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2009.08.30 (Sun)

衆議院選挙の日

 政権が交代するのかどうか問われる衆議院選挙の日であった。今回は静かであったが、何年か前までは我が家の周辺は煩かった。とにかく衆議院の選挙ともなれば、ある党からひっきりなしに我が家へ電話がかかってきたものだ。家の電話がけたたましくなるから受話器を取ると、決まって「○○党ですが、選挙に行かれましたか」「いや、まだです」と言おうものなら、「すぐに行ってください。それで○○党を入れてください」と来るから、鬱陶しいことこのうえない。父が無くなって6年にはなるが、生きていた頃はオヤジが関係してた縁で、小生の方まで電話がかかってきては入れてくれ、入れてくれと催促する。小生が若い頃は、こちらも若気の至りで言い返したものだが、歳をとってくると、こちらも相手にするのが面倒くさくなって「ハイ、わかりました」といって、さっさと電話を切ったものだ。

 かつては小生の家まで来ては、よく○○党をよろしくと挨拶をするから、こちらも黙ってなくて論争になったものである。
「○○さんは、政治にあまり関心がなさそうなので、○○党をよろしくお願いします」
「残念ながら、○○党には入れません」
「それなら、どこか支持してる党でもあるのですか」
「支持してる党は直接にはないけども、あなた方が支持してる政党には入れたくない」と言ったら、そこから論争になって、最後に「もっと本を読みなさい」と言われたので、少なくとも彼らには負けない程度の読書量があることは明確だったので、「あなた方よりは本を読んでいますよ」といったら、無言で帰っていった。

 いったい選挙って何だと思う。人に薦められたから投票するのか、それとも誰を入れれば判らないから人に言われるままに投票するのか・・・・。これでは釈然としないだろう。日頃の政治無関心がこういったときに迷いを与えるのだと思うと、訳もわからずに投票に行っていいのかと思う。投票に行け行けというが、その裏で誰に入れていいかも判らないような、無頓着派、無関心派、無党派、入り乱れて投票率が上がれば選挙への関心が高くなって、興味が注がれているなんてマスメディアは採り上げるが、そんな短絡的なものではないだろう。

 同じ一票といっても、考えつくして入れた一票もあれば、誰を入れていいか判らないから、人に言われるまま入れた一票も同じ一票なのである。また、なかには組織だって、○○さんに入れて、比例代表は○○党に入れましょうと、教えまわっている団体もある。はたしてこれで全うな議員が選ばれるのかどうか・・・・・小生は何時も疑問に感じているのであるが。

 ただ政治といっても、人によっては理想となるものは違うだろうし、それによって支持する人、政党も違うのは当然のことである。ましてや現在のような大衆社会になると、厖大な人口に一定の生活水準の生活を維持させたいならば、政党が変わって、政治屋が変わっても、やる政治はみんな同じなんだと思うが・・・・。結局、行なう政治はみんな似てくるということだろう。

 まあ、政治屋さんが大義名分をがなりたてるのもいいけれども、国民がすきっ腹では大衆はそっぽを向くだろうし・・・・・・・選挙なんてものは大義名分をがなりたてている連中の自己満足に過ぎない。また、連中の大半は偽善者である。嘘つきで、ホラ吹きであって、こうでないと政治屋になれないだろう。

 でも政治にとって究極の理想というものがあるらしい。鼓腹撃壌という言葉を知っているだろうか。古い中国の歴史書に掲載されているが、腹づつみをうち、大地を叩いて歌うことを意味している。つまり天下太平を楽しむことをいう。

 遥か大昔、堯と舜という理想の帝王がいて、彼らが政治を治めていた世は、まさに太平で幸福であったという。
 
 堯が帝位について数10年、国は平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに却って、天下は本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているのか不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子どもたちが、堯を賛美する歌を歌っていた。堯は大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふとかたわらに目をやると、老百姓がおなかを叩いてリズムを取りながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。

日出でて作き、日入りて息う。
井を鑿りて飲み、田を耕して食う。
帝力我に何かあらんや日が出りゃ働き、日が沈めば休む。
井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。
帝の力がなんであろう。居ても居なくてもおなじことさ。
この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる

 まあ、こんなことは、高度で複雑なな現在社会に当てはめてみても仕方が無いが、現在の日本はどこか病んでないだろうか・・・・・・。大衆に政治を感じさせない政治が理想とするならば、今の日本は政治の不備さを感じることばかりである。最も政治を感じない大衆が多すぎるけども・・・・・・。
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2009.08.29 (Sat)

ジャコ・パストリアスを聴く

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 ジャコ・パストリアスというベーシストがいるというよりもいたといった方が適切かもしれない。何故なら、彼は35歳で既にこの世の人ではなくなっているからである。

 ジャコ・パストリアス・・・・・1951年12月1日、ペンシルベニア州出身。ジャズ、フュージョンのエレクトリック・ベーシストといえば判るだろうか。私と同世代といってもいい最近のジャズ・ミュージシャンである。それで、ジャコ・パストリアスがどうしたかって・・・・。つまりジャコ・パストリアスはジャズの中で地味なベースという楽器を独立させたといえば大袈裟だろうか。ジャズにおけるベースというのはドラムと同様、リズム担当で、音階といえばピアノの1番下の音を分けてもらうぐらいで、これまであまり目立たなかった。それにアコースティックなベース。所謂、ウッドベースは大きいだけに奏法が難しく、自由に操ることは技術的にも困難であるが、体格にも恵まれなくてはいけなかった。また、ベースを自由に操れる奏者がいてもピチカート奏法という演奏スタイルがせいぜいの見せ場というぐらいで、奏者としての独自性を確立するに至らなかったのである。そこで出てきたのがジャズ新世代のジャコである。彼はウッドベースではなく、エレクトリックベースという新たな武器を使って、それらの壁をあっさりと乗り越え、ベース全体の歴史を塗り替えてしまったのである。

 彼は幼い頃から聖歌隊に属し、音楽的素養を見につけ、フロリダに移住してからドラムを叩いていた。ところが13歳の時、フットボールの試合をしていて右手を骨折してからベースに転向したという。時代も時代で、彼はビートルズやジミ・ヘンドリックス等に影響を受けたロック世代である。当然、エレクトリックベースに何の違和感も感じず、ジャズだからアコースティックでなければならないとは考えていない。やがて、地元でも頭角を現すようになるとプロのジャズ・ミュージシャンとの交流も多くなり、マイアミ大学でベースを教えているときにキーボード奏者のジョー・ザヴィヌルと出会ったことがきっかけで、76年にフュージョンを代表するグループ、ウェザー・リポートへ参加し、彼の名前は一躍、広まったのである。

 ウェザー・リポートの代表作を次から次へと生み出し82年には独立する。そして、自己のバンドであるワード・オブ・マウスを結成・・・・・・・・。同時にジャコ・パストリアス自身がおかしくなっていく。ミュージシャンが転落していくお決まりのコースであるドラッグに溺れだし、2人目の妻と離婚し躁鬱病に悩まされ、来日した際、コンサートでは全身に泥を塗って現れたりして、86年にとうとう精神病院に入院する。

 こうして奇行の目立ったジャコであるが最後はあっけなかった。1987年9月11日、ジャコの地元に来ていたサンタナのライブに飛び入りしようとしたが、彼のことを知らなかった警備員に追い出されてしまう。落ち込んだジャコは、その足でナイトクラブに駆けつけ泥酔した状態で入ろうとしたところ、ガードマンに停止され乱闘となり、弾みで倒れたジャコは頭部を強打し脳挫傷により意識不明となった。病院に運ばれたもの意識は回復せず、1987年9月21日永眠した。

 ところで写真のアルバムは1983年に来日した際に録音されたライブアルバムである。曲は全9曲・・・・『Invitation』『Amarika』『Soul Intro/The Chicken』『Continuum』『Liberty CIty』『Sophisticated Lady』『Reza/Giant Steps/Reza』『Fannie Mae』『Eleven』・・・・ヂューク・エリントンの曲もあれば、ギル・エヴァンスの曲もあるし、ジャコ自身の曲もある。また3曲目の『ソウル・イントロ/ザ・チキン』なんかは、最近、中高生のビッグバンドが頻繁に演奏する曲であり、本来はアルフレッド・ジェームズ・エリスの曲なのだが、ジャコ・パストリアスの演奏ですっかり有名になってしまい、今では、ジャコのオリジナルだと思っている人が多い。この曲は、冒頭からドラムの連打があり、ベースソロが続くなど、リズムセクションの聴かせどころが多く、学生バンドのレパートリー曲として大人気なのはジャコの貢献度が大きいというところかもしれない。


『ソウル・イントロ/ザ・チキン』を演奏する彼のバンドと、ベースを弾くジャコ・パストリアス。


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2009.08.27 (Thu)

演説カーが喧しい

 エドワード・ケネディが亡くなったという。小生が小学生の頃、時の大統領だったジョン・F・ケネディが暗殺された。それから5年後、今度は弟のロバート・ケネディがまたまた暗殺された。ケネディ家は呪われているなんて言われたりして、ケネディ家の4人の男達の末弟だけが生きていた。それがエドワード・ケネディである。長男は既に第二次世界大戦で戦死していて、次男がジョンで三男がロバートだった。結局、彼らは政治家になるためのような教育を受けていて、3人が死亡。残ったのはエドワードだけとなった。でもエドワードはスキャンダルが多く、男4人の中では1番凡庸であっただろう。でも戦死、暗殺死でなく、人生を全うし病死した。77歳だった。民主党の重鎮とされていたが、最近は脳腫瘍で身体の方も思うようにならず、1月のオバマ大統領の就任式に顔を出したのが公式の場での最後の姿となった。これでアメリカのケネディ王朝は完全にフィナーレを迎えたことになる。

 一方、日本では今週の30日に衆議院議員選挙が行なわれる。そして、何時ものように党の街宣カーや演説カーが連日のように、騒音を撒き散らしている。それで昨日、職場にいる若い衆が草津に行くという。草津なんかで降りてどうするのだろうと訪ねたら、麻生太郎が来るという。まあ、総選挙が近くなると地元の党公認候補の応援演説に来ることは多々ある。でも残念ながら、小生、あの喧しい演説が大嫌い。したがって汚い声の持ち主である麻生太郎なんて見たくも無いが・・・・・・といっても、何年か前に一度、本人が演説しているところを偶然通りかかって見てしまったことがあるが・・・・・・・・・。

 今日になって、麻生太郎を見に行った際の感想を彼が述べていた。「日本の総理があれではいけませんね」「貧相でチビやろ」「ホンマ、あんなんが外国へいったらなめられますわ」

