2014.10.26 (Sun)
第75回菊花賞
最近はあまり記事を書いてないので何かを書こうかなと思ったら、今日は菊花賞が行われたので競馬の記事にする。それにしても暖かいな。とても菊花賞というような雰囲気ではない。そういえばミスターシービーが三冠馬になった時に京都競馬場に行ってたが、あのときは霙が時折降るほど寒かった。もう初冬というようなどんよりした空模様だった。それに比べると今日の暖かさはちょっと異常。もっとも昔は11月に行われていたから、今とは比較はできないが、それしても暖かい日であった。
それで弟75回菊花賞なのであるがイスラボニータが出てこなかったので盛り上がりに欠いた。距離が3000mということで最近は天皇賞に回ることも多くなり、菊花賞のメンバーが寂しくなるのはお決まりとなってしまった。でもダービー馬のワンアンドオンリーが出てきたので、なんとかG-Ⅰの面目を保ったような形となった。そして1番人気は当然ワンアンドオンリー、2番人気トゥザワールド、3番人気トーホウジャッカル、4番人気サウンドオブアース、5番人気トーセンスターダムの順で18頭が出走してスタートが切られた。サングラスが逃げ、それをシャンパーニュが追い、さらにマイネルフロスト、ゴールドアクター、トーホウジャッカル、トゥザワールド、その外にワンアンドオンリーといった有力馬が続く展開。馬場は雨が降ってないのでパンパンの高速馬場。はたしてワンアンドオンリーはこの高速馬場が克服できるか。平均ペースでどんどん進む。このペースなら2番手以下ちは差が開くものだが、今日は馬場が良いのか、どの馬も無理して前のほうにつけているというのでもなく、自然な流れとなっている。ただワンアンドオンリーはちょっと前に行きたがっているような・・・・。レースはスローに落ちずに淡々と運び、3コーナーで徐々に各馬が動く。ワンアンドオンリーは終始外を通っている。4コーナーを回って直線に入る。あと300mのところでトーホジャッカルが先頭に出た。ワンアンドオンリーは伸びてこない。トーホウジャッカルが先頭だが、内からサウンドオブアースが詰め寄ってきた。この2頭が後続を引き離して競り合う形となったが、トーホウジャッカルの伸びが良く、半馬身つけて勝利。
1着トーホウジャッカル 3分01秒0、2着サウンドオブアース 1/2馬身、3着ゴールドアクター 3馬身1/2、4着タガノグランパ 3/4馬身、5着ショウナンラグーン クビ。
結局、ダービー馬のワンアンドオンリーは9着といいところがなかった。距離に泣いたのかそれとも折り合いを欠いたのか敗因は判らない。時計も速く、これまでのソングオブウインドが持っていた日本レコードを1秒7も更新。血統的には距離が長かったとは思わないが、この馬はかかりやすいところがあって、ダービーのときは上手く馬込みで大人しくレースができたが、今日は外を通らされ、前に馬がいなくて何時もより前でレースをさせられた。それが響いたのかもしれない。ただ今日のレースはペースが速くても前が残っているから、後ろから行っても同じ答えになっていたかもしれない。結局、今年の菊花賞は上がり馬が勝った。トーホウジャッカルはデビューが5月の末。なんとダービーの前日。初勝利が7月12日の中京の未勝利戦。初重賞挑戦が前走の神戸新聞杯。ここで3着に入りやっと菊花賞に出てきたのだ。そして鮮やかに勝った。まだ7戦目というから、まさに上がり馬。菊花賞では珍しくないが、見事な下剋上であった。
それで弟75回菊花賞なのであるがイスラボニータが出てこなかったので盛り上がりに欠いた。距離が3000mということで最近は天皇賞に回ることも多くなり、菊花賞のメンバーが寂しくなるのはお決まりとなってしまった。でもダービー馬のワンアンドオンリーが出てきたので、なんとかG-Ⅰの面目を保ったような形となった。そして1番人気は当然ワンアンドオンリー、2番人気トゥザワールド、3番人気トーホウジャッカル、4番人気サウンドオブアース、5番人気トーセンスターダムの順で18頭が出走してスタートが切られた。サングラスが逃げ、それをシャンパーニュが追い、さらにマイネルフロスト、ゴールドアクター、トーホウジャッカル、トゥザワールド、その外にワンアンドオンリーといった有力馬が続く展開。馬場は雨が降ってないのでパンパンの高速馬場。はたしてワンアンドオンリーはこの高速馬場が克服できるか。平均ペースでどんどん進む。このペースなら2番手以下ちは差が開くものだが、今日は馬場が良いのか、どの馬も無理して前のほうにつけているというのでもなく、自然な流れとなっている。ただワンアンドオンリーはちょっと前に行きたがっているような・・・・。レースはスローに落ちずに淡々と運び、3コーナーで徐々に各馬が動く。ワンアンドオンリーは終始外を通っている。4コーナーを回って直線に入る。あと300mのところでトーホジャッカルが先頭に出た。ワンアンドオンリーは伸びてこない。トーホウジャッカルが先頭だが、内からサウンドオブアースが詰め寄ってきた。この2頭が後続を引き離して競り合う形となったが、トーホウジャッカルの伸びが良く、半馬身つけて勝利。
