腹感があまりないので、3時間も経たないうちに腹が減ってきて、冷凍たこ焼きをつまみ食いしていた。でも食欲のわかない夏には、冷やしうどんはもってこいかもしれない・・・・・・・・。
EDIT  |  13:55  |  食・飲  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.14 (Thu)

大阪のミスト散布

 大阪市役所前のミスト散布
s-P1010407.jpg

 先日、大阪の都心部に出かけたが、ミスト(霧)散布なるものを行なっていた。これはヒートアイランド対策のモデル事業として、昨年から全国の街角で行なわれているものだが、水道水に通常の10倍以上の圧力を加えてノズルから数10マイクロメートルの水粒を噴射させ、水が気化する際に周囲の熱を奪う性質を利用して気温を下げるというもので、ノズルから半径4~6m程度の範囲で平均2~3℃冷却効果があるという。粒子は細かく通行人が触れても濡れないというのが特徴で、今年は大阪市内に12ヶ所設置され、気温が30℃以上、湿度が70%以上になると自動的にミストが出る仕組みになっているとのことらしい。

 夏になると日本の都市は、このようなミスト散布を実施しているようだが、大阪は特に積極的なようだ。それというのも大阪の異様な暑さが原因しているのだろうが・・・・・。これはどうも大阪の地形と関係があるようで、西側は海に面しているからいいとしても、北側、東側、南側と三方向の後背を山が
囲んでいるから、熱が逃げないようだ。だから夏に関しては空気が動かなく、そこへヒートアイランド現象で、都市部の温度がより上昇するという矛盾がある。

 よく大阪は沖縄より暑いというが、真夏の最高気温で言うならば沖縄は35℃以上になることはあまり無い。それは海に囲まれているからという島独特の立地条件によるもので、毎日、35℃以上が当たり前の大阪の方が夏に関しては暑いということになるのだろう。たとえば1971年~2000年における平均値によると、年間の真夏日(30℃以上)の平均日数の多さは、統計的に那覇(85.3日)、鹿児島(71.3日)、熊本(71.2日)、大阪(67.9日)の順になっている。上位は九州の都市で、そんな中に大阪が4番目に入っているというのも如何に暑いかという証明にでもなるところだろうが、那覇に関しては猛暑日を記録した日数となると、鹿児島、熊本、大阪よりも少なくて、意外と夏は涼しいということになる。それでその日の最高気温が猛暑日(35℃以上)を記録した日の多さでいうならば、熊本、大阪、京都、熊谷、岐阜の順になるそうだ。そして、8月に限っての最高気温の平均値となると、鹿児島と大阪が33℃と全国第1位で、3位が京都(32.9℃)というから数値の上でも大阪は日本でも有数の暑い都市ということがいえそうである。

 よく全国の最高気温を記録したということで、昔の山形の40℃とか、埼玉県の熊谷や岐阜県の内陸部などが、よく話題に上がるが、これらの街はフェーン現象が起きて、一時的に異常なほど気温が上がるという。でも1ヶ月、2ヶ月というスパンで考えると、やはり大阪の方が暑いということになるのだろう。

 だから灼熱都市の大阪でミスト散布をあちらこちらで実施しているというのも判らないでもないが、確かに近くを通ると幾分、涼しい。でもこの散布しているところから離れると、またまた猛烈な暑さが襲ってくるではないか・・・・・・。所詮は焼け石に水である。やはり地球温暖化の余波は大きく、いよいよ西日本は確実に亜熱帯地域に入ったといっても過言ではないだろう・・・・。



 
EDIT  |  11:34  |  近場散策  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.13 (Wed)

墓参り

 お盆だというので墓参りに行ってきた。でも京都の盆は基本的には旧暦で行なうところが多かったのだが、最近はそうでもないようだ。だがそれも宗派によってしきたりは違うので、一概に言えないだろうが、私の家系は代々から九州なので京都の古いしきたりはよく判らない。

 お盆とは先祖の霊を家に迎えて供養する行事で、これも中国からの伝来だといわれ、飛鳥時代から行なわれているというが、現代の若い人は墓参りなどするのだろうか・・・・・・。この習慣も徐々に薄れていくような気がするが、ご先祖様を供養するというしきたりは風化させないで、未来永劫受け継がれていってもいいとは思う。そうでもしないと自分のご先祖様のことを考える機会さえだんだんと失っていく。

