2007.12.31 (Mon)
ベートーヴェンの交響曲第9番を聴く
シュワルツコップ(ソプラノ)、ヘンゲン(コントラルト)、ホップ(テノール)、エーデルマン(バス)
1951年7月29日、バイロイト祝祭劇場におけるライブ録音
今年の最後、大晦日における記事は恒例の第九である。恒例というと語弊があるが、日本国内では師走のコンサートといえばベートーヴェンの第九というのがお決まりである。いつからこんな慣習が出来上がったのか知る由も無いが、第九となると人が入るので、正月の餅代として第九を演奏するようになったという。でもオーケストラと合唱団とソリスト含めて200人近くなる大編成のこの大曲をこれだけ持て囃す国も珍しいといえるだろうが、とにかく日本人は第九が好きなのである。好きだから人が入る。でも4楽章の合唱部分しか知らない人が多くて、困惑することがあるが、それにしても長い曲である。演奏時間は指揮者によって異なるが、カラヤンのような恰好をつける指揮者は60数分で演奏を終えるが、昔のトスカニーニも演奏時間は短かった。一方でクレンペラーや晩年のベームは演奏時間が長くて、80分を超える場合もある。
そういえば昔、CDが世に出るとき、CDの直径を何cmにするかという問題になって、演奏時間が60分で終わる直径にしようということになったが、その大きさが11.5cmだった。ところがこれだとベートーヴェンの第九が一枚に入らない。それで第九の長さが基準になったという話が伝わっている。でも指揮者によって演奏時間が違うのでは話にならない。それでその規格に適ったのがフルトヴェングラー指揮のバイロイト盤だという。その盤こそが上の写真にあるCD化されたフルトヴェングラー指揮のバイロイト盤である。そして、CDの長さは約74分~75分が収録できて直径が12cmに決まったという謂れがある(本当かな・・・)。
ところでこのベートーヴェンの第九ほど雄大で荘厳な交響曲も無いだろう。後にマーラーのような作曲家が出現して、『千人の交響曲』なんてものを世に出したが、所詮は二番煎じのような趣があって、19世紀初頭にこれほど斬新で巨大な曲を作ったベートーヴェンという人の偉大さは、後年の作曲家を考えるとやはり抜きん出ていると思える。
古典派にベートーヴェンは属する作曲家ではあるが、後のロマン派にまで影響を残し、シューベルトやブラームスを以てしても超えられる壁ではなかった。まさに音楽界に燦然と輝く大作曲家なのである。そのベートーヴェンが生涯を通して行き着いた芸術の最高点になるべき交響曲が第九なのである。
そもそも楽聖ベートーヴェンがシラーの詩に曲をつけることは30年も前から考えていたらしいが、合唱付きの4楽章交響曲となって結実したのは1823年のことであった。初演は翌年、ウィーンのケルントナートール劇場で行われ、ベートーヴェンは総監督として舞台上で管弦楽の方を向いて楽譜を眺めていたという。しかし、この時ベートーヴェンは既に聴力を失っていて、奏でられる音が聴こえるはずはなかった。それが第2楽章の終わりか全曲の終わりか定かではないが、万雷の拍手が聞こえぬベートーヴェンが、相変わらず楽譜を眺めていたところ、アルトのウンガー女史がベートーヴェンの袖をひいて観衆の方を振り向かせたという。べートーヴェンはここではじめて観衆が拍手喝采をしていることに気がつき、静かに聴衆に向かって答礼したという逸話が残されている。
初演から大成功だった第九は、その後、『歓喜の歌』が一人歩きし、第4楽章のみが有名になってしまった感がある。かつて私の小学生の頃は、日本語の歌詞がつけられ・・・・・晴れたる青空 漂う雲よ・・・なんて歌ったものである。ただ、一言言わせて貰うならば、日本ほど第九が好きな国も無い。ドイツでは滅多に演奏されないのが第九であって特別な曲なのである。それに比べると、日本の師走というのは、第九、第九、猫も杓子も第九・・・。日頃、クラシック音楽に縁の無い人までが、第九の演奏会に行くし、また第九を歌おうとばかり、Freude, schoner Gotterfunken, tochter aus Elysium・・・カタ仮名で覚えるというから何とも芸が細かい。
何故に日本人がこんなに第九が好きなのか・・・。色々と考えてみたが、ベートーヴェンの交響曲というのは、艱難辛苦から解き放たれるといった図式が成り立つのである。5番にしろ6番にしろそうである。憂鬱からやがて爆発する5番。嵐の後の喜びと感謝を表現している6番。それと同様で、第九は苦悩を抜けて歓喜にいたるといった人間の精神的真理を強調したような曲だからではないだろうか・・・。よく日本人は勧善懲悪の話が好きだという。最後には悪代官が水戸黄門の印籠によって仕留められる。最後に悪は滅びる。正義は勝つのである。
鞍馬天狗はやって来る・・・月光仮面はやって来る・・・ウルトラマンもやって来る・・・最後に勝つのは必ず正義である。よく第九は忠臣蔵に例えられる。吉良上野介により浅野内匠頭が切腹させられ、お家断絶、領地没収となり、路頭に迷った挙句、浪人生活を強いられた大石内蔵助以下47士が、とうとう艱難辛苦の末、吉良上野介の宅に討ち入り目的を果す・・・。まさに日本人のメンタリティーと上手く符合するのが、ベートーヴェンの第九なのである。したがって日本全国の何処かで、今日も第九の演奏会は催されるのである。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団及び合唱団による第九の演奏 1942年4月20日、ヒトラーのバースデーを祝うナチス政権下での演奏会。第4楽章終盤。
胡散臭いナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの顔も一瞬窺える。
アトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC交響楽団・合唱団による第九の演奏 第4楽章 205小節~638小節まで
2007.12.30 (Sun)
ビリー・ホリディを聴く
ジャズ史上最高のシンガー、不世出のジャズ・シンガーと賛辞されるビリー・ホリディの生涯は短かった。私がビリー・ホリディの名を知るのは高校生の頃である。それも映画『ビリー・ホリディ物語』を観てからのことで、元シュープリームスのダイアナ・ロスが演じるビリーを見て、随分と波瀾万丈な人生を送った女性ジャズ・シンガーがいるものだと呆気にとられた覚えがある。
映画でのビリー・ホリディは、15歳の父と13歳の母との間に生まれ、6歳にして売春宿で働いたという。楽しみといえば仕事の合間に聴く宿屋のラジオとレコードだけ。15歳の時にはレイプされ人生が狂い始める。その後、母を追ってニューヨークへ行き、夜の街角に立つ生活を強いられる。やがてクラブの主人が彼女をスカウトし、歌手として生活を始めるが、麻薬、人種差別、療養、服役・・・ありとあらゆる苦渋を体験し、1959年、僅か44歳でこの世を去る。
映画の内容そのものは、その後、ビリー本人の脚色が入っていることが確認されるが、10代同士の間に生まれたことは確かなようで、現実には映画と似たような境遇の中で、ビリー・ホリディは育っている。
1915年4月7日、フィラデルフィア出身で、ボルチモアで育ったというが、貧しさゆえに人並みの教育を積んでなく、ただ歌があるのみであった。そんなビリーが最初にレコーディングした時の仲間は、何とベニー・グッドマン楽団だった。でも、なかなかブレークするまでに至らず、2年程してからレコードも売れ出し、人気ジャズ楽団の専属シンガーとして活躍するようになった。また、その頃にはカウント・ベイシー楽団のサックス奏者レスター・ヤングから音楽的に多大な影響を受け、モダン・ジャズ・ヴォーカルの始祖として呼ばれるようになった。かすれた声で切々と歌うビリー・ホリディは、名声を高める一方で、麻薬、アルコール依存症に蝕まれ、悲劇的な人生が突然幕を下ろした時、後に残ったものは公民権運動だった。
よく言われるが、ビリー・ホリディほど、人種差別を受けたシンガーも少ないだろうと思える。彼女は白人オーケストラと仕事をした最初の黒人女性だったのだから、その苦労は並大抵なものではなかった。そんな彼女の代表作であり、最高傑作ではないかともされる曲が『奇妙な果実』(Strange Fruit)であろう。
1939年、ルイス・アレンという高校教師が一篇の詩を綴る。それを読んだビリーは強く心を動かされる。それが『Strange Fruit』だった。人種差別とリンチによって殺された黒人が、木に吊るされたアメリカ南部のおぞましい光景。この強烈な詩は、ビリーの死んだ父を思わずにはいられなかったのだ。
Southern trees bear strange fruit
Blood on the leaves and blood at the root
Blacks bodies swinging in the southern breeze
Strange fruit hanging from the poplar trees
Pastoral scene of the gallant south
The bulging eyes and the twisted mouth
Scene of magnolias sweet and fresh
Then the sudden smell of burning flesh
Here is fruit for the wind to suck
For the sun to rot for the trees to drop
Here is a strange and bitter crop
(訳)
葉には血が 根にも血を滴らせ
南部の風に揺らぐ黒い死体
ポプラの木に吊るされた奇妙な果実
美しい南部の田園に
飛び出した眼 苦痛に歪む口
マグノリアの甘く新鮮な香りが
突然肉の焼け焦げた臭いに変わる
カラスに突かれ 雨に打たれ
風に弄ばれ
太陽に朽ちて 落ちていく果実
奇妙で悲惨な果実
歌詞の意味を知って、その残酷さに頭を抱えたくなった時、私はビリー・ホリディという薄幸なあるシンガーの生き様を考えた。何処か翳があって、シンガーとしては異色に思えたのは、彼女の生い立ちと、その境遇にあるのだと悟った。・・・結果として、酒と麻薬に溺れ、挙句の果てに我が身を滅ぼしてしまった。
ところで、ビリー・ホリディという唯一無二のシンガーを語るとき、どうしても負のイメージばかり思い浮かべてしまい、結局は彼女の音楽性だとか、歌いっぷりに話が行かないのは、まことに残念であるが、癖のある声と歌い方は、最初に聴いた人には違和感があると思う。でも聴きなれてくるなり、彼女が稀代のジャズ・シンガーであることに気がつくのである。
『奇妙な果実』(Strange Fruit)を歌うビリー・ホリディ
サッチモ(ルイ・アームストロング)と"The Blues Are Brewin"を歌うビリー・ホリディ
2007.12.29 (Sat)
プロコフィエフを聴く・・・・・『ロメオとジュリエット』
マイケル・ティルソン・トーマス指揮 サンフランシスコ交響楽団
残念ながら昨日は更新できなかった。年末、最後の仕事で、仕事が終了するや仲間と飲んでいたら、帰宅が大幅に遅れてしまった。それで、更新出来なくなってしまったので、今日、更新いたします。
今日はプロコフィエフのバレエ音楽『ロメオとジュリエット』を聴いた。このシェークスピアの有名な物語は、数々の作曲家が音楽で表現しているが、プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』はバレエの曲である。そもそも1935年にセルゲイ・プロコフィエフがバレエ用に52曲からなる曲を作曲した。ところが、その後、彼自身による組曲が編成された。したがって、現在はコンサートで演奏されるのは組曲の方である。
ところで私が、何故、膨大なクラシックの曲の中から、ブログの題材にプロコフィエフの『ロメオとジュリエット』をわざわざ選んだかというと、最近、このバレエ曲の中からある1曲だけがクローズアップされて、巷でよく聴かれるからなのである。たとえば、少し前になるが、ソフトバンク・モバイルのCMでその曲が流れていたし、電車待ちをしていた時、クラシック音楽など皆目、知らなさそうな女子高校生の携帯の待ち受け曲が鳴った。よく聴くと、やはりその曲であった。なんで、プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』の中の、その一曲だけがこんなに知れわたっているのかと、色々探ってみたら、原因が判明したのである。
あるCD売り場でのことである。私は用も無く、CD売り場で掘り出し物を物色するのは、よくあることであるが、その時、近くで女子学生風の2人組みが、クラシックの曲を懸命に探していた。ところが、どの曲を買ったらいいのか判らず、店員に尋ねていた。だが、この店はポップスがメインなので、あまりクラシック音楽に通じている人がいなかった。それで、すぐ隣にいた私が気になって、何を探しているのか思わず聞いてしまった。すると女性の片方が探している曲のメロディーを口で奏でたのである。それはまさに、プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』の中の第1幕第2場第13曲『騎士たちの踊り』であった。でも一般的には、組曲『ロメオとジュリエット』の『モンタギュー家とキャビュレット家』の方が知れわたっている。このプロコフィエフの『ロメオとジュリエット』は、全曲で軽く1時間を超える大曲であるが、『モンタギュー家とキャビュレット家』は、5分程度の曲である。
彼女達は私に礼を言ったが、私は何でそんな曲を知っているのかと尋ねてみたら・・・・どうやらテレビのドラマの影響であることがわかった。『のだめカンタービレ』という漫画が原作のドラマの中で、テーマ曲として頻繁に流れていたというのである。確かにドラマチックな曲ではあるが、この頃は、CMやドラマでクラシックの曲の一部がよく使われていことがある。でもほとんどの人は、知らないのだろうなあと思いながら私は聴いているが・・・・。そういえば、日本で行なわれたサッカーのワールド・カップでヴェルディのオペラ『アイーダ』の中の凱旋行進曲を日本の応援歌としてサポーターが使っていたし、去年のトリノ冬季オリンピックで、荒川静香選手が演技中に使った曲がプッチーニのオペラ『トゥーランドット』の中の『誰も寝てはならぬ』だったが、それ以来、あの曲を買い求める人が急激に増えたという。でも、『誰も寝てはならぬ』はインスルメンタルではなく、歌がついている。
