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2009.07.31 (Fri)

ウイルスキャンの時間が長くて・・・・・・

 金曜日だけは記事の更新が一苦労である。帰宅してからパソコンを立ち上げると、自動的に週一回のウイルススキャンが起動する仕組みになっているので、この間は、パソコンをほとんどいじられない。それで長い長いウイルススキャンが始まってから終わるまで2時間以上かかる。したがって先ほど、ようやくウイルススキャンが終了した。つまり10時半頃から記事を書いたところで満足な記事など書けるはずが無い。でも、何時もなら翌日が土曜日だということで少々、夜更かししてもいいから、何らかの記事を書こうかと試みるのだが、あいにく明日は予想外の出勤ということで遅くまで夜更かしが出来なくなったのである。だから今日は、早めに就寝しようと考えているので、そろそろおさらばすることにする。ということで、本日の記事はご勘弁ください。では、これにて失礼!
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2009.07.29 (Wed)

エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』を読む

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 エドガー・アラン・ポーこそが推理小説、探偵小説の元祖と言われる。そもそも探偵小説というと諸説あるが、1841年にポーがこの『モルグ街の殺人事件』を書いてから、このような形式の文学が確立されたという。その本質は江戸川乱歩によると「主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれていく経路の面白さを主眼とする文学」というものであるらしい。即ち不可解な謎が提出され、それを解くべき材料があって、論理的に推理し、意外な解決に到達するというもので、始祖絵エドガー・アラン・ポーは短編でその手の小説分野を確立したことになる。

 この『モルグ街の殺人事件』はパリが舞台である。でもパリにモルグ街というところは存在せず、架空の街ということになる。つまりアメリカ人であり、パリに行ったこともないポーが想像力を膨らまして書いた小説である。

 モルグ街の一室で殺人事件が起こる。部屋の中は滅茶苦茶に荒らされているものの死体が見えない。どうにか見つけた娘の死体は暖炉の中に突っ込まれ、母は首を切られて庭の中に放り出されている。殺害者の声を聞いたという証人が数人いるが、彼らは男の声なのか女の声なのか、スペイン語なのか、イタリア語なのか、フランス語なのか、ロシア語なのか、それとも人の知らない言葉なのか判らないと言う。扉は締まっていて、鍵は中にあったし、窓も全部閉じていた。いったいどうして部屋に出入りできたのか・・・・・・。ここで探偵オーギュスト・デュパン登場・・・・・・。推理小説でネタをばらすようなことは最低限守るべきるルールなので、これ以上は書きません。

 エドガー・アラン・ポーは1809年、アメリカのボストンで生まれた。両親共にアイルランド系であった。しかし、2歳のときに両親共に死に孤児となる。エドガー・アラン・ポーは煙草輸出商ジョン・アランの世話になるも、イギリスに渡りロンドンで学ぶ。帰米後、バージニア大学に入るも退学、アメリカ陸軍の兵員となる。将校を志すも軍律厳しい士官学校を出てしまう。時に22歳。この頃に詩集を出し、やがて生活費を稼ぐ意味もあって懸賞小説に応募し、当選しようやく彼の名が世に出始める。その時の審査員の1人の推薦で、雑誌編集者として働き出す。ただし酒乱のため本務を怠り退社。この後、結婚するも新妻は13歳であった。彼が何故、このような行動をやってにけたかというのは色々と解説されていて、異常な性格からきた狂気的行動と解し、あるいは異常性欲の好奇心から企てられた結婚とも言われる。でもポー自身はこの頃、全ヨーロッパを風靡していたロマンチシズムの思潮を現実の生活の上に実践しようとしたたともいわれ、終生、夫人を妹のように愛し続けたらしい。


 でも生活は逼迫していて、そんな頃に書かれた小説の一つが『モルグ街の殺人事件』である。結局、ポーは数年後に当代一流の詩人として認められるようになり、上流社会のサロンに出入りするようになる。しかし、間もなく夫人は亡くなり、ポーは多くの作家達と交友関係を結び、女友達とも深い仲となるが、彼女等に持っていた感情は高度なプラトニックだったという。彼は女性崇拝の域に達していて、天上の生活の面影を彼女達の眼差しの中に垣間見た跡がはっきりとわかるのである。ポーは婦人の1人に結婚を申し込んでいるが、酒乱がたたり破談となっている。その後、少年時代の恋人と出会い、求婚したが、間もなくポー自身が亡くなった。40歳だった。

 エドガー・アラン・ポーは詩人として高く評価されているが、その繊細な知的な感性と実生活とはかけ離れていたようであり、このような風変わりな生き方から、『モルグ街の殺人事件』というある意味で、過去に例を見ない風変わりな小説を書かせたのかも知らない。でも、彼がいなければ、その後のシャーロック・ホームズも、エルキュール・ポワロも、明智小五郎も金田一康介も出てきたかどうか判らない。とにかくエドガー・アラン・ポーをもじって江戸川乱歩なんていう作家が日本に登場しているぐらいだから、彼の残した功績はとても大きなものであろう。
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2009.07.27 (Mon)

第59回キング・ジョージⅥ&クイーン・エリザベスS

 一昨日の25日(現地時間)、アスコット競馬場で第59回キング・ジョージⅥ&クイーン・エリザベスS(GⅠ・3歳以上、12F、9頭)が行なわれた。

 ヨーロッパ競馬の上半期を飾るビッグレースであるが、今年は3歳の有力馬が出走してこず、興味半減となった。1番人気は昨年のセントレジャーSとブリダーズCターフを勝っているコンデュイットで2番人気がタータンベアラー、3番人気が3歳馬でダービー5着のゴールデンスウォードだった。

 レースは5、6番手の外を回り、先に仕掛けたタータンベアラーの外から伸びた1番人気のコンデュイットが快勝した。

 1着 Conduit 2分28秒73、2着 Tartan Bearer 1馬身3/4、3着 Ask 頭、4着 Alwaary 2馬身1/4、5着 Golden Sword 4馬身。

 今年の英国ダービーを勝ったシーザスターズが出てこなかったので、メンバー的には物足りなかった。だが、そのシーザスターズとエクリプスSで対戦して敗れたコンデュイットが勝ったということは、今年の古馬も手薄であるということかもしれない。なお、このレース、1着から3着までマイケル・スタウト厩舎の馬で占められた。

 これでコンデュイットは通算11戦6勝。昨年のセントレジャー勝ち馬であるからスタミナ系であろう。血統的にも父が凱旋門賞馬のDalakhaniで、その父が仏ダービー馬のDarshaan、さらにその父が英ダービー馬のShirley Heightsで、さらにその父が名馬Mill Reefであるから、明らかにスタミナ系のサイヤーラインである。また母はWell Headでその父がSadler's Wellsというから母方からもスタミナのある血を受け継いでいることになる。はたして凱旋門賞で日本から遠征する予定のビエナビスタや、エクリプスSで敗れたシーザスターズと対決が見られるのだろうか・・・・・・・。

 5、6番手の外側を走る白い帽子、水色の騎手服の馬がコンデュイットである。前を似たような騎手服で白い流星のある馬がいるが、それが2着になったタータンベアラーである。

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2009.07.26 (Sun)

曇りのち雨、雷鳴、ときどき晴れ

 今日は朝から激しい雨が突然降り出したかと思うと、陽射しが差したりする妙な天気の1日であったが、雷鳴だけは昼間の間、鳴り続けていた。これだから雷に弱いパソコンを起動できず、今日は更新も諦めた。でも一応、報告だけでもと思い、こうして書き込んでいるのである。が、今年の夏は天候が不順なようだ。京阪地方では祇園祭の山鉾巡行も、天神祭も終わったというのに、まだ梅雨明け宣言がなくあいも変わらず蒸し暑く、晴れているかと思うと突然の雷鳴を伴ったゲリラ豪雨に襲われるといった始末で、例年の夏のようにカッーとカンカン照りというわけにはいかないようだ。

 暑いのは大嫌いなので、夏の雨は歓迎なのだが、洪水するのではないかといったような、今年の降り方はちょっと頂けない。それに、今年の梅雨はおかしいのではないだろうか。いや、年々、おかしくなっているのかもしれないが・・・・・・。九州、西中国地方の豪雨は異常だが、毎年、日本のどこかで、このような集中豪雨が見られるから不思議ではないのだが、今年の場合は時期が遅すぎる。もう来週から8月である。子供達が夏休みに入っていて、今が夏の盛りという季節である。なのに近畿地方は突然の豪雨に見舞われる。やはり今年はおかしいと感じないわけにはいかない。

 今日も黒い雲に覆われている時間が長く、雷が鳴り続けていたので、パソコンの前にする座らなかったが、雷鳴がおさまったので、その間に電源を入れた次第である。なにしろ電線や電話線をから伝わる誘導雷というのがあって、それらが原因でパソコンが故障することは多々あるから、雷が鳴るとモデムの電源も切ってしまうのだ。ということで、今日は新しい記事も書けなかったが、この辺で失礼することにする。
 
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2009.07.25 (Sat)

今日はロクでもない日だ

 今日は朝から耳鼻咽喉科に行くつもりであった。が、朝食後に薬6錠を飲んでから、暫くすると胃がムカムカしてきたので、耳鼻咽喉科に行くのをやめた。何故、6錠も飲むかというと、痰を抑える薬のほか風邪薬を飲んだからである。もういい加減に薬漬け生活から離れたいのだが、一向に鼻水と痰がおさまらないから、いまだに薬を飲み続けている。でもこれまで何の副作用もなく、日常の習慣であるかのように薬を飲んでいた。それが、先週、往診中、喉が荒れていると医者にいうと夏風邪をひいていると言われ、風邪薬を追加されてしまった。

