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2018.04.09 (Mon)

大阪メトロだって

 一昨日の土曜日、久しぶりに大阪の繁華街に行った。野暮用があってのことだが、久しぶりに地下鉄に乗ると大阪メトロという文字が目に入った。そうか大阪市営地下鉄がこの4月から民営化され名称が大阪メトロになったらしい。しかしちょっと待てよ。これは東京メトロのパクりじゃないか。もっと他の名称に出来なかったのかと言いたくなる。正式名は大阪市高速電気軌道と言い愛称が大阪メトロだって。ここで一言文句を言わせて貰うならばせっかく民営化に踏み切るのなら大阪市の市を除いて大阪高速電気軌道でいいのにと思う。また愛称でも大阪サブウェイとか大阪アンダーグラウンドとか大阪チューブとか大阪サブラインとか大阪U-ラインとか他に色々と考えられたのに敢えて東京と同じ名称とはまた真似したと言われるぞ。市長に言わすとメトロは都市を意味する。すまりメトロポリタンと言うことなのか。でもメトロの名称を使ってつのはフランスの地下鉄であってメトロ・ド・パリ、メトロ・ドゥ・マルセイユ、イタリアもメトロを使ってるかな。でもドイツはU-バーンと言うし、ニューヨークはサブウェイ、ロンドンはアンダーグラウンド、通称でチューブという。ただし世界中を見渡すとメトロポリタンを地下鉄の愛称にしている都市は多いから結局は大阪メトロに落ち着いたのか・・・・。まあしょうがない。
 それなら何故に民営化したのなら大阪市の市を取らなかったのかと言いたくなる。市があるかないのはどうでもいいじゃないかと言う人がいるだろうけど、これはない方がいいのだ。大阪市なんて言ったらかつて大阪市営モンロー主義があって昭和の時代まで大阪市営以外の鉄道の市内中心部乗り入れに難色を示していて、京阪電鉄なんかはそのあおりをモロに受けていた。だからせっかく民営化したら大阪市の市を取っ払って欲しかったというのが正直なところだ。それは何故かというと大阪市営の頃は大阪市の端で地下鉄の路線を延ばさずほとんど建設を停めてしまい府下に出てこないからである。出ても僅かに数キロで路線はその先に伸びていかなかった。大阪市が出費するのに何故、大阪市内でないところまで建設する必要があるのかといいうところだろう。確かに地下鉄は建設費が莫大になる。でもこのモンロー主義が蔓延していたのかおかしなところに地下鉄の終点がある。たとえば今里筋線の井高野だとか谷町線の八尾南。さらに千日前線の南巽。こんなところに地下鉄の終点があってもしょうがない。何れも住宅地だが乗る人も降りる人も僅か。それならもう少し伸ばして府下に出て行けば他の私鉄やJRと連絡できて乗降客も増え利用者も便利になる。ほとんどの路線が私鉄やJRと総合乗り入れまたは他の鉄道と連絡している東京の地下鉄と比べれば大阪の地下鉄の端っこの駅の便利の悪さはどうしようもないことが判る。今里筋線なんて府下に出ていって阪急の正雀、JRの岸辺辺りまで伸ばせば乗り換える人も増えるのにと思うのだが井高野という大阪市の北の端で止めてしまった。たったの1キロほどなのに。だから赤字路線なのだ。小生なんか岸辺か正雀で乗り換えれば大阪の東部や南部に大阪の中心部まで出なくても行けるのにと思うのだがおかしなところで地下鉄の終点があるので余計な時間とお金をかけて行かなくてはならないのだ。それを大阪市はモンロー主義の影響から考えてなかったのだろう。だから民営化するともっと自由な考えから他社と共同で便利化を共有することが出来るのにと思いながら相変わらず社名に大阪市の市が入っていたら同じことじゃないか。
 大阪市は行政区域が狭くおそらく日本の政令指定都市の中でも面積が狭い。さらにいうならば大阪府全体が大阪市でもいいぐらいの面積である。大阪府自体の面積は日本の都道府県の中でも46番目と言う狭さ。関西空港を造らなかったら香川県より狭い全国最小と言うほど狭い。つまり大阪府全体が市街地みたいなものである。山間部というのは北部の豊能地域、南部の南河内、南泉州ぐらい。かつての大阪市の周りは田んぼという時代とは違う。状況は昭和30年代とは違うのだ。大阪は東京よりも先に郊外が衛星都市として開発された歴史がある。だから民営化されたのなら府下に路線を伸ばしてもっと他社乗り換えの便利良さを考えてくれともいいのにとは思う。
 ただ日本は人口減少の時代に入っている。問題は利用者の数が減っていってると言うことだ。唯一、東京圏は人口の社会増加が未だ続いている。これは一局集中が顕著であるからで、かつて大阪発祥の企業が全て本社機能を東京に移しているのも多大に影響している。関西でも大学を出たが働く企業が東京に本社を移すので行かざるを得ないという事実がある。今はインバウンドの影響で大阪の繁華街も賑わっているが、今里筋線のような繁華街を通らない路線は乗降客も少ない。でもせめてもう少し伸ばして他社と連絡機能を考えてくれれば乗降客も多少は増える。これから確実に日本は考えていかないと人口は減っていくのだ。だからモンロー主義から脱皮して民営化に踏み切った大阪市営地下鉄も多岐に渡って経営を考えていかないと行けない時代になっている。他社の私鉄も同様で経営は鉄道だけでは儲からない時代になっている。だが鉄道は公共性のあるものだからまず乗降客の利便性をもっと考えてもらいたい。


