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2010.09.30 (Thu)

季節の変わり目

 今日は9月の30日。上半期の決算日である。日本は企業でも学校でも4月から3月を1年としているようで、ちょうどサイクルの前半が終了したことになる。4月から9月までの半年間でいうならば、夏が異様に暑かった。それでエアコンが売れただろうし、その恩恵に受けた商品もあろうが、全般的にいいことはなかったようだ。つまり暑過ぎってビールもさほど売れなかったようだし、海水浴場も例年ほどではなかったというし、野菜が暑さのせいで不作に終わってしまった。その影響が9月にも及び秋物衣料がなかなか売れない。ここに来て、やっと秋らしくなったものの、もう時期から言って冬物衣料が店頭に並びのではと思えるほど秋の到来は遅かった。

 私が中学や高校の頃は詰め襟の学生服というのが相場だった。6月~9月までは黒いズボンに白いワイシャツスタイルで、10月から黒い学生服を着込むのが関西では一般的だである。でも最近だと10月1日から学生服を着るとちょっと暑いのではと思える。私が高校生だった頃に比較して、秋が来るのが遅くなっているように感じる。昔なら10月の頭から学生服を着ても違和感はなかった。しっくりきて暑いとも感じたことはない。当時だから高校、中学の教室にエアコンはもちろんない。今ならエアコンの設備がある教室が多くて夏でも快適に授業が受けられるという。時代も変わったものだ。我々のころはエアコンのある教室はなく、窓を全開して天然の風を入れていた。でも風もなく教室の中は当たり前のように暑い。そこで下敷きを団扇がわりにしてパタパタとあおっていた。女子の中には破廉恥な子がいて、スカートを持ち上げ両脚の間から、股間に風を送るといったことを平気で行なう子もいた。時代といえば時代を感じるが、それでも今年のように暑いと感じたことはない。

 今の高校生はが詰め襟の学生服を着ているところが少なく、ほとんどがブレザータイプに変ったようだ。女子もセーラー服が減り、ブレザーはブレザーでも、昔のように紺一色ではなく、チェックのスカートに色違いのブレザー。色も様々でベージュ、紺、グレー、濃緑、黒・・・・・。そこへネクタイかリボン。バリエーションも幾つかあるようで、随分とお洒落になったものだ。また夏と冬の中間として白のシャツの上からベストを着たりするから、昔のように10月から一斉に冬服に変わるといった現象はないようだ。今の時代に一斉に冬服スタイルで登校しなさいなんていうと生徒から反感をかうだけだろう。昨今は10月の中旬でも半袖で外に出れるぐらい暑い時がある。つまり夏が何時まででも続き、涼しくなったと思ったら、急に寒くなることが多いから何を着ていけばいいのか判らないこともあるだろう。昔のように夏服、冬服を着る時期が決まっているのなら、しょうがないが、、このところの夏と冬の間に着る服もあるというから時代も変わった。

 白いシャツの上からセーターなりベストなりを着たりする。こういった組み合わせで季節の変化についていこうとしている。だから昔のように10月から学生服を着て登校というのとは違うらしい。でもいずれにせよ昔に比べて、随分とお洒落になったものだ。本当に我々の高校時代はいったい何だったのか。今から考えると野暮ったいことこの上ない。ただ一言いわせてもらうならば、女子高生の制服のスカートを短くするのはやめて欲しい。制服のスカートがあまりに短いとアホっぽく見えてしまうよ。また男の腰パン、あれもやめてくれ。私服なら構わないが、制服はだらしなく着るとかえってダサくなるというのを判ってないのではとしか思えない。
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2010.09.28 (Tue)

秋の雨は歓迎できない

 昨日の帰宅時、激しい雨に降られた。仕方なくバスに乗って帰る。あれだけ暑かった真夏はさっぱり雨が降らなかったのに、涼しくなると雨がよく降るようになる。秋雨というものだが、それでも例年の9月と比べると雨が少ない。9月は台風シーズンだから当然だが、降雨量は半端な数ではないのに、今年に限っては非常に雨が少ない。もっとも涼しい時の雨はあまり歓迎できないからいいが、昨晩から今朝にかけてはけっこう降ったようだ。朝はどんよりした空模様だったが、あいにく雨はあがっていた。これだと傘は持ち歩かなくてもいいかなと考えたが、向うところは滋賀県の湖東である。トンネルを2つ抜けた湖国である。もしやと思い傘を持って出た。電車に乗って出勤する。

 予感は的中した。職場の最寄り駅に着いたら雨が降っていた。駅前のバス停には瞬く間に長蛇の列が出来る。雨に中、傘をさしながらバスを待つ。バスが少し遅れて到着。バスに乗り込んで出発。だが動かない。駅前のロータリーからしてマイカーが溢れているではないか。何てことだ。地元民によると出勤時や帰宅時に雨が降ると、滋賀県ではマイカーが道路に溢れるという。何故なら出勤、通学する家族を駅まで送り迎えするためらしい。晴れの日なら自転車でも行けるが、雨の日はどうにもならないから主人や子供を乗せて嫁はんが駅まで運転するかららしい。駅に到着すると主人や子供を降ろし、嫁はんは車を運転して家に帰るという。だから雨の日は一時的にマイカーが溢れ、たちまち交通停滞を起こすらしい。参ったな。そのせいでバスが動かない。会社まで20分かかってしまったではないか。

 それにしても交通の便の悪いところである。駅までマイカーに乗るうとするのも、各家庭のあるところが大方、駅から2㎞、3km以上は離れているから当然のことなのである。歩くには遠すぎる。かといって車で駅に乗り込むと駐車場がない。それで嫁はんが乗って帰れば駐車しなくてすむ。ただ何時も何時もという訳にもいかず。晴れの日は駅までバスに乗るか、自転車に乗るかだろう。そのような人が多いから滋賀県を走るJRの駅前には大概、大きな駐輪場がある。1ヶ月で幾らか払って自転車を停めているのだろう。だkら滋賀県の駅前には自転車の不法駐輪がない。これは助かるのだ。大阪なんかはどの駅前に行っても自転車が氾濫していて、それが2重、3重にもなり、歩道を防ぎ、道路にもせり出し、歩くところもない。本当にふざけた話である。マナーが悪いから、このようになるというのは承知の上なのだが、それ以前に駐輪場が駅前にないところがが多すぎる。それで急遽、駅前の僅かなスペースを駐輪場にしているところもあるものの、それでは間に合わない。なにしろ滋賀県と違って大阪は自転車の保有台数が絶対的に違う。それに駅前はぎっしりと建築物で埋っているから、立体的な駐輪場を造る空間が何処にもない。こういったところは滋賀県のようにはいかないのだ。

 滋賀県は田舎であるがため、駅前のスペースにはことかかない。だから駅前には3階建ての立体駐輪場が設けてあるところが多い、ここに自転車及びバイクも停められるのだ。だから朝なんか女子高生が自転車を乗って高校のあるところまでペダルをこぎまくるのだ。滋賀県の高校は駅前にないところが多く、大方、駅から数キロは離れている。そこで皆、自転車をこいで高校まで通っているのだ。ある時は30人以上が隊列をなして自転車をこいでいる女子高生の集団に出会うのである。これはまさに爽快な光景である。大阪ではあまり見られないので、ほのぼのとしてくる。ただこんな女子高生も高校を出ると都会に働きに出るようになって、染まっていくのだろうなあ。バスに乗っていて、車窓から女子高生軍団の自転車通学光景を眺めていて、若さを羨ましく思った次第である。
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2010.09.27 (Mon)

デクスター・ゴードン・・・・・『ゲッティン・アラウンド』を聴く

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 デクスター・ゴードンというと麻薬に溺れたといったよくないイメージがあるもののその音楽性は誰も認めるところであり、かのテナー・サックス奏者ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズといったあたりに最も影響を与えたのは彼であろう。彼は1923年に医者の息子として生まれているので(ロサンジェルス出身)、黒人としては比較的裕福であったといえよう。楽器を始めた当初はクラリネットを吹いていたが、その後にサックスへ転向、1940年の、17歳の時ににプロとして活動を開始したというからキャリアは長いのである。20歳でバンドのリーダーを務めたり、ビリー・エクスタイン楽団のテナー・サックス奏者として演奏していたが、第2次世界大戦が終結した1945年にニューヨークへ行き、バド・パウエル、アート・ブレイキー、マックス・ローチといったジャズメンとセッションを何度も行い、この当時の演奏は聴くことが出来、当時から包み込むような温もりのある音色であり艶やかさは引き立っていた。まさにサックスがジャズ楽器の中で大きな役目を担いだした頃のテナー・サックス奏者の1人であることが判る。

 戦前から活動をしていてバップ期の演奏からハード・バップまで聴かれる等、幅が広い、ただデクスター・ゴードンは先述したように1950年代は麻薬で棒に降った形となってしまい残念である。1960年に社会復帰を果しレコーディングも積極的にこなし活躍の場をヨーロッパにまで拡げたのであるが、ここで採り上げているアルバム『ゲッティン・アラウンド』もそういった1960年代に録音されたアルバムである。

 収録曲は『黒いオルフェ』『フー・キャン・アイ・ターン・トゥ』『ハートエイクス』『シャイニー・ストッキングス』『エヴリバディズ・サムバディズ・フール』『ル・クワフール』の6曲で、演奏に参加したメンバーはテナー・サックスがデクスター・ゴードン、ヴィブラフォンがボビー・ハッチャーソン、ピアノがバリー・ハウス、ベースがボブ・クランショウ、ドラムスがビリー・ヒギンスである。

