2018.05.27 (Sun)
サム・クックを聴く
昔にサム・クックという黒人歌手がいた。でも小生はこの人の現役時代に聴いたことがない。1964年に亡くなっているから当然だ。でもその翌年に亡くなったナット・キング・コールの『LOVE』はラジオで聴いたことあるので知っていた(日本語バージョンがあったんだが)。しかし、サム・クック自身の歌を聴いたことがない。ただし曲は知っていた。というよりもカバーによって後にサム・クックのことを知るのだが・・・・。
最初にサム・クックの曲を聴いたのはアニマルズが歌う『Bring It On Home To Me』によってである。このときは印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。もっともアニマルズはカバー曲が多く黒人の曲を取り上げるのでもローリング・ストーンズと一緒で、イギリスのグループらしくなかった。ニーナ・シモンの曲も歌っていたが小生は当時、小学生である。アニマルズがオリジナルと思っていた。
次にサム・クックの曲を聴いたのはこれもハーマンズ・ハーミッツが歌う『Wonderful World』によってである。これも印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。このハーマンズ・ハーミッツもカバー曲が多かったかな。当時はカバー曲が当たり前の時代だったけど良い曲は他のミュージシャンがカバーをよくしていて後代まで曲が残っていくものである。こういった曲でサム・クックのことを知るのである。でも日本ではサム・クックのことを取り上げることはほとんどなく小生も名前は聞いたことはあるが本人が歌っているのを聴いたのはその後、何年かしてからである。
最初に聴いたときは白人かと思ったほどで黒人特有の歌い方とは同様とは思わなかった。当時、音楽雑誌で初めて写真を見て若いなあと感じた。当たり前だ。亡くなったのが33歳だから早死になのである。フランク・シナトラの黒人版と言われてたそうである。1931年1月にミシシッピ州で生まれたがすぐにシカゴに移住。父が牧師だった関係から幼少から聖歌隊で歌い10代後半でゴスペルを歌うようになり19歳になってゴスペルのグループ、スターラーズのリードヴォーカルとして脚光を浴びる。その後にR&B転向してソロ歌手となる。これが1957年の頃でありプレスリーの全盛時代。でもサム・クックも人気があったそうだ。徐々に洗練された歌い方が評価され後代、白人の多くにカバーされる様になったからサム・クックの名前を知ることになるのだろう。でも実生活では公民権運動にも関わりマルコムXやモハメド・アリとも親交があったという。それで初めて写真を見たとき、ああこの人かと思ったものだ。歌よりも先に顔を知っていた・・・・。
たとえば彼が死んだ1964年に出した『A Change Is Gonna Come』はボブ・ディランの『風に吹かれて』に影響を受けて作ったメッセージソングと言われる。ただ1964年の12月、ロサンジェルスのモーテルで泥酔していた彼は発砲され死亡。33歳だったという。活躍期間は10年もなかった。でもこの頃から彼の曲をカバーするミュージシャンが急増。それで名前が日本にも轟くようになっていたのだろう。オーティス・レディング、アレサ・フランクリン等の黒人歌手は当然としても先ほど述べたアニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツのイギリスのグループがカバーで小生は曲と名前を知るようになった。その後にはなんとポール・マッカートニーやジョン・レノンまでが『Bring It On Home』歌っているし、面白いところではアート・ガーファンクルが『Wonderfull World』を歌っている。日本ではウルフルズが『ワンダーフル・ワールド』をカバー。彼等が歌っているのを聴いてこの曲を知ったという若い人も多いだろう。このときは面白い日本語で一部歌っていた。英語の歌詞に発音が似ていてなんだか面白いと感じたものだ。
Don't know much about history
Don't know much biology
サム・クックの原曲はこうなんだがウルフルズは
どの街まで行けば君に会えるだろう
どの街を歩けば君に会えるだろう
と歌っている。Don’t know muchが日本語ではどの街に聞こえるからな。ということで、そろそろお終いにしたいが、正直言ってサム・クックの曲を聴くようになったのはCD時代になってアルバムの輸入盤を店頭で見つけてからである。アナログ時代はさほどサム・クックのアルバムを見かけることも少なかったしたとえ見つけてもLP盤は高価で買えなかっただろうけど。
Bring It On Home To Me
Wonderful World
最初にサム・クックの曲を聴いたのはアニマルズが歌う『Bring It On Home To Me』によってである。このときは印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。もっともアニマルズはカバー曲が多く黒人の曲を取り上げるのでもローリング・ストーンズと一緒で、イギリスのグループらしくなかった。ニーナ・シモンの曲も歌っていたが小生は当時、小学生である。アニマルズがオリジナルと思っていた。
次にサム・クックの曲を聴いたのはこれもハーマンズ・ハーミッツが歌う『Wonderful World』によってである。これも印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。このハーマンズ・ハーミッツもカバー曲が多かったかな。当時はカバー曲が当たり前の時代だったけど良い曲は他のミュージシャンがカバーをよくしていて後代まで曲が残っていくものである。こういった曲でサム・クックのことを知るのである。でも日本ではサム・クックのことを取り上げることはほとんどなく小生も名前は聞いたことはあるが本人が歌っているのを聴いたのはその後、何年かしてからである。
