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2008.12.31 (Wed)

大晦日の夜

 2008年もまもなく終わろうとしている。この歳になると12月31日といっても、年が改まるだけで何の感慨もないが、年々、時間が早く経過するように思えて仕方が無い。これといって楽しい事もなく嬉しいこともなく悲しいこともなく淡々と日々ばかりが過ぎていく。でもこのような平々凡々と過ごせることがもっとも幸せなことかもしれず本当に有り難いことである。

 もう、まもなく2009年に変わろうとしている大晦日の晩、大つごもりともいうが、特別なことは何もしない。テレビはくだらないので最近は皆目、観たことがない。おそらく紅白歌合戦なんて、ここ何10年も観てないだろう。大晦日の夜というと、高校生の頃は友人達と外出していた。12月31日の夜に家を出て、人出の多い八坂神社や平安神宮、または少し遠いが平野神社や下賀茂神社や伏見稲荷大社あたりまで初詣に出かけたものである。私の家からだと松尾大社が近いのだが、敢えて人出の多い神社やを選んで出かけていたものだ。これといって目的もないのだが、15、6歳のガキの行なうことである。こんなことが楽しかったのである。

 今となっては他愛のないことで何処が面白いと思うのだが、当寺のような純粋な気持ちに戻りたいと時々、考えることがある。とにかく半世紀以上生きてくると、大概のことでは驚かないし感動もない。だからテレビも観なくなったし人の多い初詣も行く気は起こらなくなった。それに人混みに揉まれるにも疲れるだけだし御免被る。

 もうテレビでは紅白歌合戦が始まっているのだろうか・・・。どうせ観たって知らない歌手ばかりだし、演歌も嫌いだからテレビの電源を入れようとも思わない。それに裏番組だといってもつまらないものばかり、なんで年末年始はこれだけ似たり寄ったりの番組ばかりが勢揃いするのだろうか。もっとも日頃から、テレビの番組のほとんどはくだらないけども・・・・・・。

 だが、テレビを観ないからといってボケーっとしている性質でもないので、暇な時は本を読んでいるか映画のDVDを観てるか、ジャズやクラシックのCDを聴いていることが多い。それならブログでもっと本の紹介や映画の紹介をやれといわれそうであるが、これを言われると返す言葉がない。つまり本を読んでも、いざブログに書くとなると簡単にはいかないのである。中学の時の読書感想文のつもりで書けばいいのかもしれないが、生来の皮肉屋と自称するからには、おいそれと良かったですとか、感動しましたとか書いてられないのだ。だから基本的には批判精神が優っている以上、書き出すと文句ばかりが並ぶことになる。だから出来る限り書かないようにしているのである。とにかく最近の純文学や映画ときたら、文句の一つどころか文句の羅列ばかりになってしまいそうだから、どうしても文学、映画共々、古典の方を観たり、読み返したりになってしまうのである。

 さあ、あと3時間ほどで新年を向かえそうだが、今からモーツァルトのオペラ『魔笛』でも観て過ごそうか・・・・。それとも映画『アマデウス』がいいかなあ・・・。どちらも何10回と観ているが、モーツァルトの音楽が大好きな者としては、モーツァルトの音楽に触れて行く年を送るというのもいいものだと思うけれど・・・・・・・。それでは良いお年をお迎えください・・・・・・・・。
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2008.12.30 (Tue)

ポール・マッカートニーのアルバム『マッカートニー』を聴く

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 ビートルズのポール・マッカートニーが個人で製作した最初のアルバム『マッカートニー』が発売されたのは1970年4月のことであった。時期も時期で、ポール自身がビートルズ解散とも取れるような発言をしたばかりであったから、このアルバムは大いに注目された。本当にビートルズは解散してしまうのかという疑問が成り立つ訳だが、現実問題として、その後、4人が集まって演奏したことなど一度もなかったから、今から考えれば、あの時のポールの発言は事実上の解散宣言であっただろう。また、この頃、ビートルズの最後のアルバムとなった『レット・イット・ビー』も発売されていて、何かとビートルズを取り巻く周辺が騒がしかったという印象がある。

 そのような慌しい頃に発売されたアルバム『マッカートニー』だけに、私は直ぐにでも聴いてみたいと思い立ったが、10代半ばの貧乏少年にアルバムを買う資金力などある筈もない。どうにかならないものかと、洋楽好きの仲間で持っているものはいないかと方々を当ってみたが、誰も持っていなかった。すると大学生の姉が友人から借りてきたといって、家のステレオ・プレイヤーで『マッカートニー』を聴いていたのである。うん、流石は大学生である。所詮、ガキの我々とは資金力が違う。それで私は姉と一緒に、このアルバムを聴いた事はいうまでもない・・・・が・・・・・。このアルバムを聴いて正直、がっかりした。

 同時期に聴いたビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』もさほどいいとは感じなかったが、でもビートルズらしさはあった。でもアルバム『マッカートニー』は出来栄えが粗雑で、私には手抜きにしか思えなかった。これが、あのポール・マッカートニーの初のソロ・アルバムなのか・・・。前年の秋、ビートルズの数あるアルバムの中でも傑作と言われるアルバム『アビイ・ロード』で、あれだけ精緻な音作りに拘って、見事なまでの完成度を見せた、ビートルズの音楽的支柱の人物ポール・マッカートニーが、こんな雑で貧弱なアルバムしか出せなかったのかと不思議に思えたのである。

 その後、そのような事情で私はこのアルバムを長い間、聴かなかった。でも10数年経ってから、LP盤からCDの世に変り、この『マッカートニー』を懐かしくなって買い求め、改めて聴きなおしてみた。すると昔、下らないと感じたこのアルバムが、素朴で簡素な音に聴こえるだけで、そんなに悪くないなあと思えるようになったのである。要は録音技術の粋を集約し、4人の才能を結束させたアルバムが『アビイ・ロード』とするならば、『マッカートニー』は飽く迄、個人の趣味に徹し、出来る限り違うコンセプトで手作りの音を目指していたのだという考えに、私はようやく到達したのである。

 曲は全部で13曲。『The Lovely Linda』『That Would Be Something』『Valentine Day』『Every Night』『Hot As Sun Glasses』『Junk』『Man We Was Lonely』『Oo You』『Momma Miss America』『Teddy Boy』『Singalong Junk』『Maybe I'm Amazed』『Kreen-Akrore』

この中には手抜きと思えるような、なんでこんな曲を入れたのかといえるようなのもあって、必ずしもジョン・レノンが出したアルバム『ジョンの魂』のように好きには成れないが、所々、流石にポール・マッカートニーだといえるような部分がある。これこそ、まさにメロディメーカーであるポールの真骨頂かもしれない。ことに『ジャンク』などはポール・マッカトニーならではというべき曲で、2分に満たないこの曲に小躍りしたものである。

 このアルバムは1969年秋に、妻のリンだとスコットランドにある自己の農場に篭って録音されたといわれ、その僅か前にロンドンのスタジオで録音された『アビイ・ロード』と対比をなすアルバムと言ってもいいだろう。つまり、ビートルズという呪縛から逃れるために、わざとこの手抜きとも思えるようなアルバムを作ったのではないかと最近、考えるのであるが・・・・・。また、個人的なアルバムということで、全ての楽器をポール・マッカートニー1人でこなし、ダビングを重ねて収録され、アルバム・ジャケットの写真も、写真家であった妻リンダ・イーストマンが撮ったもので、完全なプライベート・アルバムといってもいいかもしれない。

 『ジャンク』のインスルメンタル曲『シンガロング・ジャンク』をギターで奏でるポール・マッカートニー。
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2008.12.28 (Sun)

第53回有馬記念

 今年の競馬もいよいよ有馬記念で締めくくりと成る。今年の有馬記念は結局、ディープスカイもウォッカもオウケンブルースリも出ず、やや小粒となったが、女傑と呼ばれたトウメイ以来、37年ぶりの牝馬優勝の可能性のあるダイワスカーレット、2連覇のかかるマツリダゴッホ、最近、急速に実力をつけたスクリーンヒーロー、フランス帰りの古豪メイショウサムソン、復活なるかカワカミプリンセス、昨年の菊花賞馬アサクサキングス・・・・と多士済々である。群雄割拠という声もあるが、蓋を開けて見ないと勝負事はわからない。そんな中で1番人気にダイワスカーレットが支持されたというのも、この牝馬の実力を人は高く評価していることであろうか。2番人気はマツリダゴッホ、3番人気はスクリーンヒーロー、4番人気はメイショウサムソン、5番人気アルナスラインであった。

 いよいよ10万人に満たないファンが見守る中、ファンファーレが鳴る。このところ有馬記念は10万人も入らないのだなと驚く。不景気ということもあるが、今年の競馬のつまらなさを如実に現している数字ともいえるだろう。私が最後に現場で観た有馬記念の時は、観衆178000人という驚異的な数字をはじき出していたが、それも18年も前のことになる。有馬記念を初めてテレビの生中継で観たのは1966年のコレヒデが勝った時だから、かれこれ40年以上になる。最も昔から嫌いな競馬場の中山で行なうので、余り好きなレースではないが、今や年末の風物詩となっている。馬券の売り上げも№1だし、盛り上がりもと言いたいが、今年は中山が不向きと思ったのかウオッカもディープスカイも出てこなかった。でもこの考えは同意できる。私が調教師なら同じ選択をするだろう。つまり有馬記念が特別なレースであるという考えは、もうそろそろ捨てたほうがいいだろう。あきらかに中山巧者という馬が昔からいるのだから、このような馬に機会を与えればいいと思う。東京の2400mと中山の2500mは、全く別のレースになってしまうことはよく知られていることであるし、各馬の個性によって使うレースも選ぶ時代に入ってきたのではないだろうか。

 前置きが長くなったが第53回グランプリ有馬記念(GⅠ・3歳以上、芝2500m、14頭)のスタートが切られた。ダイワが行くのかと観ていたら案の定ダイワスカーレットが外から先頭を奪った。でも同様に逃げて2着になった昨年と違って、今年は最初から行くと決めていたようなハナの奪い方だった。これは1974年に逃げて大楽勝したタニノチカラを彷彿とするような気合の入り方だ。一方マツリダゴッホはスタートが悪かったのか、後ろから行ってるけど大丈夫か?

