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2016.06.26 (Sun)

アルバム『チャーリー・パーカー・ウィズ・ストリングス』を聴く



 チャーリー・パーカーなんて死んで60年以上になるけれど、未だにジャズ界に轟いている名前である。戦後のモダン・ジャズに大きな影響を残し、ビ・バップなんていうのは彼の閃きから生まれたような産物かもしれないし、彼がいなかったらジャズって言うのは何時までもスウィング・ジャズのような旧態依然としたダンス音楽か伴奏音楽の域から発展せしないまま限界が生じ、商業音楽の領域で埋もれていったかもしれない。それが芸術的な方向性を持ち、ジャズがより広まって聴かれる音楽の領域へ高めていったのはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー等のジャズメン達といっても過言ではないだろ。それだけにチャーリー・パーカーには色々な呼び名がある。バードとかヤードとか、ヤードバードとも言われ、すでに存命の頃からジャズ界の巨人だったのである。でもその当時のジャズの主流はビッグバンドでありスウィング・ジャズであり、これらのジャズと一線を画していた音楽を求めていたパーカーは自ら破壊者でもあった。
 ところでジャズ界に何故、こんなチャーリー・パーカーのような人物が突然現れたのか不思議ではある。それまでのジャズとは一線を画していて新たな芸術的な要素を含んだジャズを生み出したチャーリー・パーカーであるが、彼は早熟だったらしく頭脳も優れていた。何しろ13歳でハイスクールに進学したものの、周囲の理解力の乏しさに辟易して勉強へ興味を失ってしまう。しかし、そこのスクール・バンドでサックスという複雑な音の組み合わせを表現できる楽器に出会いたちまち虜になってしまうのである。彼が育ったカンザスシティーは当時のアメリカでも有数のジャズが盛んな土地であった。まだローティーンだった彼は年齢をごまかしジャズ・クラブに潜り込みジャズの興味を深めていったのであろう。プロデビューは何と15歳。ほどなくニューヨークへ進出するが甘くなく、故郷に戻って経験を積み20歳頃からニューヨークでもジャズの世界で活躍できるようになる。もうこの頃から、演奏テクニックとともに音楽理論も独学で磨いたという点にあり、ヒット曲のコード進行を使いフレーズとハーモニー展開を即座に考えていくというビバップのアイデアも、頭の回転が速い彼だからこそ体系化出来るほどの質と量のものとなって湧き出したのだろう。謂わば閃きという天部の才能と技術があってなし得る技なのである。
 ところで当アルバムは1949年11月に録音されたものであり、チャーリー・パーカーが亡くなる5年ほど前のことである。ビバップというのを生み出したものの、一般的において人気がわったというのではなく、パーカーの音楽は高尚的すぎて大衆受けをしたのでもない。まだ当時のジャズ・ファンというのは相も変わらずビッグバンドの方が人気があったし需要もあった。ただミュージシャンの間ではチャーチー・パーカーの知名度は高く、彼の与えた影響は非常に大きかった。ただ彼の音楽は判りにくかったというのは当然のことであって、素人には彼の功績が凄いのだと言っても体現できないものであった。そんな中でパーカーはこのアルバムを録音したのである。アルト・サックス、ピアノ、ベース、ドラムスのジャズメンに加え、オーボエ、ヴァイオリン3、チェロ、ハープが参加している。
 今までのパーカーの音楽と比べるとメロディに忠実で判りやすく、パーカーの新たな一面が見いだされる。ストリングスの連中はNBC交響楽団所属で当時、トスカニーニの薫陶を受けた強者揃いである。一方、アルト・サックスを吹くチャーリー以外のリズムセクションはスタンリー・フリーマン(p)、レイ・ブラウン(b)、バディ・リッチ(ds)、そこへオーボエのミッチ・ミラーと実に興味深い面々が揃っている。バディ・リッチなんて凄腕のドラマーだが、このアルバム参加によって名をなすようになったのではないだろうか。曲目はApril in Paris, Summertime, If Shoud Lose You, I Didn’t Know What Time Was, Everything Happens To Me, Just Friendsが入っている。
 チャーリー・パーカーの意外な側面が垣間見えるというか、伊達にヤードバードとは言われてなかったチャーリー・パーカーである。実に自由な音楽性が発揮されている。その後、チャーリー・パーカーの影響はジャンルと飛び越えてしまい音楽界の中ではとても大きくなり、海を越えて彼の死後、イギリスでブルース、ロックのグループであったヤードバーズは彼の名前をいただいていて、それが後にレッド・ツェッペリンへと発展することを考えたら、チャーリー・パーカーはミュージシャンの中でこそ最も認められたジャズメンの一人であったと言えるだろう。

