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2013.08.25 (Sun)

『奇跡のクラーク展』に行く




 退院してからというもの毎日、毎日、暑くて暑くてしょうがない。病院の中に居た時は冷房が効いていたので何も感じなかった。むしろ寒すぎたぐらいだが、退院するや否や暑さに耐える毎日である。今年は例年にも増して猛暑日が多くもうバテバテである。それで暑い間は病気が病気だったので休ませてもらっているのだが家に居ても暑いだけ。それで外に出ていきたいのだが炎天下は恐ろしいほど暑い。とにかく日中は散歩をするわけにもいかず夕方の6時に近所を30分ほど歩くのだが、それでも汗をびっしょりかく。そういった訳で療養中は家で燻っていたのだが、毎日、冷房ばかり入れていたので今月の電気代が恐ろしいことになりそうだ。かといってこの暑さでエアコンを入れないわけにもいかない。、ただでさえ暑くて熱中症になり病院に運ばれている人が多いのに、病み上がりの身としては気をつけなければならない。それに医者から水分を十分摂るように言われていて、大量の汗をかいたらかいたでそれを補わないといけない。そのような状況なので今夏は例年の夏以上に麦茶や水を飲んでいる。

 そんな残暑厳しい中、久しぶりに美術館に行ってきた。今回行ったのは『ルノワールとフランス絵画の傑作 奇跡のクラーク展』という催し。ところでクラーク展て何だということになるが、これは美術館の名前である。小生も知らなかった。アメリカのマサチューセッツ州西部にある私立の美術館らしい。1955年に建てられた比較的新しい美術館で、スターリング・クラークとフランシーヌ・クラーク夫妻の美術コレクションが収蔵されている美術館ということになる。このスターリング・クラークという人は祖父がかのシンガー・ミシンの共同創業者だった関係から遺産を引き継ぎ若い頃から美術品を収集していた。アメリカにはポール・メロンといい、こういった美術収集を行う財産家が多く羨ましくもあるが、それを個人の所有物としてではなく一般に公開するために美術館を建てるのも社会への還元だとしている人も多い。クラーク美術館もその中の一つだろう。それで収集品はフランスの印象派の作品が多く、今回、ルノワールとフランス絵画の傑作と題した展覧会が神戸に巡回してきたので行ってきた。

 しかし猛烈に暑いな。阪神電車の岩屋という地下路線の入り口にある小さな駅を降り、海岸へ向かって10分ほどのところにある兵庫県立美術館。過去に何度も来ているが、夏の8月に来ることはほとんどない。8月の盆明けの平日だから空いていると思ってきたのだが、
予想外に人が多かった。それも女性が圧倒的に多い。若い人からおばさんまで。ルノワールとフランス絵画というと人気があるのだな。ルノワールなんて今まで何度、日本で展覧会が行われてきたのか。もう新しい発見何てあるのかなと訝りながらも来てしまう。でも今回はルノワール以外の絵画に興味があったのだが・・・・・。

 展示作品のメインはオーギュスト・ルノワールの22作品であることに変わりはないが、それ以外だとカミーユ・コローが5、ジャン=フランソワ・ミレーが2、クロード・モネ6、アルフレッド・シスレー4、カミーユ・ピサロ7、エドガー・ドガ4、ジャン=レオン・ジェローム3、アルフレッド・ステヴァンス2、ジャヴァンニ・ボルディーニ2、トゥールーズ・ロートレック2、コンスタン・トロワイヨン、1、テオドール・ルソー1、ヨハーン・バルトルト・ヨンキント1、ウジェーヌ・ブーダンン1、オノレ・ドーミエ1、メアリー・カサット1、エドゥアール・マネ1、アンリ・ファンタン=ラトゥール1、カロリュス=ヂュラン1、ウィリアム=アドルフ・ブグロー1、ジェームズ・ティソ1、ベルト・モリゾ1、ピエール・ボナール1と全73点、それも全て油彩という展覧会。規模としてもそれほど大きな絵画展でもないし、19世紀中心のフランス絵画というと普通はデッサンやパステル画等も無数に展示されるものだが、クラーク美術館の所蔵というのは油彩画ほとんどなのかな。