 ダイワが先頭に立ち、2番手に内からカワカミプリンセス、それとフランス帰りのメイショウサムソンも先行する。さらに外からアサクサキングス、先頭を行くダイワスカーレットをマークするように3頭、4頭が並んで追う展開である。正面スタンド前を通過してダイワ先頭、2番手にカワカミプリンセス、3番手メイショウサムソン、4番手アサクサキングス、5番手にエアジバング、その後、内にコスモバルク、さらにフローテーション、早めにベンチャーナインが行き、スクリーンヒーロー、ドリームジャーニー、マツリダゴッホ、アルナスラインと続き、アドマイヤモナークが最後方。

 ラップタイムは6.9---11.2---11.9---11.2---11.9---13.0と900m通過が53秒1、1100m通過が1分06秒1と平均ラップを刻んでいる。よどみのないペースで淡々としているが、向こう正面でメイショウサムソンが2番手に上がる。3コーナーで予想外の後方にいたマツリダゴッホが動き出した。中山の3コーナーで動くのはこの馬の必勝パターンであるが、今日はいつもより道中の位置が後ろ過ぎるぞ。3コーナーから4コーナーにかけて各馬が動く。4コーナーで内から外にかけて4頭、5頭と横に拡がった。ダイワが先頭、メイショウサムソン、アサクサキングス、フロ-テーション、スクリーンヒーロー、マツリダゴッホが先団にとりついた。さあ直線に向く。

 ダイワスカーレット先頭、そこへスクリーンヒーローが捉まえようと接近する。さらに昨年の再現を狙ったマツリダゴッホももやって来る。しかし直線に入ってからのダイワスカーレットは強かった。かつてのタニノチカラがハイセイコー、タケホープをぶっちぎったように、ダイワは後続を逆に突き放そうとしている。私はここでダイワスカーレットの優勝を確信した。問題は2着争いである。あと100mのところまでスクリーンヒーローが粘っていたが、最後方にいたアドマイヤモナークが追い込んできた。またドリームジャーニーとエアシェイディも叩き合って上位争いに加わる。でもダイワスカーレットは悠々とゴールイン。

 1着ダイワスカーレット 2分31秒5、2着アドマイヤモナーク 1馬身3/4、3着エアシェイディ 3/4、4着ドリームジャーニー ハナ、5着スクリーンヒーロー クビ。

 ダイワスカーレットは強かった。とうとうトウメイ以来、37年振りの牝馬の優勝馬が出た。トウメイが勝った時は私は高校生だった。あの時は馬の流感騒ぎで、有馬記念当日にカミタカ、メジロアサマ、アカネテンリュウの3頭が取り消してしまい、6頭だけの寂しい有馬記念となったが、靄の中、後方に待機したトウメイが直線で差し脚を決め快勝した。

 考えてみれば有馬記念を勝つ牝馬というのは、そうとうの器でないと出来ない芸当であるが、トウメイトいう牝馬も強かった。31戦16勝2着10回3着2回という堅実な小柄な牝馬だった。トウメイは前走の天皇賞も勝っているからその実力は抜きん出ていたが、今と違って当時は秋の天皇賞も3200mだったことを考えると、怖ろしいスタミナを持っていた牝馬だった気がする。でも当時はマイルの女王と言われていたのだが・・・・・。

 トウメイと比較してダイワスカーレットはどうだと聞かれると時代が違うので困るが、ダイワスカーレットも間違いなく史上に残る名牝であることに間違いはない。ただトウメイのようにマイルから3200mまで勝ったという馬は2度と出ないかもしれない。今では距離別で覇を競うという時代であるからして比較は困難である。

 でもダイワを潰しにかかった馬がみんな沈没してしまい、後方にいた馬が2着から4着まで占めたということは、如何にダイワスカーレットの力が出色のものであったかということになる。メイショウサムソンが8着になり、アサクサキングスがシンガリ大敗というのは、何を意味するのか。まだダイワスカーレットは引退するという話も出てないので、来年はまたまたウオッカとの対決が待っているであろう。しかし、こう牝馬ばかりが強いと牡馬は何をやっているのかということになる。

 出でよ真の牡馬のチャンピオンホース・・・・・・。

 トウメイの勝った1971年の有馬記念。流感騒ぎでたった6頭立て。


 タニノチカラの勝った1974年の有馬記念。逃げて楽勝した。


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2008.12.27 (Sat)

読まずべからず

  3日ぶりにパソコンの前に座っている。昨日は滋賀県で積雪を記録した。近年の大阪では考えられないが、12月の積雪なんて滋賀県では当たり前のことなのだろう。それで兎に角寒かった。なにしろ、滋賀県では最高気温が5℃もなかったのではないだろうか。寒さには強いはずのつもりが、薄着がたたりガタガタ震えていた。

 昨日は仕事納めで、忘年会を行なうというので、会場の居酒屋までテクテクと歩いて行ったが、余りの低音で体が冷え切ってしまい、あまりビールが飲めなかった。それで温まろうと思い鍋に箸を進めるが、何故かテンションが上がらない。もう歳かな・・・・・・。昔のように飲みに行っても楽しくなくなった。最も何をやっても最近は新鮮味もなくなって、醒めている自分に気がつくのであるが、青い春なんてのは何時のことだったろうか? 20歳頃は何をやっても面白かったのだが、こんなことを考えていること事態、あきらかな老化現象かもしれない。

 今年も今日で27日。何時の間にかクリスマスも過ぎていた。どうせ何の関心もないから、過ぎてホッとしているのであるものの、今度はお正月準備か・・・。何かと忙しい季節柄である。そして、私も書くことがだんだんと面倒くさくなってきた。いきなりはやめないだろうが、このところの記事は手抜きをしているので内容も酷いものである。まあ、最初からくだらない記事しか書いてないが、内容の低下は仕方が無い。で、何が言いたいのか自分でもわからない。こんな支離滅裂な記事を書くようでは、末期的かも知れない。なんだか適当に文を綴っているだけで、訳が判らなくなってきたので、今日はもうやめよう。 出直しします。
  
EDIT  |  20:00  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.12.24 (Wed)

年末の不景気風は厳しい・・・・・

 朝の電車が空きだした。私は毎日、東山トンネルと逢坂山トンネルを抜けて近江の国まで通っているのだが、今日なんかは先週までと違って電車が空いている。以前に乗っていたような大阪方面に向う電車と比較すると、混雑度というのは低いのだが、それでも毎日乗っていると、この方の混み具合でも辟易する。それに、かつて乗っていた電車は社会人が乗客の大部分を占めていたので、車内は静かなものであった。それが、近江の国へ通うようになり、乗客の半数は大学生か高校生であることに気がつき、彼らの喚声が車内に響きわたる中を通いつめて半年以上・・・・。でもその喧騒にもそろそろ慣れてきた。

 さて、祝日を挟んだ今日、朝の電車に乗ると普段とあまり変らない乗車率で、何時ものように電車は京都駅に到着。京都で大量に乗客が吐き出されるが、私はそこから再び、米原方面行きの電車に乗り換えなくてはならない。すると何ということか、何時もよりも車内が空いているのだ。まもなく電車は発車して山科に到着。先週ならここでほぼ満員になるのだが、今日はさほど人が乗ってこない。次の大津でも同様だ。ここでようやく私は気がついた。高校生も大学生もいないことに・・・・・・。でも大阪や京都では、今日の24日が終業式のはずだが、滋賀県は違うのだろうか・・・・・。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく電車が空いていることは有り難い。だからと言って座れるほど空いているというのでもないが、人に押されまくって通勤するよりは遥かに楽だ。日頃、乗っている電車が如何に学生、生徒だらけであったかということであるが、よくよく考えてみたら、大阪や京都の私立高校では、まだまだ補習、講習が続いているところもあるというのに、滋賀県は公立高校が多く、私立高校の少ないところ。だから、一斉に休みに入ったのだろう・・・・・。しかし、よく見ると何も高校生だけが減ったというのでもないようだ。何時も見られるような顔ぶれのオヤジたちの姿も減った。

 いったいどうしたのだろうか・・・・。つまり年末にきて受注が激減し、生産ラインをストップさせた工場がこの沿線には幾つかあって、そこに従事する人が乗ってないのだ。滋賀県というところは大阪、兵庫あたりにあった企業の工場が多数移転してきて、そこらに点在しているのだが、その中の多くのラインで働く派遣労働者が、突然の解雇を言い渡せられたり、自宅待機を伝えられたりする正社員が
急に増えたということで、不況の嵐が吹きまくっている状態なのである。