 まずは冒頭の『黒いオルフェ』から圧倒される。この有名なブラジル映画の主題曲を見事なアプローチで聴かせてくれる。ラテンの輝きと哀愁のある響きに加えデクスター・ゴードンのオーソドックスなテナー奏法がより彩を加える。ここでは先鋭的な演奏をするのではないが、デクスター・ゴードンのテナーがなければ、この曲は成立しないだろう。『フー・キャン・アイ・ターン・トゥ』はデクスター・ゴードンのテナーがフューチャーされているスローナンバーである。『ハートエイクス』の軽快さにテナーが独自のフレーズで掛け合っている。『シャイニー・ストッキングス』も耳障りのいい曲調でて、ここでもテナーが踊っている。そこへヴィブラフォンとピアノが軽快なソロを展開する。『エヴリバディズ・サムバディズ・フール』はスローナンバー。この緩やかなテンポからゴードンのテナー、バリー・ハウスのピアノ囁くように曲を覆っている。『ル・クワフール』はデクスター・ゴードン自身の曲である。ミィデアム・テンポでが軽快な曲である。テナーとヴィブラフォンとピアノがそれぞれソロを奏で、デクスター・ゴードンはソロのところでドビュッシーのフレーズを巧に引用している。或る意味で聴かせどころかもしれない。ところでデクスター・ゴードンは映画『ラウンド・ミッドナイト』に出演し、アカデミー主演男優賞にノミネートされたこともあるなど多芸ぶりも発揮。ただ麻薬がなければもっとジャズメンとして輝いていたのに・・・・・・・。


 映画『ラウンド・ミッドナイト』の中でで『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を演奏するデクスター・ゴードン。

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2010.09.26 (Sun)

産経オールカマー、神戸新聞杯

 やっと秋らしい涼しい風が吹くようになった今日、東西で天皇賞、菊花賞を目指す一線級が顔を揃えた産経オールカマー、神戸新聞杯が行なわれた。

 まず中山の産経オールカマー(G-Ⅱ・3歳以上、芝2200m、10頭)には昨年のグランプリ春秋連覇を達成した小兵ドリームジャーニーガ出走してきた。当然、1番人気だが斤量59㎏が小柄な馬格にどのような影響を与えるかが注目された。2番人気はジャミール、3番人気はミステリアスナイトだった。

 ゲートが開くやドリームジャーニーのスタートが悪くダッシュもつかない。しかし、1コーナーを回る頃にはうしろから3番手に上がっていた。さて、先頭はシルクポート、2番手にミッキーミラクル、3番手サンライズベガ、4番手ミステリアスナイト、その後にデストラメント、その内にシンゲン、さらにジャミールがいて外側を通ってドリームジャーニー、内にトウショウシロッコ、最後方にベンチャーナインでスタンドから1番遠いところを通過。ハロンラップは12.4---11.1---12.2---11.9---12.4で、1000mを1分ちょうどで通過。ややゆったりしたペースである。まもなく3コーナーにかかろうとするが、シルクポートは2馬身リード、サンライズベガ2番手。800mの標識を通過、ドリームジャーニーは後方から2番手の位置。ここでミッキーミラクルが一気に後退する。あと600m、ドリームジャーニーは後方から4番手の外に押し上げる。あと400m、4コーナーを回って先団が固まってきた。直線に入る。先頭はシルクポート、2番手にサンライズベガ、ドリームジャーニーは1番外から先行集団に迫る。ここでインコースにいたシンゲンが先頭に出ようとする。あと200m、シンゲン先頭。サンライズベガ2番手、ドリームジャーニーも外から来る。先頭はシンゲン、先頭はシンゲン、2番手にサンライズベガだがドリームジャーニーが来る。トウショウシロッコも来る。シンゲン先頭、シンゲン先頭、ドリームジャーニー来た。シンゲン粘る。ドリームジャーニー来る。シンゲンが粘りきった。

 1着シンゲン 2分秒4、2着ドリームジャーニー クビ、3着トウショウシロッコ、クビ、4着サンライズベガ クビ、5着ジャミール 2馬身。

 阪神では菊花賞トライアルの神戸新聞杯(G-Ⅱ・3歳、芝2400m、12頭)が行なわれた。ダービーと同じ距離にダービーの1、2着が出走してきて大いに興味深かったが、1番人気はダービー馬のエイシンフラッシュで2番人気もダービー2着のローズキングダム、ちなみにダービー3着で皐月賞馬が今、フランスに遠征しているヴィクトワールピサである。3番人気はレーヴドリアン、4番人気はシルクオールディー、5番人気はビッグウィークだった。

 スタートが切られ正面スタンド前を通過。ビッグウィークが先頭に立った。ネオヴァンドームガ2番手、3番手サンディエゴシチー、その外からハードダダンダンだがかかっている。そしてインコースにローズキングダム、外にマイネルゴルトがいて、直後にエイシンフラッシュ。さらにシルクオールディー、2馬身あいてタニノエポレット、レーヴドリアン、マストハブと続き、4馬身離れたシンガリからレッドスパークルが追走という展開で、まもなかう3コーナーの1番奥深いところへ馬群がかかろうとしている。ハロン毎のタイムは13.0---11.5---13.2---12.9---12.5---12.2で、1000mを1分03秒1、1200mを1分25秒3で通過。超スローペースである。これだとダービーと同じく直線での切れ味勝負となりそうだ。だがここでネオヴァンドームが先頭に立った。2番手にビッグウィーク、外にサンディエゴシチー、サンディエゴシチーが2番手に上がる。1000mのハロン棒を通過。6番手のインコースにローズキングダム、その外にエイシンフラッシュ、ペースが上がり12頭が固まってきた。600mのハロン棒を通過して、いよいよ第4コーナーから直線に入る。先頭はネオヴァンドーム、ローズキングダムはインコース、エイシンフラッシュはその外。先頭はネオヴァンドーム、2番手にビッグウィーク、ローズキングダムは狭いところを抜けてきた。また合わせる様にエイシンフラッシュも外側から抜けてくる。先頭はビッグウィークに変った。ローズキングダムもエイシンフラッシュも来る。200mのハロン棒を通過。ここでローズキングダムが先頭に出る。その外にエイシンフラッシュ。差は半馬身。ローズキングダムがリード、エイシンフラッシュが迫る。ローズキングダム先頭、エイシンフラッシュ左鞭が唸る。ローズキングダムが僅かにリード、エイシンフラッシュが追う。ローズキングダム1着でゴールイン。

 1着ローズキングダム 2分25秒9、2着エイシンフラッシュ クビ、3着ビッグウィーク 3馬身、4着タニノエポレット 3/4馬身、5着レーヴドリアン 3/4馬身。

 レースは観ての通りで寸評はなし。天皇賞は混沌としてきたかな。菊花賞の方が輪郭がはっきりしてきたか・・・・・。
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2010.09.25 (Sat)

井上靖・・・・・『天平の甍』を読む

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 中学校3年の時だったか、夏休みの読書感想文の指定図書にされ読んだ覚えがある。だが当時、内容が難しく消化しきれてない自分に腹が立ち社会人になってから再び読み直した小説である。内容は映画にもなったぐらいだから知っている方もおられるだろうが、簡単な粗筋を書いておくとする。

 時代は奈良時代。朝廷で第9次遣唐使派遣が議せられたのは聖武天皇の天平4年(732年)のことだった。この時の遣唐使派遣の最も重要な目的は主として宗教的、文化的なものであて、政治的意図というものは問題に足らなかった。この頃、大陸や朝鮮半島諸国の変遷興亡は、この日本という島国を揺すぶっていたが、それよりも日本が自らに課した最も大きな問題は近代国家成立への急ぎであった。中大兄皇子によって律令国家として歩みだして90年。仏教が伝来してから180年。政治も文化も強く大陸の影響を受けてはいたが、まだまだ混沌として外枠は出来たが中身は空疎、国としては未成熟そのものだった。平城京は唐の都・長安を模した街で、整然たる都の概要を成してはいたが、平城京の周辺には夥しい数の流民が屯し、興福寺、薬師寺、大安寺・・・・40余寺が既に建立されていたが、立派な伽藍と反比例するように空疎なものが漂い、経堂の中の経典も少なかった。また、日本国内には戒律がまだ備わってなくて、僧とは名ばかりで腐敗しきっていた。それというのも課役を逃れるために百姓は争って出家し流亡していた。そこでこの現象を食いとめるために幾十かの法律が次々に出されたが効果は一向に上がっていなかった。僧尼の行儀の堕落も甚だしく為政者の悩みの種となっていた。そこで日本の仏教を支えるには何が必要であるかというと正しい戒律を整えるのが1番必要とされた。

 こうして唐より優れた戒師を迎えて正式の授戒制度を布くことが仏徒を取り締まる最善の方法であるとされ、第9次遣唐使派遣の目的は明白になった。そして、大安寺の僧・普照、興福寺の僧・栄叡が遣唐使の一員に選ばれたのである。さらには戒融、玄朗という2名の僧も加わっって、いよいよ唐へ渡る事となった。船は東シナ海を越えなければならなかった。波浪に弄ばれ船酔いで苦しむ者が続出したが難破することなく蘇州に漂着。一向は洛陽へと向かう。こうして長い留学生活が始まったのである。

 結局、この小説は鑑真和上という高僧を日本に招聘することに成功したことで、成し遂げられた感があるが、ことは簡単に運ぶわけはなく、此処へ辿り着くまでの紆余曲折が克明に綴られている。日本から渡った留学僧4名、普照、栄叡、戒融、玄朗の中で日本へ生きて帰ったのは普照だけだったという現実。また彼らの先輩の留学僧である業行は、まだ日本にない仏典を写経し始める。この写経に何年も何年も費やし、挙句の果ては日本へ持って帰る筈だった厖大な量の写経も普照に授けるが日本へ向う船の中で藻屑となる。

 栄叡は戒師として名高い鑑真の弟子の何人かを日本に連れて帰りたいと嘆願すると、何と鑑真自身が日本に行くといい、栄叡は感激し日本へ連れて帰るための準備にかかり普照も手助けすることになるが、鑑真を日本へ渡航させることに反対する勢力によって何度も失敗することになる。4人の修行僧が唐に渡って何時の間にやら20年。中には没しいたものもいて、普照は放浪の果て高僧・鑑真を伴ってようやく故国日本の土を踏む。鑑真は東大寺大仏殿の西に戒壇院が落成させた。こうして80余人の僧は旧戒を棄てて戒壇院において戒を受けたのである。さらに鑑真は都の西端、西ノ京の新田部親王の旧地を賜り、そこに精舎を営み、最初律寺と号し、後に天皇より唐招提寺の勅額を賜ったのである。天皇は唐招提寺の落成と同時に詔して出家たる者はまず唐招提寺に入って律学を学び、のち自宗を選べしと宣したので、寺には四方から学徒が集まり講律授戒はすこぶる盛んになった。こうして日本における仏教も戒律がやっと備わり、文化国家へと歩みだすのである。渡航、6回目にしてようやく日本へ来ることに成功した鑑真は何時しか失明し、唐招提寺建立から4年後没す。年齢は76歳であった。