 でも麻生の祖父に当る吉田茂はもっとチビだったが貫禄はあった。しかし、麻生太郎には何も無い。それで何しに草津へ来たのかというと、滋賀三区から自民党公認で出馬している宇野治の応援のために来たらしい。宇野治・・・・・・・・どこかで聞いたような・・・・・宇野宗佑の息子かな? と思ったら、どうやら女婿らしい。やっぱりな・・・・。政治家は、2世、3世だらけであるが、息子がいなければ娘の夫でも引っ張り出すらしい。それだと地元の後援会が推すので、当選する可能性が高いという。あの先生にお世話になったから、その息子さんを応援しようということになる。つまりこれが日本の選挙なのである。みんな政治信条なんて持ってやしない。日本国民の民度なんて、その程度なのである。それだけに時流に流されやすい人が多く、選挙もブームというか追い風に乗った方が勝つらしい。それだけ無党派が多いということであろうか。

 小生なんか、昔から首尾一貫して政治信条を変えた事などないぞ。だから天変地異がひっくりかえようが、何が起ころうが目移りはしないし、入れる政党も唯一つ。何処の党を入れるかって・・・・。そんなもの言ったところでしょうがない。ただ自民党ではないとだけ言っておこう。

 でも宇野治の義父である宇野宗佑って、何ヶ月、総理に在任していたのだ。とてつもなく短命の首相だったように思うが、神楽坂の芸妓の告発によりスキャンダル発覚。私はこれで首相を辞めました(小指を立てて)といったことが現実になってしまったスケベ首相であった。でも知事という身分でありながら、若い女性に痴漢行為を働き、居直っていたハゲ漫才師がいたが、それよりはましかなといったところである。でも、何れにせよ宇野宗佑の女婿というと、あまり印象がよくないが、地元だと先生の後釜ということで票も伸びるのだろうが、無党派層が大勢、投票に駆けつけると簡単に当選ということもいえなくなるのだろう。選挙とはそんなものなのだ。無関心派が選挙に来てくれない方が、陣営によっては助かることもあるのだ。だから皆さん、選挙に行って、2世、3世議員を落としましょう。
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2009.08.26 (Wed)

ディック・フランシス・・・・・『興奮』を読む

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 大型書店の海外ミステリー・コーナーに並んでいる緑色の背表紙の文庫本。それがディック・フランシスの競馬シリーズだが、意外にも読んでいない人が多い。それは日本人が競馬に対して偏見があるからだと思う。そういえば今から20年ほど前になるだろうか、ディック・フランシスの書くものは面白いからと、一度、ミステリー好きな女性に薦めたことがあるが、読もうとしなかった。彼女曰く「競馬ってギャンブルでしょう」と、あっさり言われ、儲けた損したなんていう話は好きではないという。勘違いも甚だしいが、「一度騙されたと思って読んでごらん」といって強引に手渡したのが、この『興奮』である。

 それで一週間ほどしてその女性が「面白かった」といって、本を読み終えて私に返却した。彼女からは、ギャンブルの話かと思ったら競馬界を取り巻く不正を暴く話で、ミステリーとしては一級品であるという返事が返ってきて、さらに他のディック・フランシスの物も読みたいと言い出した。まあ、世の中ってこういうものだろう。所詮は偏見からくる先入観だけで読まず嫌いになっていたということである。

 『興奮』の内容を簡単にいうと、イギリスの障害レースでまったく人気の無い穴馬が、突如として異常とも思えるほどの快走を見せ、番狂わせを演じて勝ちまくるケースが次から次へと起こる。これは興奮剤を馬に与えているのではないかと疑問がわくが、いくら厳重に検査しても興奮剤は検出されないのであった。また騎手、厩務員、調教師、馬主等の関係者にも不審な点は見つからない。でも不正は絶対に行なわれている。そこでオーストラリアで牧場を経営している主人公が競馬界の理事に口説き落とされて、厩務員に化けて、黒い霧の真相を探るという話である。まさに競馬シリーズを書き続けているディック・フランシス独自の視点で書いていて、着眼点が実に面白いのである。これはイギリス競馬界の内部を知り尽くしているから書けるのであって、付け焼刃で書いたようないい加減な競馬ミステリーとは一線を画すであろう。

 ところでディック・フランシスのことを知らない人のために、簡単な説明を加えようと思う。彼は1920年、イギリスのウェールズで生まれた。祖父はアマチュア騎手で、父も騎手として馬上の人であったが、第一次世界大戦後、厩舎に勤めていた。そんな環境の中で、ディック・フランシスは育ち、7歳から馬に乗っていたという。当然、彼は騎手になるように訓練をつむが、成長期に背が伸びすぎてやむなく平地競争の騎手を諦める。その間に第二次世界大戦が勃発し、ディック・フランシスはイギリス空軍に従軍する。戦後になっても騎手の道を諦められず、結局、体重があっても大丈夫な障害専門の騎手となる。アマチュアの騎手として2年働き、3年目のシーズンである1948年にプロ騎手に転向する。プロとなってからはメキメキ腕を上げ、トップジョッキーの一人となり、1953年からはとうとうクイーンマザー(現エリザベス女王)の専属騎手となり、1957年に騎手を引退するまで350勝以上を挙げる。騎手を引退してからは競馬欄担当の新聞記者となり、その後に作家に転身、推理小説を書き始め現在に至るのである。

 つまりディック・フランシスは最初から小説家として生計を立てていた訳ではなく、人生の若い頃は実際に騎手として多くのことを体験していたのである。こうしてイギリス競馬界の裏も表も知り尽くし、複雑な人間関係と、ややこしい利害関係、これらを絡めて彼特有のアイデアでミステリー競馬シリーズを書き続けているのである。これまで1962年発表の『本命』から始まって、『大穴』『重賞』『度胸』『飛越』『血統』『罰金』『査問』『混戦』『骨折』『煙幕』『暴走』『転倒』『追込』『障害』等、競馬シリーズを出し続け、固定したファンが多数いるミステリーの大家として今日では位置づけられているのである。

 日本では競馬というと、何かにつけギャンブルと一言で片付けられてしまうが、そこは競馬発祥の地イギリスである。立派に文化として成り立っている。日本での競馬ジャーナルと言えば、飽く迄も予想が中心になってしまい、問題を提議して議論百出、喧々囂々と持論を展開し、意見を戦わすといった類の競馬ジャーナルの存在はあまり無いがイギリスでは話が違ってくる。やはり競馬の歴史が300年以上もある国である。何かにつけ歴史の積み重ねがあり奥が深いのである。だから競馬ジャーナル一つとっても記者の見識が感じられ、◎○▲△といった印を競馬予想紙にうって的中率を自慢しているような、何処かの国の競馬ジャーナリスト(予想紙の記者をジャ-ナリストと呼べないかもしれないが)とはレベルが違うのである。そして、このような世界からミステリー作家が現れるのである。それで、このような彼我の差を考えると、日本において、競馬ジャーナル出身の推理作家が出てくることは有り得ないとも思える。

 でも競馬こそが最高の推理小説であると言う人がいるぐらいだ。だから競馬にはまった人は、馬券を的中することに夢中になりすぎて、推理小説なんて読まないのかもしれない。

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2009.08.24 (Mon)

今夏の高校野球を観て思ったこと・・・

 今年の夏の高校野球も中京大中京の史上最多7回目の優勝で幕を閉じた。今年は甲子園がリニューアルされて綺麗になったということもあるのだろう、例年以上に大入りだったと聞いている。でも私は高校野球のあり方に日頃から疑問を抱いているので、どちらかというと熱心になれない性質である。ところが最近というか、この10年ほど遡っても、高校野球の地域間における力関係に異変が起こりつつあることに着眼し、今回、記事にしてみようと思ったまでである。

 私が高校生だった頃の話であるが、夏の高校野球は30校しか出場枠がなかった。それで東京や神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡といった学校の多い地域は1県1校代表を送れたが、大部分の地域は2県で1校しか出られなかった。たとえば京都府は滋賀県と一括で京滋代表ということになっていたし、奈良県も和歌山県と代表枠1つを争わなけらばならなかった。今なら考えられないだろうが、昭和40年代までは記念大会を除いてこのような大会規模であった。また当時は今と違って、野球レベルに地域差が歴然として見られた時代であり、私が高校生の頃までは春・夏通じても優勝したことのある県は最北で栃木県、最南で熊本県であった。またその間でも優勝経験のあるところは、太平洋側、瀬戸内海側に面する県に限られていて、日本海側は優勝未経験であった(これは今でも続いているようだが)。

 要するにあの頃までは、地域格差が明確にあって、強い地域と弱い地域が甲子園で対戦すると、決まって10点以上の点差がついていた。たとえば兵庫県や大阪の代表が一回戦で北海道代表や沖縄代表と当るとまず大差で勝つと誰もが考えていて、事実、それに近いスコアで勝敗が決していたように思う。

 最近の高校野球ファンだと沖縄が弱かったなんて想像がつかないだろう。でも確かに弱かったのである。それが昭和50年頃に豊見城高校が出てきてから、それまでの弱い沖縄代表のイメージを払拭してしまい、今では強豪県の一つといっても差し支えないだろう。でも昭和の時代は、沖縄県も決勝まで行ったことがなく、盛んに春・夏の何れかの決勝にまで駒を進めるようになったのは平成になってからである。まず沖縄水産が夏の大会で2年連続準優勝し、その後、選抜で沖縄尚学がとうとう優勝した。また沖縄が強くなるにつれ、九州勢が強くなった。昭和の時代、さほど目立たなかった九州勢が、平成になって決勝に駒を進めるか優勝するかといったことが頻繁になってきた。これまで春夏ともに決勝戦にすら出たことが無かった鹿児島や佐賀、長崎といった県の代表が決勝に進出するか優勝することが当たり前のようになった。

 でもこれらは暖かい地域である。練習量さえ豊富であれば、何れ優勝するであろうと考えられる。でも不思議なのは寒冷地の北海道や東北勢が実力をつけてきた。これも平成になってからだが、仙台育英、東北といった宮城県勢、今年の春に準優勝した岩手の花巻東、そして最も驚いた北海道の駒沢大苫小牧の夏2連覇。駒沢大苫小牧はあわや3連覇という偉業まで達成目前だったことを考えれば驚嘆する。そして今日は日本文理高校が、新潟県代表として初の決勝進出で地元は大いに盛り上がったであろう。

