2010.03.31 (Wed)
映画『真夜中のカーボーイ』を観る
監督 ジョン・シュレシンジャー
出演 ジョン・ヴォイト
ダスティン・ホフマン
ジョン・マッギーヴァー
ブレンダ・ヴァッカロ
ギル・ランキン
バーナード・ヒューズ
【あらすじ】テキサスから大都会ニューヨークへやってきたジョー。彼は何故かカウボーイスタイルである。目的は都会の女を相手にして金を稼ごうというものであったが、都会は甘くなく女に反対に金をふんだくられる。カウボーイを気取る彼の夢はだんだんと遠のいていく。そんな時、ラッツオというビッコの小男と知り合う。ジョーはラッツオが売春の斡旋人を世話してくれるというので10ドルを手渡すが、斡旋人はゲイ専門であった。騙されたことに気がついたジョーはラッツオを探し捉まえるがラッツオは既に一文無しであった。怒ったジョーはラッツオを問い詰めるがどうしようもない。せめて罪滅ぼしにとラッツオはカモ探しに協力する。こうしてテキサスからきたジョーと、ビッコをひいた小男ラッツオとの妙な共同生活が始まるが・・・・・。
この映画を観たのは今から40年前のことである。ちょうど60年代後半から始まったアメリカン・ニューシネマの中の傑作の一つとされる映画である。テキサスの田舎から大都会ニューヨークへ出てきた男と、都会の片隅で生きるドブネズミのような男との間に芽生えた友情を描いた映画といえば聞こえはいいが、現実はそんなに甘いものではないことを痛感させる、まさにアメリカン・ドリームの逆をいく話である。
テキサスの田舎から、大都会ニューヨークを目指してバスに乗るジョー。それがテンガロンハット(本当はカトルマンという種の帽子)を被りウエスタンブーツを履いたカウボーイスタイルというので笑えるが、ニューヨークで女を相手にして金を稼ごうなんていう不順な動機からして滑稽である。まさに田舎者が都会に出れば何でも適えられるといった安直な考えで出てくる人が後を立たないのは、このような思いつきを抱いているという人がいることも確かなようで、これは万国共通のことかもしれない。ところが大都会というのはそれこそ生き馬の目を抜くというが、田舎者は簡単に騙されやすく、安易に人を信じてしまう。それでジョーはあっという間に金が底をついてしまったのである。そこへ現れたビッコをひいた小男ラッツオ。汚らしくて冴えなくて都会の片隅のスラム街で生き抜いている男こそラッツオである。妙な出会いから廃墟のビルの一室で共同生活を始めるが、暖房もない凍えそうな室内。金はないし食料もない。ジョーはニューヨークにきて当初の希望から180度、逸脱した生活を送っていたが、ジゴロという稼業がうまくいきだして稼げるようになる。ところが直後にラッツオが病魔に冒され病状が悪化していき、ここで2人の間には妙な友情が育まれる。ラッツオは暖かいフロリダでの生活を望んでいた。ジョーはジゴロ稼業の最中にゲイの紳士から金を奪い、ラッツオを連れてフロリダ行きのバスに乗る。だがフロリダ目前のバスの中でラッツオはとうとう・・・・・・・・・とこれ以上は書きたくない。
日頃、ありそうな現実を描いた映画だが、1960年代後半という時代だからこういった映画を撮らせたのだと思う。けして観ていて爽快感はないし楽しい事もない。それでいてアメリカの恥部を曝け出した大いなる現実の世界。けしてアメリカン・ドリームばかりが渦巻いているのではなく、ドロップアウトしていく例も多々あるといったアメリカの暗黒面を風俗描写している。夢はあれどもどのように現実化させていくか判らない。そんな中で月日ばかりが過ぎていく。こうして都会の人たちは大きな渦の中で翻弄されてしまうのである。まさにこのような孤独な男達は巷に溢れている。このような世のはみ出し者となって極貧の生活を強いられている男達は日本の都会にも大勢いるだろう。
今から40年以上前に撮られた映画であるが、その主題とするところは今、観ても古臭くなく内容も訴えるものがあって現在でも立派に通用する。また歯の浮くような美辞麗句ばかりを並べていた当時の多くの映画にあって、アメリカン・ニューシネマの登場は新鮮だった。その中でも『真夜中のカーボーイ』は傑作の部類だろう。ことに『卒業』でエリート大学卒業生の役を演じたダスティン・ホフマンが今度は一転して、ネズ公ラッツオという汚れ役を演じ拍手喝采を浴びた。とにかく今の日本でも通用するテーマを持った内容であり、時代が撮らせた映画でもあり、普遍的な人間愛が垣間見られる映画で1969年のアカデミー賞、作品賞に輝いた。
『真夜中のカーボーイ』トレイラー。ニルソンが歌う主題歌『噂の男』も出色だった。
2010.03.29 (Mon)
雨、晴れ、雪・・・
今日なんか午後から気温が下降しだし、湖西の山々が雲に隠れている。その雲も鉛色で重々しい。正午ごろ晴れていたのに、いつのまにか雨が降り出した。また雨かとうんざりしたが、その雨がやがて雪に変化した。どうりで寒いはずだ。夕方、仕事を終え、例によって駅まで歩く。雪が吹き荒れる中をテクテクと歩いてきたのだが、3月29日に降雪があるとは、まさか思わなかった。さすがに滋賀県だ、大阪では有り得ない。
でも今年は例年になく寒いといいたいが、暑い日もあった。桜の開花も早くてもしかして3月中に桜が散ってしまったらどうなるのかと思ったが、ここにきての寒波で、やはり桜の開花も落ち着くところに落ち着くのではないだろうか。
今日は昨日、書けなかった高松宮記念の記事を書こうと思ったが書くのをやめた。何を今更ということなのだが、キンシャサノキセキが奇跡をおこして勝ったというのでもなく、人気馬だから勝って当然なのだが、どうも短距離路線というのは近頃、安定した成績を残せる馬がいなくなった。そんな中でキンシャサノキセキの成績は安定手しつつある。キンシャサノキセキといえば1974年のボクシング世界ヘビー級タイトルマッチを思い出させる名前だ。
当時、不敗の世界チャンピオン、ジョージ・フォアマンに相対したベテラン、モハメド・アリ。アリは1967年に徴兵拒否から世界ヘビー級チャンピオンの座を剥奪され、おまけにボクシング・ライセンスも失った。やがて裁判で勝利し、復帰したものの長いブランクから往年の鋭さは影を潜め、なかなか世界タイトルを奪えなかった。そんなアリが、無敵のハードパンチャーであるジョージ・フォアマンにキンシャサで挑戦した。予想は圧倒的にアリが不利であった。誰も蝶のように舞い、蜂のように刺すアリを想像していなかった。ただマットに沈むだろうアリの姿を多くの人は想像するしかなかった。でもアリは予想を覆し、8ラウンドにフォアマンをKOで倒した。これが俗に言うキンシャサの奇跡である。
今日はあまりにも寒かったので、なんだか想定外の記事になってしまったが、そろそろ暖かくなって心地よい春の陽気に包まれたいものである。
2010.03.28 (Sun)
2010年ドバイ・ミィーティング
まずドバイ・ゴールデン・ヒシャーン(G-Ⅰ・3歳以上、AW1200m、10頭)であるが、日本からローレルゲレイロが参加した。ローレルゲレイロはインコースから逃げたが、外からKinsale Kingにからまれ直線で3頭にかわされ4着に終わった。勝ったのはKinsale Kingであった。
ドバイ・シーマ・クラシック(G-Ⅰ・4歳以上、芝2410m、16頭)は、日本からブエナビスタが出走した。ブエナビスタは真中よりもやや後方に待機。直線コースに入ってから追い出そうとしたが、前が邪魔になって出られず、あと100mのところから外へ持ち出して追い上げたものの2着に終わった。結果は次の通りである。
1着 Dar Re Mi 2分31秒84、2着ブエナビスタ 3/4、3着 Spanish Moon アタマ、4着 Deem 3/4、5着 Cavalryman 1馬身3/4。
勝ったDar Re Miは昨年のヨークシャー・オークスを勝っている古馬牝馬。なお凱旋門賞3年連続2着のYoumuzainは8着と良いところがなかった。
目玉のドバイ・ワールドC(G-Ⅰ・北半球産馬3歳以上、南半球産馬4歳以上、AW2000m、14頭)は日本からレッドディザイアが出走した。前走のマクトゥーム・チャレンジ(G-Ⅱ)では同じコースを克服して勝っているから注目されたが、終始好位置の6、7番手につけて直線での爆発を期待したが、伸びずに11着と惨敗した。
1着 Gloria de Campeao 2分03秒83、2着 Lizar'd Desire ハナ、3着 Allybar 短頭、4着 Gio Ponti 1馬身1/4、5着 Mastery 短頭。
勝ったGloria de Campeaoはマクトゥーム・チャレンジでレッドディザイアに差しきられて2着だった。レッドディザイアの今回の敗因は何だったのか。前走は後方待機で直線一気だったが、今回は比較的前につけて失速した。位置取りだけの問題なのか・・・・。ただ末脚を活かしたほうがこの馬は走るのかもしれない。
最後に日本の話題を少々。昨日、中山で日経賞が行なわれ久しぶりにロジユニヴァースガ出てきたので注目したが、何と24kg+の530㎏で出てきた。何しろダービー以来、10ヶ月ぶりの出走なのでこの馬体重増がただ太め残しなのか、それとも成長ととるのか難しいところである。でもレースは単騎2番手の位置からあと100mというところで一旦は先頭に立ったものの、その後から内、外から伸びてきた後続に差され6着に終わった。勝ったのは昨年春の天皇賞馬マイネルキッツで、ロジユニヴァースは0.3秒差でしかなく、長期間休養からの復帰戦としたは見所はあったのではないだろうか。ただ相変わらず瞬発力に疑問があり、ハイペースのレースにも対応できるのかといった問題点が残ることは否めない。