1着トーホウジャッカル 3分01秒0、2着サウンドオブアース 1/2馬身、3着ゴールドアクター 3馬身1/2、4着タガノグランパ 3/4馬身、5着ショウナンラグーン クビ。
結局、ダービー馬のワンアンドオンリーは9着といいところがなかった。距離に泣いたのかそれとも折り合いを欠いたのか敗因は判らない。時計も速く、これまでのソングオブウインドが持っていた日本レコードを1秒7も更新。血統的には距離が長かったとは思わないが、この馬はかかりやすいところがあって、ダービーのときは上手く馬込みで大人しくレースができたが、今日は外を通らされ、前に馬がいなくて何時もより前でレースをさせられた。それが響いたのかもしれない。ただ今日のレースはペースが速くても前が残っているから、後ろから行っても同じ答えになっていたかもしれない。結局、今年の菊花賞は上がり馬が勝った。トーホウジャッカルはデビューが5月の末。なんとダービーの前日。初勝利が7月12日の中京の未勝利戦。初重賞挑戦が前走の神戸新聞杯。ここで3着に入りやっと菊花賞に出てきたのだ。そして鮮やかに勝った。まだ7戦目というから、まさに上がり馬。菊花賞では珍しくないが、見事な下剋上であった。
2014.10.19 (Sun)
ステッペンウルフを聴く

ステッペンウルフというバンド名をいったところで50歳より下の人はほとんど聞いたこともない名前だろう。でも『ワイルドで行こう(Born To Be Wild)』と言う曲はほとんどの人が何処かで必ず聴いたことがあるだろう。謂わば一発屋に近いバンドである。でも『ワイルドで行こう』は1968年8月24日から3週連続でビルボードのヒットチャートでベスト2になっているので大ヒットしている(この時の1位はラスカルズの『自由への讃歌』)。ちなみにこのころに流行ってい主な曲はローリング・ストーンズの『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』、クリームの『サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ』、ドアーズの『ハロー・アイ・ラヴ・ユー』、ビートルズの『ヘイ・ジュード』と時代が偲ばれる。古き良き時代かな・・・・。
ところがアメリカでヒットした『ワイルドで行こう』は日本ではさほどヒットしなかった。知っている人はいただろうが、この曲がもっと注目されるようになったのは翌年に公開された映画『イージー・ライダー!』のオープニングに挿入されてからである。それ以来、単車や車が走行するシーンでは必ず流される曲となった。それほど曲が有名になり独り歩きしたものの、肝心なバンド名の方は知られていないというから面白い。
『ワイルドで行こう』を演奏していたバンドはステッペンウルフと言うカナダ出身のバンドである。そもそもドイツのティルシット出身のJoachim Krauledat(1944年生まれ)が結成したバンドである。Joachim Krauledatことジョン・ケイが母と共にカナダのトロントへ移住した(父は戦死)のは1958年。ドイツ時代にチャック・ベリーやビル・ヘイリー等を聴きこんでいたジョン・ケイ少年はカナダでブルースと出会い、やがてプロ・デビューする。高校卒業後はクラブ・シンガーとなり、カナダ各地を転々とする生活を送るのである。そして1965年にトロントでブルースの5人組バンド『スパローズ』を結成。66年にテレビ出演がきっかけとなりCBSコロンビアと契約。レコードもリリースするが、あまり注目もされず67年に解散。その後、ジョン・ケイはアメリカのロサンジェルスへ移り、スパローズ時代の仲間ゴールディ・マックジョン、ジェリー・エドモントンの2人にジョン・ラッセル・モーガン、マイケル・モナークを加えて文学者ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』にちなんでスッテペンウルフと名付けたのである。そして67年7月ダンヒル・レコードと契約し、早速レコーディング。翌年の68年2月に『スキー・スキー』デシングル・デビーュする。さらに『ステッペンウルフ』のシングル第2弾が『ワイルドで行こう』で、これが大ヒットしたのであった。でもこのデビュー・アルバム『ステッペンウルフ』をリリースした後、71年までに8枚出すなど積極的だったが突然に解散した。その後、何度か再結成されたが華々しい活躍はない。