 さて、ここで話の中枢に入るが、昭和の頃までは野球弱小県といったところは活躍が目立たなかったのに、平成以降、かつての弱小県が急激に強くなってきた。一方、強豪県といわれてきた地域が逆にひ弱になってきたように思う。それでその傾向が最も顕著なのが大阪であろう。大阪府は全国47都道府県の中でも春夏18回の最多優勝を誇るが、昨年の夏に大阪桐蔭が優勝するまで、17年間、優勝することが出来なかった。また春を入れても1993年の上宮の優勝から遠ざかっていたのである。もしたかが17年と思われる方もいるだろうが、その前の15年間(1978年~1993年)で大阪代表は春夏含めて10回も優勝しているのである。なのに、その後のパワーダウンはいったいどうしたというのだろうか。

 よく言われていることだが、大阪府のボーイズリーグに所属している有力選手が遠方の高校に野球留学するのが目立つようになったからだという。それなら何処の県もあることだといわれそうだが、一昨年の夏の選手権大会地区予選に選手登録された75706人を調べると明確であった。この年、隣接県以外の県外へ流出した高校球児は第3位の神奈川県が110人で、第2位の兵庫県が125人である。なのに大阪府は427人もの野球少年が遠方の野球強豪校へ進学していたのである。だから青森の○○高校や山形の○○○高校は甲子園に出てきたものの、大阪府出身者で選手が固められ、これで県の代表なのかと思わせた。また東北高校のダルビッシュや駒沢苫小牧の田中投手など、何れも大阪、兵庫の出身だと聞いて複雑な気持ちになった人も多いと思われる。

 かつては地方の中学校から、都会の野球強豪校に憧れて集まってきたというのが、今は逆の現象が見られているのである。もっとも、大阪からこんなに選手が流出しているのは理由があって、大阪にいると甲子園に出られる可能性が非常に低いからということがある。同じ理由を神奈川や東京に当てはめてみてもわかると思うが、東京は東西に分かれている関係から、甲子園に出られそうな高校がかなり絞られているし、神奈川も3、4校に絞られる。それに比べると大阪は、最近、何処が出てくるか判らない。PLが連続して出ていた時代と違って今は戦国時代である。大阪桐蔭、PLといった2強時代に入ったという人もいるが、こればかりは判らない。それなら強豪校の少ない地方の県に行って、甲子園を目指した方が、より甲子園出場の夢が叶うと考えている野球少年は少なくない。それで大阪から多くの有望な球児が流出してしまい、大阪の高校野球は空洞化しているといわれて久しいのである。

 これは大阪ほど顕著ではないが、兵庫県も選手が流出してしまい、かつての強さはない。そして、こういった事態と反比例して、これまで弱いとされた県の代表校が、次から次へと決勝にまで進出するようになり、または優勝したりする。時代は変わったのである。県外への選手流出は喜ばしい現象ではないが、これによって野球における地域格差が是正されたのだとしたら、見るほうにとっては面白いだろう。でも県外出身者で固められた高校が5年も6年も連続で甲子園に出るようだと、やはり考えなければならないかもしれない。
EDIT  |  21:35  |  スポーツ  |  Top↑

2009.08.23 (Sun)

札幌記念

 今日、札幌でGⅡの重賞、札幌記念が行なわれた。メンバー的には一昨年のグランプリホースであるマツリダゴッホ、今年の桜花賞とオークスをぶっこ抜いたブエナビスタが出走し注目された。

 ブエナビスタは3歳牝馬ながら今年の凱旋門賞に挑戦する意向を持っていて、今回はその壮行レースとも言うべきレースで、時計のかかる洋芝の札幌コースだけにブエナビスタのレースっぷりが気になった。人気もブエナビスタが断然で、2番人気がマツリダゴッホ、3番人気がミヤビランベリであった。

 いよいよ札幌記念(GⅡ・3歳以上、芝2000m、16頭)のスタートである。ゲートが開くや懸命にドリームサンデーがハナを奪いにかかる。ブエナビスタはスタートが良かったが、中団より後方につけるようだ。1、2コーナーを回って向こう流しに入る。先頭はドリームサンデー、2番手にマンハッタンスカイ、3番手にステキシンスケクン、4番手内にヤマニンキングリー、外にブラックアルタイル、6番手ミヤビランベリ、7番手マヤノライジン、その後にマイネカンナ、シャドウゲイト、そしてフミノサチヒメとタスカータソルテと続き、シェーンヴァルトがいて、サクラオリオンの外にブエナビスタである。さらにマツリダゴッホがブエナビスタの後ろにつけ、最後方がトーセンキャプテンである。スタートからのハロンラップは12.5---11.1---12.0---12.4---12.2で、800m通過が48秒0、1000m通過が1分00秒2と平均ペースである。

 向こう正面から3コーナーにかけてマツリダゴッホが得意のまくりをかける。600mのハロン棒を通過する辺り、マツリダゴッホが外から動く。それに合わす様にブエナビスタも動く。一気に馬群が固まって、さー、いよいよ直線コースに入ろうとする。札幌の直線は短いので、各馬が早めに仕掛けている。先頭はドリームサンデー、並んでマンハッタンスカイ、マツリダゴッホは5、6番手の位置。その直後にブエナビスタだが、ここから届くのかどうか・・・・・。あと200m。ドリームサンデーがまだ先頭。2番手にマンハッタンスカイ、3番手にヤマニンキングリーが上がってくる。ブエナビスタは中団の外。あと100mを切った。ヤマニンキングリーが先頭に出る。ヤマニンキングリーが先頭。内からサクラオリオンの伸びがいい。さらに外からブエナビスタがようやくやって来た。ブエナビスタが迫る。ブエナビスタが2番手に上がる。でもヤマニンキングリーが先頭。ヤマニンキングリーが1着でゴールイン。

 1着ヤマニンキングリー 2分00秒7、2着ブエナビスタ クビ、3着サクラオリオン 3/4、4着マンハッタンスカイ アタマ、5着トーセンキャプテン クビ。

 ビエナビスタは2着だった。この結果をどのように解釈したら言いのだろうか。ブエナビスタが凱旋門賞に挑戦する気になったのは、3歳牝馬だと負担重量が軽いからだという。過去、日本の競争馬が凱旋門賞に挑戦したケースは、ほとんどが古馬になってからであって、古馬になると負担重量が3歳馬よりも3.5㎏余分に背負はなければならない。3歳牡馬が56kgに対して4歳以上の牡馬は59.5kgといった厳しい負担重量となっている。だから凱旋門賞は3歳馬に有利といわれているのだが、牝馬はさらに1.5kg軽くていいということなので、ブエナビスタの負担重量は54.5㎏ということになる。確かに有利であるが、今日のブエナビスタは52㎏を背負って走っていたのだろ・・・・。それでいて57kgを背負ったヤマニンキングリーを捉まえられなかったというのは問題である。春の頃より末脚が鈍っているのではないだろうな。いずれにしても凱旋門賞は厳しい戦いになりそうだ。いい成績を残せればいいが、まだまだヨーロッパの馬の壁は想像以上に高いような気がする。
EDIT  |  16:51  |  競馬(国内レース)  |  Top↑

2009.08.22 (Sat)

サントリーミュージアム休館

 大阪の天保山にあるサントリーミュージアム天保山が来年の暮れで休館するという。何とも寂しい話であるが事実のようだ。私も何度か訪れたことがあって、公立の美術館にない奇抜な企画展示等があって気に入ってる美術館だったのに、年間数億円の赤字が嵩み、休館することになったらしい。

 そもそもサントリーミュージアムは1994年秋にオープンした新しい美術館である。安藤忠雄設計による斬新な建物で、美術館以外にもアイマックスシアターという巨大スクリーンを持つ劇場も館内にあり、完成当時は話題になったもので、一時期は年間101万人の入館者があった。しかし、最近は入館者が減り昨年1年間では65万人しか入館者がなかったという。とはいうもののサントリーという企業は、サントリーミュージアム以外にもサントリー美術館、サントリーホールをも所有していて、いずれも儲かってないという。でも文化事業に熱心な企業としてのイメージがあって、赤字覚悟で文化事業に手を出してきたのに残念である。

 ただ邪推でいうならば、キリンホールディングスとの統合の話があり、キリン側から採算の合わない事業を撤退せよという圧力がかかっているのではないかと・・・・・・・・・??

 サントリーは非上場企業である。だから株主からの突込みがなく、これまで色々な文化事業に手を染めてきたのである。でもサントリー美術館にせよ、サントリーホールにせよ、建てた場所は東京である。ところが、サントリーというのは大阪の企業なのである。それで大阪の企業なのに、東京にばかり文化施設を作って完全に大阪を無視していると長い間、揶揄されてきた。このような大阪の財界人や文化人の要望に応えてようやく建てられたサントリーミュージアム天保山である。・・・・でも年々、累積赤字が溜まる。そこへ上場企業であるキリンホールディングスとの統合の話が進むと、赤字の事業は当然、撤退せよという方向に向うのだろう。それでその矛先は唯一、大阪にあるサントリーの文化施設に向けられたというと、今度の統合は我々、近畿在住の者にとって何のメリットも無いと思えるが、企業統合が流行る今のご時世、その流れに乗るしかないのだろう。

 企業統合はいいこともあるが、必ずしもいいことばかりではない。確かに時流に乗るのはいいが、得てして企業イメージまで変わってしまうから危険な賭けである。しかし、良いイメージを持っていたサントリーまでが、利益を追い求めるだけの味気ない企業に変わっていくのは忍びない。それも大阪の土地で育まれた優良企業だけに寂しいものがある。全国的には、よくガメツイだとかケチだとか間違って伝えられている印象の強い大阪の企業だが、使うときにはいくらでも損を覚悟で大金を投資するものである。だが日頃は無駄遣いをしない。このような精神で培われていたサントリーだけに、サントリーミュージアム休館の話は寝耳に水であった。それで休館後はいったいどうなるのか判らないが、引き続きミュージアムとして残してくれると嬉しいのだが、現実は厳しいのだろうなあ・・・・・・。とにかく文化を維持するのには大金が必要なのであって、文化事業は儲からないものなのである。だからといって、これを無駄金だとして削ってしまうと、そこで文化は衰退するのである。それでサントリーも文化事業を徐々に縮小していくのだろうか・・・・・。今後は、何とも水臭いビールやウイスキーを飲まされそうだなあ・・・・・。
EDIT  |  20:26  |  時事  |  Top↑

2009.08.21 (Fri)

