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2014.01.26 (Sun)

ゼロ戦を考える

 ゼロ戦を考えるなんて大袈裟なタイトルだが、このところ百田尚樹の小説『永遠の0』が売れに売れ、映画の方も大ヒット。さらにいうならばスタジオ・ジブリの作品で宮崎駿最後の作品となるであろうアニメ映画『風立ちぬ』がゼロ戦の主任設計者である堀越二郎の話であることから、最近は何かにつけゼロ戦のことが話題になる。それで私としてもゼロ戦というとどうしても子供の頃の思い出として蘇ってくるのだった。当然、私は戦争を体験したのでもないし戦後世代だからゼロ戦の思い出と言っても直接あるわけでもない。ところが何故かゼロ戦というと子供のころの郷愁として懐かしくなってくるのだ。それはおそらく当時の少年向け漫画雑誌の影響であろう。
 私が字が読めるようになって漫画というものに夢中になったのは小学生に上がる頃である。当時は月刊誌、週刊誌共に数多くの漫画雑誌が出版されていた。そんな環境下で私は漫画を読んで育った世代である。それこそありとあらゆる種類の漫画を読んでいた。この辺りはアニメで育った私よりも後の世代とは大きく違っている。それでどういう訳か当時の漫画週刊誌にはよく太平洋戦争(最近は大東亜戦争と言う言い方が一般的になっているが敢えてここでは太平洋戦争で統一する)及び第二次世界大戦の特集を組んでいた。少年マガジンなんて表紙にまで戦艦長門や大和を載せていたぐらいだから・・・・・。どういう意図があったのか判らない。今なら子供に悪影響を与えるとか戦争を肯定するなんて批判が起きそうだが、当時は煩くなかったのかな。まだ10才未満の子供だった私には判りかねるが、そういったおおらかな時代だった。でも、まだ戦後20年もなってなくて戦争経験者が社会の中軸に居た時代なのに今から考えると不思議である。それで、そういった特集記事で第二次世界大戦がどのように行われたか、またどのような戦いだったかと言うのを知ることになるのだが、悲惨だとか凄惨を極めていたかということなど考えることもなく、ただ漠然と読んでいた。また同様に当時の漫画としても戦記物が多かったのも事実だ。
 『0戦はやと』辻なおき、『大空のサムライ』九里一平、『大空三四郎』吉田竜夫、『ゼロ戦レッド』貝塚ひろし、『忍者部隊月光』吉田竜夫、『紫電改のタカ』ちばてつや・・・・・・。これらは全て、第二次世界大戦が舞台になるのだが、不思議とゼロ戦のパイロットの話が多かった。ただ『大空のサムライ』は陸軍の加藤隼戦闘隊の話で、『紫電改のタカ』は紫電改のパイロットの話である。
 まあ、なんだかんだとこのような漫画雑誌で第二次世界大戦、太平洋戦争というものや戦艦大和、武蔵、ゼロ戦、隼、飛燕、月光、空母赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍、グラマン、ボーイングB-29、スピットファイア、メッサーシュミット、ノルマンディー上陸作戦、真珠湾攻撃、ガダルカナル島、原子爆弾等を知ることとなるのである。当時、深い意味も考えず読んでいた覚えがあるが、戦争の悲惨さよりも英雄的な描き方をしている話も多かった。それで当時、戦争の大義とか時代背景でこうなったとかのことはあまり書かれてなかったように思う。ただ人物を中心に描いていて、そんな中で戦争とはいけないものだという漠然とした考えで捉えていたというのが実情だと思う。もっとも私が色々なことを知るのは高校以降、より多くの書物を読むに当たり色々と考えさせらることになるのであるが・・・・・・・・。それで今回はゼロ戦の話である。
 今、上映中の映画『永遠の〇』でゼロ戦を知った女子高生がいると聞いて私は驚いたのである。もうそんな時代になったのだと・・・・。私がゼロ戦を知ったのは小学校に上がった頃の漫画雑誌でだが、今の漫画雑誌には第二次世界大戦のことを記事に載せるようなことはほとんどないから無理もない。時代も違っているから当然だ。今の高校生なら親の世代でも戦争体験がないから実際にどのような戦争であったかは体験者から直に聞くことはないだろう。そして、ゼロ戦のパイロットから多くの若者が神風特攻隊として散っていく現実を知って今の女子高生が涙することになった。もう70年以上前の話だ。でもまだ約70年ほど前の話なのだ。
 日本が焼け野原になって無条件降伏して復興。すっかり当時とは社会環境も時代背景も生活様式も様変わりしてしまった。この約70年で日本と言う国はひたすら平和で在り続け、他国からの攻撃も受けず戦禍も関係ない民主主義国家である。それもこれもあの敗戦からのトラウマがあったのかもしれない。もう過ちは犯さないと。それで戦争の悲惨さを後世に伝え、平和を保ち続けるのはいいことである。ただ、それは当然のこととして捉えるのではなく過去には、こういったお国のためにだとか天皇陛下様バンザイといった滅私奉公、皇国史観の精神と共に、このような死に方で消えていった多くの人がいたということと、それらの戦死者の礎で今日の日本という国家が存在するということはけして忘れてはならないということである。今の日本があるのも計り知れない壮絶な過去があっての話であるということ。それ故にもう同じ轍を踏まないと肝に銘じても、日本を戦争と言う愚かな行いからは避け続けてきたという現実は知っていてほしいいのである。
まず、何故、日中戦争、太平洋戦争に至るかの話なのだが、これは話し出すと文面が幾らあっても語れるものでもないので、これ等は自分自身でより多くの書物を読んでもらうしかない。それも一方向から読むのではなく多方面から書物は読んだ方がいい。そうでないと客観視出来ないからである。まあ、戦争に至るまでの話は割愛するとして、ゼロ戦が登場した経緯についてここでは書いてみたいと思う。

