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2010.06.30 (Wed)

日本VSパラグアイ

 サッカー・ワールドカップの日本対パラグアイ戦は延長でも決着がつかず、結局、PK戦で日本が敗れベスト8進出はならなかった。・・と如何にも残念だったというように書いているが、小生にこの試合を語る資格は無い。何故なら皆目、試合を観てなかったから語れるというものではない。

 昨夜は熱帯夜で寝苦しくて窓を全開にして寝ていた。でも寝れない。ちょうど日本対パラグアイの試合が始まる時間帯が微妙である。夜の11時というと、小生が就寝する時間である。もう、この歳になると真夜中まで起きてなく、早寝、早起きである。とにかく仕事がきついので、睡眠をとっておかなくては仕事中に睡魔に襲われる。それに鼻が悪くて鼻腔がよくつまるので寝づらいときている。それで早目に就寝するようにしているのだ。だから日本のサッカーよりも睡眠をとる。若いときなら当然、起きていて観戦しただろうが、今は、寝るほうがいい。ただ、寝ていても、今時は暑いから窓を全開する。すると近所の家から、日本が点を入れようものなら歓声があがる。日本が点を入れられようものなら、逆に悲鳴が聞こえる。それが昨日はあまり歓声も悲鳴もなかったから、静かな試合だったのかも・・・・。知らぬ間に寝てしまい、朝の5時のニュースで日本の敗戦を知ったまでである。

 ところで、小生は日本が試合をするから観るといった類のサッカーファンではない。1970年あたりからワールドカップを意識してきてが、長い間、ワールドカップは日本抜きで行なわれていた。なので日本だから観る、日本だから応援するというのでもなく、とにかく世界の一流プレーを観たいがためワールドカップと接してきたのだから、ここで今更、愛国精神を発揮して日本頑張れと叫んでもしかたがないでしょう。そりゃ、日本が勝つと嬉しいが、ようやくワールドカップ本大会に出れるようになって、まだ10年そこそこのサッカー小国が簡単に勝てるほど甘くないというのがワールドカップだろう。みんなワールドカップというけれど、大方の人は日本が出るようになってから、この大会を意識しだしたようだし、何をさしおいても日本戦の動向が気になるようだ。たかだか、プロ・リーグが発足して20年もならないというのに・・・。また、その後ワールドカップ本大会に出れるほどレベルアップした国の一つにしか過ぎない。それでいて、カメルーン戦の勝利に続いて、デンマークに3対1で勝ったのも驚いたが一次リーグ突破も驚いた。それでいて南米のパラグアイと延長で0体0、PK戦で敗退とは残念だが、ここまで来れば上出来だ。それ以上は次回以降に持ち越しということでいいのではないだろうか。

 PK戦で敗退といっても正確には敗戦の部類に入らない。PK戦はあくまでトーナメントで上に上がるチームを一つだけ決めるために、しょうがないから始まった方式で、これもスペイン大会から始まったものである。最近のサッカーは昔のサッカーよりも点が入らないから、このような方式をとらざるを得ない状況になってしまったのである。ただ、サッカーは90分の試合時間内で点を取ることを前提としているので、リーグ戦だと延長戦も行なわない。しかし、トーナメントで両チームとも上に上がれないので、このような方式で決着するしかないのだが、他に方法がないものだろうかと常に思ってしまう。

 要するに日本はPK戦は苦手だろう。日頃、シュートをしない選手にまでPKが回ってくることがあるから、兎に角、シュートすることに関しては、欧州や南米の選手の方が優れている。日本は個人のシュートで点を取るサッカーではなく、チームプレーで相手を崩して点を取るサッカーだ。なのでPK戦は苦手かも知らないが、今後のこともあって、PKの練習も必要かもしれない。
EDIT  |  21:19  |  スポーツ  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.06.28 (Mon)

映画『ブレードランナー』を観る

 『ブレードランナー』1982年製作、アメリカ、香港映画

 監督 リドリー・スコット

 出演 ハリソン・フォード
    ルトガー・ハウアー
    ショーン・ヤング
    エドワード・ジェームズ・オルモス
    ブライオン・ジェームズ
    ジョアンナ・キャシディ

 【あらすじ】時は2019年、地球の環境が悪化した結果、人類の多くは宇宙へと移住して行き、地球に残った人は、過密な都市空間に住んでいた。一方、移民惑星の宇宙開拓前線ではレプリカンとと呼ばれる人造人間が奴隷として働いていた。外見上は人間と変らないが、彼らには感情が欠如していた。それが製造から月日が経ち、彼らの中にも感情が芽生えだした。やがて彼らも人間に反乱するようになりるが、そのレプリカント達を処刑するのがブレードランナーである。こうして植民地惑星から4体のレプリカンとが脱走し、地球に潜入し人間社会に紛れ込もうそしていた。そこで、ブレードランナーのデッカードは、レプリカントを追う任務を任される。こうしてレプリカントとブレードランナーの対決が始まるが・・・・・・。

 この映画を観たのは30年近く前になる。1982年製作だから、おそらくその年か翌年に封切られたと思う。でも、その頃の批評は散々で、同じ頃に製作された『E.T』や少し前の『スター・ウォーズ』と比較しても人気がなく、SF映画でも異質な雰囲気を持つこの作品は判りにくいという意味で受けなかったように思う。確かに上映当時、当時のSF映画の概念からは浮いていた。1982年からだと2019年というのは近未来ではあるが、所謂、大宇宙を舞台にしているのでもなく、また、異性人が登場するというのでもない。舞台はあくまで2019年の地球であり西洋の都市ロサンジェルスである。それも何処か雑然とした都市空間が現れる。どこかゴミゴミしていて、西洋の近代都市の整然さは垣間見れないし、どちらかというとアジアの都市の猥雑さを含んだ、陰鬱で退廃的な画面が映画全体を支えている。

 ところで原作はフィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』であって、このような題名だと、いくらか意味が判るかと思うが、内容は結構、哲学的なものであって、単純で判りやすいストーリーでないことは確かである。それをリドリー・スコット特有の無国籍風の映像、世界観というものがあり、こういった暗い内容で終始していて、当時の人には一般受けしなかったといえるだろう。それが、現在では『ブレードランナー』は一部の人に熱狂的に支持される映画となってしまった。また、リドリー・スコット自身も考えるところがあって、何度も編集を重ね、色々なバージョンの『ブレードランナー』が存在する。

 当初、上映された『ブレードランナー』もあれば、国際バージョンもあり、ディレクターズ・カット版もある。さらに、ファイナル・カット版もあるし、結局は、それぞれのバージョンで観た印象は徐々に違ってくるし、それぞれの人が好きなように解釈すればいいっことであって、映像は多くは語らない。詳細を知りたければ原作を読めばいいのだし、映画と小説を同一線上で語れない。それだけに『ブレードランナー』はカルト的な人気のある映画として、今では語られるのかもしれない。


 『ブレードランナー』トレイラー。

EDIT  |  18:20  |  映画  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.06.27 (Sun)

第51回宝塚記念

 湿気を含んだ暑さで不快指数が最高に達している近畿地方。昨日は雨が降ったが、今日は雨が降りそうで降らないから、またまたとんでもない蒸し暑さ。これほど心地よさの欠片もない日も珍しい。とにかく家の中で空調がないとやってられないほどの湿度であるが、こんな日に阪神競馬場で春競馬の最後を飾る第51回宝塚記念が行なわれた。

 第51回宝塚記念(G-Ⅰ・3歳以上、芝2200m、17頭)はフルゲート18頭が出走してきたが(コバノジングーは取り消し)、狭い阪神の内回りコースにこれだけの出走馬というのは如何に。それというのも今の古馬に芯になる競走馬がいないからだろうが、したがって牝馬ブエナビスタが1番人気になってしまうのはどういうものか。それで2番人気が天皇賞馬のジャガーメイル、3番人気が上がり馬のアーネストリー、4番人気が昨年のグランプリ春秋連覇したドリームジャーニー、5番人気が昨年のダービー馬ロジユニヴァースだから、一応はメンバーは揃った格好である。でもどの馬も絶対的に信頼がおけない。そこへ昨日からの雨で、稍重馬場にまで乾いたとは言え馬場が悪い。だから波乱含みのレースで予想が難しくなった。それに、こんなにどうでもいい馬が多数出走して来なくてもいいのにと思うし、阪神の2200mのレースはつまらないし、何故、競馬会は宝塚記念を外回りの2400mのレースにしないのかとボヤきながら、しぶしぶレースの観戦に至ったのである。

 スタートが切られたがドリームジャーニー外にふくれて後方へ下がってしまった。ゆっくりと正面スタンド前を通過。何が行くか。ナムラクレセントが行った。2番手にアーネストリー、3番手ロジユニヴァース、4番手にインコースを通って何と追い込みのブエナビスタ。その外にトップカミング、そのあとにセイウンワンダー、ネヴァブション、アクシオンと続き、ジャガーメイルとフォゲッタブル、さらにナカヤマフェスタ、イコピコ、そしてドリームジャーニー、メイショウベルーガ、マキハタサイボーグがいて、スマートギアとマイネルアンサーの順でまもなく3コーナー。スタートからのハロン毎のラップは12.4---11.1---11.3---12.7---12.5と1000m通過が1分ちょうど。馬場を考えれば平均か、やや速いか。各馬が固まってきた。ナムラクレセント、アーネストリー、ロジユニヴァースの順だが、ブエナビスタインコースの4番手。さあ17頭、固まって直線コースに入る。阪神の内回りコースは直線が短いが、アーネストリーがここで先頭か。内からブエナビスタ、ブエナビスタがアーネストリーに並び掛ける。ここでナカヤマフェスタが来る。ナカヤマフェスタが来る。さらに外からドリームジャーニーだがまだ中団。あと200m、アーネストリーかブエナビスタか。ナカヤマフェスタの伸びがいい。あと100mをきった。ナカヤマフェスタ、ナカヤマフェスタが先頭に立った。ドリームジャーニーも来るが、まだ4番手。先頭にナカヤマフェスタでゴールイン。

