2012.05.29 (Tue)
晴れ、のち雷雨、のちくもり・・・
昨日は五月と思えないような蒸し暑さであったが、その結果今日は昼間から雷と激しい雨。帰宅時には雨がやんでくれて助かったし涼しくもなった。昼間に雨が降ると気温がずいぶんと下がるのだな。昨日は歩くのが嫌になるほど蒸し暑かったので歩いていると当然、汗ばんでしまう。空気が乾いているとさほど暑さを感じないのに、湿気が増すと参ってしまう。
それで昨晩は昼間の気温が下がらず夜中も暑かった。湿気が増していたのだろう。でもこれは雨が降る前触れだ。でも朝の様子だととても雨が降りそうもなかったのだが、昼前から湿気を含んだ風が出てきて午後は空が暗くなり雷鳴とともに雨が降り出した。どれほど降ったのかは判らないが、気温が一気に下がったのだから、かなり降ったのだろう。でもここは滋賀県。こんなことはよくあることだ。問題は我が家の方で降ってくれないと就寝時に涼しくならない。昨晩はあまりに暑いので窓を全開して寝たぐらいだ。
したがって帰りの全車内では窓の外を見ていた。地面に水溜りがあるかどうかで降ったか降らなかったか判るからだ。こうして電車は逢坂山トンネルにさしかかり京都市に入る。山科駅到着。駅のホームが濡れている。雨が降ったのだ。京都駅はどうか・・・・・・。東山トンネルを抜けるが、路上に水溜りが所々にあるではないか。京都市内も降ったのだ。しかし、京都市内で降っても我が家のある付近は晴れていることはよくある。とにかくあまり雨の降らないところなのである。それから10数分、最寄駅に着いた。駅のプラットホームの屋根のないところに水溜りが出来ていた。ということは我が家の周辺でも降ったのだ。道理で涼しくなっている。この数日間、暑かったのでこれは大助かりだ。恵みの雨よありがとう。まだ5月なのにこれだけ暑いと損をしたような気分になる。
どうせ今年も我が家の周辺は空梅雨だろう。すると暑い夏が長くなる。だから梅雨はなかなか開けてくれない方が小生は嬉しいのだが、世の中は早く梅雨が開けろと思っている人の方が多いようだ。みんなそんなに梅雨が嫌いなのかな。小生は梅雨があるから夏が短く感じられると思うのだが・・・・・・。梅雨がなければ近頃は3ヶ月は夏のような日が続くのだ。これだと熱中症で倒れる人も激増するだろうし、夏の電力不足がいよいよ深刻になってくるだろう。なので今年は梅雨らしい梅雨がほしいところだが、最近は梅雨なんかあったのか? と思えるような梅雨ばかり。
取り敢えず今日は突然の雨で涼しくはなったが、また晴れる日が多いとだんだんと気温が上昇していき、また暑くなる。今からこのような様子だと、あと2ヶ月先は暑い暑いを連発しているかもね・・・・・。
それで昨晩は昼間の気温が下がらず夜中も暑かった。湿気が増していたのだろう。でもこれは雨が降る前触れだ。でも朝の様子だととても雨が降りそうもなかったのだが、昼前から湿気を含んだ風が出てきて午後は空が暗くなり雷鳴とともに雨が降り出した。どれほど降ったのかは判らないが、気温が一気に下がったのだから、かなり降ったのだろう。でもここは滋賀県。こんなことはよくあることだ。問題は我が家の方で降ってくれないと就寝時に涼しくならない。昨晩はあまりに暑いので窓を全開して寝たぐらいだ。
したがって帰りの全車内では窓の外を見ていた。地面に水溜りがあるかどうかで降ったか降らなかったか判るからだ。こうして電車は逢坂山トンネルにさしかかり京都市に入る。山科駅到着。駅のホームが濡れている。雨が降ったのだ。京都駅はどうか・・・・・・。東山トンネルを抜けるが、路上に水溜りが所々にあるではないか。京都市内も降ったのだ。しかし、京都市内で降っても我が家のある付近は晴れていることはよくある。とにかくあまり雨の降らないところなのである。それから10数分、最寄駅に着いた。駅のプラットホームの屋根のないところに水溜りが出来ていた。ということは我が家の周辺でも降ったのだ。道理で涼しくなっている。この数日間、暑かったのでこれは大助かりだ。恵みの雨よありがとう。まだ5月なのにこれだけ暑いと損をしたような気分になる。
どうせ今年も我が家の周辺は空梅雨だろう。すると暑い夏が長くなる。だから梅雨はなかなか開けてくれない方が小生は嬉しいのだが、世の中は早く梅雨が開けろと思っている人の方が多いようだ。みんなそんなに梅雨が嫌いなのかな。小生は梅雨があるから夏が短く感じられると思うのだが・・・・・・。梅雨がなければ近頃は3ヶ月は夏のような日が続くのだ。これだと熱中症で倒れる人も激増するだろうし、夏の電力不足がいよいよ深刻になってくるだろう。なので今年は梅雨らしい梅雨がほしいところだが、最近は梅雨なんかあったのか? と思えるような梅雨ばかり。
取り敢えず今日は突然の雨で涼しくはなったが、また晴れる日が多いとだんだんと気温が上昇していき、また暑くなる。今からこのような様子だと、あと2ヶ月先は暑い暑いを連発しているかもね・・・・・。
2012.05.27 (Sun)
第79回日本ダービー
日本ダービーの記事を長々と書いたのですが、2回も書いている最中に記事が飛んでいき、消えてしまいましたので本日は記事がなしということでお許しください。一応、結果はディープブリランテが勝ち、父ディープインパクに続いての父子二代制覇となりました。
とにかく競馬の記事を書くのは疲れるのです。あの意味不明の長いカタガナの羅列を並べるだけで指が疲れるのであり、出来る限り長文の競馬記事は書きたくはないのですが、書かないと詳細が伝わらないから書いているのです。が、今日ばかりはせっかく長々と書いた記事が途中で2回も消えてしまったので、もう書くのはやめました。これだからパソコンのキーを打つのが嫌になるのである。ところで今日、念願のダービーに勝ったディープブリランテの調教師である矢作芳人調教師について少し書いてみることにする。
矢作調教師は騎手の出身ではない。しかし、父が南関東公営の大井競馬場で調教師をやっていた関係から調教師という職業を選んだらしいのだが、その経歴が面白い。矢作調教師は全国的に名高い進学校である開成中学から開成高校の出身である。ここの卒業生は東大へ進むのが多い。なのに矢作調教師は高校を出て大学に進まなかった。すでに高校時代から競馬、競輪、競艇、麻雀といったギャンブルに手を染める変わり者だった(他人のことは言えないが)。それで開成高校を出ると競馬の調教師を目指すための修行を始めるのである。オーストラリアで競馬の修業をし、日本へ帰るとまず厩務員から出発。さらに調教助手、調教師へと上りつめ、今日、とうとうダービー・トレーナーへ・・・・・・。これからも有能な調教師として今後の活躍が期待されるのである。では本日はこれで失礼いたします。
とにかく競馬の記事を書くのは疲れるのです。あの意味不明の長いカタガナの羅列を並べるだけで指が疲れるのであり、出来る限り長文の競馬記事は書きたくはないのですが、書かないと詳細が伝わらないから書いているのです。が、今日ばかりはせっかく長々と書いた記事が途中で2回も消えてしまったので、もう書くのはやめました。これだからパソコンのキーを打つのが嫌になるのである。ところで今日、念願のダービーに勝ったディープブリランテの調教師である矢作芳人調教師について少し書いてみることにする。
矢作調教師は騎手の出身ではない。しかし、父が南関東公営の大井競馬場で調教師をやっていた関係から調教師という職業を選んだらしいのだが、その経歴が面白い。矢作調教師は全国的に名高い進学校である開成中学から開成高校の出身である。ここの卒業生は東大へ進むのが多い。なのに矢作調教師は高校を出て大学に進まなかった。すでに高校時代から競馬、競輪、競艇、麻雀といったギャンブルに手を染める変わり者だった(他人のことは言えないが)。それで開成高校を出ると競馬の調教師を目指すための修行を始めるのである。オーストラリアで競馬の修業をし、日本へ帰るとまず厩務員から出発。さらに調教助手、調教師へと上りつめ、今日、とうとうダービー・トレーナーへ・・・・・・。これからも有能な調教師として今後の活躍が期待されるのである。では本日はこれで失礼いたします。
2012.05.26 (Sat)
誰も訪れない京都の旧跡・・・・・大極殿跡
