2018.03.25 (Sun)
メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調を聴く
正直言って世の中のヴァイオリン協奏曲で一番有名ではないかと思う。俗にベートーヴェン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を含めて3大ヴァイオリン協奏曲と言うそうだ。さらにチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を入れると4大ヴァイオリン協奏曲になるそうだ。こんなこと誰が言い出したのかな。
でも日本では最も演奏回数も多く最も人気があるバイオリン協奏曲ではないだろうか。これには異論もあるだろうが、小生はそのように思ってる。それは冒頭からいきなり例のメロディが出て来るからだ。この冒頭が一番有名なのである。しかしであるこの曲が始めって5分、6分すると聴くのをやめてしまう人が多い。つまり冒頭があまりにも有名なヴァイオリン協奏曲と言っていいだろう。考えてみれば姉が小学生の頃に何故かヴァイオリンを習いだしたことを思い出す。それというのもこのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いたからだ。この曲の冒頭を聴き感銘を受け弾いてみたいと思ったという。でも難しいらしい。当たり前だ。結局、姉は一年もしないでヴァイオリンを習うのを辞めてしまった。だから少しばかりドヴォルザークのユーモレスクなら弾けたのかな。でもノコギリのような音だった。ただしメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲といっても第1楽章しか姉は聴いたことがないのではないだろうか。この曲全部で3楽章、30分ぐらいある。まあおそらく冒頭は知っていてもこのヴァイオリン協奏曲を全て聴いた人の方が世の中、少ないだろうけど。クラシック音楽なんてみんなが聴かないのは長すぎるからで、サビの部分、有名な旋律なんて僅かしかない。だから3分芸術なんていう安直なポピュラー・ミュージックにみんな走ったのであるが・・・・。
ところでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調と敢えて記したのはメンデルスゾーンにはもう一曲、ニ短調のヴァイオリン協奏曲があるからだ。こちらは若書きで曲のできもホ短調に比べると難がある。だからメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲というのはこの曲のことを一般的に指すのである。通称でメンコンと呼ばれることも多くそれだけ有名な曲と言うことである。最もメンデルスゾーンと言うのはモーツァルトと同じく早熟の天才と言われたが、34歳で書いた同曲の出来が傑出していて、メンデルスゾーンの他の曲でいいなあと思うのは小生が聴いてもあまりない。他には交響曲(以前、当ブログでスコットランドを紹介した)やピアノ協奏曲、そして有名なピアノ曲『春の歌』、管弦楽曲『フィンガルノ洞窟』とかあり、それに誰でも知っている『真夏の夜の夢』の中の結婚行進曲がある。この結婚行進曲はワーグナーの同曲と共に結婚式では有名だが、これさえもほとんどの人はメンデルスゾーンの作曲によるものだと言うことを知らないみたいである。だから早熟の天才と言われ38歳で早く亡くなったのはモーツァルト同様だが、現在でも愛され続けている曲の数となるとモーツァルトに比べるとメンデルスゾーンの曲は遥に少ないと言えよう。
これは彼がユダヤ人であったこととも関係しているみたいでもあり、ドイツではヒトラーのユダヤ人迫害があり彼の音楽を高く評価しないという気風みたいなものもあったようだ。ただメンデルスゾーンは作曲以外でも功績を残していて、若くしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されバッハの復興にに勤め、30代になってからはライプツィヒ音楽院を開校し院長となり後進の指導に当たり1847年、38歳で亡くなった。
アンネ・ゾフィー=ムター(ヴァイオリン) クルト・マズア指揮