 つまり『天平の甍』とするところ、最も主人公らしい人物である普照が留学僧仲間で1番平凡であったということである。普照以外の留学僧は唐へ渡るなり「この国には何かがある。この広い国を経廻っているうちに何かを見つけだすだろう」と考えて、出奔して托鉢僧となった戒融。唐に着く前から日本へ帰りたいと言っていた意志薄弱の玄朗は、還俗して唐の女と結婚し、そのまま落ち着くこととなった。また業行は「自分で勉強しようと思って何年か潰してしまったのが失敗でした。・・・・・自分がいくら勉強しても、たいしたことはないと早く判ればよかった」と言い、それからは一室に篭って沢山の経文の書写をやり、それを日本へ運ぶという、より確実な方法を選ぶ。彼は数10年の在唐生活の間、知っているところといえば幾つかの寺があるに過ぎない。ただ筆写本の厖大な山があった。栄叡は行動人で高僧・鑑真を戒師として日本に呼ぶことが自分に課せられた仕事と考え、歴史的使命を果そうとするが、その最中に病死する。結局、鑑真を招くことに栄叡ほどの情熱も行動力も持てず、経典を書写することさえやらず、平凡な日々を過ごし歳月に流されながらも運命に抗うことの少なかった普照の帰国とその後の成功。最も慈悲深く目立たない男が皆の意志を汲んだ形となってこの結末は救われたのである。
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2010.09.23 (Thu)

やっと秋が到来か

 どういう意味があるのか知らないが祝日の今日、出勤だった。以前から出勤日に決まっていたから抵抗はなったが、朝からえらい目にあった。よりによってこんな日に出勤か? と愚痴の一つでも言いたくなる1日であった。

 昨日は33℃もの気温があった京都地方。とんでもない暑さだったが、いったい何時涼しくなるのかということなのだが、天気予報によると今日、前線が南へ下がってきて雨を降らし北側の涼しい空気が入ってきてやっと涼しくなると言う話であった。でも昨晩から雨が降ってもポツリポツリ、皆目、本格的に降らないし相変わらずの熱帯夜で寝苦しい。本当にいい加減にしてくれと空を見上げて叫びたくなった。もう9月の下旬なのに、一向に秋らしくならないからだが、昨晩から降るといっていた雨もさっぱり降らないから暑い暑い。だが、明け方の午前4時頃から雨は降らないものの雷が遠方でゴロゴロと稲光と共に鳴っている。どこかで激しい雨が降っているのだろう。でも我が家の近辺は雨は降ってないし、雷も遠方から聞こえる程度。そして、何時もの時間に起床して家を出る。外に出て駅に向うが、人も疎らにしか歩いていない。そりゃ休日だもんな。誰がこんな日に出勤させるのだと気乗りがしないままJRの駅に到着・・・・・・・・。ところが電車が動いていない。大阪方面では激しい雨と落雷に見舞われ電車が動いてない。でも激しい雨ぐらいで電車が停まることなんてあるのかなあ。それで駅員に訪ねてみると東淀川~吹田間の落雷でシステムのトラブルがあったらしい。それで電車が停まっていて、何時、運転を再開できるか判らないとのことだった。これは困った。今日なんか祝日出勤で、電車が空いているから座って居眠りしながら出勤できると考えていたのに。よりによって我々が祝日出勤する時に電車が停まるなんて何事だ。ツキがないとはこのことだ。

 仕方なく阪急で振替え輸送を行なっているので、阪急電車の駅に向う。阪急の駅のプラットホームに上がったが、こちらも人が疎ら。ますます仕事へ行くのが億劫になる。電車の本数も祝日ダイヤで少ないし、特急や、急行、準急といった電車の運転も平日とは違い、まだこの時間帯はあまり運行されてない。しょうがなく普通電車でのんびりと京都方面へ向う。ようやく烏丸駅に到着、さらに地下鉄に乗り換えてJR京都駅にやっと到着。ここまでで既に1時間以上かかっている。問題はここからだ。電車が走っているのかどうか。プラットホームに上がると大勢の人が列をなしている。すると40分ぐらい遅れている普通電車が到着した。なんだ何時動くか判らないからと聞いていたので、阪急電車、地下鉄と乗り継いでようやく辿り着いたのに、損をした気分になった。大阪~京都間だけが運行していなかったのに動いているではないか。あーあ、一気に仕事なんかする気がなくなってしまった。でもサボれない。勤め人の性。この普通電車に乗って滋賀県へ出発。

 職場の最寄り駅。でも雨はあまり降っていない。どうにかバスに乗って職場へ向ったが、またまたタイミング悪く、職場の近くの停留場に着く数分前から雨が急に激しくなった。あーあ、ここでもツキがない。バスを降りた途端、横殴りの激しい雨に降られアッという間に足元がビショビショ。路面が冠水しているし、職場まで500mほど歩かなくてはならない。これだとずぶ濡れ覚悟で行かなくてはならない。ようやく職場が近くなってきたら、雨が上がってしまった。何てことだ。まったく天気になめられている。靴下、靴、ズボンがベトベトである。この状態で仕事か・・・・ウンザリする。誰が今日の秋分の日を出勤にしたのだ。バカヤローといいたくなる。

 愚痴を言っても始まらないが、こんな奴はハイヤーで送り迎えだろうしいくら雨が激しく降ろうが関係ないだろう。ハイヤーの天井に穴を開けてやろうか。本当にロクでもない出勤日であった。ただ、あの雨を境にして、見事に涼しくなったのは嬉しかった。やっと秋らしくなってかなあ。でもまだ油断はできない。それほど今年の夏はひつこくて諦めが悪い。もうとっくに秋風が吹いている頃なのに、赤トンボもあまり見かけない間に、冬になるのではと勘繰りたくなる。でも取り敢えずは涼しくなったからよしとしよう。
EDIT  |  21:00  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.09.21 (Tue)

残暑のぶり返し

 またまた暑くなって来た。もう9月も21日、秋風が吹いてもいいのに、一向に昼間は吹かないから暑い暑い。一昨日辺りから暑さがぶりかえし昨日は30℃を超えていたし、今日もその熱気が残っていて真夏日のようだった。夜は夜で熱帯夜のような生暖かい空気が残っていて寝辛いことこのうえない。9月は台風シーズンで雨の多い月なのに、今年ほど雨の少ない9月も珍しい。明日の夜から雨が降ってそれ以降、ようやく秋らしくなるとはいってたが、また暑さがぶり返すような気がする。

 願わくば早く秋が来てくれ。ところで春を待つ歌はいっぱいあるというのに、秋を待つ歌というのはほとんど聞かないが、あるのかな? みんな冬が嫌いなのか。寒い寒い冬から暖かい春が来るのを待望しているのを歌った歌は多い、でも逆に暑い夏から涼しい秋が来るのを待っている歌など、ほとんど聞いたことがないが、みんなさほど秋が待ち遠しいとは思っていないのだろうか。夏が好きな人もいるからしょうがないが、昨今の夏は暑すぎる。体力を消耗するから、夏は避けてと通りたいぐらいだが、毎年、確実にやってくるから避けようがない。

 そういえば子供の頃は、エアコンなんてほとんどの家庭になかった。それでいて夏を越せたのだ。おまけに蚊を避けるために蚊帳を吊っていたのだ。それでいて今の夏の夜ほどの暑さを感じなかったものである。つまり今ほど暑くはなったということであろう。それにアスファルトが敷き詰められている今と違って、昔は住宅街の中の道路は土か砂利道だった。だから打ち水が効果を成した。それで気温を下げることが出来たのだが、今のようにアスファルト、コンクリートでガッチリと道路も壁も固められては熱の逃げるところがない。打ち水しても効果は薄いし、エアコンの室外機で熱気ムンムン、そこへ車の排気ガス・・・・・・・そりゃ暑いはずだ。人間は利便性を求めて快適な居住空間を得た筈なのに、ついでに余計な暑さまで引き連れてきたようだ、。もう後戻りは出来ない。これから将来、ますます暑くなっていくのでは・・・・。まあ、小生は生きてないけど、その頃は、みんなシベリアだとかアラスカだとかグリーンランドとかに移住するのかも知れないなあ。
EDIT  |  20:43  |  その他  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

2010.09.20 (Mon)

サントリー・ミュージアム天保山譲渡

 サントリー・ミュージアム天保山
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 大阪の築港といっても現在は波止場の役目を果してないが、海の側なのに天保山(天保山という山があるのだが・・・)と呼ばれ、かつてはこの場所から瀬戸内海、四国、九州、奄美航路の船が出ていた。現在は南港と呼ばれる埋立地にある新しい波止場から船が出ているので、この天保山は旧築港でしかない。それで現在、この天保山は何があるかというと、大阪の水族館である海遊館や大観覧車、またはその他の商業施設やホテルがあり、また、川を挟んだ北側にはユニーバーサル・スタジオもあり、ちょっとした大阪のプレイゾーンとなっている。

 さて、ここで本題に入ろう。この天保山にはサントリー・ミュージアム天保山がある。だが、今月末で休館が決まっている。大阪市に本社がある洋酒メーカー・サントリーが1994年、海遊館に隣接する大阪市の市有地に開館させたものである。大阪出身の建築家・安藤忠雄の設計による斬新な建築物で、ギャラリーや立体映像シアターなどを備える9階建ての複合文化施設である。そもそも、サントリーがこの地に建てたのは、大阪で育まれた企業でありながら、東京ばかりに文化施設(サントリー美術館、サントリー・ホール)を建てて、大阪に何も貢献していないといった揶揄した声に応えて創業の地に建てたものである。でも年150万人の入場者を見込んでいたが、一昨年は65万人に落ち込み、最近は年数億円の赤字が続いていた。