このところ涼しくなったり暑くなったり天候が大荒れだったりはっきりしないが、もう初夏の雰囲気である。今年は原子力発電所が完全に稼働を停止(まだ決定ではないが)するということで計画停電もあり得るらしい。するとエアコンも一日中つけていられない。困ったものだがしょうがない。暑がりの小生としては今からどうしよかと思案中である。出勤すると職場の中は冷房が効いているからいいが、休日の昼間、エアコンをつけられない酷暑の家に居るわけにもいかないな。本当にどうしよか・・・・・。まあ、それはさておいといて、3月に誰も訪れない京都の旧跡と題して羅城門跡を訪ねたが、今回は大極殿跡を訪ねてみた。それで大極殿(だいごくでん)って何だということになるが、都の大内裏の中にある正殿ということになる。それなら大内裏って何だとなるが、大内裏は都の宮城ということになる。つまり遠い時代の都の宮城にある天皇がいる正殿ということになるのだろうか。原典は中国から来ているから定義付けは難しい。それが日本に文化が伝わり飛鳥の時代に飛鳥京という都が形成される中で日本最初の大極殿が置かれた。それがやがて藤原京、難波京、平城京、恭仁京、長岡京、平安京と都が置かれると必ず大極殿があった。それで794年に平安京に都が移されると都が造営された。平安京の入口が羅城門だということは前回に述べたと思うが、その羅城門から真っすぐに北の大内裏に向かって朱雀大路が伸びていた。こうして平安京はこの大内裏の中で政治が行われたのであろう。
大極殿というのは上記のようなものであるが、そこで小生は暑いさなか大極殿の跡がどこにあるのか、このほど訪れてみた。生まれてこのかた長い間、京都に住んでいるので(一時、離れていた時期もあるが)、所在する場所はだいたい判っている。今の千本通が昔の朱雀大路なので千本通沿いにあるのに決まっている。地下鉄二条駅で降りて千本通を500m上がったところが千本丸太町の交差点である。このあたりに大極殿があったとされるが、実は交差点の西北角の路地を入ったところに児童公園がある。その中に大極殿のあったところと記された石碑がある。この石碑は1895年に平安遷都1100年を記念して建てられた石碑である。実際に大極殿は千本丸太町の交差点辺りにあったとされるのだが、交差点だと往来があるので石碑は建てられないということか。まあ、この周辺一帯に巨大な大極殿が威容を誇っていたと思えばいい。なにしろ当時の大極殿は奈良の東大寺、島根の出雲大社に匹敵する大きさだったといわれるからとんでもない大建築物だったのだろう。今の平安神宮はその時の大極殿を含めた朝堂院を模倣して1895年に造営されたことは言うまでもないが(ただし3/4の規模)。それにしても千本丸太町周辺は何の変哲もないごくありふれた街並みである。悠久の昔、都の宮城の正殿があったところとは現在の姿からは想像もできない。京都の街はその後、全体的に北東へ移動したから大内裏も今の京都御苑へ移っていき、千本丸太町周辺は都の中心ではなくなってしまったからである。それに大極殿そのものは何度かの火災で再建されたのち、朝廷の儀式が同じ大内裏の中にある紫宸殿へ移って行き、大極殿の存在価値が薄れていき、やがて1177年の安元の大火で焼失。それ以降、再建されることはなかった。
実は1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が行われたのであるが、その目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。その計画というのは大極殿があったとされる千本丸太町の交差点付近一帯に大内裏と朱雀門を建てるというものであった。しかし用地買収に敗。結局、京都の郊外である岡崎に5/8の規模で大内裏の一部が復元された。それが今の平安神宮である。それで現在、大極殿跡の石碑だけが、千本丸太町西北角の路地裏にある児童公園に立っている。
大極殿というのは上記のようなものであるが、そこで小生は暑いさなか大極殿の跡がどこにあるのか、このほど訪れてみた。生まれてこのかた長い間、京都に住んでいるので(一時、離れていた時期もあるが)、所在する場所はだいたい判っている。今の千本通が昔の朱雀大路なので千本通沿いにあるのに決まっている。地下鉄二条駅で降りて千本通を500m上がったところが千本丸太町の交差点である。このあたりに大極殿があったとされるが、実は交差点の西北角の路地を入ったところに児童公園がある。その中に大極殿のあったところと記された石碑がある。この石碑は1895年に平安遷都1100年を記念して建てられた石碑である。実際に大極殿は千本丸太町の交差点辺りにあったとされるのだが、交差点だと往来があるので石碑は建てられないということか。まあ、この周辺一帯に巨大な大極殿が威容を誇っていたと思えばいい。なにしろ当時の大極殿は奈良の東大寺、島根の出雲大社に匹敵する大きさだったといわれるからとんでもない大建築物だったのだろう。今の平安神宮はその時の大極殿を含めた朝堂院を模倣して1895年に造営されたことは言うまでもないが(ただし3/4の規模)。それにしても千本丸太町周辺は何の変哲もないごくありふれた街並みである。悠久の昔、都の宮城の正殿があったところとは現在の姿からは想像もできない。京都の街はその後、全体的に北東へ移動したから大内裏も今の京都御苑へ移っていき、千本丸太町周辺は都の中心ではなくなってしまったからである。それに大極殿そのものは何度かの火災で再建されたのち、朝廷の儀式が同じ大内裏の中にある紫宸殿へ移って行き、大極殿の存在価値が薄れていき、やがて1177年の安元の大火で焼失。それ以降、再建されることはなかった。
実は1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が行われたのであるが、その目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。その計画というのは大極殿があったとされる千本丸太町の交差点付近一帯に大内裏と朱雀門を建てるというものであった。しかし用地買収に敗。結局、京都の郊外である岡崎に5/8の規模で大内裏の一部が復元された。それが今の平安神宮である。それで現在、大極殿跡の石碑だけが、千本丸太町西北角の路地裏にある児童公園に立っている。
2012.05.21 (Mon)
金環日食
あまりこの話題については書きたくなかったのだが、日本国内で見られるのが久しぶりだったので、何時起こったのかを書き留めておこうと思ったまでだが・・・・それにしても騒ぎ過ぎ。
今回の金環日食は何と東京では173年ぶり、京都、大阪では282年ぶり、名古屋にいたっては何と932年ぶり。つまり三大都市圏で全て観測されたというのは932年ぶり。つまり1080年以来ということになるから、テレビも新聞もこれほど騒いでいるのだろうが・・・・・・。でも金環日食は毎年、地球のどこかで必ず見られるのだから、その気になれば毎年、見ることができるのだ。ただし外国へ出かけるのも金がいるし暇もいる。会社勤めは無理だ。
ところで西暦1080年というと平安時代の真っ只中。白河天皇の時代である。八幡太郎義家こと源義家が頭角を現していた頃で、後三年の役が3年後に起こっている。でも当時の人は天文学の知識がないから、突然のように太陽が欠け始め、金環日食の瞬間はさぞや驚いただろう。おそらく不吉なことが起こると思って、その場でお祈りでもしたのではないだろうか。
今日の金環日食は朝の7時半ごろということで小生は電車に乗っている時間だから、太陽を拝もうという気も起らず、むさくるしい車内で吊革につかまりながら身体を揺れにまかしていた。だが、滋賀県内を走行中、外がいくらか暗くなったので、時計を眺めたらちょうど7時30分だった。つまり月が太陽の光線をさえぎるように前に覆いかぶさった時間帯だった。やはり晴れてはいても少し暗くなるのだな。でも電車内から外を見上げている連中が大勢いたが、不思議と上を見ると人間というのは口をポカンとあけるようだ。その面はバカっぽいが・・・・。
さて、太陽のリングが見える金環日食だが、これも大宇宙の不思議がなせる技なんだろう。偶然が偶然を呼ぶ。地球から月までの距離が38万4千㎞。地球から太陽までの距離が1億5千万㎞。つまり月までの距離の約400倍先に太陽がある。そして、月の直径が3470㎞。太陽の直径が140万㎞。月の直径の約400倍。それで太陽と月の直径がほぼ重なる訳である。ただし月がもっと地球に近い軌道を通っていたら完全に太陽が隠れる皆既日食となる。だから日食とは偶然の産物なのである。ただし月は毎年、地球から3.8㎝ずつ離れて行っているので、いずれは月が小さくなってしまい、日食も迫力がなくなっていくだろうし、月も地球の引力から脱し宇宙の彼方へ消えていくだろう。ただし何億年も先のことであって、我々が生きている間のことではないのでどうでもいいが、大宇宙とは実に不思議であるから興味も注がれるのだろう。でも今日、自転車に乗りながら空を見上げている御仁がいたが、危険極まりないのでやめていただきたい。
今回の金環日食は何と東京では173年ぶり、京都、大阪では282年ぶり、名古屋にいたっては何と932年ぶり。つまり三大都市圏で全て観測されたというのは932年ぶり。つまり1080年以来ということになるから、テレビも新聞もこれほど騒いでいるのだろうが・・・・・・。でも金環日食は毎年、地球のどこかで必ず見られるのだから、その気になれば毎年、見ることができるのだ。ただし外国へ出かけるのも金がいるし暇もいる。会社勤めは無理だ。