でも日本では最も演奏回数も多く最も人気があるバイオリン協奏曲ではないだろうか。これには異論もあるだろうが、小生はそのように思ってる。それは冒頭からいきなり例のメロディが出て来るからだ。この冒頭が一番有名なのである。しかしであるこの曲が始めって5分、6分すると聴くのをやめてしまう人が多い。つまり冒頭があまりにも有名なヴァイオリン協奏曲と言っていいだろう。考えてみれば姉が小学生の頃に何故かヴァイオリンを習いだしたことを思い出す。それというのもこのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いたからだ。この曲の冒頭を聴き感銘を受け弾いてみたいと思ったという。でも難しいらしい。当たり前だ。結局、姉は一年もしないでヴァイオリンを習うのを辞めてしまった。だから少しばかりドヴォルザークのユーモレスクなら弾けたのかな。でもノコギリのような音だった。ただしメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲といっても第1楽章しか姉は聴いたことがないのではないだろうか。この曲全部で3楽章、30分ぐらいある。まあおそらく冒頭は知っていてもこのヴァイオリン協奏曲を全て聴いた人の方が世の中、少ないだろうけど。クラシック音楽なんてみんなが聴かないのは長すぎるからで、サビの部分、有名な旋律なんて僅かしかない。だから3分芸術なんていう安直なポピュラー・ミュージックにみんな走ったのであるが・・・・。
ところでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調と敢えて記したのはメンデルスゾーンにはもう一曲、ニ短調のヴァイオリン協奏曲があるからだ。こちらは若書きで曲のできもホ短調に比べると難がある。だからメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲というのはこの曲のことを一般的に指すのである。通称でメンコンと呼ばれることも多くそれだけ有名な曲と言うことである。最もメンデルスゾーンと言うのはモーツァルトと同じく早熟の天才と言われたが、34歳で書いた同曲の出来が傑出していて、メンデルスゾーンの他の曲でいいなあと思うのは小生が聴いてもあまりない。他には交響曲(以前、当ブログでスコットランドを紹介した)やピアノ協奏曲、そして有名なピアノ曲『春の歌』、管弦楽曲『フィンガルノ洞窟』とかあり、それに誰でも知っている『真夏の夜の夢』の中の結婚行進曲がある。この結婚行進曲はワーグナーの同曲と共に結婚式では有名だが、これさえもほとんどの人はメンデルスゾーンの作曲によるものだと言うことを知らないみたいである。だから早熟の天才と言われ38歳で早く亡くなったのはモーツァルト同様だが、現在でも愛され続けている曲の数となるとモーツァルトに比べるとメンデルスゾーンの曲は遥に少ないと言えよう。
これは彼がユダヤ人であったこととも関係しているみたいでもあり、ドイツではヒトラーのユダヤ人迫害があり彼の音楽を高く評価しないという気風みたいなものもあったようだ。ただメンデルスゾーンは作曲以外でも功績を残していて、若くしてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されバッハの復興にに勤め、30代になってからはライプツィヒ音楽院を開校し院長となり後進の指導に当たり1847年、38歳で亡くなった。
アンネ・ゾフィー=ムター(ヴァイオリン) クルト・マズア指揮
2017.11.18 (Sat)
ハイドンの交響曲第45番『告別』を聴く
クラシック音楽の記事なんて最近書いてない。というよりもこのPCがおかしくなって写真が載せられなくなったからアルバムを聴いたところで何のアルバムか判らないから、最近は音楽自体をあまり聴いていないと言うよりも記事を書いてない。もうこれからは写真なしで記事にする。今日はハイドンの告別である。
