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2008.07.24 (Thu)

お知らせ

パソコンの具合が悪いので、無期限のブログ中断をいたします。なお、これは携帯から書いています。みなさんご愛読ありがとうございました。いずれ復活しますので・・・・・・・・
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2008.07.21 (Mon)

古い映画を観る・・・・・『巴里の空の下セーヌは流れる』

 『巴里の空の下セーヌは流れる』 1951年製作 フランス映画

 監督 ジュリアン・デュヴィヴィエ

 出演 ブリジット・オーベール
     ジャック・クランシー
     クリスチアーヌ・レニエ
     レイモン・エレマンティエ
     マルセル・プランス
     ダニエル・イヴェルネル

 【あらすじ】パリに友人を頼って南フランスから若い娘ドニーズがやって来た。一方、モンマルトルのアパートの屋根裏では彫刻家のマチアスがモデルを使って奇妙な女の顔を作っていた。彼は変質者であり、3人の女をすでに殺していた。ドニーズはその頃、友人に家に落ち着き街に出て、占い女に運勢を見てもらい、そのすすめで宝くじを買った。ドニーズは故郷のの知り合いマキシミリアンとコンコルド広場で会う約束で、コンコルド広場に出かけ、彼と会ったが彼は飛行機事故で脚を折り障害者になっていることを知り愕然とする。一方、マチアスはナイフを持って4人目の犠牲者を求めて街に出る。工場に潜んだマチアスは通りがかったドニーズを殺し、警官に追われて逃げる。警官は弾丸を撃つが、弾は折からのストライキが終了して帰る途中のエルムノーに命中する・・・・・・・・・・。ほんの1日、24時間の中で交錯する様々なドラマがパリという街で起こるさまを、名匠ジュリアン・デュヴィヴィエが叙情的にとりあげている。

 互いに見ず知らずの登場人物がパリの住民をという形で繋がってたり離れていったりする構成は巧で、パリ観光映画としても見れる作品である。パリに着いたばかりの女性がいきなりの通り魔に殺され、しかも死後に宝くじが当選していることが判明するというストーリーは、如何にもジュリアン・デュヴィヴィエ好みの悲劇だが、全体にほのぼのとした暖かみがあり、人間のぬくもりが感じられる。

 ジュリアン・デュヴィヴィエの代表作というと『にんじん』『商船テナシチー』『地の果てを行く』『我等の仲間』『望郷』『舞踏会の手帖』といった戦前の作品が主なところであり、日本では異常なほど人気があって、なかでも『望郷』のラストシーンはことさら有名である。それは何故かというと、デュヴィヴィエの作品には日本人好みのヒューマニズムが息づいているからだと感じるが、戦前のフランス映画界の4大巨匠といわれるルネ・クレール、ジャック・フェデー、ジャン・ルノアールをー含めてもジュリアン・デュヴィヴィエの作品は、戦前の日本での評価が高い。クールなフランス映画からすると、デュヴィヴィエ作品には、どこか日本人が共感できる一貫した眼差しというものを持っていたからであろう。

 でも戦後に作られた、この『巴里の空の下セーヌは流れる』は、彼の作品の中ではあまり評価されなくて、どちらかというと内容よりも、その主題曲である『パリの空の下』があまりにも有名である。アコーディオンを弾きながらジャン・ブルトニエールが唄う主題歌が一人歩きし、シャンソンとしても唄われるようになった。そのせいかパリというとアコーディオンが似合う街というイメージがある。
Pres de Norte Dame
Parfois couve un drame
Oui mais a Paname
Tout peut s'arranger
Quelques rayons
L'accordeon
D'un marinier
L'espoir fleurit
Au ciel de Paris
Sous le ciel de Paris
Coule un fleuve joyeux
Hom Hum



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2008.07.20 (Sun)

アイビスサマーダッシュの結果

 各地で今年最高気温を記録した今日、新潟で名物のアイビスサマーダッシュ(Jpn-Ⅲ・3歳以上、芝1000m、18頭)が行なわれた。

 ヨーロッパでは珍しくないが、日本の競馬では新潟競馬場でしか見ることの出来ない直線1000mのレース。これが新潟の名物になっているが、スピード自慢の18頭が顔を揃え、1番人気は3歳牝馬のエイムアットビップ、2番人気が4歳牝馬のカノヤザクラ、3番人気が4歳牝馬のクーヴェルチュールと上位人気は牝馬が占めた。過去、このレースは牝馬が好成績を挙げているのが反映しているのだろうか・・・・・。

 レースはスタートからサープラスシンガーとクーヴェルチュールが先行し、それを最後になって伸びたカノヤザクラとシンボリグランの争いになったが、カノヤザクラの方が優っていた。あっという間のレースでレース展開も何も無い。コーナーも無いので、とにかくスピードの持続力の勝負となり、結果は次の通りである。

