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2015.03.29 (Sun)

韓国人にいらついた

 先日、中国人のマナーが悪いと記事にしたと思うがが、今度は韓国人にいらついたという話をする。かつて日韓併合という歴史のあった国。第二次世界大戦終了によって日韓併合から解き放たれたというが、朝鮮戦争により南北に分断され今日に至っている。その南側が大韓民国。いわゆる資本主義国家であり民主主義の国である。一応は・・・・・。
 朝鮮戦争により北朝鮮と南朝鮮に分断。その南朝鮮が韓国であるが、その初代大統領に就任したのが李承晩。この人が1952年に李承晩ラインというのを中国、日本との海洋域の間に一方的にひき、その中に竹島を組み込んでしまい、このラインの中に入った漁船を拿捕、接収、臨検、銃撃したりした。この時、日本の漁船の多くが韓国側に銃撃されたり拿捕されたりした。この李承晩と言う人は徹底的に反日教育を施し、今日の韓国の反日はこの人から始まったと言ってもいい。李承晩は日本併合時代はアメリカや中国に亡命していて、密かに朝鮮独立運動を行っていたので、日本併合時代の良くも悪くも朝鮮を全く知らないのである。よく日韓併合時代の朝鮮は良かったとする老人が若者に殺されたとか殴られたとかいう事件が頻繁に起きる韓国であるが、今の70歳より下の世代の韓国人は徹底した反日教育を受けているから日本に対して良くないイメージしか持ってないだろう。つまり反日を国是として発展した国だから。とはいうものの李承晩時代は世界でも最貧国だった韓国。当時は北朝鮮の方が豊かな国になっていた。それが1961年、軍事クーデターを起こし第3代大統領に就任した朴正熈大統領が1965年、日本の佐藤栄作首相との間に日韓基本条約を結び、国交を開始。この時に日本から膨大な資金援助と技術援助を得て急速に発展。あっという間に豊かになっていき、1988年にはとうとうオリンピックまで開催するようになった。この間の発展を漢江(ハンガン)の奇跡として知られるようになったことは言うまでもない。ところが、この奇跡も韓国では自らの努力のみで達成したとしか謳っておらず、まさに自画自賛。日本やアメリカの協力で成し得た奇跡であることはほとんど触れてないし国民には知らしめるどころか、相も変わらず徹底した反日教育を続けたのである。大統領が変われど徹底した反日教育は続けられ、これは今もなお続いている。小生は韓国の高等学校で教える歴史の教科書(翻訳物)を3冊持っているが、どれを読んでも笑えてくる。まさに歴史はファンタジーなり。ウリナラ・マンセーのオンパレード。よくこんなことを歴史の真実であるかのように教えるものだと・・・・。でも日本の戦前の皇国史観による歴史教育の弊害も忘れてはいけないが。まあ、こんなことはどうでもいい。
 それは現在、李正熙の娘、李槿恵大統領になって、さらに酷くなっているように思う。あの女大統領はアメリカや中国やヨーロッパに行っては日本の告げ口外交することですっかり有名になってしまった。それ以来、日本国内でも韓国は、これまでさっぱり関心のない国から大嫌いな国の筆頭になってしまった。
 それでは小生が韓国人にいらついたという話をしよう。先日、ある回転寿司店でのこと、U字型になったカウンターに20席ほどしかない小さい店。最近は郊外店では回転寿司といっても大型店があって、家族で来ても座れるようにテーブル席ばかりのところも多い。しかし、ここは都心部の狭い店でカウンター席のみ。したがって客は1人か2人連れが多い。多くても3人連れか4人連れまでだ。これ以上多いとバラバラで座らなくてはならないから、まずカウンター席しかない店には来ない。その日も狭い席はほぼ埋まっていた。小生も空いた席に案内され座った。間もなくして両側の席が空いた。さらに2、3分して左側が2人分空いていた。すると、何人かの客が入って来た。店員が「何人様ですか」と尋ねていた。すると「9人」という声が聞こえた。小生はそれを聞いてエ!と驚いた。9人も座るところはないぞ。まさかと思った。こんなカウンター席だけの店で横に1列もならんだら会話も出来ないだろ。それに午後の1時半、空いた席もまばらに5席か6席。「もうしばらく待ってください」と店員が説明していた。それが5分ほどすると、9人の中の1人が大きい声で何かを言いだした。さっぱり判らない。どうやら韓国人みたいだ。1人だけが日本語を話せるみたいで、「まだ空かないの」と言ってる。早く食えと催促されているみたいで気分を害した。その一言に小生と同様気分を害したのか、席を立った人が2、3人出てきた。これで空いた席は7人か8人。でもバラバラ。店員は別れて座ってもらえれば全員座れるようなことを説明するも、日本語を喋れる1人は「詰めてもらえ」と店員に大きい声で言う。また韓国語で2、3人が何か言っている。しょうがないと思ったのか、店員が我々に「恐縮ですが、こちらに寄ってもらえますか」と勝手に積み上げている皿を隅の方に寄せていった。座って食べている客が迷惑だ。そして、強引に席を空けさせ9人が1列に座り食べ出したのだが、喧しいこと喧しいこと。韓国語なので何を言ってるかさっぱり判らない。また一度取った皿をまたレーンに返すという行儀の悪さ。醤油を寿司ネタにドボドボかけ食べる。そんなに醤油をかけたら素材の味が活きないだろうと思うがおかまいなし。ビールも1人2本、3本飲んでいる。次第と宴会場の様になってきた。こちらは我慢していたが愛想が尽きて腹が膨れるまでに出て行った。
 しかし無礼極まりない。以前、韓国に長い間、赴任していたという高校時代の級友が韓国人にはもう辟易したといっていたが、まんざら判らないでもないと思った。彼に言わせると反日と言う生易しいものではない。あれは侮日だといっていた。チョッパリには失礼なことをやってもいいのだと本気で考えている奴が多い。ちょっとでも日本を褒めるとすぐに親日派だといって糾弾される国なので、表立って言えないと彼は言う。つまり民主主義と言うが名ばかりで言論統制のある国だという。確かにそうかもしれない。そういったところは共産党の独裁国家中国とあまり変わらない。宗主国とその属国との繋がりが長かった。事大主義の歴史だった朝鮮の歴史が見えてきそうだが、あくまでも日本は自分たちより下に見ているのだろう。その日本に併合された黒歴史が許せないというのかもしれない。だが、何でも日本の物をパクり、起源は我々だと主張する。我々は土人だった日本に文化を教えてやった与えてやったのだ。そのチョッパリが我々に残酷(史実とは違っている)なことをしたから、日本に対しては無礼を働いてもいいのだ。といった考えが浸透しているのかもしれない。
 キャッチアップ式経営で世界中、安価な価格で売りまくり急成長でのしあがったサムソン電子の例を見ても判るが、ああいった韓国人が、海外でも押しの強さで展開する行動は何となく読めてくる。だから、ある回転寿司店でのちょっとした出来事一つとっても韓国と言う国が日本人と相性が悪いのは良く判る。まったく別の民族である。ただあれだけ日本を嫌いながら、反日教育まで施しながら、それでいてあれだけ多くの韓国人が日本に観光に来るのか判らない。実のところ心の中では嫌ってないのかもしれない。ただ口に出せないのかな。