みんな知っていると思うがハイドンは交響曲の父と言われる。それは現在の交響曲の形を最初に確立したと言われる作曲家で生涯に108もの交響曲を書いたからである。でも小生はその全てを聴いたわけではない。これはもちろんモーツァルトもそうであるが、現在のような交響曲がクラシックのメインで演奏され大曲化されたのはべートーヴェン以降だろう。したがってハイドンの交響曲って短い。長くて30分ぐらいじゃないかな。マーラーやブルックナーのように長くはない。時代が時代だからである。ハイドンはベートーヴェンの師匠格。1732年生まれで1809年没。つまり古典派に属する。彼の24年後にモーツァルトが生まれ38年後にベートーヴェンが生まれていると言えば音楽的に言ってどういった時代の人か判るであろう。さらに付け加えるならハイドンよりさかのぼること47年前にバッハとヘンデルが生まれている。つまりハイドンが生まれたときにはまだバッハ、へンデルは生きていたのである。いわばバロック音楽から古典派音楽へ移行する頃に現れた大作曲家と言えよう。もっともバロック音楽とか古典派音楽とかロマン派音楽とかは後世の人が言い出したことなので彼等には関係がない。ただこれだけ本格的に交響曲を書き出したのはハイドンが最初の人だろう。
さてこの交響曲45番『告別』というのは1772年に書かれている。ハイドンが40歳の時である。ハイドンは当時エステルハージ公―に仕えていた。そしてノイジードラー湖畔のエステルハージー公の別荘に長いこと居座っていた。もちろん彼が率いる楽団員もである。ハイドンを始め楽団員は家族の元を離れこの別荘に長いこといたせいで何時しか帰郷したいと思うようになっていたが誰も言い出せない。そこでハイドンは『告別』を書いたという。そしてエステルハ-ジー公ニコラスの前でこの曲を披露したのである。するとニコラスはみんなか帰ってよろしいといったという逸話が残っている。
嘘のような話だが、ニコラス公がハイドン始め団員の心境を察したのだろう。そういた仕組みがこの曲にあったのだ。まず調子がおかしい。この嬰ヘ長調というのは数多いハイドンの交響曲の中でこの曲だけである。そしてそして4楽章ある終楽章が笑わせてくれる。プレストで始まるのだがコーダに入り雰囲気が一気に変わる。同じ楽章かと思ってしまう。スコアを見るとまずオーボエの半分とホルンinEが消える。次にバスーンが消える。そして残りのオーボエも消える。ついにはホルンも全員消えて弦楽器だだけになる。
弦楽器だけになるがまずコントラバスが消え、次にチョロが消える。残りは第一、第二、第三、第四のヴァイオリンとヴィオラだけ。すると第三、第四のヴァイオリンも消える。まもなくヴィオラも消え、最後の14小節は第一、第二ヴァイオリンだけが弾いている。という何とも奇妙な曲である。当時は電灯がなく団員の楽譜の上に蝋燭が灯っていたので役目の終った団員は蝋燭を消していくのである。すると舞台はだんだんと暗くなる。ニコラス公はそれを悟ったのだろう。何とも風変わりな曲である。もっともハイドンの遊び心がこのような曲を書かせたのだろう。だからハイドンの曲には標題が付いているのが多い。標題を付けやすい曲が多かったのだろう。朝、昼、夜、哲学者、悲しみ、受難、帝国、校長先生、マリアテレジア、驚愕、奇蹟、時計、太鼓連打、軍隊、ロンドン、冗談、鳥、夢、蛙、ひばり、騎士、皇帝、日の出・・・・もちろん標題の付いてない曲の方が遙かに多いが、これだけ標題が曲に付いているってハイドンぐらいである。つまり協奏曲第○○番イ短調作品○○番って言われるより標題で言われた方が曲は覚えやすいと言うことだ。これがクラシック音楽の欠点でもある。ただこれだけ標題音楽が多いのに、ハイドン作曲の楽曲が多すぎて小生はその半分も聴いたことがない。
みんな知っていると思うがハイドンは交響曲の父と言われる。それは現在の交響曲の形を最初に確立したと言われる作曲家で生涯に108もの交響曲を書いたからである。でも小生はその全てを聴いたわけではない。これはもちろんモーツァルトもそうであるが、現在のような交響曲がクラシックのメインで演奏され大曲化されたのはべートーヴェン以降だろう。したがってハイドンの交響曲って短い。長くて30分ぐらいじゃないかな。マーラーやブルックナーのように長くはない。時代が時代だからである。ハイドンはベートーヴェンの師匠格。1732年生まれで1809年没。つまり古典派に属する。彼の24年後にモーツァルトが生まれ38年後にベートーヴェンが生まれていると言えば音楽的に言ってどういった時代の人か判るであろう。さらに付け加えるならハイドンよりさかのぼること47年前にバッハとヘンデルが生まれている。つまりハイドンが生まれたときにはまだバッハ、へンデルは生きていたのである。いわばバロック音楽から古典派音楽へ移行する頃に現れた大作曲家と言えよう。もっともバロック音楽とか古典派音楽とかロマン派音楽とかは後世の人が言い出したことなので彼等には関係がない。ただこれだけ本格的に交響曲を書き出したのはハイドンが最初の人だろう。