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2017.09.05 (Tue)

平日の昼間のJR

この前、久しぶりに平日の真っ昼間にJRに乗った。高槻と京都の間を乗ったのだけど電車の本数が少ないので驚いた。一時間に4本しかない。それも、この間はほぼ各停しかない。しかし高槻より以西。西明石と高槻の間はさほど本数は減ってない。それは午前11時から午後3時までの間は西明石~京都を走っている207系及び321系のサイドシートの通勤型車両の各停が全て高槻で西へ折り返すからである。だから高槻と京都の間は一気に本数が減る。つまり半分に本数が減ると言うこと。知ってはいたが、いざ経験してみると唖然とする。それだけ京都府は大阪、阪神間に比べると人口が少ないということなのか。国鉄時代は昼間も西明石~京都を通勤型車両が走っていたものだが、赤字の国鉄時代とは違い民営化されたJR.。もう昔と違い採算が合わないと削る。人があまり乗らない路線は当然本数を減らすのだ。それに人口が増えていた時代と違い日本の人口も減りだした。従って通勤時間の大量の乗車率が見込める朝と夕方のラッシュアワーは本数が一気に増えるものの乗車率の低い昼間は見事に本数が減ると言うこと。でも高槻以西は本数が減らないというのを見ると愕然とする。したがって昼間は高槻以東は快速が各停に変わって運行している有様。
 しょうがないと思うが、この快速変じての各停が食わせ物だ。何故かというと8両でくるかと思えば12両で来たりする。この辺りの両数だとさほど混まないが、時々、221系の車両がやってくる。するとほとんどが6両編成なのである。これだとまずホームの先端の方に立っていると電車が前に止まらない。したがって慌てて車両の扉のあるところまで走らなければならない。要するに電車がやってこないと何両編成か判らない。前もって表示される駅もあるが、表示板に量数が出ない場合もある。だから6両編成でやってこられると困るのである。また12両の半分の編成しかないから車内が当然のように混んでいる。だから電車の姿がホームから見えたとき、223か225系の電車なら良いが221系だと6両編成の場合が多いので愕然とする。それよりもまだ東海道線に旧式の221型が走っていことに驚くが、JR西日本はJR東日本に比べると資本投資をあまりしない。というよりも私鉄の力が今でも強いから物事は簡単にはいかないのか。こと車両に関しては私鉄の方が断然に良い。でも国鉄時代に比べれば随分と良くなった方だけどな。もっと運賃の方を安くしてくれば良いのに。20キロ以内は私鉄よりも運賃が安いが、それを超えると私鉄との運賃格差が格段に違う。JRの方が断然高くなる。小生の家からだと京都に行く時はJRの方が阪急よりも運賃が安いのに、大阪駅になると逆転。三宮になるとダントツに阪急が安くなる。それも遠距離になるほど運賃の割高感が増すJR。それも私鉄と競合しない都市部以外だと余計に運賃が高い。これだとなかなか遠距離も乗ろうと思わないJR..。もっとどうにかならないかと思う。豪華列車を走らすのも良いが世の中は金持ちだけではないからな。