 以上のような理由で朝から薬6錠を飲んだのだが、間もなく胃がムカムカし胃液が出てきそうな吐き気が襲ってきたのである。それで水を摂取し暫く横臥していたら、1時間ほどで体調が戻ってきた。するとすぐに耳鼻咽喉科に行くべきなのだが、もう今さら行ったところで遅すぎる。待ち時間が2時間近くなることは必至である。ただでさえ私の住む地域は耳鼻咽喉科が少なく、往診が始まる30分以上前に行っても並んでいる状態だというのに、朝の10時前に出かけていったところで、昼までに診て貰えるかどうか判らない。それで医院に行くのはやめた。そして、飲む薬も無くなってしまった。まあ薬に頼りすぎるのもよくないだろうし、薬抜きでどうだろうかと思う反面、薬無しの方が案外、治癒する可能性もあるというものだ。

 さて、このところ土曜日の午前中は耳鼻咽喉科に毎週通院していたから、半日は潰れていたが、今日は医者通いをやめてしまったので、一日中、フりーとなった。つまり暇が出来たということで、こうして私は外出したのだが・・・・・・・・・・・。すると途中から猛烈な雨が降り出した。また運悪く雨宿りも出来ないようなところを歩いていたので、瞬く間にシューズがズブ濡れ、ズボンも膝から下がビショビショ。靴下も水分を吸収してしまい、これ以上、歩き回る気が失せた。とにかくこんな雨を予想していなかったので降参である。

 結局、20分近く豪雨に晒され続け、ようやく最寄の駅に到着、雨宿りするような形で激しい雨をただ見上げている状態であった。とは言っても、午後からだんだんと雨がこやみになり、傘を持ち歩いている自分自身が不憫な存在に思えてきたから情けない。いったい、先ほどの雨は何だったのだ。

 もう靴下もズボンも濡れまくっていて、気持ちが悪いから帰宅することにした。すると今度は先日、雨漏りした箇所を点検しに業者が訪れた。でも修理は一週間後になるという。・・・・・とにかく、今年の梅雨はおかしい。まだ梅雨明け宣言も出ていないし、来週も雨が降る日があるという。皆目、雨の降らない酷暑は大嫌いだが、今年のように雨に悩ませ続けられると、これはこれで嫌になる。とにかく今年の夏は雨に翻弄されまくっている感があるが、もしかして冷夏で作物が不作で、米や野菜、果物の価格が高騰するってなことに、なりはしないだろうか・・・・・・・・・。
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2009.07.24 (Fri)

記事数500突破

 とうとう記事数が500を突破したようだ。大した記事などは書いていないし、書いていて何のメリットもないのに、よくぞ500も書いたものだと思う。ただ気の向くまま、思ったままを何とかかんとか書き続けてきたが、もう、こうなるとマンネリズムを通り越して、厚顔無恥な政治家如き厚かましさで書き続けようかと思う。

 でもこれまでやめようと思ったことは何度かある。嫌がらせや誹謗中傷を受けたこともあるし、こんなマイナーなサイト記事にまで文句をいう輩がいるから世の中は面白い。それでもへこたれず書きていると、何時の間にか記事数が500を超えてしまった。このブログを始めたのが、一昨年の9月だから、まだ2年にもならないが、記事数が500ということは更新ペースが早いのか遅いのか、理解に苦しむところである。1ヶ月にすると約22の記事を書いている計算になるが、正直なところ満足できる記事はほんの僅かしかない。ことに最近は、毎日、書いていても時間の制約があって、簡単な記事で済ませてしまおうとする自分に腹も立つが、実際問題として帰宅してからの1時間~2時間の間で書いてしまうので、内容の濃い記事は今後も書けないであろう。

 書きたいことは山ほどある。でも毎日、書く時間がとれなくて、ほぼ隔日ペースで更新しているようなものだが、これでも精一杯かもしれない。それに趣味のことを中心に書くといっておきながら、最近は遠距離通勤への愚痴ばかりになってしまっている。これではいけないのだが、どうしても不満をぶちまけたくなるときがあって、ブログ上で罵声ばかり浴びせているが、これも個人的な戯言と聞き流してください。

 私は子供の頃から皮肉屋で、物事を絶えず違う視線で見ようとする癖がついているので、ついつい
辛口の批判を書いてしまい、これが気に入らないのか、時々、嫌がらせ行為を行なってくる者もいるし、アダルトメールを貼り付けてくる輩もいる。それでとうとうコメントのコーナーを閉鎖してしまったのであるが、今後、復活するかどうかは判らないし、復活させても、また嫌がらせと思えるようなコメントを受けると、再度コメントを閉鎖してしまうだろう。だが、こんな1日、20、30人しか訪問者のいない超マイナーなサイトなのに、誹謗中傷コメントを書き込む輩も世の中にはいるのだと、ブログを書いていて色々と学べたことは、自分自身にとっては大きな勉強になったと思う。

 ところで今後、何時まで続けるかとなると、それは私にも判らない。それは神のみぞ知るということか・・・・・・・・・・・・・。
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2009.07.23 (Thu)

レニ・リーフェンシュタール『回想』を読む

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 レニ・リーフェンシュタールという名前を聞いてどれだけの人が判るだろうか。この書はレニ・リーフェンシュタールが80歳になってから5年がかりで書き上げた回想録である。1902年にベルリンで生まれ、ダンサーとして、女優として、登山家として、映画監督として、スキーヤーとして、写真家として、ダイバーとして生き続けた1人の女性。ナチスとの関係を問われ、ヒトラーの影に付き纏われて、多くの誹謗中傷と戦わなければならなかった悲運の才女・・・・・それがレニ・リーフェンシュタールである。

 私がレニ・リーフェンシュタールの名を最初に意識したのは、少年時代にベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア(民族の祭典)』を観たときである。今もこの映画を超えるオリンピックの記録映画はないといわれるほど完成度の高い映画で、モノクロで撮られたフィルムの中に映された選手達の躍動美に私は圧倒され、最早、単なる記録映画の範疇で語られるものではなく、芸術映画の域にあったことはいうまでもない。そして、そのときに監督としてレニ・リーフェンシュタールの名を初めて認識したのであるが、その人は30代の美貌の女性だということを知り、それ以来、ますます興味を持ったという次第である。

 レニ・リーフェンシュタールは1902年8月22日、ドイツの首都ベルリンの裕福な家庭に生まれた。子供の頃から活発でいて知的好奇心に溢れ、メルヘンを読むのと芝居を見るのが好きで、スポーツにも興じ、水泳、体操熱にとりつかれたという。だがつり輪で落下し体操を禁じられ、アイススケート、ローラースケートを代わりにやりだすとほどの少女だった。やがてダンスと出会い、ドイツ舞踏界で注目されるものの膝の怪我から断念。そんな時に、山岳映画『運命の山』を観て衝撃を受ける。それから間もなく、彼女は『聖山』という山岳映画に女優として出演している。その後に何本かの映画に出演した後、31歳で映画監督兼女優として撮った『青の光』がヴェネチア映画祭で評価され銀賞を受賞。この頃から、彼女の映画を観て才能を高く評価していたアドルフ・ヒトラーに依頼されニュールンベルク党大会を記録した映画『意志の勝利』を撮る。

 こうして名を挙げたレニ・リーフェンシュタールは、1936年のベルリン・オリンピックを記録した映画『オリンピア』(2部作で『民族の祭典』『美の祭典』)を監督として撮ることになった。この映画はドイツ国内外を問わず絶賛されヴェネチア映画祭では最高賞を受賞することになる。

 つまり第二次世界大戦を挟んで、戦前の彼女は栄光に包まれていたというべきだろう。それが戦後になって彼女を取り巻く環境は一変する。現実において国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)との協力関係を問われて逮捕の後、投獄されてしまうのである。結局、4年に及ぶ獄中生活の末、精神的にも参ってしまい精神病院にも入っていた。その後の裁判でナチスとの関係はなかったという判決を受け、ようやく肩の荷がおりたものの、相変わらず世間からの風当たりは強く、ジャーナリズムからも反ナチズムからの容赦ない誹謗中傷の攻撃に晒され続けたレニ・リーフェンシュタールである。

 私はレニ・リーフェンシュタールの名を初めて耳にしたのが、中学生の頃であったが、その当時、まだ存命中の人だなんて知らなかった。その数年後のことだったろうか、テレビでスーダンのヌバ族の写真集を出版し紹介されていた番組を観て驚いた。何と、その写真を撮った人がレニ・リーフェンシュタールだと聞いて、まだこの人は生きていたのだと感嘆した。あの頃で既に70歳を出ていたと思う。テレビに出てきた彼女は確かにお婆さんではあったが、整った秀麗な顔はまさしくレニ・リーフェンシュタールその人だった。

 戦後、世間からの非難に耐えて活き続け、それでいて一向に衰えない芸術家としての彼女。実に71歳でスキューバダイビングの資格をとり水中写真を撮り続けるなど、老いて益々、活動的である。それでいて何かとナチスとの関係が拭えてないという評価が下されるなど、何時までもヒトラーの影から抜け切れない悲運な女性であった。