・・・・Ma il mio mistero e chiuso in me.il nomme mio nessun sapra !・・・・・どうせなら、このアリアだけでなく、全曲のオペラを聴いて欲しいと思う。でも長くて眠ってしまうだろうけど・・・・・・。しかし、プロコフィエフの『ロメオとジュリエット』にしても全曲は長い。部分の曲が取り上げられて、その曲だけが有名になることは多いが、やはりその曲も全曲の中の構成された一部であるということを考えてもらいたい。モーツァルトの『トルコ行進曲』も好きな人は多いが、この曲もピアノ・ソナタの一つの楽章であるし、ビリー・ジョエルのヒット曲『This Night』のサビのところは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『悲愴』の第2楽章だということを知っている人はどれだけいるのか・・・。
つまりクラシック音楽の長い曲の部分を抜き出して、歌詞さえ当てはめれば、幾らでもポップスの曲は作れるということを考えてもらいたいのだ。ここでその例を並べても意味が無いので、差し控えるが、クラシック音楽の曲はとてつもなく長いということ。だからその一部分だけがクローズアップされるのだろうが、CDの70分ぐらいある曲の中で、僅かに4分や5分のその一曲だけを聴いて、あとは知らないという人が多いのだろうなあと・・・・・・私は何かやるせない気になったのである。
ピアノが奏でるプロコフィエフの『ロメオとジュリエット』から『モンタギュー家とキャビュレット家』
2007.12.27 (Thu)
梅酒『はんなり』を飲む
久々に梅酒を飲んだ。余り甘い酒は好きではないが、テレビのCMで「さーらりとした梅酒」という文句が耳について、何となく梅酒が飲みたくなったのである。それで、梅酒というと『蝶矢の梅酒』が酒屋で売っているが、これだと在り来たりでつまらない。どうせなら、あまり見かけない梅酒が飲みたいなあと思って、先日、焼酎専門店で見つけた梅酒『はんなり』を買って来た。
この『はんなり』は名前の通り、京都は伏見の酒造会社が出した梅酒で、和歌山の完熟「南高梅」を厳選し、2年貯蔵の「本格的・米焼酎はんなり」に漬け込んだ本格的な梅酒である。京言葉で、上品で華やかな様を表す「はんなり」の通り、甘みを抑えた爽やかな口当たりである。
ちなみに内容量は720mlで、アルコール度数は13度である。一般的に梅酒は、青梅をホワイトリカー(甲類焼酎)やブランデー、ウォッカ、ジン、ラム酒等に漬け込んだ酒のことをそのように呼ぶが、この「はんなり」は、創業明暦3年(1657年)の北川本家が製造したリキュールである。
ところで日本の清酒だと一般的に兵庫の灘(なだ)と京都の伏見が有名であるが、灘と伏見の違いは水にあるといわれる。灘は「宮水」とされる比較的硬度の高い水で仕込まれているから、しゃんとした辛口の酒である。一方、伏見の清酒は、日本名水百選のひとつ御香水(ごこうすい)で仕込まれる。この御香水は鉄分を含まず、カリウム、カルシウム等をバランスよく含んだ中硬水で、酒造りに最も適しているとされ、「灘の男酒」「伏見の女酒」とされ、伏見の酒は灘の酒に比べると、やや甘口である。
伏見は、現在でこそ京都市伏見区であるが、昭和6年までは伏見市として独立していた。かつて豊臣秀吉が築いた伏見城の城下町として発展し、徳川の世になってからは、東海道57次(東海道53次とは京都までを言う)の宿場町でもあった。この伏見の次が淀で、この次が、枚方、守口、そして大坂であった。
さて、この梅酒「はんなり」を飲みだしたのはいいが、口当たりが柔らかくて、知らぬ間にグラス四杯を飲んでいた。食べるものもなく、ただ梅酒だけを飲んでいたら、なんだか眠たくなってきた。それで、これ以上、書き続けるのが億劫になってきたので、そろそろ終わりにしようと思う。そもそも食欲を誘うのが梅酒の役割でもあるが、眠気までを誘うとは思わなかった。・・・・本当に・・・私もこのところずいぶんと酒に弱くなったなあと思う・・・・・。
2007.12.26 (Wed)
山崎蒸留所のロゴマークが・・・・・・
1923年にサントリーの創業者である鳥井信次郎が、京都と大阪の府境にある山崎にウイスキーの蒸留所を建てたのが始まりである。その山崎蒸留所は、JR東海道線の山崎駅から西へ500mほど歩いたところにある。したがって所在地は大阪府三島郡島本町山崎なのである(山崎駅のホームは5分の4が京都府で残りが大阪府である)。
ところで何故、この地でウイスキーの蒸留が始まったのかというと、ウイスキーの製造に向いていたからである。この山崎というところは、天下分け目の天王山の麓にあり、ちょうど桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川と名前が替わる側にある。それで、三つの川の水温の違いで絶えず霧が発生し、それでいて気候は温暖、狭隘な地形とウイスキー製造にもってこいの条件が揃っていたのである。さらには、山崎は千利休が茶室の国宝『待庵』を建てたことでも知られるとおり、日本名水百選に選ばれている水無瀬神宮の離宮の水と同じ地下水源を持っている。だから気候といい、地形といい、水といい、ウイスキーの蒸留所を建てるのに適していたということになる。
さて、サントリー山崎蒸留所の説明にここまでスペースを割いたが、私にとってはこの風景、毎日々々、通勤時に電車で通過する毎にお目にかかっている景色であり、別に珍しいことではないが、今回、記事にしようと思ったのは、蒸留所の正面に画かれていたロゴマークが替わっていたからである。
この前から、足場が組まれて工事をやっているなあと思っていたら、何と今度は山崎の文字がロゴマークとして使われていた。この蒸留所で作って予約販売されている高級ウイスキー『山崎』のロゴマークである。『山崎』には10年、12年、18年、25年、50年とあって、山崎50年は一本100万円する超高級ウイスキーである。サントリーには山崎蒸留所以外に、南アルプス近くに白州蒸留所(山梨県)があるが、こちらは1973年の設立と歴史が新しく、まだまだ高級ウイスキーをブレンドするほど貯蔵時間が経過していない。だから、日本でこれだけの高級ウイスキーが販売されるのは、山崎蒸留所だけといえるだろう。ところで、今回、蒸留所のロゴマークが『山崎』に替わったが、この前までは金色に輝く『響』のロゴマークであった。また、その前は長い間、サントリーのロゴマークとして使われていた『向かい獅子』のロゴマークが正面に画いてあったものである。
私は子供の頃から、大阪へ行く時には国鉄にせよ、阪急にせよ、必ず電車で通過する時に眺める風景なので、よく覚えている。後年に引っ越して、どういうご縁か、山崎蒸留所からさほど遠くないところに住むことになったが、やはり風光明媚で静かでのどかで、喧騒からかけ離れた緑豊なところだと思う。だから私は、生まれてこの方、最も長く住み着いていることになる。
建物の正面の白い壁面に山崎の文字が・・・以前は、金色に輝く響のロゴマークが、それ以前は、向い獅子のロゴマークであった。
蒸留所の側には大きな倉庫がある。その前をJR東海道線が走っている。この付近、鉄道写真の有名な撮影スポットであり、よく鉄道マニアが大勢かけつけて写真を撮っている。
この光景はサントリーのCMでよく見かける。よく京都郊外山崎で・・・・というが、現実での所在地は大阪府である。でもここは、大阪の中心街に行くよりも京都の中心街に行くほうが近いところなのである。
山崎蒸留所の正面の壁面には、この前までグラスにも画いてある響のロゴマークが画かれてあった。
山崎蒸留所の裏山は天王山である。天王山の中腹に上がると、そこからは大阪市内の超高層ビル群のシルエットが拝めるのである。ここからだと直線で30km先が大阪の中心街である。
坂本龍一の出ているサントリー山崎のCM。
2007.12.25 (Tue)
オスカー・ピーターソン逝く
ジャズ界の巨人オスカー・ピーターソンが亡くなった。23日にカナダのトロント郊外の自宅で腎不全のため亡くなったと言う。82歳だった。
オスカー・ピーターソンは1925年にカナダのモントリオールで生まれ、幼少の時、父ダニエル・ピーターソンから音楽の手ほどきを受け、最初はトランペットとピアノの両方を学んでいたが、7歳の時に結核にかかり、ピアノだけに専念するようになる。彼は上達が早く、14歳で既に地元のコンテストに出場して入賞するまでになっていた。ただし、この頃はクラシック・ピアノであり、クラシック曲でも抜群のテクニックを披露していた。
17歳の頃、ラジオから流れ出るジャズの音に興味を持つようになる。やはり彼には黒人の血が騒いだのたろうか、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスビー、ナット・キング・コール、エロル・ガーナーの音楽を聴いて自分の腕を磨いたという。
20歳前にはトロントのナイトクラブでピアノを弾くまでになっていて、1949年にはジャムセッションでの公演に参加し、名を知られるようになった。そして、その翌年にニューヨークのカーネギー・ホールのステージで演奏し、全米にオスカー・ピーターソンの名を轟かせることになる。
オスカー・ピーターソンはジャムセッションに参加した頃から、ビッグバンドではほとんど演奏せず、卓越したピアノソロが引き立つスモールコンボで演奏することが多かった。全米にその名が知れわたった1950年には、元MJQのベーシスト、レイ・ブラウンとデュエットする。翌年にはドラムのチャーリー・スミスを加えてオスカー・ピーターソン・トリオを結成し、このトリオでの録音が多数残されている。その後、メンバーの入れ替えがあり、ギタリストのバーニー・ケセルと組んだ時や、ドラムのエド・ジクペンと組んだ時などは見事な演奏を残している。オスカー・ピーターソン・トリオとしては1966年まで続き、この時代から70年代へとジャズシーンが劇的に変化する中でも、流麗でスタイリッシュなピアノ演奏を続けていた。
1980年代は主にソロ演奏中心であるが、トリオでの活動、セッションでの参加と活躍していたが、腱鞘炎をも患っている。1993年には脳梗塞で倒れるが、リハビリして片手でも演奏をしていた。1999年には音楽部門で世界文化賞を受賞。2005年にはカナダ国内で存命中の人物として初めて記念切手となり、とうとう12月23日の夜、彼は帰らぬ人となった。クリスマスイブの前日であった。
私がオスカー・ピーターソンに対するイメージというのは、とにかく超絶技巧のピアノ弾きという印象で、作曲もするが、どちらかというと既存の曲を彼独自のスタイルで、スウィング感溢れる演奏を貫き通す。スタンダード曲のアドリブにしても、曲の骨格は崩さずにいて見事にまで再構築している。よく曲の旋律が原形を留めないまで、アドリブ演奏で、装飾したり削ったりするピアニストがいるが、オスカー・ピーターソンはあくまでもオーソドックスなスタイルでいて、ジャズの真髄を失わず聴かせどころを心得ている。
ところで彼が崇めていたピアニストというのは片目のアート・テイタムであると言われるが、最も影響を受けたのが後にシンガーとして活躍するナット・キング・コールというから不思議な気がする。また、彼はピアノの皇帝らしく、典雅な演奏をするが、伴奏者としても定評があり、他の奏者に合わせる事もお手の物なので、共演者が多く、これまでカウント・ベイシー、ディジー・ガレスビー、ナット・キング・コール、テディ・ウィルソン、ミルト・ジャクソン、スタン・ゲッツ、サラ・ヴォーン等と、数々の名演を残している。でもオスカー・ピーターソンは、玄人好みのピアニストではなかった。だけど、彼の演奏は判りやすくジャズの入門者が聴いてもすぐに好きになれる。彼の残された録音を聴くと、驚くべき傑作もないが、かといって凡作も無いピアニストなのである。それは彼が絶えず安定した演奏が出来ることを意味しているのであって、ピアニストとしての技巧を並外れてもっているからであろう。人並みはずれた大きな手で、1オクターブを超える13音まで手が届くという。この大きな手で華麗なタッチとスタイリッシュで流麗なスウィンギーなサウンドを聴かせてくれたオスカー・ピーターソンである。でも彼のベーゼンドルファーは、もう2度と音を奏でなくなったのである。
オスカー・ピーターソン・トリオとナット・キング・コールの共演
オスカー・ピーターソン・トリオの演奏『サテンドール』
2007.12.24 (Mon)
日本人の宗教観
そんなに固いことを言うなと反論されそうだが、国中が揃いも揃ってクリスマスというものを迎合しなくてはならないのだろうか・・・。それとも、このイベントに便乗しないといけないのだろうか・・・。毎年、この時期になると考えてしまう。ところでクリスマスとは何だ?・・・と問われて答えられる人が日本にはいるのだろうかとさえ思ってしまう。
クリスマスとはChritmasと書く。つまり英語でChrist's Mas・・・キリストのミサ(プロテスタントでは礼拝)のことである。12月25日はキリストの降誕祭。その前日をクリスマス・イブ、イブから1月1日或いは6日の12日祭までをクリスマス節とされている。でもこれはキリスト教を国教としている国の習慣であって、大いなる勘違い国家の日本で、この習慣が長年にわたって何の疑いも無く行われていたことに対して、私は日本人の宗教観はいったいどうなっているのか考えてみた。
現在の日本で自分が何処の宗教に属しているのか尋ねてみると、多くの人は知らないと答えると思う。それは何故かというと関心が無いからである。日本人の大多数は宗教に対する帰属意識は薄く、実際には宗教儀礼に参加しているのにもかかわらず自分のことを無宗教と考え、基本的に無関心とされる。でも、考えてみれば判るだろう。日本人は結婚式を神式、または教会で行い、子供が生まれると神社に参り、死ねば寺院で葬式を行うか、仏式で行う。それは何故かというと、元来、日本人は多神教だったからである。