 それでも人は入るものだ。8月の猛烈に暑い平日の午前中に、これだけの人がつめかけるというのはルノワールを含めたフランス絵画が日本では特に人気がある証拠だろう。ところで感想はというと、もう観飽きている絵画の類が並んでいるという印象しか残らなかったが、それでも観に来てしまうという自分のお粗末さに呆れかえってしまう。でもこれが個人で集めた収集品だということを考えれば羨ましくもある。こういった作品のたとえ一つでもマイホームの壁に飾っていたら、映えるだろうなと思いをはせるものの、狭い我が家には油彩画を飾るスペースもない。従って豪邸しかこういった油彩等は飾れないかな。もっとも我が家では掛け軸さえも飾る場所もない。階段にも所狭しと本を並べているぐらいだからな。

EDIT  |  08:47  |  美術  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2013.08.18 (Sun)

ザ・ローリング・ストーンズのアルバム『メイン・ストリートのならず者』を聴く



 ローリング・ストーンズのこのアルバムが世に出たのは1972年の5月である。しかし、このアルバムの中からシングルカットされた曲『ダイスをころがせ(Tumbling Dice)』が既に巷に流れていた。ストーズらしいといえばストーンズらしいが、あまり印象に残らなかったというのが当時の印象である。そして、ストーンズの2枚組アルバム『メイン・ストリートのならず者』が発売されたのである。それで当時、小生はどうしたかというと中学、高校と同じクラスになったことのあるT君にアルバムを借りて聴いたのである。T君はビートルズではなくローリング・ストーンズのファンだったので、彼なら買っただろうと勝手に思い込み貸してくれと頼み込んだのだが、アルバムを買ってはいたが「今、聴きこんでいるので待ってくれという」。

 彼の話によるとそれまでのアルバム『サタニック・マジェスティーズ』『ベガーズ・バンケット』『レット・イット・ブリード』『スティッキー・フィンガーズ』に比べるととっつきにくく格闘しているという。どういう意味なのかよく判らなかったが、2ヶ月後に貸してもらって聴きこんだら、その意味が何となく判ってきた。2枚組だから曲数が多い。全部で18曲収録されていて、その中に目玉になるようなポップ調の楽曲は一つもないということだった。曲調がブルースぽいものばかりで、そこにカントリーやゴスペルやソウルフルな内容が包括された曲が多く、本来、ブルースを基本としていた音楽づくりをしていたローリング・ストーンズが、よりブルースに徹した曲を集めたという感じがした。なるほど、これではとっつきにくいなあと素直な感想を言って、このアルバムをT君に返却したという想い出がある。つまり黒っぽい音楽に定評のストーンズが徹底して黒っぽくなったといいうことである。とにかく一度聴いただけでは曲が頭の中に一つも残らない曲ばかりだったのだ。シングルカットされた『ダイスをころがせ』にしてもさほど良い曲とも思わないし、何でこんなアルバムをストーンズは送り出したのだろうかと思ったものだ。しかし、後でよく考えたらこれが本来ストーンズがやりたい音楽だったのである。でもヒットチャートにのっかるにはもっと大衆に媚をうる曲もやらないといけないので、よりポップな曲も作っていた。それが『メインストリートのならず者』に関しては、そういった曲作りを明らかにやらず飽くまでも自分たちが本来やりたい音楽だけを収録したのである。

 当時、ストーンズはイギリスに住んでいなかった。それはイギリスの高い税金のせいであると主張し、ストーンズのメンバーはフランス南部に居を構えていた。でも良いスタジオがなかなか確保できず、仕方なしにキース・リチャーズの邸宅の地下室で録音されたのである。しかし当時ヘロイン中毒の最中にあったキース・リチャーズに他のメンバーは振り回され録音もなかなか進まなかったという。事実ドラムスのチャーリー・ワッツはが家が遠いということもあり段々と収録に姿を現わせなくなっている。それで代わりにプロデューサーのJ・ミラーがドラムを叩いたり、かつてビートルズのバックでキーボードを弾いていたビリー・プレストンも参加したりしているなど、謂わば色々な仲間が集まり適当にいい加減に曲を作っていたのである。それでいて肩の力が抜け、ルーズでいてラフな曲作りが彼等の真骨頂とするならば、これ以上のストーンズ・サウンドはないのである。