 それから再びレニ・リーフェンシュタールの名は聞かなくなったが、21世紀初頭だったろうか、映画『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』を監督して世間を驚嘆させた。何とこの時、レニ・リーフェンシュタールは齢100歳である。私は畏れ入りました。敬服しましたとばかり、彼女の恐るべきバイタリティーにただ唖然としてしまったものである。100歳で生きているだけでも驚くが、ただ寝たきりの老人ではなく、映画監督として映画を完成させてしまったのだから、驚愕せずにはいられない。でも、それが最後の彼女の輝きであった。翌年の2003年、とうとうレニ・リーフェンシュタールは1世紀に及ぶ人生に幕を閉じてしまった。でも終身、ナチスとの関係が払拭できず、戦後の作品は、何かにつけ戦前の彼女の作品のように高い評価はされず、何でもかんでもナチスとの関連性ばかりを追求された。いわば彼女の芸術的価値は常に政治という泥で覆われつくされ、絶えず偏見との戦いであったということであろうか・・・・・・・。でも、それにしても長い。文庫本にして上下巻1400ページ以上に及ぶ回想録である。読んでいても草臥れる。

 映画 『オリンピア』 冒頭の15分だけでも・・・・・


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2009.07.22 (Wed)

日食も曇天で・・・・・

 何やら46年ぶりの皆既日食だとかで、テレビや新聞も大きく報道していたが、日食といっても毎年、地球のどこかでは起こっているだろう。でも地球と月と太陽が一直線上に並び、その延長線上の付近だけが日食を体験できるということなので、地球上の中でも日食を見られるところは限られている。それで今回の皆既日食は日本の鹿児島県の南に浮かぶ島々で見られるというから、大きな報道となったようだ。何しろ日本で見られた、皆既日食としては1963年以来というから、私が小学生低学年の時の話である。あの頃は、日食が何だとか月食が何だとか、訳も判らなかったもので、今になっても、さほど見たいとも思わないが・・・・・・。

 今では科学で皆既日食や金環日食、部分日食の見られる日時と場所まで明らかにすることが出来るが、科学なんていうものが発達する以前の日食なんていうのは、不吉な出来事とされていたところが多いのだから、皆既日食を見るためにわざわざ、鹿児島県の南方の島まで高い金を払って出かけていく人が大勢いる現在という時代は、実に不可思議な時代かもしれない。

 昔は太陽なんていうのは信仰の対象とされていたし、日本でも天照大神として崇められていたではないか。そういえば天照大神がスサノオの乱暴な行動に怒り、天岩戸に隠れてしまい、辺りが暗くなってしまったなんて、『古事記』や『日本書紀』にも記述されているが、これなんかはおそらく皆既日食のことではないだろうか・・・・・。まだ科学で解明されない大昔、信仰心の強い人々が太陽が怒られたと考えても不思議ではないだろうし、皆既日食が不吉な出来事が起こる前兆だと捉えても仕方が無いだろう。

 こんなことを言いながらも、今日の午前から正午頃にかけて、滋賀県でも部分日食が見られるというから、昼食で外に出たとき、お日様の方向を何気に見てしまったが、あいにく分厚い雲に覆われていて、日食どころか太陽も拝めない1日であった。昨晩、未明には梅雨前線の最後の足掻きのような豪雨が降り続け、夜中に雨漏りがして大弱りであった。おかげで天井裏にポトンポトンと落ちる雫音が気になり皆目、寝れなかった。だから眠くて、眠くて、今日は日食どころではなったのだ。でも南方の島まで出かけて行って、空全体が厚い雲に塞がれってしまったとしたら、わざわざ出かけていった人たちはざぞや口惜しかったのでは・・・・・。これも結局は神頼みということなのか・・・・。科学がこれだけ発達している時代になっても、天気だけは人間の力の及ばないところか。所詮は運を天に任すしかないというのは、人類の非力さを感じてしまう。
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2009.07.20 (Mon)

抹茶ラクトアイスを食べる

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 久しぶりにアイスクリームを食べた。日頃、まずアイスクリームというものは口にしない。だから街頭で見かけるハーゲンダッツもサーティワンもドナロウズも、さらにはコールドストーンクリーマリーとかいうような店にも入ったことが無い。最もこのような店舗は決まって若い女性ばかりで、大の男が1人で行くにはそれなりの勇気が必要になる。子供を連れているか、若い女性と同伴なら入っても恥ずかしくはないだろう。

 嫌いではないが日頃から食べようとは思わない。どちらかというと辛党である。酒の肴になるようなものならいつでも食べているのだが、このような甘み充分、乳分がたっぷりと含んでいるものは苦手ではないが、滅多に食べたことがない。また菓子類もあまり食べない。どうもこのような間食系食べ物というのは、朝昼晩の間に口にするといったものだが、最近はすっかり食が細くなったと自分でも感じていることであり、主食の間に何かを食べることなんてだんだんと無くなってきた。若い頃は食欲旺盛で、けっこう菓子類を間食としてよく食べていたように思う。

 よく甘いものは別腹なんていうが、このようなことをいう人は女性に多いように思う。私なんかは間食すると主食が美味しくなくなるので、出来る限り控えるようにしている。でもあまり暑いとたまには、このようなアイスクリームを食べてみようかなとは思う。それで食べたのが抹茶のラクトアイスである。

 けっこうボリューム感があって食べ応えがある。この手の物は決まって甘いのが多いが、この抹茶アイスは甘みが控えてあって、適当な苦味があり、甘みがあとまで口に残らないからいい。基本的にはバニラが好きなんだが、抹茶も悪くないなあと思ったが、どちらかというと子供の頃によく食べたカキ氷の方が私は好きだなあ。大きな角ばった氷を機械で削り、透明の容器に山盛りにしてミゾレやイチゴ、レモンといった蜜をかけるだけというシンプルな代物だったが、それを口にすると後頭部がキーンとくるほど冷たくて、小学生の頃はよく食べに行ったものである。

 話はアイスクリームに戻るが、アイスクリームというのは、基本的には乳固形分15%以上(うち脂肪8%以上)と決まっていて、私が食べたアイスはアイスクリームという扱いにはならないらしい。つまり分類すると乳固形分3%以上のラクトアイスという部類に属す氷菓であるらしい。でも、そんな分類なんかどうでもいい。どちらかというと高級なアイスクリームよりも、安価な氷菓の方が私には美味しく感じるので、そんなことどうだっていい・・・・・・・。子供の頃、10円か20円で食べられたシンプルなアイスキャンディが今となっては懐かしいよ。
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2009.07.19 (Sun)

アイビスサマーダッシュ

 夏の間、競馬の記事は基本的に書かないつもりだが、今日のような珍しいレースだけは特例として書くことにする。

 日本にはJRA、公営含め競馬場が多数あるが、1000mの直線コースがある競馬場というのは新潟しかない。そして、今日、新潟の名物競争であるアイビスサマーダッシュ(GⅢ・3歳以上、芝1000m、18頭)が行なわれた。

 新潟は激しい雨が降ったとかで重馬場。私の住むところは、梅雨明け宣言もされてないというのに雨がまったく降らなくて、狭い日本で天候がずいぶんと違うものだと痛感する。少しぐらいこちらにも雨を降らしてくれればいいのにと思いながら競馬中継を観ていた。

 さて1番人気は3歳馬のエイシンタイガー。古馬に混ざってどうだろうか・・・・。2番人気は1400m以下で7戦5勝のアルティマトゥーレ、3番人気は昨年の勝ち馬カノヤザクラだった。

 スタートした。直線1000mの重賞レース。横いっぱいに拡がって真ん中からサチノスイーティーが飛び出す。それをアルティマトゥーレが追う。さらにエイシンタイガー、ウエスタンビーナス、カノヤザクラが続き、内の方からコウエイハート、マルブツイースター、シンボリグランも行く。早くも400mのハロン棒を通過。アルティマトゥーレとエイシンタイガーの人気馬両馬が先頭と2番手に出る。この2頭の争いか。だが、外からカノヤザクラも来る。カノヤザクラが伸びる。カノヤザクラが出る。カノヤザクラが抜け出す。2番手にアルティマトゥーレ。カノヤザクラが先頭。ここでアポロドルチェが一気に来る。アポロドルチェが2番手にあがる。しかしカノヤザクラが1着でゴールイン。

 1着カノヤザクラ 56秒2、2着アポロドルチェ 1馬身1/2、3着アルティマトゥーレ 1/2、4着ウエスタンビーナス 3/4、5着エイシンタイガー アタマ。

 カノヤザクラは2連覇。前走7ヶ月休養したあとのレースで惨敗したが、今回は生き返ったかのようなレースぷりで快勝した。この牝馬はこういった直線だけの短距離戦だと先行して抜け出す勝ち方を知っているが、コーナーのあるコースだと後方のままということが多々ある。コーナーワークが苦手なのだろうか。それではまた・・・・・・。
EDIT  |  16:56  |  競馬(国内レース)  |  Top↑

2009.07.18 (Sat)

野球場址を訪ねて パート4

 野球場址を訪ねてという記事をこれまで3回にわたって書いてきたが、今回は番外編とでも言うべき野球場址を訪ねてである。訪ねた球場は豊中球場。豊中球場・・・・???・・・・こんな野球場あったかなと思われるかもしれない。遥か大昔に無くなった、かつて存在した野球場・・・というよりもグラウンドである。