ところで西暦1080年というと平安時代の真っ只中。白河天皇の時代である。八幡太郎義家こと源義家が頭角を現していた頃で、後三年の役が3年後に起こっている。でも当時の人は天文学の知識がないから、突然のように太陽が欠け始め、金環日食の瞬間はさぞや驚いただろう。おそらく不吉なことが起こると思って、その場でお祈りでもしたのではないだろうか。
今日の金環日食は朝の7時半ごろということで小生は電車に乗っている時間だから、太陽を拝もうという気も起らず、むさくるしい車内で吊革につかまりながら身体を揺れにまかしていた。だが、滋賀県内を走行中、外がいくらか暗くなったので、時計を眺めたらちょうど7時30分だった。つまり月が太陽の光線をさえぎるように前に覆いかぶさった時間帯だった。やはり晴れてはいても少し暗くなるのだな。でも電車内から外を見上げている連中が大勢いたが、不思議と上を見ると人間というのは口をポカンとあけるようだ。その面はバカっぽいが・・・・。
さて、太陽のリングが見える金環日食だが、これも大宇宙の不思議がなせる技なんだろう。偶然が偶然を呼ぶ。地球から月までの距離が38万4千㎞。地球から太陽までの距離が1億5千万㎞。つまり月までの距離の約400倍先に太陽がある。そして、月の直径が3470㎞。太陽の直径が140万㎞。月の直径の約400倍。それで太陽と月の直径がほぼ重なる訳である。ただし月がもっと地球に近い軌道を通っていたら完全に太陽が隠れる皆既日食となる。だから日食とは偶然の産物なのである。ただし月は毎年、地球から3.8㎝ずつ離れて行っているので、いずれは月が小さくなってしまい、日食も迫力がなくなっていくだろうし、月も地球の引力から脱し宇宙の彼方へ消えていくだろう。ただし何億年も先のことであって、我々が生きている間のことではないのでどうでもいいが、大宇宙とは実に不思議であるから興味も注がれるのだろう。でも今日、自転車に乗りながら空を見上げている御仁がいたが、危険極まりないのでやめていただきたい。
2012.05.20 (Sun)
第73回オークス
今日は昨日とは違ってどんよりとした天気である。京都は心地よい風が吹いているが、東京では3歳牝馬クラシックの第73回優俊牝馬・オークス(G-Ⅰ・3歳牝馬、芝2400m、18頭)が行われた。桜花賞で人気しながら敗れたジョワドヴィーヴルが骨折していたので回避。人気は割れてしまったが1番人気は何とミッドサーマーフェア。これには驚いた。そんなに強いのかと思ったが上り馬で勢いが買われたのだろう。2番人気は桜花賞2着の大魔神の馬ヴルシーナ、3番人気が桜花賞馬のジェンティルドンナ、4番人気がアイムユアーズ、5番人気がハナズゴールだった。
きれいなスタートから18頭の牝馬が第1コーナーへ殺到する。マイネエポナ、オメガハートランドあたりが先頭を窺う勢い。2コーナーを回ってマイエネポナが先頭、2番手は2馬身差でエピセアローム、3、4馬身後に3番手オメガハートランド、3馬身開いて4番手アイムユアーズ、その後はトーセンベニザクラ、サンシャインと続く。さらに1馬身開いて内に白い馬体のアイスフォーリス、外にキャトルフィーユ。そして人気のヴィルシーナ、そのあとにダイワデッセーと1番人気のミッドサマーフェア。さらにメイショウスザンナ、ダイワズーム。その後ろに桜花賞馬ジェンティルドンナ、さらにサンキューアクト、ハナズゴールがいてチェリーメドゥサ、離れたシンガリにココロチラリといった展開である。ハロン毎のタイムは12.6---10.9---11.6---12.0---12.0---11.9で1000m通過が59秒1、1200m通過が1分11秒0と速い。馬場がいいのだろう。さほど無理して飛ばしてるといった感じはなく淡々とレースが進んでいる。でも3コーナーから4コーナーにかけてマイエネポナが5馬身リード。馬群も縦長でいよいよ府中の直線に入る。マイネエポナが先頭。マイエネポナが先頭。あと400m、ここでトーセンベニザクラとオメガハートランドが並んで先頭に出る。トーセンベニザクラかオメガハートランドか。さらにアイムユアーズも来た。アイムユアーズが出たか。内からアイスフォーリス、さらにヴィルシーナも伸びてきた。あと200m、先頭はアイムユアーズかヴィルシーナか。さらに大外からジェンティルドンナだ。ジェンティルドンナ、ジェンティルドンナ。一気に抜けた抜けた。脚色が違いすぎる。ジェンティルドンナが差を広げる。2馬身、3馬身、4馬身。もう勝利間違いない。2番手はヴィルシーナが出た。しかし、ジェンティルドンナが断然リードしてゴールイン。
1着ジェンティルドンナ 2分23秒6、2着ヴィルシーナ 5馬身、3着アイスフォーリス 3/4馬身、4着アイムユアーズ ハナ、5着サンキューアスク 1馬身。
結局は桜花賞の1、2着馬がそのまま1、2着だった。それもオークス・レコード・タイムのおまけつきでの決着で、ジェンティルドンナは春の3歳牝馬クラシックを二つとも制したことになる。さらに付け加えるならば桜花賞に続いてまたまたディープインパクトの仔が1、2着。フランス1000ギニーでもディープインパクト産駒のBeauty Parlour(イギリス産、3歳牝馬、4戦4勝)が勝利したが、海外も日本も牝馬のディープインパクト産駒が大活躍である。来週の日本ダービーでもディープインパクト産駒が数頭出走するが、牡駒は牝駒のようにいくかどうか・・・。何れにしても非常に興味深い。
きれいなスタートから18頭の牝馬が第1コーナーへ殺到する。マイネエポナ、オメガハートランドあたりが先頭を窺う勢い。2コーナーを回ってマイエネポナが先頭、2番手は2馬身差でエピセアローム、3、4馬身後に3番手オメガハートランド、3馬身開いて4番手アイムユアーズ、その後はトーセンベニザクラ、サンシャインと続く。さらに1馬身開いて内に白い馬体のアイスフォーリス、外にキャトルフィーユ。そして人気のヴィルシーナ、そのあとにダイワデッセーと1番人気のミッドサマーフェア。さらにメイショウスザンナ、ダイワズーム。その後ろに桜花賞馬ジェンティルドンナ、さらにサンキューアクト、ハナズゴールがいてチェリーメドゥサ、離れたシンガリにココロチラリといった展開である。ハロン毎のタイムは12.6---10.9---11.6---12.0---12.0---11.9で1000m通過が59秒1、1200m通過が1分11秒0と速い。馬場がいいのだろう。さほど無理して飛ばしてるといった感じはなく淡々とレースが進んでいる。でも3コーナーから4コーナーにかけてマイエネポナが5馬身リード。馬群も縦長でいよいよ府中の直線に入る。マイネエポナが先頭。マイエネポナが先頭。あと400m、ここでトーセンベニザクラとオメガハートランドが並んで先頭に出る。トーセンベニザクラかオメガハートランドか。さらにアイムユアーズも来た。アイムユアーズが出たか。内からアイスフォーリス、さらにヴィルシーナも伸びてきた。あと200m、先頭はアイムユアーズかヴィルシーナか。さらに大外からジェンティルドンナだ。ジェンティルドンナ、ジェンティルドンナ。一気に抜けた抜けた。脚色が違いすぎる。ジェンティルドンナが差を広げる。2馬身、3馬身、4馬身。もう勝利間違いない。2番手はヴィルシーナが出た。しかし、ジェンティルドンナが断然リードしてゴールイン。
1着ジェンティルドンナ 2分23秒6、2着ヴィルシーナ 5馬身、3着アイスフォーリス 3/4馬身、4着アイムユアーズ ハナ、5着サンキューアスク 1馬身。
結局は桜花賞の1、2着馬がそのまま1、2着だった。それもオークス・レコード・タイムのおまけつきでの決着で、ジェンティルドンナは春の3歳牝馬クラシックを二つとも制したことになる。さらに付け加えるならば桜花賞に続いてまたまたディープインパクトの仔が1、2着。フランス1000ギニーでもディープインパクト産駒のBeauty Parlour(イギリス産、3歳牝馬、4戦4勝)が勝利したが、海外も日本も牝馬のディープインパクト産駒が大活躍である。来週の日本ダービーでもディープインパクト産駒が数頭出走するが、牡駒は牝駒のようにいくかどうか・・・。何れにしても非常に興味深い。
2012.05.19 (Sat)
髪染め・・・・・
先月の土曜日の午前のことである。何時も通勤時に乗るJRではなく阪急電鉄の駅で大阪方面行きの電車を待っていた。その時、若い女性に声をかけられた。
「○○さんですね」見知らぬ若い女性に名前を言われてびっくりした。するとその女性は「○○です」といった。それでようやく判った。その女性は近所の○○ちゃんだった。その子が幼児のころから知っていたが、余所の子は知らぬ間に大きくなるようだ。こちらは昔のままのイメージしかないから判らない。でも我々のような歳になると10年ぐらい加齢したぐらいでは外見はさほど変わらないのだろう。それで○○ちゃんにも判ったのだ。