日本人は昔から洗礼を受けて、一つの宗教を信仰したりしなかった。日本人の宗教意識は無感覚であり、自然信仰、民間伝承を始めとする民俗信仰というべきものがあり、それが八百万神(やおよろずかみ)というものに繋がった。それらは汎神教の神道といえるものであり、ありとあらゆる神を認める宗教であった。それが元来の日本人の信仰宗教であった。それが、天平の時代になり、大陸から仏教が伝わったのである。
日本古来の神道と大陸から伝来した仏教。いわゆる異教である仏教が神道と呉越同舟の形で、何故に日本に根付いたかというのは、日本人の宗教観というものが、多神教だったからに他ならない。つまり堺屋太一が言う「日本人のいいとこ取り」なのである。だから異教徒の対立も無く、一つの国に神社と仏教寺院が1000年以上も存在し続けるのである。
日本には神道と仏教が存在したが、明治政府が廃仏毀釈運動を進め、仏教を徹底的に弾圧し、神道を国家神道として国民の精神的統合を図ったのである。これにより天皇崇拝の色が強くなり、富国強兵を強めるのである(本来はこのようなことに持ち出すものではないと思うが・・)。とにかく時の明治政府はいかれてた・・・。
それが、太平洋戦争の敗北で、日本の精神的な価値観が大きく崩れる事となる。戦後は国家神道に対する反動から宗教そのものが如何わしいもの、疑わしいものと否定時なイメージで捉えられるようになった。
そして、戦後の日本に登場したのが、それまで鬼畜米英と敵視していた欧米文化である。この頃に映画、音楽、食物、習慣等が日本に大挙して入ってきた。そして、ここで広まったのがクリスマスだったのである。戦前からクリスマスというものは、キリスト教徒を中心にささやかに行われていた。それが、戦後になって、商魂逞しいデパートやお菓子屋や玩具屋や商店やキャバレー等が儲けるために利用したものがクリスマスである。おそらくGHQのクリスマス・パーティーを見て、商売になると考えた人がいたのだろう。仕掛け人という者は必ずいるものである。そして、戦後、40年、50年と経ち、ますますクリスマスそのものが派手になり、元来の意味から大きく逸脱した日本特有の一大無宗教イベントとなってしまったということである。・・・結局、今日ある日本のクリスマスは、精神が伴わない単なるイベントであって、其処にもキリストのキの字は介在しない。
さて、現在の日本における宗教の信者数というものが、およその数字で把握できている。それによると神道系が1億600万人、仏教系が9600万人、キリスト教系が109万人、その他が1100万人となっている。日本の人口より多いではないかと考えるであろう。それもその筈、日本の場合は、その宗教の神を拝めば信者とみなすことが多いので、神と仏を同等に崇拝する。すなわち複数の宗教を掛け持っていることになる。でも、こんなにクリスマス・イベントや、クリスマス商戦、クリスマス・ツリーは到る所で見かけられるのに、クリスマスの日に教会に行って、厳かにミサ(ミサというのはカトリックのみ)を行うキリスト教徒がたったの109万人とは何事か・・・・。これは日本の人口の1%も達してないではないか。本当に、いいとこ取りのいい加減な国家だなあと思う。それに節操も無さすぎると感じる。
いいかえれば、日本人の白人コンプレックスは未だ根強くて、西洋の楽しい習慣だけは、ちゃっかり頂いてしまい、イスラム教の厳しい行事などは絶対に真似はしない。調子がよろし過ぎるのではないでしょうか。クリスマスを頂戴したのだから、イスラム教の祭典ハリラヤもやってしまうか・・・・でも、こちらの方は、その前に厳しい断食を続けないといけないので、誰も真似をしようとは思わないだろう。でもキリスト教徒のお祭りだけは、いくらでも真似をする国である。クリスマスに続いて、バレンタイン・デー、さらにはハロウィーンまでやる人が出てきたから呆れてしまう・・・。あんなものをオシャレーと思っている馬鹿チンがいるのだろうか・・・。いや、本当にこの国は節操が無さすぎるぞーーーー。
2007.12.23 (Sun)
北新地 呼吸チョコを食べる
今日は日頃では余り食べないチョコレートを食べた。大きな菓子メーカーが製造しているチョコレートではなく、大阪限定のチョコレートといえば判るかもしれない。
大阪には「マルシゲ」というお菓子を専門に販売している会社があるが、そこのオリジナル商品で、「北新地 呼吸チョコ」というチョコレートを食べた。主に「マルシゲ」の直営店で売られているチョコレートであって、150gの内容量で税込み580円と割高ではある。袋詰めで包装の表には第23回全国菓子大博覧会・栄誉金賞受賞を謳っている。ふーん、確かに優れた賞なんだろうが最高賞ではない。
袋を開けて青い銀色の包みの中から卵のようなチョコレートが出てきた。さっそく口に放り込む。うーん、香ばしくて甘くて苦い。よく店で売っている大手菓子メーカーのチョコレートよりも苦味がある。それはチョコレートの表面にココアパウダーを塗してあるからだろうが、呼吸チョコというのはどういう意味だろうか・・・・。包装パックの裏面に説明書きがあった。それによると・・・作り立ての風味が息づいている呼吸チョコ 鮮度を大切に、ショコラティエがひと粒ひと粒心を込めて作りました・・・・だとさ。
確かに甘みがひつこくなく上品な仕上がりになってはいるが、これも人の好き嫌いによって左右される。市販されているアーモンドチョコレートに比べると、アーモンドにキャラメルコーティングをして、マスカルボーネチーズ・クリームで包んでいるということで、そこらあたりで差は出るだろうが、580円のチョコレートということを考えれば、グリコや森永、ロッテのチョコレートで私は充分かなあと思う。
個人的には甘党でもないし、ケーキやチョコレート、羊羹、饅頭、団子・・・日頃から食べつけてないだけに、この北新地 呼吸チョコ(ティラミス・アーモンド・チョコレート)は、どんな位置づけになるのか私には判らない。でも、最初の1個を口に放り込んでから、暫くして止められなくなった。やめられない止まらない・・・・やはり、100円前後のチョコレート比較しても、格別に美味しいと感じないが、美味しいのだろう。不思議なチョコレートではある。
ところで北新地といネーミングの意味もよく判らないが・・・・・味に厳しい大阪で 粋人が集う街 北新地・・・・・と包装パックの裏面に説明文が書いてあった。ただ、高級クラブが並ぶ大阪の北新地をチョコレートの名前に冠したというだけで、何の脈絡もないし意味も無い。せめて名前だけでも高級感を漂わせようと北新地とネーミングしたのかもしれない。ただ、日頃からチョコレートを食べないからと言っても、疲れたときなど、あの甘さは有り難く感じるものだ。だから、チョコレートは、子供の頃、滅多に食べられなかった私の世代にとっては、飽くまでも、高級菓子なのである。
2007.12.22 (Sat)
古譚のラーメンを食べる
土曜日の今日・・・朝から雨・・・。まったく冬の雨は困ったものだが、愚痴っていてもしょうがない。土曜日はほとんど外出しているが、今日は昼にラーメンを食べた。大阪にチェーン店が何店舗かある『古譚(こたん)』 (注)のラーメンである。
日頃、私はラーメンはほとんど食べないのである。何故かと問われても、あまり理由は無い。麺類は好きなのだが、どちらかというと饂飩を食べることの方が多い。ラーメンは脂っこいし、くどいからやや苦手というのもある。だから夏には絶対に食べない。でも冬になると、やはり熱いラーメンをフウーフウーと冷ましながら食べたくなる時がある。それで、今日行ったのは大阪の梅田の地下街にある古譚。
ただ梅田の地下街と言っても漠然としすぎて判りにくいと思う。なにしろ北は茶屋町、西は福島、東は堂山、南は堂島、この範囲に阪急三番街、富国生命名店街、ホワイティ梅田、阪急八番街、大阪駅地下街、堂島地下街、イーマ、ディアモール大阪、ハービス大阪、梅田ガーデンシティ、大阪マルビル、大阪駅前第1~第4ビル地下階・・・と地下街もしくは地下街に近い地下階が繋がっていて、そこへ百貨店、専門店、ファッションビル、映画館、その他・・・・それぞれへ地下から自由に行けるように連絡路があり、巨大地下迷路のようになっている。だから、初めての人には、あの地下街は歩かないで、地上を歩けと必ず私なんかは説明する。ところが、この梅田の地下街で、私は迷子になったことは、1度も無いから不思議がられている。慣れればどうってことないのだけど・・・・。
でも私が今日行った『古譚』はすぐに判る場所にある。梅田地下街の東の端。泉の広場という噴水のある場所を左に曲がったところにある店舗である。
ここで醤油ラーメンを注文した。出てきたラーメンは白っぽいスープ。一見、豚骨かと思うが、もっと色がついている。豚骨、鶏ガラがベースになっていて、あっさりとした醤油ラーメンである。人参の千切り、ネギがたっぷり、チャーシューも幾つか・・・。コラーゲンたっぷりのあっさりした健康スープだという。昔から、何度か来たことがあるが、昔に比べてくどくなくなったのではないかと思う。麺はやや太くてストレートで薄味である。でも薄口好みの私にはちょうどいい(・・・けして薄口には感じないが)。ここのラーメンを美味しいという人は多いが、どちらかというと若者に多い。私の職場の人間は、ここのラーメンを酷評していたが、それほど悪くも無い。私は標準のやや上ぐらいの評価を与えてもいいと思うが、大阪で1番美味いとは、絶対に思わない。このようなものなら、大阪に幾らでもある。
最も、あまりラーメン店を食べ歩かない私は、そんなにラーメンを食べつくしてない。私の友人で東京出身のSさんなんかは、毎日でもラーメンを食べたくなるらしい。それを聞いて、私は「オエー!」と感じたことがあって、20年ほど前、彼の案内で東京・荻窪の『春木屋』というラーメン屋について行ったことがある。彼がよく通う店だという。なるほど東京の和風醤油味の王道とはこういうものをいうのかと思ったものだ。でも私は確かにいいスープでコクがあるが、これを毎日食べるのだけはゴメン蒙る。東京の食べ物は、やはり総体的に濃い口である。だから比較的、饂飩とかに比べて味のひつこいラーメンを東京人は好むのかも知れないが、関西人の私は、ラーメンを時々しか食べたいとは思わないのである。でも、最近は大阪や京都も昔に比べて、ラーメン屋が増えたなあと感じるこの頃である。
(注)古譚の譚は本来は"さんずいへん"なのですが、どうしてもその漢字に変換出来なくて仕方なく、古譚で通しました。ご了承ください。
2007.12.21 (Fri)
サブプライムローン問題を考える
ところでサブプライムってなんだということになるが、借り手の信用を厳密にチェックするプライムの住宅ローンの審査に、通る見込みが無い借り手が申し込む審査の甘い住宅ローンということになる。またサブプライムの融資をするのは、資本金の規模が脆弱な新興の金融機関が多く、その半数は連邦政府の監査や規制をうけていないという。その結果、審査も杜撰で、借り手の所得もチェックされず、ローンは危険な変動金利のものが多い。このあたりがきちんと監督されていたプライムと違って、監督の抜け落ちたサブプライムとの違いである。
ところでサブプライムは、1993年にはアメリカでは皆無だったのに、昨年にはサブプライム住宅ローンが、全体の2割を占めるほどになったという。何故、こんなに増えたかというと、クリントン、ブッシュ大統領が、低所得者や少数民族の人が持ち家を持てるルートを開拓することが、政治的に有利に働くと判断して、サブプライムの成長を促がしたらしい。したがって低所得者、移民者、少数民族たちが多いアメリカでは、都合の良い制度に思えたのである。だが、2005年になって2004年に行ったアメリカ連銀の金融引き締めが、今頃になって現れだしたという。
ここにきてアメリカでは、変動金利もののサブプライムで不払いが急増した。固定金利のローンでは不払いが増加する傾向は見られず、サブプライムに問題は集中しているのである。・・・・このサブプライムであるが、住宅バブルの崩壊で、上昇を続けていた住宅価格が昨年から下落に転じたこともあり、金利の高騰で支払いに詰まっても、持ち家の市場価格が購入時より上がっていたなら、借り手はローンを支払わず、持ち家を差し押さえられるより、持ち家を売ってローンを返済する方を選ぶのであるが、住宅価格の下落で不払いが有利になり、それで不払いが急増したのである。
その結果、株価が顕著に反映した。それでアメリカ側はサブプライムローン問題処理のためにあの手この手が打たれ始めている。その中で、アメリカの金融界は、日本にも資金提供を求めてきたのである。その額はなんと5500億円という。アメリカのサブプライムローン対策資金への資金提供を日本の金融関係に求めてきて、三井住友、みずほ、三菱UFJはそれをきっぱりと断ったという。でも日本の株価にまで影響を及ぼしていることは、誰もが承知している現実である。
アメリカのシティグループ、メリルリンチ等がサブプライム絡みで巨額な損失を被ったと公表し、会長が交代するという非常事態になっている。ところで、またバブル崩壊後の日本のように陥らないだろうか。思い起こせば1990年代初頭の日本では、バブルが崩壊して金融機関の組織絡み、国家ぐるみとで、損失の隠蔽工作がなされた。その結果、不良債権の問題は無いと公言していた金融機関が続々と倒産した。これにより投資家は縮こまり、貸し渋りも深刻になり、失われた10年という長い不況に突入したのである。こういった隠蔽体質は今の社会保険庁に立派に(?)受け継がれ、公的年金の記録漏れという非人道的な杜撰な体質を浮き彫りにさせたのである。したがって、相変わらず不透明な日本のお役人、及びそれを取り巻く金融関係者・・・・・またまた、バブル崩壊後の悪夢が再びやってこないとも限らない。既に福田内閣は当てにならないことが判明している。金融緩和しなかったツケガ回ってきて、いよいよ増税につぐ増税路線が濃厚で、貧乏人は麦を食え(池田隼人じゃあるまいし)と言いかねない。
ああ、ますます低所得者には生き難い世の中になってきた。
2007.12.20 (Thu)
志賀直哉の『暗夜行路』を読む
かつて小説の神様といわれた作家がいた。その作家が志賀直哉である。文章が上手く癖が無い。だから読み易い。難しい表現を故意に避けているかのように、使用頻度の高い形容詞を並べ、いたって簡潔な文体である。でも難解な形容詞を使わないからと言っても、この慣用句以外は相応しくないと感じ取れるような語句を使うのである。だから、こんな文章が巧みな志賀直哉を小説の神様というのである・・・・・?