最初に聴いたときは白人かと思ったほどで黒人特有の歌い方とは同様とは思わなかった。当時、音楽雑誌で初めて写真を見て若いなあと感じた。当たり前だ。亡くなったのが33歳だから早死になのである。フランク・シナトラの黒人版と言われてたそうである。1931年1月にミシシッピ州で生まれたがすぐにシカゴに移住。父が牧師だった関係から幼少から聖歌隊で歌い10代後半でゴスペルを歌うようになり19歳になってゴスペルのグループ、スターラーズのリードヴォーカルとして脚光を浴びる。その後にR&B転向してソロ歌手となる。これが1957年の頃でありプレスリーの全盛時代。でもサム・クックも人気があったそうだ。徐々に洗練された歌い方が評価され後代、白人の多くにカバーされる様になったからサム・クックの名前を知ることになるのだろう。でも実生活では公民権運動にも関わりマルコムXやモハメド・アリとも親交があったという。それで初めて写真を見たとき、ああこの人かと思ったものだ。歌よりも先に顔を知っていた・・・・。
たとえば彼が死んだ1964年に出した『A Change Is Gonna Come』はボブ・ディランの『風に吹かれて』に影響を受けて作ったメッセージソングと言われる。ただ1964年の12月、ロサンジェルスのモーテルで泥酔していた彼は発砲され死亡。33歳だったという。活躍期間は10年もなかった。でもこの頃から彼の曲をカバーするミュージシャンが急増。それで名前が日本にも轟くようになっていたのだろう。オーティス・レディング、アレサ・フランクリン等の黒人歌手は当然としても先ほど述べたアニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツのイギリスのグループがカバーで小生は曲と名前を知るようになった。その後にはなんとポール・マッカートニーやジョン・レノンまでが『Bring It On Home』歌っているし、面白いところではアート・ガーファンクルが『Wonderfull World』を歌っている。日本ではウルフルズが『ワンダーフル・ワールド』をカバー。彼等が歌っているのを聴いてこの曲を知ったという若い人も多いだろう。このときは面白い日本語で一部歌っていた。英語の歌詞に発音が似ていてなんだか面白いと感じたものだ。
Don't know much about history
Don't know much biology
サム・クックの原曲はこうなんだがウルフルズは
どの街まで行けば君に会えるだろう
どの街を歩けば君に会えるだろう
と歌っている。Don’t know muchが日本語ではどの街に聞こえるからな。ということで、そろそろお終いにしたいが、正直言ってサム・クックの曲を聴くようになったのはCD時代になってアルバムの輸入盤を店頭で見つけてからである。アナログ時代はさほどサム・クックのアルバムを見かけることも少なかったしたとえ見つけてもLP盤は高価で買えなかっただろうけど。
Bring It On Home To Me
Wonderful World
2017.09.27 (Wed)
Strawberry Fields Forever
あれは1967年に入って間がなかったと思う。ビートルズの新曲が発売されたと言って新曲をラジオで流していた。それが『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』と『ペニー・レイン』だった。この2曲がカップリングでシングル盤として発売された。だから当時の洋楽ヒットチャートを賑わしラジオでよく流れていたといった印象があるが、当時に聴いたときは変な曲だと思った。まだ『ペニー・レイン』はトランペットがやたら目立つ曲だけどすぐに馴染めたものの『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』に関してはなかなか馴染めなかった。冒頭から何の音だと思った。するとLet me take you dawn ‘cause I’m going to Strawberry Fieldsとジョンのけだるい声で歌われる。今まで知っていたビートルズの曲とは違うなあと思い変なのと感じたのである。当時、小生は中学に入学し趣味も嗜好も変換期ではあった。だがこと音楽に関しては当時は姉の影響が強く洋楽や映画も姉の影響から好きになっていたように思う。そして当時、ビートルズのファンであった高校生の姉の影響でビートルズの曲を聴くようになった小生もビートルズが変わりつつあると言うことを子供ながら感じ取っていたのかも知れない。
今となっては1967年というのは西洋商業音楽史において大転換期であったと言われるが、当時、中学生だった小生にはその渦中にあり、その変換機を肌で感じてはいたもののすぐに馴染めなかったものだ。それは日本の音楽史においても変革期ではあった。それまでの歌謡曲が細分化されだした頃で、演歌、ムード歌謡、GS、フォークソングetc.。海外の影響が日本の音楽界まで左右していったのである。今考えると、ビートルズがコンサートを中止し、スタジオにこもりだし実験的音楽を発表するようになった最初のの曲が『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』ではなかっただろうか。それまでビートポップスのグループのような曲ばかり歌っていたビートルズがこんな曲を出した。だから当時は違和感でしかなかった。するとラジオで新曲が流れ出すと間もなく姉がシングル盤の『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』『ペニー・レイン』を買ってきた。今考えると最後の方のオデオン盤ではなかったかと思う。それを姉は毎日、ステレオプレーヤーで聴いていた。だから当然、小生も曲を覚えてしまった。
今はそのシングル盤は手元にない。その後何度か引っ越ししたから何処かへ行ってしまったのだろう。また姉の買った物だから管理もいい加減だし何処で消失したかも判らない。従って手元にはない。でもオデオン盤で黒ではなく赤い半透明のシングル盤だったと記憶している。当時はポップスなんて、まだシングル盤が中心の時代で、ほとんどの人はLP盤なんて買わなかったというよりも買えなかった。LP盤のコンセプトアルバムが出されるのが、この年の夏のビートルズ『サージェント・ペパーズ~』からで、だから商業音楽史において1967年は大変革期といわれるのである(最もその前のビーチ・ボーイズのアルバム、ペットサウンズの影響もあったらしいが)。それまでのヒット曲ばかりを集めた感のあるアルバム盤からアルバム自体で一つの物語や概念で統一し寄せ集め感から脱皮したLP盤がリリースされポップスの歴史を変えた。そのアルバムこそ『サージェント・ペパーズ~