 1着ナカヤマフェスタ 2分13秒0、2着ブエナビスタ 1/2、3着アーネストリー 1/2、4着ドリームジャーニー 1/2、5着ネヴァブション 1馬身。

 何と勝ったのはナカヤマフェスタ。ナカヤマフェスタにケチをつけるわけではないが、昨年の皐月賞8着、ダービー4着、菊花賞12着、今年に入って中日新聞杯13着、前走のメトロポリタンS(東京・芝1600m)という特別レースでようやく勝利した馬がG-Ⅰの宝塚記念を勝ってしまった。勝ったから強いのだろうが、これが今の古馬の勢力分布を象徴している。何時も牝馬が人気になり、牡馬の古馬は勝ち馬がコロコロと変る。春の天皇賞を勝ったジャガーメイルが8着というのはいただけない。昨年のダービー馬のロジユニヴァースも当分、復活はありそうもないし、ドリームジャーニーは成績が安定しない。これだとJRAの売り上げも頭打ちになるよなあ。スター待望論というものが出てくるのは仕方ない気がするが、3歳のヴィクトワールピサが今秋の凱旋門賞挑戦するというので、ちょっと面白い話題が出てきたが、相変わらずだらしないのが古馬の牡馬陣である。もう今の4歳以上に期待は出来ない。3歳馬の成長を期待するか。せめてナカヤマフェスタが、これから勝ち続けるようになると、今日の勝利は意味があったといえるようになるのだが。
 
EDIT  |  17:46  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.06.26 (Sat)

近頃の寿司ネタ

 嫌な季節である。ムシムシとして部屋が黴臭いような匂いがするときがある。鼻は悪いが匂いには敏感だから、異臭には反応する。洗濯物を室内に干すとどうしても異様な匂いがするものだが、今の季節、気温は高いが案外、乾きにくいから室内に干すこともある。それで異様な匂いがしたりする元凶でもあったりして、何れにせよジトジトと鬱陶しい。またこの季節になると私は発汗が治まらないから困る。

 少し動いただけで頭の天辺から汗をかくので頭髪が濡れてくる。とにかく気温が高くなると、食事をしただけで体温が上がり食後に発汗する。ことに熱い食べ物を摂ると発汗が酷い。だからこの6月から9月にかけて、ラーメン、うどんといった出汁に浸かった麺類は食べられたものではない。食べた折には頭の天辺から、額から、顔から、背中から、首筋から汗が迸るので、水を被ったのではないかと勘違いされるほど汗をかく。そのせいもあって、この季節、熱い食べ物を控えるようにしているのでもある。

 したがって夏に外出した時、いつも困るのが食事である。一体、何を食べればいいのか。出汁に浸かった麺類は避けるとさっき書いたが、カレーライスも食べられない。カレーライスの香辛料。あれがいけないのかもしれないが、とにかく辛口のカレーライスを食べると、これまた汗だくになってしまう。それと大阪人が好きなお好み焼きもいけない。これも食べると額から首筋から汗がひたたり落ちるから夏には食べられない。

 それなら何を食べればいいのかということになって、冷やしうどんや蕎麦ということになるが、これだと食べた気がしない。つまりボリューム感がないから、軽くすましたいとき以外は食べない。それでマクドナルドのハンバーガーか、牛丼なんかも食べることがあるが何だか物足りない。それでよく食べるのが回転寿司である。

 何故なら、安い、食べる量を加減出来る。ネタは冷たいのが多いので発汗しない。一人でも行けるといった理由で熱い季節になるとよく行くのだが、生物を扱うのでネタには要注意。でも昨今は食品の品質には気を配っているだろうから、あまり気にしていないが・・・・・・・・。

 回転寿司によく行くと聞いて、筆者は正規の寿司屋に行かないのかと思われるだろう。答えから言うと昔は何度か行った。でも値段が高くて、価格につりあうほどの値打ちがあるかというと ?がつく。回転寿司は正規の寿司屋より味は劣るからといってバカにする人がいる。だが、高価な寿司屋が美味しいというのは当たり前である。カウンターに座ってそこから注文なりを聞いて握ってくれるのだから、ネタも新鮮だしシャリも乾燥していない。美味いと絶賛して幸せな気分に浸れるが、いざ勘定となると目の玉が飛び出してしまいそうになる。これだと回転寿司の方がいいかなと、つい貧乏人は思ってしまう。でも回転寿司と比較することが間違っているとはいえ、価格は回転寿司の10倍、20倍もしたりするのだから、高級な寿司屋で気取って食べるのもいいが、やはり私は気楽に安価な回転寿司で舌鼓をうっているほうが性分に合う。とはいうものの回転寿司といっても最近はバカにできないほど、秀でたネタを仕入れて安くて美味しく食べさせてくれている店もあるから、高級寿司店も胡坐をかいていては左団扇で商売できない時代になっているかもしれない。なにしろ勘定が1人1万を軽く超える寿司屋と大して変らない美味しい寿司を握ってくれて、4人でたらふく食べて勘定が1万円というなら、当然、私は回転寿司を選ぶけど・・・・・・。

 とここまで書いてきたが、最近は回転寿司も事情が変ってきて、私はあまり行かなくなったのである。それは何故かと言うと、寿司ネタが多種多様になり本来の海鮮物のネタの提供から様変わりしてきたためである。私は寿司というと魚を中心に海や川にいる魚、貝等を中心に握り寿司、巻き寿司、軍艦巻きといったものが寿司だとばかり思っていたが、最近はやたらカニサラダの軍艦巻き、シーフードサラダの軍艦巻き、納豆の軍艦巻き、和牛サーロイン握り、水茄子握り、かにカマ軍艦巻き、貝割れ大根握り、オクラとろろの軍艦巻き、照り焼きチキン握り、鴨ロース握り・・・・・・・またトロはトロでも豚トロ握りだとさ・・・・・。

 このような加工品、野菜、または陸上動物の肉の握りが回転寿司のレーンを占領していては、皿を取るにもつい手を引っ込めたくなる。レーンにないと注文してくれというが、これだと注文ばかりで、レーンに乗っている皿を取って食べるという回転寿司本来の目的から外れるだろうに・・・・。寿司を握る職人も、客の方も互いに干渉せず気軽に食べられるからといって急速に全国に流行っていったのに、いちいち注文していては本末転倒というものである。せめてもっと海鮮ネタを流してくれないと、古参の寿司好きは離れていくように思うが・・・。

 やはり寿司はマグロ、サバ、ハマチ、タコ、イカ、アナゴ、タイ、ヒラメ、サケ、アジ、サワラ、コハダ、シャコ、エビ、いくら、ウニ、赤貝、トリガイ、ツブ貝、鉄火、かっぱ、玉子、トロ等がレーンに流れていてこそ食べる気が起こるけども、創作ネタの寿司を並べられると私は食べる気が起こらない。

 最近は子供が親に連れられて回転寿司に来るようになったから、色々とネタも変りつつあるのは判る。でも海の物ではないネタを酢メシにからませて食べるとなると、これは寿司といえるのだろうか。なんとも不思議な現象が最近の回転寿司では起こっているようだ。
EDIT  |  18:17  |  食・飲  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.06.24 (Thu)

④サッカーに対しての蘊蓄を述べる・・・・・

 1978年FIFAワールドカップは南米のアルゼンチンで開催された。アルゼンチンというのは昔からサッカーが盛んなところだが、これまでワールドカップで優勝はなく、1930年の第1回ウルグアイ大会で準優勝があるぐらいだった。実力はあるが優勝に縁がないというのは、これまでアルゼンチンはラフプレーが目立ち、相手チームをの中心選手に強烈なタックルをかけて潰すといったおよそ正統派ではないサッカーを試みていた。これによりヨーロッパでは嫌われ、ラフプレーの取り締まりも強化され、アルゼンチンは苦境に陥った。それを立て直すためにインテリジェンスあるセザール・メノッティ監督が登用され、アルゼンチンは地元開催での好成績を狙ったのである。1978年という時代、アルゼンチンは2年前のクーデターによる軍事政権下にあった。国内はインフレと政情不安を抱え、国内外でも開催反対の動きもあったが、サッカーの盛んなお国柄、強行で開催された。

 この大会、実は日本ではNHKが初めて生放送と録画を含めて大半の試合を中継した。これにより私は初めてワールドカップという大会の凄さを感じ取ったまでであるが、まだ、この頃はNHKが訳の判らない大会を中継していると揶揄されたものであり、1978年時点においても日本ではワールドカップに対する認識が薄かった。

 ところで、この大会は前回優勝国の西ドイツ、準優勝のオランダ共に出場していたものの、西ドイツからは主将ベッケンバウアー、点取り屋ゲルト・ミューラー、一方のオランダはスーパー・スターのヨハン・クライフを欠いていた。だから共に別のチームのように変っていて、前回の力強さは両チームともなかった。全体を通しても絶対的優勝候補といえるようなチームはなく、際立って活躍したプレーヤーもいなかった。所謂、何処の国も選手の入れ替え期にあり、将来の名プレーヤーが多数デビューした大会でもある。たとえばブラジルだとジーコ、トニーニョ・セレーゾ、オスカー。フランスはプラティニ、ロシュトー、トレゾール。イタリアがロッシ、ゾフ、ジェンティーレ、シレア、カブリーニ。西ドイツがルムメニゲ、カルツ、フィッシャー。そして地元アルゼンチンはケンペス、パサレラ、アルディレス、ベルトーニといったように若くて才能あるプレーヤーが、この大会から巣立っていったのである。もっともアルゼンチンのメノッティ監督は天才少年といわれた17歳のディエゴ・マラドーナをメンバーに入れなかった。これはまだ若すぎるという理由からだったように思う。この翌年、マラドーナは日本で行なわれたワールド・ユース大会でブレークすることになる。

 この大会、私はほとんどの試合をテレビで観た。でも大会の質を問われると前回のオランダのような質の高いサッカーをしているチームは皆無で、あのオランダもクライフがいないと、ただロングシュートを連発する荒いチームに変身していた。そんな中でもフランスは良いサッカーを見せていたし、イタリアも才能溢れる選手が多かった。ブラジルは絶対的なプレーヤーがいない中、ベテランのリベリーノ、若手のジーコ等はかみ合って、相変わらずの強さを発揮していた。でもブラジルは先発メンバーが固定せず、ジーコも活躍する舞台は用意されいなかった。前回優勝の西ドイツも若手のルムメニゲ、ベテランのフォクツ、ヘルツェンバイン、マイヤーが噛みあって入るものの決め手がない。結局、前評判の高くなかった地元アルゼンチンが地の利を生かし決勝へ進出。一方、クライフのいないオランダだが、フォワードの突破力と得意のロングシュートが決まり、2大会連続の決勝進出へ・・・・。

 決勝戦は紙吹雪の舞う、ブエノスアイレスのリーベルプレート競技場で行なわれた。共に過去、優勝がなく第1回大会準優勝のアルゼンチン、前回準優勝のオランダの対戦だが、両チームの決勝進出は意外だったという声が多く、そんな中で決勝戦が始まった。