ところでこのステッペンウルフが元祖ヘビーメタル・バンドと言われている。もっともステッペンウルフが活躍していた時にはヘビー・メタルという言い方はなかった。あの当時、重いサウンドのバンドが数多く登場し、新しいロックンロールだということでニュー・ロックなんて言われ出していて、それ以前のビート・グループから色々と進化したバンドが生まれ、その中でも激しいサウンドのグループをハード・ロックだとかヘビー・ロックだとかいわれるようになった。たとえばヴァニラ・ファッジがそうだし、クリームなんかもそうだろう。もっともレッド・ツェッエペリンが代表格で、ディープ・パープル、ブラック・サバス等もそのように言われていた。そしてアメリカではグランド・ファンク・レイルドード、そしてステッペンウルフが挙げられる。でもヘビー・メタルと言い方はしなかった。これは後の時代になって言われ出したのである。その一因はステッペンウルフが歌う『ワイルドで行こう』の中の歌詞にI like smoke and lightnin’ heavy metal thunderというのがあって、ここからヘビー・メタルという形容がされるようになったと言われるからである。しかし、このヘビー・メタル・サンダーというのは音楽のことを言ってるのではなく、エンジン音のことを言ってるのである。でもそれが音楽用語となり現在にいたっている。それで、そのステッペンウルフがヘビー・メタルの元祖と言われるのはそういった理由があるからである。今はハード・ロック、ヘビー・ロックと言う言い方はしない。つまり昔のハード・ロック、ヘビー・ロックとヘビー・メタルは同義語と言ってもいいだろう。でもステッペンウルフの名は次第と消えてしまった。『ワイルドで行こう』の重いサウンドだけを残して。
さて最近ヘビー・メタルをもじってBABYMETALという日本の少女3人組が海外で凄い人気が出ているという。バックバンドは明らかにヘビー・メタルなのだが、踊って歌う少女3人はダンスユニットであり、アイドルであり、Jポップである。また日本の民謡風な要素も加味され、風変わりなサウンドを作りだしている。もっとも賛否両論あって、メタルではないという声もあるが、音楽なんて絶えず変わっていくものだ。それにしても面白いものが流行るものである。しかし小生、アイドルもJポップもメタルも興味ないのだが、不思議とこのBABYMETALだけは繰り返し動画を観てしまう。どうも中毒性があるようだ。何故だかわからないが・・・・・・・・・。
BABYMETAL 『イジメ、ダメ、ゼッタイ』
2014.10.14 (Tue)
お騒がせ台風
日曜日から祝日の月曜日、そして今朝にかけて台風19号が日本列島を縦断した。それも連休にやって来たので随分迷惑な台風であった。それも10月に入ってから2週連続と言うからちょっとウンザリする。今年は8月には台風の発生が例年より少なかったが上陸はした。それで台風シーズンが終わりに差し掛かる頃に二つも上陸するから異例と言えば異例のことだった。昨日なんか朝に鹿児島の枕崎に上陸し、ノロノロと動いていたが四国に再上陸してスピードを上げて夜の8時過ぎには大阪の岸和田に再々上陸と言う忙しい台風。10月に二つも台風が上陸したのは10年振りらしいが、大阪に上陸したのも10年振りらしい。でも勢力が衰えていたのは不幸中の幸いだった。でも雨が多くて水害も各地で出ていた。まことに迷惑な台風だ。一時は900ヘクトパスカルと言う超強力な台風に発達し、これは大変だと思ったが、沖縄を通過したあたりから衰え出し、大阪に上陸したときは980ヘクトパスカルまで弱まっていたので助かった。それでも電車は停まるし飛行機は飛ばないし、この秋の連休に旅行の予定を入れていた人にとっては憎んでも憎みきれない台風だっただろう。
ところで今日、電車の中で大学生が会話をしていた。「英語でタイフーンっていうのは面白いな。たぶん日本語の台風が英語でタイフーンになったんだろな」「ツナミみたいにな。国際語になったんだろ」と言っていた。他人の会話に口を挟みたくないので黙っていたが実は逆なのだ。英語圏ではハリケーン、タイフーン、サイクロンと発生した所によって熱帯低気圧の強くなった場合、そのように呼んでいるのは皆の知るところであるが、日本では昔は台風とはいってなかった。野分と呼んでいたのである。それが明治時代になって大風とか『ぐふう』とか言ったりしていたが、やがて西洋式のTyphoonを日本風に呼び颱風という当字を当てたのである。それを戦後、台風と言う文字を使うようになったということである。でもタイフーンという言い方の語源ははっきりしならしいが、台風と言った呼び方はおそらく気象台が設立され観測するようになってからだろう。いずれにせよ、もう台風はこりごりだ。今年最後の台風上陸にして欲しいが、過去には11月に上陸したということもある。備えあれば憂いなしだ。用心にこしたことはない。