』だった訳である。これ以降、商業音楽は変わっていく。でも初めて『サージェント・ペパーズ~』全曲をラジオで聴いたとき何処が良いのかさっぱり判らなかった。なんだか昔のコンサートばかりやっていたアイドルのビートルズ時代の曲とはかけ離れどれもこれもそれまでのビートルズとは毛色の違う曲だと感じた。そして、その1967年の夏休みに高校生の姉がアルバム『サージェント・ペパーズ~』を誰かから借りてきた。誰が持っていたんだろ。おそらく中学時代の級友でエレキバンドをやっていた他校の男子高校生からだと思う(姉は私立の女子校に通っていた)。当時の女子校生はシングル盤のヒット曲は聴くがアルバムまで買って聴く人はほとんどいない時代。当然アルバムを持っていたのはほとんど男子だった。まあビートルズのアルバムをほとんど買いそろえたのは高校生になってからの小生であって、姉が実際にビートルズのアルバムを買ったのは確か三枚か四枚ぐらいだったと思う。
さて、この『サージェント・ペパーズ~』のアルバムを一週間ほど毎日聴いた。するとその良さがだんだんと判るようになり、ついでに『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』の曲も理解できるようになったというのが真相だろう。その後、この『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』はアルバムSgt.の制作の伏線になるというから同一線上の曲作りが当時から行われていたんだと後になって納得した覚えがある。
ところで『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』のタイトルを姉は当時、苺畑よ永遠にといっていた。だが後に調べてみてリバプールに実際ある孤児院の名称だと言うことを知る。ジョン・レノンがリバプールの郷愁を曲にしたのだろうか。この曲に触発されポール・マッカートニーが『ペニー・レイン』を作ったとされているから、でも『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』の歌詞を調べてみると郷愁とはあまり関係のないジョン独自の人生哲学のような歌詞である。でも最初に聴いたとき変な曲でしかなかった『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』であるが、今となってはビートルズの数ある曲の中でも好きな曲の一つになっているから不思議である。それはアルバム『サージェント・ペパーズ~』にも言えるのだが。そして今年はそのアルバム『サージェント・ペパーズ~』が発売されて50年だとい言う。もうそんなになるのかとただただ驚嘆した。
ところで『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』『ペニー・レイン』2曲は、その後サウンドトッラク盤の『マジカル・ミステリー・ツアー』に収録されたが、当時、中学生だった小生はアルバムを買う経済力もなく、EP盤(直径17cm)の『マジカル・ミステリー・ツアー』を買った。これはシングル盤の大きさだが33回転の2枚組で6曲入り。ただし『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』『ペニー・レイン』の2曲は入ってない。The Fool On The Hillを聴きたいがために買ったものだが。当時LPは高価だった。
今となっては1967年というのは西洋商業音楽史において大転換期であったと言われるが、当時、中学生だった小生にはその渦中にあり、その変換機を肌で感じてはいたもののすぐに馴染めなかったものだ。それは日本の音楽史においても変革期ではあった。それまでの歌謡曲が細分化されだした頃で、演歌、ムード歌謡、GS、フォークソングetc.。海外の影響が日本の音楽界まで左右していったのである。今考えると、ビートルズがコンサートを中止し、スタジオにこもりだし実験的音楽を発表するようになった最初のの曲が『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』ではなかっただろうか。それまでビートポップスのグループのような曲ばかり歌っていたビートルズがこんな曲を出した。だから当時は違和感でしかなかった。するとラジオで新曲が流れ出すと間もなく姉がシングル盤の『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』『ペニー・レイン』を買ってきた。今考えると最後の方のオデオン盤ではなかったかと思う。それを姉は毎日、ステレオプレーヤーで聴いていた。だから当然、小生も曲を覚えてしまった。
今はそのシングル盤は手元にない。その後何度か引っ越ししたから何処かへ行ってしまったのだろう。また姉の買った物だから管理もいい加減だし何処で消失したかも判らない。従って手元にはない。でもオデオン盤で黒ではなく赤い半透明のシングル盤だったと記憶している。当時はポップスなんて、まだシングル盤が中心の時代で、ほとんどの人はLP盤なんて買わなかったというよりも買えなかった。LP盤のコンセプトアルバムが出されるのが、この年の夏のビートルズ『サージェント・ペパーズ~』からで、だから商業音楽史において1967年は大変革期といわれるのである(最もその前のビーチ・ボーイズのアルバム、ペットサウンズの影響もあったらしいが)。それまでのヒット曲ばかりを集めた感のあるアルバム盤からアルバム自体で一つの物語や概念で統一し寄せ集め感から脱皮したLP盤がリリースされポップスの歴史を変えた。そのアルバムこそ『サージェント・ペパーズ~
