2009.12.31 (Thu)
ショパンのエチュードを聴く

2009年最後の記事がショパンか。ショパンというのはピアノの詩人とかいわれるほど厖大なピアノ曲を残していて、それが何れも人気がある。2つのピアノ協奏曲を始め、3曲のピアノ・ソナタと多くのピアノ曲群がある。エコセーズ、変奏曲、幻想曲、スケルツォ、プレリュード、即興曲、バラード、ポロネーズ、マズルカ、ノクターン、ワルツ、そしてエチュードがある。これらは小品が多く、何れも作品群として後世に残っているが、作曲家としては王道を行っていると言い難く、協奏曲以外に管弦楽曲をほとんど残さず、室内楽、歌曲が知れ渡っているぐらいで、ショパンの作品の多くはピアノ曲に集中しているという稀有な作曲家である。それはどうしてなのかというと、ショパンが生きている時代にピアノという楽器が大きく世の中に浸透し始めたからだろうと思われる。ピアノが技術開発され、ほぼ現在の形になったのはショパンの生きていた時代であろうし、それにより演奏技術の開拓に懸命になるピアニストが大勢いたことも関係しているだろう。それによって新しいピアノ曲を作曲せねばならなかった。つまり、この時代にピアノの達人リストも出現しているように、演奏技術の進歩と共に難易度のあるピアノ曲を幾つか作曲する必然せいもあったであろう。また、ピアノ以外の曲をほとんど作らなかったのは、彼自身の性格によるものかもしれない。彼はオーケストラのような手間のかかる曲を避けていた?
生涯、肺結核という病気に悩まされていた関係から大曲は作れなかったのか、それとも淡白(?)な性格から色々な楽器に手を染めたくなかったのか判らないが、現実に39歳で世を去っているのだから、自分の死期が絶えず念頭にあったと考えられるのだ。それに彼自身ピアノ弾きでもあり、ピアノの可能性を伸ばせる曲ばかりを作っていた方が、楽しいということもあるだろう。実際にはショパンは歌劇も好きであったという話もあるが、歌劇ともなるとオーケストラ部分も含めて全般、合唱曲、アリアといった歌が中心となり、とても彼の性格からは書けるような量ではない。それだからというのでもないが歌曲も作曲はしている。でも彼の歌曲はピアノ曲ほどの印象は残らない。結局、自身もピアノで思いを伝えることの意義を見出していたかのように思えるのだ。それがピアノの詩人と言われるほど、ピアノ曲に精魂を込めていた一因ではないかとは思うのだがだが・・・・・・。
ところで、このエチュードとは日本語で練習曲と訳されるショパンがピアノの練習用に書いた作品群である。全部で27曲あるとされ、作品番号で言うとOp10が12曲あり、Op25が25曲ある。そこへ作品番号のない25番、26番、27番の練習曲が加わっている。全部で27曲あるというものの長い曲で4分ぐらい、短い曲だと1分程度の小品群である。でもショパンを語る上で欠かせないのがエチュードなのである。この中では標題つきの曲が流石に知れ渡っているが、全般を聴き比べてみても印象に残るのが標題のついている曲ということになる。つまり第3番ホ長調Op.10-3『別れの曲』、第5番変ホ長調Op.10-5『黒鍵』、第12番ハ短調Op.10-12『革命』、第21番変ト長調Op.25-9『喋々』、第23番イ短調Op.25-11『木枯らし』なのだが、『別れの曲』なんかは、今から20年近く前になるだろうかテレビのドラマで使われてから特に有名になったような気がする。ことに現40代の女性は、このドラマを観ていたのではないだろうか。『101回目のプロポーズ』というドラマで武田鉄矢が浅野温子にプロポーズするのだが、とにかく臭いドラマで観ていてアホらしくなってきたという覚えがある。
当時、職場の若い女性に感動するから観て観てと言われ、話のネタにと観たものの武田鉄矢が「僕は死にましぇん」と言ってみたり、オーケストラのチェリストである浅野温子がチェロを弾いている時、ちっとも左手が曲に一致したポジションを押さえておらず、またヴィヴラートかけてないなど、製作過程からしてお粗末極まりないドラマで呆れ返ってしまったものであるが、このドラマの中で『別れの曲』が一貫して毎度のように使われていたのである(あとノクターンの5番も使われていた)。それ以来、この曲は女性達の間では有名になったように思うが・・・・。
何だか過去のドラマに対して苦言を呈するような形になってしまったが、ショパンの曲というのは映画でもドラマでも昔から使われることが多かった。実在のピアニストエディ・デューティンの伝記映画『愛情物語』ではノクターン2番が全編で使われたし、アメリカン・ニュー・シネマの『ファイブ・イージー・ピーセス』ではプレリュードの4番、イングマル・ベルイマンの映画『秋のソナタ』ではプレリュードの2番、大林寅彦の映画『さびしんぼう』ではワルツ9番『別れ』、黒澤明の『夢』ではプレリュード15番『雨垂れ』といったように効果的に使われていた。またテレビ・ドラマでもTBS『少女に何が起こったのか』でエチュード12番『革命』が、フジ『ロング・バケーション』でエチュード5番『黒鍵』と『幻想即興曲』が使われていたことはいうまでもない。それに、昔から胃腸薬『太田胃酸』のCMではショパンのプレリュード7番が使われていたりして、ショパンのことをあまり知らなくても曲だけは知っているという現象が起きていたりする。それだけショパンの曲というのは人の感性に訴える作品が多くメロディも無理なく身体に入ってくる。いわば大袈裟ではなく等身大でいて身近なところにある曲。つまり誰もが心を惹かれるメロディが多く大衆性があるということになる。
さあ、いよいよ2009年も終わろうとしている。こんな慌しく世知辛いご時世にショパンの曲でも聴いてみては如何かと・・・・・・・・。
全盲のピアニスト辻井伸行が弾くエチュード第3番ホ長調Op-3『別れの曲』
小山実稚恵が弾くエチュード第12番ハ短調Op10-12『革命』
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2009.12.30 (Wed)
CDプレーヤー

何年振りかでスピーカーのついているCDプレーヤーで音楽を聴いた。・・・というのは、今日、ラジカセ・タイプのCDプレーヤーを買ったからだ。30000円弱なり。メーカーはビクター。ここまで書いて、何ーんだという嘲笑が聴こえてきそうだ。日頃、音楽のブログも書いているから、高級コンポで音楽を聴きまくっているかのように思われているかもしれない。が、この3年ばかりは、何と持ち運び用のアイワのポータブルCDプレーヤーにイヤホーンをつけて聴いていたというお粗末さ。
もっともそれ以前はケンウッドのコンポーネントで長い間、聴いていたのだが、とうとうアンプや、チューナー、スピーカーは大丈夫なのに、肝心のCDプレーヤーがいかれてしまって、聴けなくなってしまったのである。それで修理に出そうとも思ったが、何しろ10年以上使っていたからなのか修理する部品も既にないという。それで仕方なく6000円で買ったポータブルCDプレーヤーで、最近は音楽を聴きまくっていたのである。でも、こんな代物でも重宝していたのだ。それが、もうそろそろスピーカーから音を聞いてみたいという願いから、とうとう買ってしまった。
何故、コンポにしなかったといわれるかもしれないが、ラジカセ・タイプだと持ち運びが便利だからだ。私は以前、コンポを居間に置いていたが、これは重くて持ち運びが出来ない。確かに音質はいいが、よくよく考えてみたら、私自身パソコンでブログを書いている時でも音楽とは無縁ではいられない。据え置き型だと別室にあるデスクトップ型パソコンをいじりながら音楽を聴くことは出来ない。それで、わざわざポータブル用のCDプレーヤーも買ってしまい、パソコンの画面と睨めっこしながらもCDプレーヤーに繫いだイヤホーンを耳にあてているといった有様である。だから少々、音質は劣るものの持ち運びようのラジカセ・タイプでいいかなと考えたまでである。
もっともいくら高級コンポで聴いたところで住環境が悪ければ、大きい音も出せず宝の持ち腐れになることは判りきっている。大邸宅に住み、防音壁と反響の良いリスニング・ルームをマイホームに供えている人など、ほとんどいないだろう。ほとんどの人は、せっかくショパンやドビュッシーのピアノの音色に耳を傾けていても、戸外から喧しい音でもみ消されてしまうといった環境下で暮らしているのだ。だから高級コンポを部屋に備え付けたところで、私の場合、あまり意味はないなあと思ったから使い勝手のいいラジカセ・タイプを買ったまでである。
どちらにしろ高級コンポで聴いたところで所詮は疑似体験でしかないのだ。音楽は生音楽を聴くのが1番であることは、私が言うまでもないだろう。だから、この安物のラジカセ・タイプでも充分なのだ。まあ、世の中の人は凝りに凝って、数100万円の超高級コンポを揃えて、悦に入っている人もいる。それはそれで結構なことだとは思う。確かに安物のプレーヤーでは出ない高品位の音質で聴けることは百も承知している。でも、やはり私は、ハードよりもソフトに凝りたい性質なので、数百万もの金があれば、より多くのソフトを買う方に向かうだろう。
それで今日の昼間にプレーヤーと一緒にCDソフトも合わせて買ってきたが、既にチャーリー・パーカー、ウエス・モンゴメリー、オーティス・レディング、レッド・ツェッペリン、トニー・ベネット、グリーグの叙情小曲集、マリア・カラスのアリア集(何という組み合わせ?)を聴いて、すっかり楽しんでいる。ということで、高級コンポも安物のラジカセ・タイプも物は考えよう一つで変わるということ。まあ、何れ高級コンポで品位のある音質で染まりたいとは考えているが、現状ではこれで充分である。昔は劣悪なSP盤だったことを思い出せば、今のプレーヤーは低価格の代物でも、昔では考えられないほどの音質を奏でられるから不足はないはずだが・・・・・。
2009.12.29 (Tue)
司馬遼太郎『坂の上の雲』について