 これだといくら、採算を度外視して文化に投資する企業だとしても、閉館せざるを得なかったということなのか。ところが、このほどサントリーが大阪市に建物の無償譲渡と維持管理費7億円を寄付し、大阪市が美術館として存続させる方針を明らかにしたのである。大阪市は中之島の空き地に以前から市立近代美術館の建築を計画していたが、これまで財政難でなかなか実現しなかった。それが、2016年開館が決まったということで、近代美術館建設準備室が所蔵するコレクションの展示場やイベント会場などに活用するという。

 サントリーは大阪市に対し、所有するロートレック、ミュシャ等のポスターなど世界有数のコレクション約2万点も寄託し、経営は海遊館を運営する市の第3セクター「大阪ウォーターフロント開発」があたるという。しかし、何たる太っ腹のサントリーであろうか・・・・・・。サントリー・ミュージアムの閉館が決まってから、その後はどうなるのかと杞憂していたが、取り敢えずはは一安心ということか。でも、民間企業のサントリーでも駄目だったのに、官民意識の強い第3セクターが運営して乗り切れるのだろうか。問題は山積である。


 海遊館の向こう側にサントリー・ミュージアム天保山が見える。
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 海を挟んだ向こう側、所謂、南港には高さ256mのWTCコスモタワーも見える。ロケーションとしてはいいのだが・・・・。
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2010.09.19 (Sun)

セントライト記念、ローズS

 今日は東西で菊花賞、秋華賞の両トライアルレースが行なわれた。まずは中山のセントライト記念(G-Ⅱ・3歳、芝2200m、17頭)だが、ダービー4着のゲシュタルトが1番人気で、ラジオNIKKEI賞に勝ったアロマカフェが2番人気、逃げ切り勝ち3連勝中のヤマニンエルブが3番人気、ラジオNIKKEI賞2着のクォークスターが4番人気、夏の新潟で2勝目をあげたフェイルノートが5番人気であった。

 スタートして正面スタンド前を通過。1コーナー、2コーナーを回って予想通りヤマニンエルブが先頭にたってリードを奪う。2番手にコスモヘリオス、3番手ゲシュタルト、その後にミキノバンジョー、アロマカフェがいて、フェイルノート、シルクスチュアート、ナイスミーチューが続き、ファーストグロース、ダークシャドウ、ミッションモード、さらにヤングアットハート、シャイニンアーサー、ゲームマエストロ、ガナール、クオークスター、ベストアンサーといた展開だが、ヤマニンエルブは15馬身ほどリード。ハロンラップは12.1---11.0---11.7---11.8---12.1と800m通過が46秒6、1000m通過が58秒7とやや速いペース。でも後続とは差が開き過ぎか。そろそろ3コーナーに掛かろうというところだが、後続もペースアップ。でも、まだ10馬身ほどの差がある。ヤマニンエルブは単騎先頭で直線に入ろうとする。先頭はヤマニンエルブで2番手には4頭、5頭が横に拡がった。アロマカフェが2番手か、でも7、8馬身差がある。2番手にアロマカフェで200mのハロン棒を通過。まだヤマニンエルブは5、6馬身のリード。アロマカフェ2番手、外からクォークスターが勢いよく伸びてくる。あと100m、まだヤマニンエルブは5馬身リード、クォークスターが一気に迫る。内でアロマカフェが頑張る。クォークスターが迫る。ヤマニンエルブが粘る。クォークスターが最後に捉えた。

 1着クォークスター 2分10秒9、2着ヤマニンエルブ クビ、3着アロマカフェ 3/4、4着ゲームマエストロ クビ、5着ダークシャドウ 1/2。

 次は阪神のローズS(G-Ⅱ・3歳牝馬、芝1800m、12頭)であるが、春の牝馬クラシックレース2冠馬のアパパネが出てきた。当然、1番人気で2番人気がアグネスワルツ、3番人気がオウケンサクラ、4番人気がアニメイトバイオ、5番人気がエーシンリターンズだった。

 スタートが切られ長いバックストレートを各馬が疾走する。トゥニーポートが先頭に出る。外からアグネスワルツ、3番手レディアルバローザ、内にオウケンサクラがいて、アパパネが5番手の位置。ニチドウルチル、タガノイノセンス、ラガーリンリン、アニメイトバイオ、エーシンリターンズと続き、3馬身あいてワイルドラズベリー、あらにシンガリからタガノエリザベートで3コーナーへかかろうというところ。淡々としたペースであるが、12.2---10.6---11.3---12.6---12.4と一気にペースが落ち、各馬が後方の2頭以外は固まってきた。そして4コーナーを回り直線に入る。先頭はトゥニーポート、2番手にアグネスワルツ、先行馬がなかなかバテない。あと300m、トゥニーポート先頭。外からエーシンリタ-ンズとワイルドラズベリーが来る。あと200m、アパパネが間を抜けてきた。アパパネが出ようとする。外からワイルドラズベリー、エーシンリターンズ、さらに間を割ってアニメイトバイオが勢いよく出てきた。内からアパパネ、外からワイルドラズベリー、激しいレースだ。アニメイトバイオかワイルドラズベリーか。アニメイトバイオが僅かに出てゴールイン。

 1着アニメイトバイオ 1分45秒8、2着ワイルドラズベリー アタマ、3着エーシンリターンズ 1馬身1/4、4着アパパネ ハナ、5着トゥニーポート 2馬身1/2。
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2010.09.18 (Sat)

ブログ開設から3年になりました

 このブログを開設してとうとう3年になってしまった。石の上にも3年というが、これは苦労も3年辛抱すれば報われるというような意味がある。でも当ブログを書いてきて何時の間にか3年経っていたというだけで、辛抱もしてないし苦労もしてないから、石の上にも3年も何もない。でも3年と一言で言うけれど、中学校や高等学校では入学から卒業までに亘る期間である。けして短いとはいえないだろう。その期間で800余の記事を書いてきたが、正直に言って満足出来る記事は一つもない。もっと、このような切り口で書いたほうがよかったと後で後悔することばかりで、書いているときは急いでいることもあるが、なかなか思うような表現も形容も浮かばず、自身の才能のなさに右往左往するだけで、読み直しても恥ずかしい記事ばかりである。ただ如何にも凡人が無い知恵を絞って、汗をかいて書いてきた記事であることは一目瞭然であろうと思われる。それ故にこうして才能の無い人間でも3年ほとんど休まず書き続けられるということも判って欲しいとは思う。他人のブログを読むことは滅多にないが、時々、ネットサーフィンをやっていて見事なブログや記事にお目にかかることがあるが、残念なことに短期間で終わってしまったり、更新頻度が少なくてがっかりさせられるのだ。その点に関しては、つまらない記事の連鎖ではあるが、3年で800を超える記事数というのは自分でも及第点をやってもいいとは思うのである。まあ内容は別にしてウダウダと御託を並べただけの場合もあるが、とにかく毎日、勤め人の性で帰宅してからの僅かな時間を割いて書いてきたのだから、仕方が無い部分もある。どうせ文筆業を仕事としているプロではないのだから、少々の駄文でも許させるだろう。

 ところで今後のことになるが、何時まで書き続けられるのだろうか。たぶん記事数1000を目標に書いているので1000に到達すれば考えるとして、その後は判らない。とにかくだんだんと歳をとって,あちらこちらと医者に掛からなければならない疾患が増えてきた。これからは健康との兼ね合いになるだろう。なにしろ私自身もう若いとはいえないし、何時の間にか無駄に馬齢を重ねてしまった。ただ許されるならば、健康であるならば、暇があるならば、少しでも記事を更新することに心がけるつもりでは或る。でも、それでさえ約束は出来ない。或る日、突然、記事が滞る場合もあるだろうし、妨害があって記事の更新を諦めるしかない場合も生じるだろう。そういった時はやむを得ないが、これからも細々と書いていく次第である。でも読んでいる人が少ないから書いていられるのかもしれないが、人気ブログのように影響力が大きいと書きたいことも書けなくなってしまうから、あまり訪問者が増えるのも困るので、そのあたりは適当にということで、これからもマイペースで書いていくことにしよううか・・・・・・。
 
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2010.09.16 (Thu)

司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読む

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 中国の歴史物語というとまず三国志が挙げれれるが、この『項羽と劉邦』というのは、それよりも時代を遡り、紀元前3世紀末から2世紀前半にかけての話であるので、どこまでが事実であって何処までが作り話なのか判らないところがあるが、三国志と同様スケールの大きな物語である。

 紀元前3世紀、政(せい)という名の人物が6国を征服して中国大陸を絶対政権の下に置いた。それは紀元前221年のことである。これまで諸方に王国が割拠し、分裂、統合を繰り返すなどが当たり前であり、中国の全土が統一されたことの方が希であった。これまでは春秋戦国時代といい、政によって統一されて出来た国が秦である。そこで政は通称で秦の始皇帝と呼ばれる。始皇帝は革新的な政治を治め法を重視したが、一方で郡県制に対する不満を持った人も多く、長城の整備、咸陽宮と阿房宮の造営等が人々の生活を圧迫した。やがて始皇帝は亡くなり、2世皇帝胡亥を操る趙高によるいい加減な政治が続いていた。次第と秦の統制力は弱まり、農民反乱である陳勝、呉広の一揆が起こる。だが、これらは章邯が率いる軍勢によって鎮圧される。しかし、一旦、点火した火種は消えることなく、楚という国の将軍項梁を中心とした軍が勢力を拡大していくのである。だが、項梁は章邯の作戦にひっかかり殺されてしまうのである。そこで、今度は項梁の甥項羽が立ち上がる。項羽は鉅鹿の戦いで秦の主力軍である章邯の軍を破る。

 一方、沛の輩あがりで、これといって野望のなかった劉邦率いる軍勢もいた。劉邦は項羽が章邯と戦っている間に関中に入り函谷関を閉ざしてしまう。さらに威陽に乗り込んで結局は秦は崩壊してしまう。しかし、是に激怒したのが項羽である。項羽は劉邦を鴻門に呼びつけて殺そうとする。劉邦は軍師張良の機転で項羽に弁明することが出来たが、左遷され中国の奥地へと追いやられてしまう。これで項羽は増長し勢力を伸ばしていく。そして、子嬰ら秦王国の生き残りの人々を片っ端から殺してしまう。さらには楚の懐王も殺してしまう。この頃、劉邦は僻地で優秀な部下に囲まれ、反撃の機会を待っていた。そんな時、項羽の下では出世できず劉邦のところにやってきた韓信の才能に惚れ込んだ劉邦は彼を大元帥に抜擢する。こうして楚の項羽と漢の劉邦との間に戦いが始まるのである。