さて、志賀直哉は主に短編小説が多く、長編といえるのは『暗夜行路』ぐらいかもしれない。『暗夜行路』という小説を最初に読んだのは、高校生の頃だったろうか・・・・・。時任謙作という運命に翻弄されながらも精神の成長を以て、自らの行路に明るい活路を見出していく主人公に共感するものの、何処か話しに違和感を感じ得なかったというのが『暗夜行路』を読んでの感想だった。
それでは簡単に『暗夜行路』の筋書きを追ってみるとする。・・・・時任謙作は母と祖父との間に生まれた子であったが、本人は知らなかった。謙作はお栄という女性に身の回りの世話をしてもらっていたが、お栄は祖父の愛人であり、祖父の死後、謙作と同居していた。謙作は小説家であったが、感情の起伏が激しく自己嫌悪に陥り易い。
謙作は、やがて孤独に耐えられずお栄と結婚を考えるが、兄に出生の秘密を明かされ、結婚を諦める。その後、謙作は京都へ行き、直子を知り結婚することとなった。謙作は幸福感はあったが、生まれた子供はすぐに死んだ。自分は呪われているのかと思う。それで謙作は人に騙されて朝鮮に行って金に困っているお栄の後を追って長期、家を空ける。しかし、その間に妻直子は従兄弟と過ちを犯してしまう。朝鮮から戻った謙作は、妻の様子がおかしいので、問い詰めると妻は過ちを認めた。謙作は直子に修行して仏門に入るといつて大山に向う。
謙作は自然の大きさと人間の小ささを感じる。でも、まもなく彼は病気になる。すると夫が病と聞いてやって来た直子を謙作が見かけるや安心して眠りについた。
以上が『暗夜行路』の粗筋である。つまり時任謙作という男は、祖父と母、妻と従兄弟との過失という二重の不幸な運命が行く手に遮られているということ・・・。それでいて時任謙作は自身の中に暴君的要素が潜み、他人を無闇に拘泥して憎むエゴイスティックな性格でもある。こんな謙作は精神的な成長を経て、自我の目覚めとともに人間として大きくなっていくのである。・・・・ということで、この『暗夜行路』の主な筋書きと謙作の辿った道を説明したつもりであるが・・・・この小説を読んだ時、どうもストーリーといい人間関係の組み立てや構成とか納得いかない部分が多く、さほど小説としての完成度が高いとは思わなかった。でも素晴らしい小説だという人は多い。そんな時、文芸評論家・中村光夫の一文を見つけた。・・・・「ここには小説の本来である人間対人間の葛藤も、それにもとづく主人公の内的な発展もなく、作者その人にも同じものが欠けている」・・・ずいぶんと手厳しい。この人は私小説を嫌い、ことに志賀直哉、谷崎潤一郎の小説を悉く批判している人である。
私は人間対人間の葛藤も、主人公の内的な発展も書かれているとは思うが、ストーリーや人間の設定にずいぶんと無理があるなあと捉えていたのである。もし、これが私小説だといえるなら、現実は小説より奇なりで、妙な家族ということになり、虚構だとするなら、おかしな人間関係を描いている奇を衒った小説ということになってしまう。このように考えると『暗夜行路』は名作なのか、駄作なのか人によっては大いに異なるかもしれない。また、ある人が言うには志賀直哉が小説の神様と言われるのは、冗談が伝わったものだという。志賀直哉の短編小説『小僧の神様』をもじって、誰かが冗談半分に『小説の神様』と言ったのが始まりだという・・・・。ガーン!
これが事実だとするなら、志賀直哉の評価はがた落ちになってしまう。でも納得いかない部分は確かに多いが、読んでいて上手い表現だなあと思える部分が各所にあることは確かだ。この辺り、志賀直哉の評価が分かれるところなのかもしれないが・・・・。
2007.12.18 (Tue)
麒麟の極生を飲む
麒麟麦酒というところは、以前から「端麗」という発泡酒があるが、今回飲んだのは「極生」である。
原材料は麦芽、ホップ、大麦、米、コーン、スターチ、糖類等でアルコール分は5.5%ある。今の「極生」は青い缶で、デザインは発売当初から変わっている。この「極生」は、すっきりして飲みやすく雑味がなくて、すっきりしているという評価である。のどごしがよく、キレも良い。飲みごたえがある。味わいがある。と発売元の麒麟麦酒は説明しているが、端麗と大して変わらないと思う。端麗と似ているようで似てないが、弱冠、極生の方が癖が無いかなあ・・・・・。麒麟の発泡酒には「ZERO」というのがあるし「円熟」という発泡酒もある。さらに、麒麟以外の発泡酒を含めると、いったい何種類の発泡酒が日本国内で売り出されているのかどうか・・・・。
しかし、何れにせよ、私にとってはどの発泡酒を飲んでもビールに比べると水臭くて、口に入れたときにグッとくるものが無い。
ああ、やっぱりビールが飲みたいかなあ・・・。
2007.12.17 (Mon)
古い映画を観る・・・・・『チャップリンの独裁者』
監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン
ジャック・オーキー
ポーレット・ゴダード
チェスター・コンクリン
【あらすじ】第一次世界大戦の末期の1918年、トメニア帝国の敗戦が濃厚であった。そんなトメニアに革命が起こり、窮地に追い込まれた政府は平和交渉に務めていた。ですが前線の兵士は自軍を信じ国のために戦っていた。そんな前線に兵隊のユダヤ人床屋がいた。彼は何をやってもヘマばかりで、兵隊としては役に立たなかった。そんな最中、負傷した政府の高官シュルツを飛行機に乗せて脱出する。だが、飛行機操縦の出来ない床屋は、シュルツと共に不時着する。シュルツは平和交渉のための文章を託されていたが、戦争は終わったと聞かされる。
終戦後、大不況になりトメニアに反乱が起き、ユダヤ人床屋とそっくりのヒンケルが政権を握り、独裁のもとに社会は統制され、基本的人権は認められず、体制を固めていくのであった。ラジオからは独裁者ヒンケルの演説が流れる「民主主義は無用だ。自由は不快だ。言論の自由は必要なし。トメニアは最強だ。海軍も最強だ。現状維持には犠牲が必要だ」
ユダヤ人街に戻った床屋は、不時着のショックで記憶喪失になり、何も知らなかった。やがてヒンケルの突撃隊が街にやって来ては窓にユダヤと書いて立ち去る。床屋は、それを消そうとして突撃隊ともみ合いになり、捕らえられ街灯の柱に吊るされるところをシュルツ高官に助けられる。かつて床屋にシュルツ高官は救出されたからだ。
独裁者ヒンケルは、ユダヤ人を抹殺してアリアン人だけの国を作らねばならないと考えていた。そして、まずは隣国オスタリッチに進駐して世界征服する野望を持っていた。ヒンケルはユダヤ人街の襲撃を部下に命じ、穏健派のシュルツを失脚させる。
ユダヤ人街に逃げ延びて来たシュルツは、床屋や勇敢な女性ハンナらがいる大家ジェケルの地下室に逃げのびた。まもなくシュルツの捜索で突撃隊がやって来て、屋根裏に逃げ込んだ床屋とシュルツを捕まえ、収容所送りとなる。その間、ハンナとジェケルはオスタリッチへ亡命し、農園を営み大自然に囲まれた束の間の平和な生活を送っていた。一方、ヒンケルはオスタリッチ進駐を巡りバクテリア国の独裁者ナバロニと会談を持つことになる。だがお互いミエの張り合いになり話が進展しない。その頃、床屋とシュルツ士官は軍服を奪って収容所から脱出した。同じ頃、オスタリッチ国境の湖で鴨猟を装いボートに乗っていたヒンケルは転覆したボートから落ち、岸に上がったところを脱走した床屋と間違えられてトメニア兵に捕らえられてしまう。
ヒンケルのと瓜二つの床屋は軍服を着ていたおかけで、捕らえられたヒンケルと間違われ、入れ代って無事トメニア軍に潜り込むことに成功する。だが、床屋は侵攻したオスタリッチにおいて、民衆とラジオを聞く国民の前で演説することになる。一介の床屋が民衆の前で演説など出来る筈がないが、ユダヤ人を救うには演説するしか方法がなかった。そして、床屋は一世一代の名演説を見事に繰り広げる。
『チャップリンの独裁者』という映画は、チャップリン初のトーキー映画で、チャップリンの肉声が初めて銀幕で披露されたのである。サイレント映画に拘っていたチャップリンが、何故トーキー映画を撮ったのだろうか。疑問に思うがトーキー映画でしか表現しきれない何かがあったのだろう。科白によって表現出来るトーキーとサイレントでは、そこには大きな壁がある。そこでサイレント映画に限界を感じたチャップリンがとうとうトーキー映画に手を染めたのだと考えられる。何故なら、この映画は全編、ナチズム、ファシズムへの皮肉、風刺の連続で、チャップリンと誕生日が数日しか違わないヒトラーへの痛烈な罵倒である。既に世の中の映画人がトーキーに目を向けている時代にあって、サイレントに拘り続けたチャップリンが、山高帽、ドタ靴、ステッキというトレードマークを捨ててまでトーキー映画に取り掛かったのは、最後の演説シーンでチャップリンの思いを是非、伝えたかったからだろう。
この最後の演説で何を語るべきか・・・・チャップリンはトーキーという音が出る長所を充分活用して、ヒトラー批判をやりたかったという以外ないと思う。全てが最後の演説シーンに集約されているように、チャップリンは世相の不穏な動きに危機感を抱き、是非、自分の肉声で世に訴えるべきであると使命感に囚われていたのかもしれない。
ところで、そんな事、世の映画人なら誰でもやっていると思わないで欲しい。ナチズム、ファシズムへの批判なんて、1940年当時に、いったいどれだけの人が堂々と行っていただろうか。第二次世界大戦終結後、ナチス・ドイツの蛮行が明るみに出て、ニュールンベルク裁判で裁かれてから、世の中はヒトラーを独裁者として徹底的に悪人扱いにしているが、これも現在を生きる人間からの見地で物事を片付けるからであって、ナチスが政権を掌握しだした頃は、ドイツ国内は勿論のことドイツ国外でもヒトラーを推す人が少なくなかった筈だ。
そんな時代に、ヒトラーを悪しき独裁者として訴え、皮肉ったチャップリンの先見性と平和を愛する豊な心が、この映画を撮らせたのである。従って、現在の今、観ても立派な反戦映画として観ることが出来るし、その時代を先取りする卓越した感覚にチャップリンの凄さを垣間見るのである。
地球儀を模った風船を手玉に取る独裁者ヒンケル。
ワーグナーの『ローエングリン』第一幕への前奏曲が流れるところは、ワーグナーの音楽が好きだったヒトラーを見事に風刺している。この映画を観たヒトラーは激怒したという・・・。
最後にはヒンケルに間違われた床屋が世紀の名演説を繰り広げる。
2007.12.16 (Sun)
冷凍チキンライスを食べる
日曜日の昼になると、何時も何かを自分で作って食べるのであるが、冷蔵庫の中を物色してみたら何にも無い・・・しまった!