Just Friends


Summertime

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2016.06.24 (Fri)

イギリスのEU離脱

 23日にイギリスがEUから離脱するかどうかの国民投票が行われなんと大接戦の末、離脱が決定した。これにより残留派のキャメロン首相までが辞任してしまったではないか。この結果に小生は正直のところ驚いた。国民投票すると言うが、以前のスコットランド独立の時の投票でも結局は残留という結果だったので、今回もEUに残留するだろうと思っていたのだが離脱だという。結局のところはEUに加盟していてもこれといった恩恵がないとイギリスの国民は考えたのであろうか。といってもほんの僅かな差なのであって、圧倒的というものでもなく、離脱しない方が良かったのにという人が大半存在する中でイギリスは離脱したのである。一方、これによりEU残留派が多いスコットランドはイギリスからの独立を示唆。風雲急を告げる事態となった。
EU(Europian Union)とは欧州連合のことで、小さな国が多いヨーロッパにおいて一つの経済圏及び価値観や通貨の共同体を保とうということで設立されたのであろうが、ここに来て離脱とは興味深い。そもそも欧州は陸続きでありながら色んな国があり、言語も通貨も違い、国から国へ移るときもパスポートの提示などしていたら時代に取り残されると言うことで1993年に設立されたはずだと記憶している。そして加盟国間では自由、民主主義、平等、法の支配、人権の尊重等が普及し市場統合を試みて来たのである。その前身であるEC(欧州諸共同体)以前は加盟国がベルギー、西ドイツ、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダだけだったのが、その後、イギリス、アイルランド、デンマークが加わり、その後も西欧諸国が次々と加わっていく。そして東欧国家の民主化の嵐、ソビエトのペレストロイカから鉄のカーテンの消滅、ベルリンの壁の撤去と来て、冷戦の終結から欧州連合が発足したのである。
今やEU加盟国は28ヶ国まで増えたが、結局のところEUを牽引している国はドイツやイギリス、フランス辺りの経済力のある国になるのだろう。そこへギリシャの経済破綻を含め、貧しい東欧諸国の経済補塡等、そこへ大量の難民の流入。すでにヨーロッパではシリア難民を受け入れているが、こういった難民受け入れもネックになったと言えよう。さらにイギリスはEU加盟国からの移住者も大勢いて、これらが度々、国内でも論争の的となっていた。事実、東欧の貧しいルーマニアとイギリスとの給与格差は5倍あるという。こういった東欧からの貧しい移住者が昨年は16万人以上いたという。彼等により職に就けない若者も当然のようにいるという状況もあり国民はEU離脱を決めてしまったのか。
これらの事態はイギリスの国民にとって容易に受け入れがたい現象であり、総合的においてイギリスの国民は独自路線を選んだのであろう。まあ、イギリスという国はかつて大英帝国と言われ繁栄を極めた。アジア、アフリカとかに植民地をつくり産業革命を起こし、世界の中心であったと言えよう。しかし、今やそのときの栄華は過去のものなりつつあり、過去のプライドだけで生きているところがあり、一時はイギリス病だとか言われるまでに落ち込んだのだが、その後、回復しGDP世界5位というから、腐っても鯛ならず腐ってもイギリスである。そして、そのイギリスがEUから離脱するに当たってEUへの影響も多いが、イギリス国内への影響も大きいと思える。さらに世界経済への影響は今後も出て来ると思える。すでに日経平均株価も急落しているようだ。もしかしてリーマンショック以来という経済停滞が起こるのか・・・・・。こうなるとEUから離脱する国はイギリス以外にも出て来るかもしれず、今後、EUを背負っていくだろうドイツ、フランス、イタリアを始め、ヨーロッパ諸国の成り行きが大いに注目されるし、日本を含めたアジア各国も他人事ではなく当然、政治や経済への波及も当然見受けられるだろうし暫くは世界経済の動向からも目が離せなくなった。
 