でも○○ちゃんは数ヶ月に1回位は道端で会っているのに判らなかった。それは何故かというと彼女が髪を薄い茶色に染めていて、耳にピアス、そして化粧を施していたから皆目分からなかったということだ。話を聞くと、この4月から大学に進んでいて、それでそのような外見になったのだろう。○○ちゃんは関西の有力私大である関関同立(大学群の総称)の一つである某大学の附属高校に通っていて、制服姿は何度も見たことがある。それで髪は黒髪でスカートも短くなく、清楚なイメージだったのだが、大学に進むと同時にこのように弾けてしまったのだ。
それで「誰か判らなかったわ」というと、「髪染めたからでしょ」と○○ちゃんは返した。彼女に聞くと高校は髪染めには煩くて、公立に通っている子が羨ましいと思っていたという。私立は公立とは違ってそりゃ校則は厳しいだろう。でも彼女の通っていた高校はそこそこ偏差値の高い学校だし、もっと自由なのかと思っていたが携帯電話も学校に持っていけないという。それは高校に入る前から判っていたことだが、彼女自身は公立高校に通いたかったらしいのだが、両親が私立に行けというものだからやむなくその高校に入学したそうな・・・・・。でも公立の子がスカートを短くして、茶髪にして、携帯電話をいじっているのを通学時に見かけると何時も羨ましく思っていたという。それで小生が「黒髪のほうがいいのに」というと、「いやや」という。
そういえば最近の若い女性は当たり前のように髪を染めるが何故なんだろう。この慣習というか流行りが小生には判らない。日本人女性は黒髪のほうが絶対に似合うというのは小生、常日頃に思っていることだが、どうも若い子に聞くと必ずしもそうではないみたいだ。まさか白人コンプレックスがあるのではないだろうな。我々の大学生の頃の女性は髪を染めなかったものだ。それが時代が進み、何時のまにか髪を染めた女性だらけになってしまった。時代は変わるのだ。もっとも高校生が大学生になってから突然、髪を染めるのは締め付けられた反動というのもあるだろうが、小生は髪を染めた女性はどうもバカっぽく見えてしょうがない。時々、スカートを出来る限り短くして、髪を染めている女子高生を見かけるが、清楚さの欠片もない。一時、流行った山姥ギャルというのは流石にいなくなったが、今でもそれに近い子がいることはいる。言葉づかいも汚いし、車内でのマナーもなってない。こんな子らが高校に行ける時代になったのだ。高校進学率95%以上の時代だからやむを得ないが、中学を出て働く子がいた我々の時代では考えられない。昔いた女子高生で怖いのはスケバンだったが、スケバンは逆にスカートを長くしていたし、カバンはペッタンコ。でも髪は黒髪だった。どうも美的感覚が40年ほどで変わってしまったのかな。もう小生は古い人間かも知れない。でも、大学生になったから染めるというのも今の間だけだろう。どうせ社会に出ると職種によっては自由に染められないからな。大目に見るとしよう。でも高校生の茶髪だけはやめてほしいねえ。学校は勉学しに行くところですよ。けして遊びに行くところではない。学ぶ気もないのに義務教育でもない高校なんて行かない方がいいと思うけどね。親が行けというのかな・・・・・・・。困ったもんだ。
「○○さんですね」見知らぬ若い女性に名前を言われてびっくりした。するとその女性は「○○です」といった。それでようやく判った。その女性は近所の○○ちゃんだった。その子が幼児のころから知っていたが、余所の子は知らぬ間に大きくなるようだ。こちらは昔のままのイメージしかないから判らない。でも我々のような歳になると10年ぐらい加齢したぐらいでは外見はさほど変わらないのだろう。それで○○ちゃんにも判ったのだ。
でも○○ちゃんは数ヶ月に1回位は道端で会っているのに判らなかった。それは何故かというと彼女が髪を薄い茶色に染めていて、耳にピアス、そして化粧を施していたから皆目分からなかったということだ。話を聞くと、この4月から大学に進んでいて、それでそのような外見になったのだろう。○○ちゃんは関西の有力私大である関関同立(大学群の総称)の一つである某大学の附属高校に通っていて、制服姿は何度も見たことがある。それで髪は黒髪でスカートも短くなく、清楚なイメージだったのだが、大学に進むと同時にこのように弾けてしまったのだ。
それで「誰か判らなかったわ」というと、「髪染めたからでしょ」と○○ちゃんは返した。彼女に聞くと高校は髪染めには煩くて、公立に通っている子が羨ましいと思っていたという。私立は公立とは違ってそりゃ校則は厳しいだろう。でも彼女の通っていた高校はそこそこ偏差値の高い学校だし、もっと自由なのかと思っていたが携帯電話も学校に持っていけないという。それは高校に入る前から判っていたことだが、彼女自身は公立高校に通いたかったらしいのだが、両親が私立に行けというものだからやむなくその高校に入学したそうな・・・・・。でも公立の子がスカートを短くして、茶髪にして、携帯電話をいじっているのを通学時に見かけると何時も羨ましく思っていたという。それで小生が「黒髪のほうがいいのに」というと、「いやや」という。
そういえば最近の若い女性は当たり前のように髪を染めるが何故なんだろう。この慣習というか流行りが小生には判らない。日本人女性は黒髪のほうが絶対に似合うというのは小生、常日頃に思っていることだが、どうも若い子に聞くと必ずしもそうではないみたいだ。まさか白人コンプレックスがあるのではないだろうな。我々の大学生の頃の女性は髪を染めなかったものだ。それが時代が進み、何時のまにか髪を染めた女性だらけになってしまった。時代は変わるのだ。もっとも高校生が大学生になってから突然、髪を染めるのは締め付けられた反動というのもあるだろうが、小生は髪を染めた女性はどうもバカっぽく見えてしょうがない。時々、スカートを出来る限り短くして、髪を染めている女子高生を見かけるが、清楚さの欠片もない。一時、流行った山姥ギャルというのは流石にいなくなったが、今でもそれに近い子がいることはいる。言葉づかいも汚いし、車内でのマナーもなってない。こんな子らが高校に行ける時代になったのだ。高校進学率95%以上の時代だからやむを得ないが、中学を出て働く子がいた我々の時代では考えられない。昔いた女子高生で怖いのはスケバンだったが、スケバンは逆にスカートを長くしていたし、カバンはペッタンコ。でも髪は黒髪だった。どうも美的感覚が40年ほどで変わってしまったのかな。もう小生は古い人間かも知れない。でも、大学生になったから染めるというのも今の間だけだろう。どうせ社会に出ると職種によっては自由に染められないからな。大目に見るとしよう。でも高校生の茶髪だけはやめてほしいねえ。学校は勉学しに行くところですよ。けして遊びに行くところではない。学ぶ気もないのに義務教育でもない高校なんて行かない方がいいと思うけどね。親が行けというのかな・・・・・・・。困ったもんだ。
2012.05.14 (Mon)
チャーリー・パーカーのアルバム『チャーリー・パーカー・ストーリー・オン・ダイアルVol.1』を聴く
このCDはダイアル・レコードという西海岸に存在したレコード会社が第2次大戦後の1946年2月から1947年2月にかけて録音した中から集められているもので、全19曲収められている。録音自体は古いが中身は濃く、新しいスタイルのジャズが登場した時代の期待感で埋まっているアルバムと言えそうだ。そもそもダイアル・レコードと言うのは1946年に誕生したばかりのレコード会社であった。というのもオーナーであるロス・ラッセルがチャーリー・パーカーの熱狂的支持者だったからに他ならないのだが、ことの起こりは1945年夏にロン・ラッセルがオープンさせたレコード店で客同士がトラディショナルなジャズと新しいビ・バップとの違いについて論争していた。それがやがて当レコード店はビ・バップ支持者のたまり場となり、何時の間にか伝統的ジャズの支持者だったロン・ラッセルまでが新しいジャズであるビ・バップに魅せられてしまったのである。そして1945年12月にディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー等のバンドがウェスト・コーストで公演を行った。この公演はロサンジェルスで3週間行われたが、西海岸のジャズ・ファンやミュージシャンはすっかり、このビ・バップの虜になったと言われる。こうしてビ・バップは当時の若者を中心に熱狂的支持を得ていくのである。