食材が何にも無いので買いに走らなくてはならないが、面倒くさくなって冷凍庫に保存してあった市販の冷凍チキンライスを食べることにした。日頃は冷凍食品は一応は買い求めて、冷凍庫に保存しているのだが、概して冷凍食品なるものは美味しくはない。特に餃子は最悪であるし、たこ焼きにいたっては食えたものではない。風味も無ければ食感も悪い。だから余り食べる気がしないのである。でも、それ以外では、昔に比べて格段と品質が向上したように思う。
それでチキンライスがあったのを思い出し食べることにした。でも、皿の上に凍ったままのチキンライスを平らに盛ってサランラップをかけて電子レンジで温めるだけだ。こんなもの子供でも誰でも出来るし、面倒くさいことはやらなくてもいい。時間にして6分余り、チンという音がした。
出来上がりは誰がやっても同じこと、材料にはうるち米、玉葱、コーン、人参、グリンピース、鶏肉、トマトケチャップ、トマトペースト、砂糖、植物油脂、プロセスチーズ、ナチュラルチーズ、チキンエキス、マッシュルーム、食塩、チキンコンソメ、ラード、あとは香辛料、酵母エキス、ワイン、醤油、寒天、乳化剤・・・・・ずいぶんと色々な物が入っているなあと感心する。
日頃から冷凍食品やインスタント食品を食べつけないので、どうかなあとも思ったが、うん、なかなかいける。昔に比べると格段の進歩が見える。これに卵を巻いたら立派なオムライスが出来そうだ・・・・。
しかし、今後において冷凍食品がどんどん改良され、このまま品質が劣らず作ったときの状態が再現できるようになれば、ますますレトルト食品、インスタント食品、冷凍食品の需要は増えるだろう。そして、何れ名シェフの料理と寸分違わない物が再現できるようになるとしたら、レストランも商売が苦しくなるのではと・・・・・ただでさえ、高級レストランは価格に該当するほどの味かと疑いたくなる店が多いが、同様な料理が1000円前後で食べられるようになるとしたら、冷凍食品は庶民にとっては有り難い食品ということになる。そして、何れ冷凍食品よりもミシュランの三ツ星レストランの料理の方が不味かったということになったりして・・・・・そんな訳は無いか。
2007.12.15 (Sat)
お知らせ
結局、昨日は、削除されたのだったら何がいけないのだろうかと悩んだ挙句、このままブログをやめてしまうか、それとも新たにFC2以外でブログを始めるか選択を迫られた。そして、今朝、再びパソコンを立ち上げてみたら・・・・。何とブログ管理画面に入ることが出来たのである。昨日の出来事はいったい何だったのだろうか・・・。そして、今日の夕方、外出先から帰ってきて、パソコンを覗くと、FC2からメールが入っていた。それによると・・・・
~2007/12/14 21.30頃より、blog112サーバーにて管理画面へのログイン及びブログの閲覧が出来ない障害が発生したのであります。現在原因を調査、及びメンテナンス作業中です。
(追記)2007/12/15 5.00サーバー復旧いたしました。
以上のようなメール内容であった。結局はサーバー不良ということで安心したのである。しかし、何にも判らないこちらとしては、気分を害したのである。それで昨日、書こうとしていた記事も気分が乗らないのでやめる事にしたのである。それで、明日から気を取り直して、またブログの更新を始めようと思うのであるが、突然、労作のブログが消えてしまっては文句の一つでも言いたくはなるなあ・・・。まずは一安心・・・・。
2007.12.13 (Thu)
ACミラン vs 浦和レッズ
私とサッカーは不釣合いではないかと思われるかもしれない。確かに今までサッカーのことは何も書かなかった。でも、少年時代はサッカー少年だった。野球よりもサッカーだった。あの頃のサッカーで、私が憧れた選手はブラジルのガリンシャだったといえば、時代が判りそうなものである。その当時、イングランドにはボビー・チャールトン、ボビー・ムーアがいた。ゴードン・バンクスもいた。ソビエトにはレフ・ヤシンがいた。西ドイツにはウベ・ゼーラーがいた。オベラートがいた。ベッケンバウアーもいた。そしてゲルト・ミューラーがいた。ポルトガルにはエウゼビオ。イタリアにはファケッティ、リベラ、リーバがいた。そして、ブラジルにはペレもいたし、ガリンシャもいた。ジャイルジーニョ、リベリーノ、トスタンがいた。オランダにはヨハン・クライフがいた・・・・。こうして選手の名前を並べてみると、時代が如何に古いか歴然としているだろう。
さて、今日はヨーロッパ・チャンピオン・クラブのACミランと日本の浦和レッズが公式戦で試合をするというので先ほどまで観ていた。そういえば私の若い頃からしてみると信じられない出来事ではある。日本にプロのサッカークラブが誕生して、イタリア・セリエAの名門ACミランと対決するとは・・・・・。
ACミランというと、かつてオランダ・トリオを擁してトヨタ・カップに何度と無く来ていたクラブであるが、あの頃の、ファン・バステン、フーリット、ライカールトの時代とはサッカー・スタイルが変わったようだ。それでも今回にはロナウドがいるし、カカがいる。セードルフもいれば、インザーギもいる。マルディーニもいれば、カフーもいる。やはりビッグネームの集団なのだ。対する浦和レッズは、日本チャンピオンでアジア・チャンピオン。赤い悪魔とも言われる熱狂的、狂信的サポーターが後押しする。ああ、時代も変わったものだ。その昔、アマチュアの日本リーグ時代、私は杉山のいた三菱と釜本のいたヤンマーの試合を、よく観にいったものである。当時の日本のサッカーは人気が無く、スタンドは閑古鳥が鳴いていた。その時代を知る人間から見ると、今の浦和レッズの取り巻く環境というものが信じられない。本日の入場者数約67000人だという。まあ、カンプ・ノウやベルナベウのスタジアムがあるスペインのスタジアムとは器の規模が違うので、比較にはならないが、それでも日本では驚異的な観客数といってもいいぐらいだ。そして、そんな中で、今日の試合は行われた。
前半はミランがボールをゆっくり回し、攻め倦んでいるようだった。それでも13分、ピルロのフリーキック。ボールはゴールマウスを捉えていたが、弾かれてコーナーキック。23分にはミランのカカが、ドリブルで切り込み、セードルフがシュート。その後もヤンクロフスキーのミドルシュート、ジラルディーノがセンターリングを足で合わせる。ピルロのフリーキックはクロスバーの上を行く。浦和のチャンスは40分、鈴木のシュートがキーパーに阻まれる。
前半はボールの支配率でACミランに押されていたが、再三の守備力でお互い得点無しの0対0に持ち込んだ。そして後半に入る。今まで得点を与えず、どうにか凌いできた浦和レッズであったが、やはり名門ACミランである。ここからボールの支配率が上がり、厚みのある攻撃を繰り返す。浦和の方は、やや気落ちしたのか、前半ほどの動きは無い。後半10分には、セードルフがフリーになり、ゴールキーパと一対一で向き合いシューするがサイドネットに当ててしまう。何度かACミランの攻撃を受けるも、ディフェンダーが甘い時がある。結局、その欠点を衝かれてれてしまいそれがとうとう後半23分、カカからゴールマウスの前で待機するセードルフへボールが回ったと思ったら、セードルフが左足で蹴り込んだ。
アーアー、とうとう浦和レッズのディフェンスラインが破られた。それもカカから出た、ほんの一瞬の隙を見逃さずにセードルフが決めた。その後もACミランの攻撃陣は活況の様子だった。
最終的には1対0で、ACミランが辛勝したが、どうにかこの得点だけで、これ以上は得点を許さなかったというのは、賞賛に値するだろう。浦和の相手は世界のACミラン、とにかく強い相手である。負けたのだが、浦和の選手も堂々と胸を張ってもよいだろう。でも来年は、ここの大舞台に出て来られるかどうか・・・・浦和レッズにしても、これからが大変である。
私がサッカーに興味を持つ切っ掛けになった選手がガリンシャだった。彼は子供の頃、小児麻痺に罹り左右で脚の長さが違っていた。しかし、それが悪魔のドリブルを生む。彼を止められるディフェンダーはいなかった。
2007.12.12 (Wed)
ブラームスを聴く・・・・・『交響曲 第1番』
暑い時は聴く気も起こらないが、冷え込む季節になると何故かブラームスのオーケストラ曲が聴きたくなる。何故、暑い時に聴く気が起こらないかというと、ブラームスのオーケストラ曲は明るさがなく、曲調も重く、聴くとよけいに暑苦しくなってしまうのだ。でも、11月の下旬あたりぐらいになると、あの重苦しいブラームスのオーケストラ曲が恋しくなる。なかでも交響曲、ピアノ協奏曲なんていうのは重厚で、渋い曲が多く、ドヴォルザークやチャイコフスキーといった同時代の作曲家の交響曲と比較してもメロディアスではなく、取っ付き難いかもしれない。しかし私は、そんなブラームスの交響曲を、寒い季節になるとよく聴くのである。
ブラームスには4曲の交響曲があるが、どれも出来栄えは甲乙付けがたい。でも、その中で1曲だけを選べと言われれば、おそらく交響曲1番をとるだろう。
ブラームスの交響曲1番は、ブラームスが43歳の時に完成した。つまり年齢が高くなってから完成した曲である。ところが、ブラームスは交響曲1番を着想したのは22歳の頃だったといわれる。だから、着想から完成まで、実に21年もかかっていることになる。それなら、何故にブラームスが最初の交響曲を完成させるのに21年も要したかということになるが、おそらくベートーヴェンの何れも優れた9つの交響曲がブラームスの頭の中にあったのだと思う。それで、最初の交響曲を完成させるのにも慎重を期し、何度も手直しを加えたのであろう。その結果、完成されたのが、交響曲第1番 ハ短調 作品68である。
この曲は全4楽章で、冒頭からティンパニーが一定の緩いリズムを刻むと共に、ヴァイオリンと木管が高音域を奏でる。そして、序奏の後半になるとピッチカートとなり、40小節から第一主題に入る。第2楽章、第3楽章は緩い楽章で、3楽章にはコンサートマスターのソロ・ヴァイオリンが聴かれる。第4楽章は非常に重い緩やかな序奏で始まり、これが61小節続く。そして、ここから暗から明へ、かつてハンス・フォン・ビューローがベートーヴェンの交響曲第10番と形容しただけあつて、ベートーヴェンの歓喜の歌に似た旋律が奏でられる。この曲のクライマックスは第4楽章にあり、聴かせどころが随所に散りばめてある。
この交響曲を初めて聴くと、重低音が耳に残るし旋律が明確でなく、馴染めないかもしれない。だが私は、この曲を全ての交響曲の中で、最も聴いているであろう。最初に聴いたのは、高校生の頃だったかもしれない。指揮者は誰でオーケストラは何処だったか覚えてない。最初の印象は、つまらないというものだった。それが、何時だったかカール・ベーム指揮、ウィーン・フィルによるテープを繰り返し聴いている間に、何故かはまってしまった。癖になったというのだろうか、この曲をよく聴くようになっていた。その後、CD時代になり、ブラームスの交響曲第1番のCDを何枚か買い求めた。それで、現在、私の手元にブラームスの交響曲第1番のCDが10枚ある。
●アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 NBC交響楽団(1940年録音)
●ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1952年録音)
●シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団(1956年録音)
●ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団(1960年録音)
●シャルル・ミュンシュ指揮 パリ管弦楽団(1968年録音)
●カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1975年録音)
●レナード・バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1981年録音)
●ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1983年録音)
●リッカルド・シャイー指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1987年録音)
●朝比奈隆指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団(1994年録音)