書くことも無いのだが・・・・・

 先ほど帰宅したところである。それでパソコンを立ち上げると、金曜日なので自動的にウイルス・スキャンが起動する。だから書き込んでも動作が鈍くて、なかなか進まない。べつに書き込むような記事も無いが、残暑、お見舞い申し上げます。とでもいっておくとしよう。とにかく暑い。今年の夏はどうやら冷夏のようだが、盆以降は連日の猛暑で、残暑が厳しい状況が続いている。それでいて新型インフルエンザがここに来て、猛威を揮いだした。もしかして涼しくなる秋以降、新型インフルエンザの大流行が全国的に起こるかもしれないので、今からマスクを買いためて、冬に備えようと思うが、新型インフルエンザに罹らないにはどうすればいいのだろうか。

 手洗い励行、うがいの励行、マスクの着用・・・・・・これ以外、何をすればいいのだろうか。とにかく人の集まる場所へは出来る限り行かないことにする。それでも新型インフルエンザに罹る人は罹るので、どうしようもない。敵は目に見えないウイルスだけにいかんともしがたい。素直に感染してしまおうか・・・・・・いや、冗談じゃない。40℃の高熱にうなされるのだけは御免だ。でもこの冬、新型インフルエンザは猛威を揮い、日本人の3分の1の人が罹るなんていっている人がいる。おいおい、本当かね。もし、それだけの人が感染したら、日本の社会機能は完全にマヒしてしまうだろ。こうなると大変だ。日本国内でパニックが起こりかねない。おお、怖・・・・・・。

 まあ、懼れていてもしょうがないし、秋が来て、冬に向かっていくにしたがって、新型インフルエンザの感染者が身近に現れることは確実だから、用心にこしたことはないし、これから立ち向かっていかなければならない。でも何処に感染者がいるか判らない。毎日、電車やバスに乗らなければならないので、そのような危険はいつも隣り合わせである。だから出来るかぎり休日は家から出ずに引きこもろうか・・・・・・。しかし、ロクでもない奴が流行りだすもんだ。・・・・・・と、ここらでウイルススキャンを始めないと、翌日までかかってしまう、とにかくスキャンするにも時間を要するからな・・・・。それでは、ここらで退却するとしようか・・・・・・・。
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2009.08.19 (Wed)

竹入水羊羹

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先日の盆休み中に姉の娘が突然のように我が家を訪れた。高校生の頃までは頻繁に来ていたのに、この数年は正月ぐらいしか来なくなった。どういう風の吹き回しかしらないけども、いきなりやって来たので驚いた。黒縁の眼鏡に穴の空いたヨレヨレの洗いざらしたGパンという装いで最初は誰か判らなかった。でもよく見ると姪であった。相変わらず大柄でズタズタと大股で歩くところは変わってない。それで何しに来たのかと訪ねたら、暑いだろうから御機嫌伺いに来たという。それも実家からではなく、今は1人暮らしをしているので、姉には報告せずに独断で来たという。まあ親が無くとも子は育つというが、ちょっと育ちすぎだというほど大きい。でも、それも僅かの間、家に上がっていたかと思うと、さっさと用事があるといって去っていってしまった。何と落ち着きが無い子であろうか、手土産だけ残して帰っていったが、手土産は竹入水羊羹であった。

 甘春堂の竹入水羊羹である。京都洛西は乙訓の青竹に入った小豆の水羊羹である。最近は抹茶の水羊羹の方が売れているというが、この伝統的なあまり甘くない小豆の水羊羹の方が懐古的で、如何にも夏特有の和菓子といった趣がある。それで三十三間堂の近くの本店で買ったのかと訪ねたら、JR京都駅の伊勢丹で買ったという。まあ、今は何処の百貨店でも買えるからいいけど、青竹に入っているのは傷みが早いから、なるだけ早く食べたほうがいい。それで早速、頂いた。竹の底に押し針で穴を空けて口で吹くとツルッと出てくる。久しぶりに食べたが、最近は似たような水羊羹が出回っていて、甘春堂の水羊羹が格別の物というのでもなく、小豆の水羊羹はどれもこれも味付けが似てきている。でもここの甘春堂は創業が慶応元年というから余所の水羊羹とはちょっと違う。つまり伝統の味といえばいいのか、余所の菓子屋が見本にした水羊羹なのである。

 ところが現在のように、食べるのが余りあるほど出回っている時代にあっては、ここの水羊羹なんていっても有り難く思わない。お菓子といっても洋菓子が氾濫しているし、和菓子でも新作が次から次へと出てくる時代である。いわば現在の日本は飽食の時代であり、味覚の肥えた人ばかりで溢れている。だから美味しいという感想を持つ人は少ないだろう。だが、これぞ水羊羹という味付けと食感がなされていて、ここに伝統的なものを感じ取れるのだ。ただ、ここの水羊羹ではなく、私が贔屓にしていて大好きな水羊羹を売っている和菓子屋が京都にある。それは何処だろうか・・・・・といいたいが・・・・・・・・・いや、教えるのはやめた。
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2009.08.17 (Mon)

全国の大文字送り火

 昨夜、8時に京都の夏の風物詩である大文字五山送り火が行なわれた。この行事は毎年、8月16日の午後8時から行なわれている行事で、お盆に迎えた故人の霊を送り出し、無病息災を祈るとされるものである。でも私は人混みが嫌いなので、この20年は行ったことがない。

 私の自宅から少し歩いて桂川の堤防まで出れば、如意ヶ岳の大文字は小さいが見えるのである。だが、行く気も起こらない。最も最近は京都以外でも大文字焼きとかいって日本各地で行なわれているらしい。20年ほど前、箱根の強羅でも毎年、大文字焼きが行われていると神奈川県出身の知人に聞いて驚いたことがあるが、箱根では大正10年から行なわれていて、彼が言うには京都にパクられたと思ったそうだ・・・・・・。箱根の強羅の大文字は点火と同時に花火が打ち上げられ、そら派手なそうな・・・・。

 聞きところによると、どうもこの行事は箱根だけではなく、最近は全国各地で盛んに行なわれていると聞いて、またまた驚いたのでもある。京都の周辺だけでも奈良・高円山の大文字送り火があるし、福知山の丹波大文字送り火がある。大阪でも池田のがんがら火祭りで五月山に大の字が燈されるし、秋田の大館の大文字、静岡の三島の大文字、栃木・佐野の三毳山大文字焼き・・・・・・・・・・。

 各地で行なわれている大文字送り火の行事は、京都のものと行なう意味は同じであるからして、そのほとんどが8月のお盆の時期に行なわれる。でも大半は京都の大文字を真似たものだという。ところで京都の人間から言わせて貰うと、京都の行事は大文字だけではない。全部で六つの山に文字等が浮かび上がるので、大文字五山送り火というのが一般的な名称である。それに何時から始まったのかその起原も判らないほど古くから行なわれている(一説には平安時代とも江戸時代とも言われるが)。だから、けして京都の人は大文字焼きなんて土産物の饅頭のような呼び方をしない。

 京都の五山送り火は午後8時に如意ヶ岳の大文字から始まって、順番に松ヶ崎の妙法、上賀茂の舟形、衣笠山の左大文字、最後に嵯峨野・曼荼羅山の鳥居が点火する。これら全てを見渡せるところというのは、ほとんどなくて、京都タワー展望台なら全てが見えるだろう。しかし、京都市民は鴨川の河原に行くと如意ヶ岳の大文字がよく見えるので、涼を求めて河原に繰り出すようだ。私は学生の頃、友人のバイクに二人乗りして、全部を見ようと出町柳を出発し、そこから下鴨本通を上がり、北山通りで妙法を見て、さらに賀茂川に出て船形をを拝見すると、北大路通まで下がり、西へバイクを走らせ、衣笠山の左大文字を見ながら、新丸太町通をさらに西へ向い、最後に広沢の池で鳥居を拝んだことがあるが、これも若いときだから出来たのであり、もし車だったら停滞に巻き込まれて、30分~45分の間に全てを回る事など出来ないだろう。それに我々は京都の表通りが混んでいても、裏通りを抜けていくから、このような芸当も何なくやってのけた。そこは地元民の強さである。だから観光客がいきなり来て、五山全ての送り火を見ようなんてことは無謀というものである。京都タワーの展望台か、京都駅の空中回廊から見るしかないだろう。ただし距離的にいっても小さくしか見えないので、目の前で見たいのならば、何処か一ヶ所に絞るしかないだろう。でも私は、今さら見に行きたいとは思はない。今度行くとしたら、写真を撮りに行くぐらいだろう。
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2009.08.16 (Sun)

クイーンS、北九州記念

 暑くて何もやる気が起こらない。例年の夏よりはいくぶん涼しいのだが、それでも33℃もなると少し動き回るだけで汗でビッショリになる。まあ仕方が無いかな、秋が来るまで待つとしよう。

 今回、書くことも無いので中央競馬の重賞レースの結果だけでも記しておくとする。

  札幌競馬 クイーンS(GⅢ・3歳以上・牝馬、芝1800m、14頭)

 1着ビエナビーナス 1分48秒2、2着ザレマ 1馬身、3着アメジストリング クビ、4着ムードインディゴ クビ、5着マイネカンナ アタマ。

 1番人気のザレマは2着で、昨年の桜花賞馬のレジネッタは3番人気に支持されたが10着と惨敗。それで勝ったのは11番人気のビエナビーナス。本当に牝馬というのは好調の持続が難しいものである。

  小倉競馬 北九州記念(GⅢ・3歳以上、芝1200m、16頭)

 1着サンダルフォン 1分07秒5、2着レディルージュ 1馬身1/4、3着カノヤザクラ 3/4、4着ウイントリガー クビ、5着メリッサ 1/2。

 勝ったのは8番人気のサンダルフォン。1番人気のカノヤザクラは直線だけの新潟の1000mなら2戦2勝なのに、コーナーが入ると勝ち味に乏しいというか、やや精彩を欠く。2着は2番人気のレディルージュで、3番人気のメリッサは5着であった。今日は、ここまで・・・・。愛想無しで申し訳ない。
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2009.08.15 (Sat)

8月15日、盆休み

 8月15日、64回目の終戦記念日。盆休みの真っ只中である。終戦記念日といっても私に戦争体験があるはずもなく、両親からの話で戦争の悲惨さを聞きかじっているぐらいである。だから何なのだということなのだが、つまり戦争体験者が年々減少の一途であって、あと20年もすれば太平洋戦争の体験を語れるような人が、この国から誰もいなくなることが怖いということ。所詮、戦争はいけないといっても現実問題として、体験したことのない人が語っても説得力が無い。国家自体が保守化して世論を含め、戦争を聖戦だというように捉えて、軍部の扇動の下に太平洋戦争へ突入して行った事実を何時までたっても忘れてはいけないだろう。