』だった訳である。これ以降、商業音楽は変わっていく。でも初めて『サージェント・ペパーズ~』全曲をラジオで聴いたとき何処が良いのかさっぱり判らなかった。なんだか昔のコンサートばかりやっていたアイドルのビートルズ時代の曲とはかけ離れどれもこれもそれまでのビートルズとは毛色の違う曲だと感じた。そして、その1967年の夏休みに高校生の姉がアルバム『サージェント・ペパーズ~』を誰かから借りてきた。誰が持っていたんだろ。おそらく中学時代の級友でエレキバンドをやっていた他校の男子高校生からだと思う(姉は私立の女子校に通っていた)。当時の女子校生はシングル盤のヒット曲は聴くがアルバムまで買って聴く人はほとんどいない時代。当然アルバムを持っていたのはほとんど男子だった。まあビートルズのアルバムをほとんど買いそろえたのは高校生になってからの小生であって、姉が実際にビートルズのアルバムを買ったのは確か三枚か四枚ぐらいだったと思う。
さて、この『サージェント・ペパーズ~』のアルバムを一週間ほど毎日聴いた。するとその良さがだんだんと判るようになり、ついでに『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』の曲も理解できるようになったというのが真相だろう。その後、この『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』はアルバムSgt.の制作の伏線になるというから同一線上の曲作りが当時から行われていたんだと後になって納得した覚えがある。
ところで『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』のタイトルを姉は当時、苺畑よ永遠にといっていた。だが後に調べてみてリバプールに実際ある孤児院の名称だと言うことを知る。ジョン・レノンがリバプールの郷愁を曲にしたのだろうか。この曲に触発されポール・マッカートニーが『ペニー・レイン』を作ったとされているから、でも『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』の歌詞を調べてみると郷愁とはあまり関係のないジョン独自の人生哲学のような歌詞である。でも最初に聴いたとき変な曲でしかなかった『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』であるが、今となってはビートルズの数ある曲の中でも好きな曲の一つになっているから不思議である。それはアルバム『サージェント・ペパーズ~』にも言えるのだが。そして今年はそのアルバム『サージェント・ペパーズ~』が発売されて50年だとい言う。もうそんなになるのかとただただ驚嘆した。
ところで『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』『ペニー・レイン』2曲は、その後サウンドトッラク盤の『マジカル・ミステリー・ツアー』に収録されたが、当時、中学生だった小生はアルバムを買う経済力もなく、EP盤(直径17cm)の『マジカル・ミステリー・ツアー』を買った。これはシングル盤の大きさだが33回転の2枚組で6曲入り。ただし『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』『ペニー・レイン』の2曲は入ってない。The Fool On The Hillを聴きたいがために買ったものだが。当時LPは高価だった。
2017.08.13 (Sun)
From Dusk Till Dawn
当ブログでBABYMETALを採り上げるのは3回目ということになる。だからといって小生はアイドルのファンになったのかと勘違いしないでほしい。アイドルにはさらさら興味がない。でも不思議とBABYMETALだけは聴いてしまう。まあBABYMETALの場合日本の既存のアイドルとは随分異なるが・・・・。でもさくら学院の重音部から派生した立派なアイドルではあるが、先に海外で火がつき日本でも人気が追いかけると言った変わったグループではある。それというのもバックバンドが辣腕揃いで、そこへSU―METALこと中元すず香のVocalが脱アイドル級で本格的だったということから、かつてのロック好きオヤジ連中までが興味を持ったということだろう。でもCDを聴いてももう一つしっくりしない。楽器の音や効果音が煩さ過ぎるのだ。つまりBABYMETALはCDよりも遙かにステージの音の方が良いのである。それは以前にも書いたことがあるが、他のアイドルと違って明らかにLive向きであると言うこと。実に珍しいアイドルである。実際アイドルと言ったらスタジオ録音の方が良くてライブになると期待を裏切るほど酷い歌い手が多い。ところがBABYMETALはCDよりも間違いなくYou Tubeで観るLiveの方が良い。そして、その典型と思えたのが、6月にアメリカのハリウッドで行った単独公演でのFrom Dusk Till Dawn(日没から夜明けまでの意味)を聴いたときである。
この曲、2枚目のアルバムのEU盤に入っていて(日本盤はシンコペーション)、CDを聴く限りあまり印象に残らなかった。それがハリウッドでのLiveでこの曲を聴いて小生「うわ!」っと叫んでしまった。えっこんな曲あったと思うほど印象に残ったのである。それはSU-Metalがこの曲で絶叫した時に思った。やはりこの子はスタジオの中で歌わせるより広いホール、客が大入りのところで歌わせる方が良いと思ったからである。ではそのときに聴いたYou Tubeの映像をどうぞ。
追記 とうとうBABYMETALのジャズカバーをするバンドが現れた。これもまた面白い。それも『ギミチョコ』のジャズカバーだからね。こんな曲をよくジャズアレンジするもんだ。次はこのジャズカバーを載せようかな。
この曲、2枚目のアルバムのEU盤に入っていて(日本盤はシンコペーション)、CDを聴く限りあまり印象に残らなかった。それがハリウッドでのLiveでこの曲を聴いて小生「うわ!」っと叫んでしまった。えっこんな曲あったと思うほど印象に残ったのである。それはSU-Metalがこの曲で絶叫した時に思った。やはりこの子はスタジオの中で歌わせるより広いホール、客が大入りのところで歌わせる方が良いと思ったからである。ではそのときに聴いたYou Tubeの映像をどうぞ。
追記 とうとうBABYMETALのジャズカバーをするバンドが現れた。これもまた面白い。それも『ギミチョコ』のジャズカバーだからね。こんな曲をよくジャズアレンジするもんだ。次はこのジャズカバーを載せようかな。
