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2011.11.27 (Sun)

第31回ジャパンC

 もうジャパンCも31回目になるのだな。私はこのレース、当然のように第1回から全て観ているが、国際レースの難しさを何時も思い知らされ馬券がとれたという記憶がほとんどない。第2回に当時アメリカ芝競馬の最強と言われたジョンヘンリーが来日してどのような競馬を見せたくれるか期待しつつ観ていたが惨敗。日本馬全てに遅れるという始末。それ以来、外国馬が本国でレースしていたようにはいかないというのは判っていても毎回、外国の強豪馬にはつい馬券へ手を出してしまう。それで何時も外れるのだが・・・・・。

 まあ、そんなことはどうでもいい。それで今回、凱旋門賞をレコードで圧勝したデインドリームがやってきた。凱旋門賞の強さからいって1番人気に支持されたものの今回もだめだろうなとは思っていた。とにかく過去、凱旋門賞馬がジャパンCに参戦したことは6回ある。その結果、1988年トニービン5着、1989年キャロルハウス14着、1993年アーバンシー8着、1996年エリシオ4着、1999年モンジュー4着、2005年パゴ8着と連にも絡んだことがない。ただ1982年にオールアロングが2着になったことがある。オールアロングの場合はジャパンC2着の翌年に凱旋門賞を勝っているから例外である。そして、ついでに言うならば英国ダービー馬の参戦も過去には3頭あった。1992年ドクターデヴィアス10着、クエストフォーフェイム11着、1999年ハイライズ3着。ということはヨーロッパの一流馬といっても日本の高速馬場では、その実力を充分に発揮するのは難しいと思える。またその逆もあって、日本馬が海外で苦戦するのも同様の理由からなんだろうが、ヨーロッパではこの季節、もう平地競馬がシーズンオフになっているので、馬の調子自体にも問題はあるのだろう。すると外国馬で期待できるのはアメリカ馬かオセアニアの馬ということになるが、最近はオセアニアからあまり参戦しなくなった。またアメリカ馬の場合は一流馬はダート馬なので芝馬はやや格が落ちることになる。

 それで今回は凱旋門賞馬が初めてジャパンCに勝つのではといった予想紙も見られたのだが、勝ったのは復活のブエナビスタだった。昨今、勝てなかったのでもうピークを過ぎたのかなと囁かれてはいたが、今回は好位の7、8番手から直線で前が開いたと同時にスパートし前にいたトーセンジョーダンを競り落として勝った。

 1着ブエナビスタ 2分24秒2、2着トーセンジョーダン クビ、3着ジャガーメイル 1馬身3/4、4着トレイルブレイザー 1/2、5着ウインバリアシオン 3/4。

 結局、期待されたデインドリームは6着で凱旋門賞2着だったシャレータは7着だった。今回のジャパンCは1000m通過が1分01秒8と遅く、上がりの競馬になってしまったが、このスローぺースでデインドリームは後ろから行きすぎた。ブエナビスタはいくらか前に行っていた。そこで上手く前を捌いて末脚を爆発させられたので久々の勝利につながったのだろう。でもまた前が開かなかったらどだったのだろう。こういった脚質の馬は展開に注文がつくから難しい。それと8ヶ月ぶりのレースであったヴィクトワールピサ。いいところが何処もなく13着。この間、レースを一つも使えなかったというのはどういうことなのだろう。それとペルーサがシンガリに終わった。もうこの馬は善戦マンの看板も下ろしてしまうのか・・・・・・。とにかくレース後には何時も、色々と考えさせられる。つまりジャパンCとは、そんなレースなのである。
 
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2011.11.23 (Wed)

今日は勤労感謝の日だが

 11月23日は昔から勤労感謝の日。昨今は祝日もだんだんと日を固定されなくなってきたが、勤労感謝の日だけは決まって11月23日である。この祝日の趣旨は「勤労をたっとび、生産を祝い、国民をたがいに感謝しあう」ということらしい。人は穀物、野菜、果実、といった作物からなる食料はもちろんのこと、自然の恵みをも含め、互いの支え合いによって生かされている。食べるものも着る物も、あらゆるサービスにおいて、全て他の人の勤労と生産のおかげに助けられて生きている。それでそういった日頃の慣習の恵みを与えている者に対して祝おうというものだろうか・・・・・・。