 1着カノヤザクラ 54秒2、2着シンボリグラン 1/2、3着アポロドルチェ クビ、4着サープラスシンガー アタマ、5着クーヴェルチュール
EDIT  |  18:08  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.07.19 (Sat)

夏本番

 梅雨も明けて夏本番。学校も夏休みに入ったようだ。でも私にとっては一年で最も憂鬱な季節であり、それこそカンカン照りの中をうろつくだけで、頭から額から背中から腰にかけて前身ビッショリ汗まみれになる。だから気持ちが悪いは、喉は渇くは、眼に汗が入った時には、いかんともしがたい。

 そんなおり今日、久々に大阪の方に出かけた。そして、梅田の地下街を歩いていたら、何処からか賑やかな笛、太鼓の音が聞こえてくるではないか・・・・・。やがてその音色はだんだんと大きくなって、その一団がやって来た。どうやら夏祭りのようだ。聞く所によると露天神社の夏祭りだという。

 露天神社というのは大阪の曽根崎にある神社で、創建は西暦700年頃と古く、祭神は小彦名と菅原道真である。菅原道真が大宰府に左遷される途中、ここで京の都を偲び涙を流したからだとか、梅雨の頃に神礼の前から井戸水が沸き出たからだとかといった理由で、このような社名がついたといわれている。また、1703年には、堂島新地・天満屋の女郎はつと、船場・内本町醤油商平野屋の手代・徳兵衛が、この露天神の森で心中したからお初天神ともいわれ、後年に近松門左衛門が人形浄瑠璃『曽根崎心中』を書いたことで有名である。

 さて、その露天神社、通称・お初天神の夏祭りだそうだが、地元の梅田地下街を地車囃子と獅子舞の奉納ため練り歩いている。そういえば大阪最大の祭りである天神祭もまもなくであるが、その前にお初天神の夏祭り・・・・・・。しかし、祭りの囃子を奏でる衆はみんな若い。男の子、女の子という感じだ。それに京都の祇園祭と違って囃子そのものは、豪放で猛々しい。雅やかな京都の祭りとは違っている。流石に商都の祭りだけある。でもあの若さは羨ましいかぎりだ・・・・・・・・・。

 梵天・獅子舞を先頭に笠踊りに地車囃子を奏でる稚児が大勢続いている。
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 みんなとにかく若い。この若さが羨ましい・・・・・。
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 一方、24日の宵宮、25日の本宮で本番を迎える天神祭のダンジリ囃子の演奏も行なわれていた。
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EDIT  |  20:03  |  近場散策  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.07.18 (Fri)

野茂英雄が引退した

 暫くブログの更新をしていなかった。このところパソコンの具合が悪く、記事を書いていてもすぐに電源が落ちてしまい簡単に更新できなくなってしまった。もしかすると無期限でブログを中断しなくてはならないかもしれない。でも書ける間は、間隔が空こうと書くことにしようと思う・・・・。しかし大した記事は書けないとは思うが・・・・・・・・・。

 ところで野茂英雄が引退したという。1995年にアメリカに渡り日本人大リーガーのパイオニアとして長らくその名を轟かせたが、とうとう引退してしまった。とりあえずお疲れさんといっておこう。

 私が野茂英雄の名前を知ったのは、1985年の7月、全国高等学校野球選手権大会の大阪府予選。成城工業VS生野高校の試合結果を記載したスポーツ新聞を読んだ時である。つまり成城工業のエース野茂英雄が生野高校を相手に完全試合を達成したという記事を読んだ時に始まる。私は無名の高校にも良いピッチャーがいるものだと妙に感心したことを覚えている。でもこの時の野茂は内野ゴロが多く、打たせてとるピッチングで完全試合を達成したと記憶しているが、どうだろうか・・・・。とにかく大阪の普通の公立の工業高校で素質があるピッチャーが完全試合を達成したといっても、当時の大阪といえばPL学園の全盛時代。野茂の1年上には清原、桑田がいて、1年下には立浪、片岡、野村、橋本、2年下には宮本らがいて、野茂のいた成城工業が甲子園に行くことなどまず不可能。結局、高校時代の野茂は大阪の予選で、少し目立った程度のピッチャーであった。

 それが社会人野球の新日鉄堺に入りフォークボールをマスターし都市対抗で頭角を現し出した。この頃には既にトルネード投法といわれる変則的な投球フォームで、三振の山をバッタバッタと築く片鱗を見せていた。その後、野茂はソウル・オリンピックに出場し、銀メダルを取り、1990年にドラフトで近鉄に入団した。