 試合はキックオフからファールが多く、序盤だけなら決勝どころか凡試合の様相だった。それが前半38分、小柄なアルディレスがドリブルで持ち込み、ルーケ、ケンペスと繫いでゴール。ここから試合が面白くなった。後半に入って動きが活発になったが、両チームとも得点できずにいた。後半の途中でオランダは長身のナニンハが投入された。そして、終了8分前、R・ファン・ケルクホフのクロスを、長身のナニンハがヘディングで決め同点。さらに終了間際、オランダのレンセンブリンクが強烈なシュートを放つもゴールポストに当り得点ならず延長戦に突入した。

 延長前半、この大会得点王に輝いたアルゼンチンのマリオ・ケンペスが2人をかわし、渋いゴールを決める。さらに延長後半ショートパスから最後にベルトーニがゴールしてアルゼンチンに凱歌が上がった。

 アルゼンチンはこれまでサッカー盛んな国として隣国のブラジルと対比されていたが、この地元大会でようやくワールドカップを手にした。アルゼンチンのパサレラ主将がワールドカップを手にして高々と掲げると、8万近くの大観衆からアルヘンチナ、アルヘンチナの大合唱。この大会は芝の状態が悪かったことと、八百長疑惑、主審のアルゼンチンびいき等、大会としては何かと批判されることが多かった。でも、私はテレビを通して、初めてワールドカップの凄さを目の当たりにした大会でもあった。この大会以降、日本のテレビがワールドカップを中継するようになり、だんだんと日本人にサッカー・ワールドカップが浸透していくこととなる。


 1978年FIFAワールドカップのハイライト。

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2010.06.22 (Tue)

身体がついてこぬ

どうもこのところ身体がだるくてどうしようもない。雨が降りそうで降らないし、湿度が高いから室内でも汗が滲み出てくる。大量の水を飲むが、その水分がすぐに汗になる。でも昼間はなんとか我慢するが、夜の暑さはどうにもならない。日中の熱気が残っていて、窓を全開しても室内は頭がくらくらするほど暑い。エアコンを頼ればいいのだが、まだ6月だから自粛しているのだ。今からエアコンに頼っていると8月の暑さに耐えられないような気がする。今年は5月まで雨が多く、平年よりも気温が低い日が多かったのに、肝心な梅雨時になってから雨が少ないから、毎日、蒸し暑い。たぶん私の住む地域の周辺では雨が降っているから、これだけ空気が湿っていて、耐えられない蒸し暑さに繋がっているのかもしれない。

 ・・・・このところ、体調が良くないのはこの気候のせいでもあるが、とにかく身体がだるい。それに思考力まで鈍っている。この調子だとブログ更新が滞るかな。まあ、いいだろう。

 これからはブログ更新が遅くなるかもしれないなあ。これまでコツコツと書いて来たが、流石に頭の回転が鈍ってくると何を書いていいかも判らない。困った、困った。でも小生も何を言いたいのか良く判らない。

 ・・・とにかく身体がだるいから、今日はこれにて失礼しようか。
EDIT  |  20:53  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.06.20 (Sun)

マーメイドS

 大雨注意報なんていうのが京都府南部に出ていたのに雨がほとんど降らないから矢鱈と蒸し暑い。どんよりとした暑い雲で覆われていて、周辺では降っているところもあるのだろう。とにかく蒸し暑い。家の中に居るだけで汗が出てくる始末である。ちょっとこのような気候が続くと参ってしまうな。不快指数も相当なものだろう。とにかく暑い、蒸し暑い。とボヤいてもしょうがないがボヤきたくなる。

 話は変って昨日の夜に行なわれた、サッカーのワールドカップ、日本対オランダの試合は0対1で敗れた。残念だがこれが今の日本の実力かもしれない。でも強豪オランダの攻撃を僅か1点に抑えたもので、これは賞賛に値するだろう。ただオランダはアリエン・ロッベンが出ていないというのにも日本は助けられたのだ。そのことは考えなければならない。その一方で決められるチャンスがあってもゴールは出来ないという決定力不足は相変わらずである。オランダのディフェンスが良かったといってしまえばそれまでであって、日本のチャンスなんて限られている。僅かなチャンスで得点できるかどうかがサッカー大国と弱小国との差になっているのだから、ここ1番での決定力の差は大きい。オランダだってチャンスが少なかったもののきっちりと得点する。この差は埋めようがなく彼我の実力差として現れているとしかいえない。ただ残りのデンマーク戦は両国ともにトーナメントに上がれる可能性が強く、ガチンコ勝負となる。勝たないとトーナメントに上がれないデンマークはどんどんと攻めてくるだろう。それだけに日本としては意外と戦いやすいかもしれない。守備的にいって一気に攻めあがるというイタリアがやりそうな戦法をやればいいのかもしれないが、日本はあまりカウンターが得意ではない。ただボールを速く回すとデンマークのディフェンダーは動きが案外鈍いから面白いかもしれない。とにかく引き分け狙いはやめて欲しい。勝ってこそ上に上がる価値があるのだ。でも厳しい戦いになることは必至である。健闘を祈る。

 さて、競馬の話であるが、蒸し暑い曇り空の中、阪神競馬場ではマーメイドS(G-Ⅲ・3歳以上・牝馬、芝2000m、12頭)が行なわれた。関東の方は既に夏のローカル開催に入っているが、関西はまだ阪神開催が残っている。そして来週は貼る競馬の大一番、宝塚記念が行なわれる。それで今週はマーメイドS。どうも牝馬限定のレースは力が入らない。それで結果だけを記す。

 1着ブラティアパレス 1分59秒5、2着セラフィックロンプ クビ、3着テイエムオーロラ 1馬身3/4、4着ニシノブルームーン 3/4、5着ヒカルアマランサス 3/4。

 ところでディープインパクト産駒がとうとうデビューした。その第1号が今日の阪神のメイクデビュー(新馬)の芝1600mに登場したシュプリームギフトである。このシュプリームギフトは父と同様、小柄であり440kgしかないが、牝馬なのでやむを得ないところもある。でもレースはスタートが悪いところは父と似ていたが、あとはさっぱり似ていない。結局、勝ったアヴェンチュラから4馬身離された3着で期待を裏切った。だが、ディープインパクトは産駒が多く、これからどしどし出てくるので中には良いのがいるかもしれない。今後が面白い。
EDIT  |  16:46  |  競馬(国内レース)  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.06.19 (Sat)

③サッカーに対しての蘊蓄を述べる・・・・・

 前回、1970年のジュールリメ杯フットボール世界選手権でブラジルが3度目優勝をはたしジュールリメ杯を永久保持することとなり、同時にサッカーの王様ペレが代表から引退したところまで書いた。時代は70年代に入り、その頃であろうか、テレビでよく外国のサッカーリーグの試合を放送していた。たとえばイングランドリーグのチェルシー対アストン・ヴィラだとかマンチェスター・ユナイテッド対リヴァプール。また西ドイツのバイエルン・ミュンヘン対1FCケルン、ボルシア・メンヘングランドバッハ対ブレーメンといったように、主にイングランド、西ドイツの国内リーグの試合を紹介することが多かった。でも、こんなの観る人がいるのかあと正直、私はそんなことを思いながら観ていたものだ。なにしろ当時の日本といえばサッカー人気がなく、日本リーグといっても観衆はまばらであった。とにかく年輩の人の中には、サッカーが世界中で最も人気があって、野球が限られた地域でだけ人気のあるマイナー・スポーツであることを信じなかったし、野球は何処でも流行っている球技だと言い放つ人がいたぐらいだ。

 そんな時代でも、サッカーを愛する私は1974年のFIFA西ドイツ大会のアジア予選に参加した日本代表の動向に目を配った。でも当たり前のようにアマチュアの日本代表は弱く、イスラエルに1対2で敗れ、次の南ベトナムには4対0で圧勝した。だが、香港に0対1、イスラエルとの再戦に0対1で敗戦。早々と一次予選で敗退してしまった。こうしてまたも日本は出られず、1974年6月西ドイツでFIFAワールドカップが開かれた(参加16ヶ国)。

 この西ドイツ大会の頃、私は大学生になっていて、大会の試合結果が気になっていたが、もちろんテレビでの試合放送は一切なし。一般紙における報道も片隅という時代。ただスポーツ紙だけは海外の人気に目をつけ、日本でもソロソロ隠れファンがいることに気がついたのか、一面を割いてそこそこ大きく報道するようになっていた。

 この大会であるが、旋風を巻き起こしたのは前回優勝のブラジルでもなく、地元の西ドイツでもない。実は戦後、初めての出場になるオランダが話題を独占した大会だった。これまでオランダはサッカー弱小国。それが戦後生まれの黄金時代の選手がようやく育ちつつあり、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップでオランダのクラブ、アヤックス・アムステルダムが3連覇するなど飛躍的にレベルが上昇、それに比例し代表チームも急激に強くなっていた。ことにアヤックスでトータル・フットボールを実践していたリヌス・ミケルス監督とその選手達が、オランダ代表でも中心となり、この1974年の西ドイツ大会で大暴れした。

 オランダの選手は、これまでのサッカーの概念を打ち破る戦法で勝ち進み世界中の人は驚いた。サッカーのプレーが急激に近代的になった大会としてよく語られるが、その急先鋒となったオランダは、とにかくサッカーに革命をもたらした。それまでFW、MF、DFはそれぞれのポジションからあまり動くことはなかったから、サッカーの試合は今よりものんびりしていた。それがオランダ・チームはFWであろうが、MFであろうが、DFであろうが、時によっては関係なく、攻撃参加するし守備もする。オフサイド・トラップを頻繁にかける。DFのオーバーラップはある。とにかく攻撃が流動的であった。このオランダのサッカーを観て、専門家は21世紀のサッカーだといった。それほど衝撃的なサッカーを世界に見せ付けたのが、この時のオランダである。中でもチームのキャプテンであり、センター・フォワードであり、それでいてコントローラーでもあるヨハン・クライフに観衆は圧倒された。まさに変幻時代にプレーする。トータル・フットボールとはいえ、この革命的戦法はクライフという有能なスターがいてこそ可能であったといわれる。

 試合の流れを把握しながらチームに指揮をする。そういった中で自由に動き回り、攻撃の起点となったり、アシストをしたかと思うとドリブルで抜いていく、または強烈なシュートを放つ。まさにスーパースターであった。こうしてついたニックネームが『空飛ぶオランダ人』だとか『ヨハン・クライフ・スーパー・スター』であった。まさに西ドイツ大会は、オランダ旋風と共にクライフの大会のようでもあった。