 しかし、拙者も生産性社会の枠の中の端っこで恵みを与えているはずなんだが、過去、勤労感謝の日に休んだという記憶があまりない。おそらく休んだ日は2度か3度程度。なぜかこの時期は仕事が忙しく、せかせかと働いていることが多い。したがって出勤して一生懸命、あくせく働いて勤労を感謝している。ああ、情けない。まさに貧乏暇なしである。

 それにしても朝の電車は空いているが、帰りの電車は混んでいて座れやしない。行楽帰りの人で電車の中が賑やかである。今年はNHKの大河ドラマの主人公が浅井長政の娘である江姫だとかで、その出生地の小谷城のある長浜市や、またお市の方の兄にあたる織田信長の造った居城である安土城跡を訪れる人が多いらしく、滋賀県は観光客が増えているという。その大河ドラマというものを拙者、観たこともないのだが・・・・・・。

 まあ、そはいいとしても帰りの電車で4人掛けの席で弁当を広げて騒いでいるおばちゃんや、お酒が入って声が大きいおっさんたちで占められた車両は煩くてしょうがない。こちらは出勤で疲れているから静かにしてほしいものだが、行楽帰りの人というのはそんなことお構いなしなのだろうか。旅の恥はかき捨てなんていうけれど、周りへの気配りもしてほしいものである。何も祝日だからといって、みんなが休日ではないし当然、出勤している人もいる。行楽帰りで心がウキウキと高揚している人達は騒ぎたいだろうが・・・・・・・。

 なんだか愚痴になったが、これだから祝日出勤は厭なのだ。でも、12月も引き続き忙しく、土曜出勤もあるし残業も多い。これだとブログ更新も単発になるだろうなあ・・・・・・。
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2011.11.19 (Sat)

ベン・E・キングの面白いアルバムを見つけた

IMG_0148.jpg


 ベン・E・キングという黒人のソウル・シンガーがいる。いや、昨今ではほとんど表舞台に出てこないので知る人ぞ知るというところだ。でも洋楽を少しでも聴きかじったことのある人なら『スタンド・バイ・ミー』という曲を一度は聴いたことがあるだろう。1961年の大ヒット曲でベン・E・キングが歌っていた。ところが、この曲はその後に独り歩きし、後年に世界中の多くの人によってカバーされ続け、現在では400バージョンあるらしい。これは広いポップス界において史上2番目の多さだという(1位はビートルズの『イエスタデイ』で1000バージョン以上)。日本でも園まりが歌っていたことがある。つまり、そのスタンダード・ナンバーの『スタンド・バイ・ミー』のオリジナル版を歌っていたシンガーがベン・E・キングなのである。世界中のミュージシャンが歌い続け、現在でもどこかで誰かが『スタンド・バイ・ミー』をレコーディングしているという現実。あのジョン・レノンがビートルズ解散後に歌っていたので尚、この曲を有名にしたのだが、その後に同名の映画が上映され、その主題曲としても取り上げられさらに有名になった感がある。

 これでベン・E・キングはどのような人か判っただろうが、もっと詳しく言うならば、ベン・E・キングはザ・ドリフターズのリード・シンガーであった。ここでいうドリフターズは勿論、いかりや長介、加藤茶、高木ブー、仲本工事、志村けん、荒井注のドリフターズではなく、1950年代から1960年代にアメリカで活躍した黒人のコーラス・グループのことである。実はドリフターズは現在でも活動をしているのだが、全盛期はベン・E・キングがいた1958年から1960年ということになる。そして、ちょうどそのころに『ラストダンスは私に(Save The Last Dance For Me)』(全米ヒット・チャート1位)を出している。

 ドリフターズを脱退してソロになり大ヒット曲『スタンド・バイ・ミー』をベン・E・キングを出したのであるが、70歳を過ぎた今でも彼は現役である。そして今回、面白いアルバムを出したようである。CD店で物色していて偶然見つけたのが、このアルバムである。