こうしてレコード会社を立ち上げたロン・ラッセルはチャーリー・パーカーに1年間の専属契約を結び(その後延長)、録音を開始することになるが、問題児チャーリー・パーカーのことである。これがすんなりといく筈がない。どうにかディヒー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、ラッキー・トンプソン、グレッグ・ハンディ、アーヴィン・ギャリソン、、レイ・ブラウン、スタン・リーヴィのメンバーで『ディギン・ディズ』を録音したものの、その後がいけない。翌日の2回目の録音をチャーリー・パーカーはすっぽかしてしまい、ニューヨークへ帰る飛行機のチケットを換金しヘロインを買ってしまう。帰れなくなったチャーリー・パーカーは仕方なくロサンジェルスのクラブに出演して旅費を稼ごうと考える。すると同時期にマイルス・デイヴィスが運良くロサンジェルスに滞在していたので、一緒にフィナーレ・クラブで演奏する。そして、クラブの録音メンバーを集めて当アルバムの2曲目から6曲目を録音することとなる。『ムース・ザ・ムーチェ』『ヤードバード組曲』『オーニソロジー』『ザ・フェイマル・アルト・ブレイク』『チュニジアの夜』である。この時のチャーリー・パーカーは狂気ぶり治まって純粋に音楽的な才気だけで突っ走っていて、流石のマイルス・デイヴィスも影が薄い。
続くセッションっは7月に行われたチャーリー・パーカーは例によって栄養失調とアルコール中毒と判断され、どうにか『マックス・メイキング・ワックス』『ラヴァーマン』『ザ・ジプシー』『ビバップ』の4曲を録音するが、チャーリー・パーカーは奇行を繰り返し精神病患者と診断を受け州立病院に収容されてしまうのである。
1947年の1月にロン・ラッセルが後見人になってチャーリー・パーカーはようやく社会復帰する。其れから間もなく3回目の録音がなされた。このときはヴォーカルのアール・コールマンとピアニストで後に『ミスティ』の作曲者として有名になるエロル・ガーナーが加わって『ジス・イズ・オールウェイズ』『ダーク・シャドウズ』『ホット・ブルース』『クール・ブルース』が録音された。
4回目のの録音はそれから7日後に行われチャーリー・パーカーが4曲の自作を持ってくる筈が1曲のみにとどまり他はトランペッターのハワード・マギーがオリジナル曲を用意するというチャーリー・パーカーのがまた失態を演じている。だが録音は巧く行き、ワーデル・グレイ、バーニー・ケッセル等の西海岸の若手ジャズメンにチャーリー・パーカーが多大なる影響を与えていることが窺える。今日ではモダン・ジャズの創始者の1人として語られることが多いチャーリー・パーカーーであるが、このアルバムを収録し終わって僅か8年後に亡くなってしまうのである。1955年5月9日、胃潰瘍からの出血により呼吸困難となり死にいたったのである。享年34歳。あまりにも早すぎる死であるが、アルコールと麻薬中毒が彼の死を早めたとしか言いようがなく自業自得ではるが、音楽的に早熟であったがそれ故、精神的には未熟だったのかもしれない。
チャーリー・パーカー『Yardbird suite』(音声のみ)・・・ヤードバードとはチャーリー・パーカーの仇名である。
2012.05.13 (Sun)
レトルトカレー『100時間かけたカレー』を食べる
久しびりにレトルトカレーを食べた。小生は香辛料の強い物や熱い物を食べると顔からひたすら汗が出まくってしまうので、季節がら5月にもなるとカレーを食べないのだが、この2、3日気温が低く4月の上旬のような気温で肌寒いからレトルトカレーを食べてみたのだが・・・・・・。
今回はMCC食品が出している『100時間かけたカレー』を食べてみた。ところでMCCというのは全国的にはあまり知られていないが、神戸に本社のある食品会社で主にレトルト食品、調理缶詰、業務用の冷凍食品を製造している会社である。設立は大正12年と古く、昭和の初期から鰯やイチゴジャム等の缶詰を造っていたのであるが、缶詰から手を拡げ冷凍食品、レトルト食品をも製造するようになったのである。
さて、そんなレトルトパウチ食品『100時間かけたカレー』なのであるが、パッケージの説明書きによると100時間以上かけて仕上げるこだわりのカレソースということである。丁寧に焼き上げたルーを2種類(鶏、牛)のフォンでのばし、じっくりとソテーして甘みを引き出した野菜と独自のスパイスで香り高く仕上げたのである。その際、化学調味料を使用せず、素材のもつ旨みを活かしたとのこと・・・・・。ところで100時間と言うのは4日以上ということになるが、カレールーの焼上げと熟成に23時間。フォンの煮出しに30時間。野菜のソテー、熟成に46時間。ソースの煮込み、ねかせ、仕上げに16時間もかけている。原材料は野菜(たまねぎ、にんじん、トマト)、牛肉、小麦粉、大豆油、、ブイヨン(鶏がら、牛骨、牛筋肉、牛肉、たまねぎ、にんじん、セロリ、なたね油、香辛料、ガーリック)、バター、りんごピューレ、トマトベースト、ローストオニオンベースト、バナナピューレ、食塩、カレー粉、砂糖、トマトジュース、ビーフブイヨン、香辛料、カラメル色素、増粘剤(加工でん粉)、酸味料、その他大豆由来原料を含んでいる。確かに凝ったカレーではある。さてお味の方であるが・・・・・・・・・・。
今まで当ブログ上で紹介したレトルトカレーの中では1番小生の好みに合うカレーだった。もう少し辛口ならもっとよかったのだがしょうがないかな。熟成した適度のコクと深みのある味覚。そしてまろやかな甘みがある。ただ家庭で炊く御飯がもっとカレーに合うのだといいのだけれど、これにも家庭用だと限界がある。でもこれからもっと自分好みのレトルトカレーに出会うかもしれないので、少々、価格は高くとも美味しいカレーを追い求めることにしよう。
2012.05.09 (Wed)
コニー・フランシスを聴く
私が小学生の頃の話であるが、テレビから色々な歌手が歌う歌が溢れるように流れ出ていた。当時はまだ、演歌、ポップス、ロック、フォーク等のジャンル分けも出来ていなくて単に流行歌で一括されていたように思う。そんな中でも幼い少年の小生にとっても、日本語で歌われる歌の中でも西洋のポップス風な歌は当然のように区別できたものである。あの頃、昭和30年代というのは、まだ日本人がポップスを作曲することは珍しく、そのほとんどが外国の歌を日本語に変えて歌手に歌わせていたというのが現実であった。つまり今でいうところのカバー曲だったのである。でも小学校に入ったばかりの小生は、そんな現実を知る由もない。当時の多くの歌手が歌っていたポップス風な曲は日本の曲であるとばかり思っていた。今思うと滑稽ではある。当時の作曲家の大御所達はポップス風な曲を作らなかったのか、それとも作れなかったのか知らないが、外国風な曲の多くは今から考えると外国のカバー曲だったのである。
あの頃というより、50年代からロカビリー・ブームというものがあって平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下啓二郎等がすでに洋楽のカバー曲を歌っていたが60年代の前半はそれがより顕著なものになっていたのだろう。それで当時、テレビを賑わせていた若手歌手たち・・・・ダニー飯田とパラダイス・キング、飯田久彦、鈴木やすし、坂本九、スリー・ファンキーズ、尾藤イサオ、ザ・ピーナッツ、森山加代子、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり、九重祐三子、田代みどり、弘田三枝子・・・・数え上げればきりがない。大勢いたがみんな洋楽のヒット曲を日本語でカバーしていた。しかし、それらを通して小生は聴いていたので、これらの曲が西洋の曲であることは当時は幼かったので理解できてなった。その後に、小生はテレビを離れて楽曲との触れあいはラジオを通すことになり、それまで日本人が歌っていた曲は全て洋楽のカバーだったいうことを知ることとなったのである。 しかしながら、たとえ日本人歌手による日本語のカバーだとしても、その後に洋楽を聴き続ける中で原体験として心の中に生き続けていることは確かであり、今でも幼い頃に聴いたあの日本語のポップスが何気なく歌えるというのは実に貴重な事である。
そんな多くの洋楽カバー曲の中でもっとも当時の女性歌手がカバーした曲はコニー・フランシスの曲ではないかと思う。たとえば代表的なところでは『可愛いベイビー』は中尾ミエ、森山加代子がカバーしていたし、『大人になりたい』は伊東ゆかりがカバーしていた。また『ヴァケイション』は弘田三枝子がカバーしてヒットしたが、それ以外にも伊東ゆかり、金井克子、青山ミチ等が歌い競作となった。つまりコニー・フランシスが歌った楽曲と言うのは日本人好みの曲が多かったのかも知れず、その後の和製ポップスを形成するに至るまでの原点になったかもしれない。でも日本人に愛されたコニー・フランシスの楽曲だが、コニー・フランシス自身はさほど順風満帆であった訳ではない。