ところで今日、電車の中で大学生が会話をしていた。「英語でタイフーンっていうのは面白いな。たぶん日本語の台風が英語でタイフーンになったんだろな」「ツナミみたいにな。国際語になったんだろ」と言っていた。他人の会話に口を挟みたくないので黙っていたが実は逆なのだ。英語圏ではハリケーン、タイフーン、サイクロンと発生した所によって熱帯低気圧の強くなった場合、そのように呼んでいるのは皆の知るところであるが、日本では昔は台風とはいってなかった。野分と呼んでいたのである。それが明治時代になって大風とか『ぐふう』とか言ったりしていたが、やがて西洋式のTyphoonを日本風に呼び颱風という当字を当てたのである。それを戦後、台風と言う文字を使うようになったということである。でもタイフーンという言い方の語源ははっきりしならしいが、台風と言った呼び方はおそらく気象台が設立され観測するようになってからだろう。いずれにせよ、もう台風はこりごりだ。今年最後の台風上陸にして欲しいが、過去には11月に上陸したということもある。備えあれば憂いなしだ。用心にこしたことはない。
2014.10.06 (Mon)
第93回凱旋門賞
今年も凱旋門賞が日本時間の昨晩、パリのロンシャン競馬場で行われた。今年は日本馬の参戦が春の時点ではないだろうと思っていた。それはキズナが春の天皇賞で骨折したからである。ところがゴールドシップが参戦すると聞いて、さらに3歳牝馬のハープスター、さらにドバイで圧勝したジャスタウェイまでも凱旋門賞に行くと聞いて面白くなってきたと思ったのだが、どうも3頭ともぶっつけで行くと聞いて正直、残念な気持ちになった。馴れてない海外のロンシャンの競馬場の凱旋門賞をいきなり走らせて勝負になるのかなと考えていたからだ。過去、日本調教馬が4度2着になっている。それらは全て直前に、フランスでレースを行っていて、その結果、好成績に繋がっていたのに、いきなりぶっつけでは勝ち目ないなと思ったのである。でもジャスタウェイはドバイでいきなり勝ったというが、ロンシャンとは馬場が違う。ヨーロッパ特有の時計のかかる馬場だと、いきなりいって勝てるというものでもない。さらにいうならばジャスタウェイに2400mは長い。またハープスター、ゴールドシップとも後ろから行く馬だ。日本と同様な競馬をしていては凱旋門賞は厳しいなと予想していたのである。それも今年は20頭も出ている。道中の位置取りが命取りになるのではと観ていたら案の定、スタートしてゴールドシップは最後方、その前がハープスター。集団から離れて2頭が追走。もうこの段階で小生は、もう勝てないと思った。ヨーロッパの競馬は馬がぎっしり固まって間があかない。そこを纏めてかわすとつもりでも日本の軽い馬場とは違う。せめてもう少し前で競馬をしないと勝ち目はない。位置取りが悪すぎる。またジャスタウェイは位置取りは良いのだが、バラけないヨーロッパの多頭数レースを捌けるのか。対してハープスター、ゴールドシップの2頭はフォルスストレート入ってもまだ2頭は最後方。そろそろ前に行かないと。直線に入ってハープスターは前が塞がれているから外に持ち出した。時間のロスである。もう前は激しい争いを展開している。日本の3頭はさっぱり伸びてこない。最後に大外を通ってハープスターが良い脚を使うが、とても届くものいではない。結果としてハープスターは6着。ジャスタウェイは8着。ゴールドシップは良いところが全くなく14着。まあ、最初から期待もしていなかったが成果もなく、いったい今年は何しに行ったのかな?
3頭も行ったから1頭ぐらいは勝つだろうと考えていたのでは・・・・。そんなに甘いものではない。今年は断トツに強い馬がいなくて20頭も出てきたのである。だから展開で後ろから言っていては勝てないと予想できた。それに3頭ともヨーロッパ競馬は初めてだ。せめて小頭数のレースでいいから一度経験させてから臨めば、もう少し前に位置取りが出来たのではないかと思うと残念である。まだまだ日本の競走馬はいきなりのぶっつけで凱旋門賞を勝つほど強くはない。香港やオーストラリアやドバイ、アメリカ辺りの芝ならさほど芝も深くないし高速馬場なので対応できるが、ヨーロッパの深い馬場で、それも強豪が集結して多頭数で行われる凱旋門賞で勝つのは並大抵ではない。はやり過去の教訓を学んで、準備して臨まないととても勝てるものではない。だから今回の凱旋門賞を観ていて実に残念であった。
レースそのものは昨年勝ったTreveがインコースkら抜けてきて何と1977年のAlleged以来の2連覇を達成。昨年はオルフェーヴルを置き去りにする強さで勝ったが、今年は不振で3戦して未勝利。人気を落していたが、本番で蘇った感じである。でも今年人気馬は総崩れで1番人気だったAvenir Cartain(6戦全勝で仏オークス馬)が11着。ハープスターと並んで2番人気だったEctot(6連勝中)は17着。やはり凱旋門賞は地元の人気馬でも、絶好調で展開にも恵まれないと簡単には勝てないのだ。そのことを考えると、日本から遠征して2年連続2着のオルフェーヴルはやはり凄かったのだとしかいいようがない。