 ゼロ戦って何だと『永遠の0』を観て疑問を持つ子は多いだろう。ゼロ戦とは三菱零式艦上戦闘機の愛称である。そもそもゼロ戦が制作された経緯は次のようなものである。昭和12年に大日本帝国海軍が艦上戦闘機(航空母艦から発艦する戦闘機)を新しく開発してくれと三菱重工業と中島飛行機に依頼したのが始まりである。計画では十二式艦上戦闘機計画要求書として書かれてあって、それには長大な飛行距離と卓越した格闘性能を持つ戦闘機ということであり当時の技術では不可能とされた。それで中島飛行機側は「こんな過酷な要求では造れない」と辞退してしまう。ところが三菱の主任設計技師である堀越二郎は「ないものねだり」といいながらも設計に取り掛かり昭和14年4月に試作機が完成して岐阜県の各務原で初飛行したのである。そして翌、昭和15年の皇紀2600年に海軍の正式戦闘機として採用されたのである。名称は神武天皇即位から2600年に当たるということで下二桁の00の数字を名称として零式と呼ばれたのである。零式だから『れいしき』が正しいのだろうが、ゼロ式という呼び方も当時の日本人兵士には大勢いたのでゼロ戦と言う通り名称が一般化したのだろう。実際に坂井三郎というゼロ戦の名パイロットの著書『大空のサムライ』でもゼロとして使っているし、連合国側でもゼロファイターとして轟いていたからこの祭、ゼロで統一することにする。
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2014.01.25 (Sat)