2017.03.21 (Tue)
チャック・ベリーが亡くなった
先日、GS界の大御所かまやつひろしが亡くなったことを記事にしたと思うが、今度はロックンロール界の大御所チャック・ベリーが3月18日に亡くなった。90歳だったという。1926年生まれだから日本流で言うと大正15年である。この年は大正天皇が崩御した年でもあり一週間だけ昭和元年だった。アメリカ人なので関係ないけど大正生まれの生き残りと言うことになる。随分と昔の人なんだと驚いている。小生の母親世代だからな。
小生がチャック・ベリーの名を知ったのはビートルズのカバー曲によってである。『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ロックン・ロール・ミュージック』とパンチのある曲で、当初、ビートルズってこんな音楽ばかりかと思っていた時があって、オリジナルがチャック・ベリーと知ってビートルズもかなり影響を受けたのだなと後になって思ったものだ。だから当然、チャック・ベリーの全盛時代を小生は知らない。チャック・ベリーが颯爽と音楽シーンに現れたのは1950年代半ばだろう。この頃にロックンロールという音楽が席巻することとなる。それまでのゆったりとした音楽から、ビートのきいた煩い音楽(少なくとも当時の大人はそう思っただろう)が出現した。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で1955年にタイムスリップした主人公マーティが高校生のダンスパーティでエレキギターを手に持ってチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』を演奏して場内を唖然とさせる場面があったのを思い出すが、当時、ロックンロールは激しい音楽として扱われていたのだろう。
チャック・ベリーは1926年10月にセントルイスで生まれた。家は中流であり音楽には小さいときから接し聖歌隊に加わったり人前で演奏したりしていたものの、不良仲間の影響で悪事にも手を染め18歳から3年ほど感化院に入っている。当時は人種差別が公然としてあった時代でありやむを得ないところもあるだろう。ただ周囲の環境もあり素行の良い少年ではなかったようだ。
27歳の時サー・ジョン・トリオにギタリストとして参加。ここから彼のプロとしての音楽人生がスタートする。間もなくして彼がバンド・リーダーに変わるが、マディ・ウォーターズ(ブルースのシンガーでギタリスト)の口利きでレコードデビュー。『メイビリーン』(1955年)はいきなりの全米5位。この頃、時を同じくしてこういった激しいリズムの音楽を演奏するミュージシャンが大勢現れた。こrをロックンロールというようになるが、その創始者の1人がチャック・ベリーであり、また後生に最も影響を与えたのもチャック・ベリーだろう。最も当時で一番人気があったのはエルビス・プレスリーで日本にロカビリー・ブームが襲来するのはプレスリーの影響が大きい。でもロカビリーというのはどちらかというと白人音楽である。黒人のチャック・ベリーは同じロックンロールでもブルース色が強く白人の音楽であるカントリーの要素も含まれ、チャック・ベリー独自のサウンドを作り上げたのである。これは当時、出現したモダン・ジャズにも言えるが、商業音楽の変遷期であり、あたかも電気ギターが広まると同時にロックンロール文化が花咲いた最初の頃だろう。ビル・ヘイリー、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、カール・パーキンス等、大勢出現した。そんな中でチャック・ベリーの曲の持つ独自さは出色していたのだろう。プレスリーほどの大衆の人気は得れなかったものの後生のロック・ミュージシャンに与えた影響力を考えたら、チャック・ベリーこそがロックンロールの最初の偉大なるミュージシャンと言えるかもしれない。ただその後、アメリカでロックンロールは下火になる。1959年チャック・ベリーは少年時代の素行の悪さが出てしまい売春強要の容疑で3年間の刑務所暮らしを余儀なくされてしまい、彼が出所した頃、すでにロックンロールの時代は過ぎ去っていた。ところがチャック・ベリーの影響を受けた少年達の多くがイギリスでバンドを組み育っていた。ビートルズ、ローリング・ストーンズ等である。ジョン・レノンはチャック・ベリーのカバー曲をビートルズで録音しているし、ローリング・ストーンズのデビュー曲『カム・オン』もチャック・ベリーのカバーだった。こうして逆輸入という形でロックンロール・ブームが再びアメリカを席巻するようになる。ただしこのときはイギリスのバンドが主流になってしまっていた。でもビートルズやローリング・ストーンズの大活躍があって、チャック・ベリーがアメリカで再評価を受けるようになるという珍現象となった。そして現在、『ジョニー・B・グッド』『スウィート・リトル・シックスティーン』『キャロル』『リトル・クイニー』等、色々なミュージシャンのカバーによってチャック・ベリーの曲は現在でも愛され続けていた。日本でも内田裕也や矢沢永吉などは影響を受けているし、チャック・ベリーはまさにロックンロールの黎明期に現れた一等星だろう。
ジョン・レノンがチャックベリーと共演する。小野洋子もいる。
小生がチャック・ベリーの名を知ったのはビートルズのカバー曲によってである。『ロール・オーヴァー・ベートーヴェン』『ロックン・ロール・ミュージック』とパンチのある曲で、当初、ビートルズってこんな音楽ばかりかと思っていた時があって、オリジナルがチャック・ベリーと知ってビートルズもかなり影響を受けたのだなと後になって思ったものだ。だから当然、チャック・ベリーの全盛時代を小生は知らない。チャック・ベリーが颯爽と音楽シーンに現れたのは1950年代半ばだろう。この頃にロックンロールという音楽が席巻することとなる。それまでのゆったりとした音楽から、ビートのきいた煩い音楽(少なくとも当時の大人はそう思っただろう)が出現した。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で1955年にタイムスリップした主人公マーティが高校生のダンスパーティでエレキギターを手に持ってチャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』を演奏して場内を唖然とさせる場面があったのを思い出すが、当時、ロックンロールは激しい音楽として扱われていたのだろう。