 そもそも日本だけではなく、アメリカから始まった金融不安。それが全ての業種にまで影響して、アメリカではGM、フォード、クライスラーで大量のリストラが始まったというし、日本でもトヨタが赤字決済に陥るという世界的な不況に見舞われているから、他人を同情している場合ではないのだが、年末の不況風が身に沁みる事態となって、失業してしまった労働者達は、これからどうやって年を越すのだろうかと思うと、電車が空いたといって喜んでばかりいられないだろう。2008年の末になり、このような状況であるが、来年の2009年になると、さらに景気は悪化するとの予測をたてる人も多く、このまま世界大恐慌に突入なんて非常事態にはならないことを祈りたいが、せめて自分は職を失いたくないという思いで、どうにか仕事がもらえる間は、有り難く頂くしかないというのが宮仕いの共通した考えである。・・・・なんか戦時中の標語ではないけれど、贅沢は敵だ。欲しがりません勝つまでは・・・・。何だか嫌な時代が訪れそうな、そんな予感がしないでもない・・・・。こんな時こそ、人間は保守的に成りがちだから、先が読めなくなって、世論があらぬ方向に向うのが1番怖いのである。だから私は絶えず、左翼的な思想は常時、持ち続けたいとは思うが、時流に流される人は多いだろう。おお、嫌だ! 嫌だ!
EDIT  |  21:42  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.12.23 (Tue)

エラ・フィッツジェラルドのアルバムを聴く『エラ・イン・ベルリン』

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 ジャズ女性ヴォーカリストとしては屈指のシンガーと言われるエラ・フィッツジェラルドには、いくつかの名盤が残っているが、当アルバムも名盤として言われている一枚である。1960年2月13日、ベルリンのドイッチュラント・ホールで収録されたライヴ・アルバムで、収録曲は9曲。『風と共に去りぬ』『ミスティ』『レディ・イズ・ア・トランプ』『私の彼氏』『サマータイム』『トゥー・ダーン・ホット』『ローレライ』『マック・ザ・ナイフ』『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』・・・・・・・・・・。

 12000人という大勢の聴衆の前で唄っているので、けして音響的に優れている訳ではないけども、その熱気というか、彼女のやる気が伝わってくるライヴ・アルバムである。特に最後の2曲は聴いても損はない熱演で、後年になってエラの代名詞ともいわれるようになった曲『Mack the Kknife』であるが、実はこのベルリン公演で唄ったのが最初である。

 今でこそ『マック・ザ・ナイフ』はエラの代表曲という認識があるが、原曲は1928年にドイツで初演された音楽劇『三文オペラ』の「メッキー・メッサーのモリタート」というナンバー。だから当然、オリジナルはドイツ語である。それがギフォード・コクラン等の書いた英語版がアメリカで1933年4月に12回上演された。その後になってマーク・ブリッツスタイン作の英語版が、1952年コンサート形式で上演。1954年にはオフ・ブロードウェイで、2700回のロングラン上演を記録し一躍、アメリカでもこの中の『マック・ザ・ナイフ』は有名曲となる。さらにディック・ハイマン・トリオの録音した同曲が大ヒット。この曲は、その後、次から次へと録音するミュージシャンが続く。ローレンス・ウェルクジャン・オーガストと、リチャード・ヘイマン楽団、そしてルイ・アームストロング、さらに1959年にボビー・ダーリンのレコードがミリオン・セラーを記録。私もボビー・ダーリンの盤でこの曲を知ったぐらいだ・・・・・・。このようにして、すっかりアメリカのスタンダード曲の仲間入りをしていたが、エラ・フィッツジェラルドというジャズ・ヴォーカルの大物が始めてこの曲を唄って評判になり、今ではエラを代表する曲の一つとなってしまったということである。エラはどこかアクが強くて苦手という人も多いが、このアルバムでは会場が大きいからか、コンサート・スタイルの唱法に徹しているので、比較的ストレートに入ってきて聴きやすくなっている。或る意味で女性ジャズ・ヴォーカルの一つの地位を確立したエラ・フィッツジェラルドだから出来る芸当ではあるが・・・・・・。

  それでは簡単にエラ・フィッツジェラルドの略歴を記すとする。エラ・フィッツジェラルドは1917年にヴァージニア州で生まれ、ニューヨーク州ヨンカースで成長した。両親は彼女の誕生後間もなく離婚していて、離婚後父は姿を消してしまい、さらに14歳の時には母が交通事故で死亡。とうとう彼女は孤児となった。1934年、16歳でエラは初めて聴衆の前にデビュー。まもなく彼女はチック・ウェブズ・バンドへの誘いを受けた。翌1935年からエラはハーレムのサヴォイ・ボールルームでチック・ウェブズ・バンドをバックに歌手活動を開始した。このバンドと共に、当時のヒット曲を納めた数枚のレコードを作成。当時病気で療養中であったチック・ウェブの為にヴァン・アレクサンダーと共に作成した一曲『ア・ティスケット・ア・タスケット』が17週間にわたりチャートトップを記録し、アルバムは100万枚のセールスをあげた。1939年にウェブが死亡すると、バンドは名称を『エラ・フィッツジェラルド・アンド・ハー・フェイマウス・オーケストラ』へと変更しツアーなどの活動を継続した。

 1941年以降はソロでの活動が中心になるが、この時期はデッカ・レコードで録音を残し、1955年にデッカを離れた後は、ノーマン・グランツが興したレコード会社ヴァーヴ・レコードに所属し、その時代に幾つかの名盤を残すこととなり、この『エラ・イン・ベルリン』もその中の一枚である。その後、エラは長らく現役で歌手を続けたが、1986年に心臓障害で引退状態だった。結局、晩年のエラは糖尿病から盲目となり、1993年には手術で両足を切断し表舞台から完全に距離を置くこととなり、1996年6月15日、カリフォルニア州ビバリーヒルズで死去。ロサンゼルスのイングルウッドの墓地に埋葬された。

『マック・ザ・ナイフ』を唄うエラ・フィッツジェラルド(1968年)


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2008.12.21 (Sun)

第60回朝日杯フューチュリティlS

 今日は2歳馬ナンバー1を決める第60回朝日杯フューチュリティS(GⅠ・3歳、芝1600m、16頭)が中山で行なわれた。今年の2歳牡馬だが、今のところどの馬が図抜けているのか、まだ判らない。これは今年に限らず、去年もそうであったが・・・・・・。はたしてこのレースで飛躍をする馬がいるかどうか、最近はどうも翌年のクラシックに繋がっていないが、とりあえずは注目することにする。

 1番人気はブレイクランアウト、2番人気はセイウンワンダー、3番人気はミッキーパンプキン、4番人気はシェーンヴァルト、5番人気はフィフスペトルであるが、どの馬にもチャンスがありそうだ。中山のマイル戦。1コーナーポケットからのスタートで、コーナーが多いトリッキーなコース。とにかくこの小回りで多頭数、それに実力伯仲である。どんな競馬になることやら。

 ゲートが開いた。まずはツルマルジャパンが行く。しかし、ゲットフルマークスがかわして先頭に立ち、2頭で競り合うように行く。3番手ケンブリッジエル、その内にミッキーパンプキン、5番手エイシンタイガーとホッコータキオン、さらにトウカイフィット、フィフスペトル、内にセイウンワンダーがいて、その外にトレノパズル、その後にトップオブピーコイ、シェーンヴァルト、そしてピースピース、オメガユリシス、ブレイクランアウト、最後方にブラストクロノスだが、先頭から後方までバラけて縦に長い展開である。スタートからのラップは、12.2---10.8---11.3---12.0---12.5と800m通過が46秒3、1000m通過が58秒8とやや速めのペース。先行馬は飛ばしすぎてないだろうか?

 3コーナーから4コーナーにかけて後続馬が追い上げてきて、いよいよ直線に向こうというところ。4頭、5頭が並ぶようにして直線コースに入る。最内のツルマルジャパンが先頭。その外にホッコータキオン、どうやらホッコータキオンが先頭に出る模様。さらにその外からブレイクランアウトが伸びる。また内から馬群をすり抜けてセイウンワンダーが伸びる。あと150mという辺り、内のセイウンワンダー、真ん中のホッコータキオン、外のブレイクランアウトの3頭が並んで叩き合う。だがセイウンワンダーが出る。さらに外からフィフスペトルが一気に迫ってくる。内のセイウンワンダーかフィフスペトルか・・・接戦になってゴールイン。

 1着セイウンワンダー 1分35秒1、2着フィフスペトル アタマ、3着ブレイクランアウト 1/2、4着ホッコータキオン クビ、5着ピースピース 2馬身。

 セイウンワンダーは父がやはり朝日杯の勝ち馬で父子制覇ということになる。それも3ヶ月半の休養を挟んでの勝利は見事である。末脚は切れるタイプで勝負強いところもあるので、2歳で終わる馬とは思えないが、来年になってみないと若駒は判らない・・・・。さあ、来週は有馬記念だ、もう一年も終わりだなあ。
EDIT  |  17:34  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.12.18 (Thu)