 1913年に完成したグラウンドである。ということは大正2年に出来たということになるから何という古さであろうか。このグラウンドを作ったのは小林一三の箕面有馬電気軌道という会社。つまり現在の阪急電鉄のことである。数年前に大阪・梅田と宝塚間に電車を走らせた箕面有馬電気軌道は沿線の豊中村に陸上競技やサッカー、ラグビー等のスポーツ全般にわたって試合が出来るグラウンドを造成した。それが豊中グラウンドである。またちょうど中等学校で野球が盛んになりつつあった頃であり、朝日新聞が現在の高校野球の前身にあたる全国中等学校優勝野球大会を開催することになる。こうして大正4年(1915年)に第1回全国優勝野球大会が参加10校によって開かれた。つまり、現在の高校野球の記念すべき第1回大会が行なわれたところが今日、訪れた豊中グラウンド(豊中球場)なのである。

 こんなこと書くと高校野球は甲子園で行なわれているではないかと疑問に思われるかもしれないが、甲子園が完成するのは大正13年のことで、中等野球の第1回は紛れもなく、この場所で開催されたのである。

 子供の頃から、高校野球は大正4年に豊中球場で始まったと聞いてはいた。でも今回、私は初めて当所を訪れることになる。ある場所は大体、判っている。阪急宝塚線の豊中駅から徒歩10分ぐらいと聞いていたので、阪急の十三駅で乗り換えて宝塚行きの急行に乗った。十三から豊中まで停まらないので時間的には10分ほどで到着。そこから西の方角へ歩いて10分。豊中市玉井町三丁目。すぐにそれらしき記念碑が目に入る。この付近は住宅地。その中に数々のレリーフが飾ってある一画があるだけで、かつて広いグラウンドがあったという面影は何処にも残されてない。中等野球を2回開催して、3回目からは兵庫県鳴尾村(現・西宮市)にある鳴尾競馬場の中のグラウンドに会場を移されたらしく、たった2回だけの開催で、この豊中グラウンドは1922年に取り壊されたというから勿体ない話だ。

 何故、第1回を開催したのに場所を移したかというのは、大会の参加校が増えると大会期間が延びることから、複数の会場が必要になるとされたからである。鳴尾会場はグラウンドが2面あったので、同時に2試合が消化できたという。でも大会の開催ごとに人気が沸騰。試合の観戦者が観客席から溢れ出し、それが試合進行の妨げになるとのことで、とうとう中等野球のための野球場を建設することとなり、こうして完成したのが阪神甲子園球場だったということである。それ以来、現在まで高校野球は人気が衰えもせず、毎年、毎年、80年以上も繰り返されてきたのである。


 『球史ここに始まる』の一文と第1回大会の始球式の時の写真をレリーフ化した記念碑。
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 高校野球発祥の地
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 豊中グラウンド跡地
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 第2回大会の出場校名とグラウンドの平面図を載せてあるレリーフ
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 豊中グラウンドの帰り道、豊中ローズ球場で高校野球の大阪予選が行なわれていたので立ち寄って2試合ほど観てきた。
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 強豪校も部員の数が足りないところも対戦するだけに、予選らしく点数も賑やかだ。
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 ちょっと点数の入りすぎでは・・・・・。3回裏の16点は、26点の間違いである。実は得点掲示板は1イニング最大で19点までしか表示できず、実際には26点入ったのだが・・・・・・・。1イニング20点以上は想定外だったということである。本当に高校野球は何が起こるか判らない。
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 暑いのに選手の皆さんご苦労さん・・・・・ではまた・・・・・・。
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2009.07.16 (Thu)

ヘンリー・ミラー『北回帰線』を読む

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 なかなか消化しにくい作品であるというよりも小説と言えるのだろうか。ヘンリー・ミラーがパリ在住時代の体験を綴ったということだが、小説の体をなしていないので読んでいても面白くないのである。つまり小説としての筋書きや構想、組み立てといったものが構築されてなくて、ただ現実の描写と夢想、幻想の世界が混雑するように繰り返されていたら突如として大胆な性表現に飛躍したりする。よく『北回帰線』は小説なのか、随筆なのか、自叙伝なのか、幻想の世界なのか、よく議論されるというが、そのどれもが当てはまるようでいて当てはまらないという形容しがたい作品なのである。ヘンリー・ミラーが言うには「私がものを書くのは、より大いなる現実をうち立てようためである。私は現実主義者でもなければ自然主義者でもない。私は生命の味方をするものであり、生命は文学においては夢と象徴を駆使することによってのみ得られる。私は心底では形而上的な作家なのである」

 また別の著書には次のように書いている「私にとって作品とはそれを書いた人間である。したがって私の作品は私という人間である。ぼにゃり者で、投げやりで、向こう見ずで、狂熱的で、卑猥で、騒々しくて、考えこみがちで、ウソつきで、少心翼々とした、そのうえを悪魔のように誠実な私という人間なのである。私は自分を一つの作品とも一つの記録ともみなさない。私は自分を一つの現代史、否、あらゆる時代の歴史の中であると考えている」つまり自分自身が作品だとということなのか・・・・・・・。ヘンリー・ミラーという個々の人物が生きてきた過去全てが作品だといわんばかりである。

 ヘンリー・ミラーの略歴を見ると確かに奇想天外な生き方だと思う。1891年12月26日、ニューヨーク州ヨークヴィルでドイツ系の家庭に生まれ、しばらくしてブルックリンへ移る。家は祖父の代から仕立て屋をしていた。ブルックリンという人種雑多なニューヨークの下町育ちの彼は、子供の時から読書家でライダー・ハガード、マーク・トウェイン、G・A・ヘンティ、ユージェーヌ・シュー、シェンケーヴィッチ等を読み漁ったらしい。高校に進んだ頃に初恋を経験し、ニューヨーク市立大学に進むも二ヶ月で退学。規範の考えや体制、制度に我慢が出来なかったようで、セメント会社に就職したものの激烈な性遍歴が始まる。商売女から、看護婦、ダンサー、店員・・・・ありとあらゆる職業の女生と夜を共にし、それでいて遥か年上の女性と同棲していたから呆れ返る。それでいてヘンリー・ミラーは、このような生活に見切りをつけ、アメリカ西部へと移動。ここでアナーキストの女生と知り合いヨーロッパ文学に開眼する。なかでもドストエフスキーへの傾倒は凄まじいものであった。翌年、ニューヨークに戻り26歳でピアニストと結婚。一女をもうける。1917年、第一次世界大戦勃発。ヘンリー・ミラーはワシントンへ赴き、陸軍省で新聞の通信員として働き、その後、経済調査局にいたり、デパートでのカタログ編集、ホテルの皿洗い、バスの車掌、新聞売り、メッセンジャー・ボーイ、墓堀り人夫、広告のビラ貼り、ホテルボーイ、体操教師と職を転々。いや驚いた。こんなの日本だと飽き性、勤労意欲が無いとか堪え性がないとかいって何処に行っても雇ってもらえない。アメリカだから成り立つのかもしれないが、アルバイト感覚では就けないような職業をこなしている。でも金銭的に困っていたことは確かなようだ。やがて電信会社に就職し、送達部の雇用主任となり小説を書き出した。だが雑誌社の編集部に持ち込んでもつき返され相手にされなかった。この頃、ダンサーと結婚し電信会社を辞める。作家になるつもりだったらしい。しかし当然、作家として一本立ちできるはずが無い。貧困と絶望感で死ぬことばかり考えていた。その結果、生き続ける事、即ち作品を書くことという自覚が備わり、妻を捨ててヨーロッパへ渡る覚悟を決める。

 ロンドンからパリへと移り住み、この時代に『北回帰線』を書いたのであろう。・・・・・・・・・・・・・・・これは小説ではない。これは罵倒であり、讒謗であり、人格の毀損だ、言葉の普通の意味で、これは小説ではない。そうだ、これは引きのばされた侮辱、「芸術」の面に吐きかけた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美・・・・何でもいい、とにかくそういったものを蹴とばし拒絶することだ。

 このような調子で書き綴ってある作品である。性描写が至るところに出てくるかと思うと、突如として哲学的になったり、芸術論を展開していたり、また夢想と現実との境目がないかのように話の焦点が浮遊したりする。真剣に読んでいるのが次第と莫迦らしくなってくる。理解しようと思っても理解できなくて、最後に考えたことは感覚的に捉えるしかないということ。恰もヘンリー・ミラーは書くことを楽しんでいたこのようだ。『北回帰線』とは、難解と思えば難解だが、意外と深い意味はなく、そのような作品なのかもしれない。
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2009.07.14 (Tue)

今日は急病人が出て延着・・・

 今日は1日中、カンカン照り。おそらく猛暑日ではなかっただろうか。帰宅するや自宅の2階がサウナ風呂のような熱気に包まれていて、エアコンでも入れなければ部屋の中に居座れたものではない。今、パソコンで文字を打ち込んでいるが、当部屋もエアコンがなく、とんでもない暑さだ。屋根や壁が昼間の太陽を浴び、すっかり熱せられてしまい、部屋の中に長時間滞在できそうもない。既に夜も9時前だというのに、なかなか涼しくならず、こうして書き込んでいても汗がひたすら額から背中から溢れ出る感じだ。これは堪らない早く書き終わって、この部屋から退散しよう。とはいっても、またまたJRへの愚痴になってしまう。