さてこの交響曲45番『告別』というのは1772年に書かれている。ハイドンが40歳の時である。ハイドンは当時エステルハージ公―に仕えていた。そしてノイジードラー湖畔のエステルハージー公の別荘に長いこと居座っていた。もちろん彼が率いる楽団員もである。ハイドンを始め楽団員は家族の元を離れこの別荘に長いこといたせいで何時しか帰郷したいと思うようになっていたが誰も言い出せない。そこでハイドンは『告別』を書いたという。そしてエステルハ-ジー公ニコラスの前でこの曲を披露したのである。するとニコラスはみんなか帰ってよろしいといったという逸話が残っている。
嘘のような話だが、ニコラス公がハイドン始め団員の心境を察したのだろう。そういた仕組みがこの曲にあったのだ。まず調子がおかしい。この嬰ヘ長調というのは数多いハイドンの交響曲の中でこの曲だけである。そしてそして4楽章ある終楽章が笑わせてくれる。プレストで始まるのだがコーダに入り雰囲気が一気に変わる。同じ楽章かと思ってしまう。スコアを見るとまずオーボエの半分とホルンinEが消える。次にバスーンが消える。そして残りのオーボエも消える。ついにはホルンも全員消えて弦楽器だだけになる。
弦楽器だけになるがまずコントラバスが消え、次にチョロが消える。残りは第一、第二、第三、第四のヴァイオリンとヴィオラだけ。すると第三、第四のヴァイオリンも消える。まもなくヴィオラも消え、最後の14小節は第一、第二ヴァイオリンだけが弾いている。という何とも奇妙な曲である。当時は電灯がなく団員の楽譜の上に蝋燭が灯っていたので役目の終った団員は蝋燭を消していくのである。すると舞台はだんだんと暗くなる。ニコラス公はそれを悟ったのだろう。何とも風変わりな曲である。もっともハイドンの遊び心がこのような曲を書かせたのだろう。だからハイドンの曲には標題が付いているのが多い。標題を付けやすい曲が多かったのだろう。朝、昼、夜、哲学者、悲しみ、受難、帝国、校長先生、マリアテレジア、驚愕、奇蹟、時計、太鼓連打、軍隊、ロンドン、冗談、鳥、夢、蛙、ひばり、騎士、皇帝、日の出・・・・もちろん標題の付いてない曲の方が遙かに多いが、これだけ標題が曲に付いているってハイドンぐらいである。つまり協奏曲第○○番イ短調作品○○番って言われるより標題で言われた方が曲は覚えやすいと言うことだ。これがクラシック音楽の欠点でもある。ただこれだけ標題音楽が多いのに、ハイドン作曲の楽曲が多すぎて小生はその半分も聴いたことがない。
2017.05.21 (Sun)
ビゼーの組曲『アルルの女』を聴く

フランスの作曲ジョルジュ・ビゼーといえば何の曲が1番有名だろうかと考えたらほとんどの人が『カルメン』と答えるだろう。でも演奏会で演奏される前奏曲や闘牛士の歌、ハバネラ等は演奏会用の組曲であってオペラ版の演奏ではない。従って本来は歌が入るものだが、大方の人は歌の入らないカルメンの曲を知っているに過ぎない。だからオペラ『カルメン』を観てくれと言いたいが、オペラとなると組曲の1曲をを聴くのと違って忍耐力もいるし聴く方も構えなくてはならないのか敬遠される。でも世界中のオペラの中で最も上演回数の多いオペラである。すなわち最も有名なオペラと言ってもいい。つまりヴェルディのオペラやワーグナーのオペラよりも人気があるってことだろう。そのオペラの中の1曲1曲が有名と言うことになるのである。つまりビゼーというのは『カルメン』で有名な作曲家といっても過言ではないのだ。でも多くの曲を作曲しているが、その他はあまり聴かれないような気もする。一応、交響曲も3曲書いているしカンタータやピアノ曲も作曲しているのだが演奏回数は『カルメン』に比べると遥に少ないように思う。一般的にはオペラの作曲家のように思われていて、実際『真珠採り』『美しきパースの娘』『イワン雷帝』といったオペラやオペレッタの曲が多い。それと劇附属音楽というものがある。