2008.06.30 (Mon)
第143回アイリッシュ・ダービー
それで蓋を開けてみたら出走馬は11頭となり、イギリス・ダービー2着のタータンベアラー(Tartan Bearer)、3着のカジュアルコンクエスト(Casual Conquest)、5着のワシントンアーヴィング(Wshington Irving)、6着のアレッサンドロヴォルタ(Alessandro Volta)、10着のカーテンコール(Curtain Call)、11着のフローズンファイアー(Frozen Fire)と6月7日のエプソム・ダウンズのレースの再戦というような形となってしまい、興味がやや失せてしまった。昔だとフランス・ダービー組の遠征があったものだが、最近はフランス・ダービーが2100mに距離を短縮してしまった関係から、フランス・ダービー馬がアイリッシュ・ダービーに出走してこなくなった。
そんなやや盛り上がりが欠いた形で始まった愛ダービーだが、何と最後方を進んだ伏兵フローズンファイアーが勝ってしまった。広大なカラー競馬場の1マイル半コースは、ちょうどエプソムのダービー・コースを右回りに変えたような馬蹄形コースで行なわれるが、長い直線に入り各馬が仕掛けに入るが、後方に構えていたフローズンファイアーが徐々に進出。最後の1furlongを切ってから大外から伸びてきたクールモア・グルーフ゜の勝負服フローズンファイアー。すると前を行く2頭が外にヨレてしまい、さばくのに苦労したがさらに外に持ち出して見事差し切ってしまった。
1着 Frozen Fire 2分31秒9、2着 Casual Conquest 2馬身、3着 Alessandro Volta 短頭、4着 Tartan Bearer 1/2、5着 Curtain Call 2馬身。
勝ったフローズンファイアーはこれで5戦2勝2着1回。グループ・レースの勝利は初めてである。父は日本でも馴染みのモンジュー(Montjeu)で、母はフラミンゴシー(Flamigo Sea)、母の父はウッドマン(Woodman)とヨーロッパで流行の血統で、ドイツ産の競争馬である。なお、調教師のエイダイ・オブライエンはこれでアイルランドのダービーを3連覇したことになる。
2008.06.29 (Sun)
第49回宝塚記念
宝塚記念は春のグランプリともいわれ、春競馬の総決算であるがやはり年末の有馬記念と比較すると盛り上がり欠ける感はぬぐえない。ヨーロッパ競馬で言うならばキング・ジョージⅥ&クイーン・エリザベスSに相当するのだろうか。そういう意味では凱旋門賞に相当する有馬記念と比較するのは無理がある。ただ距離が2200mというのが有馬記念と違うところで、マイラーも挑戦してくるともっと面白くなるのだが・・・・・。
1番人気のメイショウサムソンは予想通りであったが、2番人気にはロックドゥカンブが支持された。これはどういうことなのか、未完の大器としてみんなが期待しているからだろうか。3番人気は菊花賞2着で、このところ地力のついているアルナスライン。4番人気は菊花賞馬アサクサキングスだった。
さあ、宝塚記念独特のファンファーレが演奏され、いよいよスタートが切られた。アドマイヤオーラの出が悪いが、まずまずのスタートである。正面スタンド前を通過して先頭に立ったのはエイシンデピュティであった。2番手にロックドゥカンブ、3番手にインコースをついてインティライミ、その外にカンパニー、5番手にアドマイヤフジ、6番手にアサクサキングス、7番手にサクラメガワンダーとアルナスラインがつけて、その後にメイショウサムソンである。そして、エアシェイディ、アドマイヤオーラ、フォルテベリーニと続き、ドリームパスポートがいて、1頭だけ3、4馬身離れてアサカディフィートが最後方の位置。いよいよ3コーナーにかかろうというところ800のハロン棒を通過。メイショウサムソンが外を通ってじわじわと上がって行く。4コーナーにかかるあたりアサクサキングスが外から前の2頭に並び掛ける。阪神の内回りは直線が短いので、各馬が仕掛けに入ろうとしている。先頭はエシインデピュティ、ロックドゥカンブ、そしてアサクサキングスが並んで先頭。その直後にメイショウサムソン、さらに外からエアシェイディ、ドリームパスポートも上がってくる。いよいよ直線コース。先頭はエイシンデピュティ、2番手にインティライミとアサクサキングス。メイショウサムソンは少し動きが重い。あと300m、エイシンデピュティはまた伸びようとしている。アサクサキングスは脚色が鈍ったか・・・。ここで変わってメイショウサムソンが伸びてきた。内からインティライミもやって来る。先頭はエイシンデピュティ、2番手にインティライミとメイショウサムソン。だがゴール直線、メイショウサムソンがさらに脚色を伸ばして肉薄する。でも僅かにエイシンデピュティが逃げ切った。
1着エイシンデピュティ 2分15秒3、2着メイショウサムソン アタマ、3着インティライミ クビ、4着サクラメガワンダー 1馬身1/2、5着アサクサキングス 1馬身1/2。
アルナスラインは10着でロックドゥカンブは故障したのか直線でズルズルと後退し、入線後に岩田騎手が下馬をした。大事に至らなければいいが・・・・・・。
エイシンデピュティは、これで今年の重賞勝利が3勝ということになるが、最近の充実振りはどうだ。4歳までは条件馬で、昨年の春から馬が勝味を覚え、オープンに昇格。そして、遂に宝塚記念を勝ち6歳にしてようやくGⅠウイナーとなった。
これで通算27戦10勝。鞍上の内田博幸騎手はテン乗りで見事に勝利した。南関東公営で3000勝を記録した名騎手であるが、JRA入りしてからは初めてのGⅠ勝利となった。
それにしても今年は種牡馬フレンチデピュティの当たり年なのか。春の天皇賞のアドマイヤジュピタといい、桜花賞のレジネッタといい、今回のエイシンデピュティといい、フレンチデピュティの仔が大活躍である。またノーザンダンサー系の復活がなるのかどうか、サンデーサイレンス系もうかうかとしておれなくなった。
2008.06.29 (Sun)
紫式部という人は・・・・・
『源氏物語』というと、平安の才女・紫式部が書いた54帖(桐壺、空蝉、夕顔など)からなる大長編小説であり、これだけ古い時代に、このような大巨編小説が存在したというのは、世界でも類を見ないという。
この話は、帝の御子であるのに源氏という臣下という低い身分に落とされたうえ皇位継承権をも失った皇子(光源氏、紫の上)の王権復活の物語で、平安時代の王朝貴族の絢爛たる華やかな世界を背景に描いている物語である。
ところで『源氏物語』を書いた紫式部という女性は一体どんな人だったのだろうか・・・・・。これはあまりにも古すぎて謎だらけである。本名も不明なら生年も没年も判っていない。だからありとあらゆる文献、資料から凡そ推測すると979年頃の生まれで1016年頃に亡くなったのではないかといわれている。すると『源氏物語』を完成させたのが30歳前後ということになる。(生年については970年説、978年説があり、没年にしても1014年説、1017年説がある)
越後守藤原為時の娘で母は摂津守藤原為信女と記述がある。幼少期に母を亡くし、兄弟もいたというが明確ではない。幼少の頃から天才肌の女性で、漢文を読みこなし『源氏物語』以外にも『紫日記』『紫式部集』が彼女の作であると伝えられていて、998年頃、山城守藤原宣孝と結婚。賢子(かたこ)を儲けたがまもなく藤原宣孝と死別。その後、一条天皇の皇后・中宮彰子に女房兼家庭教師(この女房とは王朝・貴族に仕える人のこと)として仕えた。つまり、この頃に『源氏物語』を書いていたものと思われる。でも時代が1000年も前で、ましてや当時の女性というのは、男性よりも扱いが軽かったので記述としては謎だらけである。一般的に呼ばれている紫式部という名称も、『源氏物語』の作中人物が『紫の上』であり、父が式部大丞だったことに由来するのであり、女房名は藤式部であった。でも1000年経ってもこのように色々と話題になるということは、よほど『源氏物語』が歴史的に見ても優れた文学作品であるということなのだ。ところが現在の我々、大方の人がこの『源氏物語』の一端を触れることも無く手に取ることも無い。つまり分量といい難しさといい、1000年前の女性がよくぞここまで書いたなあとは思う。
ところで紫式部が『源氏物語』を書いたのは石山寺ともいわれるし、石山寺で構想を練ったとか、思いついたとか言われるが、これも定かではない。でもおそらく物語の大部分は本人の邸宅で書いたのではないだろうか。そういえば京都御苑の東側に寺町通が南北に走っているが、その通りに面したところに『ろ山寺』(ろの漢字が変換されないので仮名で書きます)があり、この寺は紫式部邸の址に建立された寺院である。
紫式部邸址に建立された『ろ山寺』の庭。正面から眺めたところである。紫式部もこんな風景を眺めていたのであろうか・・・・。

角度を変えて眺めてみた。通称『桔梗の庭』『源氏庭』と呼ばれ、今の季節はちょうど桔梗が咲いている。

北大路堀川を下がったところに紫式部の墓がある。現在の敷地は島津製作所の一部にあり、堀川通に面している。私が訪れた時は、ちょうど観光バスがやって来て、中からバスガイドに連れられた観光客が、どっと墓の中にやって来て、バスガイドの説明を聞くや写真を各自撮りまくってさっさと帰っていった。

紫式部の右隣には小野相公(おののたかむらの事)の墓がある。この人は平安初期の歌人で役人、学者であり、書家の小野道風の祖父にあたり、小野小町との関係でも祖父に当ると伝えられている。
~わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣船
この歌で有名な人である。

2008.06.28 (Sat)
ルノワール+ルノワール展に行く

京都国立近代美術館で催されている『ルノワール+ルノワール展』に行った。http://www.ytv.co.jp/event/renoir/index.html
このところ美術展なんてご無沙汰なのだが、珍しくルノワールなんて余りにもポピュラーな画家の展覧会に行ってしまった。当初、行くつもりなんて皆目なかったのである。
実は私の職場に1人私と同様に美術に興味を持っている者がいて、時々、そういった話をすることがある。彼は自身でも絵を描いていて、よく絵画コンクールとかに自作の絵を出展している。それで佳作程度の入選を繰り返しているが、彼が言うにはルノワールの絵を今さら観にいきたいとは思わないといった。それは私も同感であって、何を今さらルノワールだという思いがあった。