 一方、ブラジルはペレを欠き、精彩がなく、二次リーグでオランダに敗れる。また地元の西ドイツはキャプテン、ベッケンバウアーを中心に稀代の点取り屋ゲルト・ミューラーの活躍で地味に勝ち上がった。こうして決勝は西ドイツ対オランダの間で行われた。

 これまでサッカーの生放送はなかったが、この時、史上初といってもいいだろう。決勝戦のみテレビ東京系列で深夜に生放送があった。当然、私は観てないが・・・・・・。

 とにかくオランダが圧倒的に有利といわれた。とにかくオランダのキックオフで始まったが、西ドイツは一度もボールに触れることなく先取点を奪われたのだ。キックオフからゆっくりボールを回し、再びクライフがボールに触れた途端、彼は西ドイツの陣地を切り裂くようにドリブルで急に突進した。するとペナルティ・エリアの線上でへーネスに倒されたのである。こうしてPKを得てオランダのニースケンスが蹴りこんで、開始1分でオランダは先制した。だが、このあまりにも早過ぎるゴールがオランダを変えてしまった。それまで見事なトータル・フットボールで相手を下してきたのに、勝ちを意識しだしたのか、過去のサッカー・スタイルに戻ってしまった。オランダはロビングを繰り返し選手が機能しなくなった。クライフは一人、憤慨するように苛立っていた。その後、西ドイツは息を吹き返し、前半でヘルツェンバインがPKを誘い、それにヤンセンがつられて倒してしまう。これでブライトナーがPKを決めて同点。後半にはゲルト・ミューラーガ渋いゴールを決めて、地元の西ドイツが優勝。近代的サッカーだといわれたオランダは優勝できなかった。でもサッカー史に残る近代的戦術で強く印象を残したのはオランダであり、最も素晴らしいプレーを見せたのもオランダと、その中心ヨハン・クライフであった。その強豪オランダと日本代表は、今日いよいよ戦うこととなるが、これは厳しい試合になりそうだ。ご健闘を祈ります。

 1974年FIFAワールドカップ決勝 オランダ対西ドイツ。

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2010.06.17 (Thu)

梅雨の中休み

 先日、入梅したかと思ったた昨日、今日と雨が降らずカンカン照り。気温も鰻登りで30℃を軽く突破してしまった。梅雨の中休みとはいえ、暑いこと暑いこと。既に真夏のような熱気。いよいよ大嫌いな季節がやって来た。例年、夏の間は動くのも嫌になるのだが、何やら今年は今まで以上に余計な仕事をやらなければならない羽目になりそうで、忙しくなるかもしれない。そうなるとのんびりブログも書いていられないかもしれない。それに、帰ってからどうしても読まなければならない本があって、毎日、少しずつ勉強しているのだが、それも続けられなくなるかもしれない・・・・・・。もう今更、この歳になって余分な仕事が増えて欲しくないのに、会社側は強引にやらそうとするからなあ。給料が上がるわけでもないのに・・・・。

 もう、この歳になると早く家に帰って、読み残している書物や、何かの勉強をやろうかと試みているのに、職場の方が邪魔をしようとする。まあ、持病さえ良くなれば、こんな職場なんか、さっさと辞めてやるけれども、もう暫くは我慢するしかないが。向学心がありすぎると、普通に付き合いで飲みに行くのも時間が勿体ないといった気がする今日この頃、帰ってからの貴重な時間、少しでも活字に触れていたいのだが、通勤時間が長くなってから、それも敵わない。50の手習いというと大袈裟だが、空いた時間があれば少しでも向学心に燃えたいと思う。だからテレビは帰ってから、ほとんど観たことがないのだが、このところワールドカップだけは観てしまうから困ったものである。でも、これもあと1ヶ月ほどだから、この期間だけはテレビも解禁として、そのあとはまたテレビと無縁の生活である。

 テレビを観ない生活は考えられないという人もいるが、あのテレビというものが出現してから、日本人の思考力がどんどんと低下しているというのに・・・・・。一方的に情報を受けてしまうだけで、次から次へと画面が変っていく。なので情報量は多くても底の浅い思考力しか身につかないのである。近頃、漢字も知らないし、誤字も多いし、語彙を間違って平気で使っている人が多すぎないか。若者が言葉の破壊者なのは当然だが、立派な大人でも酷いものである。それと情報端末が行届いて便利にはなったが、それと反比例するように知力も当然、落ちていることは明白である。だから、小生は自分で時代に流されないように、帰宅してからの貴重な時間に色々と情熱を注いでいるのである。
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2010.06.16 (Wed)

②サッカーに対しての蘊蓄を述べる・・・・・

 一昨日の日本対カメルーン戦であるが、薄氷を踏むような勝利だった。うまく松井がクロスをあげ本田が見事にゴールした。けして綺麗なゴールではなかったが、この海外でのワールドカップの勝利は大きいだろう。このところ代表の試合は敗戦ばかりで、ワールドカップで3戦全敗するのではとの声も多く、それだと今後のJリーグの人気にも係わるし、日本のサッカーの将来も暗いものとなっただろう。それが一昨日の勝利で、持ち直したというのが正直なところである。でも、まだまだオランダ戦、デンマーク戦が残っている。これらの強豪と、如何に戦うかが問われている。守備的にいってカウンター戦法という手もあるが、これだとつまらない。やはり堂々と立ち向ってゴールを目指して欲しい。チマチマしたサッカーをして引き分け狙いなんてもってのほかである。決勝トーナメントなんて行かなくていいから、こちらが納得できるような戦いぶりを見せてくれといいたい。

 さて、話は前回の続きで、1966年のジュールリメ杯世界選手権の映像を観てから、私は海外のサッカー事情を色々と調べるようになった。あの頃、アマチュアだった日本のサッカー。でもヨーロッパや南米の強豪国はとうの昔にプロ化していたことを知る。そして、この頃にサッカーの歴史なるものを文献で調べるようになり、また過去のワールドカップの映像なるものもテレビで拝見した。すると現在、FIFAワールドカップとして行われている大会は、フランス人のFIFA会長ジュール・リメが中心になって1930年に始まったということ、それで4年に1回行なわれ、第1回からウルグアイ、イタリア、イタリア、ウルグアイ、西ドイツ、ブラジル、ブラジル、イングランドの順に優勝しているという。それで、その頃に観た1958年のブラジル・チームの映像には驚嘆したものだ。

 サッカーの選手ってこれほど見事にボールが操れるものなのかと・・・・。あの伝説のブラジル・チーム。ババ、ペレ、ガリンシャ、ザガロ、ジジ、ジト、ニウトン・サントス、ジャウマ・サントス、オルランド、ベリーニ、ジルマール・・・・・彼らは、それまで私が抱いていたサッカーのプレーの概念をぶち壊してしまった。彼らは何故に、あれほど芸術的に華麗にボールを捌けるのか。彼らはヨーロッパの選手とは違っていた。中でも17歳の少年だったペレと狂気のドリブラー、ガリンシャのプレーには唖然とした。当然、ブラジルは1958年のスウェーデン大会に優勝。4年後のチリ大会も優勝し連覇した。そして3連覇がかかっていたイングランド大会で、ブラジルは徹底的にマークされ、ことにペレは狙われた。初戦のブルガリア戦からペレは脚を蹴られまくり負傷。2戦目のハンガリー戦でペレは欠場した。さらに3戦目のポルトガル戦。ここでもペレは脚を蹴られ、タックルされ負傷。場外に出され治療。でも片足を引きずったペレは満足なプレーが出来なかった。こうしてブラジルは不完全燃焼で敗戦。イングランドの地から去った。ペレはこの時「2度とこの大会には出ない」と言った。

 この当時のルールでは、先発メンバーが退場しても交代が出来なかったから、負傷して退場してしまえばメンバーが欠けた状況で試合を戦わなければならなかった。それで、ペレを退場させようと相手は執拗に脚を狙っていたのかもしれない。結局、この大会でラフプレーが目だったから、次回の大会からはメンバーの交代が2人まで認められるようになり、ラフプレーを防ぐためにイエローカード、レッドカードが採用されたのである。

 さて、私が初めて意識したサッカーの世界大会。1970年ジュールリメ杯世界選手権メキシコ大会。もうこの頃には俗称でワールドカップと呼ばれていた。しかし、日本での報道はほとんどない。この大会を知る人もほとんどいなかった。これが1970年ごろの実情である。その2年前であるがメキシコ・オリンピックで日本代表が奇跡の銅メダルを獲得した。釜本邦茂が得点王になり一躍注目されたのだが、その翌年、日本は1970年のワールドカップの予選に参加した。でも釜本が肝炎にかかり、彼を欠いたメンバーで予選を戦い残念な結果に終わったのである。

 1970年のメキシコ大会。テレビでも報道がほとんどないし、一般新聞ではスポーツ欄の片隅に結果が記載されるだけ。仕方なく私は本屋に行き、サッカーの雑誌で記事を読み情報を仕入れていた。つまり1970年の段階でワールドカップは、まだこの程度の認知度だったのである。ペレといってもサッカー・ファンにしか名前が知られていなかった。しかし、この1970年の決勝戦。ブラジル対イタリア戦。ある民放が特集番組で編集してテレビで放映してくれたのである。私はここでペレの躍動感に浸れることが出来、さらにジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノといったブラジルのプレイヤーの動きに目を見張ったものである。ブラジルはぺレのヘデイングで先制ゴールし、4対1でイタリアに圧勝した。

 ブラジルは大会3回目の優勝となり、ジュールリメ杯を永久保存することとなった。これにより次期大回から、新しいワールドカップの下で覇権を争われることなり、大会名も正式にFIFAワールドカップと呼ばれるようになったのである。なお、この1970年のメキシコ大会を最後に黒い真珠と呼ばれたサッカーの王様ペレは代表の試合から退いたのである。


 1970年メキシコ大回の決勝。イタリア対ブラジル。
 前半17分ペレのヘディングシュートでブラジル先制。37分イタリアのボニンセーニャがパスミスをカットして、1人で持ち込み同点。しかし後半はブラジルのワンサイド。ジェルソン、ジャイルジーニョ、カルロス・アルベルトがそれぞれ得点。ブラジルが3度目の優勝をはたし、ジュールリメ杯を永久保存した。

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2010.06.14 (Mon)

入梅したのかな?