 終戦記念日は例によって盆休みの最中である。せっかく長期休暇が与えられても、この期間は雑用が多くてゆっくりしていられない。買い物、掃除、洗濯、お墓参り・・・・・・この盆休みの間、本でも読もうと思っていたのに、雑用が多くて、ほとんど読んでない。最も老眼鏡が合わなくて読み辛いというのもあるが、慌しくて落ち着いていられない。それに暑すぎる。夏だから当たり前なのだが、室温が40度近くなると頭がフラフラしてきて熱中症になりそうである。全身、汗だくになって気持ちが悪いといったらありゃしない。こんな調子で結局、例年同様、盆休みは何も出来なくて終わってしまうのである。

 そういえば今日、新型インフルエンザの感染者が1名亡くなったという。国内では初のことで、亡くなった人は沖縄県宜野湾市に住む57歳の男性ということである。この新型インフルエンザは若い人がよく罹り、年配者はあまり罹らないとと言われていたが、年配者でも罹ることは罹るのだから要注意。それに症状が軽く、死まで至る人がいなかったから、このところ新型インフルエンザのことをテレビ等で取り上げなくなったから、驚かれた人もいるだろう。でも確実に感染者は増え続けているのだが、何人感染といった報道もされなくなった。それがここにきて、死者が出たということで、忘れかけていた新型インフルエンザのニュースが久々に流れた。

 この亡くなった人は心臓と腎臓の持病があり、人工透析を受けていたということで、健康体の人が新型インフルエンザに感染して亡くなったのではないから、あまり大騒ぎしなかったものの、重い持病を持った人が罹ると亡くなる可能性があるのだから、やはり感染すると厄介である。この真夏でも感染する人が減らないから、これから秋以降、本当に怖いと思う。私は罹りたくないので今でも手洗い、うがいは毎日、励行しているが、毎日乗る電車とバスの中に感染者が同乗していたならば、どうにも防ぎようが無いと思う。だから出来る限り、人の多いところには行かず、家の中に引きこもっていたいが、また来週から行きたくも無い職場に通わなければならないから気を引き締めたいと思う。
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2009.08.14 (Fri)

チャック・ベリーを聴く

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 チャック・ベリーというとロックンロールの代名詞のような人であるが、彼の存在を知ったのはビートルズのカバーによってである。その昔、ビートルズ旋風が日本を席巻し始めた1964年頃、ビートルズが歌う『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ロックンロール・ミュージック』を聴いて、そのパンチのある曲に小学生だった私も唸ったものである。でもそれがビートルズの曲ではなくチャック・ベリーの曲であるということを知るきっかけとなった。

 チャック・ベリーーは1926年生まれであるから、死んだという話は聞かないから現在82歳ということになる。黒人である彼はセントルイス(カリフォルニアのサンノゼ生まれという説もあるが)において6人兄弟の3番目の子供として生まれ、幼少の頃から音楽に興味を持っていたという。彼は父が建設請負業者で母が教師という比較的恵まれた家庭の子であった。聖歌隊で歌に接し、次第にギターを覚え高校時代には人前で演奏をするようになるものの、当時の環境にもよるのか不良仲間に誘われ、色々と悪事を働くようになる。高校時代には自動車強盗で感化院へ送られ(3年後釈放)たりして、いかにも不良音楽の代名詞のように言われたロックンロールの申し子らしいチャック・ベリーである。こんな彼が1953年、ジョニー・ジョンソンのバンドであるサー・ジョン・トリオにギターリストとして加わってから本格的な音楽活動が始まるのである。やがてジョニー・ジョンソンに代わってチャック・ベリー自身がバンド・リーダーとなり、ステージをこなすうちに、そのステージを見ていたマディ・ウォーターズによってチェス・レコードからデビューするようになる。その曲が『メイベリーン』(1955年)である。

 チャック・ベリーは彼独自のギター奏法とダックウォークが話題となり急速に人気が出たのである。1956年には『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』がヒット、翌年には最初のアルバム発表し、さらにはシングル盤『スクール・デイズ』『ロックン・ロール・ミュージック』が連続ヒット。当時、人気絶頂だったエルヴィス・プレスリーにリトル・リチャード、バディ・ホリー等と並んでまさにロックンロールの寵児として持て囃されるようになる。

 さらに1958年、『スウィート・リトル・シックスティーン』『ジョニー・B・グッド』『キャロル』等がヒット。だが1959年12月、チャック・ベリーはマン法で逮捕される。マン法とは女性を道徳に反する目的のために州を越えて連れて来ることを禁じる法律で、チャック・ベリーはメキシコで知り合った14歳の少女を連れまわし売春を強要したとして逮捕され、懲役5年が言い渡された。結局、この5年間の懲役は3年に減刑されるのだが、3年間のブランクは大きかった。また時代はロックン・ロール全盛とも言えなくなっており、エディ・コクラン、バディ・ホリーの死もあって、チャック・ベリーのような典型的ロック・ロールは下火となっていた。

 チャック・ベリーが3年の懲役から出てくる1963年にもなるとロックン・ロールの新時代に移っていて、ビートサウンドも色んな要素が加わっていた。だから飽くまでもロックン・ロールの道を突き進んでいたチャック・ベリーのい音楽は受けなくなっていた。だが1964年、イギリスで既に人気爆発していたビートルズ旋風がアメリカに飛び火し瞬く間に世界中へ拡がっていった時、ビートルズがチャック・ベリーの曲をカバーしていたことで、チャック・ベリーの軽快な曲が再び脚光を浴びるという恩恵を受け、チャック・ベリーの曲も少なからずヒットするようになったのである。

 その後はあまりチャック・ベリーの活躍を聞かなくなったが、1972年に脱税の罪で逮捕されるなど、相変わらず不良なロックン・ローラーを演じていたが、次第に歳をとり彼もようやく大人しくなったようだ。1981年には初来日し、日本の多くのロックン・ロール・ファンを熱狂させたことも今となっては懐かしい。1986年にはロック殿堂入りをはたしロックン・ロール音楽の創始者の1人として貢献を認められたのである。またローリング・ストーンズののキース・リチャーズが、チャック・ベリーのファン代表として、バンド・メンバーを集めてチャック・ベリー生誕60周年記念コンサートを開いたことをニュースで聞いたが、それからでも既に23年の日々が経過している。

 またギターリストとしても素晴らしく、2003年に雑誌『ローリング・ストーン』が選ぶ、歴史上最も偉大な100人のギターリストにおいて第6位にランクされている。つまり単なるロックンロールという若者の不良の音楽というイメージから、現代の地位を築き上げたチャック・ベリーであるが、若いときの破天荒さから始まって、その生き様、音楽性をも含めてすべてが、後年のロック・ミュージシャンに繋がるものだと考えれば、チャック・ベリーの歩んだ足跡というものは想像以上に大きいものだといいことが判る。

 『ジョニー・B・グッド』を歌うチャック・ベリー。どうしてもサビのところがゴータニゴーゴーに聞こえる。


 『ロックンロール・ミュージック』を歌うチャック・ベリー。この曲はビートルズがカバーして有名になった。

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2009.08.13 (Thu)

神戸のプレスリー像

 先日の日曜日、神戸のハーバーランドでエルヴィス・プレスリー像の除幕式があった。何で神戸にプレスリー像がと考える向きもあるだろう。実は今年の1月8日、東京・原宿にあったロック・グッズ専門ショップ『ロックンロール・ミュージアム』にあったエルヴィス・プレスリー像が移転してきたものである。

 今年の1月まで原宿の店舗にあったプレスリー像の落ち着く先がなかなか見つからなかったが、何と神戸に来たという。それで神戸ハーバーランド・ガス燈通りにある神戸情報文化ビル前に設置されることが決まり、8月8日に除幕式が行なわれたのである。式典にはプレスリーの熱狂的ファンであった湯川れい子や小泉純一郎元首相が駆けつけて、100人以上が見つめる中、派手に行なわれたのである。

 でも何で東京・原宿にあったプレスリー像が神戸に移って来たかと言う理由はよく判らない。でも湯川れい子女史によると「神戸は日本のジャズ発症の地だから」ということらしい。だが、プレスリーはロックンロール・ミュージシャンだしジャズとは異なるのだが・・・・・。ただし20世紀の商業音楽及びポピュラー音楽の流れの中では、ジャズもロックンロールも歴史の中の一つのジャンルにしか過ぎないことを考えると、神戸でよかったのかもしれない。ただプレスリー像のある場所は、道路の脇で港が近い潮風の吹くようなところである。こんな場所だと、あまり人も訪れないかもしれない。

 私が訪れた時は、初老の男性2人が記念写真を撮っていたが、後から来た小母さんたちは「この人、外人さんや」と言っておきながら、ちゃっかり写真を撮っていた。でも若者の姿はあまりなく、プレスリーを知る人も少なくなってきた。心臓発作により42歳という若さで急逝したプレスリーなのであるが、そんな人が一世を風靡したと知る若者も少ないのだろう。考えてみればプレスリーが亡くなって早くも32年になろうとしている。その頃、生まれた赤ん坊も30代ということは、20代や10代の若者にとっては、プレスリーというのは過去のミュージシャンということで片付けられてしまうのだろう。でも彼が歌った曲の数々は、今でも生きているし、現役のミュージシャンがプレスリーの曲を歌っているのをよく聴くこともあり、一部の若いロックファンは、プレスリーに対して畏敬の意を持っているのだと思う。ただ彼は、あまりにも早く亡くなりすぎた。それが残念である。


 プレスリーの若い頃の像だが、設置された場所はこのようなところである。後方に港のクレーンが見える。
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 日本で言うなら今年の8月16日は、プレスリーの33回忌ということになるのだが・・・・・。
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 『ハートブレイク・ホテル』『ハウンド・ドッグ』『監獄ロック』が聴こえてきそうだ。
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2009.08.11 (Tue)

エルニーニョ現象のはてに・・・・・

 どうも今年の夏はおかしいようだ。地球温暖化で毎年、8月になると狂ったような暑さが続くのだが、昨日も一昨日も強い雨が降った。高校野球が2日続きで順延になるなど珍しいことで、それこそ10数年に一度の奇妙な夏なのかもしれない。先日は九州や中国地方で激しい雨が降り、災害が出たばかりなのに、昨日は兵庫県の播磨地方で、驚異的な雨が降り、またまた水害による被害が出た。また突然、日本のすぐ南で突然、熱帯低気圧が台風に発展し、紀伊半島から東海地方の南側を抜けていったが、同時に今朝は地震が起こった。緩かったが早朝の5時頃、グラグラと家が揺れたので地震だと思いテレビをつけた。すると駿河湾を震源とする震度6強の地震が静岡を中心に起こった。今のところ死者が出ていないので不幸中の幸いだが、まさか台風が地震を誘発したのでもないだろうけども、このところ日本列島は天災に見舞われすぎている。