サム&デイヴを聴く



 テレビは最近ほとんど観ないのだが、時折スイッチを入れてみたりする。すると突然CМに使われている曲に耳を傾けていたりする。それらは昔、聴いていて馴染んでいた曲であったものの久しく聴かずにいて忘却の彼方にあったものが、今、再び当時の想い出と同時に呼び戻されるのだ。つまりその頃に聴いていたのだが、長年の間、聴くこともなく過ごしていると、すっかりその曲のことも忘れていたのに「ああこんな曲があったな」と記憶の1頁に入って行けて、当時のことがその曲とともオーバーラップし全て想いだされることが多い。日頃は鬱陶しいだけのCМが、そういった時には有難く感じるのである。そういえばCМの曲の選択はだれがするのかしらないが、少年時代によく聴いた曲が最近、CМで流されることが多い。ということはCМの制作者が私と近い年齢なのか、同じような曲を聴いて育ったのか、それともなんかのきっかけで曲を気にいってCМに使うことにしたのかのどれかだろう。何れにしても最近CМで使われる曲にオッと驚くことが多い。
 つい最近のことであるが、HONDAのCМで流れていた曲に聞き耳をたてたのである。それはサム&デイヴが1967年に歌ってヒットした『ソウル・マン』である。イントロを聴くやすぐにサビの部分の歌詞~アイ・ム・ア・ソウルマン アイ・ム・ア・ソウルマン~が浮かんでくるぐらい覚えていた。だが、サム&デイヴなんて久しく忘れていた。
 彼等が来日した1969年には私はサンケイ・ホールへ友人のT君と聴きに行っているぐらいなのにすっかり忘れていた。サム&デイヴ、実に懐かしい名前だ。サミュエル・デイヴィッド・ムーアとデイヴ・プレイターによるリズム&ブルースのデュオ・グループ。マイアミで結成され1961年デビュー。もともとゴスペルを歌っていた2人が出会いマイナー・レーベルでデビューしたが売れず、アトランティック・レコードの副社長ジェリー・ウェクスラーの目にとまりアトランティックと契約。メンフィスのスタックス・レーベルに紹介し、このスタックス・レーベルで1966年にサム&デイヴは最初のヒット曲『Hold On I’m Coming』を出す。そして1967年『Soul Man』、1968年『I Thank You』、1969年『Soul Sister ,Brown Sugar』等、リズム&ブルース、ソウル部門では確実にヒット曲を出すようになる。その中でも『ソウル・マン』は最もヒットした曲で、金管セクションのをバックに歌う2人。高音のサムと低音のデイヴがソウルフルでパワフルな歌を聴かしてくれるのだ。
 ところで何故、私がこのサム&デイヴの来日ライヴを観に行ったっと言うのは今思えば謎だ。特別にリズム&ブルースが好きだったというのでもない。オーティス・レディングやサム・クック、ウィルソン・ピケット等も頻繁に聴いていたというのでもない。ただ当時、ビートルズを断トツにに聴いていたのだが、それ以外のアーティストだとジャンルを問わずどれも平均的な頻度で聴いていたように思う。ただあの当時は中学生。今のようにアルバムなど買えなかったから、ラジオで流れる曲を聴いていただけで、サム&デイヴのヒット曲といえば『ソウル・マン』しか知らなかった。それでライヴに行ったなんて随分と乱暴な話である。おそらく友人のTがローリング・ストーンズのファンだった関係から黒人音楽も好きだったということで、一緒に行ったのだと思う。ところがステージに現れたサム&デイヴは、自分たちの曲以外の『Dock Of The Bay』『Wonderful World』『You Send Me』『Bring It On Home』『Summertaime』『Let It Be Me』といった馴染みの曲も歌い、聴衆を酔わせたのである。それは当時、多いとは思えない日本のリズム&ブルース・ファンに気を使ってサービス精神でスタンダード曲をライヴに多く取り入れたのであろうが、スタンダード曲でもサム&デイヴ流にアレンジし、さらに2人の絡みが絶妙で実に楽しいライヴであったという記憶がある。
 彼等の曲の大半はアイザック・ヘイズ、デイヴィッド・ポーターが書いていて、曲もさることながら歌詞にも公民権運動が盛り上がっていた時代を象徴する内容が多く、ソウルという言葉が独り歩きした時代でもある。まさにそんな時代の曲が『ソウル・マン』であった。
 ところでサム&デイヴは1981年で実質はデュオを組んでいないが、1988にはデイヴ・プレイターが亡くなってしまい事実上サム&デイヴは消滅してしまった。ただサムことサミュエル・ムーアは最近でも来日してライヴハウスで歌っているから老いてますます盛んというところである。

Hold On I'm Coming


Soul Man

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2014.01.19 (Sun)