コニー・フランシスは1938年にニュージャージーで生まれた。本名をコンチェッタ・ロサ・マリア・フランコネロというイタリア系アメリカ人である。コニー・フランシスの音楽的素養としては3歳の時に父から贈られたアコーディオンが始まりである。ところがこのアコーディオンを弾きこなすようになり、子供向けのショー番組等のテレビに出演することとなり、11歳の時に出演したテレビ番組で芸名がコニー・フランシスになったという。こうしてコニー・フランシスは歌手としてテレビに出演するようになり17歳でレコード・デビュー。が、曲を出せども出せども2年間以上ヒットに恵まれず挫折感を味わうことになる。歌手としての実力もありジュディ・ガーランドの再来と言われたにも関わらずであった。そして、とうとうMGMレコードから最後通牒を突きつけられることとなる。そこで録音されたのが『Who’s Sorry Now?』(1958年)だった。この様な崖っぷちで出した曲がヒットすることとなる。こうしてスターへの階段を駆け上がりだしたコニー・フランシスは出す曲が次から次へとヒットする。『間抜けなキューピッド』(1958年)、『My Happiness』(1958年)、『カラーに口紅』(1959年)、『Amoug My Souvenirs』(1959年)、『ボーイ・ハント』(1961年)、『泣かせないでね』(1962年)、『ヴァケイション』(1962年)、『渚のデート』(1963年)・・・・・・・コニー・フランシスは日本人のイメージからするとアイドル歌手なのかと思いがちだが、実は実力派歌手でレパートリーも広くポップス以外にもカントリー、カンツォーネ、映画音楽、ラテン等のナンバーを得意としていて、アメリカでは幅広い活躍をしていたのである。それが、日本で独自にヒットした『可愛いベイビー』、『大人になりたい』『夢のデイト』『ロリポップ・リップス』や『ヴァケイション』『大人になりたい』等、日本人歌手によてカバーされ、当時、映画にも何本か出演していたのでアメリカのアイドル歌手であるかのようなイメージが強くなったからなのだろう。実際にはコニー・フランシスは多くのアルバムを出していて、日本では未発表の曲も多く、他人のカバーも多数録音しているので是非、聴いてもらいたいと思う。
コニー・フランシスは1960年代半ばまでヒット曲を出し続けるのである。ところが60年代後半になってから取り巻く音楽シーンの変化が大きくなりとうとうヒットチャートからコニー・フランシスは姿を消すこととなる。さらに74年にスキャンダルな事件があり、81年には弟が自宅で殺害されるという出来事もあり、彼女もかれまでかと思われたが、それから間もなく見事にステージに復帰。現在も年老いたとはいえ活動を続けているのである。
コニー・フランシス・ヒット・メロディ
コニー・フランシス『可愛いベイビー』(動画はなし)
コニー・フランシス『ヴァケイション』(動画はなし)
2012.05.06 (Sun)
第17回NHKマイルC
昨日は快晴で暑かったが、夕方から雨が降り出し雷が突然鳴りだした。今日も天気が安定せず、午前中は空が真っ暗で雨が降ったのであるが、今はまた快晴である。何ともおかしな天気である。そんな今日、東京競馬場で第17回NHKマイルC(G-Ⅰ・3歳、芝1600m、18頭)が行われたのであるが、東京の方はレース30分前に猛烈な雨が降った模様で馬場が気になったが、レース直前にはまた雨があがったようだ。この天候の変動が各馬にどのような影響を与えるか。1番人気は3戦全勝のカレンブラックッヒル、2番人気はマウントシャスタ、3番人気はアルフレード、4番人気はジャスタウェイ、5番人気はブライトラインであった。
レースは好スタートを切った人気のカレンブラックヒルがハナにたちマイペースで逃げた。それを後続の各馬が差もなく追う展開になったが、東京の直線に入って後続をいったん引きつけてからスパートすると、2番手以下の接戦を尻目に少しずつ差を広げ余裕を持ってゴールイン。
1着ガレンブラックヒル 1分34秒5、2着アルフレード 3馬身1/2、3着クラレント クビ、4着オリービン ハナ、5着セイクリットレーヴ クビ。
まさに力でねじ伏せた横綱相撲であったが、これで4戦全勝である。今後マイル路線で何処まで活躍できるか注目である。尚、2番人気のマウントシャスタは最後の直線で斜行し失格となった。この斜行でシゲルスダチが落馬したので仕方がないところである。勝ったカレンブラックヒルの秋山騎手はデビュー16年目にして初のG-Ⅰ制覇。
ところで現地時間ともに5月5日であるが、イギリスのニューマーケットで3歳クラシックレースの2000ギニーS、アメリカのチャーチルダウンズで同じく3歳クラシックレースが行われた。
第204回2000ギニーS(G-Ⅰ・3歳、8f、18頭)がニューマーケットの直線コースで行われCamelotが追いすがるFrench Fifuteenを抑えて勝った。
1着Camelot 1分42秒46、2着French Fifteen クビ、3着Hermival 2馬身1/4、4着Trumpet Major 1馬身1/4、5着Coupe de Ville ハナ。
Camelotは3戦全勝。父Montjeu、母はTarfah(母の父Kingmambo)と日本ではお馴染の血統である。
アメリカ3歳3冠レースの第一弾、第138回ケンタッキー・ダービー(G-Ⅰ・3歳、ダート10f、20頭)は、直線で馬場の中央から抜け出した人気薄のI'll Have Anotherが1番人気のBodemeistereの追撃を抑えて勝った。
1着I'll Have Another 2分01秒83、2着Bodemeister 1馬身1/2、3着Dullahan クビ、4着Went The Day Well 3/4馬身、5着Creative Cause 1/2馬身。
I'll Have Anotherは6戦4勝2着1回であるが3連勝。父Flewer Alley-----Raise a Natibe系、母Arvh's Gal Edith(母の父Arch-----Hail to Reason系)という血統である。
レースは好スタートを切った人気のカレンブラックヒルがハナにたちマイペースで逃げた。それを後続の各馬が差もなく追う展開になったが、東京の直線に入って後続をいったん引きつけてからスパートすると、2番手以下の接戦を尻目に少しずつ差を広げ余裕を持ってゴールイン。
1着ガレンブラックヒル 1分34秒5、2着アルフレード 3馬身1/2、3着クラレント クビ、4着オリービン ハナ、5着セイクリットレーヴ クビ。
まさに力でねじ伏せた横綱相撲であったが、これで4戦全勝である。今後マイル路線で何処まで活躍できるか注目である。尚、2番人気のマウントシャスタは最後の直線で斜行し失格となった。この斜行でシゲルスダチが落馬したので仕方がないところである。勝ったカレンブラックヒルの秋山騎手はデビュー16年目にして初のG-Ⅰ制覇。
ところで現地時間ともに5月5日であるが、イギリスのニューマーケットで3歳クラシックレースの2000ギニーS、アメリカのチャーチルダウンズで同じく3歳クラシックレースが行われた。
第204回2000ギニーS(G-Ⅰ・3歳、8f、18頭)がニューマーケットの直線コースで行われCamelotが追いすがるFrench Fifuteenを抑えて勝った。
1着Camelot 1分42秒46、2着French Fifteen クビ、3着Hermival 2馬身1/4、4着Trumpet Major 1馬身1/4、5着Coupe de Ville ハナ。
Camelotは3戦全勝。父Montjeu、母はTarfah(母の父Kingmambo)と日本ではお馴染の血統である。
アメリカ3歳3冠レースの第一弾、第138回ケンタッキー・ダービー(G-Ⅰ・3歳、ダート10f、20頭)は、直線で馬場の中央から抜け出した人気薄のI'll Have Anotherが1番人気のBodemeistereの追撃を抑えて勝った。
1着I'll Have Another 2分01秒83、2着Bodemeister 1馬身1/2、3着Dullahan クビ、4着Went The Day Well 3/4馬身、5着Creative Cause 1/2馬身。
I'll Have Anotherは6戦4勝2着1回であるが3連勝。父Flewer Alley-----Raise a Natibe系、母Arvh's Gal Edith(母の父Arch-----Hail to Reason系)という血統である。
2012.05.05 (Sat)
黄金週間が終わってしまう・・・・
