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2010.12.31 (Fri)

大晦日

 2010年大晦日。21世紀にはいって最初の10年が終わろうとしている。本当に月日の経つのが早すぎる。もう小生もあとどれだけ生きられるだろうかと考える年齢になってしまった。それであと何度、正月を迎えられるだろうか・・・・・それは神のみぞ知るところということになる。昔は自分が老人になってから以降のころは何も考えなかったが、加齢とともにあちらこちら身体に歪が出てきたので色々と考えるようになった。将来、リタイヤするとしても金がないと生きていけないし、それ以前に健康であればいいが、人の介護を受けなけらばならない状況になってまで生きていたいとは思はない。寝たきり生活では歯痒いだけだろう。これは切実な問題である。だから健康には特に気をつkなければならない。

 ところで今日の大晦日は昨日に増して大荒れだった。朝からヒューヒューと風が唸っているし、雪が断続的に降っていた。大晦日の天気としては珍しい。例年、大晦日か元日にかけては穏やかで暖かな日が多いのだが、今年は例年になく天気が荒れて寒いではないか。なにしろ京都市内の北部では積雪があった模様だし、金閣寺も雪化粧だった。小生の住むところ、つまり京都の南西部もどんよりした雲と強い風に雪混じり。顔に吹き付ける風はとても冷たい。

 大晦日の今日、街に出て行ったが何処も人出が多く、ことに市場やスーパー、百貨店は何処も人混みで溢れかえっていた。今は年越し蕎麦を食べてパソコンの前に座っているが、今の時間帯なら紅白歌合戦でもやっているのだろうか。この何10年見たこともないが・・・・・やっているのだろう。テレビは観ないからさっぱり判らない。若い頃は大晦日から元日にかけて家にいたためしがないから、大晦日のテレビなんて当然、観るはずもないし、今も観る習慣がない。それにしても静かな夜だ。今日の昼間の天候が嘘のように今は静まり返っている。外も人通りが皆目ない。みんな寒いから外に出ていないのかもしれない。何時もなら、そろそろ年越しからついでに初詣に出かけようとする人もいるのに、今年は例年よりも寒い大晦日なので、外出を控えた人が多いのかもしれない。

 あと2時間あまりで新年になろうとしている。新年になったからって特別なこともことも何もしないけども、取り敢えず来年に望むことは健康の維持しかない。今年は色々と自分自身、あまりいい年ではなかったから、来年は今年よりはステップアップしたいものである。それを達成させるのも健康あってこその話であるから、2011年こそ無病息災であり続けたいものである。それではみなさんもよいお年を・・・・・・・・。
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2010.12.30 (Thu)

あと1日

 今年も残すところ、あと1日。今日はとんでもない悪天候。風は強いし雨は寒いし大荒れである。そんな中、ポンコツ自転車を走らせて買い物に行き、昼からは出来る限りの大掃除をした。おかげですっかり疲れてしまった。

 その後は炬燵にもぐりこんで音楽を聴いていたが・・・・・・・イタリア・オペラのアリア集を聴いている間に居眠りしてしまったらしい。気がつけば外は真っ暗である。今の時期は日の暮れるのが早いからしょうがないが、知らぬ間に寝ていたみたいだ。確かプッチーニのオペラ『ジャンニ・スキッキ』の中の曲で『私のお父さん』を聴いていたというのは記憶にあるが、そのあと、マスカーニのオペラ『カヴァレリア・ルスティカーナ』の『ママも知る通り』は記憶にないから、このあたりで寝入ってしまったのだろう。夜は寝つきが悪いのに昼寝をすると眠れるから不思議だ。寝なくてはいけないプレッシャーから逃れられるからかも知らないが、昼間、知らぬ間に寝ているということはよくある。つまり夜だけでは充分な睡眠がとれていないからだろう。よく寝る人はこんな苦労は判らないだろうが、不眠症を抱える人は寝るのも楽しくないのである。したがって何気ない昼下がりにうとうとしてしまい寝入ってしまうということはたびたびある。ことに音楽を聴いているとよく寝てしまう。

 小生はここでポップスやジャズの記事を頻繁に書くが、日頃はクラシックを聴くことの方が多く、それもあまり皆が聴かないようなマイナーな曲をよく聴く。それも管弦楽曲は滅多に聴かないから、ここではあまり紹介できない。ここで紹介する曲は比較的、ポピュラーな曲が多く、これなら皆が聴いても馴染めるだろうという曲を選ぶようにしている。したがって個人的には渋い曲が多いのである。でも今日は年末ということでたまたま有名なイタリア・オペラ集を聴いていた。でも歌曲というのは意外と眠気を誘うようだ。もっとも室内楽曲も同様だが・・・・・・・・。でもグラズノフのコンサー・トワルツなんていうのはよく聴いている。ベートーヴェンもよく聴くが、聴いているのが弦楽四重奏曲や弦楽三重奏曲なので、ここのブログ上で紹介してもしょうがない。またベートーヴヴェンのピアノ・ソナタもよく聴くが、聴いているのが『月光』『悲愴』『熱情』『テンペスト』『ワルトシュタイン』等ではなく、後期の28番だとか、30番だとかだから退屈に聴こえる曲が多い。このあたりはよほどの物好きでないと聴かない領域の曲かもしれない。

 あと面白いところでシュランメルという作曲家がいる。サロン・ミュージックの作曲家といってもいいだろうか。ヨハン、ヨーゼフの兄弟でありウィーンの人が愛しやまない作曲家である。ヨハン、ヨーゼフというと奇しくもシュトラウス兄弟と同じ名前であるが、こちらのシュランメルは日本では無名である。でも『ウィーンはいつもウィーン』を聴けば誰でも知っていると思うけど。昔、民放のスポーツ番組のテーマ曲に使われていたものである。しかし、こちらは大きなホールで演奏されることもなく、細々とウィーンのちょっとしたカフェで演奏されていたりする。とにかく肩の凝らない曲が多くシュランメルもよく聴くかなあ。

 なんだか纏まりのないない話で申し訳ないが、あと1日で2011年がやってこようとしている。まだこのブログは書き続けられるのだろうか・・・・・・。もうそろそろやめてもいいかな。でも記事数が1000を超えるまでは書き続けようとは思うので今後ともよろしく・・・・・。


 『ウィーンはいつもウィーン』の演奏。

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2010.12.30 (Thu)

書くこともないけどちょっとだけ更新

 12月30日、非常に寒い。外は厚い雲に覆われている。どにょりとして今にも雪が降りそうな天気である。室内の気温は8.5度。こんあものかなあ・・・・・・。

 さて、これから家の大掃除をして、そのあとにスーパーまで買い出しに行く予定であるが、ちょっと億劫になってくる。とにかく結構、田舎に住んでいるので、家の近くにスーパーがない。それで自転車に乗って行くのだが、その自転車が婦人用の22インチ。サドルを上げて乗るのだが、これが一般の自転車ほど走らない。もっと大きな自転車に乗ればいいのだが、なにしろ自転車なんて買い物の時以外は乗らないから必要ないのである。それも20年以上使っているポンコツである。完全にいかれれば自転車も新しく買うが、以前、母が乗っていた自転車を譲り受けたものであるから潰れるまで乗らないともったいないという訳である。でも問題はタイヤに空気があまり入ってない。先日、家から1㎞離れた郵便局まで保険が満額になったので現金をおろしに行く時、乗ったらこれが皆目進まない。こいでもこいでも進まないから往生した。自転車に空気が入ってないと全く進まないから、途中で足が疲れてきて、小さい女の子が乗っている自転車にも追い抜かされて情けなくなった次第である。

 ・・・・・・とここまで書いてきたが、そろそろ用事をやらないと年がかわってしまうではないか。ノンビリモできないなあ。それではまた。
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2010.12.26 (Sun)

お知らせ

 夕方、有馬記念の記事を書いている最中に突然パソコンがおち、いわゆるブルースクリーンのような画面になり、とうとう旧パソコンが壊れてしまいました。したがって当分の間、ブログの更新を中断いたします。ならこれは何処から更新しているかというと、ノートパソコンからで、ノートパソコンでは長文を書くと疲労感があるので、短い記事しか書けません。でも時々、現状報告で記事を書くかもしれませんが、本来の趣味の記事は書けないと思います。したがってデスクトップを新しいのに代えるかどうするか、まだ決めかねているところです。なのでこのブログの主旨である記事は書けないので、それまで満足のいく記事は書きません。ということで、ご了承ください。
EDIT  |  20:12  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.25 (Sat)

巨大書店

 先日の12月22日、大阪梅田の茶屋町に売り場面積2060坪、書籍数200万冊を数える日本最大の書店『MARUZEn&ジュンク堂書店』がオープンした。面白いのは書店の老舗である丸善と新興書店のジュンク堂が共同で出店したということである。丸善は東京に本店があり古くからの老舗。一方、ジュンク堂は神戸に本店がある新興書店だからよくぞ共同で出店に踏みきったなあと思う。だが、出版不況で本が売れない時代にはたしてニーズがあるのだろうかと思ってしまうがどうなんだろうか。ことにジュンク堂書店は大型店をこの20年ほど前から全国に増やしてきた。この書店が開店するまでは東京・池袋のジュンク堂書店が日本最大だったのであるから、まだまだ出店する計画があるのではないだろうか。