ホームからこの車両が見えると6両かと思ってしまう

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2016.12.20 (Tue)

ホームドアを考える

 先日、大阪のJR新今宮駅でおかしな男が数人の女性を背中から押し、60代の女性はホームから線路上に落ち、電車が慌てて急ブレーキをかけ、あと5mのところで停止したという。まあ頭のおかしい奴もいるものだが、ホームドアがあればこういう危険はなかっただろう。また最近、盲目の人がホームから転落して電車に轢かれ死亡した例もある。今は忘年会シーズンで酔っ払いも多く千鳥足でふらふらしてホームから転落ということも多いという。それで安全のため設置が急がれているのがホームドアと言うことになる。
 でも昔は駅のホームから転落しても今ほど大騒ぎしなかった。つまりホームドアなんて考えがなかった時代だから記事としても取り扱いが小さかった。でも最近はホームドア設置が出来る時代になったので急に駅のプラットホームの危険性を耳にすることが多くなった。というのも最近は急速にアジアの国が発展し、最近になって敷設された鉄道というのはほとんどホームドアが設置されているからだ。ことに韓国の地下鉄はほとんどの駅にホームドアがついているから日本の都市鉄道のホームドアの設置度の遅れが目立ってしまうのだ。最近は韓国人は日本のJRや私鉄、地下鉄を見てホームドアがないことを馬鹿にして韓国の方が進んでいると発言する人が多いと言う。でも当たり前だろ。韓国というのは日本より半世紀遅れて1974年に地下鉄が最初に開通した。それも日本の技術援助と円借款のおかげである(韓国ではそのことを知らない人が多いが)。そのときのソウル地下鉄1号線は日本の車両であり、日本人が運営システムから何もかも指導したことさえ忘れているのかもしれない。つまりホームドアというのは近年になってから開発されたもので、最近になってホームドア、ホームドアと煩く言うようになっただけである。考えてみればそれ以前の駅というのはホームドアという概念はなく、ホームに柵はあっても自動で動くホームドアなんてものはなく、危険であるのは承知でもあったがホームドアという考えはなかったから、最近のように駅の危険性をこれだけ、やいやい言うようなことはなかった。それに昔の方が電車は混んでいたし、プラットホーム上に人が溢れていようがなんとか凌いでいたというのが現実である。
 それが1981年2月5日に神戸の新交通システムであるポートライナーが開通した。そして1ヶ月後の3月16日に大阪のニュートラムが開通。どちらも無人運転でスクリーンドアが設置されていた。ここから事情が変わる。こういうものが既に実現していたのだが、既存の鉄道では設置が難しかったのである。なにしろ日本の鉄道は複雑でありすぎる。都市交通で言うならJR、地下鉄、私鉄各社があり、それらが入り乱れ、総合乗り入れもある。また電車の車両規格が違い、5枚扉、4枚扉、3枚扉、2枚扉。色々とあり、車両の長さも違うので、いざホームドアを設置するにも簡単にはいかないのである。よく東京の山手線のホームドア設置率が高いのに同じような大阪の環状線のホームドア設置は何故進まないのかという声が上がるが、山手線は全て同じ規格の車両で統一しているからホームドアの設置は容易である。一方、大阪の環状線は実は環状線と言うが、同じ線路内に奈良行きだとか和歌山行きだとか関空行きだとか京都行きだとか違う路線の電車まで乗り入れている。まあ土地買収の問題もあり今更、複線を複々線、3複線化出来ないので同じ線路上に違う路線の電車が走っているからこういうことになるのである。それで仕方なく、JR西日本は環状線の新車両を全て3枚扉に統一し4枚扉の車両を走らせないようにしてようやくホームドアを設置することにしたらしい。でも駅自体古くホームドア設置した場合の重量に耐えられるかが問題になり、こちらの方の強化も必要だという。だからホームドア設置もすぐには実現できそうもない。
 さらに地下鉄は悲惨だ。韓国の地下鉄は1号線以外は1980年以降に開通したものばかりだからホームドア設置も簡単だったと言えよう。ところが日本は事情が違ってくる。日本の地下鉄開通の歴史は1927年の東京の浅草~上野間に始まって、1933年の大阪・梅田~心斎橋間。地下鉄ではないが1931年に京阪(現・阪急)の京都・西院~大宮間。1933年、阪神の岩屋~三宮間と地下を電車が走っている。また地下駅化に伴う一部の地下鉄道は1928年、神戸有馬電鉄の湊川駅。1933年、京成の上野駅。1938年、関西急行(現・近鉄)の名古屋駅。1939年、阪神の梅田駅。1941年、名鉄の新名古屋駅。
 これだけ戦前から地下化が進んでいると今の基準に合わすのは難しい。地上駅と違い工事もより難工事になり費用も莫大になるのでホームドア設置も遅々として進まない。ことに古い路線ほどそうである。でも車両の長さとドアの数さえ合わせれば比較的設置費用が安くて工事の簡単なロープ式ホームドアなら設置しているところも増えた。まあ韓国のように完全密封型スクリーンドアは無理ではあるが、簡易方式なら設置できるだろう。それと韓国は日本の私鉄のような民間鉄道がほとんどなく国が出費している公社のような鉄道がほとんどだから統一できるというものだろう。でもアメリカやヨーロッパの鉄道は日本と同様で一部しかホームドアってものが存在しないのだが(モスクワには世界初のホームドアがあるが)、アジアの諸国の都市鉄道では最近に開通したものが多く全てスクリーンドアが設置されている。したがって日本に大勢来るアジアの観光客は日本の鉄道にホームドアがないことに驚いているみたいだ。意外と日本はハイテクの国なのに遅れていると思ったかもしれない。つまりこの20年で急速に鉄道が敷設されたアジアの都市の鉄道とは違い、日本は100年前から都市に鉄道が敷設されていたので時代遅れと思われるのも仕方がない。なので日本の駅にホームドアがないから未開だという韓国人は事情を知らないだけ。また韓国にあるスクリーンドア・システムは日本のナブテスコが開発したものなんだけどと突っ込みたくなる。でも危険防止のためホームドアはあった方が良い。これからは日本は高齢化社会が急速に進み駅での安全をより強化しないといけなくなる。したがってホームドア設置は急がれるのである。