 収録曲は『上を向いて歩こう』『どこまでも行こう』『スタンド・バイ・ミー(日本語バージョン)』『ラストダンスは私に』『オン・ブロードウェイ』『渚のボードウォーク』『アワ・ハウス・アンド・ファミリー』『アイ・ミス・ユー』『グッドナイト・ベイビー(英語バージョン)』、そしてオリジナルの『スタンド・バイ・ミー』である。

 実は親日家であるベン・E・キングが3月11日に起こった東日本大震災の悲報に胸を傷め、日本への思いを込めて特別に録音したアルバムなのである。

 『上を向いて歩こう』は当然、誰もが知っている坂本九の大ヒット曲。1963年に全米ヒットチャートで1位となった日本の曲。何故、この曲が全米でヒットチャート1位になったかは色々と訳がある。でもここでは詳しくは書かない。でも何れ記事にすると思うが、そもそもはケニー・ボールというイギリスのジャズメンが坂本九のオリジナルをカバーして『SUKIYAKI』という曲でリリースしたことが発端であるとだけ書いておこう。当アルバムでは日本語で歌われている。

 2曲目は『どこまでも行こう』で、これも日本の曲。かつて山崎唯がCМで歌っていた。3曲目は『スタンド・バイ・ミー』の日本語バージョン。自身のヒット曲を日本語で歌っている。4曲目は『ラスとダンスは私に』で、かつてドリフターズ時代に大ヒットした曲を収録している。5、6、7、8、10曲目は自身が脱退した後のドリフターズのヒット曲と今回のアルバム用の曲である。9曲目は『グッドナイト・ベイビー』とまたまた日本の曲。1968年にザ・キングトーンズで大ヒットしたが、これを英語でベン・E・キングが歌っている。そしておまけとして1961年に収録されたベン・E・キングのオリジナル版『スタンド・バイ・ミー』が収められ彩りを与えている。しかし、まあ風変わりなアルバムではあるが、企画としては面白いかも。興味ある人は一度、聴かれてみては・・・・・・。


 ザ・ドリフターズ『ラストダンス私に』(動画はなし)


 『スタンド・バイ・ミー』を歌うベン・E・キング


EDIT  |  17:31  |  音楽(ポップス、ロック、その他)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2011.11.19 (Sat)

またも雨だった

 しばらく雨が降らなかったのに、今日になって朝から強い雨。またも土曜日が雨。先週こそ土、日は晴れたものの束の間。また今週も週末は雨。それも強い雨で、行動範囲が狭まれてしまいどうすることもできない。これで、最近の6週間で5回が週末の雨ときているから、用事も何もできやしないし、また出かけるにしても遠出はできず本当に困ったものである。朝から耳鼻咽喉科に行ったが、医院に着くまでにびしょ濡れになった。なんてことだ。長期間にわたり治療を試みているのでだいぶ鼻の調子が良くなってきたのだが、それでも未だに鼻水は出るし、咳も出るので3週間に一回ぐらいは通うようにしているのであるが、またも雨だった。

 それにしても11月の雨としては激しすぎた。雨の降り方が秋らしくないのだ。今年の秋は降雨量からしたら例年よりも少ないかもしれず晴れた日が多く、それも暖かい日が多い。だがいったん降ると激しく本格的な降り、2、3日続く。それが例年とは違うところである。秋の雨というのはだらだらとしとしとと降る傾向があり、秋の長雨ということもある。でも激しい雨になることは稀である。今年のように晴れる日が多く、降ると本格的に夏のように激しい雨が降るというのは、地球温暖化と関係しているのだろうか・・・・・・・。