 ジュンク堂は、そもそも創業者の工藤恭孝が1963年に神戸元町で大同書房を開店させたことに端を発す。それが1976年、父・工藤淳の名前をもじって書店名にし、神戸の三宮センター街の地下に大きな書店をオープンした。ここからジュンク堂がスタートするのだが、1988年に京都・四条富小路に神戸の本店を上回る巨大店を店開きした。そして、ここから全国展開を開始するのである。

 1996年、座り込みコーナーを設置して本を立ち読みではなく座って読んでもらおうと新しい巨大店を大阪の難波にオープン。さらに近畿を離れ仙台、東京池袋にも巨大店をオープン。1999年、ジュンク堂大阪本店を堂島に開店。この店舗は1480坪の売り場があり、当時では日本最大であった。それが、その後もジュンク堂は全国各地に巨大店をオープンし続け、所謂、書店の老舗である紀伊国屋、丸善、三省堂といったところの店舗よりも大きさでは凌駕していったのである。

 そういえば今から30年少し前、東京駅八重洲口から近い所に八重洲ブックセンターがオープンして話題になったことがある。40万冊を売り場に並べ、超巨大書店と騒がれた。でも今回、オープンしたMARUZEN&ジュンク堂はその5倍の規模である。それもジュンク堂ばかりが大きい店舗をオープンさせているから面白い。狙いがどこにあるのか判らないが、巨大書店は立ち読みするのに都合がいいから、出店は本好きにとっては有り難い。でも赤字経営にならないか他人事ながら心配になってくる。

 ところで、この大阪の梅田地区は、今回オープンしたMARUZEN&ジュンク堂書店以外にも5店舗の巨大店がある。この店から僅か300m行った所に紀伊国屋梅田本店が或る。ここは1969年に東京の新宿にある紀伊国屋が満を持してオープンさせた巨大店である。この当時、大阪にこんなに大きな本屋はなかったので驚いた。今も阪急梅田駅の真下という立地の良さもあり、何時も人でごった返している書店である。また、紀伊国屋が大阪に店舗を出したことに影響され、その数年後に地元の老舗書店である旭屋書店が御堂筋の曽根崎警察署のすぐ南側に巨大店をオープンさせた。こうして梅田は暫くの間、紀伊国屋と旭屋の2大店舗の時代が続いていたものである。それが何時の間にか、三省堂書店が東京からやってきて地下街に巨大店舗を出した。ところが数年で撤退。理由はよく判らない。その代わりといったら何だが、阪急電鉄がブックファースト梅田店をよりによって御堂筋を挟んだ旭屋のすぐ近くにオープンさせる。そして、1999年、神戸のジュンク堂が梅田から程近い堂島。かつて毎日新聞大阪本社のあったところにオープンさせる。さらにジュンク堂は梅田のヒルトンホテル大阪のショッピングゾーンにジュンク堂ヒルトンプラザ店をオープン。そこへ今回の開店。これでこの付近の半径600m以内に巨大書店が6店舗も存在することになる。またこれだけではない。来年には一度、撤退したはずの三省堂書店が梅田に巨大店舗を再び開店させるという。

 ただでさえ本が売れない時代に、これだけ巨大店ばかりオープンさせる意味は何処のあるのだろうか・・・・。ペーパーレスが叫ばれ、事務所からは紙が消えつつあり、各自の机にはパソコンが一台づつ置いてあるだけ。また電子書籍がこれから躍進するといわれ。ますます紙に印刷された本は店頭から無くなっていくという人もいる。つまり時代とは逆行していると思われる中での開店なのである。でも、まだまだ電子書籍よりも紙に印刷された文字や絵、写真の方が温か味があっていいとは思うけど、これから数10年後を見越した場合、どうなんだろうかとは
考えてしまう。でも、それだけ需要があるということなのだろう。さらに、この巨大店に入って売り場に並ぶ人の行列を見るや日本人には本好きが多いことを再認識する。これを見れば書籍が簡単には廃らないなあと思い安心したまでである。


 この度、オープンした『MARUZEN&ジュンク堂書店』。この建物の地下1階と7階までが書店。
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EDIT  |  16:29  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.25 (Sat)

朝から寒い

 今日は強烈な風が吹いている。真冬並みの寒波がやってきたようだ。まだ外は真っ暗で夜も明けてないが小生はとっくに目覚めている。早寝早起きの習慣なので朝5時には起きている。でも今日は久々の休日ということで出かける準備もしなくていい。とはいえ、今日も耳鼻咽喉科には行かなくてはならないから何時までも寝ていられない。これが実に面倒くさいねえ。

 さきほどテレビをつけて天気予報をみていたら日本海側は雪が降っているらしい。これは何時ものことで驚かない。・・・・・といって筆者は何が言いたいなのかということなのだが何も書くことはない。ただ布団の中にいてもしょうがないから起きてパソコンを立ち上げたついでに暇更新をやってみただけのことである。なにしろこんなにゆっくりした朝は久しぶりなので、外が明るくなるまでの間、パソコンをいじっているのである。だがなあ、あともう少ししたら身支度して出かけなけらばならないし、今日も結構忙しい。本当に貧乏暇なしである。世の中、休日になると暇だからパチンコしかやることがないと言い張る奴がいるが、その暇を分けてくれと言いたいよ。こちらは雑用が多くて遊び呆けている訳にもいかず耳鼻咽喉科に行ってから、そこから雑用をすませなくてはならない。そのついでにやりたいことをやるだけだ。といっても若いころに遊ぶだけ遊んだので、大概のことは飽きてしまったからもっと時間を有効に使いたい。これは歳をとってから思うことで若い間は自腹をきってでも遊んだ方がいいとは思う。それが糧になるし人間に幅ができる。ただ遊ぶ友人も選ぶべし。偉そうなことは言えないが、今となってはそのように思う。世の中、とんでもない奴がいるから。まさに百害あって一利なしといったような邪魔な人間もいる。困ったものだがいい奴ばかりが自分の周囲に集まってくるというのでもないし、それを選り分けるのも大変ではあるが・・・・・・・。

 朝から余計なことを書いてしまった。そろそろ7時になろうとしているから、このあたりで立ち去るとしよう。
EDIT  |  06:53  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.24 (Fri)

映画『スイング・ホテル』を観る

 『スイング・ホテル』1942年製作、アメリカ映画

 監督 マーク・サンドリッチ

 出演 ビング・クロスビー
    フレッド・アステア
    マージョリー・レイノルズ
    ヴァージニア・デイル
    ウォルター・エイブル
    ルイーズ・ビーヴァーズ

 【あらすじ】ショウビジネスで生きる2人、ダンサーのテッドとシンガーのジム。ジムはショウビジネスに幻滅を感じ、テッドにコネチカットの田舎で農場をやり、ついでに長年のパートナーだったライらと結婚する打ち明けた。しかし、ライラはショウビジネスが諦めきれずテッドと恋におちてダンスパートナーとして残ることになった。ジムは1人寂しくコネチカットへ旅立つ。しかし農場での仕事は彼には難しかった。そこでジムは名案を思いつく。農場をホリデイ・インという名の祝日だけ開くエンターテイメント会場に改築してショウを開催するというものだった。こうして1年で祝日だけ営業するというホリデイインが営業を始めるが・・・・・・・。

 この映画は何の毒も棘もない恋愛ミュージカルの類なのだが、映画史においては価値のある映画である。それは何かというと、クリスマスのスタンダードナンバーである『ホワイト・クリスマス』がこの映画で紹介されたということである。現在では誰でも知っている『ホワイト・クリスマス』であるが、この映画の中でビング・クロスビーが歌って火がついたのである。映画は1941年11月から1942年2月まで撮影。ちょうど太平洋戦争勃発で日本の国中が慌しい時期にアメリカのハリウッドではこんな映画も製作されていたのである。映画もアメリカとイギリスで大ヒットし『ホワイト・クリスマス』も音楽チャートで1942年10月から11週間もの間首位を守るという文字通りの大ヒットを記録する。

 つまり戦前のエンターテイナーであるビング・クロスビーとフレッド・アステアの共演とアーヴィング・バーリンが曲を提供したことにより映画も曲も大ヒットしたのである。『ホワイト・クリスマス』の曲自体は一人歩きし、今では誰でも知っているクリスマス・ソングの一つとなっったが、オリジナルはこのように映画から出てきたものである。でも1942年というと日本では太平洋戦争に突入した翌年である。日本流に言うと昭和17年ということになる。この時代には当然、敵国の映画等は上映できるはずがない。したがってこの映画そのものも戦後に入ってきているし、楽曲の『ホワイト・クリスマス』も実際に日本で知れ渡るようになるのも、映画『スイング・ホテル』のリメイク版である『ホワイト・クリスマス』(1954年)によるところが多い。したがってオリジナルである『スイング・ホテル』を観てない人も多く、この映画の存在さえも知らな人は意外と多いのである。当映画は、いわゆる古色蒼然としたミュージカル映画である。映画そのものは特筆すべきものではないが、ビング・クロスビーの甘い歌声とフレッド・アステアの華麗なタップやダンスは見所である。


 映画の中で『ホワイト・クリスマス』を歌うビング・クロスビーとマージョリー・レイノルズ。

EDIT  |  12:39  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.22 (Wed)

タイトルも浮かばない

 昨日は残業で帰りが遅くなったし明日は休日出勤である。だからブログの更新もこのところ停滞気味である。それも年末に忙しくなるというのは、どういったものだろうか。ただでさえクリスマス、迎春ムードであり、うかれている奴が多いというのに、こちらは毎日の労働で疲れてくる。