 近鉄時代はドクターKと呼ばれエースで三振奪取王であったが、実働5年でチームを去ることになる。その理由が大リーグに行くということであった。ただ周囲からは反対され、身勝手だとか、無謀だとか、通用しないとか揶揄され、野茂叩きにマスコミは奔走した。ところがである。村上雅則以来、31年ぶりのメジャー・リーガーとして、13勝6敗の好成績で新人王を獲得すると、手の平を返したようにマスコミの野茂讃美が始まった。

 こうして野茂英雄が日本人大リーガーの先駆けとして活躍すると、その後に後進が続き、今や日本人大リーガーは何人いるのだろうか・・・・・・。今では日本のプロ野球でブレーしている選手よりも、アメリカに渡った日本人ブレーヤーで選抜軍をつくった方が強いのではないかと思えるぐらいだから、野茂が日米の野球に架けた橋というものは、日本の野球史上において特筆される出来事であったといえるだろう。

 もし野茂が大リーグに行かず、日本に残ってプレーしていたとしても名投手といわれる活躍はしていただろう。だが、彼の前例のない思い切った大胆な行動が、それまでの沈滞化したプロ野球に冷水を浴びせ、その後の野球界の国際化に寄与したとしたら、野茂の残した功績というものは非常に大きいと考える。

 野茂が海を越えてアメリカの地で第一球を投じてから、早くも13年。今では大リーグも国際化し、韓国人選手、台湾人選手等のアジアの選手が大勢いるし、アメリカ大リーグの開幕試合を日本で行なう時代でもあり、本当に1990年代初頭では考えられなかった今日のプロ野球の現状である。それまでの閉塞寒のあったプロ野球界。今や選手の選択肢は増え、プロ野球で活躍し、その後に大リーガーへ飛翔する。すっかりこういった構図が出来てしまい、日本のプロ野球界はつまらないといった声も聞かれるが、それでいて観客で埋まっている球団は多い。つまりファンの価値観が変わってしまったといってもいいだろう。

 昔なら、人気のセ・リーグといわれ、パ・リーグ在籍選手の無念さはいやというほど聞かされていたが、今や全国に分散して行ったパ・リーグのチームが新たなフランチャイズで、地元に密着し、ファンを獲得しつつある。このような状況はつい5、6年前までは考えられなかったが、それもこれも野茂がアメリカに行って成功し、レールを敷いたから、日本のプロ野球が動き出したのではないだろうか・・・。何れ、国際化時代が進み、アメリカ大リーグを含めて、アジアン・リーグという時代がやってくるかもしれない。

 何時までも古い慣習に拘っていては、つまらなくなるのは見えている。野茂が先鞭をつけたプロ野球の国際化の波は、いよいよ国際リーグ創設ということを視野にいれて考えるべきかもしれない。もしかして2050年には、日本、韓国、台湾、中国を含めてアメリカ大リーグの組織の中に組み込まれて、ワールド・リーグといった形でペナント・レースが行なわれているかもしれない。だから私は単身でアメリカ大リーグに挑戦した野茂英雄を賞賛するが、またプロ野球をさらに大きく国際的に発展させるべき人物の登場を待っているのである。
EDIT  |  21:15  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.07.13 (Sun)

七夕賞、プロキオンSの結果

 このところ連日の暑さだ。まだ梅雨明け宣言も無いのに、毎日30度を超える暑さで、早くもバテ気味である。まだ7月の中旬にさしかかったところなのにこの暑さが続いている。どうも今年は近畿地方に関しては空梅雨のようで、こうなると長い長い夏になりそうな気配がする。そして、今日も例によってカンカン照りの猛暑。ああ、早く7月、8月が通り過ぎてくれないかな・・・・・。若い頃は、夏が比較的苦にならなかったが、年齢を重ねるごとに夏が嫌いになっていく。それに地球温暖化の影響で、年々、夏が耐えづらいほど暑くなっている様な気がする。いよいよ日本も亜熱帯地方に属する日も近いかも・・・・・・・・。それにクマゼミが喧しく鳴き出した・・・・・・。ああ、これから二ヶ月も耐え忍ばなければならないのか・・・・・・・・ゾッとする。

 さて、猛暑の中、今日は福島で七夕賞、阪神でプロキオンSと重賞2レースが行なわれた。それでその結果を記すとする。

  福島競馬場  七夕賞(GⅢ・3歳以上、芝2000m、15頭)

 1着ミヤビランベリ 1分59秒8、2着ミストラルクルーズ 3/4、3着マイネルキッツ ハナ、4着キャプテンベガ 1馬身1/2、5着ヴィータローザ アタマ。

  阪神競馬場  プロキオンS(GⅢ・3歳以上、ダート1400m、13頭)