 地球のメカニズムというのはどうなっているのか知る範囲ではないが、10年に一度ぐらい気候のおかしい年がある。それもこれもエルニーニョ現象によるものなのかどうか判らないが、ペルー沖の海水温度が上昇する現象をエルニーニョというらしい。この現象が出ると、世界各地での降水量の変化が顕著に現れ、日本では冷夏、暖冬、梅雨明けの遅れ、日本周辺での台風の発生が減少するという。確かに今年の冬は異様な暖冬であったし、今夏もこの調子だと冷夏に終わりそうである。台風は現在のところ9号まで発生していて、それほど少ないというほどのものではないが、例年なら日本の上空に張り出していなくてはならない、夏の高気圧の勢力が弱く大気が常に不安定であるということは盛んに言われている。

 さて今年の気候の異常さが、エルニーニョ現象によるものだとしたら、こうなることは前から判っていたはずだが?? 長期予報では確か梅雨明けが早く、猛暑になるととのことだったと記憶している。まあ、長期予報が当らないのは毎年のことであるが、人類は進化し気象衛星から絶えず地球の表面を見張っているものの、先々まで予報をたてるのは非常に難しいものと思える。ある意味で科学に頼りすぎている気象予報士よりも、その日の風向きや匂い、雲いきや雲の流れ等で天気を予報した、昔の漁民や農民の方が確実に天気を当てるのではないかと感じるのである。なにしろ今の科学を持ってしても、エルニーニョ現象が何故起こるのか、いまだに原因が判らないというからねえ・・・・・・・。
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2009.08.10 (Mon)

ジュール・ヴェルヌ・・・・・『海底二万里』を読む

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 おそらく大方の人がSFの物語に一度は夢中になったことがあると思う。そのサイエンスフィクション(SF)とは、所謂、現実の世界から飛躍した空想の世界を描ききったものであるが、多くの大家がいる中で、ジュール・ヴェルヌなんていう作家は大きな位置を占めていると思う。

 ここで紹介するフランス人のジュール・ヴェルヌは、そもそも大デュマを師事してロマン劇を書いていたという。それが先日、このブログ上で紹介したエドガー・アラン・ポーから影響を受け、科学技術を織り交ぜて現実性を高める方法に着目し、1865年に『月世界旅行』を書いた。この話は砲弾に乗って月へ行くというかなり無謀な話であったが、19世紀中期において、このような突拍子も無い話を書いたということでは、おそらく最初の人ではないだろうか。現在においては砲弾で月へ行くなんて考えられないが、時代を考えればこの発想は素晴らしい。おそらく今から150年前ともなると、人類が月に行くなんていうことを真剣に考えている人はいなかっただろう。まだ飛行機でさえもなかった時代だから当然ではあるが、ジュール・ヴェルヌは空想の世界で、このような物語を幾つか書いた人として現在では名が通っている。

 そんなジュール・ヴェルヌが書いた科学小説の中に『海底二万里』がある。『海底二万里』は1869年に書かれたもので、日本で言うならば明治維新の頃である。こんな時代にジュール・ヴェルヌは『海底二万里』を書いているから驚愕せずにはいられない。話は1866年、大洋の真ん中で船舶が巨大な角のようなもので船底に大きな穴をあけられるという事件が頻繁に起こった。それでフランスの海洋生物学者アロナックス博士はイッカクのような鯨ではないかと主張し、助手のコンセーユ、銛打ちの名人ネッド・ランドの3人が調査のため軍艦に乗り込む。やがて2つの光る目を持った怪物に軍艦は沈められてしまう。だが、3人はどういう因果か軍艦を沈めた怪物に助けられることとなる。その怪物はどうやら生物ではなく、人間が造った潜水艦ノーチラス号だったのである。こうして3人はノーチラス号の船長ネモと共に、長い長い旅に出ることになる。

 この空想科学小説とも言うべき『海底二万里』が世に出た時代というのは、まだこのような潜水艦なんてものはこの世に存在しない。そんな時代にジュール・ヴェルヌは潜水艦で海の中を自由自在に行き来する潜水艦の話を書いたのである。ジュールヴェルヌ時代の潜水艦というのは、まだ人力で航行していて潜ったとしても、せいぜい船体が水面から隠れる程度で、実際に内燃機関を搭載して動くことが出来る潜水艦の誕生は1900年まで待たなければならなった。でも、『海底二万里』に出てくるノーチラス号のようなナトリウム水銀電池から電力を供給して動くという万能の潜水艦ともなると、第二次世界大戦中の潜水艦でもこのような芸当は不可能であり、実際には浮上している時間の方が長く、作戦実行の際に潜航するのが一般的であった。だから現実的にいってノーチラス号のような潜水艦が現れるのは1954年の原子力潜水艦で、ようやく『海底二万里』の世界に追いついたといえるだろう。そして、この世界初の原子力潜水艦を建造したアメリカは、この潜水艦にノーチラス号と命名した。

 こんなジュール・ヴェルヌという人であるが、どんな人物だったのだろうか。彼は1928年、フランス西部の港町ナントで生まれ、大学入学資格試験に合格し、パリで法律を学ぶようになる。そんな頃に大デュマとと知りあうことになり、法律家から一転して文筆で生計を立てる決心をする。ところが、無名の頃は当然、食ってはいけないことは百も承知である。それで家庭教師、秘書などで稼ぎながら戯曲、小説等の執筆に励み、1862年『気球に乗って五週間』を書いてこれが大成功したのである。その後は『地底旅行』『月世界へ行く』『海底二万里』『八十日間世界一周』といった今日で言うSF物の作品を続々と発表し人気作家となった。また一方で自然科学の論文を盛んに読んでいたというから、彼の科学に対する知識は専門家の域に達していたかもしれない。だから未来を予見させる数々の空想科学小説が書けたのであろう。以前はジュール・ヴェルヌの作品は子供向けだとか、幼稚だとか言って評価されなかったが、最近は彼を評価する人が増えている。なにしろジュール・ヴェルヌが生きた時代を考えれば、あの当時で現代にも通じる現象を小説のなかで表現しきったことは、彼が如何に優れた予見者であったか如実に物語っていると思う。とにかく、まだ飛行機でさえ飛んでいない時代に月世界に行く話なんて、当時の誰が思いつくであろうか。まさしく彼の存在なくしては、現在におけるSFの隆盛はなかったかもしれない。
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2009.08.09 (Sun)

関屋記念

 今日は1日雨模様で、昨日のカンカン照りが嘘のような天候となった。そこで久しぶりの競馬記事を書くことにする。夏のローカル競馬は力が入らないので、適当にテレビでレースを観ているだけなのだが、今日の新潟の関屋記念(GⅢ・3歳以上、芝1600m、18頭)はそこそこのメンバーが揃ったので記事にすることにした。

 人気はヒカルオオゾラ、スマイルジャック、マルカシェンクの順だが、4番人気に昨年の皐月賞馬キャプテントゥーレが支持された。レースに出走するのも昨年の5月の皐月賞以来の1年4ヶ月ぶりということで、さほど期待は出来ないが、クラシック・ホースの復帰は嬉しいことである。

 レースは残念ながらやや重馬場だったが、日本一長い直線を持つ新潟競馬場でのマイル戦だけに興味が注がれた。スタートでいきなりマルカシェンクが出遅れ、先行争いはマイネルレーニア、マイネルスケルツィ、キャプテントゥーレの順で、以下トーホウレーサー、ヘッドライナー、ヤマニンエマイユ、キングストレイル、タマモナイスプレイ、ナイアガラ、バトルバニヤン、キャプテンベガ、ライブコンサートと続き、その後ろにスマイルジャク、そしてステキシンスケクン、さらに1番人気のヒカルオオゾラ、3番人気のマルカシェンクがいて、後方2頭はカネトシツヨシオー、イケトップガンである。長い長い直線に入る。ペースは前半800mが46秒9と平均ペース。

 マイネルレーニアが先頭だが、マイネルスケルツィが先頭に立つ。内にはキャプテントゥーレ、馬場の真ん中からスマイルジャックが進出してくる。先頭はまだマイネルスケルツィ。あと200m。ここでスマイルジャックがマイネルスケルツィをかわして先頭に立つ。そして外からようやくヒカルオオゾラがやって来る。ヒカルオオゾラが伸びる。ヒカルオオゾラが2番手に上がるが先頭はスマイルジャック。スマイルジャックが1馬身抜け出している。スマイルジャック1着でゴールイン。

 1着スマイルジャック 1分32秒7、2着ヒカルオオゾラ 1馬身、3着マイネルスケルツィ 1馬身3/4、4着キャプテントゥーレ クビ、5着キャプテンベガ クビ。
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2009.08.08 (Sat)

くいだおれ太郎がいた・・・・・

 昨年の7月8日、大阪・道頓堀の食堂ビル『大阪名物くいだおれ』が閉店し、同時に人気のあった人形『くいだおれ太郎』が姿を消してはや1年。あれから元の店舗は閉鎖されたが、まだ建物は残っていて、未だに記念撮影を行なう観光客がいるが、先月の7月19日、旧店舗の僅か東、旧・中座址に建っている商業ビルがリニューアル・オープンし、その店頭に何と『くいだおれ太郎』が復活した。

 この新しくオープンした店舗は、『中座くいだおれビル』といい、何だか昔にあった『大阪名物くいだおれ』ビルとどう違うのかと問いたくなるが、新しい経営者も名前を似せて、客寄せのために『くいだおれ太郎』を店頭に立たせると言う用意周到さ。ここのビルの経営者は東京の会社だが、道頓堀らしさを演出するには、消えた道頓堀の人気者にあやかろうとしたのかもしれない。そういうことで人形の持ち主からレンタルで借りているそうな・・・・・・。

 それで久しぶりに暑い中を道頓堀まで行ってみたが、懐かしい人形が確かにいた。場所は元の『くいだおれ』ビルから、僅か20、30m東にある商業ビル。ここは昔、大阪五座(芝居小屋)の一つである中座が建っていたところで、その場所に『くいだおれ太郎』が立っているなんて時代も変わったものである。