3頭も行ったから1頭ぐらいは勝つだろうと考えていたのでは・・・・。そんなに甘いものではない。今年は断トツに強い馬がいなくて20頭も出てきたのである。だから展開で後ろから言っていては勝てないと予想できた。それに3頭ともヨーロッパ競馬は初めてだ。せめて小頭数のレースでいいから一度経験させてから臨めば、もう少し前に位置取りが出来たのではないかと思うと残念である。まだまだ日本の競走馬はいきなりのぶっつけで凱旋門賞を勝つほど強くはない。香港やオーストラリアやドバイ、アメリカ辺りの芝ならさほど芝も深くないし高速馬場なので対応できるが、ヨーロッパの深い馬場で、それも強豪が集結して多頭数で行われる凱旋門賞で勝つのは並大抵ではない。はやり過去の教訓を学んで、準備して臨まないととても勝てるものではない。だから今回の凱旋門賞を観ていて実に残念であった。
レースそのものは昨年勝ったTreveがインコースkら抜けてきて何と1977年のAlleged以来の2連覇を達成。昨年はオルフェーヴルを置き去りにする強さで勝ったが、今年は不振で3戦して未勝利。人気を落していたが、本番で蘇った感じである。でも今年人気馬は総崩れで1番人気だったAvenir Cartain(6戦全勝で仏オークス馬)が11着。ハープスターと並んで2番人気だったEctot(6連勝中)は17着。やはり凱旋門賞は地元の人気馬でも、絶好調で展開にも恵まれないと簡単には勝てないのだ。そのことを考えると、日本から遠征して2年連続2着のオルフェーヴルはやはり凄かったのだとしかいいようがない。
2014.10.05 (Sun)
ホイッスラー展に行く

京都国立近代美術館で開催中のホイッスラー展に行ってきた。ホイッスラーと言うと小生はイギリス人とばかり思っていたが実はアメリカ人だった。何故なら1834年にマサチューセッツ州ボストン郊外で生まれながらパリで美術を学び、その後はロンドンを拠点に画家として活動していたからである。そもそもホイッスラーの父が土木技師で鉄道建設の仕事で父についてロシアに移住する。この時ホイッスラーは8歳でサンクトペテルブルグに数年間住んでいた。1851年にアメリカにもどり一端は陸軍士官学校に入るが、途中でやめてワシントンで地形図の銅版画工として働き、1855年からはパリに住んでいた。ここでアトリエに通い絵の勉強すする。ここでクールベの絵に感銘を受け、ラトゥールやルグロと知り合い、その他の印象派の画家たちと交流を保ちつつ1859年にはロンドンにも居を構え、ロセッティ兄弟と友好関係を持つ。この頃からロンドンのロイヤル・アカデミーに出品したり、パリでも同様で次第とホイッスラーの絵が注目を浴びるようになる。さらに40代半ばで1年間ヴェネチアに住みイタリア美術に触れるなど絵画への探究心は留まるところを知らない。
ホイッスラーはアメリカ人だが、画家としてのキャリアはヨーロッパで築かれ、また一方で当時の印象派の画家たちと同様に日本の美術品からの影響を受けている。当時の日本の美術、工芸品を目の当たりにしてインスピレーションを得て、色や形の調和を主眼とした独自の画風を確立し、ジャポニズムの先駆者として後に影響を与えたことは確かなようである。ホイッスラーは耽美手主義の画家ともいわれるが、その背景には現実世界と二次元平面に再現するよりも、色彩と形態の組み合わせにより調和のとれた絵を構築していったのである。絵画は現実世界の再現ではなく、色彩と形態から成るもの。そして自律的なものであるとし精神的には印象派の絵画と相通じるものがる。だが、彼の絵はけして明るい色彩の絵ではなく、原色を使わない落ち着いた色彩の絵が多いので一般的に印象派とは一線を画している。
1862年にロンドンで万国博覧会が開かれ、この時に日本の美術、工芸品が数多く展示されていて、当然のようにホイッスラーはそこで日本の美術に出会ったのであるが、殊に浮世絵に関心を持ったのである。中でもホイッスラーの代表作である『ノクターン、青と金色―オールド・バターシー・ブリッジ』の構図は完全に日本の浮世絵の影響であると指摘されている。彼は広重、北斎の描く浮世絵の風景にかなり触発されたと言えよう。このように彼の画風は同時期の印象派とは違い独自のものであるが、日本ではあまり知られていない画家である。同時期に多くの印象派の画家が日本に紹介され、多くの絵が知れ渡ることになるが、それと比較するとホイッスラーは知名度では劣る。それは彼がパリよりもどちらかというとロンドンを拠点にしていたというのもあるが、同じ日本の浮世絵に影響を受けながら印象派のように色鮮やかでなく、どこか色彩が地味なのは彼が浮世絵の色もあるが、それ以上に浮世絵の構図や主体とするもの、それら西洋絵画にない表現力に感銘を受けたからではないだろうか。