 今朝、京都までは順調に進めたが、その後から来る快速電車が20分遅れだという。またか・・・・。原因は車内で急病人が出たから遅れたのだという。これだと待っても電車が来ない。何時も乗っている電車だが、大幅に遅れ、先に外側の線路を走る新快速が先に京都駅に到着するという。私は何時もと違うホームまで行き、新快速を待った。予定通り新快速はやって来た。でも新快速は超満員。京都で下車する人が多くても、京都から乗車する人の方が多く、すし詰め状態で発車した。仕方がない。何しろ1本電車が遅れると、その電車に乗る予定だった人までが、この新快速に切り替えて乗車しているのだから超満員になるのは当然である。結局、この新快速は快速電車の乗客を全て拾う形で走っているから、各駅ごとに積み残しがでて、各駅ごとに遅延時間が増していく。こちらは身体が傾いた状態でつり革も掴めず、体力の限界まで挑戦させられ汗だくになりながらひたすらに耐えた。ようやく目的の駅に到着したが既にヘトヘトで、仕事に入る前にすっかりへばってしまった。

 毎度毎度、ここでJRに対して愚痴を言っても始まらないが、朝のラッシュ時でも10分に1本しか運行しないダイヤ。それと8両しか繫がないという旧態依然の方式。これだと何かトラブルがあると、今日のような状況に陥ってしまうことは必至である。もう昔の滋賀県でないのだから、もっと本数を増やすとか、車両を増やすだとか柔軟な対応が出来ないのだろうか・・・・。滋賀県には京阪神と違ってバイパスがなく、JRという大動脈1本に頼っている土地柄である。当然、滋賀県内の高校生、大学生が全て、この路線の電車で通学しているし、社会人も同様のこと、最近は京都の大学が滋賀県へキャンパスを移したがため、乗車率が20年前と比較すると格段に増加しているという。だからJRも、そろそろダイヤ改正を抜本的に考え直す時期に来ているのではないだろうか・・・。とにかく並行して私鉄が走っている京阪神とは違いJR頼みの滋賀県なのである。毎日乗っていて、あまりにも便利が悪いので、もうすっかり愛想も尽きてしまった。なのでJRに対しては愚痴しか出ない。

 今後、例の大学が、滋賀県内のキャンパスにシフトを強めるようだし、会社も大阪辺りから広い土地を求めて移ってきたりしているのだから、今後、ますます沿線周辺の人の移動は激しくなるだろう。既に京阪神は満杯で、今まで以上の人口増が見込まれなくなったが、滋賀県だけは人口増が見込まれるという。それでいてJRはどういった対策をとっているかというと・・・・・・・・???

 もっとも運行本数を増やし、車両を増やし、大幅に改善されたとしても、その頃、私は滋賀県まで通ってないかもしれない。とにかく、こんなに不便なところはゴメンだ・・・・。
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2009.07.12 (Sun)

憂鬱な夏が・・・・

 もう梅雨明けが近いのかもしれず京都南部地方は雨が降らなくなったし蝉が鳴き出した。いよいよ夏本番か・・・。大嫌いな夏がまたやって来た。そういえば小学生の頃は夏休みがあったので夏が好きだったのだが、年齢を重ねていくごとに夏が嫌いになっていく。ということで、この7月、8月はいつもブログ更新が滞る。昨年はこの7月にパソコンが熱をおびて突然、電源がおちるということが頻繁に起こり更新頻度がおちた。今年は現在、そのようなことは起こってないが、何故、更新頻度がおちるかというと、原因は全て暑さにある。

 そもそも夏が嫌いなのは暑いからであるが、このデスクトップ型パソコンの置いてある部屋が、よりによって2階の西日を浴びる所に面し、おまけにエアコンがない。だから午後から気温が鰻登りに上がると、室内温度も上昇し、長時間おれなくなる。ほんの小1時間パソコンの前に座っているだけでも、全身汗まみれになり、頭がクラクラしてくる。昨年は一度、熱中症に近い症状になったので、今年は気をつけることにしているのだ。それならノート型パソコンを買えばいいではないかと思われるだろう。その通りである。そろそろ新しいノート型パソコン今月に買うつもりでいた。すると空調の効いた部屋に運べるし、そこでパソコンを起動させればすむことである。

 ところがである。先日、ウインドウズ7という新しいOSを開発したとマイクロソフト社が発表し、10月の末には新OSを搭載したパソコンが店頭に出回るという。これだとウインドウズビスタを搭載したパソコンを急いで買う意味が無い。したがってこの夏も古いウインドウズXP搭載の動作の遅いデスクトップで乗り切らなくてはならなくなった。だから、今年も7月、8月の更新頻度がおちることは明白なのである。それに日曜日になると、競馬記事を今まで書いてきたが、例によって日本の競馬は夏がシーズオフのようなもの。競馬にシーズオフはないが、一線級はほとんど休養にあてるので、二線級メンバーが中心になってレースが行なわれる。それ開催地も北海道や福島、新潟、小倉とローカル色が強くなって競馬そのものもつまらない。まあ、2歳馬のデビューが楽しみなぐらいで、競馬記事も書く気が起こらない。したがいまして暑い、書くネタが少ない、パソコンの動作が鈍い、暑さで思考力が緩慢・・・・・・・・色々と条件を並べてみた。でも出来る限り更新を行なうつもりではいる。

 まもなく記事数も500に達しようとしている。こんな文才に恵まれない小生が、ここまでよく書いてきたものだと自分でも驚いているのだが、継続は力成り。来年も書いていたいとは考えるが、こればかりは判らない。ただし書き続けても更新頻度がおちていくことは必至ではある。でも書くような記事は山ほどあるし、ネタは探せばいくらでもある。ただ時間がだんだん無くなっていることだけは確かである。何かと時間に制約があって公私共に忙しくなった。まあ、それだけ野暮用が増えているということである。

 ということで今後はボチボチと進みましょうか・・・・・。
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2009.07.11 (Sat)

続々・野球場址を訪ねて

 このシリーズも3回目となる。最初は近鉄バファローズのフランチャイズだった日生球場、藤井寺球場を訪れ、2回目は阪急ブレーブスのフランチャイズだった西宮球場を訪れた。すると3回目は当然のように南海ホークスのフランチャイズだった大阪球場址を訪れることになる。

 大阪駅周辺を梅田というが、この梅田から地下鉄御堂筋線に乗って10分ほどで難波駅に到着する。地下鉄難波駅を降りて地上に上がると高島屋百貨店がある。そして、高島屋の裏にかつて威容を誇っていたのが大阪球場である。いわば繁華街のど真ん中にある野球場であった。この難波周辺を大阪の人はミナミと呼ぶが、ミナミは大阪最大の繁華街である。そんなミナミは南海電鉄・難波駅のすぐ側に大阪球場はあった。甲子園や西宮、藤井寺といった郊外にあるのではなく、建物が所狭しと立て込んでいる空間の中にある野球場であった。

 そもそもこの大阪球場を本拠地としていた南海ホークスは、親会社の南海鉄道が昭和13年に結成したプロ野球球団で、戦後の昭和25年からはパシフィック・リーグに所属した球団である。それでこの年の秋に大阪球場が完成し、この時から南海ホークスと大阪球場の歴史が始まるのである。

 2リーグ分裂後、南海ホークスは強かった。昭和26年から3年間リーグ優勝を果し、昭和30年にもリーグ優勝。だが、日本シリーズでは何時も巨人の後塵を拝していた。それが昭和33年、立教三羽烏の1人(あとの2人は長嶋茂雄、元屋敷錦吾)といわれた杉浦忠が入団する。この杉浦はサイドスローから勢いのある球で打者を翻弄し、新人ながら27勝12敗の成績を挙げる。でも優勝は稲尾和久を擁する西鉄ライオンズであった。翌、昭和34年、杉浦は驚異的な38勝4敗という成績を残し、久々のパシフィック・リーグ優勝を南海に齎す。その勢いで、日本シリーズに突入、相手は宿敵の巨人。4番には立教時代のチームメイトで、人気絶頂の長嶋茂雄がいる。でも杉浦は4連投、4連勝し、見事、日本シリーズ優勝。南海は初の日本一に輝いた。つまり南海ホークスの絶頂期が、この頃なのである。

 でも残念ながら、まだ小学校にも入学していない私としては、この頃の記憶は無い。私が野球に興味を持つのは、この2、3年後のことである。だから南海の黄金時代を知らない。あの当時は大阪で阪神と人気を二分していたという。とにかく強かったしスター選手も多く、鶴岡一人監督率いる南海ホークスのフランチャイズ大阪球場は、好カードともなると何時も32000人の観衆で埋っていたという。それが世はテレビの時代に入り、当たり前のように全国中継は巨人を中心とした試合ばかりが流れるようになる。だからテレビ放送のあまりないパ・リーグのチームは何時しか蔑ろにされることとなる。

 いくら南海が強くても、所詮はパ・リーグのチーム。関西ではだんだんとセ・リーグの阪神の人気が増していき、昭和41年に南海が優勝したのを最後に、その後のチーム低迷と共に、南海ホークスの人気も急降下。大阪球場は空席が目立つようになる。そんな頃であろうか、大阪球場のスタンドへ私はよく通っていた。小学生の時に杉浦忠のファになり、南海ホークスを応援するようになっていた。杉浦忠という投手は痩身で眼鏡をかけていて、風貌からいっても野球選手には見えなくて、生真面目な公務員を彷彿とさせる。でもサイドスローから放たれるボールは威力があった。杉浦は新人で27勝、翌年が38勝、さらに翌年が31勝と八面六臂の大活躍。でも私が杉浦忠を知ったのは、さらにその翌年であった。つまり昭和36年のことである。私が野球を意識して観る様になったのは、この頃からであろう。昭和36年、杉浦は投げすぎから血行障害を患う。でも20勝9敗と立派な成績を残す。だが、この年のエースは事実上ジョー・スタンカといってもいいだろう。その後、杉浦は一度、優勝した昭和39年に復活するが、この年以降は2度と輝きを放つことはなかった。そして、杉浦の成績不振と並行するかのように、常勝・南海ホークスも下位低迷が当たり前になる。