一方、阪神では毎日杯が行なわれ、ダノンシャンティが勝ったが、このレースでザタイキが直線入りあと200mというところで左中手骨開放骨折を発祥。騎乗していた武豊騎手が落馬し、右腕を骨折、これにより高松宮記念、桜花賞、皐月賞、天皇賞に乗れなくなってしまった。ザタイキは安楽処分。思えば1979年、同レースで福永洋一騎手が落馬し、再起不能となった時のことをオーバーラップさせる一件であった。早く武豊騎手も復帰してくれることを祈るのみである。
ドバイ・ゴールデンシャヒーン
ドバイ・シーマ・クラシック
ドバイ・ワールド・カップ
2010.03.26 (Fri)
仰げば尊しは消えた?
残念ながら小生は学校を出てすでに30年以上なるので、その時代の記憶というと曖昧なのだが、卒業式というのは何か青春の甘酸っぱい響きがある。未完成の発展途上の若者の節目、節目には必ずと言って卒業式がある。何年間を学友とともに学び成長し学び舎を去っていく。そこには当然、恩師というものがいて、楽しいことも苦しいことも導いてくれた。たとえ尊敬していなくとも・・・・・。我が師の恩として・・・・・と卒業式で歌った『仰げば尊し』のように・・・・。と言いたいが、最近は卒業式で『仰げば尊し』をほとんど歌わないと聞いて驚いた。
私は子供がいないので、最近の卒業式の事情に疎い。だから『仰げば尊し』を最近の卒業式では皆目、歌わないと聞いて若い者に確認したら、そのようだったので時代も変わったものであると感じたのだが・・・。さらに言うならば『仰げば尊し』って、どんな歌? と逆に質問されたから二度びっくりである。
まあ、いいだろう。知らない人が増えたのは歌わなくなったからだ。でもなぜ歌われなくなったのかと問うと、明確な答えが見いだせない。一般的には歌詞の内容が今の社会情勢に合わないだとか、歌詞の意味が判らないだとか、古すぎるとかいった理由で歌われなくなったらしいが、古臭くても歌詞が判らなくても時代にそぐわなくても卒業式に相応しい曲だとばかり思っていたのに時代が経つと考え方も変わるものである。それで今は、どんな曲が卒業式で歌われるのかと聞くと、『贈る言葉』だとかが歌われていたが、これも過去のことらしい。今はJ-POPの曲の中で相応しい曲があれば、それを全員で歌うという。何だ結局は今、流行りの曲か・・・・・。それなら皆が歌っている曲を合唱して卒業式を終えるのか。それも教師も一緒になって歌うとは、時代も変わったものである。
ところで『仰げば尊し』って、そんなに今の時代と合わないだろうか。
仰げば尊し わが師の恩 教えの庭にも はや幾年
思えばいと疾し この年月 今こそ別れめ いざさらば
互いに睦し 日ごろの恩 別るる後にも やよ忘るな
身を立て名をあげ やよ励めよ 今こそ別れめ いざさらば
朝夕 馴にし 学びの窓 蛍の灯火 積む白雪
忘るる間ぞなき ゆく年月 今こそ別れめ いざさらば
この曲の作詞・作曲者は不明といわれている。一説にはスコットランド民謡だともいわれ、作詞者の名前も数人挙がっている。一般に紹介されたのが明治17年(1884年)で、小学校唱歌として歌われるようになったのである。
それが現在、歌われなくなった一因として、歌詞が師を崇拝しすぎていて、民主主義の時代に合わないし、また2番の歌詞では立身出世を促がす内容になっているからいけないといことらしい。でも立身出世を促がしてはいけないのだろうか。人間が偉くなろうとするのは普遍的なテーマだと思うのだが、近頃は恩師とも簡単に言えない時代になってしまったのだな。教師と生徒という関係が、今では大きく崩れてしまったのだろうか。人間の平等の権利は判るが、教わるものと教える側との関係は、やはり厳しくなくてはいけないと私は考えていて、我が師の恩が生徒と同等の立場であると、はたして主従関係は成立するだろうか、おそらく教育現場は崩れてしまうだろう。教育というものはそういったものだろう。すでに日本の教育は今日において曲がり角にあるという。教師の権威が失墜してしまい、学級崩壊が起きているという話を最近は頻繁に聞く。
最早、我が師の恩は死語になりつつあるようだ。困ったものだが、これが現実のようである。教師と生徒という関係が昔に比べると近寄りやすい間柄になり、尊敬といった概念が失われていった。確かに民主主義の時代だからといわれたが故、縦の関係、主従、師弟、すべてが音を立てて崩れてきているが、教師から教わるものは学問以外にも多い筈である。たとえ尊敬していなくとも、嫌いではあっても学び舎で教わった全てを含めて我が師の恩は我が師の恩である。それが時代の流れから我が師の恩が敬遠され、流行りの曲が卒業式で歌われるのが慣習化してしまった今、教育を受ける有難味を多くの人が忘れてしまっている。
かつて我が師の恩といった仰ぎ見る心があったから、教育現場の秩序は保たれていたのに、今日の我が師の恩の権威失墜から卒業式で歌われなくなったとは教師も尊敬されなくなったものである。それが『仰げば尊し』が、生徒たちの間で歌われている流行歌、ポップスに変わってしまうと、卒業式の重みも無くなってしまったんだという意を私なんかは強く持ってしまうのだが・・・・。
2010.03.24 (Wed)
24分の6
今年は2月も雨が多かったが、それに引き続いて3月はさらに雨が多い。つまり6/24ということは4日間中3日は雨が降っているという計算になるではないか。3月の今頃になると菜種梅雨といって雨がよく降るものだが、そんな菜種梅雨とかいった慣用句が当てはまるほど今年の雨はメリハリのある降り方をしていない。なにしろ晴れた日が数えるほどしかなく、あとはほとんど雨ばかり。たとえ朝から降らなくとも、夕方から振り出したり、夜中に降って朝にはやんでいたり、一日中、降り続いていたりする。季節からいうと明らかに菜種梅雨なんだが・・・・・。今年は何とも形容しがたい。
日本という国は雨が多いが、それは日本列島の位置と大いに関係していて、ちょうど停滞前線が日本列島を覆う辺り北緯30度~40度にかけて北の冷たい空気と南の暖かい空気がぶつかり合うと必ず雨を降らす前線が発達する。だから菜種梅雨、走り梅雨、梅雨、秋の長雨、山茶花梅雨と季節によって呼び方は違うものの。数日間、雨が続いたりすることが年間を通して何度かあるのだ。
しかし、今時の季節は雨が多いというのは百も承知のはずだが、これだけ雨、雨、雨の毎日となると気が滅入るし鬱陶しいし、行動力も遮られる。とにかく雨の音を聞きながら傘をさして歩くのも面倒くさい。だから降り止んで・・・・・・。でも、明日の朝も雨が降っているだろうし、また傘をさして歩くのか・・・・・あーあ、いい加減にしておくれと雨に怒ってもしょうがないが、もうそろそろ青空が恋しくなる。こんな女々しい雨など今までお目にかかったことがない。とにかく好天が続いてくれ、もう雨はいらないよ。
2010.03.23 (Tue)
雨の日のバスは・・・・・
結局、何時もと同じ電車で帰宅した。つまり会社から駅まで歩いてもバスに乗っても、同じ電車にしか乗れないというこの不都合さには呆れてしまう。雨がしっかり降っているから、バスに乗ったのだが・・・・。とにかく職場から駅まで3㎞は歩かなくてはならない。これだけの道のりを傘をさして歩くと辛いものがある。駅に到着する頃には膝より下がベトベト状態になるのだ。だからバスに乗るのだが、常識的に考えて3㎞あるとバスの方が徒歩よりもはるかに早く到着するだろうと考えるだろう。とくに今日のようにバスが待ち時間がなく、来てくれたならば、常の時間よりも15分早い電車に乗れるという考えが脳裏に働くものだ。なのに乗ったのはいいが、さっぱり動かない。晴れた日よりもマイカーが多いのだ。JRの駅まで停留場が間に四つあるのだが、一つ目の停留場まではスンナリと動いてくれた。だが、そこからがちっともバスが動かない。バスの前方を見ると車の列が続いていて、テールランプの赤い灯が煌々と何十個も光っている。その先には国道との交差点があって、そこの信号がなかなか変わらないから、ここを起点に車が数珠繋ぎになっているのだ。
20分ぐらいして交差点までようやく到着。ここからはスンナリと動いたものの、バスが駅前に到着した頃には、乗る予定だった電車が既に出て行った後だった。それで何時もと同じ時間帯の電車で帰るという惨めさ。これなら何のためにバスに乗ったのかわからない。歩いてもバスに乗っても結果的には同じ電車にしか乗れない。それなら最初から歩いたほうが良かったのではということになるが、雨に濡れなかったことだけは良かったということになるのかもしれない。でもバス代を余分に使ったし、晴れていたなら当然、歩いて帰るところを意味もなくバスに乗らされたと考えるとハラがたってくる。職場が駅の近くにあればバスに乗る必要性というものは全くないのだが、駅からどれだけ離れていようがお構い無しの所に会社を建てるから困ったものである。おかげで毎日、3㎞を歩いている関係から足腰も強くなってきたような気もするのだが・・・・・・。でも職住は接近していた方が良い。
2010.03.22 (Mon)
レトルト・カレー『なすとトマトのカレー』を食べる