今回のホイッスラー展はアメリカ、イギリス、フランス等から油彩画、水彩画、エッチング等、代表作130点が展示されていて、日本では27年振りとなる。でも人気はあまりなく、それこど集客力の多いゴッホやルノアール、モネ等の印象派展やミレーの展覧会に比べれば人もまばらであった。でも人は少ない方がゆっくり鑑賞できてよかったかな。
2014.10.02 (Thu)
新幹線開業50年
昨日の10月1日は東海道新幹線開業からちょうど50年になるという。それを聞いて、え! もうそんなになるのかと思った。そういえば新幹線開業の時、小生はまだ小学生だったのだ。それが最早、還暦の域だからな。年月の経過はおそろしく早いものである。こちらはそろそろ老後のことも考えないといけなくなってきた。
1964年10月1日と言うと東京オリンピック開幕の10日前。その開幕に合わせて確か突貫工事で完成させたのではないかな。あの頃、京都市中心部から少し離れた小学校に通っていたので、新幹線の工事を行っていたのはよく覚えている。まだ昭和30年代の中頃と言うと京都と大阪の間も田畑が多く、今のように民家がどこまでも連なっているという光景ではなかった。それで小生が幼稚園に通っている頃、今は亡き親父から夢の超特急の話を聞かされた。それは東京~大阪までを3時間で走り時速200㌔以上のスピードで走るというものだった。そういわれてもあの当時、想像すらつかなかった。何しろ当時の特急『こだま』でも東京~大阪まで6時間50分かかっていた時代だ。最高速度さえ100㌔を超えるが表定速度で言ったら約80㌔ぐらいなもので、それが時速が倍になるなんて考えられないのも当然だった。それが余りにも非現実的な話で夢のような話だった。だから夢の超特急だったのである。
小生はまもなく小学校に入学する。それと同時に夢の超特急が走ると言われていた場所の工事が始まりだした。地下深く掘っていたと思ったら、何時の間にかニョキニョキとコンクリートの柱が建ち出し、または盛り土の堤防のようなものが遠方まで伸びていった。あっという間だった。やがて2、3年が経ち、ほぼ土台が完成していた。それからレールを敷く工事に入ったのだろう。それで面白い話がある。小生はあの当時も今も阪急京都線の沿線に住んでいる(現住所よりは京都の中心部に近いところに住んでいた)。それで大阪に行くときには阪急に乗るのだが、それまで田んぼの中を走っていて各所に踏切があったもので、昭和38年の春だったかな母と姉と3人で大阪の親類の家へ行く時に阪急に乗った。すると大山崎駅の辺りから高架になりそれが水無瀬、上牧駅と高架を走り続けたのである。あれ!と思った。それまでは高架区間でもなかったのにと思いながらも・・・・・。ただこの3駅間は並行して新幹線の工事を行っていた区間である。それで、その日の帰りに確かめたのだが、何と阪急は新幹線のレールの上を走っていたのである。これはどういうことかというと、計画の段階で新幹線を何処に走らせるかと言うことになり、結局、この区間だけは阪急と併走する形となり、新幹線が全面高架ならついでに阪急もこの併走区間だけ高架することになったのだろう。それで先に高架工事の終わった新幹線のレールの上を阪急が走っていたのである。そして、新幹線が開通する翌年までに阪急の高架工事を終え元の鞘に戻したということだったのである。つまり新幹線のレールの上で最初に営業運転を行ったのは阪急だったというから面白い。
さらに翌年の1964年の4月である。初めて新幹線の車両が試運転を行うと言うので、我々、小学生はその話題で持ちきりだった。何だか鳥飼基地を出て京都方面へ試運転するという。それも朝の8時過ぎに。それで我々はどうしたかというと早めに学校へ行き、学校の2階の窓から新幹線の方角を窺っていたのである。あの当時は、高い団地もほとんどなく、学校の2階から高架の新幹線までは見渡せたものだ。すると誰かが「来た!」と叫んだ。間もなくアイボリーとブルーのツートンカラーの新幹線(6両編成)が時速30㌔のノロノロ運転で通過して行った。これが夢の超特急だったのである。ついに現実となったから夢でなくなったが超特急には程遠いスピードだった。それから毎日、新幹線は試運転を繰り返すようになり、スピードも段々と増すようになっていった。試運転初日から1ヶ月もしない間に猛スピードで試運転を行うようになり車両数も12両になった。