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2015.03.22 (Sun)

ピンク・フロイドのアルバム『狂気』を聴く



 このアルバム『狂気』がリリースされたのは1973年らしい。らしいというのは確たる記憶がないからなのだが、ピンク・フロイドのアルバムは当時、シド・バレット在籍の頃の『夜明けの口笛吹き』から始まって『神秘』『ウマグマ』『原子心母』『おせっかい』『雲の影』とサウンド・トラック版の『モア』以外は全て持っていた。こういうとちょっと変わったロック愛好者であったかもしれない。当時、ロック好きと言うと当然、保守本流はハード・ロック。みんなレッド・ツェッペリンやディープ・パープルとかを聴いていたのかも。それ以前では王道を行くビートルズ、ローリング・ストーンズは別にしてもクリームやジミ・ヘンドリックスとかザ・フー、CCR、GFRのファンはいたがピンク・フロイドを熱心に聴いている者は私の周辺にはいなかったので淋しいものだった。当時、ピンク・フロイド、ムーディー・ブルース、キング・クリムゾン、EL&Pとかを聴いていると異端児扱いされる場合もあった。もっともキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』ほどメジャーなアルバムだとみんな聴いていたのでキング・クリムゾンは好きと言う者もいたが、ピンク・フロイドとなるとちょっと違ってくる。あんなものロックじゃないと言って憚らない輩もいたのは事実である。そういった意見が支配していた時代、私はピンク・フロイドを熱心に聴いていたものだ。
 さて、このアルバム『狂気』はピンク・フロイドのコンサートに行った翌年に出された。この中で『マネー』という曲がシングルで発売されがラジオで流れていた。ピンク・フロイドと言うのはシングル盤よりもアルバムで聴いてこそ活きる音楽。当然、アルバムを買った。でも初めてアルバムを聴いたときの印象は意外だった。それは珍しく歌詞の付いた曲が多いと言うこと。『原子心母』『おせっかい』で感じたインスルメンタルの大曲があまりなく『マネー』などは普通のロック・バンドのような楽曲だと思った。それが意外だったのだ。ピンク・フロイドはこのような曲作りもするのだとと面食らった覚えがある。でもトータル的にはピンク・フロイドらしさはあったが、驚いた部分が散見され当初はつまらないアルバムだと思ったものである。その後、聴きこむことにより、その思いは払拭されたのではあるが。
 しかしである。私の印象とは正反対にピンク・フロイドの『狂気』は全世界で大ヒットした。それまでピンク・フロイドに見向きもしなかった人が買い求め、日本でもこれを境にピンク・フロイド・ファンが増えていったように思う。また何時の間にかプログレッシヴ・ロックなんて言われ出していた。私は当時????? 何で突然ピンク・フロイドが持て囃されるようになったのか不思議に感じたものである。もうマニアックな音楽ではなくなっていたのかな。結局、このアルバムの大ヒットをきっかけに過去のピンク・フロイドのアルバムを買い求めて聴く人が増えたのであるが、何か釈然としなかった。でも一部のマニアックな・ファンしか聴かなかったピンク・フロイドを聴く人が一気に増えて嬉しかったというのを覚えている。なにしろその一年前の1972年3月のピンク・フロイドの京都府立体育館の公演では、入りが悪く空席が多かったもので人気がないのだなと痛切に思ったものだから、『狂気』は世の中のロック・ファンを振り返らせてくれた奇跡のアルバムと言えるかもしれない。作家の安倍公房がピンク・フロイドのファンだと後年になって知ったのだが、安倍公房が何時からピンク・フロイドを聴いていたのかそれは判らない。でも『狂気』でピンク・フロイドを聴き始めた人は多いように思う。ただ私が感じるに、どれほど讃美され、ロック史上に残る名盤とされ、売り上げの面でもロングセラーを記録している歴史的アルバムになっているといっても私から見るとピンク・フロイドらしくないっといった印象は拭えない。やっぱりアトム・ハート・マザーの時のようなロック・シンフォニーのような曲がそれらしく思える。また『原子心母』を初めて聴いた時ほどの衝撃度は『狂気』には感じなかった。それは私がデビュー間もない頃からのピンク・フロイド・ファンだったからかもしれないが。
 尚、このアルバムは『狂気』という邦題がついているが原題は『The Dark Side Of The Moon』である。だから聴いてみると狂気と言う印象と違うように聴こえるのしょうがないだろう。この狂気と言うタイトルは東芝EMIの洋楽プロデュサーだった石坂啓一が考えたらしい。この人はプログレッシヴ・ロックという言葉も生みだし、『原子心母』『おせっかい』のタイトルも考えた人である。

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2015.03.21 (Sat)

フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』を読む

 ニック・キャラウェイは大学卒業後に戦争に従軍し休戦ののち故郷へ帰って来た。そこで待ち受けていたのは否応もない孤独感。1920年代の狂乱の時代。ニックは証券会社で働くという口実をたてニューヨークへやってきて郊外に小さな家を借りるが、その隣が豪華な大邸宅で、これがジェイ・ギャツビーの住まいだった。ギャツビーは毎夜、豪華なパーティーを繰り広げていた。そんな或る日、ニックはギャツビーのパーティーに招かれる。ここでニックはパーティーに参加している多くの人がギャツビーに対して何も知らないし良くない噂ばかりを聞くのであったが、やがてニックはギャツビーの秘密を知ることとなる。ギャツビーは貧しい少尉の頃、ディジーと言う女性と愛しあっていた。それが、ギャツビーが第一次世界大戦でヨーロッパに出征している間に、ディジーはトムと言う大金持ちと結婚したのであった。ギャツビーは短絡的な男で金がディジーの心をとらえたものと思い、あらゆる手段で金持ちになり、わざわざディジーの屋敷と入り江を挟んで向かい合っているところに大邸宅を買い取り、このように毎晩パーティーを開いて、何とか関心をひき、愛を取り返そうと努めていたので、当然のように独身だった。
 たまたまニックのまた従姉妹だった隣人のとりなしでギャツビーはディジーと再会する。単純なギャツビーは彼女に会うと、彼女の愛を取り戻したものと信じ切ってしまう。だが、或る夏の日、皆とニューヨークに出かけ、その帰り道にディジーが運転するギャツビーの車はトムの情夫をひき逃げし、ギャツビーがひき逃げしたものと思いこんだ情夫の夫はギャツビーを射殺してしまう。そしてギャツビーの葬式に姿も見せなかったディジーは夫と旅行に出かけてしまう。まさにギャツビーの愛は実にはかないものだった。 やがてニックはこうした東部の現実に嫌気をさい、中西部の故郷に帰っていく。
 ジェイ・ギャツビーこそ、もっともアメリカ人らしい人物と言えるかもしれない。貧乏でせっせと働きアメリカン・ドリームを現実化させるが、ロマンティックで、ナイーヴでお人好し。かつての恋人が自分を捨てて他の男と結婚してしまったのに、それはただ富が彼女を盲目にさせたにすぎない。彼女の自分への愛は今も変わらないものと勝手に決め込んでいる。ニックが彼女にあまり多くを求めてはいけないし、過去は繰り返せないと言っても、ギャツビーは聞く耳を持たない。結局はディジーに見捨てられる。
 この小説のストーリーは日本で言うと『金色夜叉』という明治時代の古い文学がすぐに思い出される。尾崎紅葉の『金色夜叉』は学生の間寛一の許嫁である鴫沢宮が、結婚を間近にして富豪の富山唯継のところへ嫁ぎ、激怒した寛一が熱海の海岸で宮に問い詰めるも本心を明かさないため宮を蹴り飛ばす。やがて寛一は復讐鬼と化し冷酷な高利貸しとなるものの宮もけして幸せではなかったという展開であった。
 日米の話の展開の違いはあれど、その根底にあるのは同じようなもの。ただ言えることは恋愛の縺れというものは洋の東西に関わらず男がロマンティストであるのに女は何時も現実的であること。大概、このように描かれている。つまり男は別れた女性に未練を持っていても、女性の場合はあっさりと忘れるということか。これは普遍的なことなのかもしれないが、この21世紀になってますます、その傾向は強くなりつつあるようだ。だから小生は女性恐怖症なのかな???
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2015.03.14 (Sat)

トワイライトエクスプレス