 あまり雨が降らない秋なのに、降る日が土、日の何れかというのには参った。これで今週こそは用事を済まそうと考えていたものが、毎度の雨によって延び延びになってしまい、だんだんと用事が溜まっていく。とうとう師走に突入することになるだろうが、偶然とはいえ、これだけ毎週、土、日に限って激しい雨が降ると半ば開き直る気持ちでいるしかなくなり、家で燻っているしかない。でも来週こそは土、日がすっきり晴れてほしいものなのだが、来週も同じことを言ってるかもしれない。とにかくお天気のサイクルがおかしすぎるではないか。どこかに雨男、雨女がいるのではないだろうか・・・・・・・。
EDIT  |  17:29  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2011.11.13 (Sun)

ジョー・フレージャーのこと

 このところ記事が書けなかったので、少々、遅くなったとは思いながらもジョー・フレージャーのことを書いてみる。先日の11月7日に元世界ヘビー級チャンピオンだったジョー・フレージャーが肝臓がんで亡くなった。

 昨今はボクシングといっても世間の注目を浴びることも少なくなったし、世界ヘビー級チャンピオンが誰だかマニア以外、判らない時代である。それだけ世界チャンピオンの価値が昔に比べて低くなったということだしし、世界タイトルマッチでもテレビ中継されることがだんだんと無くなってきた。それはボクシングを統括する団体が増え、それぞれの団体がチャンピオンを認定しているといったことと、階級もより細分化され昔よりも王座につきやすくなったからでもある。それで日本では現在世界チャンピオンが8人もいる有様である。しかし、彼らの名前を言える人はほとんどいないだろう。でもこれが1960年代のように統括団体が一つで、階級も当時のままだと、この中で世界チャンピオンになれたのがはたして何人いるだろうか・・・・・・??

 小生が小学校に入った頃には世界チャンピオンが日本にいなかった。当時は世界中で世界チャンピオンが全階級を通しても11人しかいなかったから無理もない。なにしろ統括団体が一つで、階級も1番軽いのがフライ級、その上がバンタム、そしてフェザーというように階級がもっと大雑把だった。今のようにフライよりも下のクラスがあり、フライ、バンタム、フェザーとの間にも階級が設けられた。それだと当然、チャンピオンになりやすいことは誰が考えても判るだろう。なのであの頃の世界チャンピオンはどの階級でも猛者ぞろいであった。そんな中でファイティング原田がポーン・キングピッチを11回KOで倒し世界フライ級チャンピオンになった時は大ニュースになったほどだ。もっとも原田は、その後に一つ上の階級であるバンタム級でも世界チャンピオンに輝いている。またこの時、闘った相手が黄金のバンタムと言われた不沈艦エデル・ジョフレ(ブラジル)である。エデル・ジョフレは原田に負けるまで無敗。でも当時、専門家の多くがあの怪物ジョフレに勝てるなんて考えてなかったようだ。とにかくエデル・ジョフレは強かった。その後、ジョフレはフェザー級タイトルも獲得するが、生涯で2度しか負けなかった。しかし、負けた相手が何れも原田だったというのも面白い。そのジョフレに2度にわたって勝ったということで、原田は日本人ボクサーでただ一人世界ボクシング殿堂に入っている。

 さて、ジョー・フレージャーに話を戻そう。実はジョー・フレージャーは原田が大好きな世界ヘビー級チャンピオンだった。それはヘビー級ボクサーにしては背が低く、ずんぐりした体形でありながら、強烈な左フックを武器に猛進するファイターだったところが原田と似通っていたからであろう。ジョー・フレージャーは東京オリンピックの金メダリストである。翌年にプロデビューし連戦連勝。その頃の世界ヘビー級チャンピオンといえば言わずと知れたカシアス・クレイことモハメド・アリである。アリは1964年に時の世界チャンピオンのソニー・リストンをTKOで破り若くして世界王座についた。法螺吹きクレイといわれ、言いたいことをずけずけ言う。しかしボクシングスタイルはそれ以上に驚かされた。あの当時のヘビー級において、これだけフットワークがありパンチにスピードのあるボクサーはいなかった。まさに蝶のように舞い蜂のように刺すだった。でもアリはベトナム戦争に反対するあまり徴兵を拒否した。結局、これが彼のボクシング生命を変えることとなる。アリは無敗のまま世界チャンピオンのタイトルを剥奪され、ボクシングライセンスをも失う。アリがリングから去ったヘビー級のボクシングシーンというのは寂しかった。