チャック・ベリーは1926年10月にセントルイスで生まれた。家は中流であり音楽には小さいときから接し聖歌隊に加わったり人前で演奏したりしていたものの、不良仲間の影響で悪事にも手を染め18歳から3年ほど感化院に入っている。当時は人種差別が公然としてあった時代でありやむを得ないところもあるだろう。ただ周囲の環境もあり素行の良い少年ではなかったようだ。
27歳の時サー・ジョン・トリオにギタリストとして参加。ここから彼のプロとしての音楽人生がスタートする。間もなくして彼がバンド・リーダーに変わるが、マディ・ウォーターズ(ブルースのシンガーでギタリスト)の口利きでレコードデビュー。『メイビリーン』(1955年)はいきなりの全米5位。この頃、時を同じくしてこういった激しいリズムの音楽を演奏するミュージシャンが大勢現れた。こrをロックンロールというようになるが、その創始者の1人がチャック・ベリーであり、また後生に最も影響を与えたのもチャック・ベリーだろう。最も当時で一番人気があったのはエルビス・プレスリーで日本にロカビリー・ブームが襲来するのはプレスリーの影響が大きい。でもロカビリーというのはどちらかというと白人音楽である。黒人のチャック・ベリーは同じロックンロールでもブルース色が強く白人の音楽であるカントリーの要素も含まれ、チャック・ベリー独自のサウンドを作り上げたのである。これは当時、出現したモダン・ジャズにも言えるが、商業音楽の変遷期であり、あたかも電気ギターが広まると同時にロックンロール文化が花咲いた最初の頃だろう。ビル・ヘイリー、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、カール・パーキンス等、大勢出現した。そんな中でチャック・ベリーの曲の持つ独自さは出色していたのだろう。プレスリーほどの大衆の人気は得れなかったものの後生のロック・ミュージシャンに与えた影響力を考えたら、チャック・ベリーこそがロックンロールの最初の偉大なるミュージシャンと言えるかもしれない。ただその後、アメリカでロックンロールは下火になる。1959年チャック・ベリーは少年時代の素行の悪さが出てしまい売春強要の容疑で3年間の刑務所暮らしを余儀なくされてしまい、彼が出所した頃、すでにロックンロールの時代は過ぎ去っていた。ところがチャック・ベリーの影響を受けた少年達の多くがイギリスでバンドを組み育っていた。ビートルズ、ローリング・ストーンズ等である。ジョン・レノンはチャック・ベリーのカバー曲をビートルズで録音しているし、ローリング・ストーンズのデビュー曲『カム・オン』もチャック・ベリーのカバーだった。こうして逆輸入という形でロックンロール・ブームが再びアメリカを席巻するようになる。ただしこのときはイギリスのバンドが主流になってしまっていた。でもビートルズやローリング・ストーンズの大活躍があって、チャック・ベリーがアメリカで再評価を受けるようになるという珍現象となった。そして現在、『ジョニー・B・グッド』『スウィート・リトル・シックスティーン』『キャロル』『リトル・クイニー』等、色々なミュージシャンのカバーによってチャック・ベリーの曲は現在でも愛され続けていた。日本でも内田裕也や矢沢永吉などは影響を受けているし、チャック・ベリーはまさにロックンロールの黎明期に現れた一等星だろう。
ジョン・レノンがチャックベリーと共演する。小野洋子もいる。
2017.03.05 (Sun)
かまやつひろしが亡くなった
3月1日にムッシュこと・かまやつひろしが亡くなった。死因は膵臓がんだったという。それも何と78歳だったというから驚いた。かまやつひろしというと長い髪でひょうひょうとしてドラマに出ていたこともあり面白そうな人というイメージがあった。最初にかまやつひろしを知ったのは当然ザ・スパイダース時代である。昭和41年(1966年)にスパイダースの『夕陽が泣いている』のヒットによってである。これ以来テレビによく出るようになった。もちろんかまやつひろしは後ろでサイドギターを弾いていたのでそんなに目立つわけではない。目立っていたのはヴォーカルの堺正章と横でタンバリンを叩いていた井上順である。なにしろ7人組というから人数が多いなあと思った。こういった後にグループサウンズと呼ばれるようになるエレキギターのヴォーカルグループが出てきたのはこの辺りからだった。時を同じくしてブルー・コメッツの『青い瞳』『青い渚』もヒットしていたからグループ・サウンズの黎明期はこの頃になるのだろうか。またアマチュアの番組『勝ち抜きエレキ合戦』で優勝したザ・サベージも同じ頃出てきた。俳優・宇野重吉の息子(寺尾聰)がいるというので話題になった。そもそも日本でエレキバンドが流行出すのはザ・ヴェンチャーズが来日した後である。1965年だろうか。まだ歌謡曲と言い方が主流の時代でジャンル分けなんてなかった。それがアメリカからインストゥルメンタルのエレキバンド、ザ・ヴェンチャーズが来日して日本公演を行う。これに触発された若者の多くがエレキギターを手に取り演奏するようになった。このときに『勝ち抜きエレキ合戦』なんて番組がテレビで放映された。もう当時にビートルズやローリングストーンズ、アニマルズ、ビーチ・ボーイズの音楽も日本に入ってきていたが、ごくマニアの一部しか聴いていなかった時代である。多くの若者は日本のテレビで聴ける歌謡曲を主流に聴いていた。そして『勝ち抜きエレキ合戦』に出てくるバンドはイストゥルメンタルが主体でヴォーカル付きのバンドはほとんどなかった。日本のエレキブームはビートルズではなく飽くまでヴェンチャーズだったのである。そんな頃、すでにザ・スパイダースはヴォーカルをフィーチャーしたエレキバンドを組織してレコードを出していた。『フリフリ』がそうだがヒットにまで至らず知る人も少なかった。多くの日本人の若者は和製ポップスといわれるような歌謡曲の中でも洋楽風のサウンドを聴く人が増えてきた時代である。まだこの頃は演歌だとかいった形容もなく、商業音楽は全て歌謡曲。それ以外は洋楽と言われていた時代である。