 結局、1971年7月から始まったアルバムの収録は簡単に終わらず、1971年の12月から場所をアメリカのロサンジェルスに移し、オーバーダブ・セッションを行うのである。この時には、バック・コーラスを始め、スティール・ギター奏者アル・パーキンス、アップライト・ベース奏者ビル・プラマーをを加え今度は緻密に曲の最終仕上げを行い1972年5月にリリースされるに至ったということである。

 やはりアルバム発売当初の評判は良くなかった。それが何時しか評価されるようになり、今ではローリング・ストーンズの最高傑作のアルバムと言われるようになったのである。本当に人の評価というのは時代によって変わるものであり、人の好みも時代によって変わって行く。ただ今聴いても目玉がないなあという印象はある。ただジャズのコンボ演奏にも言えるが、いい加減さが時には名演を生むが、ストーンズの曲作りもそれと似通ったところがある。そこはビートルズとは違うというところだ。まあ、これがローリング・ストーンズというバンドの特色と言えば特色なのだが。ところでこのアルバムに『ハッピー』という曲があるが、これは珍しくキース・リチャーズがヴォーカルを務めている。聴きものではあるが、正直なところあまり上手いとは思えない。


 『ダイスをころがせ(Tumbling Dice)』の演奏


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2013.08.16 (Fri)

暑いというより熱い夏

 お盆休みももう終わるだろう。今年は明日が土曜日で、明後日が日曜日ということもあり19日から仕事に入るというところも多いだろうが今年は暑い。この10数年は毎年暑い夏なのだが、一昨年が観測史上最も暑い夏といわれているもの、もしかして今年はそれを更新しそうな勢いである。何だか高知の江川崎というところで連日の40℃超えが記録したと言っている。江川崎というところは昔は高知県幡多郡西土佐村というところで愛媛県の県境に近いところにあった。かれころ25年ぐらい前に愛媛県の宇和島に行ったことがあるが、宇和島から高知県の方に向かう予土線という国鉄があって行き先が江川崎だったことを思い出す。それが何時の間にか中村市と合併して四万十市に組み込まれた。なので四万十市といっても海側で記録されたのではなく海岸から30㎞ほど内陸に入ったところで記録された気温である。それも風の通り道になりそうな四万十川沿いの峡谷にある町でフェーン現象が起こったのだろう。

 だから気温が上がると最近、必ず名前のあがる埼玉県熊谷市、岐阜県多治見市などもフェーン現象が良く起こる地域である。それはそうと40℃こそならないが、京都も9日から昨日まで9日連続の猛暑日を記録している。それもほとんどが37℃以上だから暑さもかなりのものだ。京都は盆地であまり空気が動かなく、どんよりとして暑い。だから一時的にフェーン現象が起こって一気に気温が上がるというのでもなく、ジワジワと太陽に照らされて暑くなっていく。これはちょっと身体に堪えるな。

 小生は7月の末まで入院していたので、退院していきなり冷房の入った病院から暑い暑い外気に触れたので、この暑さは本当に辛い。夜なんか連日の熱帯夜なので発汗して背中なんかがびっしょり濡れていることが多く、大概目が覚める。それで体調にはことのほか気をつけている。それも病気が病気だっただけに枕元に何時でも水分を摂れるように沸かした湯をポットに入れて置いている。それで夜中に目が醒めるとポットの湯を飲むようにしているのだが、それは朝になるとポットが毎日のように空になるほどである。それだけ夜中に汗をかいているのだろう。そういえば夜中でも気温が28℃、29℃とかいった気温では心地よいことは一つもない。病院から貰った睡眠剤を時々飲むが、それでも朝まで目が覚めず快眠ということはない。やはりこの暑さだと一度は必ず目が覚める。それでも睡眠剤を飲まないよりは飲んだ方がよく眠れるので時々飲むのだが、涼しい時に比べると眠りが浅いような気がする。やっぱりこの10数年の暑さというのは異常を通り越しているのだろう。今日は16日、ようやく8月も半分を過ぎた。まだ半月経たないと8月は終わらない。