これからこういった簡易式なロープ型ホームドアが増えるかもしれない(JR高槻駅)

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2015.04.12 (Sun)

発車メロディ

 先日、久しぶりに大阪環状線に乗った。といっても大阪以外の人はあまり判らないだろうから説明しておくと、東京で言う山手線である。大阪市街を一周しているJRの電車である。でも小生はあまり乗らない。それは乗る必要があまりないからなのだが、つまり大阪の難波、道頓堀、心斎橋といったあたりの繁華街に通ってなくて乗る必要もないからで、乗る必要に迫られると言えば関空に行く場合か舞洲、または天王寺や鶴橋から近鉄に乗りかえる時ぐらいである。したがってあまり乗らない。普段は圧倒的に地下鉄を使う。それともう一つの理由は電車が古くて汚いということ。101系を含みi103系なんていう外観が昭和30年代の電車を今でも走らせているのだ。勿論、内装を変えて台車やモーターは新しくしているだろうが、外装はそのままだ。何で大阪市内の根幹線である環状線にこんな古い車両を使っているのかというと競合する私鉄がなかったからである。だから何時までも古い車両を使っていたのだ。東京のJRの通勤車両がどんどんと新しいのに変わるのに、50年以上も前の車両外観を使用しているなんてとても考えられない。全く乗客を莫迦にした話だ。けして新しい車両が良いとは言えないが、客に対して誠意がないと見られても仕方がない。赤字路線ならいざ知らず環状線は黒字も黒字、JR西日本のドル箱ラインなのである。それなのに駅は汚いし電車は古い。まさに国鉄時代のお荷物を引きずっている。国鉄時代なら親方日の丸的な経営方針でサービスも悪かったし、それこそ東京中心で動いていて新しい車両はまず東京近郊でデビューさせ、そのお古の車両を関西に持ってくるということが多かった。なので関西は私鉄が充実したのだ。綺麗でサービスの良
い私鉄に乗客が流れ国鉄はポンコツといったイメージしかなかった。だから昔から関西は阪急や京阪、近鉄と言った私鉄のサービスが充実した私鉄王国と言われ続け、国鉄は場末の汚い田舎の電車といったイメージでしかなかった。少なくとも昭和の時代はそうだった。それが民営分割化され、JRグループになり、東京本部の御伺いをたてなくても自らの方針で何でも経営できるようになった。だから東海道線や山陽線、福知山線等、続々と新しい車両をデビューさせスピードもアップ。駅も綺麗になって行った。こうして料金さえ除けばJR西日本は私鉄を凌駕するようになってきた。その結果、私鉄から客を奪っていたのだ。
 そんな中で何故か環状線だけがぽっかりと取り残されたように約50年間も古い車両走らせていた。競合する私鉄ラインがないということで何もしないでも客は増える。まさに殿様商売である。でも世間の評判は芳しいものではなかった。それはJR側にも当然聞えていたようだ。そしてついに来年、環状線に新車がデビューすることとなり、JR西日本も重い腰を上げ徹底的に環状線にてこ入れするようになったようだ。まず各駅の改装から始まって色々と考えたのだろう。このほど電車の発車する時にメロディを流すのだが、それが各駅でそれぞれのメロディを流し出した。