それが『アルルの女』である。そもそもドーデの同名の戯曲の伴奏音楽として1872年に作曲されたもので全27曲ある。でも全曲演奏となると流石に長い。そこでビゼーは演奏会用に組曲を再編した。それが『アルルの女』組曲である。第1組曲と第2組曲があり、それぞれ4曲ずつある。第1組曲が前奏曲、メヌエット、アダージェット、カリヨン、第2組曲がパストラール、間奏曲、メヌエット、ファランドールからなる。ただしビゼー自身の編集によるのは第1組曲であって第2組曲はビゼーの編集ではなく、ビゼーの友人でパリ音楽院の教授をしていたエルネスト・ギローにようるもので、ビゼーの死後管弦楽法に優れていたギローが煌びやかな管弦楽曲に編曲している。したがって第2組曲の有名なメヌエットは実は『アルルの女』からの編集ではなく、ギローがビゼーのオペラ『美しきパースの娘』の中の曲を『アルルの女』第2組曲に組み込んでしまったのである。今では第2組曲で1番人気のある曲かもしれない。実のところこういった事情を全く知らず、ビゼーのメヌエットといえば『アルルの女』第2組曲のメヌエットと連想されるほど有名になってしまったのである。フルートとハープによる美しい曲で、今日では戯曲『アルルの女』が上演されるとき第3幕の前に演奏されることが一般化してしまったようだ。
このメヌエットはフルートが強調されるが、フルートという楽器は唇の薄いフランス人に向いた曲と言われる。ランパルを始め名手を大勢生んだフランスであるが、ホルンのような理屈っぽい人向きではなくラテン人に向いているとも言われ、それだけに人気のある楽器で、比較的に平凡なタイプの人の方が上達しやすいらしい?
もっともフルートの名手となるとそれすなわち非凡ということになるようで、奇想天外な考えをしたり突拍子もない意見を言う人はこの楽器に向いてないそうです。物事を常識的に判断して処理をするという型の人がフルートに向いているととある音楽家が言っていたのである。ついでに言うとクラリネットはユーモリスト。ファゴットは道化のような人。物事にこだわる追求型の人はチェロが向いているという。またトランペットは長命の相。トロンボーンは呑べえの相。オーボエははげ頭の相。これには理由があるらしい。本当かなとは思うがそれなりに理由があるらしい。
話は脱線したが、今日に演奏される『アルルの女』といえばほとんどが、この第1組曲と第2組曲で劇音楽の方は長いので演奏されることが少ない。でもビゼーの神髄はオペラ作曲家であっただけに組曲よりも戯曲の附属音楽の27曲を聴く方が良いんだろうけど演奏されることが非常に少ないというのが現実である。
2017.01.29 (Sun)
ラヴェルの『ボレロ』を聴く

ボレロとはスペイン発祥のダンス及び音楽のことで18世紀末に生まれたという。3/4拍子でリズムをつけソロ及びペアで踊るものだった。それが19世紀にはヨーロッパ中に拡がり今世紀になって1928年フランスのモーリス・ラヴェルがバレエ音楽として『ボレロ』を作曲した。
この曲は約15分に満たない曲なのだが、ご存じのようにたった二つの旋律しかない。主題と副主題。ただそれを繰り返す。リズムが始まったときから終わりまでボレロのリズムを引き延ばした形で一本調子に反復されるだけ。コーダを除くと全曲ハ長調のままで、間に変化をつけるための転調はわざと使わなかった。曲の半分くらいまでは旋律にハーモニーがつけられず色々な楽器がボレロのリズムにのって独奏を繰り返す。曲は最弱音に始まり最強音で終る。この10数分というもの、ただ次第に音が大きくなっていくだけ。それ以外のテクニックは全くない。言い換えればどんな下手くそな作曲家でもこんな愚かな曲は作らないだろうと思われる曲を敢えて作りそれが名作だったというところがラヴェルの凄さなのである。
そもそもパリに在住していたロシアの舞踏家イダ・ルービンステイン夫人の委嘱によって書かれたラヴェル最後のオーケストラ作品であるが、極めて知性的なというよりは頭脳的な計算の上に細かく音が組み立てられた史上類を見ないユニークな曲と言える。ラヴェルは当初イサーク・アルベニスのピアノ曲集『イベリア』から6曲をオーケストラ編曲することで合意していたが、『イベリア』には既にエンリケ・フェルナンデス・アルボスの編曲が存在したのだった。アルボスはラヴェルの意図をくみ権利譲渡を打診したが、結局はラヴェルが一から曲を書くことにしてこの『ラヴェル』が出来上がったという。方法としては実に単純であるというのは先ほど述べたが、今日、これだけ演奏会で採り上げられ有名な曲になったのもラヴェルの見事なオーケストレーションがあってこそなせる技である。