EDIT  |  19:58  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2016.06.19 (Sun)

しとしとと雨が降っているが・・・

 もう梅雨入りしたのだが、雨が少ないなあと感じる。降った日って2日か3日ぐらい。それも降雨量が少ない。したがって暑いときている。ことさら昨日の暑さには参った。何度あったのか知らないが、日中は35度近い気温で深夜になっても気温が下がらないので寝苦しいこと寝苦しいこと。この前までは気温が高くても10時くらいになると外からの風が入ってきて心地よくなってくるのだったが、昨夜の湿気を含んだ暑さはもう夏そのもの。むしむししてエアコンがなくては汗がにじみ出てくる。いよいよ大嫌いな夏の到来を実感する。その前に梅雨なんだが、これがまた最近、雨が降らず湿気だけ持ってきて嫌なものだ。ことに昨日のように気温がぐっと上がり、それでいて雨が近いのに降ってないときは不快な気分になってくる。とにかくいらいらしてくる。でも、まだ6月なんだ。暑いのはこれからだと考えるとぞっとする。
 今日の雨も気温を下げてくれるのは良いが、振り方が中途半端だし湿度ばっかり上がって気温があまり下がらないので恵みの雨とは言いがたい。でも関西では水不足という声は聞えない。東京圏だと今年は降雨量が例年に比べて遙かに少なく、群馬や栃木にある各所のダムの貯水量が半分以下とかで取水制限をするという声が上がっている。とにかく利根川水系の上流で雨が降らず、ダムの人造湖も湖底が露出しているところもあるというから大変である。また今年は冬に雪が降らなかったから想定外のことが起こっているのだろう。今は取水制限をしている段階かもしれないが、今後の雨の降り方次第では、もしかすると給水制限をしないといけないかもしれない。とにかく人口が集中している都市圏であるだけに、それだけの水が必要になる。これといった水瓶がない関東。至る所でダムを造ったのだが、それも干上がると・・・・・。取り敢えず今後、もっと雨が降ってくることを望むしかないだろう。小生、若い頃、上司や友人に東京に住めと言われたが色々考えて、結局いかなかったのだが、行かなかった要因の一つは水不足が何10年に一回は必ずあるからだった。降雨量は京阪神より僅かに多いのに水が貯められない。まあ、それが日本の河川なのだ。とにかく大陸の河川とは違い流れが速い。雨が降れば水かさも一気に増して洪水も起こるが、雨が降らない日が続くと今度は貯水量が心配になる。これは人口の多い関東だけの話ではない。四国や九州でもよく水不足は起きている。結局、京阪神は琵琶湖の恩恵を受けていると言うことがここで判るのであるが、琵琶湖がないと関西も例外ではない。なにしろ日本は欧米に比べると雨が多いのに、その水を貯められないという欠点がある。国土が狭いという地理的条件がそれを相殺させていると言うことだ。結局は神頼みとなるのか、梅雨の雨が降らないと必ず起こる水不足。これから先の雨の降り方が心配になる。
EDIT  |  10:40  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2016.06.16 (Thu)