このレトルト・カレーというものは実に便利なもので、密封した袋を沸騰したお湯の中に入れて5分ほど温めれば出来上がるという代物なので最近、よく食べるようになったが、今回は明治製菓が出している『なすとトマトのカレー』である。
パッケージの説明によると野菜の美味しさを味わうカレーということで、まるごと野菜が入っている。茄子、トマト、ズッキーニ等の具材を炒め玉葱とトマトを贅沢に使用したチキンベースのカレーで煮込んでいて、トマトの爽やかな酸味とほどよくスパイスが効いた野菜本来の美味しさを楽しめるカレーということらしい。
確かに色が他のレトルト・カレーよりも黄色っぽく風味があって野菜が丸ごと入っている。原材料は玉葱、ジャガイモ、リンゴ、トマト、生姜、にんにく、人参といった果実と野菜に、ソテーオニオン、フライ茄子、フライズッキーニ、小麦粉、トマトペースト、チキネキス、食塩、動物油脂、砂糖、植物油脂、カレー粉、クリーム、澱粉、香辛料、トマトエキス、香味油、脱脂粉乳、乳酸、たんぱく加水分解物、フルーツチャツネ、酵母エキス、調味料、香辛料抽出物、カラメル色素、香料・・・・・・・これらを丁寧に煮込んで出来上がったのが当カレーである。
さて、ご飯を皿に盛り付けてこの熱湯で温めたレトルト・カレーをざっとかける。風味は良いが食べた感想はというと何かが物足りない。もっともレトルト・カレーて何処の物を食べてもさほど大差があるというのでもないので限界があるのかもしれないが・・・・所詮はお菓子メーカーが作った物なので仕方が無いかも。茄子やトマトといった具が入っていることは確認できるが、他のレトルト・カレーとの違いはあまりない。それに中辛というが、あまり辛くはない。本来、私は薄口好みで激辛はあたまから敬遠するし、中辛がちょうどいいと思っていたのだが、ちょっと頼りない辛さだ。それは食べ慣れた店舗のカレーの方が明らかに辛いからだろうか・・・・。カレー専門店で食べるカレーの方が辛口である。また大阪に昔からあるインディアン・カレーのように最初の一口は甘いが、徐々に口の中がヒリヒリするほど辛さが襲ってくるというような芸当はレトルト・カレーでは難しいのかもしれない。でも最近はやや高価で旨いレトルト・カレーが出回っているらしいので、そろそろメーカーが作っているカレーをやめて、店舗が出しているレトルト・カレーを食べてみてもいいかなとは思っているが、そこそこ値が張る。だからレトルト・カレーに、そこまで出費していいものかどうか。やはりレトルト・カレーは薄利多売品であってほしいという願望があるので、レトルト・カレーに1箱500円以上も出すのは勿体ないという気がする。
結局は、それだけのお金を払ってレトルト・カレーを食べるぐらいならカレー屋でカレーを食べる方がいいという結論に至ってしまうのである。
2010.03.21 (Sun)
スプリングS、阪神大賞典
まず皐月賞トライアルであるスプリングS(G-Ⅱ・3歳、芝1800m、15頭)が中山で行なわれた。1番人気は朝日杯の覇者で3戦全勝のローズキングダム、2番人気がアリゼオ、3番人気がサンライズプリンス、4番人気がバシレウス、5番人気がサンディエゴシチーであった。
スタートが切られた。何がハナを奪うかと観ていたら意外にもアリゼオが行った。掛かり癖があるので思い切っていったのかもしれない。2番手にカワキタコマンド、3番手に2馬身あいてバーディバーディ、4番手アブラハムダービー、5番手ゲシュタルト、その後にバシレウスがいて、ローズキングダムが続き、アグネスティンクル、スティルゴールド、さらにサンライズプリンス、アロマカフェ、ジョーヴァリアント、2馬身あいてサンディエゴシチー、5馬身開いてサクラエルドール、さらに3馬身ぐらいあとのシンガリの位置にソリタリーキングが追走する。先頭からシンガリまでややバラけているが思ったよりも馬場は悪いかもしれない。スタートからのハロンタイムは12.4---11.5---11.9---12.2---12.2と800m通過が48秒0、1000m通過が1分00秒2とスローペースである。3コーナーから4コーナーにかけてアリゼオがマイペースで先頭を行く。快調に逃げる。ローズキングダムは7、8番手の位置。前がゴチャゴチャしている。ここでようやく各馬が固まってきて直線に入る。先頭はアリゼオ、アリゼオが先頭。アリゼオがスパートした。差が開いた。2番手はゲシュタルト、ローズキングダムは5番手あたり。あと200m、アリゼオが先頭。差は3馬身あるぞ、逃げ切り濃厚か・・・・。ゲシュタルト2番手、ローズキングダムやっと来る。外からバシレウスも伸びる。先頭はアリゼオ、アリゼオ先頭。ゲシュタルトとローズキングダム。ゲシュタルトとローズキングダムが迫るが、アリゼオが逃げ切った。
1着アリゼオ 1分48秒2、2着ゲシュタルト 1馬身、3着ローズキングダム アタマ、4着サンライズプリンス 1馬身1/4、5着バシレウス クビ。
一方、阪神では古馬の長丁場、阪神大賞典(G-Ⅱ・4歳以上、芝3000m、14頭)が行なわれた。1番人気は何と牝馬のメイショウベルーガで2番人気はイコピコ、3番人気はホクトスルタン、4番人気はジャミール、5番人気はトウカイトリックであった。
スタートから芦毛の馬体が目立つホクトスルタンがハナを奪う。これは予想通りである。2番手ゴールデンメイン、3番手アサクサキングス、そのあとにドリームフライト、シグナリオ、ベルウッドローツェ、メイショウベルーガ、イコピコ、トウカイトリック、ジャミール、コパノジングー、ウィルビーキング、ニホンピロレガーロ、テンシノゴールドの順で1周目スタンド前を通過し、1、2コーナーを回り2周目の向こう流しに入る。先頭からシンガリまで20馬身ぐらいとやや縦に長い展開である。まもなく3コーナーにかかろうかというところである。スタートから1000m通過が1分01秒8とまずまずのペースであったが、2000m通過が2分05秒8と1000mから2000mにかけてはスローペースにおちている。さあ、いよいよペースが上がってこようというところであるが、なかなか馬群が固まらない。先団と後続が離れている。そして、いよいよ直線コースに入る。先頭はホクトスルタン、ベルウッドローツェが2番手で内にアサクサキングスが3番手。あと200m、先頭はホクトスルタンだがアサクサキングスが並びかけた。外からメイショウベルーガとジャミールが伸びる。あと100m。先頭はホクトスルタンとアサクサキングス。外からジャミールとメイショウベルーガ、さらにトウカイトリックもいい脚。外の3頭の方が勢いがある。ジャミール、メイショウベルーガ、トウカイトリック、3頭が並んだ。並んだ。だがトウカイトリックが僅かに出てゴールイン。
1着トウカイトリック 3分07秒3、2着ジャミール クビ、3着メイショウベルーガ ハナ、4着アサクサキングス 1馬身1/4、5着ホクトスルタン 1馬身。
何と何と8歳馬のトウカイトリックが阪神大賞典を勝った。トウカイトリックというとあのディープインパクトと同期である。最近は高齢馬の活躍が目立つが、8歳といった老齢馬が3000mのG-Ⅱレースを勝つのはどう解釈していいのだろうか。しっかりしてくれ4歳馬といいたくなるが・・・・・。
2010.03.20 (Sat)
京セラドーム大阪でプロ野球
それで、プロ野球のパシフィック・リーグが開幕したということで、急遽、天気もよかったので観にいってやろうかと思い立ったまでである。だから大した意味は無い。
阪急、地下鉄を乗り継いで京セラドーム大阪へ到着。今年の開幕試合はオリックス・バファローズ対東北楽天ゴールデンイーグルスであった。今から25年以上前は大阪球場へ何度も何度も通ったことがあるが、南海ホークスが身売りして大阪の土地から離れてから、プロ野球に興味がなくなったので、球場へいくこともなくなった。それで今回が13年ぶりのプロ野球観戦というから、私が如何にプロ野球に背を向けていたかが判るだろう。でもオリックスは観るがセントラル・リーグの試合は観るつもりは今でもない。だから阪神や巨人のことで記事にすることはこれからも絶対にないとだけいっておくとしよう。
それにしても入りは少ないね。25000人ぐらいだろうか。これが甲子園だと、この倍ぐらい入るから話にならない。早目に到着して内野の自由席に入る。最上段の3階スタンドへ行き、弁当が1000円か・・・・高いなあ。中身はお粗末なのに、球場の中の食い物ていうのは何で、こんなに高いのかなあ・・・・・・。まあ、しょうがないか。メシを食いながら楽天の選手のフリーバッティングを観る。よく飛ぶねえ・・・・。
そしてセレモニー・・・。開幕試合なので、平松大阪市長の開幕宣言、両チームの監督に花束贈呈。選手がグラウンドに整列して『君が代』を斉唱。そして午後、1時半にプレーボール。パ・リーグだから激しい打撃戦になるかなあと思って観ていたが、意外にも投手戦であった。両チームとも金子、岩隈のエースが投げているから仕方が無いか。それにしても名前も知らない選手ばかりである。如何に今まで私がプロ野球から遠ざかっていたかという証拠でもあるが、聖澤や鉄平、赤田なんて初めて聞く名前ばかりである。でも楽天の岩隈、中村紀洋、高須、藤井なんていったら元・近鉄ではないか。オリックスも近鉄を吸収したようなものだし、両チームとも元・近鉄の選手だらけということになる。何だか複雑であるが、来年からバファローズの名前も消えるというから、またまた寂しくなるねえ・・・・・。
ところで試合結果は、1対0という最小得点差でオリックスが勝ちました。いやいや、これは予想外でした。
試合前のドーム内。