トスカニーニ、フルトヴェングラーという大巨匠のモノラル録音から、バーンスタイン、カラヤン、シャイー、朝比奈、という最新のデジタル録音まであるが、この中でどれが好きだといわれると、甲乙付けがたい。丁寧なワルター、ベーム指揮の演奏も良いし、カラヤンの恰好いい演奏も捨てがたいし、バーンスタインもメリハリがある。そんな名演ぞろいの中で、好みから言ってフルトヴェングラーの緩急つけた演奏。特に第4楽章後半のたたみかけるような演奏は熱演といえるものであるが、そのフルトヴェングラーの演奏をさらに近代化したのが、シャルル・ミュンシュ指揮、パリ管弦楽団の演奏のCDではないかと思う。
とにかくゆったりとした始まりから、徐々に盛り上がっていき、第4楽章の後半へクライマックスを持っていく。緩いテンポから終盤は殺気立ってくるように楽器が唸っている。面白いことにスコアーを見ながら聴いていると、終楽章の360小節、362小節、363小節とスコアに書き込まれてない筈のティンパニーが鳴らされている。また414小節には弦楽器がトレモロ(弦を小刻みに演奏する) になっている。これなんかはミュンシュ独自の解釈であろう。まさに白熱の演奏で、ブラームスの1番を聴くときは、最も多くミュンシュ、パリ管のCDを聴いてしまうのである。
さあ、これから初冬の長い夜、ブラームスの交響曲1番を、また聴くとしよう・・・・。
ブラームス 交響曲第1番 第4楽章62小節目から カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1959年の日本公演から)
ブラームス 交響曲第1番 第4楽章後半を演奏するカラヤン(指揮)とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
2007.12.11 (Tue)
サッポロ ドラフトワンを飲む
久しぶりに第3のビールと言われる発泡性の醸造酒を飲んだ。サッポロから発売されたドラフトワン、スパークリングアロマという物で、原材料はホップ、糖類、エンドウたんぱく、カルメル色素・・・アルコールは4.5%である。
第3のビールといわれると、低価格で飲んだ感覚は発泡酒とあまり違わないし、渋みの足らない軽いビールを飲んでいると思えばいいが、やはり正真正銘のビールと比較すると頼りない飲み物である。でも、この冬だけの限定品と宣伝されているので、また騙されて買ってしまった。どうも限定品というと弱いなあ・・・・。それで飲んで見たのであるが、缶の裏側に書かれてあるように・・・・・ニュージーランド・ネルソン地方。白ワイン用ぶどう「ソーヴィニヨン・プラン」の産地として名高い。この地で育まれた希少なホップ「ネルソンソーヴィン」をふんだんに使用し、華やかな香りを実現しました。スパークリングワイン感覚で楽しめる。ちょっとリッチな冬だけのドラフトワンです。・・・・・本当かな・・・。
確かに飲んだあとの口に残る酸味は、白ワインを飲んだあとと似ているかなあとも思うが、飲んでいる時は白ワインなんて何処にも連想しないし、やっぱり安物のビールの味である。でも本物のビールを飲みたいが、缶ビールは高いし、纏めて買うとなると、このような第3のビールを買ってしまう事になるだろう。だから贅沢も言ってられない・・・。早く、このような味に慣れてしまわないといけないのだ。ああ、悲しい貧乏人の性・・・・・・。
2007.12.09 (Sun)
今日の昼メシ
最近は睡眠不足で何時も眠たい。平均すると睡眠時間は5時間あるかないかだが、寝つきが悪く朝は朝で早く目が覚める。だから布団に入るやすぐに寝付いてしまい、朝まで1度も起きずに直行便という人が羨ましく思う。みんな何故、あんなに眠れるのか不思議でしょうがないが、私は自分で言うのも何だが不眠症というのをとっくに超えてしまっている。睡眠時間は少なくとも、目覚めはいいから不思議だが、昼頃になるとウトウトとしてしまう時があるから、困ったものである。そういった体質なので、夜は12時に寝ようと1時に寝ようと、朝は決まって6時前には起きているから、睡眠時間は少ないほうだろう。比較的、現代人は宵っ張りの朝寝坊と決まっているから、朝は起きられないという。だから朝飯は食べない人が多い。でも私は目覚めが良いから、朝飯は確実に食べる。
今日は日曜日だからというのでもないが、夜中の2時に就寝した。だが、起きたのは朝の7時前で、8時には簡単な朝食をとっていた。それで今日の昼飯は・・・。上の写真のように焼きソバとお好み焼きである。少し重いかなあとも思えるが、これぐらいは平気で食べられるのである。そして、そこに瓶ビールが加わってほぼ腹八分目になる。焼きソバはキャベツ、卵、人参、イカ等・・・・、お好み焼きはメリケン粉を溶かし、豚肉、卵、キャベツ、天麩羅カス、ヤマイモ、ベーキングパウダーを少々、いわゆる豚玉といういたってシンプルなお好み焼きである。ただ、ホットプレートだと鉄板が薄いので、どうしても上手く焼けない。しょうがないから、こまめに裏返す。どうにか焼きあがった。
焼きソバもお好み焼きも実にビールとよく合う。冷えたビールを飲みながら食べていたら、なんだか眠くなってきた。なんとなく腹が膨れて、この初冬の昼下がり、コタツに足を入れてごろ寝していたら、さらにウトウトしてきた。今日は、もうブログどころではなくなった、今から2時間ほど昼寝しようと思う。では、サイナラ!
2007.12.08 (Sat)
12月8日になると考える
よく平和ボケの国民と言われるが、平和がどれだけ有り難いのかということも判ってないのではないかと問いたくなる時がある。有事の問題で判った風な顔をして、憲法第九条改憲を語る連中もいるが、所詮は机上論で物を言ってるように思えて仕方が無い。・・・・ところで何を筆者は言いたいのかと思われるだろう。要は自衛権の問題や、憲法第九条改憲を簡単に口にするなということだ。もっと徹底的に意見を戦わして、国民が本当に必要としているのかもっと問うべきである。
・・・・・とは言うものの、こんなことを書くつもりではないのだ。今日は京都空襲の話である。太平洋戦争末期、日本の都市という都市は片っ端から爆撃された。中でも広島と長崎に落とされた原子爆弾の悲惨さは言葉に言い表わされないだろう。そこで、京都の空襲の話をするのであるが、日本の多くの人は、京都は空襲に遭ってないじゃないかと思われるだろう。実は大きな間違いであって、京都も空襲に遭っているのだ。
昭和20年(1945年)1月16日、京都では愛宕山を震源とする震度3の地震があった。それから数時間後のことである。爆音が響いた。B-29の爆音である。やがて爆弾が投下された。場所は京都市東山区馬町である。この爆撃により死者が41人、重軽傷者56人も出たのである。さらにこれで爆撃は終わらない。3月19日、右京区西院春日を空襲。4月16日、右京区太秦を空襲。5月11日、上京区御所を空襲。主なものだけを列記したが、空襲で最大のものは西陣空襲であった。
昭和20年6月26日、西陣に空襲があった。この空襲は7発の爆弾が投下され、50名が亡くなり、重軽傷者66人、被災者は880人に及んだ。場所は漠然と西陣と言っても判りにくいと思う。正確に言うと上京区上長者町通智恵光院に最初の爆弾が落ち、その後、南の方角に6発落ちたということである。判りやすく言うと二条城の北5、600mの周辺、上長者町通から出水通にかけて智恵光通に沿って落とされたらしい。結局、京都では20回以上の空襲で302名の人が亡くなり重軽傷者は850人といわれているのである。でも、これは報道管制が布かれて日本国民は知らないまま現在に至っている。また、これも知る人ぞ知るで、京都とは原子爆弾投下の第一候補都市だったという現実がある。
よく京都は文化遺産が多いから、アメリカは考慮して爆弾を落とさなかったんだという人がいるが、とんでもない話である。1945年5月10日~11日、アメリカは原子爆弾投下予定の目標都市を選定したのである。それによると人口が多いことと、爆弾の被害にあまり遭ってないこと、産業が集積していること等を理由に幾つかの原子爆弾投下予定都市を選別した。
それによると①京都、②広島、③横浜、④小倉だったのである。この時点では長崎は入ってないのだ。8月9日は小倉に落とす予定だったという。しかし、小倉の上空が曇っていて、視界が悪かったという理由で長崎に切り替えられたという(真実のほどは・・・・)。
京都を落とす理由として、人口は戦前で既に100万を超えていて、東京、大阪と並ぶ日本の三大都市だった。かつて日本の首府が長い間置かれていたこともあって、日本の知的財産の中心地であり、日本人の心理的観点から、新型爆弾を落とすことによって、その意義を日本人に認識させるのに都合が良かったということである。でも、その後に京都を良く知るグレー大使やスティムソン陸軍長官が、トルーマン大統領に進言して、京都は原爆投下の目標から外されたのである。だが、京都の代わりに新潟が候補都市に入れられたのである。結局、最終的に原子爆弾投下予定都市は7月に決定し、広島、小倉、長崎の順序に決まったのである。
もし京都に原爆が投下されていたとしたら、いったいどうなっていたのか・・・・被害は当時の都市の規模から言って広島、長崎の比ではなかっただろう。それに木造建築物が多いこともあって延焼率は多大で、死者は50万人に達していたかもしれないのだ・・・・。
現在、日本は戦争の悲惨さも知らず60年以上を経過した。確かに平和ボケになったかもしれない。でも戦争を行う愚かさよりも平和ボケの方が、まだ救われる。また今後も2度と過ちを犯してはならないと肝に銘じて、日本国民は戦争の記憶と共に風化だけは避けて欲しいと思うのだ。
2007.12.07 (Fri)
ジョン・レノンを聴く・・・・・『ジョンの魂』
あれは1980年の12月9日だった。当時、20代の若者だった私は、連日の残業で疲弊し、その日もどうにか仕事を終えて帰宅の途についた。既に時計は午後11時を廻っていた。それで、ようやく帰りの電車に乗り込み忘年会帰りの親父達で埋め尽くされた車中で、何気なく前の男性の読んでいる新聞の記事に目がいった。そして、その瞬間「ぎょっ!」とした。新聞の見出しの記事を見ると「ジョン・レノン死去」・・・・・。何ということか・・・・・私は新聞を読んでいる男性の肩越しに、その記事を盗み見するように目を凝らした。・・・・ジョン・レノンがニューヨークの自宅のアパート入り口で、ファンという男から射殺されたという。
翌日の新聞で詳細を知った。ジョン・レノンは12月8日午後10時50分、ニューヨークの自宅のあるダコタ・ハウス前で、ビートルズのファンであるハワイ・ホノルル出身のマーク・チャップマンという25歳の男から4発の弾丸を受け、大量出血による失血症ショックで午後11時過ぎに病院で亡くなったという。享年40歳であった。
思えば最初にビートルズを聴いたのは何時頃であったろうか・・・。確たる記憶はないのだが、1964年だったと思う。当時、小学生だった私であるが、洋楽好きの中学生になる姉がいた。あの頃の姉は、日本の流行歌が嫌いで、ラジオで洋楽ばかり聴いていた。その頃の姉は鼻歌まじりにウェスト・サイド物語の挿入曲『トゥナイト』をよく歌っていた。でもベンチャーズのようなエレキバンドの曲は嫌いだった。それが、ある日、友達から借りてきたドーナツ盤を電蓄で聴いていた。
それは姉の嫌いなエレキの曲だった。いったいどうしたというのだろうか・・・喧しい曲なのである。すると姉は「この歌いいやろ」と私に尋ねるのであった。その曲こそビートルズの『抱きしめたい(I Want To Hold Your Hand)』だった。B面は『This Boy』。
珍しい曲を聴いていると思ったら、翌日は別の曲を聴いていた。それは『She Loves You』で、さらに一週間ほど後、今度は2枚のシングル盤レコードを借りてきて聴いていた。曲は何れもビートルズで、『From Me To You』『I Saw Her Standig There』『Money』『Please Mr. Postman』etc・・・・・。そして、その頃から明けても暮れてもビートルズ、ビートルズ・・・・。私は毎日、毎日、ビートルズを聴かされるので、いやが上にも曲を覚えてしまったのである。
ビートルズは1962年にイギリスでデビューしていたのだが、アメリカや日本では、火がつくのが1年ほど遅れていたのである。だから、1964年になって人気に火がつくや、既に本国イギリスで発売済みの曲が日本では一挙に発売されたから、こんな風になってしまったのだろう。
こんな調子で私はビートルズと係わり合いを持つことになるのであるが、当初、そんなに好きではなかった。でも聴いている間に、ビートルズはどんどんと変化していくのである。最初の頃は、単なるアイドルグループの域でしかなかったのに、翌年には『Yesterday』『In My Life』等の名曲が世に出るし、1966年に来日すると、突然、コンサート活動はやらないと言い出した。