 1着ヴァンクルタテヤマ 1分22秒0、2着ワイルドワンダー 1馬身、3着サンライズバッカス 3/4、4着バンブーエール 1馬身、5着シルクビッグタイム クビ。

 ところでこのほど、春の天皇賞馬アドマイヤジュピタが今秋の凱旋門賞挑戦を表明したと思ったら、今度はメイショウサムソンが凱旋門賞挑戦を正式に決定した。

 昨年、メイショウサムソンは凱旋門賞に出走予定であったが、例の馬インフルエンザ騒ぎの渦中で残念せざるを得なかった。だから今年は日本から2頭も同時に出走すると聞いて、久々に面白い凱旋門賞になりそうな按配である。それに今年は、アメリカ最強馬のカーリンまでが凱旋門賞に挑戦するらしいので大いに興味が沸く。アメリカのクラシック・ホースが凱旋門賞に挑戦するとなると、おそらく1965年のトムロルフ(勝ち馬シーバードから17馬身差の6着)以来のことではないだろうか。アメリカの競馬はダートがメインなので、芝レース中心のヨーロッパには遠征しないものだが、カーリンは既に芝レースに臨み(2着)、準備万端である。でも日本の2頭は芝レースに慣れているので、アメリカのカーリンが幾ら強いといっても簡単に負ける訳にもいかないだろう。特にアドマイヤジュピタは9月に行なわれるフォワ賞(ロンシャン、GⅡ・2400m)をたたいて本番に備えるという。まあ、過度の期待は出来ないが、善戦を期待するとしよう。
EDIT  |  16:48  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.07.13 (Sun)

エルトン・ジョンのアルバムを聴く『エルトン・ジョン』


 エルトン・ジョン初来日コンサート・ツアーの時のチケット(1971年10月7日)
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 1997年9月、イギリスのダイアナ元皇太妃が自動車事故で急死し、追悼式があったが、その時テレビを観ていて驚いた。何故なら中年のあまり風采の冴えない小太りの男が追悼歌を歌っていたからである。誰だとよく見たらそれはエルトン・ジョンであったから二度びっくりである。かつてアルコール依存症、薬物依存症で低迷していたエルトン・ジョンだと知ると万感の思いがあった。

 思えば私がエルトン・ジョンをよく聴いていたのは高校生の頃だった。当初はあまり好きではなかったが、その頃、社会人になったばかりの姉が何処で仕入れた情報か知らないけれど、エルトン・ジョンが良いから聴けといいと言い出した。確か1970年にエルトン・ジョンの『僕の歌は君の歌(Your Song)』という歌が流行っていた。ピアノのイントロで始まりたおやかな優しい声で 
~It's a little bit funny, this felling inside  I'm not one of those, who can casily hide~ と歌われるエルトン・ジョンの最初のビッグヒット曲である。

 また間もなくして映画『フレンズ』が上映されていて、その主題曲をエルトン・ジョンが歌っていた。それでエルトン・ジョンはすっかり日本でも名が知れたミュージシャンになっていたと思う。 でも私はさほど好きではなかったが、エルトン・ジョンの2枚目のアルバムが出たというので姉は私に買え買えと催促する。それなら自分で買えばいいのにと思うけども、「今は金が無い」という。それなら高校生の私も金が無いのは同然である。でも姉が好きな音楽傾向は判っていたので、はずれは無いだろうと思い買ったアルバムがエルトン・ジョン自身2枚目の当アルバムである。

 エルトン・ジョンは1969年に『エンプティ・スカイ』というアルバムでデビューしていたが、ほとんど話題にもならなかった。だが2枚目の『エルトン・ジョン』が発売されるや、収録曲の『Your Song』が大ヒットし、一躍、人気アーティストとなった。自ら作曲しバラード調の曲からアップテンポの曲まで全般的にメロディアスで、特にバーニー・トーピンの詩と彼の曲とのバランスがよく「現代の吟遊詩人」「コンテンポラリー・ポップスの異端児」というキャッチ・フレーズが巧く時代とマッチしていたと感じるのである。また、あの頃はハード・ロックが全盛の時代で、メロディアスなポップスがだんだんと影を潜め、ポップスが過渡期にあったと思う。既にビートルズは解散していて、テクノポップスの台頭もあり新しい時代に洋楽は入っていた。だから私の姉が、「もう聴ききたい音楽はなくなってきた」と盛んに言っていた覚えがある。

 1971年秋だったが、そのエルトン・ジョンの初来日コンサートが東京と大阪で行なわれた。そして、早速、聴きに行くつもりでチケットを買おうと思い、夏にアルバイトで稼いだ金を工面していたら、姉が「お金を2人分出すから買って来て」と一万円を差し出した。何とも珍しいことがあるものだ。結局、私は姉とエルトン・ジョンのコンサートに行くことになった。