 昨日は強い雨が降り続いて、今朝もどんよりした曇り空。天気予報では曇りから雨に変るなんていってたものの、一日中、蒸し暑くてとうとう雨が降らなかった。先週末にはそろそろ入梅かという声もあがったが、どうなんだろうか。最近は入梅してからでも空梅雨だったり、降りだしたら局地的な豪雨になったりするから、その時になってみないと判らない。それにしても蒸し暑い。空気が乾いてなく湿気含みの空だから日が照ってなくても実際の気温異常に暑く感じる。

 これから小生の大嫌いな梅雨と、そのあとの夏が来て、また憂鬱な数ヶ月を過ごさなければならない。毎年、この季節になると早く秋が来ないかなとばかり考える。連日30℃を超える様になると発汗が酷くて身体が動かなくなるから参ってしまう。せめて空気だけでも乾いていればと関西の蒸し暑さにいつも腹が立つ。

 愚痴を言っても始まらないが、涼しいところへ行きたくなる。このところ連日、サッカー・ワールドカップの報道をテレビや新聞が伝えているが、開催中の南アフリカは南半球でアフリカ最南端の国。だから涼しいだろう。この季節、北半球でワールドカップが行なわれることが多く、暑さで選手の動きが鈍っているといったことが、以前は見られたものだ。それが南半球の温暖な国での開催で、気温も15、6℃といったことが多く選手の動きがいいようだ。先ほど帰ってテレビをつけたらオランダ対デンマークの試合が行なわれているではないか。これは観なくてはと思い、そろそろ今日の記事も終わりにしようと思うが、この試合の直後から日本対カメルーン戦が始まるだろう。厳しい戦いになりそうだが、日本国外のワールドカップで勝たないと意味がない。今回は期待出来ないが、明日に繋がる試合をやらないと、日本のサッカーの未来も見えない。・・・・ということであり、これからサッカーの試合を観戦するから、下らない内容で申し訳ないが、そろそろ退散するとしよう。・・・・・
 
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2010.06.13 (Sun)

①サッカーに対しての蘊蓄を述べてみると・・・

 FIFAワールドカップが始まってからというものは、このブログもサッカーに関する記事が暫く増えそうな気がするなあ・・・・・・・・。

  これまでスポーツの記事が少なかったように思う。でもワールドカップともなると次第とテレビに齧るついてしまうというのはどういうことなのか。それは元来から私はサッカーが好きだったというのもあるが、やはりワールドカップというのは特別な意味があるのだろう。国の威信をかけて戦っているようなところがあって、どれだけの名選手でも4年に一度の大舞台でお国代表のユニフォームを着て試合に出ることは、サッカーのプレイヤーとしては憧れなのだろう。とにかく必死さが垣間見られて激しいプレーに息を呑む。それがワールドカップなのである。

 私は小学校3年までボールを受けることが出来ず、そのためドッジボールやソフトボールが大嫌いであった。これは家庭環境に関係すると思うが、兎に角小学校の3年まで野球のボールも触ったことがなく、グローブもバットも持っていなかった。親父がそういったことには一切、関心がなく、したがってキャッチボールというものを経験したことがなかった。野球なんていうのは観るものだと思っていた。しかし、余所の家庭の子供達は幼いときから大方が親とキャッチボールをやっていたり広場で草野球をやっていたから上手かった。だから小学校に上がってからは、見事にハンデとなり球技が苦手で体育の時間は憂鬱であった。それが、小学校4年の時に体育の時間でサッカーというものを知った。それは手を使わず、脚や頭でボールをキープして、敵陣のゴールにボールを入れるという。これが私には新鮮に思えて、この日からサッカーが好きになった。世の中には手でボールを受けなくてもいい球技があったのだ。とにかく蹴ればいいのだ。これほど楽しいものはない。でも今から思うと、体育の時間にやっていた我々のサッカーというのは、酷いもので一つのボールに、敵味方全ての者が集まって、ボールを蹴るだけという単純なサッカーだった。今の上手い小学生から比べると考えられないぐらい下手糞だが、当時の小学生なんてサッカーの認識がなく、テレビでさえもほとんど中継しなかった。あの当時のスポーツ中継なんて、野球か相撲か水泳、あとはプロレスとボクシングがあるぐらいで。サッカーなんて観たこともなかった。

 それが東京オリンピックで色々な競技が生中継されるに至り、私は学校から帰ってオリンピックの日本対アルゼンチンの試合を観た。おそらくこれが私にとって、初めて観るサッカーのテレビ中継だったように思う。この時、日本はアルゼンチンに3対2で逆転勝ちしたのだが、この試合で得点をとった選手の一人が川淵三郎である。でも私は、これがサッカーかといった程度にしか観てなかったように思う。結局、東京オリンピックで優勝したのがハンガリーで、世界一強い国はハンガリーだと思い込んでいた。


 この頃にサッカーの日本リーグが創設されたと思う。いわばJリーグの前身だが、あの頃はアマチュアである。社会人リーグといっていいだろう。八幡製鉄だとか東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)、古河電工(ジェフ千葉の前身)、三菱重工(浦和レッズの前身)、日立製作所(柏レイソルの前身)、ヤンマー・ディーゼル(セレッソ大阪の前身)等の8チームで始まったのである。その頃は広島にある東洋工業が強かったように思う。また正月にある全国高校サッカーの中継もあった。この当時は大阪、兵庫で開催されていたということも今の人は知らないだろうな・・・・・。

 この頃から日本のサッカーは次のメキシコ・オリンピックを目指してメキメキと強くなっていた。ちょうど天才ストライカー釜本邦茂の出現と俊足フォワード杉山隆一のプレーぶりにマスコミが注目し始め、新聞とかの見出しもだんだんと大きくなっていったという記憶がある。それでサッカー世界一のハンガリーを何時しか日本が倒すのだと、私は勝手に思い込んでいた。つまり当時、サッカー世界一を決めるのはオリンピックだとばかり信じていた。

 ところがである。私は中学校に入り、最初はバレーボール部に入部した。何故かと言うと入学した中学校にサッカー部がなかったからだ。それが中学2年でサッカー部が創部され、さっさと私はサッカー部に移籍した。その頃の顧問は大学を出たばかりで、よく世界のサッカーの話をしてくれたのだが、そこで初めて聞いた事実に私は衝撃を受けた。サッカー世界一を決めるのはアマチュアしか参加できないオリンピックではない。真の世界一を決める大会は別にあるという。プロが参加して覇権を争う世界選手権というものが4年に1回開催されているという。

 私は唖然となった。ちょうど、その頃、たまたまであるがテレビのサッカー特別番組を観た。それは顧問が言っていたサッカーの世界選手権の過去の映像を映し出している番組であった。世界中のサッカー強豪国16ヶ国が開催地に集まって1ヶ月弱の間にリーグ戦とトーナメント戦を行い、サッカー世界一を決めるというものだった。それで1966年のジュールリメ杯世界選手権の映像をテレビは流していた。そこで映し出された映像は衝撃だった。それまで観ていた日本のサッカーとは明らかに違っていて、個人技が見事で、ブラジルの選手達は相手の守備陣を撹乱するぐらいドリブルで抜いていく。その時に観た選手がガリンシャであった。残念ながらペレは相手に徹底的にマークされ、負傷し満足にプレーができずに不満足な結果にいたった。

 この時、注目を浴びたのがポルトガルのエウゼビオであり、西ドイツの若きベッケンバウアーであり、台風の目になった北朝鮮の選手達であり、ソビエトのヤシンであり、優勝した地元イングランドのボビー・チャールトンであり、ハースト等であった。そして、この時以来、私のサッカー遍歴からオリンピックの文字は消え、ジュールリメ杯世界選手権を観てみたいという願望に変ったのである。


 1966年のジュールリメ杯フットボール世界選手権イングランド大会決勝の映像。
 イングランド対西ドイツ
 ボビー・チャールトン、ゴードン・バンクス、ボビー・ムーア、ジェフ・ハースト、ウベ・ゼーラー、フランツ・ベッケンバウアーといった懐かしい面々が見られる。この試合の延長戦前半のハーストのゴールが今でも論議される疑惑のゴールである。

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2010.06.12 (Sat)

FIFAワールドカップに物申す

 アフリカ大陸の最南端の南アフリカで、4年に1回の世界最大のイベント2010年FIFAワールドカップが始まった。

 私はこれまでオリンピックは21世紀の現在、必要ないとこれまで何度も書いてきた。その勢いで言うならば、サッカーのワールドカップも同様、基本的には必要ないとは思っている。でもサッカーの場合は、オリンピックを開催することの無意味さに比べれば、幾分は許されるとは思っている。何故なら、たった一つの競技のみの開催である。国全体を会場としている。オリンピックのように人気のある競技の側で、皆目、人気の無い競技を開催する意味のなさに比べると、サッカーは世界中で最も人気のある競技であるからだ。

 アフリカやアジア、南米の貧しい人でもテレビのワールドカップに夢中になっている。これはオリンピックでは考えられない。オリンピックは自国のヒーロー、ヒロインに注目することはあるが、自国の選手が弱い競技や他国の選手にまであまり関心を示さない。それでいて国別メダル獲得数を競い合ってナショナリズムを昂揚させる。まあ、ワールドカップも国の対抗戦だから、同様のナショナリズムを生むのだが、これほどまでに世界中の人が一つの競技を通して話題を共有することなどFIFAワールドカップ以外は考えられない。

 ただ何故に私がワールドカップは現在では昔ほど必要ないと思っているかというと、それはこれだけ国際化が進み、ヨーロッパの大半のクラブにブラジルやアルゼンチン、ウルグアイ、チリ、コロンビア、パラグアイ等の選手が在籍する現在、国別の対抗戦でサッカー世界一を決める意味があるのかと考えたからである。レアル・マドリッドやバルセロナ、ユベントス、マンチェスターU、アーセナル、ACミラン、インテル、バイエルン・ミュンヘンといったヨーロッパのビッグ・クラブには、多国籍軍といえるほど世界中からサッカーの名選手が集まっている。そして、彼らは膨大な資金でクラブからクラブへと移って行ったりする。所謂、クラブ同士の駆け引きがあって、クラブの浮沈はそれらの外国人選手にかかっている。そういった中で、それぞれ各国のリーグ戦があり、またヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグがあり、クラブ世界一を決めるトーナメントがある。こういったサッカーの重要な試合が、毎年のように行われるのである。いわば、多国籍の選手が一つのクラブで何ヶ月もプレーを行い、やがてチームプレーとして熟成され、強豪となっていくクラブの過程というものがあって、今や国の代表よりもクラブ代表の方が強いといわれる時代にあっては、お国代表のサッカー世界大会が、世界最高峰の試合を繰り広げているといえるのかという疑問が絶えず私の中にあるからだ。