うっすらと屋根に雪が・・・

 今冬は毎日寒いのだが、まだ私の住む近辺では積雪はなかった。ところが今日、起床して外を見ると薄っすらと雪化粧。まあ、雪化粧と言っても積雪したというのでもなく路面は濡れていて、民家の屋根を白く覆ったという程度である。もっとも滋賀県は何時もの通り見事に現世界だろうが、京都府も南部は最近は雪も降らなくなった。つまり雪が昔ほど降らなくなったということかな。この冬は例年よりも寒いと言っても地球温暖化が叫ばれる以前の冬は、毎年のように寒かったということなのだ。でもそれでさえ45億年の地球の歴史から考えると大した問題ではないかもしれない。我々は有史以来という言葉を使うが、人間が文明をもって、文字や絵で記録を残すにしても数万年以内の出来事だから最近は地球温暖化が進んでといったところで意味がないように思えるのだが、それでもこの100年で地球の平均気温は上昇しているという。とすると人類が自らの手で地球温暖化に手を染めてしまったのかな。でも地球の歴史において氷河期が何度かあって、そのサイクルの中でたまたまた気温が高くなっているだけだと言う人もいて、本当のところはどうなのだ・・・・・。まだ科学的データをとりだしてから日が浅いということで、地球温暖化と言ってもまだ判らない部分が多すぎるということかもしれない。でも産業革命以降、急激に人類が増加し、化石燃料を使いだし、それにより地球の気温が上がりだしたということは確かなようでもある。考えてみれば科学の発達とそれは比例していて、世の中が便利になればなるほど夏が暑くなっていく。それで逆に暖冬化の傾向だったのだが、この数年は冬も寒い年が多いような気がしないでもない。そして、今季の冬は間違いなく寒い。ただ冬が寒くても今は暖房設備が整っていて室内は快適である。それで考えるのだが、私の母の時代はエアコンなんて当然ないし、ストーブも石炭ストーブぐらいで、これも使っている家ってあまりなかっただろう。私が小学校に入った頃は、まだ石炭ストーブを使っていた。それでバケツに石炭をてんこ盛り積み込んで教室に持ち込んで、日直当番の者がストーブに火を入れて教室内を暖めていたという時代だった。それが石炭ストーブから石油ストーブに変わっていった時代で、エアコンなんてものはまだ学校で使ってなかった。それが家庭内だと石油ストーブもなく大方の家は火鉢という時代だったのだ。今でいう電気炬燵なんてものはなく、それは昭和30年代後半になって家庭に出回ったのではないかな。
 私が子供のころは掘り炬燵のある家があって、その炬燵も炭か何かに火をつけて暖めていたものである。考えてみれば40年、50年前の暖房器具っていうものは、そのようなものだった。だから冬は今よりも明らかに寒く感じたかもしれない。もっとも子供の頃の話だから、明確に覚えているというものでもないが、暖房も冷房もエアコン化が進んだのは30年以内のことだろう。それによってより電力を消化するようになり、地球温暖化が進んだとするなら冷房は仕方ないにしても、暖房はエアコンをあまり使わず他の暖房方に頼れないものだろうか。私自身は冬になるとエアコンは使用せず、石油ストーブをを焚いているのである。まあ、これはエアコンの生温かい空気が頭にかかると心地よくないので、石油ストーブにしているだけなのであるが・・・・。それと昔は湯たんぽというのも使っていたかな。今でも使っている人がいるようであるが、考えてみればそれだけ昔の冬は寒かった上に寒く感じたものだ。今はセントラルヒーティングなんて言うのもあって、家を出なければ外の気温がまったく伝わらない。子供のころ、ストーブもなく火鉢で暖をとっていたが、部屋全体がそれほど暖まらなくて、それも火鉢に練炭を入れて火をつけてなんて面倒くさいことをやっていたものだ。それで何時も手が荒れていたような気がする。だから時代が進んで便利良さから昔に戻れないでいる。でもそれにより地球温暖化が加速されたとしたら矛盾極まりない話だが、もう一旦手に入れた快適さを失う訳にもいかなくなった。さあ、人類はどうするのか。今後、我々は大きな課題を持ちつつ生きていかなければならなくなったのだ。
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2014.01.18 (Sat)

ターナー展に行く



 神戸市立博物館で開催中のターナー展に行ってきた。意外にもすいていてゆっくりと鑑賞できたかな。ターナーと言うとイギリスを代表する風景画家であるが、その名を聞くとすぐに小学生の頃の思い出が浮かび上がる。小学生の高学年だった時、家に何故か水彩画の画集があった。それがターナーの水彩画だったのだ。この画集はその後に芸大へ進学した姉が買ってきた物で、それを盛んに眺めていたものである。それで子供心にも水彩画でこんなに精密な物が描けるのだなと羨望の目で見ていたものである。それ以来、ターナーの絵が絶えず頭の中にあったのか、それ以来、図画の時間で絵を描くときは何時もターナーの絵のような風景画を描こうと心掛けていた想い出がある。でもその技法も判らない。水彩画と言うのは小学校の時なら誰でも描くが、とてもじゃないが水を使うので滲んでしまい、多めに水を使うと紙がフニャフニャになり、また上から別の色を使うと色が混ざってしまい思うような色が出ず、結局は思うような絵が描けず悪戦苦闘した印象しかない。なのでターナーの水彩画を見てこの描き方を少しでも見てみたいと当時、切実に感じていたのでもある。それだけターナーと言うのは水彩画家での画家という印象が強かった。ところが一般的には油彩画で知られている。風景画家である事に変わりはないが、小さな小品ばかりの水彩画と違い、油彩画になると巨大化して、より絵に迫力が増していく。描くテーマも海洋物が多く、嵐の風景や、難破船、そしてイタリアの風景。ローマやナポリ、ベニス等、そして晩年の蒸気機関車を描いた抽象的な作品。これ等の作品は肌理細やかであり勇壮であるが、時代により画風が微妙に変化していくの読み取れる。これはターナー自身に何らかの変化があったのかどうか判らないが、この画風の変遷は大いに興味が湧く。ちょうどクロード・モネの画風が変化して行ったのと同様な変化の仕方だなと個人的に感じたのだが、時代的にはターナーの方が60年以上古いのだな。

 ターナーことジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは1775年4月、ロンドンの中心部に近いロイヤル・オペラ・ハウスで有名なコヴェント・ガーデで生まれた。父は理髪店を営んでいたが母は精神疾患があったという。そういった事情もあり母親からの影響をほとんど受けず学校もほぼ行ってなかったという。それでいて絵を描くのが好きで、その頃から大人が感嘆するほどの絵を描いていて、父は理髪店の窓に息子の絵を飾っていたという。13歳になってトーマス・マートン(風景画家)に弟子入りして本格的に絵画をを学ぶ。そして1年後にはロイヤル・アカデミー美術学校に入学。作品を発表するや評判が広まり、1799年、24歳でロイヤル・アカデミー準会員、27歳で正会員となる。画家になった初期は水彩画ばかりを描いていて、1790年代半ばから油彩画を描くようになったのである。
 それで今回展示されていた作品は油彩画が約30点で他はスケッチと水彩画で110点。数としてはそれほど大規模ではないが、『レグルス』『スピットヘッド・ポーツマス港に入る拿捕された二隻のデンマーク船』『チャイルド・ハロルドの巡礼』『ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ』『ヴェネツィア、嘆きの橋』といった見応えのある大作も何点か展示されていた。ただ晩年の作品である『雨、蒸気、スピードグレート・ウェスタン鉄道』は今回は来てなかったな。残念。まあ今回、展示されていた作品はテード・ギャラリー所蔵の物だからしょうがないが、まあターナーの作品は油彩画が有名なのであるが、私にとっては子供のころに触れた水彩画の多くにより感銘を受けたのである。流石にイギリス最高の巨匠と言われる画家であり、歴史画ではなく本格的な風景画を描き、風景画の地位を高めた最初の人といってもいいターナーである。フランスの多くのバルビゾン派、印象派を始めとした風景画家が出てくるのはターナーよりも半世紀後のこと。ターナーは時代の寵児であり先を行ってたのかもしれない。

EDIT  |  15:41  |  美術  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2014.01.13 (Mon)