 当時、エルトン・ジョンは24歳の若者であった。でもステージに出てきたエルトン・ジョンは小柄で小太り、眼鏡をかけていて、今で言うキモメンの風采であった。でもピアノの前に座りピアノを奏でだし、よく通った声で歌を歌いだすと、まったく違う男に変身する。エルトン・ジョンはステージの上では輝いていた。コンサートは静かに始まったが、終盤で信じられないことが起こった。アップテンポの曲が続き(今となっては何を歌っていたのかよく覚えていない)、突然、エルトン・ジョンがピアノを弾いていたかと思うと、椅子を蹴飛ばして立ち上がりTシャツを脱ぎ、短パンだけの姿になった。胸毛が生えていて、お世辞にも恰好いいとはいえないが躍動していた。終いにはピアノの上で踊りながら歌いだしたので、聴衆は乗りに乗っている。私は唖然としたが隣の姉は喜んでいた。でもエルトン・ジョンにはこのような一面があることをその時に垣間見て、その後のエルトン・ジョンが変遷していく姿を伝え聞いてもあまり驚かなかった。

 最近はエルトン・ジョンどころか、私自身がポップスというか、ロックを聴かなくなったので、その後のことはよく知らない。だけどエルトン・ジョンがグラミー賞に輝いても、レコードの売り上げを記録しても、同姓愛者であることを公表して、同姓と結婚しても彼ならありうると感じた。つまりデビューした頃から、色んな要素を隠し持っていたエルトン・ジョンなのである。だから彼の多方面にわたる伝聞は、それもエルトン・ジョンであると再認識するしかないのである。

『Your Song』を歌う若き日のエルトン・ジョン。


 ダイアナ元皇太妃の追悼式で『Candle in the Wind』を歌うエルトン・ジョン。

EDIT  |  09:14  |  音楽(ポップス、ロック、その他)  |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.07.12 (Sat)

祇園祭の山鉾建てが始まった

 京都の夏の風物詩、祇園祭の山鉾建てが始まった。

 伝統の京都三大祭の一つ、祇園祭の山鉾建てが10日から始まり、いよいよクライマックスの山鉾巡行(17日)に備えて、四条烏丸付近の各鉾町で鉾や山が徐々に姿を現しだした。

 まだ鉾も山も骨組みだけの状態で、動く美術館といわれる鉾の姿にはほど遠いが、組み立てている途中を覗くのも面白いものである。

 祇園祭の山鉾巡行には32基の山鉾が巡行するが、例によって先頭を行くのは長刀鉾で、唯一、生きたお稚児さんが乗っている鉾である。でも長刀鉾といっても、この姿だと見慣れている者も長刀鉾なのかどうか判らない。(四条烏丸東入ル)
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 長刀鉾を正面から見る。
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 長刀鉾と後ろのビルと比較すると大きさが判る。
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 ここは西陣織の胴懸が垂らされて覆い隠される部分だが・・・・・。
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 ここに町衆が乗り込んで、祇園囃子を奏でるが、35人から40人は乗り込むという。でも全員が男性に限られている。 
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 まだ車輪がはめ込まれてなくて車軸ごと台座に乗せられている。
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 32基中、最大の鉾がこの函谷鉾(かんこぼこ)である。地上から鉾頭まで約25m、屋根まで約8m、車輪直径が約1.9m、重量が約12トン。ここはかなり組み立てが進んでいる。
 長刀鉾の重量を12日の午後、史上初めて計量してみたところ7トンの重さがあることが判りました。
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 四条室町から上がったところには菊水鉾が・・・・・。まだ骨組みだけで・・・・・。
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 四条室町から西へ入ると月鉾が・・・・・。ここもまだまだ・・・・。
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 山鉾を建てるのには釘を使わないで、全て縄で縛る。縄でぐるぐる巻きにされている。でも特別な巻き方があるようだ。
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 綾小路新町を下がったところには船の形をしている船鉾が建てられているが、まだ始まったばかりであった。
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 明日か明後日までには建てられて、宵宵山、宵山、山鉾巡行でクライマックスを迎え、また山鉾は解体される。なにしろ平安時代に京都で疫病が流行った時に、それを鎮めるために869年に始まったとされる八坂神社のお祭りである。とにかく歴史が長く、こんなことを京都の人は、1100年以上も続けてきたのである。

 尚、山鉾巡行のスタートは17日の午前9時である。そういえば私が山鉾巡行を現場で見たのは、大学生の頃だから、30年も昔のことになってしまった。暑い時だから行く気も起こらないが・・・・・・・。
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2008.07.10 (Thu)

太宰治の『人間失格』を読む

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 太宰治の『人間失格』を初めて読んだのは何十年前のことだろうか。その時は、到底理解しがたい生き方を選んだ人の手記に同調できなかったという強い印象があったが・・・・・・・・。