それこそ印象派の画家ルノワールの展覧会なんて、過去にどれほど日本で開催されたことか、それに日本の美術館が大枚を叩いて買って来ては、美術館の目玉にしているところだってある。だから日本で公開されたことの無いルノワールの絵画はだんだんと少なくなっている。おそらく運搬が無理なほど大型の作品以外は、ほとんど日本の美術館で一度は展示されたことがあるのではないだろうかと思ってしまう。だからルノワールの絵には少々、食傷気味で、またかという気がしないでもない。では、なんで行ったのだと問われると困ってしまうが、それはルノワール+ルノワールという展覧会のタイトルに惹かれたからとだけ言っておこう。つまり有名な画家であるピエール=オーギュスト・ルノワールと、もう1人のジャン・ルノワールという映画監督に焦点があてられていたからである。
日本の多くの絵画ファンはオーギュスト・ルノワールが大好きだ。特に女性はルノワールの絵が好きなようだ。今回の展覧会も予想通り多くの人で埋まっていて、半数以上は女性だった。でも彼の息子がフランス映画界の巨匠ジャン・ルノワールであるということを、どれだけの人が知っているのだろうか。父が日本で有名すぎるぐらい有名な画家であるのに対して、その息子の映画監督となると、今時は知る人ぞ知るぐらいだろう。
あいにく私は美術も好きだが、映画も好きなので、ジャン・ルノワールの映画はよく観たものである。おそらくフランス古典映画の5大監督の1人であるといわれると驚くかもしれない。ジュリアン・デュヴィヴィエ(『望郷』『舞踏会の手帖』『巴里の空の下セーヌは流れる』)、ジャック・フェデー(『ミモザ館』『女だけの都』)、マルセル・カルネ(『霧の波止場』『悪魔が夜来る』『天井桟敷の人々』)、ルネ・クレール(『巴里の屋根の下』『自由を我等に』『巴里祭』)と並んで戦前から活躍した映画監督として、ジャン・ルノワールは高い評価をされていたのである。だから父ルノワールの名声を借りなくても立派に知れ渡っていなくてはならない巨匠なのであるが、戦後のルノワールの映画は高く評価されず、今の映画界にあっては忘れられた存在と言ってもいいだろう。だから今回、父オーギュスト・ルノワールと一緒に息子ジャン・ルノワールがクローズアップされたことは喜ばしい限りである。
ただ今回の展覧会は、オーギュスト・ルノワールの日本初公開の作品が何点か含まれているものの展示作品が50点ほどと少なく、ボリューム感の無い展覧会であったが、著名な『田舎のダンス』なんて作品も展示してあった。ただいえる事は、もうルノワールの絵は見飽きているといえばルノワールのファンに失礼であるが、個人的にはルノワールの絵はあまり好きではない私からすると、何度観ても新しい発見は無く、流形的な筆触によって描かれた柔らかいフォルムを眺めていると、心が癒されるもののこれといって感動はなかった。それにオーギュスト・ルノワールの絵画の展示スペースの間に、ジャン・ルノワールの撮った映画のシーンが映されていて、人でごった返すギャラリーの中では異彩を放っているものの浮いている印象があって、企画としては失敗ではなかったかと思う。今まで絵画の間に映像が流されていた展覧会など、あまりお目にかかったことが無く、また多くの人は残念ながらジャン・ルノワールの映画にはあまり興味を示さない。
つまり対象となる映画が古すぎて、今日ではジャン・ルノワールの映画を熱心に観たことがあるという世代は65歳以上ということになってしまう。そもそもジャン・ルノワールという映画監督がいたことさえ知らない人が多いのに、何を今さら『女優ナナ』『ラ・マルセイエーズ』『大いなる幻影』『ゲームの規則』『フレンチ・カンカン』『河』『草の上の昼食』だといいたくなる。
画家ルノワールの次男ジャン・ルノワールは、1894年に生まれた。つまりオーギュスト・ルノワール54歳の時の子供ということになる。第一次世界大戦の時、参戦療養中にチャップリンの映画を観て影響を受け映画監督を志し、無声映画の頃から映画を撮り始める。やがて1937年に発表した『大いなる幻影』で一躍有名になり、最近では1939年に撮った『ゲームの規則』の評価が高く、世界映画史上屈指の名作といわれている。
このようにフランスやアメリカで、父ルノワールの名前を抜きにしても超一流監督であるジャン・ルノワールが、今日、日本で知る人が少なくなったというのも何だか寂しい。今回、父の絵とコラボレーションという形で紹介されたが、これをきっかけにもっと知れ渡って欲しい映画監督である。
とにかくイタリアのネオ・リアリズムを始め、世界中の映画作家に影響を与えているフランス映画の巨匠なのであって、かのフランソワ・トリュフォーが師と仰ぐほど慕っているのだから、その繊細な作品作りは父の遺伝子を受け継いでいるとも思える。ただ、戦後に忘れられた存在となってしまったジャン・ルノワール。時代のテンポについていけなかったのか、古色蒼然とした映画を1950年代になっても作っていた。その後、フランスに帰らずアメリカで1979年まで生きていたのだから、最近の人なのである。
これを期にジャン・ルノワールの評価が再び、日本でも高まるといいのだが・・・・・・・。父オーギュスト・ルノワールの話は今さら何も語ることがないので割愛します。
2008.06.25 (Wed)
長時間通勤の果てに
次の電車まで15分待たないといけないのだ。ここは田舎の駅なので帰宅ラッシュ時でも1時間に4本しか電車が停まらない駅である。するとしばらくして駅構内にアナウンスが流れる。「京都、大阪方面の電車をお待ちのお客様にお断りを申し上げます・・・・・」
ドキ、嫌な予感がする。「本日、午後2時頃、加古川駅付近で人身事故が発生いたしましたので、どの電車も定刻よりも10分から15分程度遅れて運行しております・・・・」
嫌な予感は的中した。とにかくJRは3日に一度は人身事故で電車が遅れている。それも昼間に遥か西方の播州で起こった人身事故なのに、夕刻になってもダイヤが挽回できずに遅れている。そのおかげ何時来るかも判らない電車を待ち続けて数10分。ようやく米原発、網干行きの223系車両の普通電車が到着した。すると車内は混んでいる。米原から播州の網干まで運行している普通電車(高槻~西明石間は快速)なのだが、この間の距離は約200㎞。通勤電車がこんな長距離を走らなくてもいいのにとも思うけど、これがJRの方針なのだろう。でも以前、通勤で乗っていた阪急電車なんてほとんど遅れたことが無かった。なのにJRは毎度の事ながらよく遅れる。本音を言えば乗りたくない電車である。でも並行して私鉄が走っている京阪神と違って、JRに頼るしかない田園地帯まで毎日通っている身分であるからして、乗らない訳には行かないのが辛い。だからこうして電車が遅れ様とも、我慢して毎日、乗っているのだが、快速を増便するとか普通電車との連絡をスムーズに行なうとか出来ないのかと思う。
とにかくJR西日本は京阪神間の電車は頻繁に運行させているのだが、京都から外れていくと途端にローカル線並みのダイヤしか組んでいないから困る。朝なんかでも京都までは321系の通勤用車両を走らせているのに、京都からはサイドシートの通勤用車両は一両も走っていない。
運行の本数も激減だし、快速も普通電車並みに各駅に停まるし、おまけに田舎だから駅間距離が長い。それでいて人は大勢乗っているのだが・・・・・・・・・。ああ、毎日、この調子だと体が持たないなあ。何時まで続くことやら、超満員の電車に乗って通勤していた時も通勤地獄だと思ったが、今度は通勤時間が長く、別の意味で通勤地獄である。
やはり仕事をするにおいては職住接近が理想であるとつくづく思うようになった。
いつも乗っている223系電車
2008.06.23 (Mon)
シューベルト ピアノ五重奏曲『鱒』を聴く

シューベルトのピアノ五重奏曲 イ長調 D.667『ます』という曲がある。編成はヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コンラトラバスの弦楽にピアノが加わるので五重奏曲なのである。全5楽章で第4楽章に有名な歌曲『鱒』の旋律を含んだ変奏曲が組み込まれているので、通称『鱒』という名称で呼ばれている室内楽曲である。
そもそも歌曲の『鱒』が作曲されたのは1817年、シューベルトが20歳の時で、その2年後の1819年、22歳のシューベルトは友人で歌手のフォーグルにしたがって北オーストリアのシュタイル地方を旅行した。そこはフォーグルの故郷であり、ほど近いリンツには、大勢の音楽好きがいて、都合がよければモーツァルトの生地ザルツブルクまで足をのばそうという計画であった。フォーグルは早くからシューベルトの才能を認めていて、出来るだけの機会を利用してシューベルトを世に出すように務めていた。この頃、フォーグルは既に当時で一流の声楽家であった。フォーグルは背の高い美男子の声楽家で、一方、シューベルトは背が低く猫背の眼鏡をかけた風貌の冴えない男であった。このように何ともつりあいのとれぬ2人連れが北西オーストリアを旅していたのである。
7月13日にシュタイルの町に着いていて、この町を出発したのは9月15日だったという。この間、2人はシュタイルとリンツを訪れ大歓迎を受けたという話が伝わっている。昼間は音楽好きの人々に取り囲まれピクニック、夜は2人の演奏が行なわれ拍手喝采であった。
さて、この旅行中、彼らはジルヴェスター・パウムガルトナーという鉱山業者にたいへんお世話になった。パウムガルトナーは音楽が好きでチェロも巧に弾きこなし自宅で音楽の集いをたびたび開催していた。そんな折、パウムガルトナーはシューベルトが作曲した歌曲『鱒』を大いに気に入っていたので、これを主題とする変奏曲をつくるようにすすめたという。でもこの話は、最近では眉唾ものだろうと言われている。
とにかく歌曲『鱒』の作曲から2年後の1819年にピアノ五重奏曲『鱒』は作曲された。この曲は22歳の若きシューベルトが、空気の清澄な土地で人々から愛され、何の心配もなく暮らすときには、人生の美しい側面しか見えなくなり、全てが楽しい美しいものになる。結局、この生活感情をのこるとこなく表現したのがこの曲である。第1楽章はアレグロ・ヴィヴァーチェ。古典的ソナタ形式によって、63小節まで第1主題、その後、113小節までが第2主題、それ以下がコーダである。第2楽章はアンダンテ。ピアノが前面に出てくる楽章で、ABABという簡単な歌曲形式をもって成立する楽章である。第3楽章はスケルツォで、楽章の途中に何度か転調するのが特徴である。第4楽章が主題と変奏である。この楽章に歌曲『鱒』の旋律が主題としてヴァイオリンで奏でられ、ヴァイオリン以外の弦楽器が伴奏する。変奏に入ってからはピアノ、ヴィオラと続き、チェロとコントラバスが彩を加え、何とも美しい旋律である。第5楽章はアレグロ・ジュストである。ソナタ形式なのかロンド形式なのかよく判らない。でもフィナーレらしい楽章であり、シューベルトが5楽章形式の室内楽曲を何故、作曲したのか判りかねるが、モーツァルトのセレナーデやディヴェルティメントが多楽章だったことを思えば、シューベルトがモーツァルトを意識していたのではないかとも思える。いずれにしても若き日のシューベルトが、如何にメロディメーカーだったかを窺える楽曲である。とにかく何かと鬱陶しい今の季節。シューベルトのこの曲を聴いていると実に涼しげである。