 司馬遼太郎の中国歴史物である。中国の歴史物語というと数多いが、有名な三国志』以外だと、この『項羽と劉邦』の話はよく知れ渡っている。ただ中国の歴史は古いので、王朝でいうとどのあたりかということなのであるが、中国の王朝は紀元前2070年頃に夏王朝が最初に出てくる。しかし、古過ぎて後から作られたのではと勘繰りたくもなる。夏の時代が紀元前1600年頃まで続いているというから、400年もの間、夏王朝は存在したということなのか・・・・・・。それで夏の次が殷である。殷は紀元前11世紀頃まで存在したという。さらに周の時代があり、この間、春秋時代、戦国時代と群雄割拠に時代があった。そして紀元前221年から207年もの間が秦の時代である。つまり秦の始皇帝による中国統一である。でも長くは続かず各地で反乱が起き、楚漢戦争の時代に突入する。要は楚漢の争いというのが項羽と劉邦による覇権の争いなのである。ところで、この楚漢戦争の結論から先に言うと劉邦が項羽の楚を倒し前漢王朝を開くのだが、司馬遼太郎はただの戦記物、歴史物として描いているのではなく、大勢の登場人物に人格と表情を与え、気宇壮大な歴史ロマンとして実に興味深い小説に仕上がっている。

 勇敢で野望に燃える項羽。対して温厚でいて人徳はあるが、けして天下を取るなどといった大きな野望を抱いていたのでもない劉邦。このかけ離れた人物の対比が面白く描かれていて読んでいても飽きることはなく、巧みな手法で人物像が浮かび上がらせている。項羽というのは劉邦と違って名門の出であって礼儀正しくはあるが、怒りっぽくて激しい気性を持つ。怒れると敵地や敵の人民にまで粗暴、悪虐を行なうが、味方には優しく、血縁の長者には礼をもって遇したと書かれているように、戦での怒れる項羽は、まさに狂った虎のようである。だが、勇敢であることを好みすぎているがため、墓穴を掘ってしまったのである。・・・・・項羽にも、愛情や惻隠の情があった。むしろ人よりもその量は多量であった。しかし、それは項羽自身が対象を美・・・あわれ・・・と感じねば、蓋を閉ざしたように流露しなかった。項羽が美と感ずるのは、陽の洩れる板戸の隙間ほどに幅がせまかった。彼自身の自尊心が十分に昂揚できる条件下において相手がひとすじに項羽の慈悲にすがろうとしている場合のみであった。といって、この男は愚者ではなかった。人のおべっかには動かなかったから、この間の項羽の性格の機微はまことに微妙というほかないと司馬遼太郎自身は解説している。

 自尊心が強すぎる者は他人が見えないという原則が働き、このことが項羽に政略や戦略という感覚を欠かせてしまった。世界を敵味方の白黒でしか分けることが出来ないのが項羽である。一方、劉邦の世界は灰色である。だが、時には黒にも白にもなる。劉邦は歴史上の覇権者の中でも稀有な存在として知られるが、優秀な側近だった韓信がいうには「劉邦は愛すべき遇者」というべき人物である。けして項羽のように勇敢であり才覚に溢れているのでもないが、かつて劉邦が若い頃、沛の町の飲み屋で、町中の劉邦好きの男や与太者が自然に集まり、劉邦に見られているだけで楽しく、酒の座が充実し、くだらない話にも熱中でき、何かの用があって劉邦が何処かへ行ってしまうと急に店が冷え、人々も面白くなくなり散ってしまうということがあった。そのような場における劉邦の茫漠たる個性に強い複雑な印象を受けぬ者があろうか。こういうった人大きな袋のような男が劉邦なのである。このように、才覚のないような男が並々ならぬ漠然とした人徳を持ち、彼の判らない魅力に人が集まってくる。自身は大きくなくとも才覚の或る男達が彼の下に集い、彼を何時の間にか大きくしている。そういった人物が劉邦だったのである。でも誰が見ても才覚がある男が、一見、凡庸にしか見えない男に敗れたというのは痛快な話では或る。

 ところで四面楚歌という熟語は、この楚漢戦争で生まれた。周囲は全て敵といった意味であるが、漢軍に包囲された楚軍を率いる項羽は、夜、四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるので完全な敗北を覚ったという。つまり楚の人間も敵となってしまった以上、もう戦えないと考えたのである。以上。
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2010.09.14 (Tue)

やっと秋の入り口が・・・

  昨晩からようやく熱帯夜ではなくなった。もう9月の14日だ。9月の中頃まで熱帯夜が続いていたなんて信じられない。暑くて暑くて寝られたものではなかった。寝ていても汗をかくので敷き布団が湿る。昼間は布団を干して乾燥させる。夜寝るとまた布団が湿る。こんなことの繰り返しだった。エアコンの冷気に少々、頼っているが、エアコンをつけっぱなしで寝ることはなくなった。人工的な冷風よりも自然の涼しい風の方が身体にもいいから助かる。

 まあ、どうしようもなく暑い夏だったが身体にも堪えた。連日の猛暑日で体力が消耗していった。そこへ毎日が熱帯夜ということで毎日、寝不足状態。おかげで昼間は何時も眠たかった。昼間に食事をすると冷房の効いた社内の暗いところで15分ばかり昼寝をするのが日課となってしまった。たった15分と思うなかれ、この僅かな時間でも昼寝をするとけっこう調子がよくなるので、少しの時間でも昼寝を実行するべきだと思う。ただ冷房が効いているから心地よく昼寝が出来るが、暑い場所だととても昼寝どころではないだろう。寒すぎても寝れないが、暑すぎるととても寝ていられない。だから熱帯夜だと寝れないのは当然か。そこを強引にエアコンで部屋を冷やして寝るのだが、冷房が効きすぎると朝になって身体がだるいことがある。おそらく人間の身体が思うように気温の変化についていってないのだろう。本当は暑い時は暑い中で我慢して寝るというのが、自然の理にかなっているのかもしれないが、昔の夏よりも確実に暑くなっているから、暑い中で我慢していると熱中症になってしまう。それで人工的ではあるが、エアコンの頼りになるしかないのだ。とにかく今年ほどエアコンのお世話になった夏も珍しい。記録的な猛暑だった。雨もさっぱり降らなかった。まことに稀有な夏である。ただ、これから先の未来には、今年のような夏は当たり前になっているかもしれない。日本は亜熱帯に属し、今の台湾のような季節の変わり方をするようになるかもしれない。

 今、この記事を書いていても外は涼しいから、窓を開ければ心地よい風が入ってくる。とりあえず朝晩だけでも涼しくはなった。でも日中はまだまだ暑い。京都近辺では未だに30℃を軽く超えている。なので小生の感覚では当分の間、夏である。いったい何時になったら昼間にも秋風が吹き出すのだろうか。こればかりは神のみぞ知るということか・・・・。
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2010.09.13 (Mon)

ニエユ賞、フォア賞

 昨日の深夜、フランスはロンシャン競馬場で凱旋門賞に繋がるステップレースが行なわれた。その中でニエユ賞とフォア賞に日本から遠征しているヴィクトワールピサ、ナカヤマフェスタが出走したので、その報告をしようと思う。

 まずニエユ賞(G-Ⅱ・3歳、2400m、7頭)だが、ヴィクトワールピサが出走した。1番人気はパリ大賞典2着、仏ダービー2着のPlanteur、2番人気はパリ大賞典の勝ち馬で、仏ダービー4着のBehkabad。日本のヴィクトワールピサは3番人気に支持された。レースではヴィクトワールピサは後方から行き、最後の直線に入る頃にはシンガリまで下がり、そこから外に持ち出して追い上げた。暫くは競り合いに加わっていたが、最後の伸びを欠き、アッという間に前の2頭から取り残され、結局は4着だった。勝ったのはBehkabadでPlanteurとの叩き合いを制した。

 1着 Behkabad 2分30秒80、2着 Planteur アタマ、3着 Kidnapping 4馬身、4着 ヴィクトワールピサ 4馬身、5着 Shamaigan 3馬身。

 次にフォア賞(G-Ⅱ・4歳以上、2400m、6頭)であるが、ナカヤマフェスタが日本から出走した。1番人気はプリンス・オブ・ウェールズSの勝ち馬Bywordで、2番人気は昨年の香港ヴァーズに勝ち今年のキング・ジョージ4着のDaryakana、3番人気がナカヤマフェスタだった。

 レースは超スローペースでDuncanが逃げ、2番手をTimos、ナカヤマフェスタは3番手につけた。直線に入っても先行馬はバテずDuncanとTimosが粘る。でも最後にTimosをかわしてDuncanにナカヤマフェスタが迫ったが、最低人気のDuncanがまんまと逃げ切った。

 1着 Duncan 2分35秒90、2着 ナカヤマフェスタ 3/4、3着 Timos クビ、4着 Byword クビ、5着 Daryakana 2馬身1/2。

 結局は前に行った馬同士で決まったが、あまりにもスローペースで結果はあまり参考にならない。でもナカヤマフェスタは、この中では1番見応えのあるレースした。でも勝ち時計がニエユ賞よりも5秒1も遅いというのは頂けない。

 ところで両レースを観て凱旋門賞はどうかということだが、まずヴィクトワールピサだが、今日のレースを観る限り凱旋門賞では上位にこれないだろう。最後のつめが甘すぎる。バテたのかそれとも切れ味がないのか判らないが、あすこからもう一つ伸び脚がないと本番は取り残される。次にナカヤマフェスタだが、ヴィクトワールピサよりも順応性があるのかもしれない。レースは見所があった。ただメンバーもいまいちだし、超のつくスローペースなので参考にならない。何れにせよ、今年も日本馬による凱旋門賞制覇はなさそうだ。


 ニエユ賞


 フォア賞

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2010.09.12 (Sun)