 大庭葉蔵の手記と、作家によるはしがきとあとがきからなる小説であるが、太宰治自身がモデルであることは一目瞭然である。内容は第一の手記、第二の手記、第三の手記からなり、他人の前で道化を演じてみせることは出来ても真の自分を誰にも曝け出すことが出来ない男、大庭葉蔵が自らを語っている。

 だが大庭葉蔵といってもその小説のモデルとなっているのは太宰治自身であることは、誰もが知っている事実であり、今日では自伝的小説ともいわれている。

大庭葉蔵は恥の多い人生を送ってきたという認識を持っている。また少々、人とは違う繊細な感覚を持っていて、人と全うな会話が出来ないので、人に対して道化を演じていた。それで結果として自分自身、欺瞞的な人たちに対して孤独を選択していた。だが中学時代には、その演じている道化を同級生の一人に見抜かれ恐怖感を味わう。

 旧制高校に進学してからは、人間への恐怖を紛らわすために悪友についてまわり、酒とタバコと淫売婦と左翼運動に走り、やがて人妻との一夜を迎えたあとに心中未遂事件を起こし、自分だけが生き残った。その結果、自殺幇助罪で警察の厄介になるが、父と取引の或る人の取り計らいで釈放される。でも精神的苦痛は続き、高等学校は放校になる。

 その後、大庭葉蔵は一時引受人の家に居候することになるが、家出をして、子持ち女性やスタンド・バーのマダム等と明日の無い生活にはまり込み、だんだんと人生が絶望的な状況になっていく。そして、果てには純粋無垢の女性が小男の商人に傷物にされたことで、葉蔵はアルコールを浴びるほど飲み、その勢いで睡眠薬を用いて発作的に自殺未遂を起こす。

 助かったものの酒に溺れるようになり喀血する。その後、薬に走りモルヒネ中毒となり、薬屋の夫人とも関係を結び、実家に状況を説明して金を無心する手紙を送る羽目となる。やがて葉蔵の元に引受人の男と友人がやって来て、脳病院へ入院させられるのである。ここで葉蔵は他人によって患者としてではなく狂人として扱われたと思い「もはや、自分は、完全に人間でなくなりました」つまり人間失格だと悟る。

 このような内容の小説なのであるが、現実に太宰治は女を死なせ自分だけが生き残った心中未遂事件を起こしている。太宰は小説家である以上、その汚点を書かずに済む事はできなかったのだろうが、書くことの意味があったのかどうか・・・・・・。

 しかし、太宰治は昭和23年6月13日、愛人・山崎富栄と共に玉川上水に入水して世を去る。それ以前から身体の疲労がびとく、喀血もしばしばであったという。でも39年の生涯で4度の自殺未遂があり、自殺により亡くなった芥川龍之介に傾倒していたというから、老いて自然死なんてことは生き恥を曝しているようなものだと考えていたのかもしれないが、女性と心中したというのは如何にも太宰治らしいところである。繊細でいて孤独であり、それでいて癒されたい・・・・・・?

 どうも私には、太宰治という人の感性がさっぱりわからない・・・・・・。
EDIT  |  20:11  |   |  TB(0)  |  CM(2)  |  Top↑

2008.07.08 (Tue)

プログ更新もままならぬ

 今日は日本全国で局地的な豪雨があったという。そういえば今朝、出勤時に私もゲリラ豪雨に悩まされた。家を出た時は、今にも振り出しそうな空模様だったので、折りたたみ傘を持って出かけたが、駅まで歩いている途中に振り出した。それで何とか駅まで到着するや否や、雨が激しくなってきた。

 それから間もなく電車が到着して、乗車するや雷鳴と共にバケツをひっくり返したような雨に変わったではないか。すると次の駅に到着する頃は小雨で、京都駅付近ではポツリポツリと降っていた。でも東山トンネル、逢坂山トンネルを抜けて大津、膳所と通過し石山、瀬田に来るとまた土砂降りの雨であった。こんな調子だと職場の最寄の駅に着くとずぶ濡れになるなあと憂鬱になってきたものであるが、あいにく目的の駅に降り立つと雨がすっかり上がっていて事なきを得たというところである。

 ところで、このところブログの更新頻度がおちていて、申し訳ございません。とはいえ、べつにサボっているのでもなくて、記事ネタがなくなったから満足な記事が書けてないというのでもありません。それは、すべてパソコンの具合がおかしいからでありまして、ブログ記事を書いている間に突然、電源が落ちてしまうので書いている途中のブログ記事を三つばかり消失してしまいました。だからこれを書いていても、また何時、電源が落ちるのか判らないので、長時間にわたって記事が書けなくなってしまったのであります。だからこのとろこ、下らないその日の、出来事のようなことばかり書いていますが、修理するのも金がかかるし、いっそのこと新しいパソコンを買うしかないなあと考えております。