 先ほど私は杉浦の全盛期以降にファンになったと書いたが、実際に大阪球場へ来るようになった時の南海ホークスはすっかり弱小球団に陥っていた。でも本当のところは野球を観戦しに訪れたのではなく競馬中継を聞きながら野球を観戦していたというのが実情なのである。知っている人は判ると思うが、大阪球場の外野スタンドの下は日本中央競馬会の場外馬券売り場になっていて、土曜日、日曜日の競馬開催日になると、私は100円馬券が買える難波場外へ若い頃は毎週のように来ていたのだ。午前中に前売りで馬券を買い、昼飯を食ってから午後のレースまで間があるから暇を持て余していた。それで考えたのが、野球でも観ておこうということになり、日曜日などにデーゲームが多かったせいか外野スタンドに陣取り、南海ホークスの試合を適当に観ながら、レースの発走時間となるとラジオの競馬中継に耳を傾けるというのが、あの頃の休日の過ごし方だったのである。だが南海の試合よりも競馬の方に注意が行き、試合内容をほとんど記憶していないというお粗末さであった。よく覚えていることは、南海は阪急相手だと、何時も負けていたという現実。

 とにかく昭和50年以降の南海ホークスはよく負ける弱小球団に転落していたし大阪球場は常時ガラガラ。外野スタンドは私を含めても観衆200人もいなかったかもしれない。内野を含めても1万人にはほど遠かっただろう。酷い時は野球を観るためではなく、サックスフォンの練習をするために入場料を払って外野スタンドへ来ている者までいた。こんな調子だから南海電鉄は赤字の球団を早くから売却しようと考えていたことは理解できる。でも昭和63年(1988年)秋、南海ホークスがダイエーへ売却され、本拠地を福岡に移すことが決定した時は気が抜けた。同じ年、阪急ブレーブスも売却された。

 もうプロ野球を観るまいと思った。南海ホークスが去ったあと大阪球場はしばらくの間、残された。主を失った巨大な建造物は異様だった。人も立ち寄らないのに存在感だけがあり静まり返っていた。土曜日や日曜日には、場外馬券へ馬券を買いに来る人の群れが、大阪球場の外野へ向って歩いているが、巨大な建造物の内部は広々とした空間を保ちつつ、何の目的意味もなく寂れていく姿をさらけだしていた。一時は住宅展示場として利用されていたが、球場を潰してからの跡地をどうするのかなかなか決まらず、長い間も球場の巨大建造物は難波の土地に居座った。

 1998年11月完全に閉場となり大阪球場は解体された。寂しくもあったが時の流れには逆らえない。やがて球場の跡に巨大建造物が姿を現すようになる。なんばパークスという商業施設である。第一期が2003年10月、第二期が2007年4月に終わり、地上10階、地下3階、238店舗とシネマ・コンプレックスが入る都会型巨大ショッピングセンターとして生まれ変わった。

 なんばパークスが大阪球場址に姿を現し始めてから既に6年近くなる。だんだんと大阪球場のことを知る人も少なくなっていくだろう。ショッピングや映画や食事、デートに訪れる人でごった返すなんばパークスであるが、南海ホークスと共に大阪球場はここに来る人の記憶から風化されつつある。鶴岡一人監督と選手達、杉浦忠、大沢啓二、野村克也、皆川睦雄、広瀬淑功・・・・・・江本に門田にドカベンに・・・・・・もう過去のことである。


 森のように木々で覆われたなんばパークスの正面。かつてはこの位置から大阪球場が聳えたっているのが見られたものだが。
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なんばパークスはグランドキャニオンをイメージしているらしい。何処かの商業施設に似ているなあと思ったら、設計はキャナルシティ博多と同じジョン・ジャーディだった。
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 なんばパークスにも南海ホークスの資料館が設けてあって当時を偲ばせる。これは昭和39年(1964年)の日本シリーズを制覇した時のペナント。
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 南海ホークス最後の監督となった杉浦忠のユニフォーム。
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 なんばパークスに入っていくと間もなく、ホームベースを模ったプレートが埋めてある。これはちょうど大阪球場のホームベースがあった位置に記念碑として設けたものらしい。でもほとんどの人は気がつかずに立ち去っていく。・・・・・過去に、この場所を幾多の名選手が踏んだことだろうか・・・・・・。
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 なお、このシリーズはまだ続く予定です。


大阪球場物語

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2009.07.09 (Thu)

久々に新型インフルエンザの話題です

 新型インフルエンザの発症数が日本国内でとうとう2000人を突破し、7月9日午前11時現在2126人となった。このところ新型インフルエンザのことは皆、忘れてしまったかのように、テレビでもすっかり採り上げなくなったが、確実に感染者が増え続け、知らぬ間に2000人を突破していた。

 都道府県別では、大阪が兵庫県を抜いて断トツに多く379人。これは最近、大阪府の泉南地域で集団感染が確認され、学校閉鎖を行った高校もあるから、急激に増えたということだ。第2位が兵庫県で256人。それに続くのが愛知218人、以下、神奈川191人、東京171人、千葉154人、福岡133人、広島73人、埼玉56人の順である。

 気がつけば山形を除いた46都道府県で発症者が出ていて、夏に向っても一向に新型インフルエンザの感染者が減らないというのは不気味である。これまで季節性のインフルエンザだと、暑い時期になると、まず発症しないというのが通例であった。でも今回の新型インフルエンザは、暑くても感染するというから困ったものである。先週なんかは毎日、70人~80人の感染者が出ていたので、これだけ発症者の数が増えたのであるが、いえることは相変わらず10代を中心にした若い世代に発症者が多いということ、それに老人はなんらかの免疫があるのか、発症者が少ないということ・・・・。

 しかし、世界では94512人の発症者が数えられ、死亡者も429人出ている。これは多いのか少ないのか、捉え方は人それぞれであると思うが、日本国内で死亡者が出るとなると、またテレビや新聞が大きな報道態勢をとるかもしれず、そのときは、またまた街中、マスクをした人だらけという5月に起こった事の再現が見られるかもしれない。あまりマスクを着用するのは好きではないが、マスメディアに煽られると、国民は挙って大勢に靡く様だ。褒められたものではないが、それにしても熱しやすく醒め易い人が多いように思う。
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2009.07.08 (Wed)

古い映画を観る・・・・・『大いなる幻影』

 『大いなる幻影』1937年製作、フランス映画

 監督 ジャン・ルノワール

 出演 ジャン・ギャバン
     ピエール・フレネー
     エリッヒ・フォン・シュトロハイム
     ディタ・パルロ
     ジュリアン・カレット
     マルセル・ダリオ

 【あらすじ】第一次世界大戦の最中、敵であるドイツ軍を偵察する任務でマレシャル中尉とポアルデュー大尉の2人は飛行機で飛び立つがドイツ軍の飛行機に撃墜され2人は捕虜となる。捕虜になった2人は貴族階級出身のドイツ飛行隊長ラウフェンシュタインに食事に招待される。彼は同じく貴族出身のポワルデューに親近感を抱く。2人は収容所に入れられ、そこで先に捕虜になっていたローゼンタール中尉から脱走の計画を聞く。でも脱走決行の直前、捕虜達は別の収容所に移送されてしまう。その後も収容所が変わっても脱走計画が失敗し、何時しかスイス国境に近い収容所に送られる。さが、そこの収容所の所長はラウフェンシュタインだった。ポワルデューは再会を喜び、マレシャルは、ここでも脱走の計画を進めていた・・・・・・。

 この作品は反戦的であり反国家的であるとして、当時の日本では当然のように公開されなかったし、監督のルノワールはナチス占領軍によりブラックリストに載せられ、フランスからアメリカへ暫くの間は亡命していた。ジャン・ルノワールとは名前で判るとおり画家オーギュスト・ルノワールの次男である。彼は父の描いた絵を売却した資金で映画を撮ったと伝えられているが、興行的には失敗した作品が多く、この名作と言われる『大いなる幻影』で名は知れ渡っているものの、昔は日本でもジュリアン・デュヴィヴィエの作品と比較して人気がなく現在ほど評価されてなかったようだ。

 この映画は一見、収容所に入れられた捕虜達が脱走を企てる話といってしまえば簡単なことなのだが、そこはヒューマニズム精神旺盛なルノアールのこと一介の監督ではない。捕虜となったフランス兵、マレシャルは機械工の出、一方ポアルデューは貴族の出である。最終的にはスイスとの国境を突破して脱走は成功ということになるのだが、この作品に見え隠れする身分の違い、国籍の違いを取っ払って、みんな1人の人間であるということを細々と訴えている。特に貴族の出であるポアルデューは、仲間の捕虜達との脱走計画にも本気になれないし、フランス軍善戦の報道にもあまり喜ぼうとはしない。それでいて戦争が終焉することも脱走の成功をも希望していないかのように見える。そんな中、ラウフェンシュタインとの会話で彼等が言った台詞がある。・・・・・この戦争を最後に、我々貴族の時代も終わるだろう・・・・・・つまりポアルデューにとってもラウフェンシュタインにとっても、戦争が行なわれている間だけが貴族でいられるのであった。従って彼等にとっては終戦も、脱走もどうだってよかったのだ。