ピアノ五重奏曲『鱒』の第4楽章、主題と変奏を演奏する仲間達。しかし貴重な映像である。チェロが若くして急逝した天才女性チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレ。ピアノがジャクリーヌ・デュ・プレの元夫で、前シカゴ交響楽団音楽監督、現ベルリン国立歌劇場音楽監督のダニエル・バレンボイムである。
2008.06.22 (Sun)
マーメイドS
マイペースで逃げたピースオブラヴが逃げ込み寸前のところ、先頭に踊り出たのは最軽量ハンデ(48kg)のトーホウシャインだった。人気も最低で勝ち時計も2分03秒5と平凡。なお、勝ったトーホウシャインの高野容輔騎手は重賞初勝利だそうで、おめでとうといっておこう。
1着トーホウシャイン 2分03秒5、2着ピースオブラヴ 1馬身1/4、3着ソリッドプラチナム 1馬身1/4、4着ブリトマルティス 3馬身、5着ベッラレイア 4馬身。
勝ったトーホウシャインが12番人気なら2着のピースオブラヴも10番人気で、荒れてしまったが、この馬場なら在りうることでけして驚かない。これがヨーロッパなら馬場悪化で出走を見合わせるといったこともあるのだが、日本では一旦、枠順が決まると故障でもしない限り、まず出走してくる。でもこれからは、どうしようもない馬場になると出走を取り消してもいいのではないかと思う。ただファンにとっては物足りなくなると思うが、公正な競馬を行なうならこのような方法を今後、取り入れてもいいと考える。
2008.06.22 (Sun)
梅雨に入って
梅雨は太古の昔から日本にはあるものだが、最近はどうも男性的な雨の降り方が顕著になってきたのではないかと思う。それはこのところの気候温暖化の傾向により、雨の降り方まで降る降らないがはっきりしてきたのではないだろうか。だから降る時の雨の量というのは半端じゃない。つまり集中豪雨というもので忽ちのうちに河を氾濫させ家屋を浸水させてしまう。だからこのところ梅雨というと、日本のどこかで必ず水害が起こってしまう。それでも全体の年間降雨量というのは50年ぐらい前に比べて減少傾向にあるようだから渇水の方が心配なのだ。
年間降雨量は京都で1500余㎜、大阪で1300余㎜程度である。でもこの20年間のデータでの話で、それ以前の降雨量というのは、この数字よりも弱冠多かったようだ。つまり梅雨の降水量もやや減少傾向にある。だから梅雨と言っても毎日降っている訳でもなく、晴れ間が多く、この晴れ間を昔は五月晴れと言ったものである。そして梅雨のことを五月雨(さみだれ)とも言った。そういえば松雄芭蕉の句に・・・・・五月雨を 集めて早し 最上川・・・・・というのがあった。旧暦では今の6月が皐月だったので、五月雨が梅雨にあたることになる。すると時々、若い天気予報官が五月の快晴の日に「五月晴れです」なんてトンチンカンなことを言っているのを聞くが、五月晴れというのは、まさに梅雨の合間の晴れを指すのだから旧暦と新暦を混同して喋っているなあと感じるが、これもご愛嬌か・・・・。
この季節、日本では冷たい空気を運んでくるオホーツク海気団と南部から暖かい湿った空気を小笠原気団がちょうど日本列島の上空で衝突して押し合いへし合いを行なう。これによって梅雨前線が発達し停滞することにより梅雨が起こるのであるが、どうもこのところ異常気象の傾向が見られ、その梅雨前線が毎年、弱かったり強かったりで空梅雨になったり梅雨が延びて冷夏になったり、とにかく毎年、梅雨と言っても状況が違う。でも総体的には温暖化の影響からか男性的な梅雨が増える傾向にあるようだ。これも人間が産業革命以来、利便性を追求してきた反動によるものだから人間が自分で自分の首を絞めているともいえる。だから誰にも文句は言えないし、気候の変動まで人間は調整できないので、ただ異常気象の起こるがままに身を委ねるしかないのかもしれない。
今年は今のところ、例年通りの梅雨なのか、それとも長い梅雨になるのか判らない。まさにこの時期に咲く紫陽花のように、毎年、梅雨の傾向は七変化する。紫陽花は気温や湿度によって色がよく変わる花で知られているが、正岡子規がこのように表現している。
紫陽花や きのふの誠 きようの嘘
紫陽花は毎日、観察しているととにかく色が変化しているし、時間帯によってもよく変わる。まさに最近の梅雨の傾向と似ている。空梅雨かと思えば一転して豪雨が続くし、局地的にも天候が異なる。それこそ変化の激しい紫陽花のように、本当に気象予報士泣かせの最近の梅雨である。だから紫陽花の花言葉は「移り気」なのかもしれないが・・・・・・・・・・。
2008.06.21 (Sat)
小林多喜二『蟹工船』を読む

最近は小林多喜二の『蟹工船』が異様に売れているという。何で今時と思うけども、そういう時代なのかもしれない。この小説は1929年(昭和4年)に書かれたもので、今から79年前の作品である。それが何故に最近、読まれだしたかというと、昨今の雇用問題と密接に関係しているようだ。
『蟹工船』とは蟹を獲りそれを缶詰にまで加工する工場船のことであり、大正時代、昭和初期には多くの出稼ぎ労働者がこの船の閉鎖空間で働いていたものである。当時、貧しかった日本の労働者は、農閑期によく出稼ぎ労働者として働きに出たものであるが、大手資本企業の持つ蟹工船『博光丸』にも400人からの労働者が乗り込んでいた。彼らは概ね秋田、青森、岩手から来た百姓の漁夫で、中には炭鉱の工夫をやっていた時に爆発事故に遭遇し、命からがら逃げてきた者もいるし、北海道の奥地の開墾地の土工部屋へ蛸として放り込まれた者もいた。でも何処へ行っても騙されて低賃金で酷使され搾取され続け不当な労働条件を強いられていたものである。それで、この蟹工船の中でも同様な憂き目に遭っていたことには変りはなかった。
蟹工船『博光丸』は、函館を出て大波のカムチャッカ沖に入りロシアの船が監視する中でも操業をしていた。蟹工船の労働者達は浅川と名乗る漁業監督にそれこそ不当に仕切られていた。浅川は棍棒を玩具のようにグルグル廻しながら船の中を歩いていた。現実問題としてこの船を動かしているのは船長であるが、船の持ち主の企業から送られている浅川は船長以上に権力を握っていた。或る日、隣を走行していた秩父丸がSOSを発信したが、救援に向おうとした船長を怒鳴りつけて、「秩父丸には勿体ないほどの保険がつけてあるんだ。ボロ船だ、沈んだらかえって得するんだ」といって救援を阻止した。
蟹工船はどれもこれもボロ船で、労働者が北オホーツクの海で死ぬことなどは、船の持ち主である会社の重役にとってはどうでもいいことであった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって金がダブついてくると、どんなことでもするし、どんな所へでも行った。船一艘で莫大な利益が見込めるのだから企業の幹部達が血眼になるのも判るような気がするが、その底辺に低賃金で酷使されている社会の末端の労働者がいることは明らかであったが、彼らにとってはどうふでもいいことだった。蟹工船は工船なので航船ではない。だから航海法は適用されなかった。だから日露戦争で使われた病院船や運送船が、再びペンキを塗られ、蟹工船として使用されていた。
蟹工船に乗り込んでいる労働者達は、船底の糞壺と呼ばれるところで寝起きし、当然のように搾取されていた。一方、監督の浅川は漁夫を尻目にやりたい放題だった。そもそも蟹工船の漁夫を雇う時には細心の注意を払われ、募集地の村長や署長に頼んで模範青年を連れてくるというのが条件であった。その中には労働組合などに関心のない、いいなりになる労働者を選ぶことで、万事好都合に事を成し遂げようというのが資本家達の考えであった。だが、蟹工船に乗り込んだ労働者たちは、不当な扱いと蛸壺のような労働条件に業を煮やし、とうとう脚気で苦しんでいる仲間が死んでしまったのを期に、彼らはストライキを決行する。
しかし、帝国海軍の駆逐艦がやって来て彼らの代表は鎮圧されてしまう。帝国海軍の軍艦は国民の味方ではなく、資本家の味方だったのである。ストライキを扇動した9人が銃を持った軍人に連行されてしまった。彼らは「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」呼ばわりされ、「ざま、見やがれ」と浅川に罵倒されてしまった。帝国海軍なんて、大きな事をいったって大金持ちの手先でしかなかった。国民の味方ではなかった・・・・・・・。でもこのまま仕事していたのでは、今度こそ本当に殺されると感じた労働者は再び立ち上がるのであった。今度は9人の代表に任せるのではなく、全員でストライキをやればいい。そうすれば監督も慌てるし、この時こそ力を合わせて一人も残らず引き渡されよう・・・・・・。こうして400人の労働者は立ち上がる。
以上が、大まかな『蟹工船』のあらすじである。
蟹工船の書かれた時代と今とでは、日本人の一般的な生活水準が違うのは当たり前だが、現在の日本社会を見渡してみると、この小説が売れる要素が何となく判るような気がする。
企業は正社員採用をやめ、非正社員という雇用条件で会社を運営しだしてかれこれ何年になるだろうか。それ以来、契約社員、派遣社員が増え、低賃金で働かされ、企業は余った人件費で成長し肥えていく。それでいて増税につぐ増税、原油価格の上昇による物価の上昇。それでいて何の政策もなく、年収が200万に満たない者が増加する一方で、弱者虐めの消費税率引き上げを平然と掲げる政治家達。
生活苦から自殺する者が増加する世の中でありつつも、一向に明かりが見えてこないこの世の中。結局、時代が違えどもどこか昭和初期の貧しい時期と重なる、今のどうしようもない斜陽国家・日本。はたして将来が展望できるのかさえ怪しい現実に、この『蟹工船』の物語は何故か受けるのかもしれない。でもプロレタリア文学といわれた小林多喜二の『蟹工船』が、今後の日本の将来を暗示しているとすれば、今の日本と酷似しているというだけでは済まされない気がするが・・・・・。
2008.06.19 (Thu)
クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのアルバムを聴く『デジャ・ヴ』