ガンバ大阪VSマンチェスター・ユナイテッド

 まさかガンバ大阪が、こんなに早くクラブ世界一を決めるトーナメントで、あのマンチェスター・ユナイテッドと真剣勝負をするとは思わなかった。結果はガンバも守らずに攻めたが5-3でマンチェスター・ユナイテッドの勝利。流石はヨーロッパの王者である。しかし面白い試合だった。昨年も浦和レッズがレアル・マドリードと対戦したが、関西の人間にすればガンバがアジアの代表として戦うほうがより衝撃が強い。ただ残念なのは、試合会場が横浜という現実に甘んじなければならないこと。つまりこのクラブ・ワールドカップといって日本で開催していても会場は東京か横浜とスポンサーのある愛知県のみに限られている。これはいかにも関西という土地においてサッカーの人気が低く、熱気がなく、盛り上がりに欠けるという現状を考えればやむを得ない事象かもしれない。とにかくサッカーでどんな国際マッチを開催しても、関東に比べれば人が入らないし関心が低いといわれる関西では、日常でサッカーの事が話題になることはまずないから仕方がないことかもしれない。

 今から30年以上前は、年末年始の高校サッカーが、大阪や兵庫を開催地としていたことを知る人も、今では50歳以上になってしまっただろう。結局は関西でのサッカー人気のなさが、開催地を関東に移す一因になってしまったという事実さえ、もはや知る人も少なくなった。だから当時も今もサッカーに対する環境は、関西においてはあまり変わってない現実を考慮すると、クラブ・ワールドカップに参戦するガンバ大阪が、地元の大阪で試合が出来ないというのは、地域を取り巻く現況を考えると致し方ないかなあとは思う。とにかくサッカー記事がスポーツ紙の一面を飾ることなど大阪では滅多にないから、ガンバ大阪がマンチェスター・ユナイテッドと国際マッチをするといっても関心のある人は少ないだろう。

 でもサッカーが好きな人には、そんなことはどうでもいい事であって、日本のクラブが世界のビッグクラブと公式戦を行なうことは貴重なことなのだ。それも相手がマンチェスター・ユナイテッドとなればなおさらである。思えば私がマンチェスター・ユナイテッドというクラブの名前を認識したのは何10年前になるだろうか・・・・・・・・・・。サッカーの母国イングランド。そのイングランドを代表するクラブがマンチェスター・ユナイテッドである。イングランドにはリヴァプール、チェルシー、アストンビラ、アーセナル等の名門クラブがあるが、私が知るところ最も印象に残っているクラブがマンUなのである。

 このクラブは1958年2月6日、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップに参戦し、その試合の帰路、マンUの選手を乗せた飛行機が、西ドイツのミュンヘンで離陸に失敗し飛行機は大破。マンUの中心選手ダンカン・エドワーズを始め8人が亡くなった。これで念願のヨーロッパ・チャンピオンの道は閉ざされてしまった。だが生き残ったマット・バスビー監督と弱冠20歳だったボビー・チャールトンが中心となり、10年後のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップに参戦。ジョージ・ベスト、デニス・ロー等と共にヨーロッパ・チャンピオンズ・カップを制した話は、サッカー・ファンの間では知れ渡っているところである。昨年、来日したレアル・マドリードはビッグネームの勢揃いだったが、このマンUもクリスチャノ・ロナウド、ルーニー、テベス、ナニ・・・・・・・サッカー・ファンなら一度は見てみたい選手が顔を揃えている。

 このように今は、ヨーロッパの伝説のクラブが毎年のように来日するが、はるか30年以上前では有り得なかったことである。ましてや日本にプロのサッカー・クラブが誕生し、Jリーグが発足してすでに15年。時代の流れは急速で、とうとう日本のクラブが世界の舞台で戦うようにまでなり、隔世の感があるなどと感傷に浸っているばあいではないが、ガンバ大阪がマンチェスター・ユナイテッドと試合をしたということに、今さらながら付加価値を考えてしまうのである。

 ・・・・・・・でも個人的にいうと、小生はガンバ大阪よりも、セレッソ大阪や京都パープルサンガの方を贔屓にしているのであるが・・・・・。

 1968年のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ マンチェスター・ユナイテッドvsベンフィカ・リスボン
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2008.12.17 (Wed)

もし電車が大幅に延着したら・・・・・

 仕事を終えJRの最寄駅までテクテク歩いてやって来るなり、米原方面行きの各電車が軒並み、大幅に遅れていることに気がついた。いったい何があったのかと駅構内にある電光掲示板に視線を移すと「17時17分頃、新大阪~塚本間において橋梁にトラックが衝突したため各電車に遅れが生じています」というテロップが表示されていた。

 何だとこれは一大事と思い再び電光掲示板を確認する。すると遅れているのは米原方面行きだけで、大阪方面行きは定刻どおり運行していたから一安心したのであるが、電車の遅れはほとんどが40分以上で、中には50分とか1時間とか遅れている電車もある。私はお気の毒にと思いながらも到着した網干行きの電車に乗ったが、東の方に行く電車のホームは人で溢れていた。でも今日は幸いにも被害を請うむらなかったが、いつ自分もこのような大幅な延着に巻き込まれるか判らないから、他人事では済ませられないといった思いが絶えず頭の中には存在する。

 もしわが身に降りかかったとしたら、帰宅は何時になるか判らない。復旧が早ければいいが、事故処理に時間を要するならば家に帰れるかどうかそれさえも判断出来ない。とにかく滋賀県という関西の端にある県へ毎日、通っている以上、どういう事態で帰れなくなるか判らないという心積もりはしているが、実際に起こったとしたら平常心ではいられないだろう。とにかく滋賀県は車がなければ陸の孤島のようなところが大部分で、琵琶湖を挟んで湖東と湖西に一本ずつ東海道線、湖西線というJRの大動脈が貫いているが、共にバイパスとなるような鉄道が何もない。だからJRに頼るのみで、今日のように1時間も電車が遅れると、その日の間に帰宅出来るのかどうかといった不安が過り、これからも度々、このような事態が頻繁に発生するとストレスとなる。それで、こんな具合で、私は戦々恐々とせて毎日、通勤しているのである。

 でも滋賀県から京都、大阪へ通っている人は多いが、私はその逆のことを毎日、行なっているので比較的に電車は空いている(大阪方面行きに比べれば)。つまり都会へ向う電車とは反対方向の田園地帯へ毎朝向っているから、比較的に車内の混雑度はたかがしれている。そのようなことから、通勤時間の長さも余り苦にはならない。けれど電車の大幅な遅れが現実問題として何時、起こるか判らない。それで帰宅時に、電車が滋賀県内において全く動かなくなった時は、それこそお手上げ状態になるだろう。

 JRが停まったときの振り替え輸送というとバスしかない土地柄である。だから私は常に、京都市内の山科まで早く到着してくれないか絶えず祈っていると言ってもよい。それは何故かというと、山科まで来ると地下鉄なり京阪経由で帰るなりで、京都駅で停まったとしても他の交通機関で帰る手段は幾らでもあって、選択肢が増えるからである。これが滋賀県内の何処かの駅で立ち往生でもしようものならと思うとぞっとするのだ。本当に私は何時も思うことだが、今までは遥かに交通の便の良いところに通っていたのだなあと感じつつも、代替線の皆無の滋賀県へ毎日、不安な思いを背負いながら長時間電車に揺られているのである。

 しかし、京都から山を一つ越えるだけで、これほどまでに交通の便が悪くなるものだろうか・・・・。このどうにもならない現状に不満を抱きながらも、毎度のように遅れる電車に乗り込んで時計と睨めっこしながら、通っているのである。
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2008.12.15 (Mon)

ローム イルミネーション

 一昨日、嵐山花灯路を早々と切り上げてから、嵐電に乗って西院に向ったと書いたが、今日は、その続きを書くことにする。

 何故、西院に向ったかというのは、嵐山花灯路が人人人で溢れかえっていかんともしがたいので、それならばとロームイルミネーションが催されている西大路五条の方へ行くためであった。ロームというのは、京都市右京区に本社のある電子部品メーカーで、この本社前の道路や公園一帯を利用して、同社が1995年から毎年、年末になるとイルミネーションを行なっているのだ。

 私は喧騒の嵐山を後にして嵐電に乗り、西駅(嵐電は西だが、阪急は西院)で降りた。西院とは西大路四条のことで嵐電と阪急の駅がある。西院から南へ歩き五条通りまで来ると、西へ入る。するとすぐにイルミネーションが目に付いた。

 この催しは25日まで行なわれていて、ローム本社前の街路樹72本を使ったイルミネーションである。主にヤマモモ、ケヤキといった木々で、60万個の電球、LEDを使い、環境に優しいイルミネーションを謳っている。

 ここは嵐山と違って、人で溢れていないからホッとする。見学者は地元の人か、近辺の人が多い。つまり知る人ぞ知るといったところだろうか・・・・。場所柄、余り観光客もこないので、嬉しい限りである。

 でもいずれもっと知れ渡ると、人がどんどんと押し寄せてくるようになるのかも知れないが、今のところ、さほど人が多いわけじゃない。しかし、このようなイルミネーションは、日本中のいたるところでやっているから、珍しいものではないが、嵐山から数kmしか離れていないというのも、不思議な気がする。所謂、和風調の嵐山の灯路に対して、現代的なロームのイルミネーション。このアンバランスこそが、京都という街の在り方を顕著に表していて実に面白い。それでは、僅かながら写真を撮りましたので、ご覧ください。なお、写真のザラツキ、ノイズが見られますが、ご了承ください。
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2008.12.14 (Sun)