 昨日なんかは帰宅時に雨がしっかりと降っていたので仕方なくバスで帰ろうと考えたが、時間帯が時間帯だけに停留場で持っても待ってもバスが来ない。その後にようやくバスが来たものの、あっという間に満員となってしまった。バスに揺られてJRの最寄り駅に到着。でも駅まで歩いて来た連中と同じ電車とは・・・・・・・・。これだから残業は嫌だ。

 また明日は祝日では或るが出勤でござる。おかげで今日の帰りの電車は忘年会帰りの連中が大勢乗っていた。皆さん酒が入っているから陽気ではあるが、もっと静かにしてくれないかなあと思う。それにしてもよく休日出勤をさせてくれる。残業に休日出勤の連続で、いやというほど働かされ、それでいて給料は薄給・・・・・。でもこのご時勢、贅沢はいえない。まさに会社のいいなりだ。しかし宮使いは辛いねえ・・・・・・・・。でもボヤいていてもしょうがない。とにかく記事を書いている時間も無いし、何か纏まりがない記事になりそうなので、そろそろおさらばするとしようか。また明日の朝も早いからなあ・・・・・・。

 
EDIT  |  21:49  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.20 (Mon)

ブリティッシュ・ビートを聴く③

 この1960年代、ブリティッシュ・ビートを聴くも3回目になるが今回で終わります。

●ザ・シーカーズ
 シーカーズの『ジョージ・ガール』は1967年春、イギリス、アメリカだけでなく日本でもヒットした。シーカーズはイギリスのグループではなく、オーストラリア出身のグループ。ハーモニーを重視したフォーク・グループであり、1964年に『恋はたったひとつ(I’ll Never Find Another You)』でデビュー。いきなりのイギリス・ヒットチャートで1位を獲得。その後も含めて9曲のヒット曲を世に出している。

●ジェフ・ベック及びジェフ・ベック・グループ
 ジェフ・ベックというとエリック・クラプトンの後にヤードバーズに加わったギターリストとして有名だが、ジェフ・ベックはヤ-ドバーズ脱退後にソロでシングルを出している。それが『ハイ・ホー・シルヴァー・ライニング』(1967年)で、さらに翌68年『恋は水色(Love Is Blue)』を出している。この曲はポール・モーリアで有名になったインスルメンタル曲で、ジェフ・ベックがこの曲をギターで弾いている。さらに直後、ロッド・スチュワート、ロン・ウッド、ミッキー・ウォラーとジェフ・ベック・グループを結成。この時に『ロック・マイ・プリムソウル』を録音。このオムニバス・アルバムに収められている。

●キース・ウエスト
 キース・ウエストとはトゥモローというグループのリードシンガーであった。1967年にヒットした『イクサープト・フロム・ア・テイーンエイジ・オペラ』がこのアルバムに収められていているが日本ではあまりヒットしなかったように思う。

●フリートウッド・マック
 エリック・クラプトンがいたジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ出身のギターリスト、ピーター・グリーンが中心になって結成されたバンドである。このアルバムには『ブラック・マジック・ウーマン』(1968年)が収めれれている。これは貴重である。どちらかというとカバーしたサンタナの『ブラック・マジック・ウーマン』の方が有名になってしまった感がある。

●ボンゾ・ドッグ・バンド
 このおかしな名前のグループはビートルズのテレビ映画『マジカル・ミステリー・ツアー』に出演したことで知られている。ここでは『アイム・ザ・アーバン・スペースマン』(1968年)が入っている。

●ベッドロックス
 このグループはビートルズの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』を他のグループと共に録音したので知れわたっている。『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』は幾つかのグループが録音したが、本家のビートルズ以外、日本ではマーマレードよりもヒットした。
 
●スキャッフォールド
 このグループはコメディアンのグループである。一応、リバプール出身なのだが、メンバーの1人にポール・マッカートニーの実弟マイク・マッギアがいて、1968年にはここに収められている『リリー・ザ・ピンク』がイギリスで大ヒットした。

●ジェスロ・タル
 ジェスロ・タルは今でも現役で頑張っているロックグループ。色々なジャンルに跨って音楽性を追求しているが、ここでは1969年の曲で『リヴィング・イン・ザ・パスト』が入っている。
 
●フリー
 このグループは1967年にデビュー。1970年に『オール・ライト・ナウ』がヒットしたブルース・バンドである。
 
●ディープ・パープルは割愛する。
 
●デイヴ・エドモンズ
 デイヴ・エドモンズは元ヒューマン・ベインズのヴォーカリスト。ここでは『アイ・ヒア・ユー・ノッキング』(1970年)が収められている。


 『ジョージ・ガール』を歌うシーカーズ。何年か前、CMに使われたこともある曲なのでご存知の方もおられるだろう。



 『ブラック・マジック・ウーマン』を歌うフリートウッド・マック。(動画はなし)


ベッドロックスの『オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ』(動画はなし)

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2010.12.19 (Sun)

第62回朝日杯フューチュリティS

 気がつけば今年も残すところあと10日あまりとなってしまった。中央競馬も来週の有馬記念で終わり。その前の週の今日は中山で2歳の覇者を決める朝日杯フューチュリティS(G-Ⅰ・2歳、芝1600m、16頭)が行なわれた。所謂、2歳の総決算だが、来年のクラシックに繋がるかというと必ずしも最近は繋がっていない。昨年のこのレースの覇者はローズキングダムで、この馬は今年クラシックでも活躍し棚からぼた餅だがジャパンCも勝った。それはローズキングダムは実力があったからなのだが、今年の場合は来年のクラシック最有力はどの馬かまだ判らない。一応、前走で見事な末脚を見せたサダムパテックが1番人気で、2番人気がディープインパクトの仔リベルタス、3番人気がハーツクライの仔リフトザウイングス、4番人気がディープインパクトの仔リアルインパクト、5番人気がサクラバクシンオーの仔グランプリボス。でもトリッキーな中山の外回りコースである。マイル戦のコースで直線はスタートからの僅かと向こう正面の少々、最後の直線でも310mとGⅠを開催する競馬場としては最短である。したがって紛れがあり実力馬が能力をフルに出せるコースではないので、2歳の有力馬でも最近は朝日杯を敬遠する場合が多く、2歳№1の決定戦としての価値が薄れつつある。そこへ16頭の多頭数だから予想の難しいレースでもある。でも基本的には先行馬がどうしても有利になる。それではレース回顧といこう。

 スタートが切られたがサダムパテックはスタートが悪かった。後手を踏む。さて内からオースミイージー、リベルタス、シゲルソウサイあたりが行く。先頭はオースミイージーで、2番手にシゲルソウサイ、その後にリベルタス、ブラウンワイルド、マイネルラクリマ、エーシンブランあたりが続き、インコースからリアルインパクト、外にタツミリュウ、アドマイヤサガス、さらにタガノロックオン、トキノゲンジ、リフトザウイングスが追走。さらに後方に2頭がいて、ロビンフットとマジカルポケットが並んでシンガリ。中山の800のハロン棒は3コーナーの入り口にある。そろそろ仕掛けないと間に合わない。ハロンラップは12.2---11.0---11.5---11.9で前半の800m通過が46秒6でこの倍だと1分33秒2になるが、おそらく後半はもっと時計がかるだろう。逃げ馬が前半を突っ込んで入っているから、後続でも届く展開にはなっている。

 3コーナーから4コーナーにかかる。先頭はオースミイージー、2番手シゲルソウサイ。サダムパテックは中団の外を通っているが徐々に上位へ上がっていく。早くも600のハロン棒を通過。いよいよ直線コース、310mと短いぞ。オースミイージー先頭、シゲルソウサイが2番手。直後にリベルタス、インコースからリアルインパクトが伸びる。外からサダムパテックも伸びる。あと200m、先頭はオースミイージーだが、内からリアルインパクト、真ん中からリベルタスが先頭に出る。さらに外からサダムパテックも伸びる。しかし、1番外のグランプリボスの脚色がいい。リアルインパクトかグランプリボスか。リベルタスも伸びる。でもグランプリボスが出た。僅かに出た。グランプリボスが1着でゴールイン。

 1着グランプリボス 1分33秒9、2着リアルインパクト 3/4馬身、3着リベルタス アタマ、4着サダムパテック クビ、5着リフトザウイングス クビ。

 勝ったのはグランプリボスでサクラバクシンオーの仔。おそらくこの馬は皐月賞まででダービーには出ないだろう。やはり仕上がりの早いタイプの馬が勝ってしまった。この朝日杯の歴代の勝ち馬の中で翌年のクラシックレースに勝った馬というのは、1993年のナリタブライアンまで遡らないと名前が見つからない。この朝日杯は如何にクラシックに直結しないレースになっているか・・・・最近は勝ち馬が翌年のクラシックで大活躍する阪神ジュベナイルフィリーズとは大違いである。それは中山のコース形態に問題があるのではないだろうか・・・・・・。そして今年も、その中山で有馬記念が行なわれる。
EDIT  |  17:15  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.18 (Sat)