その小説が今回ドラマ化されたことにより、秋山好古、秋山真之、正岡子規という3人の人物が脚光を浴びたのであるが、私はこの単行本で6巻にもなる巨編『坂の上の雲』を読んだのは25年以上も前のことであり、全容の部分、部分しか覚えてなく、また、ここで文学作品や著書を紹介するにあたっては書籍の写真を掲載している関係から、既に全6巻すべて手元にない関係から写真を撮ることも出来ず、『坂の上の雲』をブログ上で紹介するのはやめようと考えていたが、今回は特例として写真もなく『坂の上の雲』のことについて書いてみることにした。
『坂の上の雲』は司馬遼太郎が足掛け5年に亘って書き続けた長編小説であるが、主人公というべき人物が3人もいる。先ほど述べたように軍人の秋山好古、真之の兄弟と俳人の正岡子規である。私がこの小説を読んだ時にもいえるが、それまで知っていた人物といえば正岡子規だけである。でも司馬遼太郎は日露戦争で勇名を馳せた秋山兄弟を歴史の表舞台に登場させ、彼らを中心に物語を進めている。それまでは、一般的にほとんど無名といってもいい軍人2人である。でも日露戦争での203高地陥落の話や、旅順要塞陥落、日本海海戦、バルチック艦隊のことなどは知れ渡っていたものの、これらで出てくる人物といえばロシアのロジェストウェンスキー、ステッセルや日本の乃木希典、東郷平八郎ばかりで、秋山兄弟のことなどはこれぽっちも知らなかったというのが正直なところである。 それを司馬遼太郎が一躍、有名にしたといえば大袈裟かもしれないが、話としては軍のトップではなく乃木や東郷の下で名を馳せた2人の兄弟と、また彼らとは幼い頃からの知り合いであった正岡子規を登場させることで、国が大きく移り変わりいく中、彼らがその波に揉まれながらも成長していく様を描いた青春巨編でもあることに拘っている。
若き日、教師の待遇を目当てに師範学校に進み、名古屋の小学校に赴任中だった好古が、出来たばかりの陸軍士官学校への入学をすすめられて東京に行く。またそれに伴って弟の真之も東京の大学予備門に入り、正岡子規と共に文学の道を志す。つまり秋山真之と正岡子規は松山出身で幼馴染であった。真之と子規は読書や無銭旅行に気ままな青春の時を過ごすが、真之は海軍兵学校と進路を転じてしまう。一方、好古は陸軍大学校学生に選抜され騎兵建設の使命を帯びてフランスへ留学する。また哲学と文学、政治的関心の間で精神的彷徨を続ける子規は、学業もふるわない日々でありつつ、喀血して病床に伏すことを余儀なくされていた。そんな折、日清戦争が起こり、好古は少佐として騎兵隊を指揮。海軍少尉として巡洋艦に乗り込んだ真之は、威嚇衛砲撃中、敵弾を受けて肉片と化す砲兵の姿を見て衝撃を受ける。2度の落第を経て東京帝大国文学科と中退し、陸羯南(くがかつなん)の新聞『日本』の社員となっていた子規も従軍記者として戦場に赴くが、病魔の勢いが増し、帰国の戦中で大喀血してしまい療養のため松山へ帰省していた。・・・・・こうして西洋列強が植民地を拡大する中、弱小国家・日本は着々と軍備を増強しつつあり、やがてロシアとの戦争へ突入していく。
結局、日露戦争は強大国ロシアに弱小国・日本が勝った戦争として歴史に記されるとおりであるが、史上最強とされたロシアのコサック騎兵を満州の野で打ち破って功績を挙げた秋山好古と海軍の参謀としてバルチック艦隊殲滅に貢献した秋山真之という兄弟は、明治国家の命運を担い、日露戦争で手柄をたてたものの歴史の大きな流れの中で、その名前も埋もれていた。それを正岡子規の幼馴染というところから関連性を持たせ、単なる歴史物語ではなく青春物語風に書かれているのが『坂の上の雲』ということになる。
ただ結果的に日露戦争で勝利して、その後の軍備増強、富国強兵を突っ走り、昭和初期の軍国主義時代まで日本はなりふり構わず、西洋列強を肩を並べんとばかり拡大政策を疾走するようになってしまったが、それもこれも日露戦争で奇跡的な勝利を得てからのことである。要約すると『坂の上の雲』の先に見えたもの、それは西洋的な近代国家を標榜し目指した大日本帝国のその後の末路だったのか。つまり坂の雲の上に登って見えた現在というものが明治の時代にはさっぱり見えてなかったということを現しているのかも知れない。とにかく司馬遼太郎は、この作品のドラマ化をなかなか許可しなかったといわれている。もしかして戦争讃美として捉えられてしまっては困るとも考えていたのかもしれないが、司馬遼太郎自身が故人となってしまった今、ドラマ化されてしまった。それで、現在、歴史の史実として見るのは簡単であるものの、青年たちが国家というものに大きな夢と存亡をかけていた時代の精神性と、平成の今日の青年たちの精神性というものには大きな隔たりがありすぎて現実的なドラマではなくなっている。はたしてこの時代のギャップを埋められないもどかしさを司馬遼太郎は感じていたかもしれないし、また知ろうともしなかっただろう。
日本が近代国家を築き上げる過程において逃れることの出来なかった、外国との戦争という手段。これを今から、ああだこうだと論説するのは簡単である。でも身に降りかかった火の粉の如く避けられなかった、必然であったという史観があるとするならば、坂の上の雲以降の現在という時代は、残念ながら、けして明治の人が見てはいけないもののように思えて仕方が無い。
2009.12.28 (Mon)
スウィングル・シンガーズを聴く

どうも年末といっても不景気風が強くて気勢が上がらない。風も冷たいが懐も寂しいし心も寒い。もう21世紀も10年目に入ろうとするが一向に心が晴れるような話がない。給料は上がらない仕事は増える人間関係に疲れるといった諸氏も多かろうと思われる。でも、こればかりは個人の力ではどうすることも出来ない。せめて旨いのでも食って胃袋だけでも満腹にしたいと思っても、最近は食費もバカならない。なんか面白いことはありませんか・・・・・・といってみたが、ボヤいていてもしょうがない。こうなら爽やかで楽しい音楽でも聴いて気分を和らげたいものであると、取り出したのがスウィングル・シンガーズのアルバムである。
スウィングル・シンガーズって何?・・・なんて声が聞こえてきそうだ。スウィングル・シンガーズというのは、1960年代に活躍したフランスのジャズ・コーラズ・グループである。当時、言葉にもならない声だけで~ダバダバダバダバっとメロディを奏でるコーラスが流行った。思えばテレビの深夜番組『11PM』のタイトル曲なんていうのも、その影響をモロに受けているだろうし、由紀さおりの『夜明けのスキャット』なんて~ルールルルルールールルルルと出だしから歌詞の無い歌まで流行った時代である。そんな時代の渦中にいたコーラス・グループがスィングル・シンガーズであった。
確か唯一のアメリカ人ウォード・スウィングルをリーダーにしていた8人組だったと思う。つまりスウィングル・シンガーズはジャズのスウィングとは関係なく、リーダーの名前を冠したグループであったということである。ウォード・スウィングルはシンシナティ音楽院ピアノ科を首席で卒業し、その後にワルター・ギーゼキングに師事したというクラシック畑の音楽科であったが、渡仏後はジャズにも力を入れていた。ちょうどその頃、フランスにはバッハをジャズ風に演奏するジャック・ルーシェ・トリオがいた関係もあり、またウォード・スィングルはダブル・シックス・オブ・パリスというジャズ・コーラスのメンバーだったこともあり、ジャズのスキャットを用いてバッハの曲を演奏してみてはどうかと思いついたのだろう。こうして結成されたのが、男4人、女4人からなるスウィングル・シンガーズ(Les Swingle Singers)である。
スウィングル・シンガーズは1963年にデビュー・アルバム『Jazz Sebastien Bach』を出す。これはヨハン・セバスティアン・バッハのフランス表記であるJean Sebastien Bachを捩ったものであることはいうまでもない。ところが、このアルバムは大評判になりありとあらゆる音楽のジャンルに影響を与えてしまい一躍、バッハ・ブームの立役者の一翼となった。
その後にスウィングル・シンガーズはバッハだけではなく、クラシック音楽全般をジャズ・コーラスでカバーするようになったが、当アルバムでも冒頭の『G線上のアリア』(バッハ)から始まって、『ソルチーコ』(アルベニス)、『スプリング・ソナタ~スケルツォ』(ベートーヴェン)、『アランフェス協奏曲~アダージオ』(ロドリーゴ)、『ディドとエアネス~ホエン・アイ・アム・レイド・イン・アース』(パーセル)、『スペイン風タンゴ』(アルベニス)、『エチュード第14番』(ショパン)、『展覧会の絵~リモージュの市場』(ムソルグスキー)、『弦楽四重奏曲・作品40-1』(メンデルスゾーン)、『6声のリチェルカーレ』(バッハ)、『小さなプレリュードとフーガ』(シューマン)・・・・とクラシック音楽をスキャットでカバーしている。
ところで、このスウィングル・シンガーズで透明感のあるソプラノ・パートを担当している女性が、クリスティーヌ・ルグランである。彼女は映画『シェルブールの雨傘』でも出演者の声の吹き替えで歌を歌うなど定評の美声であるが、その楽曲を担当したのが実弟のミシェル・ルグランであることを付け加えておこう。
スィングル・シンガーズは1970年の大阪万博の時に来日し、コンサートを各地で行なったが、結局は1973年に解散してしまったが、その後もスウィングル・シンガーズの清涼感のあるスキャット・コーラスが聴かれることは聴かれるそうだが、メンバーがすっかり入れ替ってしまったしウォード・スィングルは活動に参加していないので、昔のスウィングル・シンガーズとは別グループといってもいいだろう。
バッハの小フーガを奏でるスウィングル・シンガーズ(音声のみ)
2009.12.27 (Sun)
第54回有馬記念
出走馬16頭の中で1番人気に支持されたのが、3歳牝馬のブエナビスタというから、今年の3歳牡馬のだらしなさと、古馬のだらしなさが浮き彫りにされた形となった。ダービー馬のロジユニヴァースなんかは、ダービー以降、一走もしていないので、その実力のほどが不明だし、皐月賞馬のアンライバルドも、その後の成績が芳しくない。それでブエナビスタに続いて2番人気が宝塚記念に勝ったドリームジャーニーである。3番人気が中山巧者のマツリダゴッホ、4番人気が菊花賞2着のフォゲッタブル、5番人気がリーチザクラウンという順であったが・・・・・・。