 今年は入院生活を強いられたので夏をまるまる経験していないが、これからが残暑厳しい暑さが続くので要注意というところである。
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2013.08.11 (Sun)

村上春樹『ノルウェイの森』を読む

P1020982.jpg

 この小説も入院中に読み直してみた。入院中にいったい何冊の本を読んだのかと問われそうだがいちいち数えてないので判らない。20冊以上は読んだだろう。この村上春樹『ノルウェイの森』もそうだ。この『ノルウェイの森』は単行本で刊行された時に一度読んだものだが、それから20年以上経過している。その間、一度も読みなおしたことがない。正直言って何処が良いのか面白いのかよく判らない小説。感覚的すぎて苦手と言えば苦手な小説でハードカバーの単行本で刊行された当初、読んだだけでその後は一度も読んでない。ただ時代背景的に、同調できる部分があったんで懐かしいなあと思い、再び読んでみたという訳だ。

 ところで当時、題名の『ノルウェイの森』いうのが気になって書店の入口で堆く積まれていたのを手に取るや、内容も確認せずに買った覚えがある。『ノルウェイの森』とは当然ビートルズの有名な楽曲だ。なので内容も確認せず買って読もうと思い赤と濃緑の装幀の2冊の本を纏めて買って読んだかな。でも内容をあまり記憶してない。印象に残らなかったいうのもあるが、題名の『ノルウェイの森』と小説の内容とは何の関係もなかったということ、結局はビートルズの楽曲と同じ題名ということで買ってしまったのかな・・・・。 それ以前は村上春樹と言う人の本はエッセイ以外は読んだことがなかった。が、この小説からきっかけに村上春樹の著書を、その後に頻繁に読むようになったから判らないものだ。

 ところでこの小説の内容だが、タイトルにひかれて買ったものの小説の舞台がノルウェイでもなく、ましてやビートルズの『ノルウェイの森』とはほとんど関係がない。ただ物語の始まりで37歳の主人公がハンブルク空港に到着寸前に機内のスピーカーからオーケストラが奏でる『ノルウェイの森』を聴き、主人公の僕は遠い昔を思い出し混乱するのであった。それは色々あり過ぎた若い頃の思い。自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くの物のことを考え、失われた時間、死にあるいは去って行った人々、もう戻ること
ない想い。これらが錯綜し当時の記憶が蘇ってくる。

 1969年秋、主人公は草原で直子と2人で歩いていたことを思い出す。18年も前のことだ。ただ恋人でもなかった。直子と言うのは神戸で過ごしていた高校時代に親友だったキズキの恋人だったのだ。しかし、キズキは高校3年の5月、突然のように自殺してしまった。僕は1968年春、東京の私立大に入学した。直子も東京の武蔵野にある小さな大学に入学し、その年の秋に偶然、東京で直子と再会する。それ以来、僕と直子は時々、会うようになる。そして直子の20歳の誕生日に彼女と寝ることとなるが、意外にも直子はそれまで処女であったという。ところが直子はそれからまもなく東京を去り、京都の山間部にある診療所に入ることとなる。その一方で僕は緑という同じ大学の女性と知り合うこととなる。緑は直子とはまったく違った活発で明るい性格の女性だった。緑の実家は東京の下町で小さな本屋を営んでいたが、母は他界し父も脳腫瘍で入院していて余命も限られていた。緑はよく大学を欠席しているときは病院で父の看病に行っていた。そうこうしている間に緑の父親は亡くなる。