 その間、WBAは世界ランカーを集めて王座決定トーナメントというのをおっぱじめた。参加したボクサーは元チャンピンのアーニー・テレルを始めサッド・スペンサー、ジェリー・クォーリー等。そのトーナメントを制したのはアリの元スパーリング・パートナーだったジミ-・エリスである。こうしてWBA世界ヘビー級チャンピン、ジミー・エリスが誕生した。一方、WBAとは別にニューヨーク州公認世界ヘビー級チャンピオンに輝いた者がいる。それがジョー・フレージャーだった。ニューヨーク州認定とはどういうものだったのか、今でもよく判らないが、この当時にボクシング統括団体が増えていったので、理由はいくつかあるだろうがその詳細までは知るところではない。

 ジョー・フレージャーは空位の世界ヘビー級を王座をかつてアマチュア時代に敗れたバスター・マシスと争い、これを11回KOで仕留めた。こうして世界ヘビー級チャンピオンに輝いたジョー・フレージャーを小生は意識することになるが、とにかくブルファイター。上体を揺すりながら左右のフックで相手を威圧しながら前へどんどんと進む。接近戦で強烈なパンチを見舞いKOの山を築きあげるのだった。ジョー・フレージャーは1970年2月にジミー・エリスと統一世界ヘビー級タイトルを争うこととなるが、4回KOで倒し名実ともに世界王者となる。ところが徴兵拒否からタイトル剥奪後、長いブランクからモハメド・アリが裁判で勝訴しリングに復帰してきた。やはりブランクがあった感は否めず、若いころのアリと比較すると動きは鈍っていた。ただし体重が増え、パンチ力は増していたように思う。

 1971年3月、26戦全勝のジョー・フレージャーは31戦全勝のモハメド・アリの挑戦を受けた。試合はブンブンと突進するフレージャーをアリがかわし時々、速いストレートをアリが放つが、全般的にロープを背にして闘うアリが往年のスピードがなく、15回判定でフレージャーが勝った。これでフレージャーはアリに初めて土をつけたボクサーとして知られることとなり、また真の王者にやっと認められた瞬間でもあった。しかしながら、この頃が一番フレージャーの絶頂期であっただろう。メキシコ・オリンピックの金メダリストであるジョージ・フォアマンがプロ転向後に連戦連勝。だんだんとフレージャーの王座を脅かす存在になっていた。

 1973年1月、ジョー・フレージャーの世界王座にジョジ・フォアマンが挑戦してきた。フレージャーは29戦29勝(25KO)無敗。ジョージ・フォアマンは31戦31勝(28KO)無敗。雌雄を決する一戦であった。でもフォアマンは今まで闘った相手が軽く予想ではフレージャーが有利であったように思う。試合はあっけなかった。身長リーチともに上回るジョージ・フォアマンのハードパンチがさく裂。初回からフレージャーはダウンを奪われ2回には像をもなぎ倒すと言われるフォアマンの強烈なフックを受けてマットに沈んでしまった。

 その後、フレージャーは世界王座に2度と輝けなかった。そんなフレージャーだが、1975年10月フォアマンから王座を奪回したアリにフレージャーはフィリピンのマニラで挑戦した。これは死闘になり体力の消耗を強いられた。結局、フレージャーは14回終了時でTKO負けとなったが、両者とも激しく撃ち合う名勝負となった。もうアリもフレージャーも峠をこしたボクサーであったが、お互いライバルと認め合う相手だから意地で闘ったところがある。

 ジョー・フレージャーは結局、37戦32勝(27KO)4敗1分けの戦績で引退した。でも生涯の4敗はアリに2敗(1勝)、フォアマンに2敗だけで、他の相手には負けていない。つまりこういった役者が多くいたからこの当時のヘビー級は面白かったといえよう。まさにボクシング・ヘビー級の黄金時代である。