スタートが切られたがドリームジャーニーがやや出遅れた。3コーナーから4コーナーへかけての先行争いだがリーチザクラウンがスーとハナに立った。2番手にミヤビランベリ、3番手テイエムプリキュア、その後にシャドウゲイトとアンライバルドがいて、その直後に何と追い込みの人気馬ブエナビスタがいるではないか。そしてネヴァブション、菊花賞馬スリーロールス、8歳馬コスモバルク、天皇賞馬マイネルキッツ、イコピコと続き、その後にマツリダゴッホ、フォゲッタブルがいて、最後方にドリームジャーニーが追走する形で正面スタンド前を通過。ハロンラップは6.8---11.0---11.2---11.3---11.9---12.3と900m通過が52秒2、1100m通過が1分04秒5とやや速目のペースである。向こう正面に入ってリーチザクラウンが5馬身リード。2番手ミヤビランベリ、3番手にテイエムプリキュア、その後は4馬身開いてシャドウゲイトが続き、さらにスリーロールスがいるが、菊花賞馬スリーロールスが突如としてスルスルと後退していった。故障発生か・・・・残念。その他の馬は3コーナーに差しかかろうというところであるが、800のハロン棒を通過する辺り、ここでマツリダゴッホがお得意のまくりにでた。中山得意のマツリダゴッホが外、外を通って一気に先頭集団まで踊り出る。これにつられて各馬も動く。4コーナーを回るがシャドウゲイト、マツリダゴッホが先頭。マツリダゴッホ先頭。マツリダゴッホの外からブエナビスタが来る。ブエナビスタの伸びがいい。ここでマツリダゴッホをかわしてブエナビスタが先頭に立った。ブエナビスタ先頭、ブエナビスタ先頭。その外からドリームジャーニーが伸びる。さらにフォゲッタブルも来る。あと200m、ブエナビスタ先頭、ブエナビスタ先頭。ドリームジャーニーガ接近する。ドリームジャーニーが来た。完全にこの2頭だ。エアシェイディも来るが3番手争いだ。先頭はブエナビスタかドリームジャーニーか、同じ勝負服の争いだ。ここでドリームジャーニーがブエナビスタをかわしたか。外のドリームジャーニーがブエナビスタをかわした。ドリームジャーニーが半馬身ほどリードを保ってゴールイン。
1着ドリームジャーニー 2分30秒0、2着ブエナビスタ 1/2、3着エアシェイディ 4馬身、4着フォゲッタブル アタマ、5着マインルキッツ 2馬身1/2。
ドリームジャーニーは春のグランプリも勝っているので、両方のグランプリを同じ年に勝ったことになる。小柄な馬で、追い込み脚質な故にこれまでなかなか成績が安定しなかったが、決め脚があるだけに上手く展開にはまった気がする。でも追い込み脚質でありながら、長い脚が使えるのでもなく、一瞬の切れ味で勝負する馬だけに、今日は池添騎手が上手く素質を引き出した。でも2着とはいえ、最も強い競馬をしたのは3歳牝馬のブエナビスタであろう。この馬も追い込み脚質だけに他力本願のところがあるが、今日は横山典が先行集団につけて、速いペースにもかかわらずあわやというレースを見せてくれた辺り、並みの3歳牝馬ではないなあと思った。残念ながらスターロッチ以来の3歳牝馬のグランプリ制覇には至らなかったが、実力のほどを見せつけてくれた。一方、3歳の牡馬が壊滅した。リーチザクラウンが13着、アンライバルドが15着、スリーロールスが競争中止。これだと来年の古馬路線が今から心細いなあ。ホントしっかりしてくれといいたくなる。
2009.12.26 (Sat)
大阪駅周辺を歩く
大阪駅というのはいうまでもなく大阪の玄関口にあたるのだが、新幹線は乗り入れておらず、実際の大阪の玄関口は、これより3㎞ほど北にある新大阪駅なのであるが、ここは繁華街から外れていて大阪の玄関といった趣からはかけ離れている。したがって初めて大阪にやって来て新大阪駅に降り立った人は、大阪って意外とビルも低くて街も大したことないなあといった感想を持つ。だから新大阪駅で在来線に乗り換えて、一駅で大阪駅に到着してみてからようやくその威容に驚くという。
でも、この大阪駅周辺を地元の人は梅田という。その昔、この辺り一体を埋め立てて大阪駅を造った時から、この辺りの造成が始まるのだが、田を埋めたということで埋田といわれ、やがて埋の字に換えて梅の字を当てた時から梅田と呼ばれるようになったという経緯がある。それ以来、大阪の玄関口として発展し続け現在に至るのだが、最近は梅田周辺で工事がなされていて、阪急百貨店、富国生命ビル、大阪ターミナルビル、そして大阪駅全面工事が進行中だった。そこでどれほど工事が進んでいるのか探ってみたまでだが・・・・・・。
大阪駅ターミナルビルの増床工事が進行中。大阪駅南側のターミナルビルの低層階に大丸百貨店が入っているが、その大丸の売り場面積を広げるための工事を行なっているのである。この梅田は、大丸の正面に阪神百貨店があり、すぐ東側には、このほど一部、完成した阪急百貨店(右側の超高層ビル)と、さらに2011年目指して、大阪駅北側に出来る新ビルに三越伊勢丹百貨店が入ることが決まっているので、この辺りだけで大型百貨店が4店舗出現することになる。それで他社に負けてられないとばかり、大丸までが増床工事を始めたという訳だ。でも共倒れならないのか、そちらの方が心配になるが、1日、280万人が動くという、この大阪駅周辺だから大丈夫だという学者もいるにはいるが・・・・・・・・。

大阪駅の北側のビルも工事中である。左側の高い部分はオフィス棟かな。

そして、大阪駅のホームの上でも工事が進行中。何とホームの上に大屋根が誕生するという。ちょうど工事中の北ビルから、南側のターミナルビルに向って大屋根でプラットホームの中央を覆う形となるようだ。聞く所によると、かなり近未来的な斬新な駅の姿が見られるようになるという。

大阪駅から離れて、北の方角から大阪駅周辺を見渡したところである。周辺はビルの高層化が目立つ。手前の線路の集まりは梅田貨物駅である。この貨物駅も何れ、完全に立ち退いて、再開発されることが決まっている。

今度は大阪駅の北東側から撮ってみた。大阪駅北ビルも来年の完成を目指し姿を現しつつある。この中に、百貨店、専門大店、シネマコンプレックッス、フィットネスクラブ、オフィス等が入るらしいが、詳細は完成してからのお楽しみということか。右端のビルはヨドバシ・カメラ梅田店である。

ところで26日の今日、梅田を彷徨ったが、昨日まで飾られていたクルスマスツリーやクリスマス商戦らしき様子は嘘のように影を潜め、飾りはすっかり迎春モード。ホントに、この国の変わり身の早さといったら呆れ返ってしまう。一般的にヨーロッパではクリスマスの飾りつけは1月6日のエピファニアまでは続けるというのに、どうなってるの・・・・。つまり非キリスト教徒の国が、クリスマスの形だけを真似るとこのようになってしまうということなのか・・。それともただ節操がないだけなのか。毎年、この時期になると考えさせられる。
2009.12.25 (Fri)
口内炎
口内炎というものが発症するには色々と原因があるらしく、一般的に言われているのが、栄養摂取の偏りとビタミンBの不足によるものだという。ということは鉄分、葉酸等が欠如しているということなのか。それ以外の原因としては、口の中の粘膜を歯で噛んでしまい傷つけてしまったり、疲労、睡眠不足、ストレス等による抵抗力の低下、また細菌、ウイルスの感染といったことが原因に挙げられているものの、小生にはそれらの何れもが当てはまるかもしれない。
小生の場合、栄養摂取のバランスが悪いとは考えにくく、だとすると睡眠不足、疲労、ストレス等の蓄積が原因なのかもしれないが、細菌、ウイルスの感染の可能性としては、先日、発熱した時に、何処からか貰っていたかもしれないので、一概に何が一因ですと断定は出来ない。でも、口内炎が現れただけで憂鬱になるし刺激物はあまり食べることもないのだが・・・・・・・。やはり胃は荒れているのかもしれないなあ。とにかく食べにくくてしょうがない。それで、今年もあと一週間となってしまったが、健康第一を目標に掲げている身にとっては、口内炎はやっかいもの、早く治して正月の準備に取り掛かりたいものである。とにかく、この年末、ロクなことがない。
2009.12.23 (Wed)
ヴィオッティ・・・・・『ヴァイオリン協奏曲第22番』を聴く
エリオ・ボンコンパーニ指揮
ローマ・フィルハーモニー管弦楽団

このタイトルを見てヴィオッティって誰だ? と思われる向きもあるかな。確かにあまり知られてない作曲家である。でもヴァイオリン・ソナタ18曲、ヴァイオリン協奏曲29曲、弦楽四重奏曲21曲、弦楽三重奏曲21曲も残している作曲家で通には知られている。
ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティは1755年に生まれ、1824年に亡くなっていて名前で判ると思うがイタリアの人で、時代的にはモーツァルト、ベートーヴェンとドン時代の人である。もっとも、この22番のヴァイオリン協奏曲が突出して演奏されることが多く、その他だと23番ヴァイオリン協奏曲とイ長調の2つのフルートのための協奏曲あたりが知られているぐらいの作曲家である。とはいえ、この温かみのある22番のヴァイオリン協奏曲を聴くとホッとする。
ヴィオッティは、多くのヴァイオリン作りの名手を産んだイタリアの人だからヴァイオリンの作品が多いと思ったのだが、実はヴィオッティ自身がヴァイオリン演奏史上に残る名手といわれているのだ。ヴァイオリン弾きの名手というとすぐにパガニーニが思い出されるが、ヴィオッティはパガニーニより先輩である。それどころか近代以降のヴァイオリン演奏の流派の多くが彼から端を発しているのだ。それはどういうことかというと、彼の弟子にロード、ベイヨー、クロイツェル(ベートーヴェンの曲で有名)がいて、その3人の門から数多くの優れたヴァイオリン奏者が出ているということだ。