巧みなオーケストレーションを操ることでは並ぶ者はいなかったとされ「オーケストレーションの天才」「管弦楽の魔術師」といわれたり「スイスの時計職人」と評される精緻な書法で作曲する。謂わば旋律を生むと言うよりも旋律に装飾することが極めて優れているラヴェルだった。作品としては『水の戯れ』『夜のガスパール』『高雅で感傷的なワルツ』といったピアノ作品よりも『ダフニスとクロエ』『亡き王女のためのパヴァーヌ』『スペイン狂詩曲』『クープランの墓』などのオーケストレーションされた管弦楽曲が印象に残るのはそのせいかもしれない。そういえばムソルグスキーのピアノ曲『展覧会の絵』なんかはオリジナルのピアノ組曲よりもラヴェルのオーケストレーションによる管弦楽曲版の方が遙かに演奏される回数が多い。それは如何にオーケストレーションが見事だからであろう。ただラヴェルは自分の才能はさほどあると思ってなかったのか、ジョージ・ガーシュウィンがラヴェルに教えを請うたが「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はない」といって断ったという話が残っている。それだけに1番単純な技法で作曲した『ボレロ』が彼の代表曲であるというのは彼の本心を表しているのかもしれない。
ところで上記にある写真のCDはラヴェル自身の指揮による演奏が収録されている。『ボレロ』の楽譜には72というメトロノームの指示が書かれてあり、3/4拍子、342小節演奏すると13分50秒という演奏時間が割り出される。しかしラヴェルの指揮による演奏時間は15分30秒かかっている。自分の指示よりもゆったりと曲を歌わしている。単調な曲をよりきらびやかに見せたかったのかそのあたりは計り知れぬが、作曲者自身が楽譜指示を無視して演奏するというのは皮肉屋だったラヴェルらしいといえばラヴェルらしいといえそうだ。ただ現在の演奏もほとんど15分ぐらいかかっているので13分50秒というのはちょっと速すぎるような気がする。
ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ロンドン交響楽団
2016.09.19 (Mon)
ブルックナーの交響曲第8番を聴く

左 ショルティ指揮 シカゴ交響楽団(ノヴァーク版)
右 朝比奈隆指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団(ハース版)
ブルックナーの交響曲は長い。どの交響曲も全て長い。それは彼が交響曲作曲に生涯をかけた作曲家だったからである。ブルックナーは1824年オーストリアのリンツに近いフェルデンという小さな街で生まれた。オルガン奏者を父に持ちその影響から10歳で教会のオルガン奏者として弾いていたほどの腕前だった。さらに11歳からはオルガン奏者のバプティスト・ヴァイスの下で本格的に音楽教育を受け、12歳からはザンクト・フローリアン修道院の聖歌隊へ入る。16歳になると教員養成所に入り、その後に村の補助教員として働きく傍らオルガン演奏も行っていた。謂わば地味な田舎の音楽家の域を出なかったのである。それがやがてワーグナーに傾倒し、さらにベートーヴェンの第9を聴く機会を得て交響曲の作曲に目覚めたのだろう。19歳で早くも最初の交響曲ヘ短調を作曲している。3年後には交響曲1番。25歳で交響曲0番を作曲。さらにう3年後に交響曲2番。その翌年の1873年、尊敬するワーグナーと会見する機会を得て交響曲3番を作曲。この交響曲に『ワーグナー』という標題を付け献呈している。その後も交響曲4番、交響曲5番と創作活動が続き、1876年には第1回のバイロイト音楽祭に出席。ここで『ニーベルングの指輪』の初演を聴く。これがきっかけとなったのか、ブルックナーはこれまで作曲した交響曲の全てを改訂することとなる。これがブルックナーの改訂版が幾通りも出始める出発点となった。とにかく長い曲ばかりというのはワーグナーの影響か。