この長い名前のグループは1960年代末期から1970年代初頭にかけて活躍した。結成は1969年で、バッファロー・スプリングフィールドにいたスティーヴン・スティルス、バーズにいたデヴィッド・クロスビー、ホリーズにいたグラハム・ナッシュの3人が集まってクロスビ゛ー、スティルス&ナッシュという名前でスタートした。そして早速、1969年8月のウッドストック・ロック・フェスティバルに出演し、この時は『青い目のジュディ』を唄い好評を博し、美しいハーモニーを披露した。その後、バッファロー・スプリングフィールドに在籍したニール・ヤングが加わりクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングという名前に成り、このアルバム『デジャ・ヴ』を1970年3月にリリースしたのである。
この通称CSN&Yの『デジャ・ヴ』は才能のある4人の個性が集約された名盤で、発売されるや爆発的に売れたのである。収録曲は『Carry On』『Teach Your Children』『Almost Cut My Hair』『Helpless』『Woodstock』『Deja Vu』『Our House』『4+20』『Coutry Girl』『Everybody I Love You』の10曲で、冒頭の曲『キャリー・オン』はスティーヴン・スティルスの作で、アコースティック・サウンドとエレキ・サウンド混合の名曲で彼らのハーモニーがフルに発揮される。『ティーチ・ユア・チュールドレン』『アワ・ハウス』は何れもグラハム・ナッシュの曲で、『ティーチ・ユア・チュールドレン』は映画『小さな恋のメロディ』にも挿入された優しい曲である。『オールモスト・カット・マイ・ヘアー』『デジャ・ヴ』はデヴィッド・クロスビーの作になり、『ヘルプレス』はニール・ヤングの曲で、映画『いちご白書』の中で使われていた。ニール・ヤングの甲高い声が少し気になるが、印象に残る曲である。このように彼ら4人の曲が集合し完成したアルバムが『デジャ・ヴ』で、唯一、『ウッドストック』はジョニ・ミッチェルの作である。でもCSN&Yが演奏した、このアルバムに入っている『ウッドストック』が映画『ウッドストック』のタイトル曲に使われたのである。
このように4人の名前をくっつけただけのグループ名を持つクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングは、或る時は集まってある時はソロで活動するというグループのようなセッションのようなグループであった。要は仲間同士で何かをやりたい時は集まって、ソロでやりたければ各自勝手に活動をする。つまり縛られるのがきらいな連中がお互いの個性をぶつけるのには、このような関係でいる方が音楽活動を末永く続けられるのかもしれない。だからグループは解散したというのでもないが、1970年代中頃にはグループの活動を停止している。実際にはニール・ヤングは一年ほどの在籍期間だっのであるが、その後、CSN&Yとしては1988年と1999年にアルバムを発表している。結局、グループというよりも気心の知れた音楽仲間が忘れた頃に集まって曲を発表できればいいと、そのようなグループがクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングなのかもしれないが、彼らが影響を与えたミュージシャンは数多く、レッド・ツェッペリン、イーグルスらもその中に入るのであり、CSN&Yは活動期間も短く、実態のつかめないグループであるがロック史上に名を残すグループであることは確かだ。
『青い目のジュディを演奏するクロスビー、スティルス&ナッシュ
『ヘルプレス』を演奏するクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングとジョニ・ミッチェル
2008.06.17 (Tue)
ルイ・マルの映画を観る・・・・・『死刑台のエレベーター』
監督 ルイ・マル
出演 モーリス・ロネ
ジャンヌ・モロー
ジョルジュ・プージュリー
リノ・ヴァンチェラ
ヨリ・ヴェルタン
ジャン=クロード・ブリアリ
【あらすじ】ジュリアン・タベルニはフロランス・カララ夫人の夫が社長を務めると土地開発会社の技師であったが、彼はフロランスと通じていた。それで邪魔な社長を殺す完全犯罪を目論んでいた。ジュリアンは自殺と見せかけるように殺したが、社内で殺した帰途、残してきた証拠に気づいて再び現場へ戻ろうとする。ところが運悪くエレベーターに乗り込んだものの週末で電源を落とされてしまい、エレベーター内に閉じ込められてしまう。しかも会社の前に停めていた車は若いカップルに無断で使われてしまう。しかも車を盗んだ彼らも犯罪を犯してしまう。こうして物語は思わぬ方向へと進んで行く。
この映画はノエル・カレフの犯罪小説が原作であり、フランスの巨匠ルイ・マルの劇映画デビュー作品である。それもルイ・マルが25歳の時に撮った作品で、ヌーヴェル・ヴァーグの初期作品であるとも言われる。ヌーヴェル・ヴァーグとは新しい波という意味のフランス語で、その頃にフランスで吹き荒れた映画運動のことである。
そもそも映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者アンドレ・バザンの薫陶を受けて、同誌で映画批評をしていた若い連中たちが、やがて自ら映画を撮り出し、それらの映画を一般的にヌーヴェル・ヴァーグと呼んでいるのである。
ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』も広義においてはヌーヴェル・ヴァーグに当てはまるかもしれないが、ゴダールやトリュフォー、エリック・ロメール、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、クロード・シャブロル等の同時代の監督とは異なっていて、ルイ・マル自身は『カイエ・デュ・シネマ』には属さない独自の監督なのである。でもジャンヌ・モローだとかジャン=クロード・ブリアリなどヌーヴェル・ヴァーグ作品によく出演する俳優を使うのでヌーヴェル・ヴァーグ運動に参加している映画監督とも思われているようだ。また、実際にフランソワ・トリュフォーはルイ・マルの作品『地下鉄のザジ』にインスパイアされたとも言っているし、人脈ではヌーヴェル・ヴァーグ一派と重複している関係からルイ・マルもヌーヴェル・ヴァーグ的な要素を含んでいる監督と言ってもいいかもしれない。
この『死刑台のエレベーター』は、大人の情事の果てに起こした殺人事件と、パリの無軌道な若者が引き起こした殺人事件の2つが同時進行するが、全編、マイルス・デイヴィスの即興演奏が流れ、モノクロの映像と相成って、パリの街を彷徨い歩くジャンヌ・モロー・・・・・・・。
映像も洒落ているが、それ以上に効果を上げているのがマイルス・デイヴィスのトランペットである。ルイ・マルはジャズが好きで、映画のBGMにジャズを流してみたいと考えていたようだが、運よく三週間のヨーロッパ・ツアーに来ていたマイルス・デイヴィスに声がかかったという。それで、マイルス・デイヴィスは話をもらってから、興味を惹かれたらしく、すぐに編集前のフィルムを幾つか見せられたという。そして、試写から2週間後にレコーディングされたのである。
レコーディングはポスト・パリジャン・スタジオで行なわれ、セッションのメンバーはマイルス・デイヴィス、バルネ・ウィラン、ルネ・ユルトジュ、ピエール・ミシェロ、ケニー・クラークであった。レコーディング・セッションにはジャンヌ・モローも顔を出し、リラックスした雰囲気の中で行なわれ、4時間で終わったという。こうしてフランス映画とジャズの融合がなされた。当時としてはとても斬新な全編ジャズの即興演奏だけで、その他の音楽は一切無し、またアメリカ映画ではなく、フランス映画だったというのも実に面白い。それもこの映画が事実上の監督デビュー作品で、それも25歳という若さだったルイ・マルである。まさに彼は才能溢れる若き映画監督だったのだ・・・・・・。
パリの街を彷徨い歩くジャンヌ・モロー。マイルス・デイヴィスの奏でるトランペットが物悲しい。
2008.06.15 (Sun)
今週の競馬の結果(エプソムC、CBC賞)
6月14日の結果から。
東京ハイジャンプ(J-GⅡ・3歳以上、3300m、14頭)
1着テイエムエース 3分37秒1、2着キングジョイ 大差、3着オープンガーデン 2馬身1/2、4着ミヤビペルセウス 1馬身、5着テイエムトッパズレ 1馬身3/4。
6月15日の結果から。
東京 エプソムC(GⅢ・3歳以上、芝1800m、18頭)
1着サンライズマックス 1分45秒9、2着ヒカルオオゾラ 3/4、3着グラスボンバー ハナ、4着トウショウヴォイス クビ、5着マイネルキッツ クビ。
中京 CBC賞(GⅢ・3歳以上、芝1200m、18頭)
1着スリープレスナイト 1分08秒8、2着スピニングノアール 1馬身1/4、3着テイエムアクション 1馬身1/4、4着ウエスタンビーナス ハナ、5着カノヤザクラ アタマ。
2008.06.15 (Sun)
ジェファーソン・エアプレインを聴く

1960年代前半、ビートルズ旋風が吹き荒れ、それによりイギリスのポップ及びロック・グループが大挙してミュージック・シーンに登場した。概してそれらはリバプール・サウンドと呼ばれ、必ずしもリバプール出身のグループばかりではないが、そのように呼ばれていた。それらはまたアメリカの若者に影響を与え、その後、続々とアメリカにも新世代のグループが1960年代中頃から登場してくるのであった。そんな中、アメリカの西海岸サンフランシスコでも、リバプール同様、グループが雨後の筍のように出現した。それらはイギリスのリバプール・サウンドに対してシスコ・サウンドとかサンフランシスコ・サウンドと形容されるのであった。
その頃の主なグループというとグレイトフル・デッド、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、モビー・グレイブ、スティーヴ・ミラー・バンド、ビッグ・ブラザース&ジ・ホールディング・カンパニー、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ・・・・・。そしてジェフーソン・エアプレインがいた。
1967年の初夏に大ヒットした曲があった。『あなただけを(Somebody To Love)』である。
When the truth is found to be lies
And all the joy within you dies
Don't you want somebody to love ?