ロードからはヴュータン、ヨアヒム、ドント、イザイ、フーバイ。ベイヨーからはアラール、レオナルド、サラサーテ。クロイツェルからはヴィエニアフスキー、クライスラーが出ている。このようにヴァイオリン演奏史に残る演奏家を生み出した一大潮流の源流がヴィオッティである。つまりヴァイオリン演奏の基本的な解釈をもった作風がヴィオッティの曲には見られるということになる。パガニーニの作品にあるような超絶技巧は必要ではなく、飽く迄も南欧イタリアの温かみのある歌うような作品が多い。
全3楽章で第1楽章が特に長く、この楽章だけで15分ぐらいの演奏時間がある。旋律はイタリアの古典美と称され、その昔、ラジオ放送のコンサート・アワーのテーマ音楽に使われたことがある。でも私が好きなのは、どちらかというと第2楽章の方で、こちらもNHK・FMのクラシック音楽の番組の冒頭にいつも流れていたことがある。これも20年以上前のことであり、何かとヴィオッティのこの曲は音楽番組に使われていたのだが、最近はだんだんと忘れ去られていっているのではないかと思える。曲の方もあまり演奏される機会もなく、ヴィオッティという名前も今ではヴィオッティ国際音楽コンクール(イタリア、ヴェルチェリで開催)に名を留めるのみという寂しさはあるもの、この22番を残しているだけで充分である。それだけに、この曲を聴くと何故かほのぼのとした暖かさが感じられるのだが。
ヴィオッティ ヴァイオリン協奏曲第22番イ短調~第1楽章の演奏(音声のみ)
ヴァイオリンはイツァーク・パールマン
2009.12.21 (Mon)
3日振りで・・・
今朝、ようやくクロワッサンを食べたが、これも水で押し込む状態で、食欲が出てこないから回復も遅く、今は熱はほとんどないのだが、あいにく腹具合の悪さだけは治まらず、明日も出勤できるかどうか現段階では不明と来ている。若い頃は無理がきいても、この歳になると同様にはいかないものだと痛感しているのだが、ホント歳はとりたくないよ。
・・・・・つまり体調を崩してしまい、ブログ更新を怠ってしまった。でも最近、やや食傷気味でマンネリズムに陥っているので、この程度の休養もいいかなとは思っているのであるが、とはいってもスタンスは変えられるものでもないし、今までのような記事しか書けないだろう。もっと文才が備わっていればいうことはないのだが、何せ素人が書いているのだからしょうがないが・・・・・。それでは今日は報告だけで、サイナラ。
2009.12.18 (Fri)
寒波にさらされた陸の孤島・・・・・
ただ、小生にとって困っているのは、昨年から近江の国へ通うようになったということ。つまり大阪辺りの寒さとは違うという現実である。京都の寒さは身体が覚えているが、山を越えた近江の国の寒さはほとんど小生はしらない。もっとも北海道の冬を知っている身にはたいしたことないように思うが、北海道の人ほど厚着もしないし対策も甘いから、意外に寒いと思うものなのだ。それでいて近江の国は風が強い。盆地で山からの吹き颪の風と、琵琶湖からの風と、絶えず吹き荒れていて、それらがいっそう寒さを助長させるのである。・・・・・そんな中を歩いていると、冷たい強風が顔にあたり鼻水が出てくるし、髪はバサバサ、手はカサカサ、踵はパックリと割れて歩くたびに傷みを伴うので、何もいいことはない。こうしてとりあえずは出勤したものだが、職場の中も寒かった。
とにかく丘の上にある職場だ。琵琶湖の湖面が見渡せるし、向こう岸の湖西の山々は雲に覆われていて寒そうだ。比良山系より南部の山は姿を現しているが冠雪はないようだ。でも空っ風が吹きまくり、おかげで息が出来ないほどあおられる。流石に近江の国だなあと妙に感心してしまった。こうして定時で仕事を終えて帰宅の徒につく。
まてよ、そういえばこの前に乗ったバスの車内に貼ってあった広告を思い出した。
R大学交響楽団定期演奏会のお知らせ
日時 12月18日
場所 びわ湖ホール 開演 19.00
曲目 ワーグナー 楽劇《トリスタンとイゾルデ》から前奏曲と愛の死
ブルックナー 交響曲第9番二短調
指揮 金聖響
そうだ、今日は沿線にあるマンモス大学、R大学交響楽団の定期演奏会が膳所のびわ胡ホールであるから、聴きにいってみようかと思いついたのである。とにかく、この近江の国に通うようになってから、この手のコンサートは縁がなくなってしまった。大体、関西で演奏会やコンサートというと、まず大阪で行なわれることが多い。だが、近江の国から帰りに立ち寄ることは物理的に不可能。それで、びわ胡ホールなら帰りに立ち寄ることも出来るし、入場料も1000円だし聴いても損はないだろう。それに学生の交響楽団があの1時間を越す難曲ブルックナーの未完の9番をどのように演奏するのか、興味本位ながら好奇心が沸いてきたのだが・・・・・・。残念ながら、駅に到着した時は既に午後の7時であった。なんてこった・・・・。もう開演ではないか。こちらは何処も寄り道していないのに、それでいて聴きにいけないとは・・・・・本当に陸の孤島にいることを痛感した次第である。もう、今後、この職場にいる限り、こういった催しは今後も一切合財、参加することは出来ないのだろうと思うと、なんだか惨めになってきた。ああ、いい加減、嫌になってきた。
2009.12.16 (Wed)
ディケンズ・・・・・『二都物語』を読む

チャールズ・ディケンズというと『大いなる遺産』『クリスマス・・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『オリヴァー・ツイスト』等の作品があるが、この『二都物語』も知れ渡った作品である。題名の通りヨーロッパのロンドン、パリという2つの都市を舞台にフランス革命という大きな時代のうねりの中で生き続けるチャールズ・ダーニー、シドニー・カートンと、彼らの間で彷徨い続けるルーシー・マネットの愛の物語といってしまうと語弊があるだろうが、そのように捉えてしまったほうが小説としては読み易い。
時代は1775年、つまりフランス革命の14年前を意味する。イギリスはジョージ3世で、フランスはルイ16世の時代である。・・・・・それは凡そ善き時代でもあり、悪しき時代でもあった。知恵の時代であるとともに愚痴の時代でもあった。信念の時代でもあれば、不信の時代でもあった。光明の時代でもあれば、暗黒の時代でもあった。希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。前途はすべて洋々たる希望に溢れているようでもあれば、また前途はいっさい暗黒、虚無とも見えた。人々は真一文字に天国を指しているかのようでもあれば、また一路その逆を歩んでいるかのようにも見えた(小説の冒頭より)・・・・このようにヨーロッパ全体が大きく変革しようとする時代を背景としている物語なのである。
クライアント・マネットは無実でありながら18年間もバスティーユ牢獄に放り込まれていて、ようやく開放されることなり、娘のルーシーは父をイギリスに連れて帰るのである。その帰路、マネットはフランスから亡命した貴族チャールズ・ダーニーと出会う。ダーニーはフランス貴族の子でありながら暴政を嫌い、家名を棄ててイギリスに逃れていた。やがてダーニーはスパイ容疑の件で裁判にかけられるものの、マネット親子と弁護士シドニー・カートンに救われる。そこでチャールズ・ダーニーとシドニー・カートンは共にルーシー・マネットに恋をすることになる。だがルーシーは、放蕩無類の弁護士シドニー・カートンよりも裕福な身の上にあったダーニーと結ばれることとなる。ところがダーニーは父マネットを牢獄に入れたエブルモント侯爵の血縁者であった。だがそれを承知でマネットは2人の間を認めたのである。
こうしてチャールズとルーシーはフランス革命の火が燃え上がる中もイギリスにいる彼らは幸せな生活を送る日々であった。それが昔、ダーニーの忠実な召使だった者から救いを求める手紙が届く。ダーニーはかつての召使の窮状を知りフランス革命後のパリへ渡る。しかし、それは悲劇の始まりであった。フランス革命後のパリは、旧貴族に対して怨嗟を抱く民衆の怒りが頂点に達していて、その矛先は当然のように王族、貴族に向けられていた。フランス貴族達は、もはや彼らが階級として少しも尊敬されてないこと、うっかりすると特権階級からの追放はもとより、この世から抹殺という危険さえあった。それでダーニーは密通の罪で捕らえられてしまう。一度は釈放されるもの、再び別件で捕まり裁判にかけられ、とうとう死刑を宣告されてしまう。そこでカートンであるが、死刑執行の当日、ルーシーを愛するあまりルーシーを悲しめさせたくないがため、自らダーニーの身代わりとなって断頭台の人となる。
何とも後味の悪い話ではあるが、愛の葛藤をテーマにしているというなら、何ら不思議には思えない。フランス革命の時代を背景にしていると何やら大げさな話に思うが、作品のテーマとしては、このようなものなのである。ただ、そこはディケンズであり、産業革命が進行しつつあったロンドンの人達・・・・・銀行員や裁判の様子、または墓荒らしの実態などが手に取るように表現されているし、革命迫るパリの様子がまた細かく描かれている。たとえば酒樽が荷台から落ちて道路に散乱し、そのぶちまけられた赤ワインに群がる貧困層の人々、サン・デヴレモン侯爵が労働者の子供を馬車で轢き殺してしまった時の顛末や、革命前後に生きる下層階級の人々の生活など、事細やかに書かれているので、ディケンズという人の表現力に驚いてしまうのである。
ところで、この『二都物語』は傑作かというと知名度ほどすぐれた作品と言えないかもしれない。一応はフランス革命という西洋史に残る大きな出来事を話の中に取り込んでいて、当時のロンドンやパリを舞台にしているものの、史眼をこの作家に求めても意味が無い。ディケンズというのは大局的な史観というものを持っていたのだろうかといった疑問が出て来るほどフランス革命の詳細がお粗末なほど書けてないし、思想というものが読みきれてない。だからこの作品を読んでフランス革命のことを知ろうと思ってもなんら役に立たない。以前、このブログ上で紹介したがアナトール・フランスの『神々は渇く』ほどの鬼気迫る革命時の恐怖感は味わえないし、また奥深く探求されていない。でもディケンズというのはそういった乏しい史眼でさえも、帳消しにするほど人物を描かせたら面白い。だから英国文学史に残る作品を幾つも書いてきたという訳であろう。