そして交響曲作曲に生涯をかけたというのはベートーヴェンの第9の影響であろう。ただし当時の慣習から相手にされることはほとんど無かった。ことにワーグナーと相反したブラームスからはブルックナーの作品は酷評されていたぐらいだ。でも、この頃、若きグスタフ・マーラーがウィーン大学でブルックナーの聴講を受けに訪れている。つまりマーラーの交響曲が長いのもブルックナーの影響があることは確かなようである。ただブルックナーは演奏会では客入りが悪く、演奏途中で出ていく人も多かったという。それが自信喪失になり、改訂した作品をさらに改訂するという有様。いったいブルックナーの作品は幾つ改訂版があるのだろうと思ってしまう。それでも徐々に名声を得るようになり、1884年というから60歳の時に壮大な交響曲第8番の作曲にかかる。3年後の1887年にいったん完成を見る。ところが尊敬していた指揮者ヘルマン・レーヴェに見て貰うと酷評され、落胆したブルックナーはまたこの作品を改訂する。さらには彼の過去の作品までを改訂するようになる。こうして1892年交響曲第8番の初演が行われようやく成功の恩恵に授かるのである。でもこれも原典版ではない。大きく分けるとハース版とノヴァーク版があるが、弟子が書いた物まであり、さらに後に楽譜が見つかり色々な版があることが判るのだから今日、ブルックナーの交響曲と言ってもどの版で演奏されているのかよく判らないのである。交響曲8番の初演が成功して、ようやく音楽仲間からも認められるようになったものの、すでにブルックナーは67歳。これから4年後の1896年にブルックナーは生涯を終えている。まあ何とも地味で恵まれない作曲家であったことか。この時、交響曲第9番は作曲途中で未完のまま残されていた。
さてここで交響曲8番の話に入るが、この曲は気宇壮大な大宇宙を連想させる曲である。ことに第4楽章。冒頭から満天の夜空いっぱいに広がる銀河の世界を想像してしまう曲調である。けしてマーラーのようにオケストレーションが巧みな作曲家ではない。ユニゾンが多いし、突然のごとく曲の途中に間が出来たり、ブルックナーの霧と言われるモヤモヤとした中から徐々に現れる律動的な轟き。ブルックナー的と言えばブルックナー的であるが、他の作曲家にはない独特の世界観があることは確かだ。でも最初、ブルックナーを聴いた時であるが、実に退屈でだらだらと長くて下らないと感じたものだ。そこから小生は長い間、ブルックナーを聴かなかった。交響曲のお化けのようなものだと感じていた。それが何時だったろうか。ラジオのFMでブルックナーの8番を聴いた。寒い日の夜だった。部屋の明かりを消し窓を開け、冬空に広がるオリオン座を見ながら聴いていると身体の中を戦慄が走るかの如く、ブルックナーの8番に填ってしまった。それは突然やってきたというべきか。あの美しくもなく軽快でもなく爽やかでもなく、ただ重苦しく似たようなメロディの繰り返し、怠い管楽器と打楽器の咆哮。退屈だった曲が退屈に聴こえなくなった瞬間であった。これ以来ブルックナーを頻繁に聴くようになっていた。不思議なものである。教会のオルガン奏者であったブルックナーの音楽は荘厳な大伽藍で演奏されるオルガンの響きにも似ている。それは、どこか宗教的であり、敬虔なカトリック信者が信奉するような響きに近いかもしれない。それがブルックナーの交響曲であろうか。1時間を超える演奏時間が多いブルックナーの交響曲の中で8番は速い演奏でも75分ぐらい、ゆったりとした演奏になると85分だとか90分ぐらいかかることもある大曲である。指揮者によって違うだろうが、ブルックナーを聴いて感じるのは、宇野功芳が言うようにまさに宇宙の鳴動、魂の沈思と表現すべき楽曲である。だから小生はBGMとして聴く音楽ではなく真摯に向き合って聴くべき音楽だと考えている。しかし、初めて聴く人には耐えがたい退屈な音楽。それがブルックナーであろう
チェリビダッケ指揮 ミュンヘン・フィルの演奏(ノヴァーク版) 1990年サントリー・ホール
2015.09.13 (Sun)
大阪クラシックで・・・
先週の一週間、大阪市内の各所で室内楽や器楽曲等の無料コンサート(管弦楽は有料)が行われていた。2006年からこの時期に開催されるようになったのだが、今年初めて一日だけ行ってきた。