京王杯オータムH、セントウルS

 夏のローカル競馬開催が終わって、いよいよ秋競馬の開催が始まったが、相変わらずの猛暑でとてもそんな雰囲気ではないが、一応は結果だけを記すことにする。

 まずは中山の京王杯オータムH(G-Ⅲ・3歳以上、芝1600m、14頭)であるが、セイクリッドバレーが1番人気、以下、フライングアップル、サンカルロ、ファイアーフロート、キョウエイアシュラの順。レースは2番手につけたファイアーフロートが早目に抜け出して外から来たキョウエイストームとの接戦になったが、ハナ差で勝利した。

 1着ファイアーフロート 1分32秒8、2着キョウエイストーム ハナ、3着キョウエイアシュラ 1馬身、4着フライングアップル ハナ、5着サンカルロ クビ。

 1番人気のセイクリッドバレーは6着だった。

 阪神のセントウルS(G-Ⅱ・3歳以上、芝1200m、15頭)はスプリンターズSの前哨戦。キンシャサノキセキが取り消してしまい15頭立てとなった。人気はスカイノダン、香港から参加のG-Ⅰホース、グリーンバーディー、ヘッドライナー、ダッシャーゴーゴー、メリッサの順で支持された。

 レースはダッシャーゴーゴーが先頭でゴール直前に後方で待機していた香港馬グリーンバーディーが見事な末脚で伸びてきて、クビまで迫ったところがゴールだった。

 1着ダッシャーゴーゴー 1分08秒0、2着グリーンバーディー クビ、3着メリッサ 1馬身、4着ヘッドライナー 1馬身1/4、5着タマモナイスプレイ クビ。

 1番人気のスカイノダンは6着に終わった。

 ところで今日の深夜、フランスのロンシャン競馬場で凱旋門賞に出走する予定の2頭の日本馬ヴィクトワールピサとナカヤマフェスタが、それぞれのレース、ニエユ賞(G-Ⅱ・3歳、2400m)、フォア賞(G-Ⅱ・4歳、2400m)に出走する。この両レースはそれぞれが凱旋門賞と同じ距離、同じコースで行なわれるので、この結果次第では本番も期待が出来る。でもここで好勝負しないことには、凱旋門賞云々なんていえないだろう。大いに注目されるレースである。
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2010.09.11 (Sat)

またまた猛暑で

 一昨日あたり一旦は涼しくなりかけたが、またも昨日から暑さが復活。今日の暑さは完全な真夏である。知り合いが東京出張から帰ってくるなりいった言葉は「向こうは涼しかった」という。昨日か一昨日か知らないが、東京は30℃を下回ったのでは・・・・。でも相変わらず関西は35℃前後で狂ったような暑さが続いている。それはしょうがない。なにしろ位置関係からいって関西が東京より南西にあるので暑いのはやむを得ない。さらにいうならば地理的な位置取りが気候に影響を及ぼすのはしょうがないとしても、地形的に見ても雨がなかなか降らないようなところでもある。東京のの周辺は広い関東平野全体が海に面しているし、比較的太平洋からの前線の影響を受けやすいというのに対し、京阪神は周囲を山で囲まれているといってもよい。もっとも大阪湾から瀬戸内海、紀伊水道と外洋に抜ける道はあるが、紀伊半島の大半を占める紀伊山地が南側に構えているし、京阪神の北側は丹波の山々が壁を形成している。また西側にも東側にも同様の山々の帯が京阪神や大和盆地、近江の国を取り囲んでいる。だから夏はあまり風が抜けないし、熱がこもるのかも知れず、また日本海側で降る雨も紀伊半島南部で降る雨も関西の主要地域を取り囲む形で山地が前線を遮っているので、雨がなかなか降らないのである。とにかく今年の夏は雨が降ってないから、気温が上昇してその熱が抜け切ってない。それだから暑いのだろうが、もうたくさんだ。これ以上、猛暑が続くと色々なところに悪影響が出るだろうし経済にも波及してくる。そろそろ9月も中旬だし、秋めいてきてもいいかなとは思うが、未だに出かけると汗まみれになるから、あまり外出したくないのである。

 今日なんか久しぶりの土曜日の休日だった。それで電車に乗って左京区岡崎の美術館に行ってきたのだが、地下鉄の駅で降りて地上へ上がった途端、猛烈な陽射しの洗礼を浴びてしまい、美術館に着くころには後頭部が汗でぐっしょり濡れ、背中も汗だく、タオルで汗を拭くが追いつかない。どうにか涼しい美術館内に入ってホッとしたが、この暑さではとても芸術鑑賞といったような気分にはなれない。それで何を鑑賞したかというと京都市美術館に所蔵してある美術の展覧会で、浅井忠、太田喜二郎が中心の展示であるが、ここで敢えて取り上げるほどのこともないので記事は見送ったが、暑い時に涼しい館内へ入るとホッとするので、時々、あまり人の行かない展覧会を狙って出かけていくのだが、繁華街に或るアート・ギャラリーと違い大きな美術館というのは何処も公園内や、最寄り駅から10分以上は歩かなくてはならないところにあるから、たとえ10分といえども強烈な直射日光の下を歩くと身体が熱くなり見てる間に汗まみれなるから嫌なのである。涼みに行くとしても道中で汗をかいてしまう。行きも汗だくだが帰りも汗だくで、地下鉄の駅にもぐりこんだときは冷房の冷気が迎えてくれて思わずフーとため息をついた。

 とてもこの暑さでは芸術鑑賞なんていうものではない。やはり芸術といば秋だろう。もっとも秋は読書の秋でもあるが食欲の秋でもある。気候がいいと何もかも積極的になれるというものだろう。とにかく困ったことだが暑いと何もやる気が起こらない。早く夏が去ってくれないものだろうか・・・・・・。
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2010.09.09 (Thu)

吉川英治の『私本太平記』を読む

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 この吉川英治の『私本太平記』を読んだのは20年以上も前のことである。かなりの部分を忘れているが、大方の粗筋は覚えているので、記事にしてみたまでであるが、そもそも『太平記』という書物が存在した。『太平記』は後醍醐天皇の即位から始まって、鎌倉幕府滅亡、建武の新政、そして崩壊、その後の南北朝の分裂、2代目将軍足利義詮の死去・・・・およそ50年間にわたる波乱の時代を綴った軍記物語なのである。それを吉川英治は彼流の解釈を加え、独自の筋書きを構築し、より面白い読み物として世に出した歴史小説である。

 東国は下野の国足利ノ庄の住、貞氏の次男・足利又太郎高氏は15で元服の折、治部大輔、従五位下いただいた。彼は足利家の祖廟で3代前の家時の置文を見て天下を望む志を抱いたのである。またそれだけの家柄であった。今でこそ落ちぶれているが、八幡太郎義家の子孫というだけでなく由緒ある血筋をひいていた。父・貞氏は後醍醐天皇の討幕の謀議に参画した科で捕らわれた忠円僧正を足利家に預かっていたため京都の情勢に明るかった。こうして足利又太郎高氏は天下の動向を俯瞰し北条氏に代わって天下を望んでいても不思議ではなかった。時も時、北条政権は歪が各所で噴出し瀕死の状況であった。ここで天皇復権をかけて後醍醐天皇が立ち上がるのだが、切なる願いに河内の豪族である楠正成は重い腰を上げる。さらには新田義貞、ついにはこの物語の主人公といってもよい足利高氏という風に・・・・・・。この長大な物語を今更、延々と語っていても意味がない。とにかく登場人物が多すぎる。それが敵味方、裏切り、謀反、色々と混ざり合って、読んでいるうちに判らなくなっていく。ざっと見渡した限りでも足利高氏、足利義詮、後醍醐天皇、護良親王、楠正成、楠正行、佐々木道誉、北畠親房、赤橋守時、新田義貞、北条時宗、北条高時、上杉憲房、日野資朝、菊池武時といった人物たちが現れては消える・・・・・まさに動乱の時代、南北朝という朝廷が2つに分かれるという日本史においても稀有な時代の話であって、それに絡んで来る登場人物が誰一人をとっても一癖あって、一人一人の人物像を語れるというものでもない。世が大局的な変革期であり、下克上の時代でもあり、まさに乱世の世である。

 ところで登場人物は限りなく多いが、主要な人物は足利高氏(後に足利尊氏と名乗る)、後醍醐天皇、楠正成、新田義貞の4人であろう。そんな中で吉川英治は敢えて足利高氏を中心に描いている。それがこの『私本太平記』の違うところである。昔の『太平記』はともかくとして、その後の歴史書によると足利高氏を絶賛するものはほとんどなく、戦前の皇国史観の時代にあっては足利尊氏は悪将軍、逆賊とされていた。私の母親などは戦前の教育を受けていたので、足利尊氏は悪といったイメージでしかないという。一方、後醍醐天皇の下で忠臣を誓った楠正成は善のイメージを植え付けられたともいう。これらは江戸時代の儒教的な君臣論から広まったとされるが、物事、それほど単純なものではない。太平洋戦争が終わって、戦前の皇国史観が音をたててガラガラと崩れ去り、物事の価値観が180度変わってしまった。そこで吉川英治はこの『私本太平記』を書いたのである。戦後も戦後、昭和33年から毎日新聞に連載され、氏が亡くなられる1962年の前年に連載が終わっている。

 でも戦前に逆賊扱いを受けた足利尊氏を最も中心的人物として描いたことは特筆されるべきことであり、この『私本太平記』を連載当時読んでいた人にとっては抵抗がなかったのだろうかという疑問が成り立つが、吉川英治は既に故人、今となっては何故に足利尊氏を中心に物語を展開したかは判らない。だが、戦前の皇国史観が如何にも偏向した教育であったかは現在、誰もが認めるところであり、その被害を被った人物の最たるのが足利尊氏であったといえよう。今となっては足利尊氏は室町幕府を開いた初代将軍として歴史の表舞台に必ず登場する人物である。でも時代が違い体制が違うというだけで歴史教育は改竄される恐れがあるのだ。また時代の流れによって歴史上の人物は再評価されたり評価が落ちたり様々である。でも、我々はその時代に生きていたのでもなく、実際にはどのような人物であったかは漠然としか判らない。要は書く人によって歴史書の人物評は二転三転してしまうということである。だから面白いのだが怖ろしくもある。
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2010.09.08 (Wed)