ブリティッシュ・ビートを聴く②

 先日、懐しのブリティッシュ・ビートを紹介したが、今回はその続きである。それではまずはアニマルズから。

●ジ・アニマルズ
 アニマルズというとエリック・バートン。そしてアラン・プライス。ビリティショ・ビート・ポップスが灰汁の抜けたサウンドばかりというのでもなく、ローリング・ストーンズとこのアニマルズに関しては、他のイギリスのグループとは違っていたような感じがする。両グループともブラック・ミュージックの影響が強く、アニマルズに関してはアラン・プライスのオルガンが異色な音質に聴こえたし、エリック・バートンの声がR&Bを歌うのに適していたようでもある。代表曲『朝日のあたる家(The House Of The Rising Sun)』『悲しき願い(Don’t Let Me Be Misunderstood)』はトラディショナル・ソングとニーナ・シモンの曲。何れもアメリカの黒人色が強い曲で、当時、私は彼らがイギリスのグループではなくアメリカのグループと思っていたほどである。

●ハニーカムズ
 あんまり馴染みないがヒット曲『ハウ・アイ・ザ・ライト』は知っている。所謂、典型的な一発屋といっていいかもしれない。その後のヒット曲を知らないからなあ・・・。このグループは女性ドラマーがいたグループとして雑誌に載っていたような気がするが、あまり覚えていない。

●ハーマンズ・ハーミッツは以前に記事で取り上げたので割愛します。

●ザ・ヤードバーズ
 伝説のグループ、ヤードバーズだが、このオムニバス・アルバムにはヤードバーズの曲が2曲入っている。『フォー・ユア・ラヴ』『リトル・ゲームス』である。『フォー・ユア・ラヴ』は1965年のヒット曲。この曲が流行った頃はエリック・クラプトンがメンバーにいた。でも曲自体、気に入らなかったのかエリック・クラプトンはこの曲がヒットチャートを賑わした直後に脱退する。『リトル・ゲームス』は1967年に英国でヒットしたが、この時にはジミー・ペイジがメンバーにいた。またレコ-ディング時には後にレッド・ツェッペリンに加わるジョン・ポール・ジョーンズも参加している。

●ザ・ホリーズ
 ホリーズというとグレアム・ナッシュのいたグループとして有名であるがヒット曲も多い。『バス・ストップ』『キング・マイダス』『ごめんねスザンヌ(Sorry Suzanne)』『兄弟の誓い(He Ain’t Heavy He’s My Brother)』等とあるが、日本ではとりわけ1966年にヒットした『バス・ストップ』が最も有名な曲だろう。彼らはマンチェスター出身で、アメリカではイギリスほどの人気を得られなかった。最もグレアム・ナッシュは『キング・マイダス』のヒットの後に脱退。アメリカに行き、クロスビー・スティルス&ナッシュを結成する。

●ジョン・メイオール&ザ・ブルース・ブレイカーズ
 ヤードバーズに在籍していたエリック・クラプトンが、ヤードバーズを脱退して加入したグループがブルース・ブレイカーズだった。エリック・クラプトンはポップス指向が強くなったヤードバーズに嫌気がさし、当時ブルースを追求していたブルース・ブレイカーズに参加。エリック・クラプトンがこのグループ在籍時にヒットした曲は『オール・ユア・ラヴ』で、クラプトンはまたまたブルース・ブレイカーズを出ていってしまう。

●ドノヴァン
 そういえばドノヴァンというフォークシンガーもいたなあ。イギリスから出たフォーク・ロック・シンガーで、イギリスのボブ・ディランとも言われていた時期があった様に思う。でもボブ・ディランとは似て非なるシンガーである。当時の風貌から言ってヒッピーだし、ビートルズとも交流があったし、曲も一風変わっていたような・・・・・『サンシャイン・スーパーマン』がこのアルバムに収められている。


 『朝日のあたる家』を歌うエリック・バートンとアニマルズ。


 『フォー・ユア・ラヴ』を歌うヤードバーズ。エリック・クラプトンがこの曲を気に入らずヒット直後にグループを脱退する。


 『バス・ストップ』を歌うホリーズ。


 『オール・ユア・ラヴ』ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズの演奏(動画はなし)。ヤードバーズを脱退したエリック・クラプトンが在籍。この後にクリームを結成。


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2010.12.16 (Thu)

またも残業で・・・・・

 またまた帰宅が遅れてしまい、こんな時間にパソコンを立ち上げてしまった。帰りが遅くなったといっても、この年末忙しくて今日も残業だったからである。残業をやらざるおえないから居残るのだが、今日のような寒い日に居残って残業して職場を出る時の虚しさといったら言葉で言い表わせないなあ。

 職場を出るや強烈な寒さが襲ってきた。大袈裟ではけしてない。最高気温が10℃以下で、空域も乾燥している。これだと寒さの感じ方もより強烈なものとなる。帰宅が遅くなるとバス停まで歩くのだが、バスの便も夕方に比べると格段に少ない。仕方なく寒風が吹きすさぶ中、30分歩いて何時もの最寄り駅まで歩く。手はかさかさ、踵も割れて痛いし、どうにか最寄り駅まで到着。空にはオリオン星が見える。もう冬なんだと実感。こうしてようやく帰宅。したがって全うにブログの更新が出来ない。どうやら年内は残業が多いから、致し方ない。ということでサヨナラ。もうそろそろ床に就く・・・・・。
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2010.12.15 (Wed)

ブリティッシュ・ビートを聴く

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 先日、タワーレコードの洋楽コーナーにおいて、オールディーズの棚を物色していたら、『British Beat 1963---1970』と書かれたオムニバスCDを発見。早速、購入して聴いてみた。感想から言うと実に懐かしい。所謂、60年代ポップス。私が洋楽に目覚め、最も熱心に耳を傾けていた時代である。ポップスがポップスらしい最後の時代であり、まだヴォーカルが中心だった頃の話である。この後、1970年代に入るとより高度な音楽性が求められ音楽のジャンルも細分化していき、ギターテクニックがどうのドラムスが巧いだの、ソロにもアドリブが要求されるようになり、演奏時間が飛躍的に長くなる。当然、素人では真似が難しく、また鼻歌で歌えなくなる楽曲が増えていく。そんな過渡期といえるのが1960年代の終盤だったと思うが、このCDに収められているのは、それ以前のブリティッシュ・ビートといわれるビート・グループのオムニバスである。

 1960年代初頭まで世界のビート音楽の主流はアメリカだった。それがアメリカのロックンローラーの影響を受けたイギリスの多くの若者達。彼らが電気ギターを持ちグループを作り、その多くの中からビート・グループが生まれた。イギリスのビート・グループ達、彼らはアメリカのグループとは一味違った独自のサウンドを生み出し後にアメリカへ進出しだす。その先鞭となったのがザ・ビートルズである。それまでイギリスのポップスはアメリカでなかなかヒットせず辛酸をなめていた。それがビートルズのアメリカでの成功、世界的大ヒットからイギリス勢の世界的進出が始まった。そして今回、一発屋も含めて、このCDに収録されているビート・グループ達の紹介と楽曲を紹介してみようと思う(数回に亘ると思う)。

 小生は基本的にはオムニバスは嫌いなのだが、多くのイギリスのビート・グループは何曲もヒット曲を出してなくてアルバムが手に入らないので、その名も忘れてしまったグループも多い。それが、こうして一発屋の唯一のヒット曲を、こうして他の多くのグループと一緒に収録されていると、かつて忘れていたグループ名と共に曲を思い出してしまい懐かしくもある。そういった意味ではオムニバスは有り難くもある。

 ところでイギリスのビート・ポップスはアメリカン・サウンドの泥臭さがなく当時から洗練されているところがあったと記憶している。もっともブリティッシュ・ビートとは異なるローリング・ストーンズのようなブラックぽいサウンドもあったが、相対的にアメリカのビート・ポップスとは違っていたこと確かである。それで小生はそんなブリティッシュ・ビートが、あの当時好きだった。そして俗称でリバプール・サウンドとも言われた(ビートルズがリバプール出身だったことに端を発する)。その後、日本のエレキバンドがリバプール・サウンドに憧れて、日本にエレキブームが到来した(何もヴェンチャーズだけがエレキブームの一因ではない)ことは言うまでもない。それでは話が長くなるので、この辺りで一つずつグループ名と楽曲を紹介していくとする。

●ジェリー&ザ・ペースメイカーズ
 リバプール出身のグループでビートルズの弟分といわれた。マネージャーもビートルズを世に出したブライアン・エプスタインで、プロデュサーもジョージ・マーティンというまさにビートルズ・ファミリー。

 ヒット曲はビートルズでもお馴染みの『恋のテクニック(How Do You Do It)』『ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン』『マージー河のフェリー・ポート(Ferry Cross The Marsey)』等。63年から65年までヒットチャートに顔を出していたと思う。その後は知らないが、今でも彼らの曲を思い出す時がある。

●ビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス
 こちらはマンチェスター出身のグループ。彼らもマネージャー、プロデュサーがエプスタインとジョージ・マーティン。エプスタインはソロで歌っていたイケメンのビリー・J・クレイマーのバックバンドにザ・ダコタスをくっつけた。いわばクリフ・リチャード&シャドウズのようなもの。

 デビュー曲はビートルズ・ナンバーの『Do You Want To Know A Secret』で英チャート1位になった最初の曲が『バッド・トゥ・ミー』、3枚目のシングルが『アイル・キープ・ユー・サティスファイド』で何れもビートルズのレノン・マッカートニー作品というのも期待の現われだった模様。彼らは今どうしてのかな。