 時は1970年に入っていた。僕は玲子という直子と同じ病院にいる年配の女性から手紙をもらう。手紙にはその後の直子の精神的状況が主に書かれていた。直子は手紙を書くつもりでいたがなかなか書けず、代筆の形で玲子が書いたものだった。それから間もなくして緑からの手紙が届く。内容は大学の中庭で待ち合わせて昼食を一緒に食べようというものだった。しばらく僕は緑と会ってなかったのである。ところが緑と会うや僕がコーラを買いにいっている間に置き手紙を残していく。緑は髪型が変わっているのに気がついてなかったから、もう会わないでくれという。さらに玲子から手紙が来た。直子は家族と専門医との話し合いの結果、一度、別の病院に移り集中的な治療を受けここに戻るといいのではないかという合意に達したと書いてあった。

 僕は1970年の春、たくさんの手紙を書く。直子には週一回、玲子にも緑にも書いた。6月の半ば、2ヶ月ぶりに緑が話しかけてきた。緑はワタナベ君(僕)と会えなかった2ヶ月がとても淋しかったし、彼と別れたと言った。そして、あなたが好きになったと告白する。数日後、玲子から手紙が来た。良い知らせで直子が快方に向かっているという。近いうちにこの病院に戻って来るかもしれないということ。手紙の内容は僕のことと緑との関係にまで触れてあった。そして直子との関係も・・・・・。

 8月直子は自殺した。葬儀が終わって僕は1人旅に出る。鄙びた田舎町を1ヶ月渡り歩く。時は既に秋であった。こうして東京のアパートに戻り、気持ちの整理をしていたら、ギターケースを持った玲子が僕のアパートに現れた。玲子は若い時はプロのピアニストを目指し音大で学んでいた経験を持つ。2人は直子のことをも含め話を展開する。これから玲子は北海道に行くといい、僅かの間だが僕のアパートに泊ることとなり、玲子は会話の間にギターを弾き続けるのだった。僕と直子の想い出の曲ヘンリー・マンシーニ『ディア・ハート』から始まって、『ノルウェイの森』『イエスタデイ』『ミシェル』『サムシング』『ヒア・カムズ・ザ・サン』『フール・オン・ザ・ヒル』とビートルズ・ナンバーが続く。さらに『ペニー・レイン』『ブラック・バード』『ジュリア』『64になったら』『ノーホエア・マン』『アンド・アイ・ラヴ・ハー』『ヘイ・ジュード』、ドリフターズの『アップ・オン・ザ・ルーフ』、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』、ドビュッシーの『月の光』、、そこからバート・バカラックの『クロス・トゥ・ユー』『雨に濡れても』『ウォーク・オン・バイ』『ウェディングベル・ブルース』、さらにボサノヴァを10曲ほど弾き、ロジャース=ハートやガーシュウィンの曲を弾き、ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、キャロル・キング、ビーチ・ボーイズ、スティービー・ワンダー、『上を向いて歩こう』『ブルー・ベルベット』『グリーン・フィールズ』等、48曲。49曲目がビートルズの『エリナー・リグビー』そして50曲目に再び『ノルウェイの森』を弾いた。夜も更け、僕は玲子と性交渉を持った。こうして日が明け、玲子は旭川へ旅立っていき、その後で僕は緑に電話をかけ、僕には君が必要だと言った。