2009.12.14 (Mon)
2009香港国際レース
香港ヴァーズ(GⅠ・3歳以上、芝2400m、13頭)
1着 Daryakana 2分27秒51、2着 Spanish Moon 短頭、3着 Kashah Bliss 1/2、4着 ジャガーメイル、5着 Cirrus des Aigless 3/4。
勝ったDaryakanaはフランスの3歳牝馬であり、このレースに勝って5連勝を達成した。日本のジャガーメイルは差のない4着で健闘したといえよう。なお、凱旋門賞3年連続2着のYoumzainは10着に惨敗した。
香港スプリント(GⅠ・3歳以上、芝1200m、14頭)
1着 Sacred Kingdom 1分09秒16、2着 One World 1/2、3着 Joy and Fun 1/4、4着 Green Birdie 3/4、5着 California Flag 1/4。
日本から参加のスプリンター、ローレルゲレイロはブービーの13着といいところがなかった。
香港カップ(GⅠ・3歳以上、芝2000m、10頭)
1着 Vision d'Etat 2分01秒86、2着 Collection 3/4、3着 Presvis 2馬身1/2、4着 Ashalanda 1/2、5着 Eagle Montain 1馬身。
勝ったVision d'Etatは、昨年の仏ダービーを勝ったフランスの4歳馬で、貫録勝ちということか。また2007年の英ダービー2着馬Eagle Montainは5着に終わった。また日本から参加のクィーンスプマンテは、エリザベス女王杯同様、逃げたが、大逃げできる筈もなくシンガリに大敗した。やはり、この馬では役不足すぎたか・・・・・以上。
2009.12.13 (Sun)
第61回阪神ジュベナイルフィリーズ
私は牝馬限定のレースは嫌いだと何度も言っているが、その牝馬限定のGⅠレースが関西には多すぎる。桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯、そして、この阪神ジュベナイルフィリーズ。関東にはオークスとヴィクトリア・マイルぐらいなのに、何でこんなに多いのかと日頃から疑問に思っているのだが・・・・・・。つまりおいしいレースは全て関東サイドが頂いて、関西は牝馬限定のレースで我慢せよという中華思想が見え隠れしてしょうがない。だから牝馬限定のレースは力が入らない。それに牝馬は牡馬に混ざって勝ってこそ名牝と言われるのだ。だからダイワスカーレットやウオッカが女傑と言われるのは納得がいく。でも牝馬限定のレースだけでいくら勝って来ても、所詮は牡馬に混ざると見劣りがする。結局は牝馬限定GⅠとなると、どうしてもダービー、菊花賞、ジャパンC、天皇賞、有馬記念といったチャンピオン・ディスタンスのGⅠと比較すると興味が半減することは拭えない。ということであまり記事にしたくなかったのだが、同じマイルといっても中山と違って、馬場が改良されてからの阪神の1600mコースは見応えがあるレースが多いので記事にしてみたまでである。
今年は人気が割れていて絶対的な本命馬はいないものの、末脚確かな有力馬が何頭かいる。それで1番人気はシンメイフジ、2番人気はアパパネ、3番人気はタガノエリザベート、4番人気はラナンキュラス、5番人気はアントニオバイオと先行する馬はおらず差し馬ばかりが人気になった。ただ、こういう時は人気薄の逃げ馬が楽な展開に持ち込んで一人旅ということもありうるので懸念したのだが・・・・・。
ゲートが開いたが1番人気のシンメイフジはまた出遅れた。その間に内の方からジュエルオブナイルがハナを奪う。2番手はパリスドール、その後にメイショウデイム、モトヒメ、サリエルと並んで行き、アントニオバイオ、グローリーステップ、ステラリード、ラナンキュラスが続き、その後ろからアパパネが追走。さらにカスクドール、メルヴェイユドール、ベストクルーズ、タガノパルムドール、そして出遅れた1番人気のシンメイフジという順で追走。後方の3頭はタガノガルーダ、カレンナホホエミ、タガノエリザベートというところである。馬群は隊列をなして800のハロン棒を通過。ハロンラップは12.2---11.0---11.9---12.2---12.3と前半の800mが47秒3、1000m通過が59秒6とスローペースである。淡々として3コーナー、4コーナーを回り、縦に長い展開から徐々に後続の各馬が追い上げに入ってきた。そして、いよいよ直線コースに入る。先頭はジュエルオブナイルで馬場の真ん中を通る。インコースにはメイショウデイム。シンメイフジは大外の後方、2番人気のアパパネはインコースを選択した。あと400m先頭は、インコースのメイショウデイムか真ん中のジュエルオブナイルか。馬群がバラけて横に拡がっている。あと300m、メイショウデイムとジュエルオブナイルのい間が空いていて、その間をアパパネが抜けようとしている。シンメイフジは、大外でもがいている。あと200m、ここでアパパネが先頭に出た。それを同じコースからアントニオバイオが
追って2番手に上がる。アパパネが先頭、アパパネが先頭。アントニオバイオ2番手。ようやくシンメイフジにエンジンがかかるがまだ中団の位置。ベストクルーズも伸びる。だがアパパネ先頭。アパパネはセーフティリード。2番手にアントニオバイオ、アパパネ1着でゴールイン。
1着アパパネ 1分34秒9、2着アントニオバイオ 1/2、3着ベストクルーズ 3/4、4着ラナンキュラス 3/4、5着シンメイフジ クビ。
上位人気が割れていたが6着までを6番人気馬が占めた。でも上位の実力差はあまりないように思う。今回はアパパネが運よく前が空いて、そこを真っ直ぐ突き抜けたから勝ったが、前に馬が邪魔をして抜け出すのに苦労すると、今回のように勝てるかどうか判らない。でもアパパネは牝馬にしては大きな馬で、力強いし末脚も確かだ。今回の勝利で桜花賞は人気になるのは必至だが、直線の長い阪神の1600mならあまり心配はいらなさそうだ。一方、シンメイフジはあの出遅れる癖をどうにかしないと、桜花賞でも後手を踏むだろう。あと4ヶ月後の同じ阪神コース。はたして今日の再戦になるのか、それとも新たな有力候補が台頭するのか・・・・。またアパパネがウオッカのように出世するのかどうか、興味が持たれるところである。
2009.12.12 (Sat)
携帯電話の機種変更をした

とうとう携帯電話の機種変更をした。5年近く機種変更をしていなかったので、携帯電話の機能が何もかも違っていて驚いた。世の中には携帯電話の依存症のような人がいるらしく、絶えず手元から離せなくて画面を睨めっこしているか、メールを書いては送り返信が来ては、また送り返す行為を繰り返す。つまり相手の姿は見えなくても何時も、携帯電話の向こうには精神的に繋がった友がいる。分かり合った仲間がいるといった状況でお互いが共通の空間を共有する。つまり携帯電話がなければ不安になるというほど、彼らの生活においては必衰の器具として今や欠かせない物になってしまったようだ。
私はどちらかというと携帯電話に毒されているというのではなく、周囲のみんなが携帯電話を持ち出したから、やむを得なく携帯電話を持つようになった。だから携帯電話を頻繁に使いまくっているというのでもないし、時々、呼び出しコールが鬱陶しく感じるときがあるぐらいだから携帯電話依存症になることはまずない。でも使いだすと便利な代物であることは百も承知しているから、無いと困るものでもある。したがって必要最低限の機能さえあれば充分事足りるので、最新の携帯電話に機種変更をしようなどとは考えなかった。それが5年も同じ物を使い続けると、何かと不具合が起きることが多く、それに基盤が痛んでいるのか、メールを打っていても反応が鈍くなる。またバッテリーの持ちが非常に悪くなり、毎日、充電しておかないと電話やメールの途中で電池切れということが起こるようになってきた。それで携帯電話の機種変更をせざるを得ない状態になったまでである。
こうして最新の携帯電話に機種変更したのだが、これで5機種目になる。だから一つの携帯電話を平均2年以上使っていることになる。もっとも私以上に長い間、一つの携帯電話を使い続けている人もいるにはいるが、私の場合は電話機能以外に、インターネット端末として使うことが多いので、結局、料金とかの関係で、旧型プランから新型プランへ移行したいがため、この度、携帯電話を換えるのにともなって、もっと料金の価格を抑えられる設定に切り替えたのである。それで新しい携帯電話を使い始めたのだが、至れり尽くせりのサービス機能には驚くだけでしかなく、携帯電話にテレビが必要なのかと思ってみたりする。それに、これだけ機能が充実していては、ますます人間は便利すぎて怠け者になるのではないかと老婆心ながら考えるのだが・・・・・・・。そういうことで、私の携帯電話代も、これで幾分、安くなると思えば、これまで以上に安心して使えるのだが、これでメールばかり打っていると、ますます漢字を忘れてしまいそうなので、ほどほどにしようとは思う。
2009.12.10 (Thu)
映画『風と共に去りぬ』を観る
監督 ヴィクター・フレミング
出演 ヴィヴィアン・リー
クラーク・ゲイブル
レスリー・ハワード
オリヴィア・デ・ハビラント
トーマス・ミッチェル
バーバラ・オニール
ハティ・マクダニエル