Don't you need somebody to love ?
Wouldn't you love somebody to love ?
You better find somebody to love, love
イントロが無くパンチの効いた女性ヴォーカルの唄から曲が始まる。 女性ヴォーカリストのグレース・スリックの声がシャウトして、当時、とても新鮮に思えたものである。当時のジェファーソン・エアプレインのメンバーは、マーティン・ベイリン、ポール・カントナー、ジョーマ・ラドウィック・コーコネン、スペンサー・ドライデン、ジャック・キャサディ、グレース・スリックである。
ジェーファーソン・エアプレインは1965年にメンバーが集まり1966年にデビューしたが、当初はさほど有名では無かった。それがオリジナル・メンバーであったシグニ・トリー・アンダーソンに代わり、グレース・スリックが入ったことで音楽に幅が出来、1967年に2枚目のアルバム『シュールリアスティック・ピロー』をリリースしたことにより、挿入曲『Somebody To Love』『White Rabbit』の2曲がヒットしたのである。これにより1967年8月、アルバム『シュールリアスティック・ピロー』は、アルバム売り上げでビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に次いで第2位になり、RIAA公認のミリオン・ダラーLPとなり、ジェファーソン・エアプレインはトップグループとして飛翔するのであった。
その後、ジェファーソン・エアプレインは1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演し全米に名を轟かせ、やがてサイケデリック・ロックと言われる音楽一派の旗頭のような存在であった。さらに当時は泥沼化するベトナム戦争の真っ只中の時代である。またジェファーソン・エアプレインは、反体制メッセンジャーの代弁者としてのグループとして存在性を増し、グループの頂点を迎えるが、1972年にグループが解散してしまう。
しかし新たにメンバーの一部が代わりジェファーソン・スターシップとして活動する。でも現在でも存在するジェファーソン・スターシップというのは解散と再結成を数度繰り返しメンバーも随分と入れ代わっている。もはやサンフランシスコ・サウンドだとかサイケデリック・サウンドだとかいわれ一世を風靡したジェファーソン・エアプレインとは似て非なるものといった趣がある。
『White Rabbit』『あなただけを(Somebody to Love)』を唄うグレース・スリックとジェファーソン・エアプレイン。
モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演した時のジェファーソン・エアプレイン。
2008.06.14 (Sat)
街に出てみたら
何だか制服の警官が何時もより多く、ターミナルにあるゴミ箱が全て無くなっている。それにゴミ箱があったとしても蓋をして使用禁止になっていた。何事だと思ったら、どうやらサミットだという。
今年の主要8ヶ国首脳会議ことサミットは確か北海道の洞爺湖で行なわれる筈だと思っていたのだが、聞く所によるとその前に各地で関連の会議が行なわれるという。それで昨日の13日から今日の14日にかけて大阪の中之島にある国際会議場で財務大臣会合が行なわれているというので、このような取締りが強化されているという。それを聞いて小生は、またまた不愉快になってしまったのだが・・・・・・・・・・。
何だか知らないがどこやら国の財務大臣が集まって会議をするからといって、ここまで取締りを強化しないといけないのだろうか。環状線のあまり人の乗り降りしない駅のホームまで警察官が1人巡回していたではないか。ほとんど人がいない駅だったせいか閑散としたホームで電車待ちをしていた私の横に立ってジロジロ見るから不愉快になってしまった。まさか爆弾でも持っていると思っているのではないだろうな。こちらはいたって善良な小市民であるからして、秋葉原で人を刺して走り回るような狂った行為などけしてやらないのに、警察官は人を見たら通り魔かテロリストにでも見えるのだろうか。警察官よ! 人を見る目がなさすぎるぞ。確かに普段からカジュアルの安っぽい服を着ているから、見ようによってはフーテンの過激派に見られても仕方が無いが人相が違うだろう。歳の割には大柄だが、目つきは優しいし性格もいたって温厚。けして人に危害を加えるようなそんな危険な人物ではないのに・・・・・・・。その警察官は、電車に乗り込んだ私の方を最後まで見つめていた。ああ、困った困った。あんたらは市民の安全を守るのが仕事なのに、もっと人を見る目を養わないと冤罪事件も無くならないよ。でも世の中には突然、気が狂ったように危害を加える奴が横行して、この世の中、本当にやばくなっている。
先の東京秋葉原の通り魔刺殺事件ではないが、殺すのは誰でよかったなんて発想が成り立ってしまって、それを実行に起こすととんでもないことになる。誰でも確かにむかっ腹が立つことはあるだろうが理性でもって抑えている。考えてみればよく判るが、何もかも気に入らないことがあるからといってそこら中の人間が片っ端から関係の無い人に刃を向けると、世の中どうなってしまうか判り切っているだろう。それこそ無法地帯の戦場になってしまう。理性があるから人間なんだろうし、自己管理が出来るから大人なんだろうと考えるのであるが、どうも最近は考えられないような殺傷事件がよく起こる。
あまりこんなことを言うと、またウザイ、キモイ、死ねとか若者に言われそうである。でも、とにかくもっと冷静になって考えようではないか・・・・。犯罪を犯してしまっては取り返しがつかなくなってしまうし、けして自分だけの人生ではないということをもっと考えてもらいたい。そりゃ、世の中は本当に嫌なことだらけである。私なんか今まで、警察が無ければ殺してやりたいと思った奴は10人ではすまない。まことに理不尽なことだらけの世の中である。それでも波風立てずにここまで生きてきた。我慢も辛いが人を殺めるようなことだけはやめたほうがいい。今を乗り切れば将来、過去を振り返ることがあって若かったなあと思い返す時期が必ずあるものだ。みんなもっと冷静になろう。味方はきっと周りにいる筈である。人はけして孤独ではないのだから・・・・・・・・・。
ところで今日の昼間、繁華街の街頭で号外が配られていた。何事かと思ったら今朝の8時43分、岩手県南部を震源とするマグニチュード7.0の地震が起こり既に2人が死亡しているという。本当に人の命とは判らない。もっと生きたいのに地震で死ぬ人もいれば、殺される人もいる。この世の中、安全は確保されているのだろうか・・・・・・。
2008.06.12 (Thu)
通勤で疲れて・・・・・
先月の途中から事業所が移転してしまい、そちらの方に通わなくてはならなくなった。今までは私鉄に乗って1時間ほどで職場に到着していたものが、今ではJRに乗ってチンタラチンタラと乗換えを入れて1時間余り、さらに駅からは定期バスに揺られて20分、またそこから徒歩で10数分。職場についた頃はヘトヘトだ。
以前は大阪の都心へ向う私鉄に乗っていたので、車内は会社員がほとんどだったから静かなものであった。読書する者、新聞を読む者、目を瞑って静かに構えている者、たまにヒソヒソ話は聞こえて来たが、おしなべて静かな車内だった。それが今では郊外どころか湖国の田園地帯へ通う羽目になってしまった。電車は以前の通勤時に比べると空いているのだが、あいにく電車に乗っている距離が長いので、道中、人が増えたり減ったりと入れ代わりが激しく、乗客の半分以上が大学生、高校生ときているから、それは賑やかである。でも行きはいいが、帰りにおいては、この若者達の中に混ざると辛いものがある。退社してバス停でバスを待っていてもなかなかやってこない。ようやくバスに乗ったものの、帰宅を急ぐ車の列にバスが飲み込まれてなかなか動こうとしない。ようやく動いたと思ったら今度は信号につかまった。そのおかげで駅前に到着したものの、電車が出て行った後で、次の電車を待たなくてはならない。以前は電車が頻繁にやって来るところが職場の最寄り駅だったので、気にならなかったが、今通っている最寄り駅は電車が15分に一本しかない。だから田舎の駅といっても帰宅を急ぐ人がホームにどしどし詰め掛けてくる。電車がやって来るものの車内は随分と混雑していて、相変わらず大学生、高校生が多く、見事に彼らの奔放な振る舞いの歓迎を受けている。
ある駅では女子高生がアイスキャンディーを食べながら乗ってきたので、背中にしずくを垂らされてしまった。また男子高校生はドア付近でへたり込んでしまって、大きなバッグを横に置くので車内がさらに狭くなる。また大きな音でシーチャカシーチャカと音が漏れてくると思うと、隣の大学生がヘッドフォーンでポップスを聴いている。いやはや何とも賑やかである。しかし、この歳では彼らの行動についていけない。とにかくこちらは激務で疲れているので、帰りの電車内は静かにして欲しいと思うが、若者にとっては知ったことではないだろう。空いている席も無いし、とにかく立ったまま帰宅の途についてる有様である。
既にこのような通勤を朝夕始めて、まだ1ヶ月にも満たないがとにかく疲れる。これから何年、いや10年以上もこんなことを繰り返さないといけないのかと思うと、寒気がするが贅沢もいってられない。とにかく慣れないといけないのだが、これに残業が加わると帰宅が10時、11時なんて当たり前になってしまいそうだ。それで当ブログも、これまでのように連日の更新とはいかないし、隔日の更新が関の山かもしれない。取り敢えずはのんびりと更新しようかと・・・・・慌てず急がず、書きたい時に書くように、方向転換しますので、よろしく。
2008.06.10 (Tue)
ジョージ・オーウェルの『動物農場』を読む

『動物農場』というタイトルを聞いて童話かなと思われるかもしれない。主人公は動物たちなのだからそのように思われても仕方が無いが、内容は峻烈な政治批判小説なのである。
内容はというと・・・・・・・・・・荘園農場のジョーンズ氏に飼われている多くの動物達は、豚の老少佐の遺言によって人間の主人に叛乱を起こし成功する。その叛乱のリーダーは雄豚のスノーボールとナポレオンである。スノーボールは理論家で通り風車を建設して農場を機械化する計画を進めるのである。ところが、陰謀を働くナポレオンはスノーボールを追放して、彼とその取り巻きの連中を次から次へと処刑して、ナポレオンは独裁者にのし上がってしまう。