難聴・・・・

 一昨日のことだが左の耳が突然、耳栓をしたような聴こえ方になり、これは難聴になった思い急いで昨日、耳鼻科に行こうと思ったが、行きつけの耳鼻科がよりによって休診日。しかたなく今日、行ってきた。とにかく右よりも左の耳の方が聴き取りやすく小生は、電話でもイヤホーンでも左耳を使うことが多かった。だから左の耳が聴きにくくなったので慌てたし焦った。まだそんなに耳が遠くなる年齢でもないし、これは大変だと思い、今後のことを色々と考えてしまった。
 さて、耳鼻科に行って問診票に色々と書き込む。そういえば1ヶ月ほど前から聴こえにくくはなっていた。よくイヤホーンで音楽を聴くが、なんか以前ほど聴こえが良くないなあとは思っていたら、一昨日、突然に聴こえにくくなっていた。そして今日、診断を受けるまでちょっと鬱になって、何もやる気が起こらない。今までこんなに耳が遠くなったことはないので、どうしようと考え込んでしまう。まだ人生途中だし、やりたいことも山ほどある。ああ困った、困ったと落ち込んでいた。
 さて今朝、耳鼻科へ行って待ち時間の間も色々と考える。どんな検査をされるのか。診断でなんて言われるのか・・・・・・、憂鬱な待ち時間が過ぎ、名前を呼ばれていざ診察。事情を説明すると、耳垢が溜まってないかといわれ、両耳を覗かれる。すると両耳とも耳垢が溜まっているので除去するという。すると見事に聴こえるようになったではないか。その後、耳の検査を受けるが異常はないと言われほっとした。何故なんだというと、小生の耳垢は粘りっけが強く耳掻きでも取れないし、濡れたタオルでも取れない。したがって耳垢が鼓膜の近くに付着して蓋をした状態になっていたという。ということで3ヶ月に一回は耳掃除に来るようにと言うことで一段落付いたのである。しかし、原因が耳垢とはなんとも不衛生と言われそうだが、自分で耳掃除はよくしているつもりではある。でも奥の方でへばり付いている物までは取れない。だから耳鼻科に耳掃除に来るようにと言われ事なきを得た。
 いやはやホントに難聴になったらどうしようと考えていたので気が楽になった。とにかくこれを機にイヤホーンを耳に付けて大きい音で音楽を聴く癖があったが、これから聴く回数を減らそうと思う。また音量を下げるべきであると考えた。年老いていくと聴力は落ちていくものだろうが、せめて聴力を出来る限り現状に近い形で保ちたいから、これからの生活習慣も変えないといけないだろう。
EDIT  |  21:04  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2016.06.05 (Sun)