【あらすじ】1860年代のアメリカ南部ジョージア州。南北戦争の最中である。アイルランド系移民から一代で成功した農園主の娘スカーレット・オハラは勝気で野生的な気性と個性的な顔の持ち主であるが、同じ上流階級の青年アシュレー・ウィルクスに恋していた。だがアシュレーはスカーレットを嫌ってアシュレーの従姉妹メラニーと婚約していた。あるパーティーで2人が婚約していることを知ったスカーレットは癇癪を起こしてアシュレーの家の壺を投げつけて壊してしまう。それを見ていたレット・バトラーは、そんなスカーレットに好意を抱いてしまう。スカーレットは友人たちの陰口を聞き、メラニーへのあてつけのためにメラニーの兄チャールズが自分に求婚するように仕向け、結局、スカーレットはチャールズと結婚してしまう。だがチャールズは戦場に赴き死亡。スカーレットは戦火にもかかわらず17歳で長男ウェードを出産して未亡人となる。スカーレットは息子を連れてアトランタで新生活を始める。南北戦争は南軍の惨敗に終わり、農場は略奪によって荒らされ、母は死に父はショックのため廃人同然であった。スカーレットは金のため仕方なくケネディと結婚し製材所を営む。だがケネディも死に、やがて闇ブローカーで小金をためたレッド・バトラーがとうとうスカーレットの前に現れる。
この映画が作られたのは1939年(昭和14年)である。まさに第2次世界大戦が勃発した年であり、太平洋戦争の始まる2年前のことである。それでいて、これだけ大掛かりで、贅沢な映画を作ることが出来たアメリカという国の強大さに畏れ入るが、残念ながら『風と共に去りぬ』が日本で上映されたのは戦争が終わって7年後のことである。ということは戦時中の日本人は、この映画を観ることは出来なかったのである。それは敵国の映画であるという理由で、観ることは勿論のこと、上映することも禁じられていたからである。でも、もし戦時中に、この映画を観た日本人がいたとするならば(淀川長治は観たらしいが)、おそらく日本がアメリカと戦って勝てるなんて思わないだろう。
そもそも女流作家マーガレット・ミッチェルが書いて1936年に出版され、翌年にピュリッツアー賞を受賞した長編小説の映画化である。小説は作者が急死した1949年までに原作380万部、21ヶ国に翻訳されたもの200万部という大ベストセラーとなり、すぐに映画化の話が進み、映画も世界的ヒットとなるのだが・・・・・・・。とにかく贅沢を極めた映画で、撮影を始める前から、また撮影が始まってからも順調にいったことがなく、スカーレット・オハラ役が決まってないのに撮影が始まっていたり、撮影中に監督が何度も変えられたりして、話題には事欠かない映画である。でも作者自身は、『風と共に去りぬ』書いている間から映画化されることを念頭においていたのかもしれず、レット・バトラーはクラーク・ゲイブルを意識して書いたという。計らずともその通りになってしまったが、主人公のスカーレット役が皆目、決まらなかったのでは撮影が進まなかっただろう。南北戦争前後のアトランタ、またその近郊の町タラを舞台にした、炎のような女スカーレット・オハラの半生を完璧なまでの配役と豪華なセットと衣装でスクリーン狭しとばかりに展開する映画である。それで、今まで語りつくされ続けた映画であるということは判っているが、何度観ても豪華絢爛でスケールの大きさを感じないわけにはいかない映画でもある。出演者選びから困難を極め、脚本家と監督が何度も差し替えられ、主人公が決まらずでいながら結局、艱難辛苦の末、映画が完成したというのは、製作者のデヴィッド・O・セルズニックの執念と熱意であると言われている。セルズニックは10数人にも及ぶ脚本家の陣頭指揮を取り、その頃、まだ実験中だったテクニカラーを導入するなど事実上の監督といわれたが、とにかく彼の執念なくしては、この超大作は完成しなかったであろう。
とにかく何時完成するのか判らない中、セルズニックにとっては、それこそ映画のラストシーンでスカーレットが言う台詞ではないけども・・・・
After all, tomorrow is another day(明日には明日の風が吹くと訳された)
といった気持ちでいただろう。また、ヴィヴィアン・リーがローレンス・オリヴィエの後を追ってアメリカに来なかったら、スカーレットはいったい誰に決まっていたのだろうか、色々と話が尽きない映画である。結局、興行的にも大成功し、アカデミー賞9部門(作品、主演女優、助演女優、監督、脚色、撮影、室内装置、編集、タールバーグ記念賞)を受賞した『風と共に去りぬ』は、好き嫌いは別にしてハリウッド映画史に残る映画であることに間違いはない。
"タラのテーマ"の音楽にのって『風と共に去りぬ』のハイライト・シーンをどうぞ・・・・・
2009.12.08 (Tue)
今年も暖冬か?
1941年12月8日未明、ハワイ・オアフ島の真珠湾を、日本の機動部隊が奇襲し太平洋戦争が始まったと記憶している人は、70代以上の人だろうから、後年の人は歴史の1ページとして学んだだけであって、実際に戦争体験のある人は希少価値になりつつある。あの時、聖戦だといわれ戦争へ突入していくしかなかったのか、避ける道はなかったのか、毎年、この日がやってくるごとに考えてみるが、実際に戦前、戦中を生きていた訳ではないから真実のほどは判らない。でも、けして風化させないためにも、この12月8日という日は、日本人にとってはけして忘れてはならない日であることを記憶に留めておいてもらいたいと思う。・・・・といっときながら、こんな話をするつもりではなく、今日は暖かい日であったということを言いたかっただけである。いや、今日も暖かかったというべきか。でも朝は寒かったのだ。昨日はやや寒くて風が強かったけども、あれで平年並の気温というから、今年は今のところ暖冬である。
昨年も異様なほど暖かい冬で、滋賀県南部地方は積雪が、ほとんどなかったというから異様な暖かさだったのである。寒がりの人は大助かりだろうが、喜んでばかりいられないから問題なのである。去年の初夏から、近畿の雪国・滋賀県へ働きに来るようになった。それで最初の冬ということで、昨年の12月から今年の2月の間、絶対に積雪があるから、その時の対応としてスノーシューズを買ったのだが一度の出番もなかった。つまり何度も言われるように地球温暖化が進み、近江の国も雪がだんだんと降らなくなっている。
聞くところによると、例年だと一面の雪景色の中をバスが行きかうのもやっとで交通停滞が酷いという。積雪加減にもよるが、20㎝ぐらいは当たり前のように積もる土地柄なのでバスが動かず往生するという。これだから歩いたほうが早く会社に到着する。でも歩くとなるとたいへんである。最寄り駅から会社まで積雪の中を歩いてくるのだが、その距離が半端ではない。雪の上を轍が走っていて、そんぽ部分は雪が重みで押さえつけられていて、とても滑りやすく、革靴では危険だという。だからといって轍以外のところは、踏みつけられてないから足をいれるや、ズボズボと雪の中に足が入っていき、靴がビショビショになり、とても歩けたものではないらしい。だから私はスノーシューズを買ったのであるが、最初の冬はシーズンを通して一度の出番もなかったから拍子抜けをしたのである。けして雪が降ってくるのを期待していたのでもないが、こんなに雪が降らないというのも、やはりおかしいと考えなくてはならないだろうし、雪が降る時は降るというのが当然の地域だと尚の事だろうと思う。
それで昨日は、久しぶりに寒くなり、日中の気温も平年並みであったが、今日は朝だけが寒く午後からはポカポカト暖かくなった。また、これから先も暖かい日が続くというから、長期的にみても暖冬なのかもしれない。すると、今季もスノーシューズの出番はないかもしれない。けして積雪は好まないが、地球の未来を考えるならば、冬は冬らしく、夏は夏らしくというのが本来の姿だろう。でも実際にドカ雪が降り、その中を出勤しなくてはならない時には、また愚痴を言わなくてはならないだろう。
2009.12.07 (Mon)
サイモン&ガーファンクルのアルバム『明日に架ける橋』を聴く

サイモン&ガーファンクルの曲を初めて聴いたのは確1966年だったと思う。ラジオから聴こえてきた『サウンド・オブ・サイレンス』という曲に聴き入った。その時の印象は綺麗な曲だなあという印象でしかなかった。それが、映画『卒業』のテーマ曲として使われ、こんなにいい曲だったのかと再認識したものであり、その時に『スカボロー・フェア』『ミセス・ロビンソン』等もヒットし、すっかりサイモン&ガーファンクルは日本でも有名なフォーク・デュオとなった。とにかくアート・ガーファンクルの美声と、ガーファンクルに絡むポール・サイモンとのハーモニーが見事であった。
彼らは共に、1941年、ニューヨーク郊外のユダヤ人の中産階級の家庭に生れた。出会いは小学校の学芸会というから、ポールとアートは幼馴染だったのである。彼らは何かと趣味が合い意気投合しフォーク・デュオを組み、トム&ジェリーというふざけた名前で10代のときに既にヒット曲を出しているそうだが、サイモン&ガーファンクルという名で1964年にデビューし、最初のアルバム『水曜の朝、午前3時』をリリースしたのである。そして、この時に挿入されていた曲が『サウンド・オフ・サイレンス』であり、彼らの最初のヒット曲となった。でもこの時の『サウンド・オフ・サイレンス』は、後年にヒットした同じ曲と違って、ドラムスもエレクトリック・ギターもベースもなく、アコースティック・ギターだけの伴奏によるシンプルな曲であった。それが2年後にエレクトリック・ギターとベースとドラムスが加えられてフォーク・ロックの名曲として再ヒットし、その時に私はよく聴いたのだと思う。こうしてサイモン&ガーファンクルは日本でも認知されるような、有名なフォーク・デュオとなった。
そして、1970年になって早々、サイモン&ガーファンクルは一枚のアルバムを出す。それが『明日に架ける橋』である。その前の年、彼らの『ボクサー』という曲がヒットし、その曲も『明日に架ける橋』に組み込まれていた。それで私は、彼らが出した新アルバム『明日に架ける橋』の同名タイトル曲を聴いたのだった。
When you’re weary, feeling small,
When tears are in your eyes, I will dry them all,
I’m on your side. When times get rough
And friends just can’t be found,
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.