その年の8月が9月だったと思う。学校が休みの日だった。小生はよく行くお好み焼き屋に居た。そこには中学生や小学生が集まって漫画を読みながら何時もお好み焼きを食べていた。それで、その日、NHKが東京から新大阪まで営業後と同じ4時間に及ぶ試運転を行い、それを生中継すると言うので、お好み焼き屋のテレビを見ながらガキどもがワイワイ騒いでいた。確か当時、鈴木健二アナウンサーが新幹線に乗り込んで中継していたと思う。やがてその新幹線は京都駅に到着した。すると誰かが「テレビに映りに行こうや」と言いだした。すると「行こ、行こ」と賛同する者が多くて、小生を含めたガキども10人ぐらいが急いで新幹線が走っているところまで向かったのである。まだ新幹線は通過していなかった。すると間もなく撮影用のヘリコプターがけたたましい音をたててやってきたと思ったら、すぐに新幹線が通過したので我々は皆、手を振ったのである。そして、お好み焼きの店に戻っておばちゃんに聞くと、新幹線の車内カメラは我々のいた場所とは違う反対側を撮っていたようで残念ながらテレビには映らなかったのである。それから1ヶ月余りで新幹線は開業するのである。12両編成で4時間運転(翌年に3時間10分に短縮)だった。その翌年には親父と姉とで名古屋まで『ひかり』に乗ったのが最初かな。珍しいからとビュッフェに行って珈琲とトーストを食べたが、窓際の椅子に座ったが、客室の椅子よりも揺れを感じるなといった印象がある。それ以来、何十回、何百回乗ったかわからない。その後、山陽、東北、上越、長野、九州と新幹線は延伸し、乗客数も50年前とは比較にならない。それでいて、未だに乗客の死亡が0というから素晴らしい。今は外国の至るところで高速鉄道が走っているが、それこそフランスのTGV、ドイツのICE、走り始めてまだ10年にしかならない韓国のKTX、ましてや大事故を起こし大勢死者を出した中国の高速鉄道など比較にならない。運転本数も通勤電車並みに運行されていて時間も正確。乗っていても心地よいし全てに優れている。よく脱線事故を起こすフランスのTGV、死者を多数出したドイツのICE、ましてや自国だけの技術で高速鉄道を走らせることなど出来なかった中国、韓国等とは問題にならない。フランスのTCVは開通が1981年と遅いのに、けっこう揺れるし車内も狭いし便数も新幹線とは比べ物にならないほど少ない。速いだけなら新幹線よりもフランス、中国の方が速くなったかもしれないが、大陸で直線が多くスピードが出し放題の国とは一緒にできない。日本は山岳が多く、雨も多いし雪も降る。カーブも多く、坂も多くトンネルも多い。それに何よりも地震多発国である。とにかく高速鉄道を走らせるにおいて条件が厳しすぎる国なのだ。それでいてあの便数、死亡者0という安全性と正確さと快適さ、やはり世界の中でも新幹線だけは別格な気がする。開業から50年、この新幹線がどれほど日本の経済を長きに渡り支え続けたかと思うと、その役割は想像以上に大きかったと言えよう。今やShinkansenといえば世界中で通じるよになった。おそらく日本の新幹線が世界の鉄道事情を一変させたことは間違いない。それを考えれば世界初の高速鉄道が終戦後僅か19年で開業したというのは、今から考えれば偉業だったのだなと感じる今日、この頃である。
1964年10月1日と言うと東京オリンピック開幕の10日前。その開幕に合わせて確か突貫工事で完成させたのではないかな。あの頃、京都市中心部から少し離れた小学校に通っていたので、新幹線の工事を行っていたのはよく覚えている。まだ昭和30年代の中頃と言うと京都と大阪の間も田畑が多く、今のように民家がどこまでも連なっているという光景ではなかった。それで小生が幼稚園に通っている頃、今は亡き親父から夢の超特急の話を聞かされた。それは東京~大阪までを3時間で走り時速200㌔以上のスピードで走るというものだった。そういわれてもあの当時、想像すらつかなかった。何しろ当時の特急『こだま』でも東京~大阪まで6時間50分かかっていた時代だ。最高速度さえ100㌔を超えるが表定速度で言ったら約80㌔ぐらいなもので、それが時速が倍になるなんて考えられないのも当然だった。それが余りにも非現実的な話で夢のような話だった。だから夢の超特急だったのである。
小生はまもなく小学校に入学する。それと同時に夢の超特急が走ると言われていた場所の工事が始まりだした。地下深く掘っていたと思ったら、何時の間にかニョキニョキとコンクリートの柱が建ち出し、または盛り土の堤防のようなものが遠方まで伸びていった。あっという間だった。やがて2、3年が経ち、ほぼ土台が完成していた。それからレールを敷く工事に入ったのだろう。それで面白い話がある。小生はあの当時も今も阪急京都線の沿線に住んでいる(現住所よりは京都の中心部に近いところに住んでいた)。それで大阪に行くときには阪急に乗るのだが、それまで田んぼの中を走っていて各所に踏切があったもので、昭和38年の春だったかな母と姉と3人で大阪の親類の家へ行く時に阪急に乗った。すると大山崎駅の辺りから高架になりそれが水無瀬、上牧駅と高架を走り続けたのである。あれ!と思った。それまでは高架区間でもなかったのにと思いながらも・・・・・。ただこの3駅間は並行して新幹線の工事を行っていた区間である。それで、その日の帰りに確かめたのだが、何と阪急は新幹線のレールの上を走っていたのである。これはどういうことかというと、計画の段階で新幹線を何処に走らせるかと言うことになり、結局、この区間だけは阪急と併走する形となり、新幹線が全面高架ならついでに阪急もこの併走区間だけ高架することになったのだろう。それで先に高架工事の終わった新幹線のレールの上を阪急が走っていたのである。そして、新幹線が開通する翌年までに阪急の高架工事を終え元の鞘に戻したということだったのである。つまり新幹線のレールの上で最初に営業運転を行ったのは阪急だったというから面白い。