 彼らは国代表として招集され、僅かな試合だけを共にプレーする。お互いの呼吸が必ずしも絶妙という訳にはいかない。一方、所属クラブにおいては、年間何10試合も仲間同士で試合し、互いに意志の疎通も、阿吽の呼吸も見事に合い、そういった中でこそ世界中が驚嘆する芸術的プレーが生まれるのである。

 だが一方で、最近のワールドカップに至っては、クラブ同士の試合に比べるとつまらない試合が目立ち始め、ラフプレーも多く、守備的でつまらない。また体調面でも万全ではないのだろう。大会前から評判だった選手が、ワールドカップで凡プレーばかりを見せている。これは結局、何に起因するかというと、各自の所属クラブの試合が強行日程で組まれていて日頃から疲れているのに、いざ国代表の試合に招集されても、体調が優れず普段の動きか出来ないからである。また、国代表といってもお互いの選手は所属クラブが違い日頃は一緒に練習はしていない。だからチームプレーとしては噛み合い難く僅かな日数での練習では、チームとして未完成といった状況で大会に臨む場合が多い。

 つまりこれだけ本国から選手が出てしまう時代になると、代表召集にも時間がかかり、合同練習もままならないから、チームプレーが徹底しないのである。だから最近のワールドカップは昔のワールドカップよりもつまらない試合が増えたと私は思っているのだが・・・・。とにかく1970年代までは、南米の選手は自国のクラブからあまり出なかった。かのペレも、リベリーノもジーコも、マラドーナもそうだった・・・・。それが1980年代に入り、南米のスター選手はヨーロッパのクラブに大金で誘われるようになり、すっかり時代が変ってしまった。サッカースタイルも昔とは違って、30年ほど前は試合を観ただけで、これはブラジルのサッカー、これは西ドイツのサッカー、これはイングランドのサッカーと判ったものだ。でも最近は、何処の国のリーグ戦も似たようなサッカーをやりだした。何処の国のサッカーも国際的になったからだろう。でも、昔は良かったとは言わないが、そういった意味合いからも今更、国別のワールドカップを行なう意味があるのだろうかと思った次第である。でもワールドカップともなると、好カードは観るだろう。1970年のワールドカップから注目している私としては、2010年のワールドカップが、どのようなものになるのかといった興味もある。ただし私は日本には期待していない。3戦全敗の可能性もある。でもちまちました守備的なサッカーはやめてくれ。せっかくの大舞台だ。攻めて行って大敗してもいいではないか。気持ちよく散ろうではないか・・・・。
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2010.06.10 (Thu)

デイヴ・ディー・グループを聴く

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 ハーマンズ・ハーミッツに続いて、また訳の判らないグループを記事に登場させてしまったが、こちらの方はハーマンズ・ハーミッツ以上に知名度がないだろう。でも1960年代の後半、日本の商業音楽界に衝撃を与えたグループ・サウンズの曲をよく知っている人なら、このデイヴ・ディー・グループは聞き覚えのある名前だと思う。何故なら、彼らのヒット曲を日本のグループがカヴァーしていたからである。たとえば『オーケイ!』はカーナビーツが、『キサナドゥーの伝説』はジャガーズがカヴァーして日本語で唄っていた。だから当時の日本のファンはグループ・サウンズの曲だと今でも思っている人がいるぐらいだ。それほど1960年代の日本人の少年少女に馴染まれたサウンドということも言えそうであるが、そのデイヴ・ディー・グループとはいったいどんなグループだったのだろうか。

 日本ではデイヴ・ディー・グループと呼ばれたが、正式にはデイヴ・ディー、ドジー、ビーキー、ミック&ティックという5人のニックネームを羅列しただけという変った名前のグループである。しかし、ややこしいので本国のイギリスでもデイヴ・ディー&カンパニーという名前で呼ばれ、日本ではデイヴ・ディー・グループという名前でレコードが出されたので、我々もこのような名前で覚えていた。

 メンバーはヴォーカルのデイヴ・ディー、ベースのドジー、リズム・ギターのビーキー、ドラムスのミック、リード・ギターのティックである。そもそも彼らの活動は1958年、警察学校を出たばかりのデイヴ・ディーが、ソールズベリーの友人達とデイヴ・ディー&ザ・ボストンズを結成したことに始まる。彼らは1962年にドイツのハンブルグのクラブで長い間唄っていた。これはビートルズを始め、当時のイギリスの多くのグループがそうだったように彼らも倣ったのだろう。イギリスに帰国後、彼らは64年に正式にデビューする。

 初のヒットは1965年に発売された『ユー・メイク・イット・ムーヴ』で、この曲はイギリスのヒット・チャートで26位となった。だが大ヒットには恵まれず、結局、彼らの名が知れ渡るようになった曲は1967年にイギリスで4位にまで上昇した『ホールド・タイト』である。でも日本では皆目、無名。それが同じ1967年に出した『オーケイ!』がイギリスで4位だったが、日本ではこの無国籍とも言える風変わりなサウンドが受けて大ヒット。日本でも有名になった。さらにカーナビーツがカヴァーしてヒット。日本の女の子がアイ高野の真似をして唄っていたという記憶が私の中にはある。そしてデイヴ・ディー・グループの最大のヒット曲が1968年に発売された『キサナドウーの伝説(The Legend of Xanadu)』である。この意味不明の題名と共に、どこの国の音楽か判らない無国籍(ラテン風ではあるが)ぶりがまたまた受けてイギリスで1位。日本でも大ヒット。グループサウンズのジャガーズもカヴァーして日本語で唄っていた。

 おー 愛に生きて死のう あなたを連れてゆこう
 はるかなキサナドゥー

 でもこういった典型的なビート・ポップス・グループの人気は長続きせず、1969年にはリーダーのデイヴ・ディーが抜け、残りのメンバーで活動してみたものの、大ヒットまではいかず、だんだんと忘れ去られていった。1974年にデイヴ・ディー・グループは再結成されシングル盤を出したことも聞いている。でも話題にもならず、その後は何度かメンバーが集まってチャリティー・コンサート等を行なったりしているらしい。でも、彼らの無国籍、エキゾチックな音楽性は万人受けするものではなく、今となってはそんなグループもあったなあと昔のポップスを聴いていた連中との会話のネタに挙がるぐらいである。

 『OKAY!』を唄うデイヴ・ディー・フループ。音声のみ。


 『キサナドゥーの伝説』を唄うデイヴ・ディー・グループ。フラメンコのようであり鞭を打ってみたり、無国籍音楽というのが受けたのか。何だかジャガーズを思い出す。

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2010.06.08 (Tue)

朝から電車が・・・

 今日は朝から耳鼻咽喉科によるので出社が遅れると断って、何時もより遅く起床して耳鼻咽喉科に行く前に朝食を摂っていたら、救急車のサイレンの音やら何やら騒動しいので何事かなと思いながらも聞き流していた。そでれから間もなく家を出て、長い間、待たされてたった2、3分の往診は終了。処方箋を貰って薬局で薬を貰い、ようやく出勤しようと最寄り駅に到着。すると上下とも大幅な電車の遅れが出ているではないか。しょうがないから職場の方に電話を入れて、到着時間が大きく遅れるといったら、まだ着てない者もいるとのことで驚いた。いったい何時から電車は遅れているのだ。

 50分遅れの普通電車が到着。新快速や快速はほとんど運行停止のようだ。それで12両編成の各駅電車米原行きに乗ったのはいいが、このラッシュ時から外れた時間帯だから空いているとかと思いきや、大幅な延着と運行停止のおかげで車内は満員であった。あーあ、これは朝から疲れるなあ。ホントについてない。その後、京都駅で大勢の人が降りたから救われたが、山科駅手前で徐行運転。もうすでに遅れているし、昼からの出勤でいいかと思ったが、案の定、昼からの出勤になってしまった。

 あとで聞いたら、○○駅付近の踏み切りで人身事故が発生。これにより各電車が運転を見合わせたり、延着したりということで、その影響が昼過ぎまで続いたという。それも事故発生が何と、私の家の最寄り駅の近くの踏み切りだったというから驚いた。そういえば朝、救急車やらレスキュー車?等がサイレンをけたたましく鳴らしながら走っていたのは、この事故のせいだったのだとあとで気がつく。

 運転手の話によると、70代か80代のお婆さんが踏み切りに入ってきたという。事故か自殺か知らないが、自殺なら大きな迷惑だ。こちらとしては、どうせゆっくり家を出て、電車内が空いた時間帯だから座席に座って本でも読みながら出勤すればいいと考えていたら、満員電車で揉まれながら出勤することになった。これだと何時もの時間帯に出ていたら、事故に巻きこまれなかったのに、なんとも運河ないというかツキに見放されているというか、お婆さんよ、朝の早くから踏み切り付近をウロウロするなよ。まことに迷惑、お騒がせな人身事故であった。死んだ女性の身元はまだ判らないという。まさか知っている人ではないだろうな。
EDIT  |  21:18  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.06.07 (Mon)

第142回ベルモントS

 アメリカ競馬、3冠レースの最終レースである第142回ベルモントS(G-Ⅰ・3歳、ダート12F、12頭)が現地時間6月5日、ニューヨーク郊外のベルモントパーク競馬場で行なわれたので、その結果を記すことにする。

 今年はケンタッキー・ダービーの勝利馬もプリークネスSの勝利馬も出ない盛り上がりに欠くベルモントSであった。その反面、有力馬がいないからといってベルモントSには珍しい12頭も参戦してきて、団栗の背比べのようなメンバーであったが、レース自体は面白かった。

 1番人気はケンタッキー・ダービー2着のIce Boxで、以下 Fly Down,First Dudeの順に人気したが、レースはFirst Dudeが逃げ、それを好位マークから4コーナーでスルスルと上がって来た人気薄のDrosselmeyerが外から進出。そして前走で6馬身差に敗れたFly Downの追撃を抑えて優勝した。

 1着 Drosselmeyer 2分31秒57、2着 Fly Down 3/4、3着 First Dude クビ、4着 Game on Dude 1馬身1/2、5着 Stay Put 1/2+3馬身3/4。