Like a bridge over troubled water
I will lay me down.
その時の第一印象は何て美しい曲なんだろう・・・・・。それが今でもその時の印象を保ちつつ、『明日に架ける橋(Bridge over troubled water)』は名曲であるという認識が私にはある。メロディもいいし、ハーモニーもいいし、何しろ詩がいい。これを名曲といわないなら何を名曲というのか・・・・・・。もっとも今時のビートのきいた曲を聴き慣れた人の中にとっては反論があるかもしれない。でも20世紀のポップス史において残しておきたい曲の一つに入ることは間違いがないだろう。でも、私の姉はビートルズの『Let it be』に似ているから嫌いだといったが、何処が似ているのだろうか・・・・・?
1970年春、万国博覧会がちょうど大阪で開幕した頃、この『明日に架ける橋』がアルバムからシングル・カットされ流行っていた。当然、この曲がコピーしたくなり友人とギターを片手に早速2人で歌ってみたが、とても無理だったことを思い出す。あのガーファンクルの声は到底、我々のような素人では真似できないものであり、自分のどうしようもない低音を恨んだものである。
尚、このアルバムは全部で11曲収録されていて、タイトル曲の『Bridge Over Troubled Water』『El Condor Pasa』『Cecilia』『Keep The Customer Satisfied』『So long, Frunk Lloyd Wright』『The Boxer』『Baby Driver』『The Only Living Boy In New York』『Why Don’t You Write Me』『Bye Bye Love』『Song For The Asking』・・・・この中で『コンドルは飛んで行く』は、ペルーのフォルクローレに基づき、民族音楽家ダニエル・アロシアス・ログレスが1913年に発表した曲にポール・サイモン詩をつけてシングル・カットもされ、『バイ・バイ・ラヴ』もシングル・カットされたが、元はエヴァリー・ブラザースのヒット曲である。エヴァリー・ブラザースというのは彼らのアイドルであったというから、何れはカヴァー曲として彼らはステージでよく歌っているのである。しかし、今聴いても心が洗われるような曲が多く耳に心地よい。
サイモン&ガーファンクルはこのアルバムを残してデュオを解散した。その後はポール・サイモンはソロとして歌い、アート・ガーファンクルは映画に出たりして、別々の路を歩んだりしていたが、1982年だったろうか、2人がデュオとして来日し大阪と東京でライヴを敢行したことは忘れない。当時、私はポップスというものをほとんど聴かなくなっていたが、久しぶりにチケットを購入し、会場の甲子園球場へ出かけていった。場内はオールド・ファンで埋っていたが、若いファンもいて彼らの日本での人気の高さが窺えるが、ポール・サイモンがヤンキースの帽子ではなく、阪神タイガースの帽子を被って登場したことはご愛嬌であろう。こうして『サウンド・オブ・サイレンス』以下、20曲ぐらい歌ったのだろうか(流石に昔のことで覚えていない)。当然、『明日に架ける橋』を歌ったことはいうまでもないが、今年の夏だったろうか、彼らが再びデュオを組んで来日し、ライヴを行なったようである。私は行かなかったが、今でもガーファンクルはあんな美声が出るのだろうか、2人のハーモニーは息がぴったりなのだろうかと思いながら、私の青春時代を駆け巡った当時を懐かしんだのでもある。
『明日に架ける橋』を歌うアート・ガーファンクル(今年の夏のシドニーでのライヴから)・・・高音域が出にくくなっているね。往年の美声はやや褪せたか・・・・・
『ボクサー』を歌うサイモン&ガーファンクル。2人とも歳をとりました。
2009.12.06 (Sun)
第10回ジャパンCダート
さて1番人気はこのところ好調の4歳馬エスポワールシチー、2番人気は公営を含めてのダートGⅠ8勝を誇る古豪7歳馬ヴァーミリアン、3番人気は溌剌3歳馬ワンダーアキュート、4番人気は4歳の強豪サクセスブロッケン、5番人気は3歳の差し馬シルクメビウスと人気はバラけた。そしていよいよスタートとなった。最内からエスポワールシチー、真ん中からアメリカから参戦のティズウェイ、外から同じ勝負服のワンダースピード、ワンダーアキュートの兄弟が、さらにサクセスブロッケンも含めて激しい先行争いで第1コーナーに殺到する。ここで先頭を奪ったのはコーナーワークを利用してエスポワールシチーであった。2番手にティズウェイ、3番手にサクセスブロッケン、4番手ワンダースピード、その後に人気のヴァーミリアン、そしてマコトスパルビエロ、さらにスーニとゴールデンチケット、シルクメビウス、内を通ってボンネビルレコードと続き、メイショウトウコン、ラヴェリータといてシンガリはマルブツリードだが、向こう正面で外から一気にマコトスパルビエロがかかったように2番手まで進出した。馬群は早くも3コーナーで、各馬が先団にとりついていくが、ここでヴァーミリアンの行き脚が鈍く馬ゴミから抜け出せない模様。3コーナーから4コーナー、馬群が固まった固まった。先頭はエスポワールシチーで直線に入る。エスポワールシチー単騎先頭。2番手にサクセスブロッケン、3番手は横一線。エスポワールシチーは3馬身リード、快調に逃げている。あと300m、エスポワールシチーは4馬身リード。サクセスブロッケン2番手、あと200m、エスポワールシチーは勝利確定か。4馬身リードを保っている。2番手にサクセスブロッケンが粘るが、3番手争いからシルクメビウスが抜け出してきた。エスポワールシチーは悠々ゴールに向うが、2番手争いは激しくなってきた。シルクメビウスがサクセスブロッケンを捉えるが、外からゴールデンチケット、さらにアドマイヤスバルも伸びてきた。しかし、シルクメビウスが2番手に上がる。勝ったのはエスポワールシチー。
1着エスポワールシチー 1分49秒9、2着シルクメビウス 3馬身1/2、3着ゴールデンチケット 1馬身1/4、4着サクセスブロッケン クビ、5着アドマイヤスバル ハナ。
1番人気のエスポワールシチーのワンマンショーであったが、1枠を利して上手く逃げられたことが楽勝につながったようだ。一方、8着に沈んだヴァーミリアンはもうかつての勢いがなくなったのか、上手くレースの流れに乗れなかった。7歳というだけにもう上がり目はなさそうな気がするが、今までよく走っている。2着、3着は3歳馬で
これからの活躍が期待できるが、サクセスブロッケンはどうしたのだろうか。バリバリの4歳馬なのだが、前走の武蔵野Sで10着に惨敗しているし今日も見せ場が少なかった。また馬を立て直して復活してもらいたい。
それにしてもダートの重賞レースは大型馬ばかりが出てくる。出走馬16頭の中で500kg以上の馬が10頭もいるというから、芝の長距離レースとは出て来る馬の体型も何かと違っていて興味深い。でも420kgほどしかなかったディープインパクトはダートで走らせても多分強かったように思うが、あんな天才馬が、また出てこないものかなあ。
2009.12.05 (Sat)
冬の雨は・・・
昨晩から夜中にかけては雨など降る気配でもなかったが、今朝はまた朝から雨が降っていた。何ということか。こうして傘を持って耳鼻咽喉科へ出かけ、診断を受けてから外に出ると本降りであったから傘が手放せず、このまま出かける予定であったので、電車に乗って大阪市内に着いたら、すっかり晴れていたというから呆れ返ってしまった。それでなくとも、このところ週末の天気が悪くて、行動範囲が狭まれているというのに、昨日から今日にかけての天候の変化には参った。だから傘を持ったまま、街中をウロウロとしなくてはならない。雨が上がった後だから傘を持ち歩いていても不思議ではないが、この傘という代物はけっこう邪魔になるものである。傘はたたむと1本の棒のようになるが、これが1mぐらいはあるだろうからバッグに収まるも筈もなく、濡れているからたとえ折り畳み傘でも仕舞う訳にもいかなく、それで持ち歩いていると片手がどうしても不自由になり、おまけに濡れているので、衣服にも水分が付着してけして気分のいいものではない。つまり雨から逃れる以外の器具としての役目はなく、屋内においてや雨が降っていないときなど、これほど傘が邪魔に感じるときはない。したがって今日なんか、晴れてポカポカしているというのに、傘を持って街を彷徨っていたことになる。本音でいえば、この邪魔になる傘を捨てていこうかなんて考えるが、雨が降るとなくてはならないものだけに持って帰るしかないのだが、よく電車等で傘の忘れが多いというのは、忘れてしまったのではなく、邪魔だから故意に置いていった人もかなりいるのではないかと考えている。