●フレディ&ザ・ドリーマーズ
 あまり覚えていないが63年から65年にかけてヒット曲があった。代表曲『心の傷(If You Gotta Make A Fool Of Somebody)』『好きなんだ(I’m Telling You Now)』『君はぼくの君(You Were Made For Me)』

●フォアモスト
 このグループもエプスタイン、G・マーティンの手により売り出されたリバプール出身のグループ。最もヒットしたのが『ハロー・リトル・ガール』というレノン・マッカートニー作品。しかしヒットしていたという記憶がない。

●ザ・スウィンギング・ブルージーンズ
 ここもリバプール出身のグループ。かの有名なキャヴァーン・クラブでアマチュア時代のビートルズと何度も共演したという。しかし、彼らのヒット曲というのは『ヒッピー・ヒッピー・シェイク』ぐらいなもの。この曲もチャン・ロメロのナンバーで、ビートルズがよく歌っていたから彼らも取り上げたという。

●ピーター&ゴードン
 『愛なき世界(A World Without Love)』で一躍有名になった。この曲、いい曲だなあって流行っている頃、思っていたが後で聞いたらポール・マッカートニーの作品であった。それというのもピーターの妹ジェーン・アッシャーとポール・マッカートニーが交際していたという事実があり、小生はこの2人が結婚するものと思っていた。その後はパッとせず消えていったが、ピーター・アッシャーは後にジェームス・テイラーのプロデュサーとして活躍する。

●マンフレッド・マン
 ポール・ジョーンズとマンフレッド・マン、マイク・ハグを中心に他2人を加えた音楽性の高いグループだったが、最初のヒット曲は『ドゥ・ワ・デイデイ・デイデイ』を彼らの本懐にあらず。次のヒット曲は『プリティ・フラミンゴ』後年にエルヴィス・コステロ、ブルース・スプリングスティーンの愛唱歌として知られるようになる。このグループには、かつてクリームのジャック・ブルースも在籍した音楽集団だった。


 『恋のテクニック(How Do Toy Do It)』を歌うジェリー&ザ・ペースメイカーズ。この曲はビートルズも歌っているから聴いてみるべし。


 『アイル・キープ・ユー・サテスファイド』を歌うビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス この曲はレノン・マッカートニー作品である。


 『愛なき世界(A World Without Love)』を歌うピーターとゴードン。この親しみやすいメロディとハーモニーは如何にもポール・マッカートニー作品らしいところである。


 『ドゥ・ワ・ディディ・ディディ』を歌うマンフレッド・マン。


 つづく・・・・・
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2010.12.13 (Mon)

たった今、帰ったばかりで・・・

 ようやくパソコンの前に座っている。すでに10時半を回っているではないか。これではブログの更新をやろうという気が失せるなあ。明日も早く起きなければならないので11時過ぎには寝るようにしているから、もう書いている暇がない。

 職住接近ならすぐに帰宅できるのにと思いながら、そろそろパソコンを切らなければならない。今日は忙しくて残業だった。僅か2時間ほど居残っただけで、寄り道もせず真っ直ぐ帰っても今の時間になる。困ったものだ。今月は年末ということもあるが、とにかく忙しい。今月もあと何度か残業で残らなければならない。すると今日のように更新もままならない。今日なんかでも書く事はあったのに、今からでは満足な記事が書けやしない。なのでそろそろおさらばしようと思うが、こんな有様だと先が思いやられそうだ。とにかく家に居る時間が少なすぎる。そこへ休日出勤も控えているから、今後ますますブログ更新が・・・・・・とは言いたくない。でも通勤に2時間は疲れる。それに残業をして帰ると、その時間帯はバスの便が激減する。したがって歩かなくてはならないのだが、今日なんか昼から雨が降り出して、雨の中を延々と30分歩かされた。こんな愚痴を言いたくはないのだが、職場が滋賀県に移ってから何にもいいことがない。よりによってこんな糞田舎によくも職場を移してくれたものだ。もういい加減に疲れてきた。それでは、この辺で失礼して寝ようとするか・・・・・・。
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2010.12.12 (Sun)

第62回阪神ジュベナイルフィリーズ

 今日は肌寒い1日。曇り空の中、阪神で2歳牝馬の№1を決める第62回阪神ジュベナイルフィリーズ(G-Ⅰ・3歳牝馬、芝1600m、18頭)が行なわれた。このところ毎年のように牡馬と違って、牝馬は活躍馬を出しているが、このレースがどうやら登竜門となっているようだ。昨年のアパパネ、一昨年のブエナビスタ、さらに遡ってウオッカというように、勝ち馬の中から名牝が出現している。これは阪神競馬場の外周コースが出来てから、この1600mは紛れの少ないレースになってしまったからであろう。このあたりは中山の1600mとは大いに違っている。したがって最近の阪神ジュベナイルフィリーズは見応えのあるレースとなっているが、今年も期待すべき2歳牝馬が多数出走して来た。まずブエナビスタの再来ではないかと思われるほど、末脚の切れる2戦2勝の芦毛馬レーヴディソールが1番人気。対する関東の2戦2勝はダンスインザムードの仔ダンスファンタジアが2番人気。そしてオークス馬でありこのレースの勝ち馬でもあるトールポピーの全妹アヴェンチュラが3番人気。エリザベス女王杯を勝ったタレンティドガールを3代母に持つホエールキャプチャが4番人気。オークス馬エリモエクセルを母に持ち父はディープインパクトのリトルダーリンが5番人気であった。こうして良血が揃った中で注目のスタートが切られた。

 ゲートが開き長いバックストレートが続く。内の方からフォーエバーマーク、ピュアオパール、kマルモセーラが前に行くが、ピュアオパールが僅かに先頭に立つ。その後に続いたのがマルモセーラとフォーエバーマーク。その後はマイネイサベル、5番手にホエールキャプチャ、ツルマルワンピース、内からリトルダーリンと続き、その外にタガノラヴキセキ、そしてライステラスである。さらにはハピシン、トツゼンノハピネス、オースミマイカがいて、レーヴディソールが外を通って追走。さらにアヴェンチュラ、ダンスファンタジア、クリアンサス、グルーヴィークイーン、マリアビスティーといった順でまもなく3コーナーにかかろうかというところ。ここでダンスファンタジアがかかったように頸を上げて外から一気に先団へ上がって行く。1000mのハロン棒を通過する。馬群がここで固まってくる。800mのハロン棒を通過。ハロンラップは12.5---11.2---12.1---12.7で48秒5で通過。これはややスローペース。3コーナーから4コーナーにかけてさらに馬群が固まってきた。先頭はピュアオパールで2番手はマルモセーラ。1000m通過が1分01秒2、これは遅い。これから600mの上がりの競馬になりそうだ。第4コーナーを回って直線に向こうとする。ピュアオパール先頭。その外にマルモセーラ。レーヴディソールは中団の1番外にいる。あと400m、先頭はピュアオパール、ライステラスが外から並びかける。ライステラスが伸びる。ライステラスが先頭か。内からホエールキャプチャ。外からレーヴディソール。あと200m、ホエールキャプチャが伸びる。外からレーヴディソールも来る。先頭はライステラスだが、内からホエ-ルキャプチャが伸びる。そして外からレーヴディソールが目立った伸び方。ここで先頭はレーヴディソールに代わった。内からホエールキャプチャも伸びる。しかし、レーヴディソールの方が伸びがいい。レーヴディソールが1着でゴールイン。

 1着レーヴディソール 1分35秒7、2着ホエールキャプチャ 1/2馬身、3着ライステラス 1馬身、4着アベンチュラ 3/4馬身、5着ツルマルワンピース クビ。

 レーヴディソールの末脚は際立っていた。ブエナビスタも後方待機から末脚を爆発させて同レースを勝ったが、その後の活躍はご存知の通り。しかしレーヴディソールも楽しみな馬だ。同じ勝負服だし勝ちっぷりも似ている。違うところはレーヴディソールは芦毛というところ。この馬はまだグレーに近いが、馬齢を重ねるとだんだんと白っぽくなるのだろうが、問題は無事是名馬でいられるかどうか・・・・・。こいった脚質の馬は故障しやすいからどうかなと危惧している。ブエナビスタと比較するのはまだ早いが、牡馬と伍して戦える要素は持っていると思う。まだ2歳の段階なので将来を予測するのは難しいが、期待できる牝馬であることは確かだ。
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2010.12.11 (Sat)

ウフィツィ美術館自画像コレクション展に行く

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ウフィツィ美術館自画像コレクション

昨日は忘年会で帰宅が深夜になった。10時頃に忘年会は終わっているが、滋賀県の某所での忘年会。それも会社のあるところから三つ遠い駅。それも駅から送迎バスで15分ぐらいかかるところ。早く帰れるはずがない。従いまして昨日はPCも開いてないまま、就寝した。それも久々に大量のアルコールを飲んだので帰宅してからも喉がカラカラだった。私はビールをいくら飲んでも酔わないし、顔色も変らないから、飲んでないのではないかと勘違いされる。基本的にアルコールには強いのだが、このところ薬を飲み続けている関係からアルコールを控えていた。それで久々に飲んだのであるが、どちらかというと食べ過ぎたかも・・・・。滋賀県では人気のあるちゃんこ鍋の店らしい。そういえば全室埋まっていてどこも賑やかであった。まあ、そんなことはどうでもいいが、小生、昔からこの忘年会とやらあまり好きではない。小生は静かに飲みたい性質で、みんなで馬鹿騒ぎするのが好きではないというのもある。もっとも昔に比べると、今どきの若者の飲み方は大人しくなったと痛感する。我々の若い頃の年配者というのは、それは滅茶苦茶であった。その暴挙ぶりをいちいち書かないが、それに起因しているせいもあって忘年会が嫌いになったというのも或る。もっとも今の若者の忘年会での会話にも興味はないが・・・・・。時代が違っているというとそれまでだが、オタクめいた話題しか盛り上がらないというのも困ったものだ。昔は酔うと大概、誰かが政治的な信条を述べだし、それに対して反論する。そこから喧嘩になることもあったぐらいだ。昨今の忘年会では考えられない。昔は良かったとも思わないが今もつまらない。したがって忘年会は嫌いだ・・・・・。