おかしな台風

 連日の猛暑から打って変わり台風の影響で雨が降った。おかげで涼しくなった。今朝、家を出るときは小雨だったのだが、電車に揺られて滋賀県の何時もの駅に到着。すると激しい雨が降っていた。バスを待つ間も雨足が強く、足元が濡れてくる。早くバスが来てくれないものかと待つがなかなかやって来ない。ようやくバスに乗ってホッとする。が、職場の近くのバス停で降りたのはいいが、先ほどよりも雨が激しくなっている。なんていうことだ、路面が川のようになって冠水しているではないか。靴もズボンもびしょ濡れになりながらようやく職場に到着。本当にロクでもない。京都の方は小雨だったのに、滋賀県はどうなっているのだ。台風は家を出る頃は兵庫県の日本海側を東へ進んでいたのに、滋賀県の方が影響力が強かったということなのか。でも暫くして雨が上がってしまった。そのせいで蒸し暑くてそうしようもない。

 それが帰宅時には、また雨に降られてしまった。よほど雨に縁の或る日だ。台風は日本海側から福井県に上陸したという。これは観測史上初めてのことらしい。何時もの台風なら日本海に抜けた台風は東北や北海道に上陸することはあっても、北陸に上陸することはないらしい。ということは今年の気圧配置がよほどおかしいということになる。台風も高気圧の勢力には勝てず、その高気圧に沿って進むため、非常に希な進路をとったといえよう。

 もとから勢力の弱い台風だったので、風力はさほどだったが、雨は局地的に激しく降った模様である。何しろ新幹線を停めてしまったから雨の影響は少なくはなかった。でも在来線への影響はほとんどなく、何時ものように帰宅したが、我が家の或る近辺ではあまり雨が降らなかったようで、暑さが気になったが、周辺が激しい雨だったからなのか、我が家の周辺も昨日よりは涼しい空気に包まれていた。例年ならこれで涼しくなっていくのだろうが、あいにく今年はそのようにいかないらしい。台風が雨を降らせ幾分か涼しくさせてくれたと思ったのだが、また明日からは厳しい残暑が待っているという。ああ、もういい加減にしてほしい。
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2010.09.07 (Tue)

レッド・ツェッペリンのファースト・アルバムを聴く

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 このアルバムが発売されたのは1969年のことである。元ヤードバーズのギタリストであるジミー・ペイジが当時、無名の3人を集めて結成されたグループである。最もグループは1968年に結成されたものであるが、ヤードバーズに在籍していたジミー・ペイジが解散直後に急遽結成したものでアルバム発売は1969年初頭となった。この頃の音楽シーンというのは日本ではまだグループ・サウンドが活躍していたし、フォーク・ソングも流行っていた。一方、海外ではビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、プロコル・ハルム、サイモン&ガーファンクル、ドアーズ等・・・・色々な毛色の音楽が巷で流れ、まさに洋楽の全盛時代というべき時代であった。そんな中で登場したのがレッド・ツェッペリンだった。

 そもそもスタジオ・ミュージシャンをしていたジミー・ペイジが伝説のグループ、ヤードバーズの3代目リード・ギタリストとして活躍していたものの、レコード製作をする過程で彼の求める音楽的欲求が目覚てきて、レッド・ツェッペリン結成となったようだ。この時、ジミー・ペイジはプロコル・ハルムのドラムスであるB・J・ウィルソンをメンバーに誘ったというが断られたらしい。結局、集まったのがヴォーカルのロバート・プラント、ドラムスのジョン・ボーナム、旧友であるベースのジョン・ポール・ジョーンズだった。つまりジミー・ペイジ以外は全くの無名であったが実力は何れも折り紙つきであった。

 グループ名は当初、ニューー・ヤードバーズと名乗っていたらしいが、1968年10月の初コンサートにおいてはニュー・ヤードバーズ・フューチャリング・レッド・ツェッペリンという長ったらしい名前でステージに立っている。ジミー・ペイジによると名前の語尾にSがつく当時のポップ・グループ名の流行とは訣別したかったもので、ヤードバーズの音楽性の継承をさらに発展させ、よりヘビーなサウンドに持って行きたかったのであり、言い換えればヤードバーズ時代のヴォーカリストが下手でジミー・ペイジの音楽性にそぐわなかったため、新たにブルースを基盤とした新グループで新しいグループ名で出発したかったものと思われる。こうしてレッド・ツェッペリンはスタートしたのである。基本的にはブルースなのであるが、所謂、黒人ぽいブルースではなく白人によるブルース、それをより一層ハードにしたロックといえばいいだろうか、こういった音楽をやってみたかったというのが、このレッド・ツェッペリンのファースト・アルバムを聴けば明確である。

 ところで、このアルバムが発売された当時、私は中学生である。最初、このアルバムの冒頭に収められている曲『グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』がラジオで聴いた時、いきなりの重いサウンドに驚いたものであるが、そのサウンドに乗ってロバート・プラントの伸びのある甲高い声が重い伴奏に一つも引けをとらず踊るように唄っていたのがとても印象的であった。

 しかし、このアルバムを全て聴き通したのは発売から1年あまり経ってからである。私が高校に入った頃であろうか、級友が持っていたものを借りて聴いたというのが本当のところである。今のようにロックの輸入盤CDなら1000円で買える時代ではないから、ほとんどの洋楽ファンはよほどのマニアでもない限りアルバム全曲を聴いていなかったと思う。
また、あの頃、一般的にポップスといってもバブルガム・サウンドのような音楽も一方では主流であり、どちらかというとこちらの方が、まだ一般受けしていた。そういった理由で実力はピカイチでも、レッド・ツェッペリンのような先鋭的音楽というのはファースト・アルバムの頃は、まだ受け入れられなかったように記憶している。

 やがて時代が進み、ハードロック、ヘビーロック、ニューロックなんて語句が音楽雑誌に頻繁に記載されるようになり、だんだんとレッド・ツェッペリンもファンに受け入れられるようになっていったと思う。そして、1971年の秋にレッド・ツェッペリンは初来日する。そして、私はレッド・ツェッペリンの初ライヴに当然のように行ったのである。あれから40年近くなる。今では伝説のロック・グループなんていわれるが、あの頃、そのような雰囲気はなく、ただ音楽が好きな4人のイギリスの若者がステージを楽しんでいるといったものだった。

 ところでLed Zeppelin(ledはleadの過去分詞)という名前は飛行船の開発者に由来するのはご存知だろうが、このツェッペリン博士の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリン女史に名前の無断使用で訴えられ法廷で争われたという話も今となっては笑い話になってしまった。

 最後になるが収録曲は全部で9曲、以下の通りである。『Good Times Bad Times』『Babe I’m Gonna Leave You』『You Shock Me』『Dazed And Confused』『Your Time Is Gonna Come』『Black Mountain Side』『Communication Breakdown』『I Can’t Quit You Baby』『How Many More Times』


 『Good Times Bad Times』を演奏するレッド・ツェッペリン。2007年11月のライヴから。

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2010.09.06 (Mon)

何時まで続く

 昨日、京都府下の京田辺市で39.9℃を記録した。今夏、最高気温らしい。それも9月に入ってからの暑さだから、なお驚く。京田辺市といったら我が家から、そんなに離れていない。どうりで昨日は暑いと思ったら、そこまで気温が上がっていたのか・・・・・・・。京都府の各地は何処も37℃以上だった模様で、もうこうなると体温よりも暑いから、人間の方もだらけてしまうだろうなあ。とにかく今年は観測が始まって以来という記録ずくめの異常高音で、猛暑日にしても熱帯夜にしても、1994年の記録を更新しつつある。もう言うまいと思ったが、またまた暑い暑いと言ってしまった。これから先も暑いのだろう。困ったものだが、何時までも暑くて突然、寒くなるパターンだな。秋はほんの僅かしかなく、夏と冬が長いという最悪な1年になりそうな気配である。台風が珍しくやってきたが、九州では影響があるらしい。でも台風の今後の進路予報からいうと、日本海を進む公算が大きいが、南よりのコースを進むと、近畿地方にも影響が出るだろう。でもあまり暑いので台風は有り難いなんていう人がいるが、台風は願い下げだ。でも雨は齎しいて欲しい。風はいらないから雨だけ降らせて欲しい。虫のいい話だが、涼しくなるのには纏まった雨が1番効果があるからだ。でも台風の雨は激しいから、歓迎できないが、水害にならない程度の雨なら1日降っていてもいいよ。とりあえず何でもかんでもいいから、焼けた屋根の瓦を冷やす雨と、外の暑い大気を冷ますほどの雨が降ってくれればいいのだが、現実はあまくない。あまくないが、苦しい時の神頼み。雨よ降れ降れ雨よ降れ・・・・・・・・。照る照る坊主の逆で雨乞い用の人形って言うものはないのだろうか。あれば軒下に吊るしておくのになあ。でも滋賀県では昨日、激しい雨が降ったという。でも京都以西はまったく降ってない。竜巻注意報ななんていうものが出ていたらしいが、これなんかは積乱雲が出てきた証拠である。とはいうもの、雨も降らず雷の音は聞こえれど、雨が一向に降らなかったというのは、言い換えれば局地的なゲリラ的な降り方をしているといった意味である。困ったことにゲリラ豪雨がある間は、まだまだ夏が続いているという証明でもある。この勢いだと10月まで猛暑が続くかもしれないそうだが・・・・・・参った、参った!!
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2010.09.05 (Sun)

新潟2歳S、小倉2歳S

 9月に入っても記録的な暑さが続いているが、秋らしくなるのはまだまだ先の事かもしれない。でも競馬の世界は夏のローカルがいよいよ今週で終わり、来週から秋競馬が始まろうとしている。それで夏の締めくくりとして2歳の重賞が新潟と小倉で行なわれ、その結果を記すことにする。

 新潟は新潟2歳S(G-Ⅲ・2歳、芝1600m、17頭)にはディープインパクトの仔が2頭出(レッドセインツ、サイレントソニック)ていた。でも印象からいうと薄いかな。1番人気はグリーンエコロジー、2番人気はキッズニコルマン、3番人気はリーサムポイントだったが、競馬は混戦になり叩きあいの末、人気薄が上位を占めた。