ブラッド・スウェット&ティアーズを聴く



 もう40年以上前になるがブラス・ロックというのが流行っていた。といっても僅かな期間だが、シカゴだとかチェイスだとかラジオの洋楽ヒットチャートを賑わしていたものである。この時期というのはジャズとロックがお互いすり寄ったというべきか融合しようと試みたのか判らないが、必然的な流れでこういった類いのジャンルが出てきたように思う。エレキギター・サウンドのロックと、ブラス中心のジャズが引っ付いたらこのようになったというものなのか。ジャズ界でもマイルス・デイヴィスが、これではいかんと思ったのかエレクトリックなジャズを演奏しだしたのもこの頃だったかな。もっとも、この頃は小生、あまりジャズに詳しくはなかったので知る範囲ではないが。
 ロック界でも変換期であり、かつてのビート・ポップスから細分化していき、色々と流派が出てきたというべきなのか、この1960年代後半はロック史上において最も輝いていたというか、百花繚乱だったような気がする。もともとはロックンロールが1950年代半ばにアメリカで生まれたが、1960年代になると往年の勢いがなくなっていた。しかし、それらの音楽を聴いて育ったイギリスの少年達から、その後、次々とロックスターが育っていき、新たなロック・ミュージックを生み出していったというのは不思議ではある。
 そういった中からビートルズが出て、ローリング・ストーンズが出て、アニマルズが出てきた。彼等の出現により、やがてロックンロールの元祖であるアメリカの若者達にも波及し、アメリカからも多くのロックミュージシャンが出て来るわけだが、1960年代後半は英米で影響し合って、それこそロック界は花咲いていったものである。でもどちらかという全体的にアメリカ勢はイギリス勢に押されていたという感は拭えない。この時代新たなジャンルのロックを生み出すのもイギリスであり、アメリカが後追いといった時代でもあった。そんな中で唯一、アメリカで勢いのあったのがブラス・ロックというジャンルだろう。イギリスでもブラス・ロックのバンドはあることにはあったが、有名なのはアメリカのバンドだった。日本で1番人気があったのはシカゴであるが、なんと言ってもパイオニア的なブラス・ロックはブラッド・スウェット&ティアーズではないかと思う。
 そもそもアル・クーパーという才能あるミュージシャンがいた。彼は黒人ブルースに影響を受けていて、それまでに在籍したバンド、ブルース・プロジェクトを解散し、1967年新たにブラス・ロックのバンドを結成する。それがなんと8人編成という大編成のロック・バンド。それがBROOD, SWEAT&TEARS(血と汗と涙)である。メンバーはアル・クーパー(ヴォーカル、キーボード)、ボビー・コロンビー(ドラムス)、スティーヴ・カッツ(ギター・ヴォーカル)、ジム・フィルダー(ベース)、ディック・ハリガン(トロンボーン)、フレッド・リプシウス(サックス)、ランディ・ブレッカー(トランペット)、アリー・ウェイス(トランペット)。何と管楽器が3人加わっている。当時としたらフュージョンのバンドかと思われたかもしれない。しかし、やっている音楽は明らかにロックであり、最初のアルバムが1968年2月に発売される。でも当時は斬新すぎて日本ではほとんど知られることはなかった。まだブラス・ロック的な音楽ではなく当時、最先端だったサイケデリック的な音楽だった。これはアル・クーパーの影響力が強かったから当然かもしれない。結局、数ヶ月後にはアル・クーパーと他のメンバーとの意見の食い違いからアル・クーパーがバンドを脱退する。このとき、ブラスセクションの2人も脱退しBS&Tは危機に陥る。仕方なくボビー・コロンビーが中心になってバンドの再構築をはかり、カナダ人のデヴィッド・クレイトン・トーマスをバンド・メンバーに加えたのである。彼は才能あるヴォーカリストであり、ソウルフルな声をしていて、新たなBS&Tの指標が定まったのである。さらにジェリー・ハイマン、ルー・ソロフ、チャック・ウィンフィールドとブラスセクションに3人が加わり、ヴォーカル、ギター、ベース、キーボード、ドラムスにサックス、トロンボーン、トランペット2人というよりブラス色の強いバンドになってしまったのである。こうして9人という大所帯のロックバンドのアルバム2作目として1969年1月に出されたのが『BLLOD, SWEAT & TEARS』であった。
 このアルバムは大ヒット。ビルボードのアルバムチャートで7週間連続1位に輝いたのである。一躍ブラッド・スウェット&ティアーズは有名になり、グラミー賞で三部門で受賞することとなる。日本でもアルバムの中から『Spinning Wheel』が大ヒット。1971年の2月に来日。早速、小生は大阪のフェスティバル・ホールへ聴きに行った。そして、これから外国のロック・ミュージシャンの来日が頻繁になるのであるが、このときの前座が、まだ無名だったテルマ・ヒューストンである。
 ところでBS&Tのサウンドはシカゴよりもロックの要素が低く、ロックよりもブルースぽいしジャズと言われればヴォーカルのあるジャズのように聴こえなくもない(スウィング全盛期にはジャズ・ヴォーカルは盛んだったが)。当時はジャズがフュージョン化してしまい、ロックとの垣根もなくなりつつあったから、BS&Tはジャズ・ミュージシャンにも評価されていたものである。しかし、このBS&TはDCトーマスの発言力が強まりメンバー内で確執があったのか、メンバー脱退、入れ代わり、DCトーマスの脱退、再復帰、色々あり、やがて音楽シーンから消えていった。ほんの5年か6年の間、BS&Tは輝きを放っていたかな。実は小生、同じブラス・ロックでもシカゴよりBS&Tの方が好きだったのだが、小生の周囲はハード・ロック信者ばかり。シカゴまでは聴けるがBS&Tはオジン臭い音楽と言われ揶揄されていたことを思い出す。当時、プログレッシブ・ロックやBS&T
が好きなロック少年って異端児扱いされたものである。