 自分自身のことで言うならば、私の両親の親。つまり私からすれば父方の祖父、祖母、母方の祖父、祖母、いずれも私が生まれる前に4人ともこの世の人ではなかった。だから祖父や祖母のいる人が羨ましかった。だから両親のいない父や母が田舎に帰るという習慣も無くて、私は九州にいる大勢の従兄弟や伯父、伯母,叔父、叔母の顔も高校の頃まで知らなかった。最近はこちらに住んでいる従兄弟も何人かいるが、お互い滅多に交友がないので、親類だといわれても疎遠な関係ではある。だから私の父が亡くなって、墓を建てたときでも結局、九州ではなくてこちらに建てたという次第である。要するに墓は頻繁に供養する人が定住しているところに建てるのが一番良いのであって、滅多に行けないような遠方に墓を建ててしまうと、それこそ17回忌だとか33回忌だとかといった区切りの時でしか墓参りに行けなくなってしまう。だから都会で働いている多くの人が、このような盆の休みを利用して帰省し、墓参りをするのだろうが、墓が近くにある私などは、毎月1回は墓参りしているので、盆休みに墓参りだと特別なことをやらなくてもいいのだろうが、古くからのしきたりなどで習慣を途切れさす訳にも行かず、今日、墓参りと相成ったのだが・・・・・・・・・。とにかくこの暑さである。墓というのは大概、山の上にある。だから炎天下であるにも係わらず、急な山道を登って行った。

 標高で言うと100m以上あるところの山道を登って行く。暑くて暑くてめまいがする。全身汗だくになりながら、墓地までなんとか到着する。しかし、この日ばかりは墓参りの人が多くて、流石に盆だと認識するが、みんな車が一台通るのが精一杯の狭い山道を車で乗り付けて来るから困ってしまう。これだと汗もかかずにやって来る人ばかりで、墓地の狭い空き地は車で埋まってしまっている。時代の流れとはいえ、如何なものかと思ってしまう。歩行がおぼつかない老齢者や身体障害者ならいざ知らず、意外にも堂々たる体躯の若い人が大勢、車でやって来る。

 うーん、祖先の霊を弔ったり、供養するのもいいが、この盆の墓参りも形式ばかりでだんだんと心が伴わなくなってきているというのが、今日の墓参りで感じたことである。町から遠い墓地なら仕方が無いが、駅から歩いても15分以内でこれるような墓地なのに、車でやって来る人があまりに多いのには驚いた。こんなことでご先祖様を供養できるのであろうか・・・・・・老婆心ながら一言、言いたくなった。みんな汗をかきたくないのだな・・・・・。
EDIT  |  16:48  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.12 (Tue)

盆休みに入りますが・・・・・

 お盆休みに入ったが、やっと盆かというほど今年の夏は長く感じる。これほど暑い夏は私の記憶の中では1994年以来かもしれない。と言っても最高気温を記録したとか言うのではなく、例年にも増して夏が長いということである。それは雨が皆目降らないからなのだが、京都地方に限っては7月の真夏日が31日もあった。つまり7月全てが真夏日であったということで、とにかく夏が長く感じるのである。それで7月20日以降に限っては、猛暑日でなかったのがたったの2日だけで、あとは全ての日が35℃以上という凄まじさである。でも昼間の暑さは何とか我慢するとしても、最低気温がほとんど27℃以上というのは参った。まさしく連日の熱帯夜である。これだから夜が寝苦しくて、不眠状態が続き、昼間に眠くなるし体はだるいときている。夏バテを防ぐのは水分を摂取して充分な睡眠をというが、これだけ夜が暑いとエアコン無しでは寝られない。でもCО2削減のためには、あまり電力を使わないのがいいのだろうが、自分の健康は自分で守るしかなくそうも言ってられない。本当に京都、大阪は暑い所だと思う。よくテレビの全国ニュースで、今日の東京は32℃もありましたなんて言っている時があるが、羨ましく感じる。東京は35℃を超えると、大騒ぎで「今日は猛暑日でした」と報道しているが、こちらはそんなの毎日だと叫びたくなる。