成人の日とかで・・・

 今日は成人の日とかで月曜日なのにお休み。それで朝から買い出しに出て行ったのだが、これから成人式に行くのだろうという晴れ着を着た若い女性何人かに出会った。みんな振袖姿で一生に一度の成人式に臨むのだろう。こちらは微笑ましいなあと思いながら、心の中でおめでとうという気持ちで見ていた。だが、一つ気になったことがある。今の若者の多くは薄く髪を染めているのだなあということ。時代といえば時代だが、我々の頃は髪を染めるなんて者はいなかった。何の影響なのだろうか。今時、西洋かぶれっと言うのでもないだろうが。酷いのになると金髪に晴れ着と言うアンバランスの女性までいた。何だかな・・・・・・。
 それはそうと今年の新成人は121万人だとさ。随分と少ないなという印象だ。統計を取り始めた1968年からだと史上で最も少ないらしい。それだけ少子化が進んでいるということであって、悩める老人大国日本の問題点が浮き彫りにされた形となっている。1970年の20歳人口は246万人だから当時の半分以下ということになる。つまり日本という国家は、今後において問題が山積していて、老人がますます増え労働人口が減って行き、経済成長もあまり期待できない。その上で若者たちは、今後ますます膨らんでいく借金大国の経済を背負っていかないといけないなんて可哀そうでもある。
 ところで新成人はどのように考えているのかということで、とある媒体がおこなった意識調査というものがある。それによると今年の新成人が成人式に出席するかどうかという問に対して81.6%が出席すると答えたという。これは高いのかどうなのか判らなかったが、今の40歳が成人の時は60.7%だったらしい。さらにいうと我々の年代に近い今の60歳の人が成人の時の成人式への出席は48.8%というから半分も出席しなかったということになる。すると今の若者はこういった行事に積極的に参加するのだなと思った。そういえば私なんかも成人式には参加しなかったし参加する意味も見いだせなかった。当時は大人が与えた格式ばった下らない儀式なんか出ていけるかといった、今から思うと莫迦らしい反骨精神みたいなものを持っている若者が大勢いたりして、何か不満を抱えていたように思う。我々の世代は団塊の世代の後のしらけ世代と言われたりしたが、それでも世の中に不満を持っていたし自身でも何処かに不安を抱えていたように思う。ただ考えてもしょうがないので前に進むしかなかったが、今の若者は概ね世の中に満足しているかやや満足しているという人が多いうという。これを聞くとやはり我々のころとは違うかなと思ったりするが、こればかりは今の時代の若者ではないので判らない。
 考えてみれば今の20歳の子っていうのは生まれた時が既にバブル崩壊後で、ゆとり世代と言われ、それでいて失われた時代に育ってきた。つまり良い時代の日本というものを体験していない。それでいて既に物質的には恵まれていた。ただ今後成長があまり期待できない国内にあって生き続けていかなくてはならない。大きい希望もないかもしれないが贅沢さえしなければ生きてはいける。そういう時代なのかもしれない。でも今後、どのような時代になって行くのかそれは判らない。いずれにせよ20歳の若者に明るい未来があるような世の中になればいいのだが、今の現実は厳しいというしかないだろう。
 
EDIT  |  12:49  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2014.01.11 (Sat)

このところ毎日寒くて・・・

 今週は寒かったかな。水曜日に一日中雨が降り、木曜日は鬱陶しい一日で、昨日は朝から寒く、日中でも気温が上がらずまさに底冷えの日であった。まだ大寒までには少しあるのだが今冬は既に寒い。全国的に見ても寒く、昨日の朝は京都もちらほろと雪が降った。もっとも京都市内北部での話で北山の金閣寺はうっすらと雪化粧。小生の住んでいるところはこの寒さにもかかわらず雪も降らなかった模様。同じ京都でも随分と違うものである。さらに京都府という範囲で言うならば丹後半島や舞鶴や丹波の方では確実に積雪しているだろう。京都府は南北に長く北部は日本海に面している。こういった丹後地方では必ずと言って雪が積もるのであって、小生が住んでいる同じ京都府内とは思えない。これも明治になって廃藩置県の時に丹後も丹波も山城も一緒にして京都府としてしまったから、このような事が起こってしまうのだが、丹後あたりに住んでいると京都市内へ来るのも大変だろうなあ。殊に冬になるとちょっと京都市内へ行って来るというのも簡単にはいかないようである。それは交通の便が悪いからであるのだが・・・・。
 山陰線は単線のところが多く直通の普通電車もないから特急とか乗らないといけないし、それも頻繁に本数があるというのでもない。それなら車でとなるのだが、高速道路も雪が積もるとちょっとしたスピードも出せないのだ。だから丹後あたりから京都市内へ出ていくのも日帰りとなるとちょっと大変である。まあ、感覚的に言うと京都市内から東京へ新幹線で日帰りするような感覚である。それを丹後の人はたかだか同じ府内へ移動するだけでもそういったことを体験させられるのである。だから京都府での人口分布を見てみると京都市内を中心とした南部に人口が偏っているのは納得できる。つまり冬の積雪を考えるとどうしても京都府北部は住みにくいということになるのかもしれない。
それにしてもこの寒さは堪える。れから冬が本番になるというのに参ったな。北極を中心にして北半球では偏西風が吹くが、その偏西風が冷たい空気を運んでくる。その偏西風が今年は蛇行していて、日本列島に覆いかぶさり、されにアメリカは全土を覆い尽くしているというから、日本よりもアメリカで寒気が猛威をふるっているみたいだ。なにしろアメリカは20年振りの寒さというから日本の比ではないな。それに反して偏西風のあまり影響を受けていないヨーロッパはあまり寒くないという。ということは地球の何処かで寒いところと暖かいところがあって、それでバランスがとれているということなのか?
 どちらにしても地球温暖化傾向と言いながら時々、寒い冬がある。それが日本列島においては今年にあたるということかもしれない。もっとも来年は暖かい冬と言う保証もないのだが、年齢を重ねてくると暑いのは当然のように嫌だが寒いのも嫌になって来る。やっぱり春と秋がいいなあ。
EDIT  |  17:02  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2014.01.05 (Sun)