 さて、新しい『中座くいだおれビル』もコンセプトとしては、以前の『大阪名物くいだおれ』とあまり違っていないようだが、今回は商魂逞しく、店員が店頭で『くいだおれ太郎』の前で一緒に写真を撮りませんかと呼び込んでいる。もしかして写真を撮って記念に売りつけるのだろうか・・・・・・・。これだと各自、自由に写真を撮っていた以前の姿とは少し違っているのでは・・・・・・。前の店は、人形ばかりが有名になったが、肝心の店舗の中までは客は来なかった。それが、今回はくいだおれ人形まで商売の対象にしているのではないのか・・・・・。ああ、世知辛い世の中になった。まあ。まだ確認してないからはっきりしたことは判らないが、人形の周囲には、法被を着た店員が大勢いて、『くいだおれ太郎』の近くにはあまり近寄れない模様である。

 何か以前のような、人形の前に人がたかって写真を撮りまくっていた光景とは若干違っていて、時代も変化したものだと感じた次第である。ただ、この商業ビルが、はたして生き残れるかは大いに問題があって、何時までも『くいだおれ太郎』が、この場所に立っていられるかどうかは店次第ということになる。・・・・でも、道頓堀以外に行かなくてよかったと多くの人は考えているだろう。


 前の『大阪名物くいだおれ』のあったビル。店が閉められて寂しいものであるが、未だに写真を撮っていく人が多い。
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 久々に『くいだおれ太郎』が姿を現した『中座くいだおれビル』
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 『くいだおれ太郎』は店の前ではなく、入り口を少し入ったところに立っていて、遠巻きに写真を撮る人はいるが、前に立って写真を勝手に撮れないようだ。
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 法被を着た店の人が『くいだおれ太郎』の前で、客の呼び込みをしている。・・・・以前とは何処か違うなあ・・・・・・。
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2009.08.07 (Fri)

琵琶湖で花火大会があるらしく・・・・・

 週末の金曜日。来週は多くの企業が盆休みに入る。早いところは明日から盆休みに入るのだろう。それで今日、帰宅時に何時ものように職場を出て、うだるような暑い中をJRの駅まで30分かけて歩く。すると例によって、駅に到着した頃は頭のてっぺんから水を被ったように、全身汗だらけ。身体は歩いたせいか体温が上がっているのだろう。暑く手暑くてしょうがない。早く電車が来ないかなと懇願するが、ダイヤ通りしか来ない。でも駅のホームは何時もの週末以上に人でごったがえしている。それに浴衣姿の人が異様に多い。・・・・・・・理由はすぐに判った。滋賀県で1番大きな花火大会が浜大津沖の琵琶湖で開催されるからだ。それで多くの人が琵琶湖の花火大会を、これから見に行こうとしているのだった。ああ・・・・仕事で疲れて、これから帰ろうかと思ったら、花火大会か・・・・・・。

 人混みが大嫌いな小生は、花火そのものより、それによって電車が混み合うことに腹がたつので、この花火を見に行こうとして浮かれたような連中と乗合わされるのが嫌なのである。でも今日は、何時もの電車が来る前に臨時便の電車が到着したではないか。いつもなら223系の電車なのだが、その前に珍しい321系の電車が到着した。余りにも人出が多いので、臨時の電車を増便したということだろう。普段なら夕方の6時台でも1時間に4本しか走っていない、この田舎の滋賀県で、増便が来たので驚いた。こんな芸当が出来るのなら、日頃からもっと電車の本数を増やしてくれといいたい。

 こうして臨時の京都行きの普通電車に乗り込むが、なかなか発車しない。大勢の人が乗るからである。ようやくドアが閉まって発車するが、どうも車内が涼しくない。よく見るとこの車両は弱冷房車であった。参った・・・・既に満員で冷房もあまり効いていない車両では、汗が乾くどころか益々、汗が噴出してきた。助けてくれ・・・・・暑いのだけは御免だ・・・・・。車両を変えようと思うが、満員で動けない。南草津辺りで既に満員、瀬田で超満員、石山でさらに・・・。金曜日に花火なんかやるなよ。いい迷惑だ・・・・。会場に近い膳所でようや降りる人が出てきた。そして大津に到着。超満員の電車に乗っている9割方の人が降りたので、あっという間に車内がガラガラになった。大津の駅は人人人で溢れかえってしまい、人口32万人しかいない、寂しい県庁所在地の大津の街を人が数珠繋ぎのように、琵琶湖の浜へ向って歩いているではないか・・・。何とも妙な光景であるが、みんな花火がそんなに見たいものなのかな。先日には大阪では有名なPL教団の花火大会が開催され、南河内地方は電車も道路も混雑したというし、明日は明日で、大阪・十三の淀川で花火大会があり、こちらの方は人出が100万人とも言われている。京都では10日の日に宇治川の花火大会が催され、やはり人の波で大混雑する。

 今は何処も花火大会が目白押しなのだが、あの混雑だけは避けて通ることが出来ないので、できれば日曜日に開催して欲しいと思うのだが、不思議と各花火大会は開催日を微妙にずらしていて、かち合うことはほとんど無いようだ。もしかして狂のつく花火好きがいて、各地の花火大会を見て廻っているのがいるのではないかと思えるぐらい、開催日が重ならなくて、毎日、花火大会が行なわれる周辺では人混みで大混雑。彼らが去った後は、2日や3日で片付けられないほどのゴミの山が出来上がるという。

 それでも開催したい花火大会なのかもしれないが、結局は何のために行なうのか・・・・・。つまり地域の活性化と、地域振興のためということなのかもしれないが、これらの多くは赤字開催であるというが、それでも開催する意義というのはあるようで、町おこし、村おこしのようなものかもしれない。でも日頃から、祭りも嫌いなら、人ごみも嫌いな小生としては、花火もあまり行く気が起こらない。
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2009.08.05 (Wed)

親の所得と子供の学力と・・・・・・

 今朝の新聞を読んでいたら、親の所得が多いほど子供の学力が良いといった記事があった。これは文部科学省の委託を受けたお茶の水女子大の教授らが行なった調査によるもので、全国学力テストに参加した小学校6年生のうち、五つの政令指定都市から100校、8000人を無差別で選び行なった。その結果、親の年間所得が多いほど子供の学力が高かったという結果が出た。つまり親の年間所得が200万円未満の家庭の子供よりも、親の年間所得が1200万円以上の家庭の子供の方が、平均正解率で20ポイントも上回っていた。また、その平均正解率も親の所得が高くなるほど高くなり、見事に親の年間所得と子供の学力と比例している。

 でも、何を今さらと思う。こんなこと20年以上も前から言われているだろうし、東大生は年収1000万円以上もある家庭の子が多いといわれたのもかなり以前のことである。だから筆者は何を言いたいかということになるが・・・・・・・端的に困ったことだなあと世の中を憂いているのである。

 人は教育を受ける権利があるが、学校で学ぶだけでは成績が上がらないといって、小学生の間から塾通い、または家庭教師をつけるといったことが当たり前のご時世である。それに今の世の中、学力偏重主義で、より良い学校を出ることにより、人生のその後までが決まってしまうということ・・・・。人間は学力以外でも、その人の価値を判断する基準というものがあるはずだが、残念なことに何かにつけ学歴優先で、より高学歴とされる大学を出ている人を優先的に、企業や法人等が採用することが慣習化している。それにより当然、高学歴の人ほど就職の時の選択肢が多く、年収が高い職に就くことが出来る。一方、学力が低いと、当たり前のように就職で不利になる。その結果、選択肢が少なく、年収の低い仕事に甘んじなければならない。

 まだ私の子供の頃は、塾へ行く子も少なく、家庭教師をつけている家庭なんて希であった。だから親の年収に関係なく、努力する子とサボる子と、次第に学力で差がついていったものだから、飽く迄も学力差は個人的な問題であった。要は陰で勉強をコツコツとしていた子が成績も良かったということである。だが、最近のように、親の年収と子供の成績が比例するというのは、子供の個々の問題だけではなくなってくる。だから困った問題なのである。

 今は小学生の頃から、裕福な家庭の子は塾に通わせ、さらには家庭教師をつける。そして進学校と言われる私立校に小学校、中学校から通わせる。だがこれらには当然、大金をつぎ込まなければならない。子供の教育には厖大な金が必要だということ。親の年収に余裕があれば、それは可能だろう。でも、低収入の家庭では、それが出来ない。せっかく良い資質を持っている子供がいても、塾には通わせられないし、家庭教師もつけられない。ただゆとり教育を推進した公立学校の授業で教わるだけで、あとは本人の努力に頼らなければならない。小学生で、いくら頭が良い子がいるといっても、未知の学問を教わる場合、やはり独学で勉強するよりも、プロの講師や教師に教わったほうが、理解しやすいだろうし学力も伸びるだろう。

 つまりこういった毎日が繰り返され、次第に所得の高い家の子と、所得の低い家の子との間で学力に開きが出来てしまうのである。結局、現在はこのような作られた教育システムで生まれた秀才ばかりが東大や京大、及び優秀と言われる大学に進み、彼らが後に官僚や有名企業に進むのである。

 これだけ書くとなんら問題がないように思う。が、子供の頃から、家が裕福でお金に苦労をしたことがなく、その上コミュニケーションが下手で、ただ勉強だけをやっていた・・・・そして、こんな秀才たちが官僚になる。その結果、子供の頃から貧乏を知らないから、庶民の苦労が判らない。・・・・こんな官僚が世の中を作るのであるから問題なのだ。

 官僚に限らず、全てがこのような世の流れで大企業に就職したり、また国会議員の子が簡単に国会議員に当選する。・・・・・・・の一方では、何だかんだといって、貧乏人はよほどのことがないと、出世できない世の中になりつつある。これが問題なのである。基本的に人は平等であるといっておきながら、貧富の差は歴然としているし、それが親から子へと移っても、貧乏からなかなか脱皮できないシステムにだんだんと世の中全般が移行しているから大問題なのである。・・・・とは言っても、金持ちからは負け犬の遠吠えだと言われそうだから、もうやめた。しかし、今の子はたいへんだ。私なんか早く生まれていて助かったと思うよ。
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2009.08.04 (Tue)

フジヤマのトビウオ

 フジヤマのトビウオと称された日本水泳界の重鎮であう古橋広之進さんが亡くなられたと聞いて、昨日の間に記事にしておくべきだったのだが、あいにくの残業で、帰宅が遅くなりとてもパソコンなんか立ち上げられる状況ではなかった。だから1日遅れで書く事にする。

 ところでフジヤマのトビウオって何だ? といっても知らない世代の人がだんだんと増えてきている今日では、古橋広之進なんて名前を初めて聞く人も多いのだろうあな・・・・・・・。