第60回阪神ジュベナイルフィリーズ

 あったかな今日、阪神競馬場で2歳牝馬のGⅠレース阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ・2歳牝馬、芝1600m、18頭)が行なわれた。ところで何故、関西は牝馬のGⅠレースばかりあるのだろうか。面白いレース、興味の湧くレースは全て関東に集めてしまって、どうも力の入らないレースばかり関西に・・・・とJRAは思っているのではないだろうなあ。とにかくこれが気に入らない。せめて有馬記念は伝統のこともあるので阪神でなんていわないが、中山競馬場のレースは本当につまらないレースが多いぞ。ここでGⅠレースをやっている間は、先行が出来て、上手く器用に立ち回れる馬が勝ち星を重ねていくように思う。それで後方一気というような不器用な馬が脚を余して何時も取りこぼすのである。だから有馬記念は意外な馬が勝つことが多いのである・・・・・・・・。要するに有馬記念勝利=№1と思っている人が多いが、必ずしもそうではないとだけ言っておこう。

 さて阪神ジュベナイルフィリーズは18頭のフルゲートとなった。1番人気はなんと前走未勝利のレースを勝ったばかりのブエナビスタ。でも勝ち方が強烈だったので1番人気に支持されたようだ。それに良血である。母はこのレースを勝っているビワハイジで、兄にアドマイヤジャパン、アドマイヤオーラがいて、注目の血統馬ということになる。2番人気はジェルミナル、3番人気は関東馬ダノンベルベール。4番人気はミクロコスモス、5番人気はワンカラットといったところである。

 スタートが切られた。まずまずのスタート。シゲルキリガミネがハナを奪う。2番手にショウナンカッサイとルシュクル、4番手にコウエイハート、5番手にレディルージュ、アディアフォーン、ワンカラット、ジェルミナル。その後にカツヨトワイニング、パドブレ、さらにイナズマアマリリス、ダノンベルベール、チャームポイント、デグラーティア、さらにフキラウソングがいて、その後にようやくブエナビスタ。その後はミクロコスモス、メイショウボナール。こういった位置取りで、各馬が3コーナーから4コーナーをゆっくりと回る。ラップタイムは12.4---11.0---11.8---12.1---12.3で、800m通過が47秒3、1000m通過が59秒6。かつての阪神のようにハイペースにならないようだ。阪神が改良されて、馬場が大きくなり直線も長くなっただけ、前半からのハイペースで先行馬がつぶれるような展開にはならなくなった。

 さあいよいよ直線コース。今年の阪神は芝の状態が良くないぞ。各馬、何処を通るのか? 比較的に固まっているものの、馬群は大きく横に拡がっている。先頭はシゲルキリガミネ、その外にルシュクル、さらに馬場の中央にジェルミナールが来て、その外にダノンベルベールが伸びる。この辺り先頭に立とうとする勢いだが、あと200m、ここで1番外から人気のブエナビスタが一気に先頭に踊り出た。ブエナビスタは先頭に立って、2馬身ほど差を拡げ、最後は余裕でゴールイン。

 1着ブエナビスタ 1分35秒2、2着ダノンベルベール 2馬身1/2、3着ミクロコスモス 1馬身1/4、4着ショウナンカッサイ 1馬身1/4、5着イナズマアマリリス 1馬身1/2。

 なんかブエナビスタだけが目立ったレースであった。アメリカの映画会社の名前みたいだが、スペイン語でbuena vista(素晴らしい眺望)と書くと、なんてことはない。でもいい末脚を持っている。けども中山で行なわれていたら、おそらく届かずに負けていただろう。やはり阪神の外回り、東京のコースに向いている脚質だと思う。とにかく母子に亘っての2代制覇とは恐れ入りました。
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2008.12.13 (Sat)

嵐山花灯路

 嵐山花灯路というのが今、嵐山周辺で行なわれていて、今回、初めて訪れてみた。これは年2回行なわれている京都花灯路の一つで、最近、行なわれるようになった京都の催しである。

 京都花灯路は嵐山、嵯峨野と東山界隈にて春と秋の年2回行われているが、その目的が桜と紅葉の時期を外して、閑散期の京都に足を運んでもらおうと言う意図で京都・花灯路推進協議会が中心となって2003年から始まった京都の新しい観光行事であり新しい風物詩ということなのである。それで私は今回、初めて嵐山花灯路に行ってみたのであるが・・・・・・・・・・。

 一言で片付けるなら、人が多すぎて、風情も情緒もあったものではない。正直、行くのではなかった。幻想的で美しいなんていうけども、ライトアップによって幻惑されているだけじゃないの・・・・。もう京都にこれ以上、観光客が来て欲しくない。JR東海も「そうだ京都へ行こう」なんて、下らないCMを流すのをやめてくれ。京都なんかほっといても観光客が来るのに・・・・・・。だから冬枯れなんていうが、人がいないから情感を覚えるのであって、何処も人混みだらけの京都に、そのようなものは最早、存在しない。竹林の小径なんて、狭い小道に人が溢れかえってしまい、おそらく何を見に行ってるのかそれさえも判らなくなりそうだ。渡月橋から嵯峨野へ続く道路は、一方通行で、警備員が所々に配備され、人が歩道から溢れないように注意を促がしている。でも道路の両側から人が車道に溢れ出すので、車が立ち往生している有様だ。よくこれだけの人が、こんなに狭い嵐山一帯に集まったものだ。

 私は少1時間ほどで切り上げて、さっさと嵐電に飛び乗って、西院に向った。もう2度と行かない。

 一応、写真を撮ってはみたが・・・・・・夜間なのでノイズが出てしまった。
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 ぼんやりとした薄明かりの向こうに渡月橋が・・・・・。
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 確かにライトアップした渡月橋は幻想的ではあるが・・・・・・・。
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 山の方にライトを向けて照らしているので、紅葉がまだ残っていて、華やいだ色合いに染まっている。
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 しかしこの季節、イルミネーションが大流行とみえて、日本中のいたるところで煌びやかな光と明かりの饗宴が見られるが、嵐山花灯路というのも所詮は、それらと同等の催しということになるだろう。ただ京都は古都の趣きを残さなければならないから、余所とは違うぞということをいいたかったのではないだろうかと思うが・・・・・・・・。
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2008.12.12 (Fri)

バッハのチェンバロ協奏曲第5番を聴く

 チェンバロ協奏曲第5番ヘ長調BWV1056
 カール・リヒター(チェンバロ、指揮)、ミュンヘン・バッハ管弦楽団
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 この時期になると何故か崇高で荘厳なバッハの曲が聴きたくなる。でもバッハというのはとにかく曲が多い。番号がついている曲だけで1000曲以上あるようだが、宮廷音楽家、教会の音楽監督として多くの曲を残したことからカンタータや、ミサ曲も数え切れないが、私がよく聴くバッハの曲というと決まってチェンバロ曲である。チェンバロというのはハープシコードともクラヴサンとも言うが、バロック音楽にはなくてはならない楽器であるものの、音が小さくて現在ではほとんど使われることのない楽器である。でもピアノの原型といえばわかるだろう。一応は鍵盤楽器であるが、ピアノのように強弱をつけることも出来ず、音量もか細い。でもあの優しい音色と、心に沁みる適度の音量で奏でられると、聴いていても心地よくて癒される。

 この楽器の発展型がピアノのようなもなのだが、ピアノはハンマーで叩いて音を出す分、大きな音がが出て、色々なジャンルの音楽で使われるようになった関係から、今日では盛んに何処でも聴くことが出来る。つまり万能楽器と言ってもいいだろう。しかしチェンバロは、現在において、バロック音楽という範疇に追いやられ、バッハやヘンデルといったバロック音楽の大家の曲を演奏する時のみに奏でられる楽器といった意味合いが強い。だが、私はそのようなチェンバロの音色と慎ましくて控えめの音しか出せないこの古楽器にたいへん愛着がある。そして、そのチェンバロの数ある曲の中で、このバッハのチェンバロ協奏曲第5番は最も聴いているだろう。3楽章から成り、全曲を通しても10分ほどで演奏が終わってしまうが、とにかく耳に心地よく入って来る。

 そもそもバッハはチェンバロ協奏曲を13曲作っているが、これらは教会外の活動で生まれた曲だといわれている。バッハは宮廷音楽家であったり教会の音楽家であったことから、依頼により作曲するか、または宗教色の強い音楽を生み出さなければならなくて、教会での人間関係がギクシャクしていた時期、ライプツィヒ大学の学生達と一緒に演奏を楽しむことに喜びを感じていたようである。

 さて、このチェンバロ協奏曲第5番は、バッハのチェンバロ協奏曲の中で最も完成度が高く、有名な作品となっており、両端楽章で繰り広げられるチェンバロのブリリアントな名人芸は、その華やかな魅力によって聴き手を捉えて離すことができない。1738年から1739年頃にかけて作曲されたと考えられていて、このチェンバロ協奏曲第5番 ヘ短調の原曲は、消失したヴァイオリン協奏曲 ト短調の編曲であるとされているが、この原曲がバッハ自身の作品なのか、他の作曲家の作品であるかどうか不明。第2楽章はカンタータ第156番『わが片足すでに墓穴に入りぬ』のシンフォニアと同一の音楽で、『バッハのアリオーソ』として親しまれている。なお、BWV1056aが存在する。

 バッハとしては、初期のシンプルで古風な様式を示しているものの、素材の有機的な展開といった点では、かなり巧みな書法が駆使されている。1738年から1742年頃にかけて作曲されたと考えられている。

 第1楽章 ヘ短調、4分の2拍子。リトルネッロ形式による楽章で、同一音形を装飾反復し少々いかめしい表情をもっていてる。

 第2楽章 ラルゴ 変イ長調、4分の4拍子で、弦のピッツィカートの伴奏で、チェンバロで甘美なメロディが繰り広げられる。このラルゴはかつて映画『恋するガリア』の中においてスキャットで歌われ、とても印象深い挿入曲だったから、今でも忘れられないメロディとして覚えている。

第3楽章 プレスト ヘ短調、8分の8拍子。
 リトルネッロ形式による舞曲風で活発な楽章である。エネルギッシュでリズミックな性格を特色としている。

 とにかく夜の長いこの季節、心が癒されるバッハのチェンバロ協奏曲を聴いて、冬を乗り切りたいものである。

チェンバロ協奏曲第5番 へ長調 BWV1056~第2楽章(音声のみ)

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2008.12.10 (Wed)

またまた遅刻・・・

 先月の20日に続いて遅刻した。15分の遅刻だ。

 朝、自宅を出た瞬間、霧が出ているなあと感じたが、視界もきくし大幅に電車は遅れないだろうと思っていた。でも駅まで来て、その認識が甘いことに気がついた。何と私がいつも乗っている京都行きの普通電車到着が濃霧のため約15分遅れているという。その結果、私は寒い駅のプラットホームで電車を20分以上待つこととなった。その間、快速や特急が通過しても普通電車は音沙汰なし。これはどういうことなのか?