大阪クラシックと言うイベントで、前・大阪フィルの音楽監督だった大植英次がプロデュースし、大阪の御堂筋に面するカフェやビジネスビルのロビーなどを利用して大フィル等の楽団員が分散して無料コンサートを行うというもの。25会場で81公演というからかなり密度が濃い催しである。当然、何箇所かで同時に行われるから全てを行くのは無理。その中で10日の日の午前に行われていたドビュッシーのフルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタを聴きに行った。あいにく天気は悪かったが(くしくも茨城県の常総市で鬼怒川が決壊した時間帯だった)、無料と言うことで中之島にある関西電力本社ビルの一階ロビーには30分前に来たのに既に多くの人で埋まっていて、椅子は全て先に来た人が座っていて、その後ろで立ってみるしかなかった。公演前には係員が演奏中の写真撮影、動画撮影禁止、録音禁止という注意事項を言い、演奏前は撮影はOKということだった。でも、どちらにしても小生はカメラも持ってこなかったし関係ないが・・・・。
さて、演奏者の三人が出てきた。演奏前にヴィオラの男性奏者がこの曲についての解説をし、ドビュッシーの最晩年の曲で今からちょうど100年前の1915年。第一次世界大戦中に作られた曲でありハープが入るのでゴージャスであると喋っていた。小生もこの曲は知ってはいたが聴いたことはなかった。ドビュッシーらしい如何にも印象派に通じる色彩豊かな曲で三楽章、20分ほどの演奏は終了。拍手でアンコールを一曲。すると直後、会場に大植英次が現れて、関西電力の尽力で大阪フィルはここまで活動が出来ているのだと説明をし、来場の皆さんも是非、動画も写真も撮ってくださいというから驚いた。その後の、もう一曲演奏するが、それも動画をとってくれと言う。こんな時に限って小生はカメラを持ってこなかったのを後悔。仕方なくガラケーの携帯で写真を撮るが画像が粗いのなんの、どうしよもない。所詮は携帯の画像だ。どちらにしろこのPCは写真を載せられなくなったからいいけど、スタッフの係員よりも大植英次の方が柔軟な対応で好感が持てた。
大阪クラシックと言うイベントで、前・大阪フィルの音楽監督だった大植英次がプロデュースし、大阪の御堂筋に面するカフェやビジネスビルのロビーなどを利用して大フィル等の楽団員が分散して無料コンサートを行うというもの。25会場で81公演というからかなり密度が濃い催しである。当然、何箇所かで同時に行われるから全てを行くのは無理。その中で10日の日の午前に行われていたドビュッシーのフルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタを聴きに行った。あいにく天気は悪かったが(くしくも茨城県の常総市で鬼怒川が決壊した時間帯だった)、無料と言うことで中之島にある関西電力本社ビルの一階ロビーには30分前に来たのに既に多くの人で埋まっていて、椅子は全て先に来た人が座っていて、その後ろで立ってみるしかなかった。公演前には係員が演奏中の写真撮影、動画撮影禁止、録音禁止という注意事項を言い、演奏前は撮影はOKということだった。でも、どちらにしても小生はカメラも持ってこなかったし関係ないが・・・・。
さて、演奏者の三人が出てきた。演奏前にヴィオラの男性奏者がこの曲についての解説をし、ドビュッシーの最晩年の曲で今からちょうど100年前の1915年。第一次世界大戦中に作られた曲でありハープが入るのでゴージャスであると喋っていた。小生もこの曲は知ってはいたが聴いたことはなかった。ドビュッシーらしい如何にも印象派に通じる色彩豊かな曲で三楽章、20分ほどの演奏は終了。拍手でアンコールを一曲。すると直後、会場に大植英次が現れて、関西電力の尽力で大阪フィルはここまで活動が出来ているのだと説明をし、来場の皆さんも是非、動画も写真も撮ってくださいというから驚いた。その後の、もう一曲演奏するが、それも動画をとってくれと言う。こんな時に限って小生はカメラを持ってこなかったのを後悔。仕方なくガラケーの携帯で写真を撮るが画像が粗いのなんの、どうしよもない。所詮は携帯の画像だ。どちらにしろこのPCは写真を載せられなくなったからいいけど、スタッフの係員よりも大植英次の方が柔軟な対応で好感が持てた。