 さて、話は変るが今日、小雨が降る中、大阪・中之島の国立国際美術館で催されている『ウフィツィ美術館 自画像コレクション』の展覧会に行ってきた。イタリアはフィレンツェにあるウフィツィ美術館で所蔵されている自画像ばかりを集めた展覧会である。なんとも珍しい展覧会では或るが、そもそもメディチ家で名高いフィレンツェのであるが、街の中を流れるヴェッキオ橋を挟んでピッティ宮殿とウフィツィ美術館が或る。いわばウフィツィ美術館はイタリア・ルネッサンス美術の殿堂であり、イタリア美術の所蔵としては世界一だとも言われる。そんなウフィツィ美術館には数々の画家の自画像も所蔵されている。この自画像はウフィツィ美術館でも一般に見学がすることができない、ヴァザーリの回廊に展示されている。

 このヴァザーリの回廊というのが、つまりアルノ川の両岸にあるピッテイ宮殿とウフィツィ美術館を空中回廊で繫ぐヴェッキオ橋の内部のことなのであって、1700点を超える画家や彫刻家の自画像の一部を空中回廊に展示しているのである。それで今回の展覧会、どのような画家、彫刻家の自画像が見られるかというと、メディチ家時代の画家の自画像から始まって、ハプスブルグ家の時代、イタリア王国誕生から第一次世界大戦前後まで、20世紀に活躍した巨匠、そして現代の画家達までである。

 どんな画家達が自画像を描いているかというと、ベルニーニ、レンブラント、ドミニク・アングル、モーリス・ドニ、ジョルジョ・キリコ、マルク・シャガール、そして日本の藤田嗣治、横尾忠則までいる。しかし、名前も知られていないような画家が多く、自画像とはいえ時代によって画風が系統化されているなあと感じた。

 もっとも自画像なんて、その人の風貌はよく判るが、実際に男の顔の自画像ばかり並んでいる展覧会を観ていてもあまり面白くない。風景画もなければ静物画もない。女性を描いた絵もほとんどないし、思ったとおり不入りであった。でもこれだけ空いていれば、ゆったりと観れたし、美術愛好家には嬉しい限りだ。これがもし印象派の展覧会となると、絵画の前には二重三重の人垣が出来てしまうから大違いである。でも過去のヨーロッパ絵画の天才、名人達の顔というのは、凡人と違うところがあるのかと探りながら観ていたが、絵画の大家たちもこれといって何の変哲もない顔をしていることが判った。画家の自画像と思うからそのような目で見てしまうが、ただの肖像画といわれてしまっても何らおかしくないなあと感じたまでである。でも画家達の多くは自画像を残している。やはり自己顕示欲が強いのか、それとも自分自身を描くというのが一番手っ取り早い方法なのかどうか判らないが、よくもこれだけの自画像があるものだ。
EDIT  |  20:22  |  美術  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.09 (Thu)

師走を感じる

 このところ街を歩いていると、いかにも師走だなあと思ってしまう。何処もイルミネーションの装飾で明るいし、クリスマス商戦だとかいってクリスマスソングが流れているし、忘年会だといって顔を真っ赤にしたオッサンが大きい声を出して千鳥足で歩いているし、まさに師走そのもの光景である。かくいう小生も明日、早くも忘年会。久々にアルコールを飲むことになるだろう。したがって何時、家に帰れることやら。なにしろ滋賀県の某所で忘年会を終えて、それから帰宅である。当然のように二次会なんて行けるはずもない。大阪市へ通っていた時代とは違う。田舎の湖国で忘年会なのだ。もし二次会にいって最終電車に乗り遅れようものなら泊まるところもない。それこそ寒い湖国で野宿である。凍えてしまう。

 宿泊所も駅前に行けばあることはあるだろうが、予約で埋っていたらと考えると、ゆっくり飲んでもいられない・・・・。とにかくビジネスホテルもあまり見かけないという土地柄である。都会なら、何軒もスナックの梯子をするか、それとも穿いて捨てるほど安ホテルがあるし、雀荘に行って轍夜麻雀するとか、またはネットカフェで一晩過ごすとか色々な方法があるのだが、湖国では大津、草津あたりまでならどうにかなるものの、その先ともなると夜を過ごすのも簡単にいかないようだ。したがって飲むのもほどほどにしないといけない。酔いつぶれてしまうとそれこそ、民家の軒下で横臥する羽目になる。そして朝起きると、確実に風邪をひいているだろう。

 ところで明日は忘年会だが、来週からは残業攻めだ。それに祝日出勤が、まだ控えている。ああ、嫌だ嫌だ。こんな田舎で、バスもない時間に、街灯もない静まり返った真っ暗な田んぼ道をトボトボ歩くことの惨めさといったら・・・・・・・。おまけに風の強いところだし、手はかじかむし、実際の気温よりも体感温度は寒く感じられる。残業すると何時も惨めな気持ちになるのは、こういったところに毎日通っているからなのだが、せめて通勤時間が今の半分程度なら、そうにか我慢出来るのだが、通勤時間2時間ともなると、もういい加減にウンザリしてくる。それも残業して帰ると帰宅は深夜である。おそらく、来週からはこのブログ更新もまめに更新できるのかどうか、拘束時間が長くて、自由時間が削られると愚痴の一つでも言いたくなる。師走とはいえ、猛烈に忙しいのだけは遠慮したいものだが、現実は厳しいようだ。仕事は増え、それでいて給料が上がらないという悪循環。何れにせよ生活していくのにも、これからは苦労の絶えない日が続くだろう。
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2010.12.08 (Wed)

キャノンボール・アダレイ・・・・・アルバム『サムシン・エルス』を聴く

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 今日は12月8日である。12月8日といっても何の日か判らない人も多いかもしれない。日本人にとっては太平洋戦争の始まったハワイ真珠湾奇襲の日である。この日を我々は忘れてはならないだろうし、戦争の悲惨さを風化させてはいけないだろう。なので覚えておかなくてはならない日では或るが・・・・・・・。最も私にとっては、真珠湾奇襲よりもジョン・レノンの命日といった方が身近である。今からちょうど30年前の今日、ニューヨークの自宅前でファンという男の凶弾に倒れたのだった。そのときジョン・レノン40歳。もし生きていたら70歳になる。小学生の頃、ラジオから流れる洋楽を聴きだしたが、時を同じくしてビートルズが大ブレークした。当時、中学生の姉が夢中になってビートルズを聴きだしたので、つられて聴きまくっていたものだ。それ以来、西洋のポップスというと何時もビートルズを中心に回っていた気がする。でもビートルズの活動期間は短かった。実際、デビューから7年ほどで解散してしまったから、ビートルズをリアルタイムで知っている人は少ないと思う。ビートルズのファンといっても、解散以降にファンになった人の方が今では多いだろう。それはともかく、ビートルズというと今、生きているのはポール・マッカートニーとリンゴ・スターの2人だけとなった(ピート・ベストもいるが)。でも私はジョン・レノンが誰よりも好きだった。彼の作るシンプルなメロディに何時も敬服していた。最も私の姉はポール・マッカートニーの方が好きだったようだが。でも何故、ジョン・レノンが暗殺されなければならなかったのか。こればかりは残念でしょうがない。今、生きていたら、70歳のご老人であろうが、ステージに立ちエネルギッシュに歌っていただろうに・・・・。30年目ではありますが合掌させていただきます。さて、思い出に浸っていてもしょうがないので本論に入るとする。

 キャノンボール・アダレイというと著名なアルト・サックス奏者であるが、絶えず側にマイルス・デイヴィスがいたというイメージが私の中でこびりついていてしょうがない。事実、このアルバム『サムシン・エルス』も録音メンバーに名を連ねマイルス・デイヴィスはトランペットを吹いている。また実際にキャノンボール・アダレイのジャズ・ミュージシャンとしての素養を見出したのは他ならぬマイルス・デイヴィスだったといってもいいかもしれない。

 キャノンボール・アダレイは本名をジュリアン・エドウィン・アダレイといい1928年にフロリダで生まれている。でも有名になったのは遅くニューヨークにやって来た1955年以降のことである。弟のナット・アダレイ(コルネット奏者)とのコンビでマーキュリー・レコードにアルバムを吹き込んでいるがこれといって評判にもならなかった。でも実力を高く買う人も多かった。その中の1人がマイルス・デイヴィスであった。マイルス・デイヴィスは1957年秋、セクステットのよるコンボを結成するにあたり、キャノンボール・アダレイに声をかけたのである。こうしてマイルス・デイヴィスの著名なアルバムに幾つかメンバーとして参加し、そして1958年3月9日、このアルバムが録音されている。