こういうことは東京のJRではだいぶ前からやっていたことだが、関西では島本駅で到着を知らせるメロディにサントリー・オールドのCМ曲(行政上では島本町内にサントリー山崎蒸留所がある)が使われたのが最初で、それ以降はあまり進展しなかった。それが大阪駅にやしきたかじんの『やっぱすきやねん』が去年から流れ出し、このほど環状線全19駅で発車メロディが使われ出したのである。しかし、あんまり意味があるとは思えない。東京の山手線に乗って恵比寿駅で『第三の男』や高田馬場駅で『鉄腕アトム』のメロディを聴いてもあまり意識しなかった。何でこの曲になったのと理由を聞いて、ああなるほどとは思ったが無理やりにこじつけているなあと言った印象でしかなかった。別に駅ごとのメロディが悪いとは言わないが、無理にそのメロディを持ってこなくても全駅同じメロディでもいいのにと思ったものである。そういうことで大阪環状線もこのほど駅ごとに違う発車メロディを使うようになったのだが、その各駅のメロディのリスト見て笑ってしまったのだ。まさに東京のごり押しメロディと変わりない。
 取り敢えずリストアップすると次のようになる。
大阪駅~福島駅『夢想花』円弘志、野田駅『一週間』ロシア民謡、西九条駅『アメリカン・パトロール』フランク・ミーチャム、弁天町駅『線路は続くよどこまでも』アメリカ民謡、大正駅『てぃんさぐぬ花』沖縄民謡、芦原橋『祭』芦原橋太鼓集団『怒』、今宮駅『大黒様』田村虎蔵、新今宮駅『新世界交響曲第4楽章』ドヴォルザーク、天王寺駅『あの鐘を鳴らすのはあなた』和田アキ子、寺田町『Life Goes On』韻シスト、桃谷駅『酒と泪と男と女』河島英五、鶴橋駅『ヨーデル食べ放題』桂雀三郎、玉造駅『メリーさんのひつじ』マザ-・グース、『森のくまさん』アメリカ民謡、大阪城公園駅『法螺貝』オリジナル、京橋駅『大阪うまいもんの歌』ゆかいな牧場、桜ノ宮駅『さくらんぼ』大塚愛、天満駅『花火』aiko、~大阪駅。
 このリストを見て笑ってしまった。想像もつかなった。ただ新今宮駅の『新世界交響曲』だけは想像がついた。この駅の北東部は通天閣があって一帯を新世界と言うので、この曲を使うのは判っていた。でもドヴォルザークの新世界はアメリカのこと。通天閣あたりは昔ルナパークと言って遊園地があったからいいが、現在は下町も下町。コテコテ、ケバケバな大衆繁華街。しかも隣はあいりん地区と言うドヤ街、およそドヴォルザークの新世界のイメージとはかけ離れている。どの駅の曲も強引に理由づけてごり押ししただけにしか思えないし選曲に苦労しただろうな。無理に曲を持ってこようとすると何かと理由づけて持ってくるしかない。結局こうなったてことだろう。そこに、やしきたかじん、和田アキ子、河島英五、大塚愛、aikoなんていう大阪出身の歌手を当てはめただけ。それなら同じaikoでも『三国駅』という阪急宝塚線にある駅を歌った曲があるが阪急は使う気もないようだ。その曲を小生も一度か二度だけ聴いたことあるが、さっぱり印象に残らなかったかな。
 本音で言うならば環状線の発車メロディなんて意味のないことでJRも関心を呼ぼうと思わないで、もっと他のことでサービスしてほしいと思う。またメロディは5秒ほどと短すぎて、聴いても何の曲かあんまり判らない。せめて10秒ほど流すべき。