 その後、ヘビー級にはマイク・タイソンが出現するが、王座転落後のタイソンはどうもいただけない。ボクシングをすっかり汚してしまった。もっと節制して精神を鍛えればアリにも負けないほどのカリスマになりうる素質があったのにもったいない。今は世界ヘビー級タイトルマッチといってもテレビ中継はないし、たとえ中継はされても視聴率も低いだろう。それだけ役者が減ったということだ。

 ジョー・フレージャーはそんなボクシング・ヘビー級黄金時代に輝いていたまさに一等星だったのである。前から肝臓癌だとは聞いていたがパーキンソン病のアリよりも先に死ぬとは意外だった。まだ67歳だった。


 統一世界ヘビー級タイトル・マッチ1 ジョー・フレージャーVSジミー・エリス 

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2011.11.08 (Tue)

改札から出れない

 拙者、毎日、電車で近江の国まで通勤していることは頻繁に記事に書いているが、今日の帰り、改札から出よとしてICOCAカード定期を改札機にタッチしたら何の反応もない。それで出ようとしたら改札機がバタンと閉まってしまう。それで仕方なく駅の係員にカードを見せて調べてもらったらカードの磁気がいかれているというではないか。それでカードの再発行が必要になるらしい。でも再発行は翌日以降となり、駅でICOCA再発行登録票兼特別乗車証を手渡された。まあ、何ともしまらない話ではあるが、便利と裏腹にIC乗車券というのはこういったときは実に不便であるということが判ったのである。

 ところでICOCAというのはJR西日本で使用されているICカード乗車券のことだが、こういったICカードはいまや日本全国にある。JRにこだわるとSuica(JR東日本)、TOICA(JR東海)、Kitaca(JR北海道)、SUGOCA(JR九州)と各地にあるが、JR以外だとPASMO(関東周辺の私鉄、地下鉄、バス、その他)、PiTaPa(関西周辺の私鉄、地下鉄、バス、その他)、PASPY(広島地区の軌道、バス、その他)、nimoca(西日本鉄道)・・・・・等があるが、これらはチャージさえしていればいちいち乗車兼を買わなくてもすぐに乗れるし実に便利ではあるが、一度、磁器が痛むと使用できなくなるので案外、欠点もあるのだ。紙の乗車券の時代には全く考えられないことだが。

 小生が高校に入学して電車通学を始めたころは、まだ改札口に駅員が立っていて、紙質の定期券を見せて通っていたものだ。乗車券も自動券売機もあったが、窓口で駅員が売っているところも多かったし、改札を通る時も乗車券に入鋏していたものだが、自動改札機が出来てから乗車券、定期券というものが変わっていいった。そもそも日本で自動改札機が登場したのは、比較的新しくて1967年だという。阪急電鉄の北千里駅に登場したのが最初である。それで5年以内に大阪の私鉄を中心に一気に広まったのである。でもまだ国鉄や関東の私鉄では改札口で駅員が入鋏していた。それが関東でも1980年代に入って自動改札機を導入するところが増えて、現在では日本全国ICカード乗車券が当たり前になってしまったが、紙の乗車券では起こらなかった障害がICカードでは起こりうる。便利さを追求するのはいいが、いざ、トラブルがあると機能しなくなる。これこそ現在社会の歪である。なので、小生なんか紙の乗車券で改札を通っていた時代がとても懐かしく感じるのである。
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2011.11.05 (Sat)

またまた週末は雨

 本日の土曜日は雨。このところ4週間連続、週末が雨。いったいどうなっていることやら。さっぱり秋らしくないのだ。もう11月に入ったが少しも涼しくないし、昨日は夏日を記録。半袖でもいいぐらいだ。それに晴れた日が5日も6日も続いたと思ったら、きっちり土、日の何れかが雨。なんだか天候に振り回されている。11月にこれだけ晴れの日が続くのもおかしいが、気温がこれだけ高いのもおかしい。まさにおかしいことばかりなのだが、やっと休日だと思ったらまたも雨。こんなメリハリのある秋も珍しい。それに用事を済まそうと思う土、日にばかり雨が降らなくてもいいのに・・・・・・・。天は我を見放したか・・・・・。