やがて風車は嵐で倒れ、二度目は農場の奪回を企んだジョーンズたちによって爆破されるが農場の動物達はくじけなかった。でも目覚しい働きをする馬のボクサーが、過労で倒れるとさっさと町の屠殺場に送られる。数年たち風車も完成し、生産は向上した。だが豚以外の動物達の生活は一向によくならない。かつてのスローガン「二本脚は敵、四本脚は味方」を忘れたかのように、近隣の農場主と取引を始める豚たちは、近隣の人間を招いて宴会を催す。豚たちは人間と杯をかわしているが、傍から見るとどれが人間でどれが豚なのか見分けがつかない・・・・・・。
『動物農場』はジョージ・オーウェルが1944年に書いた小説である。おとぎ話と副題がついている小説なのだが、この小説はソヴィエト社会主義体制に対する風刺小説といってもよいだろう。イギリス人のジョージ・オーウェルは、1917年の二月革命から1943年のテヘラン会談までのソヴィエトの歴史を忠実に再現しながら、スターリンの独裁政治を痛烈に批判しているのである。小説が完成した頃は、ソヴィエトとイギリスが同盟国であったため外務省の干渉もあって出版できなかったという事情もあったが、終戦後の1945年8月になって出版されたのである。するとたちまちのベストセラーとなってしまい、引き続いてジョージ・オーウェルは、その続編とも言うべき小説『1984年』を書く。この小説を読んでいると理論派の雄弁家のスノーボールはトロツキーのことで、無口な陰謀家ナポレオンはスターリンのことだということがすぐに判る。すると老少佐はおそらくレーニンのことであろう。
ジョージ・オーウェルは1903年に生まれ、警察官としてビルマに赴任した。しかしイギリス帝国主義の尖兵ともいうべき植民地警察官の職に耐えられず帰国。その直後に作家を志す。やがて社会主義者となり、スペインの内戦でトロツキスト系のマルクス主義統一労働党の部隊に加わって戦い負傷する。また、その頃、ソヴィエトに後押しされた共産党の他党派に対する厳しい弾圧を目の当たりにして、生涯の反共産主義者、反全体主義者となったようである。でも今時、こんな小説を読む人もいないだろう。冷戦の頃ならいざ知らず、ソヴィエトが崩壊して既に20年近くなろうとしている。最近の大学生はソヴィエトって何?・・・・・と質問する者がいるそうだから、既にスターリンだのトロツキーだのレーニンだのマルクス主義だのソヴィエト社会主義だのと言ったところで、時代錯誤も甚だしい。ベルリンの壁が崩壊して、民主化が導入され、東西ドイツが統一され、鉄のカーテンが消えてしまい、ソヴィエトはロシア、ウクライナ、グルジア、エストニア、ラトビア、リトアニア、アルメニア、ウズベキスタン、アゼルバイジャン、カザフスタン、キルギスタン、ベラルーシ、タジキスタン、トルクメニスタン、モルドバ・・・・・・・・・と国が分裂してしまった。
残念ながらジョージ・オーウェルの恐れた独裁政治、恐怖政治、一党独裁政治社会はヨーロッパにおいて崩壊してしまい、彼の未来予想は外れてしまった。ただ東アジアでは未だに独裁政治体制を布いている国があるが・・・・・・・。
2008.06.08 (Sun)
第58回安田記念
第58回安田記念(GⅠ・3歳以上、芝1600m、18頭)は今日、東京競馬場で行なわれた。出走馬の中には4月に行なわれた香港のチャンピオンズ・マイルの1着~3着馬のグッドババ(Good Ba Ba)、アルマダ(Armada)、ブリッシュラック(Bullish Luck)もいて賑やかな顔ぶれとなった。1番人気はスーパーホーネットで2番人気はダービー馬のウオッカ、3番人気はグッドババ、4番人気はスズカフェニックス、5番人気はアルマダだった。
スタートするや香港のアルマダと日本のコンゴウリキシオーが先行争いをする。でもコンゴウリキシオーが予想通り先頭に立った。2番手にアルマダ、3番手は何とウオッカである。騎手が岩田に代わったからなのか、それとも馬体が良くなってきたのか、最近は前に行けなくなっていただけに驚いた。4番手はジョリーダンス、5番手にアイルラヴァゲイン、6番手にエイシンドーバー、その後にグッドババ、ニシノマナムスメが続き、ブリッシュラック、1番人気のスーパーホーネット、さらに桜花賞馬キストゥヘヴン、そしてスズカフェニックスがいて、オーシャンエイプス、ドラゴンウェルズ、エアシェイディ、ピンクカメオ、ドリームジャーニーで1番後ろにハイアーゲームである。ハロン毎のラップタイムは12.1---11.1---11.4---11.6---11.7で、800mが46秒2、1000mが57秒9とまずまずである。でもこのペースだとコンゴウリキシオーは無理をしていないだろう。でも2番手を5馬身以上引き離してやがて4コーナーへさしかかろうとしている。
いよいよ直線コースに入るがコンゴウリキシオーが先頭。単騎で逃げる逃げる。それをアルマダが追う。その外にジョリーダンス。内からウオッカであるが、ウオッカが出て来る。ウオッカが復活か! あと300mでウオッカが一気に先頭に立った。いい脚色だ。抜け出した。あと200mで完全にウオッカが先頭。2馬身、3馬身と差が開いていく。2番手にアルマダ、その後は混戦模様。エイシンドーバー、エアシェイディ、外からスズカフェニックス辺りもやってくるが、ウオッカは断トツに抜けている。ウオッカ悠々ゴールイン。
1着ウオッカ 1分33秒7、2着アルマダ 3馬身1/2、3着エイシンドーバー 3/4、4着エアシェイディ アタマ、5着スズカフェニックス アタマ。
スーパーホーネットは8着で、グッドババは17着だった。勝ったウオッカは昨年のダービー以来、一年ぶりの勝利となった。結局、ウオッカは前走でマイル戦を走り2着になったが、それが功を奏したのではないだろうか。このところ前に行けなくなっていたので、久々にマイル戦を使ってペースの速い競馬の味を覚えたのか、今日は積極的に前へ行った。それが勝利に繋がったのかもしれない。でも本来はマイルよりも中距離の馬だと思うので、秋が楽しみになってきた。でもこのレースは結果的に前に行った馬が1着、2着だということを考えれば、後方から行った馬はどうしようもなかったということになるのだろうか。人気になったグッドババはブービーの惨敗である。この辺が国際レースの難しいところなのだろうか・・・・・。
ついでに昨日、東京で行なわれた重賞の結果を記す。
ユニコーンS(GⅢ・3歳、ダート1600m、16頭)
1着ユビキタス 1分35秒1、2着シルクビッグタイム 7馬身、3着アポロドルチェ クビ、4着アンダーカウンター クビ、5着スカーレットライン 1馬身3/4.。
2008.06.08 (Sun)
第229回英国ダービー、第140回ベルモントS
伝統の第229回ダービーはロンドン郊外のエプソムダウンズ競馬場で行なわれた。今年はニューアプローチが先の2000ギニーでヘンリーザナヴィゲーターに敗れ、続く愛2000ギニーでも同様にヘンリーザナヴィゲーターに敗れたから、このダービーでニューアプローチが出走してきたからといってもあまり食指が行かなかった。それで1番人気がカジュアルコンクエストに譲ってしまいニューアプローチは2番人気であった。それでも1番の注目馬ではあった。
いよいよ日本時間で昨夜の0時に第229回ダービーS(GⅠ・3歳、12F10yd、16頭)のスタートが切られた。世界一タフな約2400mといわれる本家のダービーである。スタートからまず右に曲がりながら急な坂を登っていく。馬蹄形の半円を描くようなコースであるが、前半で坂を40m以上登るのだから美浦の坂路コースよりもきついのである。当然のようにスローペースである。緑色の勝負服であるニューアプローチは後方から4番手につける。坂を上りきって下りに入りニューアプローチは中団に押し上げる。いよいよタッテナム・コーナーを回って長い直線にかかり、各馬が仕掛けに入ろうとする。ニューアプローチは最内に入ったようだ。下りの直線コース。激しい攻防から最後の1furlongにさしかかり、ニューアプローチが先頭に出ようとする。すると外からタータンベアラーが迫ってきた。ここから坂の上りに入りニューアプローチとタータンベアラーが叩き合うがニューアプローチが半馬身優りダービー馬に輝いた。
1着 New Approach 2分36秒50、2着 Tatan Bearer 1/2、3着 Casual Conquest 4馬身1/2、4着 Doctor Fremantle 1馬身1/2、5着 Washington Irving 3/4。
勝ったニューアプローチはナショナルS、デューハーストSに続いてのGⅠ勝利で通算8戦6勝2着2回。負けた2回は何れも相手がヘンリーザナヴィゲーターだというのは惜しまれる。父もダービー馬のGalileoで、母はPark Express(父Ahonoora-----Djebel系)という血統。つまり高松宮記念に勝っているシンコウフォレストの半弟にあたる。次は愛ダービーにいくのか、それともエクリプスSかキング・ジョージか・・・・・・・。
日本から遠征しているカジノドライヴが出走する予定だったから大いに注目されたベルモントSであるが、結局は脚の故障から出走を見合わせてしまって興味半減である。でもビッグブラウンが30年ぶりに3冠のタイトルを獲得するかどうかということで興味は注がれていた。
第140回ベルモントS(GⅠ・3歳、ダート12F、9頭)は今朝、ニューヨーク郊外のベルモントパーク競馬場に大観衆を集めて行なわれた。1番人気は当然、3冠のタイトルがかかるビッグブラウンである。ゲートが開くや最低人気のダタラが先頭に立った。注目のビッグブラウンはアウトコースの3番手である。アメリカの競馬場にしては異様に大きな競馬場であるベルモントパーク(実際に東京競馬勝よりも大きい)。コーナーも大きくダタラはあまり速いペースでもなく先頭に立っている。それを3番手の位置から構えるビッグブラウンである。淡々とレースは進み、向こう正面から3コーナーにかかろうとする時、ダタラがスパートしているように思えた。後続とやや差が開いていったからだ。何時もならこの辺りでビッグブラウンがスパートするのだが一向にエンジンがかからない。それどころかもがいている。それを尻目にダタラは後続との差をさらに拡げて行く。直線には入ってもダタラはバテない。一方のビッグブラウンは完全に失速してしまった。