 そういう訳で長い記事は書けなくなってしまい、適当にウダウダと文章を綴っているような状態でして、本当なら今、洞爺湖畔で開かれているサミットに対しても、言いたいことは山ほどあるし、記事ネタになるようなものはそれこそ、そこら中に転がっているので、毎日でも書けるのでありますが、あいにくパソコンの電源が切れるまでに書いてしまわなくてはならないので、見送っているという始末です。

 それでこのような状態で、つまらない記事ばかりを提供している次第なのでありまして、何とか自分で納得できるようなブログ記事を書いてみたいとは考えているのですが、パソコンの状態が思わしくなく、暫くの間は、このような日記風記事や中途半端な記事が続くと思いますので、よろしくお願いします。
EDIT  |  20:08  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2008.07.06 (Sun)

ラジオNIKKEI賞、函館スプリントS結果

      今日の重賞結果

  福島  ラジオNIKKEI賞(Jpn-Ⅲ・3歳、芝1800m、16頭)

 1着レオマイスター 1分46秒8、2着ノットアローン クビ、3着ダイバーシティ アタマ、4着スマートギア、5着ハンターキリシマ。

  函館  函館スプリントS(Jpn-Ⅲ・3歳以上、芝1200m、16頭)

 1着キンシャサノキセキ 1分08秒4、2着トウショウカレッジ クビ、3着キングストレイル 2馬身、4着プレミアムボックス 1/2、5着ゴスホークケン 1/2。

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2008.07.05 (Sat)

ヘレン・メリルを聴く

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 私は高校生の頃、モダン・ジャズを聴きに1人で喫茶店に出入りしていたが、ロック好きの仲間には黙っていた。何故なら、彼らはロック以外の音楽には何の興味を示さないからであって、ロック以外にシャンソンもカンツォーネもラテンもフォークもクラシックも分け隔てなく聴いていた私は、皆には内緒でジャズ喫茶に通っていたものだ。当時、ロックしか聴かない仲間にジャズを聴こうなんていっても聞く耳も持たなかっただろうから、誰も誘わなかったというのが本音なのであるが・・・・。

 暗い店内はネクタイ姿のサラリーマンがいたり、長髪に髭を生やし分厚い哲学書を持った大学生風の若者がいたりして、高校生の私には少し刺激が強かったりしたが、彼らの仲に混じって一端のジャズ通気取りで眼を瞑ってスピーカーから流れるアフター・ビートにしびれていたものである。

 ただその頃は、数多いジャズ・ミュージシャンの中でもマイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー等に代表されるように、主にスモール・コンボを聴くのが流行っていて、ビッグ・バンドといったスタイルのジャズを誰も聴いていなかったように思う。そして、ジャズ・ヴォーカルも何故か、聴かれることは滅多になかったようだ。

 ところがである。或る日、ジャズ喫茶で耳にしたハスキー・ヴォイスに私は心を打たれたのだ。

You'd be so nice to come home to.
You'd be so nice by the fire
While the breeze on high
Sang a lullaby
You'd be all that I couud desire

 女性ヴォーカルの声が流れていた。何とも艶かしい声で、10代の少年にはこの声は刺激が強かった。歌っている人は誰・・・・・・・。曲よりも歌手の名前を知りたかったので、隣に座っているサラリーマン風の20代だろうと思えるタバコを吸っていた男性に聞いた。すると「ヘレン・メリル」という答えか返ってきた。私はその場で、ヘレン・メリル、ヘレン・メリル、ヘレン・メリルと忘れないように呟きながらその名前を繰り返した。

 それ以来、ヘレン・メリルの歌う『You'd be so nice to come home to』という曲が気に入った。また私の中では女性の歌うジャズ・ヴォーカルといえば、この曲が真っ先に出てくるようになってしまった。

 ヘレン・メリルは1930年の7月21日、ニューヨークの下町ブロンクスにクロアチア人移民の子として生まれ育つ。15歳で早くも歌手として活動し、ニューヨークのクラブで歌っているときにマイルス・デイヴィス、J・J・ションソン、バド・パウエルと共演する。17歳でアーロン・サクスと結婚(その後に離婚)。1954年には天才トランペッターのクリフォード・ブラウンとアルバムを録音する。

 実はこの時のデビュー・アルバムが上の写真にあるアルバムである。録音されている曲は7曲で、『Don't Explain』『You'd be so nice to come home to』『What's New』『Falling in love with love』『Yesterdays』『Born to be blue』『'S Wonderfull』