 トワイライトエクスプレスが一昨日の12日~13日にかけての運行を終え、およそ26年間の歴史に幕を閉じた。大阪~札幌間1500㎞を22時間かけて走る豪華寝台列車として運行され日本一長い距離をほぼ一日かけて日本海沿いを走るので悠久の旅が出来ると評判を呼び、そこに豪華さが加わってデビュー当時はチケットが瞬時で完売するので有名だった。何時か完全にリタイアしたら一度乗ってやるかと考えていたのだが・・・・・・その前に引退してしまった。それは北海道新幹線が開通すると言うので青函トンネルの電圧が変更されることと並行在来線が第三セクターへ移管されることとに加え、一番の大きな理由は車両の老朽化ということだろう。
しかし整備新幹線もいいけれど、時間に縛られずのんびりと旅情を味わいながらゆったりとした気分に浸れる長距離寝台車の方が遥かにいい。殊にトワイライトエクスプレスはそれまでの日本の寝台車にない個室の寝台車。最後尾は豪華なロイヤル・スイート。大きな個室で大阪駅で発車する前の僅かな時間は見学をさせてもらったものだ。確かに豪華でかつてのヨーロッパを走っていたオリエントエクスプレスを彷彿とさせるし、国鉄時代の簡易ベッドを並べたような寝台車とは一線を画す。
 こういった列車に乗って北海道までのんびりと旅したいなあと思っていたのだがな。飛行機で北海道に慌ただしく行くのとは違い、許される時間があれば乗って見たかったというのが本音である。10代の頃、鈍行と連絡船をつないで北海道までいったことあるが、あのときは京都~大垣、大垣~東京、東京~上野、上野~黒磯、黒磯~仙台、仙台~青森、青森~函館、五稜郭~銚子口、銚子口~札幌と乗り継ぎ、間に大沼湖畔でテントを張って寝たが、札幌まで3泊して4日目にようやく到着した。着いたときは腰が痛くて身体がガタガタ。黒磯以北は古い客車で背もたれが板で直角。五稜郭~銚子口まで乗った時はまだ蒸気機関車のD-51が牽引していたという時代。昭和47年の夏だった。それを考えると僅か40余年で隔世の感がある。まもなく北海道まで新幹線が走ろうかと言う時代。あの当時はまだ東海道全線と山陽新幹線は岡山までしか開通していなかった。でも新幹線は忙しいビジネスマンには都合がいいので利用者が多いが、やはり優雅に旅行するなら寝台車か鈍行だろう。つまりそれだけ時間に余裕のある人しか出来ないということだ。そこにトワイライトエクスプレスになると豪華さが加わる。時間とお金がないと利用できるというものではない。だから熟年夫婦に利用者が多いのである。
 皮肉にもトワイライトエクスプレス廃止と入れ替わって北陸新幹線が開通して北陸の人は大喜びだそうだが、あんなもの乗っても2時間かそこらで終わる。飛行機と一緒で如何に時間を短縮するかだけのために建設されたもの。そこに経済性とかが加味されて有効利用される。つまり経済効果を狙ってといったところだが、新幹線なんて一度乗るだけで十分だ。時間が許されるなら新幹線なんて小生は乗らない。ただ時間に追われているから利用するだけ。だから何時も感じるのは新幹線が開通するたびに、並行した在来線がお荷物扱いされてしまい隅に追いやられてしまうから残念だ。どうしても新幹線を利用せざるを得ない状況にしてしまうのだ。これだと点から点への移動だけになってしまい途中の記憶がなく味わいもない。また昔の列車は窓が開き停車ごとに駅弁が買えたものだが、今の列車は窓も開かない。完全冷暖房だから仕方がないが旅の情緒なんてものはない。単なる移動のための箱ものだ。だから豪華客船にもいえるがトワイライトエクスプレスのような時代に逆行した乗り物が人気になるのだろう。ついでにいうなら上野~札幌間を走っていた同様の豪華寝台列車北斗星もお役御免だという。寂しいねえ。しかし、こういった豪華寝台列車に一度は乗って旅をしてみたかった。