ライト側スタンド。近鉄時代の旗を振る者、ブルーウエーブ時代の旗を振る者。とにかく球団が二転三転していて苦難の歴史を物語る。

レフト側スタンド。こちらは、まだ歴史も新しい東北楽天ゴールデンイーグルスの応援席。

チアガールが出てきたぞ。

平松大阪市長の開幕宣言。

岡田監督とブラウン監督が握手。

両軍選手が勢揃い。

ドームの天井。高さが調整できる筈なのだが、最近は故障したのか、この高さのまま放置しているらしい。なにしろ赤字経営というから・・・・・・。

楽天のエース岩隈が奮闘したが・・・・・・・。

三回の裏、オリックスの攻撃で、下山の二塁打と、大引のセンター前タイムリーでとった1点が重くのしかかる。それにしてもパ・リーグらしくない展開の投手戦であった。

試合は結局、1対0で終了。両投手とも完投いたしました。ご苦労様です。さあ、帰ろう。西日に照らされる京セラドーム大阪。たまにはいいものだ・・・・・。今度はサッカーでも観に行こかなあ。

2010.03.18 (Thu)
ただ今、帰りました
2010.03.16 (Tue)
ただいま帰宅しました・・・
2010.03.15 (Mon)
またまたまたまた雨・・・
帰宅時、会社を出る頃はポツリ、ポツリという降り方だったのに、駅までの道のりで途中からだんだんと雨足が強くなってきたではないか。これだとバスに乗ったほうが良かったかといって後の祭り。30分も歩いていると、膝より下はベトベトになってくる。こんなに駅までが遠かったのかと晴れた日には感じないが、雨が降ると事情が違ってくる。ようやく駅舎が見えてきたところで長い長い信号につかまる。2分半もの間、変わらない信号だ。ようやく青に変わったかと思うと、たった15秒でまた信号が赤になる。いったいどうなっているのだ、ここの信号は・・・・。15秒なんて御年寄りだと道路を渡り切れない間に信号が変わってしまいそうだ。地元の人は文句をいわないのだろうか・・・・・。よく我慢していると思う。大阪なら苦情殺到だろう。とにかく、こんなに待ち時間が長くて渡る時間の短い信号を他にお目にかかったことがない。おかげで待っている間も雨にうたれ続け足元がすっかり濡れてしまった。どうにか駅まで辿り着いたが、バスに乗ればよかったと後悔する。明日も天気予報は雨模様だし、そろそろ菜種梅雨か・・・・・。今も外はしっかりと雨が降っているが、本当に、このところ雨に対するぼやきの記事ばかり書いているような・・・・。まあ、これだけ降れば呆れるのを通り越してしまい笑っているしかないのだが・・・・・。
ところで、明日からは残業が続くのだ。ただでさえ遠いところに通っているのに、残業だと帰宅が遅くなる。だから今週は記事の更新が出来ないかもしれない。何時も言うようだが書きたい記事は山ほどあるが、困ったことに書く時間がない。雑用も多くパソコンの前に座っている時間も限られている。だから記事の更新もままならない。滞るかもしれないがあしからず。結局、これが言いたかったのだが。それにしても2日と続かない晴天日。もういい加減にしてくれ。
2010.03.14 (Sun)
中山牝馬S、フィリーズレビュー
それこそオグリキャップ以来の笠松の人気者。6戦6勝で桜花賞トライアルに挑戦してきた。最近は何かといい話のない公営競馬。ことに笠松も赤字続きで競馬場閉鎖の話もチラホラと出てくる有様で、ここにきて昨年の秋からあれよあれよと全て逃げ切りばかりの6連勝。笠松競馬場の売り上げもラブミーチャンの出現で増えているという。そこで出てきたのが、中央競馬でのクラシック・レース制覇の話。牝馬なのでダービーよりも、桜花賞、オークスということになるが、まずは権利取りのために今日のフィリ-ズレビューに参戦してきた。人気もラナンキュラスに続いて2番人気とファンの期待度が増したが・・・・・・。
逃げる逃げる。懸命に逃げるラブミーチャン。中央の精鋭たちを尻目にスタートから逃げまくった。3コーナーを回り4コーナーを回り、直線に入る。あと、もう少しだ。逃げる。逃げる。頑張る。頑張る。少し後続と差が開いたぞ。200mを切った。頑張る。頑張る。あと150m、外から並ばれた。ああ、失速した。一気にかわされて馬群に沈むラブミーチャン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
クラシック制覇の夢は終わった。初の芝コースは厳しかった。やはりダートコースでないと走らないか。残念でした。それでは結果を記す。
阪神 フィリーズレビュー(G-Ⅱ・3歳牝馬、芝1400m、16頭)
1着サウンドバリアー 1分22秒8、2着ラナンキュラス ハナ、3着レディアルバローザ クビ、4着ロジフェローズ アタマ、同着ニシノモレッタ。ラブミーチャンは12着。
中山牝馬S(G-Ⅲ・4歳以上、芝1800m、16頭)
1着ニシノブル-ムーン 1分47秒6、2着ウェディングフジコ 3/4、3着チェレブリタ クビ、4着コロンバスサークル クビ、5着レジネッタ ハナ。
2010.03.13 (Sat)
EXPO70から40年
それで今日、1970年の日本万国博覧会から40年を記念して、EXPO70パビリオンなるものがオープンした。だからというのでもないが、その話を聞いて突如、訪れてみようと思い立ったのである。そういえば私も長い間、万国博覧会の跡地がどのようになっているのか気になった。この付近、よく来るのだが会場跡に来ることは皆目ない。近くの万博競技場にサッカーを観に来たり、万博球場に高校野球の予選を観に来たりしたことはある。また、かつて公園内にあった国立国際美術館(旧・万博美術館)や国立民俗学博物館に用があって来ることもあった。でも過去の遺産であるような万国博の跡地である公園内をくまなく散策したことはほとんどない。でも40年経ったのかと考えると、何か青春時代の忘れ物を捜しに来るような思いに囚われてしまった。あの頃、まだ10代半ばのガキだった自分にとって、あのEXPO70とは何だったのかと、振り返ってみたくなったということだろうか・・・・・。
今から40年前の3月15日、一般入場者に開放された最初の日に、私は大学生の姉と会場に訪れたことを思い出す。肌寒くて人が多くて何処のパビリオンも行列だらけであった。40年前、会場に足を踏み入れた途端、そこは未来都市が広がっているような錯覚におちいったものである。でも一般的な生活様式は40年経った今も劇的に変化したというのでもなく、相変わらず電車に乗って通勤するし、帰ってテレビを観る、新聞を読む、音楽を聴く、食事をする、風呂に入る。やっていることはほとんど変わらない。車の構造も飛行機も船も当時とは大差はない。しかし1970年当時、今とどのように違うかを考えた場合、大きな違いは携帯モバイルだろう。当時は勿論、携帯電話もなく家庭には黒電話しかなかった。それもまだ全家庭に行き渡っていなかったように思う。だから連絡方法はどうするのかといった疑問を若い人は持たれるだろうと思う。そういった場合は街の公衆電話から家に連絡するしか方法がない。もっとも携帯電話が一般化したのも、この10年ぐらいではあるが・・・・・。それと電話以外にもメールといった連絡方法があるし、パソコンといった便利な物が今はある。40年経って大きく変化したといえば、このような分野に関してである。
思い返せばあの当時、こういった携帯電話がこれだけ普及するなんて予測できただろうか。あの当時、展示されていたものとして人間洗濯機だとか電気自動車だとか、未来を予測した色々な展示物があった。人類の進歩と調和というテーマの下に開催されたEXPO70だから、20年後の世界、30年後の世界はこうだといった展示物が多かった。でも実際に40年経った現在、あの当時に予測した世界とは大きく違っているようにも感じる。それは時代は進み、科学も進化しあの当時に予測した多くの物は現在では存在しつつある。でも経済発展まで恒久的に続く訳でもなく、公害といったものが、それらを阻んでいることを当時は計算に入れてなかったように思える。フロンガスやCO2といった地球温暖化なるものが新聞紙上を賑わすなど、あの頃、考えていただろうか。それを考えた場合、人類の進歩と調和なんてテーマは今、考えれば滑稽ではある。結局、1970年という時点で考えた近未来の地球像という形で会場は造られたのだと思えば実に面白い。それで当時の記憶のまま、私は今の万国博記念公園内を歩いてみた。
未だに残る太陽の塔。岡本太郎作の記念碑である。会場のシンボルとして残されたが、当時はメイン・パビリオンとして中も入れたし、大屋根がこの辺り一帯を覆っていた。