 昨年のことを考えてみると、7月の20日頃まで梅雨が明けずに、本格的な暑さがやってきたのは7月の下旬からだった。だから夏は短かったという印象があるが残暑は厳しかった。昨年は夏の到来が遅い分だけ10月まで30℃を超える日が続いていて秋らしい日がなかった。だから今年は夏が早く来て、夏が長い分だけ秋が早く来て欲しいという淡い期待も抱きつつあるのだが、やはり残暑も厳しいのだろうなあ・・・・・・・。本当に京都の夏はどうしようもない・・・・・・。

 こちらは暑い暑いと唸っているが、テレビの方は相変わらず北京オリンピックを連日のように中継している。でも私は観ないといった以上、ほとんど観ていない。でも結果はニュースで入ってくる。でも北京オリンピックの話題には触れるつもりは無い。オリンピック関係のネタなんて山ほどあるが、書かないといった以上、書かない。そんなおり、ロシアとグルジアの軍事衝突があった。グルジアなんていうのは、親米の国だけに、かつての冷戦構造を思い出させるが、終息に向ってるようで事なきを得た。やはり武力衝突は良くない。北京オリンピックを散々、扱き下ろしたあとで言うのも何だが、同じ戦いでも殺し合いよりはスポーツの戦いの方が、遥かにいいなあと感じた次第である。
EDIT  |  20:06  |  時事  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.08.10 (Sun)

花火大会

 一昨日の8月8日、帰宅時にちょうど『びわこ花火大会』が開かれていた。JRの電車に乗っているとびわこの浜大津付近で花火が打ち上げられているのが観てとれた。そういえば花火大会なんて、長らく行ってないなあと思いながら、ぼんやりと眺めていた。関西ではPL教団の花火大会が有名だが、人が集中的に混雑するイベントというのが大嫌いな小生としては行く気も起こらない。また大阪の十三でも最近は毎年のように花火大会が催されているが、見物客はおよそ100万人だという。それで花火大会が終了すると、その人たちが一斉に帰宅の途につくので大混雑の極みとなる。だから帰りは電車に乗るのに2時間も3時間もかかってしまい、下手をすれば家に帰れなくなる。みんなそこまでして花火を観たいのかと思うが、とにかく日本人は花火が好きである。それは日本人の探究心がそうさせるのか、世界でも珍しい新種の花火が披露されるからで、実にカラフルなのだ。それに比べると西洋の花火は丸く拡がらず枝垂れ柳のようにパーンと火の粉が落ちていくように観えて、色彩も単純で種類も少ない。だから海外の花火と比較すると日本の花火は観ていて飽きないというのもある。

 そもそも花火というのは中国で始まったとされるが、日本で製造されるのは16世紀とされる。時代からすると戦国時代だろうか。おそらく鉄砲伝来と前後するのだろう。でも見世物として盛んになったのは江戸時代に入ってからといわれ、この時代に有名な花火業者が出現している。その人が鍵屋弥兵衛である。弥兵衛は奈良・吉野の人で、1659年江戸の両国に店を構えた。それが『鍵屋』である。その後、『鍵屋』の手代であった清吉が1810年に暖簾分けをして、やはり両国に『玉屋』を開業する。そういった経緯があって、花火の打ち上げの時に「鍵屋! 玉屋!」という掛け声を叫ぶようになったということである。

 ところで電車から花火大会を観ていたが、花火の種類も色々あって、最近はさらに増えているなあと感じる。今から30年以上前に、私は奄美大島で花火大会を見学したことがあるが、その時代から比べると格段に種類が増えている。一般的に打ち上げ花火というのには基本的に菊、牡丹、錦冠(にしきかむろ)、銀冠(ぎんかむろ)、蜂、椰子、分砲、葉落、柳、千輪、虎の尾などがあって、そこに型物といわれる種類がある。これらには土星、UFО、リングと様々あり、そこにスターマインという速射連発花火が加わるのだ。だから少なくとも北京オリンピックの開会式で打ち上げられた花火よりも、日本の各地で打ち上げられる花火の方が多彩で絢爛豪華である。