ああ、眠い

 今年の年末年始は上手い具合に日曜日の間へ治まったので、土曜、日曜休日を入れるとほぼ9日間の連休という大型となった。それでいうのでもないが、連休中は海外へ旅立つ人も多かったようだ。小生は若いころならともかく最近は長時間の機乗もつらいのでとんと海外は御無沙汰である。もうあちらこちらへ行く気も失せてきた。何とも情けない話だがしょうがない。入院してからは特に気をつけている。それで今年も相変わらずの寝正月。何とも怠惰な毎日であった。酒はほとんど飲まなかったが、久しぶりによく食べた。つまり食っちゃ寝えの毎日ですっかり気分も堕落してしまった。おまけに深夜遅くまで起きているので早朝に起きれない。もっともあまり寝れないので睡眠時間自体も短いのだが、すっかり宵っ張りの朝寝坊という悪い習慣がついてしまった。これを規則正しい生活に修正するのも一苦労であるが、これから本格的に寒くなってくるので朝がつらくなるな。したがって床に就く時間も早くしないとこれから朝が起きれない。それにしても身体が何に対しても対応がすぐにできないでいる。なので突然、宵っ張りの朝寝坊から急に規則正しい生活をと思ってもなかなか替えられるものではない。したがって最近は朝が何時も眠い。
 もっとも怠惰な年末年始ではあったが本もまたよく読んだ。というよりも本を読むか寝ているか、それ以外はなかったという正月であった。これといって良い本に巡り合ったのでもないが、とにかく本だけは最近、よく読んでいるかな。でも読みだすとすぐに眠くなるからこまったものである。それで取り敢えず字を目が追っている。そういう訳で頭に入ったかというと???がつく。こんな調子で本を読んでいるから数多くの本を読んだと言っても大したことはない。まあ読んだ本の大半はくだらない小説が多いのだが、最近はなかなか興味深い小説にもなかなか出会えない。だから読んでいて眠くなるのである。そんなこんなで毎日、年末年始はグダグダした毎日を送っていたが、これから気を引き締めて行かないといけないのでもある。そして明日からは日本列島が本格的に動き出すのだが、小生はそれについていくのもだんだんと辛くなりつつあるのでもある。しかし眠いな・・・。
EDIT  |  09:47  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2014.01.02 (Thu)

ベートーヴェンの交響曲第3番『エロイカ』を聴く

上がフルトヴェングラー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のCD
下がブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団のCD


 何時の頃から本格的にクラシック音楽を聴くようになったのかな。幼少の頃、姉が持っていたオルゴールのメロディはチャイコフスキーの『白鳥の湖』だったし、テレビで放映されていた『ローン・レンジャー』はロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』を使っていたし、日本で最初のテレビ・アニメ『鉄腕アトム』第1回の放映の時は、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番第1楽章、ベートーヴェン交響曲第5番の冒頭、ワーグナーの『ローエングリン』第1幕の前奏曲を立て続けに流していたし、吉永小百合主演の日活映画『キューポラのある町』ではブラームスの交響曲第4番の第1楽章を使っていた。これらは全て小学生の頃の思い出であるが、それで小学生の頃、学校から大阪にあるフェステイバル・ホールというところへ初めて行った。そして大きいホールなので唖然とした。その時は大阪フィルが小学生向けの短い曲ばかりを演奏していたが、今となっては何を演奏したのか、指揮者が誰だったのかも覚えてない。ただビゼーの『カルメン前奏曲』『アルルの女のファランドール』、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』から『結婚行進曲』、鉄腕アトムのテーマ曲等を演奏したのだけは覚えている。でも、当時聴いていたのはほとんど断片で、交響曲や協奏曲とかいった楽章が幾つかある曲は聴いた事がなかったように思う。それで中学に入ってからLP盤を1枚買ったのであるが、それがブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団演奏のベートーヴェン交響曲第3番『英雄』変ホ長調 作品55というやつである。何故、この曲のLP盤を買ったのか記憶はない。確か、母が何かレコード盤を買ってあげるからということで、これを選んだという事だけは覚えている。ただし中学生当時、小生は洋楽のポップスに夢中で、それこそビートルズやローリング・ストーンス、アニマルズ、モンキーズ、その他大勢に夢中になっていて、クラシックを熱心に聴いていたのでもない。だが、小学生の時、ステレオ・プレーヤーと言う珍しい代物が家に入ってきたとき、その試聴盤をよく聴いていた。その試聴盤は小田急の特急が通過する音や、卓球の球が左右に跳ねていく音、ジェットコースターの音とかに混じってクラシックの曲も幾つか入っていた。それでベートーヴェンの5番(昔は運命なんていわれたが)の第1楽章(フリッツ・ライナー指揮、シカゴ交響楽団)は繰り返し聴いていたのである。そういった体験が過去にあったので、いつかクラシックの大曲を全て聴いてみたいという思いが心のどこかにあったのだろう。それで小学生の時にベートーヴェンの伝記を読んだことがあり、ナポレオンの偉業に触発されてこの交響曲3番を作曲したことを覚えていたので、当時、全曲聴いてみたいと思っていたのかもしれない。