 宝塚付近で発生した濃霧のため福知山線経由、東海道線の高槻行き電車が徐行している関係から軒並み遅れているという。また、さらに東海道線の千里丘~茨木の間で濃霧が発生したから大幅に普通電車に遅れが生じたようだ。これはおそらく、複々線の東海道線で、電車線と列車線を分けて走らせている関係から、電車線の線路上の普通電車が動かないから、すべてダイヤが狂ってしまったのだろうと推測できる。

 でも何? 茨木、千里丘で濃霧が発生・・・・信じられない。私は長い間、京都の方から大阪へ通勤していた経験からいって、京都府南部で濃霧が出ても、天王山の麓を抜け高槻にかかる辺りから霧が薄くなり、茨木までくると見晴らしは良好といった状況に過去、何度となくお目にかかっている。だから当然、私の住む地域よりも大阪方面の地域の方が霧の濃度は薄いだろうと考えるのが自然である。なのに吹田、茨木辺りで濃霧が発生した・・・。滅多にないことだ。霧が発生するメカニズムというのは、温かい空気と冷たい空気がぶつかったときに起こるのだが、今日のように朝から温かいと冷たい空気との境界線で霧が発生するのだろう。しかし、京都よりも大阪の方が濃い霧に包まれたというのは実に珍しい。一時は視界が20m未満だったというから、そりゃ電車も徐行するだろうなあ。そのような理由で、結果的に電車は20分遅れてやって来た。すでに混んでいる。でも乗らない訳にはいかない。やっと京都駅に到着したが、そこから先の足がない。播州からやって来て京都から各駅停車に変わる快速が、これまた濃霧の影響で30分ほど延着しているようだ。到着を待つ電車の停車位置付近には長蛇の列。私はこの時、遅刻を覚悟した。

 ようやく京都駅にやって来た快速は満員の乗客を吐き出したが、また新たに湖国に向かう人々を大量に飲み込んで発車した。満員で山科、大津、膳所、石山と駅に着くごとに人混みを捌いて行く。こうして職場の最寄駅に到着した。あーあ! 遅れは30分以上となってしまった。でも、まだ動かないことで有名な路線バスに乗らなくてはならない。

 職場にまたまた遅れて到着。先月の20日に続いて、また遅刻してしまった。私は20年以上、阪急で通っていたが遅刻なんて大雪で遅れたときか、それ以外だとほとんど記憶がない。日頃から時間的な余裕を計らって通勤しているので、まず遅刻はなかった。なのにJRで通うようになって、やっと半年を過ぎたばかりだというのに、すでに遅刻は2回、また遅刻にはならなかったが、辛うじて始業時間内に間に合ったというのも何度かある。自分のせいで遅れたのではないから、納得は出来るけど、それでも始業時間に間に合わないというのは、あまり気分のいいものではない。ホント、阪急で通っていた頃が懐かしいよう・・・・・・・。
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2008.12.09 (Tue)

三億円事件から40年

 今から40年前の1968年(昭和43年)12月10日午前9時半頃、東京の府中刑務所の側の道路で三億円強奪事件が起こった。

 日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場の従業員に支給するボーナスを運ぶ行員達を乗せた現金輸送車が、東京都府中市の府中刑務所裏の道路にさしっかっかた頃である。後ろから追ってきた白バイに乗った若い制服姿の警察官が、輸送車の前に出て立ち塞がった。すると警察官は「貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言って行員を輸送車から降ろさせた。しぶしぶ降りた行員の前で警察官は突然、車の下に潜り込み「爆発するぞ! 早く逃げろ!」と避難させ、その直後に輸送車に乗り込んで、白バイをその場に残したまま逃走した。この時行員は、警察官(犯人)が爆弾を遠ざけるために輸送車を運転したと勘違いし、「勇敢な人だ」と思ったという。しかし、バイクに詳しい行員が残された白バイが偽物と判断できたことから偽警察官による現金強奪事件であることが早くも判明した。こうして、まんまと三億円は怪我人一人出すこともなく強奪されたのである。これが所謂、昭和犯罪史に名を残す三億円強奪事件である。

  今から40年前というと高度経済成長期の真っ只中、昭和元禄とかいわれ好景気で日本人が浮かれていた。サラリーマンの給料は毎年のように上がり、まさに日本という国の勢いが最もあった頃の話である。

 この事件が起こった当時、中学生だった私は、国内で起こった事件という気がしないで、どこか外国で起こった事件であるかのような感覚でとらえていた。あの頃の三億円、正確には2億9430万7500円。ジェラルミンのトランク3個に振り分けて入れられていた。当時の時代を反映しているのか500円札が多かったものである。また、今なら銀行の口座に振り込まれるが、ボーナスが現金で渡されていた時代の名残をとどめる事件でもある。

 ところがこの事件、当初、すぐに犯人が捕まるだろうという意見が強かったように思う。目撃者には銀行員のほか府中刑務所の職員や、近くには航空自衛隊員などもいたからである。しかし、これらの目撃者の証言は曖昧であり、また勘違いだった可能性もあり、なかなか捜査が進まなかった。それで警視庁は直ちに緊急配備を敷き、要所要所で検問が実施されたところ、杉並区内の検問所で銀色のトランクを積んだ灰色ライトバンを捕捉したが突破された。これが最後に目撃された犯人の姿といわれる。

 こうして直ぐに解決されるものだと思われた三億円事件は、意外にも捜査が二転三転、結局、1975年(昭和50年)12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)。1988年(昭和63年)12月10日、民事時効成立(時効期間20年)・・・・・捜査は打ち切られた。被害金額の約3億円(2億9430万7500円)は現金強奪事件としては最高金額であり、当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約80億円にあたる(計算方法によっては30億円とする意見もある)。捜査には9億円が投じられた。

 その後、この事件ほど本になり、ドラマに成り、犯人像をありとあらゆる角度から検証されたこと他に例がない。あれから40年、あの真犯人は、今、何処に・・・・・・。今さらながら気になる事件である。あの大金はどうしたのだろうか・・・・・・・・・・。もう、三億円事件も風化されようとしている。時代の流れは余りにも残酷だ・・・・・。
EDIT  |  20:25  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.12.07 (Sun)

第9回ジャパンCダート

 今年からジャパンCダートが阪神で行われることになった。昨年までは東京の2100mで行なわれていたが、距離の2100mはアメリカの馬にとって長すぎるというこてで、参加馬が少ないから、1800mのスタート地点が確保できる阪神開催に変更したらしい。でも阪神はアメリカの馬にとって経験のない右回りコース。距離を短縮したからといってすんなり来てくれるものではないだろう。JRAの考えはどうも安直すぎると思うけど、まあいいか。ということで第9回ジャパンCダート(GⅠ・3歳以上、ダート1800m、15頭)が行なわれた。今年はアメリカからサバーバンH(GⅠ)の勝ち馬フロストジャイアント、インディアナ・ダービー(GⅡ)等、9戦8勝のティンカップチャリス、マストトラックの3頭が参戦してきたが、マストトラックは今日、出走を取りやめて15頭立てとなった。1番人気は国内ダートGⅠ6連勝中のヴァーミリアン、2番人気は3歳馬で前走ヴァーミリオンに敗れるまでダート5連勝中だったサクセスブロッケン、3番人気は超良血の3歳馬カジノドライヴ、4番人気は3年前の覇者カネヒキリ。

 スタートが切られたがスローで始まった。ガリガリ行く馬がいない中でアメリカのティンカップチャリスが先手をとって第1コーナーを先頭で回る。2番手内にサクセスブロッケン、その外にフリオーソ。ところが向こう正面に入ってサクセスブロッケンがハナを奪う。ここからハロン13秒台から11秒台に上がる。2番手にティンカップチャリス、3番手にフリオーソ、4番手カジノドライヴ、その内に古豪カネヒキリ、さらにアドマイヤフジ、メイショウバトラー、その後にワイルドワンダー、ブルーコンコルド、ワンダースピード、フロストジャイアントと続き、その直後にようやくヴァーミリアン、そしてサンライズバッカス、メイショウトウコン、ボンエビルレコード・・・・・・・。