何時も出勤する時は、万が一のため折り畳み傘を入れているのだが、これも雨降った後は傘がボトボトなので折り畳むことも出来ず、意外と邪魔になるものである。でも冬の間は少々の雨でも濡れると身体が冷えるので傘は手放せないから困ったものである。これが夏だと、少々の小雨なら傘もささないが、冬の雨はどうしようもない。それに夏は雨を望んでいるところが私にはあって、うだるような暑さが続くと一雨どころかもっと降ってくれなんて願うが、冬の雨は余計である。寒いのに雨など降られると気が滅入るし、行動範囲も限られてくるし、つい出て行くのも億劫になるしたまったものじゃない。だから冬の雨は憂鬱でしかないのだが、不思議と最近は冬に雨が降ることが多い。少なからず地球温暖化が影響しているのかもしれないが、歓迎されない冬の雨の中、出て行くときは実に鬱陶しいことこの上ない。だいいち傘を持ち歩いていると本屋に行っても立ち読み一つするにしてもやりにくく、傘が瞬時に乾いてポケットに収まるほど小さくならないかなあと何時も思うのである。
これだけ科学が発達し生活はだんだんと便利になっていくというのに、雨に抗する手段というのは未だに傘以外にはないものなのか・・・・・・・至極残念である。とにかく冬の雨は大嫌いだ。
2009.12.02 (Wed)
何を書こうかなあ・・・
また音楽のことを書けば次は文学の話題で書く、すると次はスポーツの話題で、その次は映画でというようにジャンルを偏らさないように万遍無く、あまねく書きたいという欲があるから困り果ててしまう。本音を言えばもっと美術に関して書かないといけないし、本の話題にももっと触れないといけないだろうが、美術館に行くのも億劫だし、本を読むのにも時間を要するので、手っ取り早い音楽の話題ばかりが先行しているように思う。さらにいうならば、最近は体調もすぐれず薬を手放すことも出来ないから、遠方に行けなくなってしまった。20代の頃は、出張やら旅行やらで、いたるところに行きまくったものだが、この数年は新幹線にすら乗ったことがない。べつに乗らなくてもいいのだが、それほど出不精になってしまったということなのである。また職業も昔とは違っているので、ほとんど出張ということもなく、毎日、家と職場の往復ばかり。それで名所・名刹巡りといっても近畿圏内ばかりになってしまっている。もっとも近畿は日本の歴史・文化を担ってきた土地柄ということもあり、この圏内だけで書ききれないほどの名所・名刹が多いというのが救いでもある。だが、その近畿内の名所でも最近は行きあぐねている現状なので、簡単に当ブログで紹介という訳にもいかなくなった。
しかし、出かけるということは癖のもので、外出癖が出だすと次第と足が勝手に動き出すということもあるから、そのような気持ちの昂揚が自分の中で起こることを待ちつつ、暫くは食傷気味な話題ばかりで記事を埋めていくしかないかもしれない。
2009.12.01 (Tue)
松本清張・・・・・『ゼロの焦点』を読む

おそらく作家別で言うと私は松本清張の著作を1番読んでいるかもしれない。とにかく松本清張は多作の作家で書いた小説が数100作品に及び、出版された小説もいったい何冊あることやら・・・・。そんな大多数の著作群の中で、私が読んだといっても200冊もいかないだろう。でも100作品は軽く超えているから結構な数になる。ざっと私が記憶しているだけでも『西郷札』『或る「小倉日記」伝』『点と線』『眼の壁』『わるいやつら』『砂の器』『けものみち』『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』『蒼い描点』『Dの複合』『影の地帯』『黒い樹海』『鬼畜』『砂漠の塩』『逃亡』『落差』『黄色い風土』『張込み』『波の塔』『黒革の手帖』『霧の旗』・・・・・・ごく一部であるが、松本清張はとにかく多作の作家である。そして、その何れもが内容の高い作品なので驚かされるのであるが、そんな中で『ゼロの焦点』は、映画やテレビのドラマ化に何度もなり、既にストーリーもその結末も認知している方は多いと思う。
この度、久しぶりに映画化され現在上映されているから、このブログ上で『ゼロの焦点』について書いてみたくなったというのでもなく、実は私の部屋ある書架の裏側に一冊の小説が落ちていて何気に拾ってみたら、それが松本清張の『ゼロの焦点』だったということ。その内容もすっかり忘れていて、今回、20数年ぶりに読み返してみたという訳である。登場人物はさほど多くはないが、話が込み入っていて最後に思わぬ終結を迎えるという推理小説にありがちな話ではあるが、トリックよりもむしろプロットが秀でていて、このあたり社会派と称される松本清張ならではといった趣がある。
話は昭和33年のことで、主人公・板根禎子がいる。彼女は26歳で10歳上の鵜原憲一と結婚した。当時のことなので当然のように見合い結婚である。また36歳で結婚という今なら別に不思議なことではないが、あの当時としては随分と遅い年齢での結婚であった。それだけに鵜原憲一が、その間までどういった事情があったのか謎のまま禎子が結婚したことになる。ただ、現在の職業が広告取次会社の金沢出張所主任ということだけしか判っていなかった。そして、憲一と禎子は慣習にしたがって結婚する。また憲一は結婚を機に東京の本店に戻るというつもりでいた。そして、2人は新婚旅行から帰ってから東京に新居を構えたのである。ところが1週間後に金沢に最後の出張だといって出て行ったまま鵜原憲一は、そのまま失踪してしまうのである。
推理小説のストーリーをウダウダ書いてしまうと結局、犯人が判ってしまうのでこれ以上は書かないが、話の鍵となるのが戦後に現れた商売女であったということ。所謂、パンパンというものであり、終戦直後の陰鬱で物がない時代に進駐軍相手に商売をしていた派手な女達の過去と、それに係わった男がストーリーの中で重要度を占めてくることになる。やがて夫が失踪し禎子自らが金沢に乗り込み、夫の金沢出張所の後任の主任である本多良雄と共に捜査を開始する。ところが捜査を進める途上で次から次へと係わりある人物が死んでいき、とうとう真相を突き止めたかに思われた本多までが殺されてしまい、話はだんだんと核心に入っていく。でも普通の若い女性が、探偵のように動き回り、ここまで推理して全容を知るまでに至るのだが、おそらく込み入ったストーリーの中で、当時の楚々とした一般女性がこれほどまでに活発な行動力を発揮した上で、尚且つ精緻で理路整然とした完璧な推理を働かし、とうとう真の犯人を知ることなど到底、現実では不可能であろうと思いながら読んでいたのである。まあ、こういった現実離れした部分はあるものの、松本清張に出てくる小説というのには外国のミステリーに登場するようなスーパーマン的な探偵や警察官は一切登場せず、ごく普通の人が地道に足を運び、一つ一つ謎を解いていき最後に結末が判るといった話の展開が多い。またそこに組み込まれたメッセージというのは大きく、社会への面当てのように裏の世界を引っ張り出してくる。時代背景を投影させ、時代が生んだ暗黒な部分及び成り行きがストーリーそのものに反映していることが多く、こういった話の組み立てから社会推理派と言われる所以であろう。
つまり松本清張という人は1909年という明治に生まれながら、大正、昭和、平成の時代を生き続けたわけである。よく作家にありがちな高学歴を積んだ文芸派はだしのエリートではなく、高等小学校を出て働きだしたという叩き上げである。でも働きながらも色々と文芸書を読み漁ったというから、松本清張の作家としての下地は既にこの時代に育まれていたのである。30歳で朝日新聞社の意匠担当として働き、やがて戦争で召集される。戦後に朝日新聞の戻り、勤務しながら小説を書き出したというから晩成の作家である。でも幾つかの職業と戦争体験があり、多くの世界を渡り歩いてきたことが、その後の小説家としては活きてきたということになるのだろうか。
松本清張は1992年に82歳で亡くなるまで小説を書き続けた。あのバイタリティーは何処にあるのか判らないけども、作家としてデビューするのが遅かったから出来る限りの作品を残したかったということらしい。でも、何れの作品も半端な昨今の推理小説よりも水準的に上回っているというのは、やはり凄い作家である。