太陽の塔の裏側である。

まだ会場内にあった人工池と噴水が当時の姿で残っていた。右の丸い噴水は回転しながら水を吐き出していた。

パビリオンで唯一残されたのが、この鉄鋼館である。この建物がEXPO70パビリオンとして今日リニューアル・オープンした。

太陽の塔の裏にあったお祭り広場は当時のままであったが、会期中はこの辺りも大屋根で覆われていた。

太陽の塔を中心としたシンボルゾーン一帯を覆っていた大家根の鉄組みが残っていた。大屋根は当時、太陽の塔の手の先から上がれるようになっていた。

かつてカナダ館? 韓国館? があった辺りだと思うが梅園になっていた。

この辺りにはオーストラリア館があったと記憶している。いや西ドイツ館だったかなあ。西ドイツ館ではライトナー指揮、ケンプ(ピアノ)、ベルリン・フィル演奏のベートーヴェンの皇帝のLP盤を買って帰った思い出がある。今は木々が鬱蒼と繁っている。その向こうには太陽の塔が・・・・。

せせらぎが・・・・・・。

もうかつての未来都市の姿は何処にもない・・・・・。

自然に出来た小川のように。

40年前、ここにアメリカ館があった。東京ドームのように白いエアドームで造られていた。館内はアポロ飛行船が持ち帰った月の石が展示され、待ち時間2時間とか当たり前だった。でも私は待ち時間、10分ほどで入れたような・・・・・。私にとっては往年の大リーガーのユニフォームの展示の方が興味深かった。

こんな森林公園が大阪の中心部にあればいいのにとは思うが・・・・・。

人工の森のようには見えないほど密生している。

ここにはソビエト連邦館があった。今やソビエト連邦は崩壊し、ロシアを始め多くの国に分裂した。時代を偲ばせるなあ。

ソビエト連邦館は高さが130mもあり阪急電車からも見えていた。館内はスプートニク、ボストーク、ソユーズの各宇宙船が展示してあって、アメリカとの宇宙開発競争が熾烈だったことを思い出させた。私はチャイコフスキーが使っていた展示品のピアノを触って係員に注意されたことを思い出す。

この付近はベルギー館があったと思う。今では憩いの場になっている。ここからだと太陽の塔までかなりの距離がある。

何か天然の沼のようだが人工の池である。水鳥の生息地になっている。

会場の中央を東西に目抜き通りがあったことを思い出した。その通りは今でも使われている。

かなりの距離を歩いたと思う。当時は会場内にそれこそ100以上の巨大なパビリオンが建ち並んでいた。でもさほど会場が大きいとは感じなかった。でも今、何もない会場跡を歩いてみると如何に巨大な会場だったということを痛感させる。当時、甲子園球場83個入るといわれた。もともとは千里丘陵という竹林の多い手の加えられてない丘だった。それが突如として万国博覧会の会場として整備され、今、また自然の森に戻っていった。やはり人間は自然と共棲してこそ生きていけるのだ。科学ばかりを信仰していては何時か反動がくると会場址を訪れて改めて感じた次第である。
EXPO70の映像
2010.03.11 (Thu)
ナット・キング・コールを聴く