さて1966年、日本の音楽シーンが大きく変わるようになる。ビートルズの来日である。それ以前からエレキブームは起こっていたが、ヴォーカル付きのエレキバンドが一躍若者に浸透していく。猫も杓子もエレキギターを弾きだし下手な歌を歌い始めた。また同時にフォークソング・ブームもやってくる。この頃が日本の商業音楽の一大転換期と言えるだろう。若者達が自ら作詞作曲をして歌い出すようになった。
ザ・スパイダースの話に戻ろう。ザ・スパイダースは田辺昭知が1961年に結成したバンドが元になっている。当時はブルー・コメッツにも言えるがバックバンドをやっていて目立つことはなかった。ところが1964年にリバプール・サウンドの洗礼を受け、スパイダースもそのサウンドを取り入れることになる。この頃に堺正章、大野克夫、かまやつひろし、井上順が加わり後のスパイダースの形となる。またこの頃だが後のワイルド・ワンズのリーダーだった加瀬邦彦もメンバーに名を連ねている。そして1965年にアルバムやシングル『フリ・フリ』を出すも大ヒットせず、結局、彼等が有名になるのは歌謡曲の大御所作曲家・浜口庫之助の『夕陽が泣いている』によってである。しかし、その次にはかまやつひろしの作曲による『なんとなくなんとなく』がヒットして、やっとスパイダースらしい音楽が出来るようになり人気も上がっていった。当時、このグループ・サウンズの御三家というのはスパイダース、ブルー・コメッツ、サベージであった。それがである1967年に入りタイガースがデビュー、さらにワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、カーナ・ビーツ、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、オックス等、雨後の竹の子のようにバンドが現れ、瞬く間にスパイダースやブルー・コメッツ、サベージは目立たなくなってしまう。これをグループ・サウンズというようになり、エレキ=不良と言うレッテルを貼られるようになった。彼等の多くは長髪でまたオックスの赤松愛のように演奏中失神するといったこともあった。これで大人達の間ではGSへの風当たりがだんだんと強くなっていった。ブルコメ以外のバンドは紅白歌合戦に呼ばれなかった。まさに大人と若者との間に亀裂が生じだした最初の時代だろ。子供から一気に大人になるのではなく、その過程で若者の文化が芽生えていた。それまでの歌謡曲を言うのは世代間関係なく聴いていたが、この頃から若者が聴く音楽と大人が聴く音楽に分れていき、またそれぞれのジャンルが出来ていった。しかし、グループ・サウンズというのはまさにバブルであった。正直の話ブームは2年ほどしかなく、1969年にはGSブームは去っていて、代わりにフォークソングを歌う若者の方が主流であった。
ところでかまやつひろしであるが、彼は父がディーブ釜萢という有名なジャズシンガーであり、その息子と言うことで外国の音楽に子供の頃から傾倒していた。スパイダース時代も彼の作曲による『バン・バン・バン』『ノー・ノー・ボーイ』『あの時君は若かった』『いつまでもどこまでも』の曲がヒットしている。スパイダースはGS人気が消滅した1970年に解散。かまやつひろしはソロ活動を行うが、合間にテレビ出演。ドラマ『時間ですよ』の風呂焚きの釜田さん役は良い味を出していた。音楽活動も盛んで『シンシア』『我が良き友よ』ヒット曲もあり、その後も色んなところで目にしたのだが突然の訃報で驚いた。昨年の秋に肝臓癌が見つかってから体調が急激に悪くなったのだろう。
音楽的な素養については父・ディーブ釜萢からの影響もあるだろうが、母方の影響もある。従兄弟はフォーク・シンガーの森山良子だし、従甥は森山直太朗。また叔母はジャズ・シンガーの浅田陽子。従姪は元歌手の森山奈歩という音楽ファミリーである。こういった環境下からかまやつひろしは出てきたのである。羨ましくもあるが出るべくして出てきたような人なんだと思った。それにしてもかまやつひろしって78歳で死去ってことは、スパイダースで堺正章や井上順と歌の合間のコントをやっていた頃は30に近かったんだ。随分と気の若い人だったんだってことに正直驚いている。
『あの時君は若かった』この曲を聴くと、若かった頃に心から戻りたくなる。小生も年とって最近は少年時代を懐かしむようになった。
さて1966年、日本の音楽シーンが大きく変わるようになる。ビートルズの来日である。それ以前からエレキブームは起こっていたが、ヴォーカル付きのエレキバンドが一躍若者に浸透していく。猫も杓子もエレキギターを弾きだし下手な歌を歌い始めた。また同時にフォークソング・ブームもやってくる。この頃が日本の商業音楽の一大転換期と言えるだろう。若者達が自ら作詞作曲をして歌い出すようになった。
ザ・スパイダースの話に戻ろう。ザ・スパイダースは田辺昭知が1961年に結成したバンドが元になっている。当時はブルー・コメッツにも言えるがバックバンドをやっていて目立つことはなかった。ところが1964年にリバプール・サウンドの洗礼を受け、スパイダースもそのサウンドを取り入れることになる。この頃に堺正章、大野克夫、かまやつひろし、井上順が加わり後のスパイダースの形となる。またこの頃だが後のワイルド・ワンズのリーダーだった加瀬邦彦もメンバーに名を連ねている。そして1965年にアルバムやシングル『フリ・フリ』を出すも大ヒットせず、結局、彼等が有名になるのは歌謡曲の大御所作曲家・浜口庫之助の『夕陽が泣いている』によってである。しかし、その次にはかまやつひろしの作曲による『なんとなくなんとなく』がヒットして、やっとスパイダースらしい音楽が出来るようになり人気も上がっていった。当時、このグループ・サウンズの御三家というのはスパイダース、ブルー・コメッツ、サベージであった。それがである1967年に入りタイガースがデビュー、さらにワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、カーナ・ビーツ、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、オックス等、雨後の竹の子のようにバンドが現れ、瞬く間にスパイダースやブルー・コメッツ、サベージは目立たなくなってしまう。