 終戦が見えてくるにあたって彼等のような貴族出身者は、その後の生き方を選択しなければならなかった。20世紀に入り続々と貴族が崩壊していく、身分制度がなくなっていく、世は帝政主義から新しい世の中に変わりつつあった。そんな中でルノワールは、この映画を通して、全て同じ人間であり、国境を越えても、身分は違っても友情は分かち合える、また理解しえるといった人間ドラマを、この映画に投影していたのであろう。でもどちらかというとルノアールらしくないといえば言いすぎだろうか。ルノワールにしてはやや大人しい映画であり、ベタなヒューマンドラマに徹しすぎとは思うが・・・・・。それにしてもラウフェンシュタインを演じたエリッヒ・フォン・シュトロハイムの存在感が大きくて、ジャン・ギャバンでさえも食われている。

 映画の冒頭10分

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2009.07.06 (Mon)

人身事故と雷雨と・・・

 週明けである。朝から雨が降っていたが非常に蒸し暑く寝苦しい、そのせいで身体がだるくてしょうがない。それでも朝早くから職場に向わなければならない勤め人の性。やむなく傘をさして家を出る。すると駅に着くやアナウンスが鳴り響いているではないか。どうやら滋賀県内のJR守山駅で人身事故だという。運休の電車も出ているという。またかと思ったが、定刻どおり普通電車がやってきたので乗車して京都に向う。さらに米原方面行きの電車に乗るが、何時もより人が多い。でもまだ遅れてはいない。だが、次の山科で人が大勢乗ってきて、瞬く間に満員。さらには大津で、膳所で、もう超満員。石山では身動きがとれないほどのすし詰め状態。おかげで電車は例によって遅れてしまった。

 もうJRの人身事故は年中行事のようなもの、もう腹も立たなくなったが超満員の電車だけは勘弁して欲しいと思う。なにしろこの場で、JRが延着するごとに文句を書き綴ってきたので、もうソロソロ書くのはやめようかとも考えるが、やはりその日に起こったことは書いておくべきだろう。

 とにかく、例によって職場到着が何時もより大幅に遅れました。それで大人しく仕事をこなし、帰宅だという時に、今度は雷鳴を伴った豪雨。しばらくして小雨になったので、駅まで歩こうと傘をさして歩いていたら、途中から雷が鳴り出し、突然スコールのような大粒の雨に見舞われた。バチバチバチと路面を叩くような雨の音の中、歩いていたら、膝より下がずぶ濡れになってしまった。しょうがないから、急遽、バス停に向いバスで駅まで行くことにした。でもバスが駅に着いた頃には雨があがっていた。ホントにバカにされたような気分でいたが、電車に乗って我が住居のある最寄の駅に到着してみると、雨など降った形跡もない。いったいどうなっているの・・・・・・。

 滋賀県では雷鳴と豪雨に襲われたというのに、京都の洛西地域では一日中カンカン照りであった。今夜は雨が降ったから涼しくなるかと期待していたのに、滋賀県のように雨が降らず、ただただ暑いだけの我が家。なんだ帰るときに雨に見舞われて、何だか損をした気分だ。こういったのを局地的豪雨ともゲリラ豪雨ともいうのだろうが、滋賀県ていうのは、何であんなにゲリラ豪雨が多いのだろうか。出来れば通いたくないところだ。それにしても雨の降らない我が家の周辺、暑くて暑くて、あーあ、今夜も寝苦しいのだろうなあ・・・・・。
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2009.07.05 (Sun)

第144回アイリッシュ・ダービー

 そろそろ競馬の方のローカル色が強くなってきたので、一線級がほとんど出てこなくなった。したがってあまり書くこともない。でも今週は名ジョッキーだった保田隆芳(やすだたかよし)さんが亡くなられた。日本中央競馬会初の1000勝ジョッキーとしてダービーに2度制覇(ハクチカラ、ハククラマ)、天皇賞10度制覇という偉業を残し、調教師としてはメジロアサマ、トウショウボーイを育てた人である。またハクチカラでアメリカ遠征に参加し、日本にモンキー乗りを持って帰ってきたとして日本の競馬界に大きな足跡を残した人でもある。ご冥福をお祈りします。

 それでは日本の競馬がローカルカラーに染まってきたので、今日は遅くなったが一週間前の6月28日にアイルランドのカラー競馬場で行なわれた第144回アイリッシュ・ダービー(GⅠ・3歳、12F、11頭)の結果を報告することにする。

 今年のアイリッシュ・ダービーはイギリスのダービーで2冠に輝いたシーザスターズと同じく2着のフェイムアンドグローリーが出走する予定であったが、当日の馬場の悪化で、シーザスターズは出走を回避してしまい、英ダービー以来の対決が観られなくなってしまった。レースは道中、インの5、6番手を進んだ圧倒的1番人気のフェイムアンドグローリーが、早めに先頭に立ったゴールデンスウォードを直線に入って楽々とかわし、5馬身差をつけて圧勝した。

 1着Fame and Glory 2分30秒87、2着Golden Sword 5馬身、3着Maurayan 1馬身、4着Masterofthehorse 10馬身、5着Recharge 8馬身。

 フェイムアンドグローリーは、これでデビューから通算6戦5勝。唯一の敗戦が前走のイギリス・ダービーでの2着である。この時の勝ち馬シーザスターズが出ていたらどうだったろうか。シーザスターズはアイリッシュダービーを回避し、昨日のエクリプスSに出走して快勝した。この2頭は次にhあどのレースで対決するのであろうか。楽しみになった。

 フェイムアンドグローリーの血統であるが、父は凱旋門賞馬Montjeu(Northern Dancer系)、母Gryada(父Shirley Heights---Never Bend系)というスタミナのある血統で、この起伏のあるカラーでの重いコースを制覇したのは納得が出来る。

アイリッシュ・ダービーの動画。濃紺の帽子と濃紺の服色、縦縞袖の色の騎手服がフェイムアンドグローリーである。でも何と牧歌的な競馬場だろうか。整備などされてなく、まるで草原を駆け抜けているような競馬だ。

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2009.07.04 (Sat)

続・野球場址を訪ねて

 先月、野球場址を訪ねると題し近鉄バファローズがフランチャイズにしていた日生、藤井寺の両球状をの址を訪ねて現在の姿を紹介したが、今日は阪急ブレーブスが本拠地としていた阪急西宮球場址を訪ねてみたので、その報告をしようと思う。

 阪急ブレーブス・・・・・今となっては懐かしい響きだ。かつてパシフィック・リーグに所属したプロ野球球団。創設は昭和11年というから古い。つまり日本のプロ野球リーグが発足した頃に、巨人、阪神などと共にスタートした老舗球団だった。そもそもは阪急電鉄生みの親である小林一三が、ライバル会社である阪神電鉄が大阪タイガース(現・阪神タイガース)を創設したのに対抗意識を燃やし、阪急軍として創設された。プロ野球発足当時は、阪神が中学出の選手を多く獲得したのに対し、阪急は大学出のスター選手を獲ったといわれた(山下実、宮武三郎など)。ただし阪神に対抗意識を燃やしたものの甲子園球場を持つ阪神に人気では及ばず、阪急は西宮北口駅の南東に立派な野球場を建設した。それが昭和12年5月に開場した阪急西宮球場である。日本で初の2階スタンドと内野を含めた全面天然芝の見事な野球場であった。収容人員こそ甲子園の6万人に及ばないが、5万人を収容し、豪華さでは西宮球場が優っていた。

 だが何故か、人気も実力も同じ関西の阪神の方が優り、阪急軍は巨人、阪神の軍門に降っていた。戦後まもなく、プロ野球が2リーグに分裂した時、阪急ブレーブスはパシフィック・リーグに所属しスタートした。だが弱く、低迷の時代が続いた。一方、2kmしか離れていない阪神甲子園球場は人気があり球場も活気があった。いつしか西宮球場は閑古鳥が鳴く始末。それが西本監督が就任してから、メキメキ頭角を現し昭和42年にパシフィック・リーグで初優勝。この辺りから常勝球団として阪急ブレーブスが君臨するのである。

 そういえば私が、初めて西宮球場に足を踏み入れたのは、ちょうどこの年であった。首位を突っ走っていた阪急ブレーブスと前年まで3年連続パ・リーグを制覇していた南海ホークスとの試合を観にいったのである。球場は満員で45000人入っていた。試合は序盤から捕手・岡村のホームランで先行した阪急が、スペンサー、長池などの活躍もあり、先発・足立の踏ん張りで南海の追撃を振り切って勝った。南海ファンであった私としては、もっと野村や広瀬、ハドリなどに奮起してもらいたかったが、勝負は時の運、敗戦も仕方なしであった。この時、以来、何度か西宮球場は訪れた。常勝・阪急ブレーブスの本拠地であり、立派な球場だと何時も思っていたが、観衆は何故か少なかったし、球団も人気がなかった。それでいて近くの甲子園球場は何時も観衆で埋るという矛盾を感じつつ、何時しか球団身売りの話が出始めていた。

 1988年、とうとう阪急ブレーブスが身売りされた。あれほど強かったのに人気がなく球場に観衆が来なかった。球団の親会社である阪急電鉄側としては、赤字が嵩む宝塚歌劇団と阪急ブレーブスの経営に苦心していた。でも宝塚歌劇団を潰すことは出来ず、仕方無しに球団を身売りしたのである。結局、阪急ブレーブスはオリックス・ブレーブスとなった。