 日本の花火というのは今や、種類にしろ色彩にしろ世界において冠たるものであろう。だからみんな浴衣を着て、どれだけ人で混雑しようが花火大会というと眼の色を変えて見学に行くのかもしれない。
でも朝早くから炎天下で席取りをしてまで、花火を特等席で観ようという執念は私には無い。そういえば電車からぼんやりと打ちあがる花火を観ていたら、何時の間にか電車が膳所に到着した。すると溢れんばかりの人が乗ってきたではないか。まだ花火大会も終わってないのに、帰宅を急ぐ人で電車が瞬くに超満員になった。でも駅のホームに溢れている人たち全てを捌き切れなくて、積み残しの人が大勢いた。だが次の大津駅でも同様で、さらに大勢の人が乗り込んできて、電車に入りきれない人で混雑し、電車が大幅に遅れてしまった。ああ、仕事帰りのこちらとしてはいい迷惑である。だから花火大会は行きたくないというのが、正直な気持ちであるが、こんな時、花火大会会場近くの超高層マンションに住んでいる住民というのは、夏になると恩恵に授かるのだなあと意を強くしたのである。

PL教団の花火大会

EDIT  |  10:53  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.08.09 (Sat)

北京オリンピックが始まったが・・・・・

 昨日、帰宅したのが午後9時を大きく回っていた。汗だくになって部屋に入るなり、エアコンを入れて一服する。そして、NHKのニュースでも見ようかとテレビのスイッチを入れたものの、ニュースではなく北京オリンピックの開会式の生中継を放映していた。

 ああ、そうか北京オリンピックの開会式は夜に行なうのか・・・・・・・。昔はオリンピックの開会式というと昼間に行なうもので、整然とした選手の入場から始まって、開会宣言、大会旗掲揚、選手宣誓、聖火の点火と決まっていたが、1992年のバルセロナ・オリンピックあたりから夕方~夜に開会式を行なうようになってしまったようだ。理由は色々とあるが、だんだんとショー化するオリンピックの開会式そのものを夜に行なった方が、炎や照明を駆使して、より幻想的で印象的な演出が可能になるからと考えられるからだろう。

 それで当初から北京オリンピックに懐疑的だった私自身も、その演出に見入ってしまい暫くはテレビの画面から視線を逸らせなくなってしまった。でもだんだんと佳境に入るにしたがって嫌気がさしてきて、とうとうテレビを切ってしまった。開会式では悠久の歴史を誇る中国の文化と発明品に拘り、紙を作っているところや印刷技術を紹介した映像、古い山水画から現代の宇宙開発にいたるまで、中国が如何に凄いかというところをこれでもかこれでもかと見せ付けるのに辟易してしまったからである。世界的イベントであるオリンピックを利用して、国家の力を誇示したいのはわかるが、ここまで鮮烈にアピールされるとチャン・イーモウの演出をもってしても、それ以上に中国という中華思想に毒された国の慢心ばかりが鼻についてしまう。能天気にイベントだから楽しいと見入ってしまう人には華麗なショーであろうが、皮肉屋の私としては一言二言、言いたくなってしまった。

 中国はいったい何のためにオリンピック開催にこじつけたのか・・・・・・・・。それは国際化した民主的な中国がここまで素晴らしい国になったのだという事実を世界にアピールしたかったからであって、大会のスローガンOne World,One Dreamであるということらしい・・・・・。

 でもそれは表向きであって、真実は世界に冠たる中国は今後も発展し続け、世界にその威信と実力を誇示するために、現代中国の強大さ長大さをぜひ世界の隅々まで浸透させなければならず、その目的の手段として世界中が注目するオリンピックを利用したということなのだろう。

 別にオリンピックを開催してもらっても結構だが、国家プロジェクトで単なるスポーツ・イベントにしか過ぎない五輪を、国の実力を誇示するための大いなる手段として利用していることは何処から見ても見え見えなので、私としてはその辺り今回のオリンピックは当初から嫌悪感しかなかった。