 1着マイネイサベル 1分34秒5、2着マイネルラクリマ クビ、3着レッドセインツ 3/4、4着エーシンブラン 1馬身1/2、5着デラコリーナ クビ。

 小倉では小倉2歳S(G-Ⅲ・2歳、芝1200m、17頭)は逃げた2番人気のシゲルキョクチョウが逃げ切るかに思われたが、中団に待機していた2番人気のブラウンワイルドが豪快に末脚を伸ばしてきて、ハナ差捉えて勝った。

 1着ブラウンワイルド 1分08秒7、2着シゲルキョクチョウ ハナ、3着スギノエンデバー 1/2、4着トキノゲンジ 2馬身1/2、5着テイエムターゲット。
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2010.09.04 (Sat)

猛暑の中の土曜出勤だった

今日は暑いのに土曜出勤だったが、先ほど帰宅したところである。この猛暑の中の土曜出勤はとても疲れる。朝の電車は空いているが、バスが皆目ない。この猛烈な暑さの中、直射日光を浴びながら3㎞の道のりを歩いてから仕事にかかるのはそれこそ拷問である。朝はバスに乗って行くのだが、バスの便数が平日の半分もなく、どうにか何時もより送れて会社に到着。それでも汗だくだく。汗が額から落ちてきて目に入る。首の裏側よりやや上、髪の裾辺りが濡れている。あまり暑いとこの辺りも発汗が酷い。

 それにしても、今日の暑さも格別だった。冷房の効いた建物内にいるのに汗がいくらでも出てくる。持っていたタオル地のハンカチがあっという間にベトベトニなる。今夏の異常さは充分伝えられてはいるが、今日は湿気がとくに凄くて身体の健康上よくない。外が暑すぎるので建造物の中は冷やしてもあまり効果が期待できない。だから暑いのなんのって、着ている衣服が汗でべっとりと身体に引っ付いているし、気持ちが悪くてしょうがない。相当な汗をかいていた模様で、ペットボトルのお茶を2本飲んでしまった。何時もの土曜日なら、今頃、何をしている時間かなあと考えつつ仕事をこなしていたが、精神的にも肉体的にも辛くて歳を感じるようになってきた。


 どうにか仕事も終了。職場をあとにしてバス停に向う。職場から最寄のバス停まで500m~600mほどある。これを歩くだけで汗の量が増していく。また土曜日だというのでバスの便数も少ない。そんな中、バスを待つ。ようやく乗ったものの何時ものようには行かない。まず交通停滞につかまる。国道との交差点で車がスムーズに流れない。これだったら歩いたほうが速いぐらいで、余計なお金を使わずに済む。でも夏の間は、夕方とはいえ30℃以上の直射日光に射されるのだ・・・・・・。何だかんだで帰宅が遅い。当然、ブログを更新する気もおこらん。とりあえず、今日は僅かだがこれだけ書いてみた。とにかく暑い。暑すぎる。気分はすでに秋なのだが・・・・・。
 
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2010.09.02 (Thu)

初代若乃花死す

 若乃花が亡くなったというと「えっ! まだ若いのに」と答える人は間違いなく50歳以下の人だろう。でも亡くなった若乃花は82歳だというと、どのような答えが返ってくるだろうか・・・。若くても相撲通なら知っているだろうが、相撲にあまり興味の無い若い人なら、おそらく「昔にも若乃花がいたの?」といったようなことを言うかもしれない。それで答えからいうと過去に若乃花は3人もいたのである。

 今回、亡くなった若乃花幹士という人は初代若乃花で、皆さんご存知の若貴兄弟の伯父に当る人である。つまり相撲取り一族といってもよい花田家の長老といってもいいだろう。この亡くなった若乃花幹士が初代若乃花で土俵の鬼といわれた名横綱である。そして、この人の実弟が先年亡くなった元・名大関の貴乃花利彰で、貴乃花利彰の息子がいわずと知れた若乃花勝と貴乃花光司という兄弟横綱である。それで2代目の若乃花(この人も横綱)はというと初代の弟子である若乃花幹士で現在は間垣親方といえば判るだろうか・・・・。さらにいうならば2代目の若乃花の最初の妻が初代の娘だったということは、若貴兄弟とは一時期、義理の従妹というようなもので、まさに相撲一家を形成していたのである。そんな相撲一家の長老で大黒柱だった人が、昨日に腎細胞癌で亡くなった若乃花幹士である。

 ところで私は幼い頃、我が家に入ったテレビで相撲の存在を知ったが、その頃の大相撲の横綱だった人が初代若乃花であり、もう1人が栃錦であった。言わば私が相撲を観るようになった頃の大スターといえばいいだろうか。当時、野球と相撲とプロレスがスポーツで人気を博していたが、野球界では長嶋茂雄、金田正一、稲尾和久、中西太、杉浦忠といったスターがいた。プロレスには力道山がいた。そして相撲では栃若の時代である。幼かった私は親爺が観ていたテレビの相撲中継にかじりつき、栃錦と若乃花の大相撲に一喜一憂していた覚えがある。そこで横綱、大関、関脇、小結、前頭、十両といった力士のランクというものを認識したものである。幼かったが横綱は何時も1番最後に出てきて、何時も勝っているので1番強いのであるとその頃に植えつけられてしまったのであるが、殊に小さな2人の横綱、栃錦と若乃花は技が豊富で豪快であった。おそらくテレビが生んだ最初の大相撲のスターであろう。それまで相撲というものは実際には本場所の行なわれている会場に行くしか観る機会がなかっただろうし、巡業も今ほど多くはなかった時代である。そこでテレビの大相撲本場所中継が相撲人気を高めたに違いない。ここで若乃花という小さい身体ながら豪快に大きな力士を投げ飛ばす力士に私は出会ったのである。

 栃錦も小さいが、若乃花はさらに小さかった。小さいが大内山といった巨人力士を子供扱いにしていた。幼心ながらそんな若乃花に憧れてもいた。それから間もなく、若乃花が引退した。突然だった。私は小学校に上がっていたが、すでに若乃花は全盛期を過ぎていて、世は大鵬、柏戸といった若手の大型力士の時代に変革していた。大鵬はとんでもなく強かったが、私は何か物足りなかった。子供であってもそのあたりは判っていたのだろう。大鵬のような大きな力士が小さい相手にいくら勝っていても何か物足りなかった。そのせいであの当時、あまり相撲が好きになれなかったのだろう。結局、相撲というのは柔道にもいえるが小兵が豊富な技を駆使して大男をなぎ倒すのに醍醐味を感じていたのだろう。かつて初代若乃花が大技の仏壇返しや上手投げを繰り出し何度も勝ち名乗りを挙げていたことを思い出す。

 もし、若乃花の相撲を私がもっと長い間、観ていたならば相撲も好きになっていたかも知らない。でもあいにく私が小学校に上がって間がない頃に若乃花は引退してしまった。だから実際には若乃花の全てを知っているというのでもない。最後の3年間ぐらいを観ていただけである。どちらかというと私は大鵬の相撲で育った世代である。でも何度も言うが大鵬は強いが相撲は面白くなかった。安定感は抜群で負けない相撲であった。なにしろ毎場所のように優勝していて横綱を10年も務めた大横綱であった。あまりに強いから巨人、大鵬、卵焼きなんていわれたぐらいだ。だが相撲ぶりからいって興味を持てなかった。やはり私の心の中にあった面白い相撲は幼い頃に観た若乃花の仏壇返しだったのである。もうあんな大技を使う力士がいるのだろうか・・・・・・・・。ご冥福をお祈りします。



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2010.09.01 (Wed)

とうとう9月になりました

 記録的な暑さの連続だった8月がやっと終わった。暑い日の連続でこの一月がとても長く感じた。毎年、8月は早く去ってくれと願ってはいるが、今年の8月は格別、暑かったから例年以上に長く思えたし辛かった。でも昼間の暑さはしょうがないとしても夜の暑さだけは辛抱が出来なかった。猛暑の日には、日中の暑さが影響して熱が夜中でも冷めず毎夜の熱帯夜ときていては寝れるはずもなく、毎日、睡眠不足であり身体がだるく体調面ではいいところが何もなかった。今年は偏西風が北に上がり蛇行して吹いているというから、日本列島はすっかり夏の強い高気圧に支配されてしまった。その影響で何処も彼処も記録的な暑さとなってしまったようだ。

 でもまだまだ暑い日が続くらしい。9月に入っても未だ高気圧から抜け出せない。もう秋はすぐそこまできているというのに気温面ではまだ盛夏のようだ。それに9月に入ってもなかなか涼しくならないという。テレビの天気予報によるとそのようなことを言っていたが、もうこうなると開き直るしかないなあ。もうこうなると、とことん夏を引っ張ってしまえといいたいが夏よりも秋の方がいい。早く秋よこい。しかし、冬から春に向かう時に、春の到来を喜ぶ歌や詩は数え切れないほど多いのに、夏から秋へと変る時に、秋の訪れを欲する歌や詩はあまりお目にかからないというのはどういうことか・・・・・・・・。やっと大嫌いな夏が終わって、1年で最も心地よい季節の秋を待望する歌、詩が少ないというのは納得できない。最も昔の夏はもっと涼しかったけれど、今時の夏っていうのは風情も何にもないのだが・・・・・・・。

 まあ、とりあえず8月は終わった。これからはまだ真夏日が続き、熱帯夜も続くなんて聞くと、ウンザリするが9月に入ったということで気分的に楽になったのである。それは8月の間は暑いのが当たり前で、涼しくならないと考えているから精神的にも体力的にも辛かったのである。それが9月に入ったというだけで、これからは何れは涼しくなっていくだろうという思いがあるからだと思う。そこが8月と9月と違うということだ。9月に入ると日暮れの時間も早くなったと確認できるし、日照時間と日没から夜明けまでの時間との対比が移り変わることによって、だいんだんと涼しくなっていくのだという思いがあるから、9月においては夏も時間の問題であろう。だから気分的に楽なのかもしれないが、それでも10月まで暑いだろうなんていわれると、ちょっと考え込んでしまう。これは明らかに、30年前よりも夏が長くなっている。ああ、いやだ。いやだ。
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