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2015.03.14 (Sat)

トワイライトエクスプレス

 トワイライトエクスプレスが一昨日の12日~13日にかけての運行を終え、およそ26年間の歴史に幕を閉じた。大阪~札幌間1500㎞を22時間かけて走る豪華寝台列車として運行され日本一長い距離をほぼ一日かけて日本海沿いを走るので悠久の旅が出来ると評判を呼び、そこに豪華さが加わってデビュー当時はチケットが瞬時で完売するので有名だった。何時か完全にリタイアしたら一度乗ってやるかと考えていたのだが・・・・・・その前に引退してしまった。それは北海道新幹線が開通すると言うので青函トンネルの電圧が変更されることと並行在来線が第三セクターへ移管されることとに加え、一番の大きな理由は車両の老朽化ということだろう。
しかし整備新幹線もいいけれど、時間に縛られずのんびりと旅情を味わいながらゆったりとした気分に浸れる長距離寝台車の方が遥かにいい。殊にトワイライトエクスプレスはそれまでの日本の寝台車にない個室の寝台車。最後尾は豪華なロイヤル・スイート。大きな個室で大阪駅で発車する前の僅かな時間は見学をさせてもらったものだ。確かに豪華でかつてのヨーロッパを走っていたオリエントエクスプレスを彷彿とさせるし、国鉄時代の簡易ベッドを並べたような寝台車とは一線を画す。
 こういった列車に乗って北海道までのんびりと旅したいなあと思っていたのだがな。飛行機で北海道に慌ただしく行くのとは違い、許される時間があれば乗って見たかったというのが本音である。10代の頃、鈍行と連絡船をつないで北海道までいったことあるが、あのときは京都~大垣、大垣~東京、東京~上野、上野~黒磯、黒磯~仙台、仙台~青森、青森~函館、五稜郭~銚子口、銚子口~札幌と乗り継ぎ、間に大沼湖畔でテントを張って寝たが、札幌まで3泊して4日目にようやく到着した。着いたときは腰が痛くて身体がガタガタ。黒磯以北は古い客車で背もたれが板で直角。五稜郭~銚子口まで乗った時はまだ蒸気機関車のD-51が牽引していたという時代。昭和47年の夏だった。それを考えると僅か40余年で隔世の感がある。まもなく北海道まで新幹線が走ろうかと言う時代。あの当時はまだ東海道全線と山陽新幹線は岡山までしか開通していなかった。でも新幹線は忙しいビジネスマンには都合がいいので利用者が多いが、やはり優雅に旅行するなら寝台車か鈍行だろう。つまりそれだけ時間に余裕のある人しか出来ないということだ。そこにトワイライトエクスプレスになると豪華さが加わる。時間とお金がないと利用できるというものではない。だから熟年夫婦に利用者が多いのである。
 皮肉にもトワイライトエクスプレス廃止と入れ替わって北陸新幹線が開通して北陸の人は大喜びだそうだが、あんなもの乗っても2時間かそこらで終わる。飛行機と一緒で如何に時間を短縮するかだけのために建設されたもの。そこに経済性とかが加味されて有効利用される。つまり経済効果を狙ってといったところだが、新幹線なんて一度乗るだけで十分だ。時間が許されるなら新幹線なんて小生は乗らない。ただ時間に追われているから利用するだけ。だから何時も感じるのは新幹線が開通するたびに、並行した在来線がお荷物扱いされてしまい隅に追いやられてしまうから残念だ。どうしても新幹線を利用せざるを得ない状況にしてしまうのだ。これだと点から点への移動だけになってしまい途中の記憶がなく味わいもない。また昔の列車は窓が開き停車ごとに駅弁が買えたものだが、今の列車は窓も開かない。完全冷暖房だから仕方がないが旅の情緒なんてものはない。単なる移動のための箱ものだ。だから豪華客船にもいえるがトワイライトエクスプレスのような時代に逆行した乗り物が人気になるのだろう。ついでにいうなら上野~札幌間を走っていた同様の豪華寝台列車北斗星もお役御免だという。寂しいねえ。しかし、こういった豪華寝台列車に一度は乗って旅をしてみたかった。