私がナット・キング・コールを知ったのはビートルズの曲が巷を賑わしていた1964年のことである。ラジオから渋くてハスキーな声で歌われる楽曲が流れていた。
L is for the way you look at me
O is for the only one I see
V is very very extraordinary
E is very more than any one that you adore can
LOVE is all that I can give to you・・・・
ナット・キング・コール最後のヒット曲『ラヴ』である。この曲はドイツ出身のトランペッター、ベルト・ケンプフェルト作曲、ミルト・ガブラー作詞によるものでナット・キング・コールが歌ってヒットしたものの、この年の翌年の2月15日、ナット・キング・コールは肺癌でこの世を去ってしまう。だかた私はナット・キング・コールを『ラヴ』で知り、瞬く間に亡くなったのでナット・キング・コールのことを良く知っているわけではないが、その後、何故かレコードやCDで彼の歌声をどれだけ聴いてきたか判らなくなるほど聴いたものだ。なのでアメリカン・ポップス界においてもジャズ・ヴォーカルにおいてもナット・キング・コールは私の中では重要な位置を占めるミュージシャンといってもいいだろう。でもナット・キング・コールはポピュラー・ヴォーカリストでもあるが、本来はジャズ・ミュージシャンである。
1919年にアラバマ州で生まれ、教会でオルガンを弾いていた母から手ほどきを受け10代にしてジャズ・ピアニストとして頭角を現していたのである。当時はアール・ハインズ・テディ・ウィルソンの流れを汲むスウィング・ピアニストとして高く評価され、1939年にギターとベースを加えたキング・コール・トリオを結成しジャズ雑誌の人気投票でベスト・コンボに何度も選ばれるほど人気を博す。そんな頃、クラブのオーナーの薦めで弾き語りをするようになる。1943年には『スウィート・ローレン』がヒット、こうしてヴォーカリストとしてのナット・キング・コールが誕生する。
この頃に録音された『ペイパー・ムーン』『エンブレザブル・ユー』は彼の生涯のナンバーとなったが、40年代に入りソロ・シンガーとしても歌いだすようになる。『ストレートン・アップ・アンド・フライ・ライト』『モナ・リザ』はキング・コール・トリオ時代の大ヒット曲で、ことに『モナ・リザ』は、映画『別働隊』の主題歌となり、映画よりもテーマ・ミュージックの方が有名になり、ナット・キング・コールの名が日本でも知れ渡るきっかけとなった。
1950年代からはポピュラー界に進出、よりナット・キング・コールの露出度は高まり、ヒット曲を連発するようになる。『スターダスト』『ルート66』『ネイチャー・ボーイ』『トゥー・ヤング』『枯葉』『プリテンド』『アンフォゲッタブル』『月光価千金』『キサス・キサス・キサス』『フライ・ミー・トゥ・ザムーン』『ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ』『恋におちた時』『セプテンバー・ソング』『カチート』『セントルイス・ブルース』『ラヴ・レターズ』『夢見る頃を過ぎても』『ヴァイア・コン・ディオス』・・・・・既存の曲が大半だが、ナット・キング・コールが歌うと独自の世界を醸しだす。このようにしてその曲の本命盤となることが多く、『スターダスト』『枯葉』などは本家のホーギー・カーマイケルやイヴ・モンタンのシャンンよりもナット・キング・コールの歌ったレコードの方が知れ渡っているぐらいである。
もともとはジャズのピアニストとしてデビューしたのに、ヴォーカリストとしてすっかり有名になり、後年はポピュラー界に進出し、さらにファン層が広まった。だから今ではポピュラー歌手だと思われているナット・キング・コール。でも原点はジャズ・ピアニストであり、また魅惑のある声でヴォーカリストとして才能が開花し歌った曲が大ヒットしてしまったというのが本当のところであろう。でも彼のキング・コール・トリオ時代のピアノ演奏も好き嫌いは別にして必見である。ただ彼は大衆が彼の歌声を望んでいたから歌ったのであるが、日頃のヘビー・スモーカーぶりが災いして、絶頂期の1965年に肺癌で亡くなってしまった。まだ40代だったのに残念なことである。
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キング・コール・トリオ時代の演奏。『モナリザ』を弾き語るナット・キング・コール。
『枯葉』を歌うナット・キング・コール。
『L-O-V-E』を歌うナット・キング・コール(音声のみ、歌詞つき)。
2010.03.09 (Tue)
菜種梅雨?????
この弥生3月は比較的に雨が多く降るので菜種梅雨といわれることがある。でも菜種梅雨というのは3月下旬から4月上旬にかけての話だろう。その頃はいくらか季節が進んで暖かい日が多く雨もよく降り続いたりする。だが、この数日間に降っている雨というのは菜種梅雨というのとは少し違っている。それにまだ3月上旬である。何しろ寒の戻りで気温そのものが低く、場合によっては雪に変わりそうな雨である。こんな寒さだと地上に出かかっていた虫がまた地中に潜ってしまうのではないかと思いたくなる。
ちょっと前までは4月中旬の暖かさであったのに、このぶり返しの寒さは堪えるし、それでいて、この寒の戻りの後は、再び春の陽気に誘われるという。このところ暖かい日と寒い日との温度差が10℃ほどあって身体の方がさっぱりついていかないのだ。春先に体調を崩す人が多いのはこんな時だろう。とにかく晴れた日が3日と続かないから、暖かい日があってもすぐに気温が下降したりする。これが春先の特徴といってしまうとそうかなあと納得してしまうが、春の雨はやはり鬱陶しい。また晴れたら晴れたで今の季節はスギ花粉が大量に飛散する。まあ、雨にしても晴れにしてもいいことばかりではないが、やはり鼻の疾患で鼻水が出やすい小生にとってこの寒さは少々、堪える。適度な暖かさと適度のお湿りならいいのだが、このところの雨はお湿りというレベルのものではない。しっかりと降っているし、それによって寒さをもたらすから困ったものである。でも菜種梅雨ではなさそうだしと考えていたのだが、3月の下旬になってから本格的な菜種梅雨があるのだろうか・・・・。昨今は異常気象ばかりでさっぱり予測がつかない・・・・。
2010.03.08 (Mon)
ウオッカ引退
昭和18年のクリフジ以来64年ぶりに牝馬として日本ダービーに勝った時は驚いたが、古馬になってからも安田記念2連覇、秋の天皇賞を最大のライバルだったダイワスカーレットを大接戦の末に倒したことと、ジャパンCを日本の牝馬として初めて勝ったことなど印象的なことばかりが思い出される牝馬であった。でもGⅠ7勝を勝ったというが、牡馬のように安定感があって何連勝もしてきたというのでもなくスランプもあった。だが記録以上に記憶に残る競走馬として、いよいよ繁殖に上がるのである。どういう子供が出てくるのか興味深いが、とりあえずは日本に帰らず、アイルランドに渡って世紀の競走馬シーザスターズ(2000ギニー、ダービー、凱旋門賞)と種付けをするという。シーザスターズとウオッカの間に出来た子供がこれまた楽しみであるが、それより先に、2008年にウオッカの全妹が外国人オーナーであるダーレー・ジャパンに競り落とされている。
このウオッカの全妹は今年3歳だから今夏以降にデビューが待たれるのだが、馬主が何とドバイのマクトゥーム・ファミリーであるというのも面白い。どうやらウオッカと同様に角居厩舎に入るようだが、競馬というのは引退する馬がいる傍で、その弟や妹がすぐにデビューしてくるのだ。だから引退は寂しいなんていってられない。競馬は血を残すことで進化してきたのだ。何時までも感傷に更けてられない。ウオッカの子供達、弟妹達にも期待しよう。そして今年の夏には、いよいよディープインパクトの子供達がデビューしてくる。はたして父を凌駕する子供の誕生が見られるか・・・・競馬とはそういった楽しみがあるからやめられないのだ・・・。
2010.03.07 (Sun)
弥生賞
中山のコースは雨が降ると急激に悪化するがヴィクトワールピサは克服できるのかどうか興味が持たれた。人気はそのヴィクトワールピサが断然で、2番人気はエイシンアポロン、3番人気はアドマイヤテンクウであった。ヴィクトワールピサは圧倒的1番人気ではあるが、重馬場は未体験。それに最内の1番枠である。それで馬群をどうさばくのか興味が持たれた。
さあスタート。ゲートが開き、ベストブルーム、スマートジェネシスが行く、ヴィクトワールピサは最内から武豊が抑えていった。先頭にベストブルームがたった。2番手にスマートジェネシス、3番手エイシンアポロン、4番手コスモヘレノス、5番手の内に人気のヴィクトワールピサ。その外にマコトヴォイジャー、7番手アドマイヤテンクウ。そのあとにアースステップ、ダイワバーバリアン、内にダイワファルコン、その後ろにミッションモードとビッグバン、そして最後方がトーセンアレスといった展開である。スタートからのハロンタイムは12.8---11.6---12.7---13.5---13.0で800m通過が50秒6、1000m通過が1分03秒6というスローペース。まあ、この馬場なら仕方がないか。3コーナーかにかかり、ベストブルームが先頭、スマートジェネシス、コスモヘレノスの順は変わらないが、ヴィクトワールピサはインコースの7番手に下がった。これから4コーナーにさしかかり馬群が固まってきた。いよい直線コース。ベストブルームが先頭。内からエイシンアポロン、外からダイワバーバリアンが抜けようというところ。ヴィクトワールピサは内いっぱいにつけているが、前が壁になってなかなか抜け出せない。あと200m。先頭はエイシンアポロン、2番手にダイワバーバリアン、ヴィクトワールピサは3番手。あと100m、先頭はエイシンアポロン、2番手にダイワバーバリアンだが、ここからヴィクトワールピサが2頭の間を抜けて来た。一気にスパート。エイシンアポロンに迫る勢い。外から一気にかわした。3番手にダイワファルコンが上がる。先頭にヴィクトワールピサ、ヴィクトワールピサが1着でゴールイン。
1着ヴィクトワールピサ 2分06秒1、2着エイシンアポロン 1/2、3着ダイワファルコン 1馬身3/4、4着ダイワバーバリアン 3/4、5着コスモヘレノス 3馬身1/2。
ヴィクトワールピサは強かった。重馬場も苦にしなかった。道中、じっと耐えて最後の直線で前が空いた一瞬を逃がさず一気に先頭に立った、見事な瞬発力であった。これでデビューから5戦4勝。ただ1度の敗戦がデビュー戦での2着。その時の勝ち馬がローズキングダムである。ローズキングダムはおそらくスプリングSに出てくるだろう。そして皐月賞での再戦となるのだろうか。良きライバルになりそうな予感がする。ただ故障がなければの話ではあるが・・・・・・。
2010.03.06 (Sat)
阪急電鉄開業100周年
つまり今から100年前、阪急は開通したのである。でも敷設させた場所は梅田~宝塚というから当時の人は乗る人などいるのかと思ったのではないだろうか・・・・・。今でこそ阪急宝塚線沿線は高級住宅街路線として人気があって、電車から見られる車窓は民家やマンションでぎっしり所狭しと埋まっている。でも阪急創業の頃の箕面有馬電気軌道が開業した1910年(明治43年)という時代を考えてもらいたい。現在の宝塚市は当時、武庫郡良元村、川辺郡小浜村、長尾村、西谷村という地名で、温泉はあったものの寂しい山里の村ばかりである。隣の川西市も川辺郡川西町と多田村、東谷村に分かれていた。池田市も豊能郡池田町、北豊島村、細河村、秦野村、北豊島村だったし、現在、大阪の巨大なベッドタウンである豊中市も豊能郡豊中村、中豊島村、南豊島村、小曽根村、庄内町という名であった。つまり阪急が創業した頃の沿線というのは市が一つもなく、町や村ばかりの寂しいところを電車が走っていたのである。
この箕面有馬電気軌道を開業した人が小林一三という人である。この人は関西出身ではなく山梨県出身で、慶應義塾で学び三井銀行で務めた後、先輩の岩下清周に誘われ大阪にやって来た。目的は証券会社設立のためだったが、その話は頓挫してしまう。やがて小林一三は新しい鉄道会社を建設する話を聞きつけ、鉄道会社は将来的に有望と思い、自分が経営に参画するようになる。しかし、敷設されると聞いた地域がのどかな農村だと聞いて驚いたが、目算があったのである。新しい鉄道会社は箕面有馬電気軌道。大阪の梅田から有馬温泉までと箕面までの2路線を敷設するというものであった。だが沿線に大きな街はなく、人が乗ってくれるのかといった不安があったことはいうまでもない。
そこで小林一三は、まず路線通過予定の沿線の土地を買収し、大規模な宅地造成を試みて沿線の付加価値を高め、大阪市内に住む富裕層に住宅ローンで分譲したのである。手狭な大阪市内の家に住むよりも大きな庭付きの一戸建ての良い所を謳い富裕層を呼び込んだ。こうして沿線に住宅を増やし電車で通勤してもらうという手法をとった。さらに小林一三は終点の宝塚に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)、そのアトラクションとして女性ばかりによる歌劇団である宝塚歌劇団を創設した。また一方の終点である箕面には動物園も造った。こうして沿線を高級住宅街にしてしまった小林一三の計画は成功。箕面有馬電気軌道は、同じやり方で神戸線も開通。ここから社名が阪神急行電気鉄道に変わり、通称で阪急と言われるようになったのである。さらに起点の大阪・梅田駅にはターミナル百貨店を営業。過去、鉄道会社が百貨店を開いたことなど例がなく、成功するのか疑問視されていたというが、その後、真似をした鉄道会社が各地に出来たことを考えれば大成功といえるだろう。さらに小林一三は東京に宝塚劇場を建設、また東京宝塚映画(後の東宝)を設立。文化事業にも手を染め、ホテル事業も含め事業を拡大。プロ野球球団・阪急ブレーブスを設立等、阪急グループとして大きな企業群を形成するに至ったのである。
この小林一三の方式を模したのが、東急の五島慶太、西武の堤康次郎だといわれる。このように奇抜な方式で、今日の阪急電車の地位を築いたのが小林一三である。今では関西で高級イメージのある阪急電鉄。確固たる地位を保っている。でもちょうど100年前は、新参者の鉄道会社であり、田舎路線で赤字覚悟のスタートだったようである。それが現在、沿線は高級住宅地として、関西セレブの憧れの街が並んでいる。
大阪の繁華街・梅田から出発して中津を過ぎて淀川を渡る。そして十三。ここで京都線と神戸線と分かれて宝塚線は真っ直ぐ北へ向かう。新幹線と交差して三国を通過、間もなく神崎川にかかり、ここから豊中市へと入る。そして庄内、服部、曽根、岡町、豊中、蛍池、石橋と停まる。もう石橋は池田市に入っている。ここから箕面行きの電車が出発する。次の駅は池田、さらに猪名川を渡ると兵庫県に入る。兵庫県に入っての最初の駅は川西能勢口である。ここは能勢電鉄の始発駅でもある。川西能勢口を出ると雲雀丘花屋敷という面白い名前の駅に到着する。ここはもともと雲雀丘駅と花屋敷駅に分かれていた。それが大型車両導入と、駅のホームを延ばすことにより、両駅間があまりにも近くなりすぎたため、両駅の間に雲雀丘花屋敷駅を設けたのである。それが1961年のことで、開業当初は単両で走っていた電車が今では10両連結となり、このような結果になったのである。雲雀丘花屋敷を出るといよいよ宝塚市内に入る。ここからはJRと併走する形で電車は走る。山本、中山、売布神社(めふじんじゃ)という変わった読み方の駅を抜けて、清荒神を過ぎると終点・宝塚に到着する。
阪急宝塚線、駅にして19駅、距離にして24.6㎞でしかない路線である。でもこれが100年前に開通した阪急電鉄の最初の路線である。沿線風景も様変わりしてしまい、100年前の光景は何処にも見られない。でも街は鉄道が造るということを、この箕面有馬電気軌道という例が示している。今の宝塚及びこの沿線の街々は阪急抜きにしては考えられない。それだけに阪急をステータスとして沿線の人は誇りに思っているのだ。これは他の私鉄沿線ではあまり考えられないことである。良くも悪くも阪急電鉄あっての宝塚沿線ということがいえるだろう。
2010.03.04 (Thu)
ショパンのピアノ協奏曲第1番を聴く