 以上が村上春樹の『ノルウェイの森』のおおよその筋書きである。なんだか何処に小説の主題があるのか分からない。実に感覚的な小説と言えばそれまでだが、そこには誰しも青春時代に持つ限りない喪失感、挫折感とさらに心の震えと感動、そして再生、色々な観念が内包されている小説であると思える。人間が大人になる直前の多感な時の1ページ、幾つもの壁があり精神的に成長していく過程で僕は色々と体験していくが、キズキの自殺、直子の自殺、それと多くは語られていないが永沢の恋人ハツエの死、緑の父の死と、周囲で起こりうるこのような事象があまりにも大きすぎる。この中で作者はキズキや直子の自殺が何に起因するのか敢えて言及されてないが大凡の見当はつく。小説の内容からして恋愛関係なのかそれとも社会への大いなる不安なのか、それはどうでもいい。ただ学生運動が最も活発で会った1968年~1970年、何かが起こりそうだ何かが変わって行きそうだという世情への不安があったことは確かだ。これは恋愛小説だとされる意見が支配的だが、小生はそのような捉え方はしていない。矢鱈と街に出て女生と知り合って性交渉を持つなど、ある意味、やり場のない不安のようなものが先立っているのか。それとも捌け口としてであろうか。作者はそれにもあまり言及していないが、直子の20歳の誕生日に性交渉を持ったこと、または積極的に性の話をする緑。恋愛小説と言えばそうであるかもしれないが、時代は若者文化が最も華開いた時期でもあり、学生運動がピークを迎えていた時期でもある。ちょうど1968年~1970年といえばヒッピーやフーテンなどが世に蔓延った。ちょうど小生もその時代のことはよく覚えているが、ある意味、この僕のような生活を送った若者が非常に多かったと思う。それで、今とは違う若者文化が栄えていたあの頃を思い出さずにはいられなかった。

 この小説に出てくる多くの音楽がそれを表現しているが、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス、ボブ・ディラン等・・・。所謂、団塊の世代へ捧げる村上春樹の記念碑的な小説のように感じたのである。何故なら、作者の他の作品とは随分と違っているからである。この作品を改めて読み直してみて村上春樹にしてはえらい現実的な話だなと思ったからであるが・・・。

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2013.08.05 (Mon)

メルヴィル『白鯨』を読む

 入院中にやはり病院内に蔵書されていたハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』も読んだ。これも40年振りかな。そもそも中学生の時グレゴリー・ベック主演の映画『白鯨』を観たのが『白鯨』という小説を知るきっかけになったかな。それで大学生のころに原作のメルヴィル『白鯨』を読んだものだ。ただし当時は捕鯨の解説が多く、内容も暗くて面白くないなあという印象でしかなかった。そして再びこの歳になって読んでみた。『白鯨』は語り手としてイシュメイルと名乗る主人公が登場してくる。ちなみにイシュメイルとは旧約聖書に登場してくる人物で、アブラハムがその侍女に生ませた子であり、追い出されて荒野を行く無宿者の名である。この旧約聖書から名を拝借したのかメルヴィルは、陸上の生活に鬱勃たる不満を抱いて捕鯨の世界に向かうイシュメイルを語り手として小説を展開している。ついでにいうと船長のエイハブも旧約聖書のイスラエル王アハブから頂いたものである。

 物語は19世紀のアメリカの東部。ナンタケットという捕鯨基地にやってきたイシュメイルは南太平洋出身のクィークェグという巨漢の銛打ちと汐吹亭という木賃宿で知り合う。一見、野蛮人だがイシュメイルは入れ墨をしたこの奇怪な人物から、彼はキリスト教徒には発見できない真の人間愛を知る。彼等は捕鯨船のピークォッド号に乗り込み、クリスマスの日に運命的な航海に出発するが、その前に狂人のイライジャより破滅的な運命について警告を受ける。

 船長のエイハブは乗組員たちに彼の片脚を奪った白いマッコウクジラ、モービー・ディックへの憎悪を吹き込み、色々な手段で乗組員の魂を支配してしまう。エイハブは最初に白鯨を発見した者への賞金として金貨をメインマストに打ちつける。彼は太陽に嫉妬し、それへの挑戦として四分儀をたたきつけて壊し、船の位置を確かめ、進路を決定する自らの方法を考案する。エイハブは一等航海士で敬虔なキリスト教徒スターバックの白鯨
の追跡を中止しようという訴えをも退け、哀れなビップの願いにも耳をかさない。捕鯨船にはそれ以外、三等航海士フラスク、黒人の銛打ちダグー、アメリカ原住民のタシデゴ等、多様な人種が乗り込んでいたが、皆、モービー・ディックを仕留めることしか頭にないエイハブに従うしかなかった。しかし、なかなかモービー・ディックは姿を現さない。数年追いかけたのち、ようやく日本近海でモービー・デッィクを発見。ここから壮絶な闘いが始まる。