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2014.10.02 (Thu)

新幹線開業50年

 昨日の10月1日は東海道新幹線開業からちょうど50年になるという。それを聞いて、え! もうそんなになるのかと思った。そういえば新幹線開業の時、小生はまだ小学生だったのだ。それが最早、還暦の域だからな。年月の経過はおそろしく早いものである。こちらはそろそろ老後のことも考えないといけなくなってきた。
 1964年10月1日と言うと東京オリンピック開幕の10日前。その開幕に合わせて確か突貫工事で完成させたのではないかな。あの頃、京都市中心部から少し離れた小学校に通っていたので、新幹線の工事を行っていたのはよく覚えている。まだ昭和30年代の中頃と言うと京都と大阪の間も田畑が多く、今のように民家がどこまでも連なっているという光景ではなかった。それで小生が幼稚園に通っている頃、今は亡き親父から夢の超特急の話を聞かされた。それは東京~大阪までを3時間で走り時速200㌔以上のスピードで走るというものだった。そういわれてもあの当時、想像すらつかなかった。何しろ当時の特急『こだま』でも東京~大阪まで6時間50分かかっていた時代だ。最高速度さえ100㌔を超えるが表定速度で言ったら約80㌔ぐらいなもので、それが時速が倍になるなんて考えられないのも当然だった。それが余りにも非現実的な話で夢のような話だった。だから夢の超特急だったのである。
 小生はまもなく小学校に入学する。それと同時に夢の超特急が走ると言われていた場所の工事が始まりだした。地下深く掘っていたと思ったら、何時の間にかニョキニョキとコンクリートの柱が建ち出し、または盛り土の堤防のようなものが遠方まで伸びていった。あっという間だった。やがて2、3年が経ち、ほぼ土台が完成していた。それからレールを敷く工事に入ったのだろう。それで面白い話がある。小生はあの当時も今も阪急京都線の沿線に住んでいる(現住所よりは京都の中心部に近いところに住んでいた)。それで大阪に行くときには阪急に乗るのだが、それまで田んぼの中を走っていて各所に踏切があったもので、昭和38年の春だったかな母と姉と3人で大阪の親類の家へ行く時に阪急に乗った。すると大山崎駅の辺りから高架になりそれが水無瀬、上牧駅と高架を走り続けたのである。あれ!と思った。それまでは高架区間でもなかったのにと思いながらも・・・・・。ただこの3駅間は並行して新幹線の工事を行っていた区間である。それで、その日の帰りに確かめたのだが、何と阪急は新幹線のレールの上を走っていたのである。これはどういうことかというと、計画の段階で新幹線を何処に走らせるかと言うことになり、結局、この区間だけは阪急と併走する形となり、新幹線が全面高架ならついでに阪急もこの併走区間だけ高架することになったのだろう。それで先に高架工事の終わった新幹線のレールの上を阪急が走っていたのである。そして、新幹線が開通する翌年までに阪急の高架工事を終え元の鞘に戻したということだったのである。つまり新幹線のレールの上で最初に営業運転を行ったのは阪急だったというから面白い。
 さらに翌年の1964年の4月である。初めて新幹線の車両が試運転を行うと言うので、我々、小学生はその話題で持ちきりだった。何だか鳥飼基地を出て京都方面へ試運転するという。それも朝の8時過ぎに。それで我々はどうしたかというと早めに学校へ行き、学校の2階の窓から新幹線の方角を窺っていたのである。あの当時は、高い団地もほとんどなく、学校の2階から高架の新幹線までは見渡せたものだ。すると誰かが「来た!」と叫んだ。間もなくアイボリーとブルーのツートンカラーの新幹線(6両編成)が時速30㌔のノロノロ運転で通過して行った。これが夢の超特急だったのである。ついに現実となったから夢でなくなったが超特急には程遠いスピードだった。それから毎日、新幹線は試運転を繰り返すようになり、スピードも段々と増すようになっていった。試運転初日から1ヶ月もしない間に猛スピードで試運転を行うようになり車両数も12両になった。