 中国はこのオリンピック開催にどれたけの金をつぎ込んでいるのだろうか・・・・・・・。慢性的に水不足の北京に水を供給しなくてはならないというので、数年も前から北京周辺の農民の水田に水を送らなくなり、彼らには米の生産をやめさせてトウモロコシの生産に切り替えるように一方的に命令を下し、北京の貧相部落の住民は追い出し、一方的に住居を破壊して近代的な超高層ビル街に変えてしまったり、内陸部に住む出稼ぎ農民には、北京オリンピックの間は目立つし邪魔になるというので、一方的に故郷へ送り返したり、急激に増えつつある自動車のために交通停滞が慢性的に起こりつつあり、それを防ぐ意味で強制的な規制をしたり、とにかくオリンピック開催のためには、人民の生活を踏みにじろうともお構いなし。すでに少数民族を弾圧しているところは誰もが知っている歴然たる事実であるが、中国政府は臭いものには蓋をしようという隠微体質で、一向に透明化されない体制下にある。

 『一つの世界、一つの夢』だなんて、表向きは建前で如何にも平和の祭典を開催するのに都合の良いスローガンを掲げて、どうにかオリンピック開催に邁進してきただろうが、やはり表と裏では180度違う顔が見え隠れしている。だからどうも北京オリンピックは純粋に私としては楽しめないし見れないのである。
 
 おそらく中国は国家プロジェクトで、オリンピック開催が決定した時から全国の有望な少年少女を集め、優秀なコーチとそれを科学的に支えるサポート団と医師団が中心になって、ありとあらゆる競技に選手を送り込んできて、金メダル50個ぐらい獲るつもりでオリンピックに望んでいるだろう。たぶん50個ぐらい金メダルを獲るかもしれない・・・・・。それが国の力を誇示するのに必要だと考えている国だから、個人や一企業が中心になって選手を送り込んでいる日本とは違うのである。おそらく今回のオリンピックは日本には逆風が吹くだろうと私は考えている。前回のアテネのように日本勢は好成績を挙げられない。それは中国という巨大な組織を後ろ盾に持っている国家プロが大挙して参加するオリンピックに関してはなおさらだ・・・・・。それでいて中国人は中国が金メダルを獲るごとに歓喜して大騒ぎするのだろう。それがオリンピックというものであり、異様なナショナリズムを高揚させる代理戦争のようなイベントだと考えてるのかもしれない。こんな国でオリンピックを開催すると、日本のようなスポーツに金をかけない国の選手達は哀れなものである。いっそのことボイコットすればよかったのにと思うが、既に日本選手団は北京入りしている。今さら参加するななんていえないが、中国人の心ないブーイングに耐えて、金メダルなんていらないから、各自、精一杯実力を出し切ってもらいたいと思う。どうせ中国に有利な判定が加わるのは判っているのだから、それを乗り越えて戦わなくてはならないのである。

 つまりオリンピックとは中国のような国においては、国民のナショナリズムを高揚させるのに都合の良いイベントであり、民主化弾圧を行なおうが、人権を踏みにじろうが、少数民族を制圧しようが、オリンピックを強行開催することにより、それらの意識を逸らすのには絶好の機会と考えているのである。だから北京オリンピックに対しては、私は興味も無ければ関心もない。だから観るつもりもない。せめてオリンピックから国家という柵を取り除いて、栄誉は選手個人か、競技の団体に送られるべきであって、何時までたっても国別メダル獲得数を競いあい、国旗掲揚と国歌吹奏なんてナショナリズムを奮い立たすようなことばかりやっているようなオリンピックは、やはり20世紀の遺物といわれても仕方が無いと思うけど・・・・・。
EDIT  |  10:21  |  時事  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.08.09 (Sat)

どうにか復活しました

 PCの前に座って記事を書くのは約半月振りとなる。パソコンの電源が途中で落ちてしまい、どうにもこうにもいかなかったが、この間に色々とパソコン内の掃除を含め、応急処置を施してみたらどうにか動くようになり、3時間電源を入れっぱなしでも落ちなくなった。でもパソコンそのものが古く、またいつ調子が悪くなるか判らない状態なので、ブログ中断もまた有り得るかもしれないが、一応、今のところ大丈夫なのでブログを細々と再開する事にいたしました。でも近々、新しいパソコンの購入も考えているのであるがそれも何時になるやら・・・・。

 だから以前ほどのペースでブログの更新はできないだろけども、蝸牛が進むようにゆっくりと更新をすることにいたしましたので、今後ともよろしくお願いします。
EDIT  |  08:38  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑
 | BLOGTOP |