 3コーナーにかかるとヴァーミリアンが外目を通って動く。落馬負傷の武豊から岩田騎手に乗り換わってどうか・・・・・。ヴァーミリアンが動いたのを見てメイショウトウコンも動く。さらにカジノドライヴも・・・。レース展開が急に慌しくなる。そしていよいよ直線。

 先頭はインコースをついてサクセスブロッケン、その後ろにカネヒキリ、その外にティンカップチャリス、そしてサンライズバッカス、その後ろにカネヒキリがいる模様。ヴァーミリアンはようやく外から上がって来た。あと300m。先頭にサクセスブロッケンだが。あと1ハロン、ここでカネヒキリが先頭に立った。外からヴァーミリアンとメイショウトウコンがやって来る。カジノドライヴも伸びるが古馬相手だと厳しいか? あと100m。ここで6歳馬3頭の争いに絞られる。先頭はカネヒキリ、ヴァーミリアン、メイショウトウコンの3頭だが、真ん中のヴァーミリアンはやや後退か。カネヒキリとメイショウトウコンの争いになった。が、僅かに内のカネヒキリが優っていた。

 1着カネヒキリ 1分49秒2、2着メイショウトウコン アタマ、3着ヴァーミリアン クビ、4着サンライズバッカス 1馬身3/4、5着ブルーコンコルド アタマ。

 3歳馬の2頭が強力だったので新旧後退か? ともいわれたが、カジノドライヴは6着、サクセスブロッケンは8着に終わってしまい、改めて古馬の力強さばかりが目立ったレースになってしまった。それも1着~4着は全て6歳馬だから驚いてしまう。同期の馬というとディープインパクトだから、ダート路線は古豪ばかりということになる。喜んでいいのか哀しんでいいのか、カネヒキリなんて長い故障からの復活だから、拍手を送りたくなる。馬主も金子さんだし、ダート界のディープインパクトなんて異名を思い出してしまった。しかし、騎手のルメールが上手く乗ったというのもあるが、とにかくおめでとう。
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2008.12.06 (Sat)

コロー展に行く

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 寒風吹きすさぶ今日、神戸の市立博物館で開催されている
コロー展に行った。そういえば、今から30年前になるが、バルビゾン派美術展というものがあって、そのときも神戸の美術館で開催されていたと思う。当時は王子公園の近くに美術館があって、ミレーの作品を中心に何人かの画家の絵を拝見したものなのだが、その中にコローの絵も何点か展示されていた。だからコローの絵をゆっくり拝むのは、そのとき以来ということになるだろうか・・・・・。

 コローというと風景画、人物画で知られるが、柔らかなタッチの古典的画法で描かれた絵が多いように思う。コローは印象派画家よりも僅かに時代が古いせいか、マネ、モネ、ルノワールといった画家達の影響を受けず、この辺り彼らとは一線を画しているから面白い。

 コローは1796年、パリの裕福な織物商人の子として生まれ、学生時代はルーアン、ポワシーの寄宿学校で学んだという。コローは画家になりたかったが、画家になることに反対していた父親に従い、いったんは商人としての修業をする。でも1822年、26歳の時、やっと父の許しを得て画家を志し、当時のアカデミックな風景画家アシール=エトナ・ミシャロン、ジャン=ヴィクトール・ベルタンに師事する。当時としては画家を志すには遅いスタートだった。最初はミシャロンに師事したが、コローが師事してから数か月後、26歳の若さで他界したのである。師を失ったコローは、ミシャロンの師であったベルタンに師事することになった。ベルタンは大きな画塾を構え、当時のフランス風景画の第一人者でもあった。こうしてコローは風景画家として飛び立ったのである。そして、画家になり当時の画家の憧れだった土地であるイタリアに行き、多くの作品を残すこととなる。

 コローは生涯に3度のイタリア旅行をしていて、1回目の旅行はもっとも長かった。それは1825年9月から1828年秋に及び、ローマとその近郊を中心にヴェネツィアなどにも滞在している。この時、屋外で制作した習作風景画には色彩感覚や構図法などに近代的感覚を見せるものが多く、後の印象派などの世代の画家に影響を与えている。コローはその後1834年と1843年にもそれぞれ半年ほどイタリアに滞在している。このような理由で彼の初期の作品はイタリア物が多い。

 一方コローは、晩年に至るまでフランス各地にも精力的に旅行し、各地の風景をキャンバスにとどめている。特にパリの西の郊外にあるヴィル=ダヴレーには父の購入した別荘があったことから頻繁に滞在している。また、フォンテーヌブローの森においても絵の制作を行っていた。そして、サロンには、イタリア滞在中の1827年に『ナルニの橋』などを出品して以来、晩年まで精力的に出品し、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命された。1855年にはパリ万国博覧会に6点の作品を出品し、グランプリを得ている。晩年は大家として認められるようになり、死の直前までフランス各地への旅行と制作を続けた。1875年2月22日、病のため死去。生涯未婚であった。

 彼の風景画は、神話や歴史物語の背景としての風景ではなく、イタリアやフランス各地のごくあたり前の風景を描いたものが多い。特に1回目のイタリア滞在の際に制作した風景習作には、その光の明るさ、大胆なタッチなどに近代性を見せるものが多い。春から夏に屋外で制作を開始し、それを秋から冬にかけてアトリエで仕上げるのがコローの風景画制作の基本であった。こういった絵画制作の過程においては、どこから見ても印象派の画家ではないことが判る。また、後半生には、画面全体が銀灰色の靄に包まれたような、独特の色調の風景画を描いた。こうした風景画は、明確な主題のある歴史画とも、現実の風景をそのまま再現した風景画とも異なるもので、現実の風景の写生を土台にしつつ、想像上の人物を配した叙情的風景画である。コローは、こうした風景画のいくつかに『思い出』(souvenir)というタイトルを与えている。ただ、人物画は、親戚、友人など親しい人々の肖像画と、モデルに民族衣装などを着せて描いた空想的人物像に分かれるのだ。

 それで、結局、コローの影響を受けた画家としては、印象派、ポスト印象派のピサロ、モネ、セザンヌ、フォーヴィスムのマティス、ドラン、キュビスムのピカソ、ブラック、グリスなど多くの画家が挙げられる。ピサロは1855年のパリ万国博覧会でコローの作品を見ており、ピカソは何点かのコロー作品を収集していた。1909年にサロン・ドートンヌで開かれたコローの人物画の特別展示はピカソらに影響を与えたことが指摘されている。また、日本でもコローは早くから紹介され、浅井忠ら影響を受けた画家が多いことも知れ渡っている。

 今回、コローの絵は100点近く展示されていたが、最も注目されていた作品は1858年~1868年にかけて描かれたとされる『真珠の女』である。この絵はダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を意識したのか、コロー自身も非常に気に入っていたらしく、彼が亡くなる居間に飾ってあったらしい。彼としたら風景画ではなく、人物画を気に入っていたというのも興味深いが、いずれのジャンルでも、古典の伝統をふまえつつ、鋭敏なレアリスムの感覚と確かな造形力によって独自の詩的世界を作り上げ、印象派をはじめ、多くの画家たちに多大な影響を与えている。 そんな画家がジャン=バティスト・カミーユ・コローなのである。
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2008.12.04 (Thu)

ハービー・マンのアルバムを聴く『at the village gate』

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 フルートという楽器はジャズの曲には皆無だと思っている人が、最近、ジャズを聴きだした人の中には多いように思うが、1960年代から、70年ぐらいにかけて、ハービー・マンが大人気だった時期がある。・・・・と言ってハービー・マン?・・・・と問われると返答に困るが、その昔、日本でとても人気のあったジャズ・フルート奏者といえば納得いくだろうか。

 1930年、ニューヨークのブルックリン出身。ユダヤ系の裕福な家庭に生まれ、6歳でピアノ、9歳でクラリネットを学ぶ。18歳からの陸軍生活でテナー・サックスを学び、22歳でアコーディオンのマット・マシューズのグループに入ってからフルートを始めたという変り種である。彼はその後、1959年にアフロキューバンのエキゾチックな要素を組み込んだユニットを結成して、アフリカ・ツアーを実現した。さらには、1962年ブラジルを訪れ、ボサノヴァをアメリカに持ち帰り、そのときに出したアルバムが『at the village gate』である。

 当アルバムは、1962年12月に録音されたもので、収録曲は3曲。『Comin' Home Baby』『Summertime』『It Ain't Necessarily So』・・・・この中で、最初の曲『カミン・ホーム・ベイビー』は、ベース奏者ベン・タッカーの作曲によるもので、当アルバム収録の時も、本人がベースを担当しているが、ジャズの曲としては大ヒットしたナンバーである。当然のように日本でもヒットして、日本のジャズメンが矢鱈とコピーしたものだから、私も知っていたほどの曲である。昔、LP盤で聴いた頃は、A面が『カミン・ホーム・ベイビー』と有名な『サマータイム』が入っていて、B面に『イット・エイント・ネセサリー・ソウ』なので、あの頃のジャズ喫茶では、A面だけがよくかかっていたという覚えがある。とにかく人気曲でアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの『モーニン』と双璧と思うぐらいあの頃のジャズ・シーンで聴かれた曲であった。