最大のヒット曲『Spinning Wheel』


ややブルース色の強い『And When I Die』


You've Made Me So Very Happpy

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2016.06.04 (Sat)

モハメド・アリ死去

 プロ・ボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリがアメリカのアリゾナ州フェニックスの病院で現地時間3日に亡くった。74歳。外国のボクシングの元世界チャンピオンが亡くなったぐらいで記事にするなと言われそうだが、我々の年代にとってはモハメド・アリというのは特別な意味があった。
 何時の頃だろうか、モハメド・アリの名が出てきたのは。小生が小学生の頃だった。ボクシングの全盛期だったというか、日本ではテレビ局が週三回ボクシングの生中継を行っていた。ちょうどフライ級三羽烏が出てきた頃で、テレビの普及と共にボクシング人気が沸騰していて視聴率も高かったのである。でも当時、日本に世界チャンピオンはいなかった。今と違って統括団体が一つしかなく、階級も11階級しかない時代だから当然、世界チャンピオンの生まれる可能性も低い時代。今のように世界チャンピオンが60人~70人もいる訳ではない。したがって日本は最軽量のフライ級に逸材が揃っていて、盛り上がりがピークに達していた。そんな中で小学生だった小生も1番体重の重いヘビー級チャンピオンが最強であるということは知っていたが、まだ当時、ヘビー級の試合映像など観たこともなかった。一応、新聞とかの記事で世界ヘビー級チャンピオンはフロイド・パターソンだと言うことは知っていた。それがある日、ソニー・リストンがフロイド・パターソンを1RKOで破り新チャンピオンになったということを知ったときの衝撃は忘れない。まだ小学校の低学年だったが、新聞記事の興味あるところは読んでいるガキだった小生は、そのことを今でも覚えている。当時、海外のボクシング中継というのはテレビではなくラジオでやっていた時代であるが、これは日本人が世界タイトル戦を行うときに限り中継するので、外国人同士の試合など中継することもなかった。
 それが、同じ年のことである。世界フライ級タイトルマッチが行われ、ファイティング原田がタイのポーン・キングピッチを11RKOに破り、日本人史上二人目の世界チャンピオンになった。この辺りから日本のボクシング界は異様な盛り上がりを見せるようになった。ちょうど東京オリンピック開催に向け、日本経済が右肩上がりの頃だった。すると東京オリンピック開催の年の1964年の初頭だったか、カシアス・クレイという若いボクサーがソニー・リストンを6R終了TKOで破り世界ヘビー級の新チャンピオンになったという記事を読んだ。そのときの記事では鋭い動きと共に速いフックとストレートを武器にリストンを翻弄したと書いてあったように思う。それも無敗での世界チャンピオン誕生と・・・・・。
 するとクレイは次々と防衛回数を増やし王座に君臨するようになった。初めてクレイの映像を観たのはいつ頃だろうか。65年か66年だろうか。もうこの頃は世界ヘビー級タイトルマッチだけは日本でも例外的に人気があったので、試合の生中継をするようになっていた。初めて観たクレイの印象は背が高いこととフットワークがあることと、パンチにスピードがあること。とにかくクレイの対戦相手はベタ足で動きが遅いのに、クレイは中量級ボクサー並みの動きの速さから的確に速いワンツーを当て、相手が反撃に出ると瞬時にサッと避けるように動く。これを蝶のように舞い、蜂のように刺すと形容された。ビッグマウスで試合前に相手を罵り、付いたニックネームが法螺吹きクレイ。とにかくよく喋る。黙ってなく相手を口で攻撃し怒らせる。こんな選手だった。