もう5月5日ではないか。子供の日らしいが、そのような意識はなかった。なにしろ土曜日なのでGWでなくても通常なら休日である。朝、家を出て鯉のぼりを上げている家を見て子供の日だったということを知る。小生が子供だったというのは遥か昔日の話。その頃の記憶はあれども散漫な記憶でしかない。あの当時、どんなことを考えていたかな。日記など付けていたこともないし、当時の作文なんか何一つ残ってないから記憶の彼方へ消えていった。小学生当時の同級生の誰かなら当時の作文集を持っているかも知らないが、小生はあの当時、作文が大嫌いで学校の文集に掲載されたことは一度もない。まあ、真面目に書かなったというのもあるが、どうせ教師が読んで評価を下すのだからどうでもいいと思っていた。つまり当時から真面目な児童ではなかったということだ。どちらかというと醒めていた。それでいて絵を描くこととなると真剣に描いていた。すると描いた絵が何時も佳作か優秀賞に選ばれて、知らない間に府の児童展覧会で他の学校の生徒の作品とともに貼りだされていたという思い出がある。もっとも一度も見に行ったことがないから自分の描いた絵がどのように見られていたかは知る由もないが・・・・・。まあ、こんなことはどうでもいい。自慢にも何にもなりはしない。もっとも子供のころ、あまり絵を描いているのを見たことがない姉が美術関係の大学に進学したのは意外ではあったが・・・・・。
それにしても今日は暑かった。昨日まで3日間天気がはっきりしなかったのに、快晴になると途端に暑くなる。まったく適度な気温というのがないから困ったものだ。気がつけばもう5日で、何時の間にか明後日から仕事に追われる日々が待っているではないか。そう思ったら憂鬱になってきた。小生は労働が基本的に嫌いだからしょうがない。早朝に起きて夜遅く帰ってくる毎日。疲れるし、ストレスは溜まるし、眠いし、時間は経たないし、かといって休みわけにはいかないし・・・・・・とにかく拘束時間というのは知らぬ間に余計な抑圧を受けているのだろう。それが1日で10時間にも及べば、神経も体力もすり減るというものである。楽しくないから時間も経たない。それが休んでいると矢鱈と時間の経過が早い。休日は1日が48時間あっても足りないぐらいだ。なんでこんなに時間が早く経つのだろうか。もっとも人によっては休みの日に何もやることがないといって、朝からパチンコに行き、帰ってからはゴロゴロ家で昼寝をするだけだから、早く仕事が始まって欲しいという人もいる。小生には考えられないが、定年になったらどうするのだろう。いずれ毎日が日曜日になるのに・・・・。このような人は1日でも余分に働きたいのだろう。好きな仕事ならいいが、そんな人は少数だろう。小生は好きでやっている仕事ではないから、苦痛以外のなにものでもない。やっぱり仕事は少々、きつくても自分で納得できる仕事に就くべきだ。そうでなければただ日々、惰性の産物になってしまう。もう小生の年齢になってしまうと、仕事を辞めてからのことを考えているが、若い時は惰性で仕事ができない。その先、何十年と働き続け生活費を稼がなくてはならないから仕事が嫌いだとは言ってられない。小生もそのような気持ちで若い時はがむしゃらに働いたつもりだが、今となってはもっと違う仕事を選択したかったなあと思う。もう一度、20代前半に戻りたいなあ。もう無理だが・・・・。
それにしても今日は暑かった。昨日まで3日間天気がはっきりしなかったのに、快晴になると途端に暑くなる。まったく適度な気温というのがないから困ったものだ。気がつけばもう5日で、何時の間にか明後日から仕事に追われる日々が待っているではないか。そう思ったら憂鬱になってきた。小生は労働が基本的に嫌いだからしょうがない。早朝に起きて夜遅く帰ってくる毎日。疲れるし、ストレスは溜まるし、眠いし、時間は経たないし、かといって休みわけにはいかないし・・・・・・とにかく拘束時間というのは知らぬ間に余計な抑圧を受けているのだろう。それが1日で10時間にも及べば、神経も体力もすり減るというものである。楽しくないから時間も経たない。それが休んでいると矢鱈と時間の経過が早い。休日は1日が48時間あっても足りないぐらいだ。なんでこんなに時間が早く経つのだろうか。もっとも人によっては休みの日に何もやることがないといって、朝からパチンコに行き、帰ってからはゴロゴロ家で昼寝をするだけだから、早く仕事が始まって欲しいという人もいる。小生には考えられないが、定年になったらどうするのだろう。いずれ毎日が日曜日になるのに・・・・。このような人は1日でも余分に働きたいのだろう。好きな仕事ならいいが、そんな人は少数だろう。小生は好きでやっている仕事ではないから、苦痛以外のなにものでもない。やっぱり仕事は少々、きつくても自分で納得できる仕事に就くべきだ。そうでなければただ日々、惰性の産物になってしまう。もう小生の年齢になってしまうと、仕事を辞めてからのことを考えているが、若い時は惰性で仕事ができない。その先、何十年と働き続け生活費を稼がなくてはならないから仕事が嫌いだとは言ってられない。小生もそのような気持ちで若い時はがむしゃらに働いたつもりだが、今となってはもっと違う仕事を選択したかったなあと思う。もう一度、20代前半に戻りたいなあ。もう無理だが・・・・。
2012.05.03 (Thu)
高槻JAZZ STREET 2012
このところ毎年、5月3日、4日になったら恒例の高槻ジャズストリートに行っている。今年はどうしようかと考えるまでもなく高槻なら近いので、どうせ予定もなかったからテクテクと出かけて来た。なにしろ我が家は京都府ながら大阪郊外の高槻へは15分もあれば行けるので家で燻っているのももったいないからジャズでも聴きに行ったということなのだが・・・。
そもそも1999年に・・・高槻の街を、明るく音楽溢れる素晴らしい街にしよう・・・というコンセプトからジャズ好きの市民有志によって計画立案されて始まったとされる。それで運営が学生、主婦、年配者をも含めた市民ボランティアが中心になって開催されているとか。第1回は小規模な催しだったらしいが、それでも来客者が3万人を上回ったという。そして、回数も今年で14回目ですっかり高槻の風物詩的催しとなってしまった感がある。今では規模も大きくなり日本最大級のジャズイベントとして、天神祭、岸和田のだんじり祭と共に大阪ミュージアム登録物に認定されたという。でも小生、伝統ある天神祭もだんじり祭も一度も行ったことがない。なのに歴史のない高槻ジャズストリートだけは毎年、来ている気がする。というのは家から近いというのもあるが、ジャズが好きであるのは当然としても1番の理由は宗教臭さがないからである。日本の祭りというのは神社に祈願し奉納する行事として始まった場合が多く宗教抜きにしては考えられない。そういった意味では、この高槻ジャズストリートは市民の中から生まれ市民のためのお祭りであるといった意味合いが強い。それが今では高槻市民だけではなく遠方から見に聴きに来る人も多いという。そういった事情もあって今では来客者も15万人というから人出も半端な数ではない。どうりで高槻の繁華街を始め至る所で人が溢れていた。今日は外国人のグループを何十人見たか判らない。高槻なんて日頃、そんなに外国人を見かける街ではないのだが、このときだけはちょっと事情が変わってくるようだ。それで小生、今年はあちらこちらの会場へこまめに足を運んでジャズを聴きまくったのであるが・・・・・ああ、疲れた。
今年は46会場に606組が演奏に参加したのである(まだ明日もあるので参加する予定)。有名どころでは元ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童を始めジャズ・サックス奏者のスコット・ハミルトン等、その他多くのプロ・ミュージシャンを始め、セミ・プロ、社会人、大学生、高校生、中学生、小学生までビッグ・バンド、コンボ、トリオ、デュオ、ソロのミュージシャンが各自、それぞれの会場でジャズを中心にフュージョン、ロック、ブルース、ラテン、ヒップ・ホップ、ポップス、ソウル、民謡、和太鼓・・・・つまりジャズストリートではあるが、音楽というカテゴリーにおいては何でもいいのである。最近はこの催しに出るバンドが溢れてしまい、出るのも抽選だとか・・・・・・つまり敷居が低くて下手糞でも熱意さえあれば出れるのだから、そりゃアマチュアのバンドは絶好の発表の場となっているかもしれないな。まあ、そんなことは聴く手にとってはどうでもいい事である。聴く側はとにかく音楽を聴いて心地よくさせくれればいいのだから・・・・。でも一日中、高槻の街を行ったり来たりしたから疲れ果ててしまった。
高槻市内の高校の吹奏楽部の演奏するジャズ。
社会人によるビッグバンド。
駅の高架下での演奏。暗いなあ・・・。
カフェ・バーの中でもコンボが演奏しているが、入りきれなくて外から聴いている人が多数。
ピアノとヴォーカルのみ。
教会の前でもディキシーランド・ジャズが奏でられていいた。
能舞台でもハワイアン・バンドの演奏。
コンテンポラリーなジャズ演奏。
こりゃまた面白い。全員女性でギターと管楽器の組み合わせ。でも演奏しているのはジャズともポップスとも、どちらでもなさそうな・・・・・・?