今年はフレデリック・ショパンの生誕200年ということらしい。文献では1810年生まれだからそうなのだが・・・・・死んだ人の生誕○○年記念だといってもあまり意味が無いような気がするが・・・・・・。
フレデリック・ショパンは1810年3月1日にポーランドで生れたと誰でも知っていることを書いてみた。しかし名前がフランス人的なのにポーランド人? と思われる向きもあるだろう。フレデリック・ショパンの父はフランス人だから、こんな名前なのだが、母は貴族の末裔であるポーランド人である。幼い頃からピアノを習い始め7歳ですでに作曲しているという。この辺りは世界的な音楽家なら当然か・・・・。16歳でワルシャワ音楽院に入学。20歳でウィーンに出る。この頃にこのピアノ協奏曲第1番を作曲というから何と若書きの協奏曲なのである。でも実際には、この協奏曲の前にショパンはピアノ協奏曲を作曲しているが、こちらが先に出版されたから第1番と呼んでいるだけなのだが、1番の方が曲の規模も出来上がりもいいからショパンのピアノ協奏曲というと、ほとんどの人はこの曲しか知らないだろう。
全3楽章で演奏時間が40分ほどになるショパンにしては珍しい大曲である。それ故に特徴もあるが欠点も多い。よく言われることだが、ピアノ独奏部に比べるとオーケストラ演奏部が印象度がなく、管弦楽全体の作曲が下手だとされる。確かに聴いているとピアノばかりの印象が強く残り、管弦楽の音色が立体的に聴こえないなど、ショパン自身も苦手だったのか、それともピアノの独奏曲を作曲するほうが楽しかったのか判らないが、この20歳で書いたピアノ協奏曲以降、滅多に管弦楽曲を書かなかったようだ。でも現在はショパンのピアノ協奏曲として人気があり、よく演奏会でも取り上げられから認知度は高く好きな曲だという人は多い。
そもそもドイツの作曲家でピアニストだったフリードリッヒ・カルクブレンナーに献呈するために作曲したともいわれるが、第1楽章だけで689小節もある。この楽章を演奏するだけでも約20分かかるから、小品が圧倒的に多いショパンとしては異例の曲である。弱冠20歳でこの大曲を書き上げる才能がありながら、後にはピアノ協奏曲を書くこともなく、ほとんどをピアノ独奏曲の作曲に費やしたフレデリック・ショパンである。このことは何を意味するか判らないが、おそらく彼自身、病弱であり肺の疾患(結核だといわれるが)に悩まされていたこともあり、管弦楽曲などの労力を要する曲は書けなかったのかもしれない。
また若くして故郷ポーランドの地を離れ、ウィーン、パリとヨーロッパの中心地へと住みつくものの一生ポーランドへの望郷の思いが断ち切れなかったと思え、このピアノ協奏曲第1番においてはポーランドへの告別の意が籠められているという。生涯病弱でいて繊細な神経の持ち主だったのか、女性に対する情念も深かったとみえて、彼は女性遍歴も色々と伝わっているが、28歳から9年間に及ぶ女流作家ジョルジュ・サンドとの交際はあまりにも有名である。結局、1849年、39歳という若さで亡くなってしまうが、この短い一生で多くの人の心を虜にする曲を残し、今日、ピアノの詩人と言われるほど彼は人気がある。もしショパンが管弦楽曲ばかりを手がけていたとしたら、今ほどの人気を持ちえていたか判らない部分もあり、ショパンはピアノ独奏曲ばかりで今の地位を築いているのだとしたら、このピアノ協奏曲第1番を作曲した時点で、彼のその後の人生は決まっていたのかもしれないという気がするのである。
ところで上記の写真にあるCDは1965年のショパン国際ピアノ・コンクール時に録音されたもので、ピアノ奏者は若き日のマルタ・アルゲリッチである。彼女はこの時24歳、当然のようにこの時、コンクールで優勝した。それで、その時に演奏したピアノ協奏曲第1番を弾いているのだが、この演奏が実に面白い。どこが面白いかというと、コンクールの時の演奏なので、冒頭のオーケストラ部門の4分余りにもなる序奏がカットされ、僅か1分ほどでピアノの独奏に入る。おそらくコンクールの決勝に残った何人かの演奏を続けて行なわないといけないので、いらないオーケストラの序奏を削ったのだと思えるのである。ピアノ・コンクールだから審査委員はピアノ奏者だけを審査する。だから余計な長い長い序奏は聴く必要もない。聴く必要のあるピアノ独奏部分だけをより強調する形で演奏されたのだと思う。実際にスコアを見ながら聴いていると、このCDの演奏では36小節をオーケストラが序奏を演奏しただけで、いきなり139小節からのピアノ独奏に入っている。これこそコンクールでしか聴けないショパンのピアノ協奏曲といえそうである。
ピアノ協奏曲第1番第楽章前半の演奏(1996年の映像)・・・ 何と元夫婦の共演である
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
指揮 シャルル・デュトワ
NHK交響楽団
2010.03.02 (Tue)
電車が遅れた
最近は電車があまり遅延してないから助かっていたのに、とうとうJRお得意の人身事故が起こってしまった。どういう状況かは判らないから詳細は省くが、かなり酷い人身事故でだったのかもしれず、1時間ほど上下とも電車は完全に停まっていて、阪急や地下鉄、モノレール、バスなどで代替輸送を行なっていたらしい。でも私が帰宅する頃には正常のダイヤに戻っていると考えていたが予想は甘かった。職場から30分あまりかかって歩いて、何時もの駅に到着したものの、どの電車も10分~20分以上遅れている。それで駅のホームで待っていたものの、ようやく来た電車がなんと6両編成。何時もなら10両編成なのに、なんてことだ。4両分減らしたせいで既に車内は満員。さらにここから乗客を拾っていかなくてはならない。そのおかげで一駅ごとに遅れの度合いが酷くなる。超満員の中で圧迫され、電車の遅れはさらに酷くなっていく。
どうにか山科で人が大量に降りたものの、また人が大勢乗ってきた。相変わらず満員の状態に変化はなく、京都駅でまた大勢の人が降りる。でも後続の新快速の遅れも酷いので、到着した電車には乗ろうとする人が多くて、またまた満員である。こうして押し競まんじゅうを繰り返しながら、どうにか我が家の最寄り駅に到着。何分遅れたのかわからない。とにかく疲れた。帰りの電車でこんなに疲れたのは久しぶりである。
でも3月の今頃というと、卒業シーズンでもあり、人事異動の時期でもあり、1年の節目でもあって自殺志願者も倍増するようだ。今日の人身事故が自殺なのか、事故なのか判らない。しかし、職を失ったり希望の大学に進めなかったり、今後の人生に絶望する人が身を投げたりすることが多いのも今頃である。そこで一言、言わせてくれ。たった1度や2度の挫折で落ち込むな。人生は何度でもやり直しはきく。私なんか挫折だらけの人生だ。ちょっとやそっとのことで挫折して自殺していたら、私なんか何度死んでいるか判らない。きっと生きていたらいいことが必ずあるから、身を投げるのはよそう。・・・・とにかく電車に飛び込むのだけはやめて欲しい。みんなに迷惑をかけるのだから・・・・。
それにしても相変わらずJRは復旧に時間がかかりすぎる。阪急に乗って通勤していた時とは大違いである。困ったものである。でも、また同じことが繰り返されるのだろうなあ・・・・・。
2010.03.01 (Mon)
阪急6300系