 メンバーはトランペットがマイルス・デイヴィス。アルト・サックスがキャノンボール・アダレイ。ピアノがハンク・ジョーンズ。ベースがサム・ジョーンズ。ドラムスがアート・ブレイキーである。余談だがアート・ブレイキーはこの年の10月には別のメンバー(ジャズ・メッセンジャーズ)で『モーニン』を含むアルバムを録音しているから、この頃はハード・バップ全盛期だったことを窺わせる。

 ところで当アルバムの収録曲は5曲。『Autumn Leaves(枯葉)』『Love For Sale』『Somethin’ Else』『One For Daddy-O』『Dancing In The Dark』であるが、『サムシン・エルス』はマイルス・デイヴィスのオリジナルで、『ワン・フォー・ダディ・オー』はキャノンボール・アダレイの実弟ナット・アダレイのオリジナルである。それ以外は何れもお馴染みのナンバーである。『ラヴ・フォー・セール』はコール・ポーターの作曲によるスタンダード・ナンバー。最近ではバディ・リッチのビッグ・バンドでよく聴かれるが本来はミュージカルの曲である。ここではキャノンボール・アダレイとマイルス・デイヴィスの掛け合いが面白い。『ダンシング・イン・ザ・ダーク』もミュージカル『バンドワゴン』のナンバーで、アダレイのサックスフォンがむせび泣くように奔放に奏でられる。

 冒頭の『枯葉』はその後の『枯葉』の演奏を決定付けたといっても過言ではない。それまではシャンソンのナンバーとしてイヴ・モンタンが最初に歌いエディット・ピアフも歌い、英語版ではビング・クロスビー、フランク・シナトラといった白人も歌い、そしてナット・キング・コールが歌いそれぞれインパクトがあった。それがジャズのインスルメンタルとしては、当アルバムの『枯葉』が決定版として今でも輝いている。ピアノとベースのイントロにアルト・サックスの音が加わり、その後にマイルス・デイヴィスのトランペットで曲の主題がゆったりと吹かれるが、この最初のタタタタという有名なフレーズで一気に引き込まれてしまう。これぞマイルス・デイヴィスだ。トランペットにミュートをつけて音を抑え、ゆったりとしたテンポで全ての装飾を省いた簡単明瞭の演奏なのだが、これが意外にも優美で典雅な格調の高い音に聴こえるのだ。一方、キャノンボール・アダレイはマイルス・デイヴィスとは違った形で切り込んでくる。こちらは自由にアドリブ展開しているが、全体的にはマイルス・デイヴィスが光っている珠玉の演奏といえるだろう。その後、ジャズの演奏でこの『枯葉』を超える演奏に出くわしたことがないという人も多いが頷ける気がする。

 ところでキャノンボール・アダレイはマイルス・デイヴィスのバンドで研鑽を積み、やがて自らのバンドを結成。弟と組んで一応の成功を収め、さらにはボビー・ティモンズ、ジョー・ザヴィヌル等と一緒に演奏したこともある。その後はソウル・ジャズやセルジオ・メンデスと組んでボサノヴァを取り入れたこともある。

 でもキャノンボール・アダレイは無類の大食い。キャノンボールという仇名もそこから来ているのだが、それに起因して糖尿病に悩まされていた。そして1975年、僅か46歳で亡くなってしまう。死因は脳梗塞だった。


 『枯葉』の演奏。マイルス・デイヴィス(tp)とキャノンボール・アダレイ(as)の掛け合いが実に面白い。しかし、名演である。(動画はなし) 


 『The Jive Samba』の演奏。

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2010.12.06 (Mon)

インスタントコーヒー

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 なんだかこのところ毎晩、インスタントコーヒーを飲んでいる。アルコールを出来るだけ控えるように言われているから、その代わりにコーヒーを飲むようになったからなのだが・・・・・・・・・。何時も血液検査をすると肝臓が○○と言われるので仕方が無い。最近はあまりアルコールも飲まないのに、何時も検査の時言われるのは、若いときの不摂生が溜まっているからかもしれない。

 そういえば20代の頃は、毎晩、飲み歩いていた。自宅に帰らないこともしばしばで、朝まで飲み屋を梯子することもよくあった。終電に乗り遅れ、仕方なくカプセルホテルに泊まり、そこでまたアルコールを飲むこともあった。二日酔いで出勤というのもご愛嬌。仕事に励んでいる間にアルコールが抜けてきて、調子が戻ると、その晩はまた飲みに行く。こんな生活を毎日、送っていたから不摂生もいいところだ。

 30代になってから体力がなくなってきたので、飲みに行くのも週末ぐらいになったが、とにかく若い頃は不規則で身体にいいことは何もやっていなかった。当時はアルコール以外は勿論だが、煙草も吸っていた。吸い出すとたちまち5、6本続けて吸うチェーンスモーカーだった。

 今は品行方正で寄り道しないで帰宅し、アルコールも殆ど飲まない。テレビも見ない。それは下らない番組が多すぎるからというのもあるが、テレビを見だすと何も出来なくなるからだ。テレビに生活を乱されたくない。その間、本の一冊でも読めるでしょ。他の作業が出来るでしょ。でも読書をするにも毎日の寝不足がたたっているからすぐに眠くなるのが困るのである。それでカフェインの強いインスタントコーヒーを飲むことが最近は多くなった。アルコールを飲まなくなった代わりにコーヒーをよく飲むようになったのである。

 コーヒーといえば、10代の頃からよく喫茶店に入ってコーヒーを飲んでいた。喫茶店の雰囲気が好きで、よく入りびたりしていた。大学の頃は、京都中の喫茶店に片っ端から入って、煙草を吸いながら、コーヒーを飲んでいたものだ。仲間と入って延々と何時間も議論していたり、古本屋で本を数冊買い込み、コーヒーを飲みながら、読書にふけていたものだ。社会に出てからは、朝に何時もの喫茶店に入り、新聞を読みながらコーヒーとモーニングセットのトーストとゆで卵を食べて、煙草を一服してから出勤したものだ。

 それが10数年前、気管をやられてから煙草をやめた。それ以来、喫茶店も行かなくなった。飲み屋も行かないなら喫茶店も行かない。何とも味気ない生活だ・・・・・・・。とはいうものスターバックス等のシアトル系のコーヒー店に行く気も起こらない。つまり煙草を吸いに喫茶店に入っていたようなものであるから、禁煙するようになって次第と喫茶店も行かなくなった。

 そういう訳で、帰宅してから飲むインスタントコーヒーが楽しみの一つになってしまったのである。本当にささやかなものだが、小生、馬齢を重ねるごとにだんだんと質素な生活になっていく。でも、これでいいのだ。20代の自分とを比較すると雲泥の差ではあるが・・・・・・もうネオン街には疲れたのだ。
EDIT  |  21:12  |  食・飲  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.12.05 (Sun)

第11回ジャパンCダート

 12月とは思えない暖かな近畿地方。今日はポカポカな晴天であった。さて師走競馬に入ったが、今週は第11回ジャパンカップダート(GⅠ・3歳以上、ダート1800m、16頭)である。

 このレース4年前までは東京の2100mのダートコースで行なわれていたが、一昨年から阪神の1800mコースで行なわれるようになった。でも今年は海外からの参加が無い。それは当然、予想は出来た。本来からダートの競馬というのはアメリカが中心で、ヨーロッパ主要国ではまず行なってない。だからアメリカの馬に参加をしてもらいたいのだろうが、ダートの土質が違いすぎる。アメリカのダートは赤っぽい土でやや粘りがある。それが日本のダートは黒っぽい土でパサパサしている。当然アメリカの方が時計が速くて、そこへスパイク状の蹄鉄を使っている。日本では使っている蹄鉄も違うし、アメリカの馬に適している馬場ではないことは一目瞭然である。そこへ左回りしかなく平坦なアメリカの競馬に慣らされている競走馬が芝主体の日本のレースに態々、出てくるだろうか。最も昨年、クラシックホースのサマーバードが来たが(骨折でレース不参加)、これは特異な例だろう。

 それに東京で行っていた時は2100mだったので、距離が長いからアメリカの馬が来てくれない嘆いていたが、それを阪神の1800mに変更したからって容易に来てくれるものでもないだろう。まだ東京は左回りだからアメリカの競馬に適応しているが阪神は右回りである。距離を短くしたからといって、余計に参加しないような気は前からしていた。もし来てくれるのを願うならば、中京の左回りでやった方がいいのではと思えてくる。こういったところを考えるとアメリカの競馬というのは融通がきかないなあと思ってしまう。

 さて、第11回ジャパンCダートであるが確固たる本命がいない。以前のクロフネのような怪物は別格としても、最近のカネヒキリ、ヴァーミリアン、エスポワールシチーといった安定したダートの王者が今年はいない。それで1番人気に支持されたのが逃げに転じてから崩れないようになったトランセンド。2番人気が同じ4歳馬のシルクメビウス。3番人気がヴァーミリアンの弟キングスエンブレム。4番人気がかつてのダート王者ヴァーミリアン。5番人気がダート未体験の3歳馬アリゼオである。