 これらはジャズでお馴染みの曲だが、ヘレン・メリルが歌うと何か艶っぽい。この時、クインシー・ジョーンズが編曲して、ブラウニーと愛称のあるクリフォード・ブラウンがトランペットを吹き、オスカー・ペティフォードがベースを担当した。そしてこのアルバムは評判を呼び、ヘレンの歌声は「ニューヨークのため息」と評された。それ以来、『You'd be so nice to come home to』は、ヘレン・メリルの代名詞的な曲になってしまった。だが、その2年後、若きトランペッター、クリフォード・ブラウンは事故死して、離婚したヘレン・メリルも一度、現役を退く。ところが1966年に来日。そして、5年間ほど日本に滞在してアルバム製作やラジオの仕事をこなしたという。

 ヘレン・メリルは、その後、音楽の幅を広げて色んなジャンルの曲をむ歌うようになり、まもなく78歳になろうとしているが、ステージを時々こなすという。ただ、今でも若い頃のような艶かしいハスキー・ヴォイスで歌っているのかどうかは知るところではないが・・・・・・・・・。

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2008.07.03 (Thu)

このところパソコンの調子が悪くて

 昨日、JR東海道線・茨木駅で人身事故があって、また帰りの電車が遅れてしまった。聞く所によると飛び込み自殺らしい。またかという思いであったが、どういう事情であろうとも電車への飛び込み自殺は犯罪である。死人に口なしで自殺してしまった人に文句を言いたくないが、この行為によって多くの人が多大な迷惑を被るのである。是非とも電車への飛び込み自殺はやめて欲しいと思う。

 だが、それにしてもJRはよく人身事故が起こる。まったく週に何度起こっていることやら・・・・・。おかげで昨日は帰宅が大幅に遅れてしまった。そして、ようやく帰宅してパソコンを立ち上げブログを書いていたら、突然、今度は電源が落ちてしまい、せっかく書いたブログが消えてしまった。

 だから当ブログも、これまで通りの記事を書けるのかどうか私にも判らない。とにかくパソコンの調子が悪くてどうしようもない。買って4年ほどなのだが、私の使い方が他人よりも荒いのか、最近は調子がすこぶる悪い。日頃から動作が鈍いし、メモリも256と小さいパソコンである。したがって、今後、ブログ更新中にパソコンの電源が突然、落ちることもあって、その時はブログの更新が滞りますので、ご了承願います
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2008.07.01 (Tue)

スペインのワインを飲む

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 昨日、滅多に飲まないワインを飲んだ。日頃、ワインなんてまず飲むことは無いが、私の姉が持ってきたものである。何故、我が家に持ってきたかというと、姉の一家でワインを飲む者は誰もいないという。姉の夫はウイスキー、ビール、日本酒が好きなのだが、ワインは飲まないという。ならば買わなければいいのにと思うが、聞く所によると、姉の子供が務めている会社の創立25周年記念の日に、社員一人一人に配られた代物を持ち帰ってきたという。でも残念ながら誰も飲むものがいない。それで仕方なく、我が家に回ってきたという訳である。でも私もワインは飲まない。ことに食事の時はお茶しか飲まないし、時々、ビールを飲むぐらいである。

 でもせっかくもらったものだから、食事をする時に飲んでみようと思い、コルク栓を抜こうと思ったが、コルクがパサパサである。コルクに湿り気が足りないのでは・・・・嫌な予感がする。ようやく栓を抜いたもののグラスの底にコルク屑が沈んでいた。それに香りがない。あることはあるが葡萄酒独特の匂いがしてこない。それで一口含んでみたものの、酸味がないし渋みも薄い。なんだこりゃ・・・。どうも保存状態が悪かったとしか言いようがない。でもタダでもらったワインだし、文句も言えないしと思いつつ一人で一本飲みつくしてしまった。

 ところでもらったワインというのは、スペインのワインで、miros de ribera reserva 2001である。ミロス・デ・リベラ レゼルヴァ 2001なんて1000円もしないのではないだろうか・・・・。あまりワインには詳しくないので、いい加減なことは言えないが、その程度の価格のワインだと思う。

 その赤ワインはスペインのカスティーリャ・リオン地方で生産されるワインで、一般的にリベラ・デル・ドゥエロ産とされている。この地方は近年、スペインでも良質の赤ワインが生産され、日本でも人気が高まっている。でも赤ワインは白ワインに比べて、タンニンが多く渋みがあるといった特徴があるが、これは黒葡萄、赤葡萄を原料とし、果皮ごと醗酵させるからであって、肉料理に合うといわれている。でもワインの保存状態が悪かったので、本来の渋みや酸味が無く、気の抜けたようなワインであった。でもアルコール度はビールよりも高く、1人でメシを食べながら、すべて飲んでしまったので、体にアルコールが残ってしまい、今日の午前中、気分が悪かった。やはりなれないものを飲むものではないと思った。どうも私には焼酎が1番似合っていると自分でも思う。
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