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2015.03.08 (Sun)

戦艦武蔵が見つかった

 第2次世界大戦の大日本帝国海軍の戦艦武蔵がフィリピンのシブヤン海の水深1000mの海底で発見されたと3月3日発表された。発見したのは何とマイクロソフトの共同創業者であるポール・アレン氏。この資産家は父親がアメリカ海軍に従軍したこともあり沈没した戦艦に興味を持っていたと言い、武蔵に関しては8年前から捜索を続けていたらしい。自身が所有するクルーザーOctopusでシブヤン海で探査を行っていて、このほど映像が公開されたのである。同型艦の大和のことは、これまで採り上げられ鹿児島の沖で沈んでいることは知られていて映像も残っているが、武蔵に関しては判らなかった。場所もフィリピンと言うこともあり徹底的な調査もされなかったし場所も確認されていなかった。今年はちょうど戦後70年目の節目の年。あの戦争とはいったい何だったのか考えるにおいてもいいタイミングで武蔵が発見されたものだ。
 戦艦武蔵は言うまでもなく大日本帝国海軍の巨大戦艦であり日本が建造した最後の戦艦でもある。三菱重工長崎造船所で大和型2番艦として1942年に建造された。まさに戦争の真っただ中。8月5日には就役につく。ところが1944年10月24日、レイテ沖海戦でアメリカ機の6回の攻撃を受け魚雷や爆弾を無数に被弾。それでも沈没まで4時間を要したという。基準排水量65000トン、満載排水量72800トン、全長263m、全幅38.9m、15万馬力のタービン機関で27ノットの速力を出す。主砲は46㎝砲9門と世界最大最強の戦艦と言われ今でも大和型戦艦以上の戦艦を作った国はない。というよりも当時でさえ戦艦と言う代物は無用の長物化していた。
 1941年12月10日。真珠湾奇襲から2日後にマレー沖海戦が起こった。この時、日本の攻撃機がイギリスの誇る戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈し戦艦よりも航空機戦力の威力の方が勝ることを、この時に証明していたが大和は完成したばかり。武蔵も既に秘密裏に建造されていたので途中で中止するわけにもいかなかったのだろう。したがって大和型戦艦の3番艦だった信濃は建造中途で航空母艦へと建造が変更されたのである。
 時の源田実海軍パイロットは日本の大艦巨砲主義を揶揄し、大和などはピラミッド、万里の長城と同じ世界の3大バカと酷評し、戦艦大和で飛行機が1000機造れとると言ったり艦隊の中で大和と武蔵が後ろからノロノロついてくるのを観て、戦艦ほど足手まといになるものはないと散々、こきおろしよく参謀と喧嘩になったというが、その発言は当たっていたということだ。
 大和型戦艦と零戦は太平洋戦争における日本の象徴であったが、零戦は獅子奮迅の活躍で戦果を挙げたが、大和と武蔵は確かにほとんど戦果らしい戦果もなかった。既に時代は戦艦同士で離れた位置から大砲を撃ちあう時代ではなく、航空機により制空圏を奪い合う時代になってた。つまり時代に取り残されていたのが大和と武蔵。でもこの巨大戦艦にはなんか日本人の切なさが込められていたように思える。でも武蔵を発見したのが当時の敵国のアメリカ人だというのが妙なところである。ポール・アレンは敵国の軍艦だといっても武蔵にはロマンを持っていたようだ。