 ここでエイハブは彼の分身ともいえる悪魔のような銛打ちフェデラーを銛打ちに指名し白鯨モービー・ディックを追う。しかし3日間にわたる死闘はエイハブだけではなく、乗組員全体への破滅に終わる。結局、イシュメイルだけが生き残るのである。

 この小説は19世紀前半から中頃のアメリカにおける主要産業であった捕鯨業について空想とリアリズムを交えて語られているが、イシュメイルの見るところでは船長のエイハブは気が狂っている。過去に白いマッコウクジラ、モービー・ディックに片脚を食いちぎられ、復讐の鬼と化して乗組員にまで自分の執念を巻き込んだ末、彼ら全てまでを破滅に追い込んだ。結局、メルヴィルは一般的に言われるシェークスピア悲劇の小説化、悪が人間の外的環境よりは、その心の中に存在するとするホーソーンの象徴的表現に深い、恐ろしい道徳的真理を見い出したのではないか。メルヴィルはホーソーンを規範として、シェイクスピア悲劇の影響の下に捕鯨の物語を書きなおしたといいうことかもしれない。

 ハーマン・メルヴィルは19歳でリヴァプール航路の船に乗り込んでいるし、さらに捕鯨船アクシュネット号に乗り込んで南海に出航したりしている。また、その後、オーストラリアの捕鯨船ルーシー・アン号に乗る。そして、1843年24歳の時、またも捕鯨船に乗り込んでいる。こう言った体験から、メルヴィルに『白鯨』を書かせたのであろうが、メルヴィルはそれ以前にも、『タイピー』『レッド・バーン』『マーディ』『ホワイト・ジャケット』といった著作品がある。何れもこういった海洋物の作品であるが、『白鯨』には彼の人生観が現れているであろう。絶えず死と隣り合わせであると言った乗組員の追いつめられた生活の中で、メルヴィルは様々な人を船の中に登場させ、彼らがどのように思いどのように生き、そのように散って行ったのか。そして白鯨を原始的な自然力、または人間の運命の力の象徴ととらえ、それに立ち向かう人間の艱難に対して勇敢に挑戦する精神の寓話としてイシュメイルに語らせているように思える。

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2013.08.01 (Thu)

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読む

 病院の蔵書コーナーのところに懐かしい文学作品があった。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』である。病院には新潮社文庫版で3巻あったが、他の文庫では4巻か5巻位ある長い長い小説である。それで高校の頃に一度読んだが、もう大昔の話なのであまり詳細を覚えていない。なのでどうせ退屈な入院生活だし、この際、読んでやろうかと思い再びこの歳になって読んだという訳である。こういった古典的文学作品と言うものは、小生のような年齢になるとほとんど読まないものだが、どうせリハビリ以外やることがないので暇にあかせて読んでみた。そうせ病院を出ると読むこともないのだし・・・・・。

 それにしても長い小説だな。話も複雑である。話は1860年代のロシアの地方都市、成金カラマーゾフ家の人々をめぐって展開する。父フョードルは地主貴族とは名ばかりの裸同然の身から出発し、居酒屋の経営や金貸しなどのあくどい稼業で今日の地位を築き上げた成り上がり者である。もはや彼は抑制のきかぬ激しい情熱を持つ物欲と淫蕩の権下化となり、自分も堕落し、周りにも堕落をまき散らすシニカルな毒説家である。

 フョードルの先妻の子で長男のドミートリィは父から抑制のきかぬ情熱譲り受けたものの純粋さを持っている。ただし酒に溺れ、馬鹿騒ぎまでやらかすが、心の中は高潔なものへの憧れがありただし広い心も持ち合わせている。ただし妖艶な美貌の女性グルーシェンカの肉体に夢中になると、許嫁を放り出してしまい父を敵視し殺してやりたいほど憎む。