 ところがクレイはいつの間にか改名してモハメド・アリと呼ぶようになっていた。それはマルコムXと出会いイスラム教に改宗したからのようだ。またベトナム戦争が激化した頃で、徴兵拒否をしていた関係から、とうとう9度目の防衛を終えた後に世界タイトルが剥奪され、ライセンスも失いリングに上がれなくなっていた。とにかく口が達者で政治を批判しマスコミを罵り、リング外での方が当時は目立っていた。彼は一介のボクサーという括りでは狭すぎるカリスマ性を持っていたように思う。ただしいくらリング外で目立ってもリングには上げれない。アリが不在の間にジョー・フレージャーが世界チャンピオンにのし上がっていた。アリは3年7ヶ月のブランクの後リング界に復帰したが、全盛期を過ぎていて、動きもパンチもスピード往年のものではなかった。ジョー・フレージャーに挑戦したものの動きが鈍く、体重も増えていて15R判定負け。初の敗戦であった。ところがフレージャーが新進のジョージ・フォアマンに2RでKOされ、新チャンピオンの座を譲る。強打のファイターだと思っていたフレージャーを滅多打ちにしてKOしたジョージ・フォアマン。当時の印象からは長期王座の世界チャンピオンだろうという気がするほどの強さがあって、このフォアマンを倒す奴は当分出てこないと思えた。こんな全盛期のフォアマン(当時40戦全勝37KO)にロートル32歳のアリが挑戦したのだった。1974年の10月30日。アフリカはザイール(現コンゴ)のキンシャサで行われ、若くて勢いがあり猛烈なハードパンチャーだったフォアマンが圧倒的有利だった。しかし、試合は思わない展開になる。アリは舞うのをやめ、ロープを背にして顔をガードし、ボディを打たせた。フォアマンにパンチを打たせている間、相手を口で罵っている。それに釣られてフォアマンはさらにパンチをこれでもかというほど打ちまくるが、アリは倒れない。上手くパンチを紙一重の差で交わしきっている。大方の人はアリが3R持つかなと考えていただろうが、アリは序盤を凌いだ。フォアマンは当時、ほとんどの相手を3Rで倒していたほどの強打者だったが、序盤で倒せなかった焦りからスタミナを考えず、相変わらず打ちまくる。だが、空振りが目立つようになりアリの術中に填まっていくようになる。スタミナに陰りが見えてきた8R。フォアマンが息を抜いた瞬間である。アリが一気に反撃した。速いストレートが矢継ぎ早にフォアマンの顔面を三発四発捉えていた。するとフォアマンは回転するようにリングに倒れた。場内は騒然。フォアマンが立ち上がったときはカウント10でアリの右手が上がっていた。これこそ老獪アリの真骨頂だろう。若いときの溌剌さはなかったが戦術で若い強打者フォアマンを倒したのである。これが世にいうキンシャサの奇跡である。この日、小生は大学の講義をさぼって昼間のテレビ生中継を友人と食い入るように観ていたものだ。
 この後、アリは引退をすれば良いのにと思いながらも何故か、引退せず何年間もリングに上がり続け、1981年まで現役だった。もう39歳になっていて、もう哀れというか鋭さの欠片もなく若いときのアリを覚えている者にとっては何時まで醜態をさらすのかという感じでしかなかった。色々と大金が必要だったのか、寄付するために闘っていたとか言われたが、理由はよくわからない。結局、その後遺症が引退してからも残りパーキンソン病となって現れる。1996年のアトランタ・オリンピックでの聖火最終点火者として現れたアリの姿を観た人は驚いただろう。アリは完全に手が震えていた。結局は通算56勝5敗。この5敗は全てカムバック以降のものであり、全盛期のブランクがなければ、成績は少し違っていたかもしれない。ただアリは史上最強ではないかもしれないが、史上最高に偉大なボクサーだといえるかもしれないし印象に最も強く残るボクサーであったといえよう。
 
カシアス・クレイの名でソニー・リストンを破って22歳で世界チャンピオンになった1964年の試合。往年の世界チャンピオン、ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアノ、シュガー・レイ・ロビンソンの姿も見られる。


若きジョージ・フォアマンを倒して再び世界チャンピオンになったキンシャサの奇跡と言われる1974年の試合。このときアリは32歳。


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