 ベートーヴェンの交響曲3番は通称『エロイカ』というが、ベートーヴェン自身が名付けたタイトルである。この曲の着想は1802年というからベートーヴェンがハイリゲンシュタットで自殺しようと思い遺書まで残した頃だとされる(何故、自殺まで考えたのかは謎。耳が聞こえなくなってきたというのも一因とされるが)。自殺まで考えたベートーヴェンであるが、一方でナポレオンが破竹の勢いで現れた。このナポレオンの偉業を英雄として曲にしようといった着想が出てきたのである。ベートーヴェンはやがて立ち直り『エロイカ』を作曲する。ベートーヴェンの無給秘書をもって自ら任じていたシントラーの書いた『ベートーヴェン伝』によると1804年の春に完成したこの交響曲の写しをベートーヴェンはフランス大使館を通じてパリに送ろうとしたそうである。それはナポレオンに献呈するつもりだったからだが、5月18日にナポレオンが皇帝に即位したという知らせがベートーヴェンの耳に入り表紙を破り捨て楽譜を床に叩きつけたという。「あの男も要するに俗人であった。あれも自分の野心を満足させるために、民衆の権利を踏みにじって、誰よりも暴君になるだろう」と叫んだらしい。
 フランス革命は1789年に勃発、コルシカ島出身の砲兵士巻官、議会軍を指揮してこの大革命に登場、片っ端から敵を倒し国内最高司令官、イタリア遠征軍司令官、連戦連勝と言う超人ナポレオンに、ベートーヴェンは自由精神の旗手、人間解放の姿を見たのかもしれない。革命的英雄に対する讃歌としてこの交響曲は書かれたのであるが、皇帝に即位したということで裏切られたように思ったのかもしれない。結局、この大曲は『シンフォニア・エロイカ』とイタリア語で譜面に書かれ〈ある偉人の想い出をまつるために作曲された〉という言葉が添えられていた。
完成した当初は不評であった。長過ぎる。統一感がない。明るさと透明さがない。それまでのハイドン、モーツァルトが書いた交響曲に比べると倍ぐらい長い曲で、第2楽章が葬送行進曲で第3楽章がスケルツォというこれまでにない形式の新しい形の交響曲となった。それ故に革新的だったのだろう。当初は不評だったが、今思えばそれらの不評はこの曲の長所の裏返しであり、『エロイカ』が時代の先を行った素晴らしい曲であるということを指摘しているようなものだ。小生などはこの曲を回を重ねて聴くようになればなるほど、ベートーヴェンの『エロイカ』に愛着がわいていったほどだ。そして現在、小生の手元には『エロイカ』のCDだけで30枚以上ある。指揮者でいえばフルトヴェングラーからトスカニーニ、ワルター、E・クライバー、クレンペラー、モントゥー、カラヤン、ベーム、オーマンディ、クナッパーツブッシュ、バーンスタイン、ショルティ、アバド、H・S・イッセルシュテット、ホグウッド、マリナー等、フルトヴェングラーだけで何枚あるかな・・・・。とにかくこの曲を聴くと気分が鼓舞されるというか、べートーヴェンの交響曲の中では個人的に1番好きな曲である。それ故に聴きまくったという思いはある。とにかく、この曲を最初から最後まで聴いてから、クラシック音楽を本格的に聴くようになったのでもある。それだけに忘れられない曲でもある。


レナード・バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
べートーヴェン 交響曲第3番『英雄』第1楽章


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