これをグループ・サウンズというようになり、エレキ=不良と言うレッテルを貼られるようになった。彼等の多くは長髪でまたオックスの赤松愛のように演奏中失神するといったこともあった。これで大人達の間ではGSへの風当たりがだんだんと強くなっていった。ブルコメ以外のバンドは紅白歌合戦に呼ばれなかった。まさに大人と若者との間に亀裂が生じだした最初の時代だろ。子供から一気に大人になるのではなく、その過程で若者の文化が芽生えていた。それまでの歌謡曲を言うのは世代間関係なく聴いていたが、この頃から若者が聴く音楽と大人が聴く音楽に分れていき、またそれぞれのジャンルが出来ていった。しかし、グループ・サウンズというのはまさにバブルであった。正直の話ブームは2年ほどしかなく、1969年にはGSブームは去っていて、代わりにフォークソングを歌う若者の方が主流であった。
ところでかまやつひろしであるが、彼は父がディーブ釜萢という有名なジャズシンガーであり、その息子と言うことで外国の音楽に子供の頃から傾倒していた。スパイダース時代も彼の作曲による『バン・バン・バン』『ノー・ノー・ボーイ』『あの時君は若かった』『いつまでもどこまでも』の曲がヒットしている。スパイダースはGS人気が消滅した1970年に解散。かまやつひろしはソロ活動を行うが、合間にテレビ出演。ドラマ『時間ですよ』の風呂焚きの釜田さん役は良い味を出していた。音楽活動も盛んで『シンシア』『我が良き友よ』ヒット曲もあり、その後も色んなところで目にしたのだが突然の訃報で驚いた。昨年の秋に肝臓癌が見つかってから体調が急激に悪くなったのだろう。
音楽的な素養については父・ディーブ釜萢からの影響もあるだろうが、母方の影響もある。従兄弟はフォーク・シンガーの森山良子だし、従甥は森山直太朗。また叔母はジャズ・シンガーの浅田陽子。従姪は元歌手の森山奈歩という音楽ファミリーである。こういった環境下からかまやつひろしは出てきたのである。羨ましくもあるが出るべくして出てきたような人なんだと思った。それにしてもかまやつひろしって78歳で死去ってことは、スパイダースで堺正章や井上順と歌の合間のコントをやっていた頃は30に近かったんだ。随分と気の若い人だったんだってことに正直驚いている。
『あの時君は若かった』この曲を聴くと、若かった頃に心から戻りたくなる。小生も年とって最近は少年時代を懐かしむようになった。
2017.02.18 (Sat)
サンタナのアルバム『アブラクサス』を聴く

このアルバムは日本では『天の守護神』というタイトルで発売された。1970年のことである。ラテン・ロック・グループのサンタナが出した二枚目のアルバムである。そもそも結成は1966年と古く当初は知名度もなかった。そのときはサンタナ・ブルース・バンドと称していた。その名の通りリーダーのカルロス・サンタナが中心メンバーである。その後、1969年にサンタンと改名し有名なウッドストックに出演し名が知れ渡っていき、翌年に出された当アルバムが大ヒットした。何とビルボード・チャートのアルバム部門で第1位を獲得したのである。この中に収録されている『ブラック・マジック・ウーマン』『オジェ・コモ・バ』がシングルヒットし日本でも有名なバンドとなった。そして翌年には早くも来日したものだ。当時、海外のロックバンドの来日が多く、人気が出るとすぐに来日していたような気がするが、サンタナのようなラテン・ロックというのも珍しく、マニアもかなりいたように思う。ハード・ロックが主流で、ブラス・ロック、ブルース・ロック、カントリー・ロック、フォーク・ロック、そしてプログレッシヴ・ロックとか色々あったと思う。そんな中でサンタナもラテン・ロックの先駆けであろう。ただサンタナの音楽の特色はインストゥルメンタルが多いと言うこと。当アルバムは9曲収録されているが何と5曲がインストゥルメンタル曲。結局、ボーカルの入っている2曲目、3曲目がシングルとして売りだされ何れもヒットしたのであった。
当時のメンバーは6人でリーダーでギター、ヴォーカルのカルロス・サンタナ。キーボード、リード・ヴォーカルのクレッグ・ローリー。ベースのデイヴ・ブラウン。ドラムスのマイケル・シュリーヴ。そこへホセ・チェピート、マイケル・カラベロと2人のパーカッションが加わっている。アルバムを聴けば判ると思うが絶えずパーカッションが響いている気がするのはそのためだ。実にラテン風バンドであり音色もそれらしいものがある。
ところでこのアルバムを制作している頃、カルロス・サンタナはマイルス・デイヴィスと知り合いとなり影響を受けることとなる。ある日、『アブラクサス』の制作中にマイルスから電話があったという。サンタナは色々と「学んでいる」というような内容の返事をしたらしいがその影響下からインスルメンタルが多くなったのかもしれない。ジャズ的要素はあまり感じられないアルバムではあるが何処かで以前よりは感じられるのでもある。また、この頃のマイルス・デイヴィスもロック的要素が強くなり互いに意識するようになったのかもしれない。この頃のサンタナの連中は自分たちの過去のサウンドが気に入ってなかった。前作のアルバム制作から既に1年以上経過し、新たなサウンドを模索していたときだけにマイルスとの対話はいくらか参考になったのかもしれない。
ところでヒットした『ブラック・マジック・ウーマン』はイギリスのブルースバンド、フリートウッド・マックのピーター・グリーンのカバーであり、『オイジェ・コモ・バ』はラテンの巨人ティト・プエンテの曲である。でも共に見事にカルロス・サンタナ風のサウンドに仕上がっている。ティト・プエンテはサルサやラテンジャズの発展に貢献した人だが、サンタナの演奏ではブルース・ロックがラテン・ロックに変わりティト・プエンテの音楽にロックを上手く融合させている。ただこのアルバムも日本では時期尚早だった感は否めず、後のフュージョンなんかもそうだが、ヒット曲以外のインスルメンタルは嫌いだという人が多かった。その後、このアルバムが評価されるようになったのは後年になってからであろう。それだけサンタナは時代の先を行っている音楽を当時からやっていたのである。
Black Mgic Woman