 ところで阪急ブレーブスはどうして人気が出なかったのだろうか。原因は良く判らないが、やはり野球というスポーツそのものの持つイメージが庶民の娯楽というように捉えられていて、それが高級感のある阪急グループのイメージと合わないという声が多かったことを考えると、阪急ブレーブスは阪急グループのドラ息子として扱われていたのかもしれない。そのように考えると、庶民的な電鉄会社である阪神電鉄が持つ阪神タイガースが弱くても弱くても人気が衰えないというのは、日頃の鬱憤を晴らすがため、小市民ともいうべき平凡な大衆が支えているということかもしれない。それに比較すると、阪急電車の沿線は資産家層が多く住むことで知られ、このような人は野球に対する思い入れは薄いのかもしれない。

 まあ理屈を並べても仕方が無い。こうして阪急ブレーブスは西宮球場から何時しか立ち去り、オリックス・ブルーウェーブと名を変え、神戸グリーン・スタジアムを本拠地をするようになった。それで、残された西宮球場は阪急西宮スタジアムと名前を変え、大学のアメリカン・フットボールや競輪場として使用されてきた。だが、それも赤字を埋めることにはならず、とうとう2002年12月31日で閉場となった。

 球場は潰され、その場所に建ったのが阪急西宮ガーデンズである。阪急電鉄は西宮北口駅の側にあった西宮スタジアムの址に商業施設・阪急西宮ガーデンズを建て、2008年11月26日にオープンさせた。この施設は阪急百貨店、スーパーのイズミヤを中心に268のテナントを数える専門店街と12のスクリーンを持つシネマ・コンプレックスが入り、大阪、神戸の中心まで電車で20分以内という立地条件の良さも手伝って繁昌しているようだ。・・・・しかし、昔を知る者にとっては何か寂しい。


 阪急西宮ガーデンズの外観。ちょうどこの辺りがバックネット裏の2階スタンドだったと思う。
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 阪急西宮ガーデンズの屋上は緑豊な広場となっている。
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 建物の内部は、このような感じで、吹き抜けになっている。何階建てなのかな?
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 施設の中には阪急ブレーブス時代を偲ばせる資料館が設けてあって、色々と展示品が飾ってあった。これは1975年の日本シリーズを制したときのペナントである。
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 かつての西宮球場の模型である。米田が、梶本が、足立が、山田が、長池が、スペンサーが、加藤が、福本が、マルカーノが、ブーマーが・・・・・
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 西宮ガーデンズとは関係はないが、すぐ近くに兵庫県立芸術文化センターがある。この芸術文化センターは2005年10月にオープンし、大中小のホールがあり、クラシック音楽、オペラ、バレエ、ミュージカル、ポップス等の公演が頻繁に催されている。また、この芸術文化センターには専属の管弦楽団があり、音楽監督にはテレビ『題名のない音楽会』の司会で有名な佐渡裕が就任している。佐渡裕は、東京芸大、桐朋学園といったプロ音楽家養成機関のようなエリート学校卒ではなく、京都の下町・太秦で育った普通のオッサンであり、在野の指揮者でもあるから、一度、聴きに訪れたいものだが、なかなか暇と金がなく、実現できないでいる。
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 西宮北口駅周辺は大阪にも神戸に近く、有名大学、有名高校も多い文教地区であり、商業施設もあり、このような高層マンションが立ち並ぶ住宅地でもある。従って関西の人が住んでみたい地域として必ず名前の挙がるところでもある。
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 なお、まだこの野球場址を訪ねては続きます。
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2009.07.02 (Thu)

遅刻寸前・・・・・

 今朝、いつもの電車に乗れなかった。・・・・というのは、その電車だけが15分以上も遅れてしまい、10分後にやって来る電車(この電車も5分遅れだが)に乗る始末であった。

 朝、家を出ていつもの駅に行くも、既に私が乗る予定の電車が15分遅れだというアナウンスがあった。理由は鷹取駅における車内トラブルだという。車内トラブルとは何だ・・・・・・・・。おかげで電車が待つこと25分、ようやく次の電車に乗ることが出来た。その間、快速が2本、新快速が1本通過しているというのに、普通電車だけが一向に到着しない。何しろ私が利用している駅は普通しか停まらない駅なので腹立たしい。こんな時、快速でも臨時停車できないのかと考えてしまう。また、よりによって何時もの時間に乗る電車だけが遅れるなんて、何という運のなさか・・・・。

 何時もの時間よりも大きく遅れて電車に乗ったが、当然のように前の電車に乗るはずだった乗客が、各駅に詰め掛けているので、これらの人を全て、この電車が拾っていく形となり、京都駅到着が30分遅れてしまった。さらに、こちらとしては、ここから先へ行かなくてはならない。階段を上って降りて、隣のホームへ行き、米原行きの普通電車を待つこと、また数分。ようやく乗り継いで、目的の駅に到着するが、そこから、またバスに乗る。

 何とか40分ぐらい送れて職場に到着。でも遅刻にはならなかった。つまり、日頃はどれだけ早く職場に入っているかということだ。でも、こんなことがJRでは度々、有り得るから次第と早く職場に来るようになってしまったのである。昨日も一昨日も、夕方に人身事故で大きく延着していたJR。今日は朝から大幅に遅れてしまったが、その理由というのが乗客同士のトラブルというから腹が立ってしょうがない。いったい何があったのだ・・・・。もし、客同士の喧嘩が原因だとすると大きな迷惑である。しかしJRは電車が遅れるだけならともかく、乗客まで質の悪いのが多いのではないかと思うときがある。今日の帰りなんかは、久々に座って帰ると、次の駅から乗ってきて隣に座ったオヤジは、真っ赤な顔をしてスルメを齧りながら缶ビールを飲んでいるではないか。匂いはプンプンするし、こちらは不愉快になってくるではないか。本人は良い気分だろうが、ここは公共の場、いい歳をして何をやらかすのか、慎めといいたい。また以前には、若い奴だが、電車の中でカップラーメンを食べてる者もいた。この若い男は麺だけを食べると、残った出汁は次の駅に停車したとき、電車とホームの間から捨ててしまったから我が目を疑った。最近は老いも若きもマナーの低下があって、車内での飲食は当たり前になってきたみたいだが本当に情けない。日本人はここまで酷くなってきたのか・・・・。これだと斜陽国家になるのも時間の問題だ。
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2009.07.01 (Wed)

大江健三郎『われらの時代』を読む

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 ノーベル賞作家である大江健三郎が23歳の頃に書いた小説である。主人公の南靖男は肥った中年の娼婦と同棲していて、その女が客を取る間、部屋を出て暇つぶしに街を徘徊する。靖男は愛のない中年女との性的関係や全ての柵から嫌悪感を抱きつつも一向に抜け出せなく、ダラダラとしたふしだらな生活を送っている。また学生運動に奔走する仲間たちとも一線を画し、フランス政府が公募した論文が認められ留学することになる。この留学こそが現在の閉塞感から抜け出せると考えていたが、同棲中の女から妊娠したと言われフランス行きは残念する。

 話は変って、バンド『アンラッキー・ヤングメン』は若いバンドだった。メンバーは年長の高が20歳で、あとの2人は共に16歳である。彼らはクラブで演奏していたが、日頃から過激なことを望んでいた。或る日、天皇が渋谷の街を訪ねることになった。それを伝え聞いた3人は、日常の退屈さから逃れようと悪戯を計画する。それは朝鮮籍の高が隠し持っている爆弾を天皇の乗っている車の前で爆発させ、観衆が騒然とするのを眺めるという。実際には天皇の命を狙う訳ではないが、結局、臆病風に吹かれて計画は頓挫してしまう。それで、その計画を練ったがため3人は警察に追わ、やがて消滅していく。この2つの話は交互に進行していき、次第に一つの話として展開していくが、アンラッキー・ヤングメンのメンバーの1人南滋は、南靖男の弟ということで話しが繋がっていく。

 戦前、戦中を通過して戦後に変わり、イデオロギーの変化と共に、人生への価値観も大きく変化していった時代の中で翻弄される若者達、それが作者が描く『われらの時代』なのか・・・・・。所謂、戦後の日本人というものを常に意識させられる。

 大江健三郎は何を表現したかったのか・・・。彼は小学校入学の年に太平洋戦争が勃発し、中学校入学時は戦後で、ちょうど新憲法が公布されたという。謂わば戦前、戦中、戦後という大きな変革期を体験し、彼自身の葛藤も含め、戦後の民主主義へ移行しつつある時代の中で、戸惑う日本の若者達、それが『われらの時代』とも言うべき姿なのかもしれない。

 この小説は1959年に書かれた。もはや戦後ではないといわれていた。つまり当時、大江健三郎自身の身の上にあったことを含め、当時の現状認識が反映されたものとして考えるならば、主人公・南靖男の歯痒いばかりの非行動的な日常があって、そこには一切の行動の理由も存在しない。また政治運動が盛んであっても何の結果も生み出せない現実があって、あるいはその運動でさえ強大な権力の前では屈服せざるを得ない現状では、運動に一切、参加しないで絶望を叫ぶ南靖男という人物に象徴される若者がいて当然である。その一方で運動に手を染める若者がいる。そして、これらの相反する若者達の意図するところは似通っているかのように表現されている。つまり両者の根底にあるもの、結局は現状認識において停滞でしかなかったということなのか・・・・。どうもよく判らない。これが大江文学なのかといえば、そうなのかもしれないが、大江健三郎自身、従属国家となった日本という国へのあり方を考えた時、このような形式で政治や体制を語るしかなかったのかもしれない。とにかく小説からは、若者の行き詰まり閉塞感しか読み取れない。
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