1967年からはレコード製作だけになり、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』というロック史上に残る大傑作を生むこととなる。既に、この頃には私はビートルズに夢中になっていて、小遣いを貯めては、ビートルズのアルバム゜を買っていたのである。
ビートルズは1970年4月に解散を発表して、『Let It Be』を発売するのであるが、この曲が何ともむなしく聴こえていたのが、ついこの前のような気がする。
今となっては、ビートルズをリアルタイムで聴いていた世代は、全て50歳以上になってしまったであろう。だから、今時、ビートルズがどれだけ凄いグループであったことを力説しても、あまり意味が無いと思う。つまり比肩するべき存在が皆無のスーパーグループということになる。空前絶後と言ってもいいかもしれない。その後も暫くポップスを聴いていたけども、総合点においてビートルズを超える音楽アーティスト及びミュージシャンは今日まで現れていないだろう。プロとして僅か実働8年にしか過ぎないのに、世界の音楽シーンを一新した革命的グループだったといえば、判るだろうか・・・・。これはビートルズをリアルタイムで体現した者にしか判らないとは思うが・・・・。ローリング・ストーンズのように、今でもグループを解散せず、続けているところもある。よくもまあ、あまりデビュー当時から変わらない音楽性を持続しているなあとは思うが・・・。一言でビートルズの何処が凄いかというと、彼等はデビューから解散するまで、同じ所に留まらず、絶えず変わり続けた、進化し続けたグループであったということである。だから凄いのである。それに新しいことを次から次へと試みたし、ただのロックグループという範疇からはみ出してしまい、一つの音楽ジャンルに括れるような器ではなかった。
ビートルズ以外にも素晴らしい音楽アーチストはいたが、それぞれがギターテクニックが上手いだとか、歌が上手いとか、歌詞が良いとか、一曲だけ素晴らしいとか、そのあたりのレベルで語られることが多かった。だがビートルズは自ら曲を作り、その大半の曲が素晴らしく、その後の音楽界に与えた影響は多大である。世界中のアーチストにカバーされ、そのレコーディング曲は数1000曲とも言われる。
さて、長々とビートルズの説明に費やしてしまったのであるが、1970年の春ににビートルズが解散して、その年の秋に、ビートルズのリーダーだったジョン・レノンが、初のソロアルバムを出した。それが『ジョンの魂』である。
アルバムの中の曲は『マザー』『ホールド・オン』『悟り』『労働者階級の英雄』『孤独』『思い出すんだ』『Love』『ウェル・ウェル・ウェル』『Look At Me』『God』『母の死』と11曲である。
このアルバムが発売されると、私はすぐに買い求めた。そして、聴きまくった。でも、その後、友人に貸し出して返ってこなくなった。あの時のレコード盤は誰の手に・・・・・。仕方なく、今はCDしか手元にないが、赤い透明の盤で気に入っていたのだが・・・。
最初の曲『マザー』の冒頭が衝撃的だった。鐘が鳴り、いきなりジョン・レノンがシャウトする。
Mother,you had me but I never had you
I wanted you but you didn't want me so I got tell you
Goodbye Goodbye
お母さん 僕はあなたのものではなかった
僕はあなたが欲しかったのに
あなたは僕を欲しがらなかった
だから僕はお別れを言わないといけない
さようなら さようなら
母を早く亡くしたジョン・レノンの心境を良く現していて、マザコンの気はあるが、純粋な少年の気持ちを持ち続けたという意味では、この曲は新鮮であった。その他『Love』なんて他のアーチストがカバーしている曲もあるが、このアルバムで、最も印象的で象徴的だったのが、『God』という曲である。ジョン・レノンは曲の中で次のように歌っている。
I don't believe in Bible
I don't believe in Hitler
I don't believe in Jesus
I don't beileve in Kennedy
I don't believe in Buddha
I don't believe in Elvis
I don't believe in Zimmerman
I don't believe in Beatles
I just beileve in Me
Yoko and Me
私は聖書を信じない ヒトラーを信じない
キリストを信じない ケネディを信じない
釈迦を信じない プレスリーを信じない
ボブ・ディランを信じない
ビートルズを信じない
信じるのはヨーコと自分だけだ
何という強烈な歌詞であろうか。最後にはビートルズまで信じないと歌い。信じられるのは自分と小野洋子だけだという。
ビートルズとは、ジョン・レノンにとっていったい何だったのだろうか。あれは夢だったとも言っている。この曲が世に出たのは、ビートルズ解散から半年後のことなので、ジョン・レノンの当時の胸のうちが手にとって判る様である。また、当時、ジョン・レノンは別の曲(ハウ・ドゥ・ユー・スリープ)に、如何にもポール・マッカートニーを皮肉るような歌詞をつけている。昔の『イエスタデイ』は素晴らしいが、今の『アナザー・デイ』は何だといわんばかりの内容だった。
この当時、こういった曲を聴いて、2度とビートルズの再結成は有り得ないと思ったものである。ビートルズは4人組ではあるが、実際にはジョン・レノンとポール・マッカートニーの2人の才能が結束した2人組といっても不思議ではない。それほど、あの2人の才能はずば抜けていた。結局は、ジョンとポールの確執が噂され、噂が現実となって解散してしまった。だから若い人が好きな『Let it be』なんていう曲は、私は嫌いなのである。なんか風前の灯火のように聴こえてしまうから好きになれないのだ。
2007.12.06 (Thu)
エスカレーターでの歩行について
私は、この報道を聞いてしょうがないかなあと思ったのである。そもそも、エスカレーターは本来、ステップ上に立ち止まって利用することを前提にして造られているので、歩くのは危険なのである。それに歩くと負荷がかかり安全装置が自動的に働き、緊急停止することもあるそうだ。また、エスカレーターで片側ばかり人が立つと、荷重バランスを長時間に亘って崩すことになるので不具合が生じる可能性があるそうだ。だから、エスカレーターで歩行するのは危険も伴うし、構造的にいっても良いことはないそうだ。でも日本の都市部において、駅などに設置してあるエスカレーターでは、ほとんど片側を空けて、急ぐ人が歩いている。だから、エスカレーターは歩くのが当然だと考えてるいる人が多い。
でも何故、日本人は片側を空けて立ち、空いた側を急ぐ人が歩くようになっているのだろうか・・・・という疑問が擡げてくるが、それは一言で言って急いでいる人が多いからと結論できるが、都会の人はせっかちの人が多く、出来る限り早く目的地に到着したいと考えているからだろう。つまり時間に追われて余裕がないのだ。しかし、どうもこれは日本だけの現象ではないだろう。欧米では、昔からエスカレーターの右側に立つのが当たり前とされていたようだ。だから空いた左側をトントンと歩いている光景をロンドンでもパリでもニューヨークでも見かけられる筈だ。
ところが日本で、エスカレーターの上を歩くのか、止まるのかといった定義づけは私の子供の頃はなかったと思うのだが・・・・。適当に各自、歩く人、立ち止まっている人がそれぞれいて、歩く人は合間を縫って歩いていたように思う。それが、1969年だと思うが、大阪の阪急梅田駅に100mほどある動く歩道が何本か設置された。この時、構内のアナウンスでは「立ち止まらず歩いて下さい」と言ってたのを思い出す。私は京都に定住している人間なので、たまに大阪へやって来ると、子供心にも大阪の人は誰もが速足で歩き、たいへんせっかちに思えたものである。今はこのテンポにすっかり慣れてしまったが・・・・。
さて、1970年の大阪万国博覧会の会場のお膝元だった阪急電車は、万国博開幕の一年前から、駅構内のエスカレーターで、停止している人と歩く人を混乱させないようにエスカレーターの左側を空けるように呼びかけていた。これも梅田駅である。確か「お急ぎの方のために左側をあけましょう」と録音したテープを構内に流していた。
結局、これが大阪でのエスカレーターの左空けになるのだが、阪急電車は万国博で、大勢の外国人が来ることを想定して、先進国の多い欧米の方式を踏襲したに過ぎないのだ。だからこの時に決められたルールが何時の間にか、大阪の習慣として残っている。それが、東京を始めとした他の都市では、1970年の段階で、まだエスカレーターのどちら側を空けるのか決めていなかったように思う。私の記憶だが、1968年に東京に行った時は、みんな今のように左側に立っておらず、漠然とどちらかに立っていたと思う。
やがて、エスカレーターでどちらかを空けようという話になり、東京では追い越しの時は右側に立つという習慣が取り入れられたように聞いている。そして、1970年代前半に、東京ではエスカレーターの右側を空けるということになったと私は記憶している。
以上のような理由で、東京の右空け、大阪の左空けが現代まで続いているのだが、日本の他の都市は東京がスタンダードだと考え、東京方式が採用されたのだろう。それで大阪以外は全てエスカレーターの右空けが当たり前となり、大阪の常識は日本の非常識という人まで現れたりするぐらいだから、エスカレーターのどちら側を空けるかといった話については、ずいぶんと昔からネタにされてきたのである。でも大阪が日本の非常識というなら、日本は世界の非常識と言えるのであって、グローバルスタンダードは大阪のように左空け方式といえるのだ。だから、何でも東京にライバル心を大阪人は持つから、東京と反対のことをするのだろうという人が私の周囲にいたが、これは当ってないことになる。東京がエスカレーターの右空けを実施する前に、大阪は既に左空けが定着していたのだ。だから東京の反対を行ったのではないと、これだけは言えるだろう。
それでややこしいからといって、全て東京に従えという人もいるが、それもおかしな話だろう。郷は郷に従えじゃないけれど、土地土地によって習慣や風習が違うように、土地土地で決められたルールがあってもよいと思う。だから、行く先々で自分がその土地の習慣に慣れればいいだけの話である。なんでも東京スタイルに真似るのはいかがなもんだろうかと思う。でも、エスカレーターの歩行をするな!!・・・となると話は違ってくる。こうなると左空けも右空けも関係なくなるが、はたしてエスカレーターを歩くなと言っても守る人がどれだけいることだろうか・・・。私は、とても大阪の人が守るとは思えない。朝なんか、エスカレーターの上を走って降りていく人が何人もいるぐらいだから・・。
ロンドンのチューブではエスカレーターの左を空ける。
パリのポンピドー・センターのエスカレーター。観光客が多いので必ずしも左空けが徹底している訳ではない。
モスクワではみんな右側に立っているが、誰も歩いてない。
東京は右を空けるのは常識だが・・・。渋谷の109で。
大阪の阪急梅田駅であるが、当然のように右側に立つ。そして、動く歩道では誰も止まってなく歩いている。
2007.12.05 (Wed)
吾が青春時代の映画を観る・・・・・『卒業』
『卒業』1967年製作、アメリカ
監督 マイク・ニコルズ
出演 ダスティン・ホフマン
キャサリン・ロス
アン・バンクロフト
マーレイ・ハミルトン
リチャード・ドレイファス
【あらすじ】東部の一流大学を卒業したベンジャミンは、帰ってきた自宅での卒業記念パーティで、中年のロビンソン夫人と再会する。ロビンソン夫人はベンジャミンに家まで送ってくれと頼み、自宅まで送り届けようとしたベンジャミンを誘惑しようとする。やがて、2人は何時の間にか深い関係となっていた。だが、ロビンソン夫人の娘エレンがベンジャミンの前に現れ、ベンジャミンの両親の勧めでエレンと付き合っていく間に、次第にエレンに牽かれて行く。しかし、その2人の関係を快く思わなかったロビンソン夫人は、ベンジャミンとの関係を娘に告白してしまう。それを聞いたエレンはベンジャミンの前から姿を消してしまう。それから間もなく、ベンジャミンは、エレンが別の男と付き合っていることを知る。そして、エレンはとうとうその男と結婚するという。それで焦ったベンジャミンは・・・・・・とんでもない行動に出る。