 こうしてスタートが切られた。ゲートが開くやマルカシェンク、アリゼオが立ち遅れた。その間にトランセンドがダッシュよく先頭を窺う。さらに外からバーディバーディ、ダイシンオレンジも行く。だがハナをl奪ったのは1番人気のトランセンド。2番手にバーディバーディ、3番手ラヴェリータとダイシンオレンジ。その後にオーロマイスター、その内にアドマイヤスバル、そしてヴァーミリアンとキングスエンブレムの兄弟が追走。その後はグロリアスノア、トーセンブライト、クリールパッション、さらにアリゼオだが折り合いが悪い。さらにインコースにシルクメビウス、外からダイショウジェット、マカニビスティー、シンガリの位置からマルカシェンク。スタートから12.5---10.7---12.7---12.0---12.1と澱みないペースでトランセンドが引っ張る。淡々として3コーナーから4コーナー、馬群が固まってくる。先頭はトランセンドでマイペースの逃げ。バーディバーディが2番手で追走。いよいよ直進コース。先頭にトランセンド、2番手にバーディバーディ。あと300m、トランセンドが依然として先頭。バーディバーディが2番手。あと200m、トランセンド先頭、トランセンド先頭。バーディバーディが迫り競り合う。でもトランセンドが競り落とすか。後続からグロリアスノアが突っ込んでくる。あと100m、トランセンドが単独先頭。1馬身半出た。でもグロリアスノアが伸びる。グロリアスノアが伸びる。アドマイヤスバルも来る。トランセンド先頭。グロリアスノアが来た。グロリアスノアが来た。しかしトランセンドが逃げ切った。

 1着トランセンド 1分48秒9、2着グロリアスノア クビ、3着アドマイヤスバル 1馬身1/4、4着バーディバーディ ハナ、5着シルクメビウス 2馬身。

 あまり感想はない。ダートのレースというのはどうしても注目されない。それに実力が安定している馬がいないので、その日の展開一つで勝ち馬が変ったりしている。今後、ダート界もスター馬が出てくると面白くなるのだが・・・・・。でもアリゼオが出たので注目していたが、頸を上げていたし、明らかにダート競馬に手間取っていたようだ。結局は大差のシンガリ負け。やはり3歳クラシック路線を賑わしていた馬でもダートの競馬は難しいみたいだ。適性よりも経験が必要かもしれない。
 
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2010.12.04 (Sat)

スチームサワ

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 スチームサワという代物を購入した。鼻の通りが悪いし、鼻水は出るし、風邪もよくひくからと思い買ったのである。どのようなものかというと中に水を入れて電源を入れると、熱い霧のようなものが吸入口から出てくるといった仕掛けになっている。これで10分ぐらい鼻や喉を潤すという。

 つまり43℃~45℃のスチームが出てきて、それを吸入口から吸い込むというもの。これで風邪や花粉症などに対応できるというが・・・・・・・。風邪や花粉症などで鼻に不快感のある場合、スチームが効果的だという。それは炎症を起こしている粘膜に潤いを与え、再生作用を助けてくれるかららしい。毎分約6mlのスチームと、約13μの安定した粒子が鼻や喉に行き届くのである。こうしてスチームサワの吸入器を吸っていると身体に備わっている回復力をサポートするという話だが・・・・・・・。

 2、3度と使ったが、効果が期待できるほどとは到底思わないが、何もしないよりはマシかなと考え夜になったら使っている。でも薬を使ってないだけに、安心といえば安心であるが、さほど効果があるとは思えない。ただ、これからのシーズン風邪が蔓延する。だから絶えず喉を潤していなければならないし、空気が乾燥してくるとどうしてもウイルスが元気になる。だから自分だけでも風邪に強くなりたいと思う次第である。また鼻や口を吸入器に近づけるのが面倒くさいと思ったときは、熱い霧が噴出しているので、加湿器代わりだと思えばいい。だから購入したのだが、終わってから水を捨てるのだが、本体の熱が下がってからでないと捨てられないし、水の吸い上げ口のノズルが詰まったりするので清掃もしてやらないといけないなど、結構、面倒くさい。

 しかし耳鼻科に通っていてもなかなか完治しないので、せめて自宅にいるときは風邪の予防と鼻に潤いをと思い立ったのである。さて、効果のほどは・・・・・・・。
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2010.12.03 (Fri)

大荒れの天気で・・・

 昨晩から今朝にかけて雨足が強く、真夜中には稲光と共に雷鳴が轟いて驚いたが、朝は12月とも思えない異様な暖かさであった。家を出る頃には雨があがっていたので外套着を着て出て行くと汗ばむほど暖かい。また空も部分的には真っ黒な雲が覆っていて、いつ雨が降りだすかもしれない。雨上がりの朝は空気が乾いて寒くなるというのが、何時ものパターンなのだが、どうやら湿気が残っている。まだ雨が降るかもしれない状況で1ヶ月前に戻ったような陽気である。ただ暖かかったのも朝の間だけで、昼ごろにはパラパラと雨が降りだし、風が強く吹き出した。木々が撓っていて木の葉が引きちぎれそうに靡いている。風が強く吹き出し、枯葉が強風にあおられて舞っている。ただ風が強くなっても相変わらずの暖かさだった。それが夕方になると一変していた。空を覆いつくしていた雲が消え去り、湿気がなくなり、気温が下がり、強風が吹き荒れたいた。

 朝と違って気温が一気に下降したので寒くなってしまった。寒い中を30分歩き続け、何時もの駅に着くやプラットホームに下りていった。すると立っているのがやっというほどの猛烈な風にあおられる。猛烈な風だ。この寒さと猛烈な風が吹くことによって、プラットホームに人が降りてこない。みんな駅舎の中の改札口の前付近で待機している。おそらく電車がプラットホームに到着する時間を見計らってホームに姿を現すのだろう。あいにく神戸方面に向う電車は遅れてはいないが、米原行きの電車が遅れていた。こちらは逆方向なので影響はなかったが、それでも特急や長距離列車を中心にダイヤが遅れている。これも強風によるものだが、とにかくこの強風、寒さと共に余計なものまで持ってきたようだ。でも帰宅時の電車にはこれといった遅れはなく、すんなり帰宅できたことは喜ばしい。

 結局、今日の気温は朝が1番高くて、その後は気温が下がっていく一方である。すっかり天気に翻弄された1日ではあったが・・・・・・・・・・秋から冬を1日の間で、体験させてくれた稀有な1日であった。
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2010.12.01 (Wed)

読まなくていいです

 今日の内容は下らないから読まなくてもいいです。と云いつつも何時も内容は下らないのだけど・・・・・・・・。

 今日は12月1日である。もう今年に入って11ヶ月が過ぎてしまった。12分の11が終わった。残りは僅か1ヶ月。ああ、今年もダラダラと馬齢を重ねてしまった。日常の流れに乗って、平凡かつ平凡の毎日であった。もっとも平凡の毎日ではあるが、その中でも色々とバイオリズムからいって良い日も悪い日もあった。ただ急激な浮き沈みが無かっただけでも平穏な年であったと思わないといけないだろうが、健康面で色々と悩んだ年でもある。来年は無病息災でいきたいものだが、だんだんと加齢してくると若いときのようにいかないのも当然である。

 鼻は悪いし、肩は50肩で痛くて右手が上がらない。腰もいたいし膝も痛い。老眼だし、高血圧だし血糖値も高いし、慢性の不眠症だし、記憶力は低下したし、物忘れも酷くなったし、歩くのも遅くなったし、白髪も増えたし、禿にはなりそうも無いが・・・・・・・。歳をとるといいことはあまりない。1年は365日だが、分でいうと525600分である。秒でいうと31536000秒になる。この間、およそ4分の1ぐらいは寝てるだろうから(小生はもっと少ないが)、起きている時間で云うと、1年では23652000秒、起きていることになる。日にちでいうと365日だが、秒数でいうと23652000秒。これは長く感じるか、短く感じるか、人それぞれだが、物事に集中している時は3600秒(1時間)なんてあっという間だが、仕事で拘束されている時の時間の経過というのは本当に耐え難いほど長く感じられるものである。でも夜の中には、仕事中の時間の経過が早すぎて怖いという人もいる。こういった人は仕事自体が楽しいのだろう。本来は人間、このようにありたいものだが、悲しいかな大部分の人はメシのタネとして働いているに過ぎない。収入を得るために無為な労働を課せられているにすぎない。だから勤務中の時間の経過はおどろくほど遅い。酷い場合は10分毎に時計を見ているといった有様だ。それに比べると楽しい時の時間の経過は、その何倍も早い。でも人間、楽しい時ばかりだと、今度は飽きが来るから面白い。苦があって楽があるとすると、楽ばかりだと人間は大きくならないし、堕落してしまう。苦があってこその楽なのである。苦と楽が交互にあるから、メリハリがあって生きていても面白いものなのだ。

 ただ苦と楽は若いときに出来る限り経験するほうがいい。年老いてくると楽も楽とは思わないようになるし、苦も同様である。青年大志を抱け・・・・・じゃないけども、感受性の強い間に出来る限りの経験を積むことは、その後の人生にとって大きな糧となる。これが50もなってから経験するのとは違ってくるのである。やはり若いものの特権である。だから小生も若返りたいものだが、所詮ははかない夢である。

 このように何だかんだと下らないことを書き綴っている間にも、1000秒、2000秒を経過していくのだ。だkら人間として生まれてきた以上は時間を有効に使いたいものである。歳をとるごとにこのように思うのは、つまり若さへの僻みかもしれないなあ・・・・・・・・・・・。ここまで、この下らない記事におつきあいされた方、ご苦労さんです。でも暇人ですね・・・・失礼!
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