 勝ったDrosselmeyerはこれで9戦3勝2着3回。初のG-Ⅰ勝利である。血統は父Distorted HumorでMr.Prospector系に属する。母はGolen Bllet(父Moscow Ballet-----Northern Dancer系)である。

 なお、1番人気のIde Boxは8着に惨敗した。


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2010.06.06 (Sun)

第60回安田記念

 暑い。兎に角暑い。今日は安田記念が東京競馬場で行なわれたが、どうも力が入らない。ダービーが終わると翌週の競馬は毎年、例によって力が入らない。それに今回はあまり好きではないマイル戦。どうも最近はマイルのGⅠレースが多すぎないか。長距離が軽視されるのとは逆にマイル路線を重視しているから、このようなことになるのだが、それでいて最近はマイラーも良いのがいない。だから盛り上がらないのだが・・・・・。

 まあ安田記念の記事は簡単にすまそう。ということで第60回安田記念(G-Ⅰ・3歳以上、芝1600m、18頭)は香港から3頭も出てきて群雄割拠の様相であったが、1番人気が昨年のダービー2着のリーチザクラウン、2番人気がトライアンフマーチ、3番人気が皐月賞馬キャプテントゥーレ、4番人気が香港馬ビューティーフラッシュ、5番人気がスマイルジャックであった。

 スタートからペースが速く、エーシンフォワードが逃げ、マイネルファルケが続き、リーチザクラウン、キャプテントゥーレ、トライアンフマーチといった人気馬が好位置で追走とちう形となったが、ハロンラップが12.0---10.7---10.9---11.3---11.4と800m通過が44秒9、1000m通過が56秒3と速かったため、前にいた馬は直線に入って伸びを欠き、内からスマイルジャックが伸びたところを外からスーパーホーネット、サイトウィナー、ショウワモダンが末脚を伸ばしてきた。それでショウワモダンが混戦を制し勝った。

 1着ショウワモダン 1分31秒7、2着スーパーホーネット 1/2、3着スマイルジャック アタマ、4着トライアンフマーチ 1/2、5着サイトウィナー アタマ。

 1番人気のリーチザクラウンは14着と惨敗した。勝ったショウワモダンは最近は好調であったが、既に38戦を消化している6歳馬。このような結果を見ると、マイル路線もつまらないと感じるのは私だけではないだろう。長距離路線は最近、酷いがマイル路線も皆目つまらない。競馬人気はこれからしばらくスター不足で低迷しそうな気配すらするが、今年はいよいよディープインパクトの子供達がデビューする。この中からスター候補生が出てこないものだろうか。淡い期待を抱いているのだが。
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2010.06.06 (Sun)

第229回英国ダービー

 現地時間、6月5日午後4時(日本時間6日深夜)、伝統の第229回ダービー・ステークス(G-Ⅰ・3歳、12F10yd、12頭)がロンドン郊外のエプソム競馬場で行なわれた。今年は昨年のSea The Starsの再来といわれたSt.Nicholas Abbeyが2000ギニーで6着に敗退。さらにダービーを前にして出走を残念してしまい混戦が予想された。それで人気はJan Vermeerが3.5倍で1番人気、2番人気をMidas TouchとWorkforceが分ける形となった。でも出走馬は12頭と少なくなってしまった。

 レースは最初から先頭に立った人気薄のAt First Sightが例年よりも速いペースで逃げ、終始4馬身ほどリード。坂の頂点から下りに入りタッテナムコーナー手前から早めのロングスパート。長い直線に入り、At First Sightが後続との差を拡げようとしたが、中団よりやや後ろに待機していたWorkforceが直線で爆発。ゴールまであと300mのところであっという間に先頭にたち、あとは引き離して快勝。

 1着 Workforce 2分31秒33、2着 At First Sight 7馬身、3着 Rewilding 1/2馬身、4着 Jan Vermeer 4馬身、5着 Midas Touch アタマ。

 何と勝ちタイム2分31秒33は驚異的なダービーレコードである。いくら道中のペースが速いといっても、この勝ち時計は驚く。日本のダービーが2分23秒~26秒で争われるのとは違って、本場のコースは周回コースではなく、馬蹄形の半円を描いたようなコースで、最も低いところと最も高いところとは40m以上違う。だから中山の直線の坂や府中の坂、京都の淀の3コーナーの坂を想像してもらったら困る。どちらかというと栗東の坂路コースをレースで走っているのを想像するほうがいいだろう。だから今まで、日本のダービーよりも10数秒も遅いタイムで決着していたのだが、今年は凄いタイムが出てしまった。これだと勝ち馬のWorkforceは過去のダービー馬と比較しても遜色のない競走馬かもしれないし、今後の活躍が期待される。

 Workforceはこのダービーがたったの3戦目。新馬で勝って、前走は2着、そして3戦目がダービーだった。血統は父King's Best、母Soviet Moon(父Sadler's Wells)ということは、先週の日本ダービーを勝ったエイシンフラッシュと同じ父ということになる。偶然とはいえ実に面白い。これからKing's Best注目の種牡馬になるかもしれない。


 最近は規制がかかり、英国の競馬の動画を記事に貼り付けることが困難になってきた。ことに正式の公共放送の映像は貼れないから、誰かがテレビの映像を上から撮った映像を貼り付けることにした。なので画像は悪いがご了承ください。

 
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2010.06.05 (Sat)

またまたまたまた首相が替わった

 鳩山由紀夫首相の突然の辞任により、後任が注目されていたが、昨日の6月4日、民主党の菅直人代表が、第94代、61人目の内閣総理大臣に選出された。・・・といってあまり国政の話をやりたくはないけども、菅直人という人がようやく首相になったのかといった思いがあり、また一方では菅直人は首相にはならないだろうとも小生は思っていたのだが、民主党が政権を握るとこうもあっさりと首相になってしまうのかと驚いている。

 でも最近は安倍、福田、麻生、鳩山と4年で4人も首相が替わるというこの国で、今更、誰がなっても同じではないかといった失望感ばかりがあるが、ただいえることは2世、3世の政治家でないということだけが救いのような気がする。

 思えば今から30年以上前になるが市川房枝というお婆さんがいた。お婆さんというと失礼だが、当時、20歳そこそこの小生から見ると、随分と歳のいったお婆さんに見えた。白髪頭で眼鏡をかけ男のような太い声で弁が立つ。こんな女性の政治家もいたのだと思ったが、聞く所によると、女性の地位向上に尽力した人で、戦後に女性参政権運動を展開し、見事勝ち取った人である。今日、女性が選挙に参加できるのはこの人のおかげといってもよい。だから簡単に興味がないからといって投票を放棄する女性は、市川房枝の苦労話でも知っていてもらいたいが、ここではそんなことは書かない。

 とりあえず話を前に進める。この市川房枝という人が衆議院選挙に当選した時、この選挙事務所に若い男性が何時もいたことと思い出す。実は、この若者が菅直人だったのである。それで彼は何をやっていたかというと、市川房枝の選挙事務長を務めていたのである。もともと菅直人は東京工業大学時代に政治サークルに属し志はあったようだ。大学を出て弁理士の試験に合格。弁理士とはあまり聞きなれないが、産業財産権等に関する業務を行なうためには必要な資格なのである。試験には一次、二次、三次とあり、そこでは特許法、実用新案法、意匠法、商標法、工業所有権法に関する条約や著作権法、不正競争防止法などが出題され、また物理学や高等数学、化学等の問題も出るので、大半は大学の理数系出身者が弁理士の試験に合格している。

 つまり菅直人は政治とは正反対の応用物理学を学んでいた人であり政界では異色であろう。それが市川房枝の選挙事務所で選挙参謀として活動していたことから、自らも政界を目指すようになったともいえる。しかし、菅直人は選挙運動に参加する前から、特許事務所に勤める一方で様々な市民運動に参加していたという変り種。だから、ある程度はやらせてみても面白いとは考えているのだが、問題が山積している現在の日本の状況。これまでの首相たちがすぐに問題を先延ばししてしまい、挙句の果てには舵取りをあっさりと放棄してしまう。これだと何の問題も解決しない。今、立ち向かわなければならない難問が山脈のように立ちはだかっているというのに、舵取り役がコロコロ替わり、右往左往している有様だから一刻も早く、軌道修正してもらいたいというのが本音だが、彼の理系出身の応用のきく頭脳と市民運動で養った行動力でもって、少々古い表現だが万機公論に決すべし・・・・。といって期待はあまりしてないが・・・・・・・・・・誰かが舵をとらないといけないのだから。。
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2010.06.03 (Thu)

アレサ・フランクリンの初期の曲を聴く

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 小生が小学校から中学校にかけての頃であるが、ソウル・ミュージックがよくラジオで流されていた。その頃はソウル・ミュージックがどのようなものかも当然、知るはずもないが、黒人が唄う音楽だということだけは理解していた。といってもジャズも黒人の音楽、ブルースもそうである。それらが渾然一体となって小生の頭の中に沁みこんでくる。いったいどれがジャズで、どれがブルースで、どれがソウルで、どれがゴスペルでといった具合で訳も判らず、それらを全て洋楽というジャンルで一纏めにしていたような記憶がある。
レイ・チャールズ、ルイ・アームストロング、サム・クック、ナット・キング・コール、ウィルソン・ピケット、スモーキー・ロビンソン、サラ・ヴォーン、フォー・トップス、テンプテーションズ、オーティス・レディング、B・B・キング、サム&デイヴ、シュープリームス、ディオンヌ・ワーウィック・・・・・年数が経ち次第とそれらの黒人が奏でる音楽の色分けが出来るようになったが、特色として白人と違うのは声の質が違うということは子供ながらも認識していて、声に粘り気があってリズム感があって、とにかく唄が上手いという印象は当時からあった。

 そんな頃に一人の唄い手を知った。それがアレサ・フランクリンである。あの頃のアレサ・フランクリンはソウルフルでエネルギッシュな唄い方は勿論だが、今よりも美声であった。後年に映画『ブルース・ブラザース』で相変わらずパワフルな唄を披露していたが、若いときの彼女はもっと澄み切った声でみずみずしさがあった。

 最初にアレサ・フランクリンの名を意識したのはオーティス・レディングのカバー曲を唄い大ヒットした『リスペクト(Respect)』だったが、オーティス・レディングよりもより白人が唄った様な唄い方で、垢抜けしているといった雰囲気があった。その直後にはバート・バカラック作曲、ハル・デヴィッド作詞の曲で一度ディオンヌ・ワーウィックでヒットしている『小さな願い(I Say a Little Prayer)』を唄ったのであるが、小生はアレサ・フランクリン・バージョンを聴いて思わず唸ってしまった。それからというものは気になるシンガーとして現在まで続いているのだが・・・・・最近のことは余り詳しくはない。