中学校の中庭で演奏していたとある芸術大学のOBビッグバンドだが、本来は大学でクラシックばかり演奏していたとか・・・・それでモーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第4楽章のジャズ・アレンジを演奏していた。なかなか面白い。
例年、何時も用事があって、高槻ジャズストリートを1日中聴き歩くことは過去になかった。それで今年、朝の11時から夜の7時ごろまで聴きまくった。うん、色んなバンドが演奏して楽しませてもらった。実際には夜の11時過ぎても演奏している会場があるらしい。そこまで聴く体力はないから遠慮するが、高槻の街にジャズなんて今まで不釣り合いだと思ったが、市民を始め来客者は結構楽しんでいたし高槻にジャズがしみ込んできたのでは。まあ、催しとしては軌道に乗ったし成功ではないかと思う。そこで思ったのだが、小生は若いころ、京都のジャズ喫茶でジャズに親しんだのだが・・・・。何故、京都ではジャズが盛んにならないのかな。高校生のビッグバンドにしても京都の高校でジャズを演奏しているところはない(もっとも大阪でも2校だが)。港町神戸のある兵庫県は流石に多いものの、古都といわれる京都市周辺では皆無である。・・・・・ああ、1校だけあった。ただし福知山の高校だ。福知山は我々には京都だという意識はないからなあ・・・・・・・しょうがないか。
そもそも1999年に・・・高槻の街を、明るく音楽溢れる素晴らしい街にしよう・・・というコンセプトからジャズ好きの市民有志によって計画立案されて始まったとされる。それで運営が学生、主婦、年配者をも含めた市民ボランティアが中心になって開催されているとか。第1回は小規模な催しだったらしいが、それでも来客者が3万人を上回ったという。そして、回数も今年で14回目ですっかり高槻の風物詩的催しとなってしまった感がある。今では規模も大きくなり日本最大級のジャズイベントとして、天神祭、岸和田のだんじり祭と共に大阪ミュージアム登録物に認定されたという。でも小生、伝統ある天神祭もだんじり祭も一度も行ったことがない。なのに歴史のない高槻ジャズストリートだけは毎年、来ている気がする。というのは家から近いというのもあるが、ジャズが好きであるのは当然としても1番の理由は宗教臭さがないからである。日本の祭りというのは神社に祈願し奉納する行事として始まった場合が多く宗教抜きにしては考えられない。そういった意味では、この高槻ジャズストリートは市民の中から生まれ市民のためのお祭りであるといった意味合いが強い。それが今では高槻市民だけではなく遠方から見に聴きに来る人も多いという。そういった事情もあって今では来客者も15万人というから人出も半端な数ではない。どうりで高槻の繁華街を始め至る所で人が溢れていた。今日は外国人のグループを何十人見たか判らない。高槻なんて日頃、そんなに外国人を見かける街ではないのだが、このときだけはちょっと事情が変わってくるようだ。それで小生、今年はあちらこちらの会場へこまめに足を運んでジャズを聴きまくったのであるが・・・・・ああ、疲れた。
今年は46会場に606組が演奏に参加したのである(まだ明日もあるので参加する予定)。有名どころでは元ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童を始めジャズ・サックス奏者のスコット・ハミルトン等、その他多くのプロ・ミュージシャンを始め、セミ・プロ、社会人、大学生、高校生、中学生、小学生までビッグ・バンド、コンボ、トリオ、デュオ、ソロのミュージシャンが各自、それぞれの会場でジャズを中心にフュージョン、ロック、ブルース、ラテン、ヒップ・ホップ、ポップス、ソウル、民謡、和太鼓・・・・つまりジャズストリートではあるが、音楽というカテゴリーにおいては何でもいいのである。最近はこの催しに出るバンドが溢れてしまい、出るのも抽選だとか・・・・・・つまり敷居が低くて下手糞でも熱意さえあれば出れるのだから、そりゃアマチュアのバンドは絶好の発表の場となっているかもしれないな。まあ、そんなことは聴く手にとってはどうでもいい事である。聴く側はとにかく音楽を聴いて心地よくさせくれればいいのだから・・・・。でも一日中、高槻の街を行ったり来たりしたから疲れ果ててしまった。
高槻市内の高校の吹奏楽部の演奏するジャズ。
社会人によるビッグバンド。
駅の高架下での演奏。暗いなあ・・・。
カフェ・バーの中でもコンボが演奏しているが、入りきれなくて外から聴いている人が多数。
ピアノとヴォーカルのみ。
教会の前でもディキシーランド・ジャズが奏でられていいた。
能舞台でもハワイアン・バンドの演奏。
コンテンポラリーなジャズ演奏。
こりゃまた面白い。全員女性でギターと管楽器の組み合わせ。でも演奏しているのはジャズともポップスとも、どちらでもなさそうな・・・・・・?
中学校の中庭で演奏していたとある芸術大学のOBビッグバンドだが、本来は大学でクラシックばかり演奏していたとか・・・・それでモーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第4楽章のジャズ・アレンジを演奏していた。なかなか面白い。
例年、何時も用事があって、高槻ジャズストリートを1日中聴き歩くことは過去になかった。それで今年、朝の11時から夜の7時ごろまで聴きまくった。うん、色んなバンドが演奏して楽しませてもらった。実際には夜の11時過ぎても演奏している会場があるらしい。そこまで聴く体力はないから遠慮するが、高槻の街にジャズなんて今まで不釣り合いだと思ったが、市民を始め来客者は結構楽しんでいたし高槻にジャズがしみ込んできたのでは。まあ、催しとしては軌道に乗ったし成功ではないかと思う。そこで思ったのだが、小生は若いころ、京都のジャズ喫茶でジャズに親しんだのだが・・・・。何故、京都ではジャズが盛んにならないのかな。高校生のビッグバンドにしても京都の高校でジャズを演奏しているところはない(もっとも大阪でも2校だが)。港町神戸のある兵庫県は流石に多いものの、古都といわれる京都市周辺では皆無である。・・・・・ああ、1校だけあった。ただし福知山の高校だ。福知山は我々には京都だという意識はないからなあ・・・・・・・しょうがないか。
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