 古橋広之進・・・・・水泳選手。昭和3年(1928年)9月16日、静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市)出身。自由形の種目で世界記録を33回も更新。・・・これだけ書くだけで嘘! と言われるほどの凄い選手であった。

 昭和20年、日本は敗戦した。その敗戦ショックから立ち直れない日本人達に勇気を奮い立たせた最初の人が古橋広之進だったといえばいいだろうか。最も橋爪四郎という古橋の同僚もいるが、取り敢えずは古橋広之進の話をする。

 子供の頃から泳ぎが得意な古橋広之進は、戦後に浜松二中から日本大学へ進学し、競泳の自由形種目・主に400m~1500mで記録を次から次へと更新。この時、いつも2位が橋爪四郎であった。そして1948年ロンドン・オリンピックが開かれる・・・・・・・が、日本は戦争責任国で、ドイツと共にオリンピックへの参加が許されなかった。そこで日本水連は、ロンドン・オリンピックの競泳決勝が行なわれる種目と同じ日に、競技日程を合わせるように日本選手権水泳を開催した。その結果、古橋広之進は自由形の400mと1500mの両種目で、オリンピックの優勝者よりも速いタイムで泳ぎ、共に世界新記録であり、ことに1500mにいたっては世界記録を20秒以上も更新していた。

 だが彼の記録は当然、公認されるはずもなく、それどころかアメリカ側は、日本のプールは50mもないだろうだとか、日本の計測時計は遅く廻るのだとか、言いがかりをつけたのである。こうして翌年の1949年に日本の水泳選手団がアメリカの全米選手権に遠征することになった。

 こうして古橋広之進、橋爪四郎以下、6人の日本選手団がロサンゼルスで行なわれた全米選手権に出場する。そして日本勢は大暴れ、200m自由形で浜口喜博が優勝。400m自由形では古橋広之進、橋爪四郎、村山修一、田中純夫と上位4位までを独占。800m自由形も古橋、橋爪、田中と3位までを独占。800mリレーでも世界新記録で日本がアメリカに圧勝。

 そんな中で圧巻は1500m自由形であった。予選から大きなアメリカ選手に混ざって日本選手たちは参加。まずA組に出場した橋爪は18分35秒7の世界新記録で決勝進出。続いてB組出場の古橋広之進は橋爪の記録を破る18分19秒0という驚異的な世界新記録で決勝進出。この時、2番手を泳ぐアメリカ選手を一往復以上引き離していたという。つまり古橋がゴールしても、2番手を泳ぐ選手はまだ1400mをターンしていなかったのである。アメリカの審判員は古橋らがあまりに大差をつけるので、どの選手が何往復したのか判らなくなってしまい、時計が狂ったのではないかと真剣に悩んだそうだ。

 引き続き決勝も古橋、橋爪、田中の順でゴール。完全にアメリカ選手を問題としなかった。この結果は、選手達の記録から見て、判っていたことなのにアメリカ側は同じ土俵で対決するまで信用しなかったのである。日本水練公認のプールで出した記録を、50mに満たないプールなのかと疑わせるほど古橋たちの記録は当時の外国選手よりも出色だったということであろう。まあ、今となってはそんなに日本の水泳が強い頃もあったのだと驚くことしか出来ないが、アメリカのマスコミは、とうとう古橋に『フジヤマのトビウオ』というニックネームをつけて敬意を表したのである。

 結局、この古橋たちの活躍ぶりはラジオや新聞、ニュース映画で大きく紹介され、敗戦直後でうちひしがれていた日本人に大きな希望と光明を与えたのである。こうして古橋たちは日本人なら誰もが知る存在となったのである。また水泳という一スポーツ競技が、これほどまでに国民的熱狂をもって迎えられた例は、後にも先にもこの時だけであろう。おそらく古橋の偉業は、現在の北島がオリンピックで連覇しようが、とても及びつかないほどのものだったのだろう。

 でも残念ながら、古橋はオリンピックではメダルを取れなかったのである。4年後のヘルシンキ・オリンピックに古橋は出場した。だがその前年、南米遠征でアメーバ赤痢に罹り、調子を落とした古橋は2度と復活することなく、オリンピックの決勝で8位に終わってしまった。この時、ラジオのアナウンサーが「古橋を責めないでください。古橋を責めないでください」を連呼したという。

 以上、私が知っている範囲での古橋広之進のお話でした。実際に古橋の現役時代は知らないが、エピソードとしては上記のようなものである。現実に私が知っている競泳の日本人選手は、山中毅が最初だから、古橋広之進は私も名前だけしか知らない。でもフジヤマのトビウオとして、後代まで語られる偉大なスイマーだったのである。・・・・ご冥福をお祈りします。
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2009.08.02 (Sun)

ドアーズを聴く・・・・・『ハートに火をつけて』

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 先日、久々にザ゙・ドアーズのアルバム『ハートに火をつけて』を聴いてみた。今となっては何とも感じないが、当時、聴いた時はやや異質なポップスに触れたという第一印象があったことを思い出す。それは当時の一般的なギター2人、3人という編成ではなく、ギターが1人で、あとはヴォーカル、キーボード、ドラムスという特殊な編成によるものなのか、ベース・ギターの低音質の響きがなく、代わりに絶えずキーボードが流れていたからである。

 ドアーズのデビュー・アルバムが発売された1967年初頭の頃のロック・バンドというのはギター3人というのが普通で、キーボードがいるバンドというのは珍しいぐらいだったからである。最も1967年あたりはポップスというものが大きく変わっていく時代だったので、色々なバンドがありとあらゆる試みを行なっていた。当然、ドアーズもそういった時代のロックバンドではあったが、彼らの音楽性云々というよりも、何かとスキャンダルのネタになることが多かったという印象があった。

 そもそもロサンゼルスにあるUCLAの学生であったジム・モリスン、レイ・マンザレクが中心になってドアーズが結成されたというが、1967年1月にこのアルバム『ハートに火をつけて』が発売されている。この中の最初に収録されている『ブレーク・オン・スルー』がシングル盤として発売され、6番目に収録されている曲『ハートに火をつけて(Light My Fire)』が2番目のシングル盤として発売された。結果として『ハートに火をつけて』が大ヒットとなり日本でも有名になったのである。しかし、こういったヒット曲がありながら、ジム・モリスンの独自のヴォーカルとそのパフォーマンスによっていわばキワモノのバンドとして一部では扱われていたように思う。とにかくジム・モリスンというヴォーカリストは目立っていた。ドアーズの曲の歌詞は何かと問題になり、よく性的な表現があったりしたりする、父親を殺し母親と寝るなんていうくだりのある『ジ・エンド』は問題作でもあった。またジム・モリスンンは自分の容姿に自信があったのかどうかしらないが、ステージ上で猥褻な行為を行なったとして逮捕されるし、エド・サリバン・ショーに出演したときは、『ハートに火をつけて』の歌詞がドラッグを連想させるから一部歌詞を変えて歌うように言われていたのにも係わらず、そのままの歌詞で歌ってしまい、その後、2度とエド・サリバン・ショーに出演できなくなったなど何かとスキャンダルの多いバンドであった。

 ドアーズというのはアメリカ西海岸のバンドであるが、当時、雨後の筍のように出てきたサンフランシスコのバンドではなく、ロサンゼルスのバンドであることから一線を画していたように思うが、サンフランシスコのバンドがブルースやカントリーの影響を大きく受けていたのに比べると、ロサンゼルスのバンドはジャズの影響を受けていたという。でもドアーズはそういった意味でも独自の路線を歩んでいたようだ。しかし、個性の強かったジム・モリスンが『L・A・ウーマン』を発表した直後の1971年7月3日、パリで突然死する。死因は心臓麻痺と公表された。でもこれとて多くの人はドラッグの過剰摂取によりものだと考えていた。その後、モリスン抜きでドアーズは活動を続行するが、モリスンのいないドアーズは魅力がなく何時の間にか消えていってしまった。

 また1991年には巨匠オリバー・ストーン監督によって彼らを描いた映画『ドアーズ』が上映された。でも映画を観たドアーズの残りのメンバー3人は、ジム・モリスンが精神病患者のように描かれていて不快感を表したという話を聞いて、ドアーズは善くも悪くもジム・モリスンあってのバンドだったのだという思いを強く持った次第である。


『ハートに火をつけて』の演奏。ザ・ドアーズ
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2009.08.01 (Sat)

土曜出勤も疲れます

 お盆前の土曜出勤である。何時もより電車の本数が少なくて、それでいて電車が空いている。乗っているのは部活の高校生か、レジャーに出かける若者か家族連れが多く、何だか気が乗らない。それに土曜出勤といっても普段の日よりも忙しくて損した気分だ。昼は昼で激しい雷雨がやってくる。本当に職場のある地域は、毎日、激しい通り雨がある。好き好んでこんなところに働きに来る奴なんて誰もいないだろう。とはいえ、これも宮使えの性、従うしか生きる道はなく、毎日2時間も、いや、それ以上かけてど田舎の職場まで通い始めて、既に1年と2ヶ月以上なる。

 とにかく午後5時45分になって、さっさと退社する。外は雨があがって青空さえ見える。正午頃の雷鳴と豪雨はいったいなんだったのだ。それでいて携帯電話のワンセグでは、大阪代表を決める高校野球の決勝が放送されていたではないか。大阪では雨が降ってなかったのだろうか。とにかく滋賀県では通り雨を含めて毎日、毎日、雨が降っている。もういい加減にしてくれといいたいほど、夕方には雨に見舞われる。でも今日の帰宅時には晴れていた。しめしめとばかり30分かけてJRの駅まで歩く。駅についた時には汗でビショビショである。でも晴れているとバスに乗る気が起こらない。バス代が勿体ないというのもあるが、とにかく交通停滞が酷くて、乗っているとイライラ度合いが増す。それに全く、動かない信号が途中にあって、一つも前に進まない。これだと歩いても、バスに乗るのと比較して時間的にあまり変わらない。だからよほどの強い雨が降らない限り駅までは歩くことにしているのだ。こうして駅に到着して、さあ電車を待とうとしたら、何と電車が延着していた。

 何・・・・人身事故か・・・・・・それとも信号トラブルか・・・・何だ・・・・・・遅れている理由は、播州の姫路~御着間において、豪雨による増水のためらしい。いや、参った。今度は雨で電車が遅れるとは・・・・・・・。JRは電車が遅れない日なんて、1年365日、1日もないのではないか・・・・・。ああ、どちらにしろロクでもない土曜出勤であった。
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