 ただ、ジャズ・フルートというジャズでは珍しい楽器をフューチャーしていることもあり、根っからのジャズ・ファン以外の人までが耳を傾けたということはいえるだろう。とにかくハービー・マンは、フルートという上品、可憐な楽器を駆使し、大衆がジャズに抱くイメージに沿った荒々しい音色で、音楽のジャンルを打ち破ったジャズメンと言えるかも知れない。このアルバムで日本にも名前が知れ渡ることになったハー・ビー・マンは、60年代後半、ロックの要素を取り入れてジャズ・ロックと呼ばれるクロスオーヴァーやフュージョンの先駆けとなる音楽を手がけ、70年代にはレゲエを取り入れたアルバムを発表している。こうした試みがジャズの歴史の中でムーヴメントとなったことは言うまでも無いが、当時のジャズ・フアンからは、必ずしも正当な評価を受けてなっかたように思う。だから、ハービー・マンが最近になって再評価されていると聞くと嬉しく思うのである。

『カミン・ホーム・ベイビー』の演奏。音声のみ。
    

『メンフィス・アンダーグランド』を演奏するハービー・マン・セクステット。

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2008.12.03 (Wed)

湖国の高校生

 近江の国へ通うようになって、はや半年以上、経過した。まことに月日が経つのは早いものである。最初、こんな遠方の不便なところまで通うのは嫌だなあと思っていたが、もう慣れた・・・・とはいうのは嘘で、今でも嫌なことには変わりはない。つまりこの方に来るまでは、さして気にすることもなかったが、今まで自分がどれだけ便利な所に通っていたのか再認識するのであって、今更、逆戻りすることも出来ない歯痒さに苛立っているのでもある。だから、このような思いで毎日電車に乗っているので楽しいことなど何もないのだが、大阪に通っていた頃に比べて一つだけ感心したことがある。それは電車内で見かける高校生の質が良いことである。

 かれこれ半年の間、今のところへ通うようになり、この沿線、実に高校生、大学生が多いことに気付き、時間的にあまり束縛のない大学生はともかく、高校生は色々な高校が入り乱れて乗車していることが暫くすると判明してきたものである。当初、こんなに高校生が多数乗ってくるものとは知らず、その車内の賑やかさに唖然とさせられたのだが、慣れてくると不思議なもので、あの女子高生の集団から発っせられる雀のサエズリのようなお喋りも、男子高校生の他愛ない会話も気にならなくなった。以前、大阪へ通っていた頃も高校生は大勢いたものだが、その時は、あまり良い印象を持っていなかったというのもあって、湖国に通勤するようになった当初というものは、車内にいる高校生のグループからできるかぎり離れた場所に乗車することを心掛けていたものだ。

 とにかく大阪の方に通っていた時は、とある駅で高校生の集団に毎日、出くわしていて、とにかく服装の乱れた子がそこら中に溢れていたものだ。男子はズボンを落として穿いているし、女の子はスカートの下にジャージを穿いていて髪は茶髪、ビアスも化粧もやり放題、おまけに駅のホームの端にしゃがみ込んで喫煙している者までいる。また、電車の中で地べたに座ってハンバーガーを食べだしたり、化粧をしたりする女子高生がいるかと思えば、周囲の迷惑をかえりみず大声で騒ぐ男子高校生もいる。すべてがそうではないが、一部にこういったモラルを知らない者がいると全ての高校生がそのように思われてしまうのだ。環境や時代がそのようにさせるのかもしらないが、 とうとう高校生はここまで乱れてきたかと、嘆かわしく思ったものである。これがまあ一握りの高校生だけのことだとは思うが、全体的な高校生の質の低下は否めないと思った。少子化時代の高校生は、物があり余っている時代に育っているからなのか、それとも親の躾がさっぱり出来てないからなのか、子供のいない私には理解しかねるが、とにかく自己中心的で辛抱、我慢というものを知らないのかと思ってしまう。

 私が高校生の頃も不良分子はいた。だが公共の場では自己への抑制が出来ていたように思う。ならば、何故に今時の高校生はと言いたくはないが、場所をわきまえず何処でも彼処でも処かまわずやり放題ともとれるような行動を起こす子が増えたことは確かである。そのような理由で、近江の国へ通うようになってから、出来る限り電車の中では、高校生の集団と離れようと考えていた。でも高校生が予想以上に大勢乗ってくるので、彼らから遠ざかるという具合にもいかず、仕方なく体を接するぐらいひっついて立っている毎日であった。

 このようにして毎日、高校生と顔を突き合わせて乗っていると彼らの習性も大方、判ってくるものであるが、意外にも彼らが、モラルというものを身に付けていることに気がついたのである。総体的に言って社会的な良識というものを持ち合わせていて、目に余る野卑な行為を行なう高校生がほとんどいないことに気がついたのである。どちらかというと、大学生のモラル低下を私は嘆きたくなった。

 つまり、この湖国の高校生達は、みんなマナーがいいのである。以前、通っていた大阪で見かける高校生の目に余る行為と同様な行動を起こす高校生など、今のところほとんど見かけたことがない。やはり、都会の中ですれっからしてしまった高校生と、周辺に刺激の少ない湖国の高校生とを比較することは無謀とは思うが、駅で喫煙など平然とやっていた、大阪の高校生がいい加減哀れに思えてきた。都会と田舎と一概にどちらがいいとは言えないが、高校生の年齢なら、間違いなく都会に憧れるだろう。でもまだ親の保護から抜け切れてない高校生が、無防備で誘惑の多い都会の中で育つよりも、ネオン街からある程度、離れた田舎で育った方が性根まで腐らないのでは・・・・・と、ふと思ったのである。でも何れ、このような田舎の高校生も卒業してしまい、大学なり、社会人なり、何れにせよ都会へ行ってしまい、素朴で純粋な精神が徐々に薄汚れていくのだと思うと、何かやるせなくなってくるのであった。

 そして私は、毎日、屈託なく笑う女子高生の集団の中で、彼女等の楽しい会話を聞きながら、職場の或る最寄り駅まで通うのである。
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2008.12.01 (Mon)

サヨナラ0系新幹線

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 写真はこれから新大阪駅を発車しようとする0系新幹線車両(写真提供MM氏)

 昨日の11月30日をもって0系新幹線車両が定期ダイヤから完全に姿を消した。あとはイベントのような形で僅かの便だけ臨時運転されるらしいが、それも年内中のことで、いずれにしても夢の超特急といわれた初代新幹線車両の0系がレール上を疾走する姿が見られなくなる。

 思えば私が走る新幹線の姿を初めて見たのは昭和39年の春だった。その数年前から工事にかかっていて、何もないところに、あれよあれよと土手が出来上がり、やがてそれが一本の線となり、万里の長城のように高い壁となり、長く長く連なっていき見事な高架鉄道として姿を表したのである。 昭和38年頃だったと思うが、阪急と新幹線が数㎞にわたって並走するところがあるが、先に高架工事の終わった新幹線のレールの上を阪急電車が走るといった珍しい光景も今は懐かしいかぎりだ。

 このようにして昭和39年の春までには、ほぼレールの敷設は終わっていたのだろうか、東京~新大阪間の営業運転を半年後に控え、いよいよ試運転することが決まったのである。そんな春の日だったろうか、6両編成の新幹線車両が時速30㎞程度のノロノロ運転で私達の前にやって来た。これが夢の超特急か・・・・・と小学生の私は、目をかっぴらいて注目したものである。

 そして昭和39年10月1日、東海道新幹線は開通した。東京~大阪が4時間というかつてない短い時間で行けるようになったのである。それまでは在来線のビジネス特急『こだま』に乗って6時間50分もかかっていたのに、何という速さだったろうか。最高速度210㎞、12両編成で高速運転され、そのスピードには驚いたものである。まさに未来の電車が現実のものになった感があった。私は親父に頼んで、翌年の夏、姉と一緒に名古屋まで乗せてもらったが、そのときの印象は今でも忘れられないものである。

 あれから44年、当時の夢の超特急は今ではすっかり時代に取り残された旧式の乗り物といった風情がある。あの頃、最新の流線型をした未来的な電車だと思ったが、その後の後継車両の登場の前では色褪せてしまったかのような、時の流れには逆らえない趣が支配している。

 開通時、東京~大阪を4時間で走っていたが、その後、3時間10分で行けるようになり、16両編成となり、1985年には後継の100系車両が登場し、その後に、300系、500系、700系、N700系といった新型車両が登場するに及び、旧式の0系は、どんどんと隅に追いやられるように、東海道から姿を消してしまった。でも各駅に停まる『こだま』として、山陽新幹線では細々と運行していた。でも今や時速300㎞が当たり前の新幹線。最高速度210kmでは邪魔になるのだろうか、とうとう山陽新幹線からも姿を消してしまうこととなった。これも時代の流れとはいえ、やはり一抹の淋しさはある。

 まるで飛行機の先端のような形をしていた0系車両。あの頃は格好いいと思ったが、今見ると確かに古臭いしスピードも遅い。でもレトロで懐かしい。それに日本の戦後の高度経済成長を支えた偉大なる乗り物なのである。どれだけ時代が進もうとも、どれだけ速い乗り物が登場しようとも、我々に与えたインパクトはその後の、どの乗り物よりも優っていた。まさに夢の超特急とは、この0系車両のことを指すのである。つまりジス・イズ・シンカンセンこそ、この古臭い0系だったのである。これまで、わたしは何度乗っただろうか・・・・・・それこそ数え切れないほど乗っている。だからこそ言う、サヨナラ0系新幹線・・・・・・。
 
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