 次男イワンは後妻の子で理系大学を卒業した聡明な青年である。だがフョードルの人間蔑視が異なった形で彼に投影している。イワンは神を否定し「神の創ったこの世界を認めぬ以上、人間には全てが許される」という独自の理論を打ち立てる。無神論者であり虚無主義者である。ただイワンにも血が流れている。それは兄ドミートリィの許嫁カテリーナに対する思慕に現れるのだった。

 三男アリョーショは修僧院で愛の教えを説くゾシマ長老に傾倒する純粋無垢な青年で、誰からも愛され天使と呼ばれている。しかし彼自身もカラマーゾフ家の血が流れていることは理解している。

 スメルジャコフはカラマーゾフ家の使用人で、癇癪の病を持ち下男として上辺は実直に働いているが、浅薄で奸智にたける。差別扱いされているだけにフョードルを憎む気持ちはだれよりも強いが、実はスメルジャコフはフョードルが白痴女に生ませた子であると噂されている。彼もまたイワンに影響された無神論者である。

 以上がカラマーゾフ家の家族および同居者であるが、ここにカテリーナとグルーシェンカの2人の女性が配される。グルーシェンカはフョードルと組んであくどい儲け仕事に手を染め、自分に熱を上げる親と子を適当に翻弄し、カテリーナを意地悪く嘲笑するような悪女であるが、アリョーシャの澄んだ眼が透視したように、心の奥には純真な清らかさが生きている。これに対しカテリーナは極めて誇りの高い傲慢な女である。

 この2人の女をめぐって父と子、兄と弟の複雑に絡み合った愛欲の闘いが演じられる中で、父フョードルが何者かに殺害される事件が起こる。兄弟たちのいずれも動機がある。スメルジャコフは当の夜、癇癪の発作が起こったという理由から容疑を逃れる。そしてドミートリィが豪遊など様々な状況証拠が揃っていることで逮捕されるのだった。やがて裁判が始まる。裁判の結果、実は神がなければ全てが許されるというイワンの理論にそそのかされてルメルジャコフ癇癪を隠れ蓑にしてフョードルを殺したのである。判決が出る前の日に、スメルジャコフはイワンを訪ねて、全てを打ち明けあなたが殺したのだと言い残して自殺する。

 公判の場で、証人のイワンが突然「私があいつをそそのかして殺させたのです」と
大声で叫び、激しい狂気の発作を起こしたまま連れ去られる。愛するイワンの証言で衝撃をうけたカテリーナはドミートリィを犠牲にしてイワンを救おうとして、父親殺しの罪をドミートリィの手紙を提供する。すると「ドミートリィ、あんたの蛇があんたを破滅させたんだわ」とグルーシェンカが怒りに満ちて叫ぶ。そのグルーシェンカも「許してやれよ」とドミートリィの言った一言でカテリーナを許すのだった。ドミートリィは実際には手を下していないが、心の中で何時も殺してやろうと思っていたことは、殺したも同然だと自分の罪を認めるのである。苦悩の末、それを償おうと不思議な明るい気持ちで20年の懲役の判決を受ける。

 大急ぎで大まかなあらすじを書くとこのようになる。推理小説的な部分もあり父フョードルを殺した犯人まで記述したのはこれから読む人にとってはちょっとまずかったかな。でも、この小説はそんな誰が殺したということよりも、もっと重要なテーマが幾らでも内包されているからあまり大きな意味はない。とにかく素晴らしい小説である。傑作が多いドストエフスキーの中でも屈指の傑作と言えよう。それだけに長くて難しくもあるが・・・・・・。

 この作品の魂はイワンの劇詩『大審問官』であるといわれ、居酒屋でアリューショと対坐したイワンが、この劇詩を読みあげるところにある。この内容も長いので割愛するが、この部分を知りたければ『カラマーゾフの兄弟』を読んでください。つまり作品の内面はと言うとアリューショを巡ってゾンマ長老とイワンの間に展開される思想の闘い、キリスト教と無神論の対決があり、それ以外にも現在社会にもつながる様々な問題が作品の中に採り上げられているということだ。まさに世界文学史の中においても重要度の高い作品と言うことは間違いないだろう。
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