この映画は上映された頃、大変話題になったものである。今でこそ名の知れた俳優タズティン・ホフマンであるが、この映画が事実上のデビュー作であり、実に若々しい。そして、恋人役のキャサリン・ロスも初々しい。また、この映画で最も鍵を握る役柄がミセス・ロビンソンであり、そのミセス・ロビンソンを演じていた女優が、往年の名女優アン・バンクロフトであった。この映画以前では、ヘレン・ケラーの伝記映画『奇跡の人』でサリバン先生を演じていた女優である。この『卒業』では、妖しい魅力を持った年増の女性を演じていて、それも大学を出たばかりの青年を誘惑する役である。
この映画が上映された頃、私はまだ中学生で、大人の世界は、こんなことも許されるのかと思ったものだ。大学を出た青年を誘惑しておいて、情事にふけ、娘とベンジャミンとの間に恋愛感情が芽生えると、今度は邪魔をしようとする。何というおぞましさだと思った。
映画の題材は青春映画というには、やや無理があるが、それでも『卒業』は、あの当時の若者に支持された映画であり、我々の若き頃の青春映画のバイブルのようなものだった。ちょうどサイモン&ガーファンクルの活躍期でもあり、映画の冒頭から彼らの『サウンド・オブ・サイレンス』が流れ、映画の挿入曲として『ミセス・ロビンソン』が映画の要のシーンで演奏されるのだった。
恋人の母親に誘惑され、それにより自分から離れていった彼女が、実は結婚するということを知った時、結婚式の行われる教会まで押しかけて行って、花嫁を略奪するというとんでもない結末になっているが、この映画は、最後のどんでん返しで全てが終わってしまうのでない。実は、ここから多難な人生が始まることを暗示させる結末であり、卒業から新たなる一歩が始まる映画だということを認識するのに十分であった。だからある意味で青春映画であり、青春を卒業するといった意味で、これからの艱難辛苦を連想させる映画なのである。
思案にふけるベンジャミン このシーンには『サウンド・オブ・サイレンス』が流れていた。
結婚式の行われる教会へ急ぐベンジャミン。
そして有名なラストシーンの花嫁略奪。青春の卒業から苦難の道が始まろうとしている。
2007.12.04 (Tue)
サマセット・モームを読む・・・・・『月と六ペンス』
イギリスで最も通俗的作家といわれたサマセット・モームが『月と六ペンス』を書いたのは、1919年だという。ちょうど第一次世界大戦が終わった頃であり、それ以前に諜報員として働いたが、激務により健康を害し、サナトリウムで静養中に書き上げた。題材は画家ポール・ゴーギャンの伝記からヒントを得て書いたとされる。
簡単な筋書きを言うと・・・・・主人公チャールズ・ストリックランドは株式仲買人で世間的には地位があり、妻も二人の子供いる。ところがストリックランドは絵を描きたいがために17年間連れ添った妻と、二人の子供を振り捨てて家出をしたという。ストリックランドはとっくの昔に青春を失った人間であり、これから画家になるというのには手遅れの年齢であった。でもストリックランドが言うには、「とにかく描かないではいられない。水に落ちた人間は泳ぎが上手かろうが下手であろうが何かをして助けなければならない。助けなければ溺れてしまうだけだ」と力説するのであった。
またダーク・ストルーヴというオランダの画家がいた。彼はスリックランドをの才能を見抜き、ストリックランドに親切の限りを尽くすが、一方では大変なお人好しであった。ストリックランドが熱病で魘されていたとき、ストルーヴの妻ブランシュが反対するのにもかまわず、自宅に引き取って看護をしてしまう。ストリックランドを嫌っていたブランシュも仕方なく看病する。するとストリックランドはブランシュに情熱を感じ、ストルーヴからブランシュを奪ってしまう。ブランシュはストリックランドの利己主義、身勝手、薄情に呆れ果て悲しんで服毒自殺してしまう。ストルーヴは妻の死に絶望し、オランダへ帰ってしまう。
ストリックランドはタヒチへ渡り、自分の魂を見つけたのかタヒチにすっかり同化してしまい原住民の女アタを妻として画に没頭する。その後、ストリックランドは不可思議な大壁画を残してレプラに罹り死んでしまう。
この『月と六ペンス』の主人公ストリックランドは、何とも我がままで身勝手で利己主義で、何事にも私情を優先する。友人の親切を仇で返すように友人の妻を寝取り、挙句の果てには友人の妻を自殺までに追い込んでいる。それでいて良心の呵責も感じず、17年間連れ添った妻子を捨てて、タヒチまで渡っている。この小説を読んだ時、通俗的ではあるが、どこか非人間性の宿る化け物というべき人間が、側面では芸術に打ち込み出すと別の悪魔が乗り移ったのではないかというほど、芸術至上主義的人間に変質する。同じ人間に宿る二面性、人間性の欠片も無い心の片隅で、実は芸術への情熱が何よりも優先するという社会常識の断片をも持ち合わせない人間を、通俗的に見せることで、小説をより情熱的に表現できるとモームは考えていたのだろうか。
現実的に言ってモーム自身が語るように、ポール・ゴーギャンの生涯にヒントを得て書いた小説なのであるが、ストリックランドとゴーギャンは、似て非なるものでストリックランドの人格というものは、おそらくモームの心の中にある芸術的人間というものの欠陥性を言い表わしているのかもしれない。この小説の主人公はゴーギャンとは異質のものであるし、たぶんにゴッホやセザンヌ的な要素を幾分か含まれているようである。
総体的にこの小説は、現代小説の持つ心理描写があまりなされず、ストリックランドが、何故このような行動にまで走ったかという動機づけに無頓着である。それが現代小説らしくなく、モームの持つ通俗性というものであろうか・・・・。
2007.12.02 (Sun)
スティーヴン・スピルバーグの映画を観る・・・・・『激突!』
『激突!』1971年製作、アメリカ映画
監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 デニス・ウィーヴァー
キャリー・ロフティン
エディ・ファイアストーン
ルー・フリッゼル
【あらすじ】ごく平凡な市民でセールスマンのデヴィッドは、貸した金を返してもらいに知人のもとへ向っていた。ほとんど交通量のない一本道のハイウェイ。彼は目的先へ行くため急いでいた。すると前方をトロトロと巨大なタンクローリーが道路を塞ぐように走っていた。デヴィッドは何気なくタンクローリーを追い抜かし、また元のスピードに落としたところ、先ほど追い抜いたはずのタンクローリーが猛スピードで、デヴィッドの車を追い越すや、またまたスローダウンして前を塞ぐようにトロトロと走り出すのであった。デヴィッドは驚いたような顔をして、またスピードを上げて、タンクローリーを追い越した。すると再三にわたってタンクローリーはデヴィッドの車を追い越し、また前を塞ぐように走ってしまうのである。デヴィッドはおかしいと思い、スピードを上げ、ターンクローリーを追い抜かし、猛スピードで引き離し、人里離れた公衆電話を見つけると、警察に電話した。その時、タンクローリーは現れて、電話ボックスごとぶっ壊してしまい、タンクローリーの運転手がデヴィッドに殺意を抱いていることが判明した。さて、ここからデヴィッドの小型乗用車と巨大なタンクローリーの息が詰まるようなカーチェイスが始まるのだ。はたして結末は如何に・・・・・。
この映画はスピルバーグが弱冠25歳に時に撮ったテレビ映画である。でもスピルバーグの処女作品として、イギリスでは劇場公開された。日本では1974年だったと思うが、例の淀川長治がナビゲーターとして出演していた日曜洋画劇場で、本邦、初のテレビ放映という形で公開された。
私はこの映画をテレビで観て、この監督は天才だと感じた。主な出演者はデニス・ウィーヴァーが演じるセールスマンのデヴィッドだけである。主役はデヴィッドの運転する赤い小型乗用車と薄茶色の巨大タンクローリー。一言でカーチェイスと言ってしまうのは簡単だが、ただ追い越しただけで、命が狙われるといった不可解なストーリー。逃げる乗用車に追う巨大なタンクローリー。この、まさに映画の原典とも言うべき単純な話の中に、映画の持つエッセンスが全て含まれているのである。逃げる小型者と追う巨大タンクローリーは、さしずめジャングルで言うところの逃げる草食動物と追う肉食動物のようである。無機的なタンクローリーが迫ってくる様は、まさに猛獣と化したライオンのようであり、豹のようであり、逃げる小型車はカモシカか兎のように見える。
極めて単純で追いつ追われつといった映像だけで、あそこまで人を引きつけられる映像作家というのは、なかなかいないものである。現在ならすべてCGを駆使して映画を撮ってしまうだろうが、CGというものが無かったあの頃、スピルバーグはいったいどのようにして、あれだけ迫力ある映像を撮れたのか、それも不思議なら、話の起承転結というのもあり、こちらが殺さなければ殺されると思った主人公が、心境の変化から車の走らせ方も変わってくる。この辺りの心理面の捉え方も実に上手い。
この映画はテレビ映画だったので、彼は劇場用映画としては、この3年後に『続・激突! カージャック』で監督デビューするが、その後に『ジョーズ』で衝撃的な映像を撮り、世間をあっといわせ、『未知との遭遇』『1941』『E.T』と話題作を次から次へと世に出し、すっかり有名監督となってしまった。最近は「カラーハープル」『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』等のシリアスな作品も多く、今や映画界の巨匠としなってしまった感があるが、私は彼の作品で未だに『激突!』以上に好きになれる映画は無い。
やはり金も無く、邪念も無く、若さと才能だけで撮った『激突!』だから、これだけ今日においても、私の心に深く印象に残っているのかもしれない。したがって、これ以降、新人監督で衝撃的なデビューをする人は私の中では未だにいないのである。
タンクローリーを追い越してから悲劇が始まる。
逃げる獲物と追う猛獣。映画の原点はここにある。
2007.12.01 (Sat)
吉野家の牛丼を食べる
今日、久しぶりに吉野家の牛丼を食べた。BSE問題で、牛肉の輸入がその後どうなったのか、それで吉野家の牛丼が店舗で食べられるのかどうか・・・。私はそのへんの事情には疎くて、吉野家も日頃、行かないものだから関心が無いのだ。こんなこと書くと、吉野家の牛丼ファンに叱られそうであるが、あの牛丼、何が何でも食べて見たいと思うほどの代物かなあ・・。
兎に角、安価で手っ取り早いから食べていたというところがあって、店舗から姿を消してから、食べて見たいとも私は思わなかった。それで牛丼が再開されているのかどうかも知らないのだ。それなら、何処で吉野家の牛丼を食べたのだと問われそうである。実は、牛丼が吉野家の店舗のメニューから姿を消したときでも、JRA所属の競馬場内では売られていたのだ。
競馬に興味ない人は競馬場に行くことも無いから、お目にかかることも無かっただろう。ところが、どういう因果が知らないが、競馬場内の吉野家の出張店舗では牛丼が売られていた。でも丼鉢に入っているのではなく、テイクアウト用の発砲スチロールの容器に入れて販売しているのである。そして、価格も650円と高目である。久しぶりに食べてみたが、私は今まで吉野家の牛丼が美味しいと思ったことがない。まあ、一時期、吉野家の店舗で並盛り280円という低価格で、食べられたから通っていたということもあるが、これが650円となるとちょっと考える。でも、手っ取り早いから仕方なく食べたのだが、みんな吉野家への拘りはあるとみえて、隠れファンが非常に多い。肉に対する執着心というのだろうか、とにかくみんな貪るように食べている。でも私は天丼やカツ丼、海鮮丼の方が好きだし、色んな味覚が楽しめる。それに牛丼って、何処のチェーン店も味覚にさほど差があるとは思えないが、吉野家だけが何故かクローズアップされるねえ。やはり最もメジャーな店だからかもしれないが、吉野家の創業は100年以上前に遡るというから、意外にも老舗なんだなあと思う。当時から、牛丼をメニューに出していたかは知らないが、チェーン店になったのはそんなに前のことではないらしい。でも、この吉野家の牛丼が店舗から消えると、大騒ぎになったりするほどだったから、皆は美味しいと思っているのだろう。まあ、嗜好品は各自それぞれ違ってしかるべきだし、味覚というのは主観なので、辛口好みの人や甘口好みの人、濃い口好みの人、薄口好みの人、それぞれあって当然である。でも吉野家の牛丼が1000円という価格設定なら、みんな食べに行くだろうか・・・・。私は行かないが。
ところで何故、吉野家という屋号になったか皆さん、知っているだろうか・・・? 実は創業者が大阪の福島区吉野の出身だからである。以上。