1着 Da' Tara 2分29秒65、2着 Denis of Cork 5馬身1/4、3着 Anak Nakal 2馬身3/4、3着 Ready's Echo 同、5着 Macho Again 3馬身。
何とビッグブラウンはシンガリの9着に惨敗してしまった。やはり約2400mという距離の壁だろうか・・・・。父系がどうしても血統的にひっかかるという懸念はあったが・・・・。
勝ったダタラは最低人気で、このレースがメイドン(新馬)レース以来の2勝目(8戦)。何とも番狂わせではあったがタイムも平凡。まことにショッキングなベルモントSとなってしまった。
ダタラは父がTiznowという今では珍しいマンノウォー(Man O'War)系で、母はTorchera(父Pirate's Bounty)でサイヤーラインはやはり珍しいリボー(Ribot)系である。最近はこのようなマンノウォー、リボーという20世紀史上に残る名馬のサイヤーラインを持つ競争馬が活躍することはあまり無かったので、すべてにおいて驚きのベルモントSであったといえるだろう。
2008.06.07 (Sat)
関光徳が亡くなった
関光徳といえばサウスポーの強打者として名を馳せ、1960年代に活躍した名ボクサーである。1941年に生まれ、1958年にプロデビューした。やや色白で優しい面構えのため、おそらく普段着を着ていれば誰もボクサーであるとは思えないような選手であった。でも妖刀『村正』と呼ばれる左ストレートを武器に、デビューからすぐに頭角を現した名ボクサーだったが、残念なことに世界チャンピオンに5度挑戦しながら1度も世界タイトルを獲ることはなかった。
当初はフライ級でデビューし、1961年6月には早くも世界フライ級チャンピオン、タイのポーン・キングピッチに挑戦し15R戦い判定で敗れている。その後、フライ級からバンタム級、フェザー級と階級を上げ、この間に東洋フェザー級タイトルを獲得している。この頃は、関光徳以外にファイティング原田、海老原博幸、青木勝利といったフライ級三羽烏がいて、日本のボクシングの最も人気のあった頃であり、その中で悲運のボクサーといわれ続けた関光徳である。関光徳はフェザー級に階級を上げてから1964年3月に時の世界チャンピオン、無敗の殺人パンチャー・シュガー・ラモス(キューバ)に挑戦。でも相手のホームタウンでの試合で、思うような試合が出来ず6RにTKOで敗退。
2年後の8月には、シュガー・ラモスからタイトルを奪ったこれまた無敗の世界チャンピオン、メキシコのビセンテ・サルジバルに敵地で挑戦。この時は関は好調で、サルジバルからダウンを奪い優勢に試合を進めたが、15Rの判定で敗れてしまい、またも世界タイトルを奪うことは出来なかった。すると翌年、チャンピオンのサルジバルが、またも防衛戦の相手に関を指名。関は再びメキシコでグローブを交えたが、この時はサルジバルの強打に屈し7RTKO負け。その後にビセンテ・サルジバルは無敗のまま引退してしまったのである。
こうして世界フェザー級の王座が空位となり、関は急遽、世界チャンピオン決定戦をイギリスのハワード・ウィンストンと戦うことになった。今度こそと関はトレーニングを続けたが、またも試合会場は敵地のロンドン。こうして1968年1月23日、関光徳は5度目の世界タイトル挑戦となった。でもこの試合は何かおかしかった。試合のポイントをチェックするジャッジがレフェリーのみというおかしなルールだったと思う。試合は一進一退であったが、9Rに入りハワード・ウィンストンのフックが関の顔面にヒット、関は右目の上を切り出血。レフェリーは試合を一旦止めたように思えた。すると何時の間にかハワード・ウィンストン陣営は歓喜の嵐で、レフェリーコールもない間に、ハワード・ウィンストンがチャンピオンになっていた。何が何だか判らない間に、関は試合に負けていた。
後から傷口を確かめると出血は大したことはなかったという。これで関光徳は引退したが、この間に東洋フェザー級タイトルを12回防衛していて当時のアジアでは敵無しであった。右のジャブで距離を測り左ストレートを強打するといった正確なボクシング・スタイルは垢抜けていたし、そのボクシング・スタイルからはクールな印象があり、女優のひし見ゆり子は、関光徳のファンでもあったぐらいだ。ただ、関が挑戦したチャンピオンというのは何れも強豪として君臨していて、相手が悪かったというのもあり、また日本国内で1度も世界タイトルのかかった試合を経験できなかったというのも不運であった。それでいて通算74戦62勝(35KО)11敗1分というのは立派である。
関光徳は世界チャンピオンこそなれなかったが、原田や海老原と同様に最も印象に残っている当時のボクサーであった。ご冥福をお祈りします。
関光徳、最後の試合となったロンドンでのハワード・ウィンストン戦。
2008.06.05 (Thu)
アメリカ歴代3冠馬について述べるⅡ
セクレタリアトは1970年産まれの栗毛の巨漢馬だった。デビュー戦こそ4着であったが、その後は2着降着を含め2歳時の成績が9戦7勝。何と2歳馬ながらアメリカの年度代表馬に選ばれたのである。こうしてケンタッキー・ダービーに駒を進めてきたセクレタリアトは1分59秒4のトラックレコードで勝ち、プリークネスSも勝ち、いよいよベルモントSに出走。当初は3冠レースに縁の無いボールドルーラーの仔だからとか、ボールドルーラー産駒には12furlongの距離は長すぎるともいわれたものであるが、スタートから積極的に先行し、ハイラップで突っ走る。セクレタリアトに絡んできたのはシャムであった。でもセクレタリアトはますます快調、向こう正面あたりからシャムが失速し、後はセクレタリアトの独壇場となってしまう。最後の直線には入っても後続馬との差は拡がるばかり、鞍上のロン・ターコットは振り返るが後続馬の影さえ見えない。セクレタリアトが悠々ゴールに飛び込んだとき、2着争いが31馬身後方で演じられていた。勝ち時計2分24秒0は驚異的なタイムであり、その後、35年経過した現在でもそのタイムは破られていない。まさしく超怪物といわれたセクレタリアト。マンノウォーの再来、ビッグレッドともいわれ、まさしく20世紀に名を残すスーパーホースである。通算21戦16勝2着3回3着1回。時々、不可解な敗戦をするのがセクレタリアトらしいところかもしれないが、アメリカ史上最強という人も多い。
セクレタリアトが3冠馬になってから4年後の1977年には、無敗で3冠を達成したシアトルスルーが出現した。シアトルスルーは黒鹿毛の立派な馬で、スタートから積極的に出て行き、そのままゴールまでスピードを持続させるというタイプの競争馬だった。こうしてデビューから無敗で3冠馬となったのはシアトルスルーが初めてであり、3冠達成も実にあっけなかった。でもその後のレースで西海岸に転戦し、ハリウッドパーク競馬場のスワップスSでとうとう敗れた。シアトルスルーは翌年も現役で、1歳下の3冠馬アファームドと2度対戦して2戦2勝している。通算成績は17戦14勝2着2回。
シアトルスルーが3冠を達成した翌年の1978年には、アファームドが3冠馬となっている。でも3冠レースとも2着はアリダーで、プリークネスSではクビの差、ベルモントSではアタマの差でアリダーを退けている。特にベルモントSは、アリダーとの意地と意地を張ったぶつかり合いで、希に見る好レースとなった。通算成績29戦22勝2着5回3着1回。
今のところアファームドが最後のアメリカ3冠馬である。でもその後、ケンタッキー・ダービーとプリークネスSを連勝しながらベルモントSに敗れて3冠のタイトルを逸した競争馬が何頭かいて、最近11年間では、シルヴァーチャーム、リアルクワイエット、カリスマティック、ウォーエンブレム、ファニーサイド、スマーティージョーンズの6頭がベルモントSに敗れて3冠馬になれなかった。この結果を見ると1マイル1/2という距離はアメリカの競馬においては、例外的に長い距離なのである。だから今回、3冠を狙うビッグブラウンの最大の敵は、その距離なのかもしれないという気がする。
2008.06.04 (Wed)
アメリカ歴代3冠馬について述べるⅠ
アメリカ3冠レースとはケンタッキー・ダービーとプリークネスSとベルモントSの3レースをいうが、このレースは一ヶ月の間に行ってしまう。だから日本の場合と違って夏を越すわけではないから、容易だと思えるのだが、最近の30年間は3冠馬の出現を見ていないのだ。だから難しいといえば難しい。でもアメリカでは過去に11頭の3冠馬が出ていて、その1頭1頭を紹介してみたいと思う。
アメリカ最初の3冠馬はサーバートン(Sir Barton)である。1916年産まれで通算31戦13勝2着6回3着5回という成績。サーバートンは1919年のケンタッキー・ダービー、プリークネスS、ベルモントSに勝ってアメリカ初代の3冠馬に輝いたのである。だがサーバートンは3冠馬として人々から畏敬の眼で見られていたのでもなく、大して注目もされなかった。それは、この頃というのはサーバートンが勝った三つのレースを3冠レースとして世間は認めていたものでもなく、後年に3冠馬として公認されたからというのもある。つまりサーバートンが現役の頃はヴィザーズS、ベルモントS、ローレンス・レアリゼーションという三つのレースの方が注目されていた。だからサーバートンは今日で言うところの3冠馬というのとは違っているのだ。そして、何よりもこの馬が実績に比較して評価されないのは、1歳下の名馬マンノウォーとのマッチレースで敗れたからである。マンノウォーは21戦20勝2着1回というアメリカ競馬史に名を残す名馬で、サーバートンとのマッチレースになったケニルワース・パーク金杯で7馬身差に切って捨てた実績から、ビッグレッドといわれ人気があった。だからサーバートンはマンノウォーより格下の馬という扱いで初代3冠馬といっても注目されないのである。
2頭目の3冠馬はギャラントフォックス(Gallnt Fox)である。ギャラントフォックスは1927年産まれで17戦11勝2着3回3着2回の成績。当初、成績が芳しくなかったが、距離が延長されてから勝ち出し、アメリカでは珍しいステイヤーである。3冠レース以外にもジョッキークラブGC(2マイル)という長距離レースを勝っている。
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3頭目の3冠馬はオマハ(Omaha)である。1932年産まれで22戦9勝2着7回で父はギャラントフォックスである。オマハが3冠馬の栄誉に輝いた同じ年、イギリスではバーラムがやはりイギリス史上14頭目の3冠馬に輝いている。