 その年の8月が9月だったと思う。学校が休みの日だった。小生はよく行くお好み焼き屋に居た。そこには中学生や小学生が集まって漫画を読みながら何時もお好み焼きを食べていた。それで、その日、NHKが東京から新大阪まで営業後と同じ4時間に及ぶ試運転を行い、それを生中継すると言うので、お好み焼き屋のテレビを見ながらガキどもがワイワイ騒いでいた。確か当時、鈴木健二アナウンサーが新幹線に乗り込んで中継していたと思う。やがてその新幹線は京都駅に到着した。すると誰かが「テレビに映りに行こうや」と言いだした。すると「行こ、行こ」と賛同する者が多くて、小生を含めたガキども10人ぐらいが急いで新幹線が走っているところまで向かったのである。まだ新幹線は通過していなかった。すると間もなく撮影用のヘリコプターがけたたましい音をたててやってきたと思ったら、すぐに新幹線が通過したので我々は皆、手を振ったのである。そして、お好み焼きの店に戻っておばちゃんに聞くと、新幹線の車内カメラは我々のいた場所とは違う反対側を撮っていたようで残念ながらテレビには映らなかったのである。それから1ヶ月余りで新幹線は開業するのである。12両編成で4時間運転(翌年に3時間10分に短縮)だった。その翌年には親父と姉とで名古屋まで『ひかり』に乗ったのが最初かな。珍しいからとビュッフェに行って珈琲とトーストを食べたが、窓際の椅子に座ったが、客室の椅子よりも揺れを感じるなといった印象がある。それ以来、何十回、何百回乗ったかわからない。その後、山陽、東北、上越、長野、九州と新幹線は延伸し、乗客数も50年前とは比較にならない。それでいて、未だに乗客の死亡が0というから素晴らしい。今は外国の至るところで高速鉄道が走っているが、それこそフランスのTGV、ドイツのICE、走り始めてまだ10年にしかならない韓国のKTX、ましてや大事故を起こし大勢死者を出した中国の高速鉄道など比較にならない。運転本数も通勤電車並みに運行されていて時間も正確。乗っていても心地よいし全てに優れている。よく脱線事故を起こすフランスのTGV、死者を多数出したドイツのICE、ましてや自国だけの技術で高速鉄道を走らせることなど出来なかった中国、韓国等とは問題にならない。フランスのTCVは開通が1981年と遅いのに、けっこう揺れるし車内も狭いし便数も新幹線とは比べ物にならないほど少ない。速いだけなら新幹線よりもフランス、中国の方が速くなったかもしれないが、大陸で直線が多くスピードが出し放題の国とは一緒にできない。日本は山岳が多く、雨も多いし雪も降る。カーブも多く、坂も多くトンネルも多い。それに何よりも地震多発国である。とにかく高速鉄道を走らせるにおいて条件が厳しすぎる国なのだ。それでいてあの便数、死亡者0という安全性と正確さと快適さ、やはり世界の中でも新幹線だけは別格な気がする。開業から50年、この新幹線がどれほど日本の経済を長きに渡り支え続けたかと思うと、その役割は想像以上に大きかったと言えよう。今やShinkansenといえば世界中で通じるよになった。おそらく日本の新幹線が世界の鉄道事情を一変させたことは間違いない。それを考えれば世界初の高速鉄道が終戦後僅か19年で開業したというのは、今から考えれば偉業だったのだなと感じる今日、この頃である。
 

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