6300系の車内。全面クロスシートで、扉付近には折りたたみ用の補助椅子がついていた。

阪急電鉄京都線の名物車両だった6300系がとうとう昨日をもって京都線から引退した。1975年のデビューから34年間も走り続けた名物電車である。私はこの車両に随分とお世話になった。私が若い頃に2800系の後継車両として6300系はデビューした。全面、2人がけの転換式クロスシートで贅沢な車両だった。私は若い頃、京都の市内から大阪の繁華街へ行く時には、汚い国鉄の電車に乗るのを避けて、この綺麗な阪急京都線の6300系車両に乗るのが常だった。とにかく阪急特有の落ち着いたマルーンにアイボリーが入った車両で、車内は例の木目調に緑色のシート、白いカバー、これで特別料金などいらず、普通乗車券だけで乗れたのだからボロい国鉄車両には乗る気が起こらなかったものだ。それでいて停車駅は河原町を出ると烏丸、大宮と停まり、そこから大阪の十三(じゅうそう)まで停まらなかったので、終点の梅田まで39分で行けたのである。考えてみれば随分と贅沢な車両であった。東京の私鉄で同様の車両に乗ろうとすると、ほとんどは特別料金を徴収されるから、阪急の6300系は評判が高かった。だから1976年に鉄道友の会ブルーリボン賞を6300系は受賞している。
その後、私は就職し働くようになったが、大阪市内の会社へ行くのにも必ず6300系で通勤したものだ。ただし通勤時は途中で高槻市駅に停車するので車内は超満員となる。この時だけは通勤に向かない車両であることは感じていた。やがて時代が進み、国鉄がJRに名前を変え、JRも新型車両を導入するようになった。そして130㎞/h運転というスピードアップを図る。すると阪急は次第とJRに客を奪われるようになる。こうなると阪急はこれまで十三、大宮の間を停めなかったのに、高槻市を常時停めるようにした。でも客足は減らず、やがて阪急は特急の停車駅を増やしだした。特急の停車駅がかつての急行並みになってきた。すると2枚扉で乗客の出入りに時間のかかる6300系は時代のニーズにだんだんと合わなくなっていく。それでも阪急は朝の通勤特急として使っていた。通勤特急は高槻市を出ると十三まで停まらないからである。だが、入り口の補助椅子に人が座ってしまい評判が悪かった。
6300系には入り口に折り畳みようの補助椅子が設置されてある。これは京阪電鉄の特急やJRの新快速にもあるが、ラッシュ時は電気仕掛けで触れないようになっていた。ところが阪急は乗客の判断にまかせ、座ろうと思えば何時でも補助椅子を利用できたのである。これが満員時には不評で、どれだけ込んでいようが平気で補助椅子を倒して座ろうとする者が後を絶たないので余計に車内が混雑するようになってしまったのである。思い出せば私が通勤で6300系に乗り出した20代の頃は、乗客のマナーも良くて満員時には補助椅子に座ろうとする者はいなかった。それが30年経ち乗客のマナーが低下。最近は混雑時でも座らないと損とばかりに補助椅子を倒して居眠りする輩だらけになってしまったのである。そうこうするうちに私は大阪市内から滋賀県の方へ職場が移動、阪急の6300系から縁遠くなって阪急に乗ることも無くなっていた。
6300系も長い間、走り続けて車両も古臭くなってきたのか2003年10月に、阪急は9300系という新型車両をデビューさせた。これでいずれ6300系は主力車両から引退するであろうということは判っていた。現在、阪急は新駅を増やし、さらに乗客を拾おうという方法に変更したようだ。こうなると2枚扉のクロスシートという贅沢な6300系は、時代遅れのお荷物車両として煙たく思われるようになっていたのも確かである。乗り降りに不便なので通勤時には向いていない。でも社の方針は停車駅を増やすというものだから、贅沢なクロスシート車両は厄介者でしかなく、とうとう引退の運びとなってしまった。残念だが仕方が無いだろう。でも私が長い間、お世話になった6300系は贅沢な車両として、阪急の一時代を築いたことはみんなの記憶に留まるだろう。阪急京都線のシンボルとして・・・・・。阪急を代表した車両として長い間、輝いていた。
・・・・・ただし6300系は車内を改装(4両)してローカルの嵐山線で当分は走るらしい。6300系が完全に廃車になるのではないからご安心を・・・・・。