4頭目の3冠馬はウォーアドミラル(War Admiral)で、父はマンノウォーである。この馬は1934年産まれで26戦21勝2着3回3着1回という抜群の成績である。2歳時は6戦3勝だったが、3歳時は3冠レース制覇を含む8戦8勝でパーフェクトホースといわれた。とにかく馬体が素晴らしく、文句なしの名馬であったが、シービスケットとのマッチレースで敗れてしまいファンをがっかりさせた。
5頭目の3冠馬はワーラウェイ(Whirlaway)である。1938年産まれだから1941年のアメリカ3冠馬ということになり、同年にはくしくもセントライトが日本の初代3冠馬の栄誉に輝いた。ワーラウェイはイギリス・ダービー馬ブレニムの産駒で60戦32勝2着15回3着9回という歴戦の強豪で、真夏のダービーといわれるトラヴァーズSも勝っている唯一の3冠馬である。この馬は圧勝するかと思えば負けっぷりも見事で、外ラチによれたりして、とにかく個性派の馬であった。
6頭目の3冠馬はカウントフリート(Count Fleet)で、1940年産まれの3冠馬ということは同年の日本の馬というとクリフジということになる。通算成績は21戦16勝2着4回3着1回。カウントフりートはベルモントSで2着に25馬身もの大差をつけて3冠馬となったが、このレースで故障し引退してしまった。また引退しても名種牡馬として1951年にはアメリカの種牡馬ランキング1位となり、1973年まで生き続け34歳で亡くなったという。
7頭目の3冠馬はアサールト(Assault)である。1943年産まれで戦後最初の3冠馬となった。成績は42戦18勝2着6回3着6回。当歳の時の事故がもとでビッコをひいていたが、3冠馬に輝いたというエピソードを持つ。
8頭目の3冠馬サイテーション(Citation)は1945年産まれで、45戦32勝2着10回3着2回という成績。サイテーションはマンノウォー以降最高の名馬、100万ドル賞金獲得馬第1号という数々の称号を与えられたアメリカ屈指の名馬である。アメリカの東部、西部、フロリダと全米を渡り歩いたグレートホースでだったが、種牡馬としては初年度産駒こそ良かったが、あとは尻すぼみで1957年以降はステークス・ウイナーが1頭だけという惨めなものであった。
ところでサイテーションが3冠馬となるまでは29年間で8頭の3冠馬が誕生したが、このサイテーションを最後にして、3冠馬の出現は突然途絶え、9頭目の3冠馬が現れるまでは実に25年後の月日を要したのである。
次回に続く。
2008.06.03 (Tue)
ベジーテを飲む

先日、スーパーで見慣れない野菜ジュースを見かけたので、買ってみたら何とアルコール飲料だった。それはアサヒビールから発売されている『ベジーテ』というリキュールであった。無炭酸でアルコール分が4%というから、アルコール飲料を飲んでいるという気はしないが、こんなものでも大量に飲むとアルコールに弱い人はてきめんに回るのだろうと思う。でも飲んでみると、オレンジジュースのような野菜ジュースのような、両方の中間的な味がしていて、あまり特徴が無い。でも、よくよく見ると、アサヒビールが販売しているが、どうやらアサヒビールとカゴメの共同開発で生まれたアルコール飲料だという。
100年以上にわたってアルコールに携わってきたアサヒビールと100年以上にわたって野菜に携わってきたカゴメが一緒につくりあげた共同開発のアルコール飲料が、このベジーテだという。21種類の野菜汁と4種類の果実のドッキングである。野菜汁とはカゴメのヒット商品である『野菜生活100』の原料を主に使い、『アサヒベジーテ』専用のオリジナルミックスにしたもので、両者の知見を活かし、味わい豊かな野菜汁に果汁をミックスすることでおいしく飲みやすい野菜と果実のカクテルに仕上げたらしい。
21種類の野菜汁とは、人参、ホウレン草、アスパラガス、赤ピーマン、小松菜、クレソン、かぼちゃ、紫キャベツ、ブロッコリー、メキャベツ、プチヴェール、ビート、赤じそ、セロリ、レタス、白菜、ケール、パセリ、茄子、玉葱、大根、キャベツである。一方、果汁はオレンジ、レモン、マンダリン、リンゴの4種類である。でも基本的にはオレンジ味がベースになっていて、さらさらとした飲み口でいて、後味はスッキリという謳い文句ではあるが、どうもアルコールを飲んでいるような感覚は無く、私にはあまり甘くないジュースを飲んでいるようなものである。このベジーテは野菜ジュースにオレンジを加えて、飲み易い味に仕上げられているということだが、どうせアルコールを飲むのなら、もっとアルコール分の多い飲料を飲むだろうし、甘いアルコール飲料ならカクテルがあるし梅酒もある。だから私はあまり飲みたくなるとは思えず、酒やビールが苦手な人が飲むためのお酒という気がしてならない。
2008.06.02 (Mon)
2008年フランス・ダービー
そんなフランス・ダービーであるが、お馴染みのシャンティー競馬場の2100mに20頭も出走してきて、その中で唯一の牝馬がナタゴラである。スタートからデットーリ騎手に操られたナタゴラは積極的に前に出て、最初は内の馬と併走するように逃げていたが、途中から3番手に下がり、ここから踏ん張りどころでナタゴラには距離が長いかなあという印象があったが、最終コーナーを回って直線に入り、前を行く2頭の外から追い出しにかかるとあと300mの地点で先頭に立ったのである。ナタゴラは頑張る。あと200mの手前まで先頭。もしかして91年ぶりの牝馬の勝利かと・・・・・・期待したが、ここからヴィジョンデタ(Vision d'Etat)にかわされてしまう。ナタゴラをかわして先頭に立ったヴィジョンデタの勝利かという時、後方からフェイマスネーム(Famous Name)が襲い掛かってきて、際どい勝負となったがヴィジョンデタが粘りこんだ。
1着 Vision d'Etat 2分08秒60、2着 Famous Name アタマ、3着 Natagora 1馬身1/2、4着
High Rock 1馬身1/2、5着 Chinchon 1/2。
ヴィジョンデタはこれでデビューから負け無しで5戦5勝となった。父はChichicastenango(Grey Sovereighn系)、母はUberaba(母の父Garde Royale-----Mill Reef系)で、父のChichicastenangoはリュパン賞、パリ大賞典と2つのGⅠに勝ち、フランス・ダービーはアナバーブルー(Anabaa Blue)の2着である。
2008.06.01 (Sun)
第75回日本ダービー
12万人の大観衆が見守る中、第75回日本ダービー(Jpn-Ⅰ・3歳、芝2400m、18頭)のゲートが開いた。まず馬場の真ん中からレッツゴーキリシマ、内の方からアグネススターチの2頭が先手争いに出た。先頭を奪ったのはレッツゴーキリシマの方で、2番手にアグネススターチ、3番手スマイルジャック、その内からサクセスブロッケン、5番手アドマイヤコマンド、その後はレインボーペガサス、7番手サブジェクト、さらにモンテクリスエスにマイネルチャールズ、クリスタルウイング、ブラックシェル、タケミカヅチ、そしてディープスカイ、エーシンフォワード、ショウナンアルバ、フローテーション、ベンチャーナイン、1頭離れてメイショウクオリアの順に第2コーナーを回る。向こう流しに入り、レッツゴーキリシマが2馬身リード、2番手のアグネススターチの直後にスマイルルジャックが接近し、サクセスブロッケンの外にレインボーペガサスが上がってきた。
ペースはスタートから12.5---10.6---12.4---12.9---12.8---12.3と800m通過が48秒4、1000m通過が1分00秒8、1200m通過が1分13秒6と良馬場とはいえ渋い馬場なので、平均ペースというところか。3コーナーあたりからレッツゴーキリシマとアグネススターチの差が3馬身、アグネススターチと3番手以降とは4馬身の差に拡がり、いよいよ4コーナーを回って直線に向こうというところである。
先頭はレッツゴーキリシマ、2番手にアグネススターチ、3番手にスマイルジャック。1番人気のディープスカイは14、15番手の馬群の中であるが、四位騎手が外に行こうとしている。あと400m、ここでスマイルジャックが2番手に上がる。あと300mでスマイルジャックが先頭に立つ。ディープスカイは大外に出てこれから追い出そうとする。いよいよあと200m、完全にスマイルジャックが先頭。2番手は大混戦で、レインボーペガサスとマイネルチャールズが並んでいるが、その内からブラックシェルが伸びて来る。ディープスカイは大外から際立った脚色で迫ってくる。あと100m、スマイルジャックが先頭。ディーブスカイが来る。一気に来る。ディープスカイがかわして先頭。大外から突き抜けて四位騎手が2連覇達成。
1着ディープスカイ 2分26秒7、2着スマイルジャック 1馬身1/2、3着ブラックシェル 3/4、4着マイネルチャールズ クビ、5着レインボーペガサス クビ。
アドマイヤコマンドは7着で、初の芝馬場が注目されたサクセスブロッケンは18着とシンガリであった。
結局、混線ダービーといわれながらも蓋を開ければ1番人気が勝っていた。それもキングカメハメハ以来の変則2冠を達成し、文字通り3歳サラブレッドの№1となった。ディープスカイは11戦目がこのダービーという歴戦の勇者であり、これが4勝目となる。何故、11戦もレースを使っているのだろうかと思うだろうが、未勝利脱出までに6戦を要しているからで、その後はトントン拍子の出世である。父は皐月賞を無敗で圧勝しながらも、ダービーを前に故障で引退したアグネスタキオン。これで父の無念を晴らしたことになる。
最後に昨日と今日行なわれたダービー以外の重賞の結果を記しておく。
昨日、中京で行なわれた金鯱賞(GⅡ・3歳以上、芝2000m、17頭)の結果。
1着エイシンデピュティ 1分59秒1、2着マンハッタンスカイ 1馬身1/2、3着カワカミプリンセス クビ、4着サクラメガワンダー 1馬身1/4、5着カネトシツヨシオー クビ。
今日、東京で行なわれた目黒記念(Jpn-Ⅱ・3歳以上、芝2500m、18頭)の結果。
1着ホクトスルタン 2分31秒9、2着アルナスライン クビ、3着ロックドゥカンブ 1馬身3/4、4着フォルテベリーニ ハナ、5着アイポッパー 1馬身1/2。