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2015.03.01 (Sun)

どこもかしこも中国人観光客だらけ・・・・

 このところ京都や大阪の繁華街へ行けば中華圏の観光客だらけ。円安の影響もあるだろうがとにかく多い。ちょっと前は春節(中国の旧正月)の休日だったせいか、異常なほど中国人だらけになった。先日の土曜日のこと大阪の道頓堀から心斎橋を歩いて抜けていったが、日本人よりも中国人の方が多いというおかしな現象になってしまった。彼等はほとんど個人で旅行しなくて団体で旅行するからとにかく群れている。個人旅行客も時々みかけるがそれでも最低2人。それか3人、4人、5人連れ。西洋人のように1人で旅行する人がほとんどいない。なので顔は日本人と似ていても何となく中国人と判る。服装が派手。ピンクや黄色や赤などの原色のダウンを着る。声がでかい。どこでも写真を撮る。そして大きなキャリーバッグを持ってうろついていたりするから邪魔。そして大量に物を買う。一度、大きなドラッグストアで中国人数人が大量に化粧品や医薬品をカゴにてんこ盛りで買っているところに遭遇した。それも同じ薬を10ケースぐらい買っているので呆れた。あっという間にレジの前に行列。1人1人が大量に買うからなかなか列を捌けないどころか、段々と行列が長くなる。商品棚からは薬がみるみる間に空っぽになり補充をしなくてはならない状態。こちらは列に並んだが時間が経っても列の波が減らないので、結局は商品を棚に戻して買わずに出て行った。
 また京都での話。あるうどん店でのことである。昼食にうどん店に入った。カウンターしかない店である。入り口で食券を買いお盆にうどんの入った鉢をのせて空いたカウンターに座って食べ、あとは食器を返すセルフサービス式の店である。20人ぐらいしか入れないかな。店内は午後1時を過ぎていたのでそこそこ混雑していた。さてうどんを食べようと空いた席がないか見渡したが、ほとんど埋まっている。これは困った。食べられない。仕方なく誰かが、すぐに食べ終わるだろうと待っていたのだが・・・・・・。奥の方の若者男女4人は食べ終わっているのに一向に立ち去ろうとしない。オイオイと言いたくなった。彼等は大きなキャリーバッグを自分たちの席の真後ろの通路に置いているので、そこも通れない。全員食べ終わっているのだがスマートフォンを観て中国語で話している。小生はやっぱり中国人かと思った。日本人ならこんなことはやらないしな。こういった狭い店で混んできたら食べ終わり次第さっさと席を空けるだろう。それが中国人となると人のことはお構いなし。混んでこようが自分しかない。つまり空気が読めない。周りに気が配れない。流石、中国人だと思った。さらに今度は中国人の家族だろう5人組が大きなキャリーバッグを持って入ってきた。ますます店内は混雑。こりゃ大変だと思っていたら日本人の1人が食べ終わったので、そこに座ってうどんを食べたのだが、小生が食べ終わっても先ほどの中国の若者4人組は相変わらずスマートフォンを観ていて一向に席を空ける気配がない。店の人も言葉の通じない中国人だし迂闊に言えないのだろう。本当に困ったものだ。小生が店を出てもまだ彼らは店内にいたのである。
 もっとも最近は海外での中国人観光客の評判が悪いので、中国国内で海外旅行する上において遵守するべき行いと言うものを学ぶそうなのだが、彼等の種族特性としては簡単に変えられるものではない。これから国際社会になっていくに従って、外国人がどんどん日本に入って来る。そして今まで以上に中国人が来日する。今後、どう対処していいのか困るところだなあと思う。
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