 アレサ・フランクリンは1942年にテネシー州のメンフィスで生まれた。メンフィスというとプレスリーを生んだ土地柄で、こういったアメリカ南部の音楽が育まれたきた豊な土地である事が判るが、アレサ・フランクリンが育ったのはモータウン・ミュージックで有名なデトロイトである。父が牧師で3人姉妹の末っ子だったアレサは、子供の頃からゴスペルを唄っていた。さらには父と帯同してアメリカ中を唄って周り、すでに天才歌手として通っていた。アレサ11歳の時、父はレコードをリリースする。ここでアレサは2人の姉のバックコーラスをする。さらにアレサは16歳の時、マイナーレーベルでソロデビューすることになる。これがコロンビア・レコードのジョン・ハモンドの目に留まりとうとうメジャー・デビューとなった。だが、この頃は不本意な結果しか出ず、1966年にアレサはアトランティック・レコードに移籍する。こうして最初にヒットしたのが『リスペクト』(1967年)だった。こうしてアレサ・フランクリンは日本にも知れ渡るようになったのである。

 ところでこのアルバムは初期の代表的な曲ばかりが収められている。『Chain of Fools』『Save Me』『Try a Little Tenderness』『I Say a Little Prayer』『Dr.Feelgood』『It Ain’t Nessessarily So』『A Natural Woman』『Do Right Woman,Do Right Man』『See Saw』『I Apologise』『Think』『My Guy』『The House That Jack Built』『I Never Loved a Man』『I’m Sitting on the Top of the World』『Respect』

主に1960年代にアレサ・フランクリンがリリースした曲が収められていて、聴いていて懐かしさがこみ上げて来た。あれから40年にはなるが、アレサ・フランクリンは一旦、2003年に引退したが、現在は撤回して歌手活動を続けているようである。1987年には女性歌手としては初のロック殿堂入りを果し、これまでグラミー賞受賞は20回。2005年秋には大統領自由勲章を授与。今やアレサ・フランクリンはすっかり大御所となってしまったが、小生には何時までも40年前のアレサ・フランクリンのパワー溢れた唄の記憶のまま現在に至っている。


 『Respect』を唄うアレサ・フランクリン。


 『I Say a Little Prayar(小さな願い)』を唄うアレサ・フランクリン。


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2010.06.02 (Wed)

通勤時間が長いと・・・・・

 滋賀県へ通勤するようになって2年になる。当初は慣れれば平気かなと感じていたが、2年経ってみて一向に慣れない。通勤時間が本当に苦痛である。通勤に2時間かけるなんて無駄もいいところだ。もっとも私よりも通勤時間が長い者が多いので贅沢はいえないが、この往復の時間が勿体ない。本を読むにも車内が混んでいて落ち着いて読めたものではない。とにかく行きも帰りも電車が混んでいる。大阪に通勤していた時の混雑具合ほどではないが、あの頃は通勤特急や快速急行で合間の駅を素通りしていくので案外苦にならなかった。電車に乗っている時間が今よりも短くかくてすんだ。それに頻繁に電車が来るので駅での待ち時間も少なくてよかった。それが今は、長い距離を、それも各駅停車で毎日、揺られながら人混みに混ざりながら耐えなければならない。これが苦痛なのだ。

 JRなんて西明石~京都間だけは便利がいいが、その区間から以東、以西じゃたちまちローカル並のダイヤに陥ってしまう。通勤時も昼間の閑散な時も1時間にたった4本というダイヤしか組んでいないから、どうしても車内が混雑する。それに滋賀県を走る新快速、快速なんていうのは各駅停車とさほど差がないから、結局は各停で延々と通勤しなくてはならない。でも、この各駅停車というのは疲れる。一駅ごとに人が出たり入ったり、その度に場所を空けたりつめたりで、とことんくたびれる。座れれば楽かもしれないが、とても混雑度からいって座れるものではない。行きが混んでいるのは当然だが、帰りも混んでいるからいい加減嫌になってくる。こんな状況で、京都市の山科駅まで立ったまま揺られて来る。するとこの駅で半分位の人が降りてホッとする。ここは湖西線の乗換駅だから人の出入りが多いのだが、ようやくここで一息つけるのである。車内に人が少ないというのは疲れないものである。そして京都駅に到着。ここで大部分の人が降りてしまい車内はガラガラになる。ここからだと新快速が本領を発揮して、間の駅を飛ばしてフルスピードで突っ走るから、乗り換える人も多い。だが私は、ここからだと数駅で自宅のある最寄り駅に到着するので、新快速に乗る訳には行かない。だから毎日、各停を利用している次第なのだが、便利の悪いことは極まりない。

 ようやく疲れて帰宅。すると鳩山由紀夫首相が辞任したというニュースをテレビでやっていた。また首相の辞任のニュースか。よく毎年、毎年、これだけ首相が替わるものだ。・・・・・・しかし、もう何の意見もないな。ある程度、予測できたことだし、いよいよ指導者が枯渇した斜陽大国の様相になってきた。いよいよ舵を失った日本丸は彷徨える痴呆症老人のように行く先も見えず、滅び去ってしまうのだろうか・・・・・・・。もうそんなことはどうでもいいが・・・・それにしても鳩山さん。あんたもお疲れのようで・・・・。
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2010.06.01 (Tue)

デニス・ホッパー死去

 デニス・ホッパーが29日、ロサンジェルスの自宅で亡くなったと報道されていた。昨年の10月に末期の前立腺癌であると公表し、これまで闘病生活を強いられていたが、とうとう前立腺癌による合併症で亡くなった。

 デニス・ホッパーといっても最近の人はあまり認識がないだろう。74歳だからしかたがない。俳優で監督でプロデュサーであるといっても印象はうすいかもしれない。所謂、脇役俳優であるから、あまり主演をしなかった。でも過去の出演映画を見てみると驚かれると思う。デニス・ホッパーが19歳の時に出たのが『理由なき反抗』である。この時の主演がかのジェームス・ディーンであり、次に出たのが『ジャイアンツ』である。この時も主演はジェームス・ディーンであり、若き日のエリザベス・テイラーであった。若いときに一緒に映画に出た仲間がジェームス・ディーンであったというのは貴重な体験であろう。とにかくジェームス・ディーンはたったの三本の映画に出ただけで交通事故で死んでいった。その中の二本をジェームス・ディーンと共に出演したから、当然のようにジェームス・ディーンの影響を受けたという。

 ジェームス・ディーンという役者も何かに訴えている目を絶えずしていたが、彼に影響を受けたデニス・ホッパーも、その後は監督やスタッフと何度も衝突し不遇の時代を送るしかなかった。彼は映画の都ハリウッドに居場所はなく、ニューヨークに行き、彼の地で独立プロの作品に幾つか出演しキャリアを積んでいった。でも知名度は上がらずにいた。そんな時代に彼は監督として俳優として脚本家として映画『イージー・ライダー』を生む。

 1969年製作された『イージー・ライダー』は、今では反体制的なアメリカン・ニューシネマの代表的作品としてカルト的な人気を誇る作品となり、上映された映画は大ヒットして彼は一躍、有名になった。しかし、撮影開始当初、『イージー・ライダー』がこれほど評判になり、これはど人気が出るとは考えてなかっただろう。『イージー・ライダー』は単に麻薬とバイクとを結びつけたロードムービーを低予算で撮りたかっただけだと確か彼が言っていたように思う。それが思わず反響を呼び、当時のアメリカのバイクに跨ったヒッピー青年を通して権力を痛烈に批判したのだと、批評家やファンが一方的に解釈し、熱狂的に若者に支持される映画となってしまった。それ以来、デニス・ホッパーは反社会的なイメージが先行してしまい、再び映画出演に恵まれなくなる。私生活でも麻薬や酒に溺れる始末で、反社会的なシンボルも地に落ちたといわれたものである。

 1980年代も後半になり、ようやく彼は映画出演に積極的になるが、若い頃の映画とも『イージー・ライダー』で監督・脚本・主演を演じた頃と違い、性格俳優としてスクリーンに帰って来た。もう反逆的な目はしてなくて、ハリウッドの役者の顔をしていた。『地獄の黙示録』『ブルー・ベルベット』『勝利への旅立ち』『ハートに火をつけて』『トゥルー・ロマンス』『逃げる天使』『スピード』『ウォーター・ワールド』『バスキア』『スペース・トラッカー』・・・・・今世紀に入っても精力的に映画出演していた。もっとも最近は私も映画を観なくなったから、デニス・ホッパーがどういった役で出ていたか知らない。彼は好んで出ていたのだとしたらいいが、若い時のような反抗的な目ではなくなり大衆に迎合してしまったかのように私は思えた。しかし、どんな役をしていようが、どんな心境の変化が起ころうが、何れもデニス・ホッパーであることに変りはない。

 そこで最近、何気なく思っていることだが、デニス・ホッパーには他人が考えているほど反社会的人間ではなかったのでは?・・・・・・・。彼が真に反体制派の役者なら商業的に成功するような娯楽映画に出ただろうか。彼は若いときのような反体制の精神を貫いたら、とてもハリウッド大作に出ることは出来なかっただろうし、この20年の間の映画出演ラッシュという訳にはいかなかっただろう。

 つまり『イージー・ライダー』で焼きついた彼に対するイメージが、なかなか壊れずにいて、そのことが彼には重荷になっていたのではないだろうか。つまり彼は映画人として悟ったのでは・・・・。反抗的でいるよりも体制派に迎合する。これで吹っ切れたとしたら彼の映画人としてのその後が決定づけられた『イージー・ライダー』は、彼としたら予想外の映画だったのかもしれない。大した意味もなく製作したのに、結果オーライで、映画は大反響。批評家が挙って持ち上げてしまったとしたら、これほど痛快なことはないが、そのことが彼には重荷になっていたのではないかと私は考えているのであるが・・・・。


 映画『ジャイアンツ』の1シーン。デニス・ホッパーは若い頃、こんな役も演じていた。ロック・ハドソンとエリザベス・テイラーの息子役で出ていたが、ここではジェームス・ディーンに殴り倒される。


デニス・ホッパーといえば、やはりこの映画『イージー・ライダー』監督、主演、脚本と才能振りを発揮。映画ではピーター・フォンダの相棒的役柄だった。映画の冒頭。スッテペンウルフ『ワイルドで行こう(Born to be Wild)』の音楽にのって。


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