さらに翌年の1964年の4月である。初めて新幹線の車両が試運転を行うと言うので、我々、小学生はその話題で持ちきりだった。何だか鳥飼基地を出て京都方面へ試運転するという。それも朝の8時過ぎに。それで我々はどうしたかというと早めに学校へ行き、学校の2階の窓から新幹線の方角を窺っていたのである。あの当時は、高い団地もほとんどなく、学校の2階から高架の新幹線までは見渡せたものだ。すると誰かが「来た!」と叫んだ。間もなくアイボリーとブルーのツートンカラーの新幹線(6両編成)が時速30㌔のノロノロ運転で通過して行った。これが夢の超特急だったのである。ついに現実となったから夢でなくなったが超特急には程遠いスピードだった。それから毎日、新幹線は試運転を繰り返すようになり、スピードも段々と増すようになっていった。試運転初日から1ヶ月もしない間に猛スピードで試運転を行うようになり車両数も12両になった。
その年の8月が9月だったと思う。学校が休みの日だった。小生はよく行くお好み焼き屋に居た。そこには中学生や小学生が集まって漫画を読みながら何時もお好み焼きを食べていた。それで、その日、NHKが東京から新大阪まで営業後と同じ4時間に及ぶ試運転を行い、それを生中継すると言うので、お好み焼き屋のテレビを見ながらガキどもがワイワイ騒いでいた。確か当時、鈴木健二アナウンサーが新幹線に乗り込んで中継していたと思う。やがてその新幹線は京都駅に到着した。すると誰かが「テレビに映りに行こうや」と言いだした。すると「行こ、行こ」と賛同する者が多くて、小生を含めたガキども10人ぐらいが急いで新幹線が走っているところまで向かったのである。まだ新幹線は通過していなかった。すると間もなく撮影用のヘリコプターがけたたましい音をたててやってきたと思ったら、すぐに新幹線が通過したので我々は皆、手を振ったのである。そして、お好み焼きの店に戻っておばちゃんに聞くと、新幹線の車内カメラは我々のいた場所とは違う反対側を撮っていたようで残念ながらテレビには映らなかったのである。それから1ヶ月余りで新幹線は開業するのである。12両編成で4時間運転(翌年に3時間10分に短縮)だった。その翌年には親父と姉とで名古屋まで『ひかり』に乗ったのが最初かな。珍しいからとビュッフェに行って珈琲とトーストを食べたが、窓際の椅子に座ったが、客室の椅子よりも揺れを感じるなといった印象がある。それ以来、何十回、何百回乗ったかわからない。その後、山陽、東北、上越、長野、九州と新幹線は延伸し、乗客数も50年前とは比較にならない。それでいて、未だに乗客の死亡が0というから素晴らしい。今は外国の至るところで高速鉄道が走っているが、それこそフランスのTGV、ドイツのICE、走り始めてまだ10年にしかならない韓国のKTX、ましてや大事故を起こし大勢死者を出した中国の高速鉄道など比較にならない。運転本数も通勤電車並みに運行されていて時間も正確。乗っていても心地よいし全てに優れている。よく脱線事故を起こすフランスのTGV、死者を多数出したドイツのICE、ましてや自国だけの技術で高速鉄道を走らせることなど出来なかった中国、韓国等とは問題にならない。フランスのTCVは開通が1981年と遅いのに、けっこう揺れるし車内も狭いし便数も新幹線とは比べ物にならないほど少ない。速いだけなら新幹線よりもフランス、中国の方が速くなったかもしれないが、大陸で直線が多くスピードが出し放題の国とは一緒にできない。日本は山岳が多く、雨も多いし雪も降る。カーブも多く、坂も多くトンネルも多い。それに何よりも地震多発国である。とにかく高速鉄道を走らせるにおいて条件が厳しすぎる国なのだ。それでいてあの便数、死亡者0という安全性と正確さと快適さ、やはり世界の中でも新幹線だけは別格な気がする。開業から50年、この新幹線がどれほど日本の経済を長きに渡り支え続けたかと思うと、その役割は想像以上に大きかったと言えよう。今やShinkansenといえば世界中で通じるよになった。おそらく日本の新幹線が世界の鉄道事情を一変させたことは間違いない。それを考えれば世界初の高速鉄道が終戦後僅か19年で開業したというのは、今から考えれば偉業だったのだなと感じる今日、この頃である。
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