 雨だからといって家に引きこもっている訳にもいかず、人と会うために出ていかなくてはならない。しかし、昼から本降りになった。ところで今日は滅多に行くことのない千里中央(豊中市)まで阪急とモノレールを繋いで行ってきた。千里中央といっても大阪近辺の人しか判らないだろうが、地下鉄(北大阪急行)御堂筋線の起点であり、大阪モノレールの駅もある結構、賑やかなところである。周辺は大丸、阪急といった百貨店もあり、文化センターもありマンモス団地である千里ニュータウンもある。比較的ハイソな街である。

 まあ、そんな説明はどうでもいいが、人と会う約束の時間までまだまだ余裕があったので、立ち食いうどんを食べて、ドトールコーヒーでコーヒーを飲んで、出ていったら何処からともなく喧しい音楽が聴こえてくる。なんかイベントがあるらしく、女の子が雨の中、合羽を着て黄色い声を送っている。何だと思って観に行った。千里セイルシーという商業施設のイベント会場のステージで若い男子5人組が歌いながら踊っていた。声援を送っている女の子たちはハングル文字で書いた自筆のプラカードのようなものを掲げている子が多かった。それで、しばらく興味本位で見学していたとい言う訳だ。最後にMCの女性の紹介で、その5人組が韓国のヴォーカル・ダンス・グループのSM☆SHと判明したのだが、SM☆SHと書いてスマッシュというらしい。

 なんか彼らは5枚目のシングルを発売するに至り各地でイベントを繰り広げているらしい。まあ、そんなことはどうでもいいが、我々のようなおっさん世代の知らないところで確実に韓流ブームが起きているようだ。どうも何年か前の『冬のソナタ』から始まって、韓国のドラマや映画、歌やダンスに至るまで日本の若者世代に韓流ブームが浸透しているのかもしれないと感じた。それを韓国は国が支援して歌手やダンサーを送り込んでいるようで、彼らはほとんど日本語を話す。韓国という国は市場としては小さいので、どうしても外国へと目を向けるらしいがいまや留まるところ知らずで、テレビ、自動車を中心に世界でシェアを急激に拡大しつつある。もう日本の製品は海外で売れなくなっているらしい。かつては安かろう悪かろうといったイメージがこびりついていたが、昨今では日本製品とも比べても品質で負けてないという。そこへ低価格ときていては第三諸国を中心に韓国製品が売れ、日本製品を駆逐する勢いである。でも日本国内ではどうしても日本製にこだわるので韓国製品もなかなか出回らないが、その日本の音楽市場を韓国勢が猛烈に侵略しつつあるのかも・・・・・・・。

 どちらにせよ、私は今時のポップスに興味がないので、知ったことではないが、やがて日本のテレビを観れば韓国のドラマばかり、韓国のグループばかりが画面を賑わしているというのでは日本の芸能界の行く末も危ない。日本の芸能界ががAKB48に代表されるような、学芸会の乗りでやっていると本格的に歌やダンスのレッスンを積んだ韓国のタレント達に何れ席巻されてしまうのではといった事にもなりかねない。ご用心ご用心。

 日頃、テレビを観ない小生であるが、たまたま観た韓国の男性グループの歌とダンスを観て、そんな感想を持ってしまったので、記事にしたまでだが・・・・・。
EDIT  |  18:37  |  ちょっとした日常  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2011.11.02 (Wed)

明日は文化の日だが出勤・・・

 なかなか更新できないな。体調を崩してなかなか本調子に戻らないというのもあるが、仕事が忙しくなったというのもある。おまけに明日の文化の日も突然の出勤である。文化果てる職場にいると文化もへちまもないだろうが、せっかく明日の祝日はオペラのDVDでも観ようと思っていたのに余計な出勤でぶち壊されてしまった。こちらは土曜日、日曜日も雑用が多く、個人的に自由になる時間が少ないないのだ。結局は、それ以外の祝日にやりたいことをやろうと考えていたのだが、教養も何にもない連中に出勤を言い渡されてしまった。ついでにいうと23日の勤労感謝の